【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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>>573
>基本的に、比定地として確実に名乗ることが許されるのは、この地域のみと言えるでしょう。
そんな北部九州に楠は自生しない。 それらは植樹したもの。
楠が自生するのは、黒潮が沿岸を流れる地域。
ちなみに、倭人伝の「橘」も北部九州や奈良盆地には自生しない。 @阿波 北部九州で福岡市東区あたりが
楠自然林の北限となっています。 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
ぎりぎり北限。 そんなところでは、まず無理。 @阿波 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
北部九州は、「丹」でも脱落。「楠」でも脱落.「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 >>576
>北部九州で福岡市東区あたりが
>楠自然林の北限となっています。
北部九州は、「丹」でも脱落。 「楠」でも脱落。 「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、明治天皇以前には、九州行幸が一切無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>580
こういう指摘は、お花畑の畿内説には、到底出来ない。 @阿波 肥前国風土記・佐賀の由来クスノキ
昔者 樟樹一株 生於此村。幹枝秀高 茎葉繁茂、朝日之影 蔽杵島郡蒲川山、暮日之影 蔽養父郡草横山也。
日本武尊 巡幸之時、御覧樟茂栄、勅曰 此国可謂栄国。因曰栄郡。後改号佐嘉郡。
古代、当郡の村々には楠(クスノキ)の大木が生い茂り、朝日の影は杵島郡蒲川山、夕日の影は養父郡草横山にまで届いたという。
当地を巡幸した日本武尊は楠樹の栄え繁る様を見て、「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよかろう」と述べ、
そこから「栄郡(さかのこおり)」と呼ばれるようになり、後に栄の字が佐嘉→佐賀に転じたとする 佐嘉(佐賀)の起こりが「日本武尊 巡幸之時・・」というのは、大きなカギと思われる。
つまり、佐賀川上を帝都にしていたカワカミノタケルを、日本武尊が討伐したのちに「佐嘉」の名が生まれたということである。
では、カワカミノタケルの旧都はなんという名であったのであろうか・・。
歴史はそれを伝えていない、
というより、日本武尊の「神々しい巡幸譚」をもちだすことによって、意図的に葬り去られたのではないであろうか・・。 北部九州は、「丹」でも脱落。 「楠」でも脱落。 「橘」でも脱落。 「温暖な地」でも脱落。 どうにもしようがないところ。 @阿波 北部九州の糸島・博多・田川・宗像などは、山陰気候区といって、雨雪多く肌寒いところ
とうてい温暖とは言い難い
それに比べ、佐賀平野・筑後平野以南は、年中あったかで格別良きところ
「楠」でも合格! 「橘」でも合格! 「温暖な地」でも合格!! >>586
>「楠」でも合格! 「橘」でも合格! 「温暖な地」でも合格!!
肝心な「丹」が抜けてるよ? わははははは @阿波 丹はどこにでもある
とりあえずは、阿波に任せようと思ってな、、。 >>587
>でも墓は伊都平原でいいでしょ?
お墓だけが拠り所なんだね。 可哀そう。
そんなお墓より、卑弥呼時代の大集落群でも探せば?
まっ、卑弥呼時代の大集落群がないから、お墓にすがる気持ちも理解できるがw @阿波 >>589
>丹はどこにでもある
ところが、これを採掘し、精製する技術・能力があるのが、倭国(阿波)だけという。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>589
キャラと末尾の記号の組み合わせが間違ってるぞ 古来、佐賀といえばクスノキだ
県名の由来:
>「佐賀」は、1871年(明治4年)の廃藩置県の際県庁所在地となった佐賀郡から採られた。
古くは「佐嘉」と「佐賀」両方の表記が見られたが、1870年(明治3年)に「佐賀」に統一された。
「佐嘉」の表記は佐嘉神社などに残されている。
>佐賀郡の由来は諸説あり、『肥前国風土記』における楠樹にまつわる「栄の国」伝説や、同じく風土記の賢女(さかしめ)伝説によるものがしばしば挙げられる。
クスノキは、県内各地に名木が所在し、また「県の木」にも指定されるなど縁が深い。 >>594
>古来、佐賀といえばクスノキだ
まだ、諦め切れないんだね。 可哀そうに。 @阿波 よしよし!
なんかあったら、佐賀県庁へ言ってくれ、、。 また転写保存
479>>588
勝手に、造作だインチキだと否定し、読み替えれば、どんな歴史でも創作できる
大和説者がやっているのはそういう行為だという挙証を
ありがとう 佐嘉(佐賀)の起こりが「日本武尊 巡幸之時・・」というのは、大きなカギだ。
つまり、佐賀川上を帝都にしていたカワカミノタケルを、日本武尊が討伐したのちに「佐嘉」と命名されたのである。
では、カワカミノタケルの旧都はなんという名であったのであろうか・・。
歴史はそれを伝えていない、
というより、「日本武尊 巡幸」にかこつけて、上書き消去したのではないか・・。 大和朝廷は、記紀編纂に併せて川上の古地名を消去しただけでなく、
カワカミノタケルの旧都につながる宮殿・官衙から、倉庫土塁に到るまで解体して、どこかへ移築したのではないか。
7-8世紀当時、川上にあった百済系の寺院は廃寺となって砕けた瓦だけが残り、
椅寺(イ寺)の銘を刻まれた梵鐘もどこかへ運び去られた。
その梵鐘は、なんと近年になって千葉県の古寺跡から発掘され、今、因縁の歴博に保管されている。。。 >>571日本@名無史さん2019/07/11(木) 19:54:29.35
>ウィキペディアの注記には
『現存している「魏志倭人伝」の最古の写本は12世紀で、8世紀に完成した日本書紀のほうが正しい文字を伝えている可能性がある。』とありました・・
>ただ何故?
日本書紀、巻第九 神功皇后紀に、「倭女王」様の記述や「難斗米(難升米)」様の記述があるのか!?
つまり、書紀編纂者の方々は、対外的に海外に向けて「倭女王様」を、「神功皇后様」に比定されようとしていたのではないのか!?
ここで、対外的に海外に向けて・・・、ということの内容は、
実際には、白村江の勝者であった中華王朝等に対する苦しい弁明であったのではないか
(・・倭女王のことは北部九州の地方政権が怪しいですよ、と匂わせた大和朝廷の責任逃れ) 祖先の道たどった200キロ、丸木舟与那国到着
(読売新聞 沖縄版)2019/07/10
>約3万年前、日本人の祖先が台湾からどう渡来したのかを探る国立科学博物館などのチームの丸木舟(全長約7・6メートル)が
9日、台湾から約2日かけて、日本最西端の沖縄・与那国島にたどり着いた。
地図やコンパスに頼らず手こぎで世界有数の海流・黒潮を斜めに渡りきり、
古代の謎を解く手がかりとなる航海実験に成功した。
>男女5人(40〜64歳)のこぎ手を乗せた丸木舟は、日本時間の7日午後2時38分、台湾東岸(台東県北部)を出発。約45時間後の9日午前11時48分、与那国島西部の「ナーマ浜」に到着した。
星座と太陽で方角を定めたというから、素晴らしい。
末盧国から東南の伊都国を、夏の日の出のせいで北東に見誤ったなどと、幼稚大人の言い訳は通用しない。。。 佐賀市大和町川上、五社明神社(文化財指定:佐賀県史跡)
>佐賀市大和町川上大願寺地区の五社明神社を中心とする一帯にあって、文献記録に登場しない奈良時代の寺院跡である。
立地は山麓に近い標高約25メートルの扇状地上で、大和町総座の肥前国庁跡から嘉瀬川を挟んで西方約2.5キロメートルの距離にある。
>現存する遺構は五社明神社境内に建物基壇が残り、礎石約50個がおよそ4地区に分散している。
その範囲はほぼ2町四方(約200メートル四方)であり、
布目瓦(ぬのめがわら)の散布も同じ範囲であることから、寺域は肥前国分寺同等の規模と推定される。 熊襲タケルの屋敷だろ?
ヤマトタケルが女装して忍び込んだんだよ。 現状この寺域内には小径が通い、田の字形になってる。
同じような区画は西・東・北に各1あり、合計4区から成る大規模な砦邑(屋敷群)があったようだ。 佐賀市大和町川上、廃寺跡の五社明神社(五社大明神)
御祭神
・春日大明神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命)、
・比賣神、
・仲哀天皇、
・神功皇后、
・応神天皇
(廃寺は7世紀末から8世紀前半頃のもの。その後、故あって廃寺跡に五社大明神を建立したのではないか) 神功紀によって、700年記紀作者が倭人伝を読んでいることが判る。
隋唐使の600年当時、聖徳太子に比定される天皇も、
この古の倭王は日本ではないと説明している。
物証として、57年の漢の倭奴国印は博多湾志賀島から出ている。
公孫氏の238年から倭人伝終了の247年まで、倭人は楽浪帯方に出兵はしていない。
魏が239年公孫氏と、難升米にも檄の有った246年韓王朝を滅ぼしたことによって
卑弥呼と魏の同盟関係が防衛のための、牛馬移入半島進出含む富国強兵に変わり
300年以降の四郡撤退や百済新羅建国を後押し、400年倭の五王時代となる。
楽浪帯方から軍師の亡命、連行?も有っただろう。
これは250年以前の銅鐸時代から、九州や半島進出へと向かう
古墳時代の到来に一致している。
247年まで記録の有る邪馬台国は九州で、
倭の五王は本州四国九州が統一後の王権である。
邪馬台国が奈良である、というのは歴史が読めていなくないか? ほんと、邪馬台国が日本だと思うからおかしくなるんだよ
邪馬台国は、何か得体の知れない者が仕切ってた小国であって
日本じゃないし、天皇とも関係ない 得体がしれないって、神武東征が卑弥呼の頃なら、少なくとも卑弥呼の前の男王は九州の日向三代、皇祖だろ。 神武天皇は紀元前の天皇なので、卑弥呼の時代には居ないんですが それは記紀が年代を過大に前倒ししているから。
紀元前の奈良に天皇も何もない。 >>508
すごい力作だけど
残念ながらデタラメな内容だと思う 607 名前:日本@名無史 2019/07/14(日) 08:24:30
佐賀市大和町川上、廃寺跡の五社大明神
・春日大明神(武甕槌命、経津主命、天児屋根命)
・比賣神、
(以下、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の3社を加えて合計5社)
春日大明神は、藤原氏の守り神であり、
全国各地に春日大社として祀られている。
これらの内、川上との関係が最も注目されるのは「武甕槌命タケミカズチノミコト」である。
、 肥前国風土記によれば、
佐賀川上の東を流れる佐嘉川(現・嘉瀬川)の河畔に世田姫という名の石神が祀られており(現・河上神社)、
毎年、鰐魚(サメ?、大ナマズ?)の姿をした海神が、小さい魚を伴って遡上して石神を詣で、数日留まった後に海へ還ると伝えています。
また、この魚を取って食べると死ぬこともあるとされ、
この地で、御祭神の眷族(けんぞく)とされるナマズを食べない習俗は、その名残と考えられています。
なおこの大ナマズが、ご機嫌を損ねて地震を起こさないよう守り抑えるのが、タケミカヅチのお役目とされています。 その河上神社の與止日女こそ、卑弥呼の次の女王である壹與だと思う。 タケミナカタがナマズ神だからこそ
ナマズ封じはタケミカヅチなわけだな >「與止姫神」はまたの名を「豊姫」「淀姫」という(肥前国風土記逸文(神名帳頭注))。
また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている。
佐賀県には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち6社が佐嘉川(現・嘉瀬川)流域にある。 古代には、神の遣いとされる大ナマズ、小ナマズの大群が、
小魚を従え、有明海から佐嘉川へ産卵遡上してきていたのか、昔から豊かな海だったのだな、 満州先生のご本が絶賛発売中です。
「馬韓も百済も満州にあった」
邪馬台国論争を解く上でも必読本です。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 >第12代景行天皇の第二皇子小碓尊(おうす)は、九州の熊襲(くまそ)討伐を命じられた。
小碓尊は女物の衣装に身を包み、宴席の熊襲タケル兄弟に忍び寄って、隠し持っていた剣で討つ事に成功した。
死の間際の熊襲タケルはその知恵と勇気を讃えて皇子に「ヤマトタケル」の名を送り、自らは川上タケルに降名した。
景行天皇の時代の伝承であるが、舞台は佐賀川上、カワカミノタケルの墓は川上の北の真手山にあるという。 一般にナマズは淡水魚だ。
しかし汽水域にも住む。つまり有明海にそそぐ河川の出口付近や干潟域はそれにあたる。 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「嘘つき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。
https://i.imgur.com/Yl66H0o.png
https://i.imgur.com/9seuJA2.jpg 景行天皇よりはるか遡った高天原神話の時代に、佐賀川上にゆかりの大人物がいる。
川上の中心区画に五社大明神として祀られている藤原の守護神のナマズ神タケミカズチである。
其の父について記紀の高天原神話では、
葦原中国平定の段において、タケミカズチは、伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されている、
天照大御神は、タケミカズチ(建御雷神)か、もしくはその父の伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと望んたが、
父の建議を入れて、建御雷神が降臨する運びとなる。
つまり、川上を本拠としたタケイカズチの父は「伊都之尾羽張」と名乗っていたというのである。
景行天皇の時代に川上と呼ばれたこの地は、
高天原神話の時代には{伊都国(イツコク)}と称されていたのではないか・・。 ついに「陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋司馬懿(秀吉)は魏・明帝曹叡(信長)の後見人指名がなければ皇帝になれなかった。大恩人・曹叡の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまったミスを誤魔化し、孫呉を滅ぼす先鞭を付けたことにしてあげたい。
→曹魏の帝都・洛陽から見て孫呉との戦いにおいて、最高の牽制となるその背後に倭国「女王之所都」があるためには、
孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡(蘇州)「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南の福州の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、九州島(倭国)が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(べトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む、南北に長大な列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽冶之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日に奄美大島があり、それをベースに、幻の邪馬台国島、そして東治⇔東冶間を「陸行一月」として、幻の【奴国A】を創り、福州「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>630の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜
洛陽┃ ┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>471)
【魏】┃〜〜〜↓↓南「水行十日」〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃〜対馬▲↓〜〜〜〜〜〜↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜南「水行十日」┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌→→→→→→┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海┌←←←←←←┘南「水行十日」
蘇州┃〜〜┌──▲奄美大島─┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」
福州┃〜〜│△▲△△△△△△│←亶州(沖縄)
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜
┃↖儋耳・朱崖〜〜〜〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 【渡来系九州人と朝鮮人】
東京大学の遺伝子研究チームによると
現代日本人の43/44は渡来系九州人
この渡来系九州人の遺伝子は現代の朝鮮人と酷似していることは研究で明らかになっている
天皇の顔見てみろよ
朝鮮耳でエラ張りツリ目だろ?
たまに古代朝鮮人と現代朝鮮人は違うとか言うバカいるけど
それ違うなんて学説は世界のどこにもないから
是非東京大学に入学して論文発表してもらいたいね 〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜
2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/UJZubVQ.jpg
https://i.imgur.com/2YKTJN4.jpg
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/3uWM5cK.jpg
従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/mLgiqTd.jpg
https://i.imgur.com/1Yl4qgn.jpg
https://i.imgur.com/fQ7qJ4s.jpg
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%
従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/YlzY3cM.jpg
チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える
結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在 >>629
有明海は代表的な汽水域
上澄みは稲作が可能 ご参考までに、「汽水域」というのは、
海の水と川の水が入り混じる塩分の薄い区域で、そこを好む魚種も多い。産卵は主に川の上流。 佐賀川上の中央に祀られているのは、藤原氏の祖神のナマズ神タケミカズチ(建御雷神)である。
高天原神話では、其のタケミカズチの父は、伊都之尾羽張(イツノオハバリ)と記述されている、
天照大御神は、伊都之尾羽張、又はタケミカズチを中津国の平定に派遣したいと望んたが、
父の願いを入れて、タケミカズチが降臨することになったという。
つまり、川上を本拠にしていたタケイカズチの父は「伊都之尾羽張」と名乗っていたというのである。
佐賀川上と呼ばれるこの地は、
高天原の時代には「伊都国」(イツコク)と称されていたのではないだろうか・・。 >>639
昔、ちょっとばかりクリークのことを学んだ。
動力のなかった時代のアオ取水は、海水・真水の比重差と干満差を利用した素晴らしい知識・技術だったんだねえ。 >日本書紀の葦原中国平定に登場する武甕槌神(タケミカズチ)は、
天石窟に住む神である稜威雄走神(いつのおはしりのかみ、又は伊都之尾羽張、天之尾羽張)の四世の孫であると記されている。
(1世・稜威雄走神 ― 2世・甕速日神 ― 3世・熯速日命 ― 4世・武甕槌神)
当に、伊都(国)には世々王有り 天照大御神は、出雲の大国主神のもとに遣わす神を求めた。
>思金神と諸神が言うには、
「天安河の河上(川上)の天石屋におられる伊都之尾羽張神を遣わすのが良いでしょう。」
「もしこの神でなければ、その子の建御雷之男神を遣わすのが良いでしょう。」
「またその伊都之羽張神は、天安河の水を逆に塞き上げ、道を塞いでおりますので、他の神では道を行かれないでしょう。} 系統が違うんだよ、
お前の知っている百済〜というの人がモンゴルの系統なんだろう 家は『王母 龍宮 寒いな〜』
このような名前の家なんだけど、実際に、その家なんだと思うw
松の木が立てられていて、
そこに立っている人がいるでしょ、どう見てもモンゴルの系統ではないし 【邪馬台国九州説】
明治時代の大日本民国政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
明治政府は古事記や日本書紀の歴史を改竄し、その解釈をねじ曲げた。
これは高麗町出身者によって作られた大日本民国政府にとって朝鮮から鉄器をもたらした朝鮮人は神であり、その神の降り立った九州が日本の原点であると教育した。
https://i.imgur.com/HuQ0qyt.gif
この教育のせいで当時の縄文人は野蛮で穢らわしい蛮族という認識を当時の日本人は持つに至った。
もちろん、それは全くの間違い。縄文人は先住民族であり、弥生人は渡来系朝鮮人が真実である。
考古学者の森本六爾は1924年上京して大日本民国政府の命に背き弥生学の研究を始める。
彼のおかげで現在では古事記に書かれていた、始まりの地は淡路島と正しく認識する人が多い。
しかし今現在でも例えば邪馬台国についてでも魏志倭人伝の解釈を改竄し、ねじ曲げて理解している者が少なくない。
彼らは敢えて解釈をねじ曲げている。
それが祖国朝鮮のためでもあるからである。 【四六駢儷体・しろくべんれいたい】
〜 四六駢儷文、四六文、駢儷体、駢儷文、駢体文、駢文、〜
「駢儷」は馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの。
漢文の文体で、四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体。
誇大で華美な文辞を用い、典故のある語句を繁用し、平仄ひようそくを合わせ、音調を整えるのが特徴で、朗誦に好適する。
漢・魏ぎの時代に起こり、南北朝時代に盛んに行われた。日本では奈良・平安時代の漢文によく用いられた。 878日本@名無史さん2019/07/14(日) 09:03:17.72
魏志倭人伝の地誌記事は駢儷体になっているから、
読みなれた文章とは、一風変わって感じられるという側面もある
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。
好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。
郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。 倭人伝の文章は、
漢文でも、日本文に直しても、リズム感・抑揚感に溢れていることは承知していたが、
四六駢儷体文であることは、最近になって邪馬台国関連スレで知った。
なかなか読みこなせない行程記述をスマートに理解するうえで、四六駢儷体の知識は重要・不可欠だ、、。 魏 志←魏の役人
倭人←倭人の祖は呉の太白に始まる集団
伝
つまり海洋系の中国人らの移住先調査 国が変わればその国名が先にくる
調べてる連中らの中身なんか変わらん 調べたことは全て記録に取り向こうに資料としての文献が残る 倭人伝は、正しく読めない。
自郡至女王國 萬二千餘里
〜
計其道里 當在 會稽東治之東
この間の段落は倭人の刺青のくだりだが、
計其道里 が掛かる文節は無い。
自郡至女王國 萬二千餘里
=
計其道里 當在 會稽東治之東
である。
これ、種子島か屋久島だが、鹿児島宮崎は許容範囲か? 都万厨喜べwww
だがしかし、南 満二千里はやっつけで半島南岸の東行3千里が落ちてるのではないか?
呉の 太伯の後削除 以降、陳寿は倭人伝文章の成立に係ってないのではないかな?
魏王の恥を払拭した東夷伝短里なんて無いのに、新唐書迄が、これを踏襲している。 韓が方四千里だから、狗邪韓国までは帯方郡から南へ四千里、東へ三千里。そこから対馬海峡を渡ること三千里。 計其道里 當在 會稽東治之東
は、
帯方郡から南に満二千里なら、鹿児島、種子島だが、
乍南乍東した、3千里を誤算していれば、筑紫平野極南で帳尻は合う。
張先生は、至、到の用法の違いを知ったが、解釈を誤った。
奴國、不彌國は、伊都国が起点。
南至 以降の文節は、前節と直列し得ない。
南至 投馬国〜自郡至女王國 萬二千餘里 から
改竄で文章崩壊の刺青のくだり後の
計其道里 當在 會稽東治之東 も 行程としての同列の文章ではない。
240年の記録と247年の記録が並列して記されている。
文節が邪馬台国21国7万戸の印綬女王国の説明だからである。
南に満二千里=水行30日が可能なのは、帯方郡起点以外には無く
南=東てのは、絶対にない。
何故、東夷伝里という、意味不明な暗号になっているか、
計其道里 當在 會稽東治之東 によって、
筑紫王を大倭王として印綬したことの魏の間違いの隠ぺいを陳寿は弁明している。
當在 會稽東治之東 は、九州以南であり、本州ではない。 >>630の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>471)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 一月行は東夷伝里の約二千里。
京畿湾から済州島=三月行
600年当時中国が認識した日本領=南北3月行 東西5月行である。
これは、九州の南北と奈良の東麓までである。
隋書以降、唐書の900年であれば実は白村江後に日本海ルートを能登まで見ている。
これは記録できなかったんじゃないのかな?
中華中原の大きさは
南北=山東半島〜会稽、東西=黄海〜成都付近で
方可一年行 程度である。
中国正史は日本が、これよりでかいというのは、見なかったことにするが
太平洋で九州南部〜小笠原が、南東一年行2万4千里であることを何故か知っているw
何を隠すための道里かの其れを計ると、当に会稽東治の東に在る。陳寿談w
これが、東夷伝の謎の原因である。 てきとうこいちゃったw
中華中原の大きさは
南北=会稽〜黄河流域、
東西=山東半島〜成都付近で
方可一年行 程度である。
とかだよね? 済州島がどないしたんだ?
てめえらが調子ぶっこいてるわけな(°▽°) 駢儷体式記述:
*又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
*東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
*東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
*東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
*南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
*南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。
すなわち倭国上陸後、末盧国の東南到「伊都国」を受けて、
*東南至奴国と、*東行至不彌国は二股読みとなり、実際に行ったのは後者となる。
その後者の「不彌国」を受けて、
*南の投馬國も、*南の邪馬壹國女王之所都も、各々南へ行けば至ことができる旨の二股読みとなる。
つまり、駢儷体記述であることを知れば、各二股読みであることが容易に理解できるのである。
(注:なおこの後の記述で「自郡至女王国万二千余里」とあるので、女王の宮殿までの里数は明らかにされている) で、次の難問の、南至水行二十日と 南至水行十日陸行一月、、、の各々始点はどこからかというと、
駢儷体であることを前提にすれば、両者は同一始点からの日数と考えるべきであろう。
すると、まずは「帯方郡始点」というのが最も無難であろう。
もう一つは「始度一海」の出港地となった狗邪韓国であったということもないとは言えない、、。
*始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
*又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
ではあるが、
両者のどちらであっても上陸地は末盧国(松浦港)になるので、両国への行程に格別の差異は生じないであろう。 >>666(修正)
ではあるが、
両者のどちらであっても水行10日後の寄港地(又は上陸地)は末盧国(松浦港)になるので、両国への行程に格別の差異は生じないであろう。 壊れたテープレコーダーみたいに何年同じこと言ってんだよ >>666
>両者のどちらであっても上陸地は末盧国(松浦港)になるので
ははははは。 松浦が大陸からの玄関口(末盧国)ならば、宗像に替わって「世界文化遺産」になってるよ。 妄想はもういいから。 @阿波 というわけで、
末盧国から投馬国までは水行10日、邪馬台国女王之所都までは陸行1月ということになる。
いかにも駢儷体らしい、好対照の行程である、、。 2019年7月18日(木) 22:00放送 NHKクローズアップ現代
新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー
世界文化遺産への登録が決まった百舌鳥・古市古墳群。宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳では、埋葬場所が複数あるという明治時代の記録などが残されている。
一体誰が埋葬されているのか?歴史上の埋もれた人物がいたのではないか?そして、大山古墳と周辺に暮らす人々の知られざるかかわりや“あの人物”とのかかわりをつづった資料も残されていた。知られざる古墳のミステリーに迫る。 末盧国は、伊都国から北西500里。
糸島半島北西岸以外には無い。 アホなのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています