継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? 断絶したとすれば応神。
諡号に神とあるのが王朝の始祖神。 中国とか頻繁に王朝交代しているのに、日本でも仮に継体期に王朝交代があった場合、改竄する必要なんてあるのか? 確かに万世一系に価値を置き始めたのはいつからか気になる 奈良時代に適当につけられた史料性などまったくない漢字大王名がどうのとほざく白痴共 継体天皇は前王朝の血筋である手白香皇女を新しい皇后に迎えその間にできた欽明天皇に継承することで大和朝廷からようやく受け入れられた
大和入りがなかなかできなかったり欽明天皇の年長の兄がおかしなタイミングで死んでるのも真実は葬りさられてるだろ >>615
多分だけど天武・持統朝くらいかな
天武には甥(大友王子)を殺害して即位したと言う
負い目があるから自分の正当性を万世一系に求めたとか 違うな。
天智と天武という諡そのものが、暴虐で知られた殷の紂王の天智玉と、それを倒した周の武王に因むという説がある。
もしそうなら易姓革命としての壬申の乱を正当化していることになる。
つまり王朝交代そのものは、日本書紀を編纂した天武体制においては決してタブーではないことになる。 漢風諡号は762〜764年に撰進されたとされている そもそも王朝交代したから歴史書作ったとも言えるしな 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 学問の方法として、
『旧唐書』倭国・日本国伝 の一部分を訳して、こう思うといったって、何の意味もないんだよ。
そのほかの史実とからめてこのように解釈するとかしなければ、発展しないんだよ。悲しいね。 日本と倭国が別の国で小国だった日本が倭国を併合して
その結果倭国が日本になったのなら全部当てはまる 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ >>604
> >>603
> 無知文盲
そういうときは無知蒙昧ってんだよw >>619
その割りには天智がそう悪くない書かれ方に思うのだが・・ >>630
血縁という事にしてしまったからには
あまり悪くも書けないだろ 調べるの簡単な話。
日本人のY染色体をどんどん調べればよいんだよ。 継体天皇はただの御輿。
実験は、大伴氏、物部氏が握り続けた。
継体天皇の近い親族は、皇別氏族の息長氏。
継体天皇だけ大王に向か入れられ、
他の近い親戚である息長氏は、地方豪族の地位のままだった。 本当に継体天皇だけ必要だった感があるから継体天皇の血脈自体は信用出来そうである 上宮記の系図が信じられるかどうか
誉津別命(ホムツワケノミコト)を本当に
誉田別尊(ホンダワケノミコト)=応神と解釈していいのか 誉津別命(ホムツワケノミコト)は日本書紀での記述(垂仁紀)
上宮紀では、凡牟都和希王(ホムツワケ王)と記述されている 王朝交代は
(崇神天皇)
応神天皇
継体天皇
天武天皇
光仁天皇
の時に起きている。まあ光仁天皇は継体(天智)系の復活だけど。 人物画像鏡一つを解釈すれば、新たな道が開けよう。
銘文にはいろんな学説をつけて、素人愛好家を戸惑わせるように仕組んである。
馬鹿は銘文解釈に自信がなく芸能が好きだから、諡号と血縁のみをたよってウヨウヨする。
諡号と血縁から推論しても何にも確定したことは言えない。
このすれで言ってるのは20年前の2chと変わらない内容。時間の無駄wwww ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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本当に継体の血筋が必要だったなら安閑、宣化も大切に扱われるはずでは? 継体天皇は応神天皇5世孫で、武烈天皇とは遠い血筋にあたるから王朝交代という言説もあるが、南宋の2代皇帝孝宗は北宋初代皇帝の太祖趙匡胤の7世孫、李氏朝鮮26代国王の高宗は16代国王の仁祖の9世孫だが、王朝交代とは言われていない。 >>642
日本人はあほで情けない民族だと日本語のわかる外国人に思われる。
外国に足元を見られると、国際社会で馬鹿にされるんだよ、キミのせいで。 継体天皇が新王朝による簒奪なら
彼の近江・越前時代の親戚や家来も一緒に
中央政権の重要ポストについているだろう?
でも、実際は
継体天皇だけが御輿として担がれただけで
政治の実権は、前の天皇たちの代から全く変わってなくて
物部氏と大伴氏が握り続け、
継体天皇に近い親族の多くが、地方にいるマイナーな皇別氏族として
存続しただけだった。 >>643
むしろ、解釈逆だろう。
継体天皇が本当に傍系皇族だったので
彼の息子は欽明天皇の男系子孫が最終的に嫡流だった。
男系と女系の両方で補強する考え方。
継体天皇が完全な別系統の簒奪による新王朝ならば
年長の安閑、宣化の子孫が嫡流になっているよ。
前の王朝のこと、気にすることないから。 安閑、宣化は継体が王位についた時点で死んでる可能性もあるから >>647
同意
継体は王統の変更だが、王朝は変わらず 継体天皇が大和に入るのに20年、或いは7年掛かったと言うのが不自然
大伴氏や物部氏が継体を推戴したのなら、もっと簡単に大和に入れるはず 継体天皇と同じような例でも江戸時代後期の光格天皇は
後桃園天皇の皇女との間に皇子が生まれたが早逝してしまった
それを考えると唯一の皇子である欽明天皇が成長したのは奇跡 >>650
反対勢力の話は記録に残さなかっただけ。 というか、物部氏や大伴氏の傀儡にされるからだろう。
仲哀天皇の第三皇子の男系子孫も候補になっていたぐらいだし。 仲哀天皇5世王の、倭彦王的な王族が他にも居て(仁徳系統か?)
それを押す葛城氏や平群氏のような臣系氏族と、大伴氏や物部氏のような
連系氏族との対立があって、継体の大和入りが遅れた可能性はある
その上で敗れた葛城氏や平群氏は、継体朝以降没落したのかしれない まあ、誉田別尊(ホムタワケノミコト)と誉津別命(ホムツワケノミコト)が別人なら
継体は応神五世孫ではなくなるんだけどね
上宮記では誉津別命ではなくて本牟都和気命と記述されてるけど
これが誉津別命と同じ人なら、継体は垂仁の子孫ではあるけど
5世孫じゃないから皇親とはいえない 倭彦王と血統が近いとみられている
皇別氏族がその後も
新撰姓氏録に記載されているんだよね。 血縁をもとに滔々と述べたところで日本の史書の域から出られない。
日本の史書のみでは真実とは言いがたし。画像鏡を説明してごらんよ。 仁徳天皇〜雄略天皇〜継体天皇〜欽明天皇〜天智天皇
ぐらいの間の天皇のヤマト朝廷の家臣団の勢力地図は
氏族の血統で見たら分かりやすい。
皇別(親藩)の名門・武内宿禰系・・・葛城氏→平郡氏→蘇我氏→紀氏
天神(譜代)の新参・饒速日系・・・物部氏
天神(譜代)の古参・高皇産霊系・・・大伴氏
この3家系の勢力争い。 糞の垂れ流しなど誰も見向きもしない。樋箱に入れて大事にせよ。wwww >>639
80年もしたらまた王朝交代起きるよ。
悠ちゃんの跡継ぎおらず、旧宮家の末裔の誰かが皇位につく! すんなり継体天皇に決まったわけではないと思う。
つまり、他にも有力候補がいた。
倭彦王とかもそうだし。
それ以外にもいたんではないの? これ見たら分かるように、
継体天皇よりもモット男系で見ると先代の天皇に近い
候補者が何人かいたはずだ。
特に聖帝と言われた仁徳天皇の男系子孫の皇別氏族が3家系も確認できる。
現在の皇室の先祖である継体天皇の家系は
仁徳天皇の弟の男系子孫。
↓
姓氏類別大観 皇別
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm
仲哀天皇の末裔【間人氏】【蘇宜部氏】【磯部氏】【布勢氏】
応神天皇の末裔【坂田氏】【南淵氏】【土形氏】【息長氏】【酒人氏】【深河氏】【深川氏】【弊岐氏】
【日置氏】【榛原氏】【大田氏】【山道氏】【羽田氏】【八多氏】
仁徳天皇の末裔【草刈氏】
允恭天皇の末裔【八釣氏】
雄略天皇の末裔【荷田氏】 書記に見える武烈帝の非道の数々
*妊婦の腹を裂いて胎児を観る!
*指の爪を剥がしておいて、芋を掘らせる
*人の頭髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒し落ちて死ぬ様子を喜ぶ
*女たちを裸にして彼らに馬の交尾を見せ、陰部が湿った者を殺し、湿ってない者を奴隷とした
ネトウヨはこれらを信じ込んでる? >>664
他の国の書からの引用だろう、
おまえたちの言う日本の天皇(不明)?
中国人ではないし あるときは天皇〜帝、神仙で聖人、神で・・・?
他のスレにも書いていることなんだけど、
そろそろ頭の病院に行けと言っているんだよ これ見たら分かるけど、
男系で見ると、継体天皇よりもモット
その当時の皇室嫡流(仁徳天皇後胤)の近い子孫が何人かいた。
絶対にもめたはず。
だから、女系も併用して、選ぶことになった。
継体天皇の妃を先代の仁徳系の皇女から向か入れたが
それだけじゃなくて、継体天皇の父方の大叔母が仁徳系に嫁いで
雄略天皇らを生んでいたことも大きかった。
↓
姓氏類別大観
《応神帝裔氏族綱要》
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01234.htm
皇別
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/01.htm 応神天皇の5代あとでもいいじゃないか
徳川慶喜とか家康の10代あとだぞ
しかも水戸藩の3代目藩主が養子で
慶喜は家康の血統じゃない可能性が 成り済まし、騙り・・・w
何なのか知らないけど、偉そうな事を騙っているのがいたり
愛国?
〜大物(実際は大物でも何でもない)何やらとか、そういう人間? 継体天皇の即位の時も
男系で見たとかさが重要なのか
男系と女系の両方で見てだとか
その当時に時点で皇籍にいるのかとか、
どちらかで、もめたと思われる。
現在でいうところの
伏見宮系の旧宮家よりも
東山天皇や後陽成天皇の後胤の皇別摂家のほうが
男系で見たら近いだろうって話に近い。
でも、男系、女系の両方を合計してみたり、
皇籍にいた時代の長さとか近さだとか、それらを総合してみると
伏見宮系の旧宮家のほうが
皇室嫡流に近いと思われる。
奈良時代末期の光仁天皇の即位の時も
その当時の皇室の嫡流だった天武天皇系の男系子孫が何人かいたんだけど
その当時に庶流だった天智天皇系の光仁天皇が即位した事例。
この場合、男系だけではなくて、女系の要素も併せて、皇位継承者を決めた。
光仁天皇の妃が先帝の妹だったことと、
天智系の皇女が天武系の皇子に嫁いでいたことも考慮された。 >>664
応神王朝が既に天命を失って、新たな王朝の始まりを
肯定するための、日本書紀編纂者達の造作だろうなぁ >>671
継体天皇は応神天皇の男系子孫だ。
つまり、応神天皇の王朝は続いている。
天命を失ったのは、仁徳天皇の系統。 継体は不思議な天皇だよな。人気がないが任期が長い。臨死体験などの匂いがするよ。
後から編纂されたんだろうけど。 中継ぎのつもりで擁立したら、うっかり長生きしちゃったんだろう。
それと、なんでも創作にするのは無能だってばっちゃが言ってた。 とすると宗教性を帯びた天皇だったんだろう。宗教芸術、水墨画などのなが妖しいな。調べてみよう。 日本の宗教史
名前: 学術
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内容:
シャーマン、卑弥呼から、カルト宗教、これからあらわれる令和のメシアまで、語りましょう。
スレが建てられないのでちょこっとしたコーナーを作りました。 自民党だって、たまに派閥の鍔迫り合いの結果としてどうでもいい人が総理になったりするじゃん。 継体天皇よりも男系で見て
その当時の皇室嫡流に近い人がいた。
それがネックになったはず。 >>680
仁徳系皇統だって残っていたはずだから
それを支持する豪族だっていたろうねえ
それで継体の大和入りが遅れたと考えられる
武烈で仁徳系皇統が途切れたと言うのは
武烈の暴虐記述一緒で、日本書紀編纂者の造作でしょう なんでも創作にするのは無能。
単にアホな君主が身内を排除しすぎてそうなっただけだろ。 書紀は日本を統一するために史書の体裁で書かれた物語。
万世一系がつぎはぎだらけであることは古事記の序に「撰録した」と告白していることから明らか。
いろんな王をスメラミコトとして綴り、あるいは皇太子として挿入した。
いろいろな王は、大陸からわたってきて、混ざり合わずに住んでいた民を象徴している。
それらの誰をも排除しないという意味をこめて、書紀に採録したのだ。
後世の馬鹿どもは、万世一系だけをとらえ、姻戚上誰が誰の何に当たると議論している。
書紀の本意はそんなところにない。
倭国の歴史の真実は、以下にある。目を覚ませ。
https://sites.google.com/view/jhistory/ 遣隋使に関しては日本の記録にあるのに倭の五王の記録や時代的に五王の時代に相当する巨大古墳について日本に伝承がほぼ残っていないのは不自然
これは王の子孫や建造に関わった人間の子孫も近隣から追い払われたか殺されたと考える方が自然
地名などは文字のない時代から伝承されてるものが多い >>685
古事記が撰録したといっているから、書紀も同じで、過去の王家すべての記録を採録したのではない。
倭の五王系の河内王朝はアマタリシヒコ大王まで続いた。
アマタリシヒコ(=上宮法皇)が王妃と連続死し、蘇我も滅ぼされた。
そのとき焼かれる寸前の「天皇記」を取り出した話があるが、「大王記」だと思う。
これには河内王朝の記録がぎっしり詰まっていたのではないか。
書紀を作り上げた時点で、大王記は廃棄され、それで、記録がないのだろう。
伝承がないのは、大王を支えた人々が服従せず棄民(ヒサ○ツ部落)した可能性がある。 >>686
>アマタリシヒコ(=上宮法皇)が王妃と連続死し、蘇我も滅ぼされた。
そもそも天の多利思比孤は記紀に登場しないから、蘇我と関係ないのでは?
筑紫と大和は別政権だった可能性がある。 九州の在地首長勢力は、継体朝で起きた筑紫君磐井の反乱で敗北
ヤマト王権に完全に服属したはず 屯倉一つでチャラですよ。
継体は長門より西を手にすることはできなかった。 >>689
「撰録した」のであるから、人物はアレンジされている。
アレンジされる前の歴史を見抜く事が現代の歴史家に課されている。 >>693
民が苦しいから3年?年貢を取らなかった天皇があんなとんでもない墓を造らせたのか? >>694
改竄だと聞こえが悪いから言い換えた。
言わせるなよ恥ずかしい。 高校漢文にも使われるような有名な中国書の丸パクコピペを信じる白痴共 >>695
「民が苦しいから3年?年貢を取らなかった」は儒教的美ゆえ、真実かどうか。
前方後円墳はおおきい土饅頭。内部構造はシンプルではないか。副葬品も始皇帝に比べればたいしたことはないだろう。 日本書紀 仁徳天皇
「天皇夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布徳施惠、以振困窮。弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平。」
淮南子 脩務訓 湯王
「湯夙興夜寐、以致聰明、輕賦薄斂、以民寛氓、布徳施惠、以振困窮、吊死問疾、以養孤孀。百姓親附、政令流行。」 >>695
デカ古墳造営で民が疲弊したから、それを助けたんだろw >>672
継体天皇/オオド大王。
応神天皇の子孫ではありません。
同じく?応神天皇(神功皇后の養子(祖先は宇佐、豊来入彦/豊彦))と仁徳天皇(いわゆる武内宿祢(武内臣大田根)の子孫(後の継体天皇は仁徳(武内臣 平群ツク様)母系の本家筋)。)には親子関係どころか血縁関係もありません。
旧出雲王国の元王家の御次男、彦太君。がいわゆる武内宿祢(武内臣大田根)の曾孫の武内臣襲津彦/日向襲津彦の子孫の北陸の勇、蘇我本家に婿養子で入り、
蘇我オオド王と呼ばれました。
かれが辣腕を発揮なさった結果、蘇我本家は大変繁栄して北陸や関東の豪族(親戚たち)から一目置かれ、盟主と仰がれて大和の平群王朝に比肩〜凌ぐ勢い。
同時期、平群王朝(仁徳(武内臣(平群)都久)〜)には大王に相応しい男性が絶えて(評判のヨロシク無いお方ばかり)
いよいよ王朝を支えてきた重臣たちもほとほと愛想がつきて大王家を見限りました。
相談して当代随一の名声と辣腕で知られた蘇我オオド王を招聘して大王になっていただくことに衆議一決。(大王家や重臣たちとも親戚関係があることが決定打)
、、、 >>702
多数の朝鮮山城、水城、大宰府を中心とする51kmの羅城、古代の道、都城造営、秀吉の築城他土木工事、すべて短期間。人力による土木能力は現代では想像できない。
多数の前方後円墳も思ったより短期間でしょう。大林の試算は正しいか? たしかに、あれだけの数の古墳は、現代の試算では当時の人口で賄えなくなる。 オオドは高句麗系
越の国は日本海航路で高句麗文化と繋がっていた
白山信仰が高句麗文化の名残 >>668
>しかも水戸藩の3代目藩主が養子で
>慶喜は家康の血統じゃない可能性が
水戸藩三代目藩主綱條は、光圀の兄の子だからちゃんと家康の子孫。 古代史の分野って、トンデモ論者に支配されていて、
うんざりするんだよ、本当。
そういうのから解放されるためにも、
さっさと古墳掘らせたり、DNA鑑定しろと言っている。 >>707
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