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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬参
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 11:52:28.14
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、島原、天草、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁
0003日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 12:38:04.35
>>1
Good job 乙
0004日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:00:02.22
0003 日本@名無史さん 2018/11/12 21:15:15
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0005日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:02:40.83
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0006日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:05:58.07
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!

参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」
0007日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:10:52.14
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
0008日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:12:13.94
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0009日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:13:26.00
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0010日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 13:32:02.91
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0011日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 14:31:12.53
キナイコシが立てた攪乱スレ
0012日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 14:41:25.59
ありがたい話だよな。
古代中国様が、壱岐対馬プラスアルファまで倭人領土と記録してくれてるんだから。

あとは倭と日本の連続性だが、
こちらが日本になっても、
周辺国のほうが、倭寇だとか倭奴だとか呼んでくれて証明してくれてるんだから。
ありがたい話だよな。

これを崩すには、
<九州倭国≒北部九州邪馬台国→畿内日本>ではなく、
九州倭国vs<畿内邪馬台国→畿内日本>という形に分離させるのかな。
0013日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 16:31:28.95
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0014日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 16:51:15.87
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0015日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 17:40:50.80
>>12
現代にも高麗人参があるからって高麗と現在の朝鮮半島には何の繋がりも無い
意味のない屁理屈
0016日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 18:07:05.90
>>12
倭寇も倭奴も大陸や半島の倭人を指していて
日本人の事を指してるわけじゃないんだぞ
0017日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 18:27:13.04
倭寇って南蛮貿易の時代じゃないのか
0019日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 19:14:19.67
しかしそのままネタ本を引き写しとは著作権侵害しまくりだな
0020日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 19:14:29.19
>福岡が邪馬台国、宮崎が投馬国、熊本が狗奴国
これでいいじゃないか

前スレの最後
ざっくりしすぎだし
県所在地にそのまんま当てはまる分けないやろ
0021日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 19:18:29.39
>>1
サンクス!
0022日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 19:23:40.45
>>12
邪馬台国が日本の元とは限らないよ
戦で根絶やしにしてしまえば一大勢力は消えて無くなる
刺青の風習が大和の時代に無くなってるし
0023日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 19:39:23.86
肥後国球磨郡
>太古の昔、人吉盆地は、東西約40km、南北約10kmに及ぶ巨大な天然湖であった。
或る時、人吉盆地を取り囲む山々の中で最も低い球磨村の一勝地大坂間の地点が決壊し、
湖に溜まった水が溢れ出して急流・球磨川が誕生した。

>今、球磨川は、球磨郡水上村の石楠越(標高1,391m)及び水上越(標高1,458m)を源流とし、
人吉盆地に入ると田園地帯を周旋して西に流れる。
人吉市を過ぎてからは狭い谷間を縫って流れ、JR肥薩線や国道219号が併走する。
そして球磨村の鍾乳洞・球泉洞の付近で流れを北向きに変え、八代平野に出て分流し、三角州を形成しつつ八代海に注ぐ。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 19:56:32.54
古墳時代の球磨郡人吉地方(狗奴国推定地)
>球磨地方における高塚式古墳は、5世紀中頃、人吉盆地の中央部を中心に造営されました。
>3基の前方後円墳からなる錦町・亀塚古墳群は、人吉盆地で唯一の前方後円墳です。
>この球磨・人吉盆地は、畿内の奈良盆地に匹敵する広大な国邑であり、景行天皇記にも「熊の縣」として登場すします。
>地名の「球磨の縣」は「狗奴の縣」に通じますので、どうやらここが「狗奴国」で良いのではないでしょうか。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 20:03:47.41
古墳時代の球磨郡人吉地方(狗奴国推定地・続き)
>3世紀終わりから7世紀前半の約400年間を古墳時代といい、高塚式の小山のような墓が全国に造られました。
>しかし、球磨地方では、この地方独特の墓制(地下式板石積石室墓)等が受け継がれたため、高塚式古墳の造営が遅れました。
>この地方独特の墓制の1つである地下式板石積石室墓としては、人吉市下原田町の荒毛遺跡が有名です。

>最近の地中レーダー探査により、荒毛遺跡には、約150基の地下式石積石室墓があることが判明しました。
>また、人吉市七地町の天道ヶ尾遺跡からは、6世紀の地下式横穴墓が2基発見されています。
>これらの事から球磨地方は、南接の鹿児島県川内川流域と同じ古墳文化を共有していたことがわかります。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 20:05:53.28
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。

帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 20:15:45.74
狗奴国は球磨郡だった・・・、そうかねえ。
なんたって、人里離れた南の山岳地帯の中だからねえ??
0028日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 20:36:36.56
>>20
>>福岡が邪馬台国、宮崎が投馬国、熊本が狗奴国
>これでいいじゃないか

>前スレの最後
>ざっくりしすぎだし
>県所在地にそのまんま当てはまる分けないやろ

引用ありがとう。
栄えている土地にはそれなりの理由があるんだよ。
0029日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 20:40:04.21
狗奴国は、大隅半島の救仁郷(くにのごう)だな。
近くから超ド級の璧が出てる。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 20:47:02.54
熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳(さいぞんこふん)出土の呉鏡 
>才園古墳には、元は4基の円墳があったらしい。
 昭和13年、2号墳から、刀剣、玉、馬具類、鏡などが出土し、特に金メッキされた鎏金獣帯鏡が話題となった。
 (径11.7cm、厚3mm 青銅鏡(白銅鏡)の背面全体に分厚い鍍金有り。国指定重要文化財・熊本市立博物館所蔵)

>中国の鏡研究者・王士倫氏によると、この鎏金獣帯鏡は、三国志時代の江南地方(呉)でつくられたものという。
 中国でも鍍金鏡はたいへん貴重なものであり、日本では3枚しか出土していない(他に、福岡県糸島市・銚子塚古墳、岐阜県三野・城塚古墳)。
3世紀の呉で作られたものが、はるばる海を渡り、熊本県球磨郡までやってきていたのである。
>ここ球磨郡は狗奴国の最有力候補地であるが、当時隣接の邪馬台国に対抗するため、呉と連携をとっていた可能性もある。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12313557213.html
0031日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 20:59:35.74
>>28
福岡は邪馬台国連合の一部で
首都は熊本平野じゃないか
そうじゃないと整合性が出来ない

せめて伊都国、末廬国がどこか言ってくれないと
0032日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 21:03:47.26
>>22
俺も邪馬台国が直接的な日本のルーツじゃない気がする
なんか中国臭が濃いイメージ
0033日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 21:04:34.74
肥人(こまひと)
>万葉集(8世紀後)一一・二四九六
「肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結へる染木綿(しめゆふ)の 染(し)みにし心 我れ忘れめや」

(補注)「万葉集」の付訓は諸本大方コマヒトであるが、一説に、熊本県球磨(くま)地方にいた「くまひと」の変化した語ともいう。
0034日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 21:11:42.39
狗奴国から比定していくのも面白いが
人吉盆地だけが狗奴国なのだろうか
0035日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 21:16:31.73
人吉盆地から日向大隅方面が
熊襲国でしょうね。
0036日本@名無史さん
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2018/12/22(土) 21:17:13.66
球磨郡の才園古墳から、呉の金メッキ鏡が出土しているのは、
ここが呉と深いつながりを持っていたことを示すのではないだろうか。
親魏倭王の邪馬台国は、呉とは宿敵の関係だったから、
「素より不和」とは、このことだったのかも。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 21:25:20.31
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:24:19.43
俺も狗奴国は人吉盆地だと思うね
邪馬台国と狗奴国が互いの存亡を賭けた全面戦争をしていたようなイメージをする人がいるけど、個人的にはそうじゃないと思う
日本書紀の景行天皇の段で、熊襲の酋長について書かれているのと同じようなのが当時も居たのだと思う

日本書紀 景行天皇
https://nihonsinwa.com/page/1100.html
> 一人は鼻垂(ハナタリ)といいます。 みだりに名号(ナ)を詐称して、山谷に騒がしく集まって、菟狹(ウサ)の川上にいます。
> 二人目は耳垂(ミミタリ)といいます。 倉庫の蓄えを奪い、貪り食い、しばしば人民をさらいます。これは御木(ミケ=豊前国上毛郡・下毛郡)の川上にいます。
> 三人目は麻剥(アサハギ)といいます。密かに徒党を集めて、高羽(タカハ=豊前国田河郡)の川上にいます。
> 四人目は土折猪折(ツチオチイオリ)といいます。緑野(ミドリノ)の川上に隠れて、一人で山川の険しいところで人民をさらいます。

つまり狗奴国とは、これら熊襲と同様の文化を持ち、川上(球磨川の)に拠点があって、夜な夜な略奪や人さらいにやってくる集団だったのだろう
そしてそれに困った熊本平野南部の邪馬台国傘下のクニが盟主である卑弥呼に何とかしてくれと泣きついたのだと思う
しかし人吉盆地は球磨川の河口以外にはまともな出入口が無い、難攻不落の天然の要塞なので卑弥呼にもどうにも出来ず、
かと言って解決出来ませんでは卑弥呼の鬼道の信用性、すなわち卑弥呼のカリスマに疑問符が付くことになってしまう

そこで悩んだ卑弥呼が考えついたのが、当時の超大国である古代中華帝国の力を借りることであり、魏への援軍要請だったのではないか
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:32:54.57
>>39

妄想は聞き飽きた と、何度言えばw  @阿波
0041日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:40:03.07
>>38
壱岐ー呼子の距離が短すぎるという人もいるけど、呼子なら、たしかにそうかもしれない。
しかし対馬ー壱岐が60qくらいで千余里なので、
唐津港を松浦川を遡上した波穏やかな中原港遺跡に比定すると、
壱岐ー唐津港は50qくらいになるので、これを千余里といってもそうおかしくはない。
やはり、唐津中原港だったと思うね。。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:51:17.80
>>39
古代の球磨地方の様子は、よく知らなかったけれど、
北部九州や大和の古墳文化とは、かなり異質な状況だったと事を知って驚いた。
とくに、呉との交流を示す金鏡が才園墓地から出土していることは、
狗奴国との関わりを示す重要な状況証拠なのではないか。、
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:56:11.82
6世紀末の才園古墳じゃ根拠にならん
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 22:58:22.97
>>41
>唐津港を松浦川を遡上した波穏やかな中原港遺跡に比定すると、

めちゃ無理筋。  それよりまず、対馬海流に流されて末盧国=唐津は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:00:44.84
>>41
「佐賀の唐津を末盧国に比定する説もあります。しかし、唐津の中心を流れる松浦川の河川口は広大であり、唐津湾全体に広がるデルタは、その海岸線上の間口が10km以上に及びます。また、デルタの近郊には鏡山以外、ほとんど山らしい山が存在しないのです。
これら唐津の地勢を見る限り、4000戸の人家で収まるような地域とは到底考えられず、実際の人家の数は遥かに多かったでしょう。よって、唐津を末盧国に比定することは、松浦以上に困難であるといえます。
つまり唐津を、山裾や海沿いに発展した漁村である、とは言い難いのです。」
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=150
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:20:26.05
邪馬台国が見つからないのは、最初の末盧国の比定が間違ってるせいじゃないかな
みんな現代の地名に囚われ過ぎなんじゃないかと思う

誤読だらけの邪馬台国〜の解説どおり、九州上陸後の里程が末盧国基準の放射読みだとするなら、
現代の地名に囚われず末盧国を糸島半島の東南(今宿あたり)か、いっそ今津湾の東側(下山門あたり)と考えてはどうだろうか
壱岐から千里という距離や、東に向かって流れる対馬海流の影響を考えればそうおかしな比定ではないと思う

ここを末盧国だとすると、放射読みで東行百里の不彌国が博多駅付近、東南百里の奴国は春日市の弥生銀座を中心として、
大国ゆえ大野城市〜大宰府、筑紫野辺りまでの広い範囲と考えられる
東南陸行五百里の伊都国は、筑紫野あたりで山に挟まれ一度狭まった平地が筑紫平野にかけて再度広がり始める出口の筑前町あたりとなる、
ここは玄界灘側から筑紫平野側に陸路で行くならば必ず通らなくてはならず、「郡使往來常所駐」とも符合する

廣志逸文では伊都国の南が邪馬嘉国となっているので、邪馬嘉国=邪馬台国とするならば甘木・朝倉周辺が邪馬台国となる
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:30:43.93
>>46
>誤読だらけの邪馬台国〜の解説どおり、九州上陸後の里程が末盧国基準の放射読みだとするなら、
>現代の地名に囚われず末盧国を糸島半島の東南(今宿あたり)か、いっそ今津湾の東側(下山門あたり)と考えてはどうだろうか
>壱岐から千里という距離や、東に向かって流れる対馬海流の影響を考えればそうおかしな比定ではないと思う

今宿も下山門も南に水行できないから条件が合わないんじゃない?
「誤読だらけの邪馬台国」ではその後南に船で進める場所として佐世保が選ばれてた。
ただ、@阿波さんの言うように対馬海流のせいで壱岐から平戸を回れないということになるとそれもNGになってしまうが。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:41:08.76
水行は帯方郡起点だろ
日数表記なのは別資料からの引用だからだろうし
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:43:39.95
>>48
あの文見て帯方郡起点に見える人ってホントに不思議だわ
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:51:58.68
>>39
狗奴国はクニだろ、邪馬台国の分家の可能性もある、土着の原住民の熊襲とは違うのでは?
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:54:16.23
>>45
それ、俺も読んだけど胡散臭すぎるわ
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:56:43.31
狗奴国の王が卑弥呼と似ているのは、同胞であるからだろう。
つまり両者とも肥国の王家の出自で、要するにお家騒動、家督争いなんだよ。
だから相手を殲滅するような戦うにはならなかった。
すると、そのおよそ100年後の肥前川上にいた熊襲タケルも同族だろう。
そして壹與もまた肥前川上にいた倭国女王な訳だ。
上の方で熊襲が人をさらって云々という話があるけれど、それは後世の天皇家の側から見た話であって、肥国の熊襲が倭王でもあった頃には徴兵的なものだったのだろう。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/22(土) 23:57:27.97
>>46
誤読だらけでは
放射読みが誤読って言ってなかった?
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:02:46.38
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:10:58.73
>>47
阿波なんてアホに惑わされてどうする
魏の船が本当に対馬海流に逆らえないならどうやって帰国するんだよw
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:13:21.23
>>53
「伊都国起点の放射読み」が間違いで、末盧国起点の放射読みが正しいとしている
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:15:52.06
>>50
別にクニじゃないとは言ってない
近隣に略奪を仕掛けるクニだったと言ってるだけ
熊襲だってクニだったと思うぞ
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:22:21.06
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:22:22.62
>>49
むしろそれまで徹底して里程表記だったのが突然日数表記に変わったのに一続きの文だと思うほうがどうかしてる
解説サイトしか見てないからそんな感想になるんだろうが、原文には空白も段落も句読点も無く、文の区切れは
各翻訳者が恣意的にやっていることに留意しなければならない
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:26:18.71
>>57
肥国だろ。
そして3~4世紀には倭国を代表していたのだろう。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:30:46.14
>>45
海岸線が鏡山近くまであったと考えれば
十分に納得出来る
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:38:44.01
>むしろそれまで徹底して里程表記だったのが突然日数表記に変わったのに一続きの文だと思
読解力が無いとはこう言う事を言うんだろうな

末廬までは水行と言う事が分かってるから里数表記してるわけで、水行でも陸行でも行ける場合は日数表記になっても不思議でも何でもない
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:47:33.38
肥国といっても、支石墓、甕棺墓、青銅器の分布からして
肥前と肥後はそれほど交流はない
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:48:30.19
>>47
廣志逸文では邪馬台国は伊都国に隣接していることになってる
廣志を引用している翰苑の地の文でもそうなってる
むしろ水行云々は魏志だけの記述で他の史書にはなく
魏志の方が間違いということも十分に考え得ること
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:53:13.98
>>39
狗奴国が後の熊襲だと考えれば十分に辻褄は合うな
狗奴国の兵が夜に略奪を仕掛けてきて慌てて追いかけたところで球磨川を丸木舟で遡るうちに岸から矢を射かけられたら手も足も出ない
卑弥呼も手の打ちようが無かっただろう
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:56:27.17
>>63
だからといっていきなり帯方郡起点に見えはしない。
恣意的解釈にしか見えないな。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 00:57:35.46
畿内説はすべて誤読して誤読している
九州説は部分的に正しく読んで誤読している
誤読だらけの邪馬台国は正しく読んで誤読している
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:00:54.84
>>65
壹→臺や治→冶程度の字の相違でない大きな部分でオリジナルの魏志倭人伝の方が間違いとしてしまうなら、邪馬台国探しなんか無意味
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:02:00.33
>>68
で、あなたの頭の中が一番正しい、と。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:06:02.55
>>51
末盧国比定地についての情報だけは有用そうに見えたので前スレで胡散臭いとは書いてあったけど、引用しました。
全体の論旨は支持しないよ。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:06:51.64
廣志逸文の伊都國の南にあるのは邪馬嘉國じゃないの?
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:18:24.18
日本三大急流の球磨川って丸木舟で遡れる?
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:21:01.61
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:33:34.82
>>69
廣志は原文が見つかっていないので魏志がオリジナルであるという根拠はない
むしろ引用されている逸文は魏志とは似ても似つかない
魏志が正しく廣志が誤りとする根拠は存在しない
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 01:42:37.41
魏志の方が間違いだとすると、伊都國は何を根拠に比定するの?
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 06:30:57.45
>>45
けっきょくリンク先のユダヤは、
あそこでもない、此処でもない、そっちでもない、みんな間違ってる・・。と八方切りつけてるだけだヨ。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 06:40:58.32
>>55
>魏の船が本当に対馬海流に逆らえないならどうやって帰国するんだよw

秀吉に教えてもらえば?  @阿波
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 07:11:37.89
>>78
>>51
末盧国比定地についての情報だけは有用そうに見えたので前スレで胡散臭いとは書いてあったけど、引用しました。
全体の論旨は支持しないよ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 07:21:27.63
>>80
>末盧国比定地についての情報だけは有用そうに見えた

まず、それが前に進む第一歩だよ。
でも、http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=150 は、
重大な対馬海流の影響を見落としているね。  @阿波
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 07:35:57.25
>>80
ユダヤは、三世紀当時の国の大きさを明らかに勘違いしてる。
みすぼらしい倭の寒村のオバンの下男が、丸木舟で朝鮮に渡り、ゴマスリして金印もらったと思ってるんだろうな
(というか、ユダヤとしては、みすぼらしく宣伝したいんだろう)。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 08:44:31.64
>>70
九州説の比定地に誤読だらけのメソッドを
繋ぎ合わせて、場所を特定する
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:06:26.51
起点末廬国=唐津の最北端、呼子界隈

東南500里伊都国=糸島三雲

起点末廬国=唐津の最北端、呼子界隈

水行10日、陸行一月邪馬台国=熊本市、宇城

境界の尽きる所狗奴国=人吉、球磨郡

起点末廬国=唐津の最北端、呼子界隈

水行20日投馬国=宮崎南部、大隈半島 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b)
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:10:31.95
>>85
>起点末廬国=唐津の最北端、呼子界隈

出だしから間違い。 やり直し!!!  @阿波
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:20:05.14
ユダヤもチャンも、誤読だらけ....
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 09:40:30.24
邪馬台国の領土
最北端 釜山
最南端 阿久根
中部 阿蘇 高千穂
東部 延岡 日向
西部 熊本 水俣 出水 阿久根

狗奴国の領土
最北端 人吉
最南端 薩摩川内
中部 えびの市
東部 小林市
西部 薩摩川内

投馬国の領土
最北端 西都市
最南端 南大隈
中部 都城 霧島
東部 日南市
西部 いちき串木野 南さつま
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 10:00:32.41
球磨川の河口にある八代(ヤツシロ)は天照の屋代があった事から付いた地名との伝承あり。また、球磨川河口に多くの河童が上陸したと言う伝説も残っていて、それとの関係は不明だが妙見信仰の高い土地でもあり、現在も盛大な妙見祭が行われている。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 10:55:23.28
狗奴国は
景行記の「熊の縣(球磨縣)」であり、その後は、肥後球磨郡として今日に伝わる。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 10:59:59.19
>>88
九州倭国の三國志だ
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:12:40.80
アマテラスが何やら〜とか言ってるのがいるけど、
どこの基地外なんだ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:13:40.69
末廬国は唐津50%佐世保20%伊万里10%松浦10%平戸8%鐘崎1%博多1%
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:46:57.87
>>88
川内も狗奴国?
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:49:33.42
>>77
伊都国が東南五百里に存在するのは魏略逸文や廣志逸文にも存在する記述
魏志独自なのは水行云々だけ
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:52:30.55
>>94
川内は人吉と同様の文化が
あったとの書き込みがあったので
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 11:56:35.68
>>55
>魏の船が本当に対馬海流に逆らえないならどうやって帰国するんだよw

秀吉に教えてもらえば?  @阿波
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:09:27.64
@アホ、無責任
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:12:09.35
>>95

魏略逸文は郡から拘耶韓國まで「七十餘里」、末盧國から「東南五東里」
廣志逸文は[亻妾]國東南陸行 だよ
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:13:44.34
>>98

@アホ、無能   @阿波
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:13:58.91
一応断っておくが、>>46は一つの可能性としての提示であって、絶対にこの通りだと主張しているわけではない
むしろ重要なポイントは、現代の地名に囚われて末盧国を松浦の地名にあてはめようと思考を硬直させるのは危険だということ

日本の地名の付け方として、その地の有力氏族の名を地名にする、というものがある
例えば安曇氏が住み着いた地にはあちこちにアツミに類似した地名が残る
これは命名の順番が「地名→氏族名」ではなく、「氏族名→地名」であることを示している
http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg

松浦の地名ものちに西北九州の海を支配した松浦氏から来たものだろうが、問題は魏志の時代には日本にはまだ文字記録が無いということ
延喜式や和名抄で地理がはっきり記録されるのは魏志から700年も経ってから
その700年の間に松浦氏の拠点が移動してしまえば、松浦の地名は魏志の時代とは全然違う場所に残ることになる
現代に残る松浦地名にこだわると、かえって歴史の真実から遠ざかる危険性を孕んでいることを認識しておかなければならない
これはもちろん、松浦以外の地名にも言えることだ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:16:05.92
>>99
魏略逸文は誤字が明らかでただの揚げ足取りでしかない
廣志の記述は末盧国が倭国の上陸地点なのだからそこから東南陸行なら同じ意味になる
反論になってないよ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:18:21.09
>>102

魏志を元に翰苑を訂正して、魏志の都合が悪い記事を間違いとしてるんだろ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:19:45.37
>>103
別に魏志を持ち出さずとも誤字については実際の地理を見れば明らかだが?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:24:20.96
阿波が泡ウンコにしか見えねぇwww
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:27:12.82
>>104

魏略逸文と廣志逸文だけじゃ末盧國も伊都國も比定できないよ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:29:34.41
陸が目視出来る所なら
海流があっても、海岸線に沿って船を漕いでいくだけだから行ける、唐津から熊本までなら
西回りで余裕で行ける
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:31:36.57
>>105
>阿波が泡ウンコにしか見えねぇwww

@アホ、無能だから   @阿波
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:32:25.60
>>85
俺とほぼ一緒だ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:35:26.52
>>108
今日もトンスル生産中ですね(^3^)/wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:35:31.99
熊本北部は弥生時代から鉄器が豊富だが
熊本市周辺の南部は古墳時代以降に
鉄器が増加する傾向がある。

北部は古くから唐津佐賀経由で鉄器を入手し
南部は天草経由の海路が成立した後に
増加したように思われる。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:38:52.32
唐津は肥前、肥後の鉄の入手経路であり、

筑紫は糸島や博多湾からの交易路で
別途、鉄の入手経路があったのだろう
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:38:58.57
>>106
それは君ができないだけだろ
俺は現在の地理情報や他の遺跡の位置関係から>>46のように比定できる
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:39:45.53
>>101
邪馬台国が見つからないのは、末盧国のせいではなかろ。
それよりも、その後は東南へ陸行せよ、という倭人伝の指示に逆らって、
山坂道の悪路を、無理やり北東へ進もうとしたことにあるのではないか....

ここは虚心坦懐、陳寿の指し図通りに東南行きの古道を佐賀平野へ下れば、伊都国も奴国も不彌国も見えてくる。
そして不彌国の南には、投馬国も邪馬台国も有る。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:41:07.49
>>112
>熊本北部は弥生時代から鉄器が豊富だが

外部からの下賜品だろう。 鉄鍛冶遺構がないから。  @阿波
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:42:17.94
>>114

無数に候補がある内の一つでしかない
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:46:46.37
>>117

誤読だらけの邪馬台国〜の解説どおりって
魏略逸文と廣志逸文だけで比定してるの?
0120日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 12:48:56.43
>>115
連続読みを採用するならその可能性もあるし、別に否定はしない
ただこのスレの出発点である「誤読だらけの〜」の読み方に従って、末盧国基準の放射読みを採用した場合、
唐津や呼子じゃどうしても無理が出てくるので一つの案として>>46を提示してみた
0121日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 12:48:56.47
>>119のアンカは>>114だった
0122日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 12:53:18.69
>>119
誤読だらけの〜はもともと末盧国を佐世保に比定してる
だが考古学的にはそうじゃないと思うから別の比定を俺がやったわけ
その本を書いた人は中国の古文を研究してる人だけど考古学者じゃないからね
俺が採用したのは誤読だらけの〜が主張する、「各国の位置、距離関係は末盧国からの放射読みが正しい」とする説の部分
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:53:34.47
>>101
博多を中心とする福岡平野は狭いな。
それに比べ、筑後川の左右に開けた筑紫平野は広大だ。福岡平野の10倍はある。
高良山から見れば、甘木・朝倉から、三養基、久留米、八女、佐賀、小城、嬉野、鹿島まで、一望のもとに広がっている。

この広大な水田適地(今ではほとんど開田が終わっているが・・)に、倭人伝の国々が広がっており、
伊都国、奴国、不彌国など女王国以北の列強が、スクラムを組んでいたと考えると、倭人伝の謎は解ける。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:57:28.92
どうしても水行したくてたまらないらしい人がいるけど、別に末盧国を>>46の通りに比定したって、
九州を西廻りで長崎を迂回し有明海、で南水行は説明できるよ
最終的な到着地は福岡から見て南だからな
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 12:59:28.47
>>122

要するに、甘木・朝倉周辺を邪馬台国にしたいが
魏志の水行十日陸行一月がじゃまなので
誤字だらけの翰苑を根拠に魏志の水行十日陸行一月の部分だけを
間違いとしたんだろ
誤読だらけの〜は関係ない
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:05:04.18
>>101
>例えば安曇氏が住み着いた地にはあちこちにアツミに類似した地名が残る
>これは命名の順番が「地名→氏族名」ではなく、「氏族名→地名」であることを示している

君、君。  本家本元の「阿波」をはずしてどうすんの?  避けたな?
安曇氏も阿毎氏も同類だよ。  @阿波
0127日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 13:08:31.64
北のどん詰まりの甘木朝倉に七万戸なんて、最初からムリムリ。
まったく地理感に疎いよ。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:10:19.47
>>125
その指摘通りだね。  末盧国=福津・宗像方面ですべて怪傑してしまうからwww   @阿波
0129日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 13:11:12.91
>>125
その指摘通りだね。  末盧国=福津・宗像方面ですべて解決してしまうからwww   @阿波
0130日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 13:16:44.20
卑弥呼は、数邑を束ねた女酋長くらいに思って取り掛かるから、甘木朝倉怪談になる。
あんな片田舎の農家のおばさんが、金印紫綬なんか受けるわけないだろ。
三世紀といえど、
それなり以上の身分振る舞いの王族だったから、帯方郡も相手にしてくれたのさ。
0131日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 13:19:40.80
>>130
>それなり以上の身分振る舞いの王族だったから、帯方郡も相手にしてくれたのさ。

そうだね、「丹」や「勾玉」を作れる能力がないとね。  @阿波
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:26:44.04
甘木朝倉は、筑紫平野の北東部、つまり鬼門の方角だ。
深入りはお勧めしない。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:27:51.34
>>125
根拠のない決めつけに過ぎないな
その書き込みは君の願望でしかない
水行云々は翰苑のみならず魏志以外の史書は採用していないし
仮に採用しても>>124の通り説明可能で何の支障にもならない
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:29:23.35
>>130

「丹の採掘遺跡」や「勾玉製作遺構」、「鉄器製作遺構」も無いようなところが、
やれ邪馬台国だ、王都だと、よく言えたもんだよ。 厚かましいにも程がある。  @阿波
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:29:26.85
>>127
甘木朝倉は中心地というだけで、領地は有明海沿岸まで広がっていただろうね
それは>>46の奴国の大きさから考えれば当然のこと
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:34:39.33
卑弥呼は有明海沿岸の肥国出身だけど、魏と交渉していた時の王都は伊都国
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:43:02.21
領地は有明海沿岸まで広がっていたというのであれば、
なおさら、甘木朝倉は中心地になり得ない。いささか筑紫平野の地理観に欠けるなあ
(九州に疎いようだが、生活圏は、関東辺りなのかい?)。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:51:37.13
甘木朝倉も広大で平坦な農地が広がる。
あまりに低湿地だと灌漑の技術が必要になるので
むしろ甘木朝倉から下流の方に
順に開発が進んでいくと思われる。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 13:53:28.42
弥生時代の農地は、だいたい山の麓の
扇状地から、川や海の低湿地帯に
開発が進んでいくものである。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:12:33.37
>>136
8世紀に糸島に肥の君一族が多く住んでたからその可能性はあるね
卑弥呼は肥巫女だったりしてw
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:13:55.57
筑後川両岸は、氾濫で、水田開発は遅れたであろう。
それに、筑後川は大きすぎて堰を築けなかったので、のちのちまで水田用水の取水はできなかった。
その点、小さな川が幾筋も流れる西の佐賀平野の方が、初期の開田には、はるかに適していた。

ま、宗像〜岡田の宮〜豊の国の旅行もいいが、
次々回は、唐津〜佐賀川上〜吉野ヶ里(不彌国)〜南の山門山嘉菊池を経て、くまモン空港からの帰京ルートをお勧めしますヨ。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:22:50.68
>>141

「丹の採掘遺跡」や「勾玉製作遺構」、「鉄器製作遺構」も無いようなところが、

やれ邪馬台国だ、王都だと、よく言えたもんだよ。 厚かましいにも程がある。  @阿波
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:30:43.19
阿波が必死でけなすときは、相応の手ごたえがあったときと思えばよい。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:37:31.37
>>137
長崎出身だがね
君こそ現代の地理に囚われていないか?
筑紫平野は沖積平野だから1700年前には土砂の堆積が現在より少なく、筑後川周辺の地形は現在とはかなり違うはずだよ
土砂の堆積が少ないため、筑後川は現在より深く広い大河だったはずで、川の周囲の標高は現在よりかなり低く
今よりもかなり上流まで海が入り込んでいたと考えられる

二万戸の奴国を春日市、大野城市、太宰府市、筑紫野市にまたがる大国と比定したのだから、7万戸の邪馬台国は
朝倉市、小郡市、久留米市くらいの範囲は想定しなければならない
そうなればほとんど当時の海岸線近くだろう
そして偉い人というのはだいたい高所に陣取るものだ
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:43:12.48
>>144

まぁまぁ、トンデモ九州説同士、そんなことで喧嘩しないの!  @阿波
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:45:36.48
>>144

いずれにせよ、どちらも「我が故郷応援説」だな。  @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:46:16.20
そんなことよりも・・・かなり重要な曲

mike oldfield『hergest ridge』



なぜか『AKIRA』のテーマ?
このような曲、好きなでしょ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:48:57.58
『河童の三平』〜『げげげ』・・・?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 14:59:14.99
>>122
誤読だらけのでは放射読みやって無いでしょ?
佐世保からダイレクトで南下して阿久根が終点のはず
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:00:28.80
>>140
肥が日や火ならば間違いではない。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:02:37.92
伊都国は吉野ヶ里
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:05:04.24
河童の作者がいるでしょ
『河童 自殺』


なぜか『AKIRA』と同じような話
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:07:34.70
甘木朝倉でさえ広大な平坦地で
筑後川の数メートル下の水を組み上げるのも
結構工夫している。

水路で上流から高低差を利用して
水を水田に入れるのだが
山に近い扇状地であれば簡単でも
高低差が少ない平坦地では
そもそも水を引ける高い場所がない。

朝倉の三連水車を聞いたことがあると思うが
これは水流を利用して、数メートルの高さに水を汲み上げるためにある。

広大な平坦地ゆえの工夫である。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:13:20.34
>>149
>>4をよく読め
佐世保が末盧国で阿久根が邪馬台国
その他の国は末盧国から放射読みとしている
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:14:11.20
久留米より下流では、潮の満ち引きによる
水の取り入れを行っている。

潮が満ちれば水面が上がり
水を取り入れやすくはなるのだが
当然ながら海水が混じっている。

海水は重いので下層にあり
真水は軽いので上層にある。

満ちたときの高さを計算して
真水層の上層だけを取り込んだり

時々水をなめて、塩分が含まれてきたら
水門を閉じる
などの工夫を行っている。

これらも灌漑技術の一つと言ってよいだろう。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:14:32.63
このような質問があるでしょ、何なんだろう

『芥川龍之介の「河童」で、なぜ長老は生活教を信じないのですか?』
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:18:08.28
>>144
縄文期、弥生期、江戸期などの海岸線の変遷は、専門機関のボーリング調査結果を含め、十分調べている。
久留米周辺は、筑後川の氾濫蛇行地帯で、どうにもならない状態。
なお、久留米以南は、今の西鉄が海岸線と同じくらい。

しかし奴国比定地の佐賀市周辺から山手の小城〜川上にかけては、もともと地盤が高く、早くから水田化がすすんだとみてよい。
ひと口でいうと、今の長崎本線から北側がそうであり、佐賀市はそこから突き出た大きな半島の如くだった。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:26:00.17
>>157(つづき)
弥生期の吉野ヶ里では、海岸線まで4qくらいだった。
その対岸の城島からは、久留米八女方面へ歩いて行けた。
また、南の大川・柳川は、ほぼ離れ小島の状態。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:28:28.34
『河童』について調べてみた


>男は全てを話し終わった後に、こう言います。
>「出て行け!この悪党めが!貴様も馬鹿な、嫉妬深い、
>猥褻な、図々しい、自惚れきった、残酷な、虫の良い動物なんだろう。
>出て行け!この悪党めが!」


偶然観ていたんだけど、
なぜか『子門真人 あの人は』と本当に同じような話でしょ、

来るな!映すな、帰れ!みたいなことを言っていたり
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:36:01.35
>>157
>久留米周辺は、筑後川の氾濫蛇行地帯で、どうにもならない状態。
どうにもならないとはどういう意味?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 15:59:15.64
>>154
放射読みとか書いて無いじゃん
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:08:33.89
>>161
>多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。
>さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。
>「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

>『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。
>つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。
>さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。
>「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになる

>ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になるはずだが、張氏は違うと
>はっきり言っている。
>「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、「地名」の後に「距離」が来ている。
>この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。
>つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」

どこをどう読んでも全て末盧国起点の放射読みだが?
放射読みという単語が無いから放射読みじゃないのだってアスペかよ
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:10:07.96
>>160
今は久留米から鳥栖方面へいくつもの橋がかけられているので、便利だなーと思うけど、
昔、そこはけっこう早い流れで、地図を見ても久留米市街のすぐ北側には、氾濫蛇行の跡が認められる。
また北側は標高の低い低湿地続きで、川を超えての往来交流は不便困難だったと思う。
(この状態は、かなり上流まで続き、朝倉・浮羽付近の川幅が狭くなったところで、やっと渡河できたのだろう)

その点、吉野ヶ里から筑後川べりの千代田までの間、対岸の筑後川べりの城島から八女久留米までの間は、微高地が続き、自由に往来できた。
そしてそのあいだの筑後川は広かったが、ちょうど有明海の干満逆潮の影響で、潮どまり時間があり、
船でもいかだでも渡河できる便利なところだった(感潮域というらしい)。
今は六五郎橋とその上流にもう一本の橋が、かかっている。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:10:41.68
張さんは地域の歴史や出土品を無視して距離と方角だけで読んでるからなぁ
考古学、歴史学の専門家と中国古文の専門家と
組んで読めば、特定できるはずだろうに

見つけたくない何かがあるんじゃないか?
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:25:03.58
そこまでして見つけてあげる気も無いんじゃないの
別に彼らにとっては自国の歴史でもないんだし
まあ文献解釈では九州で間違いないというだけでも大きな進展だよ
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:31:40.99
学者は自説を曲げたく無いから
協力出来ないんだよ
イデオロギーも入って来るし
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:33:47.00
そのとおり、距離と方角だけで読めばこうだ・・、
という前提で書かれていることを前提にすべしとおもう。
そのうえで、現地の地理、地勢条件を加味して補正すればよいのではないかな。

ま、しょっぱなに佐世保がどうかということになるけどね・・・、
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:38:44.14
とりあえず張氏の解釈に従うとポイントは

1.九州上陸後の距離表記は放射読みで、起点は末盧国
2.水行十日陸行一月は、「水行ならば十日、陸行ならば一月」の意味

の2点だろうな
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:39:22.35
まぁ、伊都国が糸島三雲なのは有力
伊都国が糸島なら末廬国は唐津しか無い
そうなると魏志倭人伝の壱岐から末廬国千里は
正確では無かったと言う事がわかる
魏志倭人伝の間違いもあるから
正しく読めば読むほど邪馬台国には行き着かない
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:39:24.26
小城は朝鮮の土器使ってる土生遺跡だね
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:41:02.68
>>168
放射読みって起点を中心に読めって言う
意味でオッケー?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:43:29.56
張さんは北部九州沿岸では距離が近すぎるという解釈だな
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:43:52.60
到其北岸狗邪韓国七千余里。

その前に、↑これはどうなの。
到るー地名ー距離 の順だから、狗邪韓国は始点になり得ない理屈になるが、説明してくりゃれ。、
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:45:35.87
末廬国=佐世保が唐津に繰り上がったなら
阿久根からその距離だけ上に行けば良いだけじゃね?
結局熊本辺りになるが
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:46:25.30
>>169

「丹の採掘遺跡」や「勾玉製作遺構」、「鉄器製作遺構」も無いようなところが、

やれ邪馬台国だ、王都だと、よく言えたもんだよ。 厚かましいにも程がある。  @阿波
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:51:48.81
>>167
その補正を加えると>>46なんだな
少なくとも伊都国までは他に下記の条件に合致する地点を見いだせなかった
佐世保の東南には奴国になれそうな場所が見つからないし

【張氏解釈から導かれる末盧国の条件】
1.船で上陸可(海沿い)
2.東百里に不彌国(千戸)がある
3.東南百里に奴国(二万戸)がある
4.東南五百里に伊都国(千戸(魏志)or戸万余(魏略))がある、使者が必ず留まる交通の要衝

あとは廣志や翰苑は無視して邪馬台国をもっと南に比定するくらいのバリエーションになる
水陸どちらでも行けるのだから海に面しているのだろう
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 16:58:19.72
結局、熊本が狗奴国は鉄板なんだよ。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:03:36.92
>>178
球磨郡は鉄板だろうけど、熊本平野あたりまでは邪馬台国連合の一部だった可能性もある
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:08:53.49
うん、熊本南部の球磨郡狗奴国説は、鉄板の上に金メッキしても良いくらいだ。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:12:44.93
>>173
「七千餘里 始度 一海千餘里 至 對海國〜」と次に付く。「從郡」が略されている。狗邪韓国から七千餘里ではないから。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:18:35.21
>>181
カキコの意味、全く不明不可解
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:27:08.23
>>182
七千餘里始度一海というのは、帯方郡から七千余里した後ではじめて一海を渡るという意味で、狗邪韓国から七千余里してはじめて一海を渡るのではない、という意味
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:28:55.17
>>178
熊本と言っても広いんだよボケ
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:30:42.88
大体見えて来た
恐ろしいほどに見えて来た!
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:33:11.25
>>175
お前のウンコは干からびてんだよ
シネや 糞カスがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:38:44.24
鹿児島県伊佐市大住古墳群(地下式板石積石室)(うずんこふんぐん)
>昭和33年に寺師見国氏らにより調査され、5世紀頃の庶民の墓といわれる。
>地下式板石積石室墓(ちかしきいたいしづみせきしつ墓)が多数発見された遺跡である。
>この墓制は、南九州独特のもので、川内川流域〜球磨郡を中心に分布している。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:38:47.33
>>176に自己レス
あるいはどうせ廣志や翰苑を無視するのなら、奴国までは>>46の通りとして、いっそ伊都国を甘木朝倉に比定するということも考えられなくはないな
その場合、朝倉市の平塚川添遺跡は吉野ケ里にも匹敵する規模なので、伊都国の人口は魏略の戸万余が正しいということになるだろう
伊都国が世有王の国であることを考えればそちらのほうが自然だと言える
そうすると邪馬台国はもっと南で、食料の生産力から考えると熊本平野あたりということになるだろうか
道が整備されていなかったことや渡河の困難さを考えれば陸路では一月かかってしまったとしても不思議はない距離と言えるし

この案の難点は伊都国が必ず通らなければいけないような場所でなくなってしまうことだが、
>>144のとおり当時は現在と地形が異なったはずだし、渡河地点の都合などで陸路では必ず通らなければならなかったのかも知れない
あるいは魏略のとおり戸万余の大国ならば、筑前町から朝倉市までの広範囲が伊都国領土だったとしてもさほどおかしくはないだろう
むしろ遺物の配置からはそう考えたほうが自然かも知れない
http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/fig11.png
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 17:39:04.39
>>184
菊池城までは狗奴国じゃ
0190日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 17:41:14.66
>>188
じゃあ糸島平野にあったのは何なんだという疑問が残る。
朝倉が邪馬台国の方がまだいい。
0191日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 17:47:13.76
>>190
余傍二十一国のどれかじゃないかな
これらは国の規模が書いてないし、魏使も見てないから意外な大国が有ったとしてもそう不思議ではないだろう
邪馬台国傘下の大国が奴国だけじゃなければいけない理由はどこにもない
0192日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 17:53:39.73
薩摩川内市さつま町 天辰寺前古墳
>古墳時代中期(5世紀代)の円墳、径27〜28m。
>石室開口部は東西100cm・南北50cm、天井石は長さ130cm、幅70cm、
>石室規模は東西方向を長軸として長さ245cm、短軸方向は西側及び中央付近で75cm、東側で95cm、床面から天井までは130cm。
>川内川以南にはまず無いであろうと言われていた畿内型古墳が、この遺跡で発見された(薩摩半島には2ヶ所のみ)。
0194日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:00:19.83
さつま町永野別府原古墳群(昭和46年5月指定)

>別府原古墳群は、さつま町永野の川内川支流の穴川右岸で標高160メートルの緩やかな傾斜地にあります。
>昭和44年(1967)に発掘調査が行われ、6世紀頃の地下式板石積石室墓が6基確認されました。
>地下式板石積石室墓は地下に竪穴を掘り、安山岩または扁平な河原石10〜14個を用いて円形または方形の石室を設けて死体を安置し、
>土をかぶせ板石で覆った後、さらに全て土で埋めてしまい地表に標識を残さない南九州独特の埋葬法です。
>石室の内径は110〜157pで屈葬と思われ、頭位にあたる石室の部分には丹塗りのものもあります。
>副葬品は全て武器で、短剣、長剣、鉄鏃等が1号墳、3号墳、6号墳から確認されています。
>この種のものは、熊本県南部球磨郡から川内川流域に分布の中心があり、群集墳を形成するのが特色です。(平成14年かごしま文化財事典)
0195日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:15:05.94
熊本県南部の球磨郡から鹿児島県川内市にかけては、円墳・前方後円墳など、北部九州や畿内型の古墳は極めて少ない。
有っても5世紀以降のものが2か所。
三〜四世紀の異文化地帯だ。呉の影響下にあったのかもね。
0196日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:33:08.49
つまり、景行記にいう熊襲(球磨・曽於)は、当時まだ、古墳文化の影響下になかったと思われる。
三世紀・四世紀の半ば常識である卑弥呼の塚や円墳前方後円墳と縁のない種族だったとは、
不勉強とはいえ、大きな驚きだ。
0197日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:33:20.54
>>186

「丹の採掘遺跡」や「勾玉製作遺構」、「鉄器製作遺構」も無いようなところが、

やれ邪馬台国だ、王都だと、よく言えたもんだよ。 厚かましいにも程がある。  @阿波
0198日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:40:27.67
熊本県南部の球磨郡から鹿児島県川内市にかけては呉の何が出てるの?
0200日本@名無史さん
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2018/12/23(日) 18:50:58.27
>>198
それはたいへん重要なことだ。
とりあえず、熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳(さいぞんこふん)からは、
三世紀の呉で製作された金メッキの鎏金獣帯鏡が出土し、話題になったそうだ。
今のところ、これ以外に、特に呉に触れた出土物の記録はないようだ。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 18:55:34.48
>>200

6世紀末の古墳なら
鏡がどこで伝世したかわからない
才園古墳は馬具が8セット(国内最多級)、紫水晶も出てるから
3世紀からの在地系豪族とつながる何かが必要
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 19:04:23.44
狗奴国=熊襲として熊本に比定してる人がいるが、熊襲=邪馬台国だったらすべてがひっくり返る
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 19:10:14.59
免田町本目遺跡出土の破鏡
>本目遺跡は、弥生時代後期から古墳時代前期「1世紀〜4世紀(西暦300年代)」にかけての遺跡
>ここから発掘された方格規矩神獣鏡(破鏡・ペンダントとして使用)は、
>3世紀頃(西暦200年代)の呉地方である中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作されたものです。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 19:11:37.24
>>202
>狗奴国=熊襲として熊本に比定してる人がいるが、熊襲=邪馬台国だったらすべてがひっくり返る

どっちも違うよ。

「丹の採掘遺跡」や「勾玉製作遺構」、「鉄器製作遺構」も無いようなところが、

やれ邪馬台国だ、王都だと、よく言えたもんだよ。 厚かましいにも程がある。  @阿波
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 19:16:17.07
方格規矩四神鏡は北部九州で出るよ
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 19:18:40.56
>>202
そうでもない。
邪馬台国も狗奴国もひっくるめて肥国熊襲の系譜だが、卑弥呼がいたのは伊都国(糸島平野)だと思っている。
彼らは天孫族ではない倭国の王統だろう。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:03:57.45
古代妄想 熊襲の話 (詳しくは下記リンク先のブログご参照)
・熊襲は球磨と曽於で、球磨は狗奴国だったのでは?
・免田式土器は、大陸の影響か?
・孫権の呉とつながりのある渡来人が、球磨郡免田に住み着き免田式土器を作っていたのではないか?
・卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、魏と呉の代理戦争だったのではないか?
https://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/a29ebb6132df0fd5d48537238ab44a7a
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:08:25.16
他所でいい物が出てるからといって
自分のところが起源のように考えるところが
やっぱり異人の風習なのかもね
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:13:18.17
>>208
ここは真面目に議論する場なのでお引取りを
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:15:06.28
異人種が真面目に他所のものを自分のところの王家だと妄想する場か
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:15:51.79
>>206
>卑弥呼がいたのは伊都国(糸島平野)だと思っている。

あり得ない、卑弥呼がいたのは邪馬台国
伊都国では無い
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:16:43.79
佐賀の遺跡は南九州の王家のものかもしれないぞ
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:19:43.16
佐賀も肥前国で、肥連合の一部。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:21:02.79
肥(コマ)連合の根拠って何?
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:22:26.56
>>200
三國志の時代、呉越人が流れてきたのは
事実で呉の出土品が出てきても不思議ではなさそうだ
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:26:57.43
有明海沿岸は全て肥国だろ。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:28:55.17
ヤマトから見て肥(コマ)人の国と言ってるだけで
連合なんかないだろ
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 20:32:02.88
方角からして福岡には邪馬台国は無いと思う
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 21:13:32.56
糸島地方最大の前方後円墳
>JR一貴山駅の北100メートル、二丈田中字大塚に位置する一貴山銚子塚古墳(いきさんちょうしづかこふん)は、
>墳丘全長が103メートルで、糸島地方最大の前方後円墳です。
>4世紀後半に築かれたものと推定されており、国の史跡にも指定されています。

>特に注目を浴びたのは、10枚の青銅製の鏡、方格規矩四神鏡、内行花文鏡、8枚の三角縁神獣鏡でした。
>方格規矩四神鏡には鍍金(ときん・金メッキ)が施されており、国内でも数面しか見られない珍しいものです。

↑これか、魏の宿敵の呉製鍍金鏡。
おかしいな、「糸島伊都国・卑弥呼」の後継が、呉製の貴重な金鏡を手に入れてたなんて・・・、
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 21:46:12.21
>>219

その「一貴山銚子塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 21:55:05.08
>>222
ウンコさん
おだまり
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 22:01:33.53
おかしいな
糸島の卑弥呼の墓が、10mほどの方墳だったのに、
僅か100余年後の後継男王の無名のオッサン墓が100m超の前方後円墳、しかも呉の琉金鏡を副葬してたなんて。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 22:06:27.42
>>223

「那珂八幡古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw   @阿波 
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 22:12:30.43
>>223
九州は「其山有丹」でアウトだから、

「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波 
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 22:29:09.29
>>226
それ、どこに書いてあるの?
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 22:30:27.75
3.糸島古墳群の現状と保存・整備

1)古墳の保存・整備・活用、そして復元についての提案
〇現状保存のままでよいのか。
>糸島古墳群の崩壊は確実に進行しており、現状保存のまま(自然にまかせる)ではよくないことだけは確かである。
>優先順位をつけ、重点的に何等かの対応・措置ができないか。

〇古墳の整備をしてはどうか。
>近隣の市町村には、すっきりと整備され、古墳の全容が一目でわかるものがある。
>今宿の大塚古墳、唐津には久里双水古墳や小ぶりの島田古墳、八女には岩戸山古墳、石人山古墳、弘化谷古墳など、枚挙に暇がない。
>各地の自治体ともそれなりに古墳の整備に努めていることが伝わってくる。

おかしいな
平原・卑弥呼・伊都国王を宣伝する割には、古墳は荒れ放題。地元はとんと熱心でないようだが???
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 23:39:40.18
平原周溝墓は史跡公園だから整備してる
他の築山、端山、一貴山などの古墳はほとんどやってないな
地元は平原を卑弥呼の墓とか言ってないと思うが
0230日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/23(日) 23:59:24.24
佐賀に伝わる、熊襲タケルが小碓尊に襲われたのは筑紫野で、熊襲タケルが倒された屋敷が肥前川上にあったという話は重要だと思う。
博多よりは南だが、九州の中ではむしろ北部に位置している。
熊襲という存在の位置付けにも影響する。
熊襲討伐は結局のところは九州北部の倭国の内紛で、勝てば官軍なだけではないか。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 00:23:30.53
魏志倭人伝に熊襲は出てこない
熊襲別件
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 00:25:43.45
>>225
泡ウンコトンスル
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 00:30:21.57
>>219
呉が滅んで西晋に統一された後に鋳造したんだろ
台与の代に西晋に朝貢してるから何も不思議はない
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 00:50:19.82
一貴山の鍍金方格規矩四神鏡は後漢鏡の伝世品だろ
水銀朱は中国産
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 00:57:44.62
熊襲は隼人だから鹿児島
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 01:03:24.14
熊襲は縄文人
蝦夷の南方バージョンだから
江南系の邪馬台国と狗奴国は全く関係ない
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 01:14:09.57
投馬国が熊襲じゃ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 01:22:09.40
熊襲と隼人は違う。
隼人は倭国を追放された海幸彦が祖とされていて、宮崎県の投馬国を拠点とする。
山幸彦(ヒコホホデミ)はそのまま伊都国の高祖宮の祭神になっている。
熊襲は肥前佐賀と肥後熊本を拠点とする有明海沿岸の肥国の一族であり、特に肥前川上においては熊襲タケル伝承と淀姫(壹與)が時代も場所もほぼ重なっており、邪馬台国と狗奴国の双方の流れを汲んでいると考えられる。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 01:27:58.57
九州における倭人の勢力は、結局のところ筑紫日向伊都の倭国、宮崎の投馬国、有明海沿岸の肥国熊襲狗奴国の三極があったことになる。
このうち皇祖となるのがニニギやヒコホホデミの筑紫の日向の王統である。
ただし彼らはおそらく卑弥呼より前の時代に筑紫を出て大和へ去ってしまう。
伊都まで進出した肥国が南北に分裂した状態が邪馬台国と狗奴国の対立なのだろう。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 02:47:51.84
倭人伝と何の関係もない作り話
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 07:11:02.75
>>235
>一貴山の鍍金方格規矩四神鏡は後漢鏡の伝世品だろ
>水銀朱は中国産

その「一貴山銚子塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw  @阿波
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:03:44.46
>>238
投馬は薩摩。
今の南さつま市阿多が投馬の中心地。
ここは、ニニギが住んだ吾田。
神武もここの出身。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:29:35.02
狭投馬
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:38:25.38
>>239
邪馬台国と狗奴国は南北戦争
熊襲はインディアン
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:41:20.68
「自女王國以北 其戸數道里可得略載」の前に書かれてる投馬国は女王国以北の国だから宮崎や鹿児島ではない。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:54:27.31
大和たけるは出雲征伐もしているが
出雲に対しては「熊襲」のような蔑称を用いてない
やはり熊襲は蝦夷同様、土着の抵抗勢力だと思う
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 08:56:17.26
>>246
はい、残念
末廬国から水行20日
大隈半島です
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:16:39.46
>>249
帯方郡から水行20日ですよ
大隅半島は女王国以北ではない。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:33:30.31
抵抗勢力だった頃は「熊襲」で
体制側に回れば「隼人」に昇格
元は同じ民族
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:46:56.47
女王国は日数と萬二千里と両方書かれてるのに、投馬国は日数だけだから、か〜るくあつかわれてる。
ちょっぴり重要さが低い南の遠い国。・・みやざきから大隅薩摩でセイカイ。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:46:58.07
鹿児島、宮崎は狗奴国ですね。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:50:10.64
>>252
投馬国は戸数が書かれてますし女王国以北に含まれてますから
旅の途中で通過しただけの国で
狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南岸の地域。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:52:07.79
狗奴国は、
球磨郡から〜川内川流域の大口・宮之城・川内にかけてのコマ人(クナ人・肥人)の国。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:57:23.86
>>245
>>239
>邪馬台国と狗奴国は南北戦争
>熊襲はインディアン

これが後世から見た偏向史観なんだよ。
勝てば官軍だからね。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 09:58:42.34
>>252
投馬国は邪馬台国までの里程に含まれていないから、もっと遠くにあった土地で、郡使は訪れていないのでしょう。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:08:45.66
>>257
途中に書かれてるから含まれてるよ?
郡使が通過したから日数、戸数や役人の名称が書かれている
郡使は訪れていないのは狗奴国。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:10:34.73
里数が書いてない。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:13:32.75
>>250
「南至投馬國水行二十日〜」
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月〜」
と文章が並んでいて起点が違うなんてありえない。

「以北の国は略載できる」は「南にある国は略載できない」と論理的に同じ意味ではない。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:31:42.76
神武の出発地は筑紫の日向、すなわち倭の王都である伊都国。
宮崎県が日向国と命名されるのは景行天皇のとき。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:48:01.39
>>256
違う
インディアンはインディアン、官軍は官軍
幕末の官軍もインディアンと戦った訳ではない
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:50:57.92
>>251
正解
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 10:56:12.17
記紀によれば日向から出てきた天皇家。
私的に隼人族を近習に置いたとされる。

同じ熊襲領域の出身として
深い繋がりがあったのであろうか。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:23:47.74
>>264
>記紀によれば日向から出てきた天皇家。

その日向が、天皇家最重要祭祀「大嘗祭」に関わりがないというお粗末さ。  推して知るべし。  厚かましいにも程がある。  @阿波
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:24:33.61
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:28:43.66
>>265
それは自分も思っていた。
何らかの断絶を思わせるな。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:32:44.67
「神社見聞牒」
高良大社に開化天皇(玉垂命)の神紋を発見した(抄)
>近づいて良く見ると、その歩揺に門光紋が打ってあるではないか。「門光紋」は開化天皇(高良玉垂命)の神紋である。
>上の二段には横一列に門光紋が並んでいる。中段にも横一列に門光紋が並んでいる。
>「門光紋」は、内野の老松神社(福岡県飯塚市内野の関屋2876)でも見かけた。明らかに同一紋で、開化天皇(高良玉垂命)の神紋である。
>高良大社の祭神は玉垂命を前面に出して神功皇后を隠し、宮地嶽神社の祭神は神功皇后を前面に出して玉垂命を隠してある、
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:53:06.53
>>265日本@名無史さん2018/12/24(月) 11:23:47.74>>267
>>264
>記紀によれば日向から出てきた天皇家。

日向から一家を挙げて出てきて、日向には墓だけ残り実家は残っていないのだから、行事上の関係は消えている。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 11:57:56.87
神紋が使われ始めたのは平安、鎌倉時代だろ
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:04:09.37
そういうことだね、神紋はその当時の伝説伝承を語るもの。
今のところ、高良大社は神功皇后、開花天皇辺りまでしかさかのぼれない。三世紀にはなかなか届かないねえ。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:10:18.31
菊の御紋は江戸時代まで自由に使ってたんだろ
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:12:42.70
こうしてみると、
開花から応神までは、九州倭国の王と畿内大和の王が入り混じって出てくるきがするんだけどねえ。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:30:00.39
>>269
>日向から一家を挙げて出てきて、日向には墓だけ残り実家は残っていないのだから、行事上の関係は消えている。

倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲むことをお勧めする。  @阿波
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:39:02.55
>>274
お前は婆ぁの糞せんじて
トンスル作ってろよwww
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:43:35.21
>>260
里数での説明と日数での説明で、連続して読むのが普通の漢文の読み方ですから
途中でスタート位置に戻れるのは、里数の説明が12000里を越えて終了し、日数の説明が始まる場合のみ。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:47:02.11
>>276
>阿波も朝鮮ヒトモドキなの?!

どういうところが?  @阿波
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:54:47.18
投馬はツマ=薩摩
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 12:59:48.81
里数、日数については、我々現代人の感覚では測り切れないものがあるのではないか。
「虎は一日千里を行って千里を帰る」のように、
三世紀の洛陽人の共通認識というか常識的な相場があったと思う。
例えば、水行は一日千里、陸行は一日百里、のごとくである。今となっては、現場に即して検証するほかなく、またそれが最もよい方法だと思う。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 13:32:17.49
ひともどき?

どこのキチガイなのかしらないけど、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか


警察などに通報されたら、
確実に逮捕〜死刑なんじゃないのか?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 13:36:20.10
諺の千里は、
「虎は千里続く国ならでは住まず」
(虎は広大な国でなければ棲息しない)のように
非常に長い距離の意味だけどな
実際に歩いてみると古い地形などもわかりやすい
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:09:42.95
狗邪韓国ー対馬、対馬ー壱岐、壱岐ー松浦はそれぞれ千里、合計三千里であるが、
潮の力を借りて渡っていた三世紀当時はそれぞれ一日行で、合計三日の行程だったそうだ(九大観潮データからの結論)。
すると、南至水行10日は1万里、水行20日は2万里となる。
三世紀の洛陽人は、
フンフン1万里のことか、なるへそ2万里のことか・・、と(注)書きなしで、即座に判断できたのであろう。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:22:28.16
野生号の実験で朝鮮海峡を人力で漕いで渡るのは不可能だと分かっている
良い潮流と風待つ必要があり3日では無理。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:24:04.88
変造500ウォンが良貨を駆逐した結果。

ラオスのダム決壊で再認識…韓国“ポンコツ”技術、過去にも死傷者出す事故続発 識者「背景に見かけ重視の国民性」
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/180804/soc1808040009-n1.html?ownedref=not%20set_not%20set_newsRelated

決壊ダムは最古の工法だった…ラオス激怒、韓国企業に特別補償要求へ
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/180804/soc1808040005-n1.html?ownedref=not%20set_not%20set_newsRelated

【新・悪韓論】ダム決壊も「謝罪なし」の韓国マインド 「悪いのはラオス政府」の論調まで
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/180802/soc1808020004-n1.html?ownedref=not%20set_not%20set_newsRelated

ケンチャナヨ精神と謝罪しないことが韓国の常識 ラオスのダム決壊
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/180811/soc1808110004-n1.html?ownedref=not%20set_not%20set_newsTop

【スクープ最前線】手抜き、逃げ出し…ラオス・ダム決壊は韓国経済“破綻の引き金”
 海外受注は激減濃厚 「日本より安く、短期で」と強引に…
http://www.zakzak.co.jp/soc/news/180731/soc1807310004-n1.html?ownedref=not%20set_not%20set_newsRelated

背乗り在日 安田ウマル純平 FakeJapanase
http://livedoor.blogimg.jp/hatima/imgs/7/2/726ea823.jpg

BKM 豚キムレイシスト団
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20181112-00103804/
https://www.cnews.fr/monde/2018-11-12/un-chanteur-du-groupe-de-k-pop-bts-fait-polemique-en-portant-un-chapeau-nazi-799939
https://i2.wp.com/mera.red/wp/wp-content/uploads/2015/06/img41317318zik1zj.jpeg?fit=436%2C250&;ssl=1
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:37:42.68
そもそも3世紀の日本で、測量されてたのかどうかも怪しいし
街道も計画的に綺麗に整備されていたわけでもないだろう。

万二千里が正しい前提で考える事自体が、実は当時の時代背景に一番合ってないのかもしれない。

国と国距離は?と聞かれても、測ってないものはわからない。
一日で着く、二日掛かるなら、行った経験さえあれば誰でも答えられる。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:43:35.68
>>283
>すると、南至水行10日は1万里、水行20日は2万里となる。
>三世紀の洛陽人は、
>フンフン1万里のことか、なるへそ2万里のことか・・、と(注)書きなしで、即座に判断できたのであろう。

非常にわかりやすいですね。
一万二千里の邪馬台国は水行10日と少しということですね。
水行20日の投馬国は邪馬台国より南です。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 14:55:54.73
>>284
水行、海行のつねとして、風待ち、汐待は当然あり、
その日数は天候・月齢・季節により不定であるので、水行日数は正味の渡海日数表記だとおもう。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 15:15:33.05
住んでる県で読み方が違うということだけはわかる
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 17:34:25.83
※「狗奴国」 の「狗」は中国語で犬・子犬。
※「狗奴国」の男王「卑弥弓呼」には「弓」の文字が付く
※「矢・弓」=武具 久米(クメ)
※「狗奴国」の比定地と言われるのは球磨(クマ) 
※「球磨」(クマ)、「久米」(クメ)は同じ意味
※球磨の装飾古墳の入口には、靫と矢を背負った人物が描かれている・・・
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 17:43:44.12
球磨郡久米郷
>「太宰官内志」では「和名妙に球磨郡久米郷あり・・久米物部の住めりし處なるべし」とある。
>喜田貞吉氏、太田亮博士をもって「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人(コマ人)ならん」、
「久米族の山部連は、山部の総領的伴造(とものみやつこ)である」と言わしめた古代久米族の本拠地である。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 17:46:18.42
>「矢・弓」=武具 久米(クメ)

倭人は弓を使うし
「木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃」
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 17:49:06.13
久米歌

楯並めて 伊那佐の山のこの間よも い行きまもらひ戦へば
吾はや飢ぬ 島つ鳥鵜養が伴 今助けに来ね

楯だな
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:14:45.37
>>291
>「球磨」(クマ)、「久米」(クメ)は同じ意味

こう言うのに嵌まったら抜け出せなくなるよ
地名は経年でいくらでも変わる
それは畿内説論者と全く同じ愚かな論法

最も大事なのは距離と方角だ
これだけは2000年経とうが変わらない
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:20:12.90
宮崎康平の島原説も
最終的に距離と方角で導き出してたな
張さんと異なるのは起点の場所

起点さえ解れば答えは出そう
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:21:47.89
>>295
>最も大事なのは距離と方角だ

そうだね。  努々、取り違えないように。  @阿波
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:21:48.21
>>296
宮崎は島原市出身なんだよねw
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:23:15.96
>>296
どちらも西海岸だな
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:24:37.83
>>298
>宮崎は島原市出身なんだよねw

郷土愛好説だね。  @阿波
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:24:58.61
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:28:42.10
宮崎は綿密な調査の上で
導き出したから、偶然じゃないの?
まぁ、天草出身なら天草と言ったかもしれないけど
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:33:56.61
>>302
>宮崎は綿密な調査の上で

その「綿密な調査」が、実際はスカタンだったというお粗末。  @阿波
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 18:36:59.70
>>295
>最も大事なのは距離と方角だ
>これだけは2000年経とうが変わらない

いいこと言うじゃないかい。
距離と方角に、古地名が加われば、更に望ましいな。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 19:14:43.77
>>304
>古地名が加われば、更に望ましいな。

距離と方角では都合がわるいので、眉唾の古地名に頼らざるを得ないトンデモ妄想説。  @阿波
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 19:54:55.42
ひろっぷのブログ
>平安時代の承平年間(931〜938)、わが国最初の百科事典「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」によれば、
>肥後球磨郡には「米郷(くめ)」「玖郷(くく)」「人吉郷(ひとよし)」「東村郷(ひがしむら)」「西村郷(にしむら)」「千脱郷(ちぬぎ)」の六郷がありました。

>このうち球磨郡久米郷は、水上村、湯前村(現湯前町)、久米村(現多良木町)、奥野村(現多良木町)、
>宮原村(現あさぎり町)、岡本村(現あさぎり町)、上村の一部(現あさぎり町)から成っていたとされています。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 20:05:18.03
>>295
距離と方角ですら、正確であった保証はないよ。

距離を正確に計測するには、測量作業をやるしかないが
後世の地図がグダグタな点からも、当時三角測量が日本に伝わっていたとは考えにくい。

人間が簡単に正確な方角を確認できるようになるのは11世紀に羅針盤が発明されてから。
北極星で真北の方角はわかるとはいえ、精々八方位程度の精度でしか方角もわからない。

3世紀の距離や方位は鵜呑みにできるものじゃないと思うよ。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 20:10:51.20
最後に独り言を(ひろっぷのブログ抄)
>古代、西暦0年〜300年代にかけての球磨地方の方々は、
>3世紀頃(200年代)、中国浙江省(せっこうしょう)付近で製作された
>方格規矩神獣鏡を破鏡にし、さらに穿孔したペンダントを首から下げていた。

>と言う事は・・・・
海外と交流していた・・・と言う事で・・・・
何故、考古学的に貴重であろう”この情報は”・・・・
全国的に・・・全くクローズアップされないのだろう・・・・・・?????
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 20:30:12.32
和名類聚抄に久米地名は中国・ 四国地方を中心に各地にあるが
久米郡は美作国、伯耆国、伊予国にある
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 20:32:15.97
肥後球磨郡(球磨盆地)の人たちは、
「我らが球磨の地こそ、倭人伝の狗奴国だった」、と信じ切っているかのようだ。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 20:34:50.83
>>307
中国人の残した記録だから方角や距離が当てにならないなんて事はないですよ
距離は歩測、方角は太陽でだいたい分かりますからね。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:04:36.44
>>309
ひろっぷ女史は、その中国四国地方の久米郡にも言及していた。
神武に随伴して東に向かったことで、中国四国にも足跡(傍流)が残っているのではないかと。
(Wiki抄)
>古事記には、天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って、天孫降臨に供奉したとある。
>また神武天皇東征説話に見える来目歌や、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:08:22.46
>>303
それは誰も分からない
0314日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:11:25.35
>>313
>それは誰も分からない

いや、簡単に分かる。  「其山有丹」ひとつで。  @阿波
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:14:28.22
>>312
>神武に随伴して東に向かったことで、中国四国にも足跡(傍流)が残っているのではないかと。


神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。

久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。

一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。

一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。

さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。

まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。   @阿波
0316日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:15:37.96
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:20:21.21
今、球磨地方の人々が考える 狗奴国人=球磨人=こまヒト をもとに、
仮に球磨郡を狗奴国、火の国&日向を邪馬台国だったとすれば、
狗奴国と邪馬台国は和解し、狗奴国人は神武に付き従って東へ向かったことになる。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:20:24.61
>>313
>それは誰も分からない

いや、簡単に分かる。  「其山有丹」ひとつで。  @阿波
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:21:05.22
>>312
>神武に随伴して東に向かったことで、中国四国にも足跡(傍流)が残っているのではないかと。


神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。

久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。

一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。

一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。

さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。

まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。   @阿波
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:50:57.23
>>311
役人が正確に歩測できたと思う?
せいぜい何歩歩いたから何mぐらいって程度の精度だよ。
それも別に測量目的で来てるわけではないから、正確性は必要ない。

出張報告するときに大体南の方角に何里ぐらい行ってと書いても
実際には道は直線ではなく曲がりくねっているので、かなりのズレが出ていてもおかしくない。

方角にしても、開けた平地以外を歩けば方角なんて簡単にはわからなくなる。
南に向かってると思っていたら西でした。なんてことは当たり前に起こる。

スマホの地図とGPSがあって当たり前の感覚を捨てないと、3世紀の数値や方位を鵜呑みにしてしまう危険がある。

まだ科挙もない時代。役人が読み書き計算ぐらいはできたとしても、学問に秀でていたかはわからんのよ?

必要以上に未開人扱いするのも違うけど、当時の不便さや知識レベルは過信してはダメ
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:52:03.18
久米姓は愛知県がもっとも多いが
藤原氏とまったく関係ない藤原姓もたくさんいるからな
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 21:59:35.38
>>320
>南に向かってると思っていたら西でした。なんてことは当たり前に起こる。

そんな方向音痴は珍しいw昼間なら太陽で分かりよ
中国から見たら未開の地の倭に赴くんだから行ったのは役人の中でも軍人でしょう
偵察で慣れて歩測とかでだいたいの距離や方角くらいは分かりますよ
誤差あっても東と南を間違えたり、距離を何倍も報告したりはしませんよ
人間の能力を馬鹿にしてますねw
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:11:52.09
>>322
>誤差あっても東と南を間違えたり、距離を何倍も報告したりはしませんよ

そうだね。  だから倭国(阿波)へ何度も行き来している訳だ。  @阿波
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:15:34.59
>>322
梯儁と張政が軍人なんてどこかに書いてあったっけ?それとも想像?
帯方郡使という役人扱いしか、記録はないと思うんだが。。。

後、そういうお前は適当に山の中を半日歩いてタイマーがなった時
どっちの方角を向いてるか正確に答えられると思うか?

朝日が昇る方角、夕方日が沈む方角は簡単にわかるが
行程は一直線ってわけではない。
それが直線距離の南??里に換算できるかってのは
それこそ測量の専門家じゃないと無理。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:21:32.26
方角わかるなら指南車いらんな
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:24:49.61
>>324
>それこそ測量の専門家じゃないと無理。

まぁまぁ、そんなにカリカリせんでもw  
何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:28:22.78
倭国内は倭人同行だからな
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 22:50:05.39
そうだよねえ
帯方郡のお役人を案内する倭人の役目は、
道案内、宿の交渉手配、時には野営の場所や河を渡る人足の確保、雨具の用意、
メシ・酒の調達運搬、観光案内、それに夜のこと(寝具・雨除け)も、心配しなきゃねえ・・だったのではないかな、、、、
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 23:02:14.56
ワラジもな。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/24(月) 23:22:28.80
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 08:18:01.67
>>328
>張政は塞曹掾史(政治局員)

塞・・・ふさぐ、とりで
曹・・・軍隊における階級区分の一つ
掾史・・・下級の役職
帯方郡に配置された軍の政治局員ですね。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 08:54:20.38
>>307
浅い考え方
太陽は昔から東から昇る
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:04:05.18
>>333
戦闘員じゃないけど要塞事務とか軍の仕事をしてる役人ですね
危険な辺境に赴いて調査して報告したり、文官?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:07:44.24
>>334
昔から太陽は東から登り西に落ちる
正午には南にある
方角は測量の専門家とかでなくても分かるね。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:08:34.09
今でいうと、
大使館・領事館などの一等書記官といったところかな。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:26:51.52
書記官にはいろんな仕事があるようだからな
名前は塞曹掾史(書記官)でも、真の顔は政治局員といった方が適切だったのかもしれぬ
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:37:24.99
>>335
実際に刀を振り回さなくても、刀を下げて歩く武官はいる。
役職から見ると文官ではない。
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:42:53.58
ふ‐ひと【▽史】
《「ふみひと」の音変化。「ふびと」とも》
1 古代、朝廷で記録・文書をつかさどった役。また、その役人。
2 古代の姓(かばね)の一。多くは渡来人に与えられ、文筆に従事した者たちの姓。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:52:23.78
>>340
(洛陽から)各郡に派遣されたのだそうだから、
今でいえば、北京の中国共産党から国内各市へ派遣されたような史だからなあ・・、
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:53:34.52
漢代の官職表を見ると、
https://www.book100.com/novel/6/29180/20048.html


塞曹掾史は、

四・郡国
 郡府属官
 民政官員
 財政官員
 兵政官員
 政法官員 → ここに属する「塞曹掾史, 掌邊塞之職」
 交通官員
 教育衛生官員

兵隊さんじゃあないな
 
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:55:56.32
>>343

賊曹掾史, 主盜賊事。
塞曹掾史, 掌邊塞之職。
賊捕掾,   主捕盜賊。
決曹掾史, 斷罪決獄。
辭曹掾史, 主辟訟事。

警察っぽいな
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 09:56:07.68
曹掾は事務職
東曹掾、西曹掾が人事
塞は辺境
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 10:27:25.03
238年、景初二年に魏は海上からの奇襲によって公孫氏の帯方楽浪を陥落した。
これが、卑弥呼が帯方郡に朝貢し、太守劉夏遣吏将送詣京都 に至った年。
239年、郡との挟み撃ちで、本願地遼東において、公孫氏滅亡。

240年正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
これが、東夷伝序文、評曰、韓伝などによれば、魏の軍船による、
おそらく初の 韓西岸〜対馬海峡で、倭に至る行軍で、
魏軍将校遣建中校尉梯儁等 によって、卑弥呼に印綬が為された。


これに対し、247年正始8年 の 倭への遣使は
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 
の報告があり、

遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之 は
この前年、245〜6年に、魏と韓  の戦争においてなされた難升米黄幢に関し、
韓王朝滅亡と太守の戦死した245年〜の戦争での 檄 に応えなかった理由の調査
での、魏の外交政務官である塞曹掾史張政の 倭人船便乗での渡航である。
従って、帰国船も当然、倭人船、
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 である。

黄幢の意味が戦国王が辺境土人の内戦に干渉したとか、檄が卑弥呼への応援だとか?
勝つ将を味方にするのが戦国王であり、そんなマヌケな戦国時代の王は無い。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 10:43:24.42
>>344
>賊曹掾史, 主盜賊事。

こっちが警察みたいなの。

>塞曹掾史, 掌邊塞之職。

こっちは辺境の砦の管理。
兵隊ではないけれど、武官に読めるけどね。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 10:50:28.78
帯方郡という小さな田舎の砦のことだ。
文武両道、社長から小遣いまで、何でもこなさなくてはならんかったと思うよ。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 11:00:38.28
政治と法律の区分だから、

賊曹掾史, 主盜賊事。
賊捕掾,   主捕盜賊。
決曹掾史, 斷罪決獄。
辭曹掾史, 主辟訟事。
が法律担当職で

塞曹掾史, 掌邊塞之職。
は政治担当職ということかな
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 11:07:51.48
パシリだな
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 12:14:25.53
>>296
幻の邪馬台国って
読んだこと無いけど
島原はありだな
って言うかこのスレ的にも
おおあり
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 12:18:38.53
純粋に距離から導き出したと主張しても個人的な思い入れや思い込みってバイアスがかかるからなー

リアル ララ・クロフトなどバイアスかからない外国人(非東洋人)に発掘してもらうしかない
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 12:37:35.73
地名はいくらでも変わるし遺跡は次の発掘で覆る、結局距離と方角が一番重要
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 12:40:39.83
魏志倭人伝を正しく読むより
誤読だらけの邪馬台国を正しく読んだ方が早い
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 12:42:49.78
外国人は持って帰る
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:00:49.72
距離と方角だけ紙に書いてみるのが最初のステップだが、
始点、分岐点、終点をどうするかで、又、もめる、(というか、すでにもめてるww)。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:05:59.77
240年正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王

この時、梯儁は、印綬の女王国構成国21王国を 倭人から参問し、漢字にして記録した。
次有 斯馬國・・・・次有奴國 次有を21回反復することで実在を強調している
その次有諸国を全部で、 此女王境界所盡 の 此 に掛かる、
大夫=領主=王の有る女王属国21国である。

これらは、240年梯儁の和語の聞き取りによる漢字命名だが、帯方郡で聞いた遣使名から
奴国 王は 景初二年238 遣使 大夫 奴の升米 こと 難升米
都支國 王は 同年 遣使 大夫 次使 都市牛利
巳百支國 王は 正始4年243と247年 遣倭大夫率善中郎將 伊聲耆掖邪拘
の 存在が、読み取れる。

247年 倭人船便乗で渡航した 張政の和語訳 漢字名年には
狗邪韓國 末盧國 伊都國 不彌國 が有るが、240年の21王国には含まれない。
和名都市間の距離を 里程で示した時の、各王国内等の 都市名と考えられる。

ちなみに、奴国が、2回出てくるのは247張政の 行程における説明と 
240梯儁 参問の 王の有る女王属国 として重複している。から。

みなさぁ〜ん、正しく、読めてますかぁ〜?
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:29:14.60
帯方郡で聞いた遣使名って、難升米は天子に謁見して印鑑貰ってるだろ?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:41:43.83
宮崎の本は読んで無いが
島原がめっちゃ気になって
マップを見てやって見た

末廬国が糸島(壱岐から千里)、伊都国は大宰府(糸島から500里)
邪馬台国は 島原か長崎(水行10日 陸行1月)
これで、すべてが符号する
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:41:55.27
うーん、張先生に解読を頼んでみようではないか、、、
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:44:37.50
>>359
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都

太守劉夏 遣吏将送詣京都 であって、
倭女王の遣使として、皇帝への取次を決め、帯方郡から洛陽への船を出したのは、
公孫氏の四郡を陥落させたばかりの新造船で郡に入ってる太守劉夏
『なのしょうめ』 みたいな 和語名の奏上を漢字化したのは郡の役人
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:48:28.56
>>360
悪く無いような...
でもネラーを信用して良いのかw
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:50:11.64
宮崎はどういう過程を経て
島原にたどり着いたんだろ?
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:52:10.89
以前書いた気がするんだけど
「難升米」の名前がいいよね、もち米?
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:53:43.83
>>362

洛陽まで行ってるから難升米に直接名前聞いてるだろ
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:54:34.37
宮崎は盲目だった
で、奥さんに手を引かれて島原へ・・・
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:54:38.36
赤飯とか?関係しているでしょ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 13:55:27.75
>>360
邪馬台国は島原かどうかは分からないけど

>末廬国が糸島(壱岐から千里)、伊都国は大宰府(糸島から500里)

ここはあり
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 14:00:05.13
>>370
でも、水行10日、陸行1月で
すべてが振り出しに戻る

終わらないスゴロクw
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 14:10:31.55
陳寿の無間地獄w
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 14:15:54.25
>>361
倭人伝行程文 九州上陸末盧國まで 1万里
・自郡至女王國 萬二千餘里
・参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
により、

女王国は九州上陸後の北部2千里(対馬〜壱岐×2)
周旋可五千餘里 において と

最近までの、
金印57年〜247年の遺跡や漢鏡、鉄器、絹等の遺物についての考古成果において、
唐津以西、宗像以東、熊本以南が
洛陽フロントとしての 金印国〜筑紫女王国に、含まなれい可能性が高くないかな。

発売日: 1992/07 
張先生に学ぶのも得るものは多いけど
半島史忖度以外でも、 データ不足もあると思うよ。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 15:26:55.75
邪馬台国が島原だったら境界の尽きる所は熊本南部あたりか...

距離と方角で一致してそうだけど
三十国を支配する国の首都が入り組んだ半島にあるのは不便じゃないか?
熊本平野でも成立しそうだが
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 15:27:02.14
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 15:38:34.96
>>374
熊本平野は
末廬から水行で遠い
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 15:41:09.93
>>374
長崎で良いじゃない?
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 16:39:56.26
宮崎市にが魏らず、全ての論者に聞きたいのだが、
方角云々言う前に、
上陸後、末盧国からの最初の一歩を、なぜ倭人伝に逆らって北東へいったのか、
そして、せっかく倭人伝に書かれているのに、なぜ指図通りに東南へ踏み出さなかったのか、、、
・・・最初の最初で、あえて倭人伝に逆らった人々の心理を全く理解しかねている。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 16:52:49.33
>>379
>・・・最初の最初で、あえて倭人伝に逆らった人々の心理を全く理解しかねている。

まったくだね。  最初の最初で、末盧国を間違えているからね。  @阿波
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 16:53:41.35
>>379
魏使が末盧国へ上陸した地点は呼子か名護屋浦付近です
そこから南に唐津市街地方面に向い
唐津市街地から糸島市方面に向ったので東
魏使は東南へ向かったと感じた。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 16:56:48.95
>>381

見苦しい。  @阿波
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:03:48.36
>>381
呼子から糸島は真東にあたる。
また、唐津市から糸島は北東に当たる。
そのため、末盧国東陸行500里到伊都国でなくてはならない。不合格!
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:06:56.31
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:14:50.55
>>383
錯覚だよ
南進んで東へ方向転換するのだから

目的地が見える海行とは違い、陸行では東南に感じるだろう
正確な地図は無い時代だし
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:19:57.18
>>383
具体的には糸島半島の目印となる可也山があるが、その山は呼子からは東に見えるが、平原あたりからだと東北に見える。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:21:25.12
>>381
要するに末盧国の比定地が間違ってるだけ。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:21:59.59
>>385

非常に見苦しい。  @阿波
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:22:09.88
>>387
末盧国は伊万里だもんな
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:22:52.73
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:23:18.02
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:23:50.29
>>388
阿波はムサ苦しい
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:24:30.27
>>385
で、挙げ句の果てに奈良へ行くのか?
0394日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:26:24.60
>>393
>で、挙げ句の果てに奈良へ行くのか?

おもしろい。 それも可となる理屈。  @阿波
0395日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:32:35.07
>>385
南へ進んで、途中で東へ方向転換は錯覚そのもの、それを云うなら、唐津から北東へ転換だな。
ま、いちいち錯覚しているようでは、
糸島市役所は務まっても、帯方郡の役人は務まらぬぞ。郡役所不合格!
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:33:20.44
末廬は糸島 伊都が大宰府に賛成

これが最先端だわ
あとはお前ら考えろ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:39:52.99
>>396

やけを起こして、ほっぽり出したらイカンぜよ。  @阿波
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:43:27.31
>>393
その錯覚はこの地域だからだよ

九州から奈良までの海行は、航路次第では初めは少し南行かもしれんが必ず長距離を「東」に行く事になる。つまり、方向が「南」では奈良は無理
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:43:49.39
>>378
邪馬台国は雲仙の大噴火で埋まったんじゃないだろうか..
0404日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:45:36.37
>>401
>その錯覚はこの地域だからだよ

誠に見苦しい。  @阿波
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:46:28.93
>>402
寛文以前の記録がないのが残念だよな
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:47:00.46
>>404
お前は本当にムサ苦しい
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:47:02.59
>>401
どうして呼子が間違いだと思わないの?
だいたい壱岐から千余里の条件に合わない。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:47:40.78
末盧国は伊万里
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:48:18.46
>>395
仕方ないよ、正確な地図なんてないわけだし

まぁ、当時の外交の要所は楽浪土器や大陸製品の出土状況を見れば推測可能だからね

現状では糸島は外せないだろう
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:50:02.00
アワとサツマ、どっち劣らず、いい勝負。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:51:25.47
>>407
道里の何たるかをまったく理解できていない
反時計廻りに屈曲した海路が1000里ということ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:52:58.00
>>409
糸島が行程内の国とは限らないだろうに。
伊都→糸のダジャレつながりだけでしょ?
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:53:03.04
>>405
何の記録なんだ?
そもそも文字自体無かっただろう


なぜか『倭猿』と言ってる人々がいたり
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:54:58.55
>>411
そんなもん測れるわけないだろう。
対馬を回った距離やら壱岐を回った距離やらを足す説レベルの主張だ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:55:06.60
>>4
伊都国は糸島三雲、奴国は博多で確定だから文献の読み方が間違ってるんだよ
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:55:22.38
三雲は卑弥呼の王都で伊都國ではない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:56:09.04
>>415
何を根拠に?
確定的なものが出たの?
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:56:18.83
>>411
>反時計廻りに屈曲した海路が1000里ということ

実に見苦しい。  @阿波
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:56:42.53
本当に「wwwwwwwwwwwwwwww」
(大爆笑という意味らしい)と思っている人もいるだろう

ほとんど大陸から伝わってからの話だろう、お前が書いている文章などもそう、
お前が先進国(大陸)出身の人なら、話は別
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:57:23.18
あほうな地元歴博の看板争奪戦の悲劇
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 17:58:32.51
阿波の看板は淡海からのぱくり
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:00:21.18
>>421
>阿波の看板は淡海からのぱくり

淡海は「阿波の海」のこと。  @阿波
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:03:15.99
[淡海]は[あふみ]で沿岸域が[不彌國]の汽水湖
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:04:37.61
後付けなら、何とでも言えるんだよ、

神代(上代、不明??)の、むかーしから知っていた、
某という物も当時からあった・・・、他の国から教わるまでもない・・・とか
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:09:07.34
近代に例えても同じ・・・・・・・・、
近代化?し過ぎているけど『電話』とか
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:11:18.65
早良平野北部の[淡海]という汽水湖から
西に100里戻ると[伊都國]がある
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:12:35.14
>>415
俺も以前までそう思ってたが
末廬国は糸島だ、伊都国は大宰府
これで導ける
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:15:16.53
>>426

[淡海]は「阿波の海」  「淡路」も「阿波の路」  @阿波
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:18:16.94
・糸島市商工観光課、文化課のステマ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:19:06.48
>>430
伊万里は距離の問題はないけど出土品がなさすぎてな・・・
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:22:29.58
阿波は武器型青銅器の出土でさえ隣接する県に比して貧弱
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:25:19.71
>>432
>伊万里は距離の問題はないけど出土品がなさすぎてな・・・

伊万里は距離の問題はないけど対馬海流の無知すぎ・・・  @阿波
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:25:27.59
投馬(たま)の民の植民地が阿波
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:29:21.76
>>433
>阿波は武器型青銅器の出土でさえ隣接する県に比して貧弱

阿波は鉄製武器がメインだから。  @阿波
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:30:56.04
>>435
>投馬(たま)の民の植民地が阿波

植民地のほうが、強大とは此れ如何に?  @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:32:59.95
貧弱な阿波をでかくみせたがるところがかわゆい
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:33:08.24
>>434
それはお前な
ついこないだも海流と潮流の違いも知らずに偉そうなこと言って逃げ出しとったやんけ(笑)
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:33:39.23
>>427
糸島にそれらしい港あるの?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:35:57.06
>>439
>ついこないだも海流と潮流の違いも知らずに偉そうなこと言って逃げ出しとったやんけ(笑)

まだ、寝ぼける時間じゃないんだが(笑)  @阿波
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:38:58.12
>>441
しらばっくれんじゃねーぞカスwww
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:40:20.78
>>441
お前は常に寝ぼけてるやんけ
ヨット乗りに問い詰められて逃げ出したの忘れたんか?都合の良い話やな(笑)
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:40:44.88
阿波は一人立ち出来ない土地柄
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:42:05.17
>>440

泉川付近かなぁ
1800年前だから地形が変わってるだろうが
その辺りなら別に唐津を経由しなくても
ダイレクトで行ける
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:42:08.78
>>442

うそばっかり言ってんじゃねーぞカスwww   @阿波
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:44:17.97
>>446
事実突きつけられて顔真っ赤じゃねーかカスwww
恥ずかしいなら妙ちくりんな主張やめれば良いのにアホ丸出し
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:44:51.61
>>443
>ヨット乗りに問い詰められて逃げ出したの忘れたんか?都合の良い話やな(笑)

まだ、寝ぼける時間じゃないんだが(笑)

うそばっかり言ってんじゃねーぞカスwww   @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:46:09.20
>>445
対馬海流があるのにダイレクト?w
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:47:07.16
>>448
ウソなんて言ってねーだろドカスwww
お前は海の知識もないくせに知ったかこいた挙げ句に逃げ出した
恥を知れドカスwwwww
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:50:20.34
>>449
それは唐津にしたって一緒だろw
大体糸島が伊都国だったら壱岐から直接来れる
わざわざ唐津を経由して徒歩で糸島まで行くバカいるかよ、糸島も海に面してるのにw
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:51:28.31
>>450
>ウソなんて言ってねーだろドカスwww

それがウソと言ってんだろドカスwww   @阿波
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:52:10.68
>>451
否定してるわけじゃないんだから
少し落ちつけよw
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:52:52.91
>>451

アハハ! おもしろい。  @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:56:16.33
>>451
伊都国は内陸部のイメージあるなぁ
確かに糸島と言うより、大宰府の方がイメージに合う
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:56:18.46
>>451
糸島って言っても広いからな
野北なのか芥屋なのか、引津なのか船越なのか
深江なのか大入なのか、磯崎なのか鹿家なのか
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:57:44.86
>>452
お前がいくらウソだと嘘ついてもみんな知ってる事実だからなドカスwww
猿真似とウソしかつけない最低なドカスwwwww
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:58:50.72
>>456

トンデモ、選り取り見取り。  @阿波
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 18:59:43.40
>>454
今お前ちょっと邪魔だからどっか行ってくんない?
小一時間くらい他所でアワアワ言って来て
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:00:47.30
>>458
ウソツキがトンデモって言っても何の説得力もないんやで
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:01:17.93
>>459

妄想の邪魔?  @阿波
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:02:30.34
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:02:43.59
阿波が問い詰められて逃げ出したのってどこのスレだっけ?
年毛神社とかってインチキ神社の話題で盛り上がってたはずなんだが、、、
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:04:28.72
>>456
泉川の所って何度言えば
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:04:31.80
>>460

九州説がいくらトンデモって言っても何の説得力もないんやで   @阿波
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:06:53.44
>>465
お前が問い詰められて逃げ出したのってどこのスレだっけ?
年毛神社とかってインチキ神社の話題で盛り上がってたはずなんだがwww
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:07:07.63
>>463
>阿波が問い詰められて逃げ出したのってどこのスレだっけ?

実際に逃げ出したのは、九州説だよ。  情けない話。  @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:10:05.79
>>467
ついに幻覚見始めたかwww
ドカス通り越してドマヌケだなオイwwwww
逃げ出したのはお前だよ
潮の流れと海流の違いも分かってなかったのに強弁してた厚顔無恥
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:11:10.44
>>465
ならお前なんでここにいんの?バカなの?死ぬの?
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:12:01.76
>>464
防人=一大率
ピッタリだ
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:13:11.12
>>468
>潮の流れと海流の違いも分かってなかったのに強弁してた厚顔無恥

まだ、寝ぼける時間じゃないんだが(笑)

うそばっかり言ってんじゃねーぞカスwww   @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:15:13.63
>>455
俺も前々から
伊都国は大宰府だと思ってた
でもなぜか伊都国=糸島に固まりつつあるらしい
一体、誰が糸島だと言い出したのか
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:16:07.62
>>470
>防人=一大率

筑紫忌部の職掌だね。  @阿波
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:18:20.14
阿波なんて坑夫の集落があっただけだろ
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:20:02.71
>>474
>阿波なんて坑夫の集落があっただけだろ

いや、鍛冶屋の集落もあったよ。  @阿波
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:21:38.97
>>471
ウソツキは黙ってろ卑怯者www
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:22:05.75
>>474
>阿波なんて坑夫の集落があっただけだろ

ほかにも、勾玉屋の集落もあったよ。  @阿波
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:22:22.10
>>477
ウソツキは黙ってろ卑怯者www
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:25:15.13
>>474
>阿波なんて坑夫の集落があっただけだろ

そのほかにも、機織り屋、古墳造営屋、薄型軽量土器屋、水銀朱精製屋とかいろいろな集落もあったよ。  @阿波
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:27:32.39
>>480
ここ阿波説スレじゃないよ
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:29:41.36
>>481
>ここ阿波説スレじゃないよ

妄想の邪魔してごめん。 なんせ倭国(阿波)はネタが多すぎてwww   @阿波
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:33:19.20
>>474
>阿波なんて坑夫の集落があっただけだろ

あっ、大事な集落忘れてた。  大海原を操る海のスペシャリスト倭国(阿波)の海人族の集落もあったよ。  @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:36:53.76
【大宰府は日本の首都だった】

今日は何故かリンクが張れない
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:37:33.09
糸島水道は泊あたりが陸橋だから
壱岐から直接糸島経由で博多に行くなら今津湾側まで行ったほうがいいが
深江で楽浪土器が大量に出てるから
松浦半島に寄航して、沿岸地乗りだろうな
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:38:36.31
四国スレは、開店休業! なんでだろ、なんでだろ、
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:39:45.63
阿波は寂れた坑夫の集落があっただけの
僻地だった。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:40:37.70
クソワロタwww
泡ウンコが袋叩きにあってるwwwwwwwwwwwwwwwwww

ウンコバブル崩壊wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwt
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:41:38.59
>>486
1が立って三年近く経つんだね。
歴史あるpart1スレだね!
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:42:31.69
自分が追い詰められて逃げ出したのに、それを九州説側が逃げたとか、逃げ出した事自体をウソだと言い張ったりするようなクソ野郎は相手にするだけムダ
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:42:48.73
秀吉は、船で名護屋へ出向く途中、糸島の深江神社に参拝した。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:43:52.86
阿波には顔を真っ黒にした坑夫たちの
寂れた集落があった。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:44:24.71
>>487
水城が白村江で破れた後に大和が建てたのは
畿内王権の捏造で、元々その前からあったらしいね、それらを踏まえると大宰府が伊都国だった可能性大
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:44:41.73
>>495
ここは九州説スレ
阿波disりは四国説スレ行ってやれや
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:46:47.22
>>496
それは初耳
どこかにソースある?
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:46:54.61
>>496
>それらを踏まえると大宰府が伊都国だった可能性大

大宰府は8世紀以降 だと、何度言えばw  @阿波
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:47:30.90
末廬国=糸島
伊都国=大宰府なのは分かった

で、邪馬台国はどこなの?
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:48:50.13
邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]
1日本@名無史さん2016/03/19(土) 21:14:14.21
今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。

ホントだ、3年たってもマイナー派。 神懸かりして語る阿波だけ当たってる。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:50:14.31
>>501
ここは九州説スレ
阿波disりは四国説スレ行ってやれや
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:50:14.67
>>497
>阿波disりは四国説スレ行ってやれや

妄想の邪魔してごめんね。  @阿波
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:50:31.74
>>498
今日はなぜかNGワードとか
出てきて張れないんだよ
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:50:44.99
>>500
ちげえよ。
糸島が末盧国なら糸島にある王墓は
なんなんだよ。糸島は伊都国。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:51:42.25
>>504
それってまさか百済ヒトモドキの私小説だったりしないよな???
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:52:22.90
>>500
末盧国は伊万里だと何度言えばwww
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:55:37.02
>で、邪馬台国はどこなの?

Cangoxina
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:57:34.49
>糸島は伊都国。
糸島市商工観光課、文化課のステマ乙
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:58:20.00
>>506
国王の王墓にしては小さすぎるわ
末廬国王の墓だろ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 19:59:11.66
>>511
んなことない
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:01:26.36
>>508
ごめんなさい、それも思ってたけど
心変りしちゃった
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:01:50.31
>>511-512

トンデモ同士、喧嘩は御止め。  @阿波
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:02:05.43
ていうか、大宰府の王様の墓ってどれなの?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:04:17.61
糸島には、数十メートル〜100メートル級の墓が沢山あるのに未発掘、荒れ放題。
でも、ちっちゃな平原ばかりにこだわってる。
なんでだろ、なんでだろ。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:05:28.46
>>515

大宰府は8世紀以降 だと、何度言えばw  @阿波
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:05:58.07
>>512
気持ちは分かるが
末廬国が唐津にせよ、伊万里にせよ
伊都国が糸島だと
距離も方角も合わないし条件が合わない
伊万里に至ってはそれっぽくない
あんな入り組んだ所より、糸島の方が圧倒的に入り安い
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:10:31.92
>>518
>あんな入り組んだ所より、糸島の方が圧倒的に入り安い

糸島より、福津・宗像方面の方が圧倒的に入り安い。  @阿波
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:12:58.69
>>518
>糸島の方が圧倒的に入り安い

まったくその通り。
船旅の途中、秀吉も、深江港の深江神社に立ち寄って茶会を催した。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:14:22.87
>>515
知らん
大和王権が破壊したんじゃないの?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:17:04.78
糸島には大古墳が沢山ある。
なのに ちっこい平原方墳しか言わないのは、なんでだろ、なんでだろ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:17:19.72
>>511
じゃあ大宰府付近に弥生時代の王墓があるか?
ないだろ
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:17:44.76
秀吉は陸路だろ
太閤道がある
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:20:14.69
>>523

だから、大宰府は8世紀以降 だと、何度言えばw  @阿波
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:20:28.13
>>521
お前阿波並みのバカだわ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:22:50.45
>>525
ところがそれより古い支柱の跡が見つかってるんだよ。阿波と違って筑紫の歴史は底が知れん
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:23:38.00
>>526

トンデモ同士、喧嘩は御止め。  @阿波
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:24:49.36
やっぱり弥生時代最後の女王墓である平原遺跡で決まりだろう。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:26:22.18
まぁ、伊都国は糸島か大宰府かの
どうかだろうな
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:26:44.95
>>527
>ところがそれより古い支柱の跡が見つかってるんだよ。

それがなにか?  8世紀のかね?  @阿波
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:28:20.09
>>26
日数も1/5して読むのか
なかなかすごいね
0534日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:33:00.82
>>533
それ良いな
阿波が絡んできたらそれで即レスしようや
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:35:55.48
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:36:19.89
>>533
じゃあ俺が一緒に阿波スレ行ってやるから一緒に帰ろうや
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:37:04.31
このスレ的に伊都国は
糸島と大宰府の間をとって福岡にしておこう
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:41:33.22
>>537
中間にちょうど油山があるな
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:47:41.24
>>524
1592年春、秀吉は名護屋へ向かったが、その時は船であり、
途中、糸島領主の招きで深江港の深江神社へ立ち寄り、茶会を催した。

まもなく母君大病で大阪城へ戻ったが、その秋、再び名護屋へ向かった。
その時は台風を警戒してか、陸路であり、佐賀川上から、多久を経て唐津へ入り、
唐津からは、くだんの太閤道を名護屋城へ向かった。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:48:35.67
投馬国が邪馬台国より南にあると言う理屈がよく分かりません
行き方や戸数の概略分かってるから女王国の北じゃないの?
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:49:26.62
「太宰府は日本の首都だった」は卑弥呼の後、日本列島を支配していたのは大和政権ではなく九州政権であったことを年号の問題、

放射性炭素による年代測定の結果、考古学界による九州の遺跡の年代がとんでもない過ちを犯していて、

現在の推定よりはるかに古かったこと。たとえばかの有名な防衛施設「水城」は、考古学界は日本書紀の記述から7世紀の建造と言っていましたが、

最初に築かれたのは卑弥呼の時代(240年ごろ)で、その後430年ごろに大大改造され、九州政権消滅の契機になった白村江の戦いの直前660ごろに補修されたことがわかっています。

いわゆる日本と深い関係を結んでいた中国史書の証言も大きな証拠として記述しています。そして今、日本の正史とされている日本書紀は、九州政権の史書を掠め取り、

あたかも自らが主権者であったかのように改作した“偽りの史書”であることを明らかにしています。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 20:59:47.06
で、邪馬台国は?
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:00:56.63
>>540
「自女王國以北其戸數道里可得略載〜」
は、女王国より南の国の戸数と道里が略載できない、と論理的に同じではないから。
北が書ける≠南が書けない
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:04:03.22
>>542
伊都国が糸島であれ大宰府であれ
起点の末廬国から南へ水行10日 陸行1月の所だな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:11:41.16
[道程](みちのり)を[日]を単位として記したものは[道里]とは言い難い
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:18:15.18
>>540
>不彌国から、投馬国も邪馬台国も同じ南の方角にある。そこへ至るには、
(どこかの港から)・・・
投馬国は水行20日かかり、邪馬台国は水行10日と陸行1月かかる。
水行1日は千里、陸行1日は百里として計算すれば、さてどちらの国が遠いでしょう。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:19:51.45
>>539
>唐津からは、くだんの太閤道を名護屋城へ向かった。

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:20:35.63
>>544
うむ、なるほどな




で、どこなの?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:23:21.66
>>506
周辺21カ国のどれか
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:28:41.52
>>549
>周辺21カ国のどれか

当たるも八卦当たらぬも八卦。  @阿波
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:32:28.53
>>539

そのソースある?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:33:32.03
>>548
このスレ的には九州西海岸で固まりつつある
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:33:40.51
>>539
>唐津からは、くだんの太閤道を名護屋城へ向かった。

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:47:50.57
>>554
>そろそろ帰れや

オッケー分かった

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:54:19.98
>>551
この件は、2か月ほど前、このスレにて紹介ズミ。「」内のキーワードで検索されたし。。
1.「深江神社」の紹介サイトに、1592年春・秀吉茶会のことあり
2.その秋、再度、陸路参陣中の秀吉が、「佐賀川上」の佐嘉川に差し掛かった際、
大雨で渡河できなかったので、藩主鍋島公が仮橋「名護屋橋」を作って渡した旨のサイト有り。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 21:57:00.25
>>557
>唐津からは、くだんの太閤道を名護屋城へ向かった。

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 22:07:47.66
>>558
どうやら阿波は、松浦半島の名護屋城を、愛知県のシャチホコ名古屋城と勘違いしてないか??
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 22:09:22.10
>>559
なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 22:16:38.62
もう、妄想する気力もなくなってしまったかwww   @阿波
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 22:48:17.73
>>552
具体的に
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 22:49:49.84
>>557

>1592年春、秀吉は名護屋へ向かったが、その時は船であり、
>途中、糸島領主の招きで深江港の深江神社へ立ち寄り、茶会を催した。

これのソースないね
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:22:32.73
>>563
それをみんなで考えるスレ
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:30:17.23
阿波のことなど考えたくもない。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:30:23.74
>>544
水行20日の起点は帯方郡からだよ。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:31:45.58
>>567
違う
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:33:40.83
>>540
ここの人滅茶苦茶な読み方してるからねw
投馬国は邪馬台国より北ですね。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:35:29.07
>>568
里数の説明は伊都国と奴国の境で12000里に達してるから終わり
だから水行20日の起点はまた帯方郡からだよ。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:44:00.84
>>565
つまり分からないと言う事ですね
分かります
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:45:13.08
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程

帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県都万)までは水行20日

1日千里の計算であり、帯方郡から九州北岸までの一万里と一致している。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:50:42.18
>陸行1月(1日の誤りか)

これやるならどこにでも比定できる
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:53:02.71
>>570

続いて「投馬国」はどこかということになるが、「末蘆国」から二十日ということは、「邪馬台国」までが

十日だから、同等の距離の残りの十日のところ「投馬国」ということになる。

そうなると、やはり距離、方位、地形を考えると、古今を通じて「鹿児島」以外に考えられない、と張氏は解読した。

薩摩半島をグルっと内側に回りこむが、「末蘆国」からの距離も方位も「魏志倭人伝」の通りになる。

・・・続く!


参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と
   倭人伝を読めば・・・〜」
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/25(火) 23:59:43.25
>>574
だから末蘆国から二十日じゃないんだよw
お頭の弱い張さんだなwww
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:00:29.79
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!

「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は

「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で

無ければならない。これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。

当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。

さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。

・・・続く!
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:08:45.52
>>576>>571
>「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で


末廬国はやはり糸島だ、伊都国は大宰府
そして邪馬台国は島原だ!
壱岐から糸島までピッタリ千里75km
糸島から大宰府までピッタリ五百里38km
糸島から島原までピッタリ二千里153km
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:11:28.05
島原に行くのに糸島は遠回りだろ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:17:14.65
>>578
唐津の方が近いが倭国の代表的な港が糸島だったんだろ伊都国も近いし、金印が持ち出されたのも糸島からだから十分に頷ける
何より壱岐から千里、唐津でネックだった
距離もピッタリ
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:20:57.38
末廬=糸島には考古を使って
島原の比定には考古を考慮しないのは示威的でしかない
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:22:40.69
示威的→恣意的
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:32:03.63
糸島、山で画像検索したら
唐津には無い海と山の風景
普通に住んでみたい
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:35:58.13
>>582
海女のメッカでもあるしな
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:38:14.07
>>522
皆、あえて突っ込まないのだろうが…糸島には倭人伝時代の墓には大きいのはないよ
埋葬文化自体がそうなんだろうね

平原の凄いのは鏡の占有率
この頃は破鏡(破片)のみ大事に副葬している墓も多くなる中で、この枚数は驚異的

3世紀末ごろ以降、箸墓と同時期から前方後円墳が見られるがな

それらの前期古墳が多くは未発掘
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:38:21.81
終わったな
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:41:24.36
>>584
港として栄えた場所だったとしたら
占有率が多いのも頷ける
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:43:29.16
江戸時代の長崎みたいなだな
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:44:29.73
大宰府ももう少し発掘して欲しい
C14法では7世紀よりもずっと古い遺跡が
相次いで見つかってるらしい
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 00:45:54.05
大宰府周辺はやってるだろ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 01:27:39.37
>>584
箸墓は卑弥呼の墓で、だから伊都国は糸島なんです、、、、
というのが「昭和の伊都国王」といわれた原田大六の言い分だった。
今、箸墓は3世紀末で、そのころの前方後円墳なら糸島にもたくさんあるが未発掘、というのは、いささか引っかかる。
んじゃ、原田大六の言い分はまるきり違っていたということだからな。
それに、三世紀末の墓とはいえ、それらの調査データがあれば、
糸島と伊都国の関係の有無も、鏡の多さの理由も、一段とはっきりするのではないか。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 01:35:45.05
>>590

>>539の「その時は船であり、」のことが書いてないね
そのソースが知りたいんだけど

こっちは陸路をとっている

「松国の太閤伝説 二丈地理全誌」 (リンク貼れない)
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 02:43:04.48
>>587
そのころ江戸にあたる場所が無い
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 02:57:24.90
>>586
その頃の難波港は寒村だからね。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 03:02:46.47
(末盧国から)東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

>東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着す

どう考えても伊都国は内陸部にある
唐津から糸島までなら舟で行けるから
水行10日2000里から逆算して水行2日 陸行7日
と書かれないとおかしい
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 03:06:34.70
また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。

>山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。

唐津にこう言う風景が無い
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 03:19:53.69
背振山系は北に目を転じれば壱岐まで見えます。同じ山系で壱岐と雲仙と両方見えるというのはなんだか壮大ですね。

古代史の重要な場所が一望できるわけです
当然福岡平野や糸島平野に宗像あたりも見えます。つまり背振山系は一支国、伊都国、奴国、沖ノ島の宗像三女神勢力、志賀島など博多湾勢力

すべてを見渡せる山々なのです。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 05:22:57.53
>>597
天山も全く同じ条件だぞ
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:23:46.82
高祖山
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:26:05.50
>>599
宗像は見えないな
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:27:31.66
>>590

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:28:36.39
>>592

なんで唐津や糸島を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:31:27.89
>>596
>唐津にこう言う風景が無い

だから、末盧国は「福津・宗像方面」なんですよ。  @阿波
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:32:02.95
「ERROR: We hate Continuous....
連投ですや・・・」なので、またテスト投稿
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:34:14.85
>>603
完全論破されとったやん?
インチキ神社の創作伝承しか根拠ないんでしょう?
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:40:19.96
5chは、今「邪馬台国畿内説 Part410」スレの投稿する事を拒否してるんだね。
しかし、5chは、スレ主の90個位の連続投稿は、拒否していない。
矛盾しているし、
明らかに、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の仲間か、味方だな。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 06:41:43.75
>>606
インチキ神社の創作伝承???  いつまで寝ぼけてんの?  もう、朝だよ。

対馬海流に流されて、末盧国は「福津・宗像方面」なんですけどwww   @阿波
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:05:54.47
>>597
雲仙なんだな
隋書の阿蘇山も雲仙の事だと思う
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:09:40.84
長崎のその辺りは火の国と呼ばれていたらしい卑弥呼は火巫女
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:21:03.23
その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、

一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。

王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、

飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:26:21.84
弥生時代は海運が交通の主力。
ならば地域は海で考えるべきだ。
後漢書では倭国は狗邪韓国から倭奴国までの対馬海峡だ。
それに対する新興勢力が有明海沿岸の肥国(火の国)だ。
雲仙も阿蘇山も肥国にある。
だか、名前を無視してあれはこっちのことなどと付け替えはじめたらキリがなく、畿内説と同じになってしまう。
やはり倭国にあったという阿蘇山は阿蘇山なのだ。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:33:52.92
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:34:55.57
>>608
都合が悪くなるとトボケて逃げ回るクソ阿波(笑)
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 07:41:08.23
>>614
それが阿波の平常運転
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 08:17:52.18
>>591
原田さんは平原はもっと古くの墓と思っておられたから
平原が2世紀末以降とされたのは2010年だからね

前方後円墳は箸墓と同じ頃のが沢山ある訳ではなく、箸墓と同じ頃の墓は御道具山古墳(糸島最古)で、その後に古墳前期に入るが、その頃にたくさんあるのだよ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 08:22:08.32
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 08:52:02.38
>>576
すれば・・・すればなんて書かれてないよw
>>577
末廬國は東松浦半島から糸島市西部だよ
伊万里市が含まれたどうかは倭人伝の記述からは分からん。
呼子や名護屋浦から500里(40km)の場所の伊都GCのある丘陵地帯が末廬國と伊都國の境
そこから100里(8km)先の高祖、吉武、日向峠、金武、曲渕、飯場、川原のラインが伊都国と奴国に境。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:16:15.16
九州説、倭人伝の基本として
卑弥呼の墓を見たのは、247年の張政だ、ってのは判るか?
247年張政は、末盧國に上陸、東南 陸行五百里 到伊都國 に駐留した。

現在までの考古学成果のよって、末盧國は糸島半島北岸もしくは引津湾であり、
伊都は早良であり今宿の峠が山城となり一大率時代には海浜、港を含む地域。
ちな、奴国は福岡平野に展開する。 不彌國は博多湾岸の港町。

倭人伝を正しく読めば、他の候補地は存在しえない。
この末盧〜伊都、5百里の間に、卑弥呼の墓は有る。
250年を想定する遺跡を見りゃ良いだけのこと。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:22:00.01
>>621
...と思います、と書けよ。
根拠もなく断定すんな!
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:23:41.76
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:33:25.96
>>622
断定すると
根拠は倭人伝を正しく読んでいる
と、言うこと。

倭人伝には、思います?
なんて書いてない。

考古立証は後からついてくる。
もしくは、残念だが、もう出ない。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:47:06.71
壱岐から糸島半島北岸もしくは引津湾に直接来るなら
早良まで歩くやついないだろ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 09:54:50.66
>>592
太閤道伝説は、福岡県下のあちこちにある。
秀吉は、名護屋出陣の数年前にも、九州仕置き(征伐)のため北部九州を転戦しているので、
その時に高祖山の原田城も落とされたのだが、当時の秀吉軍の行軍の道も太閤道と呼ばれているそうだ。
太閤道だけでは、名護屋出陣のために秀吉本人が通過したのかどうか、判断はむつかしい。

1592年3月、秀吉は大坂を発ち、4月24日に深江浜に着いた。
(通例、「浜に着いた」という表現は、(船で)を意味する。)
なお、名護屋在陣は退屈だったので、その年8月にも深江神社に参詣し、茶会を開いたということだ。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:00:32.31
>>626

「浜に着いた」という表現したの誰?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:04:33.25
>女王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが(指示もなく)自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、

雲仙にいたんだ!
邪馬台は山の台地
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:07:15.60
>>617
ほう、そういうことか。
つまり原田大六が「伊都国」の拠り所にした大古墳群は、あらかた後世のものであり、
二世紀末〜のは、平原くらいしか残っていないというわけか。
それで僅か10m方の平原1号にこだわるのだな。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:07:55.50
>すれば・・・すればなんて書かれてないよw

泡ウンコさん並みのアホやろ
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:09:04.26
>>630
遺跡に惑わされるなと何度言えば...
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:09:56.68
>>625
その通り。良い読みだ。
247年 張政は何故余計な500里を歩かされたか?

240年の南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
を要した、魏船魏軍による行軍だった、建中校尉梯儁は、博多湾に回航しただろうし
伊都を『到』とする到達点とせず、女王国南限への2千里で女王宮まで行っている。

247年張政時にあった一大卒は、軍事的に査察官である張政に軍港を見せない方針、
旧知の公孫氏、韓王朝を滅ぼした 魏 を敵視している可能性が高い。
そのうえで、卑弥呼の墓を見せるため、この間を歩かせる必要があった。ことにした。 
で、倭人船便乗の張政は末盧が王船の港のくせに、糞藪だったと不満であるw
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:14:58.07
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:22:17.65
>>636
糸島だと何度言えば
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:23:54.40
>>637
距離で既に破綻してるじゃないの
お話にならない説を何度聞かされても苦笑いしか返してあげられないのよ
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:30:22.12
>>633

何その作り話
梯儁が博多湾に直接船で行った情報があるなら
中国人もバカじゃないんだからそっちのコース書くよ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:36:33.09
>>638
どっちの距離?
壱岐→糸島75km
ピッタリ千里
糸島→大宰府38km ピッタリ五百里

糸島→島原150km ピッタリ 二千里ですよ

あなたも伊万里から同じように距離を示して
もらえますかね
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:38:21.81
>>634
>>637
糸島市役所の職員さん?
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:39:59.87
>>638
末盧国への上陸場所が呼子か名護屋浦だとすれば1里80mで距離はドンピシャだよ。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:40:00.01
>>638
末盧国への上陸場所が呼子か名護屋浦だとすれば1里80mで距離はドンピシャだよ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:40:16.36
>>640
船で南に行けないぞ。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:41:58.61
>>643
壱岐に近すぎる
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:44:07.19
>>640
>壱岐→糸島75km

これどこからどこまでの距離なの?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:47:23.24
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:54:20.04
>>639 そっちのコース(陳寿も中国人も馬鹿じゃないw 正しく読むべき)
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

投馬國は、半島南岸倭人国
250年当時、筑紫女王国7万戸 投馬國5万戸で 並立する規模が有る。

朝鮮 ヒトも土器 的な言い方でw
これ以降、350年までに日本が百済新羅を支援して建国した 
歴史への忖度で、この事実を 5ちゃん歴史板以外で、公にはw伏せている。

240年梯儁は238年公孫氏の楽浪帯方陥落以降、魏軍初の韓西岸〜対馬海峡行軍。
決まった寄港地の無い、幕営行軍であり地名は記していない。

投馬國 は、247年の張政が記した、和名を漢字化した都市名ではなく
馬韓54国、辰韓12国、邪馬台国21国といった概念の国名である。

ちな、投馬國は馬韓を越えたところの国、
対海国や一大(支)国などのように、和名では無い表意文字の国名と考える。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:55:28.82
>>646
マップみろよ
それと伊万里なら伊都国がここで
邪馬台国がここと、まずは示すのが
礼儀だろ

お前も泡ウンコと一緒で
撹乱したいだけだろ?こら?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 10:57:23.68
>>648

「ちな、」って何?
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:00:19.56
>>649

俺は伊万里説ではないんだが、
壱岐から唐津と糸島半島北部じゃ距離かわらんぞ
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:01:54.71
>>651
糸島の泉川の所だと思う
0653日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:02:00.05
>>634
岩山も素晴らしいが、沿岸の船旅も快適のようだ。。
唐津もすぐそこ、博多もすぐそこ。千数百年前の五十途手も船でやってきたというし.....
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:06:27.16
九州の風景は神々しい
0655日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:07:55.08
>>648
わかりました。何かご病気なんですね。
お大事に。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:08:11.94
>>652

たいしてかわらんだろ
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:08:45.37
糸島(芥屋)は福岡のハワイと呼ばれている
そのうち優勝した球団は糸島旅行になるだろう
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:13:54.12
せいぜい、ソフトバンク二軍・三軍の年明け自主トレ地だな
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:14:35.22
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:16:29.78
あそこで自主トレは無理w
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:19:00.90
>>640
>>642
>>643
>>652
50Kmしかないぞバカなのか?
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:21:40.03
畿内説は桜井市関係者の必死ステマで破綻した、
北部九州説も、糸島市関係者のステマで雲行きが怪しい...
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:23:12.44
>>662
500里だから1里80mとして40kmだよ。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:30:10.17
>>664
伊都国と末廬国を混同してるだろ
今は末廬国=糸島市の話だよ
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:32:23.97
>>663
お前も混同してるなw
北部九州はとっくに破綻
末廬国が糸島にせよ唐津にせよ
九州西海岸説になる
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:34:12.68
>>665
末廬国は東松浦半島から糸島市西部の地域だよ。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:34:53.59
>>662
俺のマップじゃ、陸路が足されて80km
と出てくる、直線距離はどこで見れるの?
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:36:16.66
>>634 すばらしい
呼子や唐津、伊万里も確かに良港なんだけど
壱岐に渡海するための、潮待ち、潮見 と言う意味では
糸島半島北岸、芥屋浜、大門がベストです。

湾内に造船所ドックの有るw母港が有っても、海峡の潮は見てから出航するはず。
古代遺跡群にも近い。 南東5百里で早良が伊都。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:37:13.51
距離を測る基本はものさしを画面に当てる
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:39:29.20
>>670
先輩、殴っていいっすか
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:39:49.08
>>669

でもそこ張政がだまされて連れてこられたところなんだろ
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:44:18.34
>>669
早良って有名な遺跡でもあるの?
距離と方角的に伊都国は大宰府が合うと思うんだけど
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:45:19.35
畿内説破綻で、
九州説の主戦場は、伊都国から、末盧国争奪戦に変わってきたようだ、、、
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:47:35.40
早良平野の弥生末期は野方遺跡くらい
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:51:03.26
福岡市は奴国でいいでしょう。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:54:20.91
>>676
なぜそうなるのかさっぱりわからない。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:54:58.73
伊都國の20倍、壱岐の7倍だから久留米あたりまで奴国でいい
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:57:20.24
>>677
呼子や名護屋浦から600里(48km)で日向峠付近だからその先は奴国。
1里80mとして
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:58:38.29
>>677
不弥国は那珂川町や春日市付近だね。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 11:59:10.20
>>669
壱岐に近すぎる。
前の方読まずにただ書いてるんだな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:00:27.30
>糸島半島北岸、芥屋浜、大門がベストです。

う〜んだから早良なんだな
俺は伊都国=大宰府だから
陸行で伊都に入りやすい泉川の所がベスト
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:00:33.15
>>679
呼子も名護屋浦も壱岐に近すぎるからダメ
0684日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:01:30.02
壱岐から糸島(泉川)まで50kmしかないんだから末廬国である可能性はゼロで解決済
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:02:59.28
>>681
だから
物差しじゃなくて
直線距離を出してくれよ
俺は泉川
669は芦屋浜
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:05:49.93
>>685
何言ってんの? 意味がわからない。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:07:06.62
壱岐から糸島(泉川)まで50kmしかないんだから末廬国である可能性はゼロで解決済
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:08:36.36
芦屋浜ってどこの?
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:09:16.37
>>684
お前の書き方は
最初に答えありきの畿内説か泡ウンコ説と
そっくりだぞ

九州説は比定地がありすぎて最初に答えありきじゃ無理なんだよ、その分間違いと気付けば
改める事もできる

末廬国が伊万里だと言うなら伊都国と邪馬台国
どこだ、距離は?方角は?
はよ書けよ、
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:13:34.41
>>686
お前泡ウンコやろ!w
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:16:26.54
>>689
>その分間違いと気付けば
>改める事もできる

じゃあ、壱岐から千余里(対馬と同じぐらいの距離)にある海岸線の場所から捜せよ。
間違いと気づけ、とみんな言ってんだぞ。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:19:19.02
>>689
壱岐から糸島(泉川)まで50kmしかないんだから糸島が末廬国である可能性はゼロ

解決済
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:20:55.18
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:24:36.73
>>693
マップでは陸路を含めて80km
陸路の余分な部分、唐津中心部から玉浜中学まで(8km)を差し引いても72kmあるが
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:27:57.72
伊万里野郎は卑怯者

と言う事で

終了
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:29:51.62
芦屋浜とか玉浜中学とかどこの話なんだよw
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:32:01.25
>>695
勝手に陸路を含めんなよwww
なんだそのインチキ説
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:32:52.19
>>683
陸上や海岸沿いは歩測で測れたけど海峡の距離は測れなかったから一律に1000里としただけだよ。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:33:20.63
>>698
魏船は揚陸艦かwww
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:34:38.10
>>699
じゃあなぜ対馬壱岐間と朝鮮半島対馬間が測れたんだ?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:35:44.53
>>690
これだけ間口を広げて予言すれば、どこかが当たるだろうよww
そこで末盧国は、肥前松浦半島西側の、
松浦湾・伊万里湾・仮屋湾、及び同半島東側の唐津湾岸の合計4000戸であり、
上陸地としては、当時まだ裏寂しい津であった唐津競艇場の南側にあった中原港を推す。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:36:33.52
>>673
大宰府まで行っちゃ奴国を想定できないよ。

240年の邪馬台国は九州北部2千里、南限女王宮はみやま市南山麓として
此女王境界所盡 は 次有の21王国 で構成される という読み方なんで

この基準だと 奴国の中に247年の伊都が含まれる と考えるが、
総戸数7万のうち2万戸と大きいのは確かだが、那珂川より西が奴国と想定したい。

21国に小国で 香椎、糟屋、志免、那珂、宇美、春日、大野城
とかあって、大宰府って、その まだ向こうだし。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:36:33.56
結論としては、壱岐から糸島(泉川)まで50kmしかないんだから糸島が末廬国である可能性はゼロで終了で良いだろ
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:37:22.01
だから末盧国は伊万里だって何度言えばwww
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:37:43.60
>>701
一律に1000里としただけだよ。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:39:21.87
>>705
伊万里が末盧国に含まれたは魏志倭人伝では分からないが
東松浦半島から糸島市西部が末盧国であったことは確実だな。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:39:48.92
>>706
ソースは?
ただの妄想なら蹴りブッ込みに行くから住所晒せ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:39:50.08
一律1000里なら末盧の津がどこかわからん
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:40:57.60
>>707
糸島市西部は可能性ゼロでしょ距離が足りなすぎる
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:46:31.73
>>708
海峡でどうやって距離を測るんだい?
>>709
末盧國の北端が魏使の上陸した場所だよ。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:48:36.93
>>710
糸島市西部までが末盧國で東部が伊都國
末盧國の北端の呼子や名護屋浦から500里(40km)ですから。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:51:00.64
結局ただの妄想かよ
ツマンネ
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:51:49.89
>>711
魏志倭人伝記載の距離を無視するなら、邪馬台国と関係ないからここに書かなくていいよ。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:54:48.18
>>704
壱岐が 方可三百里 なわけで
渡海三回、それぞれ千里平均のうちの
3百里位は誤差のうちで良いと思うけどね。

>>672 の指摘どおりで、上陸地点は、どこでも可能なわけで、
250年に中心的軍事拠点となり得る一大率を想定できる地点から北西に500里が末廬国。
この末廬国も240年に王の有った女王属の21国には無い。

張政の、糞僻地証言があるし、港湾都市的な遺跡は無いかもね。
末盧国争奪戦www
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:55:20.69
>>714
魏志倭人伝に忠実に解釈してますが?
魏使はどうやって海峡の距離を測ったの?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:57:28.97
>>715
当時は港湾都市なんて無いですよ
船を付けるのに良い自然の入り江に停泊してただけ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 12:57:43.46
>>716
結局ただの妄想かよ
ツマンネ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:00:18.90
当時は三角測量とかは無く歩測などの実測しかないんですから
海峡の距離だけは魏使は測れないから一律1000里としたんですよ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:00:18.96
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:02:27.87
>>719
海峡の距離を魏使が測れた根拠は何なんだ?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:03:56.96
>>698
ノータリンかお前は
マップで距離を測ると自動的に
陸路が含まれるんだよ
その部分を差し引いて72km
と言ってるの
死ねやカスが
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:10:00.44
>>710
泉川まで72km
だと何度言えば
可能性大ありだよ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:11:17.71
朝鮮海峡の幅を測るなんて天文学に通じて緯度を計測しないと不可能ですね
魏志倭人伝の行程の中で海峡部の各1000里は適当に書かれたものですね。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:13:48.07
自己レスのコピペしか出来ない
イマリ野郎は完全に破綻したな
コイツは泡ウンコと同じオマルの糞www
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:17:53.67
>>720
韓伝 韓方可4千里
韓西岸4千里、東行3千里で狗邪韓國7千里

247年倭人船便乗の張政が倭人から地名を聞いた
狗邪(韓)國は、半島南岸 東西4分の3地点
渡海3回、各千里 
九州上陸迄、合計一万里

240年 建中校尉梯儁 の行軍
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
自郡至女王國 萬二千餘里
上陸後2千里の王宮で 梯儁は 卑弥呼に印綬した。

これが、魏時の2回の使譯による、倭人伝の核心である。
評曰 
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:20:02.46
結論として
魏使の上陸地点は呼子か名護屋浦で何の問題もない
ここから500里(40km)で伊都国
つまり末盧國は東松浦半島から糸島市西部にかけての地域
伊都国は糸島市東部
奴国は福岡市方面。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:20:35.35
唐津は風景が全く末廬国のイメージと違う
伊万里は方角が違う、佐世保は直線距離でピッタリだが陸路含んでるし、西回りにせよ
伊都国、奴国の比定で無理が生じてくる

残るは糸島
距離でやや疑問が残るが
方角、立地、歴史、風景共に
間違い無く有力候補地
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:23:11.84
>>728
壱岐対馬の1400里が抜けてますよ
九州上陸迄、合計11400里
残り600里
500里で伊都国、100里で奴国
伊都国と奴国の境が12000里の地。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:24:24.15
当時、糸島湾も今津湾も、奥深くまで海だった。
中間点の登志支石墓遇群辺りはやや高みの突端で、そこから北へ天橋立みたいな砂浜があり、
その東と西は入り湾、海神族の前庭如きだった。ここが末盧国で決まりだよ。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:25:31.44
>>730
言ってる意味が分からん。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:26:36.52
>>730
>佐世保は直線距離でピッタリだが陸路含んでるし、西回りにせよ
>伊都国、奴国の比定で無理が生じてくる

どう無理が生じるの?
「誤読だらけの邪馬台国」では大塔(佐世保市に編入)
と塩田(嬉野市に編入)にしてたぞ。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:28:39.29
>>734
説明不足で他人には分からない唯我独尊の世界にハマってるなw
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:30:22.38
>>736
いや、質問だから。
説明はしてない。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:32:50.95
>>735
帯方郡みたいな田舎の役人が天文学とか知らんでしょw
伊能忠敬みたいな人がいないと無理だよ
当時は土地を正方形に区切って面積を求めてた時代ですから。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:35:06.21
>>738
リンク読んでないだろ?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:35:13.53
>>737
>>730の文章も変
何を言わんとしてるのか分からん。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:37:24.27
>>734
俺は張さんの読み方を否定していないよ
ただ張さん読み方の専門家で
歴史の専門家ではないから、何の歴史的資料も残ってない塩田に
距離だけで当て嵌めてる、センギもアクネもしかりだ

距離と方角、それと歴史、遺跡、今に残る風習等を総合的に考えても割り出していく事が大切だと思います
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:40:11.05
>>731
あほか? 
島の地勢の説明は行程じゃない。
なら、韓の方可4千里も×2で足すのか?

てか、対馬方可400里ってのは、西岸、しか見てないだろ?
対馬の長辺千里近く有るぞ。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:44:42.59
俺は>>730に同意する
意味が分からんと言ってるやつは
恐らくオマル君だから気にするな
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:48:12.53
>>743
自演乙
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:50:38.50
>>734
張氏自信、邪馬台国が阿久根にあるとは
思ってないだろ、日本の歴史の事は解りませんが距離と方角で言うと、ここになりますよ
あとは日本の皆さんで頑張って見つけて下さい

って感じじゃね?
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:51:40.27
>>742
韓の方可4千里行程の説明の中にはな
対馬方可400里は対馬に着いた北岸から対馬を出た南岸の場所が800里の距離だったんだよ。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 13:57:21.42
壱岐でも同じように北岸に着いて南岸までの距離を島の周囲を歩いて歩測したんだ
船は島の外周を進み、その間に測量班が上陸して海岸沿いに調べたんだ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:03:10.75
末盧国(松浦国)は深江や前原を含み、其の中間の二丈松国が都だった。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:22:56.40
>>746
240年 女王宮まで行った 梯儁 の説明が
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月

次有 ー列記21国ー 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

21国が女王国の全てであり、以南は別の国
ここまでが、主語梯儁の旅で 自郡至女王國 萬二千餘里 と言っている。

247年 張政の行程は、
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 
始度一海千餘里 至對海國 南渡一海千餘里 至一大國 渡一海 千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 到伊都國の スレの話題の『到』で終る。

247年張政の 為檄告喩之 の任務が終わった、到伊都国までは1万500里である。
行程には、方可三百里には無い 動詞がついているのが読めてるか?

倭人伝を 正しく読む スレなんだけど・・・
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:29:34.21
>>745
そんな感じだと思うよ颯爽と現れて日本の歴博と何の議論もなく旅立たれてしまった
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:31:09.33
末盧国の主邑は、潮のぐあいと波風穏やかな港のようすから、糸島の二丈松国で決まりだねえ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:33:01.05
どうやら、末廬国=糸島提唱者はツーパターン
存在する
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:37:05.65
>>752
スリーパターンだよ
芦屋浜
二丈松国
泉川
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:43:41.58
>>753
みんな市役所の人?
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:48:31.60
要するに行程は、方位と距離どおりに進むと
考古と一致しない
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 14:58:08.76
末廬国は東松浦半島から糸島市西部地域ですね。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:02:44.03
壱岐のどこからどう測ると糸島まで70km越えるんだ???
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:13:31.40
>>757
海上距離を実測したと思ってるの?
どうやって測ったの?
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:17:58.03
芦屋浜とか玉浜中学とか糸島、唐津の地名もよく知らんやつがw
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:22:49.45
>>759
捨て台詞しか言えんのかw
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:23:24.07
googlemapの直線距離の測り方すら知らんやつがw
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:24:48.92
>>749 補足説明
南至 投馬國 水行二十日以降の 主語梯儁の行程の中に
>自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
という、陳寿の説明が入っている。 これを無くすと意味が通りやすい。

この文の主語は 可得略載 不可得詳 の陳寿、
自女王國以北は 邪馬台国21国7万戸と行程中の国 である。
邪馬台国が女王属21国を漢字化した梯儁による命名の 21国総称の国名なのに
21国を其餘旁國遠絶と誤読しやすいので、同じく陳寿の補足説明

女王國 東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國 在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國 在其東南 船行一年可至

伝説の倭人国などの遠絶餘旁國に、繋がるべきなのである。
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

参問した女王国21国は、倭のほんの一部でしかない小国でした。
卑弥呼が倭王は間違いでした、と、語っている。

陳寿ともあろうものが、数代に渡る戦国史の三国志で
女王国なんて言う、個人に依存した国名で日本を語る訳が無い、でしょうが・・・
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:26:08.88
>>762
それはいいから逃げないで説明しろよw
0766日本@名無史さん
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2018/12/26(水) 15:27:53.27
>>763
参問は情報を集めるって意味ですよ。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:29:09.88
>>763
誤読の連鎖にハマってますね。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:31:57.68
>>763
邪馬台国が女王属国21カ国の総称だなんて全く書いてないな。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:34:35.82
>>758
何を根拠に糸島が末盧国だと主張してるの?
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:37:01.10
>>769
逃げるなよw
何にも説明されてないじゃないwww
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:40:40.37
>>770
末盧国は東松浦半島から糸島市西部に架けての地域
呼子か名護屋浦付近に上陸して唐津市街地方面に南下
唐津市街地から糸島市方面へ東に
500里(40km)で伊都CG付近
ここから先が伊都国。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:42:05.53
>>771
リンク先ちゃんと読めよ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:43:21.35
>>772
それ、根拠じゃないね
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:43:50.61
狗邪韓国と九州の間に、点、点、点、とある寄港地を、千里、千里、千里、と切り良く書いただけ。
多少の誤差は、承知の上なんだからな。
そう気にせず行こう。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:45:42.36
>>772
ゴルフ場の関係者?wwww
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:46:07.47
>>773
無いもの読めないよw
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 15:48:01.22
>>775
実際簡単には測れないからな
ここで1000里が正しいって言ってる奴は頭がおかしい。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:05:13.38
>>772
いやだからさ、狗邪韓國から對馬國まで一海千餘里で
對馬國から一大國までも一海千餘里で
一大國から末廬國も一海千餘里

だったら狗邪韓國〜對馬國間と對馬國〜一大國間の距離の近似値に末盧國がなきゃ駄目だろ
狗邪韓國の現在地が不明なんだから、對馬國〜一大國間の近似値である平均75kmに相当しなきゃ話にならない

で、"糸島"と呼ばれる妙見山から玉島川河口一帯までの沿岸部は一大國からどうやったって55Km以下

さすがに3/4も短いのに同じ一海千餘里だと言い張るのは無理がありすぎるだろ
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:08:15.72
測れない一律にした距離を合計しても
意味がない距離にしかならない
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:08:21.58
そんなもんだろ。
弥生時代なのだから、それくらいの誤差は許容範囲。
それより遺跡などを根拠にすべき。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:10:33.99
>>683
>呼子も名護屋浦も壱岐に近すぎるからダメ

第一、「対馬海流」に流されて 呼子も名護屋浦も不可。  @阿波
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:10:55.72
遺跡なども根拠にすると方位も行程と一致してない
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:12:22.56
>>781
そうやって奈良へ行きなさい。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:13:21.76
>>781
>それより遺跡などを根拠にすべき。

その「遺跡など」でも末盧国は福津・宗像方面 だと、何度言えばw  @阿波
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:19:38.86
>>782
説明出来ないなら分かりませんと謝れよw
朝鮮人かw
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:21:50.52
>788

太閤さんは、なんで糸島や唐津を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:21:59.42
>>789
リンク先読めよ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:22:38.57
>>787-788
頑張れ!応援してるぞ
妄想キチガイ駆除はあんたに任せた
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:23:00.13
>>780
報告書を作成するのに必要だったから一律1000里で埋めたんだよ
1000里とした以上は全てそれに合うように書いてる
空白のままでは都合が悪い。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:24:12.36
>>791
ちゃんと説明してよwww
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:25:00.47
>>793
だったらもうどこでも良いってことになるじゃん
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:25:40.07
>>793
だとしたら糸島である根拠はなんなん?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:26:40.12
>>792
>妄想キチガイ駆除はあんたに任せた

それがどっこい、まったく役立たずと、きたもんだ。  @阿波
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:27:23.86
糸島平野には王墓がたくさんあるのだから、そこが倭の王都である伊都だろう。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:28:28.85
>>799
>糸島平野には王墓がたくさんあるのだから

墓地www   @阿波
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:31:18.96
>>793
それと似たことが畿内説のテンプレにあるわ。
そうやってると本当に奈良まで行くぞ。

27 名前:1 ◆UiepmfCeDJqf [sage] :2018/12/26(水) 03:26:24.02
(一部省略)
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:32:29.34
>>798
阿波は低能だから罵られても蔑まされてもノーダメージだし、尻尾巻いて逃げた事実も一晩寝たら忘れちゃうんだから便利だよなー
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:34:14.56
>>802

まぁまぁ、そんなにカリカリせんでもw  

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:36:00.34
>>802
里数無視するなら魏志倭人伝に沿う必要すらなくなるし、永遠に邪馬壹国の場所は判明しないな
偶然の発掘を待つしか無くなったなwww
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:38:10.34
>>793
もはやスレタイに反する思想だから他所でやるべきだな
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:39:39.13
スレタイは「魏志倭人伝を正しく"読む"」
読まない説はここに不要だな
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:40:37.98
>>807
>もはやスレタイに反する思想だから他所でやるべきだな

身内で傷を舐めあってもいかがなものかとwww  @阿波
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:42:52.99
>>796
海峡部の距離は測りようが無く仕方無かったんだ。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:42:52.54
>>808
>スレタイは「魏志倭人伝を正しく"読む"」

「魏志倭人伝を正しく"読む"」 だら、ほっといても倭国(阿波)に辿り着く。  @阿波
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:44:57.71
>>811
だったら議論の必要はないな
好きなところを邪馬壹国だと夢想して楽しむスレを立てるべき
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:46:18.32
>>814

まぁまぁ、そんなにカリカリせんでもw  

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:46:59.25
>>812
魏志倭人伝のどこをどう読んだら阿波に辿り着くのか興味津々
四国説で一つ一つ説明してよ
書き終わったら教えて
ヒマな時読みに行くから
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:48:18.49
魏志倭人伝を読まない論者と阿波に荒らされるだけのスレになっちまったな、、、
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:50:06.69
>>819
元々が百済ヒトモドキが建てたスレだしね
荒れるのは仕方がないことかとw>>308
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:50:59.76
>>817
>魏志倭人伝のどこをどう読んだら阿波に辿り着くのか興味津々

わざわざ来なくていいよ。 ここで教えてあげるから。  @阿波

魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。
・帯方郡の東南の大海の中に在る
・男子は大人、子供の別なく、みな顔面と身体にいれずみをしている。
・倭の水人は、好んで水中にもぐって魚や蛤を捕る。
・稲や貯麻を植え、桑で蚕を飼って紡績をおこない、麻糸・きぬ・綿を産出する。
・倭の土地は温暖である。
・中国で白粉を用いるように、朱や丹を身体に塗る。
・その葬儀には、「棺」はあるが、「槨」はない。盛り土をして「冢」をつくる。
・真珠、青玉を産出する。
・山には「丹」を産出する。
・生姜、橘、山椒、茗荷が採れる
・東に海が在る
・その海を渡り、1000里行くと倭国(阿波)とは別の国が在る
・倭の地は周囲5000里
・銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を与えられた
・倭王は丹を献上した
・卑弥呼が死んだ時、倭人は直径百余歩の塚を盛大に作った
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:51:58.47
>>814
海峡部だけだからね
全体に大した影響が無いと判断したんだ
魏志倭人伝の行程自体が精密なものではないからね
だいたい合ってる程度で大きくは違わない
方角も僅かにズレてる。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:53:12.23
>>822
だったら議論の必要はないな
好きなところを邪馬壹国だと夢想して楽しむスレを立てるべき
少なくともこのスレは「読む」ことが大前提だから
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:53:56.29
>>819
>魏志倭人伝を読まない論者と阿波に荒らされるだけのスレになっちまったな、、、

倭国(阿波)のお勉強が出来るんだから、感謝しなきゃ。  @阿波
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:54:10.94
>>815
水行十日は一万余里、水行二十日は二万余里ということになってしまうが。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:54:44.88
で、読まない論者が末盧國は糸島だったと盲信する根拠は何なんだろう?
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:54:46.38
>>824
測定不可能な海峡部だけの話だよ
全体としては正しい。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:56:03.07
>>828
そういう結果ありきで勝手な解釈するのを世間では妄想っていうんだよ
覚えておくと良い
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:56:31.17
>>823
>完全にスレチだからここに書かなくて良いよ

身内で傷を舐めあってもいかがなものかとwww  @阿波
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:56:40.51
測定不可能な海峡の距離1000里が正しいとする根拠は何なんだろう。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:57:35.97
海流と潮流の区別もつかない男 阿波(爆笑)
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:58:26.66
>>830
三海峡とも距離が違うのに一律1000里なんだよ
どう見ても単に合わせてるだけでしょ。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:58:43.83
>>832

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 16:59:43.89
>>832
陸上が測定できたのは歩測したからって思ってるのか?
例えば末盧国伊都国間五百里を歩測したと?
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:03:14.00
>>835

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:04:35.54
名古屋と名護屋の区別がつかない阿波
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:05:37.69
>>837
そうだよ、歩測で実測したんだ。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:05:54.18
>>837

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:06:52.50
>>741
次スレから
【誤読だらけの邪馬台国をさらに正しく読む】
にしよう
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:07:08.16
>測定不可能な海峡の距離1000里

從郡至倭→自郡至女王國萬二千餘里
の段落の主文はあきらかに[道里]に関するものと理解せざるを得ない

がむしゃらに[距離]とか[行程]とかの用語を持ち出して
混乱させたがるのがまぬけ

主文の骨格を明確化させるには
付加情報 すなわち
付加修飾された文字列を添削してみるのが有効
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:08:06.38
>>826
正解
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:09:06.80
>>843

何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:10:15.97
人が働いてる間に泡ウンコがレス埋めやがった
イマリ野郎はどこだ?

で、末廬国、伊都国、邪馬台国の場所
お前の意見は何なんだ?はよ答えろ
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:11:19.79
末盧国は、糸島の二丈松国、
伊都国は、東250里して南250里した東南500里の基山/基伊城。
不彌国は、其の東行百里の甘木/朝倉
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:13:59.86
>>847
>末盧国は、糸島の二丈松国、

「対馬海流」に流されて「末盧国は、糸島の二丈松国、」は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:14:27.49
>>843
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
この部分が付加情報で「道里」ではないですね。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:14:40.70
>>826
>>844
正解、正解、
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:16:07.23
>>826
違う

「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は

「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で

無ければならない。これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。

当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。

さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:19:15.92
>>433 に関する反論が出てこないのは何故だろう
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:19:21.92
>>846
>人が働いてる間に泡ウンコがレス埋めやがった

倭国(阿波)のお勉強なんだから、文句を言わないの!  @阿波
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:21:13.05
>>847
末廬国は糸島泉川
伊都国は大宰府
邪馬台国は雲仙
狗奴国は人吉
投馬国は薩摩
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:21:54.64
末盧国は、東松浦半島から糸島市西部の地域
伊都国は、糸島市東部地域
奴国は、福岡市周辺
不彌国は、那珂川町、春日市付近
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:24:40.29
>>846
確か、伊万里の奴は末廬国=伊万里、伊都国=糸島、邪馬台国=福岡、狗奴国=熊本平野って言ってなかった?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:26:11.90
>>855
距離と方角でこっちの方が
より魏志倭人伝に近い

末廬国は糸島泉川
伊都国は大宰府
邪馬台国は雲仙
狗奴国は人吉
投馬国は薩摩
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:26:27.34
>>854
>>855
末盧国はその後南に船で進めないよダメだよ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:29:57.06
>>433
>阿波は武器型青銅器の出土でさえ隣接する県に比して貧弱

阿波は鉄製武器がメインだから。  @阿波
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:30:33.20
>>858
西回りで行けるよ
ちなみに奴国は福岡
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:35:22.77
太閤さんは、なんで糸島や唐津を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:36:51.47
源田銅鐸・銅剣出土地とかの知識は無いのか
それとも
触れるとまずいから沈黙しているのか
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:45:54.32
>>860だが訂正
末廬国は糸島泉川
奴国は平原だ!(東南100里ジャスト)
伊都国は大宰府だ!(東南500里ジャスト)
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:53:34.83
>>843 主文の骨格
--------------------------------
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國
--------------------------------
循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里
又南渡一海千餘里至一大國 方可三百里
又渡一海千餘里至末盧國
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至女王之所都
--------------------------------
自女王國以北其戸數道里可得略載
自郡至女王國萬二千餘里
--------------------------------
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:53:48.44
>>862
誰に言ってんの?  @阿波
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:57:47.71
名古屋と名護屋を区別できてない倭種奴
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:59:15.27
>>864
こうだね
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國
--------------------------------
循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里
又南渡一海千餘里至一大國 方可三百里
又渡一海千餘里至末盧國
東南陸行五百里到伊都國 丗有王 皆統屬女王國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
--------------------------------
自女王國以北其戸數道里可得略載
自郡至女王國萬二千餘里
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 17:59:37.67
志登支石墓群が不奴国
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:05:42.19
「丗有王皆統屬女王」は
[伊都國王]の存在と[伊都國王]の血統を示した付加情報で
[道里]の説明には無くてもかまわない
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:07:22.53
>>862
>源田銅鐸・銅剣出土地とかの知識は無いのか

源田銅鐸がどうかしたのかね?  @阿波 

徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:09:31.61
[不彌國]と[女王之所都]は
ほぼ一体化されているところの
3世紀に[伊支]と称された領域
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:09:54.82
>>869
伊都国に倭王がいるとの情報だから外せない
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:10:46.78
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸

なぜ倭国(阿波)では、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか? 推して知るべし。  @阿波
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:10:54.60
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:13:31.69
>>872
>>873
またまた、ご冗談を。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:17:01.36
>>867
「從郡至倭」と「南至投馬國水行二十日」、「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月」は削っちゃダメだろう。
「七千餘里」は狗邪韓国からじゃなく前の文の「從郡」につながるから位置がおかしいと思う。
「其餘旁國遠絶不可得詳」も「可得略載」と「不可得詳」が対になってるんだから削ったらいけない。

倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
舊百餘國 漢時有朝見者今使譯所通三十國
--------------------------------
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國
(從郡)七千餘里始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里
又南渡一海千餘里至一大國 方可三百里
又渡一海千餘里至末盧國
東南陸行五百里到伊都國 丗有王 皆統屬女王國
東南至奴國百里
東行至不彌國百里
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月
--------------------------------
自女王國以北其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳
自郡至女王國萬二千餘里
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:19:44.31
阿波って帰れよ野郎以外からガン無視されてんのに、なんでここに粘着してるの?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:21:54.20
>>875
7 名前:日本@名無史さん :2018/12/22(土) 13:10:52.14
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:23:04.45
>>875
9 名前:日本@名無史さん :2018/12/22(土) 13:13:26.00
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:24:15.43
>>851
対馬方可400里(西岸だけだろね) 壱岐方可300里
海峡は 渡海約千里×3回 で九州上陸

韓方可4千里 郡から半島西岸4千里 半島東西4千里
里程の距離感はこれで解決してる。

伊都へ500里は、巨済島〜九州上陸の三分の一、の半分。
上陸後、2千里の女王宮は熊本以北、みやま市南麓で
陳寿の東夷伝における 里程概念は確定している。

陳寿の倭人伝で、南=東だの、そんなことは、何も間違っていない。
張先生は、『至』と『到』が起点にならないという へなちょこ 解釈で
根本的な段落の存在を見落として、外した。

ちな、247年張政の終点、到伊都國 の後
東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
だが、
東南 至奴国 百里 には、動詞が無い。 
張政の登行目的 為檄告喩之 についての
奴国王 大夫 難升米=奴の升米 の国を紹介した。 行ってないは正しいと思う。
梯儁参問の女王属21国と、重複で二回紹介される 理由でもある。

不彌國は伊都から100里、動詞もある。
卑弥呼の墓見て500里歩かされた張政は
この東行 至不彌國 百里不彌國と言う博多湾岸の港から、
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
で帰った、と考える。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:25:48.24
>>880
一大率はア グレート ティーチャーってことか
だったら鬼塚先生ってことでFA?

ってことは湘南だったのか?!

ん?九州の湘南と呼ばれるところがあるな
そうだ!福間だ!
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:26:14.11
>>881
倭王卑弥呼がいるのに別に王がいるはずがない
伊都国の王が女王卑弥呼だよ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:26:52.03
>>879
>阿波って帰れよ野郎以外からガン無視されてんのに

その一人だけだよ。


>なんでここに粘着してるの?

九州説を糺す為。  @阿波
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:32:29.98
自女王國以北其戸數道里可得略載 であって

自女王國以北其戸數道日可得略載 ではない
ましてや
自女王國以北其戸數行程可得略載
自女王國以北其戸數距離可得略載 ではない

[みちのり](道程)を[日]を単位に記したものは[道里]とは呼べない
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:33:47.95
>>884
代々王がいるが
その当時はいなかった

奈良に代々王がいるが今は東京にいる
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:38:09.54
>>887
三国志の魏書で世有とは魏の世のこと
代々王も魏の世内の話
魏使が訪れた魏の世に伊都国に王がいたんだよ。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:41:15.27
>>886
[日]単位の行程は自女王國以北其戸數道里の道里ではなく付属の情報ですね
不彌國で道里の説明は終了してますね。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:41:16.89
>>887
大陸皇帝は天子にはキレたが天皇にはキレなかった
日本の王は足利義満が最後
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:44:01.28
>>883
自女王国以北の諸国に置かれたんだから
一大率は複数人で一大率で一つの役職の名称でしょうね。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:44:25.63
>>878
概ね、けっこう。
なれど、↓此処はこうだろうな。下のように区切れば(従郡)の補足は不要)。
なお、始度一海は、(始度渡一海)= ここで初めて大海を渡るの意味と解釈する。
--------------------------------
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里至對海國 方可四百餘里

--------------------------------
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:48:51.66
>>884
ここには王と女王が同時に登場して、王の方は女王の窓口業務をしているが。
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯」
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:50:16.30
一大率は防人です
だから伊都国は大宰府
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:50:54.13
伊都国はイツコクと読む。
因って、一大率はイツ大率であり、
伊都国に常治する女王国以北担当の大率の役職名称でしょうね。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:52:14.69
>>863
見事に一致してるな
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:52:57.64
[國]は魏晋の行政区画
[王]は魏晋の官職
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:53:51.58
>>896
じゃあ、伊都国=一大国になっちゃうねwww
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:54:44.52
>>896
当時から学歴社会なんだな
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:55:38.36
>>896
根拠レス
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 18:57:18.14
>>886
240年 梯儁の行軍については、幕営地の地名を記さないが、知らんからw
南至 投馬國 水行二十日 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これを、自郡至女王國 萬二千餘里
として、里程を示している。

投馬国 と 邪馬台国 は 距離を示すような都市間ではなく
隣接する5万戸と7万戸の、馬韓54国、辰韓12国と同様の概念での国家である。

247張政の都市間の距離で示した行程と、
240梯儁の行軍日程が直列の段落であるわけが無い。

張先生は何故こんなもんを見落とす?
半島史への忖度以外には思い浮かばない。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:02:54.80
伊都国 → イツコク
伊都太率イツダイソツ(倭人の発音)→→ 一大率イーダイソツ(帯方役人の聞き取り書き留め音)
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:03:37.77
>>892
ネタにマジレス可愛いかよ(笑)
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:04:01.71
イツ大率は東北の人だな
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:05:28.89
>>894
その王と女王は同じ人物
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:06:22.03
>>905
お゛めさ、なしてイツデーソツが東北゛だなんて言い出したっぺや?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:07:12.20
>>896
伊都国に常治してるのは女王卑弥呼
一大率は女王国以北の諸国にいる。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:07:58.76
正しくはイツダイソズ
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:15:40.74
>>905
>イツ大率は東北の人だな

正解
陳寿は言い換えが好き
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:16:25.55
>>907
それ好き(笑)
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:16:28.50
間違えた

>>906
>>894
>その王と女王は同じ人物

正解
陳寿は言い換えが好き
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:17:38.89
>>900
それだイッツ大卒!になるな
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:21:07.18
>>908
240年の女王卑弥呼は女王国南限の狗奴国境界の王宮に居た。
伊都国は247年、倭人船で来た張政が駐留させられた到達点。

この張政が上陸後500里以内で卑弥呼の墓を見た以上、
紛争の247年に、南限の山門女王宮が有ったかと言うと、無い可能性は高い。
247年に張政が見た伊都国、一大率には、死人である卑弥呼は居ない。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:24:04.35
一太𡨧
壹太𡨧
伊太𡨧
[yi-tai-zai]
【𡨧】 ttp://www.zdic.net/z/8a/js/21A27.htm
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:27:54.80
首都の防御施設である水(みず)城(き)や外交施設である鴻臚館(こうろかん)は都城とほぼ同時に造られたとされているが、

放射性炭素(C14)による年代測定では四三〇年前後という測定値が相次いでおり(水城、鴻臚館の項参照)、「政庁遺跡」と見誤られている都城遺構は五世紀中ごろ、中国史書に記す
日本の大王、いわゆる「倭(い)の五王」(讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ))時代に本格的に建設されたことがはっきりしている。実際の遺跡は弥生時代、あるいは古墳時代初期に始まる遺跡である。

考古学界は、日本の政権は唯一で古くから近畿にあったとする誤った観点から全国の遺跡の年代判定をしており、世界中で信頼され使われている放射性炭素などによる理化学的年代判定を怠ったり、自らの年代判定と食い違う測定値を隠したり、公表していない。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:44:46.96
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 19:55:11.16
伊都之尾羽張(イツノオハバリ)
>伊都之尾羽張はイザナギがカグツチを斬り殺した十拳剣(トツカノツルギ、実際は近衛兵?)であった、
>「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の別名です。

倭人伝では、伊都国はイトコクと読む習わしだが、記紀では、伊都はイツと読ませている。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:09:40.13
>>916

「四三〇年前後」というのは水城の下部に設けられている排水用の木樋な
木樋の構造と関わりのないさまざまな加工痕があり転用材が用いられていた
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:20:11.60
太閤さんは、なんで糸島や唐津を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  @阿波
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:20:26.00
>>906
自分で自分に「文書賜遣之物」を「傳送」して「差錯のないようにするわけか。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:21:21.22
で、その「里程日程」で決着はついたのかね?  いつまで堂々巡りするつもり?

その「里程日程」とやらを尻目に、

とっくに魏志倭人伝の「其山有丹」で、倭国(阿波)にたどり着いちゃってる♪  @阿波
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:21:49.72
>>919
弥生時代からあったみたいだね
恐らくそれが一大率
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:24:39.07
>>894
>ここには王と女王が同時に登場して、王の方は女王の窓口業務をしているが。

この「王」とは、倭国(阿波)女王の臣下「筑紫忌部」なのである。  @阿波
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:25:18.44
>>923

一部の素人爺さんの集まりではな
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:31:03.77
太閤さんは、なんで糸島や唐津を通り越して名護屋まで行く必要があったのか?  さあ、お得意の妄想をしてみよう!  

福津・宗像が大陸の玄関口「末盧国」

長崎方面は渡来人が半島へ帰る出航地なんだよ。  @阿波
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:35:30.54
そもそも九州説は、「其山有丹」で邪馬台国論争に参加する資格なし。  @阿波
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:35:55.29
そうだよね
本州の始祖朝の王都は大和だったかもしれないが、
古くから九州は倭と呼ばれ、倭王朝(卑弥呼の時代には連立の倭王朝)があり、
少なくとも倭の五王の時代までは確固たる体制があったという視点は重要。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:37:43.44
九州説は倭国(阿波)に蹂躙されっぱなしで、なす術なし。  @阿波
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:42:58.23
「太宰府は日本の首都だった」は卑弥呼の後、日本列島を支配していたのは大和政権ではなく九州政権であったことを年号の問題、放射性炭素による年代測定の結果、

考古学界による九州の遺跡の年代がとんでもない過ちを犯していて、現在の推定よりはるかに古かったこと。たとえばかの有名な防衛施設「水城」は、考古学界は日本書紀の記述から7世紀の建造と言っていましたが、

最初に築かれたのは卑弥呼の時代(240年ごろ)で、その後430年ごろに大大改造され、九州政権消滅の契機になった白村江の戦いの直前660ごろに補修されたことがわかっています。

いわゆる日本と深い関係を結んでいた中国史書の証言も大きな証拠として記述しています。そして今、日本の正史とされている日本書紀は、九州政権の史書を掠め取り、あたかも自らが主権者であったかのように改作した
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:45:26.00
倭の五王の時代までは九州に確固たる体制があったという視点が好きな爺さんは
連呼するよな
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:51:25.90
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:52:08.17
>>921
女王に文書や賜り物の差錯のないようにするのは郡使が倭國に遣わされた時ですよ。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:53:25.96
>>933
7世紀末までは太宰府が日本の首都だよ。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 20:56:08.32
>>936
>7世紀末までは太宰府が日本の首都だよ。

その痕跡なし。  @阿波
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:04:06.57
総数1,500基以上あった列島最大の横穴墓群。うち約1000基が調査されている。横穴墓は崖に掘った穴を墓室とした形で、九州から東北まで数千基が築かれている。

列島では中、北部九州で発生。現在、四〇〇年代後半に築造が始まったとされるが、九州の考古学研究者の年代判定は確実な検証なしの仮定

(古墳に副葬された硬質土器・須恵(すえ)器はすべて大阪・陶(すえ)邑(むら)村からもたらされ、複製された)に基づいたいい加減なものである。

放射性炭素の年代測定で九州の須恵器の実年代は、現在の推定より二〇〇年以上古い測定値が相次いでいる。横穴墓の築造年代もさらに古いものであると考えられる。

日本列島の須恵器生産技術は朝鮮半島からのものの以外に、主として生産の先進地域である中国大陸、特に南部の越(えつ)地域から伝わり、北上したとみられる。

越地域では紀元前八世紀には日本のものとまったく同じ製法の「硬質土器」が盛んに生産されていた。

朝鮮半島の「硬質土器」生産は中国よりはるかに遅く、早くても四世紀後半からと考えられている。
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:09:06.18
墓群の中からは南九州・熊襲(くまそ)(熊(くま)曽於(そお)族)の地下式横穴墓から集中的に出土する蛇行(だこう)鉄剣や龍環頭の

直刀、馬具、矛、長大な矢じりなど数多くの鉄製品が出土している。中国南部、江南地域から渡来した形跡のある熊曽於族と北部九州の紀氏族が合体してこの墓制が採用され、

九州政権・倭(い)国の全国展開に従って各地に広がったのではないかと考えられる。
 その祖型は中国の長江支流域に数万基築かれている懸崖(けんがい)墓(ぼ)や蛮子洞と呼ばれる横穴墓であろう。

遺跡は今、住宅地の建設によってほとんどがつぶされているが、発掘調査で出土した鉄製品や遺跡の様子を写した写真などが行橋市歴史資料館に展示されている。

遺跡の周辺は前方後円墳を含む古墳、弥生時代からの住居址の密集地帯である。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:09:38.43
>>922
丹山はベンガラの阿蘇でも十分だって何度も言わすな。
アホは阿波踊りで十分だ。 子供みたいに言い張るだけのアラシは無視、って
そうなんだ、また、なんだよ。 @阿波 うんざり。
 
アラシの相手するアタシもアラシです。 
けど、スレ越しで、アラシの土器厨と @阿波の 踊るアホは、無視ネ。
わかってんのかな?

で、
倭人伝を正しく読む、って話は続けるのかな?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:11:22.35
>>939>>940は

竹並(たけなみ)横穴墓群  行橋市(ゆくはしし)
0943日本@名無史さん
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2018/12/26(水) 21:13:23.01
>>941
>丹山はベンガラの阿蘇でも十分だって何度も言わすな。

九州の古墳はベンガラ(朱のまがい物)らしい。  @阿波
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:22:26.42
>>941

日本語表現、もっと上手になることをお勧めします。  @阿波
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:25:26.69
>>932
伊都は大宰府で決まりだな
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:28:29.02
>>946
万葉集等にも太宰府のことを「遠の朝廷」と呼んでいる(例えば柿本人麻呂の歌)
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:47:29.60
>>948
>つまり、太宰府は畿内朝廷の出先だったということだな

8世紀だから、倭国(阿波)から遷都した大和朝廷の出先だな。  @阿波
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:47:35.84
魏志倭人伝にある大率は百済にもあった官名。
そして率と帥は読みも意味も同じ。
本来、大率は中央にあり地方まで監察権が及ぶ内務大臣のような内政責任者であり、倭の王都である太宰府において行政を担っていた。
その官名は倭王朝が滅んでからも九州の行政責任者として継承され、太宰の帥として明治初頭の官制改革まで存続していた。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:49:03.26
>>948
時間的に遠い、つまりかつての朝廷の意味。
万葉集編纂の時点では筑紫の倭王朝はすでに滅んでいるので。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:50:09.25
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟)
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:51:23.98
旧唐書

倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。

日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」とも。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:51:25.26
>>935
だからその主語は王だろう? 王と女王が同一人物じゃ意味が通じないだろう?
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:51:55.65
【白村江の戦いと倭国滅亡】

663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。

668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。

671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。

筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。

701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 21:55:26.38
>>954
陳寿が好きな修辞法なんだよ。
欧米でも、一つの内容をいろいろな言い回しで表現できる人は知性があると評価される。
例えばギリシャ語由来の単語をゲルマン語由来の単語で言い換えたりとか。
陳寿は、帯方郡から邪馬台国までを里程で説明したり日程で説明したり、邪馬台国を女王国と言い換えたり、王を女王と言い換えたりしている。
卑弥呼の称号は親魏倭王であり、伊都にいた王とは卑弥呼のことを指すのは自明のことなのである。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:01:42.46
>>956
根拠が薄いな。そう思わない人間を説得できるものではない。
単なる思い込みとしか思えない。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:03:34.95
>>957
教養がない人間にはわからないだろうなあ。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:05:50.15
>>958
伊都国には王が、邪馬台国には女王がいて王は女王に従っている。
この仮説は否定できなかった、で終了、と。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:08:15.75
>>959
その仮説は証明されていませんよ。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:20:10.24
>>960
否定されていない、と書いたけど
証明されたなんて書いてない
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:20:50.26
南至邪馬壹國 女王之所都

これを素で読めば、邪馬壹國に女王卑弥呼がいるとしか解釈のしようがない
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:26:11.24
>>948
古の朝廷がそこにある
と言う意味だろ
パープリンかお前はw
幼稚園からやり直せいwww
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 22:45:43.65
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:02:12.14
>>960
伊都国にいる王が女王卑弥呼だという仮説こそ証明されてない。
否定されているといってもいいぐらいだ。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:06:32.61
狗奴国の王を例外として、魏が倭において王と認めたのは卑弥呼だけ。
伊都にいた王とは卑弥呼である。
その他の解釈は誤読に過ぎない。
誰が王であるかは最も重要な点であり、魏志倭人伝の大前提であるテーゼだ。
そのための論証は不要であり、それが理解できないのは魏志倭人伝を読む資格がない文盲だ。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:07:12.81
魏の時代、伊都に王あり
その名を卑弥呼と
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:09:17.65
>>966
魏志倭人伝の記載に基づいて主張してくださ〜い!
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:10:11.77
>>966
倭の王だなどといってはいない。伊都国の王だって。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:12:10.75
>>969
伊都国の王だなんて書いてないし、魏は伊都国の王を冊封していない。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:12:56.70
>>969
魏志倭人伝の記載に基づいて主張してくださ〜い!
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:14:15.90
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:18:11.80
帯方郡から九州上陸までで〆て11,400里
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/26(水) 23:18:28.91
>>971
冊封したなんて言ってないだろ?
「東南陸行五百里 到伊都國〜丗有王皆統屬女王國〜」の王が
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯」
のような役割でした、と書いてある。
王と女王(卑弥呼)は同一人物ではないと言ってるだけ
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 00:00:04.87
>>975
伊都国に荷物が到着した時に荷を確認するわけだ。
そこに女王がいるから。

>>975
>冊封したなんて言ってないだろ?

イミフ
そりゃ伊都国だけの王なんていないから、冊封もされていないだろ?
冊封されていないものは王ではないよ。
ただの東夷の首長にすぎない。
王とは、漢から冊封されたものを意味する。
だから大月氏国に対してさえ、名目上は冊封したことにして金印を与えたんだよ。
「伊都国の王」なんてものは畿内説の妄想だよ。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 00:04:48.79
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 00:23:54.46
>>976
畿内説とか関係ないね。

>>975
>伊都国に荷物が到着した時に荷を確認するわけだ。
>そこに女王がいるから。
「王」は「文書賜遣之物」を「女王」に「差錯なく」「傳送」するって書いてあるね。

>冊封されていないものは王ではないよ。
>ただの東夷の首長にすぎない。
>王とは、漢から冊封されたものを意味する。
「東南陸行五百里 到伊都國〜丗有王皆統屬女王國〜」と書いてあるね。
冊封されなくても普通名詞としての「王」ではあったわけだ。
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都〜」
とも書いてあるね。
伊都國と邪馬壹(臺)國は別の場所だろ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 00:44:18.14
>>978
丗有王 皆統屬女王國

だから、伊都国には王を名乗る人物はいたけど、女王国に従属してるんだよね。

後、文書や贈り物の確認は王ではなく、大率の仕事じゃないかな?

伊都国の王が大率に任ぜられてた可能性はあるかもしれないけど。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 00:49:17.78
王は帯方郡に使いを詣でたとも書いてあるね。
これは卑弥呼のことだ。
つまり王は卑弥呼のこと。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 01:24:32.15
東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸が有る。

代々、王が有り、みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。

どう読んでも卑弥呼はここにはいない
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 01:27:11.29
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」

どう読んでも卑弥呼はここ
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 05:51:00.01
>>979
>伊都国の王が大率に任ぜられてた可能性はあるかもしれないけど。

「伊都国の王」も「一大率」も、倭国(阿波)出身の「筑紫忌部」。 だと、何度言えばw  @阿波
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 05:52:59.71
>>982
>どう読んでも卑弥呼はここ

「ここ」とは、倭国(阿波)。  @阿波
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 06:21:33.65
誤読です
「所都」は史記〜後漢書では、かつての首都の意味で使われてる
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 07:22:11.74
>>987
旧の宗廟のことだろ。
新しい都には、新宮殿の隣に、新王のご先祖である旧王たちの宗廟を建てた。
そのことを云っているわけだ。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 07:38:42.44
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 07:39:05.25
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:28:03.91
伊都高祖宮の近くには先代の男王の祖である三雲南小路遺跡とその宗廟であり漢委奴国王印(金印、倭王の国璽)を管理していた細石神社がある。
そして倭国大乱より後の年代の女王墓と考えられている平原遺跡がある。
伊都国(糸島市)こそ、漢代から魏代まで継続して倭国の王都であった。
そもそも、弥生時代を特徴する稲作文化は玄界灘沿岸に上陸し、博多湾を中心に銅鏡銅矛文化が弥生時代をリードしてきた。
後漢書でも倭とは狗邪韓国を北限、倭奴国を南限とする対馬海峡国家であり、そこを支配するのが伊都に置かれた大率である。
魏の使いが滞在して外交の舞台でもあった伊都国こそ、倭の王都、卑弥呼の王城がある邪馬台国である。
そして三雲南小路遺跡が邇邇芸と木花咲耶姫の墓であるならば、伊都国は記紀における神代の倭の王都、筑紫の日向でもある。
三雲南小路遺跡や平原遺跡から日の出の方角にそびえる高祖山(クシフル山)にある高祖宮、怡土城は、高千穂宮の実体だろう。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:36:13.15
>>987
>誤読です
>「所都」は史記〜後漢書では、かつての首都の意味で使われてる

それもまた、インチキ読み
都が「有先君之舊宗廟曰都」と説文解字注にあることを、伊都国を都にしたい人たちが
曲解しているだけ

この説文解字注は「左傳曰。凡邑有宗廟先君之主曰都、無曰邑。」という、春秋左伝の
引用をしているだけで、都の意味は普通に「王のいるところ」でいいんだよ
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:46:03.68
魏代において伊都に王あり
名を卑弥呼という
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:46:40.84
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:48:46.81
正しく読む んでしょ?

南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

邪馬台国は後述される、21王国の総称として 240年梯儁が使った国名
女王之所都で王宮 を見たので同じく梯儁が漢字にした 邪馬国 の 臺
これを、女王国の総称 邪馬台国 にした ってこと。

国名を国内の行程の都市名と直列に繋ぐってのは、
小学生並みの読解力だってよw

邪馬台国はどこか? 
240年卑弥呼印綬の際の、九州北部21領主国の総称なんです。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:49:14.96
最初の字典なんだから、前例から解釈するのがあたりまえだろうに
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/12/27(木) 08:51:31.99
伊都国で決まり
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