継体天皇のときに王朝交代が起こったって本当?
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もし先代の武烈天皇以前の天皇と継体天皇との間に血縁関係がまったくなければ、継体のときに王朝交代が起こっており、万世一系が否定されることになるけどその辺のところどうなの? >>853
梁書から502年には武が存在し、稲荷山鉄剣から471年ワカタケル大王(=武)、日十大王が鏡から503年にはいる状態で、継体王を何に担ぎ上げた? >>854
獲加多支鹵大王の没年は日本書紀では479年。古事記では489年
梁書の記述は倭国の朝貢が、梁の時代にも続いていたとする文飾でしょう >>855
日本書紀や古事記から年次を推定するのは無理だとおもう。
両国の歴史を一致させるために梁書の記述を文飾とするかね?これについては争わない。
503年は日十大王はいいだろう?
継体王の地位は?日十大王の都は何処?継体王の宮はなぜ淀川水系? 鉄剣の時期を60年ずらしたことによると思うが、獲加多支鹵=継体はない。
獲加多支鹵の支配地域は広いが、オホド王の支配地域は近畿東海まで。
獲加多支鹵=継体なら、全国制覇しているから、朝貢があるはずだが、600年までない。 発音があって表記に漢字を使っているだけ。音と文字の対応にルールがあったのだろうか。
日本人は近現代でもアイヌの地名ほか固有名詞の音と文字の対応ルールがない。文字からは読めなくても平気な民族。
だから、文字が違うからといって異なる場所と断定するわけには行かない。
発音上おなじ地名はたくさんあるね。 >>858
武の上表に開府儀同三司、都督七国諸軍事を認めれば忠節を尽くすとある
これが認められなかったので以降の倭王は冊封されず朝貢もしなかった
つまり国内的には既に倭王権の権威は確立されていたというだけ >>861
求めた叙綬がかなわなかったので、その後もそれが続き、600年まで朝貢しなかった?
政治家が変われば先の例に縛られないことのほうが多いと思うが・・・。
武の時には上表文にもあるとおり、倭国制覇していたと思うが、600年まで統一され続けていたのだろうか?
503年の日十大王からアマタリシヒコ大王まで河内?には大王が存在するようだが、
書紀は大王を記載せず継体など別の系統を記載しているように見えるが・・。 日本列島各地にいた氏族の長が王
それらの氏族の伝承をまとめて繋げてストーリー仕立てにしたのが日本書紀 >>844
>欽明天皇の皇后(大后)に立てられて舒明天皇を産んだ
敏達天皇だよ! あとは言ってる通りで この事を無視する人が
多いんだよね。 >>844
>越前から出てきた継体一家はそれぞれ前王権の息女に入り婿することで即位した
>宣化天皇と前王権の皇女・橘仲皇女との間に生まれたのが石姫皇女で
>これが欽明天皇の皇后(大后)に立てられて舒明天皇を産んだ
これって女系相続そのものだなあ。
男子はどうでも良かったっぽい。 >>866
女系継承でいいなら、大伴金村やその息子達が仁賢天皇の皇女に
入り婿すればいいんじゃないの。 >>867
さすがに祖先に天皇が含まれないといけなかったのだろう。
大伴氏は天孫降臨の時の天忍日命の末裔とある。
天孫の外祖父である高御産巣日の末裔にあたる。
さすがに信憑性に疑問がつくというか、遠すぎる。 >>867
中央豪族で皇別氏族に分類される葛城や蘇我が即位できなかったのも謎
隠されてる真実が多くありそう 即位という制度があったかどうか疑問。
実権は蘇我は掌握していたかもよ。 一応、朝廷の元に統一はされていたんじゃないかな。
そうでなければ半島に頻繁に援軍を遅れるとは思えないし、そもそも遠征も出来ない。
そしてそれが全くの創作とも思えないしな。 >>871
ヤマト王権の朝鮮出兵の負担から不満を爆発させたのが
九州の有力豪族、筑紫君磐井の反乱なのかも知れない 実際に出兵していたのは筑紫だろうけど、それを主導していたのも筑紫かもね。
倭とはそもそも九州北部のこと。
継体は半島への出口である九州北部の足場を得て半島に進出するために筑紫に対して反乱を起こしたのだろう。 継体天皇が反乱を起こしたのではなく
反乱者は筑紫君磐井の方でしょう 記紀は天皇家の歴史書なので、真に受けてはいけない。 確かに記紀は勝者の歴史だから、磐井を反乱者と呼ぶのは適当ではないかもね
磐井は半島出兵に疲れた九州諸豪族を代表してヤマト王権と対峙したのであろう 倭国の中で争いがあって淘汰が起こり大和政権が勝利したと思うのは素人。
日本は中国のように世界の中心部でなく、端っこにあるから、大陸から流れてくるんだよ。
だから、もっと、国際的に見なければだめだよ。 未開な島国相手なら、
文明進んだ大国の奴なら簡単に天下取れるよね
天皇は大陸から来たと思う >>880
大陸の王が天下を取りにわざわざ島国に来ると思うかい?王族はもっとプライドが高い。
好んでくるのではなく、攻められて仕方なく逃げてくるんだよ。目を覚ませ。
https://sites.google.com/view/jhistory/ >>882
だから、大陸じゃパッとしない連中がこっちで猿山の大将やりたがったんでしょ 文明大陸人が唐や高句麗や倭の王に仕えたから中国周辺の国が文明化したんだよ。 海の彼方からやってきた天津神(海の神)とか綿津見の神、海人族などと呼ばれた支配者たち。
彼らの来訪はしばしば大陸の政変と同期している。 >>885
神の来訪と大陸の政変との具体的対応をお願いする。
対応するのが事実であるなら、神でないその後の王たちも海外の事情により来訪したと考えてもいいだろう。継体系を含め。 古墳や遺跡をいくら掘っても文字の痕跡が遡れないから仮に大陸から来たとしても殷王朝やそれ以前
大陸に政変があると言えるほどの文明は無かったんじゃない >>884
何言ってんだチョン
日本人がシナを文明化させたんじゃねーか 倭国には青銅器文明は鉄文明と同時期(紀元前2世紀ごろ)に入ってきたと考えられている。
大陸が青銅器時代の時に倭国に渡ったたいした王はいなかった。
倭国全体に影響を及ぼす政変との対応は紀元前2世紀以降に絞ってまず考えるべきだろう。 >>82
>400年は倭の五王。
>日本は、この空白間に銅鐸廃棄、古墳成立、新羅百済建国、馬の移入、鉄の国内化。
>なんで、空白だよwww
答えは簡単日本列島には歴史がないから
日本書紀は古代朝鮮半島(百済)の歴史書とみるべき 朝鮮半島に日本書紀、源氏物語、ひらがなをつくるような文明の進歩はないよ。ウンコかじって支那もどきしてただけ。 それだと完全にブーメランが刺さってしまうぞ
ひらがな・カタカナが漢字モドキだから 近代和製漢語を中国に輸出した日本とモドキ文明を一緒にしてはいけない。 『倭人 朝鮮人』
なんだけど、どこの池沼なんだ?
お前たちが言うには倭人=日本人、日本の天皇家? あと皇族〜何やら〜と言っている人がいるでしょ?
どういう意味なんだ 易姓革命や万世一系を象徴する天子に縁もない蛮族王国のうめき 継体天皇
古事記では没年齢が43歳(生年485年)
古事記では没年が527年
日本書紀では没年齢が82歳か85歳(生年450年)
日本書紀では没年が531年か534年
記紀の記述で生没年や没年齢が異なるのに天皇なのに
記紀の記述通りに継体を応神天皇五世孫だと言われても信じかねる >>905
そもそも応神天皇の正確な生没年が分かっていないんだが。 倭王、筑紫君磐井は金仇亥と見てまず間違いなかろう
継体もその次の欽明もすべて同一人物 応神天皇
古事記では生年265年没年394年没年齢130歳
日本書紀では生年200年没年310年没年齢111歳
古事記と日本書紀どちらも帝紀を元にしてるはずなのに
記述が異なるのは不思議な話しだわ 理由は自明
「帝紀」にはホムタなどという大王の記載などそもそも存在しないからだ
帝紀は欽明以降の大王の系譜を示したもの 継体の時にクーデターが起きたのは間違いないが
クーデター程度では「王朝交代」とは言わないよ 「王朝交代」っていうのは根本から政治システムや文化が変わることを言うんだよ
クーデターだと王が変わるだけで政治システムや文化が変わるわけではないので「王朝交代」ではない。
よって継体天皇の時にはクーデターはあったが王朝交代は起きていない 継体は遠いとはいえ前の王達と血縁なら、
王朝交代は大袈裟だね >>917
三国志で仮に劉備が天下を取ったとしても王朝交代にはなるんじゃないか? 取っていたら漢を名乗っただろうから、王朝交代にはならなかったのでは?
魏が成立してしまったので王朝交代だった。 よく引き合いに出されるヨーロッパでも、
ハプスブルク家は王朝交代が起こってない。 >>918
推挙されたのに大和入りに二十年も掛かったは何故か >>917
上宮記の記述も欽明天皇の時代に、父である継体を
応神天皇五世孫にするために造作した可能性もある >>924
それにしては、先の20年の話などはむしろおかしくて、創作するならそんな話は作らないと思う。 継体天皇はそれまでの大王の遠戚の可能性も否定はできないが、
大和に入るのに20年もかかったのは雄略天皇の死による大和政権
の弱体に乗じて地方で挙兵したことを意味すると考えていいと思う。
20年の間の大和は大王不在の時代じゃなくて実際に大王はいた。
大王不在になってしまうのは日本書紀が神功皇后を卑弥呼・台与の
時代に釣り上げたための実年代とのズレが6世紀初期まで残ってし
まったせいだ。 その20年間ヤマトでは別の天皇が政務してたと気付かないとダメだよ
南北朝だったわけだ そしてその別の王というのが日十大王だよね
日十大王の時代に、継体は奈良にいたんだよ ごめんわからん
日十大王の後を継いだ息子かもしれん
日十大王の時代に継体は奈良にいて百済のシマ王から鏡を貰ってるね
その後に継体は、奈良を追放されたのか、自分から地元に帰って挙兵したのか でもとにかく「長期間都を不在にする」というのはありえない
それは仲哀天皇も同じだな
都をほったらかしにして長期遠征に行くのは「大王」ではなく「将軍」の振る舞いだよ >>922
ハプスブルク家からハプスブルク=ロートリンゲン家に王朝交代してる 継体・安閑・宣化で交代したけど欽明で元に戻ってるんじゃ >>934
>それは仲哀天皇も同じだな
九州北部が王都だったからセーフ 仲哀は九州王と意見が合わず
(熊襲=南九州を攻めたい仲哀と新羅を攻めたい九州王および神功)
九州王に暗殺されてるじゃん まあ、そうなんだけれど、香椎宮にわざわざ迎えられていることから、仲哀も景行の孫として一定の立場はあったはず。
倭王とはかなり流動的な立場であったわけだ。
羽白熊鷲も筑紫の支配者だったし、田油津姫もいた。
武内宿禰、神功皇后もいて、群雄割拠だね。
最終的に敵を一掃できた武内宿禰と神功皇后が時代の応神朝を生み出すわけだ。 欽明になって突然蘇我氏がNo.2として登場したのも謎
継体を担いだとされる大伴金村が失脚したのも謎 金村なんだから金官加羅を拠点としてたんだろ
任那四県割譲→任那日本府崩壊で勢力を失った 欽明は宮が百済大井宮だから当然百済系
蘇我も百済系
蘇我が仕えた聖徳太子も百済系だな 倭の五王時代に倭は朝鮮半島を攻めて臣民にしたわけだ
じゃあ誰が「都督」をやってたの?という
現場を仕切ってる「マッカーサー」がいたわけだよ
大伴金村がそのマッカーサーってこと そして光背には聖徳太子とは違う命日の人物の名が書かれている、と。 >>943
欽明ではなくその息子の敏達天皇だな
敏達の宮が百済大井宮 そもそも九州王なんてありえんだろ。
交易するのにはいいが、首都としての立地はあまり良くない。
攻められやすいし、農業生産力も人口も本州に劣るしな。
九州出身の人物が大和入りして王になったのなら兎も角、九州北部から本州を維持は出来ないだろう。 >>949
制海権を握っていれば問題ないし、九州の食糧生産力は非常に高い。
そして記紀は九州の王が畿内に入って天皇になったと伝えている。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。