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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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0001九州王
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2018/12/16(日) 22:45:24.86
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541115802/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0463日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:16:18.73
詳細は過去スレで書きましたが、一つの考え方としてです。

弥生時代の鉄原料は全て朝鮮半島から入手するのですから、
大規模鉄器工房が百年ほど運営されたということは、
壱岐対馬からその遺跡までは同一勢力によって安定支配されていたわけです。

完成品の鉄器は北部九州から集中出土するのですから、
北部九州倭国の王達が、
紀元前には日本海沿岸を(丹後半島の扇谷遺跡)
紀元後には瀬戸内沿岸を(淡路島の舟木遺跡・五斗長垣内遺跡)
それぞれ支配下に治めていたことが、考古学的に確定しているわけですね。

紀元後の高地性集落の東征は、淡路島鉄工房を稼働する燃料=炭を求めての
倭国軍の東征の結果だったわけですね。
0464日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:18:47.27
何度か書いたので要約しますと、
イザナミとは、遠賀川流域の山鹿貝塚女王から連綿と続く、
豊国女王国の系列で、遠賀式土器と共に日本全国に稲作を普及させた。
まさに日本人の母と言えるでしょう。

イザナギとは、壱岐対馬ルートを起点に、菜畑遺跡を開始した開明部族。
筑紫王家の祖で男系ですね。

イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。

弥生時代ですから水軍ですね。
能古島に集結します。

最初はイザナギ軍が反時計回り、イザナミ軍が時計回りに攻めます。
しかしそれぞれ自領の菜畑遺跡、豊国に近いので、血縁親類や友人が多く、
攻め切れないわけです。
ですから、次にイザナギ軍が時計回り、イザナミ軍が反時計回りに攻めることで、
それぞれがしがらみの薄い相手を攻略して、博多湾を統一したわけですね。

東と西から挟撃して博多湾を征服したので、
板付遺跡には渡来土器と縄文土器が混在しますし、
敵地だから環濠が必要だったわけです。
0465日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:21:25.42
筑紫王家と豊国女王家が婚姻して、北部九州に広域国家が萌芽し、
統一王の吉武高木王が誕生します。

しかし博多湾を統一した次には、
豊国イザナミ系列の強敵が、日本海沿岸にいたわけです。

若狭湾の八岐大蛇勢力ですね。

ちなみに、筑紫王家の縁者となった豊国女王家とは、八雷神ですね。
イザナミ女王を戴きながらも、8部族それぞれは独立していたのが、
吉武高木王による統一によって、整理されて、
軍事は建御雷=豊国軍に統合、
行政は8山津見として吉武高木王の支配下に入ったのでしょう。

八雷神のみでは、若狭湾を保有する八岐大蛇には勝てませんでしたが、
イザナギと組んで北部九州倭国に参加することで、
鉄器と博多湾水軍をもって、八岐大蛇を倒します。

そして丹後半島に扇谷遺跡を建設し、
八岐大蛇の領土だった日本海沿岸の森林から炭を作って
鉄工房の燃料にしたわけです。
0466日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:24:50.83
八岐大蛇を倒して北部九州倭国の主要メンバーとなった豊国山津見女王達ですが、
倭国内の政治力では、
壱岐対馬ルートを保有する筑紫イザナギ族の後塵を拝することになります。
東方監視の名目で、東征将軍スサノオの基地として田熊石畑遺跡を設置され、
筑紫王族の支配下に入ってしまいます。

そのため山津見女王達は、日本海沿岸以外に発展の活路を求め、
一つは、琵琶湖に下之郷遺跡を作って、現地人と激しく戦います。
もう一つは、瀬戸内海に侵入し、新たに銅剣女王国を作るわけです。

守りの手薄な地域は環濠集落を形成して、弥生のJアラート銅鐸を配備。
収穫期に銅鐸を高台に設置して、現地人の襲撃があれば銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込むわけですね。

逆に言うと、銅鐸の少ない愛媛や岡山には、銅剣女王国の軍隊が常駐しており、
守る必要が無かったということです。
0467日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:25:40.35
出だしは良かったのに、途中からぐちゃぐちゃ。

>>464
>イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。

特にここからおかしい。
福岡市の王たちというのがそもそもイザナギとその祖先だろ。
0468日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:30:05.70
>>467
ちがいます。
イザナギは壱岐出身で、唐津→糸島(日向)と勢力をのばし、
イザナミと同盟して博多湾を制圧したわけです。

勝者となったイザナギが最初から福岡市出身なら、
板付遺跡に環濠は必要ありません。
0469日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:32:07.63
イザナギとイザナミというのは
記紀の先祖騙りでがむしゃらに取り込まれた
委な奴國王夫妻
0470日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:35:00.80
イザナギより前の博多湾沿岸の王って誰だ?
高木の神とかか?
0471日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:35:37.61
島根で瀬戸内銅剣女王国の降伏儀式が行われます。

銅剣を差し出して武装解除。
銅鐸を差し出して銅矛軍の駐留保護を受け入れます。

荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で合計45個の銅鐸が差し出されていますから、
45集落の45人の地域女王が銅矛王の後宮に入り、そこで生まれた息子たちが、
それぞれの集落の支配官となったわけです。
0472日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:36:26.85
>>471の先にこちらでした

一世紀に1人の英雄が現れます。
中広形銅矛を旗印に主に瀬戸内海を東征した銅矛王、のちの委奴国王ですね。

奴国の大規模工房群を稼働するための燃料=炭を入手するため、
銅剣女王国の八上姫に兄弟で求愛競争して、若き銅矛王が結婚するわけです。
過去スレに書いたので、詳しくは省略します。

八上姫が子供を置いて去る。
これは、瀬戸内銅剣女王国の王位を、銅矛王との間の息子へ譲れ、という要求を八上姫が断った、
ということですね。
瀬戸内海の森林資源を狙った、愛情もへったくれも無い、政治的な要求です。
まあ、最初から資産狙いの求愛だったわけですけれども。

ここに筑紫王家も加担します。同じく瀬戸内海の森林資源を狙ってです。
奴国工房群を従える銅矛王と、東征王族将軍の娘が政略結婚して、
銅矛王は晴れて倭国軍東征将軍となり、かわいそうな瀬戸内銅剣女王国に攻め込みます。

銅剣のほうは最後は青銅器が枯渇して、土製の祭祀銅剣を使う羽目になり、
中広形銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内海の制海権を銅矛が制圧
した時点で、全面降伏します。
0473日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:39:29.73
奴国と筑紫王家が別というのも訳がわからないし、瀬戸内が女性首長のいるところというのも根拠が不明。
いろいろ無理がある。
0474日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:40:35.95
銅矛王は瀬戸内銅剣女王国の領土を丸ごと手に入れます。

徳島には銅剣は出るが、銅矛銅戈は出ない。
これはつまり、銅剣女王国が徳島を既に支配地にしていたからですね。
畿内と離れているから銅剣女王国が楽に制圧できたわけです。
九州からも一番遠いから、銅矛銅剣戦争中も一番最後まで攻められない。

銅矛銅戈が新規に攻め落とすまでもなく、
銅剣女王が降伏したら、自動的にその支配地の徳島は銅矛の支配下に入ったわけです。
0475日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:41:18.15
奴國の発祥地は三雲で
高木と三雲のコラボ
須玖のほうは出店だから
奴國を専売のように詐称するのはよしにすべきところ
0476日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:42:35.78
>>473
奴国とその周囲には大量の渡来人がいます。
技術者集団が商業的に力をつけて
一方の筑紫王家は5王家が争い一時的に力が落ちた。
吉武遺跡の王墓を見ればわかります。
0477日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:55:27.32
奴国はあくまでも筑紫王家の支配下の工房だと思うよ。
倭奴国の王とは筑紫王家の王だよ。
そんなに狭いところにたくさんの王がひしめき合ってもなあ。
0478日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:58:15.55
筑紫王家は紀元前から日本海沿岸を支配しており、
日本海沿岸は既にそれぞれの王家の荘園となっており、
自分の荘園の森林資源を倭国のために供出したくない。

よって、筑紫王家も銅矛王もともに、瀬戸内沿岸に高地性集落を建設し、
そこで作った炭を淡路島に運び込んで、鉄器を作り、
完成品の鉄器を北部九州へと輸送したわけです。


私の考えでは、倭国王となれるのは筑紫王家=早良王家のみ。
銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。
そこで漢に誼を通じて、自ら委奴国を立ち上げて大王になろうとしたわけです。

漢に金印を貰う交換条件の一つが、倭国内の里程測定だったわけです。
0479日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 23:58:40.84
金印漢使が来日したのは、もちろん楽浪官吏や倭人官吏による案内です。

狗邪韓国に到着する必要があるのは、沿岸航海の貴族舟から、
対馬海峡渡海の渡海専用舟(漕ぎ手も船頭も渡海専門のベテラン)に
移乗するのに必ず立ち寄る必要があるから。

漢代伊都に到着する必要があるのは、吉武宮殿での金印授与式がそもそもの目的だから。

楽浪官吏が測定した里程はもちろん、漢使がその里程を用いて航海するのではなく、
高級官僚である漢使が、出張ルートが正しいかどうか確認するためのもの。
朝出発する時に方角を見定めるわけです。
羅針盤もない時代だから、夏の太陽の午前の方角で記載されているわけですね。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 00:03:06.59
これも以前書きましたが、
金印漢使を迎えるために、沿道その他の施設を大規模に改修します。
特別支出ですから、銅矛王は自分の本拠である奴国周辺の森林を大量伐採してしまいます。

ただでさえ大規模工房群や奴国二万戸のために燃料や建材として森林が伐採されていたのに、
金印授与のための伐採で環境が破壊され、大規模洪水を起こして
銅矛王=委奴王は失脚したわけです。

だから銅矛が消えて、銅戈の時代になったわけです。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 00:03:45.18
筑紫5王家内での勢力争いで筑紫王家が弱体化し、委奴国王の伸張を許した。
奴国弥生銀座に工房と住居が密集しすぎて、環境破壊を招いた。

失敗を教訓に変えて、
筑紫王家は漢代伊都=吉武から高祖山を越えた、
本来の本拠地である糸島日向へと遷都するわけです。

また王家も結束して、オシホミミを中心に立てて、
大王はオシホミミ家出身者に限るとしたわけですね。

ここで政治権力の移動があったから、銅矛→銅戈の変化が説明できるわけです。
0482日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:04:30.81
>>478
>銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。

紛らわしいから王と書くなよ。
イザナミが矛を使ったのだから、イザナミの筑紫王家が銅矛王、倭奴国王だよ。
0483日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:07:21.74
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 00:10:55.84
ここまでで、
北部九州倭国は、
紀元前に日本海沿岸を(扇谷遺跡で確定)
一世紀に瀬戸内沿岸を(舟木遺跡・五斗長垣内遺跡で確定)
それぞれ支配しています。

そこから銅戈将軍が、大阪湾上陸を果たすわけですね。

ちなみに銅矛王の子孫は、一部は投降し、(〇奴国)
一部は抗戦し、(越後諏訪タケミナカタ・長崎タケミナカタ)
一部は落ちのびます。(中国山地内と、越後諏訪タケミナカタの向こう=東日本へ)
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 00:15:45.05
銅戈将軍は畿内を制圧し、そのまま東進して朝日遺跡で銅矛王の子孫と対峙します。
詳細は銅鐸二系統の考察で書いたので省略します。
銅戈将軍が勝利しますね。

さらに日本海側へ転戦して越後諏訪タケミナカタを鎮圧。

これにて日本国内に銅戈将軍とまともに戦える敵はいなくなり、
鉄製武器を作る五斗長垣内遺跡はお役御免。
鉄製生活用具を作る舟木遺跡はもうしばらく稼働します。
0486日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:20:35.70
倭国乱にて
邪馬台国=筑前肥前豊前+日本海沿岸(越前まで)
狗奴国=筑後肥後豊後+瀬戸内沿岸+畿内+越後

免田式土器の分布圏が狗奴国の経済圏ですね。
壱岐対馬ルートを邪馬台国に押さえられて、淡路島舟木遺跡は操業停止します。

狗奴国は鉄工房はあるが鉄原料が無い。
一方の邪馬台国は鉄原料は手に入るが鉄工房が無いので、
若狭湾水軍の影響下にある琵琶湖のほとりに稲部遺跡を建設したわけです。
0487日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:44:58.78
ここからが言いたいことで、侏儒國です。

魏使の見聞録に奴国の描写が無いので、
魏使は(魏代)伊都までしか来ていません。
戦時中だし伊都に卑弥呼がいるのだから当たり前ですが。

しかも倭人は里程を知らないのに、
不弥國どころかはるか侏儒國までの里程が記録されている。

倭国乱で瀬戸内は狗奴国側だったのですから、
瀬戸内東部の侏儒國への里程を測定できるのがいつかというと、
「倭国乱よりも前」ということになるわけです。
0488日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:47:05.98
倭国乱前の平時に楽浪官吏が勝手に調べた、など
様々な状況が考えられますが、
漢配下の官吏が弥生時代に里程を測定するのなら、
警護や宿泊地・食料の提供など、やはり最高権力者の許可と協力を得ていた可能性が高く、
57年金印の委奴国王か、107年遣使の倭国王師升か、という話になってきます。

ここでもう一つの条件が、
侏儒國よりもさらに東南にある裸國と黒歯國については、
船で約1年という、それまでとは全く異なる尺度になっていて、
里程が示されていない、という点です。

つまり、楽浪官吏が瀬戸内海で里程を測定した時には、侏儒國が東端で、
それより先には行けなかったことになります。

つまり、銅戈将軍が大阪湾上陸作戦を成功させる前。
銅矛王の時代、ということになります。
0489日本@名無史さん
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2019/01/10(木) 00:48:30.87
漢代であろうと、伊都に到着したら目的は達成されているはずなのに、
その先の奴國不弥國までの里程が記されている。

倭国の紀元前からの支配地である倭種日本海沿岸へ行かずに、
瀬戸内海を東進して、四千里先の侏儒國へ向かっている。

つまり、
倭国王が、紀元前からの日本海沿岸の自領荘園を案内したのではなく、
委奴国王が、自分が切り開いた瀬戸内沿岸の東にある、淡路島の鉄工房群を案内して、
金印拝受にふさわしい東アジア強国であることをアピールしたわけですね。

楽浪官吏を乗せた舟が、不弥國の港を出発し、東に渡海千里で関門海峡に入ります。
案内役の倭人が下関を指さしながら、
「あちらの日本海沿岸には倭種がおりまする」と説明します。

舟は関門海峡を抜けて瀬戸内海に入ります。
瀬戸内海両岸の山々の高地性集落からは、炭を作る煙がたなびいている。
周囲の、東へ向かう舟々には、鉄原料や炭が積まれています。
西へ向かう舟々には、完成品の鉄器や、生口、稲荷が積まれています。
多くの輸送船が行き交う賑やかな瀬戸内海を東に進み、
不弥國から四千里、関門海峡から三千里で侏儒國です。

旧銅剣女王国ですね。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 00:56:46.37
>>482
銅矛祭祀ですよ。

武器としての銅矛は昔からありましたが、
祭祀型銅矛を埋納するのは中広形銅矛からです。
明らかに新しい祭祀文化が入っている。

さらに、それが一旦銅戈に置き換わる=中広形銅矛は失脚しているわけです。
例えば内行花文鏡などは連綿と続いているわけですよね。

荒神谷遺跡の荘厳な感じの中広形銅矛が無くなるわけですから、
失脚したのではないでしょうかね。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 06:48:08.02
なるほど豊国銅剣女王国を征服した中広形銅矛王が失脚した際には
筑紫の軍勢と共に、豊国軍=建御雷が銅剣を持って逆襲してきたわけだな。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 09:04:53.47
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種  又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里  又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至

女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。

又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。

女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。


四千余里(320km)は女王(邪馬壹國)の東海岸から裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)までの距離でその4000里に12日掛かると言ってる。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 10:28:49.74
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 19:57:14.29
「あいだに入って協力する」「上手くいくように協力する」などは全部詐欺

ある日突然、就職・昇進・恋愛などであいだに入って協力するという親切な人が登場し、
時には親身に話を聞いたり、時には盛り上がって一緒に酒を飲み、おごってくれたりもします。
警察官や公務員のケースもあります。

しかし、実際には何も協力などせず、勝手にその人の人生が上手くいくのを待っているだけです。
そして、ターゲットが自力で人生を切り開いた時から、本格的な詐欺が始まります。
あいだに入って協力したとして、「御礼」を要求されるのです。
不法行為に協力させられると、泥沼にはまって経費流用や情報漏洩も要求されます。

上手くいかない時には、適当な人物の名前をあげ、○○が政治的な動きをしたから駄目になった、
○○がいなければ上手くいったのに、あいつのせいだと言い逃れをするのも特徴です。

皆さんも、詐欺にだまされないよう気を付けて!
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/10(木) 20:29:04.59
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:02:45.03
漢使は目をつぶっていても、北部九州倭国に到達できたわけです。

狗邪韓国までは、楽浪官吏の案内。
対馬海峡渡海は、倭人の案内。

けれども、漢使は観光に来たわけではなく、
金印を授与するという外交職務のために来たわけです。
自分が連れていかれている場所が、本当に倭国なのかどうか、
確認しておく必要がある。

そのために、倭地にいる楽浪官吏に命じて
先んじて送らせておいたのが、里程。
漢使が来倭する、7月後半の太陽の方角を起点にして書かれていたわけですね。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:03:35.20
その里程を忠実に辿ると、漢代伊都は吉武高木遺跡。
そして倭国内での最終地点が不弥国=雀居遺跡であることがわかります。

渡来人。環濠で囲まれた高級住宅地。
一世紀に外交文書を何度もやりとりした証の机が出土しています。
硯で書いて、
鉄製刀子で削り取る=消しゴム。
削り取る時に机にキズがつくわけですね。

外交文書を仕上げる時は、必ず委奴国王が立ちあったことでしょう。
かなり高い確率で委奴国王自身が文書作成したでしょうし、
そうでなくても、書記官の傍らに立って、ここを直せ、バランスが悪いからここを削れ、
と、あれこれ指示を出したことでしょう。

つまり、机についたキズは、委奴国王=大国主が、自らの手でつけたキズ、
である可能性が非常に高いことになり、
もはやとんでもなく貴重な超一級の考古学資料、ということになります。
神話の登場人物の生きた痕跡が、21世紀の現代に突然ありのまま登場しているのです。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:12:26.27
三国志によると、沃沮、高句麗、濊、は同じ源流を持つそうです。

読めば一目瞭然なのでいちいち書きませんが、
古代日本と共通する風習が非常に多い。
さらに積石墓や、〇〇壁画など、考古学的な裏付けもあるわけです。

〇奴国、委奴国、というのは、源流が同じ委奴国王だからこそ
つけた国名なわけです。

雀居遺跡は洪水で流されていますが、
その出土品の中に、国産の内行花文鏡(連弧文鏡)があります。
これは、後の狗奴国領域で流通していた銅鏡の祖。

倭国を乗っ取るのに失敗して、国譲りで失脚した委奴国の末裔が、
捲土重来を期して、狗奴国を立ち上げた、という推論も十分に成り立ちます。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:21:52.26
過去スレで書きましたが、
国津神のもう一人の重要人物、猿田彦。
これは、サルマトイの出自ですね。

それが沿海州まで来て、さらに北部九州までやってきた。

大山祇の支配下の工人となったのか、
あるいは委奴国王の片腕として、大山祇の地方女王を娶ったのか、
は、わかりませんが、
オンドル式短剣です。

柏崎遺跡の天神族五王家に嫁いだ、大山祇系女王国の女性=木花開耶姫の母
の一族が所有する、琵琶湖沿岸の現高島市の荘園、
にささやかな鉄工房を作ります。

天孫降臨に関わり、倭国の銅鏡製作技術を飛躍的に向上させます。

同じ渡来系技術者でも、時代が違うので、
大国主は小形仿製鏡止まり。
猿田彦はほとんど舶載鏡と見紛うばかりの高いレベルを持っていたのですね。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:26:57.23
大国主=委奴国王については、
三国志東夷伝における、沃沮、高句麗、濊、との共通点。
東夷伝里だと、不弥国が雀居遺跡を指している。
そこに鉄製刀子キズがいっぱいついた机が出土。
金印とも陸続き。
中広形銅矛。

猿田彦については、
オンドル式土器
比良山高島市
熊野本遺跡の鉄器

などの根拠があるわけです。

本来は倭国の、むしろ縄文から続く大山祇も、
銅矛銅剣戦争で敗北した際に、
各地大山祇女王が大国主の後宮に入ったため、
大国主の血が色濃く入っています。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 00:33:47.07
北部九州のみに、数多くの弥生王墓があるわけですが、
時代を経て続く王墓群となると、
実は吉武遺跡群と、三雲遺跡群しかありません。

三種の神器の発祥地であり、宮殿が維持され続けた吉武遺跡。
紀元後に始まる三雲遺跡。
倭人伝の記載と合致しますね。

漢代伊都と、魏代の首都です。

彼らが天神族と天孫族。

では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 07:01:24.87
漢代倭奴国と魏代伊都国だろ。
その筑紫の日向の伊都への天孫降臨の最後の案内役が猿田彦であり、陸海を照らす(支配する)施政者として登場する。
おそらく博多湾沿岸の将軍職であったのだろう。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 08:50:19.16
以上、古田原田の北部九州王朝安物説,,,
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/12(土) 09:29:46.29
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 09:20:18.06
以上、古田原田の北部九州王朝安物説は,,, これでおしまい!
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 09:21:32.92
キナイコシさん、反論は放棄ですか?
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 09:22:44.80
>>501
>では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・

うん、国津神は天津神より先行して渡来した部族ということだね。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 09:51:51.50
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 10:21:34.74
雀居遺跡にはなぜか縄文系の女性が何人か埋葬されています。
銅矛銅剣戦争で敗北した銅剣女王国からの、各地の地域女王たちの一部でしょう。

ここが王だとまずいなら、書記官ということでいいでしょうが、
いずれにせよ、
一世紀の木簡が見つかる可能性が最も高い遺跡、ということになるでしょうね。
なにしろ洪水で流されているのですから、
書庫(木簡庫)が流されていて回収されないままになっている可能性があるわけです。
お宝の山ですよ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 11:30:38.03
雀居遺跡
ふりがな:ささいいせき
時代:縄文/弥生/古墳/古代細分不明
所在地:福岡県福岡市博多区雀居(福岡空港西側整備地区)
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:08:06.68
そう言えば、伊都国の官の禰宜って、伊都国の先代の王家の初代の邇邇芸の末裔だよね。
倭王を祭る立場に格下げされたんだね。
それが嫌で磐余彦は筑紫を飛び出したんだ。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:11:47.93
何をもって格下げと言うかによる。

天皇だって、実権を握っていた時代の方が少ないからね。
藤原氏とか幕府とかが政治を行っていたし、
外交だって彼らが日本代表として意思決定していた。

国家元首 天皇、国王、大統領 と、
政治代表 首相 のような関係だったのではないかな。

だとしたら、我々の祖先は、
超高度な政治感覚を既に古代から持ち合わせていたことになるけどね。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:20:50.42
確かに倭王と大宰率と禰宜が全員伊都にいたなら、かなり高度に外交、内政、祖先(天孫族)の祭祀を分担していたことになるね。
そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:28:16.16
>そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
ですね。
私は、禰宜=倭国王=邪馬台国王(8代)、卑弥呼=摂政、だと思っていますが。

記紀があえて無視したのは、
卑弥呼に金印を渡したことと、倭国王を官よばわりしたことでしょうね。
官よばわりは、委奴国王の放った言霊でしょうね。

さらに問題があるとすれば、その時の倭国王がうっかり者で、
うっかり銀印をもらってしまったのかもしれません。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:31:26.34
外交の一大拠点でもあった伊都国には、
倭の渡航船や外国船が出入りする、立派な港があったことだろう。
やはり那の津という良港の存在は大きかったと思うな。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:34:19.25
那の津は福岡市のほうで、国内船の荷揚げ港ですね。
那珂遺跡に集まる土器を見れば、
北部九州倭国が次第に領土を広げていく様が手に取るようにわかります。

外国船は、唐津湾を経ての船越湾(糸島)着ですね。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 16:51:30.74
船越湾というのは
東の今津湾から入った一番西の奥と、西の深江湾から入った一番東の奥が背中合わせになってるところだな。
昔は、小さな船なら、その間を引っ張って越したから船越というのだろうな。
ほう、そんな外国船対応の良港が、糸島中央のしかも前原の目の前にあったのか・・・。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 18:10:22.81
前原で上陸、東南500里で三雲...
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 18:37:01.91
前原(船越)で上陸、東南500里で三雲(平原)...

うーん、500里というより、せいぜい50里だけどな,,,,
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 19:23:22.06
末廬国の港は呼子か名護屋浦付近(呼子か名護屋浦付近〜伊都GC付近が末廬国)
東南500里で伊都GC付近(伊都GC付近〜飯場峠が伊都国)
東南100里で飯場峠(飯場峠〜セブンミリオンCC付近が奴国)
東100百里でセブンミリオンCC付近(セブンミリオンCC付近より先が不彌国)
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/13(日) 19:30:52.61
うーん、伊都国の素晴らしい港までは、
500里というより、せいぜい50里なんだけどな,,,,
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 08:55:12.45
伊都国にはいい港が無かったんだよ
海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
国内へは奴国の港を使っていた。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:09:37.42
>>524
>海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い

対馬海流に流されて、「末廬国の呼子か名護屋浦」は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:21:28.88
糸島市前原の北に、泊という地名がある。泊保育所という現在施設もある。
南の山地から流れ出した雷山川?が北の糸島半島に突き当たり、大きく西へ転ずるところだ。
この辺りはかって深い入り江であり、周辺には多くの古代遺跡もある。
泊という地名は、この入り江の一番奥に、泊という良港があったことを伝えているのであろう。

原田大六は、西端の深江という小さな港のことは詳しく述べていたが、この前原の泊のことはまるきりスルーしている。
江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:26:55.21
>>526
>江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
>糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。

良港を水田にしてしまうほど愚かな妄想。  @阿波
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 10:42:12.10
>>527
弥生時代の中頃までは、西の深江から東の今宿迄、海が通じており、
糸島水道といった光景だったのだろう。
それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。

同様に出雲の国も、弥生時代の差鉄採取の土砂で、出雲ー松江ー米子間の水道が埋まった。
これを、大国主のくにびきという。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:01:09.74
>>528
>それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。

そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。  @阿波
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:05:16.12
>>529
なかなかのツッコミをするじゃないか。
阿波も、昔は良港だらけだったのだが、土砂の流出で不良ばかりになってしまった。。。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:07:31.50
>>530
糸島の寒村と一緒にされると迷惑。  @阿波
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:16:16.66
踊るアホウ鳥と比較されても困るんだが、、、
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:26:53.55
糸島寒村説は、当たらずといえども遠からず、、、
三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
大古墳ができるようになったのは4世紀以降のことだから、三世紀の倭人伝の伊都国とは何の関係もなかった。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 11:59:05.83
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 12:36:24.69
古墳は関係ないよ。
行政事務も鏡の製作などの工業も、糸島平野に集中していた。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 12:51:46.26
そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 13:15:40.39
>>533
>三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。

筑紫「忌部はん」 のね。  @阿波
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 16:32:58.35
>>537
阿波のレスは芸がない。いわく無芸大食。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 17:30:58.18
>>536
>そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。

そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。  @阿波
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 18:32:07.59
木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 18:34:23.32
>>541
>木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。

筑紫「忌部はん」 だね。 君のご先祖だよ。  @阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 18:43:22.94
阿波のレスには、相変わらず芸がないな。
無芸大食の忌部飯は、
アワ入り麦飯は食っても、コメの飯など食ったことがないのだろう。頭の回転がイマイチ。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:00:37.55
>>540
小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ

舟を引きずって浜に押し上げるんだ

流出した土砂で埋まることのデメリットは近現代ほど深刻じゃない



といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:08:13.80
>>544
>小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ

そうだね。 どう転んでも末盧国は「砂浜を港にする」福津辺りだね。  @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:14:59.31
中国の船が関西方面に来れるようになったのは
平清盛が瀬戸内海航路を整備し神戸港を築いて以後のこと
それまでは九州止まり。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:29:23.88
>>546
>それまでは九州止まり。

福津辺りに着船・上陸・陸行して、築上町辺りからまたまた出航するんだよ。  @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:35:16.48
そもそも関門海峡を船が通過できるようになったのが仲哀天皇による開削からだから。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:43:12.26
>>544
小型船かどうかわからない
中国船だったらすでに帆船だよね?

小型船に乗り換えた後に入港ならわかるがね
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:01:21.90
>>549
だから、対馬海流でも遠浅の砂浜でも、どうやっても末盧国は福津辺りとなる。  @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:02:49.19
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:09:18.44
>>552
>あら、呼子だったらいいわよ

呼子は対馬海流でも、遠浅の砂浜でも、即刻アウト!  @阿波
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:29:12.57
>>548
冗談だと思うけど関門海峡自然に出来たものですよw
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:43:41.86
>>554
まさかとは思うけど、いちおう日本書紀にはそのように書かれており、それ以前の地名は穴門と呼ばれていた。
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:51:04.31
本居宣長の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。
平田篤胤によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となったという。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:57:19.59
伝説ですね
阿蘇の立野を健磐龍命が蹴破ったみたいな
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 23:01:33.22
瀬戸内海ができたのが7000年前
縄文海進で関門海峡が貫通したのが5000年前らしい
その貫通が最初は地下の穴から始まったんだろね
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 02:25:27.70
文献をことごとく否定してかかるスタイル?
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 02:34:33.13
ポスポラス海峡はアレクサンダー大王が掘った運河だそうだよ
伝説なんてそんなもんだ
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 07:54:15.52
縄文人の関門穴門伝説を仲哀天皇がパクった。
出雲にもあるな、向かいの島根半島を、新羅から大国主命が引っぱってきた。
伝説なんてそんなもんだよ。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:14:06.35
>>544
>といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな


糸島も、まったくその通り。
その昔、糸島半島とのあいだは海で、糸島水道だった。そしてちょうど中間の泊地区に良い港があった。
しかしその東西各4km、全体で8qほどの水道が、ほとんど流砂・泥土で埋まり、
西は加布里の船越湾として残り、東は今津の今津湾として残っている。
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