邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>691
魏略は使った字が違うだけで倭人伝の焼き増しだよ。
対馬の方可4百里は、西岸からしか見ていない。
釜山⇔壱岐に向かう場合、対馬の長辺が海岸水行の千里有る。
これは、使っていない。
狗邪韓國は弁辰狗邪と見るべきで、東行3千里も東岸には届かない。
投馬国は謎の倭人域であるが、この時魏は、辰韓と弁韓の雑居を把握していない。
韓伝の記述は246年の臣智を置いた以降である。
魏は、邪馬台国外交が終わる247年、この後も、弁韓、倭人域は未知なのである。
240年が梯儁だが、魏船は黄海を渡る帆船であって、
対馬から壱岐を経由せずに博多湾に入った可能性も高い。
半島西岸から済州島なら、対馬が要らない。
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、自郡至女王國 萬二千餘里 である。 九州王さんがいつも書いているように、
筑紫の日向=(魏代)伊都国
三雲南小路遺跡1号墓被葬者=ニニギ
平原遺跡1号墓被葬者=卑弥呼
なのであれば、
座標点が固定されるので、
あとは説ではなく、方程式のように解読されていくわけです。
倭国乱が146-189に納まりますから、
男王70-80年から逆算して、
三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
記紀から、ニニギは高天ヶ原から降臨する。
その途上で、猿田彦と出会うわけですが、
猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
つまり早良平野と福岡平野なのだろう、ということになります。 >>695
> 九州王さんがいつも書いている
何の話をしているんだお前は??? >>695
>倭国乱が146-189に納まりますから、
>三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
>ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
ムムム
倭奴国王は伊都国王ではない可能性についての具体的な反証は初めて読みましたが、一理ありますね。
>猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
記紀の「照らす」は支配することと解釈していますが、猿田彦は博多湾で陸海を支配していたようです。
ただ、高天原はあくまでも天照が照らしているわけです。
>高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
豊葦原那珂津国は良い読み方ですね。
福岡平野の繁栄ぶりを伝える言葉なのでしょう。
葦とは稲穂のことだそうです。
稲作先進地域である博多湾沿岸の呼称として相応しい。
あと、九州王さんとは別人です。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 委奴国王についてはこれも過去スレで検討しましたが、
中広型銅矛王として、平型銅剣女王を滅ぼすわけですね。
弥生時代のメインプレイヤーを考えると、
壱岐対馬唐津からの天神男系イザナギ。
遠賀川発祥の豊国女系イザナミ。
天神イザナギが、福岡市土着の古来勢力に阻まれている間に、
イザナミ系が一気に日本全国に稲作をもって拡散します。
イザナミ系は、
北部九州の豊国領域に、祖である八雷神8部族。
本州日本海沿岸に、八岐大蛇部族。
福岡市で壱岐対馬と遮断された状況では、八岐大蛇が最大勢力だったわけです。
イザナギとイザナミが婚姻を結んで、福岡市を挟撃して筑紫統一。
吉武高木王=アマテラスが誕生し、
東征将軍スサノオが八岐大蛇を下し、日本海沿岸を統一して、
丹後に扇谷遺跡が建設されます。 敗北した八岐大蛇が虐殺された遺構は有りません。
アマテラスの支配下に入ったことになります。
豊国の八雷神→8山津見と、八岐大蛇は、共にイザナミ女系なので、
支配者と被支配者の関係になりにくいわけです。
一方のイザナギ系は男系なので、
イザナギ系の王族男子が、八岐大蛇の女首長に子供を産ませ、
その息子が支配者として君臨する、という支配体制が
円滑に進んだことでしょう。
よって、日本海沿岸の支配権はイザナギ系によって占められることになり、
大山祇の女性指導者は、
琵琶湖や、瀬戸内海に進出することになります。
後に銅矛銅剣戦争で負けた銅剣女王国の、開拓最前線が、
荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸の分布域となります。 >>699
そういや最近どこかのスレで三雲南小路と金印を無理やり繋げようと躍起になってた阿呆がいたな 八上姫=豊国女王が、大国主との子供に国を継がせることを拒んだので、
大国主は天神族と組んで、スサノオ将軍職について、
銅矛銅剣戦争を開始します。
しかし、大国主は自分の手勢も欲しい。
そこで目をつけたのが、
イザナギ、豊国(八雷神→大山祇)、本州日本海沿岸(八岐大蛇)の、
八岐大蛇族ですね。
沼河比売を口説いてタケミナカタを産ませて、
上手く越国を乗っ取ったわけです。
八岐大蛇族の指導権を乗っ取った方法は、八雷神への復讐心を煽ったわけですね。
八雷神+イザナギが八岐大蛇を負かした恨みを利用して、
八岐大蛇をタケミナカタに率いさせて、
瀬戸内銅剣女王国を攻めさせたわけです。
紀元前に、イザナギ(スサノオ)+八雷神 vs 八岐大蛇
一世紀前半に、イザナギ(アマテラス)+大国主(スサノオ)+八岐大蛇(タケミナカタ) vs 八雷神(大山祇)
一世紀後半に、イザナギ(ニニギ)+饒速日(スサノオ)+八雷神(建御雷神)vs 大国主+八岐大蛇(タケミナカタ) 個人的には、須玖岡本は将軍クラスということで猿田彦を推します。
春日市には猿田彦を祀る塚が多いですし。
イザナミ国津神の女系氏族とイザナギ天津神の男系氏族なら、うまくやっていけるのでしょうね。
ニニギと木花咲耶姫、ヒコホホデミと豊玉姫、ウガヤフキアエズと玉依姫らの日向三代も、同じ天津神と国津神の夫婦ですね。
ニニギの父であるオシホミミの妃であった豊秋津師姫も、名前から考えるに博多の姫でしょうね。
その父は高木神、兄はオモイカネだそうです。
高木神は福岡平野の最も古い王の一人なのでしょう。 遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
北部九州の八雷神→8山津見
本州日本海沿岸の八岐大蛇
どちらもイザナギ男系と婚姻を重ねていきます。
そこに割り込んだのが、委奴国王=中広型銅矛王ですね。
銅矛銅剣戦争で大山祇女王の八上姫を降伏させて、
関連集落の女系指導者を後宮に集め、
最終的にはなんと181柱の子孫を産ませます。
降伏した集落の分布域は、荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸が最大域。
1世紀前半に早くも畿内、そして岐阜まで達しています。
雀居の縄文系女性は客死した地方女指導者でしょう。
雀居からは、1世紀の長文=後漢との外交文書 を作成した机が出土しています。
つまり、委奴国王の元に集められた女性指導者が産んだ息子達は、
委奴国王の元で「文字」を習い、
各地へ指導者として戻っていった。
卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族 >>706
>遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
もともと豊国が博多湾沿岸および志賀島の国津神勢力で、天津神の勢力拡大により東に圧迫され、遠賀川から、律令時代には大分県まで押されていったのでしょう。
発祥の地というなら、志賀島の綿津見神社でいいかと。
その両親イザナギイザナミは能古島で婚姻していますし。
>卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族
まさしくツクヨミですね。 標高の高い早良が高天原。
高木神とは、早良の吉武高木宮殿で政治を決めていた支配者達のことでしょう。
天神族の中にもしがらみがあり、
アマテラスをトップとしながらも、合議制を取っていたわけです。
しかし委奴国王はしがらみがないので、
天神族間の競争を利用して、一気にのし上がった。
ニニギがコノハナサクヤの不義を疑ったことから、
天神族ですら委奴国王の後宮に出していたことがわかります。
しかし、いくら頑張っても、天神族でない委奴国王はスサノオ止まりで
アマテラスにはなれない。
だから漢から金印を貰った。
しかし金印を貰うために木材を大量伐採して施設整備をせざるを得なく、
環境破壊による那珂川の氾濫、土石流、疫病の発生、によって、
一夜にして失脚したわけです。
委奴国王の一件を教訓にして、
天神族は結束し、
オシホミミ一族を大王に、
西の糸島平野に人口制限のある新首都=魏代伊都、を建設したわけです。 委奴国王が失脚して、奴族はちりぢりに逃げ惑います。
タケミナカタが
本拠の越後。
海を迂回しなければならない長崎。
まだ広島平野のない安芸の奥の中国山地内。
などで抗戦します。
饒速日(銅戈スサノオ)
+恨みを喰らった恨みを返そうとする八雷神(建御雷神)
は、まずは大阪湾を攻略します。
八雷神の荘園である瀬戸内海沿岸ではなく、
大阪湾に高地性集落を建設して木材供給源にするためです。
大阪湾占領が完了してから、
いよいよタケミナカタを攻め立てるわけですね。
銅戈の出土分布がそれです。 卑奴母離がなぜ倭人伝で残っているか。
一つは、半分は委奴国王の血ですが、もう半分はそれぞれの地域の女王の血だからです。
女王の血を引いていて、しかも優秀で容姿端麗なわけですね。
もう一つが、「文字」スキルですね。
邪馬台国では租税を徴収していたとあります。
戸数が把握されています。
これらの官僚的支配は、「文字」スキルが必須であり、
卑奴母離たちは、「文字」スキルを持つ官僚として、
天神族に恭順することで、副として身分保障してもらえたわけです。
ちなみに、
『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其余旁國遠絶 不可得詳』
とは、
女王國=邪馬台国ですから、
列挙された20国は、其戸数道里可得略載です。
単に字数の関係でいちいち書いてないだけで、陳寿の手元には戸数データはあったわけです。
総計7万戸だけ記載したわけですね。
道里は、周旋五千里ですね。
だいたい狗邪韓國から五千里で到達できる範囲にあるよ、
というのが道里可得略載ですね。
其余旁國遠絶とは、不属女王の狗奴国とか、東の倭種の国とかのことです。 多少、ドラマ仕立てが強すぎませんかな?
記紀の隙間を埋めるのはいいですが、盛りすぎてもダメ。
高木神は吉武高木の倭王でしょうが、記紀の視点が当時は傍系だった皇孫である天津神に置かれています。
ではアマテラスはどこにいたのかといえば、海を照らすという語義からは、海上のどこかでなければならない。
対馬海峡を卑奴母離(月詠)の地だとするならば、やはり沖ノ島しかないのではないか。
また、瀬戸内海の開拓は、大山祇の息子である三島の神(三島溝杭耳、鴨王)であることがわかっています。
淀川流域から奈良盆地の富美までその支配地が及びます。
神武と戦った富美の長髄彦は三島の神の孫、その姪が神武の妃となるイスケヨリ姫であることがわかっています。 高木神とは吉武高木宮殿にいた殿上人。
そのトップがアマテラス。
その東征将軍がスサノオ。
スサノオと豊国八雷神(後の大山祇)が、本州日本海沿岸の八岐大蛇に勝利。
八岐大蛇も女系イザナミなので、
男系イザナミが子供を産ませて、その子供に支配権を奪われていった。
女系豊国八雷神(後の大山祇)は、日本海沿岸に進出できずに、
琵琶湖に巨大環濠集落を作って苦労して開拓したり、
瀬戸内から紀伊を経て開拓したけれども、銅矛銅剣戦争で負けたりと、
苦労続きだったわけです。
大元の、豊国=古代出雲=イザナギ族にとってのイザナギ領の東隣り
について考えてみます。
ワニと白兎ですね。 今じゃ当たり前にみんなアマテラスは女神って前提で語ってるが、記紀にアマレラスが女神だと書かれてる箇所が見つけられない
アポロンら同様に太陽神なんだから男神なんじゃないか 兄弟と共に稲羽の八上姫に求婚しに行った大国主が、稲羽の白兎に出会います。
ニギ、ウサ(宇佐)、というのは古代神官のことであり、
ウサギとは神官あるいは巫女のことですね。
稲羽の八上姫に仕えて沖の島祭祀に関わる神官あるいは巫女だったわけです。
ワニとは、記紀でそれぞれ熊鰐とも和邇とも記されている、
岡田宮の熊鰐氏のことですね。
縄文から続く八雷神の一神だったわけです。
過去スレで検討しましたが、
稲羽=稲場=鐘崎
海の関所です。
八上姫とは、豊国イザナミ八雷神系の正統な女王。
各地の大山祇荘園からの年貢=稲荷を、稲場に陸揚げして、差配していたわけです。
そして年貢よりも重要な物資が、
瀬戸内海からの木材。炭。
熊鰐氏は、瀬戸内海利権を狙う天神族と結んで、
天神族イザナギ系の男系支配者オオワダツミを受け入れていた。
イザナミ系の本来の女王である、八上姫と、
イザナギ系がワニ氏に取り入った、オオワダツミが、争っていた。
だから八上姫の部下である白兎を助けてくれた大国主を、
八上姫は信用したわけです。 天津神が男系相続の一族なので、アマテラスは男性でしょう。
そしてその支配地域は海上(海を照らす王)でもある。
一方で、高木神らは陸上(吉武高木?)にいた別の王統、女系相続の国津神ですね。
この両者の婚姻が倭国の王制の基本スタイル。 >>715
いやいや、綿津見、大山祇は国津神と明記されており、志賀島、博多湾から東に東遷した豊国王家でしょう。
それは筑紫王家すなわち天孫族と区別されなくてはいけない。 >>716
つーことはコノハナサクヤヒメが卑弥呼でFAやんけ またまた前フリが長くなってすみません。
ここからが本題です。
九州説によると、ニニギ=三雲南小路王という座標点があります。
ニニギより前については、以上のように自動的に決まりますが、
では、
ニニギより後については、どうでしょうか?
山幸彦と海幸彦です。
まず、
山幸彦は山、高千穂宮ですね。
海幸彦は海、スサノオ水軍です。
ニニギは笠沙の岬=考古学的には、糸島平野と陸続きの柏崎遺跡になります。
に、長く住んでいます。
糸島平野に遷都したばかりだったので、
奥さんであるコノハナサクヤ=柏崎天孫族の父と、大山祇母の娘、の実家に住みながら、
新首都建設に尽力していたわけですね。
糸島平野が整備されて、高千穂宮=高祖宮に住むようになるのは、
二代目の山幸彦からで、高祖神社の祭神もそのようになっています。 >>718
木花咲耶姫は王子が3人もいて、ちゃんと倭王(ヒコホホデミ)になってるじゃん。
しかも細石神社の三雲南小路遺跡なら、卑弥呼より年代が少し古すぎてしまう。
年代が近いのはその後の平原遺跡だよ。 猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
柏崎遺跡、つまりコノハナサクヤの両親のお抱え工人です。
サルマトイ
後漢本国、あるいは少なくとも楽浪鏡工房で働いていた
コノハナサクヤの父親にヘッドハンティングされて、
半島南部の倭人領土→柏崎遺跡へとやってきます。
一族は触角式有柄銅剣の出土する場所でそれぞれ働いていたので層が、
猿田彦自身は、コノハナサクヤの大山祇母親の荘園である、
高島市の熊野本遺跡が本拠ですね。
内行花文鏡や方格規矩鏡のほぼ完成形をもたらしたり、
漢の円周率暗算単位である、咫をもたらしたわけです。 >>719
>山幸彦と海幸彦です。
海幸彦は山幸彦に負けて都落するのだが、その足跡がどこにあるのかというと宮崎県だったりする。
つまり福岡に正統となる山幸彦、宮崎に傍系となる海幸彦。
これが魏志倭人伝だと福岡の邪馬台国七万戸と宮崎の投馬国五万戸となる。 >>721
>猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
これって、根拠はなんですか? >>723
猿田彦を大陸からの渡来神に仕立てたい陰謀な悪寒 古代は末子相続ですね。
大王と年齢の近い長子相続だと、戦争になる。
だから長子などには兵を与えて、東征や北征させて、新規領土を切り開かせる。
年齢の離れた末子に、晩年に本拠を継がせるわけです。
理にかなっています。
饒速日は東征将軍スサノオとして東征。
邇邇芸は糸島平野の新首都整備。
海幸彦と山幸彦も同じですね。
ただ、二人が海と山の支配権を交換します。
これが意味することはただ一つ。
倭国王師升の直接訪問ですね。
邇邇芸が動いた記録はありませんから。
倭国王師升が外遊した時、
あるいは、色気を出して水軍で外地征服を試みた時、
に、
天候あるいは敗戦によって、水軍を喪失してしまったわけです。
それで一時的に失脚して、
山幸彦が身を寄せた先が、ワニの王宮です。 山幸彦は、岡田宮に身を寄せたわけです。
イザナミ八雷神系の正統女王である八上姫はとっくの昔に滅ぼされ、
熊鰐族がリーダーとなっていたわけです。
八畳の控室、八尋和邇、などは、八雷神由来の古代出雲を示唆しているわけです。
熊鰐族オオワダツミの娘である、豊玉姫・玉依姫。
玉とはすなわち、
リーダーとなった熊鰐族が、
北九州市の城野遺跡の玉造工房を領有していた、からですね。
大量の鉄製工具と、
大量の翡翠。
翡翠があるということは、倭国乱の前です。
倭国乱で銅戈は狗奴国側ですから、邪馬台国への翡翠の供給は途絶えてしまいます。
だから平原遺跡には翡翠がありません。
逆に狗奴国には鉄の供給が途絶えるわけですが。 ヒナモリ……
後代の日本語で、辺境/地方/田舎のことを言うヒナという語句があるが(用例:鄙びた)
辺境をまもる(または、おもりする)役職だったのかねえ? 末子相続というより兄弟相続の結果として最後は末子がすべて持っていくのです。
饒速日も先代旧事本紀では、天照国照の称号があり、出雲国譲りにより海上と陸上の両方の王となっていたことになっています。
ただし記紀は弟の邇邇芸の末裔である天皇家がまとめたので、その治世が省力されています。
海幸山幸の物語も、兄弟相続の話と読めなくもない。
記紀は後になるほどその世界観が広がるが、逆に神代については九州北岸からせいぜい出雲までしか文明社会になってない。
賑やかな龍宮は文明の中心地である志賀島の綿津見神社でしょう。
後に北九州に豊国王家が遷都して筑紫岡田宮の熊鰐らがいたと考えられます。 忌部氏で考察しましたが、
古代出雲は遠賀川〜北九州市の辺りであり、
つまり古代出雲の玉造忌部とは、城野遺跡のことなわけです。
八尺瓊勾玉とは城野遺跡で作られた翡翠勾玉であり、
オオワダツミが、山幸彦に与えたことになります。
城野遺跡のそばからは、何度も掘り戻されては埋納されてを繰り返した
広型銅矛が出土しており、
一つは、山幸彦海幸彦のペアは広型銅矛を祭祀に使っていた。
もう一つは、祭祀型銅矛(銅戈)とは、出陣式の時に使って、
北部九州倭国の母なる大地に埋納。
もう一本を、遠征先の征服領土に埋納。
だから、出陣元の北部九州では何度も埋め戻しされているわけです。
山幸彦の奥さんの実家ですから、
山幸彦が政権に復帰してからは何度も出征に出たわけですね。 >>728
辺境といっても、対馬海峡の交易が倭国の繁栄の基礎なら、生命線です。
必死で他の民族から守らなくてはいけません。
だから卑奴母離、大率などの制度が発達したのでしょう。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 豊玉姫が出産する。
岡田で出産すればいいのに、わざわざ伊都へ赴きます。
これはなぜかというと、文身ですね。
大王の血統であることを証明するために、産まれてすぐ文身を入れる。
岡田で出産すると、
敵対勢力からそこを指摘される危険性があるわけです。
だから伊都まで行って、伊都の重臣たちの監視下のもとで、出産する。
ただ、豊玉姫は女系としては縄文山鹿貝塚からのイザナミの血を引いています。
豊玉姫の出産シーンを山幸彦がうっかり覗いてしまうと、
豊玉姫が八尋熊鰐の姿でのたうち回っている。
これはワニになったわけではなくて、
イザナミ縄文系の民族出産時衣装で民族出産時儀式を行っていた、ということでしょう。
見られることはタブーでもあったわけです。
イザナミの儀式をイザナギが覗いてしまったのと同じですね。
現代人の我々と全く違い、弥生人にとってはタブーはタブーで絶対禁忌。 豊玉姫・玉依姫の父、オオワダツミの支配下である、城野遺跡。
北部九州でも最大級の方形周溝墓に、なんと小児が二人埋葬されています。
男の子のほうは、
山幸彦と豊玉姫の子供である、武位起命
もしくは
鸕鶿草葺不合と玉依姫の子供である、三毛野命
のどちらかであることが確定します。 倭人伝の官を紐解くと、
邪馬台国=倭国の官(中央政府の内閣大臣)が、
伊支馬 壱岐イザナギ系代表
彌馬升 大山祇イザナミ系代表
彌馬獲支 大山祇イザナミ系代表(どちらかがオオワダツミ)
奴佳鞮 奴国オオクニヌシ系代表
となります。
地方行政(都知事・府知事・県知事)が、
対海國 卑狗(狗人=海幸彦血族隼人)卑奴母離(委奴国系書記官)
一大國 同上
伊都國 爾支(都知事)泄謨觚柄渠觚(イザナギ系)
奴國 兕馬觚(イザナギ系が押さえる)卑奴母離(委奴国系書記官)
不弥國 多模(事代主末裔)卑奴母離(委奴国系書記官)
となります。
伊都國は女官が1000人もいる首都ですから、卑奴母離は必要ありませんね。 頂点にいるのが、「世有王」
伊都の倭国王です。
人前に姿を現さない=文身が・・・の卑弥呼が摂政。
狗奴国との戦争で緊急時だったので、
有能なキャリアウーマンの卑弥呼が抜擢された。
その後もずっと狗奴国と対戦していたから、
卑弥呼が重宝され続けたわけです。
張政が来たのは倭国政治に介入するため。
倭国王勢力と、卑弥呼勢力の、
どちらかが、朝鮮半島積極派で、
どちらかが、狗奴国戦積極派で、
そのどちらか魏にとって有利な方を、応援しに来たわけです。
台与は張政の策略もあって女王になりましたが、
肝心かなめの魏が滅びそうになって、
張政の頑張る意味が無くなって、張政は帰国してしまった。 >>736
大王が城野遺跡=豊玉姫か玉依姫に産ませた子供で、小児で亡くなった。
記録に残っていない可能性もありますが。 >>739
推論に「確定」なんて言葉を使ってはいけない。
軽薄に見えてしまうから。 >>740
ああ、すみません。
三雲南小路王=ニニギ、が確定なら
→確定、という意味です。
山幸彦はワニ=弥生岡田の元に身を寄せ、
その娘たちは玉で、
そこに翡翠が供給されるうちに作られた小児墓=倭国乱前
ですから。 前提がなんの確証もないんだから、それを基にしたものはみんなゴミ ニニギの妻コノハナサクヤの実家が柏崎遺跡であり、
宇木汲田から続く由緒ある土地なのですが、
山幸彦の井原鍵溝遺跡に同期する桜馬場遺跡は、北西に移動しています。
そして末蘆王家は桜馬場までで途絶え、魏志倭人伝にも末蘆國の官は無い。
狗奴国に滅ぼされたわけです。
さらに、対海國と一大國の官は、旧王名の痕跡の無い「卑狗」(隼人の狗人)。
狗邪韓国にも官はいません。
壱岐対馬ルートが一度狗奴国に蹂躙されたわけですね。
ごく短期間ですが、狗奴国が壱岐対馬ルートを手にした。
その時に後漢の有力者曹操と外交して手に入れたのが、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡などのオーパーツでしょう。 魏代伊都=糸島平野の高祖宮を中心とした鉄壁の山城。
南の狗奴国が、壱岐対馬ルートを攻略できる唯一の拠点が、吉野ケ里遺跡です。
高千穂宮を攻めるのではなく、
吉野ケ里遺跡から出陣して北上し、末蘆國を急襲した。
末蘆國側も不穏な雰囲気を察知して桜馬場に移動していたけれども、
耐えられなかったわけです。
吉野ケ里遺跡は様々な勢力が入っていますが、
最後に入ったのが銅戈。
なんのためにかというと、長崎タケミナカタとの海上戦闘のためですね。
銅矛銅剣戦争と同じく、海戦だから遺物は出土しにくいですが。
銅戈を旗印にする=鉄戈が主兵装
唐古鍵遺跡に絵画が出土しています。
矛は対戦争用兵器ですが、
戈は捕獲用器具です。
怒られそうですが・・・
長崎タケミナカタの誰かしらを捕獲したら、その旨を先方に伝えて、
タケミナカタが救出にやってきたら、
高楼の上に人質を出して煽ります。
怒ったタケミナカタが仲間を助けようと殺到してくる。
城柵を乗り越えたところを、下から戈で手前に引き落とし、
溝に落ちたところを上から木の刺又で押さえつけて捕獲します。
生口ホイホイですね・・・ >>745
城柵の前に空濠を掘るのが当時の慣わしだけどな 卑弥呼自身も共立女王にふさわしく、オールニッポンの血筋です。
卑弥呼の父親は、大田南1号墳被葬者の、
一大率丹後若狭湾水軍長官。
銅戈将軍饒速日の、畿内妻である登美夜姫の子孫は、
北部九州倭国のヒエラルキーに反抗して狗奴国に加担しましたが、
饒速日の、九州妻との子孫である、卑弥呼の父親は、
逆に邪馬台国の絶体絶命の危機を救ったわけです。
逆に卑弥呼の子孫には、青龍三年銘の方格規矩四神鏡がお裾分けされています。 畏れ多いので、あくまでも、九州説ならば、という話です。
『天叢雲剣』
吉武高木王アマテラスが、九頭竜川(頭部)を本拠とする、
石剣の八岐大蛇部族の若狭湾水軍(胴部)と戦争して勝利。
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄器製造。
アマテラスに献上された至上の逸品が、天叢雲剣。
『八尺瓊勾玉』
山幸彦が、古代出雲=遠賀〜北九州市を支配する岡田熊鰐のもとへ滞在。
城野遺跡の玉造工房=出雲忌部の祖、において鉄製工具を駆使して
翡翠勾玉の円周長八咫首飾りを作成。
『八咫鏡』
邇邇芸の妻、木花之佐久夜の実家のお抱え工人、
楽浪仕込み猿田彦一族の工房において、
魏から入手した青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成。
直径二尺。円周長八咫。 青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成したら
鉛同位体分析値は前漢鏡主要分布域には収まり得ない
4世紀以降の鏡を溶かして3世紀の鏡を作成したがるのは阿呆 >>737
首都である伊都國の役人には卑奴母離はいませんね
国邑の連合体である投馬國や邪馬壹國の役人にも卑奴母離はいませんね。 伊都国の官の禰宜は天孫ニニギの末裔が卑弥呼の下でナンバーツーに収まっていたということ。 卑奴母離は奴母離が各国邑に派遣した副官
奴母離は奴界の守護者の称
降臨系のボスが卑弥呼の守護者であることを主張した
だから鄙とは云い難い弐萬戸の奴國にも配置されている
降臨系のボスとは伊都國王の難升米のこと 雀居の委奴国王は渡来系なので、外交時は漢語で話したわけですね。
バイリンガルです。
侏儒國のネーミングも委奴国王がつけたのでしょう。
黒歯國や裸國は陳寿でしょうけれども。
(一)大率も委奴国王が創始でしょうね。
遠征や内政検察に便利だから
饒速日や瓊瓊杵なども倭国に取り入れて流用発展させたわけです。
大倭はオオヤマト
つまり大山祇ですね。
八雷神→8山津見
それが銅矛銅剣戦争で負けて、大山祇として組織整備されたわけです。
瀬戸内海の海運業ですね。
高地性集落で木材、炭を生産。
淡路島の鉄工房へ、鉄原料を東へ運び込み、鉄完成品を西へ輸送する。
硯が筑前町で出土するのは、海運商売に文字が必須だったからですね。
旧三輪町に大倭=オオヤマト運輸の集配管理センターがあったわけです。 一方の井原鍵溝の師升は生粋の倭人というか、
倭人の頭領たる倭国王です。
委奴国王の使者が、光武帝に謁見した時は、
「我従倭地来了」
全て漢語で話したわけです。発音は、わこく、わじん、ですね。
海幸彦の水軍を借りて、大量の生口を土産に意気揚々と後漢に乗り込んだ
師升の場合は、横に通訳を侍らせて、
「われこそは、やまとこくおう、すいしょう、なりぃ」
と自ら倭語でやったわけです。
居並ぶ後漢の重臣たちは、
「わこくおう」が来たと思っていたのに、
「やまとこくおう」などという言葉を初めて聞かされて、面食らったわけですね。
その場にいた書記官が慌てて当てた字が、
「倭面土國王」
本来なら、「邪面土國王」とかが正しいのでしょうが、
さすがに師升も、
事前の外交文章では、「倭国王」と書いて、漢文で連絡していたでしょうから、
後漢側では「わこくおう」倭国王が来た、と思い込んでいたので、
最初の一文字はどうしても倭に引きずられたわけですね。
タイムマシンがあったら、
師升の口上を聞いている安帝と重臣たちのどよめきを聞いてみたいですね。 里程と日程が並列
邪馬台国の首都が伊都でその他25国にヒナモリ
それぞれの国に相当する遺跡もあって
平原女王墓もあって
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着ですな >>762
ヒナモリ? 副日卑奴母離 は 247年張政の倭人船に同乗していた、現地案内官。
郡〜狗邪韓國〜對海國〜一大國〜末盧國〜(伊都國)〜奴国、不彌國
で、随行している。
240年に卑弥呼に印綬の為、魏の軍船で行軍し、
女王宮に来た梯儁の譯での邪馬台国は
女王を共立した21の王の国で構成されている。
その南は、狗奴国である。
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着です。 また伊都クズが文献史学者も考古学者も誰も主張していないことを文献史学的に〜とか考古学的に〜と勝手に決めつけてる >>764
基本的に古代史で持論展開するやつはウソツキだからしゃーない 自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
推理ものの犯人なんかがよくしている非常に見苦しい行動だな >>767
>自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
すげーブーメランw ホラフキン
,へ
\/ ヽ ( )
_/*+*`、 ( )
<_______フ )
从 *`∀´> 〜
/゙゙゙lll`y─┛息を吐く様に嘘を言い
ノ. ノノ | 飯を食うが如くクソをすする
. `〜rrrrー′ これはチョンコのことです
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iヽ /ヽ
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ヾ、,, ,/ 猿真似はダメにゃん
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γ"⌒゙ヽ l l γ'.ヽ
i i,__,,ノ i,__,,ノ_,,丿
ヽ,_,,ノ"~´ ̄  ̄ ハラタの説は箸墓撤退で北部九州(福岡・糸島平野)の平原・天照大神だけが残り、高祖山に籠っている。
フルタの説はもともと北部九州(福岡・糸島平野)だけ。
ヤスモトの説は甘木朝倉の筑紫平野に邪馬台国を設定したものの、
そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だったので、これも福岡・糸島平野に撤退し、卑弥呼の墓は平原に・・。
呉越魏同舟というか、
現代日本のエルサレム化して、聖地の分取り合い状態になっとるな。 >>763
>随行している。
してないだろw
ヒナモリは伊都国の卑弥呼が各国邑に派遣した国邑の副官だよ。 >>774
逆に婢千人は、各国邑からの人質かもしれませんね。
江戸幕府が各藩大名の妻子を江戸に住まわせたのと同じです。
ただぼんやり住んでいるのも何なので、養蚕機織や、賢い女性にはOLとして働いてもらったのでしょう。
>>773
>そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だった
北部九州のど真ん中にありながら、鉄器が出ないことから、
狗奴国だったわけですね。
そして、狗奴国の支配域においては、鉄器があったはずなのに、無くなってしまうことがあり得ることも証明されているわけです。
対馬海峡を支配する邪馬台国と敵対しているのですから、
何年もすると鉄器が欠乏して、領内の鉄器をかき集めて鉄製武器に溶かし直したわけですね。
太平洋戦争末期にも、金属類回収令によって、弥生時代の青銅器なども供出されました。
正しい認識に出会った時に、自論を変化させていくというのは、
正常な科学的思考がなされている、ということで、
スタート地点がどうあれ、その人の言うことは信用できるということですね。 ハラタ説、フルタ説、ヤスモト説に従えば、
甘木・朝倉市・朝倉郡筑前町辺りは狗奴国だったということになるなあ。
そして、吉野ヶ里も同様に狗奴国の勢力範囲だったことになる。
わかりやすいといえばわかりやすい。、 吉野ヶ里は戦争に負けたわけではないけど。
まあ、吸収してどこかに再編されたのかな。 >>661-663
要するに銅鐸というのは、
その時代における倭人倭種のフロンティア(開発最前線)に分布しているわけですね。
そして主に使っていたのは、
鉄器を独占して強力なスサノオ水軍で日本海沿岸を支配していたイザナギ系倭人ではなく、
おこぼれの金属器しかもらえず、琵琶湖沿岸や瀬戸内海沿岸へとフロンティアを求めていったイザナミ系倭種。
現地人との武力差が小さいので、防衛策を講じる必要があったわけです。
相互の同范銅鐸が多い、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・松帆銅鐸。
同時期に埋納されているのですから、
これらの同范銅鐸の分布を検討すると、
一世紀前半における、イザナミ系倭種のフロンティアが浮かび上がってくるわけです。 【加茂岩倉遺跡の同范銅鐸】
太田黒田鐸(和歌山県)
気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
辰馬419号鐸・川島神後鐸(徳島県)
下坂鐸・上屋敷鐸(鳥取県)
伝淡路鐸・松帆3号鐸(淡路島)
岐阜県鐸(岐阜県)
上牧鐸(奈良県)
伝陶器鐸(大阪府)
伝福井鐸(福井県)
桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
念仏塚鐸(岡山県)
【荒神谷遺跡の同范銅鐸】
伝徳島県出土鐸(徳島県)
松帆5号鐸(淡路島)
梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市) 北部九州から、イザナミ系倭種なので豊国から、
日本海沿岸と瀬戸内海沿岸の海沿いに東進していくイメージです。
そして領土を奪われていく側、仮に毛人とします。
毛人に残された土地を考えてみます。
まず、<兵庫県の内陸>ですね。
ここに毛人がいるので、それを取り囲むように銅鐸がある。
北: 気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
西: 念仏塚鐸(岡山県)
南: 桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
東: 梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市)
次に<大阪>です。
北: 伝陶器鐸(大阪府)
南: 太田黒田鐸(和歌山県)
東: 上牧鐸(奈良県)
(西は大阪湾、その先の淡路島や徳島などは銅鐸圏内)
銅鐸を配備しているので、倭種よりも毛人のほうが優勢だった可能性も高いです。
<兵庫県内陸>と<大阪>は分断されていなくて、毛人領土として連続していて、
倭種が点として入りこんでいた、という状況だったのではないでしょうか。
この後の時代に、銅戈が全力で大阪湾上陸作戦を行うわけですから。 次に徳島ですが、
既に和歌山や大阪に銅鐸が上陸していることから、
毛人が海を越えて集落してくることは考えにくく、
四国内陸に毛人がいるのか。
あるいは高地回りで中広型銅矛軍の分隊が攻めてくることがあったか。
面白いのは、東国ですね。
岐阜まで到達しています。
琵琶湖周囲には既に銅鐸は無く、
紀元前の下之郷遺跡で苦労して制圧して、
滋賀県は倭種の荘園となっていたわけです。 瀬戸内海において、平型銅剣が出土する範囲の、
やや外側に銅鐸が分布していますね。
これが平型銅剣女王国の東部境界です。
中広型銅矛王に征服されて、侏儒国と名付けられたわけですね。
九州説で神話と結びつけて考えてみます。
大巳貴は最初は八上姫と結婚したわけで、
むしろ、兄弟の攻撃から八上姫が守ってくれたわけです。
日本海沿岸はイザナギ天神族によって統一されていますから、
日本海沿岸へ逃げても兄弟は国内移動で簡単に追いついてくる。
だから、倭種が新規開発したばかりの瀬戸内海沿岸の平型銅剣女王国の奥、
紀伊(木伊、木国)へと
八上姫が匿ってくれたわけです。
となると、木国において大巳貴を保護したオオヤビコとは、
太田黒田遺跡の首長だったわけであり、
豊国イザナミ系の木材目的の開拓班長だったわけですね。
高床式倉庫の絵画などが出土していますね。 さらにその前。
稲羽の白ウサギ。
八上姫は稲羽=海の関所・鐘崎を保有する豊国イザナミ系女王。
一方で、岡田のワニ部族は八上姫と仲たがいしていたわけです。
豊国イザナミ系倭種は、神話にくどいほど繰り返されているように、
縄文時代からの「八」部族で、
山鹿貝塚のイザナミ共立女王のもとにまとまっていた。
八雷神→アマテラス誕生以降は8山津見ですね。
しかしこの時代になると、イザナギ系・アマテラスになびいて、
共立女王に従わない山津見も出始めていた、ということを示しています。
それがわかるのが、
荒神谷遺跡の銅鐸が6口しかない、ということです。
ワニ+1部族は、八上姫に従っていなかった、わけですね。
では、八上姫が何族なのかというと。
荒神谷遺跡の同范銅鐸の出土場所。
神話で八雷神に早くも登場する。
そして、要所要所の遺跡の名前に。 「倭女王卑弥呼考」・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>「日本書紀」の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、
>斯る類似は獨り神功皇后と卑彌呼とに限るべからず。
>苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。
>故に余輩は茲に「書紀」が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。
〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕
すでに明治時代において、卑弥呼≒神功皇后は妄想と断じられていたのに、
大正時代の笠井信也、戦後昭和のハルタダイロ狗、フルタタケヒ狗、ヤスモツ卑テンらが、
依然として仲哀天皇・神功皇后伝説の糸・怡土・伊都に縛られたままで論じてきたのは解せぬ。 卑弥呼≒神功皇后が妄想と言っているのではなくて、
「斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。」
から、書紀が卑弥呼≒神功皇后と断定しているのはおかしいということでしょう 仲哀って伊都と関係していたかな?
宮は香椎だし。
壇ノ浦は神功皇后が祭壇を作ったところだとか。 >>785
オレ理系の素人だから、
この件の「妄想」と「おかしさ」のちがいが良くわからん。今少し解説してくれ。 卑弥呼は高齢独身女性
神功皇后は既婚、子供が天皇
卑弥呼が神功皇后の晩年の姿>高齢寡婦としても無理がある
卑弥呼は人前に姿を現さない
神功皇后は陣頭に立って大活躍、各地に伝承残りまくり
記紀の作者が卑弥呼≒神功皇后をほのめかしているなどありえない 卑弥呼がいたのは高祖宮で
卑弥呼の墓は平原女王墓だよ 魏志倭人伝を読むうえで大事なことは
倭国と狗奴国が戦っている、ということ。
倭国とは本来の北部九州国家であり、訓読みで倭面土国。
狗奴国が反旗を翻して九州南部で頑張っているところに
張政らがやってきた状況。
倭国=完全体の姿=北部九州統一国家
女王国=邪馬台国=狗奴国のせいで不完全体=30国しかない
張政そして陳寿が女王国と言う時は、
後漢書などに書かれた本来の倭国ではない、
不完全体の邪馬台国(=倭国だが)だよ、ということ。
つまり女王国=卑弥呼時代の倭国 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています