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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五

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0001日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:31:29.28
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁
0003日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:34:50.01
張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を

間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。

では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。

つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。

「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、

それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。

ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる

はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、

「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。

つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない

ということだ!・・・続く!
0004日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:36:56.77
ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。

さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。

もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、

陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。

従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、

「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。

現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは

上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に

なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。

張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。

2・原文を絶対に修正しないこと。

3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!

参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・
0005日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:38:38.76
『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。

しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。

翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・

残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、

『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。

これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。

そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」

と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。

しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!
0006日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:40:24.16
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
0007日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:41:01.99
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0008日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:41:02.87
えーーー
0009日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:45:45.84
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国
0010日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:47:24.69
北薩の遺跡
「出水地方の弥生時代遺跡は,出水市六月田や高尾野町柴引・下高尾野町一帯に濃密に分布しているが調査が行われたことがない」
http://www.jomon-no-...ikodai_hokusatu.html
0011日本@名無史さん
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2019/01/08(火) 23:49:13.74
末廬国=糸島加布里(千里 壱岐から72km)
奴国 =糸島三雲(百里 泉川から8km)
伊都国=大宰府 (五百里 泉川から38km)
邪馬台国=雲仙 (二千里 泉川から145km)
狗奴国=人吉 ( 境界の尽きる所)
投馬国=大隈半島 (薩摩)
0012日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 01:57:30.10
>>1
サンクス!
0013日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 09:42:20.41
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0014日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 09:44:14.38
>>1
Good job 乙
0015日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 10:31:49.16
伊都国の描写が重大なヒントになってる。
「丗有王 皆統屬女王國」
丗有王の意味するところが、かつては王が居たが今は居ないの意なのか、過去にも王は居たし今も居る、のなのか判然としないが、「皆」という複数形から
「歴代の王は女王国に従属」であったことは間違いない。歴代つまり、女王と伊都国王は上下関係はあれども並立する存在だった。
伊都国王が男王から女王に継承されたわけはなくて、伊都国王と女王は別に存在したんだよ。

そしてその伊都国王は「女王」ではなく女王「國」に従属したんだ。女王国という政体に対して従属したのであって、女王個人を伊都国の王として頂いたということではない。
つまり、ここには女王は居ないし、居たらとんでもなくとんでもなく珍妙なことになる。
千戸ばかりの伊都国に女王が居て、さらに王も居て、複数の官も居るって、どんな統治体制だよw

伊都国は女王国直轄でない、王が居る独立国、ただし、形式上は独立国でも女王国からの官を受け入れている従属国、ということだ。
小邑とはいえ、出入国管理局があったり、一大率本部があったり、重要地ではあっただろうが。

漢委奴国王印の委奴は、倭の奴ではなく委奴=イト=伊都国王であるという異説も、あながち否定できぬかも知れぬ。
0017日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 10:51:44.73
伊都国は距離が合わないし
そもそも魏志倭人伝にそう書いて無いから
完全に破綻してる
0018日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 10:57:31.31
このスレ的には
阿蘇説、雲仙説、熊本平野説、阿久根説
が興味深い

提唱者出てきてバトルやってくれよ
0019日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:09:14.98
そもそも「倭30国による共立女王体制」とは、どのような統治体制だったのかを考慮に入れていない論者が多いな。
表は鬼道、わかりやすく言えば宗教(古代神道)による、まあまあなあなあの連邦統治であり、
陳寿は其のきれいごとをことさら見事にかきあげてみせた。。
だが、当然ウラは最新の武力による支配だったのだから、単純に、現代の日本国の形になぞらえてみても意味はない。
0020日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:13:57.84
女王国はイコール邪馬台国ではなく、中華側から見たらむしろイコール倭国と言っていいほどの範囲なわけだが、倭の圏内には伊都国のような独自の王の存在が許された地域、狗奴国のような女王国敵対勢力も存在するから、陳寿は倭、女王国、邪馬台国と書き分けた。

狗邪韓国を倭に含めるか否か?
弥生期の朝鮮半島における倭人の存在は濃厚であるし、中華視点では倭圏内という認識も、ありえる。
だが、女王国の官が置かれず戸数も知れず、他の史書との比較からも「倭人は居たけど倭国女王卑弥呼の勢力圏外」という、視点によりどちらとも取れる微妙な地域。
0021日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:17:47.72
倭人は帯方郡の東南、大海の中にいる。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時代には、朝見する者がいたが今は交流の可能な国は三十国である。
0022日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:19:07.74
帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。そこまでは七千余里だ。
0023日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:28:14.27
狗邪韓国から海を渡り始めると千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。

土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。
0024日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:33:06.91
また南へ海を渡る事千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、またヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。

三千ばかりの人がいる。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。
0025日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:35:13.53
>>23
>千余戸の家がある

「千余人住んでいる」の可能性がある
0026日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:42:02.96
>>21
対となる原文もあるとわかりやすい。

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

倭人は帯方郡の東南、大海の中にいる。山島に依って国邑を作っている。昔は百余国あり、漢の時代には、朝見する者がいたが今は交流の可能な国は三十国である。
0027日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:44:24.77
>>22
取り敢えず、訳文は22のものを採用しとくんで、訳文に異論があっても、俺は知らん。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。そこまでは七千余里だ。
0028日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:50:07.03
>>23
始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

狗邪韓国から海を渡り始めると千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。

土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。

>>25
魏志倭人伝は他の国も含めて、戸数の表記になってるので、ここだけ人、ここから戸のような読み替えは根拠が必要になる。
昨日燃えてた伊都国も有千餘戸とある。

一戸辺りの人数の計算は根拠資料になりそうなものが無いのでよくわからない。
0029日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:51:58.91
>>24
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

また南へ海を渡る事千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、またヒコウといい、副はヒドボリという。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。

三千ばかりの人がいる。いくらかの田地がある。田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。
0030日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 11:56:43.30
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0031日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:22:42.58
また海を渡る事、千余里。末盧国に至る。四千余人が住んでいる、山と海すれすれに沿って住居がある。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。
0032日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:33:11.72
>>31

よって、末盧国=福津・宗像辺り。  @阿波
0033日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:36:53.17
>>31
山と海すれすれに沿って住居がある。・・・魏使が着いた呼子や名護屋浦付近の風景。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。・・・東松浦半島を通過中の風景。

人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。・・・二丈付近の海岸の風景。

末盧国から伊都国に行く途中で目にした風景ですね。
0034日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:39:18.32
倭の内で「女王国」の範囲に含まれないのが明確になってるのは、今のところ此女王境界所盡より遠方の諸国と、狗奴国。
狗邪韓国を倭に含めるなら、狗邪韓国も女王国には含まれない可能性が高い。
伊都国については、魏志記述時に王を廃して完全に女王国統治下に入っていれば女王国内だし、名目上の王が存在するなら形としては女王国外。

近代のような明確な国境線があるわけでもなし、詳細記載の他の国邑のどこからどこまでが女王国内か、というのは難しい。
全部女王国外とも言えるし、全部女王国内とも言える。

自女王國以北 其戸數道里可得略載

とあるが、「以」を「もって」と訓じることからもわかるように、女王国を以て北、とは女王国も含まれると解釈できるからだ。
A以上、A以下などと表現する場合、その範囲にはAが含まれる。

その場合は、「以北」の境界線は狗奴国と女王国の国境、ということになる。

ただ、(誤用に近いが)Aを含まないとする用例もなくもないから、以北が女王国を除いて北、であると言えなくもない。

「以」の字義を考えると、前者の方が可能性が高い。
0035日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:40:07.49
>>33
>魏使が着いた呼子や名護屋浦付近の風景。

「対馬海流」に流されて、「魏使が着いた呼子や名護屋浦付近」は有り得ない と、何度言えばw  @阿波
0036日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:43:37.79
)>>15
>「丗有王 皆統屬女王國」

前半と後半は別々の文章だろ。
伊都に(女)王がいて、皆統属していた。
0037日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:45:15.18
>>31
又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之

また海を渡る事、千余里。末盧国に至る。山と海すれすれに沿って四千戸余りの住居がある。

草木が盛んに茂り、行く時、前の人が草木に隠されて見えない。人々は魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、水に潜ってこれを取っている。

※人と戸が間違えてたので少し修正した。
0038日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:45:15.09
末盧国から東南に陸上を五百里行くと伊都国に到る。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余人いる。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。
0039日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:47:01.94
>>36
まぁまぁ、  
文章がどうあれ、たびたび中国・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0040日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:49:37.34
>>38
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

末盧国から東南に陸上を五百里行くと伊都国に到る。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。千余戸ある。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。

※ここも人から戸に修正
その他の訳文は38ままなので、悪しからず。
0041日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 12:53:05.17
>>34
・自女王國以北 其戸數道里可得略載

>ただ、(誤用に近いが)Aを含まないとする用例もなくもないから、以北が女王国を除いて北、であると言えなくもない。
>「以」の字義を考えると、前者の方が可能性が高い。

そのような混乱を回避する対策として、陳寿は、
文頭に「自」を付して、女王国が含まれることを明示している。自郡至女王国の自も同様。
0042日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:04:01.31
末廬国から東南へ行くと奴国に至る。そこまでは百里である。官はシバコといい、副はヒドボリという。人口は二万余人。
0043日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:05:12.77
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/09(水) 13:06:18.55
末廬国から東に行けば不弥国に至る。百里である。官はタボといい、副官はヒドボリという。人口は千余人。
0045日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:06:21.25
>>40
郡使往來常所駐

この訳は

帯方郡からの使者が往来し、常に足を止める所である。

これで良いんだろうか?

魏志倭人伝に記載されている限り、帯方郡使が倭国に赴いたのは240年と247年の2回だけ。
使者が常に足を止めるという割には使が来てない。
0046日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:09:10.72
末廬国から南へ行くと、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。人口は、およそ五万余人。
0047日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:12:52.46
末廬国から南へ行くと、邪馬壱(やまい)国に至る。そこが女王の都である。水行十日、陸行一月。

官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。人口およそ七万人。
0048日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:18:17.80
>>46
起点が末廬国なら
投馬国の方が邪馬台国までの道のりより遠いのに先に書いてあるのが不自然

普通なら近い方を先に書くだろ?
と、言う事は
投馬国まで水行20日投馬国から水行10日が
文脈的には正しい読み方じゃね?
0049日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:18:44.27
>>36
>「丗有王皆統屬女王國」
>前半と後半は別々の文章だろ。
>伊都に(女)王がいて、皆統属していた。

相変わらず、イトクズ固有の改ざん解釈だな。

丗に王あり、(其の王たちは)皆、女王國に統屬す、。・・・となる。
0051日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:39:37.24
>>48
伊都国も奴国よりも遠いが先に書いてある所を見ると文脈的には問題ないかと
投馬国から水行10日と読むと九州の外に出てしまう
0052日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:41:52.90
>>48
先に書いてある伊都国は奴国よりも不弥国よりも遠いよ
0053日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:43:58.80
>>51
>>52
なら一番先に一番遠い投馬国から
書けばよいだろ?
起点が間違ってるんじゃね?
0054日本@名無史さん
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2019/01/09(水) 13:48:17.61
>>53
いや、起点は末廬国で良いと思う
先に陸行で行ける所を書いて、水行で行ける所を後にしただけかと
0055日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/09(水) 13:51:28.24
>>45
郡使が駐留したのはこの時一回だけだろ。

往来駐留するのは、丗有王皆統屬女王國 だよ。
だから、首都だってことになるんでしょ?

丗有王 じゃ、伊都は 世 じゃない訳で
だからなんだよ? って文章になっちゃうw
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