【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ! 邪馬台国畿内説の根拠は 邪馬台=大和=奈良(完)と言う 風潮に論理的に反論するスレです 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です! *荒らしはスルーで 過剰なコピペは厳禁 >>662 倭人曰く、呉の太伯の末裔であると。 >>663 >北陸との類似性も海を通じて繋がっていたと考えれば容易に理解できる 半島大陸から直接輸入が可能な日本海側が先に発達したのだろうね。 筑紫、出雲、越が紀元前の倭人の有力勢力だったろう。 吉備や尾張の発展はそれより遅れ、内陸である大和はさらに遅れていた。 筑紫の吉武高木遺跡と大和の纒向遺跡では、おそらく500年は年代の差がついているだろう。 >>665 そりゃ7世紀に大きな政変があったから。 白村江における敗戦、唐による筑紫の占領、壬申の乱という内戦。 何よりも、筑紫倭国の滅亡。 記紀の編纂による歴史の改変、その際の元資料の収集と破棄。 妻木晩田遺跡も四隅突出墳丘墓だから邪馬台国の属領。 副葬品を見たらわかる。 まあ、出雲国と呼んでもいいだろうけどさ。 鉄器が多くあるのだから、倭国乱では邪馬台国側だった。 南に大山。東に開けた場所だから、南と東に対して防備を固めていることになる。 副葬品が乏しいことも、 妻木晩田遺跡は長期間にわたって使われた遺跡なので、四隅突出だけに縛られないようだ。 さて、出雲や越は地名のように思われているが、それでいいのだろうか? 福岡の香椎の語源が越という言われるくらいなので、かつての西日本の日本海側はすべて越だったのではないか。 イザナギより前の倭王の名も記紀には記されているが、イザナギは矛を使って能古島を拠点に博多湾沿岸を征服した。 志賀島のワダツミや、スサノオが婿入りしたヤマツミらはその末裔であり、出雲をはじめとする国津神は征服者の立場だったようだ。 その出雲の国津神の頭領を倒した天津神(海の神)の頭領が、孫を筑紫に送り込んで筑紫倭国が成立し、漢から正式に倭王に冊封されたと。 これは、それ以前は博多湾沿岸も出雲の国津神の支配地域であったことを示している。 倭では、新興勢力が次々に博多湾に侵入し、旧勢力は層をなして東側に追いやられ、越、出雲、筑紫が形成されたことになる。 そして2世紀の倭国大乱においても、敗者である天孫族が東征し、新たな支配者として卑弥呼が共立されたのだろう。 ある学者は、天孫族が金印を貰うのは中国の配下になるから問題だと言う ある学者は、天孫族以外の王で金印なんか貰えた奴がいたら問題だと言う ある学者は、記紀は天孫族が金印を貰っていた事実を封印するために金印を無視していると言う ある学者は、記紀は天孫族以外に金印を貰う実力者がいた事実を封印するために金印を無視していると言う つまりどちらでも問題はないということかw 海の民でも ふるい層の海の民が あ系の海の民 新しい層の海の民が い系の海の民 両系の海の民は同族だが あ系の海の民のところに い系の海の民が割り込むのが天孫降臨で やま系の民とあ系の海の民のコラボに い系の海の民が割り込む これが倭國乱で「長大」補正してあげると3世紀の初頭 およそ210年から225年の間がリアルな倭國乱の年代 中国の研究者が中国の文献を読み解いて 畿内大和の勢力が邪馬台国の勢力を滅ぼしたって 説を述べてるPDFを探してるのですがご存知のかたおられないでしょうか? 数ヶ月前にニュース速報のスレで見た覚えがあり そのとき保存しておけばよかったのですが ファイルをありかを忘れてしまってご存知のかたおられましたら 教えていただきたいです、どうぞよろしくお願いいたします ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 一大率という地方監察部を置く必要があったのは。北九州域の女王に対する帰順度が相対的に低かったからだろう。 中でも奴国は北九州の盟主的地位にあり、女王にとっては脅威だったはず。 千戸余りの小邑に過ぎない伊都が郡使一時駐在所・一大率本部が置かれる要地となったのは、外様地域において数少ない親藩譜代と言える國だったから。 他の國も女王国の支配下にある事は明確なのに、伊都のみ「丗有王 皆統屬女王國」と歴代の王にまで言及があるのは、帰順してから長い=忠誠度が高いことを表現している。 >>667 >四隅突出墳丘墓というのは東に渡海千里で広がる倭種の国々であり、 「東に渡海千里」に該当するのは、宮崎か倭国(阿波)だけ と、何度言えばw >邪馬台国卑弥呼の単なる領地だっただけ。 というよりも、倭国(阿波)の海人族による入植地。 九州在地にそんな勢力は存在しない。 @阿波 >「東に渡海千里」に該当するのは、宮崎か倭国(阿波)だけ と、何度言えばw は?w >>669 何世紀にも渡る資料を全部破棄したと言うのは 疑問が残る 明らかになっているのは、北九州には邪馬台国はない、ということ。 北九州その地に邪馬台国があるなら、出先機関などおかず直接統治すればよい。伊都国に出先機関があることからわかるように、その周辺にはない、ということだ。 倭人伝の記載をそのまま採用する立場からは、弥生期の人口統計の推定値が日本全土で60万だろうが修正200万だろうが、北九州には邪馬台国人口を収容できないということもある。 同様に、四国にも邪馬台国人口を収容できない。投馬国すら無理。 >>682 人口云々よりも 魏志倭人伝が北九州をはっきりと否定してる はっきりと伊都国は卑弥呼の都では無いと言ってる >>682 >同様に、四国にも邪馬台国人口を収容できない。投馬国すら無理。 まぁまぁ、 人口統計の推定値がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。 @阿波 >>681 畿内が平仮名を完成させた記念に 全部破棄したんじゃないか? 記紀にそれまでの日本人は文字を知らなかったと書いてあるって言う人がいるけど、どの部分に書いてあるの? >>687 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 『古事記』序 時有舎人。 姓稗田、名阿礼、年是二十八。 為人聡明、度目誦口、払耳勒心。 即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。 訳 そのとき、一人の舎人がいた。 姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。 聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。 すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。 日本人は文字を知らなかったとは書いてないけど、古事記は稗田阿礼が『帝紀』『旧辞』を暗記してた事を太安万侶が書き留めたことになってるな。 でも古事記の編纂時には『帝紀』『旧辞』が単に失われてただけみたいだよな。 >>678 歴代の王じゃなくて 単に伊都国に魏の世に倭王がいたってかいてあるのw >>687 1世紀の倭奴国の時代くらいから漢字が使われ始めてるから 8世紀まで日本に文字が無かったってのは事実ではないな。 天草は何気に惹かれるな。神武天皇を祀った神社は熊本が突出していて、その大半が天草に集中している。素人ながらに何かあるんじゃ?と。4〜5千年前の稲もみの圧痕も発見されている。 >>688 やっぱりそこの部分だよね。 文字を知らなかったとは書かれてないわけだ。 例えば、『帝紀』『旧辞』という書物はあったけど、 古事記は稗田阿礼にいったん覚えさせた記憶から編纂した →だから間違いがあっても稗田阿礼のせい!編纂者の責任じゃないよ〜 という言い訳にも見えるんだよね。 このスレ的に邪馬台国は @ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島 D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州 I 宇佐・大分 J その他 のどれが優勢なのよ? >>691 硯はペンダントだとか楽浪人だけ使ってたんだとか言ってたけど、 こんなに沢山見つかってしまってはどうにもならないね。 けど今までだって仿製銅鏡や鉄剣に文字は刻まれていたのだから、 文字があったと考えるのは当たり前と言えば当たり前だね。 3世紀の倭国で漢字が使われていたかどうかは 渡来人が来てたんだからあっただろう ただし倭人の上位層0,1%(1000人に1人)しか使ってないのを あったと言っていいかどうか そういう話だろ >>694 邪馬台国は北部九州で、首都が伊都。これが結論。 畿内説者が攪乱のため他を持ち出している。 CFGあたりはその信者がいるのかもしれんが、なんの裏付けも示さない。 725年推定人口・・・奈良時代推定人口 ・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一) ・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式) 筑前 112,000人 ・85,400人 ・92,900人 筑後 ・59,300人 ・75,300人 ・73,300人 豊前 ・47,200人 ・75,300人 ・71,600人 豊後 ・51,600人 ・82,500人 ・87,400人 肥前 ・48,300人 ・85,400人 ・81,400人 肥後 108,700人 178,000人 185,500人 日向 ・30,800人 ・47,700人 ・43,800人 大隅 ・40,600人 ・21,100人 ・28,400人 薩摩 ・38,400人 ・17,400人 ・28,500人 壱岐 ・12,100人 ・・9,400人 ・10,600人 対馬 ・・9,900人 ・・7,000人 ・・7,000人 最小を使っても 筑前 ・85,400人 筑後 ・59,300人 豊前 ・47,200人 豊後 ・51,600人 肥前 ・48,300人 肥後 108,700人 壱岐 ・・9,400人 対馬 ・・7,000人 合計 416,900人(1戸5人として83,380戸) 500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸 >>696 江戸時代に寺子屋で読み書きを教えていた日本が異常なだけで、 古代どころか近代までは、 その国の貴族層しか文字をつかっていないのが普通だよ。 >>678 >一大率という地方監察部を置く必要があったのは。北九州域の女王に対する帰順度が相対的に低かったからだろう。 倭国にとって最重要地域が対馬海峡だったからだろうね。 仮に帰順度が低かったとしたら、それは卑弥呼が天津神ではなく国津神(特に肥国の)出会った場合だ。 対馬海峡は天津神の本拠地である天津国だからね。 ところで畿内説だと、女王国の北は若狭湾あたりだと思うのだけどw >>699 貴族というか役人だな 中国だと秦の始皇帝以前の木簡が全国各地からバンバン出てる これは中国全土の村々にまで役人がいたから >>692 あ?天草?あんなとこ 邪馬台国ぐらいしかないよ 天草が邪馬台国だと里程も遠すぎる。 しかも南にはいよいよろくな遺跡がない。 >>694 張氏の読み方を踏襲しながら 距離と方角と周辺遺跡と兼ね合わせて比定してる人達が今のところ一番説得力があるかな >>703 天草は可能性あるよ 里程も方角ももろ範囲内 南(境界の尽きる所)に人吉があるし北薩にも 未発掘な弥生遺跡がある、恐らくそこが狗奴国だろ、更に南へ薩摩と東回りに大隈半島から日向まで投馬国だろう 宮崎に所縁の深い勢力が のちの大和じゃね? このスレ的に投馬国を宮崎に比定してる人が多いよね? >>688 五経博士を擁した馬子−聖徳太子、の国記、天皇記は存在したはずで 天武天皇が保持する書を阿礼に誦習させるというのはおかしい。 まず、馬子が天皇記、国記を記すための 皇室の語り部が必要であって それが、継承され消滅しなければ、阿礼は必要ないことになる。 この時、継承されていないなら、世襲王権が数十代も続いたわけが無い。 五経博士等、百済経由の僧や師による書は、ほぼ500年付近から伝わっているし、 記紀700年時点での天皇記と国記の焼失は、関連書籍の焚書である、とすべき。 現代では、情弱でもなきゃ、中学生でも、 みんな知ってる記紀神話も虚構、前提なのでは無いかな? >>706 投馬国は邪馬台国の隆盛する以前からの土着の勢力で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う なぜ漢字を変える必要があるんだろ? 考古学的にまったく関連が無いことが裏付けられる。 単に投馬国を半島南岸から剥がしたいだけ。 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ) ほら、倭の訓読みはやまと 倭国は訓読みだとやまとくに=邪馬台国 現地に滞在して倭語を聞き慣れた張政が、親切に当て字してくれたんだよ。 倭國の伊都(日向)から神(お上=支配者)として、波を蹴立てて(水軍で)やって来た。 北九州〜出雲〜北陸・新潟は新羅系だったが、 福井・石川辺りは、のちに関西系が進出して割り込んだので、 断絶しているのではないか 薩摩と大隅と都万日向は混同されやすいが、ちがう 薩摩半島系は都城盆地までで、都城盆地と宮崎市のあいだに断絶がある。 なお都万日向は大隅半島系と近い (古古代は、都万日向と大隅は一体の種族だったのかも) どの地域にも歴史はある。 この神社が卑弥呼宮殿跡。この遺跡が狗奴国。 夢想することもできるだろう。 だが、金印というものは 東アジア全体の中でも邪馬台国卑弥呼だけが魏から貰ったわけだ。 自分の考える邪馬台国が、東アジア全体の遺跡の中で、何番目くらいの先進地域だったかをよく考えることが、恥をかかない第一歩となる。 投馬国が半島南岸にあったというのは、 そのもとは大隅半島南岸にあったという意味だろうな。 >>708 投馬国のルーツはと、言うなら、 日本の青銅器文化は、BC200年以前から半島南岸に支えられている。 銅鐸文明は、筑紫の対馬―楽浪貿易で生まれたものでは無い。 起源は糸魚川翡翠や隠岐の黒曜石を背景に持つ縄文海神である。 57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、 この倭域が、東夷伝は、天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通 であって 前漢から台頭し半島に四郡を支配した遼東の公孫氏も不可触であった。 この、日本の青銅器文化を支えたのは、半島南岸であって、 この時期に、投馬国が存在しなければならないのは、必然と言える。 卑弥呼や金印の委奴国が、漢魏に好戦的、防衛的傾向だった形跡はなく 239公孫氏、246漢王朝滅亡、魏ー邪馬台国外交 終了の247年以降、 313年四郡撤退、高句麗戦で、百済新羅建国 の歴史に繋げたのは筑紫国では無く、 一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であったとするのが妥当。 牛馬の移入や鉄の生産、富国強兵の高句麗戦で、九州は東遷してる暇はない。 むしろ百済の馬の道や、高句麗戦で半島開拓に配流されていると見るべき。 昭和以降の邪馬台国論争というのは、投馬国の存在と、百済新羅建国支援の歴史を 表面化させないために、やってただけだろ。 歴史業界も、もう、戦後レジューム要らんのでは? >57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、 >一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であった 鉄器ゼロ そだねー 戦後レジュームやめて北部九州邪馬台国首都伊都でFA >>716 半島南部にはそのような重要な国があったが、 倭人伝ではその国を「狗邪韓国」と記している。 半島南部の「其の国」と、倭人伝のいう「投馬国」とは、別の国である。 半島南部の投馬国は筑紫倭国の領土だったのであって、 決して、大和日本の領土ではなかった。・・・念の為。 >>721 筑紫倭国ってなんだ?邪馬台国? 領土も何も投馬国は独立政権で後の大和王権と 直結してる可能性についての話じゃないの? 都万と大隅なら隼人だろ。 隼人の祖は筑紫を追い出された海幸彦とされている。 追い出した山幸彦(彦火火出見)は伊都高祖宮の主となっている。 陳寿は意味を理解せずに邪馬台国と投馬国を併記したが、実はそれぞれ山幸彦と海幸彦の都なんだ。 >>722 キミは、「倭国」も知らないで、このスレにカキコしてるのかね >>723 しかも邪馬台国は筑紫の日向、投馬国は日向国と、日向の地名を分け合う兄弟国だ。 投馬国は紀元前からの土着の勢力で出雲まで進出したが、新興勢力の倭奴国によって領土を荒らされ分断された、投馬国は北部の領土を倭奴国に奪われたが畿内へ進出、北陸越州と同盟を 結び鉄を入手、徐々に力をつけて大和王権となった こんな感じ? >>725 お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴ちゃうん? >>727 名前:日本@名無史さん 2019/01/13(日) 12:11:29.31 お前、どこにでも乗り出して 「チクショー!」とか言ってる奴ちゃうん? >>728 なにそれ?w 凄いテクニックだな、どうやってやったの? >>726 神武は筑紫の日向、つまり伊都国の出身。 伊都高祖宮のヒコホホデミの孫だからね。 それで、神武はどこの港から東へ向かったのだろうねえ >>730 だから、お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴やろ?w テクニック 伊都国って言ってる奴は チクシ張り付け荒らし確定だな >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどこの港から出立したのかねえ??。 >>726 なんだその、カルフォルニアのゴールドラッシュで アメリカ原住民がヨーロッパに進出したみたいな頓珍漢な話は? >>736 的確な例えだな。 つか、伊都説以外の書き込みが支離滅裂で笑える。 もう単なる願望の垂れ流し。 >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどの港から東へ向かって出立したのかね??。 >>739 地図を見て伊都国が面した湾の好きな場所を選んだら? まさかと思うが、 弥生時代のどの波止場か証明できないから嘘だ、とか 言わないでねぇ。 >>740 その地を裏付ける港遺跡ぐらいあるだろう。 それに、神武の出立となれば、相当の船団・人員だったであろうから、 出立及び出立地の伝承の片割れくらい残っているだろう。 なんせ、倭人伝の伊都国の伝承が残っていると威張ってるんだからな・・・。 >>741 ほらね、我慢できずにきたきた。 弥生時代の里程を、現代の精密な地図と比較して、難癖つけるのと同じ輩だ。 >>743 こちらは数人いるようだが、そちらはまさかの一人なの? もしキナイコシじゃないなら、さっさと足を洗うなり、 こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 >>726 邪馬台国がそのまま大和になった説よりかは ましかな >>742 まあ、そう遠慮せずに神武が出立したという港を示せ。 ハナから白紙地図じゃないんだろ。 >>747 伊都国に実在したといってる輩がおるようだ。 そいつに聞いたらどうだ。 しばらく見ないと思ってたら なりすましで少しずつウンコしてたんだな >>744 >こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 え?あなた、バイ菌だれけでしょ 遠慮しておきます、衛生上www >>753 で、邪馬台国までの行程を説明してくんろ(鼻ホジ ないとかあるとかいっても、 まともに説明してるのが伊都説だけだから、 他説と比較のしようがない。 熊襲が狗奴国で、隼人が投馬国なら 邪馬台国は大和だな 熊襲は狗奴国じゃないし、隼人も投馬国じゃないから 邪馬台国は大和じゃないな >>756 伊都国には神武天皇の船団も出立したという良き港があるのですね。 それは確かな裏付けになる。 神武東征のルートは地名が移動しているから難しいな。 宇佐が現在の宇佐ではないことは確実。 地名の混同があったのだろう。 wiki 宇佐より引用 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。 宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。 神武は宇佐へ船で行っているから、宇佐宮でも大分宮でもない。 しかし筥崎宮なら船で行ける。 しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 ああ、そう言えば神武らが船出したのは、伊奘諾が禊をして住吉三神を生んだ小戸だろうね。 伊都から東に船出するならここしかない。 はっはっは 島原だ西都原だと迷彩を施しても 結局は大和に持って行きたいのだなあ 韓人は しかしまあ、福岡県はいったいいくつの王宮があるんだろう。 ちょっとググっても宮宮宮 卑弥呼は高祖宮にゆずるが、 俺の台与は香椎宮。これだけは譲れない。 太宰府天満宮所蔵の国宝「翰苑」に「邪届伊都、傍連斯馬」と書かれていて 邪馬台国は糸島市の伊都に届き、又、糸島郡志摩町の傍らに連なると読める。 http://www.meinohama.town/blog/59/ >>761 >しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 この日向の小戸の都跡というのは、今でいうとどの辺りなの、今津湾内なのかな? >>766 朝鮮半島南岸の投馬国五万戸から四千九百里の辺り。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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