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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16

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0001九州王
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2018/12/16(日) 22:45:24.86
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541115802/
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0509日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 09:22:44.80
>>501
>では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・

うん、国津神は天津神より先行して渡来した部族ということだね。
0510日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 09:51:51.50
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0511日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 10:21:34.74
雀居遺跡にはなぜか縄文系の女性が何人か埋葬されています。
銅矛銅剣戦争で敗北した銅剣女王国からの、各地の地域女王たちの一部でしょう。

ここが王だとまずいなら、書記官ということでいいでしょうが、
いずれにせよ、
一世紀の木簡が見つかる可能性が最も高い遺跡、ということになるでしょうね。
なにしろ洪水で流されているのですから、
書庫(木簡庫)が流されていて回収されないままになっている可能性があるわけです。
お宝の山ですよ。
0512日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 11:30:38.03
雀居遺跡
ふりがな:ささいいせき
時代:縄文/弥生/古墳/古代細分不明
所在地:福岡県福岡市博多区雀居(福岡空港西側整備地区)
0513日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:08:06.68
そう言えば、伊都国の官の禰宜って、伊都国の先代の王家の初代の邇邇芸の末裔だよね。
倭王を祭る立場に格下げされたんだね。
それが嫌で磐余彦は筑紫を飛び出したんだ。
0514日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:11:47.93
何をもって格下げと言うかによる。

天皇だって、実権を握っていた時代の方が少ないからね。
藤原氏とか幕府とかが政治を行っていたし、
外交だって彼らが日本代表として意思決定していた。

国家元首 天皇、国王、大統領 と、
政治代表 首相 のような関係だったのではないかな。

だとしたら、我々の祖先は、
超高度な政治感覚を既に古代から持ち合わせていたことになるけどね。
0515日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:20:50.42
確かに倭王と大宰率と禰宜が全員伊都にいたなら、かなり高度に外交、内政、祖先(天孫族)の祭祀を分担していたことになるね。
そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
0516日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:28:16.16
>そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
ですね。
私は、禰宜=倭国王=邪馬台国王(8代)、卑弥呼=摂政、だと思っていますが。

記紀があえて無視したのは、
卑弥呼に金印を渡したことと、倭国王を官よばわりしたことでしょうね。
官よばわりは、委奴国王の放った言霊でしょうね。

さらに問題があるとすれば、その時の倭国王がうっかり者で、
うっかり銀印をもらってしまったのかもしれません。
0517日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:31:26.34
外交の一大拠点でもあった伊都国には、
倭の渡航船や外国船が出入りする、立派な港があったことだろう。
やはり那の津という良港の存在は大きかったと思うな。
0518日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:34:19.25
那の津は福岡市のほうで、国内船の荷揚げ港ですね。
那珂遺跡に集まる土器を見れば、
北部九州倭国が次第に領土を広げていく様が手に取るようにわかります。

外国船は、唐津湾を経ての船越湾(糸島)着ですね。
0519日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 16:51:30.74
船越湾というのは
東の今津湾から入った一番西の奥と、西の深江湾から入った一番東の奥が背中合わせになってるところだな。
昔は、小さな船なら、その間を引っ張って越したから船越というのだろうな。
ほう、そんな外国船対応の良港が、糸島中央のしかも前原の目の前にあったのか・・・。
0520日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 18:10:22.81
前原で上陸、東南500里で三雲...
0521日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 18:37:01.91
前原(船越)で上陸、東南500里で三雲(平原)...

うーん、500里というより、せいぜい50里だけどな,,,,
0522日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 19:23:22.06
末廬国の港は呼子か名護屋浦付近(呼子か名護屋浦付近〜伊都GC付近が末廬国)
東南500里で伊都GC付近(伊都GC付近〜飯場峠が伊都国)
東南100里で飯場峠(飯場峠〜セブンミリオンCC付近が奴国)
東100百里でセブンミリオンCC付近(セブンミリオンCC付近より先が不彌国)
0523日本@名無史さん
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2019/01/13(日) 19:30:52.61
うーん、伊都国の素晴らしい港までは、
500里というより、せいぜい50里なんだけどな,,,,
0524日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 08:55:12.45
伊都国にはいい港が無かったんだよ
海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
国内へは奴国の港を使っていた。
0525日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 10:09:37.42
>>524
>海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い

対馬海流に流されて、「末廬国の呼子か名護屋浦」は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0526日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 10:21:28.88
糸島市前原の北に、泊という地名がある。泊保育所という現在施設もある。
南の山地から流れ出した雷山川?が北の糸島半島に突き当たり、大きく西へ転ずるところだ。
この辺りはかって深い入り江であり、周辺には多くの古代遺跡もある。
泊という地名は、この入り江の一番奥に、泊という良港があったことを伝えているのであろう。

原田大六は、西端の深江という小さな港のことは詳しく述べていたが、この前原の泊のことはまるきりスルーしている。
江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。
0527日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 10:26:55.21
>>526
>江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
>糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。

良港を水田にしてしまうほど愚かな妄想。  @阿波
0528日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 10:42:12.10
>>527
弥生時代の中頃までは、西の深江から東の今宿迄、海が通じており、
糸島水道といった光景だったのだろう。
それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。

同様に出雲の国も、弥生時代の差鉄採取の土砂で、出雲ー松江ー米子間の水道が埋まった。
これを、大国主のくにびきという。
0529日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:01:09.74
>>528
>それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。

そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。  @阿波
0530日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:05:16.12
>>529
なかなかのツッコミをするじゃないか。
阿波も、昔は良港だらけだったのだが、土砂の流出で不良ばかりになってしまった。。。
0531日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:07:31.50
>>530
糸島の寒村と一緒にされると迷惑。  @阿波
0532日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:16:16.66
踊るアホウ鳥と比較されても困るんだが、、、
0533日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:26:53.55
糸島寒村説は、当たらずといえども遠からず、、、
三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
大古墳ができるようになったのは4世紀以降のことだから、三世紀の倭人伝の伊都国とは何の関係もなかった。
0534日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 11:59:05.83
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0535日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 12:36:24.69
古墳は関係ないよ。
行政事務も鏡の製作などの工業も、糸島平野に集中していた。
0536日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 12:51:46.26
そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。
0537日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 13:15:40.39
>>533
>三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。

筑紫「忌部はん」 のね。  @阿波
0539日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 16:32:58.35
>>537
阿波のレスは芸がない。いわく無芸大食。
0540日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 17:30:58.18
>>536
>そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。

そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。  @阿波
0541日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 18:32:07.59
木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。
0542日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 18:34:23.32
>>541
>木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。

筑紫「忌部はん」 だね。 君のご先祖だよ。  @阿波
0543日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 18:43:22.94
阿波のレスには、相変わらず芸がないな。
無芸大食の忌部飯は、
アワ入り麦飯は食っても、コメの飯など食ったことがないのだろう。頭の回転がイマイチ。
0544日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 20:00:37.55
>>540
小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ

舟を引きずって浜に押し上げるんだ

流出した土砂で埋まることのデメリットは近現代ほど深刻じゃない



といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:08:13.80
>>544
>小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ

そうだね。 どう転んでも末盧国は「砂浜を港にする」福津辺りだね。  @阿波
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:14:59.31
中国の船が関西方面に来れるようになったのは
平清盛が瀬戸内海航路を整備し神戸港を築いて以後のこと
それまでは九州止まり。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:29:23.88
>>546
>それまでは九州止まり。

福津辺りに着船・上陸・陸行して、築上町辺りからまたまた出航するんだよ。  @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 20:35:16.48
そもそも関門海峡を船が通過できるようになったのが仲哀天皇による開削からだから。
0549日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 20:43:12.26
>>544
小型船かどうかわからない
中国船だったらすでに帆船だよね?

小型船に乗り換えた後に入港ならわかるがね
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:01:21.90
>>549
だから、対馬海流でも遠浅の砂浜でも、どうやっても末盧国は福津辺りとなる。  @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:02:49.19
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0553日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 22:09:18.44
>>552
>あら、呼子だったらいいわよ

呼子は対馬海流でも、遠浅の砂浜でも、即刻アウト!  @阿波
0554日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 22:29:12.57
>>548
冗談だと思うけど関門海峡自然に出来たものですよw
0555日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 22:43:41.86
>>554
まさかとは思うけど、いちおう日本書紀にはそのように書かれており、それ以前の地名は穴門と呼ばれていた。
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:51:04.31
本居宣長の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。
平田篤胤によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となったという。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/14(月) 22:57:19.59
伝説ですね
阿蘇の立野を健磐龍命が蹴破ったみたいな
0558日本@名無史さん
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2019/01/14(月) 23:01:33.22
瀬戸内海ができたのが7000年前
縄文海進で関門海峡が貫通したのが5000年前らしい
その貫通が最初は地下の穴から始まったんだろね
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 02:25:27.70
文献をことごとく否定してかかるスタイル?
0561日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 02:34:33.13
ポスポラス海峡はアレクサンダー大王が掘った運河だそうだよ
伝説なんてそんなもんだ
0562日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 07:54:15.52
縄文人の関門穴門伝説を仲哀天皇がパクった。
出雲にもあるな、向かいの島根半島を、新羅から大国主命が引っぱってきた。
伝説なんてそんなもんだよ。
0563日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 08:14:06.35
>>544
>といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな


糸島も、まったくその通り。
その昔、糸島半島とのあいだは海で、糸島水道だった。そしてちょうど中間の泊地区に良い港があった。
しかしその東西各4km、全体で8qほどの水道が、ほとんど流砂・泥土で埋まり、
西は加布里の船越湾として残り、東は今津の今津湾として残っている。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:42:53.65
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 08:55:40.58
泊地区に良い港があったなら何で魏使は末廬國に上陸したの?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:13:46.20
>>565
そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 09:24:51.67
泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。
>中世までは〈津泊〉とも史料にみえる。
>奈良時代,行基によって創設されたという五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・室)は,船で1日行程の距離をおいて設置されていたという。
>五泊では防波堤・石椋(いしくら)の維持のため,勝載(しょうさい)料と称する津料が徴収されていた。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 11:54:03.51
>>565
魏を警戒してたからかもね
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 12:15:15.16
>>570
またその手の言い訳か、矛盾の極み。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 15:45:32.69
港は深くないと大きな船は着けない
土砂で埋まるような港は浅くて小舟しか利用できない。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:26:44.81
泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 16:32:30.72
「泊」の名が示す如く、古代には糸島・前原に立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:10:11.82
>>572
>港は深くないと大きな船は着けない

それは、現代の大型タンカーの事を言ってるんだね。  @阿波
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:14:01.01
>>574
>埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。

後世に埋め立てられるような不良な場所に「立派な港」がある訳が無い。  @阿波
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:24:45.35
「泊」という名が、その立派さを物語っている。
阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:30:41.31
>>577
>阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。

立派な名前???  なにをとぼけたこと言ってんの?  よっぽど根拠が無いんだね。  @阿波
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:33:58.44
アワすとーりぃ?

それにしても、どういう話なんだろう、
小泉じゅんいちろーの話(老婆談)をしていた事があったり
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:37:37.76
家は『松傾』・・・こういう名前の家なんだけどw
住んでいるところは神奈川県の川崎というところ
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/15(火) 17:44:32.75
なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
そうだろうな、有るとすれば、せいぜい素泊り一泊・・・円とかの88か所めぐり木賃宿、、、
0582日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 17:49:17.16
>>581
>なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。

椿泊など。  そんなこと、本気で言ってんの?  まじ、顔を見てみたい。  @阿波
0583日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 17:51:25.72
どこだったかな?
一緒にビール工場に行ったりもしたとか、たしか横浜のほうの工場w

『松傾』?
0584日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:00:27.91
徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
南端の岬の和歌山に向いたところだが、ふか〜い入り江の中に在って、波にも風にも強そうな超優良港のようだ。
「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、
0585日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:32:48.89
>>560
文献ってのは執筆時点での、執筆者が知る情報と執筆者の考えが分かるだけで、それより以前のことについては分からないんだよ
古事記伝は本居の考えを記した物であって古代の事実を明らかにしたものではない。
0586日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:34:31.45
本当に、テレビ(漫画なども同じ)とか、そういうのがあるでしょ、
何がしたいのか理解できないんだけど、必要ないだろう。

家の話ばかりしていたり、悪く言うと寄生。
出演している人々の給料?どこから出ているんだ?
0587日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:36:03.37
>>584
>徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
>「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、

どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。  @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html
0588日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:39:16.93
311なども人工地震だと言っているのに、
それ以前の大震災も、そうなの?
0589日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:48:51.89
数年前の、とあるスレ


誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう


あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう
0590日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:49:01.98
数年前の、とあるスレ


誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう


あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう
0591日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 18:57:23.00
テレビなどの話


家は川崎(神奈川県)に住んでいるんだから、
TVKを中心にしないと、本来ならそうなんだよ


だから何もわかっていないという意味
0592日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 19:05:05.91
『TVK』

ワニ(さめ)さん、ワニ(さめ)さん・・・
みたいなイラストが出てきたり
0593日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 19:05:08.46
「泊」の名が示す如く、
古代には、糸島前原の平原遺跡近くに立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。
0594日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 19:09:08.50
>593
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。  @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html
0595日本@名無史さん
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2019/01/15(火) 19:12:53.00
うらしまマリンというキャラがいるでしょ・・・、
なぜかサメ(わに)と一緒にいたり


あとワンピースという作品にも出てきたでしょ、
どういう事なんだろう
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:16:19.79
>>565>>566
>そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ?

末盧国には寄ってないんだよ

末盧国と、そこからの東南陸行五百里は、
末盧国に上陸して佐賀平野に抜けた古い記録の混入
郡使は、伊都国直行が普通
だから伊都国に郡使往來常所駐と記される
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 15:39:03.17
そうだよねえ
平原王墓のすぐ近くに港があったのだから、郡使直行は当然、、、
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 17:13:29.16
伊都国、世有王、郡使往來常所駐
王もおり郡使の往來常所駐でもあったのだから、郡使は前原港まで直行した
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 20:53:05.74
田油津姫は山門にいて神功皇后に討ち取られた
この山門は倭人伝でのどこだろう
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:02:24.42
魏使が上陸した地点は呼子か名護屋浦で
そこから500里(40q)で伊都国
伊都国には倭王卑弥呼が居て郡使の往來常所駐でもあった。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:32:00.56
倭人伝の主役は難升米
卑弥呼は脇役
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/16(水) 22:52:56.39
>>603その山門は福岡のみやま市
田油津姫は女王
福岡には女王や姫様の塚と云われている場所が
他にもあるんだよ
古事記日本書紀には載ってないけどね
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 09:57:35.86
福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡の二つの有名な大王墓がある。
弥生時代、この直線は、この地の聖なるラインであったのである。
更にこの直線を西に延ばすと、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
この古墳は、糸島地方で一番大きい前方後円墳(103m)である。

即ち、三笠山−飯盛山を結ぶ直線はさらに西に延び、福岡平野から糸島平野までを貫く王墓ラインであった。
このことから、福岡〜糸島平野一帯は、漢倭奴国王の金印を拝した博多奴国の固有領土であり、
北部九州説のいう伊都国などが存立できる余地はなかったことがわかる。
<三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓
0608日本@名無史さん
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2019/01/17(木) 11:23:54.29
>>607
> <三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓

これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。  お粗末。  @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/17(木) 11:56:37.75
福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡がある。
更にこの直線を西に延ばすと、三雲南小路王墓遺跡を経て、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。

聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。
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