皇位継承順は雄略天皇のあと
清寧→顕宗→仁賢→武烈→継体→安閑→宣化

だが、これを年齢順に並べると
仁賢>顕宗>継体>清寧>安閑>宣化>武烈
で間違いないかな。ただし雄略天皇の即位元年は日本書紀(457年)より
二十数年は後(480年頃)にずれると思われる。継体天皇が生れたのは日本
書紀では允恭天皇39年(450年)、古事記では顕宗天皇1年(485年)とされるが
実際には雄略天皇の治世初め頃で古事記から算出される西暦の値に近いと思う。
雄略天皇が即位前に父を殺された仁賢と顕宗はおそらく継体よりは10歳ほど年上だろう。
仁賢が40歳ごろ、雄略の娘の春日大娘皇女(磐城皇子や星川皇子より年上)との間に生れた
末のほうの子どもが武烈である(510〜513年頃のこと?)とすれば、武烈は継体と家系図上
同世代であるが、継体より39歳もとは言わなくても30歳ほど若く、一世代下の安閑、宣化天皇
より10歳ほど若かった、その宣化天皇が武烈天皇のすぐ上の姉橘皇女を皇后にしたと考えると
上記の年齢順になるだろう。