【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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>>639
昔、ちょっとばかりクリークのことを学んだ。
動力のなかった時代のアオ取水は、海水・真水の比重差と干満差を利用した素晴らしい知識・技術だったんだねえ。 >日本書紀の葦原中国平定に登場する武甕槌神(タケミカズチ)は、
天石窟に住む神である稜威雄走神(いつのおはしりのかみ、又は伊都之尾羽張、天之尾羽張)の四世の孫であると記されている。
(1世・稜威雄走神 ― 2世・甕速日神 ― 3世・熯速日命 ― 4世・武甕槌神)
当に、伊都(国)には世々王有り 天照大御神は、出雲の大国主神のもとに遣わす神を求めた。
>思金神と諸神が言うには、
「天安河の河上(川上)の天石屋におられる伊都之尾羽張神を遣わすのが良いでしょう。」
「もしこの神でなければ、その子の建御雷之男神を遣わすのが良いでしょう。」
「またその伊都之羽張神は、天安河の水を逆に塞き上げ、道を塞いでおりますので、他の神では道を行かれないでしょう。} 系統が違うんだよ、
お前の知っている百済〜というの人がモンゴルの系統なんだろう 家は『王母 龍宮 寒いな〜』
このような名前の家なんだけど、実際に、その家なんだと思うw
松の木が立てられていて、
そこに立っている人がいるでしょ、どう見てもモンゴルの系統ではないし 【邪馬台国九州説】
明治時代の大日本民国政府は九州推しと弥生人押しが酷かった。
明治政府は古事記や日本書紀の歴史を改竄し、その解釈をねじ曲げた。
これは高麗町出身者によって作られた大日本民国政府にとって朝鮮から鉄器をもたらした朝鮮人は神であり、その神の降り立った九州が日本の原点であると教育した。
https://i.imgur.com/HuQ0qyt.gif
この教育のせいで当時の縄文人は野蛮で穢らわしい蛮族という認識を当時の日本人は持つに至った。
もちろん、それは全くの間違い。縄文人は先住民族であり、弥生人は渡来系朝鮮人が真実である。
考古学者の森本六爾は1924年上京して大日本民国政府の命に背き弥生学の研究を始める。
彼のおかげで現在では古事記に書かれていた、始まりの地は淡路島と正しく認識する人が多い。
しかし今現在でも例えば邪馬台国についてでも魏志倭人伝の解釈を改竄し、ねじ曲げて理解している者が少なくない。
彼らは敢えて解釈をねじ曲げている。
それが祖国朝鮮のためでもあるからである。 【四六駢儷体・しろくべんれいたい】
〜 四六駢儷文、四六文、駢儷体、駢儷文、駢体文、駢文、〜
「駢儷」は馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの。
漢文の文体で、四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体。
誇大で華美な文辞を用い、典故のある語句を繁用し、平仄ひようそくを合わせ、音調を整えるのが特徴で、朗誦に好適する。
漢・魏ぎの時代に起こり、南北朝時代に盛んに行われた。日本では奈良・平安時代の漢文によく用いられた。 878日本@名無史さん2019/07/14(日) 09:03:17.72
魏志倭人伝の地誌記事は駢儷体になっているから、
読みなれた文章とは、一風変わって感じられるという側面もある
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。
好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。
郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。 倭人伝の文章は、
漢文でも、日本文に直しても、リズム感・抑揚感に溢れていることは承知していたが、
四六駢儷体文であることは、最近になって邪馬台国関連スレで知った。
なかなか読みこなせない行程記述をスマートに理解するうえで、四六駢儷体の知識は重要・不可欠だ、、。 魏 志←魏の役人
倭人←倭人の祖は呉の太白に始まる集団
伝
つまり海洋系の中国人らの移住先調査 国が変わればその国名が先にくる
調べてる連中らの中身なんか変わらん 調べたことは全て記録に取り向こうに資料としての文献が残る 倭人伝は、正しく読めない。
自郡至女王國 萬二千餘里
〜
計其道里 當在 會稽東治之東
この間の段落は倭人の刺青のくだりだが、
計其道里 が掛かる文節は無い。
自郡至女王國 萬二千餘里
=
計其道里 當在 會稽東治之東
である。
これ、種子島か屋久島だが、鹿児島宮崎は許容範囲か? 都万厨喜べwww
だがしかし、南 満二千里はやっつけで半島南岸の東行3千里が落ちてるのではないか?
呉の 太伯の後削除 以降、陳寿は倭人伝文章の成立に係ってないのではないかな?
魏王の恥を払拭した東夷伝短里なんて無いのに、新唐書迄が、これを踏襲している。 韓が方四千里だから、狗邪韓国までは帯方郡から南へ四千里、東へ三千里。そこから対馬海峡を渡ること三千里。 計其道里 當在 會稽東治之東
は、
帯方郡から南に満二千里なら、鹿児島、種子島だが、
乍南乍東した、3千里を誤算していれば、筑紫平野極南で帳尻は合う。
張先生は、至、到の用法の違いを知ったが、解釈を誤った。
奴國、不彌國は、伊都国が起点。
南至 以降の文節は、前節と直列し得ない。
南至 投馬国〜自郡至女王國 萬二千餘里 から
改竄で文章崩壊の刺青のくだり後の
計其道里 當在 會稽東治之東 も 行程としての同列の文章ではない。
240年の記録と247年の記録が並列して記されている。
文節が邪馬台国21国7万戸の印綬女王国の説明だからである。
南に満二千里=水行30日が可能なのは、帯方郡起点以外には無く
南=東てのは、絶対にない。
何故、東夷伝里という、意味不明な暗号になっているか、
計其道里 當在 會稽東治之東 によって、
筑紫王を大倭王として印綬したことの魏の間違いの隠ぺいを陳寿は弁明している。
當在 會稽東治之東 は、九州以南であり、本州ではない。 >>630の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
← ┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>471)
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」§琵琶湖
↓ ┃〜〜〜↓↓玄界灘〜〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓ 淀川↙ ↑木津川
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃河内湖+大和湖Ω箸墓
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃紀伊半島
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴(球磨)国▲▲投馬(都万)国┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━━九州島━━┛↓〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
蘇州┃〜〜┌───▲奄美大島┐↙邪馬台国島(幻)↓陳寿の創作〜〜
↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│〜「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
福州┃〜〜│△△▲△△△△△│←亶州(沖縄)〜〜↓「自郡至女王国 万二千余里」〜〜
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)△△│★『【女王之所都】計其道里 當在会稽東「冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲狗奴国(幻)△△│←夷州(台湾)〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└△△△△△△△△┘〜「※其余旁国遠絶 不可得詳」〜〜
┏▲海南島〜└△△△△△△┘〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(☆奴国A)東南 船行一年」 一月行は東夷伝里の約二千里。
京畿湾から済州島=三月行
600年当時中国が認識した日本領=南北3月行 東西5月行である。
これは、九州の南北と奈良の東麓までである。
隋書以降、唐書の900年であれば実は白村江後に日本海ルートを能登まで見ている。
これは記録できなかったんじゃないのかな?
中華中原の大きさは
南北=山東半島〜会稽、東西=黄海〜成都付近で
方可一年行 程度である。
中国正史は日本が、これよりでかいというのは、見なかったことにするが
太平洋で九州南部〜小笠原が、南東一年行2万4千里であることを何故か知っているw
何を隠すための道里かの其れを計ると、当に会稽東治の東に在る。陳寿談w
これが、東夷伝の謎の原因である。 てきとうこいちゃったw
中華中原の大きさは
南北=会稽〜黄河流域、
東西=山東半島〜成都付近で
方可一年行 程度である。
とかだよね? 済州島がどないしたんだ?
てめえらが調子ぶっこいてるわけな(°▽°) 駢儷体式記述:
*又渡一海千餘里、至末盧國。有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
*東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
*東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。
*東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
*南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。
*南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。
すなわち倭国上陸後、末盧国の東南到「伊都国」を受けて、
*東南至奴国と、*東行至不彌国は二股読みとなり、実際に行ったのは後者となる。
その後者の「不彌国」を受けて、
*南の投馬國も、*南の邪馬壹國女王之所都も、各々南へ行けば至ことができる旨の二股読みとなる。
つまり、駢儷体記述であることを知れば、各二股読みであることが容易に理解できるのである。
(注:なおこの後の記述で「自郡至女王国万二千余里」とあるので、女王の宮殿までの里数は明らかにされている) で、次の難問の、南至水行二十日と 南至水行十日陸行一月、、、の各々始点はどこからかというと、
駢儷体であることを前提にすれば、両者は同一始点からの日数と考えるべきであろう。
すると、まずは「帯方郡始点」というのが最も無難であろう。
もう一つは「始度一海」の出港地となった狗邪韓国であったということもないとは言えない、、。
*始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
*又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
ではあるが、
両者のどちらであっても上陸地は末盧国(松浦港)になるので、両国への行程に格別の差異は生じないであろう。 >>666(修正)
ではあるが、
両者のどちらであっても水行10日後の寄港地(又は上陸地)は末盧国(松浦港)になるので、両国への行程に格別の差異は生じないであろう。 壊れたテープレコーダーみたいに何年同じこと言ってんだよ >>666
>両者のどちらであっても上陸地は末盧国(松浦港)になるので
ははははは。 松浦が大陸からの玄関口(末盧国)ならば、宗像に替わって「世界文化遺産」になってるよ。 妄想はもういいから。 @阿波 というわけで、
末盧国から投馬国までは水行10日、邪馬台国女王之所都までは陸行1月ということになる。
いかにも駢儷体らしい、好対照の行程である、、。 2019年7月18日(木) 22:00放送 NHKクローズアップ現代
新発見続々!世界文化遺産 古墳ミステリー
世界文化遺産への登録が決まった百舌鳥・古市古墳群。宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳では、埋葬場所が複数あるという明治時代の記録などが残されている。
一体誰が埋葬されているのか?歴史上の埋もれた人物がいたのではないか?そして、大山古墳と周辺に暮らす人々の知られざるかかわりや“あの人物”とのかかわりをつづった資料も残されていた。知られざる古墳のミステリーに迫る。 末盧国は、伊都国から北西500里。
糸島半島北西岸以外には無い。 アホなのか? 中華だろ
あのカスがどないしたんだ?
すっげ〜妄想地図がネットに載っていたわな
唐のときがど〜たらで映画宣伝でもぶっていたんか?
あのザコら 末盧国の港(唐津港)から水行10日というと、
九州島を東西どちらか回りで半周して日向投馬国の都万港に至る・・、ということに符合する。
古代〜中世の海路を研究した結果によると、九州島の西岸を南北行する航路は、有明海・不知火海航路も合わせて頻繁に利用されていたそうだ。 末盧国は247年張政が倭人船に便乗して来日した際の到着港。
僻地であり南西に5百里を歩かされている。
ただし、この間で卑弥呼の墓を見た可能性が高い。
卑弥呼の墓は、この中国側査察者に見せるためやっつけで作った日本最初の径150m古墳。
残っていない可能性は高いが、糸島北岸、志摩中東の丘陵のようなものだろう。
南東500里は、早良〜博多西麓であり伊都にふさわしい。
伊都には、直接回航できる港が有り、末盧国を利用する意味はない。
査察官である張政に伊都軍港の地理を見せない方針だったと思われる。
魏と邪馬台国の外交はこの247年で終っている。
紀元前から吉備や阿波wの青銅輸入港は宗像でも構わないが、
であるなら、福岡平野内でも香椎以東が邪馬台国勢力外であった可能性が高い。
邪馬台国は、九州北部2千里で周旋しても5千里の21国で7万戸でしかない。 >(吉備の内側削りで薄く仕上げる)庄内式・布留式土器
器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法は、阿波の「東阿波型土器」が元祖だよ。 @阿波 「其山有丹」でも阿波。 「橘」でも阿波。 「楠」でも阿波。 なにがどう転んでも、阿波。 @阿波 さて、邪馬台国の所在だが、
末盧国の港(唐津港)から陸行一月で里数2000里というと、どう見ても九州島中部にならざるを得ない。
しかも吉野ヶ里・不彌国の南至であるから、そこまでの600里(又は700里)を差し引けば、残りは1300〜1400里、現代のキロ数では約100qとなる。
では、邪馬台国七万戸の大帝国と女王之所都はいずこ?? 『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。
この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 @阿波 >>681
そうだねえ
畿内スレでも、何かにつけ熊本城発掘を主張している人もあるようだし、、。 吉野ヶ里の南にあって戸数七万といえば相当の大平野だ。
そうすると、どう見ても対象は限定されるのではないのかな。。。 そもそも、卑弥呼のような大王墓は奈良盆地や福岡平野のような平地なんぞに築かない。 神は山稜に宿るもの。
ましてや、前方後円墳など何をか言わんや 無礼極まる話である。 @阿波 板野命婦」(いたののみょうぶ)
生年:生没年不詳。
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。 外従五位下。 藤原房前の七男 楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、造東大寺司との連絡係などを務めた。
出家し、尼となった。 <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)
「板野命婦」も8世紀の奈良遷都に伴い、天皇家に付き従い、阿波国板野郡から奈良の都へ移住したとみられる。 @阿波 卑弥呼が本州側の、吉備や阿波畿内の大倭王であるなら
その戸数は興味深いが30〜50万になるのではないか?
邪馬台国は筑紫の21国7万戸である。
魏が知り得た倭人国は他に、
北岸の投馬国>狗邪韓國、南の狗奴国、対馬、壱岐、末盧國、不彌國、奴国(重複)
の8国であるが、
邪馬台国は>次有列記21国であるから、後の弁辰韓5万戸と比定出来る投馬国同様、
使譯を通じて知った倭人国30国の数ではなく、
魏が知り得た女王国(狗奴国)以北の倭国であって、筑紫地域の国邑でしかない。
阿波にレスはしないがwww
魏志は2回の使譯の話、阿波で丹が出るなら、倭国には其の山には丹が出る。
@阿波は阿波が倭国の一部だったという事しか言っていない。
卑弥呼が魏帝に丹をおねだりしたのは、阿波王ではないからである。 >>686
>@阿波は阿波が倭国の一部だったという事しか言っていない。
卑弥呼時代の倭国(阿波)は、阿波・讃岐・淡路島程度。 畿内や九州などは論外。 @阿波 【祓詞】
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えている。 @阿波 だから卑弥呼を倭王と間違ったの帯方郡であって魏だろ。
ただし、公孫氏や紀元前から青銅を輸入していた吉備阿波が
その拠点、楽浪を失っている事実によって、
卑弥呼の外交が247粕Nで終っているbニいう事は歴史bフ必然である。
卑弥呼が、吉備阿波畿内の王なら魏外交はこうならないし
300年以降の半島進出も牛馬の移入も古代日本に無い。 >>689
なに、訳わからん独り言言ってんの? @阿波 チラ裏なんだから、独り言に対する、質問には答えるとして
アタシは @阿波には何も言ってないよ。
アボンじゃなくて聞こえない小声システム欲しいよねwww
いじめっ子じゃないんで、アラシの相手しちゃうってのは困ったな? 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 @阿波
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 文字の使用は漢字の移入の証拠である金印の57年にはあったはずで、
こういう、先端文化は普及するしないは関係ない。
日本への仏教公伝は、国教として国内体制が存在した上での
経典、僧侶、仏像の政府を介した公伝である。
600年には遣隋使で書簡の往復が有る。
共有漢字文字の使用が始皇帝にどれだけ遅れたか?
翡翠黒曜石交易の縄文海神にとっては、たいしたことは無い。
BC200年でも、海神が青銅は持ってきてるが
あっちからこっちは、紀元前で記録が有るのかね? ところで、
倭人伝の「国」の大きさの推定には、個人により大きな違いがあるようだ。
小は、アフリカの土人部落のような円形広場を取り巻く数十戸程度を想像し、
卑弥呼は其のムラの大酋長であったとする類いである。
倭人伝の時代には、それが環濠集落に変わり、ある時期に集落間で抗争事件が多発し、倭国大乱になった。
そして大乱収束後、ムラの若頭が、丸木舟に貢物を積んで半島・大陸へ出かけたというのである、、、。 倭人伝に云う国々は、どのみち大量の牛馬による支配でなく、人力・徒歩主体の国つくり時代であったから、
後世の律令制の「郡」くらいのまとまりであり、その郡家(郡衙)が各々の都に相当したと考えればよいのではないか。
佐賀平野でいえば佐嘉郡(≒伊都国+奴国)や三根郡(≒不彌国)、筑後平野では山門郡(≒邪馬国)、そして肥後・熊本平野では、、、、 「萩原2号墓:弥生末期の三重構造埋葬施設を確認」 徳島
全国で珍しい「積石木槨」構造が確認された萩原2号墓=徳島県鳴門市大麻町萩原
徳島県鳴門市大麻町萩原の萩原2号墓で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
14日発表した県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
墳丘は直径20メートルの円丘に、方形の突出部が付いた形態。円丘の中心に棺を納め、15〜20センチの砂岩を積み重ねた壁で囲ったうえ、
その外側に40〜60センチの砂岩を積んで、全体を覆っていた。
埋葬施設は東西6.5メートル、南北4.1メートル。朱を内側に塗った木槨を、砂岩を積み上げた壁2層で覆った構造だったとみられる。
一方、ホケノ山古墳には中間に石の壁はなく、木槨を石で囲う二重構造。
徳島、香川両県には石清尾山(いわせおやま)古墳群(高松市)など、石を積み上げた古墳時代前期の積石塚が点在。
「画文帯(がもんたい)神獣鏡(しんじゅうきょう)」などの中国鏡も出土、瀬戸内で勢力を広げた有力豪族がいたらしい。
県教委は「阿波や讃岐の墳丘墓が奈良盆地東南部での前方後円墳の発生に大きな影響を与えたことが確実になった」としている。(毎日新聞)
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm ※大宝律令当時、肥後には14郡があった。
玉名、山鹿、菊池、阿蘇、合志、山本、飽田、託麻、益城、宇土、八代、葦北、天草、球磨 中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は
当時、魏と交流していたことが窺える。
その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡
魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。 @阿波 >>698
仿製鏡 三角縁神獣鏡は、この斜縁神獣鏡をお手本として、仿製したものだろう。 @阿波 部民、部の民が王族って、どんな妄想だよww
忌部、つまり部民な時点で、使役される側の下層階級だぞw >>700
>忌部、つまり部民な時点で、使役される側の下層階級だぞw
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>702
なーんだ
その程度の抵抗か、、、 @阿波 >>704
全国を拓殖していったのは、まぎれもなく「忌部一族」
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >中国朱と斜縁神獣鏡の相関関係が不明だけどね。
よく読んでね。 倭国(阿波)は凄いんだよ。 @阿波
「萩原2号墓」出土の水銀朱と同様に「天河別神社古墳群」2号墓および4号墓には中国貴州省産の水銀朱が使用されていました。
鳴門市大麻町 天河別神社(追記)
http://goutara.blogspot.jp/2013/12/blog-post_22.html 【九州人は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている】
九州人、特に福岡、佐賀、長崎は先祖に多大な朝鮮人の血が混じっている事が多く、現在でも近い身内に朝鮮人の血が混じっている人が多いそうです。
DNAを調べると日本古来のDNAとかけ離れていて、朝鮮系DNAに近いとのデータもあるようです。
そんなのが関係しているのか、九州では、特に福岡県などでは暴力団の抗争が絶えませんよね?
抗争といっても、テロ組織的な過剰で突撃的な抗争の仕方で日本中を震撼してますよね。
まさしく、これも朝鮮人の血筋も関係しているとネットでは騒がれていますね。
そのせいか九州男児と言えば「ウソつき」「男尊女卑」として有名ですが、これ朝鮮人と全く性質が一緒なんですよ。
やっぱり血は争えませんね。 田川スレから
868(1): 05/29(水)18:22 AAS
『古事記』では、「伊都二字は音を以(もち)いよ」などとの割注がついている。すなわち、わざわざ「イツ」と読めとあるね
869: 05/29(水)18:23 AAS
都がtsuなら>>771が面白い
ツリハリ
870(1): 05/29(水)18:28 AAS
>>868
んあ?! トもツも音だぞバカチン
871: 05/29(水)18:36 AAS
いや、古事記の「〜字以音」は音を当てただけで漢字に意味はないって説明だろ
872: 05/29(水)18:45 AAS
ホラ吹き「伊都都比古イツツヒコ?(本名:都怒我阿羅斯等ツヌガアラシト?)」と同定、、、
873(1): 05/29(水)18:47 AAS
>>870
万葉仮名で読むんだよ
万葉仮名では「都」は「つ」
外部リンク[htm]:www1.kcn.ne.jp >>710
おいおい、歴史の話なのか?
伊都は247年に一大率に駐留させられた張政による漢字名の命名。
首都機能を言っているから、伊に在る都の国であれば、都は漢語で表意文字。
正しく読む為の注意点としては、ここ一大率に、
後漢以来極南界にの砦に住んだはずの倭女王の壹與や
奴国の大夫難升米が出向いて檄告喩が為されたこと。
247年の中国人が万葉仮名使うって、草生える末蘆国www 自分の思い込みを事実であるかのように語るのはビョーキ >>712
新参か?
日本史板ではそれを漢字二文字で「奥山」と表現するんだよ。 南至る水行の起点は狗邪韓国とおもうな
ここで「始めて一海を渡る」とあり、沿岸を離れて大海に漕ぎ出すことを強調しているからね。
そして、風待ち汐待を入れて末盧国まで十日間。
ここから、末盧国上陸組は1月歩いて女王様のもとへ・・、船組は更に漕ぎ下ること10日間で投馬国へ・・。 海を「渡」ったのは韓半島から九州島まで
それ以降は海を「渡」ってないので九州島から出ていないのは明らかだね 帯方郡からの水行の話なら、当然九州までしかできてない。
目的地であり到達地だからw
その上で、
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
であって、南水行20日投馬国 可5万戸
これは、女王国以北であり、
東夷伝で女王国以北にある国は馬韓10万戸、弁辰韓5万戸しか存在しない。
倭人伝時に倭人国については女王国以北しか知らない。
と書いてあるのに、南が東でとんでもないあさってに遠絶しちゃうとか、アホですか? 魏志倭人伝を正しく読む の白眉は
至、到 有、可 など漢字の用法、
直列行程や並列と言った、文法解釈の違いの指摘にある。
ただ、憶測によって到からは行程が直列しないので、
到着港の末盧國が起点になるというゴリ押しは、いただけない。
文法解釈に長けていれば、其や此が何を指すかは、正しく判断すべきだ。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有 ー列記21国ー 此 女王境界所盡 其南有 狗奴國
此 はこの中の一国を指すのではなく、21国で女王国が形成されているという意味。
これを読めないと、行程国の直列も糞も無くなる。
で、南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
この文脈は、
水行十日 なんとか国 陸行一月 邪馬壹國
でないとおかしい。
水行十日 陸行一月 は直列しないのである。
これを、水行十日 又は 陸行一月 とする説も有るが、違う。
水行十日で邪馬台国に入国し、女王之所都へは、さらに一月行を要する。
と、いう事である。
投馬国と邪馬台国は行程国とは概念の違う所属00国の国であり、
これが、戸数の有と可の違いでもある。 畿内説の某氏が「道里=里数+日数」論で頑張っているようだ。
「道里」はこれで良いのだ!、というのも一つの理屈ではあろう。
がしかし、そうなると原文において・・、
対海国〜〜邪馬壹国(女王之所都)の間の国々は、全て「戸数道里」が略載されていることになる。
このため、その次の「自女王国以北、其戸数道里可得略載」は、前出すべての国々の既述事項と重複する。
依って、この文は全くの死文と化すので、削除しても支障なく読める。
このような「道里=里数・日数」という解釈は、東夷伝・陳寿の文章としては不可解と言わざるを得ない。だがこれには、仕組まれた理由がある。
陳寿が定義する道里とは、文字通り、(道)の方角と(里)の数である。
だから投馬国と邪馬台国には、「戸数」と「道」は書いてあっても「里」は書かれておらず、文字づら上、女王国以北ではないことになる。
但し、邪馬台国(女王国)に関しては、後段中締めとして「自郡至女王国万二千余里」として全行程の里数が示され、
既知の不彌国までの里を差し引くと、残は1300里と判明するので、実質的に投馬国のみが女王国の南となるのである。
(前略6国)
南至投馬国、水行二十日、五万余戸。
南至邪馬壹国女王之所都、水行十日陸行一月、七万余戸。
(自女王国以北、其戸数道里可得略載) ←←← 畿内式読み下しでは、重複・削除となってしまう
其余旁国遠絕不可得詳。次有〜〜、、、 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
については、
南至投馬国水行二十日〜自郡至女王國 萬二千餘里
までの一連の文章(240年遣建中校尉梯儁による印綬行軍)
に、陳寿が差し込んだ解説であるが
南下行程として道理で示されていない、其餘旁國が遠絶で不可得詳と言っている。
次有〜列記21国〜は、邪馬台国の構成国でありこの7万戸の内訳を詳説している。
南隣の狗奴国は知られているが、南国、東国、西国は名前すらも知らない。
だから、女王国以北は既に略載出来ている、と陳寿は説明した。
ちなみにこの21国の大夫として
奴国王/(難)升米
都支国王/(都市)牛利
巳百支国王/(伊聲耆)掖邪狗
が、使者として記録され、比定可能である。 奴国王なんていない。
その他も王はなく、卑弥呼の時代に王と呼べるのは邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼だけである。 >>719
陳寿が定義する道里とか、勝手に想像してるだけでは? 魏志倭人伝を正しく読めば、邪馬台国は阿波以外にはない! 以上。 @阿波 狗奴国については、「女王の境界」の南にありと記されているので、
邪馬台国と隣接していたかどうかはともかく、一連の国々の更に南にあったことは間違いない。 狗奴国は邪馬台国の南。
狗奴国=徳島県南部の阿南市周辺。
邪馬台国=徳島県北部の吉野川下流域。 @阿波 もちろん投馬国が、女王国の北にあっても南にあっても九州説は成り立つ。
但し、九州島の歴史及び現地地理と照らし合わせた場合、投馬国は宮崎西都市都万に置くのが、最もおさまりが良い。
これは従来の読み方でなく、新たに >>719 のように読み解くことで、解決できるのではないか、、。 >もちろん投馬国が、女王国の北にあっても南にあっても九州説は成り立つ。
「丹」の採れない九州に、女王国など在る訳がない。 以上。 @阿波 マジここのやつら馬鹿だな。
九州でも近畿でもねーよ…。
頼むから間違った歴史を広げるなっていつも思う。 九州でも近畿でもねーよ…だったら、さてどこにすべーか。
やっぱり沖縄かな、、、? 半島南部説は、全く故無きことではなさそうだ。
卑弥呼の出自は馬韓であり、その宗女臺与も馬韓の宗家から輿入れしてきたのかもしれない・・。、
>>849日本@名無史さん2019/07/29(月) 20:19:30.88
>魏志
>馬韓 鬼神を祭る 卑弥国がある
>邪馬台国 鬼道により卑弥呼が統治する
これはなかなか関心深い記事だ。
帯方郡ー公孫康ー馬韓国ー邪馬台国(及び馬の付く国々)は、鬼道の人脈でながっていたのではないかな。 倭人伝の謎の中心はその行程と里程にあるけれど
いわゆる短里に近い里というのは、
240年印綬辺りの正始年間に短里復興が有ったなら
梯儁が使用した可能性はある。
陳寿がこれを使うことはないが、邪馬台国が九州の小国なのに
大倭王として印綬しちゃった皇帝の恥を表面化させないために、
倭人伝で、邪馬台国の位置を隠蔽するために使ったことは有り得る。
満二千里が地の果てなのでこれにしとけ、という説も良いが
韓方可4千里や対馬壱岐が千里は、里程基準に充分である。
5千里で周旋できる小国なのである。
で、道里の件、
計其道里 當在 會稽東治之東
この 其 だが、
自郡至女王國 萬二千餘里 の次の文脈である
倭人の刺青と会稽の話には、道里が出てくる道理が無い。
自郡至女王國 萬二千餘里 の位置が
計其道里 當在 會稽東治之東 である。
これは、鹿児島だがw 郡から12000里全部南下してしまえば、概ねで正解。
実際は、歴韓国の後で東行したので、3千里程度北になる。
陳寿も九州説である。(聖徳太子もw) >>735
「丹」の採れない九州に、女王国など在る訳がない。 以上。 @阿波 自郡至女王國 萬二千餘里
(中略)・・・・
計其道里 當在會稽 東治之東
なるほど
陳寿は、ここでも日数でなく、里数の萬二千餘里を「道里」としている。 宮崎先生の解釈がおもしろい
北部九州の行程は壱岐島から九州島を概観したものであると、
対岸が末盧國
その隣が伊都国(壱岐から東南、末盧から陸行五百里)
その隣が奴国(壱岐から東南、伊都から陸行百里)
その隣が不弥国(壱岐から東、奴から陸行百里)
末盧國→伊都国への方向問題も、末盧上陸問題も解決する ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています