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邪馬台国畿内説 Part424
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0001◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:49:10.51
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549477418/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:50:48.62
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:51:11.77
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 01:51:46.70
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 01:52:07.16
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 01:52:28.28
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 01:52:52.60
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 01:53:13.92
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:53:38.57
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:53:58.30
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:55:30.86
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:56:18.90
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:56:37.17
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:56:56.90
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:57:30.94
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:57:50.65
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:58:12.54
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:58:31.49
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:59:09.11
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 01:59:46.11
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:00:08.32
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:00:28.31
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:00:58.62
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:01:19.49
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:01:40.09
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:02:08.96
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:02:37.06
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:02:57.08
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:03:23.75
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:03:45.21
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:04:07.08
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:04:29.97
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:04:53.56
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:05:19.22
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:05:41.85
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:06:01.86
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:06:22.71
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:06:43.58
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:07:03.59
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:07:23.07
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:08:30.53
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:08:56.94
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:09:21.44
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:09:45.12
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:10:06.03
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:10:32.55
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:10:53.91
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:11:17.97
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:11:41.71
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:12:03.13
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:12:27.20
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:12:50.97
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:13:10.42
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:13:31.74
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:14:01.66
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:14:33.37
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:15:00.24
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:15:52.70
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2019/02/10(日) 02:16:20.01
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
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2019/02/10(日) 02:16:43.52
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/02/10(日) 02:17:12.57
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/02/10(日) 02:17:41.60
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0063◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:18:08.04
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0064◆UiepmfCeDJqf
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2019/02/10(日) 02:18:45.95
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0065◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 02:20:01.09
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0066◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 02:20:21.68
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/10(日) 02:23:23.06
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 68に基づき◆9を調整
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 03:34:51.82
>>991
>畿内が邪馬台国と言う前に
畿内が倭国の一国である証明が必要だな



納得
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 03:57:01.98
>>101
≧まず、倭人伝の全体里数(帯方郡〜女王国)を、遠い国の枕詞である 1万2000余里と置き、
実際の内訳は、
帯方郡〜(水行)〜狗邪韓国(7000余里)
狗邪韓国〜(渡海水行)〜末盧国(3000余里)
末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
と、概ね実地体験距離に比例するよう配分した。
だから、
現代の学術知識を用いて、どこで計ろうとも、おおよそ75m前後(50-100m)になるのは当然で、不思議でも何でもない。
(ただし、一里が50m以下、或は100m以上となるような比定地は、その比定地自体が間違っていると考えるべし)
(また、西の大月氏の如く、はるか遠絶の地までを1万200里と置いた場合は、一里/mはそれに応じた大きな数値になる)<


魏や郡の役人や、魏志や、魏略や、後漢書までもが、
郡から狗邪韓國を七千(余)里とし、郡から倭国の都まで萬二千(余)里にする事を考えるなんて事が、起こる筈がなく、有り得ない。

全て魏使らの実地の計測が元になった記録であり、そんなことは人類の常識であり、
それが分からない類スレ主は、
キョクウの皇国史観戦争に狂った分裂幻覚妄想の・・・・。
類スレ主は、
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:02:30.45
>>104
>遠くから朝貢に来た方が魏の威光が遠方に及んでる事になるからプロパガンダで遠くにしたのだろうな<

魏使らや、魏や郡の役人らや 、魏志や魏略や後漢書は、
そんな忖度しるような「首が危ない」行為をする筈がなく、しない。
この男(類スレ主?)は、分裂幻覚の妄想に狂った・・・・。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:06:44.13
>>108
>また証拠を全く書かない九州説の オウンゴール<

また、いくら証拠を書いてあげても知らん振りして、
「証拠を全く書かない」とヘイトスピーチする・・・・大和説者のオウンゴール。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:18:39.71
>>118
>三角縁と言っているから、大陸で見つかっていないという話になるけれど、
斜縁神獣鏡は大陸でも出土例がある
そして、日本で出土するものでも最初期のものは斜縁神獣鏡<

列島に少しの斜縁があっても、
それでは列島の500枚以上の△の存在根拠にはならず、
勿論、景初3年銘の呉系の神獣鏡では、明帝の 下賜鏡にはならない。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:22:04.88
>>119
>クシフル 玉の櫛じゃなくて、布留の櫛 一大卒
九州北部は遠賀川の石と手を組んだ瀬戸内海の勢力の支配下にあったんじゃないかな<

瀬戸内勢力は、倭種であり、九州倭国の「東征毛人五十五国」地域であるから、×。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:32:07.01
>>125
>そう、その通りだ。
魏使や郡使がどういう単位を使ったかは不明だが、
彼らの実地データをベースに、
陳寿が、帯方郡〜女王国間を1万2千里に焼き直したから1里約76mになっただけだ。<

陳寿も、魏略も、後漢書も、
皆同じ「魏使らの実地データをベースに焼き直し」をして同じになった、
なんて事は起こり得ない。
皆、「魏使らの実地データを踏襲した」という事なら、起こり得る。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:45:28.96
>>129
>写本の差異発生率:不明  版本の差異発生率:一部だけ分かる<

全写本版本で、差異発生確率は、0.5%位以下。
しかし、後代史家の「自己解釈による書き換えに拠る差異発生」は、
古本呉書の例から、10%位以上。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:48:36.26
>>130
>「二十余里」は天柱山の頂までの道のりだろ<

「頂までの道のり」では、始めからなだらかな道の選択になってしまって、
「高峻」の説明にならない。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 04:57:51.74
>>134
>>奴国  日向峠西麓〜早良平野部なのは動かない <

>そんな辺鄙なところに2万余戸の人口がある訳ないでしょ?
北九州最大の人口(奴国)を収納出来る場所は、博多湾周辺しかない。<

吉武高木や、三雲遺跡や、金印の細石神社などや、室見川の銘盤があった地域。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:03:20.51
>>135
>それ、山の高さじゃなくて、山を抜ける道の長さだよ
短里の証明にはまったく関係ないww <

数量説明は、対象の後ろに付けるのが原則であり、
だから、「天柱山高峻二十余里、道・・・」の「二十余里」は、
その前の「天柱山高峻」の説明であり、
「道」の説明ではない。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:12:35.85
>>136
>(陳寿90度回転の・・・・男)平野の広さや当時の人口を無視して、
行程記事だけを都合よくひねくり回すアプローチは、いくらやっても無駄なんですよ。
奴国と投馬国と邪馬台国が、草深い山の中だとか、猫の額のような狭い平野にある訳がない。<

陳寿90度回転の・・・・男(=類スレ主?)no投馬国と邪馬台国なんて、
勿論関係がないし、
魏略は、糸島の伊都国だけで一万戸と書いている位だから、
三雲付近〜日向峠〜早良平野なら、二万戸は十分にあり得る。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:17:02.55
九州こそが西は衆夷を服すること六十六国の対象なので九州は征服された側だな
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:18:22.90
>>138
大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙しであり、
昔から独善的であったのであり、
古田さんの九州王朝は、その独善的大和説者への否定文言。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:25:36.46
>>139
安本も大和説者も、
章子さんの(喜八郎さんの丑寅原稿の)清書原稿を、
喜八郎さんの原稿だ、という大間違いをした筆跡鑑定をした事がバレてしまい、
右翼的皇国史観の思想宗教に狂ったの・・・・集団であった事が、
バレてしまったからな。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:31:35.31
>>140
>筑紫島ではなくて筑紫が倭国の一部の従属国 他はまだ異人<

筑紫が邪馬壹國女王之所都であり、
九州島付近がほぼ共立女王國や倭國であり、
女王國東渡海千餘里の瀬戸内は、皆倭種であり、
大和などは、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国の旧小国。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:39:22.81
>>141
>それと、大荷物の下賜品を持った魏使様御一行は、船で行ける所は極力船(帯方郡から乗って来た中国船)で行く。<

持衰の記録があるから、魏使らは狗邪韓國からは、倭船に乗った。

>陸行するのは、どうしてもやむを得ない場合のみ。

そして船を最後に留めておく所は、(帰りは何ヶ月、何年も先になるので)
例えば舞鶴湾のような相当にちゃんとした良港でなければならない。
小型のハニワ船のように縄で引っ張ってとりあえず浜辺に引き揚げておくなんて無理。<

魏使らは、人類の常識通りに「安全最短の原則」であり、
危険な渡海な最小限が原則。

≧これを踏まえれば、まるで魏使様御一行が手ぶらハイキングにでも行くかのように、
倭国到着後、いきなり内陸に向けてゾロゾロ歩き出すなんてことは考えられない。<

当然、案内倭人が付く。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:47:16.33
>>144
>博多は一大卒だろう<

一大率の伊都国は、怡土の地であり、
臨津搜露出来る海岸縁だから、前原〜糸島水道付近。
博多海岸は、不彌國。

>皆がビビるくらいの大勢力は博多以外には無理<

不彌國の南の福岡平野〜筑紫平野及びその周辺は、邪馬壹國。

>奴国は遠賀川流域やな <

奴國は、伊都国の東南百里だから、「日向峠西麓〜早良平野」部。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:50:00.72
>>146
>九州説はキーワード作文ばかりだな<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、史料事実の否定曲解の作文ばかりだな。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 05:53:44.16
>>148
>メインの街道筋が草木で前の人が見えないということはない <

人口がまだ希薄な古代においては幾らでも起こり得るし、
だから、倭人の案内人が付く。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 06:02:45.28
>>149
≧残念ながら、周髀算経も公定の度量衡、一歩=六尺、300歩=1里を前提としており
尺の長さが秦漢里である以上、73.5メートルの「周髀里」などは出てこない<

周髀算経の唯一の尺寸での記載の「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」は、
前漢の「周髀算経の収集者」が「術曰:倍正南方」が分からなかったための、
周髀算経の曲解誤読での注釈的な説明文であり、
周髀算経の本来の文ではない。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 06:08:37.76
>>150
>それ、歴史学者は誰も科学的証明と認めてないから
なぜなら実測でない<

周髀算経は「測影」とはっきりかいており、
だからそれに拠って「千里」の距離を計算された谷本計算は史料実態であり、
だから、谷本計算を否定する歴史学者は、学者でもなんでもなく、
単なる「宗教や思想に狂った・・・・アホ人間」である。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 06:19:05.86
>>151
>倭の五王よりも前の時代にも、九州に倭国やヤマトが存在するなどということは
気配すらまったくない<

天照らの「天、海、アマ」部族と、
在地縄文系や呉王夫差の後裔の「邪馬、山、ヤマ」部族の書き分けが存在しており、
海彦山彦の対立神話もあり、
「ヤマト」は、「邪馬部族の支配地への入り口や門戸」であった可能性なら、
十分にあり得る。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 06:24:58.73
>>153
>>いや、版本は、複写コピーをしているんだから、 写本よりもはるかに差異発生が少ない、
という事は、人類の常識だ。<

>そのとおり 版本どおしで生じている異同の発生率を見ていても
写本時代に発生していた異同の発生率など判らない
はるかに高くて錯誤が多いだろうということが敦煌残簡でわかる  これが人類の常識<

いや、差異発生数は、当然写本と版本での差異発生の合計になり、
それが0.5%であったあったんだから、
写本時代に発生した差異は、0.5%以下
それが人類の常識。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 07:24:30.16
>>154
>>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。<

>まだごまかしてるww
その国はあくまで倭国(=女王国)であって、邪馬台国でも王都でもない
萬二千里は、遠く地の果てまでの距離を指す符丁として淮南子から使われている数値で
特定の地点までの実測値ではありえない
東京から北海道まで900キロという時に、札幌や旭川までの距離を意味しないのと同じ<


まだ類スレ主が誤魔化している。
「倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。
自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。
其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
だから、

「去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」の「其」の國は、
「其大倭王居邪馬臺國」しか書かれていない。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 07:29:33.47
>>156
>倭人伝は韓に近い行程前半のどうでもいいことに
字数を割いてボリュームを出している<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に特有の、
「都合の悪い文を、否定抹殺する騙し手法」。

>全体の風習の記述からは倭人特有の黥面文身や卜骨、木弓短下長上など
実際に本州の考古遺物で確認できるものが書かれている<

当然、縄文期からの生活武器の痕跡。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 07:34:43.72
>>159
>戦国時代や秦の時代には、皇帝が神薬を求めて黄海沖の神仙郷へ人を派遣して探索させた。
そもそも、皇帝がこの神仙郷についての強固な固定観念の大元。
その皇帝に、役人が「邪馬台国はそこにございません、実は…」と報告したら、皇帝の夢を打ち砕き、機嫌をそこね、左遷されて命さえあぶなくなる。
陳寿が、実際の邪馬台国の位置をあやふやにしたのは、そういう歴史的事実があるからだよ。<

これも類スレ主?の分裂幻覚の妄想。
魏は、秦の始皇帝の治績を否定している。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 07:41:00.17
>>166
>「灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹 歩徑裁通 蘭等壁其上
遼欲進 諸將曰:兵少道險 難用深入」
道の話<

漢文では、数量説明は対象の文言の後の書く、という原則で、
「二十餘里」は、(その後ろの「道」ではなく)、
その前の「天柱山高峻」の説明。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:07:09.78
>>95
>漢文では、数量説明は対象の文言の後の書く、という原則で、

そんな原則を、漢文を読めない素人のおじいさんが発明しちゃったの?

すごいね
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:17:16.32
卑弥呼を共立した勢力はどういう勢力だったのだろうか?
鎮魂歌にそのヒントがあるかもしれない

鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:30:53.58
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:31:36.61
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:33:37.25
>>942(前スレ)
劉徵ではなく劉徽だよ。
既にPart352で出しているんだけどね。

>魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
>この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
>これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる
>魏の里は435.392m(一里=1800歩)

九州説は劉徽をアホ呼ばわりして否定www(Part353参照)
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:34:28.27
>>75
>>写本の差異発生率:不明  版本の差異発生率:一部だけ分かる<
>全写本版本で、差異発生確率は、0.5%位以下。
理論的な説明が出来ず、結局は嘘の連呼か。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:35:41.17
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 09:38:28.11
>>78
>>95
>その前の「天柱山高峻」の説明。
高峻と〇〇里はくっつかない。
他例を提示してから主張しろ。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 11:04:36.44
>>100
劉徴は間違い。
目がとろいもんで〜。

しかし、1里76m主張者もしつこいみたいだね。
なんかの主義者のようだ。
いつまでも、誤り認めん。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 11:15:04.11
>>590
下鈎の銅鏃には、確かにノカツギはないね。

ホケノ山のノカツギ付柳葉式銅鏃と浦間茶臼山のノカツギ付柳葉式銅鏃は、形がやや違う。
ホケノの柳葉後部は下鈎の銅鏃の棘形と似ており、浦間のものは柳葉後部は先に向って丸くなっている。
ホケノ出土の鏃は、皆棘形をしている。
ホケノの柳葉のほうが古い形のようにみえる。

ホケノ出土の鏃の写真は、ウェブ「古墳から歴史を学ぶ 桜井市の古墳群1-ホケノ山古墳」に掲載。
浦間の鏃は、「古墳時代銅鏃の生産と流通」に描かれている。
参照してみてください。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 11:26:27.21
>>89
>周髀算経は「測影」とはっきりかいており、
>だからそれに拠って「千里」の距離を計算された谷本計算は史料実態であり、

本に「人類滅亡」って書いてあったら人類は滅亡したのか?
バカですね

周髀算経は実測もしないで他人の文章をコピペしてきた寄せ集めと筆者の脳内想像の渾然一体化したヌエ的産物だから古代から辻褄が合わないと批判されてきたの
それを実在と扱ったから谷本計算もフィクションなんだよ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 11:29:08.44
>>88
>周髀算経の唯一の尺寸での記載の「令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」は、
>前漢の「周髀算経の収集者」が「術曰:倍正南方」が分からなかったための、
>周髀算経の曲解誤読での注釈的な説明文であり、
>周髀算経の本来の文ではない。

ほら
自分だって周髀算経が実測もしないで想像で書かれてると認めてるじゃないか
九州説はご都合主義チェリーピッキングのカタマリだね
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 11:32:44.61
>>94
始皇帝の個人的施策の是非と、古代中国人全般が持っていた固定観念とは、別次元の話。
0110陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 12:42:42.45
だいたい、夏至の日に棒立てて緯度を測るって言っても、南北方向しか測れないじゃないの。
東西方向、経度は測れない。

そして狗邪韓國から不彌國までは里数表記になっているのが、不彌國から先は里数表記が消え、
『水行20日』とか『水行10日陸行1月』になっている。

投馬国も邪馬台国も、行程記事どおり不彌國から南に向かうのならば、
(水行なので歩数は測れないにしても)棒立てて里数を測れるはずだが、
何故か奇怪なことにそれはやっていない。

これは実際には、投馬国も邪馬台国も、不彌國から南に向かってるんじゃなくって、東に向かったからだよ。
だからそれまでのような里数表記が出来なくなった。
0111陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 12:52:07.17
韓国南岸から、対馬、壱岐、松浦の間だって、
九州論者の言うようにわざわざ夏至の日に棒立てて測ったかのか?
そんなことないでしょ実際は。

長めのちょっとおっかない渡海をしたら、それで『ひと声千里』なんでしょうよ、実際のところは。
『僕たち危険を冒して遠くの国まで行ってまいりました』アピールなんだよ『ひと声千里』は。
0112陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 12:57:41.47
だから一万二千余里から、七千里引いて、次に千里×3引いて、
残り二千里から500里引いて、100里引いて、また100里引いて、
残り1300里とか、考えても全然意味ないんだよ。
最初からそんな精度なんてないんだから。全くの無意味。

そんなことを考えて、邪馬台国は九州のどっか片田舎の山の中だなんて、
全くの無駄な努力で、的外れのアプローチでしかないのよ。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 12:58:12.59
用明天皇=アメノタリシヒコ

・大和=魏志の邪馬台国が確定
・一大卒=属国に派遣される監視官が確定し、九州が邪馬台国当時から属国であるのが確定
・倭から日本への国号の変化=壬申の乱が確定

最初から九州説も九州王朝も存在しない
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:04:34.78
>>69
>末盧国〜(陸行)〜女王国(2000余里)
>と、概ね実地体験距離に比例するよう配分した。

ここがインチキだって何度も教えているのに反論もせずに何度もシレっと書き続ける
ウソも100回の価値観の人は本当に質が悪い
0115陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:11:11.77
行程記事の方角だって、末盧国到着後から綺麗に90度ずれている(というか、陳寿がそういう風に書き換えた)。

そして末盧国=松浦、伊都国=糸島、奴国=博多湾。これはもう確定でしょ。
特に九州北部の平野の広さを見れば、奴国(2万余戸)=博多湾は何をどうやっても動かしようがない。

で、不彌國から投馬国と邪馬台国は水行するんだから、不彌國は当然のことながら海岸沿いにあり、
博多湾のちょっと先と言ったら、宗像市あたりでしょ。

宗像三女神を祀る宗像は、九州北岸から沖ノ島ルートで対馬、朝鮮半島に行く重要拠点。
普通に考えりゃ、魏使たちの北九州歴訪の旅(魏使見せびらかしの旅)で、ここは通るでしょ。

そしたらもう後の行程は里数でなく日数表記なんだから、一里が70何?メートルの議論など入る余地がない。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:15:49.04
>>77
>室見川の銘盤があった地域。

「金属片は銅製で、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と刻印されていた。
 この中の「延光四年」は漢の年号で西暦125年に当たる。
 発見から28年後に実測図を北京大学に送り鑑定を受けた。
 鑑定によると記された文字は次のような意味だった。
 「高暘左」は中国戦国時代(BC403〜BC221)の銅戈に記された銘文、
 「王作永宮斎鬲」は春秋時代(BC770〜BC403)の銅鬲(鼎)に記された銘文、
 「延光四年五」は漢代の陶磁器に記された文字。
 金属片自体は「清朝人が作った文鎮」であろうという鑑定だった。」

古田史学の会以外は、弥生時代のものだなどとは毛ほども考えていない代物だよw
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:19:21.21
>>82
>章子さんの(喜八郎さんの丑寅原稿の)清書原稿を、

この「喜八郎さんの丑寅原稿」というのは、昭和の時代に偽書を捏造したという自白・自爆だろ?
バカなのか?
0118陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:20:28.54
>>84
>持衰の記録があるから、魏使らは狗邪韓國からは、倭船に乗った。

魏使がハニワ船なんかに乗る訳ないでしょ?
魏使たちにとっちゃ、ハニワ船なんてのは『野蛮人が乗る原始的な小型船』。
そんな原始的な船に皇帝陛下からお預かりした大切な金印やら下賜品を乗せて、
難破でもしようものなら責任が取れないでしょ。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:22:28.08
>>84
>魏使らは、人類の常識通りに「安全最短の原則」であり、
>危険な渡海な最小限が原則。

九州北部に到着後は安全な水行(沿岸航行)だから、縄文時代から古来利用している沿岸航路で
丹波まで向かうんだよお
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:28:16.44
>>89
>周髀算経は「測影」とはっきりかいており、

前に、計ったのは夏至の影だけで、冬至の影は三寸も狂っているし、
他の二十四節季の影長は単純計算の値が置いてあるだけで
一切計っていないのが明確だって教えてやっただろうがww

周髀算経は、根本から間違っている蓋天説を前提とした机上の空論で
一寸千里は、蓋天説の天地の距離八万里と八尺棒の長さの比にすぎない

実測値じゃないのがすでに証明されている
0122陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:34:56.35
一里を70何?メートルにして、行程記事を放射読みにして、
なおかつ放射読みの起点を伊都国だ、末盧国だ、狗邪韓國だとあれこれ捻くって、
人口や遺跡分布との矛盾が出ると今度は邪馬台国の7万余戸は北九州のいろんな国を合わせたものだなとど、
都合のいい無茶な理屈を言い出して、邪馬台国の着地点を何とか無理繰り九州のどこかに持って来るなんて、
ほんと無駄な努力で、的外れのアプローチだよね。人生の時間の無駄だよそんなの。
0123陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 13:43:40.94
>>120
>周髀算経は、根本から間違っている蓋天説を前提とした机上の空論で
>一寸千里は、蓋天説の天地の距離八万里と八尺棒の長さの比にすぎない
>
>実測値じゃないのがすでに証明されている

自分も全くそう思う。
当時、洛陽の北とか南に、三角測量でキッチリ図った千里とか二千里の標定ポイントがあって、
そこで影を実測したら一寸二寸長さが違ってました、みたいな実測値ベースでなくって、

>蓋天説の天地の距離八万里と八尺棒の長さの比にすぎない

まさにこれ。幾何学的な相対値。なので一寸千里の千里には、どんな値でも入る。
当時、一寸千里法をあちこちで試して見た人がいたとすれば、
「何だか、実際の距離と何倍もずれてるよなあ・・」と思ったことだろう。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:03:24.66
>>121
それがどうした?
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:04:20.83
>>122
>一里を70何?メートルにして、

これは概ね正しい。


>行程記事を放射読みにして、

これは、トンデモ読み。   @阿波
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:05:49.94
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:10:53.32
>>127
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:13:31.28
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0130陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:24:03.19
当時の一里434mと、一寸千里法の70何?mとで、約6倍の差があること自体が、
一寸千里法が実測ベースでなく、当時の理念的な宇宙論から幾何学的に導き出された、
ある意味『空想的な値』であることを示している。

だいたい一里1800尺なんだから、時代によって多少の伸び縮みはしても、
そんな一気に6倍も変えられないよ。

中途半端に理系知識があると、一寸千里法について知り、エラトステネスの地球直径測定を思い起こして、
「これだ!これで数学に疎い文献学者をキャン!と言わせられる!」と大喜びするのかも知れないが、
一寸千里法はエラトステネスの地球直径測定(地球球体説による実測ベース)と比べると、
誤った宇宙論、世界観から幾何学的に計算されただけと言う点で、比べ物にならないほど劣る。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 14:57:16.95
某フォーラムに参加して、ゆうれいの正体見たり枯れ尾花、のような気分になりました。
なぜなら・・、
邪馬台国論争では「鉄」を採っていた倭人の国が邪馬台国だとされてきました。
そして、弥生の鉄を握っていたのは、どう見ても九州です。
それも武器や工具の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ます。

ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄器がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがう、邪馬台国は北部九州にはなかった・・、
と言われたのです。驚きました。考古学はイメージですか!
松傾さん、邪馬台国は女王に率いられたユートピアなんかではなかったのです。
女王をお飾りにし、鉄製武器で完全武装した、大蛇のようなならず者国家だったのですよ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 15:17:24.15
>>131
>そして、弥生の鉄を握っていたのは、どう見ても九州です。

とんでもない話。 その九州に、まともな弥生後期の鉄鍛冶炉遺構がないというお粗末。   @阿波
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 15:51:06.51
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 15:51:57.05
中南米の麻薬カルテルとかイスラム過激派組織は皆武器を持っている
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 15:55:25.11
>>131
呟き荒らしとキウスは同一人物だったんだね
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 15:56:01.82
熊本県山鹿市 弥生環濠集落方保田東原遺跡
 庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土するということは、
方保田東原遺跡資料館の説明によれば、何らかの形で畿内と交流があったことの証拠だそうです。
でも、橿原考古学研究所の方の説明では「纏向では北部九州形の土器はほとんど出ない」ということでした。
畿内の庄内式土器の時代には、北部九州とは交流がなかった、とするのが妥当なのでしょう。

しかし、ここ方保田東原遺跡には交流の跡がある、ここは北部九州をスルーして、畿内と直接結びついていたのでしょうか。
素人には理解が難しいのですが、
橿原考古学研究所の報告を見れば、「近畿地方と北部九州の交流は、ある時期までは無かった」と考えていいのでしょう。
そして、ある時期から突然に交流が始まるのでしょうか。

 それとも、「庄内式土器の始まりは九州であり、それがある時期、人々とともに近畿に移動した」というのでしょうか。
それで弥生後期に、出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。
それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:04:15.71
>>136
いまだに頭が固い。
そんなことは簡単な話。
倭国(阿波)を発った「忌部はん」  だと、何度言えばw  @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:08:01.70
無知で「理解できそう」では妄想でしかない
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:13:09.60
>>123
>まさにこれ。幾何学的な相対値。なので一寸千里の千里には、どんな値でも入る。

そうなんだよね
害天説を前提とすれば、同じ時刻に千里離れたところで影の長さを測れば、
冬至でも夏至でも、長安付近でも北回帰線のすぐそばでも、夜明け直後でも正午でも
いつでもどこでも影の長さの違いは一寸になる
https://i.imgur.com/73rgfWR.jpg

これをもとに、短里は73.5メートルとか言ってるのがチャンチャラおかしい
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:14:20.90
>>126
>>一里を70何?メートルにして、
>これは概ね正しい。

この時点で、泡もデタラメww
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:15:58.18
>>132
>とんでもない話。 その九州に、まともな弥生後期の鉄鍛冶炉遺構がないというお粗末。

壱岐の原の辻遺跡にはあるよ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:17:46.85
「ぼくちゃんは知らない」
「ぼくちゃんが認めない」
「ぼくちゃんがそう思い込んでる」

これが反論だと思ってるバカの集まり九州説
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:19:53.69
九州説も
ザラコク
つぶやき
連続句読点、改め「韓国政府大好き推し」
くらいしかいなくなったな
キウスも存在感なくなってるし

ああ、もう一人、>>121がいるな
この人もカルト宗教じみてるけれど、どんな背景の人なんだろう?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:29:57.92
>>141
>壱岐の原の辻遺跡にはあるよ

もしかして、カラカミ遺跡を言ってるの?  ありゃ、まともな鉄鍛冶炉遺構じゃないよ。
それはともかく、糸島とかには、まともな弥生後期の鉄鍛冶炉遺構がないというお粗末。 @阿波
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:49:20.98
鍛冶には大量に燃料(木材)を必要とするので
森林を伐採しても支障がないような、人が住んでいないところがよい
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:49:38.84
ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄器がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがう、邪馬台国は北部九州にはなかった・・、
と言われたのです。驚きました。考古学はイメージですか!
松傾さん、邪馬台国は女王に率いられたユートピアなんかではなかったのです。
女王をお飾りにし、鉄製武器で完全武装した、大蛇のようなならず者国家だったのですよ。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 16:57:15.78
民衆が餓えているのに兵器を盛んに作っている人種が半島にいる
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 17:14:50.14
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 17:20:35.14
>>167
>陳寿が倭國の資料を探したとき、魏の記録庫の中に沖縄あたりまでの行程を書いた資料があったということだな<

そんな事はないな。
この男は、宗教に狂った分裂幻覚の妄想人間か?、詐欺師か?、だな。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 17:27:31.22
>>174
>別の板でさんざん指摘されているのに、ここではまだ息しているのか〜。
その別の板では、とうの昔に、山の高さは里ではなく丈だと、物知りが指摘しているぞ。
天柱山の高さが二十余里てか。
アホオ〜。<

確か漢書に、介山が、高さが30里位だというように、
山の高さが「里」で書かれていた筈だ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 17:31:44.32
>>177
>二十餘里ってのは長さの単位だから 「高さ」は表せても「峻しさ」は無理
高さを言ったというなら無理に不適切な表記したことになるね
「高く峻しい」道のりを行く距離の表現にふさわしい
そもそも当時の科学技術で海抜なんてわからないから
標高と合ってると言った奴が 超脳タリンなのは誰でもわかる<

「天柱山高峻二十餘里 」だから、 二十餘里は「天柱山高峻」の数量説明。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:09:36.28
>>151
あなた日本語も中国語もできないね
険しさは里単位じゃ表せないよ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:11:02.68
>>150
「筈だ」って
イイカゲンな奴だな
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:46:18.19
>>213
>「東征毛人五十五国」の都の位置の認定が誤っている。<

倭国の都の位置は、
唐会要倭国伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、北部九州。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:51:27.55
>>155
>倭国の都の位置は、
>唐会要倭国伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、北部九州。

それ、都の位置だなんてどこにも書いてないだろ?
倭国へ渡るには、新羅から南へ行けばいいというだけで、津島も壱岐も北部九州も倭国ってだけ
その辺まで大和朝廷の版図に入っているということ

宋書の倭王武の上表文の「西服衆夷六十六國」が九州なんだから、九州は征服される側だ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:53:41.52
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 18:56:38.81
>>214
>その短い距離の1里が物差しの単位として用いられた痕跡がない。<

周髀算経や山海経や戦国策や淮南子や漢書や後漢書や三国志や江表伝や海賦や梁書や 、
書紀や風土記などに見える。

>単位として用いられた証拠として上げられる文章は、みな誤読によるもの<

みな、里記載の史料実態計算に拠るもの。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:00:21.78
>>158
証拠も出さずに言い張るだけ
それが九州説
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:03:21.02
>>217
>東征毛人ばかり言ってる人は西服衆夷を無視してるからな 、

西の九州は、唐会要倭国伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、倭国中心であった事は、
何度も説明済み。
「服」は、「征」や「平」の他動詞の意味とは違って、
服属していた、という自動詞の意味。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:14:14.87
>>160
でまかせの言い訳は説明ではないない

漢文法を何も知らない素人爺さんが
証拠を出す意思もまるでないまま
デタラメに断定しても
当然だれも信じない
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:23:00.08
>>160
>「服」は、「征」や「平」の他動詞の意味とは違って、
>服属していた、という自動詞の意味。

おいおい
そんなミエミエの真っ赤な嘘で誰が騙せると思ってるんだ?
主語はなんだか言ってみろよ
衆夷は目的語だぞ
漢文をぜんぜん読めないのは九州説くらいなもんなんだから
そんなサギはできないぞ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:42:47.04
>>105
篦被でいえば浦間は最古といわれています
それ以上古ければホケノはどの外部勢力なのでしょう?
かなりの数の鏃がこの形ですが

畿内では250年頃、篦被文化が急に出現し、文化が断絶したのでしょうか?
畿内の古墳前期(新しい時期)〜中期にみられるノカツギとの説明が難しくなりますね

やはりホケノの年代はおかしいようです
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:45:32.96
>>160
これは恥ずかしい
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:50:42.00
>>222
>国内で作られた鏡は国内で作られた含有不純物の銀・アンチモン比が出る
三角縁神獣鏡の舶載鏡に分類されるものからは
魏・晋鏡と同一の銀・アンチモン比が出る
三角縁神獣鏡は魏・晋鏡である事が肯定され
国内産である事は否定される<

△は、魏晋から0〜1枚しか出ないが、列島から500枚以上出る事から、
列島製作である事が肯定され、魏晋で造られた舶載鏡ではない、という事になる。
そして、銅アンチモン比の差異や類似は、当然、
△に使用された材料銅と、中国の魏晋鏡に使用されたさ材料銅との差異や類似であり、
類似は、列島へ中国の材料銅を持ちこんだ鏡師らがいた事になり、
差異は、列島にあった古い鏡や銅鐸の再溶融や列島の銅山の銅を混在させた事になる。

>そもそも楽浪に呉人が居たというのも不自然 いわゆる呉の領地になった事など一度もないから<

楽浪は、漢代から、列島への中国銅鏡の搬入路にあたり、
呉と公孫氏との結びつきが起こってから、呉系鏡師らの流入が増え、
楽浪に戦乱が及び出してから、一部の鏡師が列島に避難的に渡来似て来た。

>三角縁神獣鏡は年号の情報など魏と交流がなければ作れない鏡
例えモノ自体が呉の鏡氏製作で国産だとしても記銘文が魏との交流の証拠となる<

ならない。
渡来楽浪鏡師らは、明帝→卑弥呼の「青龍三年」紀年方格規矩鏡を知って、
自分等も紀年鏡を造るようになり、呉年号鏡を造ったものもいたが、
「陳」氏は、△を造った。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 19:57:20.90
>>226
このように、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
なにも 証拠 が 出 な い
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:00:59.39
毛人と衆夷はだいぶ違いますよ。

東の毛人は鉄器のないムダ毛処理のできない毛がぼうぼうの人たち。
征服対象です。

西の衆夷とは、倭人の地方王・地方支配官のことですよ。
邪馬台国と狗奴国が主導権争いをした結果として、
勝者である邪馬台国に服属した、ということです。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:04:41.15
もともと100余国。
倭人伝の時に連絡がつく=邪馬台国側だったのが30国。

意外と狗奴国側にも国が多く、それが66国だったのでしょう。
単にまとまりが悪くて小国というかムラの集まりだったのかもですが。

100-30=70ですが、
あとの4国は主戦場になって滅ぼされたり統合されたりとかでしょうか。
末蘆など官がいませんからね。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:05:46.25
服属させたのは景行大王ですね。
最後のメインディッシュを息子に取られて激怒しましたがw
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:06:43.22
>>150
漢書の文穎注は、

 介山特立周七十里高三十里

漢1里430mとすれば、三十里=1万2900m。
仮に1里76.5mとすれば、三十里=2295m。

海抜1万メートルは有り得ん。
1里76.5mの場合の2295mはどうか。

介山は現在の山西省介休市にあり、介山は海抜2440m。
そして、介休市の海抜は756m。
介休市の地面からでは、介山は1684mの高さ。
三十里2295mと、介休市の地面から測る介山の高さ1684mと比べると、611mも高い。

1里76.5mでみても、「高三十里」は、高さを表しているとはみなせない。
では、「高三十里」はどう読むのがよいか。

介山は断崖の尾根が延々と続く高嶺で、その登山道は長いことで有名。
1里430mの場合では、三十里は12.9kmになる。
約13kmなので、登山道三十里という表現は妥当。
つまり、「高三十里」は「登高三十里」の略というのが、正解だろう。
1里76.5mの場合は、実際の山嶺の高さに比べて600mもの差があって合わんのだから、「高三十里」の解釈は「登高三十里」とするよりほかに無い。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:20:18.23
>>237
>なんで卑弥呼の貰った鏡をそのまま似せて作らず 偽装する必要があったのかな<

渡来鏡師らは、明帝や魏朝や魏の工房とは関係がなかった事を示す。

>現実的には不純物の含有比率から魏晋鏡と判明している<

判明しない。「材料銅の類似」が見られただけ。

>前期三角縁神獣鏡を有難がり
魏と交流が無くなった後に後期の国内複製鏡へと繋がっていく流れが見られる<

「魏の交流」とは関係がない。
渡来の呉系楽浪鏡師らは、前期には、卑弥呼や壹與ともコンタクトがあったようで、
その後後期には、鏡作り神社で子弟に教えて造らせたらしい。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:31:57.72
>>249
>それとも、「庄内式土器の始まりは九州であり、それが近畿にある時期に人とともに移動した」というのでしょうか。
>それで、弥生の後期に出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。
>それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/

賛成です。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:34:58.69
>>252
>女王国が九州北部ならな
実際には女王国は会稽東治(冶)の東 <

会稽東冶は×。

>台湾や沖縄辺りと書いてあるので そこまでの距離を1万2千里に当てはめると
1里は140mほど<

書いてないから、×。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:45:29.45
>>255
>魏の1里は律歴志と発見された1尺24cmの古尺によって
1里約430mだったと判明している <

里歩系と尺寸系との換算命令である始皇帝の「1歩=6尺」が、
魏代には使われていたのか?、「1歩≒1尺」ではなかったのか?、
が問題であったのであり、
尺寸系の尺の寸法の定規があったって、
里歩系の根拠寸法の根拠にはならない。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:47:56.49
>>257
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
全く証拠を出さないか、出しても嘘つき騙しのインチキをする。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:48:36.16
>>175
>魏代には使われていたのか?、「1歩≒1尺」ではなかったのか?、
が問題であったのであり、

そんな問題はない
「1歩≒1尺」などと主要してるのは無知な素人じいさんただ一人だから
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:49:23.05
>>164

>篦被でいえば浦間は最古といわれています

「古墳時代銅鏃の生産と流通」は、ホケノ山古墳の調査前だから

>文化が断絶したのでしょうか?

宮内庁が管理している陵墓は調査されてない
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:50:15.94
>>259
>1万2千里を帯方から会稽東治(冶)の東まで当てはめると
1里140mくらいになる<

会稽東冶は×だから、ならない。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:53:54.29
>>171
追加

介山(綿山)の断崖に設けられた回廊は、往復18kmとされる。
片道9km。

「高三十里」
三十里×1里430m=10.2km

回廊片道9kmとほぼ等しい。
これからしても、「高三十里」は「登高三十里」の略と考えるのが正解だな。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 20:57:24.28
>>260
>いいえ、同じではありません
倭国造というのがいて、これが末羅国造と同じレベル
末羅(マツラ)国が末盧國と三国志に書かれたのと同様、
倭(ヤマト)国が邪馬臺國と書かれたんだよ <

倭(ヤマト)が×であり、邪馬臺國は筑紫の国であるから、×。

>また、旧事本紀の國造本紀には、大倭国造とならんで葛城国造も見え、<

当然「大倭≠倭」であるから、×。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:00:40.55
>>176
などというデマを
全く証拠を出さないで流す
嘘つき騙し常習老人ザラコク
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:00:42.55
>>164
>篦被でいえば浦間は最古といわれています
>それ以上古ければホケノはどの外部勢力なのでしょう?
 ;

あなた日本語がとても下手で何を言ってるのかわからない
もすこし自分が書いた文とうしの因果関係をちゃんと明確に書いて投稿し直してくれないか
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:09:13.39
>>269
>魏1里は約430mだから <

魏朝の1里は、76.5m位だから、×。

>1500里だと650kmくらいになるよ 九州北部には収まらんな <

魏朝の1里は、76.5m位だから、
1500里でも115km位になって、九州の収まるが、
それ以前に、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
始めから九州に収まっていて、沖縄台湾説は×。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:12:26.86
>>175
>里歩系と尺寸系との換算命令である始皇帝の「1歩=6尺」が、
>魏代には使われていたのか?、

使われていたよ
あらゆる文献がそれを示している

>「1歩≒1尺」ではなかったのか?、

なかったよ
1歩=6尺は唐代に1歩=5尺に変更されるまで不変
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:20:34.76
>>184
>魏朝の1里は、76.5m位だから、
>1500里でも115km位になって、九州の収まるが、
>それ以前に、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
>始めから九州に収まっていて、沖縄台湾説は×。

だとするとどうしても
計算上会稽東治の東にならないなら
九州説は破綻するね
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:23:20.76
>>184
>魏朝の1里は、76.5m位だから、

これがウソなんだからどうしようもないんだよ
九州説は短里しか根拠がない
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:26:23.47
>>276
>高峻二十餘里は、直後の「道」にかかるのに、「灊中有天柱山高峻二十餘里」で切って
「山の高さがー」とか言い出すのは馬鹿以外の何者でもない <

漢文では、「二十餘里」というような、数量の叙述的な使用では、
その数量は、その説明対象の後ろに記載する事が原則であり、
だから、二十餘里は、後ろの「道」の説明ではなく、
前の「天柱山高峻」の説明文言になる事と、

数量を形容詞的文言に使用する場合には対象名詞の前に置く場合もあるが、
そのような場合には、「余」を付けるような曖昧な近似表現をせずに、
「二十里」のように断定的な表記にするものであり、
その事でも、「二十餘里道」という表現は可能性は全くない。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:31:20.24
>>280
>会稽東治(冶)の東に台湾や沖縄があるからだよ<

陳寿の地の文では「会稽東冶」という表現は×だし、
会稽東治の東には台湾や沖縄がないから、×。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:37:47.50
>>281
>萬二千里も、循海岸水行七千里も、渡海千里3回もすべて実測値ではないのだから
引き算しても意味のある数値にはならない <

実測せずにズボラして造作して、部下や後続の張政らに拠ってバレれば、
首が危ないから、
魏使らは、きちんと実測して記録した。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:38:57.16
>>188
>数量を形容詞的文言に使用する場合には対象名詞の前に置く場合もあるが、
>そのような場合には、「余」を付けるような曖昧な近似表現をせずに、
>「二十里」のように断定的な表記にするものであり、

それ、なんか根拠あるの?
それとも、いつも通りザラコクの発明?
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:40:47.53
>>283
>現代地図で見たらね。 弥生時代にどうやってそれがわかるんだよ?
>会稽東治 → はい、その次の座標点は? <

一寸千里で判るの。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:41:13.47
>>190
>実測せずにズボラして造作して、部下や後続の張政らに拠ってバレれば、
>首が危ないから、

証拠ある?
それで死刑になった人は誰?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:44:21.94
>>189
>陳寿の地の文では「会稽東冶」という表現は×だし、

×だという理由は?
理由もなく素人じいさんが独断で決定したの?


>会稽東治の東には台湾や沖縄がないから、×。

会稽東治の東には台湾や沖縄がない
という根拠は?
根拠もなく素人じいさんが独断で決定したの?
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:46:05.24
>>192
してから何なんだ?
意味がわからない
頼むから日本語を話してくれ
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:49:34.12
>>193
>一寸千里で判るの。

会稽どころか遥か北で洛陽から遠くないと判っちゃうね
つまり一寸千里は測量には使われていない
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:50:02.45
>>136
方保田東原遺跡は弥生後期〜古墳前期の遺跡だそうな。
庄内式土器や布留式土器というのは、筑前型じゃないの?
出た地層は、弥生後期?
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:51:11.25
分かりやすい中国史における日本

@台与の後に男性王が立ち晋、宋、梁、隋と使節が絶えないとある

A隋書:アメノタリシヒコが遣使。都は邪馬台国と同じ

B新唐書:桓武天皇までの歴代天皇の中にアメノタリシヒコ(用明天皇)を入れている

C用明天皇の都=新唐書で神武より大和に遷るとあるので神武以後の用明天皇の都は大和
※筑紫城云々は神武前の神代から日向三代の記事で邪馬台国ではないのが分かる

Dアメノタリシヒコ(用明天皇)の都が邪馬台国と同じ=邪馬台国は大和

Eアメノタリシヒコが各地に一大卒を派遣して属国を監視=一大卒のいる九州は邪馬台国の頃から属国

と言う事が書いてある
最初から九州説も九州王朝も中国は微塵も頭にない
邪馬台国=大和朝廷と言うのも明白
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:51:45.73
>>287
>>大和説者って史料事実を大切にしないから困る。
裴松之でさえ、「南」や「邪馬壹國」や「二」や「東治」などに対しては、
「注」や「考証」をしていないようだし 。<

> そもそも「邪馬壹國」や「東治」の写し間違いは彼の時代まだ発生してないだろ<

裴末之と范曄は殆ど同時代の人間であり、
裴松之は、范曄の「邪馬臺國」や「東冶」を知っていた事になる。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:54:27.64
>>192
>鏃は墓しか出ないの?

畿内では出ないが、なにか問題でも?
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:54:47.17
>>192

篦被も腸抉(ワタクリ)柳葉式も弥生時代からある
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:56:51.42
>>180
漢文読めないバカ
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:58:44.82
後漢書における邪馬台国までの里程

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 21:59:21.29
>>201
畿内は邪馬台国ではないということだな。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:00:02.48
>>200
>裴末之と范曄は殆ど同時代の人間であり、
>裴松之は、范曄の「邪馬臺國」や「東冶」を知っていた事になる。

なるだろうね

だから「東治」とか珍しい言葉が使われてたら注釈を入れるんじやないかな
しかし実際は注釈など無い

つまり倭人伝には「東治」などとは書かれていなかった
そういうことだね
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:01:22.05
>>205
なぜ?

理由は?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:01:47.18
またバカが自分にレスして同意してる人間がいるフリしてる
これ見えてるって誰か教えてやれよw
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:03:48.67
九州説は不思議

思考の過程が無く
突然結論だけを言う
何故そういう結論が出たのか
誰にもわからない
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:05:27.42
>>204
>大倭王は邪馬台国にいる。
>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。

出典プリーズ
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:12:36.41
>>192
この人の言ってることは俺もよくわからない
よくわからない
こう言いたいのだろうか?

%ノカツキはウラマ茶臼山で突然生まれた
%それより前の時代にあるわけない

いや、わからない
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:15:18.10
九州説を主張している人たちは非常に少数の隔離された集団に属していたと考えられる
だから他者に正確に伝えるコミュニケーション能力を必要としなかった
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:18:03.56
>>212
>畿内説は浅い 出土データを出すと一発で消し飛ぶ

でも出さない
なので、畿内説はいつまでも無敵
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:20:00.95
>>213
政治思想過激派セクトの末期みたいだね
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:27:07.07
>>149
まあ、庭師くらいなもんだよ。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:35:41.66
>>295
>現実の地理とは関係ない、淮南子の哲学的世界観の「観念によって作った数字」が萬二千里<

魏使らは、淮南子を使って捏造報告を書いて、
部下や後続の張政らに拠って嘘吐き騙しがバレたら首が危ないから、
淮南子の盗用、というインチキはしない。

>現実の地理とは関係ない数字を持ってきただけだから、縮尺という概念が成り立つ余地が最初からない
そして、3世紀当時、海路(水行・渡海)の現実の地理上の距離を測定する手段はない <

一寸千里などがある。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:38:37.75
>>296
>帯方より南方角で 会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾の辺り<

「会稽東治≠会稽東冶」であるから、沖縄台湾も×。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:40:42.06
>>180
訂正

三十里×1里430m=12.9km が正しい。

文穎の頃の魏時代には、9kmより少し長い回廊だったのだろう。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:40:48.98
>>217
>一寸千里などがある。

つまり九州説にはもうゴミフィクションしか
無いわけね
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:45:32.38
>>299
>詭弁にもなっていないww
4倍違うのは誤差とか精度とかいう言葉では表現できないんだよw<

4倍も違わず、75kmプラスマイナス15km位のあいだだし、
大和説者らのような、実際の地理と「6倍」位も違うというのは、
詐欺にしかならないんだよ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:52:33.34
>>190
>実測せずにズボラして造作して、部下や後続の張政らに拠ってバレれば、
>首が危ないから、

ズボラも何も、測定手段がないのだから計ろうにも計りようがない
ザラコクはバカ
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:55:40.62
>>303
>三世紀中葉の畿内のホケノ山古墳からは
鉄鏃が60本ぐらい見つかってるぞ <

ホケノは、前方後円墳の有棺有槨の布留だから、
3世紀中葉の卑弥呼の冢や有棺無槨ではなく、3世紀末以後。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 22:57:47.48
>>204
>楽浪郡の国境は、その国(の王都)から一万二千里である。

本当にいい加減にしなよ
その(の王都)の付け足しが、インチキの証明であり無理読みでしかない証拠

単に「その国=倭国」が、彼方地の果て(萬二千里)の遠い国だという表現
倭国内の特定地点を指したりはしていない
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:00:41.39
>>304
>馬鹿じゃねーの?w じゃあ、古代九州にいた倭人は、
自分らを「わじん」って思ってたのか? <

親魏倭王印を貰ったんだから、
自分らが倭人と呼ばれていたことは、知っていただろう。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:00:44.34
>>210
元は後漢書の
其大倭王居邪馬臺國
樂浪郡徼 去其國萬二千里
去其西北界拘邪韓國七千餘里
なのだけれど、現代語訳が>>204オリジナルのインチキ訳
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:03:36.13
>>217
>淮南子の盗用、というインチキはしない。

裸国も黒歯国も淮南子からの引用
実在しない国

ザラコクの書き込みは根拠がない

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「黒齒民」、玄股民、毛民、勞民;
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:05:35.15
>>221
>4倍も違わず、75kmプラスマイナス15km位のあいだだし、

それがインチキ
50〜200メートルの差が出る
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:12:55.17
>>223
>ホケノは、前方後円墳の有棺有槨の布留だから

ホケノが有棺有槨の布留だって根拠は?



???
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:28:43.07
>>227
頭が固いなあ。
裸国はともかく黒歯国がそこにあるなら、渡来人の可能性があるとか考えないの?
なんでもかんでも否定するだけで、なんにも積み上がらないじゃんか。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:30:32.44
>>230
黒歯国がそこにあるっていう根拠は?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:34:32.17
>>231
はははすごいねw斜め上の反応w
あんた馬鹿じゃないの?
あれもない
これもない

そんでもって、虚構の説だけ連呼
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:36:07.20
あ。そうかなるほど。
黒歯国は本当は畿内にあったと認識してるんだねw
だから脊髄反射でそこにあるってこと存在そのものを否定してきたんだね。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:36:54.58
船行一年なら異国だな
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:37:59.47
>>234
そうそう。
そうやって前向きに検討したらいいんだよ。
淮南子の昔から存在した、1年かかる異国の存在、かもね。倭人伝に書かれてるけどw
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/10(日) 23:55:36.64
ヴェネツィアの代表的なイカ墨パスタを食べると黒齒國人になる
つまり黒齒國とはウェネティ人の国であることがわかる
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:03:41.84
>>232
>あんた馬鹿じゃないの?
>あれもない
>これもない

バカは>>232だろ?

あると言いたいなら具体的な根拠を挙げて、論理的に論証して見せてよ
できるものなら、ね

黒歯国も裸国も倭国との交流が一切ない時代に
成立した紀元前2世紀の淮南子に見られる「伝説」

これが3世紀の日本周辺にあったと考えるのはよほどのお花畑だぞww
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:12:28.47
>>236
ビンロウじゃない?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:24:33.55
>>202
千葉の神門4号墳からノカツギのある鉄族が出ているという。
神門4号は3世紀中頃〜後半とされている。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:25:36.64
>>235>>233かな?
淮南子読んだことないだろ?
裸国や黒歯国はこんな並びの中にあるんだぞ?

凡海外三十五國,
自西北至西南方,有修股民、天民、肅慎民、白民、沃民、女子民、丈夫民、奇股民、一臂民、三身民;
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、裸國民、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、黒齒民、玄股民、毛民、勞民;
自東北至西北方,有跂踵民、句嬰民、深目民、無腸民、柔利民、一目民、無繼民。

三身民とか三頭民とか、実在だと思うのかい?ww

東方に大人國や君子國があるのが、倭国ageの基調にあるとかの読み方なら意味があるけどさ
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:34:06.00
>>202

それは興味深いね
どこにあるの?

ホケノのは篦被付腸抉柳葉式銅鏃になるのかしら?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:37:29.17
>三身民とか三頭民とか、実在だと思うのかい?ww

やたら小顔のモデル体型
やたら頭のデカいぶさ体型
の誇張とか

なんでもかんでもないない言ってたらなんにも始まらないでしょ
ゼロじゃなくて
情報をくれてるんだから考えてみたら?

淮南子に黒齒民がいるって知的好奇心として面白いじゃんか
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 00:43:14.26
「ぼくちゃんが知らない」
「ぼくちゃんが認めない」
「ぼくちゃんが思ったから」

これが何かの論だと思ってる馬鹿の集団
それが九州説
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 01:28:50.70
>>180
追加

この介山(綿山)の大断崖に、紀元頃には道教の大羅宮が造られ、200年頃の三国時代には仏教の寺院も造られる。
その寺院などに登る回廊が、大断崖を削って造られていたということだろう。
そして、現在はその回廊が片道9kmあるということのようだ。
文頴の頃には、この介山の断崖寺院などが有名で、そこへ登る回廊が三十里もあると喧伝されていた、というわけだな。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 01:35:00.65
なに 焦ってんの?
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 02:31:49.87
>>239
神門3号墳からは、鎬造柳葉式鉄鏃が出ていて、
この鏃はホケノ山の鏃と似ているそうだ。
3号墳も3世紀中頃とされる。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 03:45:31.62
>>239
追加

神門4号墳の箆被付鉄鏃の図絵については、

「第7章 遺跡からの証言」

で検索し、一番上の「第7章 遺跡からの証言-日本古代史の復元」を開く。
162ページに絵図があり、その付近に文章の説明が出ている。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 04:53:45.64
>>203
具体的論証に、反論できない“漢文読める馬鹿”。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 05:06:48.05
>>249
1里76.5m主張者が持ち出してくる「文献にみえる証拠」は、今回も誤読の結果であった。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 05:38:13.29
貼り付けに文句言うバカww
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 05:44:00.64
3世紀に日本中に人が住んでいないのならともかく
3世紀の日本の土器や鉄を持ち出しても意味が無い
倭人伝記述の時代に渡来から来た遺物が必用
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 05:50:53.06
たとえば
纒向の桃核が3世紀としても
3世紀の桃核なんてどこにでもある
吉備の遺跡をみてみ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 05:55:05.05
俺の家の庭から大正10年の硬貨が大量に出ても
俺の家が大正時代に建てられたと誰も言わない
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:05:23.14
千数百年後にこに住んでた人は大正時代の人と言われるかもな
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:19:40.47
>>312
「南→東」などの嘘吐き騙しをする大和説というか、
人種差別的皇国史観という国家国粋主義根性で生きる者は
オームなどと同じように、
とうとう最後には発狂して、「殺し合い戦争を暴走するんだなあ
恐ろしい
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:24:47.42
>>319
当然のことだが
陳寿は、「会稽東冶の東」だなんて書き残していない。
勿論弥生人でもない
お前や大和説者の脳みそは明らかに大丈夫でない
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:27:55.68
>>180・・・・・・
>回廊片道9kmとほぼ等しい。
これからしても、「高三十里」は「登高三十里」の略と考えるのが正解だな。 <

あのーーー
文穎曰く「(介山)其の山特立し、周七十里、高三十里」。(『漢書』武帝紀)
文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人
http://www.sxycrb.com/?viewnews-126091


どのように読んだかしらないが「登高」と記述されていないのだが????
「登高」は漢書・後漢書にも記述がある
しかし、「(介山)其の山特立し、周七十里、高三十里」なのだよ
指摘があればどうぞ
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:32:44.77
>>321
>AMS炭素年代測定法で 木棺の木片サンプル5つ測定した結果
AD120〜240年と出た <

AMSのプラズマ化は、
原子核のベータ崩壊を5%位を促進させてしまう失敗法であったらしい。

>副葬品からもホケノ山は三世紀中葉で定説になっている<

ホケノ は、有棺有槨の前方後円墳で庄内〜布留であるから、
卑弥呼の冢の3世紀中葉ではなく、3世紀末以後であったらしい。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:42:04.30
>>330
>倭国大乱はあったとしたら160〜180年
およそ2世紀中〜後半
埋葬した以外に当然鉄鏃もあっただろ <

大和の鉄鏃は、3世紀末以後のホケノが最初。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:45:26.36
>>336
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説名物の、
仮病が始まった
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 06:58:06.15
>>345
>『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年-810年)以後、延喜書紀講筵(904年-906年)以前と推定されている。
"大倭国造"は以前からある「倭」という名に影響されていそう<

倭という文言は、周代から「燕の南」にいた、とされる部族呼称であったんだろう。

>海神綿積豊玉彦命の子、振魂命の孫椎根津彦命は神武東征の大功により大倭国造に任ぜられる
東征があったのなら故郷の倭は九州かな
で、どっちが邪馬台国だろうな <

倭人の天孫族は「海、天、アマ」部族であり、
倭人の在地系や呉王夫差の遺民は「邪馬、山、ヤマ」部族であったんだろうなあ。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:01:20.44
>>346
>AMS法で分析したのは木棺の木片サンプル5つ
これが誤差を含んでAD120〜240年
副葬品の年代観からも三世紀中葉を否定するものは何もなし<

AMS法を使った限り、
プラズマ化によって、50〜100年位古く出る事は否定出来ない。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:03:13.88
>>346
>鉄鏃を全部埋葬したら張政が目撃できないとそっちが言ってただろ
全部埋葬するわけないから張政は畿内で鉄鏃で武装した兵士を目撃できた
鉄族そのものは三世紀に畿内に存在したのは明らか<

「南≠東」などに拠って、×。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:03:51.99
箸墓撤退したはいいが、
次のホケノへのバトンタッチが思うようにいかないようだな
そりゃ、そうだろう。貧乏神を迂闊に引き受けてもなあ、、、、(KKK
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:12:36.42
>>348
>ホケノ山古墳から鉄鏃が見つかっているなら
当然その地域では武器として日常的に使われたと考えられるだろ
逆にそうじゃなかった理由を考える方が難しい
それに掃いて捨てるほど鉄鏃が出る遺跡は
戦争で滅ぼされたものだな<

ホケノが初めて「大量の鉄鏃副葬」があり、
その周囲の集落には鉄鏃が出ない、という事は、
ホケノの主は、鉄鏃を使って、その周囲の部族を征服支配して、
亡くなった後にそれを誇示するために、遺族が大量の鉄鏃を副葬した、
という事になるんだよ。
つまり、ホケノのぬしは、東征将軍自身か、その部将。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:20:15.64
>>350
>>説明できないキナイコシがいつもの質問返し(質問することで解答から逃げる <

>訳のわからない質問を受けたらその意味を聞くのは当然じゃないのか?
お前の世界では違うのか?
「邪馬台国畿内説とグリーンカレーの関係を説明できるか?」 とか聞かれたら
「どういう意味だ?」と聞き返しちゃいかんのか? 聞き返したら負けなのか?<

違うね。
大和説者が質問 した事項の理由説明は、既に以前に説明されている事ばかり。
という事は、大和説者は、その事を知らん振りして、
説明がなかったかのような言い方をして、「証拠は?」と言い続けて、
世間の人々を騙そう、とする詐欺師集団であった、という事。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:29:40.83
熊本県山鹿市 弥生環濠集落方保田東原遺跡

庄内式や布留式土器が方保田東原遺跡から大量に出土するということは、
方保田東原遺跡資料館の説明によれば、何らかの形で畿内と交流があったことの証拠だそうです。
素人には理解が難しいのですが、
橿原考古学研究所の報告を見れば、「近畿地方と北部九州の交流は、ある時期までは無かった」、と考えていいのでしょう。
そして…、
「庄内式土器の始まりは九州であり、それがある時期、人々とともに近畿に移動した」ということでしょうか。
それで弥生後期に、出発地・発信地である九州に庄内式土器が大量に出土する……と。
それなら、理解できそうです。
https://tizudesiru.exblog.jp/i142/
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 07:34:55.01
>>268
いまだに頭が固い。
そんなことは簡単な話。
倭国(阿波)を発った「忌部はん」の痕跡  だと、何度言えばw   @阿波
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:19:13.48
>>353
>魏志倭人伝に書いてある帯方の南方角で
会稽東治(冶)の東に当たるのは現在位置を確かめると 沖縄や台湾あたり
当時の人が知っていたかどうかは そんなに重要な事かな <

会稽東冶ではないし、
会稽東治之東は、沖縄台湾ではないから、×。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:25:36.45
>>356
>鉄鏃はホケノ山その他の古墳から見つかっているけれど
>見つけた人と出た場所までわかってるよ<

ホケノは、前方後円墳で有棺有槨で庄内〜布留で、
卑弥呼の墓の3世紀半ばの「冢」や「有棺無槨」ではなく、
3世紀末以後になるから、
×。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:25:37.23
キナイコシが「登高」を出したがもろくも論破されてしまった
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:27:36.55
>>358
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、こういう狂態を、
あちらさんでは病身舞とか言うんだか?。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:33:54.13
>>362
>景初三年と正始元年もあるよ ちなみに西暦に直すと
239年と240年で三世紀となるけれど<

明帝の詔書は、景初二年だから、その時点で銅鏡百枚は揃えられており、
だから景初三年と正始元年鏡は、明帝下賜の銅鏡百枚ではなく、×。

>征服されようと何だろうと 考古遺物から邪馬台国は3世紀の畿内に決まり <

邪馬台国も畿内も存在もしない嘘つき騙しの造作文言であり、
「南≠東」などに拠って、始めから×。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:39:39.85
>>274
>明帝の詔書は、景初二年だから、その時点で銅鏡百枚は揃えられており、

そんなの素人じいさんの
なんの根拠もない思い込み決めつけだろ
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:44:50.15
>>376
>・会稽東治(冶)の東 が沖縄や台湾であると、弥生時代に確認できる根拠<

会稽東冶ではなく、沖縄台湾にもならないから、大和説は×。

>・北部九州からの内行花文鏡東征将軍と考えられるホケノなどでなく、
 纒向に鉄鏃が普及していた=倭人伝に記載される資格があった
 根拠となる、鉄鏃の出土根拠 <

纏向集落からは、鉄鏃が出土しないから、×。

>・必死にしがみつく、三角縁神獣鏡が纏向から出土した根拠<

纏向からは、△が出土していないから、×。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:45:15.21
>>275
超わがまま人間、いやチョーわがまま倭種、、、
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:47:02.63
>>267
>違うね。
>大和説者が質問 した事項の理由説明は、既に以前に説明されている事ばかり。
>という事は、大和説者は、その事を知らん振りして、
>説明がなかったかのような言い方をして、「証拠は?」と言い続けて、
>世間の人々を騙そう、とする詐欺師集団であった、という事。


九州説が
証拠を出さないで世間の人々を騙そうとした事例を
またひとつ重ねた

九州説が
証拠を出さない言い張り集団である
という証明が
今日もまた帰納的に強化された
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 08:51:50.93
>>276
>会稽東冶ではなく、沖縄台湾にもならないから、大和説は×。

ちなみに
「俺は犯人ではないからこの判決は間違いだ」
というセリフは
理由説明にはあたらない
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:04:24.17
>>247
情報ありがとうございます
調べましたが、
4号墓は鏃の形の情報がなかったけど、3号墓は腸抉柳葉式銅鏃が出ているようですね

形がわかる画像がなくて、似ているかどうかは確認できませんでした
篦被はついているのでしょうか

篦被の言葉が見当たらなかったので、篦被はついていないタイプでは?と思いましたが

後、浦間の鏃は型式が違う物で、ホケノとは系統が違っていました
比較する意味は無かったですね…
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:09:04.98
>>379
>槨があっても三世紀
むしろ槨があるから三世紀<

槨があれば、魏使らが見た倭国や卑弥呼の国である事の否定。

>ホケノ山は科学的測定で三世紀中葉と結論づいてるんだから<

AMSはプラズマ化の失敗に拠って、50〜100年位古く出るモノ。

>黒塚古墳<


纏向ではない。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:24:02.44
>>381
>京都大阪奈良辺りは畿内だし<

畿内なんて存在しないから、×。

>会稽東治(冶)の東は沖縄や台湾辺りだよ <

会稽東冶ではないし、会稽東治之東では、沖縄台湾には全くならないから、×。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:28:42.86
九州説の根拠が論破されたから否定するだけになっちゃったぞ
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:30:06.84
>>283
君はずっとスレに張り付いて罵っているだけやな
何がしたいんや?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:35:38.98
>>384
>4倍違うのは誤差でも精度でも縮尺でも説明できない

「4倍違う」という時の、この大和説男の「計測地点などのデータ処理」が、
インチキ騙しであった。
実態は、60〜90m位の、1.5倍位の差異範囲であり、
中心点の75mからは、20%位以内の範囲であり、
有効数字1桁の記載では、十分過ぎる位の精度であった。

>計ってないんだよ <

魏使らは、測っていた。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:53:39.96
>>387
>九州は倭地の一部<

九州は、卑弥呼共立の女王國の本体であり、瀬戸内以東や大和は倭種。

>九州を指してヤマトと呼ばれた例はどこにもない
バカが時々、竹斯・ヤマトとか捏造しているけれど<

「ヤマト」は、元々は倭人の「邪馬部族(山部族)の支配地の門や入り口」としての地名であり、
「地方の市を監督する大倭職」の市の地名。
だから、九州にも幾つもあったようだし、関西にも幾つもあったらしい。

しかし、倭人の中の天孫族の「海部族(アマ、天部族)」の別種分家の大和は、
地方の市を監督する「大倭」職程度の国であったが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」のお手伝いのおかげで、「ヤマの門戸」の地名を獲得したらしい。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:58:04.78
>>286
いつものあの人だよ
極端な身びいき発言の人
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:58:07.17
>>287
ぜんぶ個人の想像だけでよく書くなあ
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 09:59:25.82
>>285
>魏使らは、測っていた。

ほらな、まただ
九州説は全く証拠を出さない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:02:56.82
>>392
>何度も教えているのにまったく理解しないな
「別種」というのは、同じものの別の呼び方、という程度の意味だ
日本国は、倭国の別称・別の呼び方である これだけのことなんだよ<

類スレ主は、相変わらず、別種の使用例を提示せずに、
「同じものの部の呼び方」というインチキ騙しを書いているようだな。
中国史家が記載した「別種」は、全て「とある種の国から別れて別の国を造った」場合に、
「別種」と呼んでいる。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:16:45.20
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:17:26.63
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:17:48.62
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:36:16.37
>>397
>公孫氏は漢人だから漢尺を使う<

魏の支配下になっていたんなら、魏朝里(短里)を使った可能性もある。

>公孫氏滅亡後の帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う<

遼東や玄菟や高句麗や扶余の里記載も短里であるから、
魏朝の短里を使った可能性がある。

>半島の土着民は小国乱立状態だから遠距離を計るという必要がないし測量技術もない
倭国の人も測量技術がないのは変わらないし、もし仮に倭国に魏の度量衡とは
異なる距離の単位があったとしても、それを注釈なしに大陸の単位の里と同じ文字で
記すことはあり得ない <

夷人は、原則として、「里を使えない。
里記録は、ほぼ全て、郡や魏の役人たちの、計測。

3世紀には誰も知らない、どこにも使う人のいない「短里」で正確に距離を測っていない、
などという類スレ主らは、は、絵空事の中でもかなりレベルの低いものだ らは。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:38:55.92
>>401
>何度も書くが、東遷などしていない
北部九州の勢力が没落して、王と呼ばれる者がいなくなって(後漢書の謂う歴年無主)、
その後、畿内の祭祀王・ヒメ王の卑弥呼を統一祭祀王として共立したんだよ<

「南≠東」などの嘘つき騙しに拠って、×。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:41:51.51
>>291
>類スレ主は、相変わらず、別種の使用例を提示せずに、
>「同じものの部の呼び方」というインチキ騙しを書いているようだな。
>中国史家が記載した「別種」は、全て「とある種の国から別れて別の国を造った」場合に、
>「別種」と呼んでいる。

オウンゴール
自分がインチキ騙し人間と自白するザラコク
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:45:40.79
>>403
>石囲い木槨というのは言葉だけで、中に人が入れないし追葬できる空間もないから
ホケノ山の埋葬主体部も無槨だよ<

槨は、「中に人が入ったり追葬出来る空間」というような、
絶対的な意味があるものではないから、×。
「棺を容るるに足る程度のサイズの構造物」というのが、槨の普通の意味。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:52:29.31
>>298
そんな定義を誰がした
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 10:54:57.39
>>298
少なくともそんな、墓室と区別つかないような意味じゃないね
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:00:47.40
>>420
「南→東」などの嘘つき騙しで破綻したで大和説に、
しがみついても良いこと無いよ
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:02:57.89
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:03:18.31
>>421
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のアホが、何を喚いてるのかと思ったら
「ヤマト」だけが唯一絶対の古代の地名で
邪馬台国そのものだと。

バカだバカだと思ってたがここまでとは
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:07:31.05
>>242
>やたら小顔のモデル体型
>やたら頭のデカいぶさ体型
>の誇張とか

バカ丸出しだなw
九尾の狐のノリで、身体が三つの人とか頭が三つの人とか書いてるんだよ
羽民は?
不死民は?
一目民は?

行ったことも見たこともない場所のことを想像で書いてるんだよ
ある意味倭国もその並びの扱いになってる
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:09:29.20
>>422
「南→東」などの史料事実の否定曲解の「口先議論での誤魔化し」の、
なんでも理由なく「証拠は?理由は?」を質問して置けば、
世間の人々が「議論に勝っているらしいな」と決めてかかってくれる、
というのが大和説だな。
だから理由を聞かれても、何も答えられない。
物事に理由が必要じゃなく、「口先誤魔化しが全てだ」という奇妙な世界の住人たち
それが・・・・詐欺師の大和説。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:10:03.86
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:12:56.68
>>253
>纒向の桃核が3世紀としても
>3世紀の桃核なんてどこにでもある
>吉備の遺跡をみてみ

桃核が出たから邪馬台国だという主張は誰もしていない
邪馬台国候補となる大遺跡の年代が、桃核を試料とした測定で
2世紀末から3世紀初めだと分かった、つまり邪馬台国の年代で間違いないということ

吉備も重要な場所だったってことで、神武東征説話の吉備滞在には、
意味のある背景があったということ
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:13:56.65
棺があればどの墓でも棺の入る空間はあるので
倭国では無郭の墓は無いと確定しました
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:16:07.45
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:17:29.30
>>426
日本にどんだけヤマトがあろうが大和の「ヤマト」だけが唯一絶対の古代の地名だと
そしてこれは邪馬台国そのものであると
存在もしない「畿内」が大和朝廷の存在の絶対的証拠で、
倭や日本をヤマトと読んだ事が証拠だと
倭迹迹日百襲姫命(夜麻登登母母曽毘売)の用例が「倭=ヤマト」の証拠だと、
この地名ひとつで大和に存在もしない邪馬台国があったことは確定で、
全て問題ないんだと

脳みその腐りぶりがよくわかるな
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:22:07.43
>>429
>その前に
三角縁に舶載と仿製の区別があるのは知ってるか? <

その前に
三角縁神獣鏡は、列島以外には全くのように存在せず、列島から500枚以上出土した、
という事を知ってるかい?。
だから、舶載なんてなかった、という事は知ってるか?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:24:52.06
>>254
>俺の家の庭から大正10年の硬貨が大量に出ても
>俺の家が大正時代に建てられたと誰も言わない

でも、>>254の家の場所で大正10年に人の営み・生活があったことは確実だろ?
そして柱の礎石の下に大正10年の硬貨が礎石とセットで埋めてあれば、
建築年代も大正10年頃となる

まあ、大正10年の硬貨がそこに埋納されるまでに何年伝世しているかとか、
礎石と硬貨がセットかどうかとかという辺りで、発掘した人の判断が入るけれど
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:32:31.19
>>311
>だから、舶載なんてなかった、という事は知ってるか?

知らないな
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:33:23.59
>>259
>AMSのプラズマ化は、
>原子核のベータ崩壊を5%位を促進させてしまう失敗法であったらしい。

まだ、前回教えてやったところにたどり着いていないのかな?
AMS法では、プラズマ化した原子一つ一つの質量を直接計っているのであって、
測定中にベータ崩壊するような時間はかからないんだぞ?

プラズマ化したらベータ崩壊速度がー、と延々と書き続けているが
根本から的外れのまったく意味のないイチャモンで、ザラコクが
勘違い野郎だという自白の意味しかなく、物理がまったく分からないバカって
自らを貶めるスタイルでしかない
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:34:58.53
一目民は目玉親父だとわかるが、無腸民がちょっとわからない
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:40:20.80
>>308
>棺があればどの墓でも棺の入る空間はあるので

槨は、棺の入る空間ではなく、棺を容れる空間を作る構造物
そしてその棺を容れる空間を作る理由は、追葬をしたりするためで、
そのためには人が出入りできる必要がある

追葬不能な、追葬を想定していない埋め込みタイプの主体部は槨ではない
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:43:46.22
>>311
>三角縁神獣鏡は、列島以外には全くのように存在せず、列島から500枚以上出土した、

何度教えても理解しないな
最初期の舶載鏡は斜縁神獣鏡で、斜縁神獣鏡は日本で500枚も出土していないし
列島以外でも普通に出土している

「三角縁」という言葉に引きずられたゴマカシだよ
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:46:25.52
>>439
>渡海と水行は別物だし別基準、

渡海は水行に含まれるもの。
「里数」は当然、一寸千里や簡易三角測量や日数測などからの近似的計測。

類スレ主らは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの、
宗教に狂った・・・・詐欺師の大和説者。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:52:03.02
>>440
>槨がどんなものだかきちんと調べてごらん
九州説が妄説だって分かるからw<

「棺を容るるに足る程度の構造物」。
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの大和学説が、
どれほど妄説だってことは、すぐわかるから。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:54:35.98
>>442
神武の東征にあたることが実際にあったとして、卑弥呼の時代の100〜150年昔
実体も東征ではなく、移住だろう 神武、磐余彦は、奈良盆地の一角、磐余の小領主にすぎない
その血筋の卑弥呼が畿内のヒメヒコのヒメ王から、広い範囲の統一祭祀王として共立された
北部九州の過去に朝貢した勢力とは、別の政治的なダイナミクスによるもので東遷などではない <

「南≠東」などに拠って、ssnも×。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:57:14.94
>>443
>神武の東征(もしあったとして)と、卑弥呼の共立は100年くらい時代が違うから問題ないだろ
倭国造は、神武の東征時の論功行賞なんだから<

卑弥呼を言い出した時点で、「南≠東」に拠って、×。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:57:28.24
>>156
畿内説だと倭の領域はかなり大きいだろ?
方角は王都に向けているに決まっている。
地方を含めたら方角はいかようにもなってしまう。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 11:59:18.17
>>320
そうなの
九州説は自分の思想を持つ連呼したり口汚くわめきののしるだけで証拠は出す気が皆無だし、証明する気もさらさら無いわけね
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:01:31.96
>>258
>どのように読んだかしらないが「登高」と記述されていないのだが????
>「登高」は漢書・後漢書にも記述がある
>しかし、「(介山)其の山特立し、周七十里、高三十里」なのだよ
>指摘があればどうぞ

???
「登高」という言葉があるという確認だろ?
「周」とセットなら、わざわざ登高と書かなくても「高」だけで
登る道の里程だと分かるというだけだろう

周70里って、短里だと4.9キロくらいだろ?
仁徳天皇陵が1周3キロ
史書にも記録されるような山が、そんなに小さな丘程度の小山のはずがないだろうが!

其の山特立し、周七十里、高三十里の記事は、むしろ短里なんてないという根拠にしかならないよ

特にザラコクは漢朝は短里ではないという立場だから
漢代の史書と共通して高三十里とある時点でザラコクは爆死している
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:05:55.58
>>254
お前の家には硬貨を副葬しないからな

ww
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:06:20.18
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美)   10km/100里=100m/1里

統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:08:51.47
>>449
>魏の役人は、女王国までの距離の報告はしてないんだよ
最後の行程は里数が分からないから日数でそのまま報告している<

嘘を付くな、類スレ主。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、女王國までの里数だ。
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:09:18.29
>>323
>畿内説だと倭の領域はかなり大きいだろ?

そうだよ
九州は倭国の一部

>方角は王都に向けているに決まっている。

そんな話にはならないよ
国の位置関係は、移動が想定されているから半島から倭国に渡る方向が書いてあるだけ

>地方を含めたら方角はいかようにもなってしまう。

だから、地方ならどこでもいいんじゃなくて、渡っていった先の場所だから限定されるよ
でもそこが都の場所とは誰も行っていない

南北より東西より長いと書いてある時点で九州だけじゃないって分かるのに
そういうのは無視するから九州説はチェリーピッカーなんだよ
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:10:23.39
棺あり槨なし

つまり纏向遺跡は邪馬台国の王都ではない。

棺あり槨なしとは土葬。
奈良の一部の山間部では今も土葬が行われている。

卑弥呼が眠っているのは大和の山間部「高天原(御所市高天)」だ。

径百余歩の塚の周りに奴婢も眠っている。
奴婢とは土蜘蛛である。

https://goo.gl/maps/QBowPx7X5ME2

この土蜘蛛を殉葬したのは神武軍である。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:13:51.91
その斜面は関係ありません。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:14:38.69
>>327
またかww

>自由度2のt-値の5%点が4.303なので、

ここが間違い
試料数が少なすぎて母集団の情報もないから、t-分布は使えない
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:14:48.81
>>258
>しかし、「(介山)其の山特立し、周七十里、高三十里」なのだよ
>指摘があればどうぞ

周七十里だと直径は何里?
高三十里と比べてどう思う?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:20:41.75
実際は新羅の慶州市やプサンの真南は対馬、平戸、五島くらいだな
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:32:59.93
>>327
魏志倭人伝の記載と実際の比定地から、統計学的に言える一里の長さ

海上距離は測定できないので、利用できる試料は九州上陸後の陸行部分のみ
不彌国の比定地はいまだに定説がないので、結局使えるのは

末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=50m/1里

のみ

この50m/1里、 50m/1里 の2試料(n=2)から計算される平均と分散は
平均:125 不偏分散:11250

nが30未満で、母集団の分布についての情報もないので、正規分布、t-分布ともに
平均値の信頼区間の推定に使えないため、チェビシェフの不等式から95%信頼限界を
求めると、
125±4.48×√11250=125±475

まとめると
125(-350〜600)ただし( )内は95%信頼区間 単位はメートル

魏志倭人伝から統計学的に推定できるのはここまで
どの区間を見ても短里でぴったりというのが、でたらめだというのがよく分かる

魏志倭人伝から推定される一里の長さは-350〜600メートル
意味ないだろ?
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:38:37.40
>>328
>嘘を付くな、類スレ主。

嘘つきはザラコクだろ?ww

>「自郡至女王國萬二千餘里」は、女王國までの里数だ。

そうだよ
そして女王國というのは広い範囲で、その中の特定の場所を指すものではないし
萬二千里は個々の旅程の積み上げではなく、淮南子の世界の果てまでの距離の数字で
その数字に合わせることで、世界の果てからの遣使という体にしてあるんだよ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:39:14.42
まあ統計どうこう言えるような情報量あらへんな
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:40:12.27
>>452
>>だから上古においては九州がヤマトだったのだろう。<

>九州がヤマトと呼ばれたことは一度もないしそれを記した文献も何一つない
小地名でヤマトと読む地名はあるが、それが小地名のままであることから、
その小地名のヤマトが中心ではなかったことが分かる
九州をヤマトとするのは無理<

おそらく、「邪馬部族の国の市の門戸(入口)の位置」という意味の呼称。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:43:59.35
>>454
>新唐書、旧唐書、唐会要に見える倭から日本への改号の時点で
倭国の人物がすべて大和朝廷の人間 倭国と日本国は同じ場所の同じ政権だよ <

(大和)日本國者、倭國之別種也、だから、×。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:47:50.34
>>338
「おそらく」って・・
素人じいさんの根拠ナシ空想に価値ないだろ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:54:05.54
>>474
掲載されている「南」や「日本は倭国の別種」などという情報を、
まるで無視するなど
平気で史料を無視否定曲解して偽史を作り、
歴史学を踏みにじるのが
トンデモ・・・・大和説
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 12:59:25.61
>>341
>掲載されている「南」や「日本は倭国の別種」などという情報を、
>まるで無視するなど

当然ザラコクの真っ赤なウソ
証拠に基づいてちゃんと間違いだと立証している
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:02:53.98
>>475
>>唐会要が、倭國伝と日本国伝とを別の場所に書き分け、内容も全く違っている、
という事が史料事実だ。<

>違っていないな <

ちがっているから、×、
唐会日本國伝も、
「日本、倭國之別種。以其國在日邊、故以日本國爲名。
或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云「日本舊小國、呑併倭國之地」
とはっきり、「違う国であった」と書いている。
平安時代の日本から来た使者が倭国の使節として記録されてる

>単に国号が変わったから別の章立てにしただけなのが原因で記録が混乱したというだけ
社名変更のあった取引先のファイルを新しく作ったら<
オフィスの引っ越しとかのドサクサで整理がグダグダになっちゃっただけ、みたいなもん<

類スレ主が、
史料事実の否定曲解の嘘吐き騙し・・・・詐欺師であった、
という事を示すだけ。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:05:34.14
n=2で統計とかw
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:07:39.13
>>476
>>どう屁理屈をほざいても、中国史では、
「正北抵新羅」などに拠って、倭国は北部九州であり、<

>これさあ・・・ 「邪馬台国は南と書いてあるから九州説で確定」
と言ってるのと同じなんだよね 回答は一つ 方位が間違ってます
簡単に解決しちゃうでしょ 証拠もあるんだよ<

「南→東」などの嘘吐き騙しの、皇国史観宗教に狂った大和説者以外の、
普通の人類は、東西南北を間違いません。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:10:08.85
>>258
ワイの主張は>>171に書いてある。

お主が挙げてある「水経注」の文中(山西省文物局2006)では、「文穎の高三十里は間違いだとして、介山は『高十余里』だ」と書いてある。
現代中国の1里は500mなので、10余里は5000m、5kmほど。
介山の海抜は2440m。
だから、この文でいう10余里は、介山の標高が10余里=5000m余りという意味ではない。
また、この記述は2018年8月14日付の新聞文化コラムの記事なので、介山の標高を10余里と書くはずがない。
山上には廟があると言っているので、山上までの登高距離が5kmだと言っているもの。

お主は、漢文も読めんし、現代文も読めん恥ずかしいヤッチャな。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:11:44.05
伊都国(糸島)は方位が違うから、確実なnは0
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:12:30.97
>>483
「南→東」などの嘘吐き騙しをして、
口先での悪口しか言えないの?
反論できないの?

だからの大和説は負けたんだよ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:13:33.20
>>345
>「南→東」などの嘘吐き騙しの、皇国史観宗教に狂った大和説者以外の、
>普通の人類は、東西南北を間違いません。

罵っても反論になりません
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:19:16.69
>>343
>或以倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云「日本舊小國、呑併倭國之地」
>とはっきり、「違う国であった」と書いている。

おいおい
「或以倭國自惡其名不雅、改爲日本」

出オチで珍説崩壊してるぞ
これだから九州説は
ダメだなあ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:28:36.75
>>348
こういう嘘が
平気の平左で書ける
九州説のひとの神経って
ホント凄絶ににすごいと思うよ
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:29:05.62
>>489
>>魏志の「邪馬壹國」では大和には全くならないから、<

>日本には、古事記や日本書紀の歌謡、万葉集と、古代の発音を万葉仮名で記した文献が
きっちり残っているので、上代の発音の研究が進んでいる<

8世紀の田舎の大和の、
「倭国の存在や歴史の隠蔽盗用造作をした記紀」などの音韻研究など、
古代や3世紀の中国の音韻使用の根拠になる筈がない。

>その結果、 子音で終わる閉音節の発音はない 母音の連続(二重母音)はない
ことが分かっている
つまり、「壹」(壹はichi,itu,ではなくitの音)と音写されるような地名はないし、
YAM「AI」Tの二重母音もありえない <

既に、古田さんに拠って、魏志倭人伝の中でも、
「持衰」や「噫」という音韻ルールに違背する例がある事が、指摘されている。

>つまり、倭国の地名として「邪馬壹」という音は、二重の意味でありえず、
ここからも、12世紀の三国志版本の邪馬「壹」表記は、3世紀の記録としては
不整合であり、後漢書等で見られる邪馬「臺」が正しいことが裏付けられる <

3世紀の中国側の記録のが、8世紀の大和の記紀などの音韻ルールの束縛される、
という事が起きる筈もない。
つまり、この男も、「南→東」などの嘘吐き騙しの「・・・・大和説」者。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:34:24.24
>>352
>8世紀の田舎の大和の、
>「倭国の存在や歴史の隠蔽盗用造作をした記紀」などの音韻研究など、
>古代や3世紀の中国の音韻使用の根拠になる筈がない。


いくら無知でも余りにメチャクチャ言ってるな

喋った人間が善人だろうが悪人だろうが
国語の発音の研究には関係ない
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:35:00.32
>>339
>(大和)日本國者、倭國之別種也、だから、×。

ザラコクがなんと言おうと
唐会要、旧唐書、新唐書の「倭国伝」に書いてある国が全部、畿内大和の大和朝廷なんだからww
倭国も大和朝廷、日本国も大和朝廷
別種をどうデタラメ解釈したところで、唐代の倭国が大和朝廷なのは確定w
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:35:31.11
>>490
「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘吐き騙しで、
「魏志倭人伝」の中の「倭人文言」での「二重母音」の存在も分からないような、
アホ大和説学者らでは、そんあアホの本など読んでも、何の信頼性もない。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:38:15.78
>>491
>音韻では畿内有利なので話題にしたらダメ <

音韻論でも、大和説の音韻学者は、古田さんに論破されている。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:40:08.73
まあ12世紀の東スポだからな
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:40:40.42
>>346
このサイトは、運城新聞網が発行する運城日報の文化コラムをアップしたものだ。

どうだ、「高十余里」をちゃんと読めたか。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:41:41.20
>>312
そうだよな
盗賊が隠した硬貨かもしれないね
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:42:09.48
>>352
>8世紀の田舎の大和の、
>「倭国の存在や歴史の隠蔽盗用造作をした記紀」などの音韻研究など、
>古代や3世紀の中国の音韻使用の根拠になる筈がない。

おいおい、九州説の言い分では記紀は九州倭国の史書の盗用なんだろ?
つまりそこに書いてあるのは、九州倭国の音韻が記録されているはずww

古代の九州の音韻はこれで研究できるだろ?
そして、壹が「it」の音だというのは、記紀は関係ないw

本当に知識も知恵も論理もなく、脊髄反射でただ文句付けてるだけだから
ザラコクは最低ww
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:45:01.43
>>356
>音韻論でも、大和説の音韻学者は、古田さんに論破されている。

つまり専門の音韻学者にも
素人古田は噛み付いてるということか

あらゆる学問の分野で九州説は孤立してて
全方面包囲網が出来てるみたいだな
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:45:02.97
>>357
いちいちは相手してないよw

たまにザラコクを知らない一見さんも来ているから、
ザラコクのダメさ加減もきちんと指摘しておかないと!

ザラコクを野放しにしてもいいことはないよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:48:27.96
>>492
>>AMSはプラズマ化をするから、放射性壊変が促進され、
50〜100年位古く出るから、×。<

>AMS法は、原子一つ一つの原子核の質量を直接測っているのであって、
放射性壊変は測定中には起こっていないぞ? <

全くのアホだね。
プラズマ化された瞬間から、原子核のベータ崩壊が始まって、
質量減少も始まっておりその計測が終わるまで質量減少が続いている事になる。sw
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:53:55.61
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:54:22.70
卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:56:51.54
>>364
うちのザラコクじいさん耳が遠いから反論しても意味ないよ
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:56:58.56
>>493
>>唐会要が、倭國伝と日本国伝とを別の場所に書き分け、内容も全く違っている、
という事が史料事実だ。<

>でも、どちらの記事も、畿内大和朝廷の記事・人物しか記載されていないww
九州倭国なんて存在しないんだよw<


唐会要が、倭國伝に記載した、という事は、
その何人もの遣使は、(どういう事情があったにせよ)全員が、
「倭國の使節だ」と唐に名乗った、
という事だ。
つまりその全員が、倭国の使節であると名乗らなければならない理由があった、
という事だ。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 13:58:07.42
>>338
筑後山門は、3世紀にはヤマド。

現在の千葉県の神門は、ゴウドの発音。
鹿児島県長島町の山門野はヤマドノ。
門をドと読むケースは、いくらでもある。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:06:27.40
>>336
>気ちがいを相手にしてどうするよ 周回遅れだぞ

ザラコクが周回遅れなのは、反論を避けるため
野放しにしてはいけない

>>369
>うちのザラコクじいさん耳が遠いから反論しても意味ないよ

まあ、ザラコク向けに書いてる訳でもないからw
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:08:11.27
千葉県の神門は江戸時代につけた名だろ
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:08:59.80
>>313
弥生末期と書いてあるね。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:11:31.96
>>370
>つまりその全員が、倭国の使節であると名乗らなければならない理由があった、
>という事だ。

理由も何も倭国から来てるからだよ
そしてその倭国が大和朝廷ってだけ

倭国と日本国は同じ国が改号しただけ
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:15:24.63
>>371
>門をドと読むケースは、いくらでもある。

そして、トと読むケースもいくらでもある、というか
現在山門と書いてヤマ「ト」と読んでいる訳だww

他例をいくら挙げたところで、「筑後山門を、3世紀にヤマドと読んだ」根拠にはならんよ
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 14:21:55.13
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0378日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:23:50.27
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0379日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:28:20.47
>>280
神門4号の鉄鏃については、定角式鉄鏃とされています。

検索欄に「第7章 遺跡からの証言」と入力し、画面の一番上の「第7章 遺跡からの証言-日本古代史の復元」を開いてください。

この文章の161p〜163pまでに、箆被についての記事と神門4号墳出土の定角式鉄鏃の図絵が出ています。
0380日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:39:28.87
>>376
邪馬臺の発音が、古代中国語中古音でヤマドイ。
この邪馬臺は、卑弥呼の都がある国の名だとして、挙げてあるもの。
3世紀の卑弥呼の国の名の発音の語尾の発音がドだったから、それを音写したものが邪馬臺(ヤマドイ)となったもの。
奈良の国名はヤマトだから、そのトの音写がドとなることはない。
ということは、奈良に卑弥呼の都はなかったということになる。

伊都(イト)と書かれた地名があり、その比定地に怡土(イト)地名があるわけだから、邪馬臺(ヤマドイ)の比定地に山門(ヤマド)があるのはまったく自然。
0381日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:40:55.77
「第7章 遺跡からの証言」の神門4号の定角式鉄鏃(22番)は、
腸抉柳葉式よりも、四條畷市の雁屋遺跡(弥生中期〜後期)の篦被付柳葉式銅鏃に近い
0382日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:42:15.69
>>380

連呼人種は言張るだけだから会話にならない
0383日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:52:48.96
>>373
由来は知らんが、その門をドと発音してるのは事実。
トじゃないヨ。
鹿児島県の山門野もヤマドノ。
山門の読みは、ヤマトだけじゃないしなあ〜。
0384日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 14:59:45.45
>>383

上古と近世では音韻が変わっているのは誰でも知っている
0386日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 15:11:56.79
>>372はザラコクのウソを、根拠を提示して指摘しているから問題ない
反日民族運動の会拡声器要員は指摘されなくてもウソを書き連ねてスレを埋める
0387日本@名無史さん
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2019/02/11(月) 15:13:31.78
>>381
箆被がちゃんと付いているね。
弥生中期から後期の遺跡で出ているのだから、弥生終末期のホケノから箆被付柳葉式銅鏃が出ても、まったくおかしくない。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 15:40:34.64
>>359
1里76.5m説者は、“証拠”をまたも提示したが、またも誤読であることが明らかになった。
とにかく、1里76.5m説は、無理、無理。
古田が、地図上で巨済島から対馬までのkmを計って、それを千里で割ったのが「75mに近い値」。
それに、沙里院かソウルからの地図上のkmを七千里で割って、合わせて1里75m〜90mくらいとした。
そのあと、その1里の距離の証拠を求めて中国文献にそれを探した。
しかし、そもそも勝手に地図上のkmから計算した数字なので、中国文献のどこにも、そんな値はなく、あると強弁したものの、ことごとくが誤読だった。
古田は、つまりは、誤読せざるを得なかったのだろう。
それを口車に乗せてしゃべりまくったら、その口車に乗ってくる者たちがけっこういたという顛末だ。
そして、現在も、その信者たちが“証拠のお札”をこれみよがしに出してくるということだなあ〜。
1里76.5mなんて、世迷言だよ。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 15:56:29.45
>>495
前にも書いたけどさぁ、
「南→東」などのように、
そういう元の文献を「否定曲解」する嘘吐き騙しをしなければならない、という事や、
文献に書いてない文言を足さないとまともに読めない時点で、
読み方として間違っているし、その補うという行為が事実上「捏造」そのもの 。

大和説は、無理読み・捏造・珍解釈の「行程パズル」のみでできている。
0391陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 15:59:34.59
弥生時代の人口分布を見てみれば、
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/8/28f3273b.gif

行程記事中で、
1番目に出現する大人口国:奴国(2万余戸)は北九州の博多湾沿岸、
2番目に出現する大人口国:投馬国(5万余戸)は出雲(山陰、山陽含む)、
3番目に出現する大人口国:邪馬台国(7万余戸)は奈良(奈良盆地及び河内平野を含む)、
そして邪馬台国と抗争する狗奴国は、おそらくは東海地方あたりの勢力だろう。

人口分布から見ればこういう風に綺麗にハマり、
そして行程記事の方角も、松浦到着後の全行程で綺麗に90度ずつずれている(というか陳寿が90度回転させた)。

『魏使が記録に残した行程記事の方角を、陳寿が90度時計回りに書き換えた』
これが魏志倭人伝を読み解くための『オッカムの剃刀』なんだよ。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:01:09.43
>>497
ほらな
具体的な「史料事実や史料実態の関する批判」ではなく、
内容がなくて言葉尻での解釈批判をしてるだけ
それがを「南→東」などの嘘吐き騙しの皇国史観教の大和説だよ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:08:25.34
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:10:10.95
>>498
>肥後熊本には、奴国(比恵那珂遺跡群)レベルの遺跡すらない<

奴國は、三雲付近〜早良平野部の国であり、比恵那珂遺跡群比定は、×。

>奴国2万戸、邪馬台国7万戸だから、これが実数ではないにしても
奴国をはっきり凌ぐレベルの遺跡がないところは、候補にならないよ<

呉王夫差の遺民の熊襲の狗奴國の国や、
どなたからが紹介されたように鉄鏃や庄内や米作の非常に多い地域であるから、
奴國レベルの国の候補に十分なる。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:10:14.76
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0396陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:11:47.99
『陳寿90度回転』を『オッカムの剃刀』として読み解けば、

『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺』

この記事中にある『倭種』とは、女王国の北、津軽海峡を渡った先に住む北海道の縄文人かアイヌであろうし、
その東にある『侏儒国』とはアイヌたちが『コロポックル』として伝承に残したアイヌとは別種の先住民だろう。

渡海千餘里の、韓国→対馬、対馬→壱岐、壱岐→松浦に比肩する大きめの海峡で、
その先に(小島でなく複数の国が入る)ある程度まとまった陸地がある場所と言うと、自動的に津軽海峡しかなくなる。

いずれにしても、ボンヤリとではあるが本州が反時計回りに反り返っている形まで、
行程記事が上手く写し取っていることが分かる。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:13:18.78
>>500
このスレの大和説者ほど、
人種差別的なヘイトスピーチをするキョクウの汚い言葉ばかの人が、
他にいるのだろうか
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:20:25.41
>>388

何の情報もないお前のが駄レス
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:22:36.15
>>502
どうのこうの寝言ほざく前に、中国史は、
倭国は、
「正北抵新羅」であり、「東征毛人五十五国」をしのた九州の国であり、
白村江で大敗した国であり、
日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
開皇末に初めて中国に遣使を派遣出来た国であり、
白村江の後で、倭国に変わって列島の盟主になった国である、
という事を、素直にみとめようではないか。

>畿内の勢力がそのまま平安時代まで継続してる
と【明記】されてる事実をいい加減理解しろw<

畿内なんて、7世紀後半に天智が天皇を称してから発生した文言だ。
0400陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:26:11.60
いずれにせよこの人口分布を見てみれば、
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/8/28f3273b.gif

奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国、その他の小国群を全て九州に無理矢理詰め込んで、
本州については『女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺』
のたった28文字で記述するなんてのは、どれほど不自然でバカげたことなのか自明だろう。

実際に紀元200年頃の人口では、九州が約10万人、本州+四国で約50万人。
当時の九州に人口面におけるそのようなキャパシティは存在しない。

(出所):Wikipedea 「近代以前の日本の人口統計」
    「縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口(小山修三, 1978,1984年)」
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:30:16.24
中国史の日本

@台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている
A用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている
B宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛

・新唐書でも用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定
・筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定
・一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する
・倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定

※これらの記録は日本の記録関係なく独自の記録から記載しているので、
中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:31:22.19
>>503
>(西晋朝の惠帝の時だけでなく)則天の時にも倭国使節が同じ事を則天にも言った、という事だ。<

>言ったのは粟田真人 日本(=倭国)の使者だよ <

ダメだ。
則天に言ったのは倭国伝であるから、倭国使であり、
日本国使として書かれた粟田真人だ、とは書かれていない。

>倭国は「倭国」と「日本国」の両方の呼称を持っていたんだよ<

それが、
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」と言う、
日本国伝冒頭の大和日本国国の成り立ちの総括説明だ。

>昔からずっと同じ国だという事だ つまり九州王朝は無い <

昔からずっと別種の旧小国であったが、
唐代から独立國として認められた、という説明だ。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:37:42.43
>>385
>だからお前もザラコクと同罪ってんだよ

そこまで言うならおまいさんとバトろうか?

こっちは、ザラコクの書き込みの中でも九州説が得意としている(つもりの)素人さんが
だまされやすいポイントを叩いているんだよ

つまり、
1.短里はある
2.方角は正しい
3.旧唐書に別種と書いてある

これだけ叩けば九州説はぐうの音も出ない

ザラコクを叩くものを諌めても、結局はザラコク擁護になる
>>385は九州説信者ってことでいいのか?ww
0404陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:39:35.32
(出所):Wikipedea「歴史上の推定地域人口」
「McEvedy & Jones (1978) による各地域別人口推定値(単位: 千人)」によれば、
紀元200年の各国の人口として、

中国:6,300万人
インド亜大陸:4,100万人
朝鮮:30万人
日本:70万人

となっている。当時のクシャーナ朝(大月氏国)はインド亜大陸の全てを支配してはいなかったが、
それでも人口では1,000万は越していただろう。

卑弥呼はそのクシャーナ朝『親魏大月氏王』と同格の『親魏倭王』の位を得ており、
使いに出した難升米と都市牛利も『率善中郎将』と言う郡守クラスの位を得ている。

これから考えても卑弥呼が九州の片田舎の女酋長であるはずがなく、
当時の日本全体を代表する立場の女王であったことは自明だろう。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:41:51.09
>>384
そして、3世紀頃の卑弥呼の都の国が邪馬臺と書かれ、その発音がヤマドイとされ、
ヤマドイは卑弥呼の都のある国の名を音写したものであることも、誰でも知っていて、
奈良時代の上代発音のヤマト、近世のヤマトとは異なるものであることも、誰にでも分かること。
音写ヤマドイの元の国の名である君の名は何〜んだ。
ヤマドが最も近い。
今、山門と書いて、ヤマドと読む読み方があるよね。
伊都(イト)も怡(イト)で同じだし、山門がヤマドだったとしても、全然OK。
その筑後山門を、今、ヤマトと読むのは、たぶん奈良弁の役人のせいだろうな。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:42:39.84
>>385>>388>>398
おまいさんは、畿内説、九州説以前に
「俺様だけが正しい教」の信者だなww

儒教道徳ですか?ww
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:46:45.67
日本中にあるヤマトの地名が九州にもある!

これを連呼してるだけのキチガイ九州説に毎日笑わせてもらってるwww
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:52:44.45
>>402
>ダメだ。
>則天に言ったのは倭国伝であるから、倭国使であり、
>日本国使として書かれた粟田真人だ、とは書かれていない。

その倭国伝で則天時に日本国への改号を申し出た、長安3年の遣唐使が
続日本紀で大和朝廷から派遣された粟田真人だと確認できるんだよ

そして唐会要には
長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝と書いてある

この時期は、もうとっくに白村江のあとだから、九州倭国もないんだろ?ww
そして、大和朝廷の遣唐使が、倭国伝に倭国からの遣使として明記されている
倭国=日本国だというのは明確に大陸史書から確認できる訳だww

九州倭国から、長安3年に武則天に対して遣使したっていう記録があるなら、
証拠になるけど、そんなものはないだろ?
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 16:55:33.77
>>405
>ヤマドイは卑弥呼の都のある国の名を音写したものであることも、誰でも知っていて、
>奈良時代の上代発音のヤマト、近世のヤマトとは異なるものであることも、誰にでも分かること。

いくら反論を受けてもシラン顔して同じこと言いい続ける
反論には反論はしない
ただ無視し、最初の主張を連呼する
「自分だけが正しい」教

それが九州説の生き方
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:00:17.08
魏志倭人伝よんでるのか?
倭のやまとのことなら、邪馬台だろ。

大倭は交易を監視する職務。
ご丁寧に邸閣ありとまで書いてくれてる。
東征軍のための食料備蓄倉庫だ。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:00:20.53
>>405
>そして、3世紀頃の卑弥呼の都の国が邪馬臺と書かれ、その発音がヤマドイとされ、

これが、結局のところ未確認情報なんだよ
この時期は、上古音と中古音の切り替わる時期で、どちらとも言えない
そして上古音(おそらくこちらが妥当)では、
(g)ia[v]g-mar-d(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-t`(e)g、または、(g)ia[v]g-mar-di(e)g
イァマドゥ、イァマトゥ、イァマディゥとなる

濁音に決まってるというのは、かなり間抜けな主張
そして、濁音だったとしたところで、筑紫山門が濁音だった論証は事実上皆無で、
筑紫山門には福岡平野並みの遺跡一つないという状態

どうして、周辺情報を無視して、ヤマドイだったに決まってるにだーで
そんなにがんばれるのかが不思議ww
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:08:37.62
>>510
510日本@名無史さん2019/02/08(金) 13:55:19.24
>>499
>「倭国と日本国の両方の呼称を持っていた」倭国は、新・旧唐書の 倭国伝、日本国伝に記載された人物名から、
畿内大和朝廷であることが確認できる訳だ<

ダメだ。
九州倭国は、晋の惠帝の時から倭國と日本國の両方の呼称を持っていたが、
大和日本國は、梁代までは独立国としての自称国名を持っておらず、
九州倭国の地方の市を監督する附庸國として存続していただけであり、
梁代頃に、始めて扶桑國と呼ばれた事があり、
隋の開皇末に小野妹子が文帝に日本国を称して叱られ?、
唐の武徳中に初めて「日本國」の呼称を承認して貰って、独立國になったが、
白村江の後の「九州倭國を併合吸収継承」したが、倭國呼称は継承出来ず、
則天に拠っても、尚も、倭国は九州にある倭国として認められていた、

>卑弥呼の頃、倭の五王の頃から倭国の政権はずっと畿内ヤマトにあり、
それが魏志倭人伝には邪馬臺國と記され(伝書の途中で邪馬壹國に誤記)、
それが唐代に日本国に改号した、というのが畿内説の基本<

勿論、「南≠東」や倭国の「正北抵新羅」や、
九州倭国の「東征毛人五十五國」などに拠って、×。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:12:43.19
>>511
>九州バカの「絶対確実間違いなし」の論拠
・日本中にあるヤマトの地名が九州にもあるのでこれこそが絶対間違いのない邪馬台国直結の地名だ
(読みがそもそも成立しないとかそんなもんは気にしない)
バカすぎて腹痛いwww<

九州における「邪馬壹國」や「邪馬國」という「邪馬≒ヤマ」の呼称の存在は、
無視し難いもの。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:12:55.30
>>412
>ダメだ。
>九州倭国は、晋の惠帝の時から倭國と日本國の両方の呼称を持っていたが、

ダメだ。
義理なし証拠なし

どんどんトンデモに落ちてく九州説
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:19:52.15
>>512
>萬二千里は上限距離ではなく、世界の果てからの遣使を示す符丁であり、
実際の地理とは対応しない数字 もちろん、倭国内の特定の地点を指す数値でもない
その基本を外して捏ね繰り上げられた説は、どこまで行っても捏造にしかならないよ<

郡からの行程での里数を逐一詳しく書いた上での、
「自郡至女王國萬二千餘里」という、「餘」を付けての総括説明は、
実地に計測があった、という事になるしかない。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:25:28.54
>>413
(倭国)咸亨元年三月、遣使賀平高麗。爾後継來朝貢。則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。

唐会要からは明らかに、則天武后の時代に倭国が日本国と改名を申し出たと読めるので、九州トンデモ説の成り立つ余地はない
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:26:54.57
>>415
>郡からの行程での里数を逐一詳しく書いた上での、
>「自郡至女王國萬二千餘里」という、「餘」を付けての総括説明は、
>実地に計測があった、という事になるしかない。

ダメだ
理由もなく言い張ってもね
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:27:56.55
>>514
>その、使うべきところであれば、当然に使われる「則ち」の文言がない時点で
「則ち」という読み方が間違ってるってことだよ
水行、陸行部分は、総距離の言い直しではない <

漢文では、数量説明は、説明対象文言のすぐ後ろに書くのが原則であり、
「水行十日陸行一月」の数量記載のすぐ前の文言は「女王之所都」であり、
郡からの魏使らの目的地であったのであり、
途中の部分行程里数は既に書かれているから、
「水行十日陸行一月」は、「郡→女王之所都」の所要日数説明であった、
というしかない。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:33:05.23
>>413
>九州における「邪馬壹國」や「邪馬國」という「邪馬≒ヤマ」の呼称の存在は、
>無視し難いもの。

なんも理由がなけりゃ無視されるもの


ばかですか
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:35:56.32
まあ、1里76.5m説も、枯れ木も山の賑わいとは言えるなあ〜。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:37:46.59
>>418
>途中の部分行程里数は既に書かれているから、
>「水行十日陸行一月」は、「郡→女王之所都」の所要日数説明であった、
>というしかない。

それまで区間ごとに順次書いてきたのに
なんで突然出発点からに戻るんだ
九州説の考えは支離滅裂だ
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:40:14.92
>>516
>木柱で支えていた天蓋が、木柱の腐食で崩落する。 ホケノの天蓋が崩落したのは普通に事実。
二重口縁壷も落ち込んだものとされている。 4世紀とされる小型丸底壷も落ち込んでいた。
小型丸底壷は、後代に供献されたものと考えられている。<

常識的には、
天蓋が槨内に崩落があったんなら、墳頂部に大きな陥没や陥没後が残る筈だし、
土と比重が殆ど同じと思われる土器が、天蓋の上に残存する事はあっても、
天蓋の大量の土を押しのけて先に落ちる、という事が、そもそも考え難い。

>3世紀中頃築造で不都合はない。<

前方後円墳と有棺有槨と「庄内〜布留」に拠って、3世紀末以後であり、
3世紀中頃は、全く×。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:49:40.52
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png

唐会要が「正北抵新羅」と書いたころ
日本の正北に新羅があるというのは常識みたいね
九州説ざんねんでした
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 17:59:21.31
>>422
>前方後円墳と有棺有槨と「庄内〜布留」に拠って、3世紀末以後であり、

それ、理由ないよね?
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:04:51.39
>>411
学研漢和大字典の場合、

臺  上古音 deg (eは逆さまのe)
台  上古音 @teg、Adieg (上に同じ)

このように2種類の発音を挙げている。

この字典に従えば、(g)ia[v]g-mar-t(e)g=イァマトゥの最後のt(e)g =トゥは台字の発音ということになる。
臺字は、deg=ドゥの濁音一択のみ。

今の首長選挙でも、町の中心部出身者だけが首長選に出て当選するとは、限らない。
むしろ、各勢力のバランスを取るために、隅っこの旧村地区の候補者が当選するケースも少なくない。
筑後山門は、その隅っこの国だっただろう。
山門を盟主にしておいたほうが、他の有力地域間の政治的バランスが均衡した、というモデルも考えられる。
狗奴国に攻められて、まったく劣勢になったことでも、山門が決して強力な国でなかったことが分かる。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:05:52.73
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:07:20.14
>>425
言い張るだけの九州説さん
それが畿内大和でなんか問題でもあるのか?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:11:37.33
>>420
>まあ、1里76.5m説も、枯れ木も山の賑わいとは言えるなあ〜。

どうでもいいんだけど、1里76.5m説は概ね正解だよ。  @阿波

狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:16:11.37
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:18:54.73
里数がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:23:48.41
>>428
>狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
>対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m

対馬島北端から対馬島南端はどうした?
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:26:36.31
>>519
>1万2千里で女王国
そこから水行10日、陸行一月で女王の都の邪馬台国
ハッキリと1満二千里未満と明記される九州のクニグニは
邪馬台国でさえもない属国だと示されている<

漢文では、数量説明は、説明対象文言のすぐ後ろに書くのが原則であり、
「水行十日陸行一月」の数量記載のすぐ前の文言は「女王之所都」であり、
郡からの魏使らの目的地であったのであり、
途中の部分行程里数は既に書かれているから、
「水行十日陸行一月」は、「郡→女王之所都」の所要日数説明であった、
というしかない。
勿論、不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっており、
投馬國説明には「至の前に途中移動説明文言がない」から側副傍線國説明であり、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南にあり、
「南≠東」に拠って、大和説は×。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:29:48.74
>>422
ホケノ山の復元図をみると、墳上に二重口縁壷が並べられている。
監修した学者は、天蓋が崩れたとみているようだ。
木柱で支える天蓋がこのように脆弱であるので、この次には板石を積み重ねて天蓋を造るようになるという学者の考えは妥当ではないか。
しかし、この板石の天蓋も地震などの振動には弱いことから、さらに時代が新しくなると、巨大岩を天蓋に置くという構造に進むというのが、学者の考えだ。
もっともな話ではないか。

元々の墳墓の天蓋土は木だけで支えていたような図も見るから、ホケノ山の石囲い木郭は、そうした木柱から石囲い石板天蓋への変化の途中の形ではないか。
この石囲いと徳島の石積み墓とる類似性が言われており、関連があるのかも知れない。

小型丸底壷が徳島の弥生後期の矢野遺跡でみられるということであるし、箆被付柳葉式銅鏃も弥生後期の河内の遺跡で出ているということなので、この二つの要素でもホケノが3世紀中頃築造はOKなのではないか。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:30:02.53
>>432
>勿論、不彌國で、萬二千余里がほぼ終わっており、

それが九州説の二重帳簿サギだな
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:30:58.11
>>431
>対馬島北端から対馬島南端はどうした?

???
対馬島内は当然、沿岸航行だよ。 倭人伝は対馬島と壱岐島の渡航を言っているのであり、対馬島内は関知していない。  @阿波
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:33:33.47
>>425
漢字古今音資料庫
http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/
字 聲調 韻目 字母 上字 下字 又音 又切 東漢韻部 西漢韻部
台 平 之 以 與 之 胎
台 平 咍 透 土 來 與之 之    之
臺 平 咍 定 徒 哀 之    之

前漢(西漢)、後漢(東漢)の頃の読みとして、
台も臺も「之」となっていて、「之」は ȶi̯əɡ だから、濁音じゃないだろ
文字化けしていたら、自分でサイトで調べてみて
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:33:45.03
>>433
だから、ホケノ山古墳も倭国(阿波)の「忌部はん」 のお墓 だと、何度言えばw  @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:34:40.80
>>521
さらに、中国史は,
大和勢力は、九州倭国から別れた別種の旧小国であって、
隋文帝の時に初めて中国との国交を持とうとし、武徳中に日本国号を承認され、
則天の頃に大和日本国が列島盟主になったが、
唐代後半まで九州倭国と大和日本国の併存状態であった、という事を理解している。

大和≠魏志の邪馬壹国 と確定している 。
類スレ主や大和説学者らのバカの妄想など、
最初から存在してないのがよく分かる。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:35:17.53
>>425
>山門を盟主にしておいたほうが、他の有力地域間の政治的バランスが均衡した、というモデルも考えられる。

そういう逃げは、魏志倭人伝の「可七萬餘戸」で否定される
ちゃんと王都が一番栄えてるんだよ
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:35:33.59
まあ、どんなウソをついてでもホケノ山の年代を後世にしないと九州説の死亡は確定だからね
無理もするさ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:36:50.87
>>428
>どうでもいいんだけど、1里76.5m説は概ね正解だよ。  @阿波

この時点で泡もトンデモww
巣に帰りな
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:39:27.17
>>525
>方向も距離もいい加減な倭人伝だが<

方向も距離も、ちっともいい加減ではない。この大和説者の脳がいい加減。

畿内説だの邪馬台国だの大和朝廷だの、バカの脳内の妄想だとよく分かる。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:41:42.67
>>526
中国史は,
大和勢力は、九州倭国から別れた別種の旧小国であって、
隋文帝の時に初めて中国との国交を持とうとし、
武徳中に日本国号を承認され、
則天の頃に大和日本国が列島盟主になったが、
唐代後半まで九州倭国と大和日本国の併存状態であった、という事を理解している。

大和≠魏志の邪馬壹国 と確定している 。
類スレ主や大和説学者らのバカの妄想など、
最初から存在してないのがよく分かる。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:45:30.59
>>441
>この時点で泡もトンデモww

畿内説は「1里76.5m」でなにが不都合なの?  距離が示されているのは、九州島内だけのこと。 なんら問題なし。
万二千余里は女王国までの直線距離だから、なんら問題なし。

ただ、方向が致命的だということ。  @阿波
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:45:33.16
>>435
こうして
短里説は到着地点、出発地点を
恣意的に設定することで
調整されているのとが
明らかになるのであった
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:48:00.77
>>442
>方向も距離も、ちっともいい加減ではない。この大和説者の脳がいい加減。
>畿内説だの邪馬台国だの大和朝廷だの、バカの脳内の妄想だとよく分かる。

九州説が罵倒以外なにも言っていない件について
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:52:14.33
>>443
>中国史は,
>大和勢力は、九州倭国から別れた別種の旧小国であって、
  :
>唐代後半まで九州倭国と大和日本国の併存状態であった、という事を理解している。


で?
そう言ってる中国史料が何も無いのは
どうして?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:52:26.44
>>444

阿波は阿波のことしか考えてないからだよw
九州の考古知識もないし
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:54:08.03
>>448
>九州の考古知識もないし

九州にこれといった目ぼしい遺跡がないからね。  @阿波
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:54:16.80
>>444
>距離が示されているのは、九州島内だけのこと。 

その九州島内でも距離がデタラメなんだよww
満津浦とかを末盧の根拠に持ち出すのはトンデモの極み
それでいて、伊都国・怡土は単なる音だけとかいうのがダブスタすぎて
泡もダメダメなのが明らかすぎるw
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:54:28.34
>530
「南→東」や、「冢=前方後円墳」など、人類の常識に反する史料処理が多過ぎ。
だから大和説はダメ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:54:56.58
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:58:04.20
>>451
>「南→東」や、「冢=前方後円墳」など、人類の常識に反する史料処理が多過ぎ。
>だから大和説はダメ。

それが人類の常識に反するという証拠は?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:58:56.31
>>450
>満津浦とかを末盧の根拠に持ち出すのはトンデモの極み

君も九州説と同程度ってこと。  @阿波
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:59:01.02
阿波は古代も現在も、無いなら無いでさして問題は無い
人口的には県から郡に降格して高知と香川で分けたらいい
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:01:19.31
>>541
つまり大和説者にとって大事なのは、
「南→東」などの、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの、インチキをすること。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:02:28.30
>>456
インチキだという証拠は?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:06:25.10
あらゆる局面でまったく証拠の出せない九州説は
常識だ、常識だと無内容に叫ぶ以外に
打つ手がない
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:11:00.73
>>455
君がいくら倭国(阿波)に抗っても、無駄。  遺跡ひとつとっても、雲泥の差でしょ?  @阿波
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:13:42.60
オウム人間ザラコクがとうとう正体を現して前スレのレスへのオウム返しばかりになった
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:15:20.44
>>548
>その倭国から平安貴族の藤原さんが使者として中国に行ってるのだよ
九州王朝説は子供も嗤うトンデモ<

旧唐書日本國伝の史料事実は、
「開成四年、又遺使朝貢」だけであり、誰が行ったのか?は書かれず、
唐会要倭国伝の史料事実は、
「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」であるから、
遣使薜原朝常嗣は、最低「倭國遣使」だと名乗った、という事だ。
そして、「等」があるから、
旧唐書の日本国の遣使は、薜原朝常嗣に同行した日本国遣使であったんだろう、
という事になるだけだ。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:20:41.37
>>461
>「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」であるから、
>遣使薜原朝常嗣は、最低「倭國遣使」だと名乗った、という事だ。
>そして、「等」があるから、
>旧唐書の日本国の遣使は、薜原朝常嗣に同行した日本国遣使であったんだろう、

その倭国の使者である平安貴族の
藤原常嗣の氏素性は明らかで
遣唐使なのだが?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:23:18.24
>>428
倭人の末裔がそう考えても、本家本元の中国にそんな単位はなかったからなあ。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:25:09.77
>>461
>旧唐書の日本国の遣使は、薜原朝常嗣に同行した日本国遣使であったんだろう、
>という事になるだけだ。

お、だいぶ言うことが後退したなw
前は薜原朝常嗣は、藤原朝臣常嗣じゃないって言ってたのにww

でも、倭国の遣使がうちはこれから日本国で行きますと言ったんだから
倭国=日本国なのは動かしようがないよなw
則天時、自言「其國近日所出、故號日本國。」蓋惡其名不雅而改之。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:27:33.97
>>454
>君も九州説と同程度ってこと。  @阿波

おやぁ?
満津浦とあるから末盧国は福津でいいんだーって言ってたのは泡じゃないかww
満津浦を末盧の根拠にするのはもうやめるのかい?

まあ、やめた方が恥が一つ減るからお薦めではあるけれどww
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:28:20.56
>>463
>倭人の末裔がそう考えても、本家本元の中国にそんな単位はなかったからなあ。

里数がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:28:39.11
>>550
>>しかし、旧唐書や唐会要は、則天以後に「九州倭国からの遣使が何度もあった」
という事を記録しているんだから、<

>その唐会要に、則天のとき倭国からの使者が国号を日本と変更したと言ったと書いてあるのよ<

いや、九州倭国が中国に「日本国」を名乗ったのは、晋の惠帝の時であり、
それからしばらく倭国や俀國として中国に名乗っていたが、
大和の日本国名の名乗りでの混乱で、則天に、
「倭国も既に日本国を名乗っていたのです」という事情説明をしただけだ。

>つまり旧名で記録に残ったケースもあっただけ<

その後の唐は、ややこしいから、
列島からの遣使はその名乗り国名での記録を残した、というだけだ。

>倭国=日本 国はひとつしか無い <

「日本國者、倭國之別種也」だから、×だ。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:32:48.94
>>465
>満津浦を末盧の根拠にするのはもうやめるのかい?

特にやめる理由はないよ。  満津浦は末盧国の名残だろう。  @阿波
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:34:19.40
>>439
倭人伝の行程に記された戸数は、九州が沖縄あたりまでの巨大島と設定して初めて妥当な数字になるもの。
実際に、筑後山門周辺に仮に35万人が住んでいたとしたら、これは食料が明らかに足らんだろうよ。
ということは、行程の戸数をまともに扱う必要なし。
山門が筑後平野の“隅っこ”であるのは、事実。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:37:40.41
>>468
>特にやめる理由はないよ。  満津浦は末盧国の名残だろう。  @阿波

満津浦は、出所不明の永島文書にしかない極めてアヤシイ地名
というか、現地ではそんな呼び方があることを認める人が一人もいない
そんなものを根拠にして恥じるところがないあたりがトンデモのトンデモたる所以

それでいて、怡土郡の地名が伊都国以来のものだというのは認めないと
いうダブスタも凄い

泡もザラコクと同程度には恥知らずだよww
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:39:13.74
>>551
>>しかし、唐会要は、倭国の位置を「西北接百濟、正北抵新羅」として北部九州だとし、、
はっきり区別している。<

>何とどう区別したの? 九州説はいつも内容ゼロだな <

先に書かれた旧唐書の日本国伝には、
「其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國」
と書かれ、
唐会要倭国伝の「倭國 古倭奴國也。在新羅東南居大海之中」や、
「倭國東海嶼中野人。有耶古波耶多尼三國皆附庸於倭。
北限大海西北接百濟正北抵新羅南與越州相接」とは明らかに違い、
書き分けられている。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:41:29.48
>>553
「南→東」などのように、ウソばかりつく大和説。
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:48:35.43
>>379
神門4号墓の鏃はホケノと型式が違い、篦被の形も違っているみたいだが関連はあるのだろうか?

神門4号墓の次に神門3号墓が造られていて、
その3号墓にはホケノと同じ腸抉柳葉式が出ているみたいだから、こちらの事だと思った
この鏃には篦被はあるのだろうか?

ホケノは
篦被付腸抉柳葉式銅鏃で年代が問題視されている
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:54:44.79
>>436
上古音の復元は、資料の乏しさから、非常に困難とウィキに出ているなあ。
中古音なら、ほぼ確かなんではないの。
それに、魏晋は上古音から中古音への転換の直前だというから、臺字は中古音のほうが妥当だと思うよ。

中古音であれば、臺は濁音。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:55:13.03
>>469

戸数を隅っこレベルに合わせるなよw
端っこのくせに
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:55:47.87
>>474
>ホケノは
>篦被付腸抉柳葉式銅鏃で年代が問題視されている

誰に?
邪馬台国の会関係者以外には問題視している形跡がないが

そもそも問題視する理由はなに?
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 19:59:40.25
>>475
>それに、魏晋は上古音から中古音への転換の直前だというから、臺字は中古音のほうが妥当だと思うよ。

思考の論理がおかしくないか?
魏晋は上古音から中古音への転換の直前なんだろう?
魏代の記録にどうして中古音のほうが妥当だと思うんだ?
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:01:24.62
>>557
>末盧国ー伊都国、伊都国ー奴国の方角は、約90度時計回りに回っていて
北東が東南になっている 実際の九州と比べて、記載の方向が間違っているのは確定<

末盧國からの「東南」は、(伊都国方向ではなく)出発方向説明であって、
90度間違っておらず、
伊都国から奴國は、至の前に移動をした事を示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、側副傍線國説明になり、
前原〜糸島水道付近の伊都国の東南百里であるから、
日向峠西麓の三雲付近〜早良平野付近になり、方向間違いにする必要がない。

>末盧国ー伊都国間と、伊都国ー奴国間で、実際の九州の地理と比べると
1里あたりの距離が4倍も違ってくるから、誤差や程度の問題ではなく
距離が「デタラメ」であることは確定<

この大和説男の類スレ主が、(前項で書いたような)奴國の位置を、
比恵那珂付近に、勝手に嘘つき騙し比定をしたから、4倍位も違うのであり、
この男の脳がデタラメ詐欺師である事が確定。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:11:02.39
>>474
箆被が3世紀末から登場したという説については、箆被は弥生後期には既にあるようだから、問題外になる。
問題は、ホケノの箆被の形がいつの時期のものかということと、柳葉の尾部が腸抉形になる例があるのかということ。

腸抉自体は、弥生後期の近江伊勢遺跡でも出ているから、腸抉であること自体は問題外になる。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:13:21.54
>>559
>小型丸底壷の成立は、3世紀後半とするものがみられる。
またのかつぎ銅鏃が出た浦間茶臼山古墳は、3世紀末の築造とされる。
こうしたことから、ホケノを4世紀としなくてもいいのではないか。<

一般的には、銅鏃よりも鉄鏃の方が新しい。
考えられる事は、銅鏃の古墳は、古い在地系の部族長の墓で、
鉄鏃の方が、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍や武将墓であって、
在地系の墓を壊してまでして、造ったのではないか?という事。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:14:05.71
文献上の邪馬台国については、明らかに九州であるのに
何故、考古学がこれを畿内に誘導する必要が有るのか、全く理解できない。

文献上の邪馬台国が247年以降、継続している可能性は薄いのに
何故、現代まで継続している、大和朝廷にこじつけるのか?
 
何をしたいのか? 全く理解できない。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:18:12.53
>>480
訂正

腸抉柳葉式はちゃんとあるようだ。
とすると、やはり、腸抉柳葉式に箆被がつくホケノ型には、他の出土例があるのかということになるね。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:19:39.33
知ってる?
卑弥呼を最初に月に着陸させたんは
日本の考古学者だぜwww
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:20:40.13
ホケノが最初でも問題ない
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:20:41.02
>>475
>中古音であれば、臺は濁音。

それ以前に、筑紫山門を濁音で読んだ根拠がほぼないのに、そこでがんばる意味ないだろ?
山門をヤマドと読んだ可能性と、倭(ヤマト)をヤマドと呼んだ可能性は、
どちらも否定も肯定もできないだけでどっこいで、少しも筑紫山門が有利という点はないぞ

そもそも、その前に、山門は弥生終末期に海ばかりで福岡平野と比べても
人口も遺跡密度も低いところ

福岡平野・奴国二万戸に対して、山門を邪馬台国七万個の比定地とするのは
常識的には無理だろう
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:23:00.28
>>467
>いや、九州倭国が中国に「日本国」を名乗ったのは、晋の惠帝の時であり、
>それからしばらく倭国や俀國として中国に名乗っていたが、

これがデタラメ
まともな史料にはそんなことはどこにも書いてない
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:25:40.43
>>471
>満津浦は、出所不明の永島文書にしかない極めてアヤシイ地名

「火のない所に煙は立たぬ」ってね。  @阿波
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:26:52.81
>>482
>文献上の邪馬台国については、明らかに九州であるのに

明らかに九州じゃないよ
奴国、福岡平野まで来ているのは明らかだけれど、
そこから水行20+10日、陸行1月の遠地に邪馬台国はある

九州説は、この水行、陸行記述をいかに誤魔化すかに、全精力を傾けているww
そのための、短里であり、放射説であり、水行の起点の帯方郡へのまき戻しであり、
島巡り仮説+萬二千里で移動距離なしというデタラメ

これらが、全部否定されてきたのが、この畿内説スレの流れw
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:28:47.21
>>562
>>最後に自郡至女王国万二千余里として、この談を締めくくり念を押しているのであるから、<

>途中で里数なしの水行陸行の日数表記が入るのに、それを足し算と見るのは無理だろうに <

不彌國で、途中移動里数合計が、「萬二千余里」にほぼ達しており、
投馬國の「水行二十日」は、側副傍線國の位置説であるから、主行程には関係がなく、
「水行十日陸行一月」は、郡からの行程の目的地である「女王之所都」の説明文言になるので、
「郡〜女王之所都」の所要日数説明文になり、
だから、「途中で里数なしの水行陸行の日数表記が入る」事にはならない。

類スレ主は、ここでも史料実態の否定曲解の嘘つき騙しをしている。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:29:26.19
>>486
奴国 『有』 2万戸 は

邪馬台国 次有21国 『可』 7万戸 此 女王境界所盡 を構成する
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

の 女王共立国で、最大級の一国だぞ?
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:30:03.74
>>488
>「火のない所に煙は立たぬ」ってね。

煙も立ってないんだよw
末盧「国」という「陸地の地名」なのに、
満津「浦」という人の住まない「海岸の地名」になっているというのが、
デタラメの極みw

怡土郡→伊都国を、自説の都合で否定する人が何を言っても説得力ゼロだ
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:31:42.16
>>491
>の 女王共立国で、最大級の一国だぞ?

それがどうした?
邪馬台国は女王国連合の中心で最大国であり、奴国二万戸の3倍以上の大国だ

そんなものは筑紫山門には影も形も気配もないじゃないか?w
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:31:46.15
>>481
>一般的には、銅鏃よりも鉄鏃の方が新しい。

これ、考古学の常識では否定されてるから
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:34:01.94
>>491
>邪馬台国 次有21国 『可』 7万戸

ああ、何だ、七万戸には余傍国21国まで入れちゃうという、九州説お得意の
人口二重帳簿詐欺かww

余傍国は「戸数」道里の略載すらできないんだから、それを参入するっていうのは
ありえないだろww
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:36:01.65
>>479
>この大和説男の類スレ主が、(前項で書いたような)奴國の位置を、
比恵那珂付近に、勝手に嘘つき騙し比定をしたから

奴國の位置を比恵那珂付近に比定することが
「勝手に嘘つき騙し」だと断定する証拠は?
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:36:28.84
>>492
>末盧「国」という「陸地の地名」なのに、

末盧国は魏使が上陸した良港が在るところだよ。 
「火のない所に煙は立たぬ」ってね。  @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:40:04.67
>>563
>梁書は、唐の時代にまとめられた史書。
倭奴国から倭王賛まで倭国は一貫しているとの記述になっている。<

ウソを付くな。
梁書は、後漢から梁代の倭王武の「高祖即位、進武號征東將軍」まで、
一貫して同じ国だ、と書いている。

>宋書にみえる倭王讃は、明らかに河内・大和の王権であるし<

そんな事は、全く書かれていないから、×。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:47:59.20
>>495
陳寿が、梯儁が印綬の時に参問した21国は漢字にしたが
女王国属国以外で 山海経伝説 とか、歯黒国、古老の東海の向こう、
とかの 余傍国の名前を知る、可能性は有るのかな?

日本列島の国名は、和語で漢字化されていないし、
魏時の使譯 というのは、240年梯儁 と 247年張政の二回だけだ。

倭人伝、評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

漢文は、漢字を飛ばさないで読め。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:50:07.74
>>570
>>例えば、則天の時の事件や、それ以後の遣使の記述も、
倭國と日本國とは、別の国として書き分けられている。<

>項目が分けられているだけで、並列関係は見いだせない。<

ダメだ。
旧唐書日本国伝の「開成四年、又遺使朝貢」と、
唐会要倭国伝の、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、
同じ年次であるし、
「大歴十二年」は、旧唐書にはなくて、唐会要にはあるから、
両者共に、手に入れた事実関係を坦々と記載しているだけだ。
0501陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 20:56:42.17
ところで畿内説の皆さんは、
邪馬台国が後のヤマト王権に推移したのか、
それとも邪馬台国はヤマト王権に滅ぼされたのか、どっちのお考えですか?
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:00:54.39
>>573
>多元王朝説は短里と並ぶ古田説のでまかせよね
東日流外三郡誌なんて偽書に飛び付くくらいだから
古田説の資料の扱いがおかしいのは明白<

章子さんの「喜八郎さんの乱筆原稿の清書」原稿を、喜八郎の筆跡だ、
との大間違いして、明治写本との筆跡鑑定をした、という大失敗の偽書説に、
未だにしがみついてしたいる大和説者の、
脳や精神構造がおかしいのは、明白。
おそらく、万世一系皇国史観の精神的な病気の仲間。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:02:41.23
>>501
は?

邪馬台国というのはヤマトにあった王権なんだから
ヤマト王権以外のなんでもあるまい
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:09:01.87
>>500
>旧唐書日本国伝の「開成四年、又遺使朝貢」と、
>唐会要倭国伝の、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、
>同じ年次であるし

そりゃそうだ
同じ国の同じ一行だから

第19回遣唐使 承和5年(838年)
大使:藤原常嗣 副使:小野篁
円仁らが入唐
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:09:13.55
陳寿がなぜ、次有を21回、
42文字もの無駄を費やして
印綬した邪馬台国 の所属国、を説明したのか?

次有に あげるのが、
此女王境界所盡
これが、女王属国7万戸
で、あって

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
だから、だろ?

陳寿は
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
以降で、女王国の全貌を説明している。

邪馬台国は、
九州の女囚を倭王と勘違いした、帯方郡太守のメンツの為に、
240年、建中校尉梯儁が、印綬の時に仮称とした国名である。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:11:06.26
>>483
滋賀県長浜市の古保利古墳群のB-6号(小松古墳)から箆被腸抉柳葉式銅鏃が出ているそうだ。
前方後方型墳丘墓、あるいは前方後方墳。
築造は3世紀中頃〜後半とされる。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:15:32.59
>>587
>彼らが持ってるデータが、古いのだろう。
下鈎に青銅器工房ができたのが弥生後期で、その下鈎は後期末頃には廃絶する。
だから、ノカツギは、弥生後期末までには既に生産されていたということだから、古いデータで議論するのはダメということだな。
誰だよ、ホケノ山が4世紀だと胸張ってるのは。 <

だから、銅鏃は、鉄鏃よりも古いんだろうから、
大和の在地の毛人や出雲系部族は銅鏃を使っていて、
それを九州倭国の「東征毛人五十五國」軍が征服して、
その武将の墓に鉄鏃が大量に副葬されたんだろう、
と言ってんだよ。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:18:58.69
>>590
下鈎遺跡 いまいちその遺跡の出土状況がわからんな 殆どが篦被が無いタイプだし
古墳時代の物も出土してる様から、出土詳細がわからないと何とも言えないな
文化の状況は地域によって差がある時代だから同地域内での推移が大事だね
畿内では、ホケノの箆被付柳葉式は古墳前期〜中期に多く出るし、
岡山の浦間茶臼山が一番古く3世紀末の古墳だから、
やはり3世紀末より古くするのは厳しただろう<

成程。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:24:03.06
>>594
>ヨコからスマン 下鈎遺跡って畿内だったっけ? 下鈎遺跡は何国になるのか答えなさい<

成程。検索してみたら、栗東付近だね。
危うく、奈良盆地と騙されるところであったなあ。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:29:26.88
>>503
邪馬台国というのは倭にあった王権なんだから
倭国(阿波)以外のなんでもあるまい  @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:33:13.23
>>501
>邪馬台国が後のヤマト王権に推移したのか、

纒向が邪馬台国の都の中心祭祀場で、それがヤマト王権の崇神、垂仁、景行三代の宮所なんだよ
のちのヤマト王権ではなく、そのままヤマト王権そのものだよ
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:38:56.95
>>505とか、妄想ってすごいなとしか

投馬国の記述と邪馬台国の記述は構成が同一
投馬国も広域の大国で五万戸
邪馬台国も広域の大国で七万戸
次有以下の餘傍國の前で、邪馬台国の記述は完結している

余傍国の戸数すら分からないのに、それを入れたという主張はデタラメすぎる
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:39:44.94
>>508
つまりこの人は
箆被付柳葉式は岡山の浦間茶臼山が一番古い筈だからホケノ山はもっと時代が同じか後だと言ってるのか?
つまり薄馬鹿ということか?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:42:55.86
>>500
>旧唐書日本国伝の「開成四年、又遺使朝貢」と、
>唐会要倭国伝の、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、

同じ文書で比べろよww
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:45:10.58
>>513
>つまり薄馬鹿ということか?

いや、これは間違いだろう
ザラコクは根本的に根っからの大バカ野郎なんだ
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:47:36.60
>>627
>そもそも倭人伝とは何かを勘違いしているようだな
ご承知の通り三国志は、倭国の歴史を書いたものではない。
これは魏王朝の歴史を時系列に沿って書き連ねた歴史書であり、その時系列に沿って倭との外交の歴史も書かれている。
もっと具体的に言うと、魏のこれこれの年号のときに、倭ではこういう状態であった・・、という書き方である。
だから当時の中国が後漢から魏へ激変したのと同じように、倭国大乱を挟んで倭国・女王国の政体・範囲も激変している。
現代の日本人が、女王国の範囲を(日本史の)一つの時代の一つの固定枠にはめようとするから読めないのだ。<


いや、倭人伝は、陳寿の知り得て確認が取れた情報の範囲で、倭人の、
位置や地理や簡単な出目や習俗や歴史や中国とコンタクト記録などの、
事実関係を記載して、読者に紹介しようとしている、
(後代史書とは比べ物にならない位の)貴重な同時代記録である。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 21:54:16.49
>>506
ありがとう
これは興味深い情報
鏡2面、盗掘跡に破片だが、内行花文鏡と方格規矩鏡も出土してる

調べたらここも年代問題があっているようだ
弥生終末、布留0〜布留1あたりの説があるみたいだね
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:02:42.27
>>500
>>項目が分けられているだけで、並列関係は見いだせない。<
>ダメだ。
>旧唐書日本国伝の「開成四年、又遺使朝貢」と、
>唐会要倭国伝の、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、
>同じ年次であるし、
《唐會要》では、則天時に日本國へ改号してるからいいんだよ。
《舊唐書》は、則天以降のみ日本國の項に書く編集方針だというだけ。

>両者共に、手に入れた事実関係を坦々と記載しているだけだ。
坦々というのはお前の感想。
違う文献を混ぜて評価すべきではない。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:17:02.57
中国史の日本

@台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている
A用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている
B宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛

・新唐書でも用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定
・筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定
・一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する
・倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定

※これらの記録は日本の記録関係なく独自の記録から記載しているので、
中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:20:12.38
>>506
この小松古墳についても、この銅鏃の存在によって、ホケノ山と同じ論争が2002年に起きたようだ。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:21:14.58
>>472
>「西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。 」

この内容だと九州も含まれているね。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:23:33.71
>>500
>両者共に、手に入れた事実関係を坦々と記載しているだけだ。

担々麺なのじゃ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:26:14.29
>>636
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の病身舞は続く
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:32:02.06
箆被付腸抉柳葉式鏃の編年は、ホケノ山→黒塚→桜井茶臼山
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:32:12.89
>>637
まぁ結局大和説の喚き散らす絶対の証拠とやらは
・巨大古墳は瀬戸内〜大和付近にあった
・それに合わない文献考古は、全て文献考古の間違いである
この2点だけ
異常者の脳ミソは理解できんわ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:34:03.84
>>485
うむ。
最初でも、いけそうだ。
そこで、腸抉柳葉式に箆被を付けるようになったきっかけはなにか。
この点についての実証的な根拠が必要になる。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:44:27.75
>>644
>>「会稽東冶」なんて陳寿執筆時にはあり得ない表現であるから、<

>他に二か所で使われてるね ザラコクがまたウソをついた ww <

この大和説男は、また変な曲解誹謗をしたんだろうなあ。
古田本の紹介では、260年の会稽郡から建安郡の分郡以前の「会稽東冶」記載は、
確か10例位余り紹介されていた筈であるが、
分郡以後の「会稽東冶」の紹介例はなく、
だから、「会稽東治」例は、
陳寿の地の文である「計其道里、當在會稽東治之東」だけであった筈。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:49:27.51
>>644
>>「会稽東冶」なんて陳寿執筆時にはあり得ない表現であるから、<

>他に二か所で使われてるね ザラコクがまたウソをついた ww <

この大和説男は、また変な曲解誹謗をしたんだろうなあ。
古田本の紹介では、260年の会稽郡から建安郡の分郡以前の「会稽東冶」記載は、
確か10例位余り紹介されていた筈であるが、
分郡以後の「会稽東冶」の紹介例はなく、
だから、「会稽東治」例は、
陳寿の地の文である「計其道里、當在會稽東治之東」だけであった筈。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:54:11.64
>>526
キッカケったって中国じゃ紀元前からあるんだし
纏向じゃあ中国の弩の矢を模倣した三翼式の木製鏃を儀式に使ってる

纏向で歴然とした箆被アリ木鏃がある以上、金属製品だって箆被付けて悪いわけがない

そもそも箆被は矢の命中時に鏃が矢竹にメリ混んで殺傷力がダウンすることを防止する実用的な工夫だ
取り入れるのは武器の発展史上自然な流れだろう

大胆に言っちゃえば、公孫氏と交流した結果の技術イノベーションだな
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:54:15.15
>>646
>九州説といっても、関西の朝鮮部落民と有明海周辺民族だからな <

この大和説男も、また怖い男。
国民の過半数の大和説者に対して、
人種差別部落民差別のヘイトスピーチをするキョクウの・・・・仲間であるらしい。
怖い怖い。
・・・・大和説者は、人間ではない。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:55:38.46
>>528
>陳寿の地の文である「計其道里、當在會稽東治之東」だけであった筈。

真っ赤なウソ
二ヶ所出て来る「会稽東冶」も地の文
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:00:51.28
いくらキナイコシが「短里は中国の文献にない」と叫んでも、肝心の邪馬台国について書かれた魏志倭人伝が短里で書かれているのだからしょうがないよな。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:01:00.72
>>498
梁書では、台与のあとにまた男王が立ったと書かれ、そのあとに続いて賛の使節が朝貢する記述になっている。
倭では、倭奴国から一貫して倭國がいるとの記述だ。

もちろん、実際には、倭奴国は九州博多で、邪馬台国は筑後山門にあって盟主が変わっており、さらに5世紀には大和の王が盟主がになっていて、それぞれ国がことなっている。
梁書は、これらの国を一つの一貫した国であると混同している。
この混同は、後漢書の混同を踏襲しているものであり、間違いだ。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:03:24.44
>>532
倭人伝のどこにも、1里76.5mで書かれた記述は、ないけどな。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:03:29.75
>>421
>それまで区間ごとに順次書いてきたのに
>なんで突然出発点からに戻るんだ

里程の説明が終わったら、次は所要時間を日程で示すだろ。
一万二千里もあるはずなのに日数が小さいなあと陳寿も疑問は感じていたんだろうね。
実は一里が短いのではないかと疑い、そのために必要な日数も併記したんだよ。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:04:31.29
まあ、どんなウソをついてでもホケノ山の年代を前倒ししないと畿内説の死亡は確定だからね
無理もするさ
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:05:37.68
>>651
>>延喜講記の引用は、 (書紀記載を完全に否定するような)国内史料事実の、直接的転写引用であるから、 信頼性が高いが、
「延喜公望私記曰」は、 隋書の「自己解釈に拠る書き換え」文の
更なる後代文書の改変引用文になるから、半分×情報以下の価値しかない情報。<

>お得意の陰謀説でダブスタ史料抹殺だね。
「延喜講記」と「延喜公望私記」の違いを分かっているのかね?
希少な写本版《隋書》からの引用で、刊本より信用できるだろ。<

お前が提示した文で、史料批判して上げただけ。

>>>《史記正義》唐 張守節 撰(開元24年(736年)成立 )
卷一 五帝本紀第一 「武后改倭國為日本國」
卷二 夏本紀第二 「倭國武皇后改曰日本國」<

>>史記正義は、拙速であった、という事を示しているだけ。<

>お得意のダブスタ史料抹殺だね。 開元初の遣使とは開元五年(717年)到着の第九次遣唐使。
《史記正義》の成立は開元24年(736年)なのだから、まさに唐当時の記録。<

現在の議論と何の関係もない文だし、
これも、お前の提示内容に対する史料批判をして上げただけ。
大体、則天の決定事項など、唐会要で自明なんだから、何の価値もない。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:06:28.00
>>470
>倭人のことは信用できないとか書いてあるんだっけ

「日本国」から来た人は、尊大で信用できないと書いてある。
倭国から日本国への政権交代について嘘をついていたんだろうね。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:10:24.82
梁書では、台与のあとにまた男王が立ったと書かれ、そのあとに続いて賛の使節が朝貢する記述になっている。
倭では、倭奴国から一貫して倭國がいるとの記述だ。
倭奴国は九州博多で、邪馬台国は筑後山門にあって盟主が変わっており、6世紀まで一貫して九州が列島を代表しており、畿内は次点に留まっていたことがわかる。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:10:44.91
バカがどう喚き散らそうが

中国は日本側の資料を独自記録から精査してアメノタリシヒコ(用明天皇)と断定してる

日本の隠蔽も、信用できない言葉とやらも関係ない

中国自身が判断した記録がハッキリ記載されている

何度同じことを泣きさけぼうが大和=魏志の邪馬台国

九州説も九州王朝も中国は一切考えていない
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:12:57.90
バカ九州説の妄想が成立するのなら

アメノタリシヒコ(用明天皇)の記事は「日本側にあるはず」

ところがこの記録は「中国側にしかない」

つまり、中国が独自の記録から断定したものだ分かる

中国は大和の政権が邪馬台国から連続して日本の中心だったと考えているのが明白
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:12:59.87
筑紫の端っこなんかに邪馬台国はない
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:13:02.31
>>503
>>511
なるほどですね。
自分も、邪馬台国が奈良盆地だと言うのは最早動かしようがないと考えていますが、
ニギハヤヒと神武についてはどうお考えですか?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:13:06.86
>>659
>>「会稽東冶は陳寿執筆時には存在せず、建安東冶になる」事が判らず、<

>「東冶県は陳寿執筆時には存在せず、建安東冶になる事もない」事が判らず、
九州説信者が無知であり、アホであるゆえの間違い。<

あれあれ?、類スレ主が、また、
「会稽東冶→東冶県」という曲解の「引用インチキ」をやっている、
0545陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:15:36.44
>>543
は私、『陳寿90度回転さん』です。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:16:58.05
>>540
>中国は日本側の資料を独自記録から精査してアメノタリシヒコ(用明天皇)と断定してる

だからその判断が明らかに間違いなんだよ。
用明天皇の諡号がタリシヒコではなくタチバナトヨヒであることから、それは明らかだよ。
別人だよ。
用明天皇=タリシヒコという仮定に基づいて何を主張しても無駄。
魏志倭人伝を間違いだらけで信用できないというくせに、都合のいい記事だけ信用するなよ。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:17:25.96
>>660
小中高生が学校で教わってる「東西南北」の必修知識を
毎日毎日理由も言わずに 全否定の連呼をする事で
大和説が非常識なトンデモであることを おもいっきし宣伝してくれる
とても便利な広告塔  その名は類スレ主
またの名を人呼んで ウソコク・エブリデー
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:18:35.04
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:20:42.03
>>663
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
人種差別的政治的に殺戮戦争キョクウに偏向したトンデモ説だって、
自分で宣伝してるのか?
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:22:19.89
中国は日本から持ち込まれた王年代記を参考にしながらもそれをそのまま書き写すことをしていない

信用ならない部分、独自の記録が分かる部分によって修正を加えている
それが「用明天皇=アメノタリシヒコ」の記事
この記事は日本側に全くない記事

もし、日本側の意図なら「日本の方にその記録がある」ことになる
つまり、日本側の隠蔽も嘘も全く相手にしていない
むしろしっかりと独自の記録をもとに編集を行っているのが分かる

逆にこの事から分かるのは

大和=邪馬台国の記事は修正する必要がないと考えている事
王統の変化など起こってないの事

これが明らかとなる

九州王朝などと言う物は微塵もないのが明らかとなる
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:23:46.02
>>666
>ホケノ山出土の土器は、大型壺(瀬戸内系)、中型壺(東海系)、
加飾二重口縁壺(11)、小型丸底壺(4)は規格の個体差が大きい <

ふーん、成程。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:29:10.75
中国のこの編集姿勢を見れば真実は明らかとなる

・大和=邪馬台国
・平安時代に至るまで畿内の中心は変わっていない
・一大卒を配置されている九州は邪馬台国の時代から属国

中国は日本の情報も何も関係なくこの事実を理解して史書を描いている
九州王朝など影も存在しない
アホの妄想でしかないのが分かる
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:30:52.99
>>681
このように
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
いつも理由をまったく言わないで
「ワシの結論」だけ連呼する
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:34:44.54
>>696
そりゃウソをつくのはザラコクや九州説マニアだからな
0555陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:35:40.56
邪馬台国が九州である目など既に全くないのだから、
九州説の頑固なアマチュア老人の相手はほどほどにしておいて、
畿内説同士で議論した方が有益だと思うのですよ。

記紀の記述は神話とフィクションが混じっているので、もちろんそのまま史実ではないのですが、
史実の『痕跡』のようなものは残っていると思うのです。

例えば日本書記の箸墓古墳の記事は、箸そのものが崇神期には存在しないので、箸については完全なフィクションです。
とは言え『大阪山(二上山)から人間が手渡しで箸墓古墳まで石を運んだ』
(奈良盆地の端から端まで1〜2万人が並んで石を手渡した)や、
驚くべきペースで工事が進み『昼間は人が造り、夜は神が造った』は、日本書記が編纂された四、五百年の後世にまで伝わった、
忘れようがないほどの強烈なエピソードだったのでしょう。

また神武がヤマトに入る前に、同格の天孫であるニギハヤヒが既にヤマトにいたというのも、
ヤマト王権にとっては不都合なことですが、当時(日本書記編纂時)において記事として残さざるを得ないほど常識・一般的な認識だったのでしょう。

邪馬台国と、記紀や先代旧事本紀の記事について議論することは、決して無駄ではないと思うのです。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:38:44.20
>>554の訂正
そりゃ「南→東」などの嘘吐き騙しをするのは、
当然九州説者ではなくて、
ウソをつくのは皇国史観戦争に狂った大和説学者らや、
その弟子のキョクウ殺人狂の大和説者らだからな
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:42:25.90
>>700
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者らの心理
こうだったらいいな

いやこうに違いない

最初からこうだった
大和説のキチガイ学者らがら、
現実を都合のいい妄想と混同して思い込んでる様を見てると
異常者の精神状態がよく分かるサンプルとして面白いな
古代史どうのじゃなくて異常者の言動を知るための分かりやすいお手本になる
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:48:26.84
>>704
>あんた・・ さっき自分で
>何と言っても「自己解釈に拠る高慢な書き換え」の後漢書以後の唐代史家らも、
>同じような、「自己解釈に拠る書き換え」屋であるし、
と、ソレ全否定してるじゃないか <

当然、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
絶対断定とか全否定なんかは、しいないさ。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:53:44.03
>>555
邪馬台国と関係ないじゃん。
記紀のつまみ食いで邪馬台国にこじつけようとしても無理がある。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:54:22.74
敗者となったスレ主の悲痛な叫びが聞こえたような気がする。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:55:35.04
>>532
>いくらキナイコシが「短里は中国の文献にない」と叫んでも、肝心の邪馬台国について
>書かれた魏志倭人伝が短里で書かれているのだからしょうがないよな。

それただの循環論法ww
何よりも3世紀の東夷に「短里を使う人が一人もいない」

これをきちんと説明してから、短里があるって主張してくださいなwww
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 23:56:05.89
>>707
>また「こうだったらいいな」が脳内で「最初からこうだった」に変換されてるほら吹きがいる <

これ、どの投稿に対する話なのか?が分からんから、反論しようがないよ。

>思いきり系譜の上に用明天皇(アメノタリシヒコ)がいる
ついでに旧唐書には一大卒をタリシヒコが各地に派遣して支配してると書いてる
一大卒がいる九州は大和の属国だとハッキリししたな 良かったな<

旧唐書と新唐書が、同じ「タリシヒコ」の事書く筈がないよ。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:01:21.41
>>708
>魏の1尺=24.5cm。
1800尺=1里。
魏の1里=24.5m×1800尺=441m。<

これ、「1歩=6尺」の始皇帝命令の計算であり、
魏朝は、始皇帝の「1歩=6尺」の命令が混乱の原因だったと、
否認したのだったから、×ね。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:01:28.99
>>543
>ニギハヤヒと神武についてはどうお考えですか?

卑弥呼よりも100年単位で古い伝承だよ
記紀がまとめられた時点から見て古すぎるから、内容はそのままに信用はできない

卑弥呼の共立に九州が乗るために、卑弥呼の祖先に九州の血筋があると
いう物語が必要だったのかもしれない
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:05:12.08
>>537
>お前が提示した文で、史料批判して上げただけ。
史料批判出来る知識もないのに、「して上げた」とか迷惑の押売りだね。

>現在の議論と何の関係もない文だし、
併存or改号だろ。

>これも、お前の提示内容に対する史料批判をして上げただけ。
「して上げた」とか迷惑の押売り。

>大体、則天の決定事項など、唐会要で自明なんだから、何の価値もない。
《唐會要》は10世紀という後世の文献なんだが。
では改号でいいな。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:07:05.86
>>561
>何よりも3世紀の東夷に「短里を使う人が一人もいない」

魏志倭人伝で使われている単位が異様に小さいことは確かだよ。
事実から目を背けるな。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:08:20.19
>>546
>用明天皇=タリシヒコという仮定に基づいて何を主張しても無駄。

それは仮定ではなく、大陸側の断定
アメタリシヒコは諡号ではなく、アメが姓、タリシヒコが襲名される名跡と
大陸側が判断しているんだから、日本の記録の諡号と一致しないと言ってもそれこそ意味がない

いずれにしても、唐会要、旧唐書、新唐書の倭国伝の倭国が畿内大和朝廷なのは動かない
無駄なあがきだなw
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:09:18.41
>>564
絶対年代なんて確定できないさろ!
何が100年単位で古いだよ。
それでいて記紀の箸墓伝説は信用できると?
ダブルスタンダードじゃないか!
嘘つき!ペテン師!
0569陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:10:25.86
>>559
いや、邪馬台国は記紀や先代旧事本紀の記事中に、
何らかの痕跡が残っていると考えるのが自然でしょう。

例えばモモソヒメが卑弥呼の痕跡だとすれば、
崇神(みまきいりびこいにえのすめらみこと)は、弥馬獲支。
垂仁(いくめいりびこいさちのすめらみこと)は、伊支馬。
と、あまりにも都合良く同時代の人名が似かより過ぎている。

魏志倭人伝の記事と、記紀、先代旧事本紀は無関係ではないですよ。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:13:08.83
>>567
>アメタリシヒコは諡号ではなく、アメが姓、タリシヒコが襲名される名跡と
>大陸側が判断しているんだから、日本の記録の諡号と一致しないと言ってもそれこそ意味がない

意味不明
記紀を読めば、古代の天皇家に「アメ」が姓らしきものとして多用されている。
タリシヒコの諡号の天皇も複数いる。
しかしその中に用明天皇は含まれない。
中国が用明天皇=タリシヒコと比定しても、それは明らかに間違いなんだよ。
そんな明らかに間違った大陸側の記事を鵜呑みにして証明した気分になっても、無駄だということ。
まして、襲名される名前だなんて、向こうの史書にも書いてない。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:14:38.09
>>564
>卑弥呼よりも100年単位で古い伝承だよ
>記紀がまとめられた時点から見て古すぎるから、内容はそのままに信用はできない
>卑弥呼の共立に九州が乗るために、卑弥呼の祖先に九州の血筋があると
>いう物語が必要だったのかもしれない

そうそう。
同じ畿内説同士で、そういう話が聞きたかったんですよ。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:15:33.06
>>569
無関係ではないが、こじつけ先が間違っている。
魏志倭人伝の邪馬台国がそもそも畿内を指しているという根拠がない。
日中の史書で明らかに共通して登場するのは九州北部だけ。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:16:41.49
>>566
>魏志倭人伝で使われている単位が異様に小さいことは確かだよ。
>事実から目を背けるな。

それは晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げるために、
倭国の遣使を地の果てからの朝貢とするために距離が誇張されて盛ってあるから、という
誰も使う人のいない短里を捏造するより、分かりやすく単純な説明がすでにあるだろう

短里を知っている人も使う理由のある人も、3世紀の東夷世界には誰一人いないと
いう事実から目を背けて「短里はあるにだ」って虚しく言い続けているのが九州説なんだよw
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:18:19.33
>>573
>倭国の遣使を地の果てからの朝貢とするために距離が誇張されて盛ってあるから、という

理由はそれでもいいけどさ、結果として一里が短くて、その上で帯方郡から一万二千里の九州北部に邪馬台国があると書いてあるんだよ。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:18:54.16
>>529
坂出市角山東麓採集 三翼鏃(銅鏃)

検索欄に「館長だより第72号」と入力して検索し、画面の一番上の「館長だより第72号 邪馬台国図書館-FC2」を開く。

このサイトの最初の写真26には、箆被があるようにみえるが、どうか。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:19:40.60
>>558
>当然、不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
>絶対断定とか全否定なんかは、しいないさ。

「×だ」「ダメだ」とほぼ毎日書き込んでいる記憶は無いのか?
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:19:53.37
>>570
めんどくさいバカだなww

旧唐書でも唐会要でも、倭国伝の記事や登場人物がすべて畿内大和朝廷なんだから、
その辺を根拠にする限りは倭国=畿内大和で終了なんだよww
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:21:03.62
>>573
>短里を知っている人も使う理由のある人も、3世紀の東夷世界には誰一人いないと
>いう事実から

それは事実ではなく、あなたの勝手な思い込みです。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:24:15.99
>>568
>絶対年代なんて確定できないさろ!

ピンポイントで確定はしないが、現在の標準編年は多くの情報の整合性を追って
調整されたものだから大きくは動かないよ

あと、水月湖年縞を標準とした14C較正曲線が実用できるようになればもう一段精度が上がる
現状の編年が九州説には都合が悪いから、何が何でも否定したいんだろうけど、
すでにそういう段階ではない
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:28:13.50
>>575
だから中国式の弩の矢には当然あるだろう
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:29:28.50
>>563
否認したて、どこに書いてるの?
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:29:29.25
>>578
>それは事実ではなく、あなたの勝手な思い込みです。

だから何度も言うが、反論したかったら「具体的な根拠を挙げて論理的に論証」してくれ
一行書き捨ては無意味

公孫氏は漢人だから漢尺を使う
帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う

現地人は里を知らないし、短い距離単位がもし万一あったとしても、それを
何の注釈もなく「里」と同じ文字で表現することはないし、現地人には測量技術もない

さあ、3世紀の東夷世界には短里を知っている人も使う理由のある人も誰一人いない、に
反論したいならどうぞ!ww
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:33:02.22
>>577

あなたが畿内大和の記録だと思っているものの中には、筑紫倭国の記録が混じっているんですよ。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:33:21.51
>>566
>魏志倭人伝で使われている単位が異様に小さいことは確かだよ。

証拠もないのに確かで事実なんですか?
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:34:17.73
>>583
証拠でもあるの?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:35:10.70
>>579

土器の話じゃない。

>>564
>>ニギハヤヒと神武についてはどうお考えですか?
>卑弥呼よりも100年単位で古い伝承だよ

の話で、饒速日や神武の絶対年代はそう簡単に決まらないだろと言っている。
14C云々なんて関係ないだろ?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:36:40.79
>>582
>さあ、3世紀の東夷世界には短里を知っている人も使う理由のある人も誰一人いない、に

だから、それを言うならその根拠をそっちが挙げないといけないよ。
現に魏志倭人伝の一里が非常に短いのは確かなんだから。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:51:08.32
纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。

卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?

布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。

石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 

なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ

ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう

切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。

饒速日とどういう関係があるのか?

卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく

神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:51:35.65
中国史の日本

@台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている
A用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている
B宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛

・新唐書でも用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定
・筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定
・一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する
・倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定

※これらの記録は日本の記録関係なく独自の記録から記載しているので、
中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:54:32.82
・女王国「まで」一万二千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国
・1万二千里未満の九州諸国はタンリとか言う捏造距離をいくら喚こうが「女王国でさえもない属国」だと明記される
・旧唐書では一大卒とは属国に派遣される監視官だと明記され、九州が属国であることは【確定する】

これが真実
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:58:21.76
>>587
>現に魏志倭人伝の一里が非常に短いのは確かなんだから。

証拠も出さないで、なんで「確か」とか断定すんの?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:58:35.26
あと、アメノタリシヒコは用明天皇の名前と違うと喚いてるが以下の事は変わらず確定する

・一大卒は属国に派遣される監視官である事
・アメノタリシヒコの都は大和である事、そして邪馬台国と同じである事

つまり、アメノタリシヒコが仮に用明天皇であろうとなかろうと

【大和に都がある王の遣使】であり【その都は邪馬台国と同じ】である点に【変わりは無い】
その上、【一大卒が属国に派遣される監視官でそれがいる九州は邪馬台国の頃から属国】である点も【変わりがない】

最後の望みとばかりに「諡号が違うぅううう!!!」と泣きわめいてるが肝心の部分は【何一つ変わらない】

九州説も九州王朝も微塵も中国は考えてもないのが分かる
0593陳寿90度回転さん
垢版 |
2019/02/12(火) 00:59:08.74
継体以前は、王朝交代しまくりで、後の天皇のような男系でもない。実態としてはヒメヒコ制。
そして推古天皇と聖徳太子の時代になっても、またヒメヒコ制に逆戻りしたりしている。

記紀ではなぜかヤマト王権は神武以来ずっと男系になっているが、ヤマト王権の敵もまたヒメヒコ制。あるいは兄弟のペア。
とは言え宇陀のエウカシ、オトウカシの兄弟などは、弟のオトウカシがバアサンに女装したりして女性的なところがある。

ヤマトタケルも、身長3mで重たい鼎を持ち上げられるマッチョなのに、少女に女装して川上梟帥を刺殺したりしている。
明らかに1人の人間ではない。実態は男女のペア、あるいは複数時代の複数人であったと考えざるを得ない。

神宮皇后と武内宿禰も、ヒメヒコ制の変形だ。こう考えると、ヤマト王権が神武以来男系というのは、あまりにも不自然。

そうすると継体以前の記紀の記事は、建前上は男系として記述されているものの、実態としてはヒメヒコ制であったとして読む必要がある。
ここに、例えば一皇女にすぎないモモソヒメを卑弥呼に比定する余地が出て来る訳だ。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:01:18.38
分かるかな?能無し九州キチガイ

アメノタリシヒコが仮に用明天皇と違う人だったとしても何にも変わらないんだよ
アホが
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:02:04.48
>>580
三翼鏃は、スキタイ由来らしい。
クルガンから出るそうだ。

纏向遺跡の木製三翼鏃には、箆被がついてない。
銅鏃にもついてない。

その写真は、

「倭國について(5) 武器 Selfpit-1」と検索欄に入力して、画面の一番上を開く。

坂出市の三翼鏃は、箆被がついているように見える。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:13:48.10
>>593
そりゃ世界には男と女しかいないのだから、それを姫彦制などと勝手に呼べば、どの時代のどの人物でも理屈をつけることができる。
全くナンセンスだな。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:14:37.38
>>592
>【大和に都がある王の遣使】であり【その都は邪馬台国と同じ】である点に【変わりは無い】

妄想でしょ

>その上、【一大卒が属国に派遣される監視官でそれがいる九州は邪馬台国の頃から属国】である点も【変わりがない】

すでに何度も論破されていることをまた持ち出すか
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:17:37.78
泣きわめきながらアーアーキコエナイをしてる九州バカの姿が今日も最高に笑える
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:20:00.79
まぁ九州説が自分で持ち出してくる資料が全て自滅してる辺りアホすぎて面白い

旧唐書も新新唐書も全部九州説なんてありません
大和は邪馬台国の地で、九州は昔から属国でした!

ってのが清々しいくらいハッキリと明記されてるわけだからなw
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:27:13.73
仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうとなかろうと

・何度も使節が往来して現在も交流のある政権と同じ土地の勢力である事
・アメノタリシヒコ以前から大和に都を構えていた勢力である事
・アメノタリシヒコの都が邪馬台国と同じである事
・中国側は日本側の資料を基に修正する部分を修正しているので独自の編集をして精査していることが明らか
・一大卒は属国に派遣される監視官で九州は邪馬台国の時代から属国

これは何一つ変化してない事が明らかになる
もしかしたら大和の政権内での変化のようなものはあるかも知れないが九州なんて端から絡んでもいない
名前が違うと泣きわめいてのたうち回ろうが現実は同じ

邪馬台国は大和

九州説も九州王朝も最初から微塵も存在しない
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:27:51.91
>>598
>すでに何度も論破されていること

いつ誰がなんと言って論破?
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:30:31.31
結局のところ箆被なんとやらでホケノ山の年代を無理やち引き下げようという企みは
無残にも頓挫したわけだが
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:30:46.52
「ぼくちゃんが知らない」
「ぼくちゃんが認めない」
「ぼくちゃんがそう思った」

これが論だと思ってるのが能無し九州説
ぼくちゃんが認めない!と泣きわめいてるのが反論になると思い込んでるのが笑える

そろそろ呟きキチガイ辺りが湧いてスレ流す頃だろうなw
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 01:40:06.86
九州バカはいつもいつも「陳寿が書き換えを行った!」とかバカ丸出しの妄想を叫んでぼくちゃんの脳内のホラが正当とかのたうち回ってるのになw

1から10まで妄想しかない九州説がなにをほざくのやら
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 02:17:27.19
前方後円墳とは何か、ズバリ、トヨがの使者が266年に洛陽で見た、
司馬炎が行ったとされる、円丘方丘を合わせた冬至の祭祀を元に、
日本で再現されたものであり、即ち、前方後円墳がある時点で、
それは卑弥呼の次代よりも後の時代のものになるからだ。
初期の前方後円墳で、槨の無い棺による埋葬施設を伴うモノ、
つまり那珂八幡古墳か、石塚山古墳がトヨの墓であると考えられる。
これに槨を合わせた吉備とマキムクの古墳がその後の時代の古墳であろう。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 02:18:00.90
264年に司馬炎は魏から禅譲を受けて、皇帝となり、
晋を起こしている。
その翌年に南郊に壇を設けて、官僚や匈奴の単于を集めて、
皇帝就任のセレモニーを行った。

泰始元年冬十二月丙寅、
南郊に壇を設けた。在任中の百官及び南匈奴の単于ら四夷、
集まった者は数万人に及んだ。柴を焚き、上帝に報告して言った。

その翌年にトヨの使者が洛陽に着いて朝貢した時の晋の歓待の様子だが、

晋書 武帝紀 泰始二年(266年)

十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した。
南北の郊外で円丘と方丘とを合し、
冬至の祭祀と夏至の祭祀とを南北の郊外で合した。

わざわざ、南北の壇を合わせて、夏至と冬至の祭りを合わせてやって、
特別に歓待した訳だ。
この様な、過去に例を見ない南北の壇を合わせて、
夏至と冬至の祭りを合わせた祭りに感激した使者が、
その様子を帰国して再現させたのが前方後円墳なのである。
前方後円墳の円の部分は天壇であり、冬至の祭りを行う所である。
前方後円墳の方の部分は地壇であり、夏至の祭りを行う所である。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 05:38:29.35
>>587
>だから、それを言うならその根拠をそっちが挙げないといけないよ。
>現に魏志倭人伝の一里が非常に短いのは確かなんだから。

バカか?
魏志倭人伝の一里が短く「見える」理由も>>573で示してある
「それは晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐の功績を持ち上げるために、
 倭国の遣使を地の果てからの朝貢とするために距離が誇張されて盛ってあるから、という
 誰も使う人のいない短里を捏造するより、分かりやすく単純な説明がすでにあるだろう 」

短里があることを「具体的に根拠を挙げて示す」必要があるのは、
「短里がある」と主張している>>587の側だ

短里があるなどというのはもともと妄説であり、使う人がいないというのは常識で
さらに十分な説明もしてある

「公孫氏は漢人だから漢尺を使う
 帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う

 現地人は里を知らないし、短い距離単位がもし万一あったとしても、それを
 何の注釈もなく「里」と同じ文字で表現することはないし、現地人には測量技術もない 」

さあ、どこの誰が何のために短里で測定したのか、
「具体的な根拠を明示して」「論理的に論証して」くれ

できるものならな
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 06:20:57.42
>>709
>新唐書だと旧唐書で書いてる遣使も同一の物だとまとめて書いてる
つまり別の国だなんて全く考えてない <

別の国だったと知っているから、卑弥呼や倭の五王やタリシホコの事を書かなかった。
中国側が、大和王情報を初めて把握が出来たのは、梁書の扶桑國で、
その王名として「名國王爲乙祁」を記載し、これは、顯宗仁賢兄弟の「ヲケ、オケ」に相当し、
続いて、「欽明之十一年、直梁承聖元年」の情報も記載し、
次いで、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で、
初めて遣使を受け、
その後も、列島からの遣使は、しばらくは九州倭国使節と大和使節の混在遣使であったようで、
だから、中国側も記録や対応に混乱を起こしており、
「久之、更附新羅使者上書」頃まで続き、
白村江の後では「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」という事件も起こし、
中国側が、大和日本国を独立国としてはっきり認めたのは、則天から。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 06:39:29.55
>>710
>一大卒の記載は正確に言うと阿毎氏(天皇の氏と中国が考えている)が派遣してる
タリシヒコの所で初めて書かれた氏だから要は同じことだが
まぁどの道、一大卒がいる=属国 と言うわけだ <

大和王は、神武以来、倭奴國の阿毎氏の分家であり、
伊都国は、倭奴國が伊都国と奴國に分裂したようだから、やはり阿毎氏であり、
大和王の本家筋。
そして、倭奴國王や帥升らしき名前が松野氏姫氏系図にも乗っているから、
呉王夫差の後裔の姫氏の一部が、倭奴國と「合同(婚姻合同?)」していたようで、
そして、卑弥呼や倭王旨や倭の五王が「東海姫氏國」であったようで、
しかし、東海姫氏國が「倭国王哲」の後で臣下に下がって、
(名前から阿毎氏らしい)磐井が出ていて、その後裔が俀國の阿毎多利思北孤になった。
つまり、倭国王家も大和王家も阿毎氏。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 06:47:34.37
>>712
>五王の記録については南朝への遣使だから詳しく取り上げない <

(新唐書以外の)隋書も、旧唐書も、唐会要も、
卑弥呼や倭の五王の事を少し?触れているから、構わんよ。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 06:53:14.11
なるほど
フルタ説って完全に空想歴史ものラノベだよな
理解した
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 06:56:37.20
>>713
>>旧唐書や唐会要は、唐代直後史書であり、
「自己解釈に拠る書き換え」のような記載は見つからず、
ほぼ唐代内史料に準拠した書き方であるから、
「後代史書の自己解釈に拠る書き換え」なっていない。<

>おいおい
>>何と言っても「自己解釈に拠る高慢な書き換え」の後漢書以後の唐代史家らも、
同じような、「自己解釈に拠る書き換え」屋であるし、<
なんだろ? 唐代史家らも「自己解釈に拠る書き換え」屋なんだろ?
唐代直後から突然どうして変わるんだ? <

これまで、「後代の自己解釈に拠る書き換え」の多い史書として、
旧唐書と唐会要の名前を挙げた事はないよ。
そりゃ、少しはあるかも知れないが、殆どない。
それに対して、後漢書、梁書、隋書注や、太平御亂などは、酷い。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:05:24.63
>>613
>これまで、「後代の自己解釈に拠る書き換え」の多い史書として、
>旧唐書と唐会要の名前を挙げた事はないよ。

つまり理由なく不正に贔屓しているわけだね
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:30:55.54
>>608
> 倭国の遣使を地の果てからの朝貢とするために距離が誇張されて盛ってあるから、という
> 誰も使う人のいない短里を捏造するより、分かりやすく単純な説明がすでにあるだろう 」

これgs、短里が使われた理由というわけだ。
ちゃんと理屈が通ったな。
良かった良かった。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:32:13.08
>>590日本@名無史さん2019/02/12(火) 00:54:32.82
・女王国「まで」一万二千里、そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国
・1万二千里未満の九州諸国はタンリとか言う捏造距離をいくら喚こうが「女王国でさえもない属国」だと明記される
・旧唐書では一大卒とは属国に派遣される監視官だと明記され、九州が属国であることは【確定する】

相変わらずの近畿のうみそ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:37:02.42
「周七十里、高三十里」

周の定義がわかっていないな?山地、山脈の周ではないのだよ。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:45:36.67
>>597
>そりゃ世界には男と女しかいないのだから、それを姫彦制などと勝手に呼べば、
>どの時代のどの人物でも理屈をつけることができる。

ここからも九州説は逃げるのかよww
ただの男女ではなく、政権中枢を担う一対の男女で、権威(祭祀)と権力(政務・軍事)を
分掌するのがヒメヒコ制

男王が基本なら、神功皇后や飯豊青皇女、推古天皇の出る幕ではないはずだろ

上でエウカシ、オトウカシの「兄弟」と書いてる人もいるが、弟姫という語もあり、
これもヒコヒメだとする見解がある

時々名前を出す住吉十楽氏の「おもしろそう紀」では、仲哀死後の神功皇后との
ヒメヒコのヒコ王に五百城入彦皇子を想定している

>全くナンセンスだな。

理由もなくただの一行否定に逃げるのが九州説のデフォw
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:46:40.56
そもそも帯方郡と女王国のあいだが都合よく1万二千里であったわけはない。
まず最初に両間を、遠いという慣用句の「1万二千里」と定め、
それから、中を小分けしたのさ。
(短里で計って積み上げたものではない。短里はフルタの暴走)
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:53:54.92
で、実際に郡使が行ったら、一万千里で奴国に到着したわけだ。
倭とはかつての倭奴国である、という記載通り。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:55:43.09
>>615
>これgs、短里が使われた理由というわけだ。
>ちゃんと理屈が通ったな。

本当に低能だな
「誇張されている」というのは、「短里などなく」
「実地とは関係ない数字が書いてある」ことを示しているんだぞww

短里は使われていない
魏晋里で誇張された数字が書いてあるだけ

誇張された分、 実距離との対照を取れば「見かけ上」短く「見える」だけ

でも、誇張時にキリのいい数字を置いているだけだから、現実の距離との対応はなく
区間毎に1里の長さが適当に増減する

誇張を認めるというのは、九州説の大事な主張の
1.短里はある
2.短里で正確に測量した
3.倭国までの萬二千里は正確
がすべて否定されることになるんだよ

まあ>>615がバカをさらしただけだな
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 07:59:01.55
>>617
>周の定義がわかっていないな?山地、山脈の周ではないのだよ。

では、その「正しい周の定義」とやらを教えてくれるかな?wwwww

介山のどこが周5キロメートルなんだ?ww

ほれ、説明してごらんww
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:00:43.10
>>620
>で、実際に郡使が行ったら、一万千里で奴国に到着したわけだ。

そして、邪馬台国へはそこからさらに水行30日、陸行一月の彼方な訳だww
九州では水行路すらないw
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:02:40.25
>>621
全体を誇張してあるので、パンツのゴムひものような関係だ。
どこをとっても似たような伸びちじみの率であることにかわ里はない。
これを否定するのも、又暴走・・・。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:03:13.46
>>715
>前方後円墳の形状は、中国の『天円地方』説に基づいている。
つまり、前方後円墳が最初に出現する場所は、
『当時の中国の最新の世界観や天文学を、最も早くから、最も太く受容した場所』
と言うことになる。
貿易、外交、文化受容において、当時の中国と最も結びつきが強かった場所。
それがイコール『前方後円墳が出現した場所』だ。
その中国文明受容の中心地を治める女王と、九州の片田舎の女酋長。
実際に邪馬台国まで来た魏使様が、『親魏倭王』の金印を与えるのは、
前者しかあり得ない。<

弥生銀座の那珂八幡などしか有り得ない。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:08:58.81
>>716
>用明天皇(アメノタリシヒコ)は新唐書にハッキリと歴代天皇の系譜に載ってる
北朝の系譜の隋唐は北朝の外交記録を引き継ぐ必要がある
なので北朝側に日本が来た時の記録を残す<

北朝側の隋書は、俀國(倭國)側の卑弥呼や倭の五王や、
姓阿毎字多利思北孤を記録に残している。
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:12:18.50
>>620 >>623
お互い間違い同士、ガンバレー
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:15:52.09
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:16:10.11
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:19:35.37
>>725
>九州バカがどう泣きさけぼうが
中国側が日本の記録と突き合わせて遣使を用明天皇であると断定してる<

用明が遣使だ、なんて書いてないよ。「直隋開皇末、始與中國通」だけだよ。

>日本側の記録を見ても「同一人物の遣使である」と認定している記事
動かしようのない事実 <

書紀も、用明だ、なんて書いてないよ。
書紀は、大業3年の小野妹子だし、
延喜講記も、開皇末も小野妹子だよ。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:19:40.03
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったのだな。。。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:24:04.91
>>624
>全体を誇張してあるので、パンツのゴムひものような関係だ。
>どこをとっても似たような伸びちじみの率であることにかわ里はない。

これが、何一つ根拠を挙げない、ただの思いつきであり脳内妄想の類いにすぎない
短里などなく行程の大部分は測量すらされていないし、測量可能な陸行部分も、
一里当たりの距離がデタラメ

>これを否定するのも、又暴走・・・。

否定は、実距離との対比というガチ証拠からの論理的否定だよ
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

短里は妄想だよ
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:24:52.77
>>729
>中国側に対して別の名を遣使で名乗る事は倭の五王の件でも見受けられる <

そんなアホな事はしないよ。
倭の五王も、当然「臣下として中国から与えられた身分称号と姓名を名乗る。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:31:41.70
>>731
>アメノタリシヒコ=用明天皇

アメノタリシヒコの都=魏志の邪馬台国

邪馬台国は最初から大和 <

間違い。
魏志の邪馬壹國は、筑紫であり、姓阿毎字多利思北孤の都があった。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:44:06.33
>>631
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったことが判明し、
このスレッドは、優れた人物たちが、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達を揶揄うためだけのスレッドになってしまったね、、、
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 08:50:35.01
>>733
>そして一大卒については新唐書だとちょっと呼び方が違うが旧唐書と同様の記事が見える
全国に本卒を置いてこれを検察せしむ、とな <

旧唐書倭国伝:倭國者古倭奴國也・・・四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國
新唐書日本伝:日本古倭奴也・・・左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、検察諸部・・・其王姓阿毎氏
つまり、倭国も日本国も阿毎氏であり、
筑紫の(伊都国の)阿毎氏が一大率であり、
大和州の(神武後裔の)阿毎氏が「本率」と呼ばれた、って話。
つまり、本率とは、「東征毛人五十五國」の軍であり、大和はその中の一国。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 09:15:07.38
>>625
若干違うんだが、前方後円墳という
特殊な形状がどこから来たのかが、
晋書にハッキリと書かれているのだよ。

晋書 武帝紀 泰始二年(266年)

十一月己卯、倭人が来てその産物を献上した。
南北の郊外で円丘と方丘とを合し、
冬至の祭祀と夏至の祭祀とを南北の郊外で合した。

この266年に、トヨの使者を洛陽の南北それぞれの郊外の、
円丘(天壇)と方丘(地壇)を合わせて、
冬至と夏至の祭り事を合わせて行った行事、
コレを再現したのが前方後円墳の起源であり、
即ち、前方後円墳の存在が、266年以降を示している訳だよ
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 09:15:19.53
>>632 名前:日本@名無史さん 2019/02/12(火) 08:24:04.91
>否定は、実距離との対比というガチ証拠からの論理的否定だよ
狗邪韓国(プサン)ー対馬国     100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐)       70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津)    50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

全体を誇張してあるので、パンツのゴム紐が伸びた君になってる、
m/1里がばらばらということは、この比定地自体が間違っていることの何よりの証拠。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 09:31:03.98
>>596
ん〜、
ホケノの銅鏃とは篦被の形が違うね

ホケノは多くの銅鏃に篦被があり、形が揃っている
篦被の形は特徴的
どこからの文化なのか?

箸墓の馬具もそうだけど、簡単に最古にするのは賛成しかねるので、
せめて、小松古墳と同時期の布留0〜布留1以降とすべきでは?

後、落ち込みに関しても、主体部から出土した物を除外するのはいかがなものか?
埋葬時の物と考えるのが当然と思うのだが

銅鏃と主体部の小枝C14と布留式小型丸底土器から、やはり3世紀末〜頃と考える
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 09:39:38.03
>>638
>全体を誇張してあるので、パンツのゴム紐が伸びた君になってる、
>m/1里がばらばらということは、この比定地自体が間違っていることの何よりの証拠。

こちらの比定地が間違っているというのなら、そちらが正しいと考える比定地と
正しくパンツのゴムが伸びた距離を示して見せればいい

具体論なしのイチャモンは無意味と何度言えば分かるかな?

まあ、具体的な比定地を挙げた瞬間に、火だるま瞬殺にされるのが分かっているから
具体論を出さずに逃げ回っているのだろうけれど

そうではないというなら、具体的な比定地と、正しい里程を出してごらんww
伊都ゴルフクラブとかまた言い出すのかな?ww
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 09:56:52.62
>>640
タンリ、タンリと騒いだ割には、フルタ自らの比定地はトンデモ・オソマツ君だったわけだ。
ただ、そのフルタのトンデモ比定地や糸クズゴルフクラブ説をもとに、
魏志倭人伝の里は間違っているゾー、と叫んで回るのも、これまた大暴走、、、、。
そもそもの大三国志をけなしてはイカン。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:00:51.85
>>639

お前の感想年代は意味ないから
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:07:38.29
>>739
>ちなみにこれも九州説が大好きな新唐書に 「神武以降に大和に移る」と
神武東征伝説を引用したうえで「用明天皇が記紀の代数通りに登場する」
はい、用明天皇は大和にいますね<

構わんよ。
記録された用明の亦の名は「目多利思比孤」。
「目」は、大目付や目付や目明しの「目」であり、
物部の系図にも何人かに「目」が付けられ、
検察の役目の「率」の事。
それが、阿毎氏の伊都國と大和にいたんだから、
一大率も本率も、阿毎氏がなっていた、という事。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:13:19.98
>>639
>篦被の形は特徴的
>どこからの文化なのか?

考えるのは勝手だが、年代を引き下げる理由にならんだろ

それに布留式小型丸底土器が出てるなんて誰が言ってるんだ?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:14:20.77
九州説と呼ばれる諸説は、学者でもないのに
所謂、各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがない「肥後の鍬形」民族タイプ
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:18:21.86
>>645
ほう、九州のなかでもお気に入りは肥後説ですか、
なるほど。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 10:56:21.80
九州説の中じゃ、どこが一番人気なのかね
北から伊都国=邪馬台国説、博多だ説、大宰府だ説、宇佐だ説、熊モン説、肥後だ説、宮崎説
まだある?
過半数取れる説あんの?
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:05:41.77
>>743
>神代から日向三代まで日向の筑紫城にいた

神武天皇がヤマトに移った

用明天皇(アメノタリシヒコ)
・用明天皇の都は大和
・魏志の邪馬台国と同じ都
となるわけだ <

ならんよ。
阿毎氏は、伊都国でも大和でも単なる「率」の身分であり、倭国の倭王の身分ではなかった。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:09:42.97
>>747
>常治伊都国と書いてあるでしょ 九州説は漢文読めないの?<

一大率は、天孫族の阿毎氏系であり、伊都国も治し、地方の国の検察もした。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:13:05.37
>>749
>いや別にどうでもいいのだが、 純粋な興味として、 隋書の記載も倭人伝のと一緒で、
壱岐対馬から九州までが詳しくて、そこからはるかはるか東への道のりがよくわからん。<

魏使らも隋使も、九州北岸の不彌國や秦王國から、東へは行っておらず、
(北は海だから)「南」へ行った。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:38:52.48
>>650
「南」へ行った?

そんなこと史料に書いてないだろ
捏造歪曲はいかんね
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:41:34.87
>>649
>一大率は、天孫族の阿毎氏系であり、

そんなこと史料に書いてないだろ
捏造はいかんね
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:42:17.81
>>771
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
書物一つを珍解釈するようなバカの集まりだから大和説なんだろうな
好き勝手なバカ読みで説が成り立つと思ってる程度のバカだから平気で
普通なら自殺ものの恥かいても、気が付かないんだろうよ

>中国は日本の勢力がずっと畿内にあると認識している<

中国は、九州倭国が白村江まではずっと盟主であった、と認識している。
一大卒は地方に配置された(目付や目明しのような)検察官。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:43:22.96
>>648
>阿毎氏は、伊都国でも大和でも単なる「率」の身分であり、倭国の倭王の身分ではなかった。
>大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であった。

そんなこと史料に書いてないだろ
捏造はいかんね
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:44:43.25
>>653
>中国は、九州倭国が白村江まではずっと盟主であった、と認識している。

そんなこと史料に書いてないだろ
捏造はいかんね
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:44:44.52
九州説の中には、
熊本・高千穂は安物神社だらけだー、
といって、真っ先に否定した安物説というのがあってな・・・、、
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:45:01.30
>>777
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は
どんどん異常な隘路に入って行くなぁ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:45:52.88
>>656
それはまた格別に安っぽいな
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:49:20.62
>>785
やはりアヤシゲ怪情報だったか、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のヘイトスピーチ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:52:35.46
捏造に次ぐ捏造だな九州説
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:53:35.64
>>788
>アメノタリシヒコの都は【魏志の邪馬台国と同じ】<

用明は、アメノタリシヒコではないね。
亦曰「目多利思比孤」。
「目」だから、一大率や目明しのような身分。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 11:56:38.26
>>791
その「詳しく」書いてある筈の、九州→大和の記事が
百年たっても見つけ出せなかった大和説が
頓挫して消滅したのは当然だな
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 12:07:45.25
>>814
>>隋書においてすら、
壱岐対馬やらの北部九州倭国までの道のりが記載されているからだよ<

そして・・・「自竹斯國以東、皆附庸於俀」は「皆」だから、
そこには「俀の都」がない。
隋使は行かなかった。
そして 大和説は死んだ
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 12:24:53.71
>>663
>そして・・・「自竹斯國以東、皆附庸於俀」は「皆」だから、
>そこには「俀の都」がない。

九州説の人はいつも日本のがおかしいな
江戸から見れば箱根の関から手前が「皆」関東だ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 12:28:54.04
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 12:29:34.18
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったことが判明し、
このスレッドは、優れた人物たちが、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達を揶揄うためだけのスレッドになってしまったね、、、
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:04:57.08
>>656

九州は、倭人伝に従属諸国として書かれた壱岐、対馬、筑紫の他は
律令時代に朝鮮統治時代くらいの式内社数しかない
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:09:36.85
伊都の官であった禰宜が邇邇芸らの天孫族の末裔だろう。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:10:37.42
弥生後期に100名近い殉死が認められる墓って祇園山古墳しかないだろ?
卑弥呼の墓は祇園山古墳でほぼ確定ですわ。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:11:43.79
>>619
>まず最初に両間を、遠いという慣用句の「1万二千里」と定め、
>それから、中を小分けしたのさ。

それでもいいよ。
それで帯方郡から七千里で狗邪韓国、さらに三千里で対馬海峡を渡っている。
残り二千里では九州を出ない。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:29:03.16
従属国の伊都國の官の爾支は濊系民族新羅の首長を表す尼師今だろう
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:30:58.62
>>669
>弥生後期に100名近い殉死が認められる墓って祇園山古墳しかないだろ?

祇園山古墳周りの墓地を循葬・殉死だと思っている時点で情弱
その墓坑が、祇園山古墳を作るときの地山整形で上部3分の一くらい
削られちゃってるのがあるんだよ

殉死者を葬ってから、その墓を破壊してメインの墳丘墓を作るって
ありえないことくらい日本人なら判断できるよな?

そもそも埋葬順序がおかしすぎることになる
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:32:12.59
>>670
いい加減に、短里も縮尺もないことを認めなよ

短里を使っていた人がいるという論証義務から逃げてるくせにww
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:34:38.22
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったことが判明し、
このスレッドは、優れた人物たちが、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達を揶揄うためだけのスレッドになってしまったね、、、
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:35:23.02
>>672
別にそれでええやろ。
何が問題何や?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:36:10.23
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:37:34.71
魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実は、魏志倭人伝時代の討論にどのような反響を、起こすのだろうか。。。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:39:35.37
>>675
>別にそれでええやろ。
>何が問題何や?

殉死、殉葬は、メインの墓を作ってから、埋葬するものだって分からないのかな?
メインで埋葬される地域首長が死ぬ前に殉死者を埋めるってありうると思うのか?

死んだあと、墳丘を作る前だというかもしれないが、地山整形で削るところに
殉死者の墓坑を掘るというのはありえないだろ?

これが問題ないと考えるということは、まともな日本人じゃないということでOK?
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:43:07.29
先ずさあ、一つの墳坑が削られてたぐらいでギャーギャー言わない。
重臣が先に死んだとか考えればいいだけ。
当時の殉死から埋葬までのプロセが、
この様になっているのだななるほどと認めればいいだけ。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:45:58.85
>>667
三世紀には、九州に「倭国」という強大な政治体制、政治地図があった。
まさにそれが、卑弥呼〜臺与の「親魏倭王物語」であったわけだ。
しかし応神のころ、九州倭国から大和日本国への政治軍事経済のシフトが始まり、
九州は廃れていった。
律令時代とは、大和中心の支配体制に変わったことを大々的に宣言したものであるから、
それまでの九州の神社が大記録として残されることはなかったのであろう。
後世の九州が、見た目、安物の神社・遺跡だらけだったというのは、ある意味その通りかもしれぬ、
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:47:20.26
>>679
そんなオマエのああ思うこう思うはどうでもいいんだが。
我々は弥生後期の100人以上の殉死の認められる祇園山古墳の発掘結果を見て、
当時どのように殉死埋葬が行われたかを知ればいい、
ただそれだけの事だ。
最初から、オマエが「ボクちゃんの思う殉死論」なんて振りかざして、
実際に弥生後期に行われた殉死埋葬の事実から読み取れる当時の状況を
否定する事がバカげた事だわ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:51:00.97
実際に墓の上に墓が作られているのに、
墓が削られて墓が作られるなんてありえないとかバカか??
我々が言える事は、弥生後期に墓が削られて墓が作られる事があったという考古学上jの事実だけだ。
オマエこそまともな人間か??
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:54:42.40
>>683
>実際に墓の上に墓が作られているのに、

この時点で、まともな日本人は下敷きにされた墓と下敷きにした墓の間には
関係がないと判断するんだが?

発掘報告書でも、殉死・殉層とは判断されていない

民間の研究家が勝手に殉葬墓だ、卑弥呼の墓だと喚いているだけ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:57:51.61
>>682
>我々は弥生後期の100人以上の殉死の認められる祇園山古墳の発掘結果を見て、

この「我々」というのが、情弱集団ってだけだろ?
「100人以上の殉死の認められる祇園山古墳の発掘結果」これが本当にデタラメ

殉死とは認められていないし、周囲で確認された墓坑も62基だったはず
情弱が、自分に都合のいい情報だけを見て舞い上がっているだけ
情弱チェリーピッカーの典型w
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 13:58:49.93
>>684
そんな判断はオマエだけだ。
しかも、差し違えの埋葬を、報告書に殉死と書いてないから殉死じゃないーて、
フザケルナっていう話だな。
お前の言い方じゃ、マキムクが邪馬台国だと明記した報告書は無いから、
マキムクは邪馬台国ではないな?
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:00:57.96
>>685
オマエのああ思うこう思うはどうでもいいんだよ。
我々は殉死を確認できる考古学的な発掘事例を見て、
この墓が殉死を表す墓であるなと認識する、
ただそれだけの事だ。
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:02:42.31
>>681

九州の有明海異人コマビトは作り話を根拠にする特徴がある
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:03:40.48
>>685
バカか?
墓坑が62基で、そこに埋葬されている遺体が100体以上。
まあ、刺し違いの遺体があることも知らない情弱が、
報告書に殉死と書かれていないから殉死じゃナインや!
って言ってるだけじゃねーかwww
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:07:46.67
殉葬は遊牧騎馬民族の風習
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:10:34.99
弥生の古墳で、いわゆる刺し違いの2体が出土した例は、
平原遺跡と祇園山ぐらいかな?
しかも祇園山は殉死の規模が大きい。
伊都国の規模と邪馬台国の規模から見ても、
16体対100体というのは魏志倭人伝の記述とも整合性が取れる。
マキムクに刺し違いの2体が出る可能性はほぼ無いだろう。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:15:31.58
平原遺跡の刺し違いの2体が出土した例って何?
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:17:53.88
>>670
>残り二千里では九州を出ない。

出ない、という理由は?
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:20:36.85
>>689
>報告書に殉死と書かれていないから殉死じゃナインや!
>って言ってるだけじゃねーかwww

ちがうな
時代の幅がありすぎるから殉死じゃないと言っている
理解力ゼロの人か
かわいそうだな
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:22:12.51
何年や。
それは確定した事実か。
テキトーなことを行ってたらただじゃ済まんぞ。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:30:20.32
祇園山の殉死の特徴に、女性の遺体が多いというものがある。
上位を示すだろうと考えられる石棺墓から、
女性の巫女と考えられる異体が出土している。
これから考えても、会合で父子や男女の区別はないという、
邪馬台国の記述を反映する墓といえよう。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:36:34.63
>>695
須恵器が出てる
お察し
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:37:03.70
祇園山の女性人骨は一号甕棺だけじゃね?
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:37:30.01
>>696
>祇園山の殉死の特徴に、女性の遺体が多いというものがある。

怪情報?
ソースは?
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:41:54.11
>>700
有名だが、それがどうかしたか?
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:42:36.27
>>687
>我々は殉死を確認できる考古学的な発掘事例を見て、
>この墓が殉死を表す墓であるなと認識する、

バカはと話が通じないというのを実感するやり取りだなww

「我々」とかいう情弱さんたちの間ではそうなんだろうなとしかw

実際に考古学的な発掘調査を行った専門家が「殉死だとは判断していない」のに
その専門家よりも「自分たちの方が賢く適切な判断ができる」と意味もなく
思い込んでいる人たちの勝手に作った脳内ストーリーで、殉死100人超とか言ってるww
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:43:34.60
>>686
>お前の言い方じゃ、マキムクが邪馬台国だと明記した報告書は無いから、
>マキムクは邪馬台国ではないな?

纏向遺跡は日本の都市の初現とする報告書があるから、纏向遺跡は
日本最初の王都であるということでいいな?ww
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:44:28.07
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったことが判明し、
このスレッドは、優れた人物たちが、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達を揶揄うためだけのスレッドになってしまったね、、、
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:44:47.58
>>689
>墓坑が62基で、そこに埋葬されている遺体が100体以上。

ほとんどの墓坑では、骨も残っていないんだよ
それで遺体が100対以上とか、脳内お花畑というより、脳内遺体祭りだなww
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:46:13.18
>>701
>有名だが、それがどうかしたか?

では、なぜ有名なのか、まで理解しているか?
まあ、理解していたら、祇園山古墳周りの弥生墓地を殉葬だとかは妄想しないだろうけれど
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:46:44.39
九州説は
しゃべればしゃべる程に
日本語のヘタさが浮き立つなあ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:49:38.05
>>691
>平原遺跡と祇園山ぐらいかな?

平原1号墓まで出してきたかww
平原1号墓の殉葬墓(笑)が、1号墓より少なくとも数十年単位で
遅く作られているのは理解しているか?

しかも、1号墓の周溝の内部にまで土坑が掘られてるのは知ってるのか?w
埋葬主体の安眠を脅かす、墳丘の毀損行為を数十年以上後になって行う殉葬墓が
あると、>>691は考えているんだよな?wwwww
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:51:43.25
>>706
おいおい誤爆
>>683は古い弥生墓を削って上に古墳を築くことがあると言ってる
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 14:58:29.81
そもそもk1墓は布留I中・後期だから
もともと話にならなくね?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:15:16.90
>>708
それがどうした?
3・4号墓の殉死でいいだろ。
バカか??
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:18:20.96
先ず祇園山の下の墳丘は上の方墳に対してそれほど古くない訳。
というか、下に新しいのもある。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:20:29.65
>>709
祇園山がどうこう言っている人と同じかどうかは分からないけれど、
原口古墳の説明をしておく

原口古墳は、古墳なのに甕棺墓が出たというので、有名になった古墳
甕棺墓と古墳時代では100年単位で時代がずれるので、何が発掘されたのかということで
大きな話題を呼んだ

だが結論としては、弥生時代の甕棺墓の上に、甕棺墓の存在を無視してその上に
古墳時代になってから原口古墳が作られたと考えられている

つまり、甕棺墓が作られてからの時間経過で、そこに甕棺墓があることが
忘れられ、認識されなくなっていたと考えられている

祇園山古墳も同様に考えればよい
弥生時代の土坑墓、甕棺墓のある墓域に、その存在を無視して地山成形の基盤造成が
行われ、方墳が作られた「だけ」だ

周囲の弥生土坑墓、甕棺墓と、祇園山古墳の間に、主従、主墳+殉葬の関係を
見出すことはできないし、専門家も殉葬とは判断していない

それを、殉葬に違いないと思い込んでいる脳内お花畑の一群が世の中には存在しているだけ
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:26:08.88
>>713
お花畑家というよりは、
殉葬といい続けなくては体面にかかわり、メシも食えなくなるんだろな
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:26:40.29
>>711
じゃあ平原1号が卑弥呼の墓だという奴に
バカだと言ってやれよ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:27:01.96
>>713
あなたが原口古墳を前提に、
祇園山古墳を間違えて考えている事が分かった。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:28:33.93
>>715
先ずオマエがバカだから。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:30:05.41
>>711
>それがどうした?
>3・4号墓の殉死でいいだろ。
>バカか??

平原遺跡の構成を理解していないんだろうなぁ
3・4号墓は、副葬品もほとんどない小さな墓で、3号簿で径8メートルくらい
4号墓で径5メートルくらいの小さな周溝墓だ
殉死・殉葬の対象になるような有力者の墓とはみなしようがないぞ

しかも、3・4号墓の殉葬だとして、なぜ1号墓の周溝及び墳丘内に土坑墓を作るんだ?
3・4号墓は、1・2号墓の次の世代の墓と考えられているが、親世代の墓を毀損する理由がないだろ?

言い訳にもならないデタラメを書くのは止めなww
平原遺跡の配置 https://i.imgur.com/2USE18b.gif
1号墓周りの土坑墓 https://i.imgur.com/bzIw7Aa.jpg
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:32:22.47
「周七十里、高三十里」

周の定義がわかっていないな?山地、山脈の周ではないのだよ。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:33:07.57
>>676
>>670は、邪馬台国の怪なの? 古田死学の会なの?
>どっち?

そりゃ何じゃい、
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:33:49.95
>>719
中身がカラの人と見ました
違いますか?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:34:52.67
>>719
>周の定義がわかっていないな?山地、山脈の周ではないのだよ。

だから、その「正しい周の定義」とやらを説明してみてよ(2度目!)

なんにせよ、>>719は短里があるという立場なのだから、周70里は5キロ程度にしかならない
介山のどこが周5キロなのか、説明してみて欲しいなwwwww
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:35:53.67
>>721
妖怪のたぐいさ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:36:37.73
先ず原口古墳からは殉死を示すような遺体が出土していない。
槨のある前方後円墳で、時代もかなり違うのは明らかだ。
これを祇園山古墳と同じとして考えろというのは明らかに無理がある。
上部の方墳の前の時代の墓もあるが後の時代の墓もある。
それはそれほど次代は離れていない。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:37:11.85
九州説は具体的なこと言ったら終わりだからな
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:37:55.74
>>721は、九州説なんだろうけれど、邪馬台国はどうなったと考えているんだ?
その考えは、どこから来た考えなんだい?
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:39:40.94
>>726
>これを祇園山古墳と同じとして考えろというのは明らかに無理がある。

祇園山古墳も段築、葺き石を伴った古墳時代の方墳なんだけど?
方墳と前方後円墳で時代が異なるなんていうことはないぞ?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:40:33.71
このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した出来栄えの劣った脳を持つ宣伝係員だったことが判明し、
このスレッドは、優れた人物たちが、このスレッドで邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人達を揶揄うためだけのスレッドになってしまったね、、、
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:44:28.35
九州説の人は祇園山古墳に夢を見すぎw
径百歩に全然足りない墓を卑弥呼の墓にしようとしても最初から無理だってば

しかも九州説は、「径」だから円墳に決まってるから前方後円墳じゃないって
言うくせに祇園山古墳は方墳ww
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:44:46.90
魏志倭人伝
「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳」
「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ・・・ 常治伊都国」
邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 〜〜〜』を説明できない。
女王国が大和にあれば以北に在る伊都国などは山城・近江・若狭あたりになければならない。
以北を「以西」にすると遠方の対馬・壱岐・末蘆・伊都などの戸数・道里が略載できて、その手前の吉備・播磨・河内などの詳細が得られないのは理解に苦しむ。
手前の国々を通過することは必須です。吉備を出雲にかえても同じことです。女王国が大和にあれば吉備や出雲は重要です。
また、以北を「以西」にすると一大率の検察範囲が山陰・山陽・四国・九州地方にまで及んで伊都国に居る一人の大率には広すぎる。当時は乗馬の習慣は無い。
移動手段の整った現代でさえ検察・警察は都道府県に設置されている。
大和の「以南」は紀伊半島になる。「以東」は東海・関東になる。
つまり女王国が大和にあれば東西南北すべてが説明できない。これが邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:46:25.59
>>728
天から下ってきたが、大邪になってまた天へ帰って行ったのさ。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:47:27.16
魏志倭人伝
「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」
女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。畿内説では説明できません。単純な話です。
(「水行」だったら許してやるけどね)

邪馬台国と大和朝廷は別物ですから、邪馬台国畿内説は有り得ません。
「邪馬台国が大和朝廷になった」との仮説がありますが、それなら大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっているはずですがそうではありません。
魏志倭人伝には、卑弥呼の死後男王を立てたが国中は服せず次に13歳の少女壱与を立てて国中が定まったと記されています。
卑弥呼や壱与の名はモモソ姫でもヤマト姫でも構いません。倭国乱⇒卑弥呼共立⇒卑弥呼の死⇒男王⇒国中不服⇒13歳の壱与と大きなイベントが連続しているのですが、
記紀には何も記されていません。
日本書紀の神功紀39年・40年・43年の条の割注に魏志を引用して神功皇后を卑弥呼に擬していますが、魏志を引用するしかない事が大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっていない証拠です。
邪馬台国の伝承が伝わっていれば割注ではなく本文に、その伝承をそのまま記せばよいのですから。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:49:04.77
前方後円墳の時代を古くしようとする動きがある様だな。
舐めた話だ。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:50:13.63
箸墓古墳の築造年代を西暦240〜260年ごろとする国立歴史民俗博物館の(一方的な)発表は学会で承認されている訳ではありません。
毎日新聞 2009年6月1日
「箸墓は卑弥呼の墓」(暦博年代測定 信憑性疑問も)
発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。
(新聞記事は東京都立中央図書館などの新聞縮刷版で確認できます)
従来、箸墓の築造は4世紀とされていた。箸墓の周濠から4世紀の木製の鐙(あぶみ)が出土している。鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:51:18.99
>>732
>邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 〜〜〜』を説明できない。

ひとの説明聞かずに「説明できない」って
確実に馬鹿だよね

生まれつき可哀想な人かな
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:51:53.64
大塚初重「邪馬台国をとらえなおす」(講談社現代新書)223ページに『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から〜」と発表している。』と書いてある。
仮に箸墓の築造を西暦240〜260年とすると、30年後も40年後も3世紀で、4世紀の鐙の出土は無理です。鐙の問題もまた邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:53:24.73
纏向周辺には古代の天皇の宮が在ったのだから、いきなり卑弥呼の宮殿ではなく先ずは天皇の宮を考えるべきです。
考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:56:33.89
>>736
>従来、箸墓の築造は4世紀とされていた。箸墓の周濠から4世紀の木製の鐙(あぶみ)が出土している。鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。

なのに、学者が誰もそうしないのは何故だと思う?

それはね
コーラ缶が仁徳天皇陵の周濠内に投棄された遺物なら仁徳天皇陵は20世紀の築造とするべきだ
と考えるチエオクがいないからだよ
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:58:44.15
>>739
>考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
>景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。

そんなこともあって森浩一は弟子たちにすら見捨てられた
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 15:59:34.41
先ず古代には箸というものが無い。
箸を宮中に広めたのは小野妹子である事が分かっている。
箸墓伝説なんてものがある時点で、それはもう捏造された伝説だ。
そして前方後円墳がある時点で、それはもう266年以降の構造物であり、
しかも大型、おそらく槨も出る時点で、卑弥呼の時代とは離れてしまうだろう。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:05:20.73
>>742
>そして前方後円墳がある時点で、それはもう266年以降の構造物であり、

そんな非科学的なこと言ってるから
九州説は死んだんだよ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:05:25.93
>>740
それは明らかな間違いだな。
鐙の出土状況がそれを支持しない。
出土した土器の状況から考えても、
時代は出土した土器と同じ時代の鐙だと考えるのが妥当な出土状況だ。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:09:36.16
非科学的って何だ?
晋書に書かれている以上、
円丘と方丘を併せ持つ構造物は、
266年以降にトヨの使節ガ帰国して作らせた、
冬至の日に冬至と夏至の祭りを一度にやる祭祀場であるとしか言いようが無い訳だが??
まーたキンキーは史記の記述を無視ですか??
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:10:01.74
>>744
じゃあ、どんな出土状況だったか説明してごらん
出来ないでしょ
ブラフは駄目よ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:12:34.81
>>745
>非科学的って何だ?

あんたのその思考だよ
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:13:41.76
>>746
固まった粘土中に散在する土器と共に発掘された。

バカだねオマエは。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:14:50.39
>>745
もちろん史記にそんな記述はありません
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:16:57.55
畿内説は魏志倭人伝の記述、晋書の記述、
そして近年の弥生後期の発掘成果を、
意図的に無視しないと成立しないトンでも説
である事がまたしても明らかになったな。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:17:18.10
>>748
出典は?

ないよね?
空想は駄目よ
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:19:23.10
>>750
ああ、キウスはどれほど無知で馬鹿なのだろう
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:20:04.45
>>751
橿原考古学研究所の発表で、
ググレばいくらでも出てくるが?
それすらも知らず畿内説など唱えている事が、
またしても明らかになったな。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:23:46.79
>>745
>晋書に書かれている以上、
>円丘と方丘を併せ持つ構造物は、
>266年以降にトヨの使節ガ帰国して作らせた、
>冬至の日に冬至と夏至の祭りを一度にやる祭祀場であるとしか言いようが無い訳だが??

それが前方後円墳だという主張は
中国に前方後円墳がないという事実で
すでに簡潔明瞭に否定されているわけだが
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:28:12.54
>>753
>橿原考古学研究所の発表で、
>ググレばいくらでも出てくるが?

なのに正しく説明できない九州説は
相当の脳タリンだね
しかも鐙を発見したのが橿考研じゃない
ってことすら知らないとは

もう、付ける薬がないレベルじゃないのか?
九州説の情弱ぶりは、哀れだよ
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:37:23.65
九州説ってスゴいよね

知りもしないで適当な想像を垂れ流す
事実関係を追求されると
ここまでなら
「ウロ覚えで間違えちゃったテヘ」
で済んだのに
ゴマカシのため保身のため
完全にウソをつき始めちゃうのだ

人生の転落を絵に描いたようだ
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:39:14.55
>>733
>天から下ってきたが、大邪になってまた天へ帰って行ったのさ。

つまり、歴史ではなくファンタジーとして論じてるんだな?
IDがあれば、非表示にできるのにw

まともに相手にしなくていいってことだなw
もしくは相手にされると困るという意思表示かな
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:40:45.24
「二十−三十年にわたってたい積して固く締まった層から四世紀初めの大量の土器とともに出土しており、上の土層から沈み込んだとは考えられないという。 」橿原考古学研究所発表

桜井市教育委員会に電話をし、うかがった話では、これ は、「布留1式」の土器が出たという意味に理解してよい、と のことであった。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:42:41.11
>>758
つまり古墳築造と同時期じゃないのが明らか
九州説はお馬鹿さん
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:44:14.29
>>738
>『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は
>箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から〜」と発表している。』
>と書いてある。

うそだい、30年の自然堆積物が固く積もったら、3mmにもならない。
30年後であった証拠がない。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:44:18.52
>>818
まあ、唐が、白村江の相手を倭国や倭衆や倭賊と記録して、
日本国とは記録していない事が判った時点で、
日本の中心地が九州じゃない、と主張するひとがどれだけ特殊か
冷静になってじっくり反省してみることだな
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:44:47.06
>>754
まったくオマエは晋書を読む事すらしないな。
晋書に266年11月5日に倭の支社が来て、
円丘と方丘をあわせて南郊と北郊で儀式を行ったと書いてある以上、
円丘と方丘をあわせた構造物を洛陽の南郊と北郊に作ったとしか言いようが無い訳だが??
バカですか?
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:46:19.50
>>758
その「橿原考古学研究所発表」の出典は?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:46:41.89
>>741
>そんなこともあって森浩一は弟子たちにすら見捨てられた

弟子の名前を列記すべし
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:47:02.29
>>596
纏向遺跡の木製鏃の写真をみると、鏃後部と柄の接続部に段差のあるものが2、3個みえる。
この段差は、鏃刃部の後部末端なのだと判断したが。
この刃部の末端部分と柄の間に付けためり込み防止の突起が箆被と考えたけど、どうなの?
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:47:05.90
>>760
橿原考古学研究書と桜井市教育委員会に電話して、
嘘をつくなといってあげてください。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:49:46.00
>>738
>『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は
>箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から〜」と発表している。』
>と書いてある。

どこに書いてあるの?
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:52:34.87
>>763
日本の新聞の2001年12月1日(土)の朝刊各誌に書いてある。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:53:32.22
>>766
>橿原考古学研究書と桜井市教育委員会に電話して、
>嘘をつくなといってあげてください。

むしろお前に電話するよ

「橿原考古学研究書と桜井市教育委員会は
 いつ、どこで
 そんなこと言ったんですか?」

0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 16:57:05.62
>>768

どうして
九州説は
そんなに
証拠だすのが
嫌いなんだろうね
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:01:44.41
九州説は言ってる事が二転三転しすぎ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:02:47.77
>>563
しかし、魏朝では、1尺=24.5cmの単位を実際に使っているけどね。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:04:18.25
>>744
>それは明らかな間違いだな。
>鐙の出土状況がそれを支持しない。

正直、鐙と言われているものが本当に鐙なのか怪しいと思っているがね
勝山古墳付近から出土のこのU字型木製品につながる部分のように思う
https://i.imgur.com/jG8Q3f2.jpg
箸墓周濠の「鐙」
https://i.imgur.com/cAwYHZQ.jpg

まあ、専門家が鐙と判断している以上素人がどうこう言ってもしょうがないけれど
鐙については、金属性の鐙についてしか編年がないし、木製の鐙の出土例がほとんどない
考古学者の人たちにはもう少し、これが何なのか検討してみてもらいたいなと思っている
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:10:52.00
>>769
>>770
日本の新聞の2001年12月1日(土)の朝刊各誌に書いてあるのだが、
これ以上恥をさらすなよ??
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:15:48.66
>>769
橿原考古学研究所発表時の新聞内容
「奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では
世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝
鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」読売新聞12/1
「輪鐙は、長さ16・3センチ、幅2・7―10センチ、厚さ1・6センチのカシ材で、後円部南東側の周濠跡の底近くから出
土した。足を入れる輪の部分が欠けていたが、大阪府四条畷(しじょうなわて)市の蔀屋(しとみや)北遺跡で出土した
木製輪鐙(5世紀後半)に類似していたことから、輪鐙と判断された。」
「二十−三十年にわたってたい積して固く締まった層から四世紀初めの大量の土器とともに出土しており、上の土層か
ら沈み込んだとは考えられないという。 」

早く電話して来いよ。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:17:32.80
>>773
いや、鎧の出土状況をまったく知らない人の
限りなくデマち近い投稿だから
マジレスはどうかと
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:19:53.83
>>750
>畿内説は魏志倭人伝の記述、晋書の記述、
>そして近年の弥生後期の発掘成果を、
>意図的に無視しないと成立しないトンでも説

近年の弥生後期の発掘成果から、倭国(阿波)が確定しました。  @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:23:01.15
>>775
>早く電話して来いよ。

ウソついたおまえに電話するよ
橿考研は別にウソ言ってないな

>鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。

が明らかにウソ
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:25:54.73
>>719
介山という山に関する記述が「周七十里高三十里」だからな〜。
その山に関する「周」というのが、この文章に書かれている「周」の意味。
介山の麓を周回すれば七十里(30km)あるということになるな。

>山地、山脈の周ではないのだよ、ということなので、では、何の周なのヨ。

1里76.5mという物差しの単位は、古田が勝手に作り出した現代のニセ単位であって、3世紀の魏晋の単位じゃな〜いよ。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:27:08.04
橿考研関係ないのに、いつまでも
キウスが橿考橿考いってて藁
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:33:56.07
>>779
>1里76.5mという物差しの単位は、古田が勝手に作り出した現代のニセ単位であって、3世紀の魏晋の単位じゃな〜いよ。

畿内説は「1里76.5m」でなにが不都合なの?  距離が示されているのは、九州島内だけのこと。 なんら問題なし。
万二千余里は女王国までの直線距離だから、九州説よりまだまし。

ただ、方向が致命的だということ。  @阿波
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:40:19.01
>「奈良県桜井市箸中の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳の周濠(しゅうごう)跡から古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)の木製輪鐙(わあぶみ)が出土したと、同市教委が30日、発表した。馬具としては国内最古で、現存する鐙では
世界最古と見られる。わが国の乗馬の始まりを100年近くさかのぼらせる発見で、4世紀後半―5世紀初めごろに、朝
鮮半島の騎馬軍団に対抗するため導入したとする通説は見直しを迫られることになりそうだ。」

おいおいw
世界最古の時点で、疑う通説は、
4世紀後半―5世紀初めごろに鐙を導入した、じゃなくて、
箸墓(はしはか)古墳の古墳時代前期(3世紀末―4世紀
初め)、のほうだろがw

なんで世界が箸墓に合わせなくちゃいけないんだよw
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:41:21.93
>>781
>畿内説は「1里76.5m」でなにが不都合なの?

畿内説に不都合なのではなく、短里があると考える理由がまったくないから、
間違ったことを言うのはやめなと言っているだけ

そして、九州説が短里を否定されるだけで即死するから、これの否定が
一番手間がかからないというのもある
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:45:56.69
>>784
>そして、九州説が短里を否定されるだけで即死するから、これの否定が
>一番手間がかからないというのもある

相当手間取ってるのと違う?
そんなことより、「其山有丹」で即死しているよ。  @阿波  
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:49:58.48
>>776
>>778

http://makimukugaku.jp/info/iseki.html
箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)
 木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。
輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20〜25p
の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
 輪鐙はアカガシ亜属の材を用いて作られていますが、輪の下部を欠損しています。
現存長は16.3p、最大幅10.2p、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例より
は若干長めのものです。柄の長さは11.2p、上方幅3.2p、下方幅2.6p、厚さは1.5p
程度で、柄の上部には縦1.5p、横1pの縦長の鐙靼孔があけられていますが、孔の
上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1p程度の摩耗
痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
 輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は
層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考
えられています。

これがデマかwww早く桜井市纒向学研究センターに嘘をつくなって電話して来いよ。
早くしろよ。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:52:13.05
平原遺跡と祇園山古墳だと、平原遺跡の方が古いから、平原遺跡が卑弥呼、祇園山古墳が壹與かもしれない。
卑弥呼は直前の伊都の天孫族の権力を継承したが、壹與はより肥国に重心を移して、倭の中心部も南下したのだろう。
後の太宰府との関わりも伺える。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:52:58.34
>>782
学者に逆らうなーっつってる畿内説は、
都合の悪いときだけ、「学説が間違っている(キリッ」ですかwww
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:54:09.59
>>676
どちらでもないよ。
聞かれてもいない人が答えていたみたいだけど。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:54:28.25
>>787
御粗末根拠。  @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:57:40.84
>>762
原文はこれだろ?
十一月己卯,倭人來獻方物。并圜丘、方丘於南、北郊,二至之祀合於二郊

円丘は南郊壇、方丘は北郊壇で、それぞれ別々の場所で行われるんだが?
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:58:16.29
キナイコシは祇園山と箸墓の年代で二枚舌を使ってないか?
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 17:59:48.23
>>789
>どちらでもないよ。
>聞かれてもいない人が答えていたみたいだけど。

そりゃあどちらでもないと答えるだろうけどさ、
それで、>>789は邪馬台国はどうなったと考えているの?

白村江まで、九州倭国として存続したのかい?
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:01:28.28
「松鶴洞墳をひと目みた瞬間に、私はこれは前方後円墳に間違いないと直感しました。
しかも上位の前方後円墳なんですね。
上位といいますのは形がきれいで見てすぐわかるということです。
松鶴洞古墳は”みごとな”という形容詞をつけていいほどの上位の前方後円墳といえます。 」

このチョンボのとき森先生はもう呆けておられたと思う
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:04:22.00
>>787
それは無い、前方後円墳の後の広がりを見れば、
司馬炎が洛陽でトヨの使節の為に催したとされる、
円丘方丘をあわせた祭壇で、
冬至と夏至の祭典をあわせて行った儀式が、
どれほどインパクトがあったかが分かる。
おそらくトヨの時代、先ず儀式として、
冬至の日(洛陽で歓待を受けた11月末日)に、
儀式を行った円丘と方丘を合わせた構造物、
これを後に墓にしたもの、これがトヨの墓だろう。
したがって、豊の国の石塚山古墳が、最もトヨの墓の候補として相応しい。
もちろん那珂八幡山古墳の可能性を排除するものではない。
平原古墳は3・4号墳丘のときに、卑弥呼の死があったのではないか?
メインはやはり祇園山だろう。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:06:16.80
>>795
御粗末根拠。  @阿波
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:07:13.34
>>795
>司馬炎が洛陽でトヨの使節の為に催したとされる、
>円丘方丘をあわせた祭壇で、

九州説はどんどん妄想はひどくなって行くな
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:10:35.01
>>792
ないな
箸墓は布留0
祇園山は布留1中〜後期
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:15:53.09
>>880
>その上で用明天皇をアメノタリシヒコが同じとしている<

アメノタリシヒコではなく、「目多利思比孤}だから、×。

>つまり、【邪馬台国の頃から都は大和である】と中国は記録していると言う事<

「南≠東」だから、×。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:16:15.93
>>786
>これがデマかwww早く桜井市纒向学研究センターに嘘をつくなって電話して来いよ。
>早くしろよ。

桜井市纒向学研究センターの言ってることには何も問題がないな
デマを流してるのはお前一人だ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:30:07.65
>>881
>これを見ても、又東至一支國,又至竹斯國と、大陸史書は平気で
方角を間違えているというのが分かるなw<

度百濟、行至竹島、南望身冉羅國、經都斯麻國、迥在大海中 又東至一支國
であり、
經都斯麻國して迥在大海中してすれば、一支國の西海上に達し、
だから、又東至一支國の東は間違えておらず、この類スレ主は、×。
また、又至竹斯國には方向が書かれていないから、論外であり、×。

>又經十餘國,達於海岸。で、畿内の海岸まで来ている<

それまで、きちんと地名を書いて来て、
突然「海岸」という普通名詞にする事は不自然だから、×。
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」と「皆附庸」としているから、大和は都にならず、×。
そうすると「又經十餘國、達於海岸」は、地理的説明の文であったことになる。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:30:58.53
>>800
畿内説も御粗末根拠。  @阿波
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:33:22.97
>>886
>魏志の邪馬台国=用明天皇(アメノタリシヒコ)の都 と言うのが中国の通しての理解
なので「倭人伝の道のりも当然大和への道のりを示している」と言う事<

「南≠東」などに拠って、×。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:34:50.47
畿内説=利権 畿内説=利権 畿内説=利権 畿内説=利権 畿内説=利権
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:43:26.94
>>892
>【ずっと変わってないから】【魏志と同じ】で済むわけだ<

どこに「魏志と同じ」って書いてあるの?。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:54:42.78
>>917
>そして、旧唐書の倭国伝に書いてあるのは、魏志倭人伝以来の倭国伝承と
隋書の裴世清の畿内訪問だけ <

隋書は「裴清」だし、「畿内訪問」なんても書かれていないから、×。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 18:56:31.19
>>765
福岡市クエゾノ遺跡採集の漢三角(三稜)鏃には、明らかに箆被がついている。
出土箇所の年代は弥生後期とみられている。

記事と写真については、
検索欄に「館長だより第70号 館長のおもいつき(15)-FC2」と入力して、一番上のサイトを開く。

このように、銅鏃に箆被が付いている例は、すでに弥生後期にはみられるので、箆被は4世紀からとする考えは修正する必要があるのでは。
ただ、箆被付腸抉柳葉式銅鏃が現れるのがホケノ山が最初なのかどうか、という問題になると思う。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:06:32.35
ホケノの存在そのものでアウトなのだが
狗奴国と戦争している最中でどでかい前方後円墳を建造してるからな

ホケノが3世紀後半以降
→ホケノは誰よ?卑弥呼の次の男王?
 奈良ホケノよりあとの箸墓は最低でも台与しかない

ホケノが3世紀中旬以前
→魏使が来た時にはホケノがあった。
 前方後円墳の完成形見本があったのだから、箸墓の完成形も魏使には実例でわかっていた
なのに倭人伝に書かれてないし、径百余歩もアウト
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:14:22.34
稲部遺跡の大型建物のようにネグレクトするだけでは消えてくれない。

ショベルカーで削リトルキナイコシの勇気
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:16:11.88
ホケノの後方部は短い
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:17:03.31
後方部→前方部
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:17:17.40
>>781
1里76.5mの場合、千里は76kmくらいなので、地図上では浜名湖あたりになる。
この浜名湖あたりに倭種の国があると、倭人伝がわざわざ特に注目する理由はなに?
後漢書は女王国の東に拘奴国があると書いているけど、浜名湖あたりにある倭種の国が拘奴国だから?
しかし、倭人伝は狗奴国は南にあると書いてるよね。
浜名湖あたりを倭人伝が特に注目しているのは、なぜ?
ウナギの献上があったから?
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:17:57.61
後円から作るにしても前方の基礎はできてるんだよね〜
じゃないと作れない
建築学わかる?
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:32:54.55
>ウナギの献上があったから?

いや、どうまん蟹
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 19:33:38.90
【韓国】国会議長の『(天皇は)戦争犯罪の主犯の息子だ』発言はブルームバーグの誤報だ→ ブルームバーグが発言の音声配信、嘘バレる(動画あり)
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1549965236/

【国会】安倍首相「なぜ民主の名変えた?少なくともバラ色の政権ではなかった」 「悪夢の政権」発言を撤回せず ★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1549958486/

【辻元韓国人献金】上念司「須田さんによると、辻元清美に献金していた外国人弁護士は公安の監視対象だったそうです。これヤバい」★4
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1549780774/
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:17:16.13
>>807
>ただ、箆被付腸抉柳葉式銅鏃が現れるのがホケノ山が最初なのかどうか、という問題になると思う。

東海の多孔銅鏃が生まれて拡散する変遷過程を
朝日遺跡の箆被付銅鏃→下懸遺跡の箆被付銅鏃
という亜種派生の枝分かれの方に目を向けて見ていくと
庄内期に纏向で有稜式銅鏃が箆被付腸抉柳葉式になって現れるのは
ぜんぜん不自然じゃないと思う
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:19:06.60
>>795
>したがって、豊の国の石塚山古墳が、最もトヨの墓の候補として相応しい。
>もちろん那珂八幡山古墳の可能性を排除するものではない。

どちらも王墓ではないだろ。
女王墓であることが確実な平原遺跡一号が卑弥呼にふさわしい。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:19:29.53
市教委発表とある記事を橿考研発表とか言ってる時点で
日本語の読み書きレベルが幼稚園児並みであること確定
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:20:03.09
なるほど男性ホケノ山が卑弥呼の治世中に作られていた
→邪馬台国とは無関係
なわけだな
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:27:46.72
>>819
正解
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:29:08.26
箆被付腸抉柳葉式が
ホケノ山(纏向3類)→黒塚(布留0新段階)→桜井茶臼山(布留1古段階)
という発展段階の時系列を見ていくと
ぜひ間の2番目に箸墓(布留0小段階)が欲しいところではあるが
掘れないもんはしょうがないな
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:30:20.70
>>812
>>781
>後漢書は女王国の東に拘奴国があると書いているけど、浜名湖あたりにある倭種の国が拘奴国だから?
>しかし、倭人伝は狗奴国は南にあると書いてるよね。

ズルするなよ。後漢書のは拘奴国(コウナコク)、倭人伝のは狗奴国(クナコク)。
発音も、意味も、方角も明らかに違う。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:31:28.67
>>808の日本語が・・・かなりアウトな件について
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:32:43.72
>>822
現代日本語で読んでどうするw
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:39:38.33
纒向古墳群でホケノが一番小さいから邪馬台国の官かな
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:46:41.17
>>824
古代には同じだったというのかや。
畿内説にとって、そう都合の良いことばかりではあるめえ。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 20:47:09.71
>>647
筑後山門だろ。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 21:37:29.20
>>827
筑後山門で九州説の過半数支持とれんの?
無理でしょ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 21:50:54.77
>>828
まあ、心配するな。
倭人伝は多数決ではない。正しい読みはただ一つ、残りの9,999説はガラクタ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 21:52:12.89
一人一説だから全部同数
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 21:53:17.28
>>816
朝日遺跡の箆被付銅鏃→下懸遺跡の箆被付銅鏃は、関連がありそうにみえるね。

非常に面白いのは、下懸の箆被付銅鏃(廻間1式)のあと、廻間2式期の西免上の銅鏃の中に明瞭な腸抉柳葉式が現れるが、これには箆被が付いてない。
下懸の箆被付銅鏃と西免上の腸抉柳葉式を併せると、ホケノ山の箆被付腸抉柳葉式になるようにみえる。
しかし、西免上のこの時期は古墳時代初期だから、ホケノ山のあとになる。
非常に面白い。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:01:26.36
「古墳時代銅鏃の生産と流通」は90年代までのデータだからちょっと古いよ
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:19:38.43
>>762
ひどいデマだね。郊祀と倭の遣使とは関係がないよ。
冬至に南郊の圓丘壇で武帝が親祀したということだよ。
こちらの方に詳しく載ってる。
《宋書》志第六 禮三(《晉書》卷十九 志第九 禮上にも同文あり )
【泰始二年(略)
是年十一月,有司又議奏:「古者丘郊不異,宜並圓丘方澤於南北郊,更修治壇兆。其二至之祀,合於二郊。」帝又從之,一如宣帝所用王肅議也。
是月庚寅冬至,帝親祠圓丘於南郊。自是後,圓丘方澤不別立至今矣。 】
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:25:11.24
>>930
>対馬海峡の距離が測れない・測る手段がないから、<

一千千里でも測れるし、
次の島や国が見えれば簡易三角測量でも測れるから、この類スレ主は、×。

> 公孫氏は漢人だから漢尺を使う 帯方郡の役人は魏朝の役人だから魏尺を使う<

魏遼東や郡役人らの里記録は、魏朝の(短)里で書かれているから、
類スレ主は、×。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:28:19.58
>>817
>どちらも王墓ではないだろ。
>女王墓であることが確実な平原遺跡一号が卑弥呼にふさわしい。

平原1号墓は女性有力者の墓がせいぜいで、伊都国王墓ですらなさそう
墳丘サイズは12×8メートルで、一時代前の吉野ヶ里北墳丘墓と平面積で比べると
10分の1に満たない小さな墓だ

どうやっても径百歩と魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓の候補にするのは無理だよね
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:30:21.10
>>937
>日本海経路だから瀬戸内海は通らないよ  水行20日+10日で丹波まで行ける <

「南≠東北」だから、×。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:38:43.76
平原1号は年代が合わない
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:39:34.15
>>835
>魏遼東や郡役人らの里記録は、魏朝の(短)里で書かれているから、

前から何度も書いてるけれど、魏尺は現物が出土しているから、
魏朝全体が短里だったとするのは不可能

古田史学の魏朝全体が短里説は、同じ九州説の安本美典氏にも速攻で論破されてたww
それを未だに言い張るんだから、古田史学系九州説はカルトだと言われる
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:50:08.31
>>940
>国名としては狗邪国、のちの伽耶
倭人も住んでいただろうが、倭人国だったら狗邪倭國と書かれるのが正しいことになる<

狗邪韓国の国名呼称部分は「狗邪韓」。
しかし、韓地内に「韓」を付けた国名はない。
例えば、「名古屋日本」なんてへんてこな呼称はない。
という事は、
狗邪部族の韓地に対して(向き合って)いる国、とかの意味の国名。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:56:47.83
ねーよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:59:20.40
>>739
>纏向周辺には古代の天皇の宮が在ったのだから、いきなり卑弥呼の宮殿ではなく先ずは天皇の宮を考えるべきです。
考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈している。<


成程
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 22:59:53.35
>>828
我欲を捨てて議論すれば、おのずと山門になる。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:06:34.45
世界と戦う畿内説
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:08:10.02
>>942
>以上からみても、魏の1尺24.2cm×1800尺=435.6mであり、1里76mということは有り得んよ。<

また、類スレ主がインチキをやっている。
何度も書いたように、尺定規の寸法は大きな変化はなく、
魏朝がやった事は、始皇帝の「1歩=6尺」の否定であり、
周代の周髀算経の「一寸千里の法の里距離」の採用。
それが、76.5km位であり、1里=300歩であるから、
1歩≒25.5cmという事になる、と言うだけの事。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:24:21.66
畿内説は箸墓からホケノに鞍替えしたの?
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:26:11.10
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛

@新唐書でも用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する
C倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定

※これらの記録は日本の記録関係なく独自の記録から記載しているので、
中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:28:11.26
>>956
>又經十餘國,達於海岸。で、畿内の海岸まで来ている <

「自竹斯國以東、皆附庸於俀」で「皆」だから、俀の都はなく、
「又經十餘國,達於海岸」は、地理的説明。

>この、爲唐客更造新館於「難波高麗館」之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于「難波津」と
いうのが隋書の「達於海岸」の実際の場所だよ <

それなら「海岸」だなんて、
日本中のどこの海岸でもよい、というようなへんてこな書き方をしないで、
難波海岸とか難波国とか書けばよい筈。
だから「海岸」と書いた、という事は、難波ではなかった、という事であり、
前項の「皆」の事もあるし、
裴清は隋使であって唐使ではない事も相まって、
大和説は、×。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:28:24.28
日本中にあるヤマトの地名が九州にもある!だから九州が邪馬台国だ!
しかもヤマイとかヤマドイなんて読み成立しないのに邪馬台国なんだい!
バカ九州説の論拠に腹がよじれるほど笑うww
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:31:25.46
>>959
>渡海距離は測定手段がないのだから<

一寸千里や、簡易三角測量があるから、×。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:34:48.77
>>847
>B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する

一大卒は伊都に置かれ、そこから地方の検察に出かけた。
あくまでも中央官僚だ。
いつまでも嘘をつき続けるな。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:35:46.91
>>836
>平原1号墓は女性有力者の墓がせいぜいで、伊都国王墓ですらなさそう

考古学的証拠を無視するなら、畿内説は詐欺的流言に過ぎなくなる。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:38:31.95
>>847
どこから引っ張ってきたのか
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:39:25.55
>>961
>その漢字の読み書きのできる大和朝廷の人が、日本書紀の冒頭で
廼生大日本(日本、此云耶麻騰。下皆效此)と、
「日本は耶麻騰ヤマトと読む、以下全部ヤマトと読む」と明記されているんだよ

ダイニホンではなく、オオヤマトと読むと明記されている
対応する古事記の大倭表記も同じくオオヤマトと読むんだよ<

書紀は、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作している半分×書であるから、
いくら「日本をヤマト」と読んでも、
何の関係もなく、根拠にならないんだよ。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:42:29.63
>>963
>@阿波が言うように、徳島矢野遺跡の弥生後期遺跡から小型丸底壷(鉢)が出ているということだから、ホケノ山の小型丸底壷がその模様などから3世紀中頃とできるとする意見に従うのはおかしくない。
小型丸底壷があるから4世紀だとするのは、どうかだな。<

阿波の方の「絶対年代」根拠がない、と思うよ。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:44:42.31
低能九州説は本なんて読めないんだから知らなくて当然だよなw
邪馬台国の会とかのホラサイトを流し読みしただけの猿だから
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:46:10.10
>>964
>実測したと考える人達は古代の計測の方法を本当に可能かどうか試してみたらいい
とりあえず次の夏至には八尺棒を立てろ<

周髀算経には、半月毎の影長表が書かれているから、夏至だけではなく、
一応一年中計測できるよ。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:48:52.92
>>852
>考古学的証拠を無視するなら、畿内説は詐欺的流言に過ぎなくなる。

その考古学的証拠とやらを、具体的に提示もせずに何を言ってるんだ?

被葬者が女性かどうかだって、確定してるわけじゃないんだぞ?
骨が出て鑑定されてるわけじゃないからな
ただ単に副葬品が女性の持ち物っぽいから女性墓だと「見られる」とされているだけ

言えるのは「副葬品の多い厚葬墓で、副葬品の構成から被葬者は女性の可能性が高い」と
いうところまでがせいぜいだ

厚葬墓であるから、庶民の墓ではなく伊都国の有力家系の墓だとは言えるが、
井原ヤリミゾ遺跡、三雲南小路遺跡と比べても、墓の規模が劣るし、
伊都国王墓の立地である三雲遺跡群の外にあることからも、伊都国王墓ともみなしがたい

平原遺跡を含む曽根遺跡群では、平原遺跡以降、古墳時代に入っても累代的な造墓が
続くが、三雲遺跡群の端山古墳、築山古墳と比べて規模が小さく、伊都国首長の一族ではない

平原遺跡は伊都国の第二位の家系と見るべきで、倭国の王の墓とするのは無理だよ
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:50:43.91
>>969
>すでに、中高生が学校で習ってるレベルの知識を 頭から否定しないと
九州説が立ち行かないことまでは 確定したようだ<

何だ?、中高生に「南→東」などの嘘吐き騙しを教えているって?。
誰だ?、そんなインチキを教える事を強制したやつは?。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:53:51.37
>>857
>周髀算経には、半月毎の影長表が書かれているから、夏至だけではなく、
>一応一年中計測できるよ。

その影の長さが夏至以外「全部間違っている」んだよ!ww
冬至に至っては3寸も長さが違う

計れば計るほどデタラメになるぞ、周髀算経の影長の数値を使ってたらなww

周髀算経では、夏至に長安付近で一回計っただけで、千里離れたところでは計ってないし
秋分や冬至にも計っていない

デタラメなんだよww
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:54:28.76
>>973
>倭人伝はそこからさらに水行三十日陸行一月で邪馬臺國<

「水行三十日陸行一月」は、郡から女王之所都の所要日数だし、
邪馬臺國もないから、×。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:56:26.66
>>861

そういうデタラメやらないと、もう九州説は駄目なんだよww
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:56:33.53
「ぼくちゃんが知らない」
「ぼくちゃんが認めない」
「ぼくちゃんがそう思った」

これが論だと思ってるのが能無し九州説
ぼくちゃんが認めない!と泣きわめいてるのが反論になると思い込んでるのが笑える
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:57:37.04
>>858
>ただ単に副葬品が女性の持ち物っぽいから女性墓だと「見られる」とされているだけ

あんたが普段から振りまいている妄想よりはよほど妥当な推論だよ。

>伊都国王墓の立地である三雲遺跡群の外にあることからも、伊都国王墓ともみなしがたい

別の王統に交代したと見ている。
それが倭国大乱だ。
むしろ平原遺跡が卑弥呼の墓であると考える状況証拠の一つだよ。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/12(火) 23:59:45.59
>>974
このスレでもそうだけどさ、結局大和説には
「長里は正しい、部分的に長里の萬二千里だから大和に行ける」
しかないことがはっきりしてるんだよな

旧唐書の「日本國者,倭國之別種也」にもすがりついているけれど
旧唐書の倭国伝の倭國も、九州だからどうしようもない
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:00:07.84
>>840
>しかし、韓地内に「韓」を付けた国名はない。

東夷伝韓条では、弁辰狗邪国と書かれているよ
弁辰地内の国に「弁辰」を付けてるねww

三国志は大陸知識人が読むことを想定して書かれているから、
読み人に分かりやすいように書いてあるんだよ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:01:42.66
周髀算経は、空想しただけでやってもいない天体観測をしたようなことを書いている半分×書であるから、
いくら逆算で1里がメートルか出しても、
何の関係もなく、根拠にならないんだよ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:04:45.69
>>985
邪馬壹國なんて、元から筑紫以外にないだろ。
あらゆる証拠に反し、声の大きさで無理繰りに大和に誘致するなど、全くの無意味。無駄。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:04:49.18
>>864
>別の王統に交代したと見ている。
>それが倭国大乱だ。

残念ながら、>>858にも書いているように、伊都国首長家系は古墳時代に入っても
端山古墳、築山古墳と、伊都国としては大きな前方後円墳を三雲遺跡群の中に
作り続けており、伊都国首長の家系が交代したと考えるべき考古学的状況はないんだよ

>>864は累代的な前方後円墳の造墓という「考古学的証拠を無視する」のかな?ww
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:07:16.33
>>987
地元愛(大和愛)はいいが、それを邪馬壹國にぶつけないでくれよ。
邪馬壹國は村おこし、町おこしのネタじゃないんだ。新幹線じゃないんだ。
地元愛のために邪馬壹國を大和に持って来るなど、全くの無意味。無駄。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:08:25.66
>>868
>邪馬壹國なんて、元から筑紫以外にないだろ。

邪馬壹國なんて、もともと地球上のどこにもないだろ?

音韻的に倭国の地名として無理があるし、魏志を引用した書物がみんな邪馬臺國なんだから、
現存版本まで伝世する間に字が置き換わっただけだよ
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:11:02.97
で、結局>>864は考古学的証拠とやらは、具体的に示してはくれないんだ?ww
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:31:02.78
>>869
>端山古墳、築山古墳と、伊都国としては大きな前方後円墳を三雲遺跡群の中に
>作り続けており、伊都国首長の家系が交代したと考えるべき考古学的状況はないんだよ

伊都国の官とされている禰宜の家系だろ。
これがおそらく天孫邇邇芸の末裔だ。
卑弥呼は伊都国王家天孫族ではなかったんだよ。
だから記紀にも登場しない。
むしろ、平原遺跡卑弥呼説を支持する状況証拠だね。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:35:15.55
祇園山古墳の殉葬墓が−って言ってた人は、平原遺跡まで持ちだして
ごまかしきれなくなったところで消えたなw
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:36:31.57
ずっと前から、畿内説は九州北部は群雄割拠で様々な勢力が入り乱れていたと言っていたろ?
つまり複数の王統が併存していたんだよ。
それが九州北部を舞台とした倭国大乱の原因だよ。
しかし王家の乱立は、九州北部がそれを支えられるくらい富んでいたことの証でもある。
考古学的な出土品の質と量は、大和では筑紫の足元にも及ばない。
その中で、博多湾から伊都にかけていた天津神天孫族と、伊都から筑後にかけていた国津神邪馬台国歴代女王が、別々の勢力として併存していたと考えられる。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:38:10.19
>>873
>伊都国の官とされている禰宜の家系だろ。

伊都国の官より卑弥呼の墓が小さいとか、本気で言ってるのか?

まあ、思い込みだけが唯一の根拠で周辺情報との整合性は
一切無視のチェリーピッキングが九州説のデフォだからこんなもんか
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:38:28.14
>>875
>ずっと前から、畿内説は九州北部は群雄割拠で様々な勢力が入り乱れていたと言っていたろ?

言ってません
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:40:04.69
だから、三雲の王墓と平原の女王墓が違う集団だという批判は、むしろ好都合なんだよ。
平原遺跡の卑弥呼の次が祇園山古墳の壹與なら、女王国としては伊都にいたのは一代限りでいいわけだからね。
政治機構が未熟な弥生時代ならその程度の規模の群雄割拠で十分だ。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:41:12.62
中国史の日本

・台与の後に男性王が立ち晋、宋、斉、梁、隋と継続して使節を送ってきている
・用明天皇を隋書のアメノタリシヒコと断定し神代から桓武天皇に至る系譜に入れている
・宋史において日本の王統がずっと継続してる事を称賛

@新唐書でも用明天皇の都は神武後の大和なので、大和=魏志の邪馬台国であることが確定
A筑紫城云々は神武前の事なので九州は邪馬台国ではないのが確定
B一大卒は属国に派遣され、これを監視する役職で九州が属国であることが確定する
C倭から日本への改称は壬申の乱であることが確定

※これらの記録は日本の記録関係なく独自の記録から記載しているので、
中国側が日本の意図など関係なく資料を精査して記述しているのがわかる
※仮にアメノタリシヒコが用明天皇であろうがなかろうが@もAもBもCも何も変わらない

邪馬台国からずっと大和の勢力が日本の中心として中国と交渉していると理解しているのが明確
最初から九州説も、九州王朝も中国は一切考えてもいないのが分かる
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:47:35.09
どう泣きわめこうが中国は九州説も九州王朝も欠片も考えてない
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:50:10.82
ホラ吹きの心理

こうだったらいいな

こうに違いない

最初からこうだった

九州ザルの思考回路そのもの
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:51:43.15
>>879
だから
どこから引っ張ってきたの
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:53:20.36
本なんて読めない九州バカのバカ反論の代表的なもののひとつ

「ぼくちゃんがしらない」
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 00:54:42.42
「ぼくちゃんが知らない」
「ぼくちゃんが認めない」
「ぼくちゃんがそう思った」

これが論だと思ってるのが能無し九州説
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 01:13:56.85
>>878

好都合ってw
作り話に都合が良くても悪くても
平原1号は考古学では200年ころの築造だから
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 02:07:00.06
>>855
ホケノの小型丸底壷が4世紀という年代の根拠は?
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 02:20:43.69
伊都クズの主張は実態のないイメージのみ
具体的な各論を持ち出されるといつもトンズラ
ほとぼりがさめるとまた妄想を喚きはじめる
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 02:30:50.12
>>855
ホケノ山出土の小型丸底壷の形は、「財団法人八尾市文化財調査研究会報告37」の分類によると小型壷B3に当たり、この器形は庄内V〜布留Uの時期のものとしている。
庄内Vは、最近の編年では3世紀中頃前後とされる。
ホケノ山の他の土器もその頃のものとされるので、ホケノの小型丸底壷を必ずしも4世紀としなくてもよい。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 02:45:33.23
ホケノは誰の墓なのだ
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 02:56:03.34
>>855
八尾市の研究会による小型壷の編年によると、小型壷Aとされる器形は(プレ庄内〜庄内U)と位置づけられている。
プレ庄内とは、弥生Xに当たるので、弥生後期でよい。
徳島の矢野遺跡の小型丸底壷(鉢)は、このプレ庄内型ということになるのではないか。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:06:49.36
>>889
ホケノは日本書紀で開化天皇とされている人物に該当する。
纏向の5つの墳丘墓は政権加盟有力勢力持ち回り代表祭祀者の墓。
石塚は初代の代表祭祀者の墓なので、ホケノは五代持ち回り代表祭祀者の墓。
他の四基よりやや小ぶりであることからすると、尾張や吉備が派遣した祭祀者ではないだろう。
貴重財を副葬する墓制であるから、大和、近江でもないだろう。
そうすると、河内あたりではないか。
石積み木郭が徳島と似ているとされるから、河内、阿波勢が派遣した祭祀者の可能性も考えられるな〜。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:10:05.19
>ホケノは誰の墓なのだ

箸墓がその強い瀬戸内要素、山城と交野に近似古墳があること、
また崇神=行燈山古墳の前王であることからしてイカガノシコオ。

そのイカガノシコオの数代前の祖伸がホケノ山被葬者、
それはウマシマジかヒコユキであろう。

ともに申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)。

纏向遺跡の大型建物の主にもふさわしい。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:13:49.09
1里76.5m説者は、とうとう、“証拠の漢文”を出せなくなったようだな。
そうした“証拠の漢文”は、みな誤読によるものだ。
裁判所だったら、証拠採用しない代物だ。
もう、諦めろ。
お主らは実直な信者だということは認めるが、1里76.5mは無い。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:16:50.77
>>892
葛城から引っ越してきたようだな。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:26:14.84
>>891
>河内、阿波勢が派遣した祭祀者

「ホケノは誰の墓なのだ」という質問に対して個人名さえ言えないバカ。
史料批判という名のもとに、史料から逃げてきた結果がその程度の考察。

恥を知れ。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:46:54.26
>>895
3世紀の文字のない時代のことで名前が分かるようなら、それは神話だ。
神話には、個人の名はない。
みな、象徴的な名になる。
イカガ(ワ)シと聞こえるではないか。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 03:55:39.04
>>896
や、失敬。
シコオではなく、ウマシマジだった。
ウマシマジは、馬の脚だろう。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 05:13:37.17
>>897
ホケノは、邪馬台国攻略、博多制圧の凱旋祭祀将軍の墓だろう。
あのあの時期、あれだけの副葬品をそろえられるのは、博多帰りの凱旋将軍しかいない。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 05:16:44.26
ヤマトは墓だらけで誰が誰の墓と特定するのは無理
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:10:59.34
不利になると無理。わからない。
なにを取っても無理だから。あらゆる資料全てが無理。わからない。w
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:15:29.56
>>896
>3世紀の文字のない時代のことで名前が分かるようなら、それは神話だ。

弥生時代のスズリはもう10個以上見つかってるのだが。
つまり文字はあったのだ。

神話というものは、実在した人物を神話にしたのだ。
神武がBC660年に即位、127歳で死んだという時点で、
なにほどか神話化されてることが勘の鋭い人間には分かりそうなものだが。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:20:32.57
>>891
>石積み木郭が徳島と似ているとされるから、河内、阿波勢が派遣した祭祀者の可能性も考えられるな〜

いぜれにせよ、倭国(阿波)の「忌部はん」 なんだが、
鳴門の地で神武に追われたナガスネヒコの墓という説が有力。  @阿波
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:21:50.25
>>897
>ウマシマジは、馬の脚だろう。

力が抜けるような話だ。

美味し、旨しの意味。
近くに味間(あじま)という地名もある。
申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)は、
「けくにのまつりごともうすなきみ」とも言われるが、
ケは食、食国と書かれてるだろ。

だいたい馬って4世紀前半だから、ウマシマジという人名とは関係がない。」
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:37:21.05
>>80
>九州こそが西は衆夷を服すること六十六国の対象なので九州は征服された側だな <

「征」や「平」の他動詞と違って、
「服」は、「服属する」という自動詞。
倭王武の頃には既に「自昔」より「服属せしめてられていた」という意味。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:56:24.49
>>878
>だから、三雲の王墓と平原の女王墓が違う集団だという批判は、むしろ好都合なんだよ。

平原の女性有力者の集団は、三雲の首長墓の集団より、明白に勢力が劣る集団で
径10歩に満たない墓しか作れてない
弥生終末期は九州以外は巨大墳丘墓の時代に入っているのに、こんな弱小な倭王はない

「好都合」とか九州説の都合で考えてるからダメなんだよ

九州説は卑弥呼をローカルな小首長以下の存在に矮小化してでも九州に持って来ようとするから
日本をできるだけ小さく見せようとする半島系パヨクに乗っ取られるんだよ
そして、半島系パヨクの書き込みの多さを九州説への支持と勘違いする

日本人で九州説を支持している人は、思考力・情報把握力ともにダメダメだ
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:58:01.41
>>100
>魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる<

尺寸系の「尺定規」は、6倍位の差異はなく、ほぼ同じ位で変化なく、
そんな事は議論にも問題にもなっていない。
問題は、秦の始皇帝の「1歩=6尺」という「里歩系単位と尺寸系単位の換算率」。

>魏の里は435.392m(一里=1800歩)<

魏朝は、周制の一寸千里の法の「里歩系」単位を採用したから、
1里≒76.5mであり、1里=300歩に拠って、
1歩≒25.5cmであるから、
(始皇帝の1歩=6尺とは違って)、
1歩≒1尺。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 06:59:24.32
>>739
>考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、
「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」
と苦言を呈している。

賛同、突然の卑弥呼は勇み足だと思う。まず 崇神の宮?垂仁の宮? 景行の宮?と考えるのが妥当
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:02:12.03
>>104
しかし、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らと同じように、
1里434m主張者も、しつこいみたいだね。
なんかの主義者のようだ。
いつまでも、誤り認めん。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:04:14.41
>>907
>まず 崇神の宮?垂仁の宮? 景行の宮?と考えるのが妥当

まず、宮と考えるのが不当。  @阿波
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:18:03.16
>>105
>下鈎の銅鏃には、確かにノカツギはないね。
ホケノ山のノカツギ付柳葉式銅鏃と浦間茶臼山のノカツギ付柳葉式銅鏃は、形がやや違う。
ホケノの柳葉後部は下鈎の銅鏃の棘形と似ており、浦間のものは柳葉後部は先に向って丸くなっている。
ホケノ出土の鏃は、皆棘形をしている。
ホケノの柳葉のほうが古い形のようにみえる。<

ふーん?。
近江の下鈎は、やはり、越の影響があったが、
吉備の浦間茶臼山は出雲の影響が残っていて、
そこへ、九州の「東征毛人五十五国」の鉄鏃の軍が来て、
吉備を従えて、大和の毛人や出雲系銅鐸部族を征服した、
という事か。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:26:11.63
>>106
>>周髀算経は「測影」とはっきりかいており、
だからそれに拠って「千里」の距離を計算された谷本計算は史料実態であり、<

>本に「人類滅亡」って書いてあったら人類は滅亡したのか? バカですね
周髀算経は実測もしないで他人の文章をコピペしてきた寄せ集めと筆者の脳内想像の渾然一体化したヌエ的産物だから古代から辻褄が合わないと批判されてきたの
それを実在と扱ったから谷本計算もフィクションなんだよ<

類スレ主は、やはり、
「南→東」の時と同じように、
大和説や皇国史観にとって、都合が悪くな史料は、
全て口先でイチャモンを付けて、ヘイトスピーチして否定抹殺しようとする、
・・・・人間だったんだね。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:43:49.54
>>878
>平原遺跡の卑弥呼の次が祇園山古墳の壹與なら、

この時点でただのお花畑妄想
平原1号墓も祇園山古墳も弱小なローカル首長以下のレベルでとても倭王の墓とは見なせない

>女王国としては伊都にいたのは一代限りでいいわけだからね。

ここも勝手なご都合設定
台与は卑弥呼の宗女、同じ一族であり、間の男王の期間も含めて王都、王宮の移動は
魏志倭人伝に一切記されていない

>政治機構が未熟な弥生時代ならその程度の規模の群雄割拠で十分だ。

このように倭国初期を、未熟で弱小な存在にするのが半島系パヨクの目的

でも実際には列島の広域で一斉に前方後円墳を作り始めるだけの政治的な秩序が
3世紀には既に構築されている

ローカルな群雄割拠が九州説の都合には必要なのだろうが、それは
「考古学的な証拠を無視」した暴論でしかない
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:50:21.24
>>885
>平原1号は考古学では200年ころの築造だから

卑弥呼の治世だね。
やはり卑弥呼の墓で良さそうだ。
卑弥呼より前に女王は記録されていない(卑弥呼の前は男王)。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:52:26.07
>>898
>あのあの時期、あれだけの副葬品をそろえられるのは、博多帰りの凱旋将軍しかいない。

博多からの征東将軍だろ。
九州の銅鏡文化が畿内の銅鐸文化を駆逐してしまうのだから。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:53:56.14
纒向は斎場兼墓地
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:54:32.33
>>907
>>739
>>考古学者の森浩一(1928-2013)先生は、
>「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、
>景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」
>と苦言を呈している。
>☝
>賛同、突然の卑弥呼は勇み足だと思う。まず 崇神の宮?垂仁の宮? 景行の宮?と考えるのが妥当

同意。
今の畿内説は魏志倭人伝どころか国内の史書さえも無視して、独自の妄想に走り過ぎている。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 07:56:02.03
>>912
>台与は卑弥呼の宗女、同じ一族であり、間の男王の期間も含めて王都、王宮の移動は
>魏志倭人伝に一切記されていない

じゃあ、(卑弥呼が女王を務めた)倭国はかつての倭奴国、という記述通り、卑弥呼がいたのは福岡でいいわけだ。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:21:36.69
>>913
>卑弥呼の治世だね。
>やはり卑弥呼の墓で良さそうだ。

つまり、卑弥呼の「死の40年前」に卑弥呼を埋葬したってことだね!
さすが九州説は考えることが違うね!

>卑弥呼より前に女王は記録されていない(卑弥呼の前は男王)。

王墓だと決め付けてるから訳の分からない妄想になるんだよ
普通に記録に残らないレベルの女性の有力者の墓でいい
想定としては、伊都国首長の妻くらいが妥当
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:29:48.77
森先生は、「固城の松鶴洞古墳について森教授は前方後円墳に間違いないと
ほぼ断定しておられるが、まだ実測もしていない段階からそのように言うのはどうか、
特に森浩一教授は学界での影響が大きい学者であるだけに、発言は慎重であってほしい。」
と苦言を呈されていた
後に森先生のチョンボであったことが判明した
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:39:10.39
>>918
>王墓だと決め付けてるから訳の分からない妄想になるんだよ
>普通に記録に残らないレベルの女性の有力者の墓でいい

考古学とまともに向き合わずにアンフェアな意見ばかり述べているから、畿内説は信用されない。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:42:26.98
>>109
「南≠東」などの嘘つき騙しなどのように、
論拠が全て崩壊して、気の触れた大和説が醜態を晒すスレ
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:43:19.61
>>920
信用されているのは、倭国(阿波)だけとなんで言えないの?  ハハハ。  @阿波
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:47:54.45
平原遺跡の年代について

・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている

・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:53:21.43
>>110
>だいたい、夏至の日に棒立てて緯度を測るって言っても、南北方向しか測れないじゃないの。
東西方向、経度は測れない。<

三角測量や記里車や歩測などでも測れるが、
一寸千里と大体の方向が判れば、それでも三角測量の応用で判る。

>そして狗邪韓國から不彌國までは里数表記になっているのが、
不彌國から先は里数表記が消え、 『水行20日』とか『水行10日陸行1月』になっている。

『水行20日』は、側副傍線國説明であり、
『水行10日陸行1月』は、「郡〜女王之所都」の日数説明であるあるから、
この男が、×。

>投馬国も邪馬台国も、行程記事どおり不彌國から南に向かうのならば、
(水行なので歩数は測れないにしても)棒立てて里数を測れるはずだが、
何故か奇怪なことにそれはやっていない。<

邪馬壹國女王之所都は、当然一寸千里を使ったから、「萬二千余里」が判ったのであり、
投馬國は、魏使らは行っていないので、一寸千里の計測をしていない。

>これは実際には、投馬国も邪馬台国も、不彌國から南に向かってるんじゃなくって、東に向かったからだよ。
だからそれまでのような里数表記が出来なくなった。<

この男も、「南→東」の嘘つき騙しの詐欺師人間であるから、×。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:59:52.61
>>111
>韓国南岸から、対馬、壱岐、松浦の間だって、 九州論者の言うようにわざわざ夏至の日に棒立てて測ったかのか?
そんなことないでしょ実際は。<

一寸千里の法が簡易三角測量よりも簡便だから、当然やっている。

>長めのちょっとおっかない渡海をしたら、それで『ひと声千里』なんでしょうよ、実際のところは。
『僕たち危険を冒して遠くの国まで行ってまいりました』アピールなんだよ『ひと声千里』は。<

そんな嘘つき騙しは、「南→東」などの史料事実の否定曲解が常習犯の大和説者はやっても、
普通の正直な人類は、やらない。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 08:59:53.49
箸墓がおじゃんになり、
甘木・朝倉も、倭国大乱で一掃された廃墟だったとなると、
残る平原方墓に追い込まれて雪隠詰めということか。長くはあるまい。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:05:07.14
>>923

素人ブログの無断コピペ
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:09:37.15
毎日日が昇ってくるのに方角なんて間違いようが無い。
しかも洛陽から倭国まで旅をしてきた魏の使者だからな。
畿内説は倭国まで洛陽から倭国まで長い旅をしてきた魏の使者が、
東を南と間違えましたアパパパパーって言って恥ずかしくない脳の持ち主。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:10:20.11
>>112
>だから一万二千余里から、七千里引いて、次に千里×3引いて、
残り二千里から500里引いて、100里引いて、また100里引いて、
残り1300里とか、考えても全然意味ないんだよ。<

そんな変な事は、「南→東」などのような、
皇国史観宗教的な結論先にありきの大和説者以外の人間は、やらない。
普通の人間は、普通に計測した事を記録する。

>最初からそんな精度なんてないんだから。全くの無意味。
そんなことを考えて、邪馬台国は九州のどっか片田舎の山の中だなんて、
全くの無駄な努力で、的外れのアプローチでしかないのよ。<

「南→東」などの嘘つき騙しをし、魏使らの計測をヘイトスピーチし、
不彌國から東の大和への途中の説明がない事をこっそり隠すこの男は、
やっぱり、・・・・アホ詐欺師。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:11:47.15
アパパパパーって言ってるのは九州説
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:15:35.60
>>113
>用明天皇=アメノタリシヒコ<

新唐書は、
次用明、亦曰「目多利思比孤」、直隋開皇末始與中國通
と書かれているのであり、アメノタリシヒコとは書かれていないんだから、
この男も嘘つき騙しの詐欺師であり、×人間。

「南≠東」などによって、最初から大和朝廷も、大和説もも存在しなかった。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:18:45.29
いわゆる邪馬台国論争といっても、
出だしで行き先方角を間違えた糸島経由組の中での口角泡論争にすぎぬ。
それでは千年たっても二千年たっても、結論が出るわきゃない。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:22:10.58
結論は出ている。
認めたくないと言う邪心のある人間がいると言う事を示しているだけ。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:26:19.61
西も東も分からないっていう言葉があると思うんだが、
そういう人間が畿内説信者と言う集団を構成していると言う事を、
考古学史にハッキリと刻んでいる訳だ。
この人たちが一体全体どういう人間なのかを調査分析して、
今後の反省点として考古学史に残しておいた方がいい。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:31:20.95
http://makimukugaku.jp/info/iseki.html
箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)
 木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。
輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、
厚さ約20〜25pの植物層の中層からで、
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。

ところで、畿内説のパーは、桜井市に嘘をつくなって電話しましたか??
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 09:51:54.10
>>115
>行程記事の方角だって、末盧国到着後から綺麗に90度ずれている
(というか、陳寿がそういう風に書き換えた)。<

ズレていない。「東南」は出発方向。

>そして末盧国=松浦、伊都国=糸島、奴国=博多湾。これはもう確定でしょ。<

奴国=博多湾が×。伊都国からの「東南百里」に合わない。

>特に九州北部の平野の広さを見れば、奴国(2万余戸)=博多湾は何をどうやっても動かしようがない。<

奴國は、おそらく三雲付近から早良平野部。

>で、不彌國から投馬国と邪馬台国は水行するんだから、不彌國は当然のことながら海岸沿いにあり、
博多湾のちょっと先と言ったら、宗像市あたりでしょ。<

東南百里に全く合わないから、×。

>宗像三女神を祀る宗像は、九州北岸から沖ノ島ルートで対馬、朝鮮半島に行く重要拠点。
普通に考えりゃ、魏使たちの北九州歴訪の旅(魏使見せびらかしの旅)で、ここは通るでしょ。
そしたらもう後の行程は里数でなく日数表記なんだから、一里が70何?メートルの議論など入る余地がない。<

魏使らは、皇帝の詔書や金印や大量の下賜品を届ける大切な業務であったから、
人類の常識通りの「安全最短が原則」であり、渡海は最小限度であり、
無謀な「長距離渡海」ルートは選択しない。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:04:10.25
>>116
>「金属片は銅製で、「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」と刻印されていた。
 この中の「延光四年」は漢の年号で西暦125年に当たる。
 発見から28年後に実測図を北京大学に送り鑑定を受けた。
 鑑定によると記された文字は次のような意味だった。
 「高暘左」は中国戦国時代(BC403〜BC221)の銅戈に記された銘文、
 「王作永宮斎鬲」は春秋時代(BC770〜BC403)の銅鬲(鼎)に記された銘文、
 「延光四年五」は漢代の陶磁器に記された文字。
 金属片自体は「清朝人が作った文鎮」であろうという鑑定だった。」 <

どこの大学が「鑑定」したって、その鑑定根拠を提示しない限り、
信用しないよ。
金石文の年号記載は、否定し難い証拠力があるもの。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:04:41.10
>>936 関連
>そして末盧国=松浦、伊都国=糸島、奴国=博多湾。これはもう確定でしょ。<

もう確定といったって、そりゃ神功皇后記のフェイクのままんまパクリじゃなかか
そんげな解釈なら、1300年間、なーも変わっとらんちゃ。
ただの糸島組内部抗争事件。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:11:01.66
>>920
>考古学とまともに向き合わずにアンフェアな意見ばかり述べているから、畿内説は信用されない。

だから、そのまともに向き合うべき考古学の成果とやらを具体的に例示してみろって、何回言わせるんだ?
現実には、平原1号墓は曽根遺跡群という伊都国領域でも第二グループの墓域の中の
厚葬墓で、被葬者は女性らしいというだけで、倭王を思わせるような内容ではない

そしてなにより、出土した銅鏡40面中舶載鏡は2面しかなく、その二面も
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡  漢鏡3期
で、卑弥呼の時代から100年単位で古い

卑弥呼は魏の皇帝から銅鏡100枚もらっているのに、平原1号墓からは同時代の鏡が1枚も出ないという
考古学的証拠を無視して卑弥呼の墓だと主張するのは、誰から見てもバカかマヌケでしかない
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:15:26.94
>>923
>・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、

この「晋代前後に特徴的な特殊な形状」というのは、単に中央部が細くくびれているというだけ
そして、平原1号墓出土の耳璫は実際にはこんな形
http://tsu-com515.my.coocan.jp/NHK-itokokuPias.jpg
くびれているとも何ともいえない形が、晋代前後の証拠って言われてもねww
九州説の持ち出す証拠ってのはこのレベルなんだよ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:17:42.93
>>118
>>持衰の記録があるから、魏使らは狗邪韓國からは、倭船に乗った。<

>>魏使がハニワ船なんかに乗る訳ないでしょ?
魏使たちにとっちゃ、ハニワ船なんてのは『野蛮人が乗る原始的な小型船』。
そんな原始的な船に皇帝陛下からお預かりした大切な金印やら下賜品を乗せて、
難破でもしようものなら責任が取れないでしょ。<

中国船や韓人船では、持衰なんか載せて貰えないもの。
だから、倭人の船。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:19:13.53
>>928
>毎日日が昇ってくるのに方角なんて間違いようが無い。
>しかも洛陽から倭国まで旅をしてきた魏の使者だからな。
>畿内説は倭国まで洛陽から倭国まで長い旅をしてきた魏の使者が、
>東を南と間違えましたアパパパパーって言って恥ずかしくない脳の持ち主。

相変わらず小学生並みの反論しかしないなww
その場で間違わないことと、記録がきちんと持ち帰られて史書の撰述まで間違わないことは
まったく別の事柄だというのが未だに分からないのかね?
まあ九州説を未だに支持している程度の知能程度だと理解できないのかもしれないねw

もしくは、認めた瞬間九州説が死ぬから、分からないフリで「あーあー見ない、聞こえない」って
してるだけかどっちだ?ww
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:19:55.91
>>119
>>魏使らは、人類の常識通りに「安全最短の原則」であり、
危険な渡海な最小限が原則。<

>九州北部に到着後は安全な水行(沿岸航行)だから、縄文時代から古来利用している沿岸航路で
丹波まで向かうんだよお <

「南≠東」などに拠って、×。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:20:41.33
>>935
>古墳が築造されて暫く後に

この「暫く後に」っていうのが、下手すると100年単位だってだけなんだが?
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:21:24.19
追い詰められて行き場なく、
もはや糸島組は、雪隠詰め状態w
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:41:44.46
>>120
>>周髀算経は「測影」とはっきりかいており、

>前に、計ったのは夏至の影だけで、冬至の影は三寸も狂っているし、<

半影の真ん中ではなく、最遠端で測っているらしい、
という事は、教えて上げただろうが。

>他の二十四節季の影長は単純計算の値が置いてあるだけで
一切計っていないのが明確だって教えてやっただろうがww<

単純計算であっても、有効数字1桁程度の近似値計測であれば十分だ、と教えて上げただろうが。

>周髀算経は、根本から間違っている蓋天説を前提とした机上の空論で
一寸千里は、蓋天説の天地の距離八万里と八尺棒の長さの比にすぎない
実測値じゃないのがすでに証明されている <

測影から得られた推定の説だ。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 10:44:03.93
>>122
>なおかつ放射読み<

放射読みなんて、しないよ。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:07:23.44
>>123
>当時、洛陽の北とか南に、三角測量でキッチリ図った千里とか二千里の標定ポイントがあって、
そこで影を実測したら一寸二寸長さが違ってました、みたいな実測値ベースでなくって、<

「測影」と書いているんだから、測影したんよ。

>幾何学的な相対値。なので一寸千里の千里には、どんな値でも入る。
当時、一寸千里法をあちこちで試して見た人がいたとすれば、
「何だか、実際の距離と何倍もずれてるよなあ・・」と思ったことだろう。<

一寸千里は、
周地付近での南北千里地点での、夏至正午の8尺棒で測影した結果から得られた推論。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:17:12.69
>>130
>当時の一里434mと、一寸千里法の70何?mとで、約6倍の差があること自体が、
一寸千里法が実測ベースでなく、当時の理念的な宇宙論から幾何学的に導き出された、
ある意味『空想的な値』であることを示している。<

逆。
始皇帝の「1歩=6尺」の「里歩系と尺寸系との換算」命令よりも、
周髀算経の一寸千里の使用や記載の方が、古い。

>だいたい一里1800尺なんだから、時代によって多少の伸び縮みはしても、
そんな一気に6倍も変えられないよ。<

「一里1800尺」という方が、
「1里=300歩」と始皇帝の「1歩=6歩」を使ったインチキ論理である。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:32:09.08
>>139
≧害天説を前提とすれば、同じ時刻に千里離れたところで影の長さを測れば、
冬至でも夏至でも、長安付近でも北回帰線のすぐそばでも、夜明け直後でも正午でも
いつでもどこでも影の長さの違いは一寸になる <

いや、どこでもではない。
「大地平面」近似が出来るところ、という条件下での話であり、
その範囲に、「夏至正午に太陽直下の場所がある」という事の条件。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:42:05.75
>>142
「偉い学者や教科書や文部省やマスコミが言った」
「それに合わない史料事実や説は認めない」
「ぼくちゃんがそう思い込んでる」

これが反論だと思ってるバカの集まり、それが大和説
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:46:29.62
>>946
>半影の真ん中ではなく、最遠端で測っているらしい、
>という事は、教えて上げただろうが。

半影の最遠端でもでも、まだ短いんだよ
ザラコクはどこまで行ってもインチキ野郎だ

測定条件         表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸  これが半影の最遠端
   『周髀算経』    16寸      135寸   比べれば3寸の差があるよな?

半影の最遠端で測っても冬至の影の長さは、周髀算経の記述より「3寸も短い」!
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 11:49:38.37
>>950
>「大地平面」近似が出来るところ、という条件下での話であり、

これがそもそも理解していないという自白
蓋天説では、どこまで行っても、地面も天も平面で8万里の距離をおいて平行、という世界観
もちろん間違っているんだが、その間違った蓋天説を正しいとして机上の計算をしているのが
周髀算経の数値

現実の地理とはまったく無関係な数字だよ
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:16:59.28
つまり、韓国政府が韓国人の3寸男を雇用して宣伝してきた、邪馬台国畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:19:12.34
間違った蓋天説を正しいとして机上の計算をして1里の長さを決定したので、魏志倭人伝時代の1里の長さは、76.834メートルだったのだな。。。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:20:25.19
そろそろ、この重複偽スレッドは、閉鎖した方が良いな。。。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:33:49.12
・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国(魏志)
・1万2千里未満の九州は女王国でさえもない属国(魏志)
・女王国に統属する立場と明記(魏志)
・一大卒は属国に派遣される監視官(魏志、旧唐書、新唐書)でこれが常駐している九州は邪馬台国の時代から属国
・ヒナモリは僻地守備兵。各地に残る蝦夷や熊襲、大陸との境に分布する地名、神社名(和名抄)でこれが配備される九州が僻地であることが分かる

九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる

九州王朝や九州説などと言う寝言はそもそもどこにも存在してない
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:36:51.15
>>957
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。

「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。  @阿波
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:38:57.07
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:43:59.16
弥生人にとって、「阿波」はまさに理想の土地。

温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み

県北部(邪馬台国)には、銅、泥質片岩、緑色片岩、翡翠、蛇紋岩、紅蓮石

県南部(狗奴国)には、辰砂が採れる。

阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。   @阿波
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:43:59.09
>>957
>・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国(魏志)

国境である狗邪韓国までは帯方郡から七千里。
ならば、女王国までの一万二千里は、王都までの距離と解釈するしかない。
明らかに邪馬台国は九州にあった。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:46:47.63
>>156
>>倭国の都の位置は、
唐会要倭国伝の「西北接百濟、正北抵新羅」に拠って、北部九州<

>それ、都の位置だなんてどこにも書いてないだろ?
倭国へ渡るには、新羅から南へ行けばいいというだけで、
津島も壱岐も北部九州も倭国ってだけ<

「接」とするのも「抵」するのも、当然、倭国王や倭国政府からの視点。

>その辺まで大和朝廷の版図に入っているということ<

大和朝廷なんて存在もせず、
「南≠東」であり、
大和から新羅は、ほぼ「西」だから、全く合わないから、×。

>宋書の倭王武の上表文の「西服衆夷六十六國」が九州なんだから、九州は征服される側だ<

「服」は、「征服」や「平定」というような他動詞ではなく、
「服属する」という自動詞の意味であったんだから、
「西は衆夷を(既に)服属せしめた」という 意味になる。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:47:51.15
三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ

刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 12:50:19.13
>>957
>九州は中国史を通して大和に属する僻地であると書いているのが分かる

畿内大和人の夢には違いないだろうが、あくまで夢、冥途への手土産だな、、、。
0965◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/02/13(水) 12:58:47.31
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1550028707/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:02:33.17
>>962
>「服」は、「征服」や「平定」というような他動詞ではなく、
>「服属する」という自動詞の意味であったんだから、
>「西は衆夷を(既に)服属せしめた」という 意味になる。

自動詞に訳してないやんか
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:08:22.18
>>961
>国境である狗邪韓国までは帯方郡から七千里。

これは確かに、そう書いてあるし正しい

>ならば、女王国までの一万二千里は、王都までの距離と解釈するしかない。

これが大間違いw
東京から北海道の入り口まで650キロ
東京から北海道まで900キロ    というのは普通の表現でどちらも正しいが
この「900キロ」というのは、札幌までの距離でも旭川までの距離でもない
北海道(倭国)のような広い範囲までの距離というのは、大体の代表値となるのが当然

北海道まで東京から
一番近いところが650キロ、一番遠いところが1100キロ
東京から北海道までどれくらいと言われたときに、大体真ん中辺で
きりのいい900キロというのが妥当、ということになる

さらに言えば、萬二千里の方は淮南子から持ってきた「遠いところ」を
示す数字に過ぎないし、特定の場所を指すと考える方がおかしい
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:30:21.12
どう誤魔化そうが列挙される九州諸国で1万2千里を消化してしまうので九州が女王国にもならない属国なのは明白
九州の諸国は大体比定が済んでいるので位置も分かっているのでごまかしようもない

女王の都の邪馬台国は1万2千里経て【そこから】水行10日、陸行一月の遠隔地

タンリだのいう単位を捏造しようが、半島から数えるだのあり得ない読み方しようが無意味
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:54:13.55
>>163
>>「服」は、「征」や「平」の他動詞の意味とは違って、
服属していた、という自動詞の意味。<

>おいおい そんなミエミエの真っ赤な嘘で誰が騙せると思ってるんだ?
主語はなんだか言ってみろよ 衆夷は目的語だぞ <

倭王武の上表文なんだから、主語は「倭王武を含む歴代倭国王ら」だ。
倭国王が毛人に風俗する事はないんだから、
「服」は「服属せしめた」という他動詞使用になる。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:56:00.98
>>957
>・女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国(魏志)

帯方郡から女王国まで1万2千里。
帯方郡から国境である狗邪韓国までは七千里。
ならば、狗邪韓国から女王国までは五千里で、到底畿内大和には届かない。
明らかに邪馬台国は九州にあった。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 13:58:22.99
通過する従属諸国の北部九州も末盧國は官がいないからまだ倭国じゃないな
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:00:12.99
狗邪韓国から五千里を経て女王国の境界だな
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:07:14.98
>>944
100年たったら粘土が固まってるんだが。
文章の意味が理解できない様だなキンキーは。
バカジャネーノ?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:07:49.15
つまり、狗邪韓國から五千里相当以内には邪馬臺國は無いということ
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:08:10.76
列挙されてる国が海の上にでもあるのかね
バカ九州説の脳内だと
もしくは伊都国とか韓国かw
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:11:58.73
>>968

どう誤魔化そうが列挙される九州諸国で1万2千里を消化してしまうので九州が女王国なのは明白
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:13:27.23
>>935のように同じ文章を6回も重ねるところに民族性が表れている
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:15:09.69
「去其國萬二千里」だから、1万2千里以内に其國は無い
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:16:10.74
一万二千里より遠くもない。
つまり九州。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:16:43.98
>>969
つまり九州説は

>「服」は、「征」や「平」の他動詞の意味とは違って、
>服属していた、という自動詞の意味。

などと
真っ赤なウソを
言い張っていたというわけだ
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:17:55.61
一万二千里から先が其國だからまず北部九州は対象外
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:19:13.06
>>977
民族性じゃなくて個人の異常性だろ
そいつ連呼魔のあの偏執狂だから
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:19:37.22
女王国まで1万2千里

【女王の都の邪馬台国】は女王国に入ってから水行10日、陸行一月の遠隔地

1万2千里未満の九州はどう捏造しても端から女王国にさえ入れない属国
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:21:59.62
女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国

韓国から日本まで3時間。そこから首都東京まで8時間

と言うのと同じ
九州は首都邪馬台国どころか、女王国の端くれにさえ入らない属国
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:22:07.54
>>976
>どう誤魔化そうが列挙される九州諸国で1万2千里を消化してしまうので

誤魔化して九州諸国で1万2千里をムリヤリ消化したくせw
島巡り二重帳簿詐欺でさ
w
w
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:25:34.49
倭人伝に九州諸国の里が列挙されてるのに何をごまかすんだ?

バカ丸出しの九州説の脳ミソは理解不能だな
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:26:20.76
後漢書は邪馬臺國の方位は「倭在韓東南大海中」としか書いてないから
一万二千里の先の其國が南九州と仮定すると、
極南界の倭奴国はそれより南ということになる
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:28:22.88
>>973
>100年たったら粘土が固まってるんだが。
>文章の意味が理解できない様だなキンキーは。

固まってていいんだよ
その固まった上に「鐙」判定の木製品があって、さらにその上に堆積層があるんだから
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:30:15.75
>>984日本@名無史さん2019/02/13(水) 14:21:59.62
>女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・×

女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:33:23.94
九州諸国はその列挙されてる里数を足すと1万2千里未満でしかない
そこから更に水行10日、陸行一月を計上する女王の都の邪馬台国には全く引っかかりもしない
数字を短く誤魔化そうが、出発地を誤魔化そうがそれは変わらない

伊都国とか奴国とか北朝鮮辺りにあるとか言うならアレだが
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:35:57.53
>>990
女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:37:38.84
九州のクニグニへの里数が明記されてるんだからな

しかもほとんどの国の比定がすんでるわけで数字をいじくって何か変わると思ってんのかね
それこそ奴国とか海の上やら韓国の真っただ中にあるとか言うんだろうか
バカの脳ミソは意味わからんわ
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:38:07.65
女王国まで1万2千里。そこから水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・×
女王国まで1万2千里。それを云い直せば水行10日、陸行一月で女王の都邪馬台国・・・○
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:44:03.40
タンリだから九州に邪馬台国がある!

つまり伊都国も奴国も海上か韓国辺りにある!

とか言うのと同じ
でも伊都国がヤマタイコクだとかほざく
脳ミソいかれてるな
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:50:20.35
伊都国が怡土郡糸島にあった・・、
などと、神功皇后記のパクリを言うからつじつまが合わなくなるのさ。
そもそも神功皇后記が、大和朝廷の思惑あってのステマ。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:50:42.07
>>988
新聞の文章さえ人並みに読めないから九州説になっちゃうんだよね
つまり頭が弱いからってこと
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:50:48.62
>>989>>991>>993の連呼に民族性が表れている
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 14:52:37.62
>>997
ついにそれを云いいだしたかww
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 15:06:25.63
九州説は、もっといろんな本や研究成果の論文を読んだほうがいいと思うよ
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/13(水) 15:06:32.05
2013年、邪馬台国畿内説は完全に破綻した。。。
10011001
垢版 |
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