【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 博多の那の津(商用)
今津の彌々津(王族用)
前原の船越港(外国賓客用)・・・一大率は、この港で出入国船を検めた
ほほう、糸島の伊都国周辺は、良港だらけではないか。さすがだぜーー。 >>832
「女王が伊都国で(女王国以北の諸国を一大率を使って)統治している。(この女王が伊都国で女王国以北の諸国を一大率を使って統治している様子が)我が国における刺史である」 >>829
その大陸倭人が邪馬台国の卑弥呼だろ
関係大有りじゃんw 今津の彌々津ね
爾支が邇邇藝に化ける構図からすると
彌々津は彌の津
彌が地名のコアな部分
不彌とかあふみの彌なんでしょうね
このポートは今津湾から小戸を通って
ラグーンに入り込んだ内側にあるということですね もともと北部九州は伊都国・那国・不彌国の三国を想定し、巨大な邪馬台国は畿内にあるはずだった。
ところが肝心の畿内箸墓説が頓挫して、邪馬台国が北部九州へ出戻りになり、おまけに投馬国までついてきてしまった。
福岡平野は、急に7万戸+5万戸が転がり込んできて超満員状態。家も足りない、墓も足りない・・。
想定外のことで、一気に破綻してしまったようだなあ。、 >>840
そこへ、真実の根拠を引っ提げて、颯爽と登場したのが倭国(阿波)。 @阿波 弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。
それぞれ邪馬台国、狗奴国、投馬国。 >>832
一大率が複数かどうかわからない
諸国にそれぞれ置いたのかも?
壱岐対馬も含めるだろうから、その可能性はあると思うね
この文の"治"の主語は女王か一大率かわからない
その前の文の"置"は女王だろうけど
国中(国内)における刺史の様だから、体制の事を示せば、複数人いる事になる
解釈の仕方は2通りあると思うね
正しく読む、ならば断定してはいけないかもな 刺史は州ごとに置かれる
複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね >>842
>弥生時代に大きな人口を支えることができたのは、全国でも福岡、熊本、宮崎のみ。
と言いながら、弥生時代後期集落遺跡を提示できないお粗末さ。 せいぜい提示できる遺跡は古墳ばかりなり。 @阿波 >>844 名前:日本@名無史さん 2019/01/14(月) 09:33:59.83
>刺史は州ごとに置かれる
>複数だとすると倭國は複数の州にまたがる規模なんですかね
刺使の如し・・、だ。
例によって陳寿が、もったいぶって筆を走らせただけのこと。中華の刺使制度の極くミニチュア版だったのさ。 >>843
>一大率が複数かどうかわからない
一なんだから、一人だろ。
水戸黄門みたいなのがいたんだよ。 >>849
別に無視している訳では無いが、それを言い出すと、やれ半島起源だ、馬韓だと言う奴と皇国史観の奴とかも出てきて収拾がつかなくなる
馬韓スレでやれ
って話よ 諸國畏憚之と、諸国をビビらせてるんだから、女王国側の駐留軍隊があったんだろ。「率いる」ってぐらいだし。
官吏一人二人で諸国に目を光らせられるわけもなく、各国邑に支部というか駐屯部隊があって、北九州方面総督部が伊都に置かれたということだな。
終戦直後のGHQみたいなもんか。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>832
原文の引き方でミスリードさせてるだけでしょ?
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
張政が(小倭である女王国に)大倭を見た所感として、
女王国以南には無い、女王国以北にだけ、特に置かれた一大率があり、
檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史 でしょうが。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
王の書簡や、賜遺之物詣女王 まで検閲されて、完全に国家主権も無い状態です。
三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって
刺史 や 州牧 が 後に戦国王の魏王や蜀王や呉王になってるんだけど・・・
ちなみに
313年四郡を追い払った高句麗は350年、幽州刺史、楽浪候として中国貴族になった。
史刺 同様のミスリードなんで、ついでに、言っておくが
戦国王は辺境の勝者を味方に付けるものであり、
245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。
戦国時代の 檄 とはそういうもの。
狗奴国との戦争で、魏が卑弥呼の味方に着いたとか、なんのデタラメ解釈だよwww >>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察されている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。 >>832
>主語が女王なら、「刺史」はどこにかかる形容なんだよ。
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させている、諸国はこれを畏れ敬う。女王卑弥呼は常に伊都国に於いて女王国以北の諸国を一大率に検察させて治めている。
「於國中有如刺史」
この様子は国中に於ける刺史のようなものである。 >>854
>三国志時代の 刺史 は、地域王の上位にある中央軍の進駐軍指揮官であって
いや、だから、女王国中央郡の進駐軍指揮官が伊都国に置かれた、で綺麗に意味が通る。各国にはそれなりの部隊を配置しても、最高指揮官は伊都。
地域王である伊都王より上位(もしくは別権力)に一大率が存在するんでそ。
檢察諸國畏憚之から読み取れることは、代々女王に臣従した伊都国を除き、女王国と北九州の諸勢力とは不和、もしくは緊張関係にあったということ。
卑弥呼は征服王ではなく、共立王なんだから、中華の戦国王を引き合いに出すのは意味不明。
何のミスリードしたいの? 大率は卑弥呼が倭国の最重要地域である対馬海峡を統治するために定めた大将軍のことだよ。
広域を支配していたから、平時においては刺史になぞらえられた。
地方官というのは恣意的な解釈であり、誤りだ。 倭では一大率の仕事は檢察諸國だと書かれているんだけどね。 >>854
このレスは、論旨・論点不明瞭。何を言いたいかも不明朗。 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王
これが、検閲、駐留させられた張政の報告であるから かもしれないけれど、
一大卒は 特に九州の王族の 貿易や外交についての検閲を 主業にしてる
中央の軍事政府から派遣された、司令官に見える。
247年のこの報告で 魏と九州北部の女王国の国交が終わった
十分な理由が読み取れるんだけどね。 残念だけどw
後の大和朝廷は、親交のあった、
公孫氏や韓王朝を滅ぼした 魏、楽浪帯方郡 に対し、
これ以降、敵意をもって、半島進出と富国強兵に突き進んだ。
313年四郡撤退、高句麗戦での富国強兵、350年新羅、百済の傀儡建国は、
日清、日露戦争、半島統治、大韓帝国建国時代の日本並みに、
高等外交戦術が有ったと思うね。
卑弥呼の国にできる仕事じゃないと思うよ。
ネトウヨと呼ばれる覚悟を持てる、5ちゃんじゃないと、
真実は語れないかもしれないけど・・・ >>861
漢字飛ばして読んでる? 簡体字に訳してもらえば? >>862
全くもって意味不明
大率が伊都に到着した荷物を確認したのは、伊都に女王がいたからだろ
途中で荷を解くわけがない
247年より後も国交は続いているし
大和にそのような強大な勢力があった痕跡はない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >245年の 其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 檄 は
>魏軍の旗の下、韓王朝 征伐戦に参加せよ、という招請。
>これに応えなかった理由の査察で 247年張政は 為檄告喩之 で 来日した。
魏の都合からすると 難昇米に韓地討伐戦に参戦されると困る
檄を読み上げて告諭してもらったのは難昇米だけではなくて
壹與も檄による告諭で女王になった
難昇米はこの時に黄幢をゲットして帝権の代行者として振舞うことを許容された
そのなかみは直接的な統制下にはない國國の軍団の指揮権
州刺史の持つような郡の軍団の指揮権と同列のもの 遺跡だけで言うと倭の発祥はオクキョンじゃね?ただ倭人と韓人は別民族だからそれを持って韓国起源にはならないけどな 短里標準里、直線距離行程距離、どの読み方をしても女王国まで12000余里に当てはまらない伊都国で女王が治めたって意味不明。
普通に一大率は伊都国で治めた、我が国の刺史のようだ、、でいいよ。 >>862
わざと時系列をひっくり返して解釈するのが、
高級・高等で深読みなんだと、内心自慢し、見せびらかしてるようだ。 九州北岸まで一万里だから、畿内はもっとあり得ない。
伊都の方は一割程度の距離の誤差のようなもの。 >>870
畿内説は後の出来事から理由をこじつけて嘘をつくのが常套手段なんだよ >>872
なるほど、そうなのか
まるで学生の解答を見てから、教官が試験問題を書き換えるようなものだな、
畿内の学校ではそういうイジワルな裏技も教育するのか、、、、。 畿内説の極道わざのネタは、時系列をいじくることか、
そういえば、4世紀の古墳を繰り上げて三世紀中ごろだとホラ吹いたのもそのクチだったのか・・・、 わざと、主語を書かない、という手口も使うようだな。
それで議論を混乱させようとたくらむやつな。
相手の出方を見て、あれはそのことじゃない・・・、とかいって、主語逃れをするのな。 >>876
笑っちゃうね
このブログで「クナ国」と勝手読みしている勢力こそ、正真の卑弥呼の「邪馬台国」なのだが・・・。 狗奴国と邪馬台国は本来は同じ肥国王家の系統で、家督争いをしていたのだろう。
だから壹與を共立して和合したのだと思う。
どちらかがどちらかを滅ぼしたというような単純な話ではないだろう。 >>867
卑弥呼の出身は
1)不弥国
沖ノ島が卑弥呼の島になってる。
2)伊都国、奴国
倭王の外戚。
3)邪馬国
邪馬国の女王。
4)公孫氏
公孫氏のスパイ。公孫淵の配下に卑衍がいるし。
5)鮮卑
卑から。
ぐらいあんのかな。
>>868
オクキョンの年代は土器編年で不正確だし、
たぶん、日本の方が古いっしょ。
>>880
卑弥呼は外様で狗奴国王と壱与が正統の血統かと思う。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 卑弥呼は筑紫王家の外戚である肥国王家の女王で、筑後出身だが伊都で倭王に就任し、平原遺跡に葬られた。 シャーマンは王の血筋とは関係ないだろう。
寧ろ王の血筋で争って倭国大乱が起き、シャーマンを頭に据えて争いが収まったのに
その人物がどこかの血筋だったりしたら、収まる争いも収まらない。
一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。 逆だろ。
卑弥呼に伊都国王は代々臣従して、伊都国が女王国の北九州方面出張所になったの。
臣従の理由が卑弥呼の外戚だったから、という理由はありえる。
漢代には北九州の盟主として委奴国王に封ぜられた奴国が、千戸あまりの小国の下座につくわけがなかろう。
バックに7万戸の大国が控えてるからこそ、女王国の官を受け入れ一大率の監察下という立場を受け入れてるのだよ。
ごく一部に平原遺跡の大型内行花文鏡を八咫鏡と同一視する向きもあるが、代々受け継がれるべき神体を副葬品とするはずはなく、形代のひとつかさらにランクの落ちる複製品か、ということになる。
平原一号墓が方形周溝墓であり、円墳でも径百余歩でもない事から卑弥呼の墓でない事はあきらか。 伊都国は九州古来の古都で
卑弥呼の名目上は大乱を静めるため
実体はガイ国の領土拡大ために来たんだろうな >>887
>>885
卑弥呼が公孫氏だったら
魏に朝貢をする訳がない
ありえん >>876
このブロガーは、福岡平野(博多那国)こそ邪馬台国に間違いない!、という立場で書きづづっている。
そう考えるから、其の南の熊本平野が狗奴国でこれまた間違いない!、ということになる。
先入観が10歩も100歩も先に出てしまっているとみた。
だから、全国の社寺遺跡を訪ね歩いたにしては、見ているのは、遺跡・遺物などの点々チェックばかり。
それに佐賀平野は全く考慮の外だ。
もしかして、佐賀モンはお好きでないのかな。
しかし、国と国をつなぐのは昔も今も道だ。
道こそ、古代〜現代〜未来を雄弁に物語る4次元ネットワークなのだ。。
唐津ー佐賀川上ー吉野ヶ里を結ぶ古道こそ、倭人伝陸行の道である。佐賀嫌いを言わず、一度訪ねてほしいな。 >>886
卑弥呼が日本=倭国の王であるなら、
数代に渡る戦国史である三国志で、
なぜ日本が女王国などと言う、一代個人の名で語られるのか。
実際、卑弥呼の後先で、世襲ですらない王の国は乱れている。
240年印綬の際は、女王の処都は、郡から万二千里にあった。
247年の伊都、女王属国の全ての王や使者が往来し、郡使が検閲で駐留させられた
首都は、張政の里程行程の合計、一万500里にあった。
帯方郡が、卑弥呼を倭王と間違えて印綬しちゃいました。
と言う経緯は、所属が 列記21国 で7万戸、九州北部2千里までの
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 でした。
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
です。 で判るだろw
残念な国が 邪馬台国 なんだよ。 >>888
だからこそ
ごますってたのかもしれんよ >>884
>一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。
当にその通り。
軍隊は、諸国・諸藩の下にあり、それを神勅により統御した。これを原型として、その後の日本統治へ続く・・・ >>890
畿内厨お得意の、時系列操作と主語隠しww >>886
平原の大型内行花文鏡が八咫の鏡なのは大きさや文様からみて間違いない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1
>また、後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
>咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
>(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり)
>
>とある。「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、八咫は約147cmとなる。
>現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えると鏡はもっと小さいモノであるはずであり、このことから「八咫(やた)」は
>単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではない、という説があった。
>しかし平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、
>弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった
中略
>福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
>4面(破片の分析からは5面)は原田大六によると八咫鏡そのものという[5][6]。
>この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。
>また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は
>現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。
代々受け継がれるべき神体、という固定観念は同型鏡を1枚しか持っていなかった大和朝廷の概念であって
作ろうと思えばいつでも作れた伊都国の概念ではない(大型内行花文鏡は国産鏡) >>888
公孫氏は漢代の冊封だけど、三国志では
魏の冊封内に居たんじゃないかな?
なのに、燕王を名乗り、呉との同盟を疑われて滅ぼされた。
ちなみに、倭人伝の 呉の太伯の後という関連文が削除されて、
その道里が、会稽東治の東 とか意味不明の 壊れた道理の文が有るのも
魏が三国志の戦国王だからだよ。
奴国の升米、都支国の牛利は、公孫氏と交易に行ったら
魏が帯方郡を滅ぼしてたんで、その場を取り繕って
洛陽まで案内されて、九州筑紫21国の宗教上のシャーマン卑弥呼が倭王だ、
とか言ったんじゃないかな?
韓平定とかで、三国志出場資格有り、の 奴王で大夫で魏の将軍なんだけどねw
僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
卑弥呼に権力、軍事力は無い感じでしょ? ←これひどw 糸島のは制作年代不明の5枚だからな。
例えば、平安・鎌倉時代のものだったのかもしれぬし・・・。 >>898
青銅製品に関しては、
銅鐸が日本製でBC200年以前の可能性は有るんだから
銅鏡は制作出来てる。 鍍金はいつからかは微妙。
銅鏡は、本来の輸入物の多い九州に対し、九州平定と係わる日本海ルートでは、
平原以降の古墳導入という意味不明文化で、制作を取り入れてるんじゃないのかな?
まあ、考古資料はいずれ、騙せんだろ。 >>893
神勅ということは、卑弥呼がアマテラスのモデルだよな。
つまり平原遺跡の超大型内行花文鏡が八咫の鏡だ。
卑弥呼にたくさん副葬したからこそ、それ以後は残された鏡が伝世したのだろう。 >>897
>僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
それ、聖徳太子ではなく筑紫の倭王であった天の多利思比孤の話だろ。
郡使はそれを目撃しているわけだ(伊都までしか来ていないのに)。 >>900
鬼道の卑弥呼だけに、平原衆も、だんだん神懸かりの世界に近づいてきたかな まだ発見されてない卑弥呼の墳墓がある!って主張ならまだしも、正しく読むスレで明らかに倭人伝の描写と違う平原1号墓を卑弥呼の墓とか言い張る奴、頭おかしいの。 >>903
何か違うか?
弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相
墓の大きさか?
誇張説だとちょうどよくなるが? 伊都国の他の倭王墓も方形周溝墓だしな。
三種の神器を完成させたのも平原女王。 >>904
>弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相
よくもまぁ、そんな程度のもので・・・ 蛮勇だね。 @阿波 >>904
誇張説wwwwwwwwwwwwwwwwww >>905
倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲む? @阿波 >>876
>倭国を滅ぼしたのは狗奴国
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/tizudesiru.exblog.jp/amp/21790518/%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
改めて多くの記事をよませてもらった。
結局のところ、ギンギンの北部九州王朝説で、福岡平野にあった那国が邪馬台国だった・・、
だが、熊本平野を地盤にしていた狗奴国に襲われて壊滅した。それが倭国大乱だった、という構図のようだ。
しかし、福岡平野に邪馬台国があったようだという根拠も紹介していないし、推測・推定すらも述べていない。
そしてやはり最大の特徴は、
松浦(唐津)や、東南陸行500里の佐賀平野を好ましく思わず、まして畿内説は、端から除外していることだ。
多くの北部九州説者同様に、古田・原田・安本の古典的理屈にマインドコントロールされたままの状態にあるとみた。 天草に興味ある自分からしたら、興味深い話だわ。天草からより近い陸地を辿って行けば宇土半島な訳で… ●人口的に収まりませんが?
→7万戸は7万人の意味だから問題ない!
●12000里には足りませんが?
→1500里は誤差の範囲だから問題ない!
●墳墓のサイズが合いませんが?
→誇張説ならちょうどいいから問題ない!
すげぇなwwwwwwwww >>876 つづき
二世紀末の倭国大乱で大勝利したのは熊本狗奴国、大敗して村ごと壊滅させられたのは筑前邪馬台国、という構図なら、
その壊滅的敗者の邪馬台国を都とする卑弥呼が共立されて、三世紀の倭30国の女王になり、
魏から金印紫綬を受けて、再び大強敵の狗奴国退治に向かった、というのは、誰が見ても邪馬台国の怪談だし、倭人伝の記述にも反する。
逆に、熊本平野の邪馬台国によって筑前の那国が平定され、この邪馬台国は共立倭30国を立ち上げて、
その勢いで南の狗奴国をも平らげた、という筋書きのほうが有りうる。
であればこそ帯方郡も、勝ち馬に乗ろうと邪馬台国に金印紫綬をさずけ、軍師も送り込んで援助しだのであろう。。 >>907
知らないの?
「全解決」の人の説だね
わりとあるえるかも
誇張説は、今までも何人か読んだ事あるから、そんなに珍しいものでもないよ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>909
倭国大乱は狗奴国ではなく、九州北部の覇権争いで卑弥呼が女王になる前の話しだよ?
卑弥呼の前男王が七、八十年治めていたがその後、後継者の座を巡って覇権争いがあった。それが倭国大乱。
ちゃんと魏志倭人伝に書いてある。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大
無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国の場所を無理なく比定することは難しいが、遺跡の規模からすると、吉野ケ里で良いと思う。
他に九州北部では、邪馬台国に比定して無理のない規模の遺跡が見当たらない。
存在した時期と、遺跡の規模だけで言えば、九州だと吉野ケ里
畿内だと纏向か唐古鍵ぐらいしか、邪馬台国の規模に合わない。 >>915
あほか。
誇張説言い出したら、万二千余里も誇張、七万戸も誇張、水行計
30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。
そのご都合主義を嘲笑されてる事に気づけよw 拝假難升米 為檄告喩之
卑弥呼以て死す
卑弥呼は援軍を頼んだのに激告られたから
自殺したんだ >>919
当時の倭地・倭国・諸国をどの範囲に設定するかで、個人差がおおきい。
合わないと、ご都合主義になる傾向だ。。
古田・安本は福岡県内の村邑スケール
原田大六は西日本の府県スケール
んで、この正しく読む九州説は、九州内の旧藩スケールといったところかな。
(九州内旧藩は約30藩だから、これだとサイズ的・クニ数的に修正なしでいけるからね) >>917
邪馬台国を熊本県の熊本平野、狗奴国を熊本県の球磨地方に充てると、さらにピッタリ治まる。
球磨地方は、奈良盆地とほぼ同じ大きさの大平野だ。
ここに入る国は狗奴国くらいしかない。 >>920
「激告を諭した」って...なんか切腹を命じた
とも取れるよな >>922
妄想はそれくらいでいいから、根拠を添えて言いなさい。 @阿波 >>924
根拠はとうの昔に示した。
おおそうだった。球磨地方を根拠地にしたのはコマヒトと呼ばれた久米一族、阿波の久米氏の祖神だ。
@阿波は、朝夕、西の球磨山を遥拝するべきだが、怠りないな? >>919
>30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。
一つの原因で統一的に説明ができるのなら、それは真実に近いという考え方がある。
九州説がそれ。
逆に、一つの嘘から次々に嘘を重ねなくてはいけない畿内説は真実から遠い。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>920-923
遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。政等以檄告諭壹與。
A:拝假難升米為檄告諭之。←←難升米に対して告諭であり、ボケてた卑弥呼には会っていない
B:政等以檄告諭壹與。←←イヨちゃんには会って告諭だが、その後もイヨちゃんは、ゲンキはつらつ >>928
張政は難升米に(激告=責任=処刑)卑弥呼を殺させたんじゃないか?
↓
そして卑弥呼以て死す
壹與の場合の激告は頑張れ
↓
国中遂定。政等以檄告諭壹與。 >>922
熊本で規模の大きな遺跡と言えば、方保田東原遺跡あたりかな?
行程を連続読みで見た場合、規模的に無難なのはこの位?
行程と規模の両面で邪馬台国に比定して無難なのは、吉野ケ里か方保田東原のどちらかだろうね。 >2・原文を絶対に修正しないこと。
無意味
倭国は会稽東冶の東に位置すると書かれていて、明らかな誤りがある
狗奴国が後漢書と違ってるし、どちらかが間違っているということ
邪馬壹国も修正しないつもりか?
>3・国々の位置が陸上にあること。
そのまま読めば九州の南方海上
結局、倭人伝を曲解、こじつけ読みをしてるだけじゃん
アホらしいわ 現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。 姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。 以下に、紹煕本と古本の違いを列挙していきます。
・よく似ていて誤写したと思われるもの。
単なる誤写の他に、筆記者の判断によって意図的に字形の似た別字に
置き換えられたものもあるでしょう。
・「孫権伝」
「[番β]」と「潘」
「免」と「勉」
「成」と「誠」
「麾」と「靡」
「俛」と「勉」
・「虞翻伝」
「偽」と「為」
「積」と「責」
「成」と「咸」
「中」と「忠」
「宜」と「=v
「日/丙」と「晃」
・「陸績伝」
「在」と「存」
「遇」と「逼」
・「張温伝」
「j」と「綜」
「任」と「恁」
「倍」と「陪」 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。