【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ! 邪馬台国畿内説の根拠は 邪馬台=大和=奈良(完)と言う 風潮に論理的に反論するスレです 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です! *荒らしはスルーで 過剰なコピペは厳禁 >>678 >一大率という地方監察部を置く必要があったのは。北九州域の女王に対する帰順度が相対的に低かったからだろう。 倭国にとって最重要地域が対馬海峡だったからだろうね。 仮に帰順度が低かったとしたら、それは卑弥呼が天津神ではなく国津神(特に肥国の)出会った場合だ。 対馬海峡は天津神の本拠地である天津国だからね。 ところで畿内説だと、女王国の北は若狭湾あたりだと思うのだけどw >>699 貴族というか役人だな 中国だと秦の始皇帝以前の木簡が全国各地からバンバン出てる これは中国全土の村々にまで役人がいたから >>692 あ?天草?あんなとこ 邪馬台国ぐらいしかないよ 天草が邪馬台国だと里程も遠すぎる。 しかも南にはいよいよろくな遺跡がない。 >>694 張氏の読み方を踏襲しながら 距離と方角と周辺遺跡と兼ね合わせて比定してる人達が今のところ一番説得力があるかな >>703 天草は可能性あるよ 里程も方角ももろ範囲内 南(境界の尽きる所)に人吉があるし北薩にも 未発掘な弥生遺跡がある、恐らくそこが狗奴国だろ、更に南へ薩摩と東回りに大隈半島から日向まで投馬国だろう 宮崎に所縁の深い勢力が のちの大和じゃね? このスレ的に投馬国を宮崎に比定してる人が多いよね? >>688 五経博士を擁した馬子−聖徳太子、の国記、天皇記は存在したはずで 天武天皇が保持する書を阿礼に誦習させるというのはおかしい。 まず、馬子が天皇記、国記を記すための 皇室の語り部が必要であって それが、継承され消滅しなければ、阿礼は必要ないことになる。 この時、継承されていないなら、世襲王権が数十代も続いたわけが無い。 五経博士等、百済経由の僧や師による書は、ほぼ500年付近から伝わっているし、 記紀700年時点での天皇記と国記の焼失は、関連書籍の焚書である、とすべき。 現代では、情弱でもなきゃ、中学生でも、 みんな知ってる記紀神話も虚構、前提なのでは無いかな? >>706 投馬国は邪馬台国の隆盛する以前からの土着の勢力で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >で恐らく出雲のルーツ、薩摩、投馬、出雲は同族だと思う なぜ漢字を変える必要があるんだろ? 考古学的にまったく関連が無いことが裏付けられる。 単に投馬国を半島南岸から剥がしたいだけ。 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ) ほら、倭の訓読みはやまと 倭国は訓読みだとやまとくに=邪馬台国 現地に滞在して倭語を聞き慣れた張政が、親切に当て字してくれたんだよ。 倭國の伊都(日向)から神(お上=支配者)として、波を蹴立てて(水軍で)やって来た。 北九州〜出雲〜北陸・新潟は新羅系だったが、 福井・石川辺りは、のちに関西系が進出して割り込んだので、 断絶しているのではないか 薩摩と大隅と都万日向は混同されやすいが、ちがう 薩摩半島系は都城盆地までで、都城盆地と宮崎市のあいだに断絶がある。 なお都万日向は大隅半島系と近い (古古代は、都万日向と大隅は一体の種族だったのかも) どの地域にも歴史はある。 この神社が卑弥呼宮殿跡。この遺跡が狗奴国。 夢想することもできるだろう。 だが、金印というものは 東アジア全体の中でも邪馬台国卑弥呼だけが魏から貰ったわけだ。 自分の考える邪馬台国が、東アジア全体の遺跡の中で、何番目くらいの先進地域だったかをよく考えることが、恥をかかない第一歩となる。 投馬国が半島南岸にあったというのは、 そのもとは大隅半島南岸にあったという意味だろうな。 >>708 投馬国のルーツはと、言うなら、 日本の青銅器文化は、BC200年以前から半島南岸に支えられている。 銅鐸文明は、筑紫の対馬―楽浪貿易で生まれたものでは無い。 起源は糸魚川翡翠や隠岐の黒曜石を背景に持つ縄文海神である。 57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、 この倭域が、東夷伝は、天子爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷不得通 であって 前漢から台頭し半島に四郡を支配した遼東の公孫氏も不可触であった。 この、日本の青銅器文化を支えたのは、半島南岸であって、 この時期に、投馬国が存在しなければならないのは、必然と言える。 卑弥呼や金印の委奴国が、漢魏に好戦的、防衛的傾向だった形跡はなく 239公孫氏、246漢王朝滅亡、魏ー邪馬台国外交 終了の247年以降、 313年四郡撤退、高句麗戦で、百済新羅建国 の歴史に繋げたのは筑紫国では無く、 一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であったとするのが妥当。 牛馬の移入や鉄の生産、富国強兵の高句麗戦で、九州は東遷してる暇はない。 むしろ百済の馬の道や、高句麗戦で半島開拓に配流されていると見るべき。 昭和以降の邪馬台国論争というのは、投馬国の存在と、百済新羅建国支援の歴史を 表面化させないために、やってただけだろ。 歴史業界も、もう、戦後レジューム要らんのでは? >57年の金印委奴国以前から、半島南岸は鉄青銅でゴールドラッシュであり、 >一大卒でこれを支配管理した瀬戸内海、畿内?勢力であった 鉄器ゼロ そだねー 戦後レジュームやめて北部九州邪馬台国首都伊都でFA >>716 半島南部にはそのような重要な国があったが、 倭人伝ではその国を「狗邪韓国」と記している。 半島南部の「其の国」と、倭人伝のいう「投馬国」とは、別の国である。 半島南部の投馬国は筑紫倭国の領土だったのであって、 決して、大和日本の領土ではなかった。・・・念の為。 >>721 筑紫倭国ってなんだ?邪馬台国? 領土も何も投馬国は独立政権で後の大和王権と 直結してる可能性についての話じゃないの? 都万と大隅なら隼人だろ。 隼人の祖は筑紫を追い出された海幸彦とされている。 追い出した山幸彦(彦火火出見)は伊都高祖宮の主となっている。 陳寿は意味を理解せずに邪馬台国と投馬国を併記したが、実はそれぞれ山幸彦と海幸彦の都なんだ。 >>722 キミは、「倭国」も知らないで、このスレにカキコしてるのかね >>723 しかも邪馬台国は筑紫の日向、投馬国は日向国と、日向の地名を分け合う兄弟国だ。 投馬国は紀元前からの土着の勢力で出雲まで進出したが、新興勢力の倭奴国によって領土を荒らされ分断された、投馬国は北部の領土を倭奴国に奪われたが畿内へ進出、北陸越州と同盟を 結び鉄を入手、徐々に力をつけて大和王権となった こんな感じ? >>725 お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴ちゃうん? >>727 名前:日本@名無史さん 2019/01/13(日) 12:11:29.31 お前、どこにでも乗り出して 「チクショー!」とか言ってる奴ちゃうん? >>728 なにそれ?w 凄いテクニックだな、どうやってやったの? >>726 神武は筑紫の日向、つまり伊都国の出身。 伊都高祖宮のヒコホホデミの孫だからね。 それで、神武はどこの港から東へ向かったのだろうねえ >>730 だから、お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴やろ?w テクニック 伊都国って言ってる奴は チクシ張り付け荒らし確定だな >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどこの港から出立したのかねえ??。 >>726 なんだその、カルフォルニアのゴールドラッシュで アメリカ原住民がヨーロッパに進出したみたいな頓珍漢な話は? >>736 的確な例えだな。 つか、伊都説以外の書き込みが支離滅裂で笑える。 もう単なる願望の垂れ流し。 >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどの港から東へ向かって出立したのかね??。 >>739 地図を見て伊都国が面した湾の好きな場所を選んだら? まさかと思うが、 弥生時代のどの波止場か証明できないから嘘だ、とか 言わないでねぇ。 >>740 その地を裏付ける港遺跡ぐらいあるだろう。 それに、神武の出立となれば、相当の船団・人員だったであろうから、 出立及び出立地の伝承の片割れくらい残っているだろう。 なんせ、倭人伝の伊都国の伝承が残っていると威張ってるんだからな・・・。 >>741 ほらね、我慢できずにきたきた。 弥生時代の里程を、現代の精密な地図と比較して、難癖つけるのと同じ輩だ。 >>743 こちらは数人いるようだが、そちらはまさかの一人なの? もしキナイコシじゃないなら、さっさと足を洗うなり、 こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 >>726 邪馬台国がそのまま大和になった説よりかは ましかな >>742 まあ、そう遠慮せずに神武が出立したという港を示せ。 ハナから白紙地図じゃないんだろ。 >>747 伊都国に実在したといってる輩がおるようだ。 そいつに聞いたらどうだ。 しばらく見ないと思ってたら なりすましで少しずつウンコしてたんだな >>744 >こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 え?あなた、バイ菌だれけでしょ 遠慮しておきます、衛生上www >>753 で、邪馬台国までの行程を説明してくんろ(鼻ホジ ないとかあるとかいっても、 まともに説明してるのが伊都説だけだから、 他説と比較のしようがない。 熊襲が狗奴国で、隼人が投馬国なら 邪馬台国は大和だな 熊襲は狗奴国じゃないし、隼人も投馬国じゃないから 邪馬台国は大和じゃないな >>756 伊都国には神武天皇の船団も出立したという良き港があるのですね。 それは確かな裏付けになる。 神武東征のルートは地名が移動しているから難しいな。 宇佐が現在の宇佐ではないことは確実。 地名の混同があったのだろう。 wiki 宇佐より引用 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。 宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。 神武は宇佐へ船で行っているから、宇佐宮でも大分宮でもない。 しかし筥崎宮なら船で行ける。 しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 ああ、そう言えば神武らが船出したのは、伊奘諾が禊をして住吉三神を生んだ小戸だろうね。 伊都から東に船出するならここしかない。 はっはっは 島原だ西都原だと迷彩を施しても 結局は大和に持って行きたいのだなあ 韓人は しかしまあ、福岡県はいったいいくつの王宮があるんだろう。 ちょっとググっても宮宮宮 卑弥呼は高祖宮にゆずるが、 俺の台与は香椎宮。これだけは譲れない。 太宰府天満宮所蔵の国宝「翰苑」に「邪届伊都、傍連斯馬」と書かれていて 邪馬台国は糸島市の伊都に届き、又、糸島郡志摩町の傍らに連なると読める。 http://www.meinohama.town/blog/59/ >>761 >しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 この日向の小戸の都跡というのは、今でいうとどの辺りなの、今津湾内なのかな? >>766 朝鮮半島南岸の投馬国五万戸から四千九百里の辺り。 >>766 場所としてはそうでしょうね。 都ではありませんけど。 http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen3.html 神武の福岡県内の伝承を集めたページを見つけましたよ。 ただしこの方は福岡のむしろ東側に着目しています。 しかし筥崎宮から岡田宮に向かう点は共通ですね。 岡田宮とはどこかも考察されています。 まあ遠賀川流域に違いはないのですが。 北部九州の大きめの神社はたいがいその手の伝承があるからな 遠賀川文化圏と博多湾文化圏の境目が 宮地嶽神社や香椎宮あたりだね。 博多湾を拠点とする神功皇后と 北九州を拠点とする仲哀天皇 その境目に仲哀天皇が亡くなったとされる 香椎宮が置かれている。 このスレ的に邪馬台国は @ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島 D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州 I 宇佐・大分 J その他 のどれが優勢なのよ? A 伊都国=邪馬台国じゃなくて A 北部九州(卑弥呼の都が伊都国) >>765 「翰苑」 憑山負海 鎭馬 臺以建都 阿保だろ? これは馬韓を鎮圧した後の史料を引いている。 というか、倭の五王以降のソースが魏志、魏略を補填してる文だぞ。 馬韓、投馬国、対馬、邪馬(臺)国 は、一連の馬に対応する国名であって さらに日本国王が天皇を名のった、アマノタラシヒコ、隋唐記録も混ざってるだろ? 247年以降の終わってる 筑紫 世襲ですらない『女王国』という名称の国に、 邪馬台国なんて言う、梯儁の仮称は、誤字でもなく、採用しないと思うね。 >>769 畿内で書かれた記紀は畿内での戦いしか書いていない。 しかし実は神武は福岡でも戦っていたことがわかる。 それは倭国大乱の一部だったのだろうね。 投馬の領土だった日向がいつの段階で邪馬台に渡って何時の段階で畿内へ東征したんだ? >>771 考古立証的には、当たっているんじゃないかな? 女王属21国は、香椎、春日、筑紫野以東、 宗像、田川や宇佐は含まないだろう。 福岡平野=奴国については、蝙蝠的立ち位置が有って本州土器を受け入れてる。 九州側筑紫はそもそも諏訪のような宗教的習合であって、古墳、軍事立国ではない。 卑弥呼は公孫氏と晋書に書いてある ここの住人、魏志倭人伝のみを信じて晋書は信じないんだな >>766 日向の小戸というのは淡海の西側の出口付近の小地名ですよ 三雲地区とか高祖山とかは日向には含まれませんよ 高地山クシフルに南北に連なる高地尾という尾根から東側が日向ですね レーダー照射するくらいだから、もういいんだろう。 だが、 勝てばいいが 負けたら??? 竹島どころか 投馬国五万戸??? >>779 投馬国は非統一の植民地状態であって、開拓地=大夫の領地じゃないかな? 基本は青銅交易背景の、半漁の制海権、海人属国の土地だろ? 開拓期のゴールドラッシュは無法地帯がデフォだよ。 馬仕入れて、高句麗と戦争できる軍隊が来ないと統一国にはならんのでは? >>782 信じる云々より、その意味がよくわからない。 公孫氏は滅ぼされたはずだからね。 筑紫に残党が落ち延びて大乱の引き金になったとか? 百済から王族が逃げ延びて壬申の乱になったという説を思い出すけどね。 >>784 筑紫の日向の小戸が高祖山の北側 日向峠が高祖山の南側 日向川は高祖山の東側を流れている では西側は日向ではないとそれはおかしいだろ 神武が船出をしたのは美々津でいいのかな? 地名について考えたのだが、ミミは九州では王の尊称なので、王族のための港ということになる。 民間貿易港だった那の津と対比した地名なんじゃないかな。 場所は今津湾でいいだろうと思うけど。 >>791 それでいいよ。 キナイコシが言うことの反対なら正しいことだ。 あれ?キナイコシさん? 島原とか北薩はどうなったのかなーーー♪w >>782 晋書の著者に、卑弥呼という日本の僻地のシャーマン政権が 理解できると思うなら、それが、間違いなんだろ。 公孫氏は遼東の中華貴族であって 半島では、以降日本統治までの半島貴族同様、唯の収奪者だ。 漢史や魏で、57年〜卑弥呼時代は公孫氏や韓王朝と友好的だった印象だぞ? 多分、生口程度は相当強制連行してると思うけどwww 今津湾は渡来した天孫族の初期ベースキャンプ 海の民の天孫族は高いところが大好きだから 高地山クシフルに登って周囲を鳥瞰してみたわけだが 高地山クシフルへの登山ルートは北の今宿側からの沢登り 博多の那の津(商用) 今津の彌々津(王族用) 前原の船越港(外国賓客用)、、。オー、伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだ。 日向が宮崎とかの方の話なら、 400年辺りまで、日本のうちに入ってないだろ? 歴史は、記紀以降だなwww 女王国の卑弥呼王宮はみやま市南麓だろ。 247年の伊都は、今宿から早良。 早良は古都っぽいから247年以降なら今宿かな? こっちの日向峠は山過ぎでは? 必然的に末蘆は、糸島北西岸。 九州上陸後、この範囲しか移動していない張政の見た、 卑弥呼の墓はこの範囲に無ければならない。 出てなきゃ、もうない。 卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、 魏志倭人伝の記載とも合致してる。 行程もなにもかも説明されて、 今は束の間の勝利確定だけど、相手が反抗してくるゴールデンタイム。 海の民の天孫族の占領区が伊都國 主として砂丘上の海岸線から数百メートル程度の領域が 海の民の天孫族の居住区 >>798 ざーんねん! 投馬国五万戸ーーーwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる