邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>613
どうやら福岡平野も人が少ない寒村らしいね。 @阿波 阿波は道端ウンコなので無視してかまわない
でも道端にウンコが多いと歩きにくい >>616
それに比べて、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 古墳時代の鍛冶工房から砂鉄の小瓶が出たからって
無意味な妄想に誘導しようとしているところがうんこ >>621
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピアではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、
やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 >>624
>阿波は畿内説の亜流デス
阿波を取り込もうとしてもダメだよ。 @阿波 >>626
それにしても、なんなの、この口調は
>やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両山を結ぶ直線ライン上には、奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
その雄大な国家観・歴史観は、見事というほかない。
福岡平野〜糸島平野のすべては、漢委奴国王家の長きにわたる支配下にあったのだ。 >>630
それにしても、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 @瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
A対馬北九州→海神の子孫の国々
高祖皇統は上記と姻族関係を結んで勢力を広げた。
大山祇と海神=イザナギ×イザナミの子供
イザナギとイザナミは肉食系で他にもパートナーがいて子供が多かったので
後々揉めますたというのが記紀が本当に言いたいことだと思っている俺。 >>633の続き
@→ニニギの時代
A→彦渚(ウガヤフキアエズ)の時代
神武の代になって九州から上京したのが神武東征。
ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。 >>633-634
う〜ん、あまり出来の良くない妄想だね。 妄想は楽しいだろうけど。 @阿波 >>634
>ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。
少しだけ間違いだな。
長髄彦を成敗したのは饒速日だぞ。
饒速日と神武の天神一族が一族で長髄彦から大和を奪ったのだよ。 >>633
>@瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
長髄彦は大山祇の曽孫な。
長髄彦の祖父が初代鴨王だ。 鴨じゃねえよw
ただ、あいつも一部は正しいんだよ。
鴨王一族から筑紫から来た天神族が畿内を奪った。 >南至投馬国 水行二十日 ・・・ 可五万余戸
帯方郡から南へ行くと、半島南部の投馬国に至る。水行で20日である。
>南至邪馬台国
さらに投馬国から南へ行くと、北部九州邪馬台国へ至る。
(対馬も邪馬台国だから水行1日)
>女王之所都 水行十日陸行一日
北部九州邪馬台国において、女王卑弥呼が首都としている伊都には、
水行10日陸行1日で到着する。(※首都の説明)
>可七万余戸
26国邑を擁する北部九州邪馬台国は約7万余戸である。(※戸数の説明) 1日の行程を千里としたんだよ。
だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
投馬国は水行20日の宮崎県。 >だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
いい加減だなあ。
水行10日はいいとして、陸行の部分はどう説明するのだ? 宮崎のは念仏みたいにただ唱えてるだけだから相手しなくていいよ。
遺跡とかの根拠も無いし。 韓国は陸行さ。
帯方郡から狗邪韓国まで7千余里。
沙里院から金海まで直線で500km。
陸行だから、多少の紆余曲折を入れると550km。
7000で割ると、78.5になる。
一里76.6kmでばっちり。 投馬国は五島列島。
富江の事を現地ではトンメと言うらしい。
投馬=トンメ
郡より水行20日の行程になる。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 奈良県には古墳時代になってもろくに鉄器がない。
纏向には人の住んだ形跡(住居跡)が皆無。
纏向は墓場だった。あるのは墓。
国の首都であるはずがない。 弁辰から帯方に至る鉄の道の[道里]が7千余里
男王が壹與に倭國王の職を譲った年に
不耐淮王が発生して
帯方に至る鉄の道が設定された
川を辿る船旅の陸行だけどね 夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
ちなみに記号上でいえば弁韓は華韓と等価ではある 「妥当だろう」の一言で、
「ははーん、また嘘をついているな」とわかるw 壱岐 銅戈将軍 銅矛王
博多 銅戈将軍 (出土:銅戈+銅矛)
下関 銅戈将軍 銅矛将軍
神戸 銅戈将軍 銅剣女王
大阪 銅戈将軍
銅矛王は金印漢使を迎える時に、重要経由地の壱岐に多大な投資
銅矛王配下の銅矛将軍が瀬戸内銅剣女王と戦う時に、重要兵站基地の下関に多大な投資
銅矛王&銅矛将軍を追いやった、銅戈将軍+銅剣女王が大阪湾上陸作戦の際に、
重要兵站基地の神戸に多大な投資
銅戈将軍とその末裔は全てに投資 銅鐸とは北部九州倭人が領土拡大する過程で、
本土の九州から離れた場所を開拓する際に、
現地人からの襲来に備えたJアラート。
環濠集落とセットであり、敵が襲来して来た時に高台の銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込んで防戦。
銅鐸を鳴らした者はそのまま伝令として、最寄りの倭人陣地へ救援軍を呼びに急いだ。
敵も稲作しているから、農繁期は攻めてこない。
収穫が終わった冬に攻めてきても、収穫した食料を備蓄した環濠集落の中で籠城すればいいだけ。
基本的には、本格的な襲来は収穫期だけだから、
普段は土中に保管しておいて、収穫期だけ取り出して、高台の見張り台に設置した。
イタズラ防止のため舌は普段は環濠集落のお偉いさんの家に保管していた。
淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
しょっちゅう襲来があったのだろうな。
>銅鐸鳴らしまくり 倭人がどんどん進出して銅鐸の使用頻度が減り、
集落に配布する側の威信を示すため大型化した。
けれども本来は単なるJアラートだから、
最終的に敵がいなくなったら必要なくなったんだよ。
銅矛(北部九州〜淡路島まで)が北部九州において失脚し、
銅戈が(北部九州〜)実権を握った。
銅矛勢は畿内の向こうの東海に逃げ込んだ。
銅戈が(北部九州〜)畿内進出を果たしたので、
畿内と東海で睨み合う形になり、
お互いの味方集落にお互いが防衛目的で銅鐸を設置した。
銅戈が勝ったから、畿内のは大型化して非実用。
銅矛は負けたから、東海のは大型化することなく実用段階で終了。
東海が負けて、銅鐸は必要なくなり、敗者として労働力を畿内銅戈へ献上する。
土器の流れ。
倭国乱で銅戈は狗奴国側についたから、金属原料が枯渇して、
淡路島の鉄工房は使われなくなるし、
埋めてあった銅鐸を掘り返して破砕して再利用した。 銅鐸は単なるJアラートだから、
畿内と東海でお互いに占領して奪った銅鐸は
気兼ねなく道具として使い合ったし、
捕縛した銅鐸職人が恭順すれば、そのまま自領で働かせたから
後期には双方の特徴を持った銅鐸が作られることになる。
銅戈側が勝ったのだから、銅戈側に東海銅鐸職人が捕縛される確率の方が高く、
大型化銅鐸に双方の特徴を持った銅鐸が出現した。 >>655
>夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
沙里院の南にも大川が流れている。
その川は沙里院からカーブして大同江に合流している。
楽浪郡から船で行く事もでき、馬での交通も可能だ。
ソウルには中国人の住んだ形跡が皆無で中国の基地があった可能性がナイ。
一方、沙里院近くからは帯方郡太守の墓碑のある古墳が検出されている。
沙里院が帯方郡であった可能性が高いだろう。
沙里院から南に行けば海州と言う港があって、此処からだと船に乗って韓国に行く事も、陸路で韓国に行く事も可能だ。
漢の時代には平壌、沙里院、海州を通って陸路韓国へ行き道があったことが確認されている。
ただ、この道は間に大河が三つもあって陸路の旅だと橋がかかっていたわけではないので、三度も船の乗り降りをしなければならなかった。
大量の人員を運ぶにはこの三つの大河をバイパスしたほうが楽である。
江戸時代の東海道も途中に大河が三つも並んでいた名古屋付近を船でバイパスしていた事を思い出せ。
そこで韓国に兵を送るときとか、物資を送るときなどは海州から船を使って韓国に行ったと推定される。
京幾湾内は比較的波も穏やかで船旅も安全だったろう。
もし、沙里院で無いとしたら、海州が帯方郡の候補地になる。 >>664
一つ付け加えると長山串より北は冬場は鴨緑江から流れてくる流氷で覆われ、冬場に大同江から船で外海に出ることは出来ない。
海州が韓国への基点だった可能性が高いだろう。 >>661
>淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
「目と鼻の先」は倭国(阿波)の鳴門。 淡路島は倭国(阿波)の島 だと、何度言えばw @阿波 東夷伝里がなんのためにあったかというとやはり異民族への増税だろう。
漢本国に比べて同じ面積の耕作地でも距離で3倍。面積で9倍の増税となる。 >>669
漢?!
魏でもなく、後漢でもなく、か、か、か、漢?! >>49
こういう説聞くといつも思うのだが
単純に日本列島が天変地異の多い土地だから
渡来してもうまく定住できなかったとか
もしくは遺構として残らず消えてしまったとか
そういうの可能性は無いのかな >>671
それNGワード指定してる人も多いネタコピペな 魏は戦争戦争また戦争だから里程を測定する余裕なんて無かっただろう。倭地だけとかなら張政が一人頑張って歩数を数えたなどありうるが、東夷伝全部で里程が記されているのだから東夷伝里を測定できるのは戦争の無い平和な時期。後漢の安定した時期だな。 1日の行程を千里と数えるだけだから、厳密な測定は不要だ。 >1日の行程を千里と数えるだけ
百里単位で記載されている部分がある以上、その理論は間違っている。 【従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 「到」其北岸狗邪韓國 七千余里】
帯方郡から韓国(方可四千里)を通り過ぎて、
「通り過ぎてから」、さらに南へ進み、そして東へ進んで、
倭人領域の北岸である狗邪韓國に到着する。
帯方郡から狗邪韓國までの総距離7000余里。
(対馬海峡渡海専用倭舟に乗り換えるため、必ず到着する必要がある)
【始度一海 千余里 「至」対海國 所居絶島 方可四百余里】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対海國へと至る。
対海國のある場所は、絶海の孤島である対馬島である。
対海國は400余里四方。
<7000+1000+400×2=8800余里>
【又南渡一海 千余里 名日瀚海 「至」一大國 方可三百里】
また渡海1000余里で、壱岐島にある一大國へと至る。
一大國は300里四方。
<8800+1000+300×2=10400余里>
【又渡一海 千余里 「至」末盧國】
また渡海する。1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸しただけで、
唐津の柏崎や桜馬場遺跡などには立ち寄っていない)
<10400+1000=11400余里> 【東南陸行 五百里 「到」伊都國】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
<11400+500=11900余里>
漢代の到着目標地点は、吉武高木宮殿だから、500里で到着。
末蘆國上陸地点から、至伊都國なら200里。
吉武高木宮殿は動かないんだから、これらの里程は漢代でも魏代でも現代でも変わらない。
魏代は末蘆國上陸地点は伊都國寄りで、目標地点は三雲遺跡だから、
至伊都國は100里で、到伊都國は300里。
魏代のこの里程は、現代の我々が現代地図を見たら計算できるが、
陳寿の手元には三雲遺跡への里数情報はなかった。
魏使の見聞録には、考古学的に判明している奴國の描写が無いので、
魏使は伊都國までしか来ていない。
魏代の伊都國中心は、糸島平野の三雲遺跡。
女王墓は平原遺跡1号+2号+共通の周濠で囲まれた墓域。
【東南「至」奴國 百里】
吉武高木宮殿から、伊都國と奴國の境界まで100里。
伊都國の吉武高木宮殿(政治中枢)と、奴國の最大発展地域である須久遺跡群(経済中枢)の間
=北部九州倭国の中心地点<11900+100=12000余里>
【東行「至」不弥國 百里】
奴國を横切って、奴國と不弥國の境界まで100里。
雀居遺跡。 【女王国東 渡海千余里 復有国皆倭種】
不弥國の博多湾に面した港から出港して、
渡海1000余里で、下関。
下関から本州日本海沿岸には、倭種の国がある。
【又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里】
日本海沿岸の南、瀬戸内海沿岸に、侏儒國がある。
水銀朱を露天掘りではなく、坑道掘りで身を低くして採掘している国である。
坑道に入るひとの身の高さは、三四尺=約70〜90センチメートルである。
(若杉山遺跡にて発見済み)
侏儒國は、北部九州倭国(倭読み邪馬台国)から4000余里である。
【又有裸國黒歯國 復在其東南】
侏儒國の東南には、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國とがある。 以上の里程は全て、金印漢使の倭国出張用のロードマップ。
在倭の楽浪郡吏が測定して55年頃にまとめあげた、
57年当時の里程。
金印漢使を運ぶのは、
狗邪韓國までは楽浪郡吏。
対馬海峡渡海からは倭吏。
漢使は金印を倭地に届け、吉武高木宮殿での授与式を行うのが仕事なので、
自分がちゃんと目的地へ運ばれているかどうか、
毎朝出発する前に、7月後半の日の出の太陽方角と照らし合わせながら確認した。
方位磁針はまだ無い時代。 委奴国王が金印を貰うにあたって、
その評価基準を満たしたのが、
奴國弥生銀座の大規模工房群に加えて、
瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
淡路島の五斗長垣内・舟木遺跡=大規模鉄工房
それらの事前チェックは在倭の楽浪郡吏が行った。
タケミナカタの船団にて、
まず福岡湾を出航して、下関着。
住吉神社の前身の官社に宿泊。
関門海峡を通って、瀬戸内海へ入り、東行。
侏儒國へ入国し、淡路島へ向かった。
五斗長垣内・舟木遺跡に、やけに立派な施設が多いのはその時に外交用に整備したため。 >>681
>瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
無知。 木材を言うなら、北部九州や瀬戸内海は不適。
木材は四国南部一帯。 これ常識だよ。 @阿波 【南至投馬國 水行二十日 可五万余戸】
帯方郡から南に水行20日で、投馬國に至る。
投馬國に入国した時点で、一旦倭の支配町で旅装を解いて、休憩したり補給したり病人を治療したりする。
その後移動した先の狗邪韓國では対馬海峡渡海倭舟への移乗作業なども必要。
だから、帯方郡→投馬國の20日は旅日程として意味があるが、
投馬國入国して狗邪韓國で再度の出発準備をするまでの日程は、移動以外の時間がほとんどで、
移動日程としての意味が無いから書いてない。
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七万余戸】
投馬國から南へ行くと、邪馬台国=北部九州倭国へ至る。
北部九州倭国の中の、女王卑弥呼が首都としている場所、
(つまり漢代の早良平野吉武高木宮殿ではなく、魏代では糸島平野三雲遺跡を中心とする地域)
までは、
投馬國から水行10日陸行1日かかる。 【韓在帯方之南 「東西以海為限」「南與倭接」 方可四千里有】
【國出鉄韓濊「倭」皆従取之】
【今辰韓人皆褊頭 男女近倭亦文】
辰韓人は倭人に近く、倭人と同様に入れ墨を入れている。
【其瀆盧国與倭接界】
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接する。
【従郡至倭 循海岸水行 「歴」韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千余里】
<韓>
「馬韓」50余國 十余万戸
「辰韓」12國
「弁辰」12國 辰韓+弁辰=四、五万戸
<倭>
「投馬國」4國 五万戸
「邪馬台国=倭国」26國 七万戸
(今使譯所通三十國)30-26=4 日程部分は張政の出張日誌が情報源。
魏使は伊都までで、奴国以東には行っていないのだから、
当然投馬國は半島南部。
陳寿は各部族の出自として墓制を重視している。
巨大な前方後円墳なるものが存在しない場所に
卑弥呼の墓は作られた。
【居所作草屋土室 形如「冢」】
韓人の住居は、草の屋根と土の部屋で作られており、
韓人の住居は「冢」のようである。 【又有裸國黒歯國 復在其東南 船行一年可至】
北部九州倭国=邪馬台国から、瀬戸内海を東へ4000里行くとある侏儒國の、
さらにその東南に、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國(大阪湾沿岸)とがある。
船で1年かけると至ることができる。
陳寿の情報源
@金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
裸國もしくは黒歯國出身の生口は、
楽浪郡吏が乗せてもらった準構造船などではなく、
普通の輸送船であっちこっちの港に立ち寄って、荷物を上げ下ろししながら、
瀬戸内海を西へと運ばれた。
途中の生口島で、職業訓練を受けてから、
また輸送船であっちこっち立ち寄りながら、西へと運ばれ、
那の津に陸揚げされた。
生口が北部九州倭国に着いたのは、
故郷を出発してから、じつに1年後のことであった。
と、若かりし日の出来事を陳寿に話した。 >>686
>船で1年かけると至ることができる。
12日が12月と誤記され1年に書き換えられたんじゃないかな。
C公孫氏の帯方郡から押収した東夷に関する資料(里は公孫氏の1里80m)。 東夷伝里が、
後漢代の楽浪郡里であるか、
公孫氏里であるか、
という問題。
もし楽浪郡里=後漢本国の漢里、であって、
公孫氏里=東夷伝里≠楽浪郡里である場合、
公孫氏が、高句麗の国土面積や、北方の沃沮の土地、
はたまた倭の侏儒國までの里程などを全て測定したことになる。
公孫氏が栄えたのは実質的には30年ほどであり、
韓や倭を従えたといっても、考古学的には実体があまりない。
たった30年の政権が、後漢や魏と睨み合いながら、
他民族の領土を広域に測定する動機もなければ余裕も無い。 @金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
C梯儁の出張記録
【三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)】
情報源:@〜C
作者:陳寿(233-297)
完成:280-297
【魏略】
情報源:@C
作者:魚豢
完成:魏末〜晋初期
魏 220-265
晋 265-316 <魏略逸文(漢書)>
【倭在帯方東南大海中依山島為國 度海千里復有國皆倭種】
倭人の国は山島=九州島にあって、
その東に渡海千里で下関以東は全て倭種である。
(@からの情報)
<魏略逸文(翰苑)>
【従帯方至倭循海岸水行歴韓國「到」拘邪韓國七千里】
帯方郡から韓人の領土(方可四千里)を「通り過ぎてから」、
倭人領である狗邪韓國に到着する。
【始度一海千余里「至」対馬國 其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対馬國へと至る。
金印漢使・張政=対海國で停泊
梯儁=対馬國で停泊 (その日の天候や潮流の影響)
対馬島の中で、
北部に対馬國(半島南岸投馬國に対面する) ?里 ?戸
南部に対海國(瀚海に対面する) 方可四百余里 千余戸
【南度海「至」一支國 置官与対同 地方三百里】
また南に渡海して、壱岐島にある一大國へと至る。一大國は三百里四方。
梯儁は対海國ではなくて、対馬國に停泊してしまったから、
魚豢にとっては、対馬國から一大國までの渡海距離がわからない。
【又度海 千余里「至」末盧國 人善捕魚能浮没水取之】
また渡海する。渡海+東松浦半島〜唐津湾を越えての沿岸航海の、
合計1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸) <魏略逸文(翰苑)>
【東南五百里「到」伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
【女王之南又有狗奴國女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也】
魏略は伊都國までで、次は狗奴国の説明に入る。
梯儁は伊都國で金印外交を終えて、帰国した。
【自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也】
梯儁が対馬國に停泊したことで、万二千余里の詳細を示せなくなった。
以上は翰苑より。
<魏略逸文(法苑珠林)>
【倭(種)南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里】
@にあった侏儒國までで、
Cの裸國黒歯國は魏略に間に合っていない。 魏略と魏志倭人伝の制作時期は20年ほどの差。
魏略には、@Cの情報しか含まれていない。
魏志倭人伝には、@Cに加えて、A張政B生口の情報が含まれている。
【台与遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 献上男女生口三十人】
ABの情報源はセットで洛陽にもたらされた。
魏志倭人伝は魏代の歴史を記載しているので、張政が帰国したのは魏の末期。
魚豢はギリギリでABの情報源を入手し損ねており、
魏略の成立は魏末期〜晋成立直後の混乱期でABに接触できなかった。
魏略には、狗奴国は出てくるのに、邪馬台国は出てこない。
邪馬台国は、倭国に長年滞在したA張政が当てた倭読み訓読みであり、
邪馬台国(倭読み訓読み)=倭国(漢魏読み音読み)
魏略に狗奴国が登場して、拘右智卑狗の存在まで判明しているということは、
もう一つの情報源があった可能性が高い。
狗奴国が後漢と接触していた。 張政は卑弥呼の墓の完成形を見ている。
見ているどころか毎日目にしていた。
男王時代の邪馬台国内の内乱を経験し、
台与の共立まで倭国邪馬台国に滞在。
崇神と景行にも会っている。 >>691
魏略は使った字が違うだけで倭人伝の焼き増しだよ。
対馬の方可4百里は、西岸からしか見ていない。
釜山⇔壱岐に向かう場合、対馬の長辺が海岸水行の千里有る。
これは、使っていない。
狗邪韓國は弁辰狗邪と見るべきで、東行3千里も東岸には届かない。
投馬国は謎の倭人域であるが、この時魏は、辰韓と弁韓の雑居を把握していない。
韓伝の記述は246年の臣智を置いた以降である。
魏は、邪馬台国外交が終わる247年、この後も、弁韓、倭人域は未知なのである。
240年が梯儁だが、魏船は黄海を渡る帆船であって、
対馬から壱岐を経由せずに博多湾に入った可能性も高い。
半島西岸から済州島なら、対馬が要らない。
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、自郡至女王國 萬二千餘里 である。 九州王さんがいつも書いているように、
筑紫の日向=(魏代)伊都国
三雲南小路遺跡1号墓被葬者=ニニギ
平原遺跡1号墓被葬者=卑弥呼
なのであれば、
座標点が固定されるので、
あとは説ではなく、方程式のように解読されていくわけです。
倭国乱が146-189に納まりますから、
男王70-80年から逆算して、
三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
記紀から、ニニギは高天ヶ原から降臨する。
その途上で、猿田彦と出会うわけですが、
猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
つまり早良平野と福岡平野なのだろう、ということになります。 >>695
> 九州王さんがいつも書いている
何の話をしているんだお前は??? >>695
>倭国乱が146-189に納まりますから、
>三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
>ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
ムムム
倭奴国王は伊都国王ではない可能性についての具体的な反証は初めて読みましたが、一理ありますね。
>猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
記紀の「照らす」は支配することと解釈していますが、猿田彦は博多湾で陸海を支配していたようです。
ただ、高天原はあくまでも天照が照らしているわけです。
>高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
豊葦原那珂津国は良い読み方ですね。
福岡平野の繁栄ぶりを伝える言葉なのでしょう。
葦とは稲穂のことだそうです。
稲作先進地域である博多湾沿岸の呼称として相応しい。
あと、九州王さんとは別人です。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 委奴国王についてはこれも過去スレで検討しましたが、
中広型銅矛王として、平型銅剣女王を滅ぼすわけですね。
弥生時代のメインプレイヤーを考えると、
壱岐対馬唐津からの天神男系イザナギ。
遠賀川発祥の豊国女系イザナミ。
天神イザナギが、福岡市土着の古来勢力に阻まれている間に、
イザナミ系が一気に日本全国に稲作をもって拡散します。
イザナミ系は、
北部九州の豊国領域に、祖である八雷神8部族。
本州日本海沿岸に、八岐大蛇部族。
福岡市で壱岐対馬と遮断された状況では、八岐大蛇が最大勢力だったわけです。
イザナギとイザナミが婚姻を結んで、福岡市を挟撃して筑紫統一。
吉武高木王=アマテラスが誕生し、
東征将軍スサノオが八岐大蛇を下し、日本海沿岸を統一して、
丹後に扇谷遺跡が建設されます。 敗北した八岐大蛇が虐殺された遺構は有りません。
アマテラスの支配下に入ったことになります。
豊国の八雷神→8山津見と、八岐大蛇は、共にイザナミ女系なので、
支配者と被支配者の関係になりにくいわけです。
一方のイザナギ系は男系なので、
イザナギ系の王族男子が、八岐大蛇の女首長に子供を産ませ、
その息子が支配者として君臨する、という支配体制が
円滑に進んだことでしょう。
よって、日本海沿岸の支配権はイザナギ系によって占められることになり、
大山祇の女性指導者は、
琵琶湖や、瀬戸内海に進出することになります。
後に銅矛銅剣戦争で負けた銅剣女王国の、開拓最前線が、
荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸の分布域となります。 >>699
そういや最近どこかのスレで三雲南小路と金印を無理やり繋げようと躍起になってた阿呆がいたな 八上姫=豊国女王が、大国主との子供に国を継がせることを拒んだので、
大国主は天神族と組んで、スサノオ将軍職について、
銅矛銅剣戦争を開始します。
しかし、大国主は自分の手勢も欲しい。
そこで目をつけたのが、
イザナギ、豊国(八雷神→大山祇)、本州日本海沿岸(八岐大蛇)の、
八岐大蛇族ですね。
沼河比売を口説いてタケミナカタを産ませて、
上手く越国を乗っ取ったわけです。
八岐大蛇族の指導権を乗っ取った方法は、八雷神への復讐心を煽ったわけですね。
八雷神+イザナギが八岐大蛇を負かした恨みを利用して、
八岐大蛇をタケミナカタに率いさせて、
瀬戸内銅剣女王国を攻めさせたわけです。
紀元前に、イザナギ(スサノオ)+八雷神 vs 八岐大蛇
一世紀前半に、イザナギ(アマテラス)+大国主(スサノオ)+八岐大蛇(タケミナカタ) vs 八雷神(大山祇)
一世紀後半に、イザナギ(ニニギ)+饒速日(スサノオ)+八雷神(建御雷神)vs 大国主+八岐大蛇(タケミナカタ) 個人的には、須玖岡本は将軍クラスということで猿田彦を推します。
春日市には猿田彦を祀る塚が多いですし。
イザナミ国津神の女系氏族とイザナギ天津神の男系氏族なら、うまくやっていけるのでしょうね。
ニニギと木花咲耶姫、ヒコホホデミと豊玉姫、ウガヤフキアエズと玉依姫らの日向三代も、同じ天津神と国津神の夫婦ですね。
ニニギの父であるオシホミミの妃であった豊秋津師姫も、名前から考えるに博多の姫でしょうね。
その父は高木神、兄はオモイカネだそうです。
高木神は福岡平野の最も古い王の一人なのでしょう。 遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
北部九州の八雷神→8山津見
本州日本海沿岸の八岐大蛇
どちらもイザナギ男系と婚姻を重ねていきます。
そこに割り込んだのが、委奴国王=中広型銅矛王ですね。
銅矛銅剣戦争で大山祇女王の八上姫を降伏させて、
関連集落の女系指導者を後宮に集め、
最終的にはなんと181柱の子孫を産ませます。
降伏した集落の分布域は、荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸が最大域。
1世紀前半に早くも畿内、そして岐阜まで達しています。
雀居の縄文系女性は客死した地方女指導者でしょう。
雀居からは、1世紀の長文=後漢との外交文書 を作成した机が出土しています。
つまり、委奴国王の元に集められた女性指導者が産んだ息子達は、
委奴国王の元で「文字」を習い、
各地へ指導者として戻っていった。
卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族 >>706
>遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
もともと豊国が博多湾沿岸および志賀島の国津神勢力で、天津神の勢力拡大により東に圧迫され、遠賀川から、律令時代には大分県まで押されていったのでしょう。
発祥の地というなら、志賀島の綿津見神社でいいかと。
その両親イザナギイザナミは能古島で婚姻していますし。
>卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族
まさしくツクヨミですね。 標高の高い早良が高天原。
高木神とは、早良の吉武高木宮殿で政治を決めていた支配者達のことでしょう。
天神族の中にもしがらみがあり、
アマテラスをトップとしながらも、合議制を取っていたわけです。
しかし委奴国王はしがらみがないので、
天神族間の競争を利用して、一気にのし上がった。
ニニギがコノハナサクヤの不義を疑ったことから、
天神族ですら委奴国王の後宮に出していたことがわかります。
しかし、いくら頑張っても、天神族でない委奴国王はスサノオ止まりで
アマテラスにはなれない。
だから漢から金印を貰った。
しかし金印を貰うために木材を大量伐採して施設整備をせざるを得なく、
環境破壊による那珂川の氾濫、土石流、疫病の発生、によって、
一夜にして失脚したわけです。
委奴国王の一件を教訓にして、
天神族は結束し、
オシホミミ一族を大王に、
西の糸島平野に人口制限のある新首都=魏代伊都、を建設したわけです。 委奴国王が失脚して、奴族はちりぢりに逃げ惑います。
タケミナカタが
本拠の越後。
海を迂回しなければならない長崎。
まだ広島平野のない安芸の奥の中国山地内。
などで抗戦します。
饒速日(銅戈スサノオ)
+恨みを喰らった恨みを返そうとする八雷神(建御雷神)
は、まずは大阪湾を攻略します。
八雷神の荘園である瀬戸内海沿岸ではなく、
大阪湾に高地性集落を建設して木材供給源にするためです。
大阪湾占領が完了してから、
いよいよタケミナカタを攻め立てるわけですね。
銅戈の出土分布がそれです。 卑奴母離がなぜ倭人伝で残っているか。
一つは、半分は委奴国王の血ですが、もう半分はそれぞれの地域の女王の血だからです。
女王の血を引いていて、しかも優秀で容姿端麗なわけですね。
もう一つが、「文字」スキルですね。
邪馬台国では租税を徴収していたとあります。
戸数が把握されています。
これらの官僚的支配は、「文字」スキルが必須であり、
卑奴母離たちは、「文字」スキルを持つ官僚として、
天神族に恭順することで、副として身分保障してもらえたわけです。
ちなみに、
『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其余旁國遠絶 不可得詳』
とは、
女王國=邪馬台国ですから、
列挙された20国は、其戸数道里可得略載です。
単に字数の関係でいちいち書いてないだけで、陳寿の手元には戸数データはあったわけです。
総計7万戸だけ記載したわけですね。
道里は、周旋五千里ですね。
だいたい狗邪韓國から五千里で到達できる範囲にあるよ、
というのが道里可得略載ですね。
其余旁國遠絶とは、不属女王の狗奴国とか、東の倭種の国とかのことです。 多少、ドラマ仕立てが強すぎませんかな?
記紀の隙間を埋めるのはいいですが、盛りすぎてもダメ。
高木神は吉武高木の倭王でしょうが、記紀の視点が当時は傍系だった皇孫である天津神に置かれています。
ではアマテラスはどこにいたのかといえば、海を照らすという語義からは、海上のどこかでなければならない。
対馬海峡を卑奴母離(月詠)の地だとするならば、やはり沖ノ島しかないのではないか。
また、瀬戸内海の開拓は、大山祇の息子である三島の神(三島溝杭耳、鴨王)であることがわかっています。
淀川流域から奈良盆地の富美までその支配地が及びます。
神武と戦った富美の長髄彦は三島の神の孫、その姪が神武の妃となるイスケヨリ姫であることがわかっています。 高木神とは吉武高木宮殿にいた殿上人。
そのトップがアマテラス。
その東征将軍がスサノオ。
スサノオと豊国八雷神(後の大山祇)が、本州日本海沿岸の八岐大蛇に勝利。
八岐大蛇も女系イザナミなので、
男系イザナミが子供を産ませて、その子供に支配権を奪われていった。
女系豊国八雷神(後の大山祇)は、日本海沿岸に進出できずに、
琵琶湖に巨大環濠集落を作って苦労して開拓したり、
瀬戸内から紀伊を経て開拓したけれども、銅矛銅剣戦争で負けたりと、
苦労続きだったわけです。
大元の、豊国=古代出雲=イザナギ族にとってのイザナギ領の東隣り
について考えてみます。
ワニと白兎ですね。 今じゃ当たり前にみんなアマテラスは女神って前提で語ってるが、記紀にアマレラスが女神だと書かれてる箇所が見つけられない
アポロンら同様に太陽神なんだから男神なんじゃないか 兄弟と共に稲羽の八上姫に求婚しに行った大国主が、稲羽の白兎に出会います。
ニギ、ウサ(宇佐)、というのは古代神官のことであり、
ウサギとは神官あるいは巫女のことですね。
稲羽の八上姫に仕えて沖の島祭祀に関わる神官あるいは巫女だったわけです。
ワニとは、記紀でそれぞれ熊鰐とも和邇とも記されている、
岡田宮の熊鰐氏のことですね。
縄文から続く八雷神の一神だったわけです。
過去スレで検討しましたが、
稲羽=稲場=鐘崎
海の関所です。
八上姫とは、豊国イザナミ八雷神系の正統な女王。
各地の大山祇荘園からの年貢=稲荷を、稲場に陸揚げして、差配していたわけです。
そして年貢よりも重要な物資が、
瀬戸内海からの木材。炭。
熊鰐氏は、瀬戸内海利権を狙う天神族と結んで、
天神族イザナギ系の男系支配者オオワダツミを受け入れていた。
イザナミ系の本来の女王である、八上姫と、
イザナギ系がワニ氏に取り入った、オオワダツミが、争っていた。
だから八上姫の部下である白兎を助けてくれた大国主を、
八上姫は信用したわけです。 天津神が男系相続の一族なので、アマテラスは男性でしょう。
そしてその支配地域は海上(海を照らす王)でもある。
一方で、高木神らは陸上(吉武高木?)にいた別の王統、女系相続の国津神ですね。
この両者の婚姻が倭国の王制の基本スタイル。 >>715
いやいや、綿津見、大山祇は国津神と明記されており、志賀島、博多湾から東に東遷した豊国王家でしょう。
それは筑紫王家すなわち天孫族と区別されなくてはいけない。 >>716
つーことはコノハナサクヤヒメが卑弥呼でFAやんけ またまた前フリが長くなってすみません。
ここからが本題です。
九州説によると、ニニギ=三雲南小路王という座標点があります。
ニニギより前については、以上のように自動的に決まりますが、
では、
ニニギより後については、どうでしょうか?
山幸彦と海幸彦です。
まず、
山幸彦は山、高千穂宮ですね。
海幸彦は海、スサノオ水軍です。
ニニギは笠沙の岬=考古学的には、糸島平野と陸続きの柏崎遺跡になります。
に、長く住んでいます。
糸島平野に遷都したばかりだったので、
奥さんであるコノハナサクヤ=柏崎天孫族の父と、大山祇母の娘、の実家に住みながら、
新首都建設に尽力していたわけですね。
糸島平野が整備されて、高千穂宮=高祖宮に住むようになるのは、
二代目の山幸彦からで、高祖神社の祭神もそのようになっています。 >>718
木花咲耶姫は王子が3人もいて、ちゃんと倭王(ヒコホホデミ)になってるじゃん。
しかも細石神社の三雲南小路遺跡なら、卑弥呼より年代が少し古すぎてしまう。
年代が近いのはその後の平原遺跡だよ。 猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
柏崎遺跡、つまりコノハナサクヤの両親のお抱え工人です。
サルマトイ
後漢本国、あるいは少なくとも楽浪鏡工房で働いていた
コノハナサクヤの父親にヘッドハンティングされて、
半島南部の倭人領土→柏崎遺跡へとやってきます。
一族は触角式有柄銅剣の出土する場所でそれぞれ働いていたので層が、
猿田彦自身は、コノハナサクヤの大山祇母親の荘園である、
高島市の熊野本遺跡が本拠ですね。
内行花文鏡や方格規矩鏡のほぼ完成形をもたらしたり、
漢の円周率暗算単位である、咫をもたらしたわけです。 >>719
>山幸彦と海幸彦です。
海幸彦は山幸彦に負けて都落するのだが、その足跡がどこにあるのかというと宮崎県だったりする。
つまり福岡に正統となる山幸彦、宮崎に傍系となる海幸彦。
これが魏志倭人伝だと福岡の邪馬台国七万戸と宮崎の投馬国五万戸となる。 >>721
>猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
これって、根拠はなんですか? >>723
猿田彦を大陸からの渡来神に仕立てたい陰謀な悪寒 古代は末子相続ですね。
大王と年齢の近い長子相続だと、戦争になる。
だから長子などには兵を与えて、東征や北征させて、新規領土を切り開かせる。
年齢の離れた末子に、晩年に本拠を継がせるわけです。
理にかなっています。
饒速日は東征将軍スサノオとして東征。
邇邇芸は糸島平野の新首都整備。
海幸彦と山幸彦も同じですね。
ただ、二人が海と山の支配権を交換します。
これが意味することはただ一つ。
倭国王師升の直接訪問ですね。
邇邇芸が動いた記録はありませんから。
倭国王師升が外遊した時、
あるいは、色気を出して水軍で外地征服を試みた時、
に、
天候あるいは敗戦によって、水軍を喪失してしまったわけです。
それで一時的に失脚して、
山幸彦が身を寄せた先が、ワニの王宮です。 山幸彦は、岡田宮に身を寄せたわけです。
イザナミ八雷神系の正統女王である八上姫はとっくの昔に滅ぼされ、
熊鰐族がリーダーとなっていたわけです。
八畳の控室、八尋和邇、などは、八雷神由来の古代出雲を示唆しているわけです。
熊鰐族オオワダツミの娘である、豊玉姫・玉依姫。
玉とはすなわち、
リーダーとなった熊鰐族が、
北九州市の城野遺跡の玉造工房を領有していた、からですね。
大量の鉄製工具と、
大量の翡翠。
翡翠があるということは、倭国乱の前です。
倭国乱で銅戈は狗奴国側ですから、邪馬台国への翡翠の供給は途絶えてしまいます。
だから平原遺跡には翡翠がありません。
逆に狗奴国には鉄の供給が途絶えるわけですが。 ヒナモリ……
後代の日本語で、辺境/地方/田舎のことを言うヒナという語句があるが(用例:鄙びた)
辺境をまもる(または、おもりする)役職だったのかねえ? 末子相続というより兄弟相続の結果として最後は末子がすべて持っていくのです。
饒速日も先代旧事本紀では、天照国照の称号があり、出雲国譲りにより海上と陸上の両方の王となっていたことになっています。
ただし記紀は弟の邇邇芸の末裔である天皇家がまとめたので、その治世が省力されています。
海幸山幸の物語も、兄弟相続の話と読めなくもない。
記紀は後になるほどその世界観が広がるが、逆に神代については九州北岸からせいぜい出雲までしか文明社会になってない。
賑やかな龍宮は文明の中心地である志賀島の綿津見神社でしょう。
後に北九州に豊国王家が遷都して筑紫岡田宮の熊鰐らがいたと考えられます。 忌部氏で考察しましたが、
古代出雲は遠賀川〜北九州市の辺りであり、
つまり古代出雲の玉造忌部とは、城野遺跡のことなわけです。
八尺瓊勾玉とは城野遺跡で作られた翡翠勾玉であり、
オオワダツミが、山幸彦に与えたことになります。
城野遺跡のそばからは、何度も掘り戻されては埋納されてを繰り返した
広型銅矛が出土しており、
一つは、山幸彦海幸彦のペアは広型銅矛を祭祀に使っていた。
もう一つは、祭祀型銅矛(銅戈)とは、出陣式の時に使って、
北部九州倭国の母なる大地に埋納。
もう一本を、遠征先の征服領土に埋納。
だから、出陣元の北部九州では何度も埋め戻しされているわけです。
山幸彦の奥さんの実家ですから、
山幸彦が政権に復帰してからは何度も出征に出たわけですね。 >>728
辺境といっても、対馬海峡の交易が倭国の繁栄の基礎なら、生命線です。
必死で他の民族から守らなくてはいけません。
だから卑奴母離、大率などの制度が発達したのでしょう。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 豊玉姫が出産する。
岡田で出産すればいいのに、わざわざ伊都へ赴きます。
これはなぜかというと、文身ですね。
大王の血統であることを証明するために、産まれてすぐ文身を入れる。
岡田で出産すると、
敵対勢力からそこを指摘される危険性があるわけです。
だから伊都まで行って、伊都の重臣たちの監視下のもとで、出産する。
ただ、豊玉姫は女系としては縄文山鹿貝塚からのイザナミの血を引いています。
豊玉姫の出産シーンを山幸彦がうっかり覗いてしまうと、
豊玉姫が八尋熊鰐の姿でのたうち回っている。
これはワニになったわけではなくて、
イザナミ縄文系の民族出産時衣装で民族出産時儀式を行っていた、ということでしょう。
見られることはタブーでもあったわけです。
イザナミの儀式をイザナギが覗いてしまったのと同じですね。
現代人の我々と全く違い、弥生人にとってはタブーはタブーで絶対禁忌。 豊玉姫・玉依姫の父、オオワダツミの支配下である、城野遺跡。
北部九州でも最大級の方形周溝墓に、なんと小児が二人埋葬されています。
男の子のほうは、
山幸彦と豊玉姫の子供である、武位起命
もしくは
鸕鶿草葺不合と玉依姫の子供である、三毛野命
のどちらかであることが確定します。 倭人伝の官を紐解くと、
邪馬台国=倭国の官(中央政府の内閣大臣)が、
伊支馬 壱岐イザナギ系代表
彌馬升 大山祇イザナミ系代表
彌馬獲支 大山祇イザナミ系代表(どちらかがオオワダツミ)
奴佳鞮 奴国オオクニヌシ系代表
となります。
地方行政(都知事・府知事・県知事)が、
対海國 卑狗(狗人=海幸彦血族隼人)卑奴母離(委奴国系書記官)
一大國 同上
伊都國 爾支(都知事)泄謨觚柄渠觚(イザナギ系)
奴國 兕馬觚(イザナギ系が押さえる)卑奴母離(委奴国系書記官)
不弥國 多模(事代主末裔)卑奴母離(委奴国系書記官)
となります。
伊都國は女官が1000人もいる首都ですから、卑奴母離は必要ありませんね。 頂点にいるのが、「世有王」
伊都の倭国王です。
人前に姿を現さない=文身が・・・の卑弥呼が摂政。
狗奴国との戦争で緊急時だったので、
有能なキャリアウーマンの卑弥呼が抜擢された。
その後もずっと狗奴国と対戦していたから、
卑弥呼が重宝され続けたわけです。
張政が来たのは倭国政治に介入するため。
倭国王勢力と、卑弥呼勢力の、
どちらかが、朝鮮半島積極派で、
どちらかが、狗奴国戦積極派で、
そのどちらか魏にとって有利な方を、応援しに来たわけです。
台与は張政の策略もあって女王になりましたが、
肝心かなめの魏が滅びそうになって、
張政の頑張る意味が無くなって、張政は帰国してしまった。 >>736
大王が城野遺跡=豊玉姫か玉依姫に産ませた子供で、小児で亡くなった。
記録に残っていない可能性もありますが。 >>739
推論に「確定」なんて言葉を使ってはいけない。
軽薄に見えてしまうから。 >>740
ああ、すみません。
三雲南小路王=ニニギ、が確定なら
→確定、という意味です。
山幸彦はワニ=弥生岡田の元に身を寄せ、
その娘たちは玉で、
そこに翡翠が供給されるうちに作られた小児墓=倭国乱前
ですから。 前提がなんの確証もないんだから、それを基にしたものはみんなゴミ ニニギの妻コノハナサクヤの実家が柏崎遺跡であり、
宇木汲田から続く由緒ある土地なのですが、
山幸彦の井原鍵溝遺跡に同期する桜馬場遺跡は、北西に移動しています。
そして末蘆王家は桜馬場までで途絶え、魏志倭人伝にも末蘆國の官は無い。
狗奴国に滅ぼされたわけです。
さらに、対海國と一大國の官は、旧王名の痕跡の無い「卑狗」(隼人の狗人)。
狗邪韓国にも官はいません。
壱岐対馬ルートが一度狗奴国に蹂躙されたわけですね。
ごく短期間ですが、狗奴国が壱岐対馬ルートを手にした。
その時に後漢の有力者曹操と外交して手に入れたのが、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡などのオーパーツでしょう。 魏代伊都=糸島平野の高祖宮を中心とした鉄壁の山城。
南の狗奴国が、壱岐対馬ルートを攻略できる唯一の拠点が、吉野ケ里遺跡です。
高千穂宮を攻めるのではなく、
吉野ケ里遺跡から出陣して北上し、末蘆國を急襲した。
末蘆國側も不穏な雰囲気を察知して桜馬場に移動していたけれども、
耐えられなかったわけです。
吉野ケ里遺跡は様々な勢力が入っていますが、
最後に入ったのが銅戈。
なんのためにかというと、長崎タケミナカタとの海上戦闘のためですね。
銅矛銅剣戦争と同じく、海戦だから遺物は出土しにくいですが。
銅戈を旗印にする=鉄戈が主兵装
唐古鍵遺跡に絵画が出土しています。
矛は対戦争用兵器ですが、
戈は捕獲用器具です。
怒られそうですが・・・
長崎タケミナカタの誰かしらを捕獲したら、その旨を先方に伝えて、
タケミナカタが救出にやってきたら、
高楼の上に人質を出して煽ります。
怒ったタケミナカタが仲間を助けようと殺到してくる。
城柵を乗り越えたところを、下から戈で手前に引き落とし、
溝に落ちたところを上から木の刺又で押さえつけて捕獲します。
生口ホイホイですね・・・ >>745
城柵の前に空濠を掘るのが当時の慣わしだけどな 卑弥呼自身も共立女王にふさわしく、オールニッポンの血筋です。
卑弥呼の父親は、大田南1号墳被葬者の、
一大率丹後若狭湾水軍長官。
銅戈将軍饒速日の、畿内妻である登美夜姫の子孫は、
北部九州倭国のヒエラルキーに反抗して狗奴国に加担しましたが、
饒速日の、九州妻との子孫である、卑弥呼の父親は、
逆に邪馬台国の絶体絶命の危機を救ったわけです。
逆に卑弥呼の子孫には、青龍三年銘の方格規矩四神鏡がお裾分けされています。 畏れ多いので、あくまでも、九州説ならば、という話です。
『天叢雲剣』
吉武高木王アマテラスが、九頭竜川(頭部)を本拠とする、
石剣の八岐大蛇部族の若狭湾水軍(胴部)と戦争して勝利。
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄器製造。
アマテラスに献上された至上の逸品が、天叢雲剣。
『八尺瓊勾玉』
山幸彦が、古代出雲=遠賀〜北九州市を支配する岡田熊鰐のもとへ滞在。
城野遺跡の玉造工房=出雲忌部の祖、において鉄製工具を駆使して
翡翠勾玉の円周長八咫首飾りを作成。
『八咫鏡』
邇邇芸の妻、木花之佐久夜の実家のお抱え工人、
楽浪仕込み猿田彦一族の工房において、
魏から入手した青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成。
直径二尺。円周長八咫。 青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成したら
鉛同位体分析値は前漢鏡主要分布域には収まり得ない
4世紀以降の鏡を溶かして3世紀の鏡を作成したがるのは阿呆 >>737
首都である伊都國の役人には卑奴母離はいませんね
国邑の連合体である投馬國や邪馬壹國の役人にも卑奴母離はいませんね。 伊都国の官の禰宜は天孫ニニギの末裔が卑弥呼の下でナンバーツーに収まっていたということ。 卑奴母離は奴母離が各国邑に派遣した副官
奴母離は奴界の守護者の称
降臨系のボスが卑弥呼の守護者であることを主張した
だから鄙とは云い難い弐萬戸の奴國にも配置されている
降臨系のボスとは伊都國王の難升米のこと 雀居の委奴国王は渡来系なので、外交時は漢語で話したわけですね。
バイリンガルです。
侏儒國のネーミングも委奴国王がつけたのでしょう。
黒歯國や裸國は陳寿でしょうけれども。
(一)大率も委奴国王が創始でしょうね。
遠征や内政検察に便利だから
饒速日や瓊瓊杵なども倭国に取り入れて流用発展させたわけです。
大倭はオオヤマト
つまり大山祇ですね。
八雷神→8山津見
それが銅矛銅剣戦争で負けて、大山祇として組織整備されたわけです。
瀬戸内海の海運業ですね。
高地性集落で木材、炭を生産。
淡路島の鉄工房へ、鉄原料を東へ運び込み、鉄完成品を西へ輸送する。
硯が筑前町で出土するのは、海運商売に文字が必須だったからですね。
旧三輪町に大倭=オオヤマト運輸の集配管理センターがあったわけです。 一方の井原鍵溝の師升は生粋の倭人というか、
倭人の頭領たる倭国王です。
委奴国王の使者が、光武帝に謁見した時は、
「我従倭地来了」
全て漢語で話したわけです。発音は、わこく、わじん、ですね。
海幸彦の水軍を借りて、大量の生口を土産に意気揚々と後漢に乗り込んだ
師升の場合は、横に通訳を侍らせて、
「われこそは、やまとこくおう、すいしょう、なりぃ」
と自ら倭語でやったわけです。
居並ぶ後漢の重臣たちは、
「わこくおう」が来たと思っていたのに、
「やまとこくおう」などという言葉を初めて聞かされて、面食らったわけですね。
その場にいた書記官が慌てて当てた字が、
「倭面土國王」
本来なら、「邪面土國王」とかが正しいのでしょうが、
さすがに師升も、
事前の外交文章では、「倭国王」と書いて、漢文で連絡していたでしょうから、
後漢側では「わこくおう」倭国王が来た、と思い込んでいたので、
最初の一文字はどうしても倭に引きずられたわけですね。
タイムマシンがあったら、
師升の口上を聞いている安帝と重臣たちのどよめきを聞いてみたいですね。 里程と日程が並列
邪馬台国の首都が伊都でその他25国にヒナモリ
それぞれの国に相当する遺跡もあって
平原女王墓もあって
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着ですな >>762
ヒナモリ? 副日卑奴母離 は 247年張政の倭人船に同乗していた、現地案内官。
郡〜狗邪韓國〜對海國〜一大國〜末盧國〜(伊都國)〜奴国、不彌國
で、随行している。
240年に卑弥呼に印綬の為、魏の軍船で行軍し、
女王宮に来た梯儁の譯での邪馬台国は
女王を共立した21の王の国で構成されている。
その南は、狗奴国である。
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着です。 また伊都クズが文献史学者も考古学者も誰も主張していないことを文献史学的に〜とか考古学的に〜と勝手に決めつけてる >>764
基本的に古代史で持論展開するやつはウソツキだからしゃーない 自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
推理ものの犯人なんかがよくしている非常に見苦しい行動だな >>767
>自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
すげーブーメランw ホラフキン
,へ
\/ ヽ ( )
_/*+*`、 ( )
<_______フ )
从 *`∀´> 〜
/゙゙゙lll`y─┛息を吐く様に嘘を言い
ノ. ノノ | 飯を食うが如くクソをすする
. `〜rrrrー′ これはチョンコのことです
. |_i|_(_ |_ l ―┬─ l ヽヽ |_ .┌-┐ へ | ヽヽヽ
| l ─┼─ ヽ/ _|∠ | / /__ \  ̄| ̄ヽ \
__| | __ | / /l二l.| _). __ . / │
\ノ\ レ .(_ノ`ヽ ヽ__ |_|.| |__| ノ ヽノ
(ヽ三/) ))
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| (⌒)|r┬-| | >>767
,┌、-、!.~〈 .`ー´/ . _/
| | | | __ヽ、 /
レレ'、ノ‐´  ̄〉 . |
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. ̄ ̄| ̄| ̄ ̄ .
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.__|_|__ . l ヽ | -― 、 . / __ .  ̄/ ヽ
. ヽ、 ヽ、 | ) .__| } / / __|
ノ |___i ヽ/ \ノ\ __ノ / \__ (_l\ W W W >>771
iヽ /ヽ
| ゙ヽ、 / ゙i
| ゙''─‐'''" l
,/ ゙ヽ
,i゙ / \ ゙
i! ● ● ,l
゙i,, * (__人__) ,/
ヾ、,, ,/ 猿真似はダメにゃん
/゙ " ヽ
/ i!
(⌒i 丶 i ! i!.,
γ"⌒゙ヽ l l γ'.ヽ
i i,__,,ノ i,__,,ノ_,,丿
ヽ,_,,ノ"~´ ̄  ̄ ハラタの説は箸墓撤退で北部九州(福岡・糸島平野)の平原・天照大神だけが残り、高祖山に籠っている。
フルタの説はもともと北部九州(福岡・糸島平野)だけ。
ヤスモトの説は甘木朝倉の筑紫平野に邪馬台国を設定したものの、
そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だったので、これも福岡・糸島平野に撤退し、卑弥呼の墓は平原に・・。
呉越魏同舟というか、
現代日本のエルサレム化して、聖地の分取り合い状態になっとるな。 >>763
>随行している。
してないだろw
ヒナモリは伊都国の卑弥呼が各国邑に派遣した国邑の副官だよ。 >>774
逆に婢千人は、各国邑からの人質かもしれませんね。
江戸幕府が各藩大名の妻子を江戸に住まわせたのと同じです。
ただぼんやり住んでいるのも何なので、養蚕機織や、賢い女性にはOLとして働いてもらったのでしょう。
>>773
>そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だった
北部九州のど真ん中にありながら、鉄器が出ないことから、
狗奴国だったわけですね。
そして、狗奴国の支配域においては、鉄器があったはずなのに、無くなってしまうことがあり得ることも証明されているわけです。
対馬海峡を支配する邪馬台国と敵対しているのですから、
何年もすると鉄器が欠乏して、領内の鉄器をかき集めて鉄製武器に溶かし直したわけですね。
太平洋戦争末期にも、金属類回収令によって、弥生時代の青銅器なども供出されました。
正しい認識に出会った時に、自論を変化させていくというのは、
正常な科学的思考がなされている、ということで、
スタート地点がどうあれ、その人の言うことは信用できるということですね。 ハラタ説、フルタ説、ヤスモト説に従えば、
甘木・朝倉市・朝倉郡筑前町辺りは狗奴国だったということになるなあ。
そして、吉野ヶ里も同様に狗奴国の勢力範囲だったことになる。
わかりやすいといえばわかりやすい。、 吉野ヶ里は戦争に負けたわけではないけど。
まあ、吸収してどこかに再編されたのかな。 >>661-663
要するに銅鐸というのは、
その時代における倭人倭種のフロンティア(開発最前線)に分布しているわけですね。
そして主に使っていたのは、
鉄器を独占して強力なスサノオ水軍で日本海沿岸を支配していたイザナギ系倭人ではなく、
おこぼれの金属器しかもらえず、琵琶湖沿岸や瀬戸内海沿岸へとフロンティアを求めていったイザナミ系倭種。
現地人との武力差が小さいので、防衛策を講じる必要があったわけです。
相互の同范銅鐸が多い、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・松帆銅鐸。
同時期に埋納されているのですから、
これらの同范銅鐸の分布を検討すると、
一世紀前半における、イザナミ系倭種のフロンティアが浮かび上がってくるわけです。 【加茂岩倉遺跡の同范銅鐸】
太田黒田鐸(和歌山県)
気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
辰馬419号鐸・川島神後鐸(徳島県)
下坂鐸・上屋敷鐸(鳥取県)
伝淡路鐸・松帆3号鐸(淡路島)
岐阜県鐸(岐阜県)
上牧鐸(奈良県)
伝陶器鐸(大阪府)
伝福井鐸(福井県)
桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
念仏塚鐸(岡山県)
【荒神谷遺跡の同范銅鐸】
伝徳島県出土鐸(徳島県)
松帆5号鐸(淡路島)
梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市) 北部九州から、イザナミ系倭種なので豊国から、
日本海沿岸と瀬戸内海沿岸の海沿いに東進していくイメージです。
そして領土を奪われていく側、仮に毛人とします。
毛人に残された土地を考えてみます。
まず、<兵庫県の内陸>ですね。
ここに毛人がいるので、それを取り囲むように銅鐸がある。
北: 気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
西: 念仏塚鐸(岡山県)
南: 桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
東: 梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市)
次に<大阪>です。
北: 伝陶器鐸(大阪府)
南: 太田黒田鐸(和歌山県)
東: 上牧鐸(奈良県)
(西は大阪湾、その先の淡路島や徳島などは銅鐸圏内)
銅鐸を配備しているので、倭種よりも毛人のほうが優勢だった可能性も高いです。
<兵庫県内陸>と<大阪>は分断されていなくて、毛人領土として連続していて、
倭種が点として入りこんでいた、という状況だったのではないでしょうか。
この後の時代に、銅戈が全力で大阪湾上陸作戦を行うわけですから。 次に徳島ですが、
既に和歌山や大阪に銅鐸が上陸していることから、
毛人が海を越えて集落してくることは考えにくく、
四国内陸に毛人がいるのか。
あるいは高地回りで中広型銅矛軍の分隊が攻めてくることがあったか。
面白いのは、東国ですね。
岐阜まで到達しています。
琵琶湖周囲には既に銅鐸は無く、
紀元前の下之郷遺跡で苦労して制圧して、
滋賀県は倭種の荘園となっていたわけです。 瀬戸内海において、平型銅剣が出土する範囲の、
やや外側に銅鐸が分布していますね。
これが平型銅剣女王国の東部境界です。
中広型銅矛王に征服されて、侏儒国と名付けられたわけですね。
九州説で神話と結びつけて考えてみます。
大巳貴は最初は八上姫と結婚したわけで、
むしろ、兄弟の攻撃から八上姫が守ってくれたわけです。
日本海沿岸はイザナギ天神族によって統一されていますから、
日本海沿岸へ逃げても兄弟は国内移動で簡単に追いついてくる。
だから、倭種が新規開発したばかりの瀬戸内海沿岸の平型銅剣女王国の奥、
紀伊(木伊、木国)へと
八上姫が匿ってくれたわけです。
となると、木国において大巳貴を保護したオオヤビコとは、
太田黒田遺跡の首長だったわけであり、
豊国イザナミ系の木材目的の開拓班長だったわけですね。
高床式倉庫の絵画などが出土していますね。 さらにその前。
稲羽の白ウサギ。
八上姫は稲羽=海の関所・鐘崎を保有する豊国イザナミ系女王。
一方で、岡田のワニ部族は八上姫と仲たがいしていたわけです。
豊国イザナミ系倭種は、神話にくどいほど繰り返されているように、
縄文時代からの「八」部族で、
山鹿貝塚のイザナミ共立女王のもとにまとまっていた。
八雷神→アマテラス誕生以降は8山津見ですね。
しかしこの時代になると、イザナギ系・アマテラスになびいて、
共立女王に従わない山津見も出始めていた、ということを示しています。
それがわかるのが、
荒神谷遺跡の銅鐸が6口しかない、ということです。
ワニ+1部族は、八上姫に従っていなかった、わけですね。
では、八上姫が何族なのかというと。
荒神谷遺跡の同范銅鐸の出土場所。
神話で八雷神に早くも登場する。
そして、要所要所の遺跡の名前に。 「倭女王卑弥呼考」・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>「日本書紀」の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、
>斯る類似は獨り神功皇后と卑彌呼とに限るべからず。
>苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。
>故に余輩は茲に「書紀」が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。
〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕
すでに明治時代において、卑弥呼≒神功皇后は妄想と断じられていたのに、
大正時代の笠井信也、戦後昭和のハルタダイロ狗、フルタタケヒ狗、ヤスモツ卑テンらが、
依然として仲哀天皇・神功皇后伝説の糸・怡土・伊都に縛られたままで論じてきたのは解せぬ。 卑弥呼≒神功皇后が妄想と言っているのではなくて、
「斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。」
から、書紀が卑弥呼≒神功皇后と断定しているのはおかしいということでしょう 仲哀って伊都と関係していたかな?
宮は香椎だし。
壇ノ浦は神功皇后が祭壇を作ったところだとか。 >>785
オレ理系の素人だから、
この件の「妄想」と「おかしさ」のちがいが良くわからん。今少し解説してくれ。 卑弥呼は高齢独身女性
神功皇后は既婚、子供が天皇
卑弥呼が神功皇后の晩年の姿>高齢寡婦としても無理がある
卑弥呼は人前に姿を現さない
神功皇后は陣頭に立って大活躍、各地に伝承残りまくり
記紀の作者が卑弥呼≒神功皇后をほのめかしているなどありえない 卑弥呼がいたのは高祖宮で
卑弥呼の墓は平原女王墓だよ 魏志倭人伝を読むうえで大事なことは
倭国と狗奴国が戦っている、ということ。
倭国とは本来の北部九州国家であり、訓読みで倭面土国。
狗奴国が反旗を翻して九州南部で頑張っているところに
張政らがやってきた状況。
倭国=完全体の姿=北部九州統一国家
女王国=邪馬台国=狗奴国のせいで不完全体=30国しかない
張政そして陳寿が女王国と言う時は、
後漢書などに書かれた本来の倭国ではない、
不完全体の邪馬台国(=倭国だが)だよ、ということ。
つまり女王国=卑弥呼時代の倭国 世有王
伊都に本来の倭国王=倭国が完全体だったら大王であるはずの存在
がいる
卑弥呼は女王国=狗奴国のせいで不完全体の倭国=邪馬台国
の女王←魏が勝手にそう言ってるだけで、
倭国内での序列がどうだったかはまた別の話
魏から見たら卑弥呼が全権代表だから世有王が統属されてるが
日本列島の権威序列は本音と建前が逆なのは歴史の通り
だから親魏倭国王じゃなくて親魏倭王 ふーん。
後漢書の大倭王は、邪馬台国と狗奴国をあわせた倭国全体を支配していたと解釈するのか。
一理ある。 8山津見のうち
八上姫に従う6山津見→中広型銅矛王に降伏
八上姫に逆らう2山津見→関係なし
6山津見→豊国領土喪失、琵琶湖沿岸と瀬戸内沿岸の大山祇(大倭)に再編
2山津見→豊国領土統一、大綿津見に再編
<大国主時代> 大山祇敗北
大山祇:瀬戸内沿岸に高地性集落建設して木材・炭供給、瀬戸内海運業(オオヤマト運輸)
大綿津見:豊国で優雅に暮らす
!那珂川土石流で大国主失脚→糸島平野高千穂宮へ遷都
<日向一代目> 大山祇勝利
ニニギ 外戚:柏崎遺跡=天神族+大山祇母 勢力範囲はオルドス式短剣分布範囲(お抱え工人)
ニギハヤヒ 外戚:九州妻&畿内妻=登美夜姫=唐古鍵首長の妹
畿内妻との子孫の勢力範囲は銅戈分布範囲(大阪湾〜朝日遺跡、筑後肥後、越後)
<日向二代目> 大綿津見勝利=大山祇失脚?
山幸彦 外戚:岡田宮を県庁所在地とする豊国支配者の大綿津見
広型銅矛
海幸彦 外戚? 広型銅矛?
大山祇系柏崎遺跡→桜馬場遺跡(広型銅矛=大綿津見)へ移動? 300年間、畿内説も北部九州説も、
仲哀天皇・神功皇后記のパクリで解釈してきたから解けなかったのだよ。
パクリ解釈だと、糸島が伊都国になるが、そもそもそれが迷宮の入り口。
末盧国・唐津からは、松浦川に沿ってさかのぼり、
脊振山系を南に迂回して、佐賀川上に伊都国、佐賀三根郡の目達原(吉野ヶ里一帯)に不彌国・・・、
そしてその南方に、投馬国(日向西都の都万)と邪馬台国(肥後熊本の邪馬嘉国)で、超カンタン解決。
何事によらず、最初の一歩、が最も肝心なのだよ。 自郡至女王國、萬二千餘里。
平壌-釜山 520km (狗邪韓国7000里・・・740m/里)
釜山-唐津 209km (渡る三海3000里・・・700m/里)
唐津-熊本市 155km(邪馬台国2000里・・・770m/里)
唐津-鹿児島 322km
唐津-宮崎市 336km
唐津-徳島市 536km
唐津-桜井市 716km 熊本では遠すぎる。
やはり熊本は狗奴国で、邪馬台国は福岡県だ。 >ワニ+1部族は、八上姫に従っていなかった
ふむ・・・戸明神社・・・天手力・天児屋根・・・ですかなあ・・・
天岩戸をこじあけて・・・ほんにご苦労なことですえ・・・ >>799
魏志倭人伝の記述から卑弥呼が伊都国にいて
邪馬壹國は北部九州に在ったことは間違いないが
その範囲はよく分からないな
熊本付近までが邪馬壹國の範囲内とするか熊本を狗奴国とするか
どの道、鹿児島、宮崎は狗奴国側だな。 畿内説のスレに書かれていたが、熊本は3世紀前半までは博多湾側と文化的に分断されているらしいから、やはり熊本は狗奴国だろう。
魏志倭人伝の記事も、邪馬台国側に大野城、基肄城があり、狗奴国側に菊池城があると読める。
これらは古代の三大城址なので、それが倭国大乱に起源を持つことになる。 到る○○国の前には、○乍ら△乍らが入る。「到る」狗邪韓国がそうだ。
「到る」伊都国の前にも、○乍ら△乍らが入る。
この場合は、唐津平野から(南して東して)500里で伊都国に「到る」という書き方だ。 >>802
三城とも、6-7世紀ころの朝鮮式山城だろ。
二世紀の倭国大乱や、三世紀の倭人伝とは程遠い存在。 白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に制服されて
九州各地の城塞が半島式になったのである 久々知城について、いわゆる「改修」以前のことはまったく不明 標高300〜400mの急峻な立地がものを言ったので、
改修したからといって、直ちに「朝鮮式山城【ちょうせんしきやまじろ】」になるわけではない。
>663年の白村江(はくそんこう)の敗戦後,朝鮮からの来襲をおそれた日本政権が国土防衛のため築造した山城。
>北九州から瀬戸内海沿岸の重要地点に,亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれた。
>筑紫国大野城・基肄(きい)城,対馬島金田城・讃岐国屋島城・大和国高安城などがある。
>多くは標高300〜400mの急峻な地形にある。稜線に沿って石塁または土塁を築き,>城内に倉庫群があり,谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴。 城の造り方が悪かったから百済は滅亡しちゃったんじゃないかなw 城の造り〜『松傾』・・・聖造の話?
建築とか城などの話ではない、
と言ってる人がいたよ、何なんだと思う 誰々の下で働いている〜〜、
そう思い込んでいるだけとかw 『松傾』・・・・が、
そこの家の何やらだと書いてあったりしない? 〜造る(作る)人々がいて・・・・
『松傾』が祭祀関係、みたいな事を言ってる人がいたり なぜか「>>さいきば、さいきば」
という謎のレスをしてきた人がいたりw
さかきばら(事件)・・・みたいな意味? 祭祀、斎祀?
数年前の畿内スレだったかな、
読んでいた人なら知っているはずなんだけどw
「さいきば、さいきば」
このような謎の書き込み(レス)をしている人がいたり、
さかきばら事件?みたいな事を言いたいのかな 実際に家も・・・・、
セメント?そういうところで仕事をしていた家ではないし
最近の話? それか・・・・同じ名前の家?なんだけど、
他の人物の話とか
家は山の上のほうに住んでいて・・・という話だし、
日本昔話みたいな・・・w 『日本昔話 姥清水』〜
このような事を言っているでしょ
『五穀豊穣』『身を清め』
??????????????? イザナギ、イザナミ・・・桃の話も出てくるでしょ、
『神仙界』
本当に????????????????みたいな話 『牛郎織女』
日本の神話と、本当に同じような話が出てきたり
『松傾』? 『狂った桃源郷』関係の話(曲)、
真のまがいもの〜と言っていたり、どういう事なんだろう
何かが入れ替わっている? 老婆も・・・、
むかーし泥棒のようなモノに入られたみたいな話をしていたり
とあるスレでも
「殺そうとしたんでしょ」
「殺したんでそ」という書き込みとか
『松傾』を殺した、
殺そうとしたみたいな話?何なんだろう 老婆談というのも・・・、
ほとんど『松傾』の家の話
それとも『松傾』の親戚の話?
蚕を飼い、機織りなんかをしていた家で・・・、
泥棒のようなものに入られ〜
ねつ造、嘘の話? 大野城、基肄城、水城は、大宰府を囲む大宰府羅城の一部であることがわかってきた。
山城だという定義そのものを改めなくてはいけないかもしれない。 斎祀=アッシュ・・・・?
ポケモソの主人公の英語名じゃなかった? >>826
朝鮮式山城って高句麗のは有名だけど
百済や新羅も同じ様な山城があるのかな。 シンクロ現象?何なんだろう
wikiで良いから読んでみて『アッシュ・クリムゾン』
ほとんど合致しているような気がしたり 扶余羅城は平壌羅城と共に朝鮮半島で最古の羅城跡に挙げられる。
百済が熊津(ウンジン)(現在の公州)から泗ビに首都を移した538年前後に積んだ外郭城で、今年まで計4回の発掘調査を経て実体があらわれた。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26088.html
より
これまで日本には、都市を長大な城壁で囲む羅城は知られていなかったが、近年では大宰府羅城が知られている。
百済の王都と同じく、倭の王都も羅城を持っていたことになる。 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201711_08
大野城の南裾には九州を統括した官衙かんが大宰府(特別史跡大宰府跡)があり、その6キロメートルほど南には基肄城きいじょう(特別史跡基肄城跡)がある。
北西裾には山続きで水城(特別史跡水城跡)が長さ1.2キロメートルの土築の城壁となり福岡平野と筑後平野をつなぐ太宰府地狭帯の北側を塞いでいる。
この地狭帯の南側の口にあたる基肄城南東裾では水城と類似した構造を持つ関屋土塁があったが、
近年、筑紫野市前畑遺跡で古代の特徴を持つ土塁が丘陵上で発見され、
北に大野城をいただく構図で全周約50キロメートル規模の「大宰府羅城」とされる、都市大宰府の外郭が構えられた蓋然性が高いことが指摘されている。
この形状は滅亡した百済の最後の首都であった泗さびと同様であり、大野城や基肄城のみならず羅城プラン全体が百済式の都城の系譜をひくものとして注目され、
そのことは大宰府そのものが東アジアの時代の潮流の中で生まれたことを物語っている。 九州上陸から二千里(短里)、帯方郡から一万二千里の倭国の王都。
それが大宰府。 740年に藤原広嗣が大宰府で挙兵したが、
城郭が特に役に立ってるふうでもない 都は平城京に遷都されたから、荒れていたんだろう。
それでも、挙兵にあたり拠点にするくらいには権威があったわけだ。
平家も大宰府を目指して征西したんだろうな。 国が滅んで無職になった口八丁百済人が
倭国内での地位確保のために実戦では役にも立たない城郭造りを上申したんだろう
肝心の海岸線が元寇が来るまで無防備だから
どっちかというとヤマト王権が中央集権化を進めるのに役に立ったじゃないか 唐は結局、半島・列島の主要国をすべて滅ぼしてしまう。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度である。
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
新羅には鶏林州都督府
高句麗には安東都護府 滅亡前の百済もサビ羅城を建設していたのだから、実際には白村江より前に大宰府羅城は建設していただろうね。
白村江の後にはもう唐からのGHQもどきが都督府に駐留しているわけだし、それから羅城を建設する意味がない。 荒れるもなにも、太宰府には古代の都と呼べるレベルの痕跡はないし 大宰府は遠の朝廷(とおのみかど)だよ。
古の倭国の王都ということだ。 大宰府の前はもっと博多湾に近い伊都が王都だったのだろうね。
その前は早良が王都だったのだろう。 遠の朝廷
都から遠く離れた地方にある政庁。陸奥?(むつ)?の鎮守府や諸国の国衙?(こくが)?などをさす。
万葉集では大宰府や官家(朝鮮半島南部に置いた官府)についてもこの名称を使っている。 唐は結局、新羅以外の半島・列島の主要国をすべて滅ぼしてしまう。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度である。
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
高句麗には安東都護府
被制服地にはこれらがおかれた
なお形だけ服属した新羅には、鶏林州都督府が書類上設置されている
大和は九州倭国の政治的権限を何一つとして継承していない 問題は、いつの時点で伊都から大宰府に遷都したかだが、個人的には狗奴国を統合した壹與の時代ではないかと思う。
だから魏志倭人伝の時点ではすでに倭の王都まで一万二千里で良くなっていたが、中国側に詳細な情報が来ていなかったのだろう。
だから、伊都国までは一万五百里で終わってしまう。 比恵遺跡で6世紀後半から7世紀後半の時期の
多数の倉庫跡が発見されてるから現在の大宰府に移ったのはその後だろ 朝鮮式山城があるから九州北部は百済人の国家って言ってるアホって横須賀はフランス人建築家による建造物が非常に多いからフランス人の国家だったとか言うのかな? つか、朝鮮式山城と神籠石って、記録の有無以外の違いはないんだよな 屯倉が防衛ラインの外にあったら全部取られちゃうだろ >>853
どこにそんな記録があるんだって何度言えば証拠を見せてくれるんだよウソツキw 九州北部のあちこちに屯倉があったんだよ。
その頃は、大宰府が攻め込まれる危機が訪れるとは考えていなかっただろうけど。
あと、大宰府に来たのは唐人と百済人だよ。 >>858
>今の大宰府には7世紀以前の遺構はない
白村江の敗戦以降だろう。 @阿波 大宰府を囲む羅城の一部である水城の炭素年代測定は、240年、430年、660年となっている。
最初の建造は卑弥呼の時代、最後は白村江の直前となる。 水城に使用した加工痕が多数ある転用材の木樋の年代だろ
いいかげん覚えろ爺 >>838
>新羅には鶏林州都督府
唐は新羅を滅ぼしてないけど都督府が置かれてるね
倭も滅ぼされてはいないよ。 日本名の大宰は周礼では百官の長だから都督府は唐名なんだよ 白村江敗戦後に防御し易い今の地に大宰府を建造して屯倉を移したんだな >>862
新羅の場合は新羅王が都督に冊封された。
しかし、倭の場合は倭王が都督に任じられていない。 >>862
>唐は新羅を滅ぼしてないけど都督府が置かれてるね
>倭も滅ぼされてはいないよ。
形だけ服属した新羅には、鶏林州都督府が書類上設置されている
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
高句麗には安東都護府
他の被制服地にはこれらがおかれた >>870
これ
ビビって唐風の名前をつけて阿っただけ
そもそも唐軍も新羅軍も海を渡った記録がない=筑紫島には来ていない 九州王朝脳にかかれば水戸黄門も中国人か中国の官位を受けた人になるんだろうな 郭務悰は大宰府まで手土産持ってちょっと様子を見に来ただけだな
劉徳高が正式な使者 ということで、白村江の後は、もはや戦ってどうこうする段階ではなく、敗戦処理の段階。
カクムソウは何度か来訪し、抑留されていた捕虜の返還をしたりしている。 百済の戦後処理だろ
劉徳高が来日したときは高句麗と交戦中で
郭務悰が捕虜返還に来たときは新羅と交戦中で唐軍が負けてるし 捕虜返還は立派な戦後処理だろ。
唐側の事情の有無は知ったことではない。 伊都国と関連の深い三雲南小路遺跡と細石神社、そして神社が保管していたという金印「漢委奴国王」に関しての話題を始めたい。 高祖神社とゆかりのある細石神社が消失し、再建も叶わぬまま没落してしまったのは何故なのか? ここは邪馬台国のスレです。
大宰府のスレでも白村江のスレでも細石神社のスレでもありません。 >>882
白村江は専スレもあるからスレチ認定でも良いが、大宰府は邪馬台国の外交機関という側面を否定できないし、細石神社の御神体と思われる三雲南小路の王墓跡は伊都国の案件 >>882
ここは邪馬台国のスレじゃなく(伊都国を王都と考えた)邪馬壹國のスレな 九州上陸から二千里(短里)、帯方郡から一万二千里の倭国の王都。
それが大宰府。 >>886
うめぇよな
対して櫛田神社の松ケ枝餅はクソまじぃ 倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
しかし上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。
ここを、前例に倣って(省略せず、正しく)読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、という書き方だ。 >>881
個人的に気になるのは、神社の境内(社殿の後方70m)の土を土塀の材料にと掘り出してること
三苫清四郎はキチガイだったのか? 細石神社(佐々禮石社)の来歴
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり
天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社 >>891
何度も断絶してるんじゃないか?
天正年間に消失しても再建できなかったって時点でほとんど力がなかったってことだろ
寛永年間に流鏑馬したのは神社再興すれば神田に戻って年貢逃れできるとの目論みだったけど頓挫
元禄16年には実在してたようだが、その8年前の御縁起は細石神社と名称の混乱が見える
文政12年に奉納されたツクバイは三雲南小路遺跡の発見で、ここに神社があった記憶が蘇り再建したと取るのが自然な気がする 秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう >>894
>秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう
一方、徳川幕府は阿波が天皇陵と関係があると判断していたがね。 @阿波 土佐(後に阿波)に流された土御門天皇の墓のことじゃね? 【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>899
>宮内庁が参考地に指定してないから結局違ったんだな
指定したら大変な事になるでしょ。 今までの諸常識が崩壊するから。 @阿波 なんでも鑑定団に持ってきたら千円の壺だったみたいなことだな 二年くらい前の確か秋くらいな記憶あるけど
TVで四国説みて作品のネタにしようかなと思って四国スレに質問書き込んでたけど
こっちの伊都国スレのレベルの高さにビビって取りやめた思い出 >>904
武器時計力が全ての時代だったからな
ぶっちゃけ相当に怖かったと思うw 中立的な立場から、邪馬壹国九州説の人に質問がある
倭国大乱によって邪馬壹国を中心とする倭国連合が北九州に成立したとして、考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
また大和の勢力形成に吉備(つまり東部瀬戸内勢力)まで関わったいるのもほぼ確実(弧文円板や特殊器台から)
九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
もう一つ
卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか 邪馬壹国という名前を使うのは古田氏とその支持者だけなので、ほぼ九州王朝説の人だよな
九州王朝説では壬申の乱までが九州王朝で、壬申の乱によってヤマトに交替したとか言ってるから、それ以前の記録は基本的に九州の出来事を記してると認定してるんじゃなかったかな
このあたりの与太話を言いだしたあたりになると古田氏の説ってgdgdだった気がする、すでに馬脚を現しきってたのではないかと >>907
>考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
これは願望が先に出て目が曇ってますよ見直しが必要でしょうね。
>それともほぼ無関係の動きと考えているのか
当然です。 >>907
>九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
九州の騒乱で失脚した天孫族の東征が、本州の西日本にも影響した可能性はある。
>卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか
おそらく関係しない。
ちなみに上のレスとは別人です。 >>909
>これは願望が先に出て目が曇ってますよ
いや、纒向石塚古墳が造られたのは遅く見積もっても3世紀前半になるが 九州王朝説は、フルタのニッチねらい、与太話。
いまさら、言うほどのことではない。 ろくな根拠も示さずに理化学年代を全否定するデムパ集団だしな、与太話としてしか通用しないのが現状。傾聴に値する話はほとんど無くなった。 >>911
今どき巻向どうのって言ってるのは関西の自称研究者だけだぞ。みっともない。 >>913
そもそも理化学的に畿内説を説明できてるやつを見たことがない >>910
なるほど
確かに、纒向型前方後円墳の前身の可能性もある吉備の楯築墳丘墓も、実は吉備であれほどの規模の墳丘墓が形成されるのは唐突だったりするからな
そう考えると、北九州の争乱を逃れた何らかの勢力が吉備→大和と東征したと考えるのには一定の説得力はある そもそも邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。
このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。
邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、在大阪朝鮮人による民族的願望から発生したファンタジー 邪馬台国畿内説などというものは平然とデータの改竄を行うことを前提としたトンデモ説であり、学説と呼ぶのが痴がましい下劣ものであります。
大前提として魏志倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるわけですが、この大前提を無視して「東、邪馬台国に至る」と、方向も国名も好き勝手に改竄するところからスタートしているのが邪馬台国畿内説なのであります。
これと同じような下劣な行いを理系の研究論文で行おうものなら、立ちどころにレッドカード(退場)となることはお分かりいただけるでしょう。
それ以前に、論文掲載を拒否され、二度と学者としての振る舞うことは許されなくなることでしょう。
この一点だけでも、邪馬台国畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白なのであります。 纒向の「ま」の字を見たとたんに、ヒステリーになったのかしょうむない煽りをする人がいたのは非常に残念だったが、九州説の人から別勢力の東征説を聞き出せたのは良かったよ
魏志や後漢書から分かる倭国大乱の時期は2世紀後半なので、邪馬台国と別の東征勢力が九州から逃れて吉備→大和と拠点を移したとしても楯築墳丘墓や纒向型前方後円墳の年代比定に大きな矛盾は無い 箸墓古墳を卑弥呼の墓と想定するのは無理がある。
魏書に於いては一貫して短里が用いられているのだから、1里=300歩、100歩は25.3m、百余歩は30m程度ということになる。
箸墓古墳は、墳長が約278m、後円部の直径が約150mであり、百余歩よりも桁違いに大きい。
畿内説信者は苦し紛れに「当初は円墳として築造され、前方は後年増築された」と言い出したが、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏らによって完全に否定されている。
また三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。
周礼には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことになる。
一丈の長さは時代によって2-3mの間で変化するが、8-12mを超えれば間違いなく墳である。
箸墓古墳は高さ30mもあるので、魏使が見たら「大いに塚を作る」ではなく「大いに墳を作る」と書いていなければ辻褄が合わない。 >>919
続き
畿内説は纒向遺跡形成に関わった勢力の広範囲性(吉備の影響が強く、出雲や伊勢東海圏も関与)を根拠にして、当たり前のように筑紫・吉備・出雲・東海を含んだ大規模連合が形成されたかのように言うが、実は肝心の筑紫が纒向形成に関与していたという根拠が希薄なんだよね
つまり、伊都国や奴国が当時において大和連合に加わっていた証拠が無い
大和連合が広範囲"にも関わらず"筑紫勢力の関与が薄いことは、邪馬台国=畿内説最大の弱点なんだよね
北九州の亡命勢力が吉備に迎え入れられて、さらに東征して大和に本拠を移したという可能性は、記紀の東征神話(史実を反映している可能性はある)や弥生後期までの北九州の他地域に対する政治的・文化的優位性からはあり得ない話ではない
何も纒向遺跡の考古学的年代比定を頭ごなしに否定せずとも、邪馬台国(邪馬壹国)=九州説が崩壊するものではないし、まだまだある程度の理はあると思うけどね 実在しない短里を、あたかも事実であるかのように強弁するのも九州王朝信者の病弊の1つ。 九州王朝説は、フルタのニッチねらいの与太話。
もう、消え失せたたおとぎ話さ。 全く証拠を出さなくなった九州説が学説として終わってる、という現実を思い知らされるスレ >>922
アホなのか?短里認めないと沖縄方面行っちゃうぞ A: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方
B: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
上のABは同じ構文であるが、「之」があるので、
Aでは、平を「・・を平らぐる」と他動詞読みすること明らか。・・・宣帝、これ公孫氏を平らぐる也
Bにおいても、極は「・・を極むる」と他動詞読みすること当然である。・・・倭国、これ南界を極むる也
つまり、「奴国は、倭の極南界であった」などとはワラワラ で、南界を極むる、と、極南界であった、とどう違うの? >>921
理解してくれてありがとう。
卑弥呼が記紀に登場しない理由も説明できるし、在位年数から考えて神武が卑弥呼に近い年代でもいいことになる。 >>927
おんや、ちがいがお分かりになりませぬか。
こりゃ、重症ですな。 「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 一大卒が北九州にいたなら、首都は北九州から離れた場所なのでは? >>925
記事がすべて正しいと想定するから海の果てに到着しちゃうだけだ
実際には記事内に多くの間違いが含まれているから問題ない。記事の本文では到着不可能で所在地を探し当てることができないと、いい加減に認めるべき >>936
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ いや、民族願望はお前さんだろ
戦闘民族・北九州人? 魏志倭人伝や記紀を読めば、当時の倭人は戦闘民族のように思えるよ。
ユートピアお花畑の奈良盆地はただのど田舎。 >>938
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ(本日二度目) 倭奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国これ南界を極むる。光武帝は印綬を賜った。 >>939 どこが戦闘民族なん? むしろ平和民族だけど?
三国志 魏書三十 東夷伝 韓伝(主に馬韓=後の百済)
其衣有上無下 略如裸勢
上着だけ身にまとい下半身は丸出しで裸同然。←土人の証拠
其俗好衣帽 下戸詣郡朝謁皆假衣帽 自服印綬衣帽千有餘人
衣頭巾を好み、朝謁にあたって帯方郡から借りるも、印綬や衣頭巾を自作する者1,000人以上。←パクりの起源
其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 不知乗牛馬 牛馬盡 於送死
規律が少なく、統治者はいるが法はないので統率が取れない。 牛馬に乗ることも出来ず、死ぬまで酷使する。←無法地帯の証拠
居處作草屋土室 形如家 其戸在上擧家共在中 無長幼男女之別 其葬有棺無槨.
入り口が上にある塚を掘っただけの家とは言えない穴に草の蓋をしただけの住居に老若男女入り乱れて住む。 埋葬は棺がなく地面の槨に収める。←未開の証拠
其遠處直如囚徒奴婢相聚 無他珍寶 禽獸草木略與中國同
囚人や奴隷のごとく礼俗をわきまえない。 また宝と言えるものが一切ない。 なお動植物は中国と同じ。←奴隷根性の証拠
三国志 魏書三十 東夷伝 倭人条
男子皆露? 以木緜頭 其衣幅 但結束相連 略無縫
男子は皆髷をし、木綿布を頭に巻いている。 衣服は幅広い布を結び合わおり、縫われていない。←髪の服もきちんとしてる証拠
婦人被髪屈 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
婦人は髪に被り物をし、後ろで束ねており、衣服は単衣のように作られた貫頭衣である。←女でも髪の服もきちんとしてる証拠
不?忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族
盗みはなく争いもない。 法を犯すと軽いものは妻子を没収し、重い者は家族を皆殺しにする。←法治国家の証拠
有屋室 父母兄弟臥息異處 其死 有棺無槨 封土作冢
家には部屋があり、家族の寝室が別にある。 人が死ぬと槨のない塚に棺を納める。←高文化の証拠
其風俗不淫 婦人不淫
その風俗は淫らではない。 女は慎み深く嫉妬しない。←高民度の証拠 魏志倭人伝の、倭国の風土関連記事は儒教経典(経書)を元にした創作譚が過半を占めてるから実録じゃない ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ;
ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛;
:ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ;
"ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ;
;;;;;; ; ;ゞ;;ノ;ノ″ ` `
:;;; ;;;;.....:::::/ `
/'´`i´ `ヽ| ` `
: !リ`´リ从:| ` ` `
:!!-ω-ノリ:|
;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に
::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。
:..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇
'´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」)
j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!|
iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪
iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,.,
'''''ヽ_つ-つ'''''
,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ
<;l|l;`田´>;
(6 9 もうバレてるニダか・・・
ム__〉__〉 >>935、>>942
そうだね
主語は倭の奴国で、・・・南界を極むる、だね >>952
そうか、分割してすまんかった。
それで倭奴国と、倭の奴の国とはどう違うのかい。正直良くわからんのだ。 なるほど
委国が伊都国になって、奴国は博多の那国になったというわけか。良く勉強しておこう。 金印スレからの引用だけど
> 中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。
> とは言えイデオロギー論争はそうであっても、
> 中国の古代の印章のなかに
> 「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を一つも見いだし得ない。
> 委奴国王は「委(の)奴国(の)王」ではなく「委奴国(の)王」である。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/488 良くわからんな
倭は倭人という民族名でなく、
その後に倭国と出てくるその国名ではないのかな?? 金印に彫られてる「委奴国」のことを倭奴国と言ってるんだよな?
だとしたら一度も実例がないんだから倭の奴国、つまり倭国の中の奴国という解釈はあり得ないので実例通り倭奴国と読もうぜって話でしょ >>959
金印に彫られている文字のことではない
先ほど来、話題にしているのは、下の文章の「倭奴国」のことだけどな
「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 >>960
それにしても倭の中の奴国って読むのは筋違いだと思うよ
東夷伝の中にそういう読み方する国が他に一つもないんだから >>961
委奴国、或は倭奴国の名称それ自体はそれでいいんだけど、
その後に出てくる「倭国」とは何者なのか、
それとの整合性もつけなくてはならぬなぁ。この倭国はどこにあって、どの範囲たのかい。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢の頃の倭国は対馬海峡と筑前だけだね。
卑弥呼の頃には筑後、肥前は含まれたかもしれない。
肥後は狗奴国かな。 >>967
そういうこと。
「倭奴国は倭国の南界・・・」だから、倭国>倭奴国と読めるんだけどねえ。
そして、
>後漢書における邪馬台国までの里程
>大倭王は邪馬台国にいる
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
だから、後漢書時代の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?。
(また同様に、三世紀の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?) >>948
中国古代思想史および中国古代思想の専門家である渡辺センセの論考
それぞれの要素がどの本のどの文章に由来するかを明示してある
あと、三国時代の思想系譜やら魏晋朝の政治派閥の関係、立ち位置も示してる
三国志は政治的中立ではないとな 三国志は政治とは無縁の陳寿が個人の趣味で完成させたからこそ価値が高いとして正史扱いになったんだろ? >>970
その通り。 三国志は陳寿の私撰であって政治色はない。
自身が蜀出身だったので若干の贔屓は感じられるものの魏書・呉書・蜀書をバランス良く書いてあったので成立の400年後に唐の第二代皇帝 太宗が正史と認定した。
また内容の正確さと密度が高かったため夏侯湛は筆を置いてしまい、夏侯版魏書は未完となった。 陳寿がそもそも派閥抗争の真っ只中にいたし、
陳寿を庇護していた上司は陳寿の学閥の師匠筋の人間を求めて雇用してるっぽく >>972
それだと一般に知られてる>>971の情報と真逆なんだけど、何かそれを裏付けるソースある? 陳寿が招聘された頃、晋では征呉論争があった
貴族の大半が和平派で、陳寿を招聘(というか、晋朝に推挙)した張華のほかでは羊?と杜預ぐらいしか征呉賛成者がいない中で征呉を強行したことで派閥争いになったっぽい
その影響か、張華は敵の多い人だったようだ
少しのち、魏志の記述の一部への反感から陳寿を左遷する動きがあって、青島近辺にあった長広郡の太守としてとばされそうになった際には上記の杜預の推薦で治書侍御史に任命されてるように、
間違いなく派閥人事の影響を受けている。
もちろん、左遷を求めたのは征呉反対派だった人物(荀勗)だ。 >>976
それと>>972の内容は違うんでない? (1)
国内最古のすずり、福岡・佐賀の遺跡で 倭人が製作か
https://www.asahi.com/articles/ASM2M56RLM2MTIPE01H.html
>(紀元前100年ごろ)の石製すずりの未製品など
(2)
サイエンスZERO 「弥生人DNAで迫る日本人の起源」2018年12月23日放映
ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
朝鮮半島から渡って来た「渡来人」の正体は「出戻り縄文人」
(3)
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA07_480P.jpg
DNAによると、
福岡の弥生人=現代日本人
長崎の弥生人でも、岩手の弥生人でもなく、福岡の弥生人が現代人のルーツ
当然、畿内大和政権=福岡の弥生人 スレ全く読んでないけど
複数の最新研究>>981により、現代日本人=伊都国や奴国の子孫
仮に邪馬台国時代、畿内に大政権があったとしても、
(1)その政権も福岡の弥生人の東遷
(2)もし福岡の弥生人と違う場合、現代へは子孫を残せていない
2は考えにくいので、1であろう でも九州が卓越してたのは紀元前だけで、1世紀ごろから凋落して他の有力ないくつかの地方と互角にまで持ち込まれてるから、倭国大乱の前の時点でも主役を張れる力はない >>981
俺が想像してたのと殆ど一致してるな
驚いた
投馬国(任那)が滅んで朝鮮半島の倭人が日本に引く上げて来たんだ。 訂正
投馬国(任那)が滅んで朝鮮半島の倭人が日本に引き上げて来たんだ。 >>981、>>986
>(2)
>サイエンスZERO 「弥生人DNAで迫る日本人の起源」2018年12月23日放映
>ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
>http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
>朝鮮半島から渡って来た「渡来人」の正体は「出戻り縄文人」
やはり投馬国は朝鮮半島南岸でよかったでしょ。 >>988
朝鮮人が南下してくる前に倭人の国が朝鮮半島に在ったってことだろ
つまりそこが投馬国であり、後の任那。
任那が滅亡して住んでた倭人が日本に引き上げて来たのが渡来人。 >>989
任那、伽?は当時の狗邪韓国
魏志倭人伝を素直に読めば投馬国は半島に存在し得ない >>983
その場合、神武の東征や、それより先に移っていたニギハヤヒなどは
邪馬台国より前の時代ということか >>991
やっぱこれだよな。
当時は多数の倭人が半島にいた訳だし、新羅=倭種と考えれば大量の移民を受け入れた理由も十分に理解できる。 >>993
そりゃ、万世一系・近畿王国の発想だ。
当時の人たちからすれば、どっちが本国だったか、分からない状態。 後漢書や魏志倭人伝からは、九州北部の倭奴国が本国に読める。 福岡付近から倭人が全国に拡散したとすると、その時期は何時か?
朝鮮半島の倭人が九州に引き上げて来た後の時代となる
任那の滅亡は日本書紀によると663年であるが
中国資料では525年前後には既に存在していない
478年に宋朝の順帝は、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けた
実際には500年頃に任那は滅亡していた可能性が高く
朝鮮半島の倭人が九州に引き上げて来て現在の日本人が完成したのがこの頃で
神武の東征もこの直後だと推定される。 後漢書や魏志倭人伝を書いた人の本国は中国で、
博多那の津は「奴国=奴婢の国」扱いだった。 弥生時代以降、数次にわたり波状的に別の氏族が福岡を起点に拡散したんだろう。
また、次々に新しい氏族が博多湾に流入した形跡もある。
倭国大乱も含め、激しい政争の中心地であり続けたのだろう。 遺跡の人骨の特性の研究が進むと何時現代日本人が九州から拡散したか究明されるな
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