欽明朝と共に飛鳥宮を築いていった大臣蘇我氏の権力が強くなり、大和分家(欽明朝)を乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智が中臣氏と共に飛鳥に赴いてその実態を確認し、誅殺したのが乙巳の変。
その際、唐新羅連合の倭国攻撃に備えて、亡命百済人に瀬戸内海に朝鮮式山城を築かせていた天智は、飛鳥豊浦では全国支配のためには不十分と感じ、
畿内でも都城(万が一の避難シェルターも)の候補地を物色、最終決定したのが孝徳難波宮652(大津宮)。

記紀が編纂に当たって、漢委奴国王(欠史八代あり)もしくは卑弥呼(欠史八代なし→崇神)の時代に、
天孫降臨(真実)→神武東征(虚構)→大和入り(真実)して大和朝廷(虚構)を建てて日本を支配していたことにするため、
入口(神武東征)と出口(欽明朝東遷→避難シェルター飛鳥板葺宮造営→孝徳難波宮→新益藤原京へ本格東遷)を設定することで、
古代から一貫して倭王権が畿内にあったかのような脳内電波が発生するように画策(倭王武の上表文を参考にした)。
九州の地名(例:阿蘇山→御輪山→三輪山、鯨漁をしていた八代湾淡海→近江)を付けて、奥津城であった畿内全体を「歴史テーマパーク」化していった。
記紀に描かれる飛鳥時代以前の政変(例:神功皇后による仲哀暗殺→ホンダワケ皇子応神朝へ)や政争(筑紫君磐井の乱→オホド皇子継体朝へ)はすべて九州王朝内部の主導権争い(内ゲバ)だか、すべてが古墳畿内で起こったかのように見せかけているのである。