邪馬台国畿内説 Part410
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く) ◆FAQ 3−2
(承前)
◆FAQ
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19−1
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
(本項、続く)
’(続き)
◆FAQ 19−1
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
(承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58−1
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
(本項、続く)
(続き)
)◆FAQ 58−2
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 84−1
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
◆FAQ 84−2
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ! A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ! A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし 中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
👉じゃあ長里で理解できない魏志は、反逆に類する行為なのでしょうか? >>90
>👉じゃあ長里で理解できない魏志は、反逆に類する行為なのでしょうか?
みんな約400mの1里で理解してるだろ
だから会稽東冶の東と理解してる
理解だよ理解 そうでしたか。
確かにそれはそうですね。
じゃあ、畿内じゃ無かったということで、結論でたな >>92
なんで理由もなく「畿内じゃあ無かった」と思い込むの?
知能が低いからかな? >>205
学会教育界や文部省や右翼マスコミで優位なのにで、
学会以外の学者や国民には7割が「大和説不支持」である不思議。。。 >>210
>>距離について誤情報で逃げ切る畿内説よりマシ <
>誤情報で逃げ切る畿内説なんて何処にいる?<
ほら、お前の中にいる。 >>213
>>纏向は集落跡が無いのに何故 「都」と言えるのか?<
>また、あたまの変なやつが涌いてるな 纏向は集落なのに<
あれ?、また頭の変な奴が湧いているな。
纏向の例の掘立式建築やその周りには、集落跡はなく、
集落跡が少しあったのは、周囲の端っこの方の僅かであったのに。
「都」なんて、全くあるもんかい。 >>221
>倭国の朝廷が大和朝廷で、それがそのまま日本国を名乗るようになっただけ<
倭国中心は、唐会要の「正北抵新羅」に拠って、北部中心にあり、
晋の惠帝への遣使の時に日本国を名乗った。
大和は、九州倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎使から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭國の国であったが、
九州倭国が、白村江で唐に大敗し、亡国の運命に晒された時に、
大和が九州倭国を併合吸収継承して、日本国を継承した。 >>225
>オラここは畿内説研究最前線の場だ 九州説は邪魔をするな <
コラ、ここは、原則自由投稿の掲示板だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、邪魔をするな。 >>94
まあ、チャンとした医者の処方した薬を飲まず、拝み屋呼んで金払うレベルの文化程度なんだよ、九州説は。 >なんで理由もなく「畿内じゃあ無かった」と思い込むの?
>知能が低いからかな?
会稽東冶の東と理解してる なら、当然畿内じゃなくなるよね。
どういう地理感覚でこれが「何の理由のもない」といえるの??
知能が低いからとしかいいようがない。 >>993 名前:日本@名無史さん 2018/12/25(火) 16:47:02.50
全ての論者に聞きたいのだが、
方角・距離云々を言う前に、
上陸後、末盧国からの最初の一歩を、なぜ倭人伝に逆らって北東の糸島へいったのか、
そして、倭人伝には親切に書かれているのに、なぜその指図通りに東南の佐賀平野へ向けて踏み出さなかったのか、、、
・・・最初の最初で、あえて倭人伝に逆らった人々の心理を全く理解しかねている。
⇧
末盧国の比定地が問題ですが・・唐津説が多いので唐津とします
倭人伝では
・・「末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。」
と記述が有ります。
そして「東南陸行 五百里 到伊都國」と記述されます
前の人が見えないくらいの密林?を行きます。
魏の使者は記述通り東南に向かい、右往左往し各説一致する伊都国についたものと考えます。 >会稽東冶の東と理解してる なら、当然畿内じゃなくなるよね。
だから、なんで?
理由が言えないの?
「トウゼンダー」が理由のつもり?
マジ、知能ひくいの?
こりゃ社会生活大変そうだなー >>227
>九州説は頭のおかしい奴しかいないのか <
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者には、
頭のおかしい奴しかいないのか?。 >>103
安価忘れたので、もいちど
>会稽東冶の東と理解してる なら、当然畿内じゃなくなるよね。
だから、なんで?
理由が言えないの?
「トウゼンダー」が理由のつもり?
マジ、知能ひくいの?
こりゃ社会生活大変そうだなー
大事なことだし、二度言いました テスト投稿
>>225
>オラここは畿内説研究最前線の場だ 九州説は邪魔をするな <
コラ、ここは、原則自由投稿の掲示板だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、邪魔をするな。 >>102
私は海岸沿いに進んで伊都国に行ったと思います
唐津湾を先ず東南に海岸沿いを進むです
内陸部は倭人伝記述の通り危険
「末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。」 >>108
自由投稿じゃないんだよ
ルールは守ろうね >>110
>私は海岸沿いに進んで伊都国に行ったと思います
個人の妄想につき、却下 @阿波 >>104の間違いです
私は海岸沿いに進んで伊都国に行ったと思います
唐津湾を先ず東南に海岸沿いを進むです
内陸部は倭人伝記述の通り危険
「末盧国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。」 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である テスト投稿は通った、と思ったから、
大和説への本投稿を再開すると、
「連投ですよ 」として、また拒否だね。 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である >>117
>末盧国、伊都国の比定地は何処
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) @阿波 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である ニセスレ立てたり
コピペ荒らししたり
とかく九州説は汚いな 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望であるあ 王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である >>130
こういうの見るにつけ、ほんと九州説ってやることが汚いと思い知るよ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 九州説を書けば欠点を突かれ
畿内説を論駁しようとすれば逆襲に負ける
出来ることはせいぜい嫌がらせ
九州説は哀しいね
憫 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 九州説は学説として終わり
九州論者は人として終わった 老人の畿内説は学説として終わった
若い研究者を洗脳するだけの老人は去れ この時も、アマゾンはユーザーの不安を和らげようとする声明を発表し、「技術的な不具合」だと説明した。その後アレクサの設定が改められ、この質問に対しては「自分の雇い主はアマゾンだ」との答えを返すようになった。 韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊の哨戒機に火器管制レーダーを照射した問題で、防衛省は25日、レーダー照射はなかったとする韓国側の主張に対し
「火器管制レーダー特有の電波を一定時間、複数回照射されたことを確認している」
と反論する文書を発表 韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊の哨戒機に火器管制レーダーを照射した問題で、防衛省は25日、レーダー照射はなかったとする韓国側の主張に対し
「火器管制レーダー特有の電波を一定時間、複数回照射されたことを確認している」
と反論する文書を発表 韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊の哨戒機に火器管制レーダーを照射した問題で、防衛省は25日、レーダー照射はなかったとする韓国側の主張に対し
「火器管制レーダー特有の電波を一定時間、複数回照射されたことを確認している」
と反論する文書を発表 >>228
>九州王朝説批判 第1章 中国史書の「倭」と「日本」
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm
くらいは読んでおきなよ
単に、唐代に倭国から日本国への改号があったから、唐書(新、旧とも)には
倭国伝と日本国伝があるだけ<
筆者の熊本大の数学教授の川村明は、Yahooで、天誅やハイエナらと組んで、
私と議論をしたが、
3人とも私との議論に勝てずに、撤退した者たちだったんだよ。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>265
>一寸千里の典拠の周髀算経は実測していないし、<
「測影」という文字が書かれている。
>一歩=六尺、一里=1800尺で書かれていて短里ではない<
書かれていない。
立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。
即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。
因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一,以應周天三百六十五度、四分度之一。
の中の、
「即平地徑二十一步,周六十三步」以後の記載は、
「倍正南方」に矛盾するから、
前漢の周髀算経の収集と内容説明をした人物の、
「始皇帝の1歩=6尺」に拠って自己解釈した書き込み文であり、
×記載。 >>156
>3人とも私との議論に勝てずに、撤退した者たちだったんだよ。
そんな捏造してもバレバレだよ
だって反論できてないだろ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>276
>日本の里だと大宝律令で一里=533m 後に655m
そして信長や秀吉の時代に3927mとなる
記録が残る範囲では日本で魏の里を 使用した痕跡はない。<
梁書の文身國の「七千里」や大漢國の」「五千里」も、
「魏朝の短里」使用が日本で行われていた、という事の証拠になるが、
書紀の天武紀に、
「遣多禰嶋使人等,貢多禰國圖。其國去京五千餘里,居筑紫南海中」があり、
その「去京五千餘里」の「京」は、大和であっては全く矛盾であり、
「筑紫」であれば、魏朝の短里として、ほぼぴったりであるとして、。 キナイコシや3寸男が、邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だという真実を暴かれたので、焦っているな。。。 >>158
>>一寸千里の典拠の周髀算経は実測していないし、
>「測影」という文字が書かれている。
メチャクチャだな
服役中の囚人が母親に「真人間になって出所する」と手紙に書いたら、彼は出所したのか? 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>158
>「即平地徑二十一步,周六十三步」以後の記載は、
>「倍正南方」に矛盾するから、
何と何が矛盾するの?
合理的な理由もなく恣意的に文献を否定してもダメだよ >>281
>縮尺じゃないんだって! 海を渡ってたどり着くまで一万里
女王国までは地の果てまでの萬二千里 具体的な地理とは関係ない数値 <
魏略にも、魏志と同じような記録があるから、
どちらも、「一つの同じ記録」を元にして記載した事になり、
だから、その「同じ記録」は、
魏使らの計測係や郡役人や後続の使節らの記録であった、
という事になる。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>167
>どちらも、「一つの同じ記録」を元にして記載した事になり、
>だから、その「同じ記録」は、
>魏使らの計測係や郡役人や後続の使節らの記録であった、
>という事になる。
「だから」の前とあとで、すごい論理的飛躍が・・・ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>283
>魏志倭人伝においても 七千里と表現されているところが 600km〜700 km程度となっており
やはり日本(倭)の領域で 魏の里を使用したとは考えられない。<
また変な事を言い出したな?。
「七千里」と言えば 郡から狗邪韓國の距離。
郡を沙里院として、狗邪韓國を金海付近として、直線距離は400km強であり、
折れ線的道のり距離は、直線距離の2割増し以内位であるから、480km位。
だから、1里≒70mであり、短里であり、
1里≒430mの長里は、×。
そして、この男の「 600km〜700 km程度」という事が、おそらく、
半島の西岸〜南岸の全水行路で計算する、というインチキをやっている。
また、倭においては、倭人の(中国からの渡来民以外の)普通の人は、
始めから「里」を知らず、
だから、倭地に於ける「里」の記載は、魏の役人らの計測記録。 >>285
>>最近の畿内説の学者の動向ぐらい調べた方が良いよ <
>2016年なら最近の動向と言っていいだろ?
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」<
最近の大和説学者は、ほぼ全員、
「邪馬台国」という存在もしない嘘つき騙し文言を使い、
「南→東」などの嘘つき騙しをする、
皇国史観宗教思想の・・・・詐欺師。 >>173
>また、倭においては、倭人の(中国からの渡来民以外の)普通の人は、
>始めから「里」を知らず、
>だから、倭地に於ける「里」の記載は、魏の役人らの計測記録。
その消去法がおかしいと
とんと気づかない人が
いるだろうか
いや、いはしない 洛陽の南も北も短里で1千里の地点は山の中
実際には測ってないのは丸わかり
術数学的に記述しただけなんじゃないかね >>173
成程。
普通の正常な人間なら誰もが納得できる説明を、有難う。 >>177
それは確実に、普通じゃない人にしか理解できないものだ
タイコモチも無駄になって残念だな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、 スレッドが寂れてしまったな、、、 言葉遣いは良くないが、優れた謎の考古学者が、出現した可能性があるな。。。
172日本@名無史さん2018/12/26(水) 09:45:54.93
チョンスレ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとするのはいかがなものか?
魏の役人の張政が実際に見たのなら咎めるのではないか? >>189
後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大だって証拠は?
??? 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、 スレッドが寂れてしまったな、、、 >>287
>でも、比例関係になく、区間ごとに4倍b煦ルなる値になb驍フははっきり試ヲされている
縮尺と考えるべき理由がない <
4倍も異なっていない。
この大和説男の「計測の出発地点と到着地点の比定」が、インチキ騙し。
特に、末盧國や伊都国や奴國の位置比定がインチキ。
実際には、60m〜90mの範囲内で、
中間点の75mからは2割位以内の際があるだけであり、
大和説の430mでは、6倍位の差異になってしまって、×。 この意見を発表した、優れた考古学者は、民族差別の言葉の使用をやめて、真実を詳しく公表すれば良いな、、、
290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。 ステマというのは、ステルスマーケティングという、宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることなのではないのかな。。。 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>190
根拠は数字に決まってる。
曹操の墓でも全長60m、曹休や曹植は
それよりも小さい。
後漢王墓についても自分で調べてみるといいさ。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>296
>>これは、当然漢代の計測数値なんだろうが、<
>魏代の書物が、なんで当然漢代の計測なんだ<
魏代になってから、墓の大きさなどを改めて測り直す、なんて事は、
普通にはせず、
普通は、始皇帝の死後の墓が出来た頃に計測したデータであった可能性g高いから、
>>しかし、周迴五里余が、始皇帝冢の周りの堤の外周であった可能性もあり、<
>墳高と周迴と言ってるのに、なんで突然「周りの堤」なんて出て来るんだ<
墳周りとは書いていないし、長里に合わせようとすると、周堤の計測をした可能性があるから。
大和説は言うことは、全くの無脳でデタラメすぎる。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>305
「具体的に」 「証拠を挙げて」 「比定地を正し寿上げて計算を示して」くれ。
できないなら、大和説者は、ただの中傷屋だ屋。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>202
>「具体的に」 「証拠を挙げて」 「比定地を正し寿上げて計算を示して」くれ。
>できないなら、大和説者は、ただの中傷屋だ屋。
なんで?
イミフ この意見を発表した、優れた考古学者は、民族差別の言葉の使用をやめて、真実を詳しく公表すれば良いな、、、
290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。 >>197
>根拠は数字に決まってる。
>曹操の墓でも全長60m、曹休や曹植は
>それよりも小さい。
数字が根拠ってw
どこから拾ってきた数字?
「根拠」って何だか知ってる? >>207
>マツラ国は、本当は何処に
末羅国造のいたところだよ
桜馬場遺跡、柏崎田島遺跡、宇木汲田遺跡、中原遺跡、千々賀遺跡などが
ある唐津平野が妥当
松浦川の流れる平野 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 以前「九州説の人には証拠を出す習慣がない」と
指摘した人がいたが、間違いだ
彼らには「証拠を出さない習慣」が、あるんだ
笑えるよ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>214
その、どこに
>>曹操の墓でも全長60m、曹休や曹植は
>>それよりも小さい。
と書いてあるのかね?
ww 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 畿内説を宣伝している韓国人が、元気を失ってしまったな。。。 畿内メシのネタ説の終戦処理中・・、
A級戦犯の捜索も続行中・・、 韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝するために雇用した韓国人のキナイコシが、また、何かのことで、論破されたので、論破された時の癖を出してしまっているな。。。
218日本@名無史さん2018/12/26(水) 14:59:56.49
>>214
その、どこに
>>曹操の墓でも全長60m、曹休や曹植は
>>それよりも小さい。
と書いてあるのかね?
ww >>223
曹操という謎の人物の墓を、測ったので、邪馬台国畿内説の嘘がまた一つ、発見されたのではないのかな。。。 曹操という謎の人物の墓を、測ったので、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人が、また、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたのではないのかな。。。 >>226
魏志倭人伝を、もう一度、読んだ方が、良いのではないのかな。。。 >>218
曹操の墓の径は書いてるだろ。
曹休曹植のは自分で探せ。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある(今はコジェ島と呼ばれる)狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 >>228
どこに書いてある?
デタラメ言っても、すぐにバレるよ >>312
>決まってないよ? 机上の数合わせだって教えて上げてるだろ?<
「机上の数合わせ」なんてインチキをして、バレれば魏使らの首が危ないし、
魏略も書いているんだから、魏使らの実測証言である。
根拠なしでまともに反論できないからって、キレ芸でごまかすなよ、大和説者。 始めに一つの海を1000里あまり(行き)、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、(二人の)いるところは(船の付いた島とは)途切れた島だ。。。
(対海国は)およそ、一辺400里の正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺およそ300里の正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、(対海国とは)田地がある(ところが違う)が、田を耕しても、まだ、食料が足りず、(対海国と)同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行ってみると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑(を食べるの)が好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 コジェ島と対馬の間、対馬と壱岐の間、壱岐とマツラ国の間は、どれも、海を千里渡るのではないのかな、、、 >>314
>スクロールすれば誰にでも見えるものを 転写引用しろとか
ネット無知なじーさんだな<
表題からして、「邪馬台国」とか「畿内」とかの、
史料事実に存在しない嘘つき騙しの造作文言を使い、
その中身も、「南→東」などの嘘吐き騙しをしている・・・・のような偽説を書いている、
非常に大量のテンプレをスクロールさせ、また読みかえさせようとするなんて、
まるで、」大和説宗教に狂ったインチキ詐欺師のガキらだな。 >>233
島の間の航海の道の距離が、どれも、76834mなのだな。。。 >>228
>曹操の墓の径は書いてるだろ。
>曹休曹植のは自分で探せ。
ほら
ウソをつき、ウソをつき、ウソをつく
何があろうと絶対に証拠は出さない
それが九州説 >>315
>九州世界のひとは、なんで平然と真っ赤なウソをいうの?
異常者なの? 呉地は呉地 そこは会稽じゃない <
お前ら大和説者らの中で、
一番史料事実からの反論を書いていた「ww」というあだ名の男が、
ついうっかり、魏末の260年頃に、会稽郡から呉郡への分郡があった情報を、
書いてしまったの。 >>317
「南→東」などのように、
そういう史料を無視して否定曲解をするのは、
大和説の得意ワザだな。 マツラ国は、長崎県の松浦市なのではないのかな、、、 「ww」というあだ名の男が、 ついうっかり書いてしまった、魏末の260年頃に、会稽郡から呉郡への分郡があった情報とは、上海と関係することだろうか、、、 曹操という謎の人物の墓を、測ったので、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人が、また、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたのではないのかな。。。 >>237
>ついうっかり、魏末の260年頃に、会稽郡から呉郡への分郡があった情報を、
>書いてしまったの。
その人が、そんなこと書いたって証拠は? 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 「ww」というあだ名の男が、 ついうっかり書いてしまった、魏末の260年頃に、会稽郡から呉郡への分郡があった情報が、確認できたので、邪馬台国畿内説の嘘がまた一つ、発見されたのではないのかな。。。 「ww」というあだ名の男が、 ついうっかり書いてしまった、魏末の260年頃に、会稽郡から呉郡への分郡があった情報が、確認できたので、
韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人が、また、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたのではないのかな。。。 >>318
>グダグダ言ってるがその前に、始皇帝「冢」が「墳」高五十余丈と書かれていることに気付きなよ
ザラコクがいつも言ってる「古墳は墳だから、冢じゃない」っていうのが、完全に破綻してるぞww<
私が言っていたのは、
「冢」は、形状的に錐体「台」的であり、祇園山のような形であり、
「墳」は、丸みを持って盛り上がったした小山のような、前方後円墳のような形であり、
その大きさも、孔明の遺言にあったように、
墳は「山」に例えられるように巨大感があり、
冢は、「棺を容るるに足る」程度のもの、という区別があった、
という事だ。
という事は、始皇帝冢は、始めは形状実態から「冢」とされていたが、
後代の魏代頃の薄葬令などの時代では、大きすぎて墳と形容された事もあり得る、
という事だ。 >>237
九州説の生命線になる根拠が
名前も知らない人がそう言ったという記憶
だけなんですね
こりゃいいや九州説
ww >>216
>なぜ妥当と言い切れる?
壱岐から海を渡ってきて直接たどり着ける
平野(四千戸入るにはある程度の面積が必要)
多くの弥生遺跡があり、王墓級とされる墓もある
地名の一致 末盧國⇒末羅国、松浦郡、松浦川
これだけの根拠があって、妥当でないとなぜ考えるのかが不思議
要するに、「魏志倭人伝の方角と距離に誤りはない」と『言えなくなる』のが
嫌なだけだろ? >>231
>魏使らの実測証言である。
実測じゃないんだよ
なぜなら、海上距離の実測方法が「ない」から 韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を、今もまだ宣伝するために雇用した韓国人のキナイコシが、また、何かのことで、論破されたので、論破された時の癖を出してしまっているな。。。
250日本@名無史さん2018/12/26(水) 16:24:01.31
>>237
九州説の生命線になる根拠が
名前も知らない人がそう言ったという記憶
だけなんですね
こりゃいいや九州説
ww >>251-252
何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>248
>という事は、始皇帝冢は、始めは形状実態から「冢」とされていたが、
>後代の魏代頃の薄葬令などの時代では、大きすぎて墳と形容された事もあり得る、
ということは、魏代頃には、墳のように大きいものが「冢」と書かれていることが
確定する訳だなww
つまり、ザラコクがいつも言ってる「古墳は墳だから、冢じゃない」っていうのは、
完全に破綻してるwwwww マツラ国は、長崎県の松浦市なのではないのかな、、、 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 ザラコクをからかうときには、どうしても笑っちゃうから、文末にたいてい「ww」を
つけてて、旧唐書の安南への経路で大陸正史には普通に方角の間違いがあることを
実証したころは、私がザラコクから「ww」って呼ばれてたんだけどww
あと>>250の、最後に少し空行を入れてから「ww」で締める人も、ザラコクは
「ww」って呼んでるね
まあ、なんにせよ、ザラコクの言うことは「どうせ、大したことは言ってない」んだがww >>256
>マツラ国は、長崎県の松浦市なのではないのかな
松浦川が流れているから、唐津平野がもともとの末盧國・末羅国だろう
それが、行政区域としての松浦郡が置かれたときに広域化して、その
広域化した松浦郡の一部が、長崎県の松浦市になっている >>321
>>四角錐の1辺は100〜150m位。<
>ブブー 一辺は350メートルあるよ 魏晋里で四里以上ある
どうやっても短里じゃないなw 魏代はすべて短里ってのは完全に破綻してるだろ?<
成程、
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%AE%E5%86%A2#mode%3Ddetail%26index%3D36%26st%3D1377
を見れば、錐体台の墳頂の平面は相当広大(1辺60m位?)であり、
斜面も45度よりもかなり傾斜が緩やかであり、
錐体下面の一辺は350m位にはなり、
短里よりも長里の方が近いな。
しかし、後代の記録の「周五里余」(一辺1.25里余)では、
長里としても、かなり小さく、
やはり、後代の計測記録は、
始皇帝冢の周りの「冢堤」をも計測した短里表記であった可能性があるな。 >>259の補足
広域に、その中の代表的な小地名が付けられることがよくあるが、
川の名前は移動できないから、松浦川基準で唐津平野とするのが妥当 マツラ国は、長崎県の松浦市なのではないのかな、、、 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 この意見を発表した、優れた考古学者は、民族差別の言葉の使用をやめて、真実を詳しく公表すれば良いな、、、
290日本@名無史さん2018/12/05(水) 20:21:33.75
>>260はチョン
日本人なら対馬を倭地だと認識し、文献の知識があれば朝鮮半島南部すら倭地と認識する。
間違ってもタイホウから倭まで、一満里とは主張しない。
畿内説は、韓国政府のステマに荷担している。 >>260
どのみち短里はあり得ない
現存墳丘の方が大きいから >>260
>しかし、後代の記録の「周五里余」(一辺1.25里余)では、
>長里としても、かなり小さく、
>やはり、後代の計測記録は、
>始皇帝冢の周りの「冢堤」をも計測した短里表記であった可能性があるな。
「冢堤」(そんなものがあったとしてw)をも計測したら、、一辺がますます
魏晋里に近づくから、より魏晋里で測った妥当性が高くなるだけだぞww
論理の方向が理解できてないだろw >>322
>>倭人伝は「ちょうど東」なんて書いていないね。
「まさに・・・に在るべし」という「大体の位置の推定」の文だ。<
>「まさに・・・に在るべし」って 「ちょうど東に在る筈だ」って意味なんだが <
「まさに・・・べし」って、始めから「推定ですよ」、っていみだ。 >>325
そういうオウム返しを、簡単にされるから 、
大和説が、簡単な事も判らないようなアホであった事が分かり、
死んだとわかる。 >>265
>>>260
>どのみち短里はあり得ない
>現存墳丘の方が大きいから
おいおい、一行目と二行目の間に論理的つながりが全くないぞ。 >>266
何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>326
大和説者らに言葉の理を説いても無駄だよ。
もう彼らに何かを教えるのは諦めて、世間の人々に説明した方がよい。
何を言われても聞く耳持たずで、
キョクウの皇国史観の・・・・大和説学者らの、劣化コピーしか書かないし。
ただザラコクのデタラメは指摘するようにはしてるけど >>271の訂正
ただザラコクのデタラメは指摘するようにはしてるけど
は削除。 >>327
南が東の錯誤でない、ということは十分な論証がなされているし
長里などなかったことも明白
会稽東治之は、南が錯誤でないことの、という重要な状況証拠
大和説は50年ほど前には既に死亡してるんだが、
それを認められずにグダグダ言う大和説学者らが一部にいるだけ >>269
>>どのみち短里はあり得ない
>>現存墳丘の方が大きいから
>
>おいおい、一行目と二行目の間に論理的つながりが全くないぞ。
ばっちり論理的つながりが有る
現存墳丘は約350m四方
周囲5里が1里約75mの短里とやらなら一辺は約94mしかないことになる
つまり、あり得ない
短里とやらは使用されていない >>276
何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>268
じゃそういうオウム返しを、簡単にされたなら、
九州説が、こんな簡単な事も判らないようなアホであった事が分かり、
死んだとわかるんだな。 >>268
>そういうオウム返しを、簡単にされるから 、
オウム返しって、相当なバカでもできることだぞ?
簡単にされるとかされないとかって、何の意味もないww エジプトなんかでもそうだけど測量の目的の第一は土地面積の計算で一番身近に使ってただろ
短里だと古代中国の土地制度である井田法では一家で農地が200坪くらいしか与えられなくて明らかに生活出来ないのだからそもそも短里なんて無いのだよ >>267
>「まさに・・・べし」って、始めから「推定ですよ」、っていみだ。
「この推定でバッチリ間違いなし」って意味だよ >>280
だから、何の問題もなく、度々倭国(阿波)と往来してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>333
>陳寿が倭国を相当な南国だと思ってるんだよ <
思っていない。会稽東治之東付近だ、と思っている。
>会稽東治之東とか、所有無與擔耳朱崖同を見れば、 中華世界の最南端くらいと考えていることが分かる<
倭人の 風俗や出身地が「会稽海岸付近の住民との類似」の説明。
>南国表記だから九州だとか言う人がいるけれど、そんなレベルの南国ではない
そして、そこまで南方まで洲島が続いているとすれば、水行二十日とかの長距離移動は 南向きじゃないとおかしくなるんだよ<
「水行二十日」は、不彌國からの所要日数で、南九州止まり。
>魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かで 1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念<
実測でなく、インチキがバレれば、魏使らの首が危ない。
>2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程 これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう<
邪馬台国なんて存在もしないし、魏略も魏志と同じような記述であるから、
どちらも魏使らの記録に拠った記載をした。
>また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
そんなに正確なものではないし、相当にいいかげんとも言える<
倭面土國は、はるか後代文書の記載であるから、証拠価値が低いし、
同時代の魏略と一致する部分は、当然信頼性が高い。 >>359
「南→東」などの嘘つきだましをする大和説者さん
えんえんとアナタの心証風景を語られても意味がない
なにか言いたいなら 「具体的に」 「証拠を挙げて」 ものを言ってくれ
できないなら、それは日記に書いておけ >>361
おいおい
朝から発狂してんな大和説
纏向って、「南≠東」などによって、始めから×なんだぜ ww >>363
>纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀初めにかけて営まれた、極めて大規模な集落跡である。<
3世紀末以後の祭祀建築であり、大規模集落はない。
>しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上で極めて重要である。
また、同時期の居住域や墓域および祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。<
九州倭国の「東征毛人五十五國」で、
在地の毛人や出雲系銅鐸祭祀部族を支配するためと、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であった。
>by 文化庁 <
おやおや?、「南→東」などの嘘つき騙しの本元が、安部文部省であった事を、
白状してしまっているわ。 >>371
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
なにか言いたいなら 「具体的に」 「証拠を挙げて」 ものを言え
それができないなら、他人の前で呟くな
泣きながら日記に書いておけ >>375
とうとう競技場のグラウンドを居住域と言い出す
哀れなクレージーピエロ
それが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説 オウム返しと荒らししか出来なくなった九州説は終わった >>378
議論に負けると、
膨大で転写も困難な証拠文献の紹介を要求して、
文献の所在地を説明しても、「証拠の出せない」とヘイトスピーチして、
世間の人々を騙そうとしたとした大和説者は、
サギ確定。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>382
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
「具体的に」 「証拠を挙げて」
ウソではない、と論証してくれ
できないなら、嘘つき騙しの中傷だ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>393
大和説者さん
以前に何度も証拠の提示してある事を伏せて、知らん振りして、
正当な理由なくまだ《 証拠の提出を要求 》して、
提出していない、って誹謗宣伝するって、
ウソついてましたと 自白したのと 同じだよ 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>405
>>個々の記載に対しては、史料批判に拠って、確率的な可否判断をすればよいの。<
>あんたは、唐代の(自己解釈での書き換えで有名な)魏徴らの収集した解釈書だ
という理由で皇覧を全否定したんだから <
いや、隋書俀國伝は、全否定していないし、ほぼ全肯定している。
つまり、後代文書の「前代の資料事実」紹介は、半分真書であるし、
史料批判に拠っては半分×記載である、という両方の場合がある、という事。
>九州王朝説は
唐代の(自己解釈での書き換えで有名な)魏徴らの著した
隋書を全面的に史料として使えなくなった<
半分真書として使っているから、この男の批判が×。 >>413
>>「具体的に推計」したかどうかは明らかでない。そう「思う」だけ。
「倭人の南方的風俗との整合性」の記載が最重要だったと考えうる。<
>「計其道里、当在・・・」って、陳寿がウソ書いた という主張?<
違うね。
陳寿は断定していないで、「大体の位置推定」をしている。
>それだと、南に何里だーとか言って邪馬台国の位置を特定しようとする九州説が全滅して<
断定ではないから、九州説が全滅する筈がない。
>畿内説だけが残るよ <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
「大和説」は「南≠東」などに拠って。99.5%以上×ね。 >>296
>以前に何度も証拠の提示してある事を伏せて、知らん振りして、
提示したって証拠は? >>415
>>そして、「涼州軍従金城、南至沃干阪」の場合は、「従金城」が途中の移動になっており、<
>だからザラコク珍説
>南至投馬國」の「南す」と「至る」の間に、 途中移動を示す文言が書かれていないから、
魏使らは、その間を移動していなかった、という事になる。<
はウソでしょう はい、ウソでした<
いや、始めから、 「至」には、
「実際に到った事を示す」一般的な使用例の場合と、
「四至のような位置を示す」場合とがあり、
その区別は、「至」の前に移動の説明があれば、実際に確実に移動しており、
「至」の前に移動文言がなければ、位置を示す事になる場合もある、
という原則を書いておいたから、
この大和説男が、それを隠して、という知らん振りして、
「ウソでした」というウソを付いた。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>420
>>市民の古代第十五集の75頁からの秦政明さんの論考にも紹介されている。
そして、度量衡の周制への復古が実行されたのは、
「韓伝や倭人伝における短里の存在」が根拠だ、とはっきり書いておられる。<
>アマチュアさんの意見ではなく根拠史料を示してもらわんと話にならんな<
自分がプロだ、とでも威張っているんなら、自分で探せばよい。
>せめて何年何月の誰の発言が根拠とか言えないの?だから九州せはダメなんだ<
以前に、上表者の名前をPCに示そうをした事があったが、
私のPCの腕では、PCに出す事が出来なかったし、
このような、自分で探さないで証拠を要求する「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男は、
人間ではない・・・・詐欺師であるから、答えて上げる気もしない。
だから、大和説者は、ダメなんだ。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.../history/1545495128/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>421
>>何度も言って来たように、会稽東治の中心付近の上海と、九州の佐多岬が北緯31度。<
>上海が、会稽東治の中心付近?<
魏末の260年頃の会稽郡から呉郡に分郡された地域であるし、
会稽郡と呉郡の地域の東海岸は、浙江省から江蘇省の海岸付近になり、
上海付近がその中央だ。
せめて年に一度くらい 「具体的に」 「まともに根拠を挙げて」
まともな 主張をしてくれ を。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員が、討論での宣伝活動を諦めて、悪口を言い放ったな、、、
312 名前:日本@名無史さん 2018/12/26(水) 20:46:44.58
既知害連続句読点 >>422
>>だいたい正確な地図のない時代に「正確に真東と認識」することは不可能。<
>地図で有名な裴秀は、卑弥呼朝貢当時の魏の首脳である曹爽の側近で、
息子は陳寿の上司張華の同志 <
何これ?。
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という「女王國の位置推定」とは、
何の関係もない事ではないか。
この男は、・・・・か。 >>313
>魏末の260年頃の会稽郡から呉郡に分郡された地域であるし、
>会稽郡と呉郡の地域の東海岸は、浙江省から江蘇省の海岸付近になり、
>上海付近がその中央だ。
いつまで、そのニセ情報流す気?
地に堕ちた九州説の信用が、さらに地下にもぐるよ
つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだね、、、、 短里がどうやっても成り立たないから
九州説は完全に詰んだな >>427
>は?
会稽東治は福州の東侯官治だと、しっかり根拠挙げて言ってますが?だと、
しっかり根拠挙げて言ってますが?<
福州の「東治」記載は、紹煕本の書陵部本にあった文字であり、
張元済の考証校勘では、「東冶」とされて、否定されたものだ。 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとするのはいかがなものか?
魏の役人の張政が実際に見たのなら咎めるのではないか? つまり、邪馬台国畿内説は完全に破綻したのだね、、、、 >>322
畿内には中国と関わりの無い地方豪族が住んでいたんだね このなかで一番美人なのって真ん中だよね?深キョンレベルだと思うのだが
ちなみに向かって右は目も鼻も整形してるって本人が公言してるけどそれ抜きにして誰が一番美人だと思う?
http://bigsta.net/media/1933567086757747003_3564907098 >>430
>会稽東治が、当時会稽郡ですらない上海付近だとか
なんの根拠もなく言い張ってるのが 道化九州説ではないのかな<
陳寿は、女王國の「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定を書くのに、
「夏后少康之子封於會稽」と関連がある事を示そうとしたが、
会稽郡が魏末期に呉郡に分郡されたために、魏志を書くのに、
「会稽郡」とも書けず、「呉郡」とも書けず、
止むを得ず、「会稽東治」という説明文言を選択した、
という事が分からないような大和説者は、
なんの思考もなく、アホな事を言い張ってる道化大和説を車ではないのかな。 >>321
誰の目にも
魏志倭人伝の一里は50mになったり200mになったりするのは明らか >>445
>縮尺という事は
実際の尺とは違っている
つまり実測ではなくて1万2千里を机上で当てはめた数値という事だな<
違うな。
秦漢朝代の里歩系の度量衡距離(=長里)に対して、
「縮めたの度量衡距離(=短里)」を使った、という意味だ。 >>450
>魏使が邪馬台国まで1万2千里と報告したら
淮南子に書いてある架空の世の果て
1万2千里と全く同じじゃねーかコノヤローと言われやしないか <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言を使ったり、
淮南子の萬二千里を使って誤魔化すようなインチキを使った事がバレたら、
コノヤローと言われやしないか?。
邪馬壹国女王之所都まで1万2千里は、魏使らが計測したものであり、
「最初からそう決められていた数値 」ではない。 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 >>451
>裴秀は「製図六体」と呼ばれる製図法を提唱して、
縮尺・距離・方位などの基本方針を初めて明示した学者政治家であり、
中国の地理学史上に名を留めている
彼が作成した地図は、当時としては非常に精巧なものという評価を受けており、
宇文トによれば二寸当たり千里の縮尺で作成されていた
よって、当時に正確な地図がなかったという主張には根拠がない
少なくとも、陳寿が自分の書いた道里と、
幽州・揚州・交州のいった州単位の位置関係を、
正しく照合できるくらいのインフラがあったと考える方が合理的 <
成程。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 >>453
>>周朝里という短里を知っている魏の皇帝や重臣らに報告するの。<
>そんな、一切文献記録にないものを 彼らが知ってるって証拠は?<
後漢末期に、一寸千里を含む周髀算経の再収集注釈書が書かれたから。 >>320
>福州の「東治」記載は、紹煕本の書陵部本にあった文字であり、
>張元済の考証校勘では、「東冶」とされて、否定されたものだ。
つまり東治とあるのは東冶のことなんだよ
まだ、わからないの? >>332
その地図を「具体的に」「根拠をあげて」示してくれよ。
帯方郡から会稽までの距離がわかるやつな。 >>455
>魏略の著者や陳寿は魏使ではないから
魏使の報告書を自己解釈で書き換なかったとは言えない<
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html
を見ればわかるように、陳寿の魏志と魚豢の魏略の行程説明は、
細かい文字の差異はあっても、大体「同じ情報源」であった事が分かるので、
陳寿も魚豢も、魏使らの記録を書き換えずに、大体踏襲転写している、
という事が分かる。 古代中国人も
短里の1里=300歩≒300尺なんて意味不明な単位体系を使うにさぞ困惑しただろう >>337
わからんなあー
魚豢が自己解釈による書き換えを行って
陳寿がそれを書き写したのかも知れないじゃないか 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているので、何かが判らないのでは、ないのかな。。。
339 名前:日本@名無史さん 2018/12/26(水) 22:06:57.12
>>337
わからんなあー
魚豢が自己解釈による書き換えを行って
陳寿がそれを書き写したのかも知れないじゃないか >>330
しかし漢時代に書かれた淮南子に
世の果ては国境より南1万2千里とあるから
魏使が邪馬台国は国境の帯方より南1万2千里ですと報告したら
淮南子の数字使ってインチキしたなコノヤローと言われ
首が危ないのではないか 魚豢が自己解釈による書き換えを行って陳寿がそれを書き写したのかも知れないじゃないかという、韓国人の宣伝は、頭の悪い嘘の可能性が、あるな、、、 >>342
そうだね、、、
韓国人が、いつも、意見を発表するときの、力がないなw 今まで畿内説だったけどここの情報に触れて九州説になった >>458
>つまり架空の1万2千里に合わせるために
架空の里を机上で当てはめた<
いや、つまり計測里数のの合計が1万2千余里になったのであり、
架空の里を机上で当てはめたのではなかった。
>指しているのは後漢書にある想定上の倭の極南界会稽東治之東
沖縄とかその辺り<
後漢書は、「後代の范曄の自己解釈に拠る書き換え」」の多い半分×書であり、
史料批判無しに、そのままでは、根拠にならない。 >>459
相変わらず「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
恣意的解釈が酷いな。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、意味の通じない意見を、発表したのではないのかな、、、
348 名前:日本@名無史さん 2018/12/26(水) 22:44:57.24
>>343
韓国人が
悪口になるのは
韓国人 >>462
>しかし 可笑しいよな
正確な地理がわかってて倭人伝にあるとおり進めばピタリ邪馬台国
とか言ってた九州説が<
言っていないの。全て、史料事実や史料実態からの近似的推論であり、
確率的なの、
>手の裏返して 正確じゃない正確じゃない言い出すんだから
覿面だぜ会稽東冶の東 <
後漢書の范曄が書いた「東冶」は、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」の多い人物だから、確率は低く、
根拠に使えないの。 >>349
何となく九州説駄目だなーって
負けて悔しいのか荒らしてるから 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、意味の通じない意見を、発表したのではないのかな、、、
352日本@名無史さん2018/12/26(水) 22:51:13.88
>>349
何となく九州説駄目だなーって
負けて悔しいのか荒らしてるから あと九州説は在日韓国人が言ってる説なんだってな
知らなかったわ >>463
>それそれ!
あと、きちんと比定地を示して、一里あたりの距離が4倍違うっていうのを
具体的に根拠をあげて示すと、比定地は確定していないとか言い出すww
だったら、どの区間でも正しい縮尺で比例<
始めから、
史料事実や史料実態からは、60〜90m位の範囲になり、
中心の76.5mからの差異は20%位以下だ、
と言って来てあったんだから、
この男(おそらくww)も、嘘吐き騙しの・・・・詐欺師仲間。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、理由を言わないで、ミラーリングというオーム返しを、実行したのではないのかな、、、
355日本@名無史さん2018/12/26(水) 22:53:35.08
あと九州説は在日韓国人が言ってる説なんだってな
知らなかったわ 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 つまり、邪馬台国畿内説を宣伝する闇の勢力は、韓国だったのだね、、、 >>466
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和者説の言うことは、
いつも、史料事実の否定曲解や、
そのばかぎり間に合わせ弁解や、
・・・・ヘイトスピーチばかりだからな。
・・・・詐欺師は、黙殺して放置しておいた方がよい。 >>346
里数の合計は不弥国までで1万7百里だぞ
魏志倭人伝には女王国は帯方より南1万2千里で
後漢書と同じく会稽東治之東と書いてある
つまり南1万2千里は会稽東治之東で
そこは後漢書の倭の極南界と逆説的に証明するもの
まあ魏志倭人伝も九州説の言い分通りだとすると
陳寿の自己解釈による書き換えがあり資料批判が欠かせない事になるんだが >>360
>>裴秀は「製図六体」と呼ばれる製図法を提唱して、
>縮尺・距離・方位などの基本方針を初めて明示した学者政治家であり、
>中国の地理学史上に名を留めている
>彼が作成した地図は、当時としては非常に精巧なものという評価を受けており、
>宇文トによれば二寸当たり千里の縮尺で作成されていた
>よって、当時に正確な地図がなかったという主張には根拠がない
>少なくとも、陳寿が自分の書いた道里と、
>幽州・揚州・交州のいった州単位の位置関係を、
>正しく照合できるくらいのインフラがあったと考える方が合理的 <
>
正確な地図はいつ見せてくれるのかな?
「具体的に」「根拠をあげて」だっけかwww >>352
荒らしたり呟いたりしているのは畿内説だよ? >>468
>>周朝では、里歩系と尺寸系とは別単位系であり、その間には、換算規定などなく、
だから混乱していて、始皇帝が「1歩=6尺」という換算則を命令したもの。<
だから、文帝の魏朝にとって「周制復古」とは、
秩序の再構築、混乱の防止、
文明の再構築だな 。
だから、文帝の指示を受けた重臣たちが、
「周制への復古」の上表をいくつも出した。 しかし九州説荒らしはザラコクにしろ韓国連呼にしろ
揃ってオウム返しをするのかね
おちらさんの国の文化なのか つまり、邪馬台国畿内説を宣伝する闇の勢力は、韓国だったのだね、、、 畿内説が、自分たちに対する批判をそのまま他説に投げかけているから。
自分たちの説の欠点を内心では自覚しているのでは? >>368
オウム返しをしてるのは九州説なんだが
自分たちの説の欠点を内心では自覚しているのか? 魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠す目的で、韓国政府が今もまだ宣伝していることが判明した、邪馬台国畿内説が、完全に破綻してしまったので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 クリスマスで思っただろ
サンタは居ないのでは無くて皆の心の中に居るんだって
だから短里だってみんなの心の中にあるんだよ 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人が、理由を言わないで、ミラーリングというオーム返しを、実行したのではないのかな、、、
369日本@名無史さん2018/12/26(水) 23:16:28.37
>>363
どうしてそうすぐバレる嘘をつくの?
370日本@名無史さん2018/12/26(水) 23:18:01.19
>>368
オウム返しをしてるのは九州説なんだが
自分たちの説の欠点を内心では自覚しているのか? 韓国政府が、魏志倭人伝時代の一里の長さが、誰の目にも明らかな、76.834メートルだったという真実を否定する宣伝をしているのは、
倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているからではないのかな。。。 >>469
>九州説の言う一寸千里が本当に実測だった場合
影長を測るに8尺の棒を使うか8歩の棒を使うかで結果は変わってくるぞ
周髀算経には8尺(周尺で約160cm)の棒を使ったとあるから 1短里は60mにならないと計算が合わない <
太陽からの光線と地面との角度が問題であるんだから、変わって来ない。
>それを古田説の1短里=75mに合わせるために 1尺≒1歩などとして1歩=25cmとしたのが谷本計算<
いや逆。
谷本さんは、古田説に関係なく、角度から「千里の長さ」を計算して、
1里≒76,3〜76.6mを算出された。
>しかし周尺で8尺の棒を使う限り実測すれば 1歩=25cmという数値は計算上導き出される事のないもの <
「周尺の8尺」なんて関係がない。
淮南子は、10尺棒で、一寸千里が使えている。
>谷本氏は周1尺=10寸(23cmほど)で計算したと言っていたが
実際は周1尺=8寸(約20cm)と資料や記録で判明している
ここでも谷本計算は元から誤ったデータに基いている事がはっきりする
一寸千里は少なくとも1短里=75mを証明するものではないと言える <
この男(ww?スレ主?)は、谷本計算が「棒の影端での角度」から1里の長さを求められた、
という事が未だに分からない・・・・アホ大和説者であったらしい。 >>479
>>幾ら証拠を言って上げても、聞いていなかったみたいに知らん振りして、
また「証拠は?」と言い続け、<
>いつ言ったの?<
私が2chに入って、議論に参加て意見を述べた時の、最初頃の投稿で証拠を述べた。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、簡単に自滅しすぎる。
自分からは、証拠を決して出さない主義の大和説者。 久しぶりにこのスレ覗いてみました
邪馬台国濃尾説ってどんな感じ?
まだ愚民どもはその真実に気づいてない感じ? >>372
九州説の脳内にしかないよ
もちろん史料にもない >>480
>「里歩系と尺寸系とは別単位系」なら
8「尺」の棒を使って何「里」で影長が1「寸」差になるかなんて
計測しないだろうし出てくる結果に
影長が一寸差の時丁度千里なんて整合性は取れなくなるよな<
逆。
この男(wwかスレ主)が、始めから狂っている。
谷本計算は、里歩系の「千里」と、尺寸系の8尺棒とその影長との角度の関係から、
の千里の長さを求められた。 >>481
>>なぜなら会稽東治は九州最南端付近と同じ緯度なんだから。<
>なんで、そんなところに会稽東治があるの? 絶対に証拠出さない九州説w <
いくら証拠を説明して上げても、知らん振りして、聞いていなかった振りをして、
「絶対に証拠出さない」とヘイトスピーチをし、
「南→東」などでも嘘吐き騙しをする、・・・・のような大和説者。 >>375
>>379
角度角度と言っているが
周髀算経には地面にまっすぐ棒を立てて影を測った場合とあって
棒に何度の角度をつけてなんて書かれてないぞ >>490
>神社と、大王の宮は建物では区別つかないって教えただろうが
纏向は、「王の宮、兼、市場」というなら、畿内説の言うとおりだし<
「畿内」なんてなかったし、
纏向では、卑弥呼や婢千人や、唯有男子一人や、常有人持兵守衞、らの、
寝るところも、台所も、トイレもないし。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>401
実見計測記録とかを否定曲解する嘘吐き騙しをし、
フィクションを混ぜて、口先で誤魔化すのが大和説の特徴。
というか、
ほとんどフィクションをストーリー仕立てで語ってるだけだけど。 >>384
氷河期終了によって海面が急上昇した
それによって多くの陸地が海面下に沈み、そこから逃れてきた人々によって人口密度が急上昇した
そのこと考慮に入れてる? >>493
>>大和説が、幾ら誤魔化そうとしても、 「南≠東」がある限り無理だね。<
>あたりまえだが 学問の世界では、信仰で学説には勝てないよ<
あたりまえだが、
学問や科学の世界では、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しや、
皇国史観のような宗教では、学説的な議論には勝てないよ。 >>495
>萬二千余里は後代中国学者や地図家の自己解釈なのか?
魏使が邪馬台国までを正確に測ったものではなくて?
淮南子の萬二千里は悪い萬二千里で
魏志倭人伝の萬二千余里はいい萬二千余里?
そもそも陳寿が淮南子の世の果ては漢国境より南萬二千里とかを見て
邪馬台国の位置を自己解釈したんじゃないの? <
いや、魏略と魏志が殆ど同じ記録を残しているから、
陳寿らは、魏使らの記録を見て書いた事になるし、
唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、倭国は北部九州にあった事になり、
魏使らの記録通りであった事になったし・・・。 >>496
>侏儒國は倭人国の外の扱いだぞ
それに、伝説の国であり、実在視するのもイタイww<
別に伝説の国だ。という訳でもないだろ?。
人類には、ピグミーやネグルトなどの小人族がいたようだし、
列島の周りには、種子島から低身長の人骨の発掘があったし、
済州島にも低身長部族がいたらしいし、
日本での、「〜みのる」だったかの人もいたし、
時々、非常に低身長の人がいたようだし。 >>499
>魏志倭人伝の行程の方角の答えは、単純なんだよ。
九州東部の不弥国から南へ20日、九州南端の投馬国(宮崎〜大隅半島)。
大隅半島からさらに南へ舳先を向け10日。
黒潮の行路に沿って1日150Km流される。何の目印もない太平洋だから流されている方角は分からない。
10日で1500Km流され、潮岬だ。黒潮の流速と所用日数は、潮岬までの距離にぴったり。
陸行一か月の方角は書かれていない。 潮岬から歩いて一か月のところが邪馬台国。
黒潮行路を認めないから、不毛な議論が続くんだよ。<
皇帝の大事なものを運ぶ魏使らは、
黒潮に乗って漂流のような冒険をする筈がないのが人類の常識であるし、
「南≠東」も、「安全最短の原則」も人類の常識であるし、
それほど黒潮漂流がしたければ、足摺の侏寿國から沿岸行をすればよいんだから、
黒潮説は×。 >>505
>>周代淵源の漢代文書がほぼ全て、「始皇帝規定」での解釈や書き換えをしてしまっており、
周朝の周髀算経などの文書までもが影響を受けているので、
周代の度量衡や土地制度の確認は、非常に困難。<
>じゃあ、魏が周制復古なんてできるわけない またまた墓穴を掘ったな九州説<
いや、非常に困難であったから、
これまで誰も出来なかった「一寸千里の千里の長さ」確認計算を谷本氏が出来たんだし、
魏朝なども周髀算経の一寸千里を使っていたから、「1歩≒1尺」を知ることが出来た。 >>542
>「その場の日の出を見て方角を間違わない」 というのと
「それが記録され報告されて史書にまとめられるまで間違わない」 は、同値ではないんだ<
人類は、人類誕生以来「おてんとうさまは東から登って西に沈む」という事は、
全人類共通の認識であり、間違える筈がなく、
中国人も魏使らも皇帝も陳寿らも、倭人も卑弥呼も毛人も侏儒國人も、
間違えようがないよもの。 >>547
>だろ? 「計算されている」だ 実測していないんだよww <
夏至と冬至に「測影」したことが書かれている。
>そして、南北千里の地点で測ったというのもウソ
これも机上の計算だけで、実測はしていない <
千里も計測しなければ、どこからも求まらない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>370
>自分たちの説の欠点を内心では自覚しているのか?
自覚してるんじゃなくて、九州説の根拠と「されていたもの」が、
ここまで来るまでにすべて否定論破されてしまって、もう主張すべきことが
何一つ残っていないから、荒らすくらいしかやることがないんだよ
まあ、短里が否定されるだけで、九州説は再起不能になるんだけどww >>394
>千里も計測しなければ、どこからも求まらない。
そんなことはない
蓋天説を前提にすれば、冬至でも夏至でも北京でも南京でも、机上の計算で「必ず一寸千里になる」んだよ
ザラコクの「周髀算経がー」「一寸千里がー」が煩いので、きちんと否定しておく
https://i.imgur.com/73rgfWR.jpg
蓋天説は、天と地は平面で、その間の距離が八万里という、漢代に既に間違いだと見なされていたモデル
周髀算経は、その蓋天説を前提として机上の計算をしただけのもの
掲げた図で見てもらえば分かるとおり、青い直角三角形の左上角に太陽があるとき八尺棒とその影が作る赤い直角三角形は、青い直角三角形と相似比「一寸:千里」の相似の関係が、「何時いかなる時も成り立つ」ことが分かる
一寸千里は、蓋天説における公理ともいえる「定数」
この相似比が、何時でもどこでも成り立つので、
青い直角三角形の底辺が千里長くなれば=千里離れたところで測れば
赤い直角三角形の底辺は一寸長くなる =影の長さは一寸長くなる
これは、冬至でも、夏至でも、春分でも、秋分でも、長安周辺でも、上海周辺でも、北京周辺でも「必ず成り立つ」
蓋天説とはそういうモデルであり、それを前提とした周髀算経の影の長さも 「必ず一寸千里の関係を満たす」ことになる
谷本計算では、それを無視して、夏至に影の長さが一寸の差になるところを
わざわざ探しただけのものであり、周髀算経の値自体は「実測することなく」
「蓋天説から計算すればこうなる」というのを示してあるだけ
周髀算経には、夏至の影の長さと書いてはあるが、冬至でも同じように一寸千里は成り立つことになる
決して短里の根拠にはならない
以上 >>397は誰に対して言ってるのかな?
まあ、ザラコクの言ってることはすべてザラコクの勝手な「間違った」思い込みだけどさww >>240
これはひどいな
九州説はここまで露骨なサギをするのか 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとする畿内説カルト 後漢王墓の大きさも曹操曹休曹植の
墓の大きさも、ちゃんと読めば書いとるわ
畿内説て本当に詐欺師みたいだな >>407
後漢王墓や魏朝皇族墓は最大で径60mくらい ここ九州説のスレになっていないか?
畿内説の人は九州説批判に走りすぎだよ
自説が論破されそうになったら九州説批判に走るのは良くない
九州説批判は九州説のスレでやるべきだと思う >>409
p58-59,p89-90,PL.23 そもそも他国でデカい墓を見たら咎めるという発想がおかしいだろ
そんな中国人の記録は無い >>550
>要するに谷本計算の
1歩≒25.5cm≒1尺はデタラメって事ね <
谷本さんは、「1歩≒25.5cm≒1尺」なんて、全く言っておられない。
要するに、この男(類スレ主)は、嘘吐き騙しのデタラメ・・・・ってことね。 >>550
>要するに谷本計算の
1歩≒25.5cm≒1尺はデタラメって事ね <
谷本さんは、「1歩≒25.5cm≒1尺」なんて、全く言っておられない。
要するに、この男(類スレ主)は、嘘吐き騙しのデタラメ・・・・ってことね。 >>412
集落跡や樓觀、城柵が無い纏向を王都とする愚かな畿内説
纒向・箸墓あたりから畿内説は破滅の道を突き進んだ
老人の学者は畿内説から去るべき >>554
>>嘘をつくな。
冬至晷長一丈三尺五寸,小寒丈二尺五寸,大寒丈一尺五寸一分, ・・・・
立冬丈五寸二分,小雪丈一尺五寸一分,大雪丈二尺五寸。
が一応計算されている。
>>嘘をつくな。(夏至と冬至は)計測したことが書かれている。<
>こいつ・・白雉か? 計測してないだろ<
こいつ、・・・・白痴か。
お前は、夏至しか計測しておらず、冬至春分秋分などは計測しいなかったような、
嘘を書いた。 >>421
>纏向に集落跡がないって、誰の説?
ヨコだが、桜井市纏向学センターの説。 @阿波
桜井市纏向学センター
纏向遺跡ってどんな遺跡?
北飛塚地区の住居跡(桜井市大字太田)
纏向遺跡では竪穴式住居跡の検出例がほとんど無く、纏向遺跡第112・137・138次調査で確認されている程度です。
纏向遺跡第59次調査北飛塚地区検出の住居跡は庄内3期式(3世紀中頃)に構築された一辺5mの方形の竪穴で、10cm程度の浅い掘り込みを有しています。
竪穴内には4本の主柱穴と2本の補助柱穴がありますが、炉跡や周壁溝がない事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居ではなく、
掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。 >>391
日本沿岸の黒潮は危険じゃ無いよ
BY 紀伊国屋文左衛門 >>424
>竪穴式住居ではなく、
>掘り込み地業をともなった平屋、あるいは高屋の建物遺構とする見方もあります。
これは、古墳造営人夫たちの仮説住居跡だね。 @阿波 瀬戸内海の海流は複雑
瀬戸内海では潮流は速くて複雑な流れを見せ、鳴門、速吸瀬戸などの狭水道では、5〜10ノットにも及び地形の複雑さも加えて独特の海象を呈しています。
なお、本ページは海上保安庁刊行の瀬戸内海潮流図の一部を、海上保安庁の許可を得て掲載したものです。潮流図のご利用に当たっては、海上保安庁にお問い合わせ下さい。 >>408
「後漢王墓の大きさも曹操曹休曹植の墓の大きさも、ちゃんと読めば書いとる」
と豪語したくせ
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/5773/o_521.pdf
の、どこに【何と】書いてあるか聞かれると
逃亡した
サギだったね >>429
つまり
纏向に集落跡がないっていうのが
桜井市纏向学センターの説だというのが
ウソと確定した
はい、この件終了 >>1
24時間張り付いてる暇があるなら
纒向を掘りまくって集落跡を見つけて来たらよいのではないかな 畿内説なんて嘘を嘘で塗り固めてあるだけじゃん。
畿内説のスレなのに中身がないから他説の批判ばかり。 >>228他
>p89下l4
引用すれば済むことなのに、なぜそれをせずにごまかそうとするかね?
>>408の「後漢王墓や魏朝皇族墓は最大で径60mくらい」は、
これ(曹操墓)のことだろ↓
「ここでは年代が明らかな墓葬を主に、曹魏墓の概況を紹介する(表3−1)。
A 河南安陽西高穴2号墓
封土をもたない。一条の傾斜した墓道を有する多室磚墓。磁北から 110 度の方向を向く。墓道・
甬道(内側に墓門を設け、外側に厚さ 1.45 mの封門磚壁がある)、前室および南側室・北側室・後
室および南側室・北側室からなる(図3−1、3−2)。全長は 60m 弱である。」
劉振東「中日古代墳丘墓の比較研究」立命館大学大学院文学研究科博士論文より引用
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/5773/o_521.pdf
確かに60m弱と書いてあるが、これは「磚墓と墓道部分」だけの大きさ
日本の古墳で言えば横穴式石室に当たる部分(時代は合わないけれど)
最大の石室を持つとされる五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)は墳丘長318メートルの全国6位の
大古墳だが「磚墓と墓道部分」に当たる横穴式石室石室は全長28.4メートルしかなく、
曹操墓よりも小さい
そして曹操墓の墓域の大きさは
「2号墓の周囲は、垣壁を築いて陵園を形成する。平面は長方形で、北壁の長さは 100.8m、南壁の
長さは 108.2m、東壁の長さは 68.8m、西壁は壊されている。東壁の外側には溝濠があり、2 つの門
道を設けている。」
であり、『東西100メートル超、南北70メートルの陵園にさらにその外側に溝濠』と
いう大きさがある
「磚墓+墓道」の大きさだけで「最大で径60mくらい」というのは、明らかにミスリードで
きちんとした引用を示さないのも、ごまかしだな >>566
>ならないんだよ
その場で魏使が方角を確認しても、それが魏志倭人伝という大陸史書に記録されるまでには
いくつものステップがあり、そのどの場所であっても錯誤はありうるし、実際に錯誤が生じている<
東西南北には全く錯誤が発生していないし、実際に錯誤はない。
>>同じように、魏使らの記録を見た魏略が、魏志と同じような里記載を書いた、<
>三国志と魏略は、共通の典拠があるとする見方が主流<
それが、魏使や魏の役人らの記録。
>王沈の『魏書』はその候補のひとつ
別に陳寿ではなくても、倭国を南国だと認識していた撰者がいればよいだけ
魏略と共通であることは「撰者の錯誤」の否定にならない<
王沈も、普通の人間である限り、東西南北を間違う筈がない。
>>陳寿は「東治」であって、「東冶」ではないから、×。<
>では ⇒倭国を「當在會稽、東治之東」と認識していて、それに合う記述を採った
としておくよ 意味のないことだけれどね <
この男(類スレ主)は、宗教的な・・・・だから、信用していない。 >>437
>東西南北には全く錯誤が発生していないし、実際に錯誤はない。
ないって証拠は?
また、結論部分オンリーを言い張るだけ? >>439
追い詰められて心を病んだキウス
気の毒だが身から出たサビ >>411
>自説が論破されそうになったら九州説批判に走るのは良くない
いつ畿内説が論破されそうになったって?ww
九州説批判をしてるんじゃなくて、九州説が論拠だと思っていたものが
誤読だったり恣意的な無理読みだったりで、最初から間違った前提で
最終的に間違った九州説になっていることを、明確に示しているだけ
しかも多くの場合、最初と最後が逆で、最初に九州説だと思い込んで
それに合わせて根拠を作ってたりするのも指摘している
末盧国が呼子だとかいうのがその典型ww >>439
嘘をつき続けるのは、プレッシャーのようだな >>436
箸墓は墓域無しの大きさだろうが
当時から誰でも近づけたのかよ
そんなわけ無いだろ
詐欺師 >>426
>これは、古墳造営人夫たちの仮説住居跡だね。
「高屋の建物遺構とする見方もあります」
人夫の仮設住居に「高屋の建物」は作らないだろう
高床式の高屋は、偉い人や神殿の建築様式だぞ >>436
しかもそれでも箸墓の方が遥かに
巨大じゃねぇかw
馬鹿かw >>569
>九州説はこんなのばっか<
大和説は、「南→東」などの口先での嘘吐き騙しと同じように、
九州説者の「大体の確率的推論」を「絶対断定した」と曲解捏造して、
その断定と確率的推論との差異をあげつらって、
それで九州説をヘイトスピーチするばかり。
まあ、大和説者や右翼マスコミやYahooや5chらは、
全員、・・・・詐欺師なんでしょうね。
口先詐欺で騙されないように、気をつけましょうね。 >>437
>東西南北には全く錯誤が発生していないし、実際に錯誤はない。
つ(末盧国から)「東南陸行五百里、到伊都國」
間違ってるね
明確に錯誤が確認できる >>445
>詐欺師
わからないものを比較して結論が出ると主張した九州説の詐欺的性格が明らかになった >>448
>住居跡がたくさんあって集落跡
それ、いつ誰が決めたの?
どんな根拠で? >>451
>大和説は、「南→東」などの口先での嘘吐き騙しと同じように、
>九州説者の「大体の確率的推論」を「絶対断定した」と曲解捏造して、
>その断定と確率的推論との差異をあげつらって、
>それで九州説をヘイトスピーチするばかり。
そんなことをした、という証拠は? >>445、>>449
あーあ、引用抜きでごまかそうとしてたのが、きちんと確認されて
インチキが暴かれたら逆ギレかい?
みっともないなw >>450
そして曹操墓の墓域の大きさは
「2号墓の周囲は、垣壁を築いて陵園を形成する。平面は長方形で、北壁の長さは 100.8m、南壁の
長さは 108.2m、東壁の長さは 68.8m、西壁は壊されている。東壁の外側には溝濠があり、2 つの門
道を設けている。」
であり、『東西100メートル超、南北70メートルの陵園にさらにその外側に溝濠』と
いう大きさがある >>446
>高床式の高屋は、偉い人や神殿の建築様式だぞ
吉野ケ里は、偉い人だらけの集落? >>436
アホ晒しアゲ
グダグダ言ってるだけで箸墓の方が、
盛り土もあって遥かに巨大な件 >>445
>当時から誰でも近づけたのかよ
>そんなわけ無いだろ
纒向遺跡の領域内だから、近づけないってことはないだろ
墳丘に登ってもよかったとは思わないが、周囲を一周歩くのは問題ないだろうに
>詐欺師
ごまかしがバレて話をそらした挙げ句に、キレ芸でさらにごまかそうとしているww >>574
>どっちにせよ、短里に結びつくような文献も遺物も ゼロ件だね<
この男(類スレ主)は、相変わらずの「曲解捏造」人種だね。
始めから、「尺寸系」は余り大きくは変わっておらず、
始皇帝に拠って6倍の大きく変わったのは 「里歩系」の実長の方だった、
と説明して来てあったんですよね。 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとする畿内説カルト >>460
お前の負けだよ
散々引っ張ってその程度なら
首吊って死ね 最初に結論を決めておいて、それに合わないことは錯誤だという。
例の「排除の論法」だな、、、、 >>446
>人夫の仮設住居に「高屋の建物」は作らないだろう
必ず作るよ。 人夫たちの食糧庫だろう。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>431
桜井市纏向学センターは邪馬台国と関係ないという事で
はい、この件終了 >>592
>どっちにせよ周髀算経から逆算した一里なんてナンセンスなのは変わらない <
どっちにせよ、谷本氏が周髀算経からが算出したのは、「里歩系」の単位長であり、
「尺寸系」はコメントしておらず。
尺定規なんて関係なしであったのは変わらない。
そして、「1歩≒1尺」というzarakoku推論根拠は、
卑弥呼の冢の「径百余歩」が根拠。 >>465
>纒向は市場だよ
「古墳造営前線基地」は大勢の「忌部はん」 が集結するので、当然市場機能もあるでしょうね。 @阿波 >>449
>しかもそれでも箸墓の方が遥かに
>巨大じゃねぇかw
>馬鹿かw
>>459
>グダグダ言ってるだけで箸墓の方が、
>盛り土もあって遥かに巨大な件
秦の始皇帝陵は一辺350メートルの墳丘があり、径百歩の箸墓よりずっと大きいんだよ
それに墓として認識されるのは本来的には「磚墓」の部分で、これが槨と呼ばれる訳だ
これは倭国では最後まで行っても最大で30メートル以下だから、曹操墓を超えない
そして、横穴式石室の時代に至るまでは、「槨なし」な訳だね
そもそも>>417にも
「そもそも他国でデカい墓を見たら咎めるという発想がおかしいだろ
そんな中国人の記録は無い」
って書かれてるだろ?
100メートル超の墓域の皇帝墓があって、しかもより人手のかかる地下磚墓を作ってるんだから
145メートルの盛土墓にぐたぐた言ったりはしないよ
夷人は変わった風習があるなと思うくらいで >>419
じゃあお前ザラコクが嘘をついていたのか? >>593
>短里説に不利だから 周尺なんて出てない! キリッ 九州虫 虫は無視 <
大和虫の「長里だけ」説は、×。 >>458
>吉野ケ里は、偉い人だらけの集落?
吉野ヶ里で高床の建物があるのは「内郭」と呼ばれる一部領域だけで、
庶民の領域は竪穴式住居だよ > >453
>しかもそれでも箸墓の方が遥かに
>巨大じゃねぇかw
>馬鹿かw
なにと何を比べて?
比較することが既にインチキ
A 河南安陽西高穴2号墓
封土をもたない。
この墓の墓主は著名な歴史人物である曹操であり(以下略
B 河南孟津三十里鋪44 号墓
墳丘をもたない。
…墓主は太和二年(A.D.228)に亡くなった壮侯曹
休であることが確定した。
劉振東(前出)
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/5773/o_521.pdf >>471
>はい、この件終了
逃げに入ってるww >>473
>集落を理解出来ないのはテメー1人
という証拠は? >>475
>秦の始皇帝陵は一辺350メートルの墳丘があり、径百歩の箸墓よりずっと大きいんだよ
墓域??? まあ、「後漢王墓や魏朝皇族墓は最大で径60mくらい」というのが、
明確な間違いだというのは確認できたな!ww
そして、「それでも箸墓の方が大きいんだー」ってわめき続けてるw
ご苦労なことだw >>596
>ちなみに野上論文で「九章算術」に短里を使った計算例があるとか書かれてるのは
ガセネタ <
ガセネタと言えば、野上さんは、
明治大紀要の佐々木のように、zarakokiに指摘されて都合の悪い内容の削除書き換えをするような、
みっともない事がされなかったようだな。
野上さんのは、史料事実そのものであったんだろうな。 >>475
伊勢神宮
内宮の神域は、93 ヘクタールで東京ドーム約20個分
境内の面積は合計約180ヘクタール >>466
帰納以外の手段で証拠から結論を求めていれば問題ない >>475
箸墓を勝手に145mにして、
始皇帝陵と比べて見ました
畿内説、笑わせるなよ >>339
議論のこういうケースでは、魏略が自己解釈で書き換えたことを示すそれ相応の具体的な根拠を示さんとなあ。
かも知れん…だけじゃなあ。 >>486
明大の佐々木先生がzarakokiに指摘されて発表済みの論文を書き換えをした
というのがガセネタ・・・
というか、かなり病的な妄想だ >>490
ちなみにzarakokuが
後世の史家が自己解釈で書き換えたと主張して
それ相応の具体的な根拠を示したことは
一度たりとも無い >>485
勝利宣言www
箸墓の方が遥かに巨大ですけど
wwwww >>489
>箸墓を勝手に145mにして、
前方部の寸法だけど、何か? >>486
野上論文にみっともないガセネタが載っていた
ということは
よろしいのね? 箸墓を勝手に145mにして、
始皇帝陵と比べて見ました
畿内説、笑わせるなよ >>478
吉野ケ里では竪穴住居跡も見つかってるから正解
纒向は竪穴住居跡がたくさん発見されたのかな? >>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>475
>それに墓として認識されるのは本来的には「磚墓」の部分で
漢代には皇帝>王>諸侯で墳丘の高さに明確な序列があった
土を高く積むということは、底辺も長くなるということ
>夷人は変わった風習があるなと思うくらいで
冊封国の王は皇帝臣下の王侯貴族の扱いだろ
そんな勝手はできない 僕は、今初めて、このスレッドを覗いたのだが、頭の悪い者の意見の発表が、あるな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>503
その意見を、発表した頭の悪い男は、邪馬台国畿内説を宣伝している、韓国人の3寸男という、このスレッドの常連ではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>501
いや、これは棒と影のatanで角度が決まるから1尺が10寸か8寸かでは変わるが1尺が何センチかには関係ないんで、インチキなのは測量したというのがフィクションなことだ >>504
この意見を発表した、その3寸男という、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人は、尺と寸の関係性を知らないのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ この意見を発表した、韓国人は、本当に頭が悪いな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ 韓国人同士で、先生と生徒がいる可能性が高いが、なぜ、測量したことが、フィクションになるのだろうか。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
506日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:15:40.38
>>501
いや、これは棒と影のatanで角度が決まるから1尺が10寸か8寸かでは変わるが1尺が何センチかには関係ないんで、インチキなのは測量したというのがフィクションなことだ >>499
>箸墓を勝手に145mにして、
>始皇帝陵と比べて見ました
魏志倭人伝に径百歩とあり、それが「墓の大きさ」と認識されているから
その径百歩、145メートルと始皇帝陵の一辺350メートルを比較するのは当然のこと
陳寿の目の前に箸墓がある訳ではないし、それを見た魏使が墓は径百歩と認識した、
ということだ
ここのテンプレでは、後円部が墓だと認識されたという説を支持している
前方部は付属施設という扱い
>>495
>前方部の寸法だけど、
これは「後円部の寸法」だよね? >>509
そうだね、中国には海岸があるので、標高の無い場所で、北緯35度から近い数多くの地点の、夏至の太陽が一番高く登ったときの、八尺棒の影の長さを、測量できるのではないのかな。。。 >>512
そうだな、、、、
そして、互いから見ることの可能な、山の上に目印を置き、角度を計算すれば、一寸千里の法が実行できるのな。。。 >>511
頭が悪いから前あ理解できないんだろうな
魏の皇帝陵が墳丘ナシなんだから、墳丘の大きさで比較する方法論そのものが破綻するんだよ
どんな小さくてもゼロより大きいんだから、あらゆる墳丘を持つ墓は魏朝の臣にふさわしくなくなっちゃうという破綻した論理になる
つまり比較そのものが無意味ということだ >>513
なるほど、、、
経度の距離の違いを、山の上の目印を使用して、計算するのだね。。。 >>509
邪馬台国畿内説の宣伝係は、二人とも頭が悪いのでは、ないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
506日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:15:40.38
>>501
いや、これは棒と影のatanで角度が決まるから1尺が10寸か8寸かでは変わるが1尺が何センチかには関係ないんで、インチキなのは測量したというのがフィクションなことだ >>511
相手が丸腰で自分は武装してると思い込んで
傲然と居丈高な態度をとったら
自分の武器だと思ったのは紙製のオモチャで、相手の日本刀で無残に惨殺される
そんな九州説 >>518
邪馬台国畿内説の宣伝係の韓国人は、二人とも頭が悪いのだが、501番の意見を発表した、3寸男の方が、頭の悪さが、より大きいのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>519
小学生みたいだな
あんまりコーフンすんなよ
血圧上がるぞ
ジジイなんだから脳溢血には
気をつけろよ
笑 >>521
で、>>521は「後漢王墓や魏朝皇族墓は最大で径60mくらい」ってもう言わないの?
あんなに一生懸命に博士論文に書いてあるから読めって繰り返し何度も何度も書いてたのに? >>511、>>517、>>521
内容のある反論ができなくなっちゃったかな?
まあ、九州説の人にはよくあることだから気にしなくていいよ?
ザラコクや連続句読点という同類もいることだし >>516
韓国人の作製したレベルの低いこのスレッドではなく、邪馬台国畿内説の角度という、高度なレベルのスレッドで、討論を実行すれば良いのでは、ないのかな。。。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789/l50 501番の意見を発表した、韓国人の3寸男が頭の悪さが大きいことを公表されたので、討論で反論することを諦めて、怨恨を抱き、悪口を言い放ったな、、、
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
524日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:51:23.15
>>511、>>517、>>521
内容のある反論ができなくなっちゃったかな?
まあ、九州説の人にはよくあることだから気にしなくていいよ?
ザラコクや連続句読点という同類もいることだし 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>526
>怨恨を抱き、悪口を言い放ったな、、、
これ ↓ が悪口になるという認識なんだww
「連続句読点という同類もいることだし」 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>532
曹操という人物は、魏を作製した中国人では、ないのかな、、、 曹操という人物の墓と箸墓古墳では、時代が百何十年も違うのではないのかな。。。 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>510
よこからだが、魏使の張政らは卑弥呼の墓を見ていないようだ。
墓の大きさなどは倭人からの伝聞だろう。
墓所は、前方後円墳の外庭までの範囲。
墓石は、前方後円墳。
墓石は、三段に積んであっても、一番上の石だけを墓石とは呼ばない。
三段の石積み全体が墓石。
前方後円墳は前方部、後方部合わせて一体。
テンプレ主の認識は、おかしい。
おかしいというのは、変だという意味のほかに笑うという意味もある。 >>597
>奴国が博多、不彌国がその近くの港町
そこから水行30日陸行1月なんだから九州では無いよね<
不彌國で「折れ線的道のり里数」合計が萬二千余里にほぼ達しているんだから、
「そこから水行30日陸行1月」とはならず、×。
水行30日陸行1月は、その直前の女王之所都に対する説明文言であるから、
郡から女王之所都への所要日数である事になる。 >>599
>洛陽の南北にそれぞれ75kmって山の中でしょ 測ってないんじゃね<
当然「周の都付近」での話であり、洛陽に特定する必要もなく、
洛陽付近の「測定出来る場所」を選んでもよいし、
多少の山地であっても、大体の千里であってもよいし、
測影が出来る平坦地を確保出来ればよい。
それは、魏使らの行程での測影でも同じ。 >>601
>周髀算経に出てくる、いかにも実測みたいに書かれてる数字って、
測定地の緯度を逆算すると、一つとして一致しないんだよね<
元々、有効数字1〜2桁程度の近似的計測であり、
「完全一致」など想定されていない。 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>602
>周尺は、漢尺と同じ23cmと推定してるね。 現物があるのにわざわざ推定してるの?
新井さんも含めて全員アホなのか? www <
周代は、元々各地の王や秦王らは独自の度量衡単位や尺定規を持っていた可能性があり、
だから、周髀算経や魏朝の議論では、
周朝や魏朝などのように「朝」を付けた議論が必要であり、
その事が分からないらしい大和説者や台湾学者らは、全員アホであった訳で。 >>541
>畿内メシのネタ説は、ただのライバル排除の論法
前にも教えたが通常の日本語では、飯の「タネ」だぞ、「ネタ」じゃなくて
まあ、それはそれとして
>ただのライバル排除の論法
畿内説の根拠はたっぷりテンプレに書いてあるだろ?
研究者も含め、真っ当な判断力のある人は十分な現時点での情報が分かれば、
当然に畿内説でよいことが理解できるし、実際そうなっている
で、いまだに「理解できない人w」がいるから、その相手をしてあげているだけ
ザラコクの相手は、かなりいい加減にやってるけどねww >>532
>曹操の墓の大きさは、60mだったのだね、、、
ちゃんと調べた人は知っているのだけれど、60メートルというのも正しくない
>>436の引用で示されているように、陵園の大きさとしては
『東西100メートル超、南北70メートルの陵園にさらにその外側に溝濠』だし、
地下構造の大きさとしては
墓道も含めて60メートルであって、墓の本体である
『多室磚墓の部分は27メートル四方くらいの大きさ』だよ
ずいぶん前(Part300前後)にも書いたんだけど、覚えている人はいないかなw 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ 韓国政府が、韓国人の祖先の元々の領地が狭かったことを隠すために、韓国政府に雇用された韓国人が作製した、邪馬台国畿内説のテンプレートの根拠が、全て論破されてしまったな。。。 曹操という人物は、魏を作製した中国人では、ないのかな、、、 >>515
その通り。
箸墓は魏朝の臣の墓では無い。
勿論漢の臣でも無い。
漢代を通じて最も普遍的で、また被葬者の等級身分を視覚的に体現していた墳丘も、もはや保留にはできず、まさに「不封不樹」であった。地面施設の有無は、墓葬制度の大局と関わり、魏晋墓制と漢代墓制を区分する重要な特徴である。 >>539
>当然「周の都付近」での話であり、洛陽に特定する必要もなく、
>洛陽付近の「測定出来る場所」を選んでもよいし、
周の外になったらダメだろ
影が一尺六寸になるのは衛か晋だぞ >>510
曹休や曹植の墓との比較についてはどう思う? >>617
>>あるよ。何度も言った事だが、介山や淮南子。<
>ダメね 淮南子には、1里=18000寸が明記されてるの 短里死亡確定<
淮南子の一寸千里は、おそらく短里である事に気付いておらず、
東方は短里で書いて、西方は長里で書いた?という矛盾も呈しており、
始めから、信頼性はない。
だから、そんなモノで「短里説死亡」なんて叫んでいるこの男(類スレ主)が、
死亡確定。 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとする畿内説カルト 「倭國王帥升とはスサノオではないのか」
このたった一つの仮説で邪馬台国論争は決着します。
もしそうなら帥升=スサノオの100年後(約5世代)にヒミコ、
そしてトヨがいるはずです。・
ヒミコもトヨもいます。
朝貢年
107年 倭國王・帥升 スサノオ
・
・
・
238年 卑弥呼 ヒメ(踏鞴五十鈴)
・
266年 台与 トヨ津
新井白石は邪馬台国とは大和であり高天原も大和であると確信したからこそ、
「邪馬台国とは九州であり高天原は常陸である」とわざと嘘を言いしらを切りました。
邪馬台国が大和で結着すると大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事になるからです。
つまりこの邪馬台国論争自体が、
すでに決着してたにも関わらず「意図的に創られた」ものだったのです。
3百年茶番だったわけですね。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津も高天原(御所市高天)にある径百余歩の塚に奴婢(土蜘蛛)とともに眠ってます。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png 韓国政府が、韓国人の祖先の元々の領地が狭かったことを隠すために、韓国政府に雇用された韓国人が作製した、邪馬台国畿内説のテンプレートの根拠が、全て論破されてしまったな。。。 >.621
>九州説は、結局その場しのぎで文句を言うだけww
まあ、多くの文献証拠からすれば、周尺(西周代)は20センチ弱という推定が妥当だと
されている
なんにせよ、短里とは何の関係もないことが明らかだよ<
始めから、周尺は不安定であった事は言って来てあり、
だから周朝という限定をし、周尺は大きな変化がなかった、という表現をし、
周髀算経の一寸千里は短里であったから、
「1歩≒1尺」という表現にしておいたんだよ。 >>558
>始めから、周尺は不安定であった事は言って来てあり、
だから魏が周制復古なんてするわけないよね
そんな記録もないし >>555
後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)だとする九州説カルト >>554
>淮南子の一寸千里は、おそらく短里である事に気付いておらず、
つまり、中国では短里なんて誰も知らないんだよ >>553
>曹休や曹植の墓との比較についてはどう思う?
その前にひとつ確認して欲しいんだが、ザラコクがいつも言っている薄葬礼とは
どんなものだと思っているんだい?
個人的な考えていいから教えてくれ 韓国政府が、韓国人の祖先の元々の領地が狭かったことを隠すために、韓国政府に雇用された韓国人が作製した、邪馬台国畿内説のテンプレートの根拠が、全て論破されてしまったな。。。 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>562
曹操が倹約を主張し、漢代のしきたりである厚葬を止めさせたこと。
その中には墳丘の禁止も含まれる。
前漢皇帝墓並みの高さ30mの箸墓古墳なんて話にならない 短里はもういいよ 九州説
面白くないよ 矛盾もあるし
畿内説の話しようぜ >>565
別に朝貢してきた外国に強制するような話じゃないんだがね 箸墓が卑弥呼の墓と言う根拠は
後円墳が径百歩に近いのと、土器の炭化物が3世紀後半だけなの?
推理としては材料不足では無いのか >>475
>100メートル超の墓域の皇帝墓があって、しかもより人手のかかる地下磚墓を作ってるんだから
145メートルの盛土墓にぐたぐた言ったりはしないよ
曹操の墓は墓域を含んだ話してるのに
箸墓の祭祀場()は無視かよw
ダブスタ畿内説w >>551
じゃあ、おバカ九州説のお花畑脳内世界では
たとえ直径たった1mでも墳丘のある墓は
卑弥呼の墓ではあり得ないんだな?
また九州説が自滅したよ
ww >>571
ある程度土を盛らなきゃ墓室がでてくるだろ。
魏みたいに深く掘るなら別だけど。
あくまでも目的は倹約だから。
意味も無く30m土を積むとかは問題外。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシが、また論破された時の癖を出して、お花畑のことでも論破されたことを、印象付けているな。。。
571日本@名無史さん2018/12/27(木) 12:18:51.64
>>551
じゃあ、おバカ九州説のお花畑脳内世界では
たとえ直径たった1mでも墳丘のある墓は
卑弥呼の墓ではあり得ないんだな?
また九州説が自滅したよ
ww 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシが、論破された話題は、キナイコシのお花畑脳内世界のことではなくて、卑弥呼の墓のことではないのかな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシが、論破された話題は、キナイコシのお花畑脳内世界のことではなくて、卑弥呼の墓のことのようだけれども、キナイコシのお花畑脳内世界には桃の花が咲き乱れている可能性が、99.5パーセントあるね。。。 >>569
どこがダブスタなの?
論理的に言ってみて ダブスタとは、ダブルスタンダードという、ある集団と討論したときに、集団内の意見が統一されていないときに、外部が感じる矛盾を指している可能性が、あるな。。。 墓の大きさを咎めるとかアホな議論
だったら殉葬100人も咎めなきゃおかしい >>577
だが、今、使用された意味では、ダブスタとは、ダブルスタンダードという、キナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾を指している可能性が、あるのではないのかな。。。 >>572
根本的にわかっとらんな
魏の薄葬の本質を・・・
倹約は名目なんだよ
彼らは軍費調達で漢の皇帝陵がバンバン盗掘されたのを見てる世代なの
皇帝の遺体が玉衣を剥がされて裸で野ざらしになったのを見てた世代なの
だから曹操は墓に宝を入れるなと言い残し
曹丕は墓そのものを隠せと遺言した
そういうのは藩属国に強制する話じゃないし
倭人の側は権力を誇示したいから勝手にデカい墓を作る
何も問題がない 頭の悪さが、一定なので、韓国人の3寸男の意見だとばれてしまったのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
578日本@名無史さん2018/12/27(木) 12:43:55.66
墓の大きさを咎めるとかアホな議論
だったら殉葬100人も咎めなきゃおかしい >>576
陵園も祭祀場もその人物を弔うための
ワンセットの墓上施設だろ。
箸墓の前方部分は後円部とワンセットで
被葬者を弔っている キナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾は、脳の病気の症状と診断される可能性が、高まってきたな。。。 >>580
そんなことしたら後世の人間は冊封女王の卑弥呼が中華皇帝と並ぶか、それ以上の権力者だったと勘違いしてしまうね。
畿内説カルト信者みたいにw
そんなデカイ墓作ってたら魏の役人に一喝されちゃうよ。
「蛮夷の首長風情が何様かっ!」 >>583
あんた討論とか、してないだろ
どそろか会話もできないコミュ障 >>584
曹操の墓は墓域を含んだ話してるのに
箸墓の祭祀場()は無視かよw
ダブスタ畿内説w 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシが、日本人には通じない言語を使用したのでは、ないのかな。。。
586日本@名無史さん2018/12/27(木) 12:59:38.22
>>583
あんた討論とか、してないだろ
どそろか会話もできないコミュ障 >>588
>箸墓の祭祀場()は無視かよw
きまきみ、「祭祀場」にカナをふってごらん >>588
ダブスタって何がダブスタなんだ?
スタ1とスタ2を言ってみ
論理的にな ww
言えないだろ >>568
>箸墓が卑弥呼の墓と言う根拠は
一番の根拠は、「王の墓だから列島最大のものが第一候補」ってこと >>592
「きまきみ」?
日本語もろくに書けないくせに。 スタ1とスタ2の討論が、全く、意味のない討論にしてしまう発見物が、畿内馬具なのではないのかな。。。 >>593
スタ1
陵園を墓域に加える
スタ2
祭祀場を墓域に加えない
陵園も祭祀場も被葬者を弔うための施設 >>588
>箸墓の祭祀場()は無視かよw
祭祀場ってことは、墓本体ではないと認めるんだね?
つまり、墓本体は円丘部だけってことだ
径百歩=145メートルで、箸墓の後円部でぴったりだな! スタ1とスタ2の討論は、畿内馬具が5世紀に近い発見物なので、無意味になったな。。。 >>565
>曹操が倹約を主張し、漢代のしきたりである厚葬を止めさせたこと。
>その中には墳丘の禁止も含まれる。
でも、魏志倭人伝に、大作冢徑百餘歩って明記されてるね!
咎めてやめさせたとかいう話はどこにもないんだけど?ww >>597
んで、いつ誰がどこで
スタ1:陵園を墓域に加える
と
スタ2:祭祀場を墓域に加えない
を主張したかな?
具体的にどうぞ 頭の悪さが、一定なので、韓国人の3寸男の意見が発表されると、すぐに、ばれてしまうのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>598
祭祀場なのは認めてやるけど
倭人伝には長さ130mの祭祀場について
記述が一切ないから、倭人伝に出てくる卑弥呼の墓じゃないね。
残念だね。 キナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾は、脳の病気の症状と診断される可能性が、高まってきたな。。。 >>600
つーか
>曹操が倹約を主張し、漢代のしきたりである厚葬を止めさせたこと。
>その中には墳丘の禁止も含まれる。
に「誰に対して」が書かれてないと思いまへん?
アホな人の日本語はいつも不完全だすなぁ >>597
>スタ1
>陵園を墓域に加える
>スタ2
>祭祀場を墓域に加えない
>陵園も祭祀場も被葬者を弔うための施設
グダグダ言ってるけど、地下施設は見えないだろ?
地上の墓の大きさを示す施設として、始皇帝陵の一辺350メートルというのは妥当だろ?
墓域で言ったら、始皇帝陵は広さ縦横数キロ単位になるぞ
曹操墓で言えば、地上部施設としては「垣壁」で囲まれた範囲になる
これと比べるのに、魏志倭人伝の径百歩を使っているだけで、前方部が入るかどうかは
こちらで判断したことではない >>603
>倭人伝には長さ130mの祭祀場について
>記述が一切ないから、倭人伝に出てくる卑弥呼の墓じゃないね。
という理由は? 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾は、韓国人特有のものとは、僕たちは思っていないので、民族差別ではないな、、、 >>603
>記述が一切ないから、
「ない」ことは根拠にできないと何度言えばww
論理学の基礎がなってない人はこれだからw
ダブスタ以前の問題w >>608
そんな韓国人大好きな書き込みを続けていると、ザラコクからヘイトスピーチって言われるよww 逆に言えば、ザラコクが連続句読点の韓国推しに言及しないのが、
ダブスタの極致ってことだけどさww >>605
臣下の者に決まってるだろ。
そこまで書かなきゃバカはわからんのか
因みに冊封国女王の卑弥呼も臣下な 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 >>600
三国志では墳と塚は使い分けられている。
箸墓のは墳 >>612
>そこまで書かなきゃバカはわからんのか
臣下の者に墳丘を禁止したって証拠は? 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾は、韓国人特有のものとは、僕たちは思っていないので、民族差別ではなく、
真実の究明には、邪魔な矛盾だと、思っているだけなので、優れた学者の、ザラコク氏からヘイトスピーチとは、言われないのではないのかな。。。 キナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾は、脳の病気の症状と診断される可能性が、高まってきたな。。。 >>609
後円部の記述がだとするなら、
それと一体化した前方部の記述が
ないのは不自然。 臣下の者に墳丘を禁止した真実の討論は、箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物なので、無意味になったな。。。 箸墓のは墳だという真実の討論は、箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物なので、無意味になったな。。。 >>618
>それと一体化した前方部の記述が
>ないのは不自然。
不自然だって理由は? >>619
>箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物なので
という証拠は? >>614
>三国志では墳と塚は使い分けられている。
>箸墓のは墳
使い分けられていると考えるべき理由はない
◆FAQ 84−2
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽) でも、「冢」に対して「墳高」という表現を使っている >>612
>臣下の者に決まってるだろ。
皇帝墓に関してだろ?
理解してるか? それと一体化した前方部の記述がないのは不自然という真実の討論は、箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物なので、無意味になったな。。。 >>618
>それと一体化した前方部の記述が
>ないのは不自然。
不自然と思うのは>>618のただの主観
三国志魏書の巻末付録の夷人の話が事細かに委細漏らさず書いてあると考える方が
ナイーブ過ぎるww >>619
箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物という絶対的な真実があるので、韓国政府や韓国人は、天皇の娘の墓を卑弥呼の墓に認定するという、礼儀の悪いことが不可能になったのではないのかな。。。 韓国政府に雇用された韓国人のキナイコシや韓国人の3寸男は、天皇の娘の墓を卑弥呼の墓に認定するということが、礼儀の悪いことだとわからない可能性もあるな。。。 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物という絶対的な真実があるので、韓国政府や韓国人は、天皇の娘の墓を卑弥呼の墓に認定するという、礼儀の悪いことが不可能になったので、
討論の敗北を認め、韓国人のキナイコシが、敗北した怨恨を晴らすために、悪口を言い放ったのではないのかな。。。
630日本@名無史さん2018/12/27(木) 13:54:44.87
>>628
こいつ、もう病気だな 三国志では墳と塚は使い分けられているという真実の討論は、箸墓古墳が完成して10年後に埋まった畿内馬具が5世紀に近い物なので、無意味になったな。。。 >>625
205年に曹操が薄葬令を発布してるけど
皇帝にしか遵守する義務はないのかな?
他の王侯貴族はデカい墓バンバン作れってか >>633
>三国志でって書いてるだろ
だから「三国志で使い分けられてる」ってのが妄想だ
というAだね >>635
>205年に曹操が薄葬令を発布してるけど
薄葬令を発布してるって証拠は? >>630
>こいつ、もう病気だな
「もう」じゃなくて、「最初から」病気だよ
意味のある書き込みをして議論に参加するってことが一切ないのに、
アンチ畿内説の嫌がらせ専業で
SF板、数学板、心理学板にまで、荒らしスレを立ててる >>627
畿内説は全部主観じゃねえかw
東を南に間違えたり、纏向を卑弥呼の宮殿跡と言ったり、
箸墓の前方部は後からできたとか言ったりw >>633
>三国志でって書いてるだろ
「使い分けられていると考えるべき理由はない」
その上で、同時代史料では「使い分けられていない」ことが『明確』
日本語の読み取り能力の足りない人には>>624は
ちょっと不親切な書き方だったかな >>639
箸墓の前方部は後からできたってのは多数派だろ >>640
三国志で塚と墳が使い分けられていない証拠は? 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人の3寸男だ、とばらされた怨恨を晴らすために、嘘の悪口を言い放ったな。。。
638日本@名無史さん2018/12/27(木) 14:08:20.54
>>630
>こいつ、もう病気だな
「もう」じゃなくて、「最初から」病気だよ
意味のある書き込みをして議論に参加するってことが一切ないのに、
アンチ畿内説の嫌がらせ専業で
SF板、数学板、心理学板にまで、荒らしスレを立ててる >>643
光武帝陵が墳と呼ばれてる
始皇帝冢の高さが墳高で表記されている >>647
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人の3寸男だ、とばらされた怨恨が、大きいのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>648
>>624では史記と漢書には皇帝陵墓が塚と記されていると
なってるけど、三国志に始皇帝塚って言葉がでてくるのかよ >>646
それが、なんで薄葬令を発布してるって証拠? >>639
>畿内説は全部主観じゃねえかw
主観じゃないよ?
>東を南に間違えたり、
陳寿が「當在會稽、東冶之東」「所有無與儋耳、朱崖同」と書いていることから
相当な南国だと認識していたのが確実で、その認識の上で長距離移動は南向きと判断した蓋然性が高い
さらに、日本海経路では最後の陸行が南向きになるので、南至邪馬壹國と
いうのもそこだけを取れば間違っていない
>纏向を卑弥呼の宮殿跡と言ったり、
現状では、王クラスの権力の所在を示す弥生時代後期〜終末期の
倭国内屈指の特別な建物ってところまでだね
纏向遺跡辻地区の建物は、卑弥呼の時代より少し古くて、卑弥呼の遣使の頃の
居館域はもう少し標高の高い東側と想定されている
「日本における都市の初現 -纏向遺跡の調査から」 橋本 輝彦2008
http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/2741/1/BA89557434pp81-102.pdf
「図2 布留式期(3世紀中頃〜4世紀初頭)の中心地と遺構の広がり」を参照
>箸墓の前方部は後からできたとか言ったりw
築造順としては、そのとおりだよ
時間差がどれくらいかは、投入する労力次第だけれど
箸墓を作るのに10年かかったという説に従えば、前方部がないまたは低い状態が
年単位で生じたことになる
と、こっちはきちんと主観ではないことを示せるけれど、
>>618の「前方部の記述が ないのは不自然」っていうのはただの主観だな
>>639の書き方がその証明ww >>650
>三国志に始皇帝塚って言葉がでてくるのかよ
三国志に始皇帝塚って言葉がでてくるって
誰か言ったか? >>646
>宋書 礼志
の、どこ?
原文で示して 薄葬令が出てるのに派手に殉葬させてると言う事は
倭人伝が間違ってるのだ >>656
それ以前に
薄葬令が出てる
って証拠は? >>646
確認だが、「宋書 礼志」とはこれのことか?
魏武臨終遺令曰:「天下尚未安定,未得遵古。百官臨殿中者,十五舉音。葬畢,便除服。
其將兵屯戍者,不得離部。」帝以正月庚子崩,辛丑即殯。是月丁卯葬,葬畢反吉,是為不逾月也。
諸葛亮受劉備遺詔,既崩,群臣發喪,滿三日除服,到葬復如禮。
其郡國太守、相、尉、縣令長三日便除服。此則魏、蜀喪制,又並異於漢也。
孫權令諸居任遭三年之喪,皆須交代乃去,然多犯者。嘉禾六年,使群臣議立制,胡綜以為宜定大辟之科。
又使代未至,不得告,告者抵罪。顧雍等同綜議,從之。其後吳令孟仁聞喪輒去,陸遜陳其素行,得減死一等,自此遂絕。 >>594
だったら、王でも無いモモソの三輪山伝説を持ち出すなよな >>659
モモソの三輪山伝説を持ち出したって証拠は? >>654
三国志で塚と墳が使い分けられていない証拠を聞いたよね?
>光武帝陵が墳と呼ばれてる
>始皇帝冢の高さが墳高で表記されている
全く答えになってないね?
三国志では皇帝クラスの陵墓は"墳"で使い分けられてるのかな? >>661
>全く答えになってないね?
なってないって理由は?
>三国志では皇帝クラスの陵墓は"墳"で使い分けられてるのかな?
原則すべて「陵」で統一されているので、使い分けられていない
漢高祖、光武帝、始皇帝が例外だが、地の文ではない
廃帝には「冢」が使われている >>659
>だったら、王でも無いモモソの三輪山伝説を持ち出すなよな
>>594に書いてあるのは、
「一番の根拠は、「王の墓だから列島最大のものが第一候補」ってこと」
だけですよ?
ただの考古学的遺跡についての「事実」しか書いてありませんが?
何かご不満でも?ww >>661
>三国志で塚と墳が使い分けられていない証拠を聞いたよね?
その部分は、その前に
三国志で「使い分けられていると考えるべき理由はない」 んだよ
「使い分けられている」という「根拠を示して論証する」挙証責任は、
>>661の側にある >>660
テンプレ
>この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、
三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。 >>648
>>658に答えて!
違うなら違うで、薄葬礼の典拠となる原文を示してくれ >>666
>>594にはそんなことは一切書いてないよな? ・漢代に始皇帝陵が冢と呼ばれている
・説文で冢は高墳である
・三国志で皇帝の墓は陵と呼ばれる
ただし廃帝劉弁の墓は冢と表記した
・明帝は高祖・光武の墓を墳と表現した
・曹丕勅撰の皇覧は始皇帝陵の高さを墳高で表記した
以上から、魏代に墳と冢を使い分けた形跡は見受けられない >>667
俺が?
さっきから薄葬礼なんて存在しないと言ってる人だけど >>666
テンプレは三輪山伝説持ち出してないな
それが何なのだ? 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 >>664
海外資料に、倭にはH1という女王がいたとある
考古学的にほぼ同じ頃、奈良県にH2という隔絶した大型墓があった
これ、普通H1さんの墓はH2だと推定するだろ ダブスタとは、ダブルスタンダードという、ある集団と討論したときに、集団内の意見が統一されていないときに、外部が感じる矛盾を指している可能性が、あるな。。。 韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、意見が統一されていない可能性が、あるな。。。 4世紀の日本列島には、H1の国とH2の国があって、倭国と日本国だった可能性が高いな。。。 >>674
主にその場しのぎに言を左右する九州説を指すよ >>676
3世紀のH1には、熊本城の地下に埋まっている卑弥呼がいて、4世紀のH2には箸墓古墳を主導的に製作した、崇神天皇がいたのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説が破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の韓国人の宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、怨恨を晴らすために、嘘の悪口を言い放ったな。。。
678日本@名無史さん2018/12/27(木) 15:44:20.03
>>676の脳が死んでいる >>670
ごめーん!アンカ間違えた? ホントすまんこってす!
>>646
>>658に答えて!
違うなら違うで、薄葬礼の典拠となる原文を示してくれ 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人の3寸男だ、とばらした人物をキウス氏だと誤認して、逆恨みしているのではないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
681日本@名無史さん2018/12/27(木) 15:51:11.62
打たれ弱いキウス 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国人のキナイコシと韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 僕たちは、いま薄葬礼の典拠となる原文を翻訳したのだが、やはり、卑弥呼の墓は奈良県を領地にしていなかった、H1国にあった可能性が高いな、、、 ダブルスタンダードに一番ぴったり合う例は、ザラコクだろ?
同じ史書を、
畿内説が根拠にするときには、半分×書だからダメといい、
自分が根拠にするときには、半分×書だから正しいところは正しいと言うww 501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ ダブルスタンダードに一番ぴったり合う例は、ザラコクだろ?
1万2千里で博多湾岸近くの病遅刻入り口まで来ると言ったかと思うと
1万2千里で九州南端の投馬国まで着くから会稽東治の東なのだーとか言う ダブルスタンダードに一番ぴったり合う例は、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシと討論したときに、キナイコシのお花畑脳内世界の意見が統一されていないので、外部が感じる矛盾だという、可能性が、あるのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人のキナイコシが、また、頭の悪いことを公表したな。。。。
688日本@名無史さん2018/12/27(木) 16:18:20.67
ダブルスタンダードに一番ぴったり合う例は、ザラコクだろ?
1万2千里で博多湾岸近くの病遅刻入り口まで来ると言ったかと思うと
1万2千里で九州南端の投馬国まで着くから会稽東治の東なのだーとか言う >>690
そうだね、、、
帯方郡から、くねくね、海岸沿いを進んだり、島に寄ったりして、博多の近くに進むための距離と、帯方郡から真っ直ぐに九州南端に辿り着く距離が、同じわけがないのにねw >>691
ザラコクと連続句読点は中が悪いの?
ザラコクは、連続句読点が韓国人を揶揄してもヘイトスピーチって言わずにいてくれるのに
連続句読点は、ザラコクの言い分をダブスタだとばっさりww 1万2千里とは、女王国の入り口まで帯方郡の役人が進んだ距離でもあり、九州の南までの直線距離でもある可能性が、高まってきたな。。。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、
邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人の3寸男だ、とばらされ、焦って、意味の通じないことを、喚いているな。。。
692日本@名無史さん2018/12/27(木) 16:46:15.59
>>691
ザラコクと連続句読点は中が悪いの?
ザラコクは、連続句読点が韓国人を揶揄してもヘイトスピーチって言わずにいてくれるのに
連続句読点は、ザラコクの言い分をダブスタだとばっさりww >>695
そうだな、、、
僕たちは、韓国政府に雇用された、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破された畿内説の宣伝係員の韓国人が頭が悪いという意見は発表したが、韓国人全体を揶揄したこともないし、ザラコク氏の言い分をダブスタだと言ったこともないのにね。。。 >>658
違う
漠以後、天下途死脊際、多作石室石一獣碑銘等物、建安 十年、
税武一帝以天下彫弊、下令不得厚葬、叉禁立碑。 >>697
それ、漢代じゃん
卑弥呼は漢朝の臣じゃないから関係ないな >>697
>漠以後、天下途死脊際、多作石室石一獣碑銘等物、建安 十年、
>税武一帝以天下彫弊、下令不得厚葬、叉禁立碑。
どういう引用だ?
これだな?
漢以後,天下送死奢靡,多作石室石獸碑銘等物。
建安十年,魏武帝以天下雕弊,下令不得厚葬,又禁立碑。
でも、どこにも大きな墳丘を作るなとはとは書いてないな
漢以後、天下に死(者)を送るに奢靡にして、石室、石獣、碑銘などの物を多く作る
建安十年、魏武帝は天下雕弊なるを以って、下令して厚葬を得させざらしめ、また立碑を禁ず >>698
>>697はどこか文字化けしてるサイトから引っ張って来てるww
正しいのは>>699に貼ってあるから見ておいて
解釈も付けておいたから
漢代ではなく、魏代のことなのは合ってる
ああ、厳密には魏武帝(曹操)は皇帝になってないから、その意味では漢末かw >>700
皇帝になってないどころか、まだ冀州牧だろ
并州や幽州すら平定前だわ
だめだこりゃ >>700
>漢代ではなく、魏代のことなのは合ってる
丞相にもなってないね曹操 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>506
1寸が約2.3cmとして
1尺が10寸=23cm
1尺が8寸=20cm弱
1里=300歩で棒の影長が実測されたものだったとして
結局周の1尺が何センチだったかによって距離は変わる
谷本氏は1尺10寸で計算したそうだが
実際の周尺は1尺8寸の1尺20cm弱が近い値
だとすると1短里=76〜77mとする谷本計算は前提から間違っている事になる ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな >>634
>九州説は、 「水行二十日」 「水行十日陸行一月」
と何とか無視しなきゃいけないから大変だなww <
史料事実は、無視しない。
>でも、短里はないし、島巡り仮説もインチキだから、不彌国までで萬二千里は通らないよw<
短里も、對海國と一大國の国内見聞移動も、史料実態。 >>637
>>旧唐書の「大理→安南」の方向問題は、この男やスレ主の「アホな誤読」の間違いであった。<
>ザラコク理論だと、出発方向だけでOKだから、
実際の方角とは関係なく史書には方角が書かれてるってだけなんだが?
つまり、実際には邪馬壹国は東にあるんだけれど、出発方向は南だから
魏志倭人伝には南と書いてある
でも、その後倭人の案内で連れて行ってもらうから、きちんとたどり着ける
つまり、魏志倭人伝の南は正しいし、実際の邪馬壹国は東の畿内大和の地にある訳だ
ザラコク理論が正しいなら、これでOKだww<
ダメだよ。
旧唐書は、移動説明ではなく、通行路による位置説明だ。 >>641
>いろいろ言われてる事実が見えない九州説の悲惨 <
史料事実や史料実態が読めず、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説、悲惨。 >>699
>でも、どこにも大きな墳丘を作るなとはとは書いてないな
実際の政令は「禁厚葬、皆一之于法」だからw
後の魏朝の墓をみると、合理的な曹操は巨大な墳丘なんか
最も無駄だと感じたんだろうなw >>701
なにがダメなんだ
卑弥呼が魏に冊封される以前にできた
法令ならば時系列的に矛盾はない >>655
>魏使が測定したって言い張っても<
「魏使」なんて書かなかった筈だ。
「魏使ら」というように「ら」を付けておいた。
当然。計測は、部下の担当役人がするもの。
>他の外交使節みてもそんな事例無いしな
異国で測量なんて怪しい真似してたら命無いわ<
皇帝の使節は、当然皇帝けの報告が必要。 ヨコからスイマセン
纒向は祭事を行った場所だと思います・・・
これを邪馬台国の王都と結び付けるには時期尚早です
畿内説のご老人が焦る気持はわかりますが
ご老人は纒向の存在価値を若い学者に委ねませんか? 纒向は官庁舎やオフィスビル街のようなもんだろう
当然住居跡が出なくてもおかしくはない 纒向=王都の代表的な学者は誰ですか?
学会でNo3以内についてる方で誰ですか? >>708
>ダメだよ。
>旧唐書は、移動説明ではなく、通行路による位置説明だ。
今問題にしているのは魏志倭人伝の記述だから旧唐書は関係ないなw
魏志倭人伝で邪馬壹国までは移動説明なんだろ?ww
ザラコク理論だと、出発方向だけでOKだから、
実際の方角とは関係なく史書には方角が書かれてるってだけなんだが?
つまり、実際には邪馬壹国は東にあるんだけれど、出発方向は南だから
魏志倭人伝には南と書いてある
でも、その後倭人の案内で連れて行ってもらうから、きちんとたどり着ける
つまり、魏志倭人伝の南は正しいし、実際の邪馬壹国は東の畿内大和の地にある訳だ
ザラコク理論が正しいなら、これでOKだww >>710
>実際の政令は「禁厚葬、皆一之于法」だからw
じゃあ、その原典を示してくれ
>>697にはそんなことはまったく書いてないぞ 倭国大乱や卑弥呼の死後の大乱のあった大変な時代に、
巨大墳墓の建造に大量の人員を動員するなんて現実的にありえないよな
大国の魏でさえも薄葬令だしてるのに >>711
冀州牧として発令してんだろ?
外国は関係ないな >>1=okuyama=キナイコシさんの
キウス連呼もいいですが・・
人権版はヘビーです
畿内は百済に占領されたとか
天皇は渡来人とか >>713
>纒向は祭事を行った場所だと思います・・・
>これを邪馬台国の王都と結び付けるには時期尚早です
祭祀王卑弥呼が、王都以外のどこで祭事を行うんだ?
人前に出ない、移動もしない引きこもりの王なのに?
国家祭事の場=王都以外にどんな想定ができるんだ? >>714
3棟しかなく、刀子も硯もなく、どうやって事務をするのか。 攻伐とか記載無いし戦争があったかどうかは不明だろ
王家のクーデターが相次いだとかかもしれん >>718
天下り先を創造したのは橿考だよ
地方公務員の悲哀をわかってやれよ >>709
漢文無視した我流トンデモ解釈を
史料実態とか勝手に名付けてるだけだろ >>658
>崩壊していないよ?
前方後円墳の築造手順として、実際に後円部が先に作られたことが
実証されている古墳が複数ある<
埋葬が何時に時点であったのか?のン問題。
先に円墳を完成させて埋葬祭祀をして、その後で方墳部分の段築工事をする、という、
被葬者に失礼な事はしないものだし、
始めに前方後円墳形の周濠を造ったのなら、
前方後円墳が全部完成してから、埋葬祭祀をするのが、人類の常識。 人類の常識って文言はインチキ理論だってすぐわかるな ここ畿内説のスレかいな
テンプレの中身は個人的な意見
よって>>1が
>倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。<
畿内説の支持者間で議論したいのだよ これを山ほど連投していた韓国政府の手先
連続句読点男が
勘違いに気づいたのか沈黙してしまったな、、、
今ごろ恥ずかしくて死にそうなんじゃないかな、、、
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ >>734
>テンプレの中身は個人的な意見
だって証拠は? >>724
これだな?
十年春正月、攻譚破之、斬譚誅其妻子、冀州平。
下令曰「其與袁氏同惡者、與之更始。」令民不得復私讎、禁厚葬、皆一之于法。
十年(二〇五)春正月、袁譚を攻撃してこれを打ち破り、袁譚を斬首し、その妻子を誅殺し、
冀州は平定された。
布令を下して言った。「さあ袁氏とともに悪事を行っていた者たちよ、一緒に革新しよう。」
民衆には私怨による復讐をさせず、手厚い葬礼を禁止するよう命じ、全て法律によって一元化した。
厚葬に関しては「禁厚葬」の3文字のみで、皆一之于法は不得復私讎についてがメインだぞ
そして、この禁厚葬の内容が宋書に書かれていて、でもでかい墳丘を作るなとはどこにも書いてない >>721
既に献帝は曹操の傀儡で、冀州牧とか関係ない。
曹操が新しい領土を加えれば、その地に同じ政令を発布する。 >>659
>A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。<
折れ線的道のり里数合計が不彌國でほぼ萬二千余里に達してしまっているから、
「沖縄本島付近の南海上」にはならないので、スレ主は×。
>「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると
具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。<
史料事実は、「東治」であり、それを「東冶」とするインチキをしたから、スレ主は、×。
>以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、
並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない<
その二点は、史料事実や史料実態のどこからも出て来ないから、インチキであり、
だから、スレ主は×。 >>719
>巨大墳墓の建造に大量の人員を動員するなんて現実的にありえないよな
でも実際に巨大墳墓作ってるんだから、現実的には王都には戦乱の影響がなかったってことだ >>739
>頭が悪いのは連続句読点男の方だったようだね、、、
やっと自覚が出てきた?ww >>741
>折れ線的道のり里数合計が不彌國でほぼ萬二千余里に達してしまっているから、
>「沖縄本島付近の南海上」にはならないので、スレ主は×。
つまり「会稽東治之東」にはならないので、九州説は×。 409の>>665
>>周髀算経は、「周初からの知見」という内容での、 収集本として書かれている。<
>だから、後世に書かれたんだよね?<
前漢の「周髀算経の収集者」は、散逸していたものを収集加筆しているから、
周髀算経という文書が出来たのは、周代だな。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、 スレッドが寂れてしまったな、、、 ◆FAQ 32 Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である
これが 部分的利用に留まる所以である。
これが 部分的利用に留まる所以である。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行しているな、、、 考古学の成果と魏志倭人伝を合わせてみれば、平安時代の朝廷や民の歴史認識が真実に一番近いんじゃないか?
これからは延喜式祝詞とか万葉集の内容を吟味したらいいかもね >>750
討論での敗北者が、間違いを誤魔化し始めたので、醜いな、、、 >>746
>前漢の「周髀算経の収集者」は、散逸していたものを収集加筆しているから、
という証拠は? >>738
>厚葬に関しては「禁厚葬」の3文字のみで、皆一之于法は不得復私讎についてがメインだぞ
何故?文字が多いから?
>禁厚葬の内容が宋書に書かれていて、
>でもでかい墳丘を作るなとはどこにも書いてない
三国志魏書・文帝紀(曹丕)にはこうある。
封樹之制、非上古也、吾無取焉。
封樹の制(墳墓に土を盛って木を植える制度)は上古のものではないので、
吾はこれを取らない。 409の>>692
>>淮南子は、東方では短里記載をし、西方では長里記載をしたらしい、<
>淮南子は、五行相応で、東西南北中央の極をすべて萬二千里にしてるんだよ
東方も西方も同じ扱いだよ <
またこの男(類スレ主)は、変な事を言っている。
その萬二千里が、西方では長里で測られ、
東方では短里で書かれているらしい、といっているんだよ。
そして、西方の知見は、
殷だったか?の王が部下に自分等のいる大陸の東西長さを歩測させた時点で、
西の方が長い事を知っていたし、
穆王伝だったか?にも、西王母まで知られていたんだから。 >>742
>でも実際に巨大墳墓作ってるんだから、現実的には王都には戦乱の影響がなかったってことだ
大和が邪馬台国(倭国)と関係なかった地域だということだ。
筑紫が肥国を巻き込んで戦乱に明け暮れる中、畿内がぬくぬくと力を蓄えたのだろう。 >>754
>三国志魏書・文帝紀(曹丕)にはこうある。
>封樹之制、非上古也、吾無取焉。
>封樹の制(墳墓に土を盛って木を植える制度)は上古のものではないので、
>吾はこれを取らない。
でもでかい墳丘を作るなとはどこにも書いてない 409の>>719
>昔の中国人も一寸千里は実際に測ると違うって繰り返し指摘してるからな<
魏や西晋以後の学者や皇帝は、始めから「長里」しか教わっておらず、
周髀算経や一寸千里が短里で書かれている事が分からな褐炭だから、
長里で測って「違う」と繰り返し言っていたアホであったからな。 >>750
周の尺は1尺20cmのモノサシが見つかってるから
周の1尺は8寸相当で正しかったのではないかな、、、 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな >>759
>魏や西晋以後の学者や皇帝は、始めから「長里」しか教わっておらず、
つまり短里は知らないんだろ?
そんな人たちが
周制復古だから短里を使う
と決めるわけないよね
短里は現代日本人だけの妄想だよ 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 409の>>724]
>墓の前方部には二重口縁壷やその他の壷類の破片が表面に散らばっているのだが、
江戸時代寛政期以降に幕府か当該藩によって前方部が造られて、
そこで幕府か当該藩が古代の土器を用いて祭祀し、
破片に砕いて撒いたという記録があるのかね。
そもそも、前方部をわざわざ築造して、そんな祭祀を行う必要が幕府や当該藩にあったのかね。
あったとすれば、それはどんな理由なのかね。
その壷の破片は随分古いようだが、わざわざ古代壷を造って古いように造作したのかね。
また、そんな壷を作ったという記録があるのかね。
つまり、箸墓が卑弥呼の墓で円墳だったとするために、
江戸時代寛政期の観光用パンフレットを持ち出してこなければならないほど、
円墳主張には根拠となるまっとうな証拠がないということ。
円墳でなければ卑弥呼の墓だとは考えられないということのようだから、
その円墳説が崩れたら、邪馬台国大和説は成り立たんということになるのが道理<
成程。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、また、間違えたな。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 409の>>729
長里は終わったので、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説には、
別の論拠が必要だな。 1尺が8寸だったなら、答えは1尺4寸に近くなるのでは、ないのかな、、、 >>766はキウスだろう
壊れた心で連呼しているから 705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 頭の悪さを指摘された在日連続句読点男が
壊れてしまったのではないかな、、、 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い韓国人の3寸男が、
間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、また、間違えをばらされたので、意味の通じない悪口を言い放ったな、、、
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
773日本@名無史さん2018/12/27(木) 21:14:56.12
頭の悪さを指摘された在日連続句読点男が
壊れてしまったのではないかな >>757
http://r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/5773/o_521.pdf
さっきの彼の博士論文に国家の政令の形式で頒布したと書いてある。
p.96,l.7-14
・地上には「不封不樹」であるのみならず、寝殿を建てることや園邑を築くこと、
神道を通すことも禁止した。
・地下の墓室・棺槨を簡略化した。
・玉衣を禁止した。
・副葬品は土器を主とした。
・合葬しないことを良しとした。
これらの規定は、基本的に曹操の時代にすでに創出されたもので、
曹丕は、その中でいくつかの点を強化し、国家の政令の形式で頒布した。
曹魏墓葬制度の正式な確立を特徴づけている。 1尺が8寸だったなら、答えは1尺4寸に近くなるのでは、ないのかな、、、
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 409の>>736
>光武原陵: 山方三百二十三歩,高六丈六尺
明帝顕節陵:山方三百歩,高八丈
章帝敬陵: 山方三百歩,高六丈二尺
和帝慎陵: 山方三百八十歩,高十丈
殤帝康陵: 山周二百八歩,高五丈五尺
安帝恭陵: 山周二百六十歩,高十五丈
順帝憲陵: 山方三百歩,高八丈四尺
沖帝懐陵: 山方百八十三歩,高四丈六尺
質帝静陵: 山方百三十六歩,高五丈五尺
桓帝宣陵: 山方三百歩,高十二丈
霊帝文陵: 山方三百歩,高十二丈
献帝禅陵: 不起墳<
これが最大で「径60m」位だという事は、
大体、三百八十歩が60mになり、
6000cm÷380≒16cmになるから、
1歩≒16cmになり、こりゃ、周朝の1尺の寸法位になるな。
つまり、この「歩」は「短歩」であったらしい、という事だ。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、また、間違えたな。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 1尺が8寸だったなら、答えは1尺4寸に近くなるのでは、ないのかな、、、
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな >>754
>封樹之制、非上古也、吾無取焉。
>封樹の制(墳墓に土を盛って木を植える制度)は上古のものではないので、
>吾はこれを取らない。
「吾はこれを取らない。」
他人(家臣)には何も言ってないよな?
ましてや海外の封王にやww >>755
>その萬二千里が、西方では長里で測られ、
>東方では短里で書かれているらしい、といっているんだよ。
一切、何一つ、清々しいほど「根拠がない」ww
淮南子は最初からまったく中華世界の外は計っていないんだよ
哲学書だからね! 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、また、間違えたな。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 1尺が8寸だったなら、答えは1尺4寸に近くなるのでは、ないのかな、、、
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな >>756
>大和が邪馬台国(倭国)と関係なかった地域だということだ。
>筑紫が肥国を巻き込んで戦乱に明け暮れる中、畿内がぬくぬくと力を蓄えたのだろう。
ブブー
そのいい訳は通りませーん
那珂八幡古墳という弥生時代基準で言えば巨大な墳丘墓を北部九州でも作ってまーす
北部九州も戦乱と関係なかった地域ってことに今からするかい?ww >>758
>土を盛るな(墳丘を作るな)という意味だろ。
どんな意訳だ?w
やりたい放題だなww 韓国人の3寸男は、なぜ、頭の悪いことを公表しながら、討論を実行しているのだろうか、、、 >>788
日本人を、頭の悪さで、イライラさせる事も目的なのでは、ないのかな。。。 >>789
日本人に、頭の悪さで、楽しまれているのでは、ないのかな。。。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>754
>封樹之制、非上古也、吾無取焉。
その続きの方に
若違今詔、妄有所変改造施、吾為戮尸地下、戮而重戮、死而重死。
臣子為蔑死君父、不忠不孝、使死者有知、将不福汝。
とある
もしこの詔を違え、妄りに変え改造を施すところあれば、吾しかばねを地下にはずかしめられ、
辱めに辱めを重ね、死に死を重ねらるるを為す
臣や子が死せる君、父を蔑ろに為すは、不忠不孝をして使者に知るを有らしめ、
将に汝に福ならざらんとす
もしこの詔に違反し、ばかげた改変をすれば、
私は地下で亡骸をはずかしめられ、はずかしめをさらに重ねて受け、
死んでなお重ねて死ぬことになるのです。臣や子が死んだ君主や父を蔑むことは、
不忠不孝であり、死者がそれを知ることができれば、あなたに福はないでしょう。
自分の墓のことしか言ってないな
自分の皇帝墓が墓荒らしに遭わないように、というのがこの詔の目的だ
薄葬令は臣下の墓のことは考えていない 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、また、間違えたな。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 1尺が8寸だったなら、答えは1尺4寸に近くなるのでは、ないのかな、、、
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな 1万2千里も架空の数値だし
1寸千里の谷本計算は不適当
短里は崩壊!ガラガラ! 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表したので、
韓国人の3寸男は、後悔して、自殺して死体になっても、5ちゃんねるで発表をはずかしめられ、はずかしめをさらに重ねて受け、 死んでなお重ねて死ぬことになるのでは、ないのかな。。。 409の>>784
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
どんどん自滅していくね。 409の>>797
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
腐ってるよ。 >>801
まったく・・・
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
徹底して証拠を出さないヤツらだな >>803
>卑弥呼「も」纏向にいたんだよ 彦姫制の姫王・祭祀王だからね <
「南≠東」などに拠って、×。 >>796
1尺の長さが何センチに相当するかによって
1寸千里の千里がいくつになるかは変わるんだよ >>816
古田さんの「九州王朝」の「九州」は、
現在の日本列島にある「九州」という地名、という意味。 >>826
>北部九州も3世紀中頃には
大和を中心とした政治連合に飲み込まれてしまってるよねw<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
3世紀末に、東征将軍のお手伝いで獲得した毛人らを押さえつけるために、
墓守り人に使って、巨大墓を作ったもの。 >>830
[「南→東」などの嘘吐き騙しには、
一切何の根拠もないからどうしようもないんだよ、大和説は。 >>792
もう薄葬令が墳丘を禁止していなかったでいいよ。
>>562で話がそれた
話戻すけど漢代の皇帝王侯の墓の大きさ・高さには明確な序列があったけど、
魏朝皇族の曹休や曹植よりもはるかに巨大な箸墓古墳が冊封国女王の
卑弥呼の墓だいうのは妥当かね? >>806
>話戻すけど漢代の皇帝王侯の墓の大きさ・高さには明確な序列があったけど、
>魏朝皇族の曹休や曹植よりもはるかに巨大な箸墓古墳が冊封国女王の
>卑弥呼の墓だいうのは妥当かね?
逆質問で返して申し訳ないが、北部九州の箸墓と比べれば分相応の大きさの
「那珂八幡古墳でさえ、魏朝皇族の曹休や曹植よりもはるかに巨大な墳丘墓」なんだが、
それが許されるなら倭王卑弥呼の墓は箸墓くらい大きくても、
なんの疑問もないとは思わないのかい? >>807
那珂八幡古墳が魏代の墓とも卑弥呼の墓
とも思わない。
あんたは箸墓が魏代の卑弥呼の墓と思ってるんだろ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>806
>魏朝皇族の曹休や曹植よりもはるかに巨大な箸墓古墳が冊封国女王の
箸墓古墳の何がどう
魏朝皇族の曹休や曹植よりもはるかに巨大なの? >>808
>那珂八幡古墳が魏代の墓とも卑弥呼の墓
>とも思わない。
那珂八幡古墳の年代をいつ頃だと思ってるんだ?
結局、まともな研究成果は九州説の考えに合わないから全否定ってだけの人か
九州説ってそんなのばっかだよな 魏の王侯のゼロ墳丘より大きいのがダメだと言うなら
平原だって祇園山だって失格だからな
わかってんのかな 那珂八幡や箸墓の年代は着ない説に有利なように操作されていると思うよ。 >>814
>平原はそれほど土を盛っていないからセーフ
魏朝皇族の曹休や曹植よりも高いぞ
なんでセーフなんだ? >>817
元ミカン畑だろ?
土を盛ったのは発掘調査後 >>818
そして塚畑の墳丘を削ったのは近現代のお百姓さんだ >曹操の墓でも全長60m、曹休や曹植は
>それよりも小さい。
>曹操の墓の径は書いてるだろ。
>曹休曹植のは自分で探せ。
結局また九州説はサギじゃねーか
ウンザリ 九州説は邪馬台国があたかも中国の植民地になったと考えてるようだな
外交使節団ごときが他国内を勝手に測量して祭祀にまで口出し強制するとか >>822
>卑弥呼の墓は今ある古墳で間尺に合うのはゼロ
ちゃんと在るよ。 倭国(阿波)に。 @阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 集落とは、人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念 >>815
>那珂八幡や箸墓の年代は着ない説に有利なように操作されていると思うよ。
九州説は、平気でこれを言い出すから共通の言葉で議論することができない
まあ、共通の基盤で議論したら瞬殺だから、そこから逃げてるだけなんだがw 薄葬令は、皇帝が自分の死後、自分の墓が盗掘・墓荒らしに合わないように
「貴重品を墓に入れるな、墓が目立たないようにしろ」って言っただけだな
つまり蕃夷の王の墓にはなんの規制も拘束もないってことだ
卑弥呼の墓の盗掘を魏の皇帝は気にしないw >>828
炭素年代の精度?
土器付着の炭化物が3世紀としても、3世紀の炭化物何ていっぱいあると思うよ
3世紀の日本にヤマトにしか人がいないなら別だけど 土器に付着してる炭化物は煮炊きで付着した生活痕でしょ >>827
>集落とは、人が住む家屋の集合した状態の場所のことを指す地理学的な概念
その、卑弥呼時代の代表的集落遺跡は倭国(阿波)の「矢野遺跡」。 @阿波 >>823
国粋主義ネトウヨは失せろ。
漢の冊封を受けてその文化を吸収した時代なんだから、当然だろ。
卑弥呼の時代は魏の使いが頻繁に訪れて滞在した。
平原遺跡は鏡以外は中国趣味の宝飾品であふれていたしね。
卑弥呼の時代は弥生時代でも最も中国との結びつきが強かった時代だ。 >>813
じゃあまだ卑弥呼の墓はみつかってないんだね。
詐欺テンプレ次から消しとけよ 畿内説によると、人口密度が桁違いに低かった大和が王都らしい。
人口密度だけでなく、文化水準も低く、魏との交流の痕跡もない纒向が、親魏倭王の都だと?
バカも休み休み言え。
畿内説は考古学を無視した妄想だ。 テンプレは文章構成そのものが詐欺師の論法。
少し読んだだけで吐き気を催した。
学問とは程遠い、悪意のある文章だ。 >>840
>畿内説は考古学を無視した妄想だ。
九州説もそうなんだけどねw @阿波 >>839
書いてることは根拠のない思い込みでしょ
交流があれば何でもやっていいと思ってるのが異常 >>738
>厚葬に関しては「禁厚葬」の3文字のみで、皆>一之于法は不得復私讎についてがメインだぞ
文字数が多いからメインw
畿内説はいつも笑わせてくれるなw 冊封国女王卑弥呼の墓があまりにも
巨大だったために、卑弥呼は中国皇帝に並ぶ権力者だったと後世の畿内説カルト信者は
信じて疑わなかった >>845
>「一畝は600尺」まではいいんだけれど、
次の「畝百為夫」は、縦に繋げるんじゃなくて、横に並べるんだよ
畝(畑の作物の並び)を横に百列並べたものが、夫で、これが正方形
つまり、畝は一歩間隔で並んでいることになる <
「六尺為步。步百為畝。畝百為夫。夫三為屋。屋三為井。井方一里。是為九夫」
には、そんな事は書かれておらず、「六尺為步。步百為畝。畝百為夫」は同じ構文。
また、尺が24cmなら、畝は、その600倍だから掛け算して144m。
これも、全くべらぼうな数字。
要するに、この文自体が説明が下手であり、信頼性がなく、根拠に使えない代物。 >>852
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者って、具体的な反論は出来ないの?。 テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 >>860
「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者は、
・・・・バカしかいないから当然そうなるだろう 。
しかし彼らを説得する必要はないんだ。
国民に、大和説者の・・・・性を晒させればいい。 >>864
また、「南→東」などの嘘つき・・・・詐欺師の大和説者は、
論破されて顔真っ赤にして、
矛先そらしに懸命か。
カコワルw。 韓国人が、また、頭が悪いことを、公表しているな。。。
801日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:58:14.47
>>796
1尺の長さが何センチに相当するかによって
1寸千里の千里がいくつになるかは変わるんだよ >>851
そうだね、、、
1尺の長さが何センチに相当するかによって1寸千里の千里がいくつになるか変わるのではなく、1尺の長さが何寸に相当するかによって1寸千里の千里がいくつになるか変わるのだったね。。。
韓国人は、頭の悪い発表をとりつくろおうとしたが、完全に失敗したので、自殺して死体になってしまう可能性が、高まったな。。。 >>852
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い男が、間違いに気づき、 1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったという、次の、頭の悪いことがわかる意見を発表し、また、間違いに気づき、とりつくおうとして、失敗したのでは、ないのかな。。。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い韓国人が、間違いに気づき、
1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったという、次の、頭の悪いことがわかる意見を発表し、また、間違いに気づき、
とりつくおうとして、失敗し、自殺して死体になったのでは、ないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
801日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:58:14.47
>>796
1尺の長さが何センチに相当するかによって
1寸千里の千里がいくつになるかは変わるんだよ 一寸千里の法を実際に計算したので、魏志倭人伝時代の様子に詳しくなったのではないのかな。。。 >>870
>畿内様式土器の流入後、地場様式の土器は淘汰されてなくなるし、<
ダメだ。
庄内は、筑紫では3世紀前半には筑紫の胎土で出現しているが、大和では3世紀末だ。
庄内の筑紫の先行は明らかだ。
>葬送祭祀も前方後円墳祭祀に置き換わっているだろ?<
前方後円墳も、卑弥呼の冢の祇園山や壹與の平原の後に那珂八幡などで始まったのであり、
大和の石塚は、3世紀末だ。
>北部九州も纏向遺跡を中心とした社会変革に参画していたのは考古遺物から
明確に跡付けられる <
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭國の旧小国だ。 病気の人は自分の立てた糞スレで自演連投すればいいのに >>857
優れた考古学者達から、纏向遺蹟が、沼地にあった大物主の倉庫だったことや、韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝していることも、教えてもらったのではないのかな。。。 >>846
ここまで行くとさすがに畿内説を支持してなくてもちょっと異常としか思えない。
いくらなんでもこの言い分はない。 韓国人の3寸男が、出現して、頭の悪いことをばらされた怨恨を晴らすために、悪口を言い放ったな。。。
859日本@名無史さん2018/12/28(金) 09:24:40.78
病気の人は自分の立てた糞スレで自演連投すればいいのに 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い韓国人が、間違いに気づき、
1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったという、次の、頭の悪いことがわかる意見を発表し、また、間違いに気づき、
とりつくおうとして、失敗し、自殺して死体になる可能性が高まったのでは、ないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
801日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:58:14.47
>>796
1尺の長さが何センチに相当するかによって
1寸千里の千里がいくつになるかは変わるんだよ >>874
>文字記録は出ないんだから、九州にいたという証拠も大和にいたという証拠もないだろ
無意味な言いがかりだなw <
文字記録なら、「漢委奴國王」印があるし、
中国の「同時代の使節の信頼性や客観性や確率の高い記録の魏志などの記載」がある。
>ただ、状況証拠から、大和にいたとする蓋然性が最も高い <
大和は、「南≠東」などに拠っても×であるし、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国だ。 >>879
>その関川の説を支持してる学者っているの?w<
そりゃ、九州説学者はほぼ全員が支持しているだろうし、
国民の7割も支持しているよ。」 >>880
むしろ、「南→東」などの嘘つき詐欺をし、
話の論点をずらして、自分たちがでっちあげをしていたのをごまかそうとしているのが 、
「類スレ主」ををはじめとする大和説者の面々。 >>886
>北部九州地域での西新式土器の後継様式土器は何?<
当然、陶質土器や陶器。 記紀の国生みで女神の名は四国だけ
四国が女王国であることを匂わせてる >>896
>沖ノ島祭祀の遺物は畿内系の遺物で、沖ノ島祭祀も畿内勢力が主催していたのが
はっきりしているね!
完全に、畿内を中心とした倭国という体制が出来上がっている
九州王朝が割り込む余地はない <
沖ノ島は、天孫族の阿毎氏や宗像氏系の祭祀島であり、
姫氏や大和は、天孫族の阿毎氏との縁故関係で少し関与があった程度。
そして、大和は、継体の反乱で九州倭国の王家の一人として参画できるようになってから、
沖ノ島祭祀にも参画するようになった。 そもそも畿内まで魏の使者に来てもらうなら、
安全なルートが確立されてる必要があるけど
当時は倭国大乱な上に、熊襲や隼人が
もっと後の時代まで反乱してた訳で。
旅程が短い方が、よほど蓋然性がある。
距離なんて、単純に誤記だろう。
九州内の事だから、
畿内に資料が残ってなかったってのは自然な話だ。
むしろ、やや時代の下る神獣鏡や古墳文化をみるに
本居宣長の説とは正反対に
大和朝廷が邪馬台国を僭称してた様にすら思える。 >>898
>じゃあ、なんで九州は3世紀になると鏡を入手できなくなるの?<
いや、九州は、4世紀初頭頃?の伊都国系の一貴山銚子塚頃までは、
まだ天孫族の阿毎氏の勢威が強かったから、鏡文化が盛行していた。
しかし、317年頃に阿毎氏から姫氏に王家が移って(東海姫氏國)、
久留米〜八女付近に遷宮してからは、鏡をお宝にする事が大幅に減った。
>畿内に全部持ってかれたからでしょ<
大和は、天孫族の阿毎氏系の倭奴國の別種分家であったから、
東海姫氏國に怖れる事もなく、鏡をお宝に出来だ。 >>865
>そりゃ、九州説学者はほぼ全員が支持しているだろうし、
九州説に学者がいません >>899
>テンプレに書いてあるよ <
スレ主は、「南→東」などの嘘つき詐欺師である事が確定しているから、
テンプレは証拠にならないんだよ。 >>902の訂正追記
>投馬国は(陳寿の認識では)女王国以北の国だよ<
投馬國は、不彌國の「南へ水行二十日の位置」だから、
女王國以南の国だよ。 テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 >>904
>石塚や矢塚、勝山などが、近代の発掘の手が入る前に削平を受けて
埋葬主体部が失われていたのは無視ですか?
既に失われていたものが、発掘により出土しないのは当たり前
出土したものは根拠になるけれど、出土しないことは根拠にはできないんだよ <
ダメだ。
石塚からは、庄内が出土しなかった事が確認されている位だから、
鉄鏃の出土がなかった事も確実だ。 >>908
>>「天柱山高峻二十余里」での「二十余里」は「高峻」の説明であり、<
>「二十余里」では「高」しか説明できないよ 「峻」なのは道のりだ
よって 「二十余里」も道のりだ <
「山高」の数字であれば、「高さ」も「峻さ」も説明出来るが、
「道のり距離」では、「高さ」も「峻さ」も殆ど説明が不能だだから、×だ。 >>911
どこの「南→東」などに嘘つき詐欺師のキチガイなのか?,ha知らないけど、
そろそろ頭の病院か刑務所に行ったほうが良いんじゃないのか?。 >>916
また証拠を一つも出さず、
「南→東」などの嘘つき騙しの断定ばかり書く「類スレ主」の大和説者。 >>919
>日本はド田舎後進地域の関東に何度も天下取られてるからね
九州は後進国の武力に圧倒されたのだろうな<
古代においては逆。
九州倭国の「東征毛人五十五國」があったの。 >>920
>戸数道里の明らかな投馬国は女王国以北だよ<
投馬國は、不彌國から「南」であり、水行二十日の位置であるから、
邪馬壹國女王之所都の南の南九州。 >>921
>平原遺跡の八咫の鏡に対抗する鏡を畿内で見つけてから言い張ってね。<
>それ、二世紀だから<
明帝の下賜鏡である事をしめす21枚の「尚方作」方格規矩鏡があったから、
3世紀半ば以後であり、
「玉と鏡の女王」であるから、壹與の墓である可能性が高い。 >>927
>で、仮に2世紀まで倭の中心が筑紫なら、いつ倭は倭に東遷したんだ?<
筑紫の倭国の別種分家の旧小国の大和が、
九州倭国を併合吸収継承出来たのは、白村江の後。 831日本@名無史さん2018/12/28(金) 08:04:25.50
土器に付着してる炭化物は煮炊きで付着した生活痕でしょ
⇧
日本全国 煮炊きしてたよ >>932
>「南」であるから、始めから「「以北」の中にな入らない、という意味。
投馬国から南に行って邪馬壹国なのだから、当然に邪馬壹国以北だろう
この時点で、ザラコクの九州説としての旅程の読み方は破綻している <
投馬國は、「至」の前に途中移動の文言が入っていないから
魏使らは行っておらず、側副傍線國説明であり、
不彌國から「水行発か」の位置であるから南九州。
そして、不彌國で「折れ線的道のり里数」合計が萬二千余里にほぼ達しているから、
その南に邪馬壹國女王之所都がある事になる。 九州説の人はそれぞれがテキトーな思い込みを書きなぐってるから九州説同士でも意見がバラバラで訳がわからんな
九州説内で少し主張をまとめてくれよ >>886
>投馬國は、「至」の前に途中移動の文言が入っていないから
魏使らは行っておらず、側副傍線國説明であり、
それはとっくに「涼州軍従金城南至沃干阪」で論破されてるだろ
他にも
「東明走、南至施掩水、以弓擊水」
「ケ子孝等浮涉滄海、南至交州」
「南至槃江,東接牂牁,与亮声勢相連」
用例山ほどあるぞ >>935
>つ 三角縁神獣鏡 これを北部九州系とかいうなよww <
列島で一番古い△は、志登のもので、
それに続くのは祇園山や藤崎西新町だ。
>沖ノ島祭祀の時期には、<
沖ノ島祭祀は、天孫族の伊都国の阿毎氏や宗像氏の祭祀であり、大和が参入出来たのは、継体の反乱の後だ。
>完全に畿内大古墳の方が、九州の古墳より 副葬品も圧倒的に豪華だぞ <
アメリカや豪州での「イギリスなどからのドーナツ現象」と同じく、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中で起こった、九州倭国からの「ドーナツ現象」だ。 >>937
「南→東」などのように史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をし、
人類の常識に逆らって年代引き下げをしないと、
大和説はニッチもサッチも行かないことが、
よくわかる。 >>946
>魏志倭人伝に明記された、魏皇帝からの下賜銅鏡が1枚もない、<
平原には、「尚方作」鏡が21枚もある。
>一時代前の吉野ヶ里の墳丘墓より小さな墓が何だって?<
魏の薄葬令の影響を受けた方が、倭国の中心部であった事を示す。 テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 年末年始は、5ちゃんねるで韓国人を論破するための時間が、少なくなってしまうな。。。 八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるという意見を発表した頭の悪い韓国人が、間違いに気づき、
1尺が8寸だったという偽造を実行し、計算を実行したが、1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったという、次の、頭の悪いことがわかる意見を発表し、また、間違いに気づき、
とりつくおうとして、失敗し、自殺して死体になる可能性が高まったのでは、ないのかな。。。
501日本@名無史さん2018/12/27(木) 08:07:37.90
>>472
八尺の棒の影の長さが1寸差になる場所を測るんだから
当時の1尺が何センチだったかで距離が変わってくるぞ
その尺にコメントがないなら計算そのものがいい加減なものという事だ
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
801日本@名無史さん2018/12/27(木) 22:58:14.47
>>796
1尺の長さが何センチに相当するかによって
1寸千里の千里がいくつになるかは変わるんだよ テンプレートを作製した韓国人が、倭国と日本国が日本列島に同時に存在し、倭国が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたことを、隠そうとしているのは、
それが、テンプレートを作製した韓国人を雇用した韓国政府が、邪馬台国畿内説をステマする本当の目的だからでは、ないのかな。。。 >>949
>そんなマイナーな個性を言い募っても、全国共通の前方後円墳を使っている時点で
独立勢力じゃないだろ?
丹波の初期古墳は、面白い形の円筒埴輪を使っていて、それこそ九州よりも
独自路線なんだけれどな
まあ、のちの豪族になる訳だから、それぞれに自立はしているけれど、
倭国という枠組みの中での自立性に過ぎない<
瀬戸内以東は、九州倭国の東征毛人五十國諸国であり、
出雲や越は、梁代までは尚も独立的であったし、
九州倭国は、宋代になっても、中国の家臣の地位であり、中国皇帝よりも大きな墓は造り難く、
墓の内容を豪華にするしかなかった。 近くの孫と、遠くの孫が揃うことになったので、箸墓古墳や不気味な掘立柱遺蹟を、案内し、そこが沼地だったことや、天皇の娘の墓をどうやって作製したのかや、大物主の桃の倉庫のことを、教えてやれば良いな。。。 >>902
卑弥呼に似せた着ぐるみが出現したら、叱りつけてやれば良いなw 後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも、遥かに巨大な箸墓(全長278m)を冊封国女王卑弥呼の墓だとする畿内説カルト >>954
>魏鏡が「一枚も出ない」時点で、卑弥呼の墓の候補からはほぼ外れるよ<
ダメだ。
21枚の「尚方作」鏡を貰ったのは、卑弥呼しかあり得ないから、
平原は、卑弥呼か壹與の墓にしかならない。
>年代的にも平原1号墓はやや古すぎるし <
年代的にも、3世紀半ば以後にしかならない。
柳田らの比定は、×だ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>956
>畿内では、下賜銅鏡をありがたがって、
踏み返しをしてまで大量コピーして配布しているのにw <
大和が自力で△を作れたのは4世紀になってからで、そのも粗悪な副葬用の△だ。
そして△は、下賜銅鏡ではあり得ないし、
渡来して来た呉系楽浪鏡師らが3世紀前半に筑紫で造ったのが始まりで、
踏み返し鏡を作ったのも彼らで、
それを、地方の豪族に造ったり、東征将軍に下賜したり、墓に副葬したりした。 >>905
>年代的にも、3世紀半ば以後にしかならない。
zarakoku教でご託宣しても無駄
根拠が崩壊してる >>957
>中国鏡に関しては239年以前には1枚もなくても問題ない
重要なのは、魏と外交を開始した239年以降のこと <
239年以降の紀年鏡は、明帝の下賜鏡であり得ない。
238年以前の紀年鏡は、明帝の下賜鏡の下賜鏡であった可能性は残る。 >>963
>ちっちゃな平原だけ大事そうに言うのは不自然<
率善中郎將などの「魏の官位」を貰った人物がいるのだから、
文帝の薄葬令に逆らう事は困難。
だから、副葬品は豪華にして、
墓の表面やサイズは、薄葬にするしかない。 >>965
>後漢王墓や魏朝皇族墓(最大で径60mくらい)よりも遥かに巨大だって根拠は?<
そりゃ当然、現存墓のサイズが「最大60m位であった」というデータだあったんだろう。 >>971
>「根拠なし」ってアンタ・・・発掘調査の公式報告書が出てるだろうが <<
柳田の報告の事なら、彼は、
近畿の先生方の意向の逆らえず、自分の判断を撤回したり、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を撤回しない男だから、
半分×人間であり、信用できないよ。
>さすが九州説 あらゆる学問を無視ですか<
さすが「南→東」などの嘘吐き騙しの、学問無視の大和説者。 ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 曹操の陵墓は文献と違ってるからって文献史学者はなかなか認めなかったんよね
文献重視の人は他山の石とすべし >>913
・・・などと素人が言っているが、専門の学者は関知していない >>916
専門の学者の書いた本を読んでる人間だな 卑弥呼の勢力は朝鮮半島にも及んでいたんだ
投馬国は朝鮮半島南岸だしな。 >>846
>要するに、この文自体が説明が下手であり、信頼性がなく、根拠に使えない代物。
ザラコクが能力が足りなくて漢文が読めないだけだよ
漢文が読めないのに無理するなと何度言わせれば気が済むんだ?
300歩=1里は、ずっと変わってないんだよ >>861
>ここまで行くとさすがに畿内説を支持してなくてもちょっと異常としか思えない。
畿内説を支持していなくても、もっと早く気づきなよ、ザラコクが異常だってことくらいは
九州説だからって、放置していたら同類としか思われないよ?
まあ、同類なんだろうけどさw >>871
>当時は倭国大乱な上に、熊襲や隼人が
>もっと後の時代まで反乱してた訳で。
卑弥呼の共立で倭国乱は収まっている
熊襲や隼人はそれこそ辺地で関係ない時代
北部九州から日本海出雲・丹波経由で大和に向かうときにかすりもしないだろ?
>旅程が短い方が、よほど蓋然性がある。
ないよ
遠くからの朝貢だからこそ、特記、厚遇されてるんだから
>距離なんて、単純に誤記だろう。
誤記を認めるなら、方向の錯誤とした方が、簡単に整合性が取れる
九州説では、投馬国を邪馬台国以北に置く場所がないことを
もっと真剣に考えた方がいいよ? >>875
>投馬國は、不彌國の「南へ水行二十日の位置」だから、
>女王國以南の国だよ。
これを書いているうちは、純粋な文献史学から言っても失格だ >>918
>投馬国は朝鮮半島南岸だしな。
これが、九州説の中でも一番トンデモ度が高いやつだww
ただ、投馬国を邪馬台国以北に置こうとするところだけは、筋が通ってる 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している韓国人の三寸男が、また出現したのではないのかな、、、 僕達の孫は勉強ができるので、夏至の正午に、明石と同じ経度の北緯35度の場所から、何メートル南にいけば、80センチの棒の影の差が、1センチ違うか計算を開始したな。。。 >>925
僕達の孫は勉強ができるので、夏至の正午に、明石と同じ経度の北緯35度の場所から、何メートル南にいけば、80センチの棒の影の差が、1.25センチ違うかの、計算もさせてみれば良いのではないのかな。。。 >>921
>誤記を認めるなら、方向の錯誤とした方が、簡単に整合性が取れる
都合の良い改竄だな。 >>993
>全ての論者に聞きたいのだが、 方角・距離云々を言う前に、
上陸後、末盧国からの最初の一歩を、なぜ倭人伝に逆らって北東の糸島へいったのか、<
「最初の一歩」は北東に向かっていない。
出発時点は「東南」と書かれている。
そして、途中は案内人や道標や道なりに進んで、前原や糸島水道付近に到った。
>そして、倭人伝には親切に書かれているのに、なぜその指図通りに東南の佐賀平野へ向けて踏み出さなかったのか、、、
・・・最初の最初で、あえて倭人伝に逆らった人々の心理を全く理解しかねている。<
だから、記載の「指図通り」にはなっていないし、
伊都国の所在地は、風土記や書紀では、「怡土」郡にある、と書かれている。 このPart410では、薄葬令の内容が明らかになって、
倭国の墓制とは関わりがないことが確認された >>927
>都合の良い改竄だな。
>>871に言ってやってくれww
つ「距離なんて、単純に誤記だろう。 」 >>913
>耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもの
この「特徴的な特殊な形状」ってのがどんなものか理解した上で書いてるかい?
「中央がくびれている形」を言うんだそうだ
そして、平原1号墓出土の耳璫はこんな形
https://pds.exblog.jp/pds/1/201308/12/45/a0237545_23314878.jpg
左端の赤いやつ
とっても特徴的なくびれだと思わないかい?(反語)
これが、特徴的で年代推定に使えるっていうのがすごいよなww このPart410では、魏代の王侯墓の墓制が明らかになり、箸墓は魏代臣下の墓として全く妥当ではないことが明らかになった >>91
>みんな約400mの1里で理解してるだろ<
魏朝内では、みんな約400mの1里と理解していない。
だから陳寿も、会稽東治の東と推定した。
理解だよ理解 。 >>93
>なんで理由もなく「畿内じゃあ無かった」と思い込むの? 知能が低いからかな?<
「南≠東」だから。 >>100
まあ、チャンとした医者の処方した薬を飲まず、
万世一系八紘一宇の皇国史観教の拝み屋呼んで金払うレベルの文化程度なんだよ、
大和説者は。 平原遺跡が3世紀中頃なら、いよいよ卑弥呼の墓だな。
八咫の鏡を作らせたアマテラスは、卑弥呼をモデルとしていたことが確実となる。 >>107
>>会稽東冶の東と理解してる なら、当然畿内じゃなくなるよね。<
>だから、なんで? 理由が言えないの? 「トウゼンダー」が理由のつもり?
マジ、知能ひくいの? こりゃ社会生活大変そうだなー<
大和は、会稽東冶の東にはないから。
しかし、この大和説男、マジ、知能ひくいの?。
こりゃ社会生活大変そうだなー。
大事なことだし、二度言いました >>109
>東南じゃないじゃん<
「東南、陸行五百里、到伊都國」の「東南」は、
(末盧國から)出発時点の出発方向、の説明文言。 >>934
>考古学を無視ですか。
どこの考古学?
もしくは、考古学のどこ?
反論するにしても「根拠付き」で「具体的」に論じてもらわないと意味がない >>112
>それ、伊都国に着かないな <
海岸沿いの道なり道を案内人に案内して貰えば、間違いなく伊都国に着くなあ。 >>921
日本書紀の記述じたいが信用できるかはともかく。
景行天皇の九州巡りみても
周防の国や大分県なんかにも熊襲が居て
九州南部だけに熊襲が居る訳じゃない。
https://stat.ameba.jp/user_images/20160326/00/taishi6764/ab/55/j/o0480048013602070715.jpg
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-2keikoukyuushuu.html
そもそも、倭人伝内でも卑弥呼の登場で
乱そのものは収まってないし。
倭国大乱そのものは邪馬台国だけの問題とも思えない。
投馬国で人口がやたら増えるんで
邪馬台国の一部と見ればいいだけじゃないかと。
国という単語は文中でも明確でないんで
いちいち別個に分けるとは限らない。
(というより、あれ自体が誤記で無いなら…
奴国の2万+投馬国(狭義の邪馬台国)の5万で、
広義の邪馬台国が7万で数値はあう)
たとえば、足立区から東京都に入った際に
ガイドが人口を聞かれたんで東京都の人口を答えてしまったとする。
聞いた相手は、足立区限定のつもりで記録につけてしまうと、
足立区でやたら人口が増えてしまう…投馬国も、このパターンかも知れない。
http://www.tokyoseikatsu.com/town_tokyo/mediatownpic/20170120hogo-001-l.gif
事実、倭国の中に邪馬台国がはいってるんだからね。
“国”とあるから、倭国と邪馬台国は別の地域だ……とはしないだろ? >>938
>平原遺跡が3世紀中頃なら、
平原遺跡で3世紀にかかるとしたら、3号墓・4号墓
特に目立つ副葬品もない小さな方形(隅丸四角?)墓
平原1号墓は、2世紀だよ
平原遺跡には、
5号墓
1号墓・2号墓
3号墓・4号墓
の3世代の造墓活動が累代的に見られる、伊都国有力家系の家族墓地と見られる
墳丘の軸線方向に大柱を立てた跡が、5号墓と1号墓で見られ、吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓の立柱と同じ葬送文化が確認できる
平原1号墓は弥生時代後期(≠終末期)の墓と見るのが相当
また、平原1号墓の大柱の指す向きも太陽信仰とは関係ない >>942
>海岸沿いの道なり道を案内人に案内して貰えば、間違いなく伊都国に着くなあ。
それでいいなら、最初にちょっとだけ出発方向を南方向に水行して、
そのあと、海岸沿いに案内人の案内で東に水行すれば問題なく畿内に着くなww
その理論なら「南≠東だから×」が完全に無効化されることに、
いつになったら気づくんだろう >>943
>投馬国(狭義の邪馬台国)の5万
また新しいトンデモ暴論が出てきたなww
どうして九州説勢は、別の国として書かれているものを重ねて
二重帳簿詐欺をしたがるんだろうか?ww
まあ、そういう無理読みをしないと辻褄が合わないからなんだけどさ
つじつま合わせをしないといけない時点で、どうしようもなく不自然だっていうのを
九州説は無視し続けるんだよなぁ
どうしようもないw >>946
>どうして九州説勢は、別の国として書かれているものを重ねて
>二重帳簿詐欺をしたがるんだろうか?ww
そらぁ帳尻の合わない説だからさ
ww いや、こんな所だと思うけどねぇ
むしろ、当時、まともな人口調査技術なんて
あったのかな?って疑問から…
かなり適当な概算数か
これも誤記なんじゃないかと
記紀ですら人口なんて
載っけてなかったと思うし >>118
>王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。<
「王畿」も「畿内」も、複数以上の支配地を持つ王の領域の中心部の、直接的な支配地を意味するが、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一つの旧小国であり、「畿内」なんて存在しない。
>本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。<
近畿第V様式分布全域を、大和が直接的支配をしていないから、×。
>下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。 対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。<
近畿第V様式は、それに続く庄内が「筑紫が大和に先行」しているから、
筑紫→大和への伝来が強く疑われ、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の近畿銅鐸圏への東征の所産であった可能性が高い。
>夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である<
「南≠東」などに拠って、×である。 >>128
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き詐欺をしたり、
「連投ですがな」なんて、スレ主の連投を肯定する矛盾処置をしたり、
コピペ荒らしの大和説者の投稿を許容したり、
とかく大和説者らや、Yahooや5chは、汚いな。 >>133
こういう、「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説者の「貼り付け」を見るにつけ、
ほんと大和説ってやることが汚いと思い知るよ。 .
.
.
九州説って、どこまで堕ちていくんだろね
.
.
↓ >>943
クマソタケルが小碓尊に最初に襲われたのは、筑紫野で、トドメを刺されたのは肥前川上。 >>898
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので
夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど
周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった ザラコクが追いつくようにすると、デタラメ言ってるのが誰にでも分かるようになるから、Good >>135
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)<
このスレ主も、古墳時代という曖昧な文言で誤魔化しているが、おそらく前方後円墳時代を意図しており、
3世紀半ばは卑弥呼の「冢」の時代であって、前方後円墳の始まりは筑紫の那珂八幡などのであり、
大和の前方後円墳の始まりは石塚などの3世紀末頃。
>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)<
それは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の旧小国群という連合。
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<
逆。九州倭国の「東征毛人五十五國」があった。
>ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>957
>3世紀半ばは卑弥呼の「冢」の時代であって、前方後円墳の始まりは筑紫の那珂八幡などのであり、
>大和の前方後円墳の始まりは石塚などの3世紀末頃。
それはアンタの独自説で
しかも根拠を出せないときてる
一体この世界の、誰が信用してくれる? >>957
>このスレ主も、古墳時代という曖昧な文言で誤魔化しているが、
曖昧だって証拠は? 邪馬台国畿内説 part1
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
1名無しさんの主張2018/12/04(火) 20:27:44.34ID:hg2RPEtG
邪馬台国畿内説は、社会が認めないので、破綻しました、、、
2名無しさんの主張2018/12/10(月) 12:41:06.08ID:SONu7akG
邪馬台国畿内説が破綻したのは、2013年だったな。
社会・世評板は、すぐDat落ちになってすばらしいね >>959
「曖昧」の証拠なんてあるわけないだろ?wwww ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>962
>「曖昧」の証拠なんてあるわけないだろ?wwww
つまり証拠も根拠もなく、主観だけで
「反論した気になった」ってだけだという自白だね? 当時の状況
日本には、魏が帯方郡を攻略したことで、次のターゲットは日本になるんじゃないかという恐れがあった
そのために、中国に既にその場所を知られてた日本の首都・邪馬台国から首都を移す必要があった
その為に新首都として建造されたのが巻向 巻向には近江や濃尾からの土器が大量に流入してるから、旧首都、即ち邪馬台国は、近江か濃尾のどちらか >>135
>纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、<
筑紫からの搬入は0であるし、搬入そのものは、「市」の存在で十分であるし、広域指導者であれば、九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らで十分。
>それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。その死亡時期は3世紀中葉とみられる。<
纏向は庄内3であるから、3世紀末であり、だから、×。
>畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。<
大和には、浸透していないから、×。
>これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。<
出来ない。「南≠東」に拠って×。 >>135
>>2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、
弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、
3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。<
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国に過ぎない。
>自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、
畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
庄内は三雲が3世紀前半で一番早く、当然筑紫の胎土で造られ、
大和の石塚の庄内は、3世紀末である。
>博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。<
筑紫しかあり得ない。 >>140
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説を書けば欠点を突かれ、
九州説を論駁しようとすれば逆襲に負ける。
出来ることはせいぜい嫌がらせか、テンプレの貼り付け。
大和説は哀しいね。
憫 >>144
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き詐欺の大和説は、
学説として終わり、
大和論者は、人としても終わった。 鎮守は古書に書かれてたことを引用しただけで、お前ら並みに当時の状況は把握できてなかったんだよw >>149
まあ「南→東」などの嘘吐き詐欺の大和説など、
マンガ未満だが 。 ここは畿内説スレと見せかけて
誘い込まれてきた九州説をボロクソに論破し
畿内説の威容を誇る罠スレだったのだよ
わははは >>166
>>「即平地徑二十一步,周六十三步」以後の記載は、 「倍正南方」に矛盾するから、<
>何と何が矛盾するの? 合理的な理由もなく恣意的に文献を否定してもダメだよ<
「倍正南方」は、
周地付近での「夏至正午の太陽位置〜天の北極」を直径とする円に、
夏至正午の太陽の位置〜冬至の正午の太陽位置」を直径とする円とを、並べて配置することになるが、
「即平地徑二十一步,周六十三步」以後の記載は、地上に同心円を二つ描く説明をしている事になるから。 >>176
>洛陽の南も北も短里で1千里の地点は山の中
実際には測ってないのは丸わかり
術数学的に記述しただけなんじゃないかね<
これ返答反論済みね。 >>973
邪馬台国は方角で言うと東
けど陳寿はあえて知ってて南と書いたと思うよ >>978
思い込みでね
ある文献には東へ進むって書いてあったけど、別の文献には奴国の南に狗奴国が有ると書いてあったから、意気揚々と改変したんだろうw 邪馬台国ってのは倭国大乱前の倭国の首都で、倭国大乱後は狗奴国の支配下になってたからね やれやれ反論になってない事を反論した気になってるのか >>966
>巻向には近江や濃尾からの土器が大量に流入してるから、旧首都、即ち邪馬台国は、近江か濃尾のどちらか
そこらへんは全て中国と国交を持っていた証拠がない。
本州の大半は倭国ではない。 陳寿が馬鹿だったおかげで元軍は元寇の際に北九州で路頭に迷って、おまけに野分けが来たせいで日本は助かったな >>983
近江のどこやらの遺跡からは五朱銭が出てきてるんだけど ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 氷河期後の温暖化の影響で7000年前に海水面が急上昇した
だから世界各地で見つかってる農業の痕跡は7000年前以降
それ以前の農業適地は海の底へ沈んでしまったからね >>964
主観だけで「反論した気になった」ってだけだという証拠は?www 北米の何とか言う氷河湖が決壊して大量の冷水が海へ流れ込んだせいで海水温度が下がって全世界的に異常気象になったんだっけ? >>976
>「倍正南方」は、
>周地付近での「夏至正午の太陽位置〜天の北極」を直径とする円に、
>夏至正午の太陽の位置〜冬至の正午の太陽位置」を直径とする円とを、並べて配置することになるが、
そんなことは書いてない
円は一つだ
>「即平地徑二十一步,周六十三步」以後の記載は、地上に同心円を二つ描く説明をしている事になるから。
二つ描くとも書いてない
大きい方は整地するだけだ
その中に円を描く 思い込み全開のバカ丸出しのカキコして恥ずかしくないのかねぇ 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 「聖徳太子は実在しなかった!」という話を聞いたことはないだろうか。 陳寿は日本に来たことがないので日本の地理はわからない。
だから、郡使の書いた記述を元に、「その道里は、まさに会稽東冶の東に当たる」と書いたのでしょう。
机上の想像というべきものです。
しかし、当たらずといえども遠からずで、会稽の真東は、屋久島あたりに相当します。仮に、会稽の近くから東に東に船を進ませると、黒潮に流されて九州に到着することになります。 なのに、会稽東冶の東は九州のはるか南という畿内説の主張には疑問を感じます。
都合が悪いことを無視して妄想するのは畿内説のほうでしょう。
さらに言えば、「女王国の東に海を渡ること千里でまた国がある。みな倭種。」というのも九州に当てはまりますが、
畿内説では全く当てはまりません。 さらに、「倭の地を回りめぐれば、五千里余」というのも、九州の島には当てはまりますが、本州には当てはまりません。本州が島だというのがわかったのはずっと後になります。
どうでしょう。魏志倭人伝の多くの記述を意図的に無視して、日本に来たことのない陳寿の想像した地理感だけで頼りに邪馬台国を語る畿内説のほうに多くの矛盾があります。
九州説を非難する前に、畿内説の矛盾のほうに目を向けたほうが生産的かも。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 1時間 47分 16秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。