継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? >>782
諱は実名
諡号は崩御した天皇への贈り名 きちんとした和風諡号がない、諱だけの天皇は
継体天皇のほかにも安康天皇と崇峻天皇がいる 成務天皇や仲哀天皇も諱をそのまんま使ってるのでは? 邪馬台国論争最終決着案
崇神天皇の四道将軍による日本列島征服事業で、中国地方がヤマトの傘下に入る
危機感を抱いた北九州30か国が邪馬台国女王卑弥呼を盟主として、団結。
魏から倭王に任じられることで、ヤマトを牽制する。
わざわざ魏から下賜された鏡も邪馬台国からヤマトへ贈り、牽制を強めた。
しかし卑弥呼が死に、まもなく魏が滅亡。
台与は若すぎて国を統治できず、景行天皇によって邪馬台国は征服され、
邪馬台国女王はヤマトの軍門にくだる(景行天皇による土蜘蛛女王退治物語)
ところがそれから数十年後、ヤマトの仲哀天皇が、熊襲(狗奴国)征伐を行うが失敗して戦死。結局、邪馬台国の新女王(神功皇后)が独力で熊襲を征服し、さらに朝鮮半島で大きな戦果を挙げた。
その勢いで神功皇后は今度は宗主国に取って代わるべく、ヤマト遠征を開始する
そして河内からヤマトへ進軍した神功皇后は仲哀天皇の子の忍熊皇子を討ち取り、
ヤマトの新天皇となるが間もなく病死し、
彼女の息子が後を継いだ。それが応神天皇。
これで邪馬台国畿内説、九州説、神武東征説、王朝交代説のすべてに符合する 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表している
白痴さん 王朝が変わったんじゃない
4つの主要氏族の伝承を縦につないだんだ 継体天皇だけでなく天智天皇、天武天皇でさえ渡来人であり、
彼らはそれぞれ王家簒奪者と言う人はよくいる。
渡来人でなくても臣下による王朝簒奪の可能性はあったかも?
しかし、神の子孫と見なされる大王に対してそんな大それた
ことができたかは分からない。皇統が万世一系で一貫している
記紀から渡来人や家臣による簒奪は到底読み取りにくいと思われるが、
天皇の年齢が誤魔化されたり伏せられたりしている理由にはなるかも
しれない。 紀元前の中東でもアッシリアでアムル人のシャムシ・アダド1世が
家系図捏造をやって過去の非アムル系の初期アッシリア王と自分の
先祖をごちゃ混ぜにしたとか、アケメネス朝第3代のダレイオス1世も
初代のキュロス2世の傍系ではなく、初代と血が繋がってるという嘘の
系図をでっち上げたとか言われている。家系図を捏造することで王国ま
るごと自分のものにするという例が外国にはあった。中国はそれをやら
なかったようだ。日本でそれがあったかどうか。 〜宋書、梁書、隋書、好太王碑ならびに日本書紀に基づいた百済の「正しい歴史」認識をしよう♪〜
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる。
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺。
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める。
501年、東城が暗殺され、武寧が即位。
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)。
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した。
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋(隆)と善光(勇)を人質として「献上し」、朝貢を再開。
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡。
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた。 そもそも継体天皇の話から分かるように、天皇家は一系ではなく、複数の王統が存在している。
ただし系図としてはいずれの王統も神武らの末裔であるとされている。 複数存在した王統譜を全て神武の子孫にしたのは
帝紀、旧辞が編纂された欽明朝から推古朝にかけての時代だと思われる >>795
天皇は天武が名乗り始めたのだろう。それまでは大王があったから一系は書紀が作った。
ところが、百済は扶余隆の墓誌に辰朝とあるし、継体は応神5世孫で、応神は倭の五王で辰王だし、
任那の王も辰国の配下にあった間に、辰王の血を引いている可能性があり、欽明は任那からだろうから、
半島から倭国にかけての王という王はすべて辰王から出ている可能性が高い。 今時、万世一系を肯定してるのは皇国史観の信奉者だけでしょう しかし、日本の皇室が万世一系ではなかったとして、
日本には神武天皇より前に王朝の開祖となった人物は
存在しなかったのか? 記紀の神代の巻には、筑紫と出雲、高天原の三者の勢力争いの歴史が記載されているだろ。 日本書紀前半特に神代はヤマト政権を構成する氏族間の休戦協定書
時代・地域不明の各氏族の伝承と中国書のコピペのパッチワークでできている
日本書紀前半の残りの部分とは性質が異なる >>800
名前が分かる倭王
倭国王帥升
邪馬台国卑弥呼(親魏倭王) 継体天皇紀は分かっているだけで30か所以上が百済本紀などの朝鮮史書、隋書、三国志、漢書などの中国史書、芸文類聚、文選などからの盗用で話を作っている。 物部麁鹿火が天皇に言った言葉「磐井は西の果てのずるい奴・・・」は芸文類聚のパクリ、
その後の一連の文章もほとんどが盗用であると分かっている。 継体の崩御
日本書紀 82歳 2月7日
古事記 43歳 4月9日
別人? 『風土記』筑後國 磐井君
筑後の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。
高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。
石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。
號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。
前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。
臟物とは盗物なり。彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。
古老の傳へて云へらく、雄大迹の天皇の世に當たりて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃はず。
生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動發りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、
獨自、豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。
ここに、官軍、追ひ尋ぎて、蹤を失ひき。士、怒泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。
古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは[玄玄](これ)に由るか
解説(古田武彦)
「[玄玄](これ)」で、現在というのは八世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。
八女のあたりに「篤(あつ)き疾(やまい)」があって、手や足の折れた人・夫婦がたくさん居るというわけです。
「[玄玄](これ)に由るか」の岩波の注釈では、いわゆる、これの祟りで、このようなことが起こったと注釈がついています。
しかし考えてみてください。二〜三百年前に手や足を折られた人が居た。
しかし、その祟りで手や足を折られた人間がつぎつぎ生まれてくる。
この文章はどう理解したら良いのか。とうぜん七世紀の終わりに白村江以後唐の軍隊が入って来れば、とうぜん人々は抵抗します。
これで手や足は折られた。それが『風土記』が作られた八世紀前半になっても、まだ手や足は折られた人はたくさん残っている。
書き換えなければ、つごうが悪い。
あの大化の改新の評制とおなじように、継体天皇の時に壊されたというように書きなおさせた。
しかし部分的に書きなおしたから、ここの部分が残ってしまった。 >>810
継体の崩御年は
古事記:527年
日本書紀:531年
日本書紀(或る本):534年
と、三通りある
不思議な事だね 崩御年や宝算が異なるのは、継体天皇に関して
帝紀や旧辞にはっきり書かれていたのか?
それとも敢えて書かない事にしたのか?
古事記や日本書紀を編纂した頃には、もう史実が良く分からない状態だったのは確かでしょう http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1489664931/105
雄略天皇が亡くなったときの年齢でさえはっきりしていない。
雄略天皇は継体天皇の祖父と同世代で、推古天皇の高祖父にも当たる。
ある歴史マニアさんは442年生まれ479年崩御、もう一人は
463年生まれで506年崩御を支持している。扶桑略記一説の
429年生まれもあり得るかもしれない。
雄略天皇に限らず、中世の歴史書のほとんどが古代の天皇の崩年干支に
ついて古事記でなく日本書紀を採用しているから、中世の貴族は古事記
より日本書紀のほうを正史としていたと考えられる。 継体天皇は一応それまでの天皇と遠いし女系ではあるけど血縁は血縁じゃないの? >>816
女系で前王権と繋がってるのは欽明天皇な
継体天皇が元妻と称される越前時代からの妻尾張目子媛との間に儲けた
安閑・宣化天皇の血筋は皇統から外され
前王権の息女・手白香皇女(武烈天皇の姉)を母とする
欽明天皇の血筋が皇統に残り女系で前王権と繋がった 安閑、宣化は治世が短いし、その他の皇子より手白香皇女の子である欽明天皇が
即位できたのは、継体の血筋より仁徳系統の血統が正統だった証かと >>818
継体天皇の出身母体である息長氏が皇親だというのはこじつけだと言われている
飛鳥時代の古代豪族はだいたい皇親だし
蘇我氏だって皇親なのだから天皇の座を乗っ取ろうとしたというのは
おかしな話ということになる 「今いる人たちはみ〜んな王様の子孫。だから仲良くしようね!」
日本書紀の内容はこれに尽きる
日本書紀執筆当時の諸氏族の伝承を適宜つなぎ合わせて創作した記述の
血筋だのひ孫だのはそれ自体は史料としての意味はない >>817
ああ、そういうことか。
継体天皇が女系と勘違いしてた。
まあ万世一系って無理あるよねw
乗っ取ろうとする奴は五万といたはず。
孝明天皇からも既に怪しいし >>822
継体から欽明という皇統は女系継承かも
知れない
男系長子継承が重視されるのなら弟の欽明では
なくて、宣化の皇子が皇位を継承したはず
(宣化には皇子が居た) 本当は応神天皇の5世の孫が第一候補だったけど、
迎えの兵を見て殺されると勘違いして山に隠れて行方不明になったんで
継体天皇が即位したとあるね。
歴史的にはその後山の中に隠れた奴がどうなったかどうでもいいんだろうけど、
私はなんか気になる 間違えたわ
応神天皇の五世孫は継体天皇だったw
まず丹波国にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を推戴しようとしたが、
倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れて行方不明となってしまった。 >>823
続き
継体天皇(皇子に安閑、宣化、欽明等)
安閑天皇(子女なし)
宣化天皇(皇子あり)
男系父子が皇位継承の原則なら、宣化の後は
その皇子が即位するのが筋
しかし弟の欽明天皇が宣化の皇子を差し置いて
皇位を継承できたのは、欽明の血統は仁徳皇統を
女系で継承してるからと考えられる >>821
>乗っ取ろうとする
日本の話でしょ?
天皇、皇子なんて言っている時点で騙りなんだけど、
正確にはそうなる 806日本@名無史さん2019/06/22(土) 19:57:46.55
継体天皇紀は分かっているだけで30か所以上が百済本紀などの朝鮮史書、隋書、三国志、漢書などの中国史書、芸文類聚、文選などからの盗用で話を作っている。
朝鮮文書ってのこそパクリだろが 何の話をしているのか、しらないけど、
漢人というのは中国()の人だと書いてあるでしょ 倭人というのは中国の人ではない、
やまとひこ・・・?
このような名前の中国の人はいないでしょ、
天皇、皇族の家の人なの? 王、king?
という名前の家(もともと名乗っていた姓、氏名)などは中国
どういう事だと思う このような説明などがあるでしょ
古代日本の、むかーしの『王族』
一石二鳥、三鳥、四鳥的な表現、どうも『胡散臭い』 >>830
そもそも盗用じゃなくて出典明記してるし >>833
継体天皇は、
諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。
つまり中国人なの?w 継体紀で言えば、
・漢書
・三國志
・芸文類聚
・金光明景勝王経
からの語句を盛んに利用し潤色が著しい どこの馬の骨か分からん北陸の成りあがり有名人、
田中角栄みたいなのを連れて来て天皇にしたのが継体天皇。 そしてその継体天皇から今の天皇まででも1500年もあるんだよね
継体天皇とすら血縁なのかどうかも怪しい。 手白香皇女が欽明天皇を産んだことは重要視されるけど、
欽明天皇の次の敏達天皇の系統が何で正統なのかちゃんと
考えてるかな?当時は単純な男系継承じゃないんだよ。
>>827
日本書紀では宣化天皇の皇子の上殖葉皇子は仁徳の女系なん
だけどな、古事記では宣化の皇子はみな側室の子で皇女のみ
仁徳系みたいだが。どっちが正しいんだろう。 欽明より前は血がつながっているいない以前に
そもそも継続的に大王という称号を名乗る人間がいたのかどうか自体が不明なんだよ
雄略という在住系氏族の共通の伝承にある覇者に対して大王と呼んだのは確度が高いが
「アレクサンドロス大王」や「カール大帝」のような当人限りの名誉称号だった可能性がある >>842
継体天皇が前王権である仁賢天皇の皇女・手白香皇女を娶っただけではなく
安閑天皇は春日山田皇女(手白香皇女の妹)を、宣化天皇は橘仲皇女(手白香皇女の妹)を娶り
越前から出てきた継体一家はそれぞれ前王権の息女に入り婿することで即位した
手白香皇女だけでは男児が誕生する保証もなかったからね
宣化天皇と前王権の皇女・橘仲皇女との間に生まれたのが石姫皇女で
これが欽明天皇の皇后(大后)に立てられて舒明天皇を産んだ
二重三重で前王権の血を女系で補強している 継体王が配布した威信財(広帯二山式冠)の金属技術ルーツは百済または任那。
継体王系の文化背景は百済または任那ゆえ、そのあたりから、やってきたのではないか。 >>843
それこそオワケの臣が大王に代々仕えてるだろ そうか。
皇女を迎えて権威を高めたとか説明されていたのは、実は女系相続だったのかもしれないのか。 >>845
継体天皇は国際的な環境で育った国際人だったからってだけな気もする。 >>846
オワケ臣の系図もどこまでが伝承でどこからが史実なのか分からない >>845
広帯二山式冠を作成する技術は、他のグループが持っている、あるいは一般的で、継体王はそれを拝借したというわけ?
それはないだろう。これぞ継体から頂いたものという意味合いがなければ威信財になりえない。 >>853
梁書から502年には武が存在し、稲荷山鉄剣から471年ワカタケル大王(=武)、日十大王が鏡から503年にはいる状態で、継体王を何に担ぎ上げた? >>854
獲加多支鹵大王の没年は日本書紀では479年。古事記では489年
梁書の記述は倭国の朝貢が、梁の時代にも続いていたとする文飾でしょう >>855
日本書紀や古事記から年次を推定するのは無理だとおもう。
両国の歴史を一致させるために梁書の記述を文飾とするかね?これについては争わない。
503年は日十大王はいいだろう?
継体王の地位は?日十大王の都は何処?継体王の宮はなぜ淀川水系? 鉄剣の時期を60年ずらしたことによると思うが、獲加多支鹵=継体はない。
獲加多支鹵の支配地域は広いが、オホド王の支配地域は近畿東海まで。
獲加多支鹵=継体なら、全国制覇しているから、朝貢があるはずだが、600年までない。 発音があって表記に漢字を使っているだけ。音と文字の対応にルールがあったのだろうか。
日本人は近現代でもアイヌの地名ほか固有名詞の音と文字の対応ルールがない。文字からは読めなくても平気な民族。
だから、文字が違うからといって異なる場所と断定するわけには行かない。
発音上おなじ地名はたくさんあるね。 >>858
武の上表に開府儀同三司、都督七国諸軍事を認めれば忠節を尽くすとある
これが認められなかったので以降の倭王は冊封されず朝貢もしなかった
つまり国内的には既に倭王権の権威は確立されていたというだけ >>861
求めた叙綬がかなわなかったので、その後もそれが続き、600年まで朝貢しなかった?
政治家が変われば先の例に縛られないことのほうが多いと思うが・・・。
武の時には上表文にもあるとおり、倭国制覇していたと思うが、600年まで統一され続けていたのだろうか?
503年の日十大王からアマタリシヒコ大王まで河内?には大王が存在するようだが、
書紀は大王を記載せず継体など別の系統を記載しているように見えるが・・。 日本列島各地にいた氏族の長が王
それらの氏族の伝承をまとめて繋げてストーリー仕立てにしたのが日本書紀 >>844
>欽明天皇の皇后(大后)に立てられて舒明天皇を産んだ
敏達天皇だよ! あとは言ってる通りで この事を無視する人が
多いんだよね。 >>844
>越前から出てきた継体一家はそれぞれ前王権の息女に入り婿することで即位した
>宣化天皇と前王権の皇女・橘仲皇女との間に生まれたのが石姫皇女で
>これが欽明天皇の皇后(大后)に立てられて舒明天皇を産んだ
これって女系相続そのものだなあ。
男子はどうでも良かったっぽい。 >>866
女系継承でいいなら、大伴金村やその息子達が仁賢天皇の皇女に
入り婿すればいいんじゃないの。 >>867
さすがに祖先に天皇が含まれないといけなかったのだろう。
大伴氏は天孫降臨の時の天忍日命の末裔とある。
天孫の外祖父である高御産巣日の末裔にあたる。
さすがに信憑性に疑問がつくというか、遠すぎる。 >>867
中央豪族で皇別氏族に分類される葛城や蘇我が即位できなかったのも謎
隠されてる真実が多くありそう 即位という制度があったかどうか疑問。
実権は蘇我は掌握していたかもよ。 一応、朝廷の元に統一はされていたんじゃないかな。
そうでなければ半島に頻繁に援軍を遅れるとは思えないし、そもそも遠征も出来ない。
そしてそれが全くの創作とも思えないしな。 >>871
ヤマト王権の朝鮮出兵の負担から不満を爆発させたのが
九州の有力豪族、筑紫君磐井の反乱なのかも知れない 実際に出兵していたのは筑紫だろうけど、それを主導していたのも筑紫かもね。
倭とはそもそも九州北部のこと。
継体は半島への出口である九州北部の足場を得て半島に進出するために筑紫に対して反乱を起こしたのだろう。 継体天皇が反乱を起こしたのではなく
反乱者は筑紫君磐井の方でしょう 記紀は天皇家の歴史書なので、真に受けてはいけない。 確かに記紀は勝者の歴史だから、磐井を反乱者と呼ぶのは適当ではないかもね
磐井は半島出兵に疲れた九州諸豪族を代表してヤマト王権と対峙したのであろう 倭国の中で争いがあって淘汰が起こり大和政権が勝利したと思うのは素人。
日本は中国のように世界の中心部でなく、端っこにあるから、大陸から流れてくるんだよ。
だから、もっと、国際的に見なければだめだよ。 未開な島国相手なら、
文明進んだ大国の奴なら簡単に天下取れるよね
天皇は大陸から来たと思う >>880
大陸の王が天下を取りにわざわざ島国に来ると思うかい?王族はもっとプライドが高い。
好んでくるのではなく、攻められて仕方なく逃げてくるんだよ。目を覚ませ。
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