大和王権について考古学的に語るスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
大和王権について考古学的に語るスレです
邪馬台国畿内説については専用スレでお願いします 「日本」はもともと(唐から見て)東の国という意味の普通名詞
百済人たちを指して使われた言葉
つまり日本書紀の「日本」も百済のことを仄めかしてる こういうのは古代史を語る上で常識的に知ってて欲しいことなんだが
日本書紀の構造として
音韻学を使った書紀の研究によるとα群とβ群に分けられる
α群とは元嘉暦(編纂時よりも古い時代の歴、百済で使用されていた)を使用し、
β群は儀鳳暦(唐代に用いられて歴、すなわち編纂時のもの)を使用してるという違いがある
また、β郡は、正格漢文には見られない、日本語の発想に基づく漢文の誤用や奇用の倭習(なんちゃって漢文)を多用している
実は、神話部分から雄略の前までと、推古・舒明紀はこのなんちゃって漢文で書かれており
孝徳・斉明紀はα郡に属するが、倭習(なんちゃって漢文)で書かれた部分が存在し、この部分は後世による加筆の痕跡ではないかと疑われている
そしてα群のところで百済三書の引用が多い
つまりこの部分の百済に関しての歴史書としての意味合いが非常に高いということ
ヤマト王権・・・・近畿地方中央部を念頭にした王権力。
蝦夷・・・・・古代、関東以北に住んでいた人々。えみし。
※朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷」「夷」と呼んだ。
※「夷」=好戦的な民族として、蔑んだ意味を持つ。 魏と交易していた「倭人」は畿内人とは別人
九州から日本海沿岸の海上ルートを押さえていた「海人」
湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」
https://i.imgur.com/VqqGojH.png
だが少し遅れて畿内に上陸した半島人
彼らは少し違う、妙に偉ぶるクセがあるのだ
旧唐書には彼らのいうことが不誠実で信用できないと書かれていた
キナイコシのようにああ言えばこう言う、言い逃ればかりしていたのだろう 魏と交易していた「倭人」は濊人
大風呂敷をひろげて不誠実で信用できないと旧唐書に書かれていたのは提出した日本書紀のせい 魏志鮮卑伝に登場する「汙(汚)人」 = 後漢書東夷鳥桓鮮卑伝に登場する倭人 自国の文化も知らない糞ウヨが調子にのってんじゃねーよ ネトウヨは汚穢屋とか知らんのだろうなどうせ馬鹿だから >>53
これも同意
ヒメを娶ってヒコに謀反を起こされていたりするね
で、服ろわぬ者が征服された話は桃太郎や八俣大蛇なんかの逸話になってる ヤマト王権というか、ヤマト王権に賛同した複数の有力者たちって元々どこにいたんだろう?畿内の住人?それとも他所からビズリーチされたの? >>318
伝言ゲーム状態で尾ひれはひれ付くって、こういうことなんじゃないかなーと思ったw >>344
各地域の盟主的な国から派遣された代表者だと思う。
代表者は一人で来るわけじゃなく、部下を引き連れて畿内で自活しながら活動する。外見は畿内の有力豪族に見える。
中央有力者の言うことをきく地方ではなく、出身国の意を体して中央有力者が活動した結果を出身国が受け入れている。
こういう感じではないかと思う。 山陽地方から吉備氏(吉備真備な祖先)や関東の身狭氏(ムサシ氏)、南海道の紀氏(紀貫之の祖先)あたりは畿内でなく外、地方出身だね
群馬から上毛野氏も来てる もともとは高天原から筑紫に降臨した天孫に付き従っていた氏族が全国に散らばったものだよ。
それがいつしか大和に集まったようなもの。 >>352
国津神は元々それぞれの地方の土着豪族の長がモチーフ
付き従ったのは、神武東征やら四道将軍やらに降ろされた事を暗喩してる。
古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、
通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である
古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡は全く存在せず
古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡は全く存在せず
古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡は全く存在せず
神話成立に際して、もとは無関係だった氏族間で共通祖先としての神を創作する事例も世界的に多く見られるからね >>354
古代にそんなに巨大な京城は要らんからな。
○○宮跡ってのはそれこそいっぱいあるだろ。 >>355
そういう例もあるかも知れないが、日本の場合は神別、皇別など、由来は一応分けてある。
それを無視した乱暴な議論はナンセンス。 >>356
宮が集まるのは畿内と九州北部だけ。
畿内はわかるとして、九州北部の宮はなんだろうね。 >>358
鹿児島県南さつま市に笠狭宮ってのもあるんだけど? ヤマト王権が、服属した九州北部に作ってやったor作る許可を出したのかと思ってた 日本神話って他民族神話のパクりめいたエピソード割りと含まれてるよね ヤマト王権が畿内に構えた理由って何だと思う?
琵琶湖経由で舟を引いて翡翠が得られる&瀬戸内海経由で他国(ないし北部九州や壱岐)から鉄が得られる
こんなところであってる? >>362
詳しくは知らないけど、神話分類学?的に日本の神話を分析すると、ユーラシア大陸北部と東南アジアの神話の影響が濃いらしい。
神話ってのは色々な文化圏で影響しあってるものなので、パクったと言うのともちょっと違う。 >>352
違うんじゃない?
北部九州はシャーマン系のヒメヒコ制の人たちが渡来したんだよね、祭祀する道具としての鏡や剣が出てる
ヤマト王権は戦う道具としての馬や鉄に固執してるし男系だし全く別だと思うんだよね >>364
キンスロの話なんかはパクりかと思ってたけど違うん? >>344
ヤマトは有力氏族の集合体と言われてるけど、大陸や半島から逃れてきた生き残り同盟なんじゃないかな
そうでなければ戦闘用の馬や剣なんて埋めない
古墳は吉備の先住民を模倣
鏡や玉や剣を祭祀にというのは北部九州の先住民を模倣
うちらの同盟と兄弟になりませんか?
なりますなら握手
なりませんなら処分
そうやって取りこんでいった結果が前方後円墳なのでは >>366
うちの先祖は卵から生まれたんでっせ!ってやつね >>364
日本神話は、神話というよりも朝廷の都合で権力を示したかっただけの創作だからなあ
ある程度モデルや出来事をベースには踏んでるとしても、ダジャレと脚色が過ぎるから 突然消えたラクロウ郡の人々が移住したんじゃないか説を読んだ
そもそもラクロウ郡がどこにあったのかが確立してなかった気がするけどおもしろかった トヨが急に消えたころの大乱って、ヤマトは関わってたのかな? >>363
それなら奈良ではなく京都であるべきだ。 記紀は完全に無視するとして、考古学で言うなら
同時期に大王墓が多すぎる、って言うのはw
大王墓じゃないってことで良いんじゃないのかね?
卑弥呼時代は九州は統一してない。
239年の公孫氏と247年の韓王朝滅亡。
これ以降、日本は卑弥呼の筑紫を統合対魏防衛政策に切り替えた。
弁韓=任那加羅をベースに馬韓、辰韓を支援し、313年韓四郡撤退以降、半島進出。
400年までには、楽浪候幽州刺史となっていた高句麗と戦争。
半島利権交渉で南朝と半島利権軍事行使権で冊封を受ける。
この間は倭の五王の奏上通り、東西海北数百国の覇権争いで、
纏向で中央政府の形成は有るかもしれないが
各、地方豪族が、覇権や富の蓄積を競った戦国時代なんでは無いかな?
萬世一統は、神話の都合であって、
豪族の戦国は後宮含め、大化の改新までは不定だよ。
700年迄、天皇は無いが当たり前だが、推古天皇からして存在してないwww
九州王、出雲王、丹後王、吉備王、越王、淡路王、阿波王〜大伴王、物部王、蘇我王
大王墓ねえ・・・
歴史であって、考古学では無いけど
記紀を規範にしたら、日本史は馬鹿杉。 >>374
各地のトップが眠ってるだけでは?なぜ大王
つーかぎしわじんでん 倭人伝には
30だか50だか知らんけどそのくらい国があるって書いてあったよね 掘ってみりゃ分かるだろ(╹◡╹)
チンチン切り取ったオカマの遺体がでてきたら当たりや
チョンコロあたりの言い分も少しは認めたる👍 史記や三国志は史書だが、記紀は史書とは認めない。
と 言う前提が無いと
日本の考古学が何をしようとしているのかは、全く判らんね。
倭の五王は 漢名を名乗った。
なんでこの王を、記紀の後付け諡号の、ライトノベル神話で比定出来る?
ちなみに、記紀は神功皇后を倭人伝卑弥呼に合わせようとして失敗している。
三国志読んだら隋唐書も読んで、それ以降に、焚書して書き直すべきだったなw
考古学が記紀を忖度してはいけない。
同様に、遣隋使が連れてきた裴世清の記録も知らない。
三国史が語る昔の倭国は、筑紫であって大和の日本国ではない。
聖徳太子は邪馬台国九州説であるwww 倭の五王が天皇に比定されてるって結論出されても困るんだな(╹◡╹)
それやったの近世のバカらだから 漢名名乗ったがど〜した?
これ見てる俺、日本人σ(╹◡╹) 聖徳太子は存在しなかった(╹◡╹)
結論でとるんだが 何を言ってるのか判らない。
倭の五王が天皇に比定されてる
天皇は記紀以降の話 諡号は詐欺師の道具。
記紀と700年以前の天皇の諡号は考古学とは無縁でなければならない。
400〜500年で、漢名名乗った天皇はその時点で実在であり、
記紀から比定される天皇は存在しえない。
系図を偽造したら時系列が成立しない。
歴史は考古学と連動する科学である。
チョンコの脳みそは臭いので
トンスル呑んで寝てください。(aa略 600年当時に天皇制は存在していない。
摂政も無い。
この事実と、聖徳太子が存在しないことの主張は無関係。
裴世清が謁見した、日本の王タリシホコは、遣隋使を送った日本の王であり
後世の記紀神話が作った諡号 推古(男)または聖徳(弟)である。
記紀の女帝推古天皇は確実に存在しない。 >>365
九州北部には様々な氏族が渡来したんだよ。
後のヤマト王権は、記紀にその由来を記しており、筑紫に渡来した天孫の従者たちとその子孫であるヤマト王権の豪族の関係を記録している。
また、豪族たちの出自による格付けは新撰姓氏録に詳しい。
勝手に由来を天皇家に結びつけたなどと夢想してもムダ。 >>383
お前さんも倭の五王は九州派だったのか? >>388
>裴世清が謁見した、日本の王タリシホコは、遣隋使を送った日本の王であり
ふむふむ
>後世の記紀神話が作った諡号 推古(男)または聖徳(弟)である。
いや、違うだろ
推古は遣隋使と関係ない大和の田舎政権だろ
>記紀の女帝推古天皇は確実に存在しない。
でも存在はしただろう >九州北部には様々な氏族が渡来したんだよ
どこに書いてあるん? >>388
麻亜、ひょっとしたらタリシホコは大王じゃなくて諸王の一人だったかもしれんが、このスレのテーマは文献じゃなく考古学だしなあ >>390
古墳時代に多くの渡来人が来たのは事実だろうが、期間限定の短期赴任のものも多かった
欽明のころのクダラカラ暦博士など多くの技術者や知識人が来た記事も、交代要員の派遣として記されている
交代だから任期が終わったら国許に帰ってるわけだ >>388
何を持って天皇制と呼ぶのかにもよるが、記紀にあるのは記紀編纂当時日本列島の多くを手中に収めていたある特定の血族
若しくはその血族を中心として発展した集団についての歴史。
その集団の事をヤマト王権と言う。
本当に血縁関係があったのか、禅定や簒奪を血縁の様に書いてるだけなのか証明する物証もないのにわかるはずもない。
株式会社ヤマト王権という法人の社史編纂だと考えればいい。
血族会社かどうかなんて、社史には関係ないだろ?
少なくとも471年に就任していた第21代取締役社長の雄略天皇については、埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に
それと思われる記述が見つかっているので逃れようのない事実だ。 スレタイ読め
質問スレじゃないから知恵袋で聞いてこい 記紀に創作があるのはまあわかるけど、全否定してる人ってなんか証拠あるの? >>400
鉄剣銘文面白です。 大和王権に8代仕えた武人の直系なわけで・・・
>471年に就任していた第21代取締役社長の雄略天皇 は、JF記紀なんで、
絶対年代の倭王武から、一代30年で主家、時代背景付きで追ってみました。
其児 乎 獲居 ヲ ワケ 470年〜 倭王 武
其児 加差披余 カサヒヨ 父 440年 倭王 済 興
其児 半弖比 ハテヒ 祖父 410年 倭王 讃 珍
其児 多沙鬼 タサキ 獲居 380年 仁徳天皇 =多沙 任那地名
其児 多加披次 タカヒシ獲居 350年 仁徳天皇 高句麗戦 百済新羅建国
其児 弖已加利 テミカリ獲居 320年 応神天皇 牛馬移入 半島進出期
其児 多加利 タカリ 足尼 290年 スクネ=物部大伴系姫の子 杖刀人首
上祖 意富比垝 オホヒコ 260年 ヒコ=皇族? 纏向? 九州平定期
〜350年辺りで氏姓が出来ると思うけど記さないのはわりと上層の皇族だからかな?
471年、奈良で鉄剣作った、大和王権の杖刀人首 乎 獲居さん、一統祖先8代
概ねで、筑紫倭人伝終了の247年辺りでも、大和王権は直列出来るかと。
記紀の系図より信用できますw ご指導、ありがとうございました。 >>402
スレタイと君の感想とのつながりが分かりません
スレタイは「大和朝廷について考古学的に語るスレ」です
記紀に対して何も言及してません >>405
人物の比定に根拠なし。
むしろ大彦くらいかと思っていたが。 大彦命
第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。
また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。
四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。 >>405
人物の比定って何?
西暦の471年に オワケが 仕えていた倭王は武になるはず。
銘文のオワケの8代が、大和王権に使えたとして、
記紀の天皇だと即位自体不明で、年代や系図順が合わないから、
西暦でも信用できる宋書の倭の五王を、400年代の主家である統一国王の実在の根拠にした。
403の 記紀がダメな理由は、スクネって物部氏からだっけ? で、ググると
物部氏は神武天皇から仕えていた、らしいw
BC600年の王朝はJPファンタジーで嫌。
上祖 意富比垝 オホヒコ は、応神天皇に仕えたか? というと
神功皇后の皇子じゃ ホントは、存在してもらいたくない。
歴史は時系列が基本であって、記紀の年紀や情報の多くは、邪魔。 >>405
鉄剣の文言には和風諡号があるから雄略天皇な訳だかね。 >>409
そもそも倭の五王と記紀の天皇の比定が疑問だらけなのに。
ナンセンスだな。 >>410
それが和風諡号だという根拠と、雄略天皇だという根拠は? >>406
考古学に語れと言ってるのに
記紀ベースで語るのはスレチってことだろ?
頭大丈夫か? >>415
考古学といっとも、記録文書も使うし、出土物も使うやろ >>405
>上祖 意富比垝 オホヒコ 260年 ヒコ=皇族? 纏向? 九州平定期
大彦命
第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。
また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。
四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。 稲荷山鉄剣のオワケの始祖8代直列出来る系図で、オオヒコが
一代30年だと260年当時、九州平定〜半島進出期の王 に仕えた可能性は有る。
って、話であって、記紀の第8代孝元天皇や四道将軍だとオオヒコは紀元前後。
記紀は紀元を2600年にするために一代100年とか、
倭の五王の奏上で予想できる四道将軍や朝鮮征伐みたいな大事まで
事績が重複みたいなデタラメで時系列崩壊してるよね。
って話なんだけど、そういう事? >I崇神(310年頃 318年没)
>H開化
> G孝元
別スレから
孝元は3世期末くらいじゃないか?
1代10年余りかな。
古代は若くして子供を作るし寿命も短い。
30年あったら2世代経ってしまうよ。 >>419
神武即位を庚午に合わせるために伸ばしたのか、そもそも複数人の成果を一人に集約したのか。
そこからしてそもそも謎だからなぁ
ただ、神武東征で河内湾に侵入した描写が描かれてるわけで、河内湾が埋め立てられたのは西暦400年台。
河内国の草香邑に白肩津(津なので海岸線の意味)があったのは、少なくとも紀元前の風景。
記紀が創作だとすると、記紀が編纂された8世紀に7〜8百年以上前の風景を誰がどうやって伝えたのかと言う問題が残る。
河内湾の白肩津自体はもっと前から存在してるので、もっと古い光景を伝えた可能性も十分にある。
もう一点
神武天皇が即位したとされる畝傍の橿原に、即位時期と一致する橿原遺跡がある。
これも8世紀の人間が年代測定できてたはずもないし、誰がどうやって伝えたのかと言う問題がある。
記紀が完全なる創作だと言えないだけの考古学的、地質学的な物証が確かにある。 少なくとも河内湖は埋め立てられて消えた訳じゃないね
淀川や大和川で流されてきた土砂が千里丘陵と上町大地に挟まれた海峡?(とは言わないんだけど、名称を忘れた)を埋めて海から切り離され、徐々に土砂が溜まって陸地化していくんだけど、400年頃だとまだまだ湖が広かった頃だよね
最後まで湖として残った鴻池が埋め立てられて陸地化したのが江戸時代 >>422
>ただ、神武東征で河内湾に侵入した描写が描かれてるわけで、河内湾が埋め立てられたのは西暦400年台。
>河内国の草香邑に白肩津(津なので海岸線の意味)があったのは、少なくとも紀元前の風景。
は?
300年代や200年代の話でもいいことになるよね? 戦国時代までは大阪の大半はまだ水浸しだとブラタモリで言っていたような。 >>425
ちょっと誤解しているが、河内湾の埋め立ては400年代だが
白肩津のあたりが海岸線だったのは最低でも紀元前の出来事。
それ以降は大和川の土砂の堆積で草香邑は海岸線ではなくなってる。
草香邑=現在の東大阪市日下町のあたりだが
ここは生駒山のかなり麓の奥まった場所。 そんなの満ちたり引いたりではっきりと決まるものでもないだろう。
神武が紀元前だというのがどだい無理がある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています