【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 >>132
邪馬壹國は240年に印綬で王宮迄行軍した建中校尉梯儁の命名。
この時女王国の国勢として、列記21王国を参問し、総戸数7万戸と報告した。
和名の所属国21国に、漢字を当てたのも梯儁以外にない。
この一国、邪馬国に、女王の王宮、臺が有った。
これを、筑紫21王国連邦の総称、邪馬台国とした。
ちなみに、梯儁命名の
奴国の王は
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
は 比定可能。 >>140
陸行一月だとどんなにゆっくりと進んでも九州から関西くらいまでは着くな
当時九州から関西までの道なんて存在してないだろうし
船で近くの海岸まで行って最後の1日くらいを歩いて目的地まで行くのが合理的だよな。 >>140
陸行一月が2千里で対馬海峡の三分の二。
九州上陸後、筑紫平野の南麓を越えない。
この南限に女王宮が有った。
という、報告が倭人伝。 >>140
佐賀から熊本は湿地帯でクリークが多かったようだから、一月かかってもおかしくないのではないかな?
クリークには橋はないから上流に回っては浅瀬を進まないといけないから。 >>133
佐世保にも松浦があるし
まんざら間違いでもないと思うが >>143、>>144
お前完全に頭逝かれてるぞw >>145
魏志倭人伝の記述によると末廬国は東松浦半島から糸島市西部
西の端が佐世保付近まで有ったか無かったは分からないな。 松浦(まつら)から、松浦ー釜山間の2/3にあたる二千里といえば、
どう見ても、筑肥山地を超えた熊本平野だな、
コリャどうしようもない事実、
東京帝国大学の白鳥庫吉博士も、すでに明治のころから指摘していたこと。 水行一日が千里で、陸行一月が2千里で
気が狂ってるなw >>140
>そもそも日本には陸行一月かかる土地がない。
「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 途中の河川は川船で渡河
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 だと、何度言えばw @阿波 >>145
佐世保を良しとしても
伊都国を塩田に比定してる
回りにそれらしい遺跡は無さそうだし
距離と方角だけで読んだらこうなりました
と言う例題的な比定地だと思うよ >>145
張氏の読み方?
佐世保は考古立証的には、
邪馬台国=女王属国ではないのではないかな?
女王属国は、西の唐津は微妙、
東の宗像、飯塚、田川は外。
南、日田、大牟田は微妙なのではないかな?
張氏の読み方は結局
意味不明の直列読みで逝っちゃってるでしょ?
投馬国は半島南岸倭人国
これを、言うと韓国ガァガァなだけ。
今日ビは、5ちゃんの中学生でも
BC200以前から青銅移入で存在した半島南岸倭国の存在を理解している。
張氏の読み方? じゃ 現代人には無理じゃないかな?
日本は、友好国、239年公孫氏滅亡や246韓王朝滅亡を見て
魏と結んだ九州邪馬台国を一大卒による統制下にして
高句麗戦で牛馬や鉄の国内生産を為し350年の百済、新羅の建国を支援した。 >>149
>水行一日が千里で、陸行一月が2千里で
水行一日は千里が、当時の中国の相場がそれだったのよ。
もっとも、陸行は道なき道を行くのだから、実際の日数はみちによりてんでばらばら、
倭人伝に、2千里を一月と書いてあるのだから、それもやむをえまい >>139
>>>131
>張氏の読み方なんて糞じゃんw
>お前頭悪いなwww
じゃあ、糞じゃない読み方は誰のやつ?
まさか、あなたのオリジナル? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>153
塩田は音読みでイェンティェ
伊都はイィトゥ
さほど遠くも無いかと 末盧国からは、邪馬台国のいくつかの友好国を通て女王の都へ到る古道を示しているわけだ。。
古道を行かず、直接に卑弥呼の都へ行くだけなら、もっと便利な水行の道もあったであろう。が、それは別問題。 >>155
対馬海峡は千里×3回であっても水行十日だが?
里程と日程が同列で繋がらないということは理解できるかな? >>158
ほーほー
末廬国=佐世保松浦
伊都国=塩田
で、潜木は本当に奴国??w >>155
>水行一日は千里が、当時の中国の相場がそれだったのよ。
ソースは?
>倭人伝に、2千里を一月と書いてあるのだから、それもやむをえまい
何処に? >>154
アンタ、張氏の本読んだことなくて書いてるだろ >>161
>対馬海峡は千里×3回であっても水行十日だが?
水行10日の起点は帯方郡の港。
帯方郡から狗邪韓国まで7000里それに3海峡を3日で3千里、合計して1万里を水行10日の中国式勘定だよ。 >>164
佐世保は水銀の鉱山があったらしいんだよね。「其山有丹」には有利なんだけどなぁ。 >>159
末盧国は邪馬台国21王国の中に無い。
邪馬台国を構成する王の有る21国の中の
いずれかの国に所属する港町なのではないかな? >>165
それで残り2000里を陸にしたのかw
幾ら何でも2000里を1月は無理筋だなwww
アホwww >>167
「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」
ですから違います。 >>164
張氏の倭人伝解釈の間違いは明白だが?
君がアタシの倭人伝解釈の何を否定し何を聞きたいのか? 高校の漢文の教科書を一からやり直して
まずは漢文を読めるようにしろよ、痴呆老人共 >>172
張氏によると漢文で読むからダメみたいだぞ。
中国語で読まないと。 >>170
張さんは解釈とか読解に進む前に
まずは普通に読む事から始めましょう
と言うスタンスだろ >>168
ほう、なか察しが良いではないか。
此の松浦(まつら・唐津)から熊本市まで、中世九州路の駅家は20余有る、1日1駅として20日かかった計算だ。
倭人伝のも、けっこう適切な日数であろう。 >>161
対馬海峡は水行3日。
半島沿岸七千里で7日消費している。
帯方郡から九州の北岸まで一万里、日数なら10日。 >>177
>1日1駅として20日かかった計算だ。
1日に10駅分くらいは進んだんだよ。 古代の陸行は食料調達に雨宿り
野宿や宿泊先での滞在時間も含めて
1日平均5キロ程度進めば上々だろ
5×30=150キロ
ちょうど二千里だ 畿内説に限界を感じてお邪魔しに来ました
良スレですね、しばらくロムりますが、よろしくお願いします >>166
佐世保はマッチョ海人もいるし
21国の比定地が長崎、佐賀が多い 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊佐早国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は長崎県長崎市(または長崎県西彼杵郡)または嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は高来郡(長崎県雲仙市)
7番 不呼国は須古(佐賀県杵島郡白石町)
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の広川か高良台、室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市(旧怡土郡)、奴国 福岡市(那の津)→あわせて邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/lo1K3BJ.jpg 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 九州着いてから陸沿いに船で行くと熊本より佐賀の方が遠くなると思うんだけど
熊本→邪馬台国 佐賀→投馬国って無いかな?熊本まで10日だと宮崎まで20日で行けると思えないんだよね
素人考えなんだけど >>187
熊本は狗奴国で、男王卑弥弓呼素がいたんじゃないかな?
定説通りの吉野ケ里を邪馬台国と比定した場合、南に位置し、争っていた位置関係的にも無難でもある。
3世紀後半から4世紀にかけて、どうせ熊襲側が女王国を駆逐してるんだし、わざわざ負け組にならなくてもいいよ。 張氏の読み方を踏襲しながら
周辺遺跡を考慮して比定地を探すと
以下の地域が浮上する
雲仙、熊本平野、川内平野、延岡、日向 女王国の南に侏儒国がある。人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その(女王国の)東南にある。船で一年行くと着く。 >>190
侏儒国を種子島に比定すると
四千余里南に該当するのは
雲仙、熊本、延岡、日向に絞られるぞ >>192
つうか、雲仙、延岡が五千余里になってしまう
日向はギリかな
熊本平野はほぼ一致する
熊本かなぁ... >>187
陸行一月は陸行一日の誤記ですよ
陸行一月だとゆっくりと進んでも鹿児島まで往復してしまう。 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。
又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。
女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東
部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。 大陸本土内では日陰長測量も可能であっただろうし、船に指南魚のようなものが装備されていれば、九州上陸までの方位は測定可能だ。
しかし、海路においては距離は測れないし、実際に各島間の距離比率は魏志の記述と現実は相違している。
九州上陸以降は信頼に足る測量が不可能なのは明らかで、距離方位記載は鵜呑みにしない、が「正しい読み方」。
信頼に足るのは、不弥国から倭船に乗った、水行20日、水行10日陸行1月の情報のみ。
当時のエリートたる魏使が日数を数え間違えるのは、まずあり得ない。 不弥国は那珂川町、春日市付近
不弥国から倭船には乗れない。 松浦(まつら)から二千里といえば、松浦ー釜山間の2/3の距離にあたる
その距離を、東南〜南へ下るのだから、どう見ても筑肥山地を超えた熊本平野だ、
すでに明治のころから、東京帝国大学の白鳥庫吉博士が指摘していたことである。
それを、南は東の間違いだーーー、と強引に捻じ曲げたのが京都帝国大学の内藤湖南。
自らの名の南も捻じ曲げたあげく、100年たってみると、箸墓説が吹き飛んで、京都学閥も吹き飛んだ。
結局、その時々の論敵を大声でやっつけて、気分爽快になればよかっただけのことだったのだろう。あはれ也。 てか白鳥東大閥もないけどな
もう東大は邪馬台国とかやっとらん
結論の出ないことは学者の業績にはならんから >>194
一月と一日は間違えようが無い
「30と1」
間違えない
絶対間違えないw このスレ的には、倭の国々は「連続読み説」と「放射読み説」とどっちが優勢なんだ? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 特に修正を加えなくても
行ける場合があるのに、修正だらけの場所は
信用出来ないな >>201
内容的には末廬国を起点とした説の方が
説得力がある >>192
日向の場合は
末廬をどこに比定するの? 鐘崎に比定すると東南に伊都国らしき都市はあるかな?奴国は?
つうか、日向までの距離が全く合わない
鐘崎→日向 280km000里=約150kmだから日向は消えるな
残りは熊本と雲仙 >>201
どっちが優勢なのかはわからんねぇ
てか、邪馬台国の場所自体がカオスな状態だしw
ただ畿内ではなく、九州北部のどこかであるとは思う。 >>208
>ただ畿内ではなく、九州北部のどこかであるとは思う。
それは無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。 @阿波 >>208
北部は破綻したと何度言えば...
最有力地 熊本平野、
他の候補地、南島原市、雲仙市、天草
もう、これだけだ 実際七万の規模を抱えられる遺跡は畿内を除けば吉野ヶ里遺跡ぐらいしかないけどな。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>209
橘も楠も四国以外にもあった。
無論九州もな。
楠に至っては、九州のがメジャー。
丹も大分、熊本、徳島、奈良で採れる。
全部ウィキペディアレベルでわかる まさか四国君に答えを導かれるとは
思わなかったわ
邪馬台国は
雲仙、島原でほぼ確定
恐らく公式に見つかるのは50年以上先になると思うが
遂に見つけたな、みんなありがとう!
次スレ
【邪馬台国5chで遂に発見される】邪馬壱 >>214
>橘も楠も四国以外にもあった。
>無論九州もな。
北部九州は無理 と、何度言えばw @阿波 >>215
>島原と雲仙にはある
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
で、島原が女王国なのかな? それとも雲仙が女王国なのかな?
そして、東へ千里いったところの倭種の地が熊本市あたりになるのかな? これでいいの? @阿波
雲仙島原説に待った!
女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。
「女王の東」だから雲仙にも熊本にも東に海はある、むしろ雲仙から有明海を渡れば千里進まなくても国はある、と言う事は国と言うのは本州、四国の事をさしてるわけで、延岡、日向も
浮上せざるを得なくなる >>220
いや、やはり雲仙界隈だと思う
雲仙から熊本まで約65km
雲仙市の隣の諫早市から熊本までは84kmここは正に千余里だね
そして境界の尽きる所に人吉(狗奴国がある
さらに南に薩摩(投馬国
完璧...だと思うんだが >>222
南島原半島の東側先端から熊本まで千里あるよ >>200
日を月に見間違えたんだよ
一日なんて短いから一月のことだって決めつけた奴がいたんだ。 >>201
里行程と日行程の部分をそれぞれ連続読して
里行程と日行程は同じ行程を距離と時間で説明したとする
並列読みが正しい
里行程も日行程も帯方郡から女王国までの説明。
>>210
熊本市民として一言
熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
卑弥呼の都は糸島市東部である。
>>214
こみかん、温州みかん、デコポン・・・日本で柑橘類は全て肥後発祥 【倭人伝、行程の文法について】
帯方郡から歴韓国で乍南乍東し 循海岸水行(が終わり) 『到』 狗邪韓國
(『到』以降の起点として、『始度』)
『始度』一海千餘里 至 對海國
又 南渡一海千餘里 『至』 一大國
又 渡一海 千餘里 『至』 末盧國
東南 陸行五百里 『到』 伊都國(『到』は一連の行程の終わりを意味する)
(ここまでは、動詞、距離、至、地名の語順で直列行程)
東南 『至』 奴国 百里
(動詞無し、紹介しただけ、行っていない。後出国勢と重複し2回出てくる)
東行 『至』 不彌國 百里
(動詞、至、地名、距離の語順。247年張政の行程が『到』で終った後の紹介)
次の2文は 動詞と距離 が 地名 の後。前文の行程とは繋がらない。
>>3 張先生の言う“行くならば”です。これは240年卑弥呼印綬の際の梯儁の行程。
南『至』 投馬國 水行二十日
(至、地名、動詞、距離 全文の行程外の紹介。地理解説である。)
南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
(至、地名、動詞、距離 前行程外の紹介。行程であれば終点『到』であるべき)
投馬國は、倭へ向う為の馬韓の向こうの倭人国であり、起点は当然、帯方郡。
この文は、陳寿の説明 >自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
以降、さらに続く
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
女王之所都によって邪馬壹國と命名した女王国は、国勢として、所属国は21国で7万戸
南『至』 投馬國 水行二十日 と 南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、里程で示すならば、 自郡至女王國 萬二千餘里 である。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>225
>熊本市民として一言
>熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
例の、なりすまし熊本市民だろう >>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
あり得ないかな、糸島東部(三雲)は奴国だね
伊都国(大宰府)は古都
卑弥呼がいたのは南島原市の可能性が高い >>220
水行十日陸行一月を足さない説を採用すると
延岡、日向は末廬国の比定が出来ない
末廬国の比定地が決まらないと伊都国、奴国も比定出来ないんだよ 水行陸行を足したり
一月を一日にしたりすると一気に胡散臭くなる >>231
水行と陸行を並列にすると、行程の信頼性が、ここで一気に崩れる。
その中途半端さの印象は、全文に及ぶから、
格式を重んずる王朝文書としては、全くあり得ない。 >>233
俺も、福岡・熊本にはいささかのゆかりがある。 ま、畿内説崩壊で都落ちして九州に来ても、居場所は糸島のイか福岡ナあたりだわな、
さもなくば、熊本にくだって熊本狗奴国説を唱えるか、
椎葉・五木辺りを通って南に逃げ延びて、球磨地方で世を忍ぶか・・・、末路はそんなところ >>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
東に海がない。 即アウト! @阿波 >>229
21国を時計まわりにそれっぽい順で比定されてる
レスをどっかで見かけたな >>238
糸島説は信じていないが東に海はあるわ
女王國東渡海千餘里
「東にある海を渡って千より」もしくは
「東に海を千より」
だから比定地にが島原半島だとしたら有明海
比定地が糸島だとしたら真ん前の海を東に行くか本州と九州の間の海を渡るか、しかない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています