邪馬台国畿内説 Part409
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1545239337/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 2013年以降も畿内説を前提とした研究は進んでいる
岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf
上野祥史「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集,2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf
三角縁は全舶載説が有力視されつつある
車崎正彦「三角縁神獣鏡の年代と古墳出現の年代」
『史観』第159冊,2008年
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=37254&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1
鉄がないことは問題じゃない
野島 永
「研究史からみた弥生時代の鉄器文化 鉄が果たした役割の実像」
『国立歴史民俗学博物研究報告』第185集、2014年
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185007.pdf >>1の主張
>倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤り< 箸墓=卑弥呼の墓は前方後円墳の円部の径百歩と土器の炭化物だけで
決めつけるのはいかがなものか・・・時期尚早 今後の研究に期待 >>186
>>出発の「南」と目的地の「至投馬國」との間に、途中移動をした、という文言がないから、
魏使らは移動しておらず、<
>それ、もう完全否定されたから 通用しないよ <
大和説者の「南→東」などの嘘吐き騙しはバレて、
もう完全否定されたから、大和説の話は、もう通用しないよ。 中國の度量衡によると魏の時代の1尺は24.2センチ
誰かが指摘したように
倭人伝「復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺」より
倭人の身長は70センチから1mであろう
1歩も70センチから1mであろう
箸墓は径150メートル 150歩から200歩となる
魏の使者の身長が倭人の1.5倍から2倍あったと思えないが・・・・ >>194
>>だから、投馬國説明は、(移動説明ではなく)側副傍線国説明。<
>その移動していないとか、側副傍線国だとかいうインチキ説明の上でも、
「間に水行十日分の距離」が入ることにはかわりがない<
距離説明のための「所要日数」表示。 >>199
>>「同律度量」は、(漢代には)同一ではなかった度量衡を同じに統一せよ、<
>同律度量は、同じ律度量をそのまま使う、という意味で統一するという意味にはならない
統一するという意味だったら、「どれを基準にして」統一するかを言わないと意味ないだろ?w <
漢代に周朝里の短里と晋漢朝里の長里が混在混乱していたから、統一する。
そして、お前が言ったように、
「承土行」は、漢の「五行」を継承変更して「土行」とするんだから、
やはり、漢代と違うから、文帝は詔書に書いた、という事になる。 >>200
>おまけに魏文帝本人が短里など使っていない<
当たり前。
部下の重臣らの上表の方針が出揃って、個々の新政策が決まってから、皇帝も実行するもの。
周里の採用は、明帝時代にずれ込んだらしかった。 >>105
俺もそう思う
畿内説は飯ネタになるから次から次に下らん研究報告がはびこる >>233
>地上に正確な円を描くために周囲を少し広めに整地することの、どこが
「ほぼ同じ事になって、不必要になってしまう」ような記載なんですか? <
始めから、二つの同心円を作る、という解釈をした事が、
漢初期の収集者も、現代の大和説者も失敗であったの。
「立二十八宿,以周天曆度之法。術曰:倍正南方,以正勾定之」は、
太陽の黄道とその上の二十八宿の星座を地面に書き並べるのであり、
太陽は、夏至正午に南の萬六千里の上空にあり、
冬至正午に南の十三万五千里の上空にあり、
その間の十一萬九千里を直径とする円周上に、二十八宿を立てる事になるから、
上空に設定してあった「周地上空と北極星の造る直径十一万九千里の円周」を、
「倍正南方,以正勾定之」してものを作って、
それを地面に投影するだけでよく、
わざわざ二重円など造る必要が全くなかった。
だから、漢代初期の周髀算経収集者の失敗収集であったのであり、
それに乗った現代大和説者もアホであったの。 >>234
>現実には畿内説側が逆質問で追及をかわそうとしたような局面は無いので、ザラコクは単にウソをついて中傷しただけということになる<
いや、現実には大和説側が逆質問で追及をかわそうとしたような局面が一杯あり、
それを指摘し続けて来てあったので、
この大和説者も、単にウソをついて中傷しただけということになる。 >>247
大和説って、九州説をを攻撃するために、
「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
こんなヘイトスピーチのようなことまでするの?。 >>278
>無党派なんだろうな<
いや、この貼り付け男は、
畿内とか邪馬台国とか台与とか倭国大乱とか天皇と神功などの、
存在もしない嘘つき騙しの大和説文言を使っているから、
「南≠東」などの嘘つき騙しの大和説仲間。 >>287
>しかし九州説の言う通りなら古代中国人は頭のおかしい奴ばかりになるな
魏使はいきなり自国で使われてない短里で距離測るし<
周朝や漢代にも使われていた。
>魏の皇帝は漢が1歩=6尺の漢と同じ単位を使えという表現で
1歩=1尺への変更を命じて<
魏の文帝の詔書の指示や重臣たちの上奏で、始皇帝の「1歩=6尺」よりも、
周朝の一寸千里の度量衡を使う事になった。
>古代史家は揃いも揃って邪馬壹國を邪馬臺國と書き換え
魏志倭人伝には邪馬臺國と書いてあったとウソまでつく始末 <
後漢書の邪馬臺國は、魏志の邪馬壹國とは、記述対象が違う国であった。 行政の仕組みだからしょうがない
中身が無くても 税金が投入されている研究機関等は年に一度、報告を出すことを義務付けられている
畿内説は銭だから研究機関の消滅は自分の職も失うことになるから、頻繁に新たな研究報告書を出さざるを得ない >>290
>場所によって3倍4倍誤差のある短里で距離を正確に測りながら<
誤差は、2割以内位。
>魏使は倭国に着いたら南方向の山地へどんどん踏み込んでいって
何もない山地を奴国と言い張り <
奴國は伊都国の東南百里だから、日向峠西麓〜早良平野付近。
>さらに南に行くに急流の日本の川を20日も船で遡る<
投馬國は、不彌國から一旦玄界灘に出て、東回りでも西周りでも海岸沿いの水行二十日の位置。 >>295
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説で、
他人を騙し続けてると、
人としての良心も摩耗するんだなぁ。 報告がなされたからと言って研究が進んでいるとは言えないのだよ
>>101へ ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48d5973fcffd9463
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>313
>不弥国から水行30日陸行一月で九州は無いよね
真面目な九州説の人もいないみたいだし <
不彌國で、「折れ線的道のり距離」合計がほぼ「萬二千余里」に達しているから、
邪馬壹國女王之所都の入り口は、不彌國の直ぐ南にある事になり、
だから、「不弥国から水行30日陸行一月」と読んだこの男は、
真面目な人ではないみたいだし。 九州説は畿内説の嘘を暴くのは面白いだろうが
>>1はさんざんバカにされ何が面白いのだろう 九州説が破滅に追い込まれる様を見るのが楽しいんじゃね 九州説は相変わらず根拠を提示することなくストーリーのみ語ってるな >>318
>じゃあ一寸千里の法則は崩壊だな
八歩、ではなく八尺の棒を使って影長を測ってるんだから
そこから計測されるのは里歩系の尺度じゃないものという事になる<
ならない。
一寸千里は、南北千里という里歩系計測地での、
それぞれ尺寸系での「棒の影長」を計測したから、
それで、里歩系と尺寸系との関係を示した事になるの。 >>319
>その歩は、どこから出てきたんだ? <
「止」という文字を背中合わせにくっつける事で、
前後に止まっている状態の「1足底長」を示す長さ単位として、出て来た。 >>320
>そもそも1歩≒1尺がわからん 1歩と1尺はそれぞれ何センチよ <
魏の頃は、1歩≒25.5cm、
1尺≒24cm位だったらしい。 >>333
むしろ「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
嘘つき詐欺師と、荒らしと、キチガイしか居なくなったんじゃないか?。
大和説は、論としては終わってる。 >>342
>倭国に来たことはなくても淮南子は読めるよな
淮南子にあるこの世の果ては1万2千里
かつて漢に朝貢した由緒正しい朝貢国漢の倭奴国は
万里の彼方にあるという倭国の極南界
じゃあ邪馬台国もそこにあった事にしたら
皇帝様はさぞお喜びだろうと書かれたのが魏志倭人伝
極端に言えば魏使が距離を測らなくても魏志倭人伝は書ける<
魏使らが、計測確認もしないで、いい加減な報告を書き、
従者や後続の使節に確認されて皇帝らにバレたら、
そりゃ、魏使らの首が飛ぶ。
何だか、どこかに財務局員のように、自殺しなければよいが。 >>344
>インチキしても儀使しか知らないからバレようがない <
同僚や部下や後続の使節らにバレて、首が危ない。
現在の安部政府でも、バレた。
>後漢から倭は万里の彼方で都はその極南界にある事になっていたから
淮南子に書いてある1万2千里を使って報告しても何の問題もない
そもそも魏使の報告書の原文が見つかってないから<
魏略が、同じような里数を書いているから、魏使らの報告の原文があった事になる。
>もしかしたら陳寿など後世の史家が自己解釈による書き換えを行ったのかも知れない<
魏略は、魏志と同時代か少し前らしい。
魏使が短里を使って報告していない、という話には、
これだけ反証がある。 >>355
>で、不弥国から
水行20日 五万戸の投馬国はどこ?<
不彌國の南の方にあるから、南九州。
>水行10日陸行一月 七万戸の邪馬台国はどこ?<
「水行十日陸行一月」という数量説明は、その直前の文言の説明になるから、
行程の目的地である「女王之所都」の説明になるので、
郡から女王之所都の所要日数。
邪馬台国なんて存在しないから×であり、
邪馬壹國なら、不彌國で「折れ線的道のり距離合計がほぼ萬二千余里になってしまっている」から、
残りはほぼ0里になり、
だから、不彌國の直ぐ南に入り口がある事になる。 実際に使われてた尺度と異なるのだから一寸千里は実際に実験されることなく概念のみで書かれたってのが普通の結論なのだけど >>366
>周尺(約20cmとして)で八尺の棒(160cm)を使ったら
1里は60mと出なくては計算が合わない
1歩=1尺だから1里=300尺になるだろ
60割る300で0、20で1尺は20cm<
周髀算経の一寸千里では、本質的には、
南北千里地点での、夏至正午の「棒とその影長が作る角度差」が必要なのであり、
そして、何尺棒を使おうと角度は同じであり、
だから、淮南子のように10尺棒を使っても結果は同じなのであり、
「棒とその影長の寸法」は、直接関係がないから、×。
「1歩=1尺」でもなく「1歩≒1尺」。
>もし八歩(200cm)の棒を使うなら 1里が75mだと割る300の0.25
25cm=1歩でそっちの言う通りの計算になるが
しかし八尺の棒を使って影長を測ったと書いてあるので 1里は60mにならなくてはいけない
しかし谷本計算では1里75mと言っている 25cmは20cmじゃないので計算は破綻<
谷本計算も「南北千里地点での、夏至正午の棒とその影長が作る角度差」から計算された。 >>373
>測ったものじゃなくて机上で割り当てたものだから 短里とは言えないよ
架空里とでも呼ぶのがふさわしい<
「机上で割り当てた架空里」であれば、同僚や後続の使節らに拠ってバレて、
確実に首が飛ぶから、×だし、
韓の方四千里や天柱山などの、
倭人伝以外の「短里」記載の存在が説明出来ない事でも、×。 >>386
>漢書食貨志を教えてやっただろ?
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
最初の六尺=歩はいいな? <
漢書食貨志では、始めから長里だから、西晋代の短里時代の文書の証拠にならない。
>次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」 井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる
夫が100畝で、九夫が1里四方だから 「一里四方が900畝」であってるよ
これはその後もずっと踏襲されてる<
短里時代であった西晋代に元踏襲された、という保証がない。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48d5e2685b2cae4a
ホスト:p1573032-ipad040101kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>393
学者気取りだったけど、
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺屋だった事がバレたからな、
大和説学者ら。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48d5e54f38622072
ホスト:p1573032-ipad040101kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>394
>この時代の役人は科挙エリートとは違うからな
本だってどのくらい普及してたのか <
魏使や記録官に選ばれる位なら、
周髀算経も読んでいなくっちゃ勤まらないし、選ばれないよ。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48d5e7b548862078
ホスト:p1573032-ipad040101kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>395
>勉強してもしなくても測量には短里は無い<
周髀算経は、短里だ。 >>396
>個人ブログが根拠っていうの、いいかげん止めたら? 例えば、
夫餘、在長城之北。去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水。
方可二千里、戶八萬。
これは秦漢里で問題ない
「全部短里だ」と、いくら文字列を並べても、それが現実になったりはしないんだ<
例えば、高句麗は「方二千里」と書かれているが、それが秦漢里の長里であれば、
鴨緑江河口沖の黄海から豆満江河口沖の日本海までの大きさになってしまって、
楽浪や遼東や沃祖やyup婁までを覆ってしまうような国になってしまい、大矛盾。
それは、扶余でも同じ。
韓の「方四千里」も、
秦漢里の長里なら中国本土全域位の巨大な国になってしまって、大矛盾。 ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
問い合わせID:48d5eb543d38af0b
ホスト:p1573032-ipad040101kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>399
>>里程と日程の二重の表記ですよ。<
>その二重の表記の実例を魏志倭人伝以外で一つでも出したためしがないんだが?
結論ありきの、自説に合わせるためだけの無理読みの代表だよ <
いや、魏志倭人伝そのものの記載が根拠だ。
陳寿は、自分の「女王國の位置説明」に、
「計其道里、當在會稽東治之東」という別判断を書いているから、
魏志倭人伝の女王之所都への里数記載と日数記載は、いずれも、
「魏使らの記録」が元になった、という事になる。 >>402
>投馬国は邪馬壹国より先に書かれていて、戸数道里がきちんと略載されているから
女王国以北の国 根拠はこれ
自女王國以北、其戸數道里可得略載
狗奴国より南ではおかしい <
投馬國には、
不彌國からの「南至・・・水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸」
という「其戸數道里」が「可得略載」されているから、
「自女王國以北」という範疇には入らない。 >>407
>>「同律度量」なんて無駄で無意味な事を書く必要がないの。<
>度量衡の制定は「皇帝の専権事項」
即位の「受命改制」の詔書だから、皇帝として度量衡の制定を宣言する必要がある
そして、文帝の名において、前代の度量衡と同じものに「決めた」という宣言
皇帝権力の行使を明文化してるんだよ<
中国での歴代新王朝の初代の受命改制においては、
全員が「度量衡」の件について、「変更とか継続」とか指示を出した訳ではなく、
何も言わなければ、前王朝の採用度量衡をそのまま踏襲する事になる、
というだけであったんだから、
文帝も、変更しないのであれば、そんな事を言わなければよいだけであり、
「同律度量」と言った、という事は、「(混乱していたものを)同じにせよ」と、
言った事になる。 >>410
>九州説は反論一つできないから、ここのテンプレがなにより苦手で大嫌いww
というよりも、各項目が九州説が論破されてぐうの音も出なくなった項目の記録だからねw <
2chに引っ越して来た時は、
「古田史学」スレと、「邪馬台国どんとこい」スレに投稿していたが、
すぐに「邪馬台国畿内説」スレにも参加して、
すぐに、テンプレ全部に3回反論をしてあるんだし、
その後も、個別のテンプレ引用があれば、全部反論否定しておいた筈だよ。 井田法ってのが周代の理想的な土地制度として認識されてて西晋もこれに基づいた制度を施行してる
結論は周代も短里は有り得ないということ
短里では一家に与えられる土地が小さ過ぎて生きていけない >>419
>里は尺の従属単位なんだよ<
別に従属単位であるわけではない。
里歩系と尺寸系は、対象や発生理由が別の単位系であり、混乱していたのであり、
だから、始皇帝のような「1歩=6尺の換算規定」の命令が出現した。
>尺が決まれば、歩と里は自動的に決まる
まあ、歩と里だけではなく、寸も丈も同様に決まるんだけど<
周代には決まらなかったし、魏代でも「≒」程度にしか決まらなかった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>145
ただ文句つけただけじゃ何の意味もないんだよ
それで周りを納得させなきゃ >>427
だから、反対意見があるならどこがどう間違っていると思うのか、
「具体的に指摘」してくれって言ってるだろ?
それができないならば、反論一つできないってことだよ!
大和説はいつもそうw >>428
あたまの変な大和説の人々はともかく、普通の人は、
短里だとか東夷伝里だとかはない、
言われても、信じないだろうね。
>魏の文帝は理解していた一里では、秦の始皇帝陵が周回5里になるくらいの長さだ
始皇帝陵は現在でも一辺350mある墳丘が確認できるんだよ
彼は短里なんて見たことも聞いたこともないんだ <
文帝は、詔書で指示を出したまでであり、
周髀算経の一寸千里の周里が実施されたのは、明帝の代になってから、
であったようだから。 畿内説は、桃の種でもサバの骨でもメシのネタ
貧しい食卓でかわいそうじゃのう..... >>153
>文帝は、詔書で指示を出したまでであり、
>周髀算経の一寸千里の周里が実施されたのは、明帝の代になってから、
>であったようだから。
・・・であったようだから?
また、あなたの想像だけ?
どうしていつも九州説は証拠を出さないの? つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。。 2013年、邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されました。 >>104
>纒向王都説は集落跡が無いだけで論破できてしまう
纒向は集落なので>>104が論破された 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>159
>纒向は集落なので
ヤケをおこしてはイカンぜよ。 @阿波 >>108
西周代の歩は身体尺だけれど、始皇帝の度量衡の統一以降の歩は公定尺の単位系だから、
身長の高低は関係ない
まあ、その前に倭人の身長が低いとする時点で無理があるけどな
弥生時代の人骨が出てて平均身長も推定されてるんだから
男性:164cmぐらい女性:150cmくらい >>109
>距離説明のための「所要日数」表示。
その「所用日数」がかかるだけ離れてるんだから、「すぐ隣に隣接している」ことには
ならないだろう?
どこまでいっても、論理性が欠けてるんだよなww
ザラコクの考える3世紀の倭国の地理はデタラメばかり >>111
>部下の重臣らの上表の方針が出揃って、個々の新政策が決まってから、皇帝も実行するもの。
皇帝が一番偉いんだぞ?
皇帝がこうと言ったら、その瞬間からそれが正しい
まあ、ザラコクの書き込みに反論してたらきりがないんだがな
ザラコクは本当に思いつきのデタラメしか書かない >>119
>誤差は、2割以内位。
具体的な根拠なしでそんなことを書いても無駄 >>137
>漢書食貨志では、始めから長里だから、西晋代の短里時代の文書の証拠にならない。
「西晋代の短里時代」なんてものはない
西晋代のどの文書も、史書を見てもすべて一歩=六尺、一里=三百歩だよ
古田武彦氏は同じ九州説の安本美典氏にも論破されてるww >>137
>短里時代であった西晋代に元踏襲された、という保証がない。
これが維持されていなければ、耕地面積が足りなくて全員飢え死にだよw
六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫。
六尺を歩と為す。步百を畝と為す。畝百を夫と為す。夫三を屋と為す。
屋三を井と為す。井は方一里。これ九夫を為す。
まず、1歩=6尺で、次に「畝」の長さが百歩と規定される
次に畝を百本並べたもの(百歩の正方形)が「夫」
夫を3つ並べたもの(三百歩×百歩)が「屋」
屋を3つ並べる(三百歩×三百歩)と「井」 井が一里四方で、九夫になる
つまり百歩の正方形「夫」を縦3つ横3つ、井の字に並べたものが一里四方だから
一里=三百歩となる
夫が100畝で、九夫が1里四方だから 「一里四方が900畝」であってるよ
これはその後もずっと踏襲されてる >>141
>高句麗は「方二千里」と書かれているが、
半島の人には認めがたいかもしれないが、
高句麗は半島よりも北側に広く版図を持つ国なんだよ
半島史よりも中華の歴史で記述されるべき国
方二千里は秦漢里で問題ない >>142
>いや、魏志倭人伝そのものの記載が根拠だ。
循環論法は何の根拠にもならないと何度言われれば理解するのかね?
魏志倭人伝の里程と日程は、二重表記だ
↑
そんな記述方法はない、あるなら実例を出せ
↑
魏志倭人伝の記述が実例だ
バカですか?ww >>136
>韓の方四千里や天柱山などの、
韓地方四千里は、倭国を遠くするための調整
(韓地のことはどうでもいいという表記)
天柱山は、山の高さではなく、山を抜ける道のりの長さ
どちらも短里じゃないよww >>143
>投馬國には、
>不彌國からの「南至・・・水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸」
>という「其戸數道里」が「可得略載」されているから、
>「自女王國以北」という範疇には入らない。
道里:水行二十日
戸数:可五萬餘戸
其戸數道里はきちんと略載されてるよな?
自女王國以北、其戸數道里可得略載は
「女王国以北の国はその戸数・道里を略載することができる」という意味
投馬国は(陳寿の認識では)女王国以北の国だよ >>148
>畿内説はメシのネタ....
これを九州説の人たちはうれしそうに何度も何度も繰り返し貼ってるけど、
通常の日本語話者なら「メシのタネ」という表現を使うんだよなww
どんだけ日本語の知識が欠けてるんだよ?w
まあ、九州説の人の母国語で書かれたら、日本人の大半は理解できないけどさw >>133
>邪馬壹國なら、不彌國で「折れ線的道のり距離合計がほぼ萬二千余里になってしまっている」から、
>残りはほぼ0里になり、
>だから、不彌國の直ぐ南に入り口がある事になる。
ほらね、確実に「会稽東治之東」から外れてる
九州説は死亡済み
ww >>133
>>だから、不彌國の直ぐ南に入り口がある事になる。
おかしいよなぁ?
古田史学の会の読み方だと、不彌國の国境に着いたところまでが、東行至不彌國百里で、
そこから不彌國を通り過ぎて邪馬壹国の国境に着くところまでの距離が書かれるはずなんだが?
不彌國の大きさは0だと主張することになるぞ?ww 畿内の倭種は、タネとネタの違いも判らないのか。
帝国大学出の公家ボンボンだけに、日本語の裏側を学んでいないようだねえ。。 >>153
>文帝は、詔書で指示を出したまでであり、
指示出してないよね
周里の実施とか、ひとことも言ってない 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 魏志倭人伝時代には、倭人は本州や四国の、どの範囲まで、東に居住していたのだろうか。。。 >>179
前スレで韓国人宣伝係が
宣伝してるのは九州説ですと言っていたぞ 韓国政府が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、頭の悪い工作をしているな、、、
182 名前:日本@名無史さん 2018/12/23(日) 10:58:44.19
>>179
前スレで韓国人宣伝係が
宣伝してるのは九州説ですと言っていたぞ >>183
頭の悪い韓国人の三寸男の工作活動では、ないのかな、、、 魏志倭人伝時代には、倭人は本州や四国の、どの範囲まで、東に居住していたのだろうか。。。 >>177
>畿内の倭種は、タネとネタの違いも判らないのか。
>帝国大学出の公家ボンボンだけに、日本語の裏側を学んでいないようだねえ。。
本当に日本語に不慣れなんだな
「メシの」に続くのは「タネ」なんだよ
種子を播いてそれを育てて収穫するイメージ
発端であり大元であることを示すのが「タネ」
「ネタ」がつくのは「話のネタ」とか「寿司ネタ」とかだよ
母語じゃない人にはこういう細かな違いが分からないんだろうね 半島系パヨクのホロン部の人が宣伝しているのが九州説
連続句読点のやっていることはただのミラーリング >>147
>里歩系と尺寸系は、対象や発生理由が別の単位系であり、混乱していたのであり、
>だから、始皇帝のような「1歩=6尺の換算規定」の命令が出現した。
>>尺が決まれば、歩と里は自動的に決まる
>周代には決まらなかったし、魏代でも「≒」程度にしか決まらなかった。
それじゃあ・・・
あんたの空想してる周制の復古ってのは
秩序の破壊と混乱のことじゃないか
そんなこと新皇帝が指示するわけない
九州説はメチャクチャだ 当時の日本に稲なんて無かったでしょ、なぜ日本の話になるんだ?
宇宙、太陽、月の誕生・・・人類?〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜神武? 魏志倭人伝時代には、倭人は本州や四国の、どの範囲まで、東に居住していたのだろうか。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝するために韓国政府が雇用した、韓国人が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、頭の悪い工作をしているな、、、
187日本@名無史さん2018/12/23(日) 11:33:07.48
半島系パヨクのホロン部の人が宣伝しているのが九州説
連続句読点のやっていることはただのミラーリング この意見を発表した、優れた考古学者は、民族差別の言葉の使用をやめて、真実を詳しく公表すれば良いな、、、
290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。 韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。 実在していたとして・・・・、
本当のアマテラス?というのは日本に住んでいなかったという意味
本家は日本ではない・・・・・みたいな話 >>197
ステマというのは、ステルスマーケティングという、宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることなのではないのかな。。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています