大和王権について考古学的に語るスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
大和王権について考古学的に語るスレです
邪馬台国畿内説については専用スレでお願いします 大和の大王墓の系譜(推定)
3c 纒向石塚→纒向矢塚→纒向勝山→東田大塚→ホケノ山→箸墓→西殿塚→桜井茶臼山
4c →メスリ山→行燈山→渋谷向山→佐紀陵山→宝来山→佐紀石塚山→五社神
5c →コナベ→市庭→ウワナベ→ヒシアゲ
河内の大王墓の系譜(推定)
4c 津堂城山→仲ツ山
5c →上石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵→土師ニサンザイ→市ノ山→岡ミサンザイ
6c →高屋築山→白髪山→野中ボケ山
前方後円墳体制末期(6c中盤〜後半)の大王墓(推定)
今城塚、河内大塚山、見瀬丸山 大和の大王墓系譜と河内の大王墓系譜の関係は?
→よく分からない
分かることは
河内で大王墓級の古墳が造られ始めるのは4世紀後半から
5世紀に入ったところで大和と河内の大王墓の大きさは逆転するが、5世紀中盤まで大和の大王墓は続く
中世の南北朝の如く王統が分立していたのか、単に5世紀に入ったあたりで大和から河内に拠点を移したが、大和の地にも古墳を造っただけなのかは判然としない 古墳の年代比定は正しいの?
→今後の研究次第でズレる可能性はあるし、現状諸説あるが、メルクマールの箸墓=2世紀後半と大仙陵=5世紀前半〜中盤という定説に合わせればこんなものでしょう
古墳の築造順は正しいの?
→概ね正しいと思われるが
西殿塚と桜井茶臼山、佐紀陵山と宝来山、上石津ミサンザイと誉田御廟山、土師ニサンザイと市ノ山、白髪山と野中ボケ山あたりの前後関係は怪しい 大王墓の推定はそれで合ってるの?
→立地、同時期の他古墳との大きさ比較から判断したが、合っている保障は無い
5世紀前半〜中盤に大和と河内で巨大古墳が並立して造られている時期があることに注目して分けたが、「大和の大王勢力が河内に拠点を移したが、一部の古墳は大和で造っただけ」と考えるなら同時代の大和の古墳を大王墓と捉えるのは不適切になる 逆に、大王墓の推定からあぶれた古墳が実は大王墓という可能性は?
→ありえる
具体的には、葛城の室宮山古墳、古市の墓山古墳・軽里大塚古墳、百舌鳥の乳岡古墳・御廟山古墳・田出井山古墳・百舌鳥大塚山古墳、今城塚の近くにある太田茶臼山古墳、馬見山古墳群の200m超古墳全部、
更に古墳縮小傾向の6世紀においては狐井城山古墳、太子西山古墳、西山塚古墳、梅山古墳なども候補になりうる
常識的な視点にとらわれなければ、吉備の造山・作山・両宮山も首長墓としては異常な大きさであり、大きさだけなら大王墓級になる 大王墓候補は概ね
オオヤマト古墳集団→佐紀楯列古墳群→古市・百舌鳥両古墳群
という変遷を辿っているのに
前方後円墳体制末期に今城塚(北摂津)→河内大塚山(古市古墳群近辺)→見瀬丸山(橿原)という謎ムーヴ起こしてるのは何故?
→(考古学的には)よく分からない
今城塚に関しては、一世紀ほど前に近くに太田茶臼山古墳という大王墓級の古墳が造られているが、それ以外に巨大古墳は近辺に無い
河内大塚山は、今城塚抜きに考えれば野中ボケ山の次の河内の大王墓に置いても問題は無さそう
見瀬丸山は、大王の大和回帰とも見てとれる
ただ、6世紀には狐井城山や梅山などの有力な大王墓候補が大和に存在するので、それが大王墓の可能性もある しまった
自分の脳内整理も兼ねて色々書き込んでいったら却って雑然として分かりにくくなったぞ 重要なところ
大和王権の成立って考古学的に纒向遺跡以前に遡れないの?
→現状、無理がある
纒向遺跡の前身候補として近江南部の伊勢遺跡があるが、纒向遺跡との知名度の違いもあり情報不足、現状伊勢遺跡で大規模な墳丘墓は見つかっていない 3c〜4c後半はオオヤマト古墳集団の首長墓すなわち大王墓で良いんだが(箸墓より前は単に"王墓"くらいが呼称としては妥当かもしれんが)
4c後半には大王墓級の古墳が連続して造られる地域が佐紀、馬見、河内の三つに分裂するんだよな
これをどう捉えるか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています