【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬五
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 逆だろ。
卑弥呼に伊都国王は代々臣従して、伊都国が女王国の北九州方面出張所になったの。
臣従の理由が卑弥呼の外戚だったから、という理由はありえる。
漢代には北九州の盟主として委奴国王に封ぜられた奴国が、千戸あまりの小国の下座につくわけがなかろう。
バックに7万戸の大国が控えてるからこそ、女王国の官を受け入れ一大率の監察下という立場を受け入れてるのだよ。
ごく一部に平原遺跡の大型内行花文鏡を八咫鏡と同一視する向きもあるが、代々受け継がれるべき神体を副葬品とするはずはなく、形代のひとつかさらにランクの落ちる複製品か、ということになる。
平原一号墓が方形周溝墓であり、円墳でも径百余歩でもない事から卑弥呼の墓でない事はあきらか。 伊都国は九州古来の古都で
卑弥呼の名目上は大乱を静めるため
実体はガイ国の領土拡大ために来たんだろうな >>887
>>885
卑弥呼が公孫氏だったら
魏に朝貢をする訳がない
ありえん >>876
このブロガーは、福岡平野(博多那国)こそ邪馬台国に間違いない!、という立場で書きづづっている。
そう考えるから、其の南の熊本平野が狗奴国でこれまた間違いない!、ということになる。
先入観が10歩も100歩も先に出てしまっているとみた。
だから、全国の社寺遺跡を訪ね歩いたにしては、見ているのは、遺跡・遺物などの点々チェックばかり。
それに佐賀平野は全く考慮の外だ。
もしかして、佐賀モンはお好きでないのかな。
しかし、国と国をつなぐのは昔も今も道だ。
道こそ、古代〜現代〜未来を雄弁に物語る4次元ネットワークなのだ。。
唐津ー佐賀川上ー吉野ヶ里を結ぶ古道こそ、倭人伝陸行の道である。佐賀嫌いを言わず、一度訪ねてほしいな。 >>886
卑弥呼が日本=倭国の王であるなら、
数代に渡る戦国史である三国志で、
なぜ日本が女王国などと言う、一代個人の名で語られるのか。
実際、卑弥呼の後先で、世襲ですらない王の国は乱れている。
240年印綬の際は、女王の処都は、郡から万二千里にあった。
247年の伊都、女王属国の全ての王や使者が往来し、郡使が検閲で駐留させられた
首都は、張政の里程行程の合計、一万500里にあった。
帯方郡が、卑弥呼を倭王と間違えて印綬しちゃいました。
と言う経緯は、所属が 列記21国 で7万戸、九州北部2千里までの
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里 でした。
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
です。 で判るだろw
残念な国が 邪馬台国 なんだよ。 >>888
だからこそ
ごますってたのかもしれんよ >>884
>一種の神官統治による宗教国家に様変わりした。
当にその通り。
軍隊は、諸国・諸藩の下にあり、それを神勅により統御した。これを原型として、その後の日本統治へ続く・・・ >>890
畿内厨お得意の、時系列操作と主語隠しww >>886
平原の大型内行花文鏡が八咫の鏡なのは大きさや文様からみて間違いない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1
>また、後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
>咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
>(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり)
>
>とある。「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、八咫は約147cmとなる。
>現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから考えると鏡はもっと小さいモノであるはずであり、このことから「八咫(やた)」は
>単に「大きい」ということを表しているだけで具体的な数値ではない、という説があった。
>しかし平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、
>弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった
中略
>福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)
>4面(破片の分析からは5面)は原田大六によると八咫鏡そのものという[5][6]。
>この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。
>また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は
>現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。
代々受け継がれるべき神体、という固定観念は同型鏡を1枚しか持っていなかった大和朝廷の概念であって
作ろうと思えばいつでも作れた伊都国の概念ではない(大型内行花文鏡は国産鏡) >>888
公孫氏は漢代の冊封だけど、三国志では
魏の冊封内に居たんじゃないかな?
なのに、燕王を名乗り、呉との同盟を疑われて滅ぼされた。
ちなみに、倭人伝の 呉の太伯の後という関連文が削除されて、
その道里が、会稽東治の東 とか意味不明の 壊れた道理の文が有るのも
魏が三国志の戦国王だからだよ。
奴国の升米、都支国の牛利は、公孫氏と交易に行ったら
魏が帯方郡を滅ぼしてたんで、その場を取り繕って
洛陽まで案内されて、九州筑紫21国の宗教上のシャーマン卑弥呼が倭王だ、
とか言ったんじゃないかな?
韓平定とかで、三国志出場資格有り、の 奴王で大夫で魏の将軍なんだけどねw
僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
卑弥呼に権力、軍事力は無い感じでしょ? ←これひどw 糸島のは制作年代不明の5枚だからな。
例えば、平安・鎌倉時代のものだったのかもしれぬし・・・。 >>898
青銅製品に関しては、
銅鐸が日本製でBC200年以前の可能性は有るんだから
銅鏡は制作出来てる。 鍍金はいつからかは微妙。
銅鏡は、本来の輸入物の多い九州に対し、九州平定と係わる日本海ルートでは、
平原以降の古墳導入という意味不明文化で、制作を取り入れてるんじゃないのかな?
まあ、考古資料はいずれ、騙せんだろ。 >>893
神勅ということは、卑弥呼がアマテラスのモデルだよな。
つまり平原遺跡の超大型内行花文鏡が八咫の鏡だ。
卑弥呼にたくさん副葬したからこそ、それ以後は残された鏡が伝世したのだろう。 >>897
>僻地引きこもりで、宮に女官千人の女王? 聖徳太子の後宮じゃないしw
それ、聖徳太子ではなく筑紫の倭王であった天の多利思比孤の話だろ。
郡使はそれを目撃しているわけだ(伊都までしか来ていないのに)。 >>900
鬼道の卑弥呼だけに、平原衆も、だんだん神懸かりの世界に近づいてきたかな まだ発見されてない卑弥呼の墳墓がある!って主張ならまだしも、正しく読むスレで明らかに倭人伝の描写と違う平原1号墓を卑弥呼の墓とか言い張る奴、頭おかしいの。 >>903
何か違うか?
弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相
墓の大きさか?
誇張説だとちょうどよくなるが? 伊都国の他の倭王墓も方形周溝墓だしな。
三種の神器を完成させたのも平原女王。 >>904
>弥生終末期、大乱後の墓と考えられており、鏡文化で女王、複数の外国製品を身につけている事から外交能力も特出している様相
よくもまぁ、そんな程度のもので・・・ 蛮勇だね。 @阿波 >>904
誇張説wwwwwwwwwwwwwwwwww >>905
倭国(阿波)の爪の垢を煎じて飲む? @阿波 >>876
>倭国を滅ぼしたのは狗奴国
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/tizudesiru.exblog.jp/amp/21790518/%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB
改めて多くの記事をよませてもらった。
結局のところ、ギンギンの北部九州王朝説で、福岡平野にあった那国が邪馬台国だった・・、
だが、熊本平野を地盤にしていた狗奴国に襲われて壊滅した。それが倭国大乱だった、という構図のようだ。
しかし、福岡平野に邪馬台国があったようだという根拠も紹介していないし、推測・推定すらも述べていない。
そしてやはり最大の特徴は、
松浦(唐津)や、東南陸行500里の佐賀平野を好ましく思わず、まして畿内説は、端から除外していることだ。
多くの北部九州説者同様に、古田・原田・安本の古典的理屈にマインドコントロールされたままの状態にあるとみた。 天草に興味ある自分からしたら、興味深い話だわ。天草からより近い陸地を辿って行けば宇土半島な訳で… ●人口的に収まりませんが?
→7万戸は7万人の意味だから問題ない!
●12000里には足りませんが?
→1500里は誤差の範囲だから問題ない!
●墳墓のサイズが合いませんが?
→誇張説ならちょうどいいから問題ない!
すげぇなwwwwwwwww >>876 つづき
二世紀末の倭国大乱で大勝利したのは熊本狗奴国、大敗して村ごと壊滅させられたのは筑前邪馬台国、という構図なら、
その壊滅的敗者の邪馬台国を都とする卑弥呼が共立されて、三世紀の倭30国の女王になり、
魏から金印紫綬を受けて、再び大強敵の狗奴国退治に向かった、というのは、誰が見ても邪馬台国の怪談だし、倭人伝の記述にも反する。
逆に、熊本平野の邪馬台国によって筑前の那国が平定され、この邪馬台国は共立倭30国を立ち上げて、
その勢いで南の狗奴国をも平らげた、という筋書きのほうが有りうる。
であればこそ帯方郡も、勝ち馬に乗ろうと邪馬台国に金印紫綬をさずけ、軍師も送り込んで援助しだのであろう。。 >>907
知らないの?
「全解決」の人の説だね
わりとあるえるかも
誇張説は、今までも何人か読んだ事あるから、そんなに珍しいものでもないよ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>909
倭国大乱は狗奴国ではなく、九州北部の覇権争いで卑弥呼が女王になる前の話しだよ?
卑弥呼の前男王が七、八十年治めていたがその後、後継者の座を巡って覇権争いがあった。それが倭国大乱。
ちゃんと魏志倭人伝に書いてある。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大
無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
邪馬台国の場所を無理なく比定することは難しいが、遺跡の規模からすると、吉野ケ里で良いと思う。
他に九州北部では、邪馬台国に比定して無理のない規模の遺跡が見当たらない。
存在した時期と、遺跡の規模だけで言えば、九州だと吉野ケ里
畿内だと纏向か唐古鍵ぐらいしか、邪馬台国の規模に合わない。 >>915
あほか。
誇張説言い出したら、万二千余里も誇張、七万戸も誇張、水行計
30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。
そのご都合主義を嘲笑されてる事に気づけよw 拝假難升米 為檄告喩之
卑弥呼以て死す
卑弥呼は援軍を頼んだのに激告られたから
自殺したんだ >>919
当時の倭地・倭国・諸国をどの範囲に設定するかで、個人差がおおきい。
合わないと、ご都合主義になる傾向だ。。
古田・安本は福岡県内の村邑スケール
原田大六は西日本の府県スケール
んで、この正しく読む九州説は、九州内の旧藩スケールといったところかな。
(九州内旧藩は約30藩だから、これだとサイズ的・クニ数的に修正なしでいけるからね) >>917
邪馬台国を熊本県の熊本平野、狗奴国を熊本県の球磨地方に充てると、さらにピッタリ治まる。
球磨地方は、奈良盆地とほぼ同じ大きさの大平野だ。
ここに入る国は狗奴国くらいしかない。 >>920
「激告を諭した」って...なんか切腹を命じた
とも取れるよな >>922
妄想はそれくらいでいいから、根拠を添えて言いなさい。 @阿波 >>924
根拠はとうの昔に示した。
おおそうだった。球磨地方を根拠地にしたのはコマヒトと呼ばれた久米一族、阿波の久米氏の祖神だ。
@阿波は、朝夕、西の球磨山を遥拝するべきだが、怠りないな? >>919
>30日陸行1月もみんな誇張で片付くマジックワードになるわ。
一つの原因で統一的に説明ができるのなら、それは真実に近いという考え方がある。
九州説がそれ。
逆に、一つの嘘から次々に嘘を重ねなくてはいけない畿内説は真実から遠い。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>920-923
遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。政等以檄告諭壹與。
A:拝假難升米為檄告諭之。←←難升米に対して告諭であり、ボケてた卑弥呼には会っていない
B:政等以檄告諭壹與。←←イヨちゃんには会って告諭だが、その後もイヨちゃんは、ゲンキはつらつ >>928
張政は難升米に(激告=責任=処刑)卑弥呼を殺させたんじゃないか?
↓
そして卑弥呼以て死す
壹與の場合の激告は頑張れ
↓
国中遂定。政等以檄告諭壹與。 >>922
熊本で規模の大きな遺跡と言えば、方保田東原遺跡あたりかな?
行程を連続読みで見た場合、規模的に無難なのはこの位?
行程と規模の両面で邪馬台国に比定して無難なのは、吉野ケ里か方保田東原のどちらかだろうね。 >2・原文を絶対に修正しないこと。
無意味
倭国は会稽東冶の東に位置すると書かれていて、明らかな誤りがある
狗奴国が後漢書と違ってるし、どちらかが間違っているということ
邪馬壹国も修正しないつもりか?
>3・国々の位置が陸上にあること。
そのまま読めば九州の南方海上
結局、倭人伝を曲解、こじつけ読みをしてるだけじゃん
アホらしいわ 現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。 姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。 以下に、紹煕本と古本の違いを列挙していきます。
・よく似ていて誤写したと思われるもの。
単なる誤写の他に、筆記者の判断によって意図的に字形の似た別字に
置き換えられたものもあるでしょう。
・「孫権伝」
「[番β]」と「潘」
「免」と「勉」
「成」と「誠」
「麾」と「靡」
「俛」と「勉」
・「虞翻伝」
「偽」と「為」
「積」と「責」
「成」と「咸」
「中」と「忠」
「宜」と「=v
「日/丙」と「晃」
・「陸績伝」
「在」と「存」
「遇」と「逼」
・「張温伝」
「j」と「綜」
「任」と「恁」
「倍」と「陪」 ・衍字・欠字
・「孫権伝」
「陸遜部将軍宋謙等攻蜀五屯皆破之」の「之」なし
「遜随軽重」の「随」の下に「其」あり
「君生於擾攘之際」の「之際」の二字なし
「古人之所恥」の「之」なし
「敕諸軍」の「敕」の下に「令」あり
・「虞翻伝」
「後権於楼船」の「権」字なし
「惟大司農劉基」の「司」なし
「大王以三爵之後手殺善士」の「手」なし
「曹孟徳尚殺孔文擧」の「尚」なし
「弧於虞翻何有哉」の「有」なし
「聳越騎校尉累遷廷尉湘東河間太守」の「累遷」以下10字なし
・「陸績伝」
「遠人不服則脩文徳以来之」の「則脩」2字なし
・「張温伝」
「温當今與誰為比」の下に「也」あり
「臣自入遠境」の「入」字なし ・その他、改変と思われるもの
・「孫権伝」
「猶冀言者不信」の「者」を「之」につくる
・「虞翻伝」
「何敢與吾君斉馬首乎」の「乎」を「也」につくる
「天下熟知之」を「誰不知之」につくる
「而遽」を「遽而」につくる
「當閉反開當開反閉」を「當開反閉當閉反開」につくる
「也」を「邪」につくる
「百」を「十」につくる
「在南十余年年七十卒」を「在南十余年_十九卒」につくる
「翻有十一子」を「子十一人」につくる
・「陸績伝」
「須當用武治而平之」の「須」を「唯」につくる
「虞翻旧歯名盛」の「名盛」を「成名」につくる
「有漢志士呉郡陸績」の「士」を「民」につくる
「遭命不幸」の「幸」を「永」につくる
「従今巳去」の「巳」を「以」につくる
「便欲大搆於蜀」を「便欲大構於丕」につくる
「功冒溥天」の「溥」を「普」につくる >>932
不弥国から投馬国の水行二十日と、投馬国から邪馬台国の水行十日陸行一月が距離じゃないから何とでもなる。
絶対に不可能な距離や極端に短い距離じゃなければ、魏志倭人伝を改変したことにはならない。 おわかりいただけたでしょうか
現在目にする三国志テキストには、これだけ多くの誤記・誤写・改変があります。
もう一度くり返すと、
全体の1/3以上が異なる漢字に置き換えられ、
約1200字のうち、40句の熟語が違っているのです。 >>939
とはいえ、帯方東南大海の中の九州島の1/3以上が消えてなくなったわけでもなし、
また対馬や壱岐が漂流したわけでもない。。
倭人伝の「現場」と照らし合わせれば、「自郡〜至る女王国」までの行程は、ほぼ正確に復元できるであろう。 >>939
間違ってる。アテにならない。
だと、邪馬台国がそもそもあったのか?から疑ってかかる必要が出てくるし、帯方郡自体も、どこにあったのか、正確な場所がわかってないので
出発点から間違ってる可能性も出てくる。
つまり、こんなスレ覗いてる意味がないよ? このスレ的に邪馬台国は
@ 北部九州 A 伊都国=邪馬台国 B 甘木・朝倉 C 島原半島
D 太宰府 E 佐賀平野 F 熊本平野 G 西都原 H 都城 C 南九州
I 宇佐・大分 J その他
のどれが優勢なのよ? そういえば、ここは九州説の一方の雄である
安本美典の甘木・朝倉説ってほとんどいないんだな >>943
九州北部ってものすごくざっくりしすぎててややこしい。
筑紫平野を2つに割って
筑後平野・・・福岡側
佐賀平野・・・佐賀側
位にしたらいいんでない? 邪馬台国の滅亡を再検討する
https://tizudesiru.exblog.jp/238866410/
↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。 >>947
>九州の古代史家
って耄碌したアマチュアの爺のことだろ 南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
この文が、前節の 都市間の里程を示す「行程中の文」であるためには、
まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、
「投馬國」「邪馬壹國」の場合、「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけない。
それどころか、邪馬台国 は後続文
次有 ―列記21国― 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 不屬女王
によって、ここで参問した所属21国の総称としての国名なのである。
都市間の里程を示しだ行程文に、国名が直列で繋がるわけが無い。
邪馬台国は行程の終わりとして『到』であるべきだがざっくりとした地理説明である。
また、行程中の都市で使われた、人口の『有』も『可』になっている。
この概念での 投馬國可5万戸 は 謎の半島南岸の倭人国 ということになり
南至 投馬國 の起点は、帯方郡以外には有り得ない。
邪馬壹國可7万戸 は、九州北部、南北2千里、周旋可五千餘里 で
糸島半島、福岡平野、筑紫平野、である。
女王之所都 は 邪馬壹國 上陸後、陸行一月=2千里を要していることから
現、みやま市辺りが想定される。
これは、240年卑弥呼宮に印綬に訪れた
遣建中校尉梯儁等の行軍 の記録であり、
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都水行十日 陸行一月
が 247年張政の伊都国まで、計1万500里の里程行程文とは別の
自郡至女王國 萬二千餘里
である。 まあ邪馬台国問題は素人が「学者様ゴッコ」をするにはうってつけの素材
そこは自覚しとかないと滑稽になるだけ 倭国大乱で惨敗した甘木朝倉の邪馬台国勢力が、あわてて東へ逃げたのが、東遷説ということになる。
ではその後、三世紀の甘木朝倉を地盤とし、魏へ使いを送り、金印紫綬を授けられたのはいったい何者だったのか??
それも邪馬台国勢力であったというのは「邪馬台国の怪談」の部類だろうな。 福岡県朝倉郡筑前町・弥生時代の遺跡消息(邪馬台国の滅亡ーその2)
https://tizudesiru.exblog.jp/238864962/
↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状・その2 である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。 安本説に準拠するならば、甘木朝倉の在地の邪馬台国勢力に、
肥後熊本から攻め上った狗奴国が襲い掛かったということ。
だから、倭国大乱の時点で、邪馬台国は滅亡し、東へ逃走(東遷?)したということにしかならぬ。 >>953
東に逃げてどこへ行った?
畿内はないぞ?
日本書紀と符合しなさ過ぎる。 どう見ても、甘木朝倉の在地勢力は福岡平野の奴国(奴国)の補完勢力だったのだろう。
そこへ肥後熊本から、最新の鉄製武器で完全武装した新興の邪馬台国勢力が襲い掛かった。
これが倭国大乱で、この戦いを優勢に進めた邪馬台国が、自国女王の卑弥呼の共立に持ち込んで、自国に有利な和平を達成した。
そして、三世紀・倭人伝の時代になると、邪馬台国が倭30国を代表して魏と通交し、金印紫綬を受けた・・・、
甘木朝倉の惨状を見れば、このような順番で考えるべきだろう。
つまり安本説は、敵と味方を真逆に解釈し、敗者(奴国勢力側)に乗っかっているということだな。 そもそも、魏に朝貢した勢力を邪馬台国と呼ぶわけで。 彌生集落を去るとき、人々は祭祀具も土器も捨てた(邪馬台国の滅亡ーその3)
https://tizudesiru.exblog.jp/238863297/
↑これは、朝倉市隣接の朝倉郡筑前町の惨状・その3 である。
倭国大乱のころ、この一帯の村々は、広く破壊しつくされた。隣接の朝倉・甘木の集落も同様であった。
安本の甘ちゃん甘木朝倉説など、あろうはずもない。九州の古代史家には広く知られていることだ。 他の業界の話になるんだけど調べてみた?
なぜ背乗りのような人物がいるんだよw
という話ばかりじゃない?
本当は、ほんとんど家の話でしょ、
企業(会社)・・・・・なども売ってもらったか何かなのかな? 『分福茶釜 天津』
『河童の三平』?のようなコンセプト写真があるでしょ
実際は『松傾』?こういう名前の家の写真、家のw 謎のサルタというスレ、読んでみた?
兄、電気石(10月生まれ)・・・と言ってる人がいたり
『ずっとオレのターン』というキャラ? 乗っ取られた・・・ベジータ(カカロットの一族)みたいな話?
実際に、そういう話でしょ 『三等重役』
追放〜という設定とか、
浦島という人物がいたり 老婆談があるでしょ、
サザエさんと同じような話をしていたり、
「この写真の母親というのが・・・なぜか素足(裸足)に下駄、
たしか蚕を飼い、機織りなんかをしていたんだよ」
とか 河童の三平、
サザエさんの作者も生まれていない頃の写真だと言っているし・・・・、
どういう事なんだろう 倭國乱によって邪馬台国が滅亡したとか逝ってるひとがいる 難升米ファミリーの渡来によって倭國に嵐が引き起こされた
すなわちこれが倭國乱であり
難升米ファミリーの占領地は伊那と称されたらしい 難升米ファミリーはどうやら
淮系に属するの渡来人のグループらしい 難升米ファミリーの渡来後の占領区が
「自女王國以北」の5國
その内訳は
對海國 1,000戸
一大國 3,000家
末盧國 4,000戸
伊都國 1,000戸
不彌國 1,000家
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〆て10,000戸あまり この 〆て10,000戸あまりの領域は
総称として 伊・壹・壱・一 の名號を持つ
これを仮に古事記に出現する「伊那」という看板を転用して
論を進めるのが有効かもしれない
伊那の治所は伊都國であり
伊那の代表者は伊都國王を称する卑弥呼の異父兄である
伊都國王が女王家の血筋にあることが記されているところが
「皆統屬女王」
伊那の発生は倭國乱による結果であり
倭國乱は「長大」補正を施すと
およそAD210年からAD225年の出来事であるとみられる 安本先生イチオシの福岡県甘木・朝倉地方は、倭国大乱で壊滅させられたようだ。
それは渡来人難升米ファミリ^−のアレだったのか? この地方では
住民の入れ替えに近いことが何度もあったらしい
玉突き現象というか >>979
そうだね。
九州北部の不安定な状況こそ、魏志倭人伝に記録された倭国の姿と一致する。 >>973
卑弥呼が女王に就く前の倭国大乱で邪馬台国が滅んでたら、誰が魏に朝貢したんだろうな。
卑弥呼の死後、壱与が女王になった後というなら、確かに邪馬台国は滅んだが。 引きこもりのシャーマン卑弥呼を擁立する女王国は
統一国として、軍事的、政治的ステイタスはそれほど高くない。
博多周辺の奴国は、本州縄文系の遠賀川地域とも交流が有り
おそらく金印の委奴国であろうし、文化的に先進的である。
卑弥呼はその倭人伝外交において渡来系と見られがちだが、
2世紀でのシャーマン信仰というのは、完全に渡来ではない縄文文化である。
九州関西で、縄文遺伝子が劣化して、男子が生まれなくなった傾向は見えるが
渡来人による、文明開化、稲作産業革命というのは相当な眉唾ものである。
半島南岸に関しては、渡来人というより、BC200年以前からの
縄文海神が進出して半島石器人や箕氏や秦遺民との融和を図ったように見える。
半島南部は、中原勢力の及ばない未開植民開拓地であった。
文化の伝達経路にはなり得ない。 卑弥呼がいたのは弥生も末期
今さら縄文だなんだなどバカバカしい
九州北部ではシャーマン的文化は古墳時代にも続いており、縄文だなどと片腹痛い
むしろ九州における弥生文化の特徴がシャーマンだろ
特に稲作を司るための暦と太陽信仰の象徴である天照つまり卑弥呼はそうだ
卑弥呼をモデルとした神功皇后も神懸かりのシャーマンだった
あと、弥生時代に男が少なかったのは、戦い続いたため レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。