【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが 福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ! 邪馬台国畿内説の根拠は 邪馬台=大和=奈良(完)と言う 風潮に論理的に反論するスレです 九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です! *荒らしはスルーで 過剰なコピペは厳禁 投馬国は紀元前からの土着の勢力で出雲まで進出したが、新興勢力の倭奴国によって領土を荒らされ分断された、投馬国は北部の領土を倭奴国に奪われたが畿内へ進出、北陸越州と同盟を 結び鉄を入手、徐々に力をつけて大和王権となった こんな感じ? >>725 お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴ちゃうん? >>727 名前:日本@名無史さん 2019/01/13(日) 12:11:29.31 お前、どこにでも乗り出して 「チクショー!」とか言ってる奴ちゃうん? >>728 なにそれ?w 凄いテクニックだな、どうやってやったの? >>726 神武は筑紫の日向、つまり伊都国の出身。 伊都高祖宮のヒコホホデミの孫だからね。 それで、神武はどこの港から東へ向かったのだろうねえ >>730 だから、お前、どこにでも乗り出して 「チクシ!」とか言ってる奴やろ?w テクニック 伊都国って言ってる奴は チクシ張り付け荒らし確定だな >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどこの港から出立したのかねえ??。 >>726 なんだその、カルフォルニアのゴールドラッシュで アメリカ原住民がヨーロッパに進出したみたいな頓珍漢な話は? >>736 的確な例えだな。 つか、伊都説以外の書き込みが支離滅裂で笑える。 もう単なる願望の垂れ流し。 >>730 それで神武は、筑紫の日向、つまり伊都国のどの港から東へ向かって出立したのかね??。 >>739 地図を見て伊都国が面した湾の好きな場所を選んだら? まさかと思うが、 弥生時代のどの波止場か証明できないから嘘だ、とか 言わないでねぇ。 >>740 その地を裏付ける港遺跡ぐらいあるだろう。 それに、神武の出立となれば、相当の船団・人員だったであろうから、 出立及び出立地の伝承の片割れくらい残っているだろう。 なんせ、倭人伝の伊都国の伝承が残っていると威張ってるんだからな・・・。 >>741 ほらね、我慢できずにきたきた。 弥生時代の里程を、現代の精密な地図と比較して、難癖つけるのと同じ輩だ。 >>743 こちらは数人いるようだが、そちらはまさかの一人なの? もしキナイコシじゃないなら、さっさと足を洗うなり、 こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 >>726 邪馬台国がそのまま大和になった説よりかは ましかな >>742 まあ、そう遠慮せずに神武が出立したという港を示せ。 ハナから白紙地図じゃないんだろ。 >>747 伊都国に実在したといってる輩がおるようだ。 そいつに聞いたらどうだ。 しばらく見ないと思ってたら なりすましで少しずつウンコしてたんだな >>744 >こちらに来た方がいいよ。精神衛生上。 え?あなた、バイ菌だれけでしょ 遠慮しておきます、衛生上www >>753 で、邪馬台国までの行程を説明してくんろ(鼻ホジ ないとかあるとかいっても、 まともに説明してるのが伊都説だけだから、 他説と比較のしようがない。 熊襲が狗奴国で、隼人が投馬国なら 邪馬台国は大和だな 熊襲は狗奴国じゃないし、隼人も投馬国じゃないから 邪馬台国は大和じゃないな >>756 伊都国には神武天皇の船団も出立したという良き港があるのですね。 それは確かな裏付けになる。 神武東征のルートは地名が移動しているから難しいな。 宇佐が現在の宇佐ではないことは確実。 地名の混同があったのだろう。 wiki 宇佐より引用 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。 宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。 神武は宇佐へ船で行っているから、宇佐宮でも大分宮でもない。 しかし筥崎宮なら船で行ける。 しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 ああ、そう言えば神武らが船出したのは、伊奘諾が禊をして住吉三神を生んだ小戸だろうね。 伊都から東に船出するならここしかない。 はっはっは 島原だ西都原だと迷彩を施しても 結局は大和に持って行きたいのだなあ 韓人は しかしまあ、福岡県はいったいいくつの王宮があるんだろう。 ちょっとググっても宮宮宮 卑弥呼は高祖宮にゆずるが、 俺の台与は香椎宮。これだけは譲れない。 太宰府天満宮所蔵の国宝「翰苑」に「邪届伊都、傍連斯馬」と書かれていて 邪馬台国は糸島市の伊都に届き、又、糸島郡志摩町の傍らに連なると読める。 http://www.meinohama.town/blog/59/ >>761 >しかも伊都高祖宮の近くの筑紫の日向の小戸から船出して、岡湊宮に向かう途中にある。 この日向の小戸の都跡というのは、今でいうとどの辺りなの、今津湾内なのかな? >>766 朝鮮半島南岸の投馬国五万戸から四千九百里の辺り。 >>766 場所としてはそうでしょうね。 都ではありませんけど。 http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen3.html 神武の福岡県内の伝承を集めたページを見つけましたよ。 ただしこの方は福岡のむしろ東側に着目しています。 しかし筥崎宮から岡田宮に向かう点は共通ですね。 岡田宮とはどこかも考察されています。 まあ遠賀川流域に違いはないのですが。 北部九州の大きめの神社はたいがいその手の伝承があるからな 遠賀川文化圏と博多湾文化圏の境目が 宮地嶽神社や香椎宮あたりだね。 博多湾を拠点とする神功皇后と 北九州を拠点とする仲哀天皇 その境目に仲哀天皇が亡くなったとされる 香椎宮が置かれている。 このスレ的に邪馬台国は @ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島 D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州 I 宇佐・大分 J その他 のどれが優勢なのよ? A 伊都国=邪馬台国じゃなくて A 北部九州(卑弥呼の都が伊都国) >>765 「翰苑」 憑山負海 鎭馬 臺以建都 阿保だろ? これは馬韓を鎮圧した後の史料を引いている。 というか、倭の五王以降のソースが魏志、魏略を補填してる文だぞ。 馬韓、投馬国、対馬、邪馬(臺)国 は、一連の馬に対応する国名であって さらに日本国王が天皇を名のった、アマノタラシヒコ、隋唐記録も混ざってるだろ? 247年以降の終わってる 筑紫 世襲ですらない『女王国』という名称の国に、 邪馬台国なんて言う、梯儁の仮称は、誤字でもなく、採用しないと思うね。 >>769 畿内で書かれた記紀は畿内での戦いしか書いていない。 しかし実は神武は福岡でも戦っていたことがわかる。 それは倭国大乱の一部だったのだろうね。 投馬の領土だった日向がいつの段階で邪馬台に渡って何時の段階で畿内へ東征したんだ? >>771 考古立証的には、当たっているんじゃないかな? 女王属21国は、香椎、春日、筑紫野以東、 宗像、田川や宇佐は含まないだろう。 福岡平野=奴国については、蝙蝠的立ち位置が有って本州土器を受け入れてる。 九州側筑紫はそもそも諏訪のような宗教的習合であって、古墳、軍事立国ではない。 卑弥呼は公孫氏と晋書に書いてある ここの住人、魏志倭人伝のみを信じて晋書は信じないんだな >>766 日向の小戸というのは淡海の西側の出口付近の小地名ですよ 三雲地区とか高祖山とかは日向には含まれませんよ 高地山クシフルに南北に連なる高地尾という尾根から東側が日向ですね レーダー照射するくらいだから、もういいんだろう。 だが、 勝てばいいが 負けたら??? 竹島どころか 投馬国五万戸??? >>779 投馬国は非統一の植民地状態であって、開拓地=大夫の領地じゃないかな? 基本は青銅交易背景の、半漁の制海権、海人属国の土地だろ? 開拓期のゴールドラッシュは無法地帯がデフォだよ。 馬仕入れて、高句麗と戦争できる軍隊が来ないと統一国にはならんのでは? >>782 信じる云々より、その意味がよくわからない。 公孫氏は滅ぼされたはずだからね。 筑紫に残党が落ち延びて大乱の引き金になったとか? 百済から王族が逃げ延びて壬申の乱になったという説を思い出すけどね。 >>784 筑紫の日向の小戸が高祖山の北側 日向峠が高祖山の南側 日向川は高祖山の東側を流れている では西側は日向ではないとそれはおかしいだろ 神武が船出をしたのは美々津でいいのかな? 地名について考えたのだが、ミミは九州では王の尊称なので、王族のための港ということになる。 民間貿易港だった那の津と対比した地名なんじゃないかな。 場所は今津湾でいいだろうと思うけど。 >>791 それでいいよ。 キナイコシが言うことの反対なら正しいことだ。 あれ?キナイコシさん? 島原とか北薩はどうなったのかなーーー♪w >>782 晋書の著者に、卑弥呼という日本の僻地のシャーマン政権が 理解できると思うなら、それが、間違いなんだろ。 公孫氏は遼東の中華貴族であって 半島では、以降日本統治までの半島貴族同様、唯の収奪者だ。 漢史や魏で、57年〜卑弥呼時代は公孫氏や韓王朝と友好的だった印象だぞ? 多分、生口程度は相当強制連行してると思うけどwww 今津湾は渡来した天孫族の初期ベースキャンプ 海の民の天孫族は高いところが大好きだから 高地山クシフルに登って周囲を鳥瞰してみたわけだが 高地山クシフルへの登山ルートは北の今宿側からの沢登り 博多の那の津(商用) 今津の彌々津(王族用) 前原の船越港(外国賓客用)、、。オー、伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだ。 日向が宮崎とかの方の話なら、 400年辺りまで、日本のうちに入ってないだろ? 歴史は、記紀以降だなwww 女王国の卑弥呼王宮はみやま市南麓だろ。 247年の伊都は、今宿から早良。 早良は古都っぽいから247年以降なら今宿かな? こっちの日向峠は山過ぎでは? 必然的に末蘆は、糸島北西岸。 九州上陸後、この範囲しか移動していない張政の見た、 卑弥呼の墓はこの範囲に無ければならない。 出てなきゃ、もうない。 卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、 魏志倭人伝の記載とも合致してる。 行程もなにもかも説明されて、 今は束の間の勝利確定だけど、相手が反抗してくるゴールデンタイム。 海の民の天孫族の占領区が伊都國 主として砂丘上の海岸線から数百メートル程度の領域が 海の民の天孫族の居住区 >>798 ざーんねん! 投馬国五万戸ーーーwww >>798 倭人伝を正しく読むためには その他の文献の検証も必要だが 張政が一大卒に駐留させられた 247年以前に 伊都国が存在したという根拠はない。 ってことは、理解できるかな? 考古学が、石碑や金印や木簡以外で伊都を探せると思うか? 出来ないから、デタラメで古代史はぐらかしてんだろw >>797 >卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、 そうか、そりゃ良かった。 ではこれで、もう何もすることないな。 さいなら、さいなら、さいなら!! 張政レポートに依存したというの自体が謂れのない妄想 >>801 こっちはまだ詰める作業があるんでね。 そちらこそ無駄な屁理屈書類を一括廃棄おつかれさん。 遂周觀諸國 采其法俗・小大區別 各有名號 可得詳紀 247年以降に実施された周觀諸國の結果が盛り込まれている キナイコシが忙しくなると島原が消えた。 あれ? 島原(の仮面被った日本人じゃないやつ)がんばれ!!! 裸踊りガンバレwww 半島南岸の投馬国五万戸を否定しないと、給料出ないんじゃないの? だいじょうぶかキナイコシ? 張政レポート厨は同時代史の何たるかをよく理解できていないようだ >>782 倭国大乱を治める名目で 公孫氏から卑弥呼が担がれたんだよ >>801 247年で、筑紫女王国と魏の国交は終わった。 139年公孫氏、246年韓王朝の滅亡で、古墳系の軍事王朝が 九州北部に一大率を置いたというのは、日本の歴史として、どの程度重用かな? 240年の梯儁の行軍は伊都に駐留してないし、させたら戦争だしw 240年に伊都の一大卒が有ったか無かったかは判らない。 しかし、九州平定と半島進出は、400年までで 新羅と百済の建国は、日本が百済に牛馬の道を作ったこの期間にしかない。 縄文海神の日本が作った、古代韓が 稲作や文字や青銅鉄器や仏教を伝えてやったニダと言っても 南岸が倭人国で、制海権に疑問がある百済人移民が、高句麗馬連れて来るかよ? 日本人騙せる、稲作導入神話には遅すぎだし・・・ これが、今どきの中学生でも判る東亜古代史なんだが? 日本の民間歴史厨の ネラーのみんなはど〜スンの? 山海経 「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」 紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ >>800 歴史書は年代順に書いてある。倭人伝も、その事項は年代順に書いてある。 247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。 よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。 ・其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。 ・遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。 247年(其八年)の記事よりあとに書いてある記事は、 張政来倭よりのちのことである。以上、倭人伝の記載順序により証明されている。 >>813 >247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。 >よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。 変な理屈作って、自滅してるだろ? 時系列の記述方法? 陳寿は魏の使譯2回の記録をソースにした。 張政が生きていた可能性もある。 今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 が発起文 循海岸水行 歴韓国 を置いた場合、寄港地間の里程を示した張政の寄港文でつなぐのが良い。 梯儁 の文は 紀行ではなく 隣接する経過国の投馬国と女王国の地理説明でしかない。 この梯儁の参問21所属王国を記載する筆法で、張政行程との記載順序が決まった。 次有 ―21国― 此女王境界所盡 この 此 が 全てである21国 でないなら、無駄な 次有 を重ねる理由は無い。 其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘 南至 投馬國 水行二十日 以降の文節はこれで完結している。 ここって、文法的に正しく読む、スレだけれども・・・ 陳寿にも若干の癖がある。 さすが血も涙もないな。 九州説を攪乱するためだけに 平和な島原や薩摩を持ち出しておいて 不利になったら見捨てて >紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ 日本人を舐めてんのか? 倭国大乱の前にも70〜80年も倭王がいたことがわかっていて、その時代の王墓も倭王に叙された金印も見つかっている。 倭国の王都が博多湾沿岸であったことは確定している。 そしてそこに女王墓もあった。 もう邪馬台国論争は終了してもいいくらいだ。 そして記紀との擦り合わせまでできてしまった。 国内外の史書は伊都が王都で一致していた。 >陳寿にも若干の癖がある。 落ち、が後なんだよねw 238年帯方郡は倭王として卑弥呼を皇帝に紹介した 240年 印綬行軍の梯儁は、卑弥呼が筑紫21国7万戸 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 の王である事を確認した。 247年張政は 使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 女王国王は死に、そもそも倭王ではなく、外交でも主体国家でないことを、報告した。 これで、三国志覇者戦国王の 魏と 邪馬台国 の国交は終わった。 日本は、韓四郡追討、百済新羅建国、対高句麗、牛馬鉄移入の富国強兵を果たした。 以降が、400年からの、倭の五王だろ? これ以外に247年の邪馬台国終了と350年の百済新羅建国 400年の倭の五王が繋がる、屁理屈が有るの? 300年から高句麗牛馬の移入、鉄の国内生産は、この他のルート無いよね。 多分これ、千年遅いけど、王の居るような国に、渡来人って勝手に来るの? 伊都はどうあがいたって、出先機関以上のものではないことは確定している。 伊都は特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國、「一大率が治めるところ」って明記してある以上、動かしようがない。 人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。 陳寿の報告は、(大陸本土ならともかく)距離方位は信用ならないが、人口統計はいささか信憑性がある。 なんたって、数かぞえて記録するだけなんだから。手間が膨大なだけで。 租税の賦課と生産人口把握は不可分。 >>819 伊都国が卑弥呼の都で決着しましたよw 「自女王国以北特置 一大率 檢察諸國畏憚之」一大率が置かれたのはは女王国以北ですよ 「常治伊都國」伊都国で卑弥呼が常に治めるところ 人口的に北九州に邪馬台国が十分に収まりることも証明されましたし 距離も方位も完全に一致してますからw >>817 >落ち、が後なんだよねw そうそう。 もったいぶるんだよ。 より遠い投馬国への日数の後に邪馬台国への日数を述べたり。 伊都国の紹介で王はここにいたとだけ書き、その名である卑弥呼は別のところに書いたり。 >>819 >人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。 人口の問題も解決したぞ! >>698 >725年推定人口・・・奈良時代推定人口 >・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一) >・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式) (中略) > >最小を使っても >筑前 ・85,400人 >筑後 ・59,300人 >豊前 ・47,200人 >豊後 ・51,600人 >肥前 ・48,300人 >肥後 108,700人 >壱岐 ・・9,400人 >対馬 ・・7,000人 >合計 416,900人(1戸5人として83,380戸) >500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸 そもそも九州で無理な人口なら、稲作の生産力から考えて畿内全部合わせてももっと無理。 >>820 決着してたの? このスレ的に? おれは伊都国は無いと思っているが みんな本当に伊都国だと思ってるの? 伊都はまず無いわ 魏志倭人伝を読みこんで 伊都だと思ってる奴らはどんだけ読解力が無いんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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