継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? 八幡和郎は、百田尚樹が『日本国記』で継体王朝説を採ったことを批判している。
それでいて、万世一系の皇統を称賛しているのは矛盾だという。 なんだ「日本国記」関連スレかよ 道理で「人物画像鏡」に反応しないわけだ >>231
継体に限っては記述文献が極めて少ない上
歴史に残るような業績もないのも明らかになってるし
応神の血筋を頼りに急場しのぎで暫定的に大王になっただけで
史実や歴史的遺物を頼りにする以上ただそれだけの役目なのが歴史でしょ >>233
チョンコ関連スレなら期待してた反応があったかもな >>211
別に当時は「王」位継承で間違いないけど、実在したことは確かな
5、6世紀の大王の正確な在位期間や年齢を推定して日本書紀など
の記述が年代的に正しいかどうか検証する作業は大事ではあるよね
継体天皇とその親族について語るスレなら生没年ぐらいはっきりさせたいわ フランスでは、カペー朝→ヴァロワ朝→ブルボン朝と、千年近い王室の歴史の中で2度の王朝交代が起きたとされているが、
いずれも「本家の嫡男がいないから、分家の出身者が跡を継いだ」という話なので、
それでいったら「継体天皇から新しい王朝が始まった」というのは、まったくおかしくない
イギリス王室だって、大陸から王を迎えたり、王朝がコロコロ代わってる印象を受けるが、これまた、
なんらかの形でイギリス王家の血を継いでいる者でなければ候補にも挙がらないので、その意味では断絶していない 神武朝、崇神朝、景行朝、応神朝、継体朝、天武朝
何度も王朝交代したと。
万世一系もクソもないな。 欧米の王朝交替は既に領土もらって封建諸侯になってる家が継いだ場合じゃん 朝鮮の新羅なんかは傍系が継ぎまくっててひどいのだと五十何世孫とかいるし
李氏朝鮮最後の王の高宗もかなりの傍系 >>238
77日本@名無史さん2019/03/26(火) 18:13:51.76
神武陵を参拝=退位を報告
天皇一族の家祖・神武天皇陵に参る天皇陛下
http://or2.mobi/data/img/231729.jpg >>241
家祖なんて言葉フツーは選ばないけどなw >>239
日本の場合は、臣籍降下してた宇多天皇がそれに該当するな? 実質上入り婿なのは、継体天皇の他、光仁天皇(孝謙天皇の姉妹の夫)、
光格天皇(後桃園天皇の娘婿)? 皇族から臣籍降下して源氏になり、何代かしてから、その家系が天皇の跡を継いだら、フランス式の王朝交代ってわけだな
継体天皇の場合は、ちょっと遠い親戚とはいえ皇族だから、それには当たらないか 継体の時代に皇族という概念がどこまで確立していたのやら。 獲加多支歯
呉音で読んだら エッカタシロ
万葉仮名じゃ読めません
中古音 カクカタキル
ワカタケル?wwww 継体の前の天皇をさんざん悪しざまに描いた上で
https://nihonsinwa.com/page/1572.html
継体「九州を鎮圧して来い。
そのまま、九州はお前が統治すればいいから。
オレは長門から西を治めるので我慢するし、
もう連絡もいらないぞ。じゃあな」
……だから、まあ、いろいろ在ったんだろうなぁって感じ 西じゃなくて東だった
https://nihonsinwa.com/page/1572.html
継体「九州を鎮圧して来い。
そのまま、九州はお前が統治すればいいから。
オレは長門から東を治めるので我慢するし、
もう連絡もいらないぞ。じゃあな」 天皇に都合よく描いてるであろうはずの、
日本書紀の描写ですら
九州の全権を放棄してそうな状態なんだよね 賞罰の専行まで与えてるって事は
現地での人事権まで持たせてるって事だから
実質、独立国レベルの話だろう
・・・なんか奥歯にものが挟まった様な記事だなって >>227
歴史上単なる繫ぎの役割ねつっかえ棒継体さんは
武烈大王が死んでから後継選びに
20年もかかってるからも混迷してたのがわかる 独立自治を認めてまで攻略するというのは、その時点でも支配権が及んでいない。
つまり継体の時代はせいぜい連合程度までであり、九州は畿内から独立していた。
継体の乱では肥国なども筑紫の君に同調していた。 筑紫君磐井を討伐してもその後なぜか一族は生き延びてそのまま筑紫を収めてたんだよなぁ
ああ不思議だ 磐井が新羅と通じてたから討伐の対象になったって理由だよな
あっ 察し >>262-263
息子のクズコは命乞いして糟屋屯倉を手放したから見逃してもらっただけじゃん ちなみに、もれ(仮名)は『松傾』?こういう名前の家
『陶氏』〜大内氏?関係の話にも出てない? ほとんど偶然なのかな?
父親の名前(下の名前)w
勝□・・・? 『松傾』
の家の子供の頃の写真、むかーしのw
きゅうりのような葉、葱の華・・・などが写っていて、
あと寺院の話もしていたり
『老婆談』 老婆と家(『松傾』?)が結婚するとき・・・、
何かの家だと言われたとか、凄い家(不明)の人w >>263
畿内が百済と通じていたからだろ。
この時代の情勢は朝鮮半島抜きには語れない。 >>265
なぜか筑紫の君も畿内天皇家と並ぶ格式と権力を持っていたんだよね。
しかも白村江でも筑紫の君が陣頭指揮を取っていた。 『牛頭テンオノウ』?
『何者にもなれない お前たち』
『』内を調べてみて、画像 天王、天皇・・・、
どちらでも良いんだけど、
そもそも日本の話ではない 『松傾』〜AD200年頃の話が出てきたり、
昔から住んでいる系統?
「国(日本)の〜〜〜〜だぞ」と言ってる人がいたり 獲加多支鹵はフェッカタギロと読むのが正しい
百済王です >>260
継体大王の崩御
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage626a.htm
欽明天皇の誕生は通説通り509年ごろで継体60歳のときの
子どもだと信じてるの?
506年頃亡くなったのは武烈天皇じゃなくて
日本書紀では479年に亡くなってるはずの雄略天皇だそうだよ。
526〜533年まで継体と武烈が共立されていたようだ。 継体天皇の在位期間は清寧、顕宗、仁賢、武烈、安閑天皇
の元年を足した28年で、武烈天皇の後即位したのは安閑天皇
であって継体天皇は即位していない。
武烈天皇の本来の年齢=57歳−39歳=18歳(実際は20歳?)
継体天皇の本来の年齢=82歳−39歳=43歳
安閑天皇の本来の年齢=70歳−39歳=31歳
宣化天皇の本来の年齢=73歳−39歳=34歳
youtubeで歴代天皇を歌で覚える画像みたいなのがあったが
皇紀に合わせた初期の天皇の異常に長い在位期間もさることながら
30代で亡くなった方を白髪・白髭の老人のように描くのは良くない
ですな 敗戦処理用の継体は一時的リリーフだったのが事実だよ
応神の威光さまさまで何の取り柄も無い田舎者 大王後継者選びに相応しいのがいなくて
難航のすえ仕方なく応神系の血脈だけで選んだってことでしょ 応神の血を引いているというのが無理矢理作った話
同じ一族の武烈を悪者にする理由がない しかし朝廷の重臣たちが支持したということは、応神の子孫という部分は事実なのではないかと思う。 その支持に20年かかったんだから武力で押さえ付けた結果なんじゃない? 後継者を巡る権力争いが続いただけだろ
一昔前の自民党の派閥みたいなもの
自民党という枠(ヤマト王権)は守りながら、総裁(大王)を誰にするかで派閥間で駆け引き 派閥抗争の結果、一番害がなさそうな人物を共立したのではないか。
歴代総理でもそんなのなが何人かいるよね。 神聖ローマ帝国でも、「大空位時代」が20年ほど続いた後、無力で害がなさそうな人物が皇帝に選ばれた
でも、害がなさそうだったルドルフ1世はとんでもないヤリ手で、その後のハプスブルク王朝の基礎を築いた >>292
ああ、そうだね。
変にやる気を出して筑紫を取りに行ったりしてしまったわけだ。 >>293
ヤマト王権が他の勢力と連合したというのは飛躍し過ぎ
継体天皇の出身地はとっくに前方後円墳体制に組み込まれてる 空位20年と言ってる人たちは
継体が20年間遷宮していた時期は清寧、顕宗、仁賢の
三天皇の在位期間に一致し、武烈天皇を傀儡にして8年
生きていたという>>279-280の王朝並立説(?)を
無視できるだけの根拠があるのか? 男大迹大王(おほどのおおきみ)が本名なんだけどな継体って
男大迹大王の他に呼び名があったけど死んで
250年以上もたってから継体って名前が付けられたのは >このことから調べると、継体在位期間28年は清寧5年間+顕宗3年間+仁賢11年間+武烈8年間+安閑2年のうち、
>継体と重複する1年間の合計28年と等しいことに気がつきました。つまり、継体は武烈天皇から皇位を引き継いだの
>ではなく、すでに雄略天皇崩御のときから、琵琶湖以北を統括した継体大王として立ち上がったと考えられます。むろん、
>力のない清寧天皇の時代であり、各地でこのような群雄割拠が次々に起こっていたはずです。
>ここでは、継体大王の28年間と清寧から武烈まで4代を一瞥します。すると継体大王の4つの行宮に移り住んだ時期
>と4人の天皇の崩御即位時期とが驚くほど一致したのです。
>507継体 1年 交野樟葉宮 = 清寧1年 清寧天皇即位年
>511継体 5年 山背綴喜宮 = 清寧5年 清寧天皇崩御、翌1月顕宗天皇即位
>518継体12年 山背弟国 = 仁賢4年 的臣蚊嶋、穗瓮君は罪を犯し、みな死んだ。
>526継体20年 大和玉穂宮 = 武烈1年 武烈天皇即位年
>534継体28年 継体天皇崩御 = 安閑1年 安閑天皇即 >扶桑略記など史書一般
>扶桑略記では欽明天皇の年齢は示されていません。ここは当時の歴史書の63歳説を採用して併記しま
>した。ここでの特徴は武烈天皇の年齢がなぜか、極端にリアルな18歳として記述されたことです。こ
>れそこ伝承があったと信じたいところですが、たぶん扶桑略記の編者は日本書紀の57歳では、武烈の
>姉たちが年下となる継体やさらに一世代下がる息子たちの皇后になる不自然さに気がついたために、最
>小の年齢18歳を創作したのかもしれません。こうすれば、武烈の姉、手白香皇女や橘皇女の存在が正
>当化されるのです。しかし、相変わらず継体大王とその安閑、宣化親子は高齢であり、継体天皇は60
>歳で欽明天皇が生まれるという不自然さから逃れられないのです。
>現行通説
>現行通説と名を打ちましたが、ここでは高城修三氏の継体天皇54歳説を採用しただけのものです。そ
>の周辺は諸説あるため、後の部分はすべて本稿の推敲です。要は継体天皇の高年齢の不自然さを解消す
>るために年齢を引き下げ、二朝並列などという自分で主張してしまった極論を廃絶できたのではないか
>とした本稿の試算といえるものです。たぶん、高城修三氏のいう54歳とは継体大王即位年30歳をベ
>ースにして組み立てたものと思われます。宝年も安閑42歳、宣化45歳と無難なものになり、欽明天
>皇の年齢関係も在位41年説を加味しても不自然さはありません。しかし、武烈天皇の姉たちの年齢は
>適正かもしれませんが、このままでは、息子の宣化天皇は8歳年上の橘皇女を娶ったことになります。
>政略とはいえ、不満は残ります。継体大王の年齢が引き下げられたことで、扶桑略記などが定めた18
>歳説がぼやけてしまうからです。やはり、武烈天皇の即位年を引き下げなければこの問題は解決しない
>ことがわかります。 >>171
>現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
>古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
文化庁が認定してない古墳は調査されてるだろ。
黒塚古墳とか明らかに皇族の墓だ。
調査しても天皇家のルーツは判明しない 黒塚古墳は、纏向遺跡の真北にある。纏向遺跡の真南にあるのが箸墓。
黒塚古墳は、箸墓の約半分の大きさである。
黒塚古墳は、崇神天皇陵のすぐ近くにある。
黒塚古墳は、出土した副葬品からも崇神天皇と卑弥呼の親族の墓と推測される。
文化庁が皇族の墓と認定していないため完全に調査済みである。 >>263
筑紫の別名がシラヒワケ
シラヒが新羅の語源
もともと同じ国でシラヒ(新羅)と分かれたからシラヒワケと呼ばれる。
神武天皇の兄弟が新羅王の祖で
新羅王の祖は倭人である。
磐井は岩井(岩の中)という意味
岩の中に神様がいるので磐井と呼ばれる
弥勒菩薩も岩の中から誕生した。 新羅王の祖(倭人の新羅王・神武天皇の兄弟)である
脱解尼師今が新羅王になったのが西暦57年だから
西暦57年に金印「漢委奴国王」をもらったのが神武天皇で間違いないだろうね >>238
「神」の字が入ってる天皇の時に王朝交代したので
王朝交代は神武朝、崇神朝、応神朝だけだよ
継体朝はその名の通り応神朝を継いだ体の朝廷であり
王朝交代はしていない。
神武朝は銅鐸文化で、崇神朝で銅鐸文化が消滅しているので
完全に根本から王朝が変わっていることがわかる 漢委奴国王が神武天皇なので
おそらく神の語源は「漢委」だろう。
アイヌ語では神をカムイと発音するが
「漢委」ならカムイとも読める 伊都国に九州の代々の王がいた(平原遺跡)が
筑紫のリーダーが金印「漢委奴国王」をもらったことによって
伊都国の王よりも筑紫のリーダーが偉くなったんだろうね。
これにより神武天皇が誕生した。
金印の威光は絶大で神武天皇の兄弟である
脱解尼師今が戦争せずに新羅王になれたくらいだから
出雲の国譲りが起きたのも西暦57年だろう。
脱解尼師今は丹波国出身なので神武天皇時代から畿内と筑紫の関係性は深かった >>305
むしろ、朝鮮半島をながらく植民地化してたって設定なのに
継体以前の古墳から朝鮮由来のものがろくに出てこず
継体以降の行事で朝鮮由来のモノが多くなってるんじゃ
……あ、これは!って感じになるんじゃない? ウェー、ハッハッハ !!! ウェー、ハッハッハ !!! ウェー、ハッハッハ !!!
┼ + + * ┼ + + *
(´\r-、 + /`/`) +
┼ (\. \! * // ,/) *
+ * (ヽ、 \ / /) +
⊂ニ ) + ( ニ⊃ *
* + ⊂、 捏造 ( ノ 妄想 ⊃ + *
(/( ∩∧_∧∩ )\) ┼
+ (/ |<*`∀´*>| 、)ヽ) + ┼ *
* (/' 〉 〈./、)、)´ + *
し――-J >>315
朝鮮半島をながらく植民地化してたんだから
朝鮮の王族はみんな倭人で
朝鮮文化が流入するのは自然なことだよ。
科学的な遺伝子解析でも朝鮮人は日本列島であまり増えてないが
日本人は朝鮮半島(とくに高句麗)で爆発的に増えてるんだよ。
高句麗は遠いから倭人が大量に移住して支配したと推測できる。 〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜
2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/OK8GUSr.jpg
https://i.imgur.com/I5ZY2Es.jpg
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/yeYhSQ0.jpg
従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/EvBw7qP.jpg
https://i.imgur.com/U5qCx8F.jpg
https://i.imgur.com/mmUY7Md.png
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%
従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/vMjf4HI.jpg
チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える
結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在 〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 祖神を祀る古墳を建立したという理由で蘇我+「聖徳太子」に物部は虐殺された
物部のうち生き残ったのは百済仏教に改宗していた一部の人間のみ
「聖徳太子」の憲法は大量に流入してきた百済系氏族が
それまでの在住豪族を制圧した勝利宣言なんだよ >>321
朝っぱらからシャブでも打ち込んでんのかキチガイ? >>322=小中学校の教科書にすら書いてある事実を知らない白痴 >>321
もともと物部が朝廷全体の祭祀の担当だから、それはおかしい。
仏教を口実に蘇我氏が謀反を起こしたと見るべき。
そもそも、ヤマト王権の本来の主人は饒速日を祖とする物部氏だったと見ることもできる。
纒向も物部氏の宮という見方があり、前方後円墳もしかり。 年表
〜西暦57年 伊都国(福岡県糸島市)に代々の王がいた。平原遺跡がその遺跡。
西暦57年 漢から金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇誕生。首都は奴国(福岡県)
西暦57年 『新羅本紀』によると倭人が新羅王になった。
西暦57〜181年 銅鐸文化の時代(欠史8代の時代)
西暦107年 第6代・孝安天皇(倭国王師升等)
西暦181年 第10代・崇神天皇。首都は大和(奈良県)
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年 『崇神紀』によると倭国の人口の半分が死んだ。
西暦182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった。」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦183年 『崇神紀』によると渟名城入姫命の髪が抜け落ち身体が痩せ細ったので神を祀れなくなった(崇神天皇の娘も餓死寸前)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 『新羅本記』によると倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡った。
西暦181〜184年 大噴火の影響で大飢饉が発生。倭国大乱。中国では黄巾の乱が勃発。
西暦184年 奈良でモモソ姫に大物主神を祀らせたら五穀豊穣になった。スーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になる。新王朝が誕生し、銅鐸文化が消滅。
西暦200〜247年 『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇、本名は伊久米)
西暦248年 『三国志』によると女王・卑弥呼が亡くなった。
西暦248〜266年 第12代・景行天皇の息子・ヤマトタケルが熊襲(熊本)の討伐に成功。ちょうど吉野ケ里遺跡(熊襲と倭国の国境付近の軍事施設)の衰退時期。
西暦266年 台与が朝貢した。
西暦266〜397年 記録が残ってないのか系譜が途切れたのかわからないが空白期間。大陸は戦国時代で倭もそれに参加して三韓討伐やってたようだ。 (神功皇后の神話時代)
西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。
※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力 >>326
>西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
>※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。
>※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力
応神から新王朝は結構だが、仲哀を架空にする必要はない。
神功皇后が武内宿禰と共謀して仲哀を暗◯し、その皇子を排除したことは記紀から読み取れる。
むしろ応神から新王朝というのなら、旧王朝を最後の王としての仲哀の存在は重要だろう。
仲哀が邪魔だと思う意見の本心は、仲哀が福岡県のみにいて、旧王朝が筑紫倭国であることが明らかだ。
神功皇后はさらに八咫の鏡を保有していた筑紫の梟帥であった神夏磯姫の末裔と言われる田油津姫も倒しており、これをもって邪馬台国王統が滅亡したと考えられる。 >西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
正しくは好太王碑に記されているように
大国である高句麗に対抗するために阿辛は息子の腆支を大国である倭国に人質として差し出した
が正解 武烈天皇は実在の天皇なのか?
継体天皇の即位を正統なものとする為に
捏造された天皇ではないのかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています