【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 >>313
>当時の北九州では、女性のシャーマンをトップに据えるプチ邪馬台国的な統治が広まっていたとも考えられる。
プチではなく、それこそ中国から倭と呼ばれた国だよ。 年代的には、神功皇后が海外の史書との比較から4世紀末とされるので、景行天皇は4世紀初頭であり、筑紫を支配していた神夏磯姫は卑弥呼の死後60年目くらいの話になる。
卑弥呼の後の男王、壹與、その次に神夏磯姫が来るくらいか。
神功皇后の時代の田油津姫は神功皇后の末裔とあるので、2代後くらいの倭国女王だろう。
その次の倭国女王が田油津姫を倒した神功皇后になり、応神朝につながっていくのだろう。 >>314
投馬国は朝鮮半島南岸地域でしょう
宮崎では5万戸は無理。 宮崎平野なら可能。
国内屈指の規模の西都原古墳群もあるし、日向一宮として都万神社がある。
半島南岸にツマと呼ばれる土地はあるのかい? 女王国の先の、あきらかに到達してないと思われる場所にまで千余里と里程を表記しいるかとからもわかるように「真偽不明の噂話でもとりあえず書く。距離も適当」が陳寿流。
魏使が女王国の先までノコノコ物見遊山に出かけたか?
ありえねぇだろw 失くせば首が飛ぶこと確実な大事な国書携えて。
魏使は一番合理的なルートで直行直帰だよ。 >>319
宮崎の代表的な弥生後期集落遺跡ってどれ? @阿波 >>312
昔からいる阿波さんなら耳にタコができるほど見ていると思いますが、三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ >>320
>真偽不明の噂話でもとりあえず書く。
そんなことしたら、それこそ首が飛ぶよ。 @阿波 >>322
>三雲〜井原〜平原の王墓の存在の事ですよ
それ、墓地でしょ? 墓地だけじゃ余りにも限定的で、貧弱です。 それをもって、説を唱えるのは蛮勇ですよ。 @阿波 >>319
馬韓で10萬戸
奴国で2萬戸
宮崎平野なら1萬戸以下。 宮崎平野で5萬戸なら九州全体で40〜50萬戸になってしまうw >>320
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
倭地を巡り巡って五千里=350km
郡使意外と健脚である。まぁ武官だしそんなもんか。
まぁグルグル移動した範囲は九州北部の女王の支配地域内だけだろうけど 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>327
壹與のこと?
それならそれらしい名前にしたと思うのだけど。
確かに年代は近いけれど、20年もあれば一世代ずれるからね。 >>313
狗奴国は人吉だと思う
投馬国は薩摩+宮崎
狗奴国は邪馬台国と投馬国に挟まれる形で存在した小国家 狗奴国は小国家にしては存在感があるんだよなあ。
卑弥呼と卑弥弓呼がどちらも肥国王家で家督争いしていたくらいがいいのではないか。 >>332
熊本南部と北薩(阿久根、川内)も狗奴国の領土かもしれない
川内に人吉と同様の遺跡が見つかってるらしいし奴と付く国は港が大概ある
投馬国は南薩摩、大隈半島、宮崎の大部分 張氏の倭人伝読方を採用していますが
邪馬台国の位置は
帯方郡からの距離と方角、末廬国(糸島に設定)からの距離と方角、さらに侏儒国からの距離と方角がピッタリと一致するのは熊本平野のみ、と言う結果になりました
少し妥協して島原、天草、雲仙も可能性はある
と思います >>320
至魏志倭人伝 読解諦奴 数千甘考到
魏志倭人伝の読解を諦めた奴は
すぐにそういう甘ったれた考えに到る 数字は大法螺吹いた可能性大だからまじめに考えないほうがいい
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、
渡りて海北を平ぐること九十五国なんて言ってるんだから
三国志でも赤壁の戦いで曹操軍は100万だの
夷陵の戦いの劉備軍は75万だの
日本史では太平記で千早城を攻めた鎌倉軍が100万とか言ってるからな
幕末でも島津久光が7千を率いて上洛したと公言していたが、実際は700だったとかいうし >>336
んなもん根拠がないじゃん。
そもそも魏志倭人伝中で、戸と人は使い分けられてる。
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
卑弥呼の墓の徇葬者が奴婢百人
男王が立って国が乱れて千人ほどやられてる >>333
狗奴国はけして小国では無いな
それだけあれば古代としては十分大国
邪馬台国全体で七万戸、狗奴国三万戸、投馬国五万戸と言う感じじゃないだろうか? 『千余戸ありて・・・』とあるが、張氏は、当時の「戸」には「人」の意味があり、むしろその使い方の方が多い
と説明している。
こういう部分が、正しく翻訳できる能力があるのかないのかが別れるところだろう。
現在を考えると、一家4人ならば、小さな対馬の島に4千人もの人がいたことになるが、この解釈は間違いだと言っている。
「Y」氏の文献は、「戸」を一家と考えているため、
後々の比定地に対して、人口が多すぎて住めない・・・と解釈している場所がある。
おそらく「Y」氏は頭の良い方だと思うが、それが解釈を誤らせたということになる。
科学的に分析するのでは無く、正しく読むことが重要なのだが・・・。 中国人だから分かるニュアンスだろ
ここは張氏を支持したい
古代の村レベルの都市で二十万人、三十万人とかどう考えても多すぎる 「人」が何人か集まると「戸」になる可能性無いですかね10人=1戸みたいな感じで >>343
三国志の全文検索をしてみろよ
倭人伝以外の部分で戸=人と考えられるところはない 三国志で使われてる「戸」は諸侯に与えられる食封のベースであり
収税の単位でもある >>344
そんな単位なんてどうでもいい話。
弥生時代後期集落遺跡の多寡を取り上げるべき。
が、それが出来ないトンデモ説の実体。 @阿波 17世紀の江戸の人口が20万人に満たないぐらいだから邪馬台国30万人説はあり得ない
7万人ぐらいが妥当だろうな >>348
それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた→人が沢山住んでたから邪馬台国だ!
のトンデモ説になりそうなんですが >>350
>それだと遺跡が沢山有ったから人が沢山住んでた
ただし、人が沢山住んでた「弥生時代後期集落遺跡」。 古墳じゃないよ! @阿波 >>346
中国古文にこう言うニュアンスがあると言う事実を言ってるだけだろw >>345
そこが解釈の分かれ道だと言ってるから
お前はお前で自由に考えれば良いだろ どんな言語にも他国には無い表現の仕方や
ニュアンスはあるだろうな
外国人はイッポン、ニホン、サンボン、ヨンホン、ゴホン、ロッポンと不規則に続く日本語に納得いかないと良く言ってるわw >>353
全然違うから
「戸」は三国志においてきわめて重要な概念で頻繁に出てくる
例えばある人物を「候」に封じる場合、ふつうは五千戸が与えられる
これは税を納める戸数が五千あるという意味で
それに応じた面積の土地が付随しているわけだ わざわざ338で、人の表記の実例出したのに、戸=人は誰も根拠を示さない、、、 >>355
お前はなまじ知識があるから納得いかないんだろうな、常に上から目線で人に教えたがるから
新たな情報を受け付けず己の干からびた引き出しを持ち出して否定する
安本とかお前みたいな奴は一生たどり着けない
魏志倭人伝はむしろにわかの方が素直に読めると思うよ 例えば三国志では
「植為平原侯,據為范陽侯,豹為饒陽侯,食邑各五千戸」などと出てくるが
(植を平原侯になし、據を范陽侯になし、豹を饒陽侯になす、食邑は各五千戸)
この「戸」は収税の単位となる門戸のこと >>358
張氏は、三国志12 魏書12 崔毛徐何邢鮑司馬傳第十二にある
“太祖破袁氏、領冀州牧、辟琰爲別駕從事。謂琰曰「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」琰對曰「今天下分崩、九州幅裂。
二袁兄弟親尋干戈、冀方蒸庶暴骨原野。未聞、王師仁聲先路存問風俗救其塗炭。而校計甲兵唯此爲先。斯豈鄙州士女所望於明公哉」太祖改容謝之。于時、賓客皆伏失色。“
の
「昨案戶籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
に部分を戸=人に例に引いていたぞ。 >>356
↑
この根拠、根拠氏は=最近伊都氏=ウンコ氏
だと思われ >>361
「戸籍を調べたら30万人がいるので大州としたのだ」
だいたいこんな意味だな
これがどうして戸=人になるのか? 現代でもそうだが、一人住まいの世帯はたくさんある。
当時、水田開発が盛んだったそうだから、諸方から集まった来た単身者もいたことであろう。
爺たちは、わが身を思い出してみよ。
戦後の一時期、集団就職の列車で、地方から多くの若者男女が集まった東京・大阪などの例もある。、
一戸は5人見当だ、と決めつけてかかるのが可笑しい。 リンク先をうまく閲覧できるコツ
誰か教えてくれ
エロ広告が邪魔をして見れねぇ >>363
今我々がいう「戸籍」は唐の時代に初めて整備されたものらしいので、三国時代には「戸籍」という単語自体がないので、戸=人(=衆)となるってことかな。
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/koseki_china.htm >>366
それは張という人が意図的に曲解というかごまかしをしてるだけ
戸は中国ではもともと家の門という意味 一戸は一人を意味する、だとか、
一戸は、5人である、だとか、最初からそうきめつけてかかるのが可笑しいんではないか。
各々、そう主張したいのであれば、
まずは、戸=1人、もしくは戸=5人、であることを証明してからにされたい。 まず、日本の弥生時代の後期あるいは古墳時代の前期に
「私有田」という概念があったかどうかはきわめて怪しい
考古学的には、リーダーのもとで集団で開梱し、耕作、収穫していたという意見が大きいな
そして収穫された米が各戸に分配された
また、鍛冶や玉作りなども集団による分業 17世紀初頭のパリやロンドンも同じぐらいだね
ローマは6万人ぐらいらしい まあ実際は、人口7万人だろうと35万人だろうと
どっちもあの時代にあっては
かなりの面積の大都市なんだよ 戸は税収単位、もしくは徴兵義務単位でいい。「人」という単位は別に出てくるから。
が、壱岐国、不弥国は「家」だ。使い分けるには、それなりの理由があったのかもしれないが理由は不明。
確実なのは、末盧国〜不弥国の、おそらく北九州の先進地域を全部足しても投馬国、邪馬台国にはまったく及ばないということ。
北九州の盟主は奴国であったことは疑いようがなく、それとは別のところに投馬国・邪馬台国はあったという蓋然性が高い。 戸=5人っていうのは、
史記「為戸籍相伍」
漢書地理志「五口之家」
なんかが根拠 人口を考えるベースとしては
吉野ヶ里遺跡が、最盛期で環濠内の人口は1300くらい
周辺部の神埼郡を合わせても4000くらいと
九州説の考古学者、高島忠平氏は推測している デジタル大辞泉の解説
こ【戸】
[名]
1 と。とびら。また、家屋の出入り口。とぐち。
2 家。一家。「戸を構える」
3 律令制で、行政上、社会組織の単位とされた家。普通は2、3の小家族を含む20〜30人の大家族が多い。
[接尾]助数詞。家の数を数えるのに用いる。「戸数500戸」
倭人伝の戸は、最後の例の「家の数を数えるのに用いる助数詞」だろう。「戸数500戸」 考古学的にみた弥生終末期の人口は
佐賀平野全体で2〜3万人くらい 其俗 国大人 皆四五婦 下戸或 二三婦
有屋室 父母兄弟卧息 異處
で、戸数とすると、一家は10人以上になって
ちょっと多すぎると思うけどね。 ともあれ、35万人を持ち出して、
九州に邪馬台国はおさまらない、とか言い出すのは、畿内説の難癖常套手段。
奈良平野は熊本平野の1/4ほどしかないのだから、
畿内にこそ納まるべき場所はないのだ。 >>375
それは中華の制度。
其俗国大人皆四五婦 下戸或二三婦
とあるように、下戸ですら多妻であることを考えると、一戸10人もザラということもあり得る。
これに非市民階級の奴婢を加えると?
五万戸、七万戸ともなれば、純粋な人口は数十万は下るまい。
北九州の平野部におさまりきらないどころか、弥生後期の列島総人口にも匹敵する。
ま、陳寿の記述がテキトーなフィーリング値である可能性も高いが。
近現代の統計ですら、現実とはけ離れた数値をのたまうお国柄だ。 平安貴族が通い婚だったとしても、弥生後期の庶民がどうだったかは、わからんな。
父母兄弟卧息異處と、父母兄弟が別居だったことは明記されているけど、嫁については書かれてないから同居だったんだろ。
農耕と狩猟と戦争以外のときは、3P4Pでセックスしまくってんだよ。
弥生後期から古墳期にかけて人口が急増したらしいしな。 おー。じゃ、そうかも知れんね。別にそれでもいいよ!
嫁別居でも一人暮らしではないだろうし、父母と同居でそこで子供育てたんなら、一戸2人とか3人とかいうことはないだろうしね。
投馬国邪馬台国だけで人口数十万は確実なわけだし、北九州程度でおさまりきらんのは一緒。
大和盆地にもね。 >>365
エロ広告がゆっくり下がった瞬間を逃さずタップだ、タイミングを合わせろ
リンクも恋愛も何事もタイミングだ 魏志倭人伝の書き方では
邪馬台国の支配域全体で七万人じゃなくて
卑弥呼の都、単独で七万人じゃね? >>387
末廬国から南へ進むと邪馬壱国に至る。女王の住む都である。水行で十日、陸行で一月かかる。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。(邪馬壱国の)人口はおよそ七万余人。 >>387
邪馬台国で7万「戸」だよ。
支配地域全体の戸数は不明。
弥生時代の北九州の人口は4万人程度。7万戸が7万人でも無理。
たとえ北九州人口が倍の8万でも、北九州には2万戸の奴国と他の小邑があるので無理。
畿内含め、単独の盆地平野で邪馬台国人口を賄える地は、倭にはない。 人口統計資料リンク貼ろうと思ったけど蹴られたわ。
地域別人口の超長期推移
で検索するとヒットするよ。 >対馬千余人、一大国三千余人、末廬国四千余人 伊都国千余人、奴国二万余人、不弥国千余人
倭人伝のおおよその人口ついて書いてたら気付いたのだが、狗邪韓国の人口が書いてない!
何故だ?? 倭種がいても「倭」として認められてないところは、書いてない。
倭内であっても遠すぎてよくわからんところは書いてない。 あと、「人」ではなく「戸」な。
人口はその5〜10倍程度。陳寿の記述が正しいとすれば、だけど。 >>389
単一平野では無理としても周辺を含めればよい。
熊本平野と阿蘇地域は、地形的にも、伝承的にも火の国としてひとつながり。
ここを一体として7万戸とすれば、入るだろう。というかそれ以外には見当たらぬ。 >>391
半島南岸はリアス式でほとんど人は住んでいない。
一応、倭の制海権が及んでいる。 >>394
南九州全域でも人口は6.5万人と推定されているから、7万戸は話にならないぐらい無理。
九州全域でも無理。 最近なんとなく、高島鬼平一派が点数稼ぎに乗り出してる感が有るな。
ま、ただの気のせいかもしれぬが,,,,,, >>395
ぶっちゃけ
狗邪韓国って本当に倭国なん?
最近ネトウヨが言い出した説じゃないだろうな? >>398
資料元は
鬼頭 宏「人口から読む日本の歴史」(講談社学術文庫)
それより信頼度が高い資料もあるかも知れんけど、俺は知らん。
この統計から人口を倍にしても、九州で邪馬台国7万戸(20〜70万人?)は無理だね。
さらに奴国2万戸とその他を入れなきゃならんのだから。投馬国5万戸はどうすんの?って話にもなるし。 >>400
その資料がクソ。
奴国の人口すら入らない。 倭人伝をしっかり読めば、邪馬台国は
@ 北部九州からは遠い場所 A かなり広い地域
になるだろ 温暖肥沃な九州に入らぬものが、貧しい畿内に入るわけはない
畿内厨、本末転倒の言い掛かり >>403
島原半島全体で七万人は余裕だよ
過疎ってる今でも倍の15万人以上いるのに
古代とは言え首都に七万人いても何ら不思議では無い >>399
なんで人口が書いて無いんだろうな... >>401
まさにそのとおり。文献には「めっちゃ遠いところから来た!感動した!」って書いてあるんだから、これを無視した推定には意味がない。
倭国之極南界から朝貢に来た倭奴国王ですら、「倭王」としては認めて貰えず、漢の支配下の倭の奴国王という限定的な扱いだったんだから。
「倭王」号を下賜された卑弥呼は、九州よりさらに遠く、もっと広大な地域を支配下に置いていたということ。 >>407
倭人が住んでいただけで
倭国の領土ではなかったのかも
その頃は出雲ですら魏には認識されてないし 出雲の戸数も狗邪韓國の戸数も
〆てまとめて
投馬國五萬戸の内数 陳寿の曲筆癖は同時代人にも知られたところだし、距離里程と同じく適当な数値書いてるってこと。
まー、まるっきり創作でもないだろうが、当時手に入った資料を検証もせずにコピペしたんだろね。
そもそも、弥生人に戸籍に類するものがあったかどうかも怪しいところだ。 >>410
投馬国は薩摩と宮崎だと何度言えば... 「昨案戸籍、可得三十萬衆。故爲大州也」
ならば
「為戸籍相伍」で
投馬國五萬戸の口数が25萬衆 であるから
投馬國:25萬衆:大州也
サイズ的には内地の郡のサイズで
それも比較的大きい部類のサイズの郡 狗邪韓国と投馬国を倭人領土から外したいだけの連呼君
他の比定地や経路説明など一切なし。 >>412
>投馬国は薩摩と宮崎だと何度言えば...
ということは、邪馬台国は倭国(阿波)ということだね。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています