日本書紀の記述を信じると、継体天皇は雄略天皇の時代に
17歳で安閑天皇を、18歳で宣化天皇を儲けている。
450年生まれだとすると、孫の敏達・用明・崇峻・推古4天皇とは
100歳ほどの年齢差があることになる。485年生まれなら孫の推古
天皇とは69歳差で、こっちのほうが自然だと思う。

欽明天皇にしても509〜510年ごろ生まれだとすると子供ができる年齢
がかなり遅そうである。敏達天皇は538年生まれだとされるが、549年
という説もある。堅塩媛が推古天皇を生んだときは欽明は既に45〜46歳
に達していて、それ以降も堅塩媛に9人も子供を産ませたことになる。

宣化天皇にしても本当に欽明より40歳以上も年上の兄であれば、父が即位
した時点で叔父の欽明より年上で成人している子どもがいてもいいはずであるが、
子供の数からすると、父が即位した時点では丁度結婚相手を迎える年齢だったと
思える。継体天皇が息子たちとたいして変わらない年齢の手白香皇女との間に
欽明天皇を、宣化天皇が自分と年齢が近い橘仲皇女との間に石姫皇女を儲け、
ほぼ同時期に生れた欽明と石姫との間に生れたのが敏達天皇ということになる。