倭人伝の謎の中心はその行程と里程にあるけれど
いわゆる短里に近い里というのは、
240年印綬辺りの正始年間に短里復興が有ったなら
梯儁が使用した可能性はある。

陳寿がこれを使うことはないが、邪馬台国が九州の小国なのに
大倭王として印綬しちゃった皇帝の恥を表面化させないために、
倭人伝で、邪馬台国の位置を隠蔽するために使ったことは有り得る。

満二千里が地の果てなのでこれにしとけ、という説も良いが
韓方可4千里や対馬壱岐が千里は、里程基準に充分である。
5千里で周旋できる小国なのである。

で、道里の件、
計其道里 當在 會稽東治之東
この 其 だが、
自郡至女王國 萬二千餘里 の次の文脈である
倭人の刺青と会稽の話には、道里が出てくる道理が無い。

自郡至女王國 萬二千餘里 の位置が
計其道里 當在 會稽東治之東 である。

これは、鹿児島だがw 郡から12000里全部南下してしまえば、概ねで正解。
実際は、歴韓国の後で東行したので、3千里程度北になる。
陳寿も九州説である。(聖徳太子もw)