【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 今、気付いたが糸島泉川河口から東南500里に
吉野ヶ里がある、伊都国は大宰府かと思ってたが吉野ヶ里もありだね オラが町
どの町にも掘りまくれば弥生遺跡の一つはあるだろう。
どの町にも神社の一つくらいあって、基本的には天照大御神のお札が置いてある。
あれ?
この弥生遺跡はオラが町で一番大きい。
あれ?
オラが町に天照大御神がいたのか。
この遺跡が奴国。
この神社が卑弥呼の宮殿跡。
こういう仕掛けである。 >>280
島原説に拍車がかかったな
これに大分説がどう絡んで来るか見物 >>279 の続き
倭人伝の遠絶傍国の5番目・中津の彌奴国に続いては、6番・好古都国がある。
好古都国は、大分市中心部の古国府に相当するのではないか。
好古都が訛って、古国府の呼び名になったように思われる。、 中津は末廬国から真東だよ
厳しい...かなり厳しい 大分説で考えるとすれば
俺なら古国府を邪馬台国に比定するわ
距離が糸島辺りから2000里ぐらいじゃね? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>291
>伊都説です
これといった根拠・物証も無いのに、よく頑張れるね。 ある意味感心するよ。 @阿波 吉野ヶ里
海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からは港のようなものがあったと推定されている。
[2]吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川と田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。
伊都国の津と言うのはこれか >>270
邪馬台国と女王国と書くように、
女王国は、高千穂で、祭祀をして、
九州北部の豪族が、安の河原にきて、
相談。日向市は、邪馬台国の北側入口。
西都原が、邪馬台国のいわば、人口最大地域。
日向市から東に70キロで、四国。
日向から高千穂にむけての
五ヶ瀬川沿いは、鉱山の宝庫。
丹土も有名。
景行天皇は、日向髪長大田根を妃としている。
応神天皇は、日向泉長媛を妃としている。
仁徳天皇については、日向国諸県君牛諸井の
娘髪長媛(かみながひめ)を妃としている。
日向系の妃が、4〜5世紀頃に、日向系と大和国家の大王との間に、交流があった。
日向市には、大王谷と呼ばれる地域もある。 景行天皇は九州中に妃がいただろ。
子女の数が80人とか。
記紀を編纂した頃にはもう半分くらいしかわからんと編者が匙を投げたw マジな話をすると、山幸彦(伊都高祖宮の祭神ヒコホホデミ)の末裔である天孫族が筑紫日向を捨てて東征して卑弥呼が筑紫で即位しても、喧嘩別れして追い出された海幸彦の末裔が日向国都万(投馬国)にいたから、畿内政権としては日向国と組むのは当然なんだよ。
でも景行天皇は筑紫の女王神夏磯姫とも共闘している。
神夏磯姫は八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて現れて、景行天皇をまんまと使って自分の政敵を倒した。
この時の敵の中に、耳垂などの旧邪馬台国の官が含まれているんだよ。 >>292
結構古参なので、阿波さんは頑張ってるな、と感心してますよ〜
四国は重要な地域とも思います。
始めはありえないと思ってましたが、伊都説は自分なりに行き着いた、現段階の押しですね
卑弥呼前夜が重要と思っているので、考古学的にも素直に解釈できるし、
紀記等にも絡めると面白いので >>297
魏志倭人伝では、
投馬国の南に邪馬台国があるが、
その解釈では、投馬国の北側に邪馬台国がある
ことにはならないのかな? 大足彦(景行天皇)が海路で九州に入るとき、筑紫の魁帥である神夏磯媛の出迎えを受け、かわりに朝敵である土蜘蛛を討伐することを求められた。
このとき、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊を掛けて神威を示している。
これは皇位を象徴する三種の神器そのものである。
日本書紀は神夏磯媛と大足彦のどちらの立場が上であったかぼかしてあるのであるが、
神夏磯媛が筑紫を支配して三種の神器を保有していたのであるから、神夏磯媛こそが当時の筑紫倭国の女王であり、アマテラスやニニギ、卑弥呼の後継者であったと考えられる。
その尊号には筑紫の支配者を意味する帥(そち)の字が使われている。
神夏磯媛は朝廷にまつろわぬ者として、
菟狭(うさ、豊前国宇佐郡、大分県宇佐市)の川上の鼻垂(はなたり)、
御木(みけ、豊前国三毛郡、大分県中津市)の川上の耳垂(みみたり)、
高羽(たかは、豊前国田河郡、福岡県田川市)の川上の麻剥(あさはぎ)、
緑野(みどりの、福岡県北九州市紫川)の川上の土折猪折(つちおりいおり)
を挙げて討伐するように求めるが、いずれも卑弥呼時代の倭国連合の範囲内にほぼ収まる。
耳垂の名は、魏志倭人伝において投馬国の官と副官である彌彌(みみ)と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
大足彦より前とされる神武東征の折にはすでに菟狭の川上には後の宇佐国造家の祖である菟狭津彦と菟狭津媛がいたことになっている。
すなわちこの戦いは異国や異民族との戦いではなく、倭国内部の権力闘争であり、筑紫の女王である神夏磯媛にしてみれば分家(ワケ)である大足彦忍代別の兵力を借りて国内にいる政敵を倒したことになり、
神夏磯媛が言う朝廷は大足彦ではなく自らの倭国王権を指していたことになる。 帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県都万)までは水行20日 日本に国名を変えて半島南岸を放棄したのにね。
1400年ぶりの悪夢か。 ちなみに神武の息子たちの名も〜耳とあり、当時の王族の称号でもあったようだ。
ミだけの用法もあり、大山祇(おおやまつみ)と綿津見(わだつみ)も語源は同じだろう。
※大国主(すべての陸を支配する王)と天照(海を照らす王)との対比も面白い。
※海幸山幸も同じセットの名称だ。 >>300
投馬国の官と副官である彌彌(みみ)
と彌彌那利(みみたり)とも同じである。
魏志倭人伝で書かれた5万戸などは、
食邑体制をあらわしているから、官、副官は、
一族で、
特権継承できるんだよな?
ならば、中津が投馬国としたら、
日向、西都が邪馬台国でよくないかい? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 大山祇が出たついでにその子孫の紹介をしよう。
娘は、天照の孫で筑紫の日向で倭王に即位した邇邇芸の妃となった木花咲耶姫だ。
息子は溝杭耳といい、名前からして筑紫の王族なのだが、愛媛の三島神社に祭られている。
大阪でも三島神社に祭られている。
京都では賀茂神社、奈良では登美に祭られている。
瀬戸内を拠点に関西方面を開拓した張本人だが、そこに天照の孫の饒速日がやって来る。
三島溝杭耳の孫のナガスネ彦は妹を饒速日に娶らせている。
そこにさらに筑紫から神武が来て、ナガスネ彦は怒る訳だ。
「なぜ次々に天神の子がやって来て人の土地を取るのか」
饒速日と神武は同族であることを互いに確認すると、従わなかったナガスネ彦を排除してしまう。
その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となり、2代目の天皇が生まれる。 >>304
景行天皇は日向国を命名するのだが、いかにも新規開拓という感じなんだよね。
むしろ本拠地は豊前に定めている。
また共闘した神夏磯姫は筑紫にいた。
あくまでも記紀は九州北部を舞台にしているんだ。
日向国の存在感は邪馬台国には程遠いなあ。 >>305
生で口に入れるからじゃない?
当時、羊や豚や鶏は生で食べるのは危険だし
牛は農耕用、馬は騎乗が主だろうし
膾に入れた肉は人肉の可能性が最も高いんだよねえ >>295
この場合の女王国と言うのは
邪馬台国の領土全体を指すわけで
卑弥呼の都が東の海に面していなければ駄目と言う必要性は無い
そこまでは同意する
が、邪馬台国は後の大和王権に直結しているとは限らない、むしろ連続性は無い可能性の方が高い、と言うのは魏志倭人伝に書かれている女王国の領土はほぼ北部九州に固まっている
そのすぐ南に邪馬台国があり中南部から下は
他国の領土
と言う事は邪馬台国は北部のすぐ下の中部から
やや北にあった可能性が高い
魏志倭人伝に出てこない日向や西都市は投馬国の領土であろう
投馬は殺馬の略字だと言うから薩摩と宮崎は
ほぼ投馬国、投馬国の豪族が日向から
畿内へ遠征し大和王権を作った可能性は
多いにありだと思う >>299
古いなぁ
邪馬台国は投馬国の北だよ
どうやったらそんな解釈になるんだ? >>298
>卑弥呼前夜が重要と思っているので、
倭国(阿波)では「卑弥呼前夜」どころか、縄文時代から西日本各地と交易しています。 レベルが違います。
>考古学的にも素直に解釈できるし、
とにかく、考古学資料が余りにも限定的で、貧弱です。 それをもって、説を唱えるのは蛮勇ですよ。 @阿波 >>310
概ね同意見だが、南にあったのは狗奴国ではないかな?
また魏志倭人伝から100年ほど後の、仲哀天皇と神功皇后の時代にはもう邪馬台国がない点や
その2代前、景行天皇の時代には北九州で土蜘蛛討伐が行われてる事から、邪馬台国やその連合体は卑弥呼の後壱与を立てたが
畿内に東遷したのではなく、滅んだと考えるほうが無難。
土蜘蛛の長に女が何人かあてられている事から、そのどれかが壱与であった可能性と
当時の北九州では、女性のシャーマンをトップに据えるプチ邪馬台国的な統治が広まっていたとも考えられる。
そもそも欠史八代を除いたとしても、カムヤマトイワレビコの一団が、東征したのはもっと前の時代の話だしね。 投馬国が宮崎って言ってるけど、それ以外の比定はなにもできてないんだよね。
考古学的な考察も皆無だし。 >>313
ヤマト王権と邪馬台国は別の国ということだろう。
トップの神夏磯姫は筑紫にいたのだから、その時点では筑紫倭国として存続していたのだろう。 >>313
>当時の北九州では、女性のシャーマンをトップに据えるプチ邪馬台国的な統治が広まっていたとも考えられる。
プチではなく、それこそ中国から倭と呼ばれた国だよ。 年代的には、神功皇后が海外の史書との比較から4世紀末とされるので、景行天皇は4世紀初頭であり、筑紫を支配していた神夏磯姫は卑弥呼の死後60年目くらいの話になる。
卑弥呼の後の男王、壹與、その次に神夏磯姫が来るくらいか。
神功皇后の時代の田油津姫は神功皇后の末裔とあるので、2代後くらいの倭国女王だろう。
その次の倭国女王が田油津姫を倒した神功皇后になり、応神朝につながっていくのだろう。 >>314
投馬国は朝鮮半島南岸地域でしょう
宮崎では5万戸は無理。 宮崎平野なら可能。
国内屈指の規模の西都原古墳群もあるし、日向一宮として都万神社がある。
半島南岸にツマと呼ばれる土地はあるのかい? 女王国の先の、あきらかに到達してないと思われる場所にまで千余里と里程を表記しいるかとからもわかるように「真偽不明の噂話でもとりあえず書く。距離も適当」が陳寿流。
魏使が女王国の先までノコノコ物見遊山に出かけたか?
ありえねぇだろw 失くせば首が飛ぶこと確実な大事な国書携えて。
魏使は一番合理的なルートで直行直帰だよ。 >>319
宮崎の代表的な弥生後期集落遺跡ってどれ? @阿波 >>312
昔からいる阿波さんなら耳にタコができるほど見ていると思いますが、三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ >>320
>真偽不明の噂話でもとりあえず書く。
そんなことしたら、それこそ首が飛ぶよ。 @阿波 >>322
>三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ
それ、墓地でしょ? 墓地だけじゃ余りにも限定的で、貧弱です。 それをもって、説を唱えるのは蛮勇ですよ。 @阿波 >>319
馬韓で10萬戸
奴国で2萬戸
宮崎平野なら1萬戸以下。 宮崎平野で5萬戸なら九州全体で40〜50萬戸になってしまうw >>320
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭地を巡り巡って五千里=350km
郡使意外と健脚である。まぁ武官だしそんなもんか。
まぁグルグル移動した範囲は九州北部の女王の支配地域内だけだろうけど 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>327
壹與のこと?
それならそれらしい名前にしたと思うのだけど。
確かに年代は近いけれど、20年もあれば一世代ずれるからね。 >>313
狗奴国は人吉だと思う
投馬国は薩摩+宮崎
狗奴国は邪馬台国と投馬国に挟まれる形で存在した小国家 狗奴国は小国家にしては存在感があるんだよなあ。
卑弥呼と卑弥弓呼がどちらも肥国王家で家督争いしていたくらいがいいのではないか。 >>332
熊本南部と北薩(阿久根、川内)も狗奴国の領土かもしれない
川内に人吉と同様の遺跡が見つかってるらしいし奴と付く国は港が大概ある
投馬国は南薩摩、大隈半島、宮崎の大部分 張氏の倭人伝読方を採用していますが
邪馬台国の位置は
帯方郡からの距離と方角、末廬国(糸島に設定)からの距離と方角、さらに侏儒国からの距離と方角がピッタリと一致するのは熊本平野のみ、と言う結果になりました
少し妥協して島原、天草、雲仙も可能性はある
と思います >>320
至魏志倭人伝 読解諦奴 数千甘考到
魏志倭人伝の読解を諦めた奴は
すぐにそういう甘ったれた考えに到る 数字は大法螺吹いた可能性大だからまじめに考えないほうがいい
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
渡りて海北を平ぐること九十五国なんて言ってるんだから
三国志でも赤壁の戦いで曹操軍は100万だの
夷陵の戦いの劉備軍は75万だの
日本史では太平記で千早城を攻めた鎌倉軍が100万とか言ってるからな
幕末でも島津久光が7千を率いて上洛したと公言していたが、実際は700だったとかいうし >>336
んなもん根拠がないじゃん。
そもそも魏志倭人伝中で、戸と人は使い分けられてる。
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
卑弥呼の墓の徇葬者が奴婢百人
男王が立って国が乱れて千人ほどやられてる >>333
狗奴国はけして小国では無いな
それだけあれば古代としては十分大国
邪馬台国全体で七万戸、狗奴国三万戸、投馬国五万戸と言う感じじゃないだろうか? 『千余戸ありて・・・』とあるが、張氏は、当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多い
と説明している。
こういう部分が、正しく翻訳できる能力があるのかないのかが別れるところだろう。
現在を考えると、一家4人ならば、小さな対馬の島に4千人もの人がいたことになるが、この解釈は間違いだと言っている。
「Y」氏の文献は、「戸」を一家と考えているため、
後々の比定地に対して、人口が多すぎて住めない・・・と解釈している場所がある。
おそらく「Y」氏は頭の良い方だと思うが、それが解釈を誤らせたということになる。
科学的に分析するのでは無く、正しく読むことが重要なのだが・・・。 中国人だから分かるニュアンスだろ
ここは張氏を支持したい
古代の村レベルの都市で二十万人、三十万人とかどう考えても多すぎる 「人」が何人か集まると「戸」になる可能性無いですかね10人=1戸みたいな感じで >>343
三国志の全文検索をしてみろよ
倭人伝以外の部分で戸=人と考えられるところはない 三国志で使われてる「戸」は諸侯に与えられる食封のベースであり
収税の単位でもある >>344
そんな単位なんてどうでもいい話。
弥生時代後期集落遺跡の多寡を取り上げるべき。
が、それが出来ないトンデモ説の実体。 @阿波 17世紀の江戸の人口が20万人に満たないぐらいだから邪馬台国30万人説はあり得ない
7万人ぐらいが妥当だろうな >>348
それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた→人が沢山住んでたから邪馬台国だ!
のトンデモ説になりそうなんですが >>350
>それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた
ただし、人が沢山住んでた「弥生時代後期集落遺跡」。 古墳じゃないよ! @阿波 >>346
中国古文にこう言うニュアンスがあると言う事実を言ってるだけだろw >>345
そこが解釈の分かれ道だと言ってるから
お前はお前で自由に考えれば良いだろ どんな言語にも他国には無い表現の仕方や
ニュアンスはあるだろうな
外国人はイッポン、ニホン、サンボン、ヨンホン、ゴホン、ロッポンと不規則に続く日本語に納得いかないと良く言ってるわw >>353
全然違うから
「戸」は三国志においてきわめて重要な概念で頻繁に出てくる
例えばある人物を「候」に封じる場合、ふつうは五千戸が与えられる
これは税を納める戸数が五千あるという意味で
それに応じた面積の土地が付随しているわけだ わざわざ338で、人の表記の実例出したのに、戸=人は誰も根拠を示さない、、、 >>355
お前はなまじ知識があるから納得いかないんだろうな、常に上から目線で人に教えたがるから
新たな情報を受け付けず己の干からびた引き出しを持ち出して否定する
安本とかお前みたいな奴は一生たどり着けない
魏志倭人伝はむしろにわかの方が素直に読めると思うよ 例えば三国志では
「植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戸」などと出てくるが
(植を平原侯になし、據を范陽侯になし、豹を饒陽侯になす、食邑は各五千戸)
この「戸」は収税の単位となる門戸のこと >>358
張氏は、三国志12 魏書12 崔毛徐何邢鮑司馬傳第十二にある
“太祖破袁氏、領冀州牧、辟琰爲別駕從事。謂琰曰「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」琰對曰「今天下分崩、九州幅裂。
二袁兄弟親尋干戈、冀方蒸庶暴骨原野。未聞、王師仁聲先路存問風俗救其塗炭。而校計甲兵唯此爲先。斯豈鄙州士女所望於明公哉」太祖改容謝之。于時、賓客皆伏失色。“
の
「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
に部分を戸=人に例に引いていたぞ。 >>356
↑
この根拠、根拠氏は=最近伊都氏=ウンコ氏
だと思われ >>361
「戸籍を調べたら30万人がいるので大州としたのだ」
だいたいこんな意味だな
これがどうして戸=人になるのか? 現代でもそうだが、一人住まいの世帯はたくさんある。
当時、水田開発が盛んだったそうだから、諸方から集まった来た単身者もいたことであろう。
爺たちは、わが身を思い出してみよ。
戦後の一時期、集団就職の列車で、地方から多くの若者男女が集まった東京・大阪などの例もある。、
一戸は5人見当だ、と決めつけてかかるのが可笑しい。 リンク先をうまく閲覧できるコツ
誰か教えてくれ
エロ広告が邪魔をして見れねぇ >>363
今我々がいう「戸籍」は唐の時代に初めて整備されたものらしいので、三国時代には「戸籍」という単語自体がないので、戸=人(=衆)となるってことかな。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_china.htm >>366
それは張という人が意図的に曲解というかごまかしをしてるだけ
戸は中国ではもともと家の門という意味 一戸は一人を意味する、だとか、
一戸は、5人である、だとか、最初からそうきめつけてかかるのが可笑しいんではないか。
各々、そう主張したいのであれば、
まずは、戸=1人、もしくは戸=5人、であることを証明してからにされたい。 まず、日本の弥生時代の後期あるいは古墳時代の前期に
「私有田」という概念があったかどうかはきわめて怪しい
考古学的には、リーダーのもとで集団で開梱し、耕作、収穫していたという意見が大きいな
そして収穫された米が各戸に分配された
また、鍛冶や玉作りなども集団による分業 17世紀初頭のパリやロンドンも同じぐらいだね
ローマは6万人ぐらいらしい まあ実際は、人口7万人だろうと35万人だろうと
どっちもあの時代にあっては
かなりの面積の大都市なんだよ 戸は税収単位、もしくは徴兵義務単位でいい。「人」という単位は別に出てくるから。
が、壱岐国、不弥国は「家」だ。使い分けるには、それなりの理由があったのかもしれないが理由は不明。
確実なのは、末盧国〜不弥国の、おそらく北九州の先進地域を全部足しても投馬国、邪馬台国にはまったく及ばないということ。
北九州の盟主は奴国であったことは疑いようがなく、それとは別のところに投馬国・邪馬台国はあったという蓋然性が高い。 戸=5人っていうのは、
史記「為戸籍相伍」
漢書地理志「五口之家」
なんかが根拠 人口を考えるベースとしては
吉野ヶ里遺跡が、最盛期で環濠内の人口は1300くらい
周辺部の神埼郡を合わせても4000くらいと
九州説の考古学者、高島忠平氏は推測している デジタル大辞泉の解説
こ【戸】
[名]
1 と。とびら。また、家屋の出入り口。とぐち。
2 家。一家。「戸を構える」
3 律令制で、行政上、社会組織の単位とされた家。普通は2、3の小家族を含む20〜30人の大家族が多い。
[接尾]助数詞。家の数を数えるのに用いる。「戸数500戸」
倭人伝の戸は、最後の例の「家の数を数えるのに用いる助数詞」だろう。「戸数500戸」 考古学的にみた弥生終末期の人口は
佐賀平野全体で2〜3万人くらい 其俗 国大人 皆四五婦 下戸或 二三婦
有屋室 父母兄弟卧息 異處
で、戸数とすると、一家は10人以上になって
ちょっと多すぎると思うけどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています