継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? >>336
応神元年が390年は考古学的にも文献史的にもガチ。
そこから30代あたりで平均在位をとってみ。
計算方法に古いも新しいもあるかい。 >>336
だったら新しい説をどうぞ。
文句つけるだけじゃダメ。
神武東征が邪馬台国直前。
神武不在の筑紫で倭王に即位したのが卑弥呼。 >>337
計算はあってるだろ。
崇神までが一代平均在位は12年
エピソード的に崇神、垂仁、景行あたりで在位期間の長い長寿の天皇がいたのは確実なので
そこは在位期間が伸びてる。 >>335
計算はあってるだろ。
崇神までが一代平均在位は12年
エピソード的に崇神、垂仁、景行あたりで在位期間の長い長寿の天皇がいたのは確実なので
そこは在位期間が伸びてる。 記紀みるとわかるが年齢は改ざんしてるけど
天皇の代数は改ざんしてない
てんのうの代数の改ざんはできなかったと考えるのが自然で
だから天皇の年齢がおかしくなった
欠史八代は実在である >>331
武烈はエピソードが生々しすぎるから実在
実際にあったことを書いてるとしか思えない 証拠があるのでこれは確実
初代・神武天皇
西暦57年 漢から金印「漢委奴国王」を授かり、初代・神武天皇誕生。首都は奴国(福岡県)
西暦57年 『新羅本紀』によると倭人が新羅王の祖になった。 『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄は新羅王の祖
第10代・崇神天皇
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 、『崇神紀』によると倭国の人口の半分が死んだ。
西暦181〜184年 黄巾の乱と倭国大乱が勃発
※黄巾の乱は噴煙の影響で空が黄色くなったので黄色をイメージカラーにしている。「蒼天すでに死せり(青い空は死んだ)」ので黄巾の乱が起きた。
ここまで一代平均在位は約13年 ここも証拠があるので確実
第10代・崇神天皇
西暦181〜184年 倭国大乱
第12代 景行天皇と息子ヤマトタケル
西暦250年頃、吉野ケ里遺跡の衰退(熊襲討伐成功)
崇神、垂仁、景行は長寿で3人合計で80年以上の在位期間がある。
その後、応神元年の390年まで天皇のいない100年以上の空白期間がある。そのため記紀では神功皇后など架空の人物を創作した。 >>348
神武東征は天武天皇のクーデターをモチーフのにしているので史実ではない。
神武天皇の兄である新羅王は丹波国の出身なので
神武天皇は最初から畿内とは友好関係にあった。 応神元年の390年まで100年以上の空白期間がある理由もはっきりしてる。
中国で「五胡十六国時代」と呼ばれる大戦国時代に突入したので
倭国でもあちこちで権力闘争が起きた。三韓討伐をしていたのもこの時期 >>350
吉野ヶ里が熊襲って笑
そもそも吉野ケ里遺跡には飛鳥時代の遺構まで見つかってるし大爆笑 >>350
神功皇后あっての応神朝だろ。
どうして何でもかんでも架空にするんだよ。 >>343
欠史八代は架空
直系継承が不自然だし
ヤマトネコと言う名前は
8世紀の天皇の和風諡号から転用されたもの >>1
白村江の戦い以前の日本史は全部作り話だよ。学ぶ価値無し。ギリシャ神話を学ぶ感覚で。 >>356
民族願望は本当に臭すぎる
日本史板から出ていってくれ >>353
学問的に吉野ケ里遺跡の衰退時期は3世紀後半
あなたが無知なだけ >>358
お前が無知な無能なだけだろ
知ってるつもりになってる姿は本当に憐れだぞ >>355
架空なら50代くらい創作して
年齢的に自然な系譜にしたらいいだろ
天皇の年齢が不自然なのは天皇の代数がみんなに知れ渡っていて
代数を捏造できなかったからだよ
だから欠史8代は実在 >>359
学問的な定説だから、否定するならソースを出せ >>354
さすがに神功皇后が実在は無理があるだろう。
神宮皇后記に魏志倭人伝が引用されてるから
日本の王の卑弥呼や台与ではなく、「皇后」の神功皇后が朝見したことにしたかった。
記紀には日本の王や天皇が朝見したことは隠したい意図が見えるからね >>360
それでは何故欠史八代が直系継承なのに
実在とされている応神天皇以降は直系継承より
傍系継承が多くなった事への説明が出来ない 結局、欠史八代は架空だから直系継承に出来たけど
応神以降の天皇は実在だから直系ではなく傍系継承と
記述するしなかった >>362
神功皇后を前倒ししたい動機があったのだろうが、かなり微妙な話がたくさんあり、天皇家としてはそもそも神功皇后の話は良い話題ばかりではないから、創作したとは言えない。
存在を隠そうにも有名すぎてしぶしぶ載せたように思えるね。
そのかわり個々のエピソードは創作したり誇張したりしているようだ。
福岡に行くと、神功皇后の足跡だらけで、とても非実在とは言えない。 >>361
横からだが、どっかのスレに吉野ケ里の発掘に参加した人が縄文時代の土器が埋まってる層と弥生時代の土器が埋まってる層と飛鳥時代の柱跡を写した写真を上げてる人がいたよ >>367
広開土王の碑文があるから4世紀に倭国が百済、新羅、加耶諸国に対して
既得権益もってたのは史実だろうけど、神功皇后の三韓征伐は架空だと思うわ 倭の朝鮮半島に対する進出や権益の獲得は代々の倭王の行動であり
神功皇后の三韓征伐はそれらの史実を仮託したと思われるから >>369
話を大いに盛ってはいるな。
でも広開土王碑でもかなりの規模の倭の侵攻があったことは確実。
それが神功皇后がどうかはわからないが、神功皇后の実在を否定する根拠はない。 神功皇后の話は、実は神功皇后と武内宿禰が仲哀までの皇統を滅ぼして新王朝を建てた話であり、それを誤魔化すために石を抱いて云々などと書いてある。
当時の天皇家にとっては正統性に関わる問題だが、神功皇后そのものは有名すぎて載せるしかなかったのだろう。だから実在したものと思われる。
そもそも、新王朝となる応神が木の股から生まれるわけはなく、母親が政権を取るまでの経緯が記録されていることは当然。 母系の祖を新羅王子にしてるけどぶっちゃっけ息長氏も皇別じゃないんじゃね 説明しなくてもわかるはず、
三貴子(神)のほうが上w何が嫌なんだろう? >>364
>そのときは冊封されてないから
朝貢しているから冊封もされている。 >>365
欠史八代は王名だけが伝わっていたため、直系のように記述するしかなかった。 >>374
かもしれない。
そもそも倒された王妃の方が、仲哀と同じ景行の子で、異母兄妹婚による高貴なベストカップルだったはず。
何代も遡ってようやく天皇家に結びつくかどうかの神功皇后の立場は本来は低いんだよ。
武内宿禰は崇神の5世孫だっけ?
それが事実だとしても、仲哀と応神の間は武烈と継体なみに遠い間柄ということになる。 >>368
どっちにしろ3世紀後半に一度衰退してるから飛鳥時代の話は関係ない >>380
三世紀後半は甕棺墓の衰退期であって居住地としての衰退は無関係だろ 継体天皇という名前だから
いろいろあったけどちゃんと継いだ
正規の天皇の血統だよ、って主張したいんだろうね。
実態は?だが。 いやいや、体制を引き継いだという意味であれば
正規の血統では無いとの主張とも取れるよ 継「体」という語が使われてしまっているから、国体とかそういう概念はあったんだろうね。 大王のその手の名前は奈良時代に付けられたんだよ
日本書紀よりもっと後の時代に日本書紀の記述を前提にそれっぽい名前を付けただけのこと
名前それ自体に史実の比定に使えるような意味などまったくない 辞書では「体(てい)」とは、「見せかけのようす」を意味する。
要するに継体とは継いだように見せかけたという意味 記紀における継体の伝承上の名前はヲホド
日本で人の名前が漢字として定まったのは記紀が書かれた時代になってからだから
この読みだけは史料性がある >>387
だからその手のことを考えたやつがいたとして
それはあくまで日本書紀を読んだ奈良時代の人間の感想なんだっての タウポ火山の大噴火の影響で倭国の人口の半分が死んだから祟りの神で「崇神」
スーパーヒーローヤマトタケルの影のように目立たない存在だから「景行」
継いだように見せかけたから「継体」
わりとわかりやすい名前の天皇が多い 神と九州王の名タケルを合わせて「神武」
戦略に優れた勇猛な天皇だから「雄略」
荒々しい横暴な性格だから「武烈」
印象的なエピソードのある天皇にはわかりやすい名前つけてる 神はそれぞれの王朝の始祖を暗示しているという意見はあるね。
神武、崇神、応神。
継体は一応は断絶していないというのが奈良時代の認識なんだろ。 >>394
誰も九州を持ち出していないだろ。
まあ、神武くらいか?
あれは九州出身なのが明らかだしいいだろ。 邪馬台国が畿内としたら、応神元年が390年と有力されてる現時点では
大和王朝はトヨの後に出来た王朝ってことになるね
2679年と1700余年て900年以上さば読んでる 応神天皇は九州生まれだけどね。
現在でも八幡信仰は九州が本場。 普通に記紀の話をしてたら
自然に九州の話になる。
あえて九州と言わなくても
畿内論者でさえ九州と認識するくらいに。 継体天皇の崩年は、
527年(古事記)
531年(日本書紀、百済本紀)
534年(日本書紀<或る本>)
の、どれが本当なのか?
本来、一人の天皇に三つの崩年があるのか変だが 後の時代の「継体朝」の大王が大王扱いにしただけで
継体と宣化はそもそも大王でなかった可能性もある >>393
「断絶」はしてるよ。「断絶」しただけじゃ王朝交代にならない。
神武 銅鐸文化。男王の時代
崇神 銅鐸文化消滅。女王制度の開始。崇神(男)は女王の家臣(官のトップ)になった。
応神 女王制度の廃止。男王の時代。
「神」がつく天皇の時代に根本から文化が変わってる。 >>396
>邪馬台国が畿内としたら、応神元年が390年と有力されてる現時点では
>大和王朝はトヨの後に出来た王朝ってことになるね
「空白期間」がないならね。まず空白期間がないことを証明しなよ >>404
「畿内だとしたら」矛盾が出るから、邪馬台国は畿内ではないという論法なんだろ。 神武 ヤマトへ最初に入った天皇家の祖先
崇神 倭国王の地位を本流から奪い取った傍流の初代
応神 朝鮮半島の権益を固めた初代
天武 朝鮮半島の権益を失った初代 184年に女王・卑弥呼が誕生してしばらくの間は一応、男王候補はいたんだな。
その男王候補が崇神と垂仁と景行。
だけどそのあと完全に女王制度に移行して男王候補がいなくなったんだね。
だから応神までの100年以上の空白期間(男王候補がいない期間)がある。
こう考えると納得がいく >>365
後花園から後陽成天皇までに7代は直系しかいないが >>369
架空だと信じる理由がわからないわ。
「天皇家の威信を上げるために」でっち上げるなら、仲哀が自ら乗り込んで成果を
あげた話にしたほうがいいのだから。 >>406
白村江で敗北して朝鮮半島の権益を
失ったのは天武じゃなくて天智天皇 >>355
架空の天皇を作る意味がない。
もし架空を作るなら、130歳とかにせず、何代でも作ればいいことだ。
子孫たちがたくさんいるから、系譜をでっち上げるのは困難。
子孫から何まで全部でっち上げる意味がない。 日本書紀前半部はそもそも大和政権の威信の誇示のために書かれたものでは
まったくない
中国書からの大量コピペなど他国に史書として渡せるようなシロモノじゃないんだから
あくまで日本書紀執筆当時に大和政権を構成する氏族の権利保障というのが目的 >>406
古代において直系継承は成立していなかった
履中、反正、允恭は傍系継承
安康、雄略も傍系継承
顕宋、仁賢も傍系継承
武烈、継体も傍系継承
安閑、宣化、欽明も傍系継承
敏達、用明、崇峻、推古も傍系継承
天智、天武も傍系継承ですから >>407
納得いかないよ。
候補ではなく、王が立ったけれど、国が乱れてその王は廃されたわけだろ。
崇神から景行まで、そんな話にはなっていないだろ。 >>410
いやいや、白村江の時はまだ天智は即位していなかったから、その後で戦後のどさくさで利益を得たのだ。
もしかすると初めから新羅とでも通じていたかもしれない。 直系が絶えて、徳川家の吉宗のように傍系から招聘しただけだよ。
古代は今よりもっと「血」のもつ意味が強い。
全く血縁関係がないやつが突然現れて「俺様が今日から王になる」なんてありえない。
侵略者がやって来たときだけだ。
欧州もアラブも中国だって同じだ。
いかにして「正統性」を認めてもらうか、「誰々の血を引く」ってことが重要だった。
血を引いていても同族で争いが起きる。
全くの「他人」が争いもなく王に収まるなんてありえない。
そういう意味では、天皇家は邪馬台国時代の卑弥呼の何らかの関係者でしかありえない。
卑弥呼一族の血を引く、その一族から嫁を取る、あるいはその両方。
男王が立って闘いになり、トヨを立てて収めたわけだから、トヨの一族なしには
国が安定しなかったわけだ。
欠史八代の系譜は、その時代の(国家の黎明期の)有力な家系が書かれていて、
崇神以降とも続いている。
現代まで続く一族や神社の伝承と矛盾はない。
尾張氏(海部氏も含む丹波一族)の伝承があり、遺跡からは尾張や北近畿(つまり丹波)
の土器が出てきて、熱田神宮には今も三種の神器である草薙の剣の本物が存在する。 欠史八代は畿内の王家
邪馬台国は筑紫の王家
熱田神宮に宝剣が納められたのはずっと後でしょ。 欠史八代が全て直系継承と言うのは、古代においてはむしろ例外だから信じられない
史実と考えられる応神天皇以降天武天皇までは、直系継承より傍系継承の方が多い
それ以降も傍系継承はよくある皇位継承です 推古天皇、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇も傍系継承でした 欠史八代の頃は畿内王家はマイナーな存在だったので、王の名だけ伝わっていたから、取り敢えず直系のように記述した。 >>419
天智以降の傍系は権力争いによる皇位争奪戦みたいな印象
それ以前の大君(天皇)の位は世代継承が普通でだいたい30歳以上でないと資格も無い
応神天皇以前は実在も系譜も100%信用できるとは思わないけども
大君家の親戚同士での争いや権力の独占を防ぐための抑止システムだったのかも
で、それを無視して自分の直径を優先して大君独占しようとしたのが天智天皇
最初に大海女皇子が天智から息子を次期大君として立てると聞いたちきには
相当なショックを受けて”そんなバカな!!!!”と思ったと思う 直接に明示された説ではないが、
『日本書紀』は神功皇后の在位期間を、わざわざ卑弥呼と台与の両方を含む年代に設定しており、
『日本書紀』の編纂に携わった人々は卑弥呼も台与どちらも神功皇后のことにしたっかったと推定できる。 >>415
『崇神紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ」天災と疾病の流行が起きてる。
このタイミングで『日本書紀』の中で一番偉い人物が登場する。
天照大神とならぶ最高神の大物主神の妻・モモソ姫である。
モモソ姫は最高神の妻なので当然天皇よりケタ違いに偉い。
モモソ姫は箸墓に眠る人物である。
・箸墓は「四段築成」
・崇神天皇陵は「三段築成」
墓の形状も崇神天皇よりもモモソ姫の墓のほうが格上である
(これは当時の人々が崇神天皇よりもモモソ姫のほうが偉いと考えていたことがわかる物的証拠なので非常に重要)
崇神時代にモモソ姫(卑弥呼)に譲位があったのは間違いない 181年 タウポ火山の大噴火
181〜184年 「倭国の人口の半分が死んだ」崇神が権威を失い倭国大乱。
184年 黄巾の乱
184年 卑弥呼が女王になる。崇神は官のトップに降格した。
『魏志倭人伝』によると官のトップは伊支馬(第11代・垂仁天皇、本名は伊久米) >>310
激しく同意
神武なんているわけねーのに >>427-428
なにそれ?
最近流行りのチョンコ視点の民族願望とかってやつ? 天皇号が成立したのは天武・持統朝と言うのが通説
それ以前は大王号だったから、厳密に言えば天武以前は
天皇は居なかった
(天皇号成立が推古朝説、あるいは天智朝説もあり得るが
それでも推古以前に天皇は居なかった) >>430
順徳天皇(在位1210年 - 1221年)以来、光格天皇(在位1791年 - 1817年)で諡号が復活するまで、
「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられなかった。
1221〜1791年は天皇いなかったよ >>431
後鳥羽のせい?
天皇号が贈られなかった頃の天皇ってどういう存在だったんだろうな? 古代日本列島の「大王」というのが世襲かそうでないかという以前に
そもそも引き継ぎを前提とした称号なのかどうか
複数の氏族の王が並立する中で他の王を軍事的に屈服させるなどした
「どえらい」王が存命中もしくは死後に一代限りの偉大な王の意味で「大王」と
呼ばれていたという説は通説とまでは言えないが有力説の一つ 継体持統で四字熟語なんだ
ここが一つの王朝と認識されてたんだ。 >>434
王というのは世襲を前提とした称号だから、一代だけの王というものは字義から存在し得ない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています