継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? >>1
誰でも万世一系だけれど、>>1のいう万世一系ってなにかルールがあるの? >>189
え?
応神天皇の皇子として日本書紀では稚野毛二派皇子、古事記では若沼毛二俣王がいて、
その皇子は古事記と上宮記にも意富富杼王と明記され、
さらにその皇子も上宮記に乎非王として記載があり、
続くその皇子は日本書紀に稚野毛二派皇子の曾孫として彦主人王、上宮記には?斯王として書かれている まあ、暗便に交代してたら
あそこまで武烈天皇を悪く描かんよなぁ >>197
応神天皇-誉田別皇子
(凡牟都和希王[上宮記])
↓
稚野毛二派皇子[日本書紀]
(若沼毛二俣王[古事記][上宮記])
↓
意富富杼王[古事記]
(意冨冨等王[上宮記])
↓
乎非王[上宮記]
↓
?主人王[日本書紀]
(汗斯王[上宮記])
↓
継体天皇-男大迹王
(乎富等大公王[上宮記]) >>192
大隅神社は合祀した神社かもしれないけど
応神天皇が難波大隅宮(皇宮)を
大坂上町台地を中心とする古代の難波の地に
大隅宮を造営してから難波の地が開けたと書かれてるよ > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 皇位継承順は雄略天皇のあと
清寧→顕宗→仁賢→武烈→継体→安閑→宣化
だが、これを年齢順に並べると
仁賢>顕宗>継体>清寧>安閑>宣化>武烈
で間違いないかな。ただし雄略天皇の即位元年は日本書紀(457年)より
二十数年は後(480年頃)にずれると思われる。継体天皇が生れたのは日本
書紀では允恭天皇39年(450年)、古事記では顕宗天皇1年(485年)とされるが
実際には雄略天皇の治世初め頃で古事記から算出される西暦の値に近いと思う。
雄略天皇が即位前に父を殺された仁賢と顕宗はおそらく継体よりは10歳ほど年上だろう。
仁賢が40歳ごろ、雄略の娘の春日大娘皇女(磐城皇子や星川皇子より年上)との間に生れた
末のほうの子どもが武烈である(510〜513年頃のこと?)とすれば、武烈は継体と家系図上
同世代であるが、継体より39歳もとは言わなくても30歳ほど若く、一世代下の安閑、宣化天皇
より10歳ほど若かった、その宣化天皇が武烈天皇のすぐ上の姉橘皇女を皇后にしたと考えると
上記の年齢順になるだろう。 欽明天皇はきっと継体天皇が大和に来てから生まれた子どもに違いない。継体は大和で自分たちの
息子たちと年が変わらない、いや少し年下かもしれない手白香皇女に欽明天皇を産ませたのである。
北畠親房は神皇正統記の中で、欽明天皇が亡くなった時81歳、つまり誕生年を491年だとしているが、
欽明を継体42歳ごろの子ども、安閑、宣化より24、5歳年下の弟と考えたからに違いない。実際には
欽明天皇の誕生年は527年頃であろう。蘇我堅塩媛が推古天皇を生んだ(554年頃)ときの欽明の年齢は
神皇正統記の64歳でも定説の45〜46歳でもなく27〜29歳あたりで間違いないだろう。
言うまでもなく姪で皇后の石姫皇女は母が同母姉妹どうしの従姉妹なので欽明とあまり年が離れていなかった
はずだから、二人の第二子である敏達天皇も欽明が即位して後の誕生であり、定説のように皇后になる推古天皇
より16歳も年上(538年生まれ)ではなくせいぜい5〜6歳年上と思われる(愚管抄によると549年生まれで
37歳で亡くなったことになる)。 >>206
史料の成立時期も知らない無能の分際で、何で一人前の口叩いてるの? >>208
口答えの前に自分が間違ってましたごめんなさいが先だろうが無能 >>202
「皇」の概念は書紀以降のものと思われ、継体の時には皇位継承はないだろう 王位を継ぐ者が先代を否定するようでは国は成り立たないので万世一系にしてある
継体はその前の王とは何の関係もなく、後世にスメラミコトの祖先に入れた
>>212では王朝交代の証明力としては弱い、文字による証明がなければうやむやにされるだけ
人物画像鏡は有力だと思う >>215
大陸の遊牧帝国なんかだと、兄弟の跡目争いで、それぞれが軍隊を動員して内戦になることが多い
その点、日本では、平安初期の薬子の変を最後に、兄弟対立で内戦まで至るケースが少なかったように思う 将軍家だと、足利尊氏と足利直義の兄弟が戦争になったけど、足利尊氏は創業者なので、跡目争いとはいえない >>216
平安時代の政変や保元の乱や南北朝は?兄弟の血統で皇統の継承もめてるじゃん。 惣領や治天の君になりたきゃ兄弟で争う に決まってる。 >>218
平安時代の政変は、内戦にまで至ったケースが薬子の変くらいだな 「王朝交代」という説が出てきた背景に、記紀における、あまりにも分かりやすくて嘘っぽい武烈天皇の悪逆無道ぶりがある
これが、中国の史書における「夏の桀王、殷の紂王」のエピソードと、あまりにも似ていた 隋の煬帝もそうだし、王朝が交代したときには、前王朝の最後の王が暴君として描かれるのが定番
「武烈天皇のエピソードも、これに習ったのだろう」という話が出てきた 男系は変わったかもしれないが、金村や麤鹿火はどう感じてたんだろ。
君主押込ぐらいのイメージだった気もする。 >>183
これが正解だろう
補強すると歴代天皇を産んだ母に比べて
継体の母振姫は存在が疑問視されている垂仁天皇から
七代もたった素性も怪しい孫とされ
ご丁寧に分家と言い張るヤカラもいるみたいだが
母方からの記録文献一つも残って無いうえ
越前にそれらしき遺構も全く存在してないところを考えると
継体を産んだ振姫は酋長クラスの娘と見るのが自然 >>225
そんな人物をわざわざ連れてきて大王にしないよ。
資料が失われているだけで、当時としては他の貴族に比べたらまだ大王家に近いと判断できる材料があったのだろう。
遺構?
屋敷跡でもあればいいのか?
どの辺り探せばいいかもわからないのに?
仮に見つかっていても、継体の生家と特定するのは難しいだろう。
わかっていて無理難題でケムに巻いているだけ。 >>226
戦国時代や現代でも宗家跡取り問題で本流から離れた親族でも
血の繋がりだけで養子の形で宗家を継がせる例がかなりあるよ
ましてや継体の頃はまだ古代の竪穴住居に住んでいた時代だし >>227
つまりそれらの例と同じだよね。
遠縁だけれども血の繋がりがあった継体を共立したんだね。 応神天皇→→→→彦主人王→継体
本流から外れた数多くいる傍流だったけど
後継問題が浮上で応神系を重視し継がせたことでしょ >>199
上宮記が出典元だったら信頼性は非常に高い 八幡和郎による、百田尚樹『日本国記』批判
>『日本国紀』でもっとも奇妙なのは、天皇の「万世一系」(永久に一つの系統が続くこと)を称揚しながら、史実としては否定したことだろう。
冒頭の「序にかえて」で、「我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系で二十一世紀の現代まで続いているとされている。こんな国は世界のどこにもない」としている。
ところが「継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。
(略)多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。
私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」としているのである。
(略) 八幡和郎は、百田尚樹が『日本国記』で継体王朝説を採ったことを批判している。
それでいて、万世一系の皇統を称賛しているのは矛盾だという。 なんだ「日本国記」関連スレかよ 道理で「人物画像鏡」に反応しないわけだ >>231
継体に限っては記述文献が極めて少ない上
歴史に残るような業績もないのも明らかになってるし
応神の血筋を頼りに急場しのぎで暫定的に大王になっただけで
史実や歴史的遺物を頼りにする以上ただそれだけの役目なのが歴史でしょ >>233
チョンコ関連スレなら期待してた反応があったかもな >>211
別に当時は「王」位継承で間違いないけど、実在したことは確かな
5、6世紀の大王の正確な在位期間や年齢を推定して日本書紀など
の記述が年代的に正しいかどうか検証する作業は大事ではあるよね
継体天皇とその親族について語るスレなら生没年ぐらいはっきりさせたいわ フランスでは、カペー朝→ヴァロワ朝→ブルボン朝と、千年近い王室の歴史の中で2度の王朝交代が起きたとされているが、
いずれも「本家の嫡男がいないから、分家の出身者が跡を継いだ」という話なので、
それでいったら「継体天皇から新しい王朝が始まった」というのは、まったくおかしくない
イギリス王室だって、大陸から王を迎えたり、王朝がコロコロ代わってる印象を受けるが、これまた、
なんらかの形でイギリス王家の血を継いでいる者でなければ候補にも挙がらないので、その意味では断絶していない 神武朝、崇神朝、景行朝、応神朝、継体朝、天武朝
何度も王朝交代したと。
万世一系もクソもないな。 欧米の王朝交替は既に領土もらって封建諸侯になってる家が継いだ場合じゃん 朝鮮の新羅なんかは傍系が継ぎまくっててひどいのだと五十何世孫とかいるし
李氏朝鮮最後の王の高宗もかなりの傍系 >>238
77日本@名無史さん2019/03/26(火) 18:13:51.76
神武陵を参拝=退位を報告
天皇一族の家祖・神武天皇陵に参る天皇陛下
http://or2.mobi/data/img/231729.jpg >>241
家祖なんて言葉フツーは選ばないけどなw >>239
日本の場合は、臣籍降下してた宇多天皇がそれに該当するな? 実質上入り婿なのは、継体天皇の他、光仁天皇(孝謙天皇の姉妹の夫)、
光格天皇(後桃園天皇の娘婿)? 皇族から臣籍降下して源氏になり、何代かしてから、その家系が天皇の跡を継いだら、フランス式の王朝交代ってわけだな
継体天皇の場合は、ちょっと遠い親戚とはいえ皇族だから、それには当たらないか 継体の時代に皇族という概念がどこまで確立していたのやら。 獲加多支歯
呉音で読んだら エッカタシロ
万葉仮名じゃ読めません
中古音 カクカタキル
ワカタケル?wwww 継体の前の天皇をさんざん悪しざまに描いた上で
https://nihonsinwa.com/page/1572.html
継体「九州を鎮圧して来い。
そのまま、九州はお前が統治すればいいから。
オレは長門から西を治めるので我慢するし、
もう連絡もいらないぞ。じゃあな」
……だから、まあ、いろいろ在ったんだろうなぁって感じ 西じゃなくて東だった
https://nihonsinwa.com/page/1572.html
継体「九州を鎮圧して来い。
そのまま、九州はお前が統治すればいいから。
オレは長門から東を治めるので我慢するし、
もう連絡もいらないぞ。じゃあな」 天皇に都合よく描いてるであろうはずの、
日本書紀の描写ですら
九州の全権を放棄してそうな状態なんだよね 賞罰の専行まで与えてるって事は
現地での人事権まで持たせてるって事だから
実質、独立国レベルの話だろう
・・・なんか奥歯にものが挟まった様な記事だなって >>227
歴史上単なる繫ぎの役割ねつっかえ棒継体さんは
武烈大王が死んでから後継選びに
20年もかかってるからも混迷してたのがわかる 独立自治を認めてまで攻略するというのは、その時点でも支配権が及んでいない。
つまり継体の時代はせいぜい連合程度までであり、九州は畿内から独立していた。
継体の乱では肥国なども筑紫の君に同調していた。 筑紫君磐井を討伐してもその後なぜか一族は生き延びてそのまま筑紫を収めてたんだよなぁ
ああ不思議だ 磐井が新羅と通じてたから討伐の対象になったって理由だよな
あっ 察し >>262-263
息子のクズコは命乞いして糟屋屯倉を手放したから見逃してもらっただけじゃん ちなみに、もれ(仮名)は『松傾』?こういう名前の家
『陶氏』〜大内氏?関係の話にも出てない? ほとんど偶然なのかな?
父親の名前(下の名前)w
勝□・・・? 『松傾』
の家の子供の頃の写真、むかーしのw
きゅうりのような葉、葱の華・・・などが写っていて、
あと寺院の話もしていたり
『老婆談』 老婆と家(『松傾』?)が結婚するとき・・・、
何かの家だと言われたとか、凄い家(不明)の人w >>263
畿内が百済と通じていたからだろ。
この時代の情勢は朝鮮半島抜きには語れない。 >>265
なぜか筑紫の君も畿内天皇家と並ぶ格式と権力を持っていたんだよね。
しかも白村江でも筑紫の君が陣頭指揮を取っていた。 『牛頭テンオノウ』?
『何者にもなれない お前たち』
『』内を調べてみて、画像 天王、天皇・・・、
どちらでも良いんだけど、
そもそも日本の話ではない 『松傾』〜AD200年頃の話が出てきたり、
昔から住んでいる系統?
「国(日本)の〜〜〜〜だぞ」と言ってる人がいたり 獲加多支鹵はフェッカタギロと読むのが正しい
百済王です >>260
継体大王の崩御
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage626a.htm
欽明天皇の誕生は通説通り509年ごろで継体60歳のときの
子どもだと信じてるの?
506年頃亡くなったのは武烈天皇じゃなくて
日本書紀では479年に亡くなってるはずの雄略天皇だそうだよ。
526〜533年まで継体と武烈が共立されていたようだ。 継体天皇の在位期間は清寧、顕宗、仁賢、武烈、安閑天皇
の元年を足した28年で、武烈天皇の後即位したのは安閑天皇
であって継体天皇は即位していない。
武烈天皇の本来の年齢=57歳−39歳=18歳(実際は20歳?)
継体天皇の本来の年齢=82歳−39歳=43歳
安閑天皇の本来の年齢=70歳−39歳=31歳
宣化天皇の本来の年齢=73歳−39歳=34歳
youtubeで歴代天皇を歌で覚える画像みたいなのがあったが
皇紀に合わせた初期の天皇の異常に長い在位期間もさることながら
30代で亡くなった方を白髪・白髭の老人のように描くのは良くない
ですな 敗戦処理用の継体は一時的リリーフだったのが事実だよ
応神の威光さまさまで何の取り柄も無い田舎者 大王後継者選びに相応しいのがいなくて
難航のすえ仕方なく応神系の血脈だけで選んだってことでしょ 応神の血を引いているというのが無理矢理作った話
同じ一族の武烈を悪者にする理由がない しかし朝廷の重臣たちが支持したということは、応神の子孫という部分は事実なのではないかと思う。 その支持に20年かかったんだから武力で押さえ付けた結果なんじゃない? 後継者を巡る権力争いが続いただけだろ
一昔前の自民党の派閥みたいなもの
自民党という枠(ヤマト王権)は守りながら、総裁(大王)を誰にするかで派閥間で駆け引き 派閥抗争の結果、一番害がなさそうな人物を共立したのではないか。
歴代総理でもそんなのなが何人かいるよね。 神聖ローマ帝国でも、「大空位時代」が20年ほど続いた後、無力で害がなさそうな人物が皇帝に選ばれた
でも、害がなさそうだったルドルフ1世はとんでもないヤリ手で、その後のハプスブルク王朝の基礎を築いた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています