継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? >>263
筑紫の別名がシラヒワケ
シラヒが新羅の語源
もともと同じ国でシラヒ(新羅)と分かれたからシラヒワケと呼ばれる。
神武天皇の兄弟が新羅王の祖で
新羅王の祖は倭人である。
磐井は岩井(岩の中)という意味
岩の中に神様がいるので磐井と呼ばれる
弥勒菩薩も岩の中から誕生した。 新羅王の祖(倭人の新羅王・神武天皇の兄弟)である
脱解尼師今が新羅王になったのが西暦57年だから
西暦57年に金印「漢委奴国王」をもらったのが神武天皇で間違いないだろうね >>238
「神」の字が入ってる天皇の時に王朝交代したので
王朝交代は神武朝、崇神朝、応神朝だけだよ
継体朝はその名の通り応神朝を継いだ体の朝廷であり
王朝交代はしていない。
神武朝は銅鐸文化で、崇神朝で銅鐸文化が消滅しているので
完全に根本から王朝が変わっていることがわかる 漢委奴国王が神武天皇なので
おそらく神の語源は「漢委」だろう。
アイヌ語では神をカムイと発音するが
「漢委」ならカムイとも読める 伊都国に九州の代々の王がいた(平原遺跡)が
筑紫のリーダーが金印「漢委奴国王」をもらったことによって
伊都国の王よりも筑紫のリーダーが偉くなったんだろうね。
これにより神武天皇が誕生した。
金印の威光は絶大で神武天皇の兄弟である
脱解尼師今が戦争せずに新羅王になれたくらいだから
出雲の国譲りが起きたのも西暦57年だろう。
脱解尼師今は丹波国出身なので神武天皇時代から畿内と筑紫の関係性は深かった >>305
むしろ、朝鮮半島をながらく植民地化してたって設定なのに
継体以前の古墳から朝鮮由来のものがろくに出てこず
継体以降の行事で朝鮮由来のモノが多くなってるんじゃ
……あ、これは!って感じになるんじゃない? ウェー、ハッハッハ !!! ウェー、ハッハッハ !!! ウェー、ハッハッハ !!!
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し――-J >>315
朝鮮半島をながらく植民地化してたんだから
朝鮮の王族はみんな倭人で
朝鮮文化が流入するのは自然なことだよ。
科学的な遺伝子解析でも朝鮮人は日本列島であまり増えてないが
日本人は朝鮮半島(とくに高句麗)で爆発的に増えてるんだよ。
高句麗は遠いから倭人が大量に移住して支配したと推測できる。 〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜
2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/OK8GUSr.jpg
https://i.imgur.com/I5ZY2Es.jpg
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/yeYhSQ0.jpg
従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/EvBw7qP.jpg
https://i.imgur.com/U5qCx8F.jpg
https://i.imgur.com/mmUY7Md.png
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%
従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/vMjf4HI.jpg
チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える
結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在 〜チョンコ(通称:朝鮮ヒトモドキ)ショック死?! 半島はもともと農耕民族化した縄文人に支配統治された地域だった♪〜
朝鮮半島南部は紀元前から菜畑・板付・金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識されていました。
根拠として挙げられるのが、
@半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、
A半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米が九州島由来であることです。
なお、北部は遼河文明領域であり、ウラル系やツングース系が住んでいたことも判明しています。
寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北にウラル系や後には漢族系などが流入し、
弥生人(元縄文人)国家である辰国の技術指導を受け入れながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国です。
北緯36度線の壁によって倭人(元弥生人)の影響を直接受けなかった
ツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、
漢族系であった馬韓は百済に、
辰韓と弁韓が併合して倭種の国新羅に、
狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行しました。
https://i.imgur.com/cL5IUF5.jpg
百済は元漢民族であったにもかかわらず、倭国本土に媚を売り続けたため、中華化した新羅から大いに反感を買い、唐と組んで逐滅(現代語 絶滅)させられました。
高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅になったのですが、白村江の戦いは朝鮮半島から倭人や倭種の引き揚げが目的だったのだろうと推察できます。
その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅してしまいました。
高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモンゴル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至っているのです。 祖神を祀る古墳を建立したという理由で蘇我+「聖徳太子」に物部は虐殺された
物部のうち生き残ったのは百済仏教に改宗していた一部の人間のみ
「聖徳太子」の憲法は大量に流入してきた百済系氏族が
それまでの在住豪族を制圧した勝利宣言なんだよ >>321
朝っぱらからシャブでも打ち込んでんのかキチガイ? >>322=小中学校の教科書にすら書いてある事実を知らない白痴 >>321
もともと物部が朝廷全体の祭祀の担当だから、それはおかしい。
仏教を口実に蘇我氏が謀反を起こしたと見るべき。
そもそも、ヤマト王権の本来の主人は饒速日を祖とする物部氏だったと見ることもできる。
纒向も物部氏の宮という見方があり、前方後円墳もしかり。 年表
〜西暦57年 伊都国(福岡県糸島市)に代々の王がいた。平原遺跡がその遺跡。
西暦57年 漢から金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇誕生。首都は奴国(福岡県)
西暦57年 『新羅本紀』によると倭人が新羅王になった。
西暦57〜181年 銅鐸文化の時代(欠史8代の時代)
西暦107年 第6代・孝安天皇(倭国王師升等)
西暦181年 第10代・崇神天皇。首都は大和(奈良県)
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年 『崇神紀』によると倭国の人口の半分が死んだ。
西暦182年 『後漢書』によると「井戸の中が凍ってしまった。」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦183年 『崇神紀』によると渟名城入姫命の髪が抜け落ち身体が痩せ細ったので神を祀れなくなった(崇神天皇の娘も餓死寸前)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 『新羅本記』によると倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡った。
西暦181〜184年 大噴火の影響で大飢饉が発生。倭国大乱。中国では黄巾の乱が勃発。
西暦184年 奈良でモモソ姫に大物主神を祀らせたら五穀豊穣になった。スーパーヒーローのモモソ姫が女王・卑弥呼になる。新王朝が誕生し、銅鐸文化が消滅。
西暦200〜247年 『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇、本名は伊久米)
西暦248年 『三国志』によると女王・卑弥呼が亡くなった。
西暦248〜266年 第12代・景行天皇の息子・ヤマトタケルが熊襲(熊本)の討伐に成功。ちょうど吉野ケ里遺跡(熊襲と倭国の国境付近の軍事施設)の衰退時期。
西暦266年 台与が朝貢した。
西暦266〜397年 記録が残ってないのか系譜が途切れたのかわからないが空白期間。大陸は戦国時代で倭もそれに参加して三韓討伐やってたようだ。 (神功皇后の神話時代)
西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。
※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力 >>326
>西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
>※学者の間でも応神天皇は新王朝説は有力な説である。
>※13〜14代天皇は空白期間を繋ぎ合わせるための架空の天皇と思われる。学者の間でも架空説が有力
応神から新王朝は結構だが、仲哀を架空にする必要はない。
神功皇后が武内宿禰と共謀して仲哀を暗◯し、その皇子を排除したことは記紀から読み取れる。
むしろ応神から新王朝というのなら、旧王朝を最後の王としての仲哀の存在は重要だろう。
仲哀が邪魔だと思う意見の本心は、仲哀が福岡県のみにいて、旧王朝が筑紫倭国であることが明らかだ。
神功皇后はさらに八咫の鏡を保有していた筑紫の梟帥であった神夏磯姫の末裔と言われる田油津姫も倒しており、これをもって邪馬台国王統が滅亡したと考えられる。 >西暦397年 第15代・応神天皇。百済が倭に王子を遣わした。
正しくは好太王碑に記されているように
大国である高句麗に対抗するために阿辛は息子の腆支を大国である倭国に人質として差し出した
が正解 武烈天皇は実在の天皇なのか?
継体天皇の即位を正統なものとする為に
捏造された天皇ではないのかな 武烈だけでなく、天皇家は互いに誅するのがお家芸だったから、そんなことも起きたんだよ。
別に不思議ではない。 >>321
>流入してきた百済系氏族が
たとえば誰?
蘇我と物部の対立は、倭国大乱の時期にまでさかのぼるとみている。
崇神天皇を4c前半として6世代前、すなわち卑弥呼の時代に、
蘇我のルーツである葛城にいた天日方奇日方、
そして磯城にいた物部のウマシマジという二人の申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)がいるからだ。
これは倭国大乱で相争っていた両者のトップという意味であろう。 >>326
当時の平均寿命は40歳に満たない。
一世代間は20年。
兄弟継承を含めた一代平均在位は11年。
その説では全然計算が合わない。
卑弥呼の時代が実は神武の時代。
女王国の時代を、ことさら武勇伝を強調し男王国であったかのように上書きしたのが記紀だ。 >>336
応神元年が390年は考古学的にも文献史的にもガチ。
そこから30代あたりで平均在位をとってみ。
計算方法に古いも新しいもあるかい。 >>336
だったら新しい説をどうぞ。
文句つけるだけじゃダメ。
神武東征が邪馬台国直前。
神武不在の筑紫で倭王に即位したのが卑弥呼。 >>337
計算はあってるだろ。
崇神までが一代平均在位は12年
エピソード的に崇神、垂仁、景行あたりで在位期間の長い長寿の天皇がいたのは確実なので
そこは在位期間が伸びてる。 >>335
計算はあってるだろ。
崇神までが一代平均在位は12年
エピソード的に崇神、垂仁、景行あたりで在位期間の長い長寿の天皇がいたのは確実なので
そこは在位期間が伸びてる。 記紀みるとわかるが年齢は改ざんしてるけど
天皇の代数は改ざんしてない
てんのうの代数の改ざんはできなかったと考えるのが自然で
だから天皇の年齢がおかしくなった
欠史八代は実在である >>331
武烈はエピソードが生々しすぎるから実在
実際にあったことを書いてるとしか思えない 証拠があるのでこれは確実
初代・神武天皇
西暦57年 漢から金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇誕生。首都は奴国(福岡県)
西暦57年 『新羅本紀』によると倭人が新羅王の祖になった。 『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄は新羅王の祖
第10代・崇神天皇
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 、『崇神紀』によると倭国の人口の半分が死んだ。
西暦181〜184年 黄巾の乱と倭国大乱が勃発
※黄巾の乱は噴煙の影響で空が黄色くなったので黄色をイメージカラーにしている。「蒼天すでに死せり(青い空は死んだ)」ので黄巾の乱が起きた。
ここまで一代平均在位は約13年 ここも証拠があるので確実
第10代・崇神天皇
西暦181〜184年 倭国大乱
第12代 景行天皇と息子ヤマトタケル
西暦250年頃、吉野ケ里遺跡の衰退(熊襲討伐成功)
崇神、垂仁、景行は長寿で3人合計で80年以上の在位期間がある。
その後、応神元年の390年まで天皇のいない100年以上の空白期間がある。そのため記紀では神功皇后など架空の人物を創作した。 >>348
神武東征は天武天皇のクーデターをモチーフのにしているので史実ではない。
神武天皇の兄である新羅王は丹波国の出身なので
神武天皇は最初から畿内とは友好関係にあった。 応神元年の390年まで100年以上の空白期間がある理由もはっきりしてる。
中国で「五胡十六国時代」と呼ばれる大戦国時代に突入したので
倭国でもあちこちで権力闘争が起きた。三韓討伐をしていたのもこの時期 >>350
吉野ヶ里が熊襲って笑
そもそも吉野ケ里遺跡には飛鳥時代の遺構まで見つかってるし大爆笑 >>350
神功皇后あっての応神朝だろ。
どうして何でもかんでも架空にするんだよ。 >>343
欠史八代は架空
直系継承が不自然だし
ヤマトネコと言う名前は
8世紀の天皇の和風諡号から転用されたもの >>1
白村江の戦い以前の日本史は全部作り話だよ。学ぶ価値無し。ギリシャ神話を学ぶ感覚で。 >>356
民族願望は本当に臭すぎる
日本史板から出ていってくれ >>353
学問的に吉野ケ里遺跡の衰退時期は3世紀後半
あなたが無知なだけ >>358
お前が無知な無能なだけだろ
知ってるつもりになってる姿は本当に憐れだぞ >>355
架空なら50代くらい創作して
年齢的に自然な系譜にしたらいいだろ
天皇の年齢が不自然なのは天皇の代数がみんなに知れ渡っていて
代数を捏造できなかったからだよ
だから欠史8代は実在 >>359
学問的な定説だから、否定するならソースを出せ >>354
さすがに神功皇后が実在は無理があるだろう。
神宮皇后記に魏志倭人伝が引用されてるから
日本の王の卑弥呼や台与ではなく、「皇后」の神功皇后が朝見したことにしたかった。
記紀には日本の王や天皇が朝見したことは隠したい意図が見えるからね >>360
それでは何故欠史八代が直系継承なのに
実在とされている応神天皇以降は直系継承より
傍系継承が多くなった事への説明が出来ない 結局、欠史八代は架空だから直系継承に出来たけど
応神以降の天皇は実在だから直系ではなく傍系継承と
記述するしなかった >>362
神功皇后を前倒ししたい動機があったのだろうが、かなり微妙な話がたくさんあり、天皇家としてはそもそも神功皇后の話は良い話題ばかりではないから、創作したとは言えない。
存在を隠そうにも有名すぎてしぶしぶ載せたように思えるね。
そのかわり個々のエピソードは創作したり誇張したりしているようだ。
福岡に行くと、神功皇后の足跡だらけで、とても非実在とは言えない。 >>361
横からだが、どっかのスレに吉野ケ里の発掘に参加した人が縄文時代の土器が埋まってる層と弥生時代の土器が埋まってる層と飛鳥時代の柱跡を写した写真を上げてる人がいたよ >>367
広開土王の碑文があるから4世紀に倭国が百済、新羅、加耶諸国に対して
既得権益もってたのは史実だろうけど、神功皇后の三韓征伐は架空だと思うわ 倭の朝鮮半島に対する進出や権益の獲得は代々の倭王の行動であり
神功皇后の三韓征伐はそれらの史実を仮託したと思われるから >>369
話を大いに盛ってはいるな。
でも広開土王碑でもかなりの規模の倭の侵攻があったことは確実。
それが神功皇后がどうかはわからないが、神功皇后の実在を否定する根拠はない。 神功皇后の話は、実は神功皇后と武内宿禰が仲哀までの皇統を滅ぼして新王朝を建てた話であり、それを誤魔化すために石を抱いて云々などと書いてある。
当時の天皇家にとっては正統性に関わる問題だが、神功皇后そのものは有名すぎて載せるしかなかったのだろう。だから実在したものと思われる。
そもそも、新王朝となる応神が木の股から生まれるわけはなく、母親が政権を取るまでの経緯が記録されていることは当然。 母系の祖を新羅王子にしてるけどぶっちゃっけ息長氏も皇別じゃないんじゃね 説明しなくてもわかるはず、
三貴子(神)のほうが上w何が嫌なんだろう? >>364
>そのときは冊封されてないから
朝貢しているから冊封もされている。 >>365
欠史八代は王名だけが伝わっていたため、直系のように記述するしかなかった。 >>374
かもしれない。
そもそも倒された王妃の方が、仲哀と同じ景行の子で、異母兄妹婚による高貴なベストカップルだったはず。
何代も遡ってようやく天皇家に結びつくかどうかの神功皇后の立場は本来は低いんだよ。
武内宿禰は崇神の5世孫だっけ?
それが事実だとしても、仲哀と応神の間は武烈と継体なみに遠い間柄ということになる。 >>368
どっちにしろ3世紀後半に一度衰退してるから飛鳥時代の話は関係ない >>380
三世紀後半は甕棺墓の衰退期であって居住地としての衰退は無関係だろ 継体天皇という名前だから
いろいろあったけどちゃんと継いだ
正規の天皇の血統だよ、って主張したいんだろうね。
実態は?だが。 いやいや、体制を引き継いだという意味であれば
正規の血統では無いとの主張とも取れるよ 継「体」という語が使われてしまっているから、国体とかそういう概念はあったんだろうね。 大王のその手の名前は奈良時代に付けられたんだよ
日本書紀よりもっと後の時代に日本書紀の記述を前提にそれっぽい名前を付けただけのこと
名前それ自体に史実の比定に使えるような意味などまったくない 辞書では「体(てい)」とは、「見せかけのようす」を意味する。
要するに継体とは継いだように見せかけたという意味 記紀における継体の伝承上の名前はヲホド
日本で人の名前が漢字として定まったのは記紀が書かれた時代になってからだから
この読みだけは史料性がある >>387
だからその手のことを考えたやつがいたとして
それはあくまで日本書紀を読んだ奈良時代の人間の感想なんだっての タウポ火山の大噴火の影響で倭国の人口の半分が死んだから祟りの神で「崇神」
スーパーヒーローヤマトタケルの影のように目立たない存在だから「景行」
継いだように見せかけたから「継体」
わりとわかりやすい名前の天皇が多い 神と九州王の名タケルを合わせて「神武」
戦略に優れた勇猛な天皇だから「雄略」
荒々しい横暴な性格だから「武烈」
印象的なエピソードのある天皇にはわかりやすい名前つけてる 神はそれぞれの王朝の始祖を暗示しているという意見はあるね。
神武、崇神、応神。
継体は一応は断絶していないというのが奈良時代の認識なんだろ。 >>394
誰も九州を持ち出していないだろ。
まあ、神武くらいか?
あれは九州出身なのが明らかだしいいだろ。 邪馬台国が畿内としたら、応神元年が390年と有力されてる現時点では
大和王朝はトヨの後に出来た王朝ってことになるね
2679年と1700余年て900年以上さば読んでる 応神天皇は九州生まれだけどね。
現在でも八幡信仰は九州が本場。 普通に記紀の話をしてたら
自然に九州の話になる。
あえて九州と言わなくても
畿内論者でさえ九州と認識するくらいに。 継体天皇の崩年は、
527年(古事記)
531年(日本書紀、百済本紀)
534年(日本書紀<或る本>)
の、どれが本当なのか?
本来、一人の天皇に三つの崩年があるのか変だが 後の時代の「継体朝」の大王が大王扱いにしただけで
継体と宣化はそもそも大王でなかった可能性もある >>393
「断絶」はしてるよ。「断絶」しただけじゃ王朝交代にならない。
神武 銅鐸文化。男王の時代
崇神 銅鐸文化消滅。女王制度の開始。崇神(男)は女王の家臣(官のトップ)になった。
応神 女王制度の廃止。男王の時代。
「神」がつく天皇の時代に根本から文化が変わってる。 >>396
>邪馬台国が畿内としたら、応神元年が390年と有力されてる現時点では
>大和王朝はトヨの後に出来た王朝ってことになるね
「空白期間」がないならね。まず空白期間がないことを証明しなよ >>404
「畿内だとしたら」矛盾が出るから、邪馬台国は畿内ではないという論法なんだろ。 神武 ヤマトへ最初に入った天皇家の祖先
崇神 倭国王の地位を本流から奪い取った傍流の初代
応神 朝鮮半島の権益を固めた初代
天武 朝鮮半島の権益を失った初代 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています