【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 海の民の天孫族の占領区が伊都國
主として砂丘上の海岸線から数百メートル程度の領域が
海の民の天孫族の居住区 >>798
ざーんねん!
投馬国五万戸ーーーwww >>798
倭人伝を正しく読むためには
その他の文献の検証も必要だが
張政が一大卒に駐留させられた
247年以前に 伊都国が存在したという根拠はない。
ってことは、理解できるかな?
考古学が、石碑や金印や木簡以外で伊都を探せると思うか?
出来ないから、デタラメで古代史はぐらかしてんだろw >>797
>卑弥呼の墓はもう出てるし、一括国宝指定だし、
そうか、そりゃ良かった。
ではこれで、もう何もすることないな。 さいなら、さいなら、さいなら!! 張政レポートに依存したというの自体が謂れのない妄想 >>801
こっちはまだ詰める作業があるんでね。
そちらこそ無駄な屁理屈書類を一括廃棄おつかれさん。 遂周觀諸國 采其法俗・小大區別 各有名號 可得詳紀
247年以降に実施された周觀諸國の結果が盛り込まれている キナイコシが忙しくなると島原が消えた。
あれ?
島原(の仮面被った日本人じゃないやつ)がんばれ!!!
裸踊りガンバレwww 半島南岸の投馬国五万戸を否定しないと、給料出ないんじゃないの?
だいじょうぶかキナイコシ? 張政レポート厨は同時代史の何たるかをよく理解できていないようだ >>782
倭国大乱を治める名目で
公孫氏から卑弥呼が担がれたんだよ >>801
247年で、筑紫女王国と魏の国交は終わった。
139年公孫氏、246年韓王朝の滅亡で、古墳系の軍事王朝が
九州北部に一大率を置いたというのは、日本の歴史として、どの程度重用かな?
240年の梯儁の行軍は伊都に駐留してないし、させたら戦争だしw
240年に伊都の一大卒が有ったか無かったかは判らない。
しかし、九州平定と半島進出は、400年までで
新羅と百済の建国は、日本が百済に牛馬の道を作ったこの期間にしかない。
縄文海神の日本が作った、古代韓が
稲作や文字や青銅鉄器や仏教を伝えてやったニダと言っても
南岸が倭人国で、制海権に疑問がある百済人移民が、高句麗馬連れて来るかよ?
日本人騙せる、稲作導入神話には遅すぎだし・・・
これが、今どきの中学生でも判る東亜古代史なんだが?
日本の民間歴史厨の ネラーのみんなはど〜スンの? 山海経
「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」
紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ >>800
歴史書は年代順に書いてある。倭人伝も、その事項は年代順に書いてある。
247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。
よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。
・其八年、太守王頎到官。倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊状。
・遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
247年(其八年)の記事よりあとに書いてある記事は、
張政来倭よりのちのことである。以上、倭人伝の記載順序により証明されている。 >>813
>247年(其八年)の張政らの記事より前に書いてあることは、247年より前のことである。
>よって、247年より前から、伊都国は存在していたことは証明されている。
変な理屈作って、自滅してるだろ?
時系列の記述方法?
陳寿は魏の使譯2回の記録をソースにした。
張政が生きていた可能性もある。
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 が発起文
循海岸水行 歴韓国
を置いた場合、寄港地間の里程を示した張政の寄港文でつなぐのが良い。
梯儁 の文は 紀行ではなく 隣接する経過国の投馬国と女王国の地理説明でしかない。
この梯儁の参問21所属王国を記載する筆法で、張政行程との記載順序が決まった。
次有 ―21国― 此女王境界所盡
この 此 が 全てである21国 でないなら、無駄な 次有 を重ねる理由は無い。
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘
南至 投馬國 水行二十日 以降の文節はこれで完結している。
ここって、文法的に正しく読む、スレだけれども・・・
陳寿にも若干の癖がある。 さすが血も涙もないな。
九州説を攪乱するためだけに
平和な島原や薩摩を持ち出しておいて
不利になったら見捨てて
>紀元前の倭国は半島にあったのはほぼ確定だろ
日本人を舐めてんのか? 倭国大乱の前にも70〜80年も倭王がいたことがわかっていて、その時代の王墓も倭王に叙された金印も見つかっている。
倭国の王都が博多湾沿岸であったことは確定している。
そしてそこに女王墓もあった。
もう邪馬台国論争は終了してもいいくらいだ。
そして記紀との擦り合わせまでできてしまった。
国内外の史書は伊都が王都で一致していた。 >陳寿にも若干の癖がある。
落ち、が後なんだよねw
238年帯方郡は倭王として卑弥呼を皇帝に紹介した
240年 印綬行軍の梯儁は、卑弥呼が筑紫21国7万戸
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
の王である事を確認した。
247年張政は
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
女王国王は死に、そもそも倭王ではなく、外交でも主体国家でないことを、報告した。
これで、三国志覇者戦国王の 魏と 邪馬台国 の国交は終わった。
日本は、韓四郡追討、百済新羅建国、対高句麗、牛馬鉄移入の富国強兵を果たした。
以降が、400年からの、倭の五王だろ? これ以外に247年の邪馬台国終了と350年の百済新羅建国
400年の倭の五王が繋がる、屁理屈が有るの?
300年から高句麗牛馬の移入、鉄の国内生産は、この他のルート無いよね。
多分これ、千年遅いけど、王の居るような国に、渡来人って勝手に来るの? 伊都はどうあがいたって、出先機関以上のものではないことは確定している。
伊都は特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國、「一大率が治めるところ」って明記してある以上、動かしようがない。
人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。
陳寿の報告は、(大陸本土ならともかく)距離方位は信用ならないが、人口統計はいささか信憑性がある。
なんたって、数かぞえて記録するだけなんだから。手間が膨大なだけで。
租税の賦課と生産人口把握は不可分。 >>819
伊都国が卑弥呼の都で決着しましたよw
「自女王国以北特置 一大率 檢察諸國畏憚之」一大率が置かれたのはは女王国以北ですよ
「常治伊都國」伊都国で卑弥呼が常に治めるところ
人口的に北九州に邪馬台国が十分に収まりることも証明されましたし
距離も方位も完全に一致してますからw >>817
>落ち、が後なんだよねw
そうそう。
もったいぶるんだよ。
より遠い投馬国への日数の後に邪馬台国への日数を述べたり。
伊都国の紹介で王はここにいたとだけ書き、その名である卑弥呼は別のところに書いたり。 >>819
>人口的に北九州に邪馬台国が収まりきらないことも確定しているし。
人口の問題も解決したぞ!
>>698
>725年推定人口・・・奈良時代推定人口
>・・・(鬼頭宏)・・・・・・・・・(澤田吾一)
>・・・・・・・・・・・・・・・(弘仁式)・・・(延喜式)
(中略)
>
>最小を使っても
>筑前 ・85,400人
>筑後 ・59,300人
>豊前 ・47,200人
>豊後 ・51,600人
>肥前 ・48,300人
>肥後 108,700人
>壱岐 ・・9,400人
>対馬 ・・7,000人
>合計 416,900人(1戸5人として83,380戸)
>500年前なので0.85を掛け 83,380戸×0.85=70873戸≒70000戸
そもそも九州で無理な人口なら、稲作の生産力から考えて畿内全部合わせてももっと無理。 >>820
決着してたの?
このスレ的に?
おれは伊都国は無いと思っているが
みんな本当に伊都国だと思ってるの? 伊都はまず無いわ
魏志倭人伝を読みこんで
伊都だと思ってる奴らはどんだけ読解力が無いんだよ >>821
完全に違うことにミスリードできることに感動したw
>投馬国は半島南岸で女王国以北だしw
>伊都国の紹介で 王はここにいた とだけ書き、?
女王の所属国の王や使、は伊都国を往来する、郡使は駐留させられた、訳で?
>その名である卑弥呼は
九州上陸から2千里の 邪馬国 の 臺=女王宮で印綬した
訳です。
そこまで、判って真実を拒否するってのは凄いと思う。
邪馬台国論争が、飯のタネになる訳だwww 伊都国は足し算で1万5百里で
邪馬台国の女王の所都は1万2千里だろが?
倭人伝を正しく読むスレだろ?
どっちが、女王の居場所だよ? クイズ馬鹿なの?
247年は、末蘆から首都機能の有る伊都までの 5百里間の 墓の中だし
240年は、上陸後行軍2千里に 女王の臺=王宮 が有ってその処都で卑弥呼に印綬だよ。
別の場所ってのは、明白だろ? >>812
紀元前は倭国自体無い
その場合の倭は大陸倭人だね
日本列島の倭とは無関係 >>829
それが、知らないだけと読めないのは
大陸倭人というか、じゃなきゃ何? >>821
伊都国も奴国より遠いのに先に書いてあるよ
単に文法だったり、古代中国語の書き方じゃないの? >>820
当該箇所に女王という単語はない。「女王国以北」の位置説明はあるが。
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国以北の諸国を伊都国で「一大率が」治めてるんだよ。
常治伊都國の次に於國中有如刺史「我が国における監察官・州長官)である」と書いとるじゃろが。
主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。
「女王が伊都国で(女王国以北の諸国を)統治している。(女王は)我が国における刺史である」
では、まったく意味不明。
「一大率が伊都国で(女王国以北の諸国を)統治している。(一大率は)我が国における刺史である」
一大率は刺史のようである、女王が伊都で統治しているなら
特置一大率檢察 諸國畏憚之 於國中有如刺史 女王常治伊都國
になる。
人口が北九州に収まりきらないことは既に検証確定されているので割愛。 このスレ的に邪馬台国は
@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島
D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州
I 宇佐・大分 J その他
のどれが優勢なのよ? >>833
九州北部は全てアウトであることが論証されている以外は未確定。
記載行程的には有力でも考古資料に乏しかったり、その逆だったり一長一短。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 博多の那の津(商用)
今津の彌々津(王族用)
前原の船越港(外国賓客用)・・・一大率は、この港で出入国船を検めた
ほほう、糸島の伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだぜーー。 >>832
「女王が伊都国で(女王国以北の諸国を一大率を使って)統治している。(この女王が伊都国で女王国以北の諸国を一大率を使って統治している様子が)我が国における刺史である」 >>829
その大陸倭人が邪馬台国の卑弥呼だろ
関係大有りじゃんw 今津の彌々津ね
爾支が邇邇藝に化ける構図からすると
彌々津は彌の津
彌が地名のコアな部分
不彌とかあふみの彌なんでしょうね
このポートは今津湾から小戸を通って
ラグーンに入り込んだ内側にあるということですね もともと北部九州は伊都国・那国・不彌国の三国を想定し、巨大な邪馬台国は畿内にあるはずだった。
ところが肝心の畿内箸墓説が頓挫して、邪馬台国が北部九州へ出戻りになり、おまけに投馬国までついてきてしまった。
福岡平野は、急に7万戸+5万戸が転がり込んできて超満員状態。家も足りない、墓も足りない・・。
想定外のことで、一気に破綻してしまったようだなあ。、 >>840
そこへ、真実の根拠を引っ提げて、颯爽と登場したのが倭国(阿波)。 @阿波 弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。
それぞれ邪馬台国、狗奴国、投馬国。 >>832
一大率が複数かどうかわからない
諸国にそれぞれ置いたのかも?
壱岐対馬も含めるだろうから、その可能性はあると思うね
この文の"治"の主語は女王か一大率かわからない
その前の文の"置"は女王だろうけど
国中(国内)における刺史の様だから、体制の事を示せば、複数人いる事になる
解釈の仕方は2通りあると思うね
正しく読む、ならば断定してはいけないかもな 刺史は州ごとに置かれる
複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね >>842
>弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。
と言いながら、弥生時代後期集落遺跡を提示できないお粗末さ。 せいぜい提示できる遺跡は古墳ばかりなり。 @阿波 >>844 名前:日本@名無史さん 2019/01/14(月) 09:33:59.83
>刺史は州ごとに置かれる
>複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね
刺使の如し・・、だ。
例によって陳寿が、もったいぶって筆を走らせただけのこと。中華の刺使制度の極くミニチュア版だったのさ。 >>843
>一大率が複数かどうかわからない
一なんだから、一人だろ。
水戸黄門みたいなのがいたんだよ。 >>849
別に無視している訳では無いが、それを言い出すと、やれ半島起源だ、馬韓だと言う奴と皇国史観の奴とかも出てきて収拾がつかなくなる
馬韓スレでやれ
って話よ 諸國畏憚之と、諸国をビビらせてるんだから、女王国側の駐留軍隊があったんだろ。「率いる」ってぐらいだし。
官吏一人二人で諸国に目を光らせられるわけもなく、各国邑に支部というか駐屯部隊があって、北九州方面総督部が伊都に置かれたということだな。
終戦直後のGHQみたいなもんか。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>832
原文の引き方でミスリードさせてるだけでしょ?
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
張政が(小倭である女王国に)大倭を見た所感として、
女王国以南には無い、女王国以北にだけ、特に置かれた一大率があり、
檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史 でしょうが。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
王の書簡や、賜遺之物詣女王 まで検閲されて、完全に国家主権も無い状態です。
三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって
刺史 や 州牧 が 後に戦国王の魏王や蜀王や呉王になってるんだけど・・・
ちなみに
313年四郡を追い払った高句麗は350年、幽州刺史、楽浪候として中国貴族になった。
史刺 同様のミスリードなんで、ついでに、言っておくが
戦国王は辺境の勝者を味方に付けるものであり、
245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。
戦国時代の 檄 とはそういうもの。
狗奴国との戦争で、魏が卑弥呼の味方に着いたとか、なんのデタラメ解釈だよwww >>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察されている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。 >>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。 >>854
>三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって
いや、だから、女王国中央郡の進駐軍指揮官が伊都国に置かれた、で綺麗に意味が通る。各国にはそれなりの部隊を配置しても、最高指揮官は伊都。
地域王である伊都王より上位(もしくは別権力)に一大率が存在するんでそ。
檢察諸國畏憚之から読み取れることは、代々女王に臣従した伊都国を除き、女王国と北九州の諸勢力とは不和、もしくは緊張関係にあったということ。
卑弥呼は征服王ではなく、共立王なんだから、中華の戦国王を引き合いに出すのは意味不明。
何のミスリードしたいの? 大率は卑弥呼が倭国の最重要地域である対馬海峡を統治するために定めた大将軍のことだよ。
広域を支配していたから、平時においては刺史になぞらえられた。
地方官というのは恣意的な解釈であり、誤りだ。 倭では一大率の仕事は檢察諸國だと書かれているんだけどね。 >>854
このレスは、論旨・論点不明瞭。何を言いたいかも不明朗。 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王
これが、検閲、駐留させられた張政の報告であるから かもしれないけれど、
一大卒は 特に九州の王族の 貿易や外交についての検閲を 主業にしてる
中央の軍事政府から派遣された、司令官に見える。
247年のこの報告で 魏と九州北部の女王国の国交が終わった
十分な理由が読み取れるんだけどね。 残念だけどw
後の大和朝廷は、親交のあった、
公孫氏や韓王朝を滅ぼした 魏、楽浪帯方郡 に対し、
これ以降、敵意をもって、半島進出と富国強兵に突き進んだ。
313年四郡撤退、高句麗戦での富国強兵、350年新羅、百済の傀儡建国は、
日清、日露戦争、半島統治、大韓帝国建国時代の日本並みに、
高等外交戦術が有ったと思うね。
卑弥呼の国にできる仕事じゃないと思うよ。
ネトウヨと呼ばれる覚悟を持てる、5ちゃんじゃないと、
真実は語れないかもしれないけど・・・ >>861
漢字飛ばして読んでる? 簡体字に訳してもらえば? >>862
全くもって意味不明
大率が伊都に到着した荷物を確認したのは、伊都に女王がいたからだろ
途中で荷を解くわけがない
247年より後も国交は続いているし
大和にそのような強大な勢力があった痕跡はない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
>魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
>これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。
魏の都合からすると 難昇米に韓地討伐戦に参戦されると困る
檄を読み上げて告諭してもらったのは難昇米だけではなくて
壹與も檄による告諭で女王になった
難昇米はこの時に黄幢をゲットして帝権の代行者として振舞うことを許容された
そのなかみは直接的な統制下にはない國國の軍団の指揮権
州刺史の持つような郡の軍団の指揮権と同列のもの 遺跡だけで言うと倭の発祥はオクキョンじゃね?ただ倭人と韓人は別民族だからそれを持って韓国起源にはならないけどな 短里標準里、直線距離行程距離、どの読み方をしても女王国まで12000余里に当てはまらない伊都国で女王が治めたって意味不明。
普通に一大率は伊都国で治めた、我が国の刺史のようだ、、でいいよ。 >>862
わざと時系列をひっくり返して解釈するのが、
高級・高等で深読みなんだと、内心自慢し、見せびらかしてるようだ。 九州北岸まで一万里だから、畿内はもっとあり得ない。
伊都の方は一割程度の距離の誤差のようなもの。 >>870
畿内説は後の出来事から理由をこじつけて嘘をつくのが常套手段なんだよ >>872
なるほど、そうなのか
まるで学生の解答を見てから、教官が試験問題を書き換えるようなものだな、
畿内の学校ではそういうイジワルな裏技も教育するのか、、、、。 畿内説の極道わざのネタは、時系列をいじくることか、
そういえば、4世紀の古墳を繰り上げて三世紀中ごろだとホラ吹いたのもそのクチだったのか・・・、 わざと、主語を書かない、という手口も使うようだな。
それで議論を混乱させようとたくらむやつな。
相手の出方を見て、あれはそのことじゃない・・・、とかいって、主語逃れをするのな。 >>876
笑っちゃうね
このブログで「クナ国」と勝手読みしている勢力こそ、正真の卑弥呼の「邪馬台国」なのだが・・・。 狗奴国と邪馬台国は本来は同じ肥国王家の系統で、家督争いをしていたのだろう。
だから壹與を共立して和合したのだと思う。
どちらかがどちらかを滅ぼしたというような単純な話ではないだろう。 >>867
卑弥呼の出身は
1)不弥国
沖ノ島が卑弥呼の島になってる。
2)伊都国、奴国
倭王の外戚。
3)邪馬国
邪馬国の女王。
4)公孫氏
公孫氏のスパイ。公孫淵の配下に卑衍がいるし。
5)鮮卑
卑から。
ぐらいあんのかな。
>>868
オクキョンの年代は土器編年で不正確だし、
たぶん、日本の方が古いっしょ。
>>880
卑弥呼は外様で狗奴国王と壱与が正統の血統かと思う。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 卑弥呼は筑紫王家の外戚である肥国王家の女王で、筑後出身だが伊都で倭王に就任し、平原遺跡に葬られた。 シャーマンは王の血筋とは関係ないだろう。
寧ろ王の血筋で争って倭国大乱が起き、シャーマンを頭に据えて争いが収まったのに
その人物がどこかの血筋だったりしたら、収まる争いも収まらない。
一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。 逆だろ。
卑弥呼に伊都国王は代々臣従して、伊都国が女王国の北九州方面出張所になったの。
臣従の理由が卑弥呼の外戚だったから、という理由はありえる。
漢代には北九州の盟主として委奴国王に封ぜられた奴国が、千戸あまりの小国の下座につくわけがなかろう。
バックに7万戸の大国が控えてるからこそ、女王国の官を受け入れ一大率の監察下という立場を受け入れてるのだよ。
ごく一部に平原遺跡の大型内行花文鏡を八咫鏡と同一視する向きもあるが、代々受け継がれるべき神体を副葬品とするはずはなく、形代のひとつかさらにランクの落ちる複製品か、ということになる。
平原一号墓が方形周溝墓であり、円墳でも径百余歩でもない事から卑弥呼の墓でない事はあきらか。 伊都国は九州古来の古都で
卑弥呼の名目上は大乱を静めるため
実体はガイ国の領土拡大ために来たんだろうな >>887
>>885
卑弥呼が公孫氏だったら
魏に朝貢をする訳がない
ありえん >>876
このブロガーは、福岡平野(博多那国)こそ邪馬台国に間違いない!、という立場で書きづづっている。
そう考えるから、其の南の熊本平野が狗奴国でこれまた間違いない!、ということになる。
先入観が10歩も100歩も先に出てしまっているとみた。
だから、全国の社寺遺跡を訪ね歩いたにしては、見ているのは、遺跡・遺物などの点々チェックばかり。
それに佐賀平野は全く考慮の外だ。
もしかして、佐賀モンはお好きでないのかな。
しかし、国と国をつなぐのは昔も今も道だ。
道こそ、古代〜現代〜未来を雄弁に物語る4次元ネットワークなのだ。。
唐津ー佐賀川上ー吉野ヶ里を結ぶ古道こそ、倭人伝陸行の道である。佐賀嫌いを言わず、一度訪ねてほしいな。 >>886
卑弥呼が日本=倭国の王であるなら、
数代に渡る戦国史である三国志で、
なぜ日本が女王国などと言う、一代個人の名で語られるのか。
実際、卑弥呼の後先で、世襲ですらない王の国は乱れている。
240年印綬の際は、女王の処都は、郡から万二千里にあった。
247年の伊都、女王属国の全ての王や使者が往来し、郡使が検閲で駐留させられた
首都は、張政の里程行程の合計、一万500里にあった。
帯方郡が、卑弥呼を倭王と間違えて印綬しちゃいました。
と言う経緯は、所属が 列記21国 で7万戸、九州北部2千里までの
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 でした。
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
です。 で判るだろw
残念な国が 邪馬台国 なんだよ。 >>888
だからこそ
ごますってたのかもしれんよ >>884
>一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。
当にその通り。
軍隊は、諸国・諸藩の下にあり、それを神勅により統御した。これを原型として、その後の日本統治へ続く・・・ >>890
畿内厨お得意の、時系列操作と主語隠しww >>886
平原の大型内行花文鏡が八咫の鏡なのは大きさや文様からみて間違いない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1
>また、後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
>咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
>(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり)
>
>とある。「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、八咫は約147cmとなる。
>現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えると鏡はもっと小さいモノであるはずであり、このことから「八咫(やた)」は
>単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではない、という説があった。
>しかし平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、
>弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった
中略
>福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
>4面(破片の分析からは5面)は原田大六によると八咫鏡そのものという[5][6]。
>この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。
>また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は
>現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。
代々受け継がれるべき神体、という固定観念は同型鏡を1枚しか持っていなかった大和朝廷の概念であって
作ろうと思えばいつでも作れた伊都国の概念ではない(大型内行花文鏡は国産鏡) >>888
公孫氏は漢代の冊封だけど、三国志では
魏の冊封内に居たんじゃないかな?
なのに、燕王を名乗り、呉との同盟を疑われて滅ぼされた。
ちなみに、倭人伝の 呉の太伯の後という関連文が削除されて、
その道里が、会稽東治の東 とか意味不明の 壊れた道理の文が有るのも
魏が三国志の戦国王だからだよ。
奴国の升米、都支国の牛利は、公孫氏と交易に行ったら
魏が帯方郡を滅ぼしてたんで、その場を取り繕って
洛陽まで案内されて、九州筑紫21国の宗教上のシャーマン卑弥呼が倭王だ、
とか言ったんじゃないかな?
韓平定とかで、三国志出場資格有り、の 奴王で大夫で魏の将軍なんだけどねw
僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
卑弥呼に権力、軍事力は無い感じでしょ? ←これひどw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています