【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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332日本@名無史さん2019/07/04(木) 22:31:51
卅九年、是年也太歲己未、魏志云、「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
四十年、魏志云、「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
四十三年、魏志云、「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
上の通り、魏志云、として直接引用してるんだから、読んでないはずないだろ かねて噂の魏志倭人伝に目を通したものの、
その取り扱いをめぐっては朝廷挙げての論争が有ったのであろう。
親魏倭王の金印紫綬は外交儀礼で良いが、帯方郡との密接な軍事交流は神話の国にふさわしくない。
そこでこれは高天原以前のこととして棚上げし、卑弥呼は、北部九州で活躍した神功皇后を120年繰り上げて当て馬に仕立てた。。。
で、実在の卑弥呼の都へ至る道里だが、これも神功皇后の活躍の舞台に合わせることにした。
これこそ、仲哀・神功皇后記に盛んに登場する北部九州古道であり
糸島地方の有力者が「伊蘇志」という名前を頂戴したことから、これが訛って伊ト〜伊斗〜怡土(伊都国)になったという、
いわば、お国訛りをダシにした「匂わせ工作」だったのではないか、、、。 3万年前の旅を探る航海実験、成功!
>3万年前、日本人の祖先がどのように海を越えてきたかを探る実験航海に挑んだ国立科学博物館のチームが
>9日、丸木舟で台湾から200キロ以上離れた沖縄県・与那国島に到着、実験は成功した。
>地図や磁石を持たず、星を頼りに方角を定めた航海だった。 邪 馬 台 国 へ よ う こ そ
■廣志逸文
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國(佐賀川上)、又南、至る邪馬嘉(臺)国(肥後山鹿)。 374日本@名無史さん2019/07/05(金) 06:32:35
今城塚に眠る大王の、肥後産ピンクの石棺はなぜ選ばれたのだろう、、、
Wiki
今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町にある前方後円墳。
国の史跡に指定されている。
造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。
宮内庁の治定は受けていないが第26代継体天皇の真の陵とする説が有力である。 >関西の古墳から出土する石棺には肥後産「阿蘇ピンク石」が多く使われています。
なぜわざわざ遠い九州から、重たい石を運んでくる必要があったのでしょうか?
「阿蘇ピンク石」を取り寄せた大王は、九州王朝の出身者、またはその子孫であった可能性が高いということです。
>つまり、神武東征により、天皇家の本拠地は関西に移されましたが、
その文化伝統や祭儀様式は、依然として九州のものが重宝されていたということではないでしょうか? 神秘的なパワーを持つ馬門石
>肥後産「阿蘇ピンク石」は、馬門石(まかどいし)とも呼ばれます。
今から遡ること8〜9万年前、阿蘇山の噴火によって流れ出た火砕流が固まって出来たピンク色の石です。
>これが、かの有名なパワーストーンなのです。
熊本県中央に位置する宇土(うと)市を産地とする馬門石ですが、
なぜにまた遠い奈良の地まで運ばれて行ったのでしょうか? 畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm 『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より >>935
すぐそこにあった海岸線が遠く離れていくのを実際に見たことがあるよ。
2〜3kmは遠のくね。
ああ懐かしい不知火海。 >>538
不知火海といえば、ムツゴロウ。 奈良盆地といえば、ドジョウが相場。 @阿波 奈良盆地といえば、カエルの本場。。。
おめでたい日には、カエルのタマゴを掛けたアツアツご飯。。。
ウー、気色ワルわる〜 不知火海といえば、
ハゼの一種のムツゴロウ、貝ではタイラギとかいう美味しんぼ、、、 大和に干潟はないんだろ
せいぜい干上がりかけた奈良湖の泥沼、うまいもんとは縁遠い田舎邑 基本的に倭人は海人だから、海がない大和は魅力のない土地だったろうね。 >>543
だから、白村江で惨敗して、渋々、内陸の奈良盆地へ遷都した。 @阿波 有明海の干潟海岸線は、佐賀〜筑後間で20qだったが、
大牟田〜熊本間は20qくらい、
また不知火海では八代〜葦北〜水俣〜出水間で30qくらいかな。
大牟田以南の干満幅を2-3q(平均2.5q)とすれば、その干潟面積は1万2500ヘクタールとなり、
佐賀・筑後海岸分と合わせた全体は2万4500ヘクタールだ。、
干潟だけで、奈良県の田畑面積2万500haより広いwww
今も、昔も、古代も、有明海・不知火海(八代海)は、沿岸の国の人々に莫大な恵みをもたらして来ているわけだ。 >>545
不知火海といえば、ムツゴロウ。 奈良盆地といえば、ドジョウが相場。 @阿波 有明海・不知火海の干潟だけで、奈良県の田畑面積2万500haより広いwww
奈良県って、貧しいんだねえ、 奈良は意外と狭いんだぞ。
可住地面積
(人が住むことの出来る土地)
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)
弥生時代の耕作可能な土地
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2
[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2
30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。 面積の大部分は湖沼湿原で手付かずとか。
宮崎は広くてもシラスとかだし。
干潟は結構重要そう。 >>550
>干潟は結構重要そう。
干潟といえば、有明海。
有明海といえば、ムツゴロウ。
ムツゴロウは結構重要そう。 わははははは @阿波 人吉盆地は旧球磨郡と云い、熊本11郡の内で最大の郡だった
金・銀・銅・鉄鉱石にヒスイも取れる豊かなところ
山々に囲まれてはいるが、広〜い平野地帯 >>553
>金・銀・銅・鉄鉱石にヒスイも取れる豊かなところ
肝心かなめの、「辰砂」は? わははははは @阿波 球磨地方は辰砂も取れるよ。
中央構造線が通っているところだからね。 その川が熊本市内に流れ込み
川沿いに丹生神社があった。
流れてきた辰砂鉱石を採取していた。 >>555
>球磨地方は辰砂も取れるよ。
辰砂鉱脈は、全国いたるところにあるよ。
採れるところとは、弥生時代に採掘していたところ。 勘違いしないでね。 ワハハハハは @阿波 >>556
>流れてきた辰砂鉱石を採取していた。
で、その球磨地方で採れた辰砂、どこに使われているんだい??? @阿波 人吉盆地
球磨郡久米郷
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。(注:久米は武具の意味) 球磨盆地と奈良盆地は全く同じ大きさ
なのです・・・・
人吉盆地 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E7%9B%86%E5%9C%B0
人吉盆地(ひとよしぼんち)は球磨盆地(くまぼんち)とも呼ばれる。
熊本県南部において東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地である。
奈良盆地 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9B%86%E5%9C%B0
奈良盆地(ならぼんち)は、日本の奈良県北西部に位置する標高100メートル以下の断層盆地を指す。
「大和盆地」「大和平野」とも呼ばれる。
東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積を持ち、菱形をなしている。 そうなんだ、東西南北の数字が入れ替わっただけ
つまり、横長の球磨盆地を縦長にすると奈良盆地になるんだ!
球磨盆地(くまぼんち)
・東西約30キロメートル、南北約15キロメートル
奈良盆地(ならぼんち)
・東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートル >>558
北部九州全域ですね。
北部九州は装飾古墳などや
朱で彩色された木製品が出ていますね。
畿内の使用は少ないので
阿波の朱丹も九州に運ばれていたのでしょうか? >>562
>北部九州全域ですね。
ははははは、やけくそのウソはイカンぜよ。 @阿波 阿波の産物は九州で使われていたのか、
阿波の人ご苦労さんです 球磨盆地の入り口の地名は・・
「那良口」 ならぐち です
ずっと以前からとても気になっていました。
何故? 球磨盆地の入り口が ならぐち なのか!? って・・・・
球磨盆地と奈良盆地は全く同じ大きさ
なのです・・・・ 天皇皇后両陛下の平成御大礼時の御日程について 宮内庁作成資料2 を
拝読させて頂くと、以下の記述に目がとまりました。
11月24日(土)
昼 「大饗の儀」(第1回) 「久米舞」,悠紀主基両地方風俗舞,五節舞を披露。
〔午後0時〜1時26分〕
天皇陛下:モーニングコート
皇后陛下:ローブモンタント
・参列者:旧皇族・御親族,三権の長,国務大臣,衆参副議長・委員長等,最高裁判事,東京都・秋田県(悠紀地方)・大分県(主基地方)知事,
斎田の大田主等。前記の配偶者。 【237人】
夜 「大饗の儀」(第2回) 「久米舞」,悠紀主基両地方風俗舞,五節舞を披露。
〔午後7時〜8時26分〕
天皇陛下:モーニングコート
皇后陛下:ローブモンタント
・参列者:衆参議員,政務次官,道府県知事,各界代表等。【232人】
久米舞
私の住む旧球磨郡久米郷は、古代元祖的「久米族」の本拠地であったと言われる地です。
私は声を大にしてお伝えしたい!
大和の英雄に「征伐」された「蛮族」と教えられた毛むくじゃらのクマソ像は全くの誤りです!
そのような「蛮族」といわれる方々は、古代のこの球磨の地にはいらっしゃらなかった!
「クマソ」と言われた方々こそが、本当は日本の礎を築いた「英雄」の方々です。
だからこその「久米舞」なのではないでしょうか! >>564
>阿波の産物は九州で使われていたのか、
阿波の産物を九州で使っていたのは、筑紫忌部によってね。
筑紫忌部によって、前方後円墳も水銀朱も軽量薄型土器も勾玉も、その他諸々、九州にもたらされたんだよ。
筑紫忌部に感謝しなきゃね! ワハハハハは @阿波 熊襲とは、倭国連合の一角を成す肥国の王家の称号だろう。
隈は神に通じる。
神とはすなわち支配者であり、古き王族のことでもある。
そして邪馬台国の卑弥呼の出自でもある。 それは日本書紀巻第九 氣長足姬尊 ~功皇后 の中に記されていました!
卅九年、是年也太歲己未 魏志云 明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫「難斗米」、
詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也
四十年、魏志云 正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也
四十三年、魏志云 正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻
確かに日本書紀 ~功皇后紀の中に『魏志云』として
『明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫、難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。』とあります。
~功皇后 卅九年(39年)とは上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧を見ると、
確かに 西暦239年。
合わせてあるな・・・ と私は考えました。
早速、父にこの事を伝えると
『日本書紀にか? お父さんも知らなかったよ。難斗米?は、難升米じゃないのか!?
「斗」であれば「升」より上だな、 十倍増えている
日本書紀では十倍偉くなられているんじゃないのか(^'^)』 >>564
>阿波の産物は九州で使われていたのか、
阿波の産物を九州で使っていたのは、筑紫忌部によってね。
筑紫忌部によって、前方後円墳も水銀朱も軽量薄型土器も勾玉も、その他諸々、九州にもたらされたんだよ。
筑紫忌部に感謝しなきゃね! ワハハハハは @阿波 それにウィキペディアの注記には
『現存している「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀で、8世紀に完成した日本書紀のほうが正しい文字を伝えている可能性がある。』とありました・・
ただ何故?
日本書紀、巻第九 神功皇后紀に、「倭女王」様の記述や「難斗米(難升米)」様の記述があるのか!?
つまり、書紀編纂者の方々は、対外的に(海外に向けて)「倭女王様」を、「神功皇后様」に比定されようとしていたのではないのか!? 九州で使われた水銀朱は中国産っぽいそうな
火山活動のある日本産は硫黄分が多いとかなんとか 魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
■卑弥呼の時代に確実に存在していたクスノキをピックアップすると
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市木宮木の宮神社
樹齢1800年あたり
・確認できず
やはり九州など温暖な地域が浮かび上がります。
基本的に、比定地として確実に名乗ることが許されるのは、この地域のみと言えるでしょう。 >>573
>基本的に、比定地として確実に名乗ることが許されるのは、この地域のみと言えるでしょう。
そんな北部九州に楠は自生しない。 それらは植樹したもの。
楠が自生するのは、黒潮が沿岸を流れる地域。
ちなみに、倭人伝の「橘」も北部九州や奈良盆地には自生しない。 @阿波 北部九州で福岡市東区あたりが
楠自然林の北限となっています。 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
ぎりぎり北限。 そんなところでは、まず無理。 @阿波 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
北部九州は、「丹」でも脱落。「楠」でも脱落.「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
北部九州は、「丹」でも脱落。 「楠」でも脱落。 「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、明治天皇以前には、九州行幸が一切無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>580
こういう指摘は、お花畑の畿内説には、到底出来ない。 @阿波 肥前国風土記・佐賀の由来クスノキ
昔者 樟樹一株 生於此村。幹枝秀高 茎葉繁茂、朝日之影 蔽杵島郡蒲川山、暮日之影 蔽養父郡草横山也。
日本武尊 巡幸之時、御覧樟茂栄、勅曰 此国可謂栄国。因曰栄郡。後改号佐嘉郡。
古代、当郡の村々には楠(クスノキ)の大木が生い茂り、朝日の影は杵島郡蒲川山、夕日の影は養父郡草横山にまで届いたという。
当地を巡幸した日本武尊は楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよかろう」と述べ、
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄の字が佐嘉→佐賀に転じたとする 佐嘉(佐賀)の起こりが「日本武尊 巡幸之時・・」というのは、大きなカギと思われる。
つまり、佐賀川上を帝都にしていたカワカミノタケルを、日本武尊が討伐したのちに「佐嘉」の名が生まれたということである。
では、カワカミノタケルの旧都はなんという名であったのであろうか・・。
歴史はそれを伝えていない、
というより、日本武尊の「神々しい巡幸譚」をもちだすことによって、意図的に葬り去られたのではないであろうか・・。 北部九州は、「丹」でも脱落。 「楠」でも脱落。 「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 北部九州の糸島・博多・田川・宗像などは、山陰気候区といって、雨雪多く肌寒いところ
とうてい温暖とは言い難い
それに比べ、佐賀平野・筑後平野以南は、年中あったかで格別良きところ
「楠」でも合格! 「橘」でも合格! 「温暖な地」でも合格!! >>586
>「楠」でも合格! 「橘」でも合格! 「温暖な地」でも合格!!
肝心な「丹」が抜けてるよ? わははははは @阿波 丹はどこにでもある
とりあえずは、阿波に任せようと思ってな、、。 >>587
>でも墓は伊都平原でいいでしょ?
お墓だけが拠り所なんだね。 可哀そう。
そんなお墓より、卑弥呼時代の大集落群でも探せば?
まっ、卑弥呼時代の大集落群がないから、お墓にすがる気持ちも理解できるがw @阿波 >>589
>丹はどこにでもある
ところが、これを採掘し、精製する技術・能力があるのが、倭国(阿波)だけという。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>589
キャラと末尾の記号の組み合わせが間違ってるぞ 古来、佐賀といえばクスノキだ
県名の由来:
>「佐賀」は、1871年(明治4年)の廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。
古くは「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。
「佐嘉」の表記は佐嘉神社などに残されている。
>佐賀郡の由来は諸説あり、『肥前国風土記』における楠樹にまつわる「栄の国」伝説や、同じく風土記の賢女(さかしめ)伝説によるものがしばしば挙げられる。
クスノキは、県内各地に名木が所在し、また「県の木」にも指定されるなど縁が深い。 >>594
>古来、佐賀といえばクスノキだ
まだ、諦め切れないんだね。 可哀そうに。 @阿波 よしよし!
なんかあったら、佐賀県庁へ言ってくれ、、。 また転写保存
479>>588
勝手に、造作だインチキだと否定し、読み替えれば、どんな歴史でも創作できる
大和説者がやっているのはそういう行為だという挙証を
ありがとう 佐嘉(佐賀)の起こりが「日本武尊 巡幸之時・・」というのは、大きなカギだ。
つまり、佐賀川上を帝都にしていたカワカミノタケルを、日本武尊が討伐したのちに「佐嘉」と命名されたのである。
では、カワカミノタケルの旧都はなんという名であったのであろうか・・。
歴史はそれを伝えていない、
というより、「日本武尊 巡幸」にかこつけて、上書き消去したのではないか・・。 大和朝廷は、記紀編纂に併せて川上の古地名を消去しただけでなく、
カワカミノタケルの旧都につながる宮殿・官衙から、倉庫土塁に到るまで解体して、どこかへ移築したのではないか。
7-8世紀当時、川上にあった百済系の寺院は廃寺となって砕けた瓦だけが残り、
椅寺(イ寺)の銘を刻まれた梵鐘もどこかへ運び去られた。
その梵鐘は、なんと近年になって千葉県の古寺跡から発掘され、今、因縁の歴博に保管されている。。。 >>571日本@名無史さん2019/07/11(木) 19:54:29.35
>ウィキペディアの注記には
『現存している「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀で、8世紀に完成した日本書紀のほうが正しい文字を伝えている可能性がある。』とありました・・
>ただ何故?
日本書紀、巻第九 神功皇后紀に、「倭女王」様の記述や「難斗米(難升米)」様の記述があるのか!?
つまり、書紀編纂者の方々は、対外的に海外に向けて「倭女王様」を、「神功皇后様」に比定されようとしていたのではないのか!?
ここで、対外的に海外に向けて・・・、ということの内容は、
実際には、白村江の勝者であった中華王朝等に対する苦しい弁明であったのではないか
(・・倭女王のことは北部九州の地方政権が怪しいですよ、と匂わせた大和朝廷の責任逃れ) 祖先の道たどった200キロ、丸木舟与那国到着
(読売新聞 沖縄版)2019/07/10
>約3万年前、日本人の祖先が台湾からどう渡来したのかを探る国立科学博物館などのチームの丸木舟(全長約7・6メートル)が
9日、台湾から約2日かけて、日本最西端の沖縄・与那国島にたどり着いた。
地図やコンパスに頼らず手こぎで世界有数の海流・黒潮を斜めに渡りきり、
古代の謎を解く手がかりとなる航海実験に成功した。
>男女5人(40〜64歳)のこぎ手を乗せた丸木舟は、日本時間の7日午後2時38分、台湾東岸(台東県北部)を出発。約45時間後の9日午前11時48分、与那国島西部の「ナーマ浜」に到着した。
星座と太陽で方角を定めたというから、素晴らしい。
末盧国から東南の伊都国を、夏の日の出のせいで北東に見誤ったなどと、幼稚大人の言い訳は通用しない。。。 佐賀市大和町川上、五社明神社(文化財指定:佐賀県史跡)
>佐賀市大和町川上大願寺地区の五社明神社を中心とする一帯にあって、文献記録に登場しない奈良時代の寺院跡である。
立地は山麓に近い標高約25メートルの扇状地上で、大和町総座の肥前国庁跡から嘉瀬川を挟んで西方約2.5キロメートルの距離にある。
>現存する遺構は五社明神社境内に建物基壇が残り、礎石約50個がおよそ4地区に分散している。
その範囲はほぼ2町四方(約200メートル四方)であり、
布目瓦(ぬのめがわら)の散布も同じ範囲であることから、寺域は肥前国分寺同等の規模と推定される。 熊襲タケルの屋敷だろ?
ヤマトタケルが女装して忍び込んだんだよ。 現状この寺域内には小径が通い、田の字形になってる。
同じような区画は西・東・北に各1あり、合計4区から成る大規模な砦邑(屋敷群)があったようだ。 佐賀市大和町川上、廃寺跡の五社明神社(五社大明神)
御祭神
・春日大明神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命)、
・比賣神、
・仲哀天皇、
・神功皇后、
・応神天皇
(廃寺は7世紀末から8世紀前半頃のもの。その後、故あって廃寺跡に五社大明神を建立したのではないか) 神功紀によって、700年記紀作者が倭人伝を読んでいることが判る。
隋唐使の600年当時、聖徳太子に比定される天皇も、
この古の倭王は日本ではないと説明している。
物証として、57年の漢の倭奴国印は博多湾志賀島から出ている。
公孫氏の238年から倭人伝終了の247年まで、倭人は楽浪帯方に出兵はしていない。
魏が239年公孫氏と、難升米にも檄の有った246年韓王朝を滅ぼしたことによって
卑弥呼と魏の同盟関係が防衛のための、牛馬移入半島進出含む富国強兵に変わり
300年以降の四郡撤退や百済新羅建国を後押し、400年倭の五王時代となる。
楽浪帯方から軍師の亡命、連行?も有っただろう。
これは250年以前の銅鐸時代から、九州や半島進出へと向かう
古墳時代の到来に一致している。
247年まで記録の有る邪馬台国は九州で、
倭の五王は本州四国九州が統一後の王権である。
邪馬台国が奈良である、というのは歴史が読めていなくないか? ほんと、邪馬台国が日本だと思うからおかしくなるんだよ
邪馬台国は、何か得体の知れない者が仕切ってた小国であって
日本じゃないし、天皇とも関係ない 得体がしれないって、神武東征が卑弥呼の頃なら、少なくとも卑弥呼の前の男王は九州の日向三代、皇祖だろ。 神武天皇は紀元前の天皇なので、卑弥呼の時代には居ないんですが それは記紀が年代を過大に前倒ししているから。
紀元前の奈良に天皇も何もない。 >>508
すごい力作だけど
残念ながらデタラメな内容だと思う 607 名前:日本@名無史 2019/07/14(日) 08:24:30
佐賀市大和町川上、廃寺跡の五社大明神
・春日大明神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命)
・比賣神、
(以下、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の3社を加えて合計5社)
春日大明神は、藤原氏の守り神であり、
全国各地に春日大社として祀られている。
これらの内、川上との関係が最も注目されるのは「武甕槌命タケミカズチノミコト」である。
、 肥前国風土記によれば、
佐賀川上の東を流れる佐嘉川(現・嘉瀬川)の河畔に世田姫という名の石神が祀られており(現・河上神社)、
毎年、鰐魚(サメ?、大ナマズ?)の姿をした海神が、小さい魚を伴って遡上して石神を詣で、数日留まった後に海へ還ると伝えています。
また、この魚を取って食べると死ぬこともあるとされ、
この地で、御祭神の眷族(けんぞく)とされるナマズを食べない習俗は、その名残と考えられています。
なおこの大ナマズが、ご機嫌を損ねて地震を起こさないよう守り抑えるのが、タケミカヅチのお役目とされています。 その河上神社の與止日女こそ、卑弥呼の次の女王である壹與だと思う。 タケミナカタがナマズ神だからこそ
ナマズ封じはタケミカヅチなわけだな >「與止姫神」はまたの名を「豊姫」「淀姫」という(肥前国風土記逸文(神名帳頭注))。
また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている。
佐賀県には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち6社が佐嘉川(現・嘉瀬川)流域にある。 古代には、神の遣いとされる大ナマズ、小ナマズの大群が、
小魚を従え、有明海から佐嘉川へ産卵遡上してきていたのか、昔から豊かな海だったのだな、 満州先生のご本が絶賛発売中です。
「馬韓も百済も満州にあった」
邪馬台国論争を解く上でも必読本です。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 >第12代景行天皇の第二皇子小碓尊(おうす)は、九州の熊襲(くまそ)討伐を命じられた。
小碓尊は女物の衣装に身を包み、宴席の熊襲タケル兄弟に忍び寄って、隠し持っていた剣で討つ事に成功した。
死の間際の熊襲タケルはその知恵と勇気を讃えて皇子に「ヤマトタケル」の名を送り、自らは川上タケルに降名した。
景行天皇の時代の伝承であるが、舞台は佐賀川上、カワカミノタケルの墓は川上の北の真手山にあるという。 一般にナマズは淡水魚だ。
しかし汽水域にも住む。つまり有明海にそそぐ河川の出口付近や干潟域はそれにあたる。 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
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