【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 >>208
北部は破綻したと何度言えば...
最有力地 熊本平野、
他の候補地、南島原市、雲仙市、天草
もう、これだけだ 実際七万の規模を抱えられる遺跡は畿内を除けば吉野ヶ里遺跡ぐらいしかないけどな。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>209
橘も楠も四国以外にもあった。
無論九州もな。
楠に至っては、九州のがメジャー。
丹も大分、熊本、徳島、奈良で採れる。
全部ウィキペディアレベルでわかる まさか四国君に答えを導かれるとは
思わなかったわ
邪馬台国は
雲仙、島原でほぼ確定
恐らく公式に見つかるのは50年以上先になると思うが
遂に見つけたな、みんなありがとう!
次スレ
【邪馬台国5chで遂に発見される】邪馬壱 >>214
>橘も楠も四国以外にもあった。
>無論九州もな。
北部九州は無理 と、何度言えばw @阿波 >>215
>島原と雲仙にはある
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
で、島原が女王国なのかな? それとも雲仙が女王国なのかな?
そして、東へ千里いったところの倭種の地が熊本市あたりになるのかな? これでいいの? @阿波
雲仙島原説に待った!
女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。
「女王の東」だから雲仙にも熊本にも東に海はある、むしろ雲仙から有明海を渡れば千里進まなくても国はある、と言う事は国と言うのは本州、四国の事をさしてるわけで、延岡、日向も
浮上せざるを得なくなる >>220
いや、やはり雲仙界隈だと思う
雲仙から熊本まで約65km
雲仙市の隣の諫早市から熊本までは84kmここは正に千余里だね
そして境界の尽きる所に人吉(狗奴国がある
さらに南に薩摩(投馬国
完璧...だと思うんだが >>222
南島原半島の東側先端から熊本まで千里あるよ >>200
日を月に見間違えたんだよ
一日なんて短いから一月のことだって決めつけた奴がいたんだ。 >>201
里行程と日行程の部分をそれぞれ連続読して
里行程と日行程は同じ行程を距離と時間で説明したとする
並列読みが正しい
里行程も日行程も帯方郡から女王国までの説明。
>>210
熊本市民として一言
熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
卑弥呼の都は糸島市東部である。
>>214
こみかん、温州みかん、デコポン・・・日本で柑橘類は全て肥後発祥 【倭人伝、行程の文法について】
帯方郡から歴韓国で乍南乍東し 循海岸水行(が終わり) 『到』 狗邪韓國
(『到』以降の起点として、『始度』)
『始度』一海千餘里 至 對海國
又 南渡一海千餘里 『至』 一大國
又 渡一海 千餘里 『至』 末盧國
東南 陸行五百里 『到』 伊都國(『到』は一連の行程の終わりを意味する)
(ここまでは、動詞、距離、至、地名の語順で直列行程)
東南 『至』 奴国 百里
(動詞無し、紹介しただけ、行っていない。後出国勢と重複し2回出てくる)
東行 『至』 不彌國 百里
(動詞、至、地名、距離の語順。247年張政の行程が『到』で終った後の紹介)
次の2文は 動詞と距離 が 地名 の後。前文の行程とは繋がらない。
>>3 張先生の言う“行くならば”です。これは240年卑弥呼印綬の際の梯儁の行程。
南『至』 投馬國 水行二十日
(至、地名、動詞、距離 全文の行程外の紹介。地理解説である。)
南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
(至、地名、動詞、距離 前行程外の紹介。行程であれば終点『到』であるべき)
投馬國は、倭へ向う為の馬韓の向こうの倭人国であり、起点は当然、帯方郡。
この文は、陳寿の説明 >自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
以降、さらに続く
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
女王之所都によって邪馬壹國と命名した女王国は、国勢として、所属国は21国で7万戸
南『至』 投馬國 水行二十日 と 南『至』 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、里程で示すならば、 自郡至女王國 萬二千餘里 である。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>225
>熊本市民として一言
>熊本平野は邪馬壹國の一部ではあるが傍國のどれかであり
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
例の、なりすまし熊本市民だろう >>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
あり得ないかな、糸島東部(三雲)は奴国だね
伊都国(大宰府)は古都
卑弥呼がいたのは南島原市の可能性が高い >>220
水行十日陸行一月を足さない説を採用すると
延岡、日向は末廬国の比定が出来ない
末廬国の比定地が決まらないと伊都国、奴国も比定出来ないんだよ 水行陸行を足したり
一月を一日にしたりすると一気に胡散臭くなる >>231
水行と陸行を並列にすると、行程の信頼性が、ここで一気に崩れる。
その中途半端さの印象は、全文に及ぶから、
格式を重んずる王朝文書としては、全くあり得ない。 >>233
俺も、福岡・熊本にはいささかのゆかりがある。 ま、畿内説崩壊で都落ちして九州に来ても、居場所は糸島のイか福岡ナあたりだわな、
さもなくば、熊本にくだって熊本狗奴国説を唱えるか、
椎葉・五木辺りを通って南に逃げ延びて、球磨地方で世を忍ぶか・・・、末路はそんなところ >>225
>卑弥呼の都は糸島市東部である。
東に海がない。 即アウト! @阿波 >>229
21国を時計まわりにそれっぽい順で比定されてる
レスをどっかで見かけたな >>238
糸島説は信じていないが東に海はあるわ
女王國東渡海千餘里
「東にある海を渡って千より」もしくは
「東に海を千より」
だから比定地にが島原半島だとしたら有明海
比定地が糸島だとしたら真ん前の海を東に行くか本州と九州の間の海を渡るか、しかない >>240
女王国の東だからな?
邪馬台国のすぐ東が海である必要はないんだぜ?
21国の領域の東が海であれば、その文章は成立する。 >>240
>糸島説は信じていないが東に海はあるわ
渡海千里に当てはまる海は無い。
>だから比定地にが島原半島だとしたら有明海
それだと、島原半島が女王国で、倭種の国が熊本市辺りとなるが???
>比定地が糸島だとしたら真ん前の海を東に行くか
真ん前の海を渡った所が倭種の国となるが???
>本州と九州の間の海を渡るか、しかない
関門海峡? 弥生時代にそりゃ、無理。 @阿波 >>241
>21国の領域の東が海であれば、その文章は成立する。
畿内説とおなじ言い訳w やれやれ・・・ @阿波 女王國東渡海千餘里 って? 倭人伝って、そんなこまっかい話じゃないでしょ?
後漢書で、400年までに、倭の五王に征服されてるって知って、
戦争してたはずの、狗奴国が東の倭種になった訳だけど、
本州四国が東国だけど、瀬戸内海なんて知らないし
女王国は福岡、筑紫平野であって、張先生以降とは思うが
九州東岸は考古物証的には、非女王国だった可能性が高くないかな?
有明海なんて、2回しか来てない魏使はどっちも見てないと思うぞ?
247年の末蘆国は糸島半島北岸で、南東5百里の伊都は早良付近。
240年の上陸地は、糸島東岸より奥の博多湾で、女王宮直行で伊都には拘束されてない。
卑弥呼に印綬の皇帝の使者を一大卒が検閲したら、
建中校尉梯儁は 魏軍将校で、魏の軍船で来てんだから、意地でも戦争始まるだろw
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
は、247年、倭人船に便乗して来た、査察官の塞曹掾史張政の時だけの話だね。
魏志倭人伝は、大雑把にw 正しく読もう。 >>244
>魏志倭人伝は、大雑把にw 正しく読もう。
それ、トンデモ説の常套句。 @阿波 >>243
書いてる文面を、そのまま一切歪曲してないのに絡むなや >>246
>書いてる文面を、そのまま一切歪曲してないのに絡むなや
だから、畿内説と同程度のトンデモ説と言ってるんだよ。 やれやれ・・・ @阿波 >>245
常套句だったのかorz
初出かと思ったのに・・・
四国説のトンデモっぷり、おそるべし。 >>249
>文献的にはあなたの方が正解と思うよ
畿内説信者ですか? その気持ち分かりますw @阿波 「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
まじ、これに該当する地域は、宮崎か倭国(阿波)だけだね。 @阿波 >>242
東に海はある
これがすべて
九州と本州は陸続きだと思ってんの?w >>251
熊本と島原
宮崎は起点と距離がどうしても合わない
四国は問題外 >>253
四国の奴は言い張るだけだから
無視しとけよw @阿波のコンピューターは馬具ってるから議論しても無駄だよ。 >>250
またか? なにガキみたいに意味不明なこと言ってんだよ?
邪馬台国が21国で構成される、って話は、アタシは持論以外で初めて見たよ。
アタシは倭人伝本文以外の所説は、
アラシの京大キッドちゃんにも勉強不足と言われるほど
ほぼ九州説も知らんけど、21国が邪馬台国構成ってこと、を読めれば、九州説だろ?
阿波や土器厨以外の アラシでない皆さま、
文法という概念、張先生や、スレの皆様のおかげで持論は確信です。
ありがとうございました。 「海を渡って千余里行く」か「千余里の距離を渡る」とで意味は変わってくる >>257
「千余里の距離を航海する」
と言う意味
後者だと思う どっちにせよ女王国の先が里で記されているのだから
女王国までも里で着いてるってこった。 >>244
倭人伝中、景初2年6月以降に書かれている記事内容、例えば、240年や247年の見聞記事だが、
この時の知見が、それ以前に書かれた記事まで、さかのぼって適用されることはない。
つまり歴史書は歴史を記載しているのであるから、書かれた行の内容は、その行以降に適用されるものであり、
過去、つまりそれ以前の行に記載された内容にまでさかのぼって、適用されることはない。
(これ不遡及といって、初歩の初歩) 阿波って、文盲トンデモ説だって自己紹介してるようなもんだぞ? >>261
@阿波をNGワード登録してデータ再取得マジオススメ >>252
>九州と本州は陸続きだと思ってんの?w
渡海千里に当てはまる海は無い と、何度言えばw @阿波 『女王国東渡海 千余里』
北部九州邪馬台国から東に海を渡って、千余里進むと、 >>265
>渡海する事千余里だろ
まじ、これに該当する地域は、宮崎か倭国(阿波)だけだね。 @阿波 「あいだに入って協力する」「上手くいくように協力する」などは全部詐欺
ある日突然、就職・昇進・恋愛などであいだに入って協力するという親切な人が登場し、
時には親身に話を聞いたり、時には盛り上がって一緒に酒を飲み、おごってくれたりもします。
警察官や公務員のケースもあります。
しかし、実際には何も協力などせず、勝手にその人の人生が上手くいくのを待っているだけです。
そして、ターゲットが自力で人生を切り開いた時から、本格的な詐欺が始まります。
あいだに入って協力したとして、「御礼」を要求されるのです。
不法行為に協力させられると、泥沼にはまって経費流用や情報漏洩も要求されます。
上手くいかない時には、適当な人物の名前をあげ、○○が政治的な動きをしたから駄目になった、
○○がいなければ上手くいったのに、あいつのせいだと言い逃れをするのも特徴です。
皆さんも、詐欺にだまされないよう気を付けて! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 女王国東
東の女王国だね、東側の女王国、つまり女王国の支配域の東海岸から渡海する事千里
だからそこに卑弥呼がいなくても問題無い >>252
陸続きではないが、仮に関門海峡を渡るとなると幅700mほどしかない。
つまり短里だと余十里ってレベル。
魏志倭人伝風に書くと
自門司北西渡海 余十里 至壇之浦古戦場
門司から北西に十里渡海すると壇之浦に至る。古の戦場である。
まあだから何?ってはなしで、千里といっても意外と70kmしかなくて、九州東岸から、本州、四国へはいくらでもルートがある。 張氏の読み方で導きだそうとしてる人に聞きたいのだが
末廬国に鐘崎を比定すると
別府か大分辺りも美味しそうに見えんか? >>270
>東の女王国だね、東側の女王国、つまり女王国の支配域の東海岸から渡海する事千里
畿内説信者ですか? その気持ち分かりますw @阿波 >>273
俺もそこは美味しそうに見えるが
奴国と伊都国に該当しそうな場所を見つけなくてはいけないのだよ >>274
九州の範囲内だけの小さなエリアだよ
伊都から東海岸中部まで女王国の領域
なんの問題も無い >>276
じゃあ、畿内説と同レベルのトンデモ説ということだね。 やはりトンデモ同士は・・・ @阿波 >>273
大分はなんかありそう
「王いた」って言うぐらいだし... >>278
ここ最近のレスのうちでは、まことに上出来、座布団十枚!!
なかなか話題には上らぬが、大分市中心部には、古国府という地名がある。
大和朝廷が開いた国府の更にその前から、ここに古い国衙があったのではないか。
それから、前にも紹介したが、
豊後の中津の三保には、彌奴国王の国衙だったとみられる円形4重大環濠の遺構が認められる。
其の径30余里の超巨大国衙であったと思われ、日本神話の豊葦原中つ国とは、ここのことだったのではないか。 今、気付いたが糸島泉川河口から東南500里に
吉野ヶ里がある、伊都国は大宰府かと思ってたが吉野ヶ里もありだね オラが町
どの町にも掘りまくれば弥生遺跡の一つはあるだろう。
どの町にも神社の一つくらいあって、基本的には天照大御神のお札が置いてある。
あれ?
この弥生遺跡はオラが町で一番大きい。
あれ?
オラが町に天照大御神がいたのか。
この遺跡が奴国。
この神社が卑弥呼の宮殿跡。
こういう仕掛けである。 >>280
島原説に拍車がかかったな
これに大分説がどう絡んで来るか見物 >>279 の続き
倭人伝の遠絶傍国の5番目・中津の彌奴国に続いては、6番・好古都国がある。
好古都国は、大分市中心部の古国府に相当するのではないか。
好古都が訛って、古国府の呼び名になったように思われる。、 中津は末廬国から真東だよ
厳しい...かなり厳しい 大分説で考えるとすれば
俺なら古国府を邪馬台国に比定するわ
距離が糸島辺りから2000里ぐらいじゃね? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>291
>伊都説です
これといった根拠・物証も無いのに、よく頑張れるね。 ある意味感心するよ。 @阿波 吉野ヶ里
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。
[2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。
伊都国の津と言うのはこれか >>270
邪馬台国と女王国と書くように、
女王国は、高千穂で、祭祀をして、
九州北部の豪族が、安の河原にきて、
相談。日向市は、邪馬台国の北側入口。
西都原が、邪馬台国のいわば、人口最大地域。
日向市から東に70キロで、四国。
日向から高千穂にむけての
五ヶ瀬川沿いは、鉱山の宝庫。
丹土も有名。
景行天皇は、日向髪長大田根を妃としている。
応神天皇は、日向泉長媛を妃としている。
仁徳天皇については、日向国諸県君牛諸井の
娘髪長媛(かみながひめ)を妃としている。
日向系の妃が、4〜5世紀頃に、日向系と大和国家の大王との間に、交流があった。
日向市には、大王谷と呼ばれる地域もある。 景行天皇は九州中に妃がいただろ。
子女の数が80人とか。
記紀を編纂した頃にはもう半分くらいしかわからんと編者が匙を投げたw マジな話をすると、山幸彦(伊都高祖宮の祭神ヒコホホデミ)の末裔である天孫族が筑紫日向を捨てて東征して卑弥呼が筑紫で即位しても、喧嘩別れして追い出された海幸彦の末裔が日向国都万(投馬国)にいたから、畿内政権としては日向国と組むのは当然なんだよ。
でも景行天皇は筑紫の女王神夏磯姫とも共闘している。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて現れて、景行天皇をまんまと使って自分の政敵を倒した。
この時の敵の中に、耳垂などの旧邪馬台国の官が含まれているんだよ。 >>292
結構古参なので、阿波さんは頑張ってるな、と感心してますよ〜
四国は重要な地域とも思います。
始めはありえないと思ってましたが、伊都説は自分なりに行き着いた、現段階の押しですね
卑弥呼前夜が重要と思っているので、考古学的にも素直に解釈できるし、
紀記等にも絡めると面白いので >>297
魏志倭人伝では、
投馬国の南に邪馬台国があるが、
その解釈では、投馬国の北側に邪馬台国がある
ことにはならないのかな? 大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる。 帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県都万)までは水行20日 日本に国名を変えて半島南岸を放棄したのにね。
1400年ぶりの悪夢か。 ちなみに神武の息子たちの名も〜耳とあり、当時の王族の称号でもあったようだ。
ミだけの用法もあり、大山祇(おおやまつみ)と綿津見(わだつみ)も語源は同じだろう。
※大国主(すべての陸を支配する王)と天照(海を照らす王)との対比も面白い。
※海幸山幸も同じセットの名称だ。 >>300
投馬国の官と副官である彌彌(みみ)
と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
魏志倭人伝で書かれた5万戸などは、
食邑体制をあらわしているから、官、副官は、
一族で、
特権継承できるんだよな?
ならば、中津が投馬国としたら、
日向、西都が邪馬台国でよくないかい? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 大山祇が出たついでにその子孫の紹介をしよう。
娘は、天照の孫で筑紫の日向で倭王に即位した邇邇芸の妃となった木花咲耶姫だ。
息子は溝杭耳といい、名前からして筑紫の王族なのだが、愛媛の三島神社に祭られている。
大阪でも三島神社に祭られている。
京都では賀茂神社、奈良では登美に祭られている。
瀬戸内を拠点に関西方面を開拓した張本人だが、そこに天照の孫の饒速日がやって来る。
三島溝杭耳の孫のナガスネ彦は妹を饒速日に娶らせている。
そこにさらに筑紫から神武が来て、ナガスネ彦は怒る訳だ。
「なぜ次々に天神の子がやって来て人の土地を取るのか」
饒速日と神武は同族であることを互いに確認すると、従わなかったナガスネ彦を排除してしまう。
その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となり、2代目の天皇が生まれる。 >>304
景行天皇は日向国を命名するのだが、いかにも新規開拓という感じなんだよね。
むしろ本拠地は豊前に定めている。
また共闘した神夏磯姫は筑紫にいた。
あくまでも記紀は九州北部を舞台にしているんだ。
日向国の存在感は邪馬台国には程遠いなあ。 >>305
生で口に入れるからじゃない?
当時、羊や豚や鶏は生で食べるのは危険だし
牛は農耕用、馬は騎乗が主だろうし
膾に入れた肉は人肉の可能性が最も高いんだよねえ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています