邪馬台国畿内説 Part416
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546950095/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>889
>方位と距離が正確で、行程で比定できるといいながら
倭地がどこにあるのかは中国人にはわからないと言張る<
「中国人にはわからない」とは言張らない。
一寸千里で判るから。
「南→東」の嘘つきや、「一寸千里の法」を無視する、
都合がいいとこ取りの、背乗りの・・・・アホ人種の大和説。 韓国人を、チョンと呼ぶのは、人種差別なのでいけないことでは、ないのかな。。。 >>562
>奈良平野には古代奈良湖がそのほとんどを占め、
やよいじだいの遺跡、いっぱいありますよ?
https://i.imgur.com/9j6LLzE.jpg
奈良盆地中央の大和川が膨らんでいるところを奈良湖と呼びたいなら呼んでもいいけれど
集落や水田を営む面積は不足してないよ 邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。 >>566
>すでに始めから、「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」という、
>大体の方向が分かっている。
それだったら「南至邪馬壹國」が総行程を示しているというのは矛盾するから大間違いだな
一言各毎に矛盾する
これがザラコククオリティだww 邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、 >>891
>倭国にも牛はいたそうだから 魏志倭人伝は正確では無いという事でよろしいな<
そりゃ、魏使らが見聞した範囲内には、牛は見られなかったんだろう。
それに、「牛がいた」というのが、
どこの何時頃のどんな根拠であったのか?、という事が問題だ。 >>567
>倭王武の上表文の「自昔…道kei百濟、裝治船舫」に拠って、
倭王武の上表文でも韓地陸行はしてないぞww
ザラコクは書くことすべてがデタラメばかり
これがザラコククオリティww 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 邪馬台国畿内説を宣伝する3寸男が、韓国人だという真実を発表するときには、人種差別にならないように、注意すれば良いな。。。 >>568
>「東南」は、「伊都国への方角」ではなく、
>末盧國からの出発時点での出発方向であり、
>間違っていない。
これが通るなら、南は邪馬壹國への出発時点での出発方向だから
邪馬壹國への方角は東でも間違っていない、でいいなww
ザラコクの「東≠南に拠って×」に意味がないというのを自分で証明ww >>895
>は?? 晋の役人だろうが魏の役人だろうが会稽までの距離はわかる。
だが、それを倭国までの距離と比較するのが、 弥生時代には無理、という常識レベルの話だ。
なぜなら東シナ海を越えての観測が無理だから。
なぜなら東夷伝里での里程記載は、弥生時代にしては驚くほど正確だが、
それなりの誤差があるから。<
一寸千里を使えば、同緯度位であるのか?や、南北間里数の概算は容易。 >>902
>つまり陳寿は短里など使っていないし<
長里は全く使っていないし、短里を使っている。
>書いた行程記事は現実と合わない 方角も間違ってのだよ<
見聞した現実を記載しているだけだし、
方角も間違っていないし、間違えない。 >>578
ダメダメ。
弥生終末期は、2世紀末〜250年頃までというのが相場。
これを否定する者は、モグリ。
尾張の撥型前方部は、その終末期前葉。
卑弥呼の墓は、今のところ、久留米の祇園山。
大和は、卑弥呼と関係しない土地。
那珂八幡は3世紀後半〜4世紀初頭。 >>560
飛んでるんじゃなくて、女王國内だから端折ってる
漢の時に朝見した者があったので、
不彌國までは漢の度量衡が伝わっている=教化が及んでいる
女王國はまだ里を知らないので、
日数で計っている=荒域(文化はつる地)の外 >>903
>陳寿は短里を知らなかった。
しかし彼が使った資料は短里で書かれていた。
だから実際よりも倭が南方にあると思ってしまった。<
陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という推定を書いているから、
短里を使っており、
短里を知らなければ「赤道付近」だと思ってしまった筈であり、
という事は、短里を知っていた。 >>904
>陸路 平均117メートル 分散5833メートル の数値を使えば、95%信頼区間は
117±4.48×√5833=117±342メートルだ <
ダメだ。
「陸路 平均117メートル」という数字を出した史料事実の解釈がそもそもインチキであったし、
だから、その分散もインチキであった事になるし、
「歴韓國乍南乍東」の陸路を計算に入れない点もインチキであるし、
古田さんも、百里位の小距離の里数よりも、
千里以上の長距離の方が誤差が少なくなる、という意見であったし、
という事は、この大和説者の計算も、インチキだらけ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>907
>>「東南」は末盧國からの出発時点での出発方向だ。<
>これを認めるなら、魏志倭人伝に書かれている方角はすべて意味を持たなくなる
書かれているのは出発方向であって、実際の方角を意味していないってことだからな
ザラコクが「東≠南に拠って×」と書き続けているのは茶番もいいとこww<
いや、郡からの位置方向は、
始めから「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書かれており
各部分行程は、出発時点での出発の方向の指示であっても、十分。 >>590
邪馬台国は連合国だぞ
つまり畿内一帯
纏向は王宮跡とかそういうのだろ >>597
中国人は一寸千里の法なんてデタラメと
それこそ3世紀頃に結論づけてるぞ >>611
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
女王國の東の里数も計測されてるのに女王國国内の里数は不明なの? >>590
当時の日本国内に七万戸の大集落とかあり得ないよ。
邪馬台国は伊都国、奴国等の北部九州地域の連合国 >>599
>やよいじだいの遺跡、いっぱいありますよ?
足りないし、倭種にすぎない。
>集落や水田を営む面積は不足してないよ
相対的に九州に比べて足りない。
圧倒的な後進地域であり、魏と交流するには途中に他の勢力が多すぎる。
纒向遺跡はどこにでもある泡沫遺跡の1つ。 九州では稲作が紀元前1000年頃には始まっていたから3世紀には当時技術で開墾出来る土地は耕地化され人口も既に飽和状態
未開墾の関西等に殖民が始まっていたんだ。 確かに纏向遺跡は首都遺跡にしては貧弱かもしれないが、箸墓を築いた作業員の生活遺跡も乏しいことに要注意。
河内平野+大和盆地の各集落を合わせて、七万戸(約35万人)と思われる。 >>588
>wikiでは、会稽の東部が揚州に属した、と書いてある。
ザラコクは漢籍古典の原文を見ないで、古田史学の亡霊しか見ていないから
どこまで行ってもトンデモ
ザラコクは揚州を誤解している
「後漢のとき、揚州は九江・丹陽・廬江・『会稽』・呉・豫章の6郡92県を管轄した[2]。」
もともと後漢から三国時代の揚州は会稽郡を含む広い範囲
会稽郡から分郡された臨海郡も当然揚州に属することになる
そして臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map1.jpg
東治だろうと東冶だろうと銭塘江より北にはならない
臨海郡に冶県・東冶県は含まれるから『会稽東治が臨海郡だ』というのは構わないけれど、
会稽山のある会稽郡(現在の紹興市周辺)よりだいぶ南になるぞ
ますます九州北部から遠ざかるw >>619
渡海の千餘里が実測値なら
壱岐から北部九州沿岸は近すぎる >>613
>という事は、この大和説者の計算も、インチキだらけ。
なら正しい計算とやらを出してごらんww
デタラメインチキしか書けないくせにww 北部九州の奴国(博多)にあった倭王権が、どうして遠く隔たったド田舎(大和)の卑弥呼に取って代わられたか?
それは当時首都圏だった北部九州で起こった倭国大乱のせいである。
西暦189年ニュージーランド北島タウポ山の大噴火による日照不足から大飢饉が発生し、大量の餓死者を出したため、
民の食糧を確保するのが仕事である各王同士が食糧の奪い合いを始め、人口の割に耕地の少ない北部九州地域では、戦乱が続いた。
魏志倭人伝には、漢委奴国王以来、歴代倭国の盟主だった奴国には、代官はいるが王はいない、つまり倭王はいない、と書かれている。
これらを総合すると、北部九州から遠く隔たり、耕地も広大で農業生産人口が多く、比較的凶作の影響を受けず、備蓄食糧が余っていた大和の卑弥呼が、
飢饉に陥っていた北部九州に大量に救援食糧を送ったため、北部九州の王たちも互いに食糧を奪い合い争う必要がなくなり、
民の命を救ってくれた大和女王卑弥呼こそ、倭王に相応しいとして、 奴国王を男弟として大和に送り、邪馬台国が成立したためである。 >>622
九州は大規模な水田跡があまり見つかってない 邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう
元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう >>620
>>621
魏志倭人伝に書いてる国々の戸数を全部足せば8万戸
邪馬台国は7万戸 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 >>625
仮に関西に邪馬台国が在ったとしたら7万戸は
関西全域+周辺地域でないと足らないな。 >>619
>女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
>女王國の東の里数も計測されてるのに女王國国内の里数は不明なの?
それ、魏略だと冒頭に書いてあるんだよね
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
倭は山島に依る国で、島の間の渡海千里してもそこも皆、倭種の国という程度の意味
そして、渡海は測距できないから一律千里になってるし、
計れたかどうかとか倭人は里を知らないはずなのにとかは意味がない >>620、>>621
>邪馬台国は伊都国、奴国等の北部九州地域の連合国
それでは7万戸にならないよww
奴国は二万戸しかないし、伊都国末盧国を入れても2万5千戸
投馬国はどこにあるんだ?
投馬国は女王国以北の国だぞ?ww
適当なことを言っても、九州説で整合的な説は作れないw >>622
>足りないし、倭種にすぎない。
何をもって足りないというんだ?
それに倭種は「皆」倭種という表現だぞ
渡海千里の前も倭種だし、渡海千里の先も倭種という記述だ
旧唐書の倭の別種に頼りすぎ
さらに言えば別種というのは「同じものの別の呼び方」という意味だ >>913
陳寿は、
「エイヤ!で日本列島を90度回転させる」ようなな、
・・・・アホな事はしないから、×。 >>630
菜畑、板付、吉野ケ里とか大規模な水田跡があるよ。 >>638
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國) 畿内説を有利にしたいために、投馬国を半島に追い出そうとしているのか。
邪馬台国は山幸彦の筑紫日向、投馬国は海幸彦の宮崎日向で兄弟国。
だから魏志倭人伝でも同じ規模で列記されている。
帯方郡からの日数は投馬国の方が長い。 >>639
キナイコシの詭弁は聞き飽きた。
何一つ真実がない。 >>641
菜畑は小規模、板付はもうない、吉野ケ里は水田跡は見つかっていない 北部九州にあったことが確実な不弥国から、投馬国(い・つま=出雲)まで南に(実際は東)水行二十日、そこから南に(実際は東そして南に)水行十日陸行一月。
これは当時関門海峡が浅瀬で、道もできず、船も通れなかったからだと考えられる。
そうすると、日本海側を遠回りして、投馬国(出雲)さらに鳥取県神谷青地池遺跡辺りまで水行して、そこから上陸し、大和まで陸行一月(もちろん誇大表現)。
なぜ東を南と書き換えなくなてはならなかったのかは、>>411 >>634のコピペを見るたびに九州説終わってるな、と思う
戸数道里が分からない国の戸数を勝手に決めて、
計算が合うんだーって言ってて情けなくならないんだろうか?
投馬国は五万戸もあるのに、そんな寄せ集めの邪馬台国より大国ってことになるぞ?
邪馬台国が寄せ集めで七万戸なら、投馬国は寄せ集めしなくていいのか?
魏志倭人伝では、
奴国二万戸
投馬国五万戸
邪馬台国七万戸が3大国として並列に書いてあるのに、
奴国二万戸を邪馬台国七万戸に算入して投馬国五万戸を入れないって言うのは
結論ありきの数字合わせのインチキであることの証明でしかない
畿内説だと
奴国二万戸 福岡平野 北部九州の中核
投馬国五万戸 出雲 中国地方の中核
邪馬台国七万戸大和 畿内地域の中核
で並列の大国として素直に理解できる
これだけで畿内説が正しいって分かるんだがね >>919
>>魏略が「自帯方至女國萬二千餘里」<
>女王國が女国になるのは気にしないのに、<
魏略を引用した後代史家が、
「王」の文字を省略したか、転写ミスをした可能性ならある。
>萬二千里が萬二千餘里になるのは認めないって どんなダブスタだ?ww<
「余」という文字を加筆する事には、理由が全く存在しないし、あり得ない。 >>635
>関西全域+周辺地域でないと足らないな。
いや?そんなことないよ?
「大和+河内〜環大阪湾」の「畿内第V様式土器を共通に使う範囲」でいい
これで奴国二万戸の3.5倍の大国として十分だ >>920
スレ主や類スレ主や「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らを見てると、
万世一系皇国史観の殺し合い戦争狂の・・・・宗教って怖いなと思う。
宗教は人をこんなに狂わせるんだな、と。
まあ、最初からスレ主らはまともな人じゃなかったのだろうけれどら。 >>644
>キナイコシの詭弁は聞き飽きた。
>何一つ真実がない。
「キナイコシ」さん、チーっすw
「キナイコシ」って言いだした時点で、まともに反論できませんて意味なんだよなw
こっちは漢籍古典の原文を典拠として示して、もっとも妥当な解釈を論拠として提示している
反論したかったら、同じレベルの具体的な根拠とともに具体的な反論をしないと無意味
いつも言ってるだろ?
反論したかったら「具体的な指摘」がいるってw
争いは同じレベルの間にしか存在しないって言うけど
九州説のレベルが低すぎて論争にならないんだよなww 北部九州にあったことが確実な不弥国からの道程を
「南に」水行二十日で投馬国、そこからさらに「南に」水行十日陸行一月、と「東→南」に、例外的に方角を書き換えることで、
道程(所要時間)については正しく、かつ見事に、歴代倭王権のあった北部九州の奴国同様、
新しく倭国の盟主となった邪馬台国が(北部九州同様、呉を背後からすぐに攻撃してくれる)「会稽の東」と書ける
つまり「邪馬台国=会稽の東」という結論ありきで不弥国〜大和までの道程を書こうとした時にのみ、まさに魏志倭人伝 のような記述になるの >>922
>>けど、「類スレ主」の1尺=8寸だった、という説は、
前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定され、<
>短里もねー <
類スレ主は、本当に・・・・詐欺師なんだな。
周髀算経の一寸千里は、短里そのものだ。
>前漢始めに収集された周髀算経の記載に拠って否定されてるよ
六尺が一歩だから<
これも、類スレ主の嘘吐き騙しであり、×ね。
周髀算経に「1歩=6尺」で書かれた記載は存在しない。 >>646
>日本海側を遠回りして、投馬国(出雲)さらに鳥取県神谷青地池遺跡辺りまで水行して、
途中までは同意だけど、出雲の先の水行十日は丹波まで行くと思う
北部九州から出雲までの水行二十日と二対一くらいの距離感は当てにしていいと思うし
記紀に記された崇神天皇前後の丹波との通婚関係を見るに、上陸(陸行開始)地点は
丹波竹野付近が妥当だと思う おーい>>248
>石野博信や豊岡卓之の纏向編年と、寺澤薫の庄内式の年代は大きく異なる。
>庄内3式が270年〜290年とするのは、石野や豊岡の編年だ。
>“大した違いではない”どころではない。
庄内3式が270年〜290年とするのは石野や豊岡の編年だって
どこの誰が言ってるの?
どこまでも逃亡中? >>634
九州説は国名しか載ってない傍国三十ヶ国の戸数を
自由に創作するのが好きだよな 箸墓は、3世紀第4四半期、もしくは4世紀に入ってから、邪馬台国を乗っ取った大和朝廷(天皇家)が卑弥呼の冢(直径150m円墳)を埋め立て、
その上に築いた前方後円墳(後円部直径160m)である。
現在の徳川大阪城の地下に豊臣時代の大坂城が埋まっているように。
前の権力者に失礼のないようにその王墓は破壊せず、密かに裏で祀り、表歴史からその存在を消す、というウルトラCを成し遂げた天皇家は、列島支配者に相応しい。 >>648
>魏略を引用した後代史家が、
>「王」の文字を省略したか、転写ミスをした可能性ならある。
>「余」という文字を加筆する事には、理由が全く存在しないし、あり得ない。
「余」という文字を加筆する事は、後代史家が文飾したか転写ミスした可能性があるなww
という以前に、淮南子成立から見れば、陳寿が「後代史家」だww
後代史家である陳寿が、淮南子から引用する際に
「余」という文字を加筆するという文飾をしたか転写ミスした可能性があるなww >>934
>筑紫は製塩遺跡、塩の道が少ない<
筑紫は、海が近いから、海水を熱したり蒸発させれば、無尽蔵に塩が取れる。
むしろ必要なのは、河川や湖沼の淡水。
人は、水がなければ生きていけない。 >>653
>周髀算経に「1歩=6尺」で書かれた記載は存在しない。
つ「以正句定之,即平地徑二十一步,周六十三步,令其平矩以水正。
則位徑一百二十一尺七寸五分,因而三之,為三百六十五尺四分尺之一。
以應周天三百六十五度四分度之一,審定分之,無令有纖微。
分度以定,則正督經緯,而四分之一,合各九十一度十六分度之五,于是圓定而正。」
六尺=一步だよ >>653
一寸千里は机上の数字
実測されたものなら当時の尺度だと一寸200里となる 弥生時代の水田遺跡
静岡県登呂遺跡 約70500u 弥生時代後期 1世紀
福岡県板付遺跡 約47500u 弥生時代早期
兵庫県玉津田中遺跡 約30000u 弥生時代中期
宮城県富沢遺跡 約40000u 弥生時代中期
岡山県百間川遺跡 約40000u 弥生時代後期末
奈良県中西遺跡 約20000u 弥生時代前期
滋賀県服部遺跡 約18700u 弥生時代前期 >>647
>奴国二万戸
>投馬国五万戸
>邪馬台国七万戸が3大国として並列に書いてあるのに、
嘘をつくな
投馬国と邪馬台国は並列だが、奴国は並列ではない >>660
久美浜湾も上陸地としてあると思うけれど、
京丹後市の市役所のある平地が当時の丹波の中心地だと思う
そうすると、離湖のある網野(網野銚子山古墳がある)か、
竹野川河口の竹野(神明山古墳がある)の方が候補地として妥当だと思う
開化妃に竹野姫があるのも竹野推しの理由 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>666
>嘘をつくな
>投馬国と邪馬台国は並列だが、奴国は並列ではない
並列ではない主張する根拠は?
具体的にどうぞ?
旅程の書き方は、二国分ずつセットっていうのは見れば分かるからそんなのは根拠にならないぞww >>940
>じゃ魏略の著者が自己解釈で書き換えたんだな
淮南子が1万2千里で後漢書も1万2千里だから <
いや、
「萬二千何がし里」という数字が記録されていたものを、
「萬二千里」と簡略して書き換える後代史家がいても、
「萬二千里」と書かれていたものを、
「萬二千余里」と内容が変わってしまうような書き換える後代史家は、いないの。
だから、魏使らの記録に「萬二千何がし里」と書かれていて、
魏志や魏略は「萬二千余里」と書いたの。 >>941
>高校レベルの歴史をあまり勉強してない私大出身の理系は騙されやすくて大変だ <
谷本さんは、京大出の計量史学者だった筈だよ。 >>671
>「萬二千里」と書かれていたものを、
>「萬二千余里」と内容が変わってしまうような書き換える後代史家は、いないの。
いないと断定する理由は?
??? >>667
>本州はすべて倭種でしょ
対馬も壱岐も九州も「皆」倭種だよ >>542
結局「萬二千余里」は
淮南子を転写した訳でもなく、長里でもなかったし
魏志や魏略は、魏使らの詳しい桁崇記録を「余」を付けた説明に書き換え、
近似的に説明してるという事になるね。 <萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない >>670
>旅程の書き方は、二国分ずつセットっていうのは見れば分かるからそんなのは根拠にならないぞww
は?
意味不明 >>946
>ダメだ そもそも九州倭国なんて無い <
ダメだ。
記紀の記録は、九州倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作している半分偽書であり、
証拠にならない。
また、大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
隋文帝の開皇末に初めて「日本国」を名乗って拒絶され、
唐の武徳中になってようやく日本国名を承認して貰った後進國だ。
>さすがに奈良時代にもなれば伝世文献だけでなく木簡などの発掘文献も出てくるのを無視してる
書き分けなんて主張は九州説の恣意的な解釈の産物でしかない<
薜原朝常嗣が、唐会要の倭国伝に名前が載っている、という事が史料事実だ。
どういう事情で倭国使を名乗ったのか?は不明だ。 >>679
>薜原朝常嗣が、唐会要の倭国伝に名前が載っている、という事が史料事実だ。
>どういう事情で倭国使を名乗ったのか?は不明だ。
その「史料事実」から一直線に「倭国=日本」という結論が出てるわけですが >>947
古田さんが亡くなられても、
いくら天誅らのキョクウの大和説者や台湾系出版社が、捏造魏志などをPCで宣伝しても、
張元済らの校勘本が残っている限り、
九州倭国の存在は否定出来るものではない >>671
>>676
それっぽく見せるために魏の時代に
淮南子と後漢書の数値に付け足されたんだよ 漢の時代は概念的に一万二千里だったが、魏の時代ではもっと細かい情報が入って来て、実は一万五百里(伊都国まで)や一万千里(奴国まで)だったわけだ。
奴国および伊都国を含む広域である筑紫が邪馬台国なら、残りの千里は意味をなさないしね。 九州倭国なんてのがあって大和朝廷が併合したなら記録残るわな
その立役者だったら政権内の地位も強力になるし テンプレ
>行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。
と自分たちは逃げておいて、謎を解こうとする他説にはイチャモンをつけるしかない大馬鹿モン
イチャモンつける暇があったら、纒向から大集落跡・環濠・楼観を見つけて来いよ。 >>953
>飛鳥時代からも発掘されてるじゃん
遣隋使遣唐使による律令制の導入でこの時期に官僚機構が発達したからでしょ<
大和日本国が、日本国を名乗って中国に初めて遣使したのは、ようやく開皇末の事。
そして、難波宮などは、九州倭国の分都であり、斉明は、九州倭国の女王的な地位にあった。
>九州倭国なんて国家機構の痕跡すら無い<
当初は吉武高木であったが、卑弥呼の頃は、何本もの大道や安徳台がある弥生銀座で、
317年頃以後は八女〜久留米に遷宮し、
タリシホコの頃に久留米の「古宮遺跡」にいて、
720年頃に太宰府に遷都(倭京)した。 >>683
漢の時代の概念的空想的数字だった1万2千里が
魏の時代に短里が使われ出してから測ったらほぼピタリ一致したというのは
少し出来過ぎじゃないか >>954
>九州は3世紀前半には畿内に服属してたのだろうな<
大和は、開皇末にようやく九州倭国からの独立を決め、
武徳中に唐に「日本國」呼称を認められて独立国になり、
白村江の後で、九州倭国を併合吸収継承した。 九州の前方後円墳の分布状況から見て、九州倭国など存在しないってことは誰にでもわかりそうなもんだが… >>95
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説信者とは、
記紀や、学会教育界の万世一系皇国史観の人種差別的殺し合い戦争狂の大和説学者らの、
偽史を信仰する人々なのだな。 >>684
>その立役者だったら政権内の地位も強力になるし
藤原氏の祖である中臣鎌足のことかね? >>688
漢の時代も東夷では短里だったということだよ。 >>690
前方後円墳が邪馬台国と何の関係があるのか。
そもそも邪馬台国は弥生時代の話だし。 >>693
東夷は里を知らないで日数で距離を表すんだぞ 被葬者が継体天皇に謀反を起こした筑紫君磐井とほぼ確実に特定できる八女市の岩戸山古墳は前方後円墳だよw
九州倭国なんて、古田がでっち上げたパラレルストーリーにすぎないw
さらば宇宙戦艦ヤマト〜愛の戦士たち(劇場版)と宇宙戦艦ヤマト2(テレビ版)みたいなもん >>961
>邪馬台国の位置であるとされる会稽東治の東は台湾沖縄あたり <
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「会稽東治の東」は、九州であり、台湾沖縄ではない。
>帯方より南1万2千里の地点はそこだと言っているから
それで換算すると魏志倭人伝の里は1里140m <
循環論法。
>魏使が正確に測ったんだとしても短里じゃないね <
その循環論法でも、長里ではないね。
なんせ長里では赤道付近にまで行ってしまうんだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています