欠史八代とは何だったのか? 其2
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四国の重度統合失調症症患者「阿波チョンコ」は日没までに首を吊れよ
何度も!何度も!何度も!
繰り返し!繰り返し!繰り返し!
「即死しろ!」と命令されているだろう?
むしろ阿波チョンコへのレスは「首を吊って死ね!」以外にないじゃないか
誰にも相手にされてない=存在する意味がないという事だろう?
なぜ素直に命令をを聞いて首を吊ることができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者のヒトモドキとは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に首を吊れ!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾チョンコ
日没までに必ず実行しろ!
必ずだぞ!!! 神武と欠史八代の天皇にも婚姻家系や宮と陵墓の所在地
以外に何か特筆すべき事績はあったはず
それを敢えて書けない理由があったに違いない
神武+欠史八代はよく葛城王朝と称されることがあるが
実はすでに崇神天皇より前の9人の王全員には神武天皇の
血筋でない者も含まれていたので、各天皇の事績をいろいろ詳しく
書くと万世一系でないことがバレる恐れがあったのではないか >>129
ただの大和の居候だったんだろ。
実権は物部氏の方にあった。 それよりも・・・、
浦島太郎(仮名、キャラクター名)の話ばかりなんだけど、なぜだと思う? 他のスレにも書いたことがあるんだけど、
128(の書き込みw)は、どこの池沼なんだ? どこの池沼なのか知らないけど、お前が何なんだ?
頭が悪いんだろう。 >>131
物部は筑後山門の邪馬台国時代からの天皇の部下だよ
筑後山門に物部の祖先を祀る神社が集中している >>138
アマテラスは太陽崇拝の擬人化ではなく
実在した人物がモデルなの? ニギハヤヒはスサノオの子の大歳という
歴史マニアの見解もあるよな
神々のルーツはほとんどが出雲で
神武天皇の故郷の日向には神々がほとんどいないともいうし >>139
たぶん、古代の倭王。
ただ、何人かの像を重ねて一人の話になっている。
例えば、八咫の鏡(平原遺跡に出土)を作らせたのは、実際には卑弥呼。 >>140
スサノオは出雲に流れ着くが、もともとは筑紫の日向の小戸(福岡市西区小戸)の生まれだよ。
アマテラスも同じ。
博多湾の岸に昔は岬(タチハナ)があり、その西側が小戸、東側が大戸。 スサノオ
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯(すす)いだときに産まれたとする。
小戸大神宮(福岡市西区)
伝説では伊邪那岐(いざなぎ)の神の「みそぎ祓(ばらい)」をしたところで天照大神、志賀三神、住吉三神が出現したという由緒の地とされている。 >>145
>筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊・・・・・・
橘は岬(タチハナ)>>142か。
小戸(ヲド)・大戸>>142(オホド)って何なの?
阿波岐(アハキ)って何なの? 961メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 22:20:38.35ID:yJW/g6yj0
https://i.imgur.com/W5YcyN6.jpg
全くデタラメな妄想家系図
伊弉諾尊・伊弉冉尊、素戔嗚尊、天照大神といった
人間の妄想が産みだした架空の神々は
実在したかもしれない人間の神武天皇と何の繋がりもない。
実在してる人と実在してない神を混同するな
968メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 22:33:23.51ID:yJW/g6yj0
日本書紀から想像すると、古代の天皇は50や60になって即位し
それから嫁さんを迎えてたらしい
当時の女性は今の女子中高生ぐらいの年齢で結婚していただろう
そして20年ほど経って、70歳とか85歳ぐらいのよぼよぼの
爺さんになって30歳半ばに達した嫁さんとの間に跡継ぎを授かり、
さらにほとんど子供をもうけることなく50年ぐらい生きたそうだ
いや、嫁さんの年齢は正確に分からない。ひょっとして天皇と結婚した
とき幼女だったから20年とか当たり前に過ぎて出産したのかも?
日本のおっさんたちからロリコン性犯罪者が絶えないのは皇室に由来してるのか 970ボ ラギノール(東京都) [JP]2020/11/28(土) 22:38:10.40ID:wQ1aP4EM0>>987
>>968
でも全部お前の想像じゃん
987メンマ(福岡県) [ニダ]2020/11/28(土) 23:06:17.87ID:yJW/g6yj0
>>970
天皇の年齢は日本書紀通りなんだけどね
女性が子供を産める年齢には限度があるから
年老いた夫と若い妻の組み合わせにならざるを得ない
第5代 孝昭天皇
父:第4代懿徳天皇 母:天豊津媛命(懿徳天皇の兄息石耳命の娘。
祖父の第3代安寧天皇の時代に誕生していたと考えられる)
懿徳天皇5年(1歳) 誕生
懿徳天皇22年(18歳)2月、立太子
懿徳天皇34年(30歳)懿徳天皇崩御(77歳)
孝昭天皇元年(32歳)1月、即位
7月、掖上池心宮に遷都
孝昭天皇29年(60歳)1月、世襲足媛を立后
孝昭天皇?年 世襲足媛が第一子天足彦国押人命を出産
孝昭天皇49年(80歳) 世襲足媛が第二子日本足彦国押人尊(孝安天皇)を出産
孝昭天皇68年(99歳)日本足彦国押人尊を立太子
孝昭天皇83年(114歳)8月、崩御 第6代 孝安天皇
父:第5代孝昭天皇 母:世襲足媛
孝昭天皇49年(1歳)誕生
孝昭天皇68年(20歳)1月、立太子
孝昭天皇83年(35歳)孝昭天皇崩御(114歳)
孝安天皇元年(36歳)1月、即位
孝安天皇2年(37歳)10月、室秋津島宮に遷都
孝安天皇26年(61歳)2月、姪の押媛を立后
孝安天皇38年(73歳)9月、孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬る
孝安天皇51年(86歳)押姫が大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)を出産
孝安天皇76年(111歳)1月、大日本根子彦太瓊尊を立太子
孝安天皇102年(137歳)1月、崩御 孝昭天皇や孝安天皇はなかなか子どもができにくい体質な
割に長生きで后に迎えた女性に何度も先立たれたんだろう
40ないし50も年が離れた女性を后に迎えたのはやむを得ないこと
継体天皇だって58歳で20代の手白香皇女と結婚して欽明天皇を
授かった
世襲足媛や押媛もたぶん40歳ギリギリぐらいまで子供を産んだが、
子供の大半が早死にしたんだろうな 普通にただの伝承だろ
記紀で食い違うところ、たとえば年齢などは信憑性ないけど そもそも日本書紀は2倍歴採用してないと見るべき
神武の即位年から持統譲位の年まで西暦換算が可能
神武即位=紀元前660年(辛酉)
持統譲位=西暦四696年(丙伸)
持統譲位=西暦年696年(丙伸)は史実
神武の即位年紀元前660年(辛酉)は造作
造作と史実との間を埋める為に天皇の没年齢が異常に
長くなったと言うお話し 日本中を掘り返したいよね
いいかげん古墳とか早くひっくり返したい 1C末:神武
2C初め:綏靖(帥升)
2C後半:孝昭、倭国大乱に
190年頃:卑弥呼(宇那比姫)共立
249年頃:孝霊(侵略王フトニ)即位
266年:臺与(百襲姫=フトニの娘)、晋に朝貢
331年:崇神没
370年:景行没
37?年:成務没
380年:仲哀没
389年:神功没
430年:応神没 やっぱり邪馬台国畿内ヤマト説論者はダメだわ
卑弥呼、臺与の邪馬台国は九州に存在してたから
欠史八代とは全く関係ないわな たけし「歌を歌ったり映画やる気力もねえや、馬鹿やろう」 韓国盛衰記
_ ∩
( ゚∀゚)彡 全て、日本の金!恩知らずな韓国!!
⊂彡
李 / ̄\ 朝 / ̄\ 民
朝 / 日 \ 鮮 / 漢 \ 主
/ 帝 \ 戦 / 江 \ 党
/ 支 \ 争 / 奇 \ 景
__/ 配 \_/ 跡 \ 気
\/ ̄\ 2度目の破綻
韓国併合 日本資金援助
日帝遺棄資産 ・8億ドル+α(経済協力金)1965年
・21兆円超 ・40億ドル(特別経済協力金)1983年
・100億ドル(通貨危機救済金)1997年 >>152
無文字時代の口伝えの伝承が『紀』に下記意図の下で採録されたと?
50 :天之御名無主:02/01/24 22:12
第1代から第9代までは作り話です。日本書紀は中国王朝向けに作られたため、
自国の歴史を古くして見栄を張ろうとした・・・・・
天皇家って何処からきたん?
https://academy2.5ch.net/test/read.cgi/min/987611776/50- 本当は書いた記録もあったけど、都合が悪いので日本書紀が完成してから全て焚書した。 ツクリ話ではないね。現に古墳があるんだから、もしそうならばかばかしくて
あくせく膨大な労働力がかから古墳を9基も造るわけがねえ。
作り話より作り古墳のある現実のほうが八代はいたとうなづける。
たった九代分天皇を増やしても、中国のもっと古代の夏殷に及ばないんだから、
もっと代数を増やすはずだろ。そうなってないということは見えはりとは
いえない。 例えば、徳川将軍家の例を見てみよう。
家康・秀忠・家光と3代までは親子孫だが、家綱・綱吉は兄弟相続だ。
欠史八代とは(従)兄弟で、実在はしたが即位はしておらず、神武の即位をBC660年に遡らせるために、即位したことにした可能性が高い。 万世一系なんて、天武天皇の理想だったかもしれないが、実際はその昔にはありえない。
ただ、子には必ず親がいて家系はあるもので、この時代は昔は百姓ということも無かろうから、それなりの名家ではあったんだろう。
神武とか崇神とか応神とか、有名どこは実在した伝説はあるのかも。 古墳である時点で、少なくとも年代はかなり違うはず。
しかも陵墓の指定がいい加減なのは周知の事実。 >>166
台与から倭王位を譲位されて神武東征が行われたとすると、その実年代は260年。
それをBC660年に800年遡らせるには、古墳時代中期5世紀・応神仁徳朝の天皇を100歳越えにするだけでは、足りずに欠史八代が考え出されたんだろうw
神武と崇神は共にハツクニシラスで親子だろうから、欠史八代は崇神の弟達を兄達という設定にしたものと考えられる。 神武: 最初に擁立された纏向のリーダー
欠史: いろんな参加国の持ち回り
年代は神話ぽく見せる偽装、かつ稲作の畿内到達をイメージ >>169
もしかしたら記紀は、神武東征(宮崎→大分→筑紫→安芸→吉備→摂津→大和)が、狗奴国を降伏させた台与の命令ではなく、張政(魏帝)の命令だったことを隠そうとしているのかも!
倭人伝
(3代皇帝曹芳)正始8(247)年、王頎(おうき)が帯方郡の太守となった。親魏倭王の卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼が従わないため、載斯烏越らを帯方郡に遣わして、互いに攻擊しあう状況を説明した。
そこで王頎(おうき)は塞曹掾史の張政らを遣わして、皇帝詔書・黃幢(曹魏の皇帝旗)を齎し、難升米に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、どうすべきかを解り易く説明した。
張政が倭に到着した時、卑弥呼が死んだので大いに冢をつくった。径は百歩あまり、殉死した奴婢は百人あまり。男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺し合い、千人あまりが殺された。
その後、卑弥呼の宗女で13歳の台与を立てて王とすると、国中が従った。政(張政)らは檄(ふれぶみ)の内容を13歳の台与に解り易く、具体的に説明した。
新女王台与は大夫の善中郎将・掖邪狗ら20人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。
彼らはそのまま台(洛陽)まで行き、男女生口30人、白珠5000孔、青大勾珠2枚、異文雑錦20匹を皇帝陛下(3代曹芳)に献上した。
倭人伝には「女王国東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国(四国)在其南。去女王(之所都)四千里」とあるから、王頎(おうき)が渡した檄(ふれぶみ)の内容とは、
「朕の忠実な僕である親魏倭王・卑弥呼よ、東にある本州や四国を第2第3の狗奴国としないために、朕の後ろ盾がある今のうちに武勇に優れた将軍を立て、急ぎ征服し平定しておきなさい(魏の皇帝曹芳より)」 >>171
神武東征は三国志外伝だったのか・・・
それ三国志の権威・渡邊義浩先生(古代中国史・畿内説)に教えてあげなよ >>166
ツクリ話なら、紀の編者らは公文書偽造同行使で当時の糾察官吏に
パクられる。いまの政界なんか少しの失言で更迭され大きければ失脚だぞ。
当時でさえ政敵は多い。そんなツクリ話に史実とした文書を造れば同罪で
流罪打ち首押し込めとかやられる。だからツクリ話ではない。
前660年に引き延ばしも公文書偽造だろうが、だからそんな真似はしてねえ。
この年代は現今の暦法で逆算した数字であって、現実にはそれは真の年代
ではない。古代の朝廷は当時1年を半年等で暦を編んでたものであって、
真の年代は前660年よりもっと後代に位置する。
したがって紀のここの記述はウソではない。 当時の1年は現今の半年等であって、これは当時2倍暦等を行使してたのさ。
だから捏造ではないね。引き延ばしはされてない。
【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ことごとく月前半の2週間に収まっている。 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、その直後の神武は卑弥呼と同世代だよ。
そして13歳で即位した壹與は少なくとも3世紀末までは君臨していただろう。
魏志倭人伝に壹與の事績が少ないのは、その年代が晋の時代なので、詳しく載せる必要がなかったから。
または、三国志か成立した280年頃にはまだ存命中だったからだと考えられる。 >>175
卑弥呼は神武の年代ではないね。
卑弥呼と同世代は百襲媛と崇神。
神武の代だと後代の天皇の各在位期間がスシ詰めになるからおかしいとなる。 間延びしたのは紀のほうではなく、紀の年代をいまの太陽暦的1年365日
での計算をしたほうが間延びさせた張本人だ。
当時の1年は現今の半年等だから、現今の計算した人物らが間延びさせたのだ。 紀元前のところの王代記は差しさわりがあるからカットしたら空いちゃってー
仕方ないからその分伸ばしましたー的なw 漢詩に通じていた淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を選出したとのことだが
漢詩に通じているなら何故武則天に皇太子の座を廃され処刑された太子の諡号である「懿徳」の名前や
「(孝)霊」なんて一番諡号として使ったら不味い名前を付けたのか
とくに後者なんて古事記に吉備平定の事業が書かれ風土記に鬼退治の伝承が奇跡的に残されているなど欠史ではない天皇なのに >>145
>黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で・・・・
イザナギの帰還地が筑前国日向とされているのは後年のヤマト王権主宰
天皇家には先祖がこの地に住んでいたという伝承があったということか? >>3
ごっさかいと遺跡では野ダタラ跡は確認されてないから、かえし付鉄器が持ち込まれたのか作られたのかはまだ分かってない。
単純な製鉄なら、畿内で弥生時代後期、紀元前後で既に製鉄は行われている。
https://www.sankei.com/article/20211028-75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM/
たいたいこの手の安曇推しのアホはヤマトに製鉄が無かったとか吠えてるけど、そんなことは全くない訳だ。
安曇地籍と鉄器も基本的に無関係。出雲にすら安曇地籍はあるが、ごっさかいと遺跡の様なものはない。
別の一派が鉄の武器を制作していたのだろう。
単純に物量が必要になったから大量に鉄器が輸入されていたという事しか分かってないし、安曇族は海氏の親戚にすぎない。 >>30
八井耳系の多臣氏なんて邪馬台国時代より前には九州に居たからな
九州発って割合に分かってるのは、物部くらいの物。
水稲遺跡は徐福時代よりずーっと前の前10世紀あたりのものが佐賀で出ているし、奈良の御所市では邪馬台国時代より100年前の中西遺跡がある。
紀元前後ではヤマトで製鉄も行われているしね。
畿内政権が出来る前から三島(越智)は奈良湖の開拓をして稲を作ってた
三島氏はよく分かってないが、どうも古い一派は九州に居て、白山信仰を帯びていたようである。
邪馬台国時代以降はヤマトから離れて三島大社のあたりに落ち着いた様子。
二田物部氏、三島氏は越智と関連が強く、白山信仰の中核を成すようになっていった
新潟の二田物部氏の社家はなんと三島氏。代数は130代ほどを数えるという
我々が今まで思ってた以上に、九州とヤマトの文化差は少ないのではというのが最近の研究
そもそもが、先代旧事本紀でも、大和と物部の腹違いの兄弟が婚姻して村雲が生まれている訳だからな。
物量の差はあっても、文化差はさほどなかった、政治機能が並立していたというのは後の魏志倭人伝の一大卒の話にも出てくる様に、理にかなってる >>32
そう、その二つが戦っていたから、アホどもの議論がいつまでたっても終わらないんだ。
馬鹿どもはお互いが、神武だと主張して譲らないからなw
三角縁神獣鏡も典型例。馬鹿みたいに邪馬台国時代の鏡だって、全部を自分の処に我田引水するから議論が終わらない >>57
そもそもが、朝鮮人右翼が日本の歴史に首を突っ込むこと自体が穢れ
三国志記とか見てればいいのに >>91
三船淡海そのものが開化系の物部氏の血が入った人物だからね >>104
三輪大君説ですか?太田氏ですね。
大物主は三輪の祭神が男神のみになったあとに事代主を大物主に替えたとされます。
今では纏向遺跡と名は代えられましたが、あの遺跡、元々は「太田遺跡」と呼ばれていました
現在でも太田地籍は残っています。
鴨族(タキツ彦)系と、加茂氏は厳密に言うと違うんですが。
鴨族には、タキツ彦系と、事代主系の二つがあります。 >>185
>物量の差はあっても、文化差はさほどなかった、
物量の差を無視してはいけないだろ。
単に畿内が九州の植民地だったことを裏付けているだけ。
物部氏の祖の饒速日は、筑紫の日向で生まれたアマテラスの孫だからね。 >>176
あら太国さんお久しぶり。
「何故100を超えるのかスレ」であのスレ主、撃沈で面白かったですね〜。
あのあとスレ続きませんでしたね。
古事記の神武(磐余彦)は物部氏ですよね〜
神武が出立して、大和に到着したのがウマシマジっていつの間にか書かれてるのに、製作者が何を考えてたかって普通は疑問に思うところですよね〜 >>190
物量の差を考慮に入れるのなら、邪馬台国事件の直前に九州に実用鉄器の生産がピークを迎え、三世紀には衰亡に近いレベルにまで落ちる事を説明しなければなりません。
邪馬台国の景初前後は、丹後が日本一(ヒボコの地盤だったから朝鮮から鉄を持ってこれた)、その後、6世紀には柏崎辺り、新潟が日本一になりますよ。
アマテル神社は元は男神ですよ。アマテラスの話は混ぜると面倒
海部家の祖はホアカリを祖とします。
出雲の旧家の伝承だとニギハヤヒを祖とする家系になり
先代旧事本紀では、アマテルクニヒコホアカリニギハヤヒが同一人物でしょ?
だからヤマトと九州には文化差がないって事になるわけ。同一人物だからね
ニニギはニギハヤヒの投影。磐余彦時代の物部東征と、卑弥呼の時代の崇神あたりを一つに圧縮して朝貢の歴史を消したから便宜上出てくるニギハヤヒの投影
景初は二回目の物部東征だよ
更に記紀はちょっと無理して神功皇后を卑弥呼と偽装するようにざわざわ神功皇后記で魏書を引用している
だから山門なんて邪馬台国でも何でもない。記紀の制作者の思惑通りに動くアホ。
本来の神武
磐余彦の神武(ウマシマジが大和入りしたとなる不自然な記載の時代)
崇神の頃の神武(景初の時代。だからミマキと名を変え、任那あたりに居たのか?と思わせる諡号になった)
この3つが全部同じ時代に起きたように隠されている >>192
>アマテル神社は元は男神ですよ。アマテラスの話は混ぜると面倒
面倒でもなんでもない。
アマテラスは男王でもなんの問題もない。
>だからヤマトと九州には文化差がないって事になるわけ。同一人物だからね
同一人物論のほとんどはアホ
まとめるから余計にややこしくなる。
文化に差がないのは、どちらの九州出身だからでしょ。
でもそれは倭国の本家が九州で、倭国女王卑弥呼が都した邪馬台国も九州でいいじゃないか。 >>193
>面倒でもなんでもない。
>アマテラスは男王でもなんの問題もない。
いやいや面倒でしょ、アマテルの孫がニギハヤヒなんでしょ?
>文化に差がないのは、どちらの九州出身だからでしょ。
いんや、ここがアレなんだけど、スサノオ。
徐市とスサノオだけは、二度日本に来ている。
一度目は和名、ホアカリ、出雲の五十猛海岸辺りに到着
二度目は和名ニギハヤヒを名乗り、九州に。出雲の分家の宗像家と組んだ
だから記紀でもスサノオは三女神と近い位置に書かれている。
大陸にスサノオの正体がバレても大丈夫なように「女系の先祖」としけ書かれるほどに注意が払われている
文化に差が無いのは、二度日本に来ているから
海幸彦と山幸彦は実は本当に腹違いの家だったからだよ。隼人なんて海幸彦と何の関係もない、宇佐族とかと一緒の昔からの九州の土着の一族 >>193
>邪馬台国も九州でいいじゃないか。
難しいのはココなんですよ。
二回目の東征が卑弥呼の時代。正に東征を伺える記述になってるでしょ?
つまり、邪馬台国は九州に大量の兵隊が集結している訳だ。
で、九州がヤマトに進軍し、もぬけの殻になった。
西都原に集結した軍勢は、宇佐八幡を経由し、瀬戸内海の吉備国と正面からぶつかった。そしてマガネ吹くと言われるほどの鉄器の国家である吉備国を倒し、大和に流れ込んだ
記紀ではどういう形に書いたかと言えば、「大和が大和を攻撃したように」なってるわけでしょ。
そのまんま書いてあるよ。
磐余彦が神武なのに、到着したのが物部氏のウマシマジ。
そのまんま、大和が大和を攻撃したように書いてある。
大陸を誤魔化して日本の独自性を主張しようとしたのが記紀
だから、日本国民から見たら何を細工したのかは分かるように書いてある つまり、「大和は既にあったけど、集結した軍隊もヤマトとして書かれて神武になってる」わけだ。
邪馬台国なんて国としての実体のない、西都原に集結した軍隊の事を差している。
便宜上の存在だから、後の解釈によって九州にも奈良にも受け取れるんですよ。
しいて言うのであれば、都万国が邪馬台国。(あくまで大陸の魏書からみたらだけど) アマテラスは男ではない。女性だよ。
これは秀真伝の盲象。 >>194
>いやいや面倒でしょ、アマテルの孫がニギハヤヒなんでしょ?
男王の孫。
>>194
>海幸彦と山幸彦は実は本当に腹違いの家だったからだよ。隼人なんて海幸彦と何の関係もない、宇佐族とかと一緒の昔からの九州の土着の一族
土着で済ますなよ。
それも元を辿れば筑紫の日向の生まれなんだよ。 >>195
言っていることがわけわからん。
神武が敗走して東征したのなら、勝った側の勢力が九州に残るじゃないか。
記紀は悔しいから何も書かないだろうけど。
神武とウマシマジを混ぜている理由もよくわからない。 >>196
>しいて言うのであれば、都万国が邪馬台国。
投馬国と邪馬台国が同じとか、意味わからんわ。
もう黙っていたら? ヤマトが大和を攻撃する構図は、きちんと魏書にも書かれている。
九州の卑弥呼が、朝貢の際に、大和を名乗ってる訳でしょ?
「一人の人物から端を発している」お家騒動だったから、お互いが正当なヤマトを名乗っただけの話。
ヤマトとは畿内のヤマトだけど、九州勢も血筋の大義名分があったから、ヤマトと名乗れたというだけの話
じゃなきゃ、既に昔から朝貢しているヤマトをブチ倒しに行きますなんて九州勢が大陸に名乗れるわけないじゃん
伊都は、昔から大宰府と一緒で、首都がそこにあるように見せかけて本土を防衛するための二重構造
日本府と同じ
だから一大卒と書かれるようになった。
安曇は大した役割の存在ではない。畿内の政権の親戚として伊都の長官やってただけ >>198
男系の方が渡来者だったなんて一番記紀で隠したい事じゃんwww >>199
>神武とウマシマジを混ぜている理由もよくわからない。
それは記紀に聞きましょうね?w
到着したのがウマシマジと書いてあるわけでしょ?
五瀬が毒矢でやられて、どの兄弟かは分からないけど大和までは入り込んだわけだ
古事記の方だったっけか? >>199
>神武が敗走して東征したのなら、勝った側の勢力が九州に残るじゃないか。
>記紀は悔しいから何も書かないだろうけど。
記紀が悔しいと書いた理由は九州の歴史に対してという意味ですか?www意味が分かりませぬ
垂仁のあとに景行天皇が九州をボコボコにしますが、それだと筋が通りませんね
東征が成功して、天皇が手のひら返しで九州を攻撃ですか。普通なら実家と仲良くするのでは? >>198
竜宮伝承は、九州というよりは、福井辺りの日本海側で広がる伝承で、九州にはその一部しかありませんよ >>202
天照は筑紫の生まれであり、渡来人ではないぞ?
話の前提が妄想だらけで話が通じないなあ。 >>203
>到着したのがウマシマジと書いてあるわけでしょ?
どこに書いてある?
その前提が誰にも理解不能。 >>200
この動画面白いですよ〜
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw
西軍側の軍隊が集結したのは生目古墳群とか都万神社があったあたりとされています
三角縁神獣鏡が現在では国産説が言われ始めていますが、それとも矛盾しませんよ。
何故ひむか、宮崎に日向伝承が生まれたのか?
それは物部イニエ、物部イクメが魏書の卑弥呼と関係しているから。
そもそもが東軍側、畿内側の鏡でしたからね。あの鏡は出土状況からしても東征してない
生目古墳群は、イクメの子孫の物部大タラシヒコが作ったとされる。
九州に攻め込んだからね
今でも都万神社って、西都原地籍のあたりにあるんじゃね? >>204
>垂仁のあとに景行天皇が九州をボコボコにしますが、それだと筋が通りませんね
ここも読み違えている。
景行が荒らしたけど、結局は筑紫の女王の手のひらで使われていた。
>東征が成功して、天皇が手のひら返しで九州を攻撃ですか。普通なら実家と仲良くするのでは?
異母兄弟を政敵として倒す家系ですよ。
遠い親戚なんて、仲良くするわけがない。 まあ、越も香椎あたりにいた博多湾沿岸の国が東征したのどから、どうでもいいか。
伝承も持っていったのかもしれないし。
要するに、筑紫からの東征は何度もあった。
それを、あれとこれは同じかもしれないと邪推するのは、無駄なこと。 >>209
>異母兄弟を政敵として倒す家系ですよ。
>遠い親戚なんて、仲良くするわけがない。
おお、それそれ、まさにそれですよ。
海幸彦(尾張家、海部家)と、山幸彦(物部家)は、親戚で勢力争いをしたという事ですよ〜
物部東征によって、ヤマトの出雲系は土蜘蛛にされ、九州の反攻勢力(宇佐家=豊家)は土雲に落とし込まれました。 >>209
>景行が荒らしたけど、結局は筑紫の女王の手のひらで使われていた。
そのころすでに女王様は居ません。
神功皇后はその次の代、成務以降の人物 >>212
>海幸彦(尾張家、海部家)と、山幸彦(物部家)は、親戚で勢力争いをしたという事ですよ〜
海幸彦よ山幸彦の関係が、尾張家と物部家の関係に似ているのはそうなのだろうけど、同じということではない。
歴史は繰り返しているというだけ。
日向国の都万神社が海幸彦の国ですよ。
隼人の祖先は公式にも海幸彦とされていたはず。 >>211
>伝承も持っていったのかもしれないし。
おお〜、確かに伝承というのは侮れませんね。
天孫降臨だって、飛騨にもありますし、本当に伝承というものは子孫が先祖の偉業の検証のために移動する事は十分に考えられますね。
高天原は、記紀の制作開始時ではヤマトだったらしく、タキツ彦系の鴨族の地盤だったあたり、高天彦神社の西側当たりの平らな大地には今でも高天原の木だか石塔がありますしね。 >>213
>そのころすでに女王様は居ません。
>神功皇后はその次の代、成務以降の人物
神功皇后の2代前、景行の時に、三種の神器を掲げて景行を迎えた筑紫の梟師、神夏磯姫がいます。
景行は結局、神夏磯姫が言うままに政敵を討伐しました。 >>214
竜宮とは関係ないですね。
饒速日の宮の一つ。 >>216
>隼人の祖先は公式にも海幸彦とされていたはず。
その割に冷や飯ぐらい過ぎませんか?隼人族は。
隼人族は、最初の東征、五瀬軍の際に、吉備国を避けて四国ルートから紀伊國に上陸する作戦の際に、九州で仲間にしたという伝承があります。
しかし、名草軍に撃退されて和歌山ルートに切り替わったとされます。
これは、サバイバルで有名な小野田さんの実家、名草の頭部を祀る、オコベ神社の伝承でもあります。
五瀬が死んだあと、残った二人のうちどちらかが大和入りしたのか記紀の制作者は分からなかったらしく、ウマシマジを創作
それであんな記述になったらしい
景行帝は九州で亡くなり、西都原の地に葬られ、その墳墓は西都原古墳群の男狭穂塚であるそうです。
「大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し 麗し」は、記紀の制作者、柿本人麻呂が作った歌だそうです。
西都原が海幸彦の土地なら、山幸彦(生目を祀る物部氏の聖地)が、山幸彦(物部)にボコボコにされた構図になってしまいませんですか? >>215
>あいつは在日だろう?
ガちもんの朝鮮右翼の気がしますよね。
神武陵の近くの被差別地域に詳しいことと言い、ちょっと闇が深そうですよね。
どう考えても、物部系の神武、嫌われて奈良から追い出された物部氏系の陵墓ですもん、アレ。
元から居た村雲系(神武)の尾張家の地盤であんなに差別されるはずがありません。
加茂氏も阿部氏も結局畿内に地盤を持ったままですものね >>218
日向では御刀媛を娶ったのでは?
それが後の日向国造家になりました。
九州の反攻勢力=土雲の本家とも言える竹田の一族をことごとく滅ぼした景行帝は、おそらくですが宮崎に至り、物部本来の地盤、西都(現在の西都原)にて自らの王国としたのではないでしょうか
男狭穂塚古墳の前方部は、後の時代につくられたものであり、もとは円墳に近い帆立貝式の古墳であったと考えられています。
奈良のホケノ山古墳は、本来は、豊家を表す、豊家山古墳と書くのだそうです。
そう、大神神社は、トヨの墓の伝承をもっています。あれもホタテ貝型の弥生式墳墓。正式には古墳扱いされない物です。
箸墓古墳も、実は前方後円墳に改造されたのが江戸時代という話があります。
あれも、本来は同じホタテ貝型こふんであったと。
もとは、高市古墳と言って、纏向遺跡と同じで全く違う名前で呼ばれていました。
古図が伝わっていますが、何と円墳として書かれています。
この伝承を伝える説では、トヨは、イクメ〜大タラシヒコの時代の人物とされています。 >>220
>西都原が海幸彦の土地なら、山幸彦(生目を祀る物部氏の聖地)が、山幸彦(物部)にボコボコにされた構図になってしまいませんですか?
言っていることがよくわからないけど、矛盾が生じるなら、あなたの立てている物部氏についての仮説に問題があるのでしょう。
山幸彦の聖地は、山幸彦本人を祭る糸島の高祖神社ですよ。
ここが邪馬台国の中心地でもあります。
そこから出発した神武の末裔であるところの景行が、分家である海幸彦の投馬国を叩いても、当時の価値観からすれば問題ないですね。 >>221
なかなか自説を曲げて間違いだと知る者って少ないです。
いったん自説に確信をもてば三つ子の魂百までというか、変えようとしないで
ほとんどのそういう人は頑張ります。
やつもそのようで卑弥呼が紀に公開されてるのを鋭く指摘しても隠匿だとか
一時言い張ってました。w
だからスレから消えても自説を固守してるだろう考えていましたが、
稀に書きこんでて、変わった点は帥升=スサノオ説の部分だけ書かなくなり、
他の部分はまだ正しいと思っていたようで主張してました。
帥升に日神も月神も五男三女神も一緒にいたという資料は
ないだろうと突くと、罵声を言ってきましたが、おや? この点
だけはおかしいと奴は思うようになったと思いますが・・・?
それ以来ここだけは書きこんでないようです。
なかなか書きこみ者は自説はすてませんよ。w >>222
>日向では御刀媛を娶ったのでは?
景行天皇は、九州のあちこちの女性首長を自分のものにしました。
その子供は80人を越え、日本書紀編纂時にはすでにその大半がどうなったかわからなくなったとあります。
ただ、さすがに筑紫の女王であった神夏磯姫がその中に含まれるかどうかはわかりません。
なお、神功皇后が倒した田油津姫は、その神夏磯姫の末裔だそうです(おさらく孫)。
神功皇后は、景行天皇の孫の仲哀天皇や、その皇子達も亡きものとしていますので、
もし田油津姫が神夏磯姫と景行天皇の孫であれば、神功皇后は景行天皇の血筋を文字通り根絶やしにしようとしていたのかもしれません。 >>219
>竜宮とは関係ないですね。
>饒速日の宮の一つ。
二度来日していますから、当然に子孫が作った拠点です。
海部氏(分家)と、尾張氏(本家)は、村雲(本来の神武)の家系で、二回目の物部東征で最終的に山城国に逃げ込みました。
そのころ、ヒボコ族はボコボコにされ、海部氏は本来の故郷に復帰できたのです。
尾張氏は、本来の神武の象徴、村雲の剣を持っています。これは銅剣。
三代目の沼川耳(磯城津彦王=安寧)からは折り合いが悪くなってしまい、王家二派銅剣を渡さなくなってしまったそうです。
対して、景初時期では、すでに中国の炭素量を調整できる製鉄法と、朝鮮半島の磁鉄鉱を組み合わせる現在の鋼に近い素材による武器の製造が可能になった時代。
つまり草薙の剣は鉄剣
飛騨の水無神社には、天孫降臨伝承があり、現在でも祭神は物部の影響を受けていません。
本来の尾張氏、出雲の神様です。
故に、熱田の草薙の剣が、戦時中に水無神社に疎開されました。
それは本来の血筋を表しています。 ああ、日本書紀が景行天皇の末裔は多すぎて追いきれないとしたのは、神功皇后が倒した田油津姫が景行天皇の孫であることをしらばっくれるためだったかもしれない。 >>225
>神功皇后は、景行天皇の孫の仲哀天皇や、その皇子達も亡きものとしていますので、
おお〜、確かに若くして亡くなっていますから、そいう考えもあるのですね
対して、宇佐氏の伝承は面白いですよね。神功皇后は武内宿祢に拉致され、捕らわれていたことになっています。
出雲の旧家と違って独自性が強い伝承を今に伝えています。
卑弥呼は、豊国の宇佐氏出身、豊玉姫との事ですよ。
今でも宇佐神宮の姫の神は、宗像三女神に隠されていますが、景初の戦闘で安芸の国で東征中に亡くなった彼女は厳島神社で仮埋葬の後に遺骨を宇佐神宮戻されているそうです。
宇佐氏の伝承だと、宇佐津姫になっているはずですよ。(宇佐津姫は物部との手打ちの為に差し出された伝承があったと記憶)
この姫と、イニエが二回目の東征計画を立て、もうワンチャン狙ったらしいですね。 >>225
姫の段が宗像三女神になっているのは、厳島神社で宗像三女神が祀られているので都合がよかったのでしょう。
一説によると、宇佐市は出雲の分家の宗像氏と習合していたとの伝承があります。
奈良の太陽の女神に対して、月神を奉じていたようですね。
伊勢神宮は本来は、伊雑宮の天照(太陽)。内宮のカガセオ(物部道教の北斗七星)、下宮の月神だったと言われています。
たしかそれを主張して事件になってましたっけ
下宮に関しては分かりやすくて、今でも「トヨ受大神」になっています。
山代の籠神社が、ちょっと頭巡らせて社稷神とトヨを上手く使って後世に仕掛けをしたらしいですね。
今でも、唯一、内宮と下宮の両方の元宮とされているのが籠神社だったはずですよ。
整理しますと、三輪山では太陽信仰がありました。それで大神神社が元伊勢
で、面白いことに超至近距離の摂社、檜原神社も元伊勢wwwwあれは実は月神の方の元伊勢なのです。
困ったことに、それだと、出雲の旧家や宇佐氏も言う、九州都万の卑弥呼が何の姫巫女だったという事になりますが
景初の方の卑弥呼は月神の卑弥呼だったとの事です。
トヨは、最終的にイクメに暗殺され、その場所は伊勢の近くの椿大社だったとされ、今でも関係した名前のトヨに神社が境内にあるはずです。
最終的に亡骸は、ヤマトに運ばれ、豊家山古墳になったとされ、大神神社に伝説が残ってます。
ま、伝承なんで何とでもできるのでしょうが。そんな説が最近人気が出てきている訳です >>223
おっほん、弟である山幸彦が兄の海幸彦を圧倒する話ではありませんでしたっけwww >>228
>卑弥呼は、豊国の宇佐氏出身、豊玉姫との事ですよ。
その説は10世紀より前の文献では確認できないそうですよ。 >>231
そうですよ。
結果として、筑紫の王権を継承したのは山幸彦だったのです。
糸島の高祖神社の祭神は彦火火出見、すなわち山幸彦です。
そして、彦火火出見は山幸彦の孫の神武の諡でもあります。
筑紫の日向の高千穂宮とは、高祖神社、そしてそれを囲む怡土城のことだったのです。 豊玉媛は神武より前の女性だろ。
卑弥呼は崇神の代だから別人。 >>229
豊の名は、あちこちで使われます。
なので、名前が使われていたからといってそこにいたとは限りません。 トヨは、椿大社で暗殺された事により、社で信仰されていたサルタヒコの妻、ウズメに替えられたとの事です。
さて、記紀の制作者である、柿本人麻呂ってしれっと書きましたが、古事記は稗田阿礼の伝承を文章にしたとありますね。
柿本人麻呂の実家は、綾部家と言って大陸の渡来者の家系でした。母親は、海部に関してゆかりの深い天皇
幼少期に大海と名乗った人物の乳母をしていました。母親は海部家に出入りする人物だったのです。
その乳母の仕事がなくなり、柿本家から世話されたのが、語り部の仕事。
延喜式には、神社の名前だけではなく、いくつかの語り部の家に関して記述があることはあまり知られていません。
その一つが、「稗田流」ウズメの系統の口伝でした。
すくなくとも古事記は、ウズメ系、トヨの伝承をベースに書かれているのですよ。
柿本人麻呂は、母親の仕事をそのまま暗記で記憶してしまい、利発さが買われて都に移住していきました。 >>233
じゃあ日向の西都原の山幸彦を攻撃したらおかしくないですか? >>235
>豊の名は、あちこちで使われます。
その通り。そして伊都も同じですよ。
元々は朝鮮に近い音感とされ、いとし、出石、ヒボコ系を思われる土地ですからね。
ヒボコの家系は現在でも続いていて神床氏といいますが、元々は糸井国造家で「いと」が入っています。
出雲旧家と神床家には共通の伝承があって、最初の東征の前にヒボコは播磨に進軍しますが、物部氏に騙され単独開戦になってしまい、敗れ去ります。
その際に、淡路島と「伊都」に逃げ込んだとされ、伝承を裏付けるように、ごっさかいと遺跡が邪馬台国時代より前に存在するわけです
そして、あの遺跡に同時に作用できるのがヒボコ族。あの一族なら伊都から釣り針持ってこれますね。
応神天皇=上毛野説にもあるように、トヨの兄弟の豊彦が上州から神功皇后に呼び寄せられ、応仁となったという話に、越智神社の地名、日本海側を通ったという話まであるくらいですが
当然に豊の地名が点在します。
豊田市もそうですし、「熱海や安曇など、それこそ同じ論理」でしょうね。 >>232
なんでしたっけ、最近になって、宮司家が伝承の断絶を怖れて本にしてましたよね。
そんな昔の話がベースになっている訳ではないですよ。 >>230
イニエが崇神
イクメが垂仁って事に、旧家の歴史ではなっていますね。
豊玉姫のご主人がイニエで、実際にはお年寄りだったので、先に死んでしまい、二回目の東征が開始される前に九州で無くなってしまったそうな。
なので、記紀が系図を誤魔化す際には、近親婚や変な手順になってて、崇神のあたりで辺な事になってたはずですよ >>233
>筑紫の王権を継承したのは山幸彦だったのです。
いや、それどころではなく、みちのく(信州から奥)を除く、日本統一を成し遂げたのが、山幸彦=物部氏だったわけでございますが。 そんな複雑に考える事ないぞ
単に各家の系図や伝承の整合性を取ろうとしたら八代多くなっただけなんよ
山幸彦と海幸彦で家系が別れたのが原因だとは思うけど >>224
帥升=スサノオ説は傑作の思い込みでしたねww
それと先代旧事本紀とか、浅間神社とかの伝承をもとに系図を独自で作り出してドヤってしてましたが
そもそもが旧事本紀は、「山幸彦海幸彦の先祖が同一人物説」なので、自分で矛盾を垂れ流して唾を飛ばされてましたよね。
あと、傑作なのが中国式発音の「ピンイン」www
卑弥呼のWIKIにピンインとか書き込んだの、あのアホじゃありませんかね。ww
普通、和名を自己紹介されて、ピンインで歴史書に記載しますかね?嫌がらせですかね、大陸の史書ってのはwww >>225
>もし田油津姫が神夏磯姫と景行天皇の孫であれば、神功皇后は景行天皇の血筋を文字通り根絶やしにしようとしていたのかもしれません。
これを暫く咀嚼してたら、「ジワジワ来まして」
確かに神功皇后期から暫くは、「物部氏が圧迫された」と伝承の本にも確かに出ているのです。
しかし、その伝承の本は「実は神功皇后は、成務の奥さんで、成務とは朝鮮征伐に反対され離縁した、実は死別ではない」とあるんです。
仮にですが、成務の奥さんであれば、物部氏系の奥さんという事になります。
ただ、物部氏は豊家を裏切ってしまい、九州からは総スカン。
実質副王の加茂氏より貢物が少なく、ヤマトの出雲系からも「古墳に奴隷を生き埋めにして叫ばしたり」がトドメとなってものすごく嫌われ
垂仁イクメの次のワカタラシの播磨国に宮をうつし、政権は短命に終わります。
皇后が次に頼ったのが、仲哀で、実は九州だかの豪族だったそうです。(実は中臣氏なので中津彦王にされた)
地元では今でも伝承が残っており、みやこ町と香春町の境が仲哀峠となっているはずです。
中臣氏は、元は関東の鹿島の元神官、卜部家の分家
後年に中臣になる前は、実は、元々は「中津臣」と呼ばれていました。
おそらくですが、神功皇后が出雲系に近い一族と協力関係になった事で、物部氏が圧迫されるようになっても矛盾が生じないという事になったのかもしれませんね。 たしか、記紀の神功皇后の印象操作にはもうひとつあって、確か、妹に豊の字をあててませんでしたっけ?
父方の息長家は摂津に地盤があって、月神を信仰
神功皇后の母方にヒボコの血筋
月神=豊国の宇佐や、豊家とするのなら、親和性は高く、トヨ名を挿入しても誰も違和感を持たないと考えられます。 >>240
伊支馬は垂仁ではない。
オーストラリアはオーストリアではない。
平城天皇は平成天皇ではない。
似てるから同一人にするのは早計すぎる。
バットマンに登場のバット・ガールとバット・ウーマンは別人だ。w >>243
中国式発音の書きこみとえらく日本が中国に土下座したなどと書きこんでたから、
奴は在日中国人だろうと思ってましたよ。
昨今中華という国には増長していて、上華(ジョーカー)になってるんですよ。
それでアメリカ(バットマン)がなんとかしようと苦心してるということで、
こういう状況を知ってて、やつは日本を中国が従えるのだと本気で
想っているようで、それをこちらはぎゃふんとさせたものです。
訊いたところによると来日したのか李鵬が日本は将来中国の属国になると
言ってたようですが、五惑星の国旗の国に太陽の国旗(旭日旗)の日本が
属国になることは絶対ないですよ。逆です。天文学でも太陽が五惑星を従え
てるわけで、この逆はないということです。
日本の土下座外交をうるさく奴は主張しており、いずれ土俵で土つくのは
中国だと折伏したのです。チャンコ料理は土つかせるチャンコロ料理であって、
あの国はいずれこてんこてんに茶色の土がついて泣く運命が数十年後に
待ってるんですよ。チャイナはナイチャで泣いちゃう時が来るんです。 >>237
西都原は海幸彦だって。
日向の名前は両者で分けたのかもしれないが、公式には日向国は景行天皇が命名した。 >>244
武内宿禰ほどこへいったのかw
応神の実父は武内宿禰なんですけど >>251
記紀でなくても、古史古伝も仲哀になってるぜ。武内大臣が父だと書かれて
るのはないはずだ。日本古代史は探偵小説推理小説ではない。
出鱈目盲象は書きこむな。 >>184
和泉は安曇の植民地だぞw
その証拠に池上曽根遺跡から樹齢700年のクスノキを使用した井戸が見つかっている
クスノキ林の自生北限は福岡県とされている
この大木は安曇が九州から運んできたものだ
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。 クスノキ樹林の自生北限が福岡ということは本州のクスノキは人が持ち込んだものということになる
そして九州には樹齢3000年のクスノキがあるのに対して本州には2000年より古いクスノキは無い
http://www.kyoboku.com/jurei/
1世紀の池上曽根遺跡の時点で樹齢700年ということは約2700年前に芽吹いた木ということになるから
そのようなクスノキは本州には無い
間違いなく九州から持ってきたものである >>253
なるほど植民地ですか
まるで朝鮮の様ですねw(失笑) >>255
畿内が朝鮮に似ているなんて本当のことを言うなよ
かわいそうだろ 卑弥呼の3世紀ともなれば既に九州の安曇は近江まで制圧していた
頑強に抵抗していたのは山に囲まれた奈良盆地内だけで沿岸部はとっくに占領されていたわけだ
9 :日本@名無史さん :2022/01/27(木) 23:21:46.26
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg >>249
応仁の実父は不明でしょ(失笑)竹葉瀬にすり替えられたのだから。
武内宿祢は景初の時代が初代で、神功皇后の頃は武内ソツ彦の頃でしょ。 伊都チョンの過去の発言を見れば、最近の産経の「和泉市で最古の仿製鏡が出た」件については、「後出しジャンケン」で色々付け加えてるだけなのが分かるからなー >>253
安曇は八井耳系統の植民地ですがなにかww 和泉市の遺跡が、紀元前後って話なのに、後出しの「3世紀定着の安曇が」植民地にしてましたってwwww
クソだな、相変わらずの伊都チョン。自分のスレッドで書き込んでいればいいものを。 >>261
和泉市がいつ近江になったんだよw
3世紀以前は近江の話、クスノキの存在から池上曽根遺跡が九州傘下とわかるのは1世紀の話
全く別の話題なのも理解できないほどバカなお前は負け続けるしかないんだよw そもそも5世紀にたたら製鉄が始まるまでは鉄原料は半島からの輸入品とされている
壱岐対馬航路を抑えている北部九州の傘下に入らなければ鉄原料を入手することなどできなかったんだよ そういや、あの伊都チョン、雷大臣と安曇磯良と五十猛が同時期で、4世紀の人間だとか吠えてたよなww
それなのに紀元前後の話が最近ニュースになったとたん、クリンチに持ち込んで、意味不明の楠木のはなしをしているとはwww
楠木は安曇専用ザクだったとはこれまた珍説wwww
そもそも欠史八代の話題と九州ド田舎の長官の安曇が何の関係が?w
誰も呼んでないだろww >>264
あの和泉の遺跡は、製鉄遺跡でもあるだろ
よく読んだら?www
脊髄反射で何でもかんでも安曇を憑依させて妄言を吠える前に、畿内で製鉄があったと公式に認められたんだよ
頭おかしいのか?w
野ダタラの歴史は5世紀どころではない
おお、伊都チョンの架空の安曇国家なら別なんだろうがなw >>265
論理的に反論できなくなったからって草生やさなくてもいいぞ
欠史八代と関係ないって、それは>>184のアホに言えよ ああ、そういえば、もうひとりの伊都チョンにそっくりな奴は、和泉の遺跡を「物部氏」の拠点って言ってたなw >>266
>あの和泉の遺跡は、製鉄遺跡でもあるだろよく読んだら?www
https://www.sankei.com/article/20211028-75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM/
>また竪穴住居の中には、中央部に炭や焼け土、通風用の溝を残したものがあり、鉄を加工した工房とみられる。
鉄を加工したとしか書いてないわけだが
製鉄を行っていたなんてどこにも書かれていない
お前がよく読めアホ >>267
で?どうでもいい安曇の話と欠史八代の話は?
何か関係でも? >>270
>>184は完全なる誤りだと証明してやっただけのことだがそれが何か? >>269
お前、竪穴式住居で、自宅レベルの大きさの建物で挑戦の磁鉄鉱石から鉄を精練できるって思ってるのか?
お前はアホなのか?w
何でもかんでも安曇wwww
その実態は、ヒボコの方が地名からしても投影が強い場所w >>272
魏志韓伝に弁韓では銭のように鉄を使うと書いてあるだろう
現地で鉄鉱石から鉄を取り出してから倭に持ってきてたんだよアホ 一般に鉄器の普及に関しては、ヤマトは比較的置き去りにされてきて、3世紀になるまでは穴が開いたようになっていたと言われている。
それなのに、和泉(磁鉄鉱ではなく砂鉄)の遺跡の話に食いついたアホ、伊都チョン
実用鉄器の製鉄が行われたとされる時代の理論調整の前に、とにかく安曇を推したくて歴史憑依ww >>273
なるほど、安曇氏は、ヒボコから鉄を恵んでもらってたとw >>274
>和泉(磁鉄鉱ではなく砂鉄)
どこにも書いてないことを勝手に捏造するクズ
所詮お前は負け犬なんだよ >>275
そんな妄想を書き込まれてもね
弁韓から鉄の供給を受けているのは楽浪郡や帯方郡もそうだと書いてあるわけだが 所詮は安曇はヒボコから鉄を恵んでもらってた貿易の中継一族って事でOK?w
それも最後は安曇は用無しになって、景初のあたりではヒボコ勢が丹後で単独で製鉄を始めて日本で最大の製鉄量を誇る様になり、九州は中抜きされて、製鉄が廃れ、衰亡に向かったとwww 安曇が単独で朝鮮に乗り込んで、そこを植民地にして鉄を運ばせてたわけでもあるまいに(失笑) >>278
>それも最後は安曇は用無しになって、景初のあたりではヒボコ勢が丹後で単独で製鉄を始めて日本で最大の製鉄量を誇る様になり
まーた根拠のない妄想を並べる
3世紀の近江が安曇の植民地なのにその通り道の丹後が独立してると思う方がおかしい
日本海沿岸なんて安曇の巣だよ
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg 鉄の話は弁韓じゃなくて辰韓では?
ヒボコの渡来した時期は辰韓。今じゃ記紀に倣って新羅の時代ってなってるけどね。
辰韓のヒボコ勢が関係してなきゃ鉄は持ってこれない。 >>282
>鉄の話は弁韓じゃなくて辰韓では?
ああそうだな失礼
>ヒボコの渡来した時期は辰韓
それは根拠がない >>283
>ヒボコの渡来した時期は辰韓
それは根拠がない
そもそも糸(いと)井国造家の出石神社元社家、ヒボコの子孫の神床家の伝承だからな
お前の思い込み(失笑)とはレベルが違う >>284
>>276で指摘したとおり記事に書かれてもいないことを捏造したお前の言うことには何一つ説得力が無い >>285
お前の主張を裏付ける伝承ですら存在しない
思い込み以外の根拠は示されていないw
新しいネタである「楠木」に触れることは出来たので、相変わらず元気で嘘を垂れ流しているんだなと理解したところだ。 >>286
伝承なんて不確かなものよりも>>253-254や>>257などの考古学的事実のほうが遥かに正確
お前のはただのデマと妄想だ 「本人たちが辰韓の頃に来たって」言ってるのに、私の妄想って事でクリンチに持ち込む伊都クズww
相も変わらず安定のクズっぷりwww
前回もそう言ってたよな。相変わらずレベルは変わってないようだな。他人様のスレッドにまで出張して臭い唾と息を吐くとはw
お前には何も期待してない。つーか、実世界でも期待もされてないだろ?w >>287
論理的な反論ができなくなると草と罵詈雑言しか書けなくなるのは相変わらずのようだな
前回お前が俺に惨敗して逃亡したときにちゃんと敗因を教えてやっただろう
考古学を土台にしないからお前の主張は空疎なのだと 伝承なんてものは嘘、大げさ、紛らわしいがいくらでも入る余地のあるあやふやなものに過ぎない
考古学の成果と一致してなければ何の根拠にもならない そもそも伝承をそのまま受け入れていいのなら欠史八代なんて概念は存在しない
記紀という伝承にはっきり書いてあるのだからな
それが考古学の成果と全く一致しないからこそ実際にはいなかったのではないかと考えられているわけだ
バカにはそんなことも理解できないらしい >>289
お前、逃亡したって?www
前回は、返しの付いた釣り針だかのはなしで、PDFを読んだかどうかの毒まんじゅうを食わせたところで終わってたよな?
そこに、釣り針はあったか?おかしよな?安曇の地名がどうのと吠えてたくせに、そこでは出てなかったよな?ww
まさか惨敗して逃げたとでも思ってたのか?wwwおめでたいな。
一年以上たって、やることと言えば産経の新しい記事に安曇を後出しで憑依させる程度の事だったとはw
安曇族の致命的な処は姓名で分かる。母系にその後出雲から嫁さん貰えてなかったから、卜部氏の分家ですら貰えた「臣姓」が無かったところ。
九州では勢力を伸ばせたけど、その後の全国展開では後発組なんだよ。安曇氏は。
ランク的には九州に地盤を持ってた多氏(多臣氏)以下のランクでしかない 記紀という伝承だってよwww
記紀とは伝承を元に作られた創作物。それが稗田流の伝承と、まとまらなかった帝紀のメモをもとに作られたのが記紀
真実でないことを単純に偽というのなら、記紀ですら偽書なのにww 記紀という伝承を受け入れているから、欠史が生まれているのに頭がおかしいwww
じゃなきゃ倍歴とかそういう話も出てくるかよw そもそもが、安曇家が伝承を公開してないのに、伊都クズの思い込みが考古学であるという裏付けも考古学的になされていないwww >>253
>和泉は安曇の植民地だぞw
クリティカルヒット >>278
>所詮は安曇はヒボコから鉄を恵んでもらってた貿易の中継一族って事でOK?w
海運で勢力が伸ばした点ではその通りだよ。
倭国そのものがそうやって成立したし、天津神(海の神)だって海神族だって、アマテラス(海の王)だって、みんなそう。
中継貿易の利益で成立したのが倭国。
それが海に囲まれた国の宿命。
なんか文句あるなら半島に帰れば? 箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母。
卑弥呼共立の切欠になったのが、魏志倭人伝に記されている倭国大乱。
となると、欠史八代の時期と倭国大乱の時期が同時期になる。
つまり、欠史八代の時期に、
倭国では歴年に渡って王位継承争いが起こっていたことになる。 欠史八代間で皇位争いなんかまあないな。
孝霊天皇が吉備行幸したのは倭国大乱が畿内の西方でおこってたので、
視察に行ったわけさ。日野郡誌に孝霊行幸の詳細が載ってるようだ。 >>298
>箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母。
前提にそもそも根拠がないので無意味 卑弥呼と百襲媛はほぼ同時代の女性。
卑弥呼は九州に百襲媛は畿内にいた人物。 イザナギ=綏靖天皇
アマテラス(卑弥呼)=安寧天皇
オシホミミ=懿徳天皇
ニニギ=孝昭天皇
山幸彦=孝安天皇=神武天皇
ヒコナギサ=孝霊天皇
ここまでは同一人(神)物で確定なのよね
ここから崇神天皇までが謎 >>292
>前回は、返しの付いた釣り針だかのはなしで、PDFを読んだかどうかの毒まんじゅうを食わせたところで終わってたよな?
いや全然
pdfを呼んでなかったのはお前の方でしたというのを暴いてやって大恥かいたお前が泣きながら逃げたところで終わってたよ
逃亡したのはお前だお前
>安曇族の致命的な処は姓名で分かる。母系にその後出雲から嫁さん貰えてなかったから、卜部氏の分家ですら貰えた「臣姓」が無かったところ。
本当にバカなんだな
安曇の連姓は神武東征以前からの皇室の家臣であることを示していると前回も教えてやったはずだが
https://kotobank.jp/word/氏-34455
>日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
>臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
>神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
>すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
>実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征に付き従った元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となるわけだ
名目上の地位は臣の方が高いことになっているがそれは共立以前は皇室と並ぶ立場の王だったから
だが、天皇がより頼みとしたのは昔からの家臣である連の方だ
上記引用で比されている江戸時代でも、外様の加賀藩なんかはどの譜代大名よりも石高は高かったが
高位の幕閣には譜代大名しかなれなかったわけで将軍が本当に頼みとしたのは譜代大名だった >>293
記紀ですら嘘が書いてあるのにお前が盲信する伝承に嘘が入っていない根拠などなにもない
バカのお前はまた自爆したようだな >>294
記紀を受け入れてりゃ欠史八代は実在としなきゃいけないわけだが
考古学とまったく合わないから実在が疑われているんだよ知恵遅れくん >>295
安曇の伝承なんて日本各地に残りまくっているわけだが
一族の伝承なんて自分らに都合のいい嘘が盛り込まれている可能性が高くて一番眉唾なやつだぞ
やっぱりキナイコシくんは頭がおかしいままだな >>296
事実の指摘は彼にとって致命傷だったようだね 弥生時代には既に日本海沿岸も大阪湾岸も北部九州の海人族の進出を受けているのは考古学的に明らか
現実と向き合えないキナイコシくんは生涯真実に近づくことのできない負け犬の一生を送るしかない
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg 産まれた年代を大まかに考えると
150年イザナギ=綏靖天皇
170年アマテラス(卑弥呼)=安寧天皇
190年オシホミミ=懿徳天皇
210年ニニギ=孝昭天皇
230年山幸彦=孝安天皇=神武天皇
250年ヒコナギサ=孝霊天皇
崇神天皇は孝霊天皇の子供世代じゃないとおかしいんだよなあ 伊都チョンがドヤ顔で吠えた楠木だが、どう考えても大彦や三島の神木なんだよねーw
九州にあったら全て伊都の朝鮮人w
日本さん三島の一つは樹齢3,000年、幹周17mで日本最古の楠がある
安曇なんてカスw
三島鴨神社は大彦が、三嶋大社は大彦の息子・ヌナカワワケが創建した。
三島は初代神武朝の母系の先祖だからね >>303
まだこれはまともな方で、伊都チョンのスレッドなんて、クニクルが朝鮮人だなんていう奴が湧いてるからカオスですよw 伊都チョンは、チョンだから、本来の神話の高天原が何処かと書いてある書物を知らないらしい
安曇など、所詮は連、大連止まりの一族
一応、帝紀編纂メンバーには選ばれてるけど、書かれている序列を見れば、上家野未満の低いランク 神武天皇の子に神八井耳がいるがこの神が崇神天皇の父親か祖父なのかもな
山幸彦=孝安天皇=神武天皇が東征した後畿内を支配したのがヒコナギサ=孝霊天皇やその子孝元天皇
九州で女王台与=豊玉姫の跡を継いだのが神八井耳、その子or孫が崇神天皇
本家の子を分家が養子に迎えた形かな 神武天皇の子に神八井耳がいるがこの神が崇神天皇の父親か祖父なのかもな
山幸彦=孝安天皇=神武天皇が東征した後畿内を支配したのがヒコナギサ=孝霊天皇やその子孝元天皇
九州で女王台与=豊玉姫の跡を継いだのが神八井耳、その子or孫が崇神天皇
本家の子を分家が養子に迎えた形かな 奈良の御所近くの中西遺跡は異質な遺跡で、前3世紀の水稲遺跡として有名。
この時代考証はちょっと難しい。
太国さんの考証で倍率を採用すると、神武が確か後2世紀、147年ごろでしたっけ?
出雲伝承だと、丹後から天香具山と名を変えた大年彦こと、五十猛が息子の叢雲を伴って奈良に移住したのが前2世紀とされ、中西遺跡は更に100年ほど古い遺跡
国譲り事件以降、出雲の事代主系の子であるクシヒカタが母方の摂津豪族三島家と組んで奈良湖の開拓をおこなったとされる。
さて、三島とはということになるのだが、臣姓をもらって居ないのに破格の扱いになっている。(山代國の賀茂神社)
実はこの一族は、九州の越智一族の可能性が高く、宇佐の伝承公開している宇佐の公康さんの書籍にも出て来る。
豊国の宇佐家と争った越智家は、豊玉姫とイニエの息子である豊彦に嫁を出して手打ちになっている。
実は、大田遺跡(纏向遺跡)の南側が御所駅で、その東あたりが今でも越智地積になっている。
摂津の高槻市の三島の拠点は現座では小字くらいの規模に縮小になっていて、御所の越智地積が三島家のルーつの指定になっている。
奈良で大乱があって、散り散りになるが、三島大社の社家は越智氏
その三嶋の神社にあるのがちょっとオーバーだが、現在失われている樹齢3000年を数えるとされた楠木なんだよね
伊都チョンはなんの根拠もなく安曇と結びつけるが、海部の親戚に過ぎない安曇が、徐福渡来以前にあの地に楠を持ってくることは不可能なんだよねー 越智氏はその後、日本海側と、東海側に展開していく。
新潟の弥彦神社は、その手前、出雲崎の近くで二田物部氏と別れ、現在の弥彦山に落ち着いたとされているが、弥彦神社の社家は高橋家
大彦系なんだよね。
現在の二田物部神社は5つの家で管理していたが、何と三島姓。過去には越智氏を名乗っていた時期がある。
代数はなんと130代。2000年の歴史があると伝世されている。(宮司さんと直接会った)
三島家は、大彦の敗退と関係していて、二世紀、180年代には琵琶湖周辺から撤退したという伝承があるので、2000年クラスの伝承になってもおかしくはない。
大彦は、本来の名前を「中曽大根彦」といい、それが二つに分けられ、長髄彦と大彦に分けられ、記紀に書かれている。
敗退した大彦は、出雲王家の手引きで北陸に豪族を紹介されたと伝承があり、受け皿が三島家(越智)になった可能性が高い。
前出のように、イクメ(垂仁)と宇佐津姫の子である豊彦は、男系で言えば物部豊彦の子孫であるので、物部姓を名乗れる。
二田物部を祀る神社は日本に一つ、もしくは2つしか存在しない。
東海の方面は、安倍を継承した息子のヌナガワワケが展開していった地域で、それで大彦系とヌナガワワケ系の三島神社が建てられたことになる。 安曇にこだわっているのは別人だよん
私が推しているのも三島なので、興味深く読んでますよ おそらくだが、三島神社には、他にも古い楠木がご神木になっている場所があると思われます。
そういや、伊都チョンが楠があるから安曇のはずニダって吠えてたけど、ナーンのバックボーンもないんだよねw
大彦の分家には、布瀬、布施、布勢氏があるが、布瀬神社は、新潟から長野県犀川近辺。
今でも小布施の地名がある。
一方、越智神社も重層を形成していて、長野県に越智神社がある。
規模が大きいのは大彦移住あと、福井からの日本海側で、今でも越智山越智神社が残っている。
そこから中興の祖が出て、白山信仰に繋がっていく。
安曇?プッw後発組で、穂高神社を確保するが、6世紀以前には遡れない。
都でやらかして地方に飛ばされた以降の拠点が穂高
神功皇后の際に船を出したらしく、記紀ではそこからの記述なので、4世紀に三韓征伐の勝馬に乗った事によって勢力を増し、各地に拠点を作ったらしい。
それまでは小さな拠点しかなく、鉄器の入手も遅れたと思われ、古い時代と思われる出雲の安曇地域には目を見張るような鉄器は産出されない。
紀元前の出雲の大国主6代のオミツヌの時代には既に新潟上越近辺までは勢力があったと思われ、それが協力者、三島一族の様なのである。
これが国引き神話として書かれている。
なお、高橋家は、稲荷山鉄剣だったっけ?大彦分家としてタカヒシワケ(高橋家)が書かれている。
弥彦神社は物部系の神社ではない。カゴヤマを祀る、叢雲系(本来の神武)の神社。
尚、紀伊家は、最初の妻、大屋姫系の子孫で、のちにカゴヤマから遠ざけられ不遇になったとされる
それが理由かどうかは不明だが、紀伊家は五十猛を祀る一族で、叢雲の家(尾張家、海部家)とは一線を画している 大彦と長髄彦が同一人物であるという話はトンデモ説であり、まず受け入れられることは不可能と思われます。
しかし、ヌナガワワケ系の阿部の地域、塩釜神社には細々と蘇我氏による伝承があり、同一人物説が書かれてます
そそれと、伊雑宮事件の、先代旧事本紀大成経の一部にも、同一説に触れられています。(結構なタブーと思われます)
故に、古文書が記紀の影響を受け服属している内容かどうかは、長髄彦がニニギに切られる話が最初にきているかどうかで判別できます。
先代旧事本紀ですら、記紀に服属して書かれていることがわかります。
塩釜神社は豊彦を守ったらしい諏訪の千鹿頭神を祀っていたツツコワケ神社から一宮が移転していて
未だに別格の扱いを受けています。
後に、武内ソツヒコと神功皇后との間の子が死んで、密かに呼び寄せられたとされる上州の上家野の竹葉瀬君は、越智の神社のルートを通って奈良に行ったのではという説があります。 故に、帝紀の編纂メンバーに上家野の家系が呼び寄せられ、皇族と同じ序列で上位に書かれる事になりました。
豊国の宇佐と、越智は近い血筋の家系で、月神を奉じていた様です。
越智に注目されている方がいらっしゃるので一つプレゼント
宇佐神宮の元宮、大元神社の正覚寺登山口に向かう途中、「左用之神」という場所があります。
そこは古代の祭祀場所と思われ、出雲の大神、幸神を祀る神社ですが、そこに白山神社があります。
そこの神社額にはなんと「三嶋宮」の額が掲げられていますよ。
九州は、二世紀までは完全な物部王国ですが、古くは徐福とらい以前は、隼人族、ウサ族、越智、宗像(オミツヌの分家サワケが始祖)の王国でした。
水沼君は、物部が入ってからの一族の様です。 最初は二田物部神社と三島家を別に考えていましたが、古代豪族集覧で、三島家の系統が二つあり手詰まりになっていました。
しかし、宇佐の公康さんの伝承を当てはめるのなら、三島、大三島には、物部系と国押人系(今ちょっとうる覚え)の二つの系統があってもおかしくはない事になります。
物部イニエと宇佐津媛の子が、トヨの兄である豊彦(豊来入彦、豊鋤入彦)であれば、物部系の三島家(宇佐の豊彦から見れば子孫にあたる)の協力を受けられるわけで
信頼できるルートが、協力関係になってもらえるか不明な、大彦や建南方のエリアの中でも存在していた事になります
竹葉瀬君は、上越の出雲系の神社、居多神社の助力を得たという説があります。
現在でも、あの地域は五智地積になっています。三島っぽい地積ですね。(ちょっとフィルターかかってるかも) 綏靖か
水星の背の君
ありゃ、こうなると、マグダラがナザレのヨセフになるか?
違うか、やはり、天父と天母がご夫妻か。
ちょっと、3が魔に入られてるから計算しにくい
富嶽、京、pc9801以上計算して >>316
神武天皇の即位は西暦元年の辛酉だったんですよ。
147年よりもう少し以前ですよ。崩御は西暦26年です。
147年は孝安の代の半ばあたりですね。 応仁の乱か・・・富嶽、京使えば、
首謀者でるんじゃないか?答えが。
それと、首謀者達の居星。
天魔中城・・・
天魔は城の中・・・
色々居るな
天魔中宮
紀子悠仁眞子千鶴子? サウジアラビア国王毛はどういう出自だろう?
パキスタン??? 千夜一夜にも載ってないんじゃないかな?
いまバートン盤の第二十八夜を読んでる。このへんは手を失くした若者の
話の羅列。 法政八王子は?
とにかく八王子か・・・
だれだろう、、、 十二支の龍国
竜串
足摺岬か
パース
考えたな・・・ うぉっほん、間違えちゃった。
物部イニエ(崇神)と後妻の宇佐津姫(宇佐八幡の豊玉姫)との間の息子が、豊彦。
イクメ(垂仁)は、豊彦の腹違いの兄弟とのことです。
前妻のアタ津媛は、サクヤヒメに替えられたとされます。
阿智一族と、越智一族の関係は全くと言っていいほど手がかりがありません。関係があるのか、親戚なのか、全くの無関係なのかも分かりません。
九州の歴史は謎が多いです。 >>324
あっ、しまった、神武は紀元前後でしたっけ。そうすると。
うる覚えですみません。 神武は2世紀末ですよ。
卑弥呼の前の男王70〜80年が日向三代ですよ。 神武は紀元前後だよ。
2世紀末なら180〜200年ころだというわけだ。
八幡愚童訓に
黄龍2年=開化48年=230年
とある。
神武から開化までの年代を考えると年数が少なすぎておかしく不合理だ。
つまり2世紀末ではない。 八幡愚童訓は元寇撃退に対する恩賞目当ての書物だそうだな。
神武について信頼すべき根拠にはならないと考えるが? >>335
オマエのいうその見解が果たしてその通りか、どこに根拠があるのか?
いいか、10年位前の千葉考古班の年代測定機器での箸墓年代が
240〜260年
で、これにも童訓のいう年代は合致している。このことはオマエのいう信用
落とす主張は落としたいためのオマエの都合で、なっちゃねえということさ。w
この測定から百襲媛と卑弥呼とはほぼ同年代の人物だったとなるのさ。
ここで卑弥呼は九州、媛は畿内の女性だったとはっきりする。
機械は正確だからな。童訓と精密年代機器のつり合いは整合している。
同機器が童訓のいう年代とコチラの主張年代がおかしくないことを助力
している。
つまり 崇神元年=237年=景初元年 は正しい。
237年は童訓の 黄龍2年=230年=開化48年 と7年差であって、
崇神年代の初期だと判明する。 神武天皇は年代の違う2人の人物を1人に纏めて初代天皇として設定されてるんだよ
1人目の神武は綏靖天皇=イザナギの父親で初代天皇とされた人物(100年代)
2人目の神武は孝安天皇=山幸彦で東征を行った人物(200年代)
だから年代を知ろうとする時は初代という設定と東征を行ったという事績を分けて考えないといけない
因みに崇神天皇は大彦の世代から考えて300年前後の人物と思われる 上記だとまるで綏靖天皇が神武みたいな書き方になったけど「綏靖天皇=イザナギ」の父親という意味ね 記紀は探偵小説じゃねえ。探偵小説だとそういうのがけっこうあるだろう。
いいか、海幸彦って神代の人物だ。
綏靖はもう神代ではねえよ。2代目の天皇だ。
オマエも松沢病院に行きたいのか?w >>344
お前がそう言うから、綏靖天皇が初代ってバレてしまったではないか。
田倭獣。 >>346
神国日本の辞書に「神武」以外の初代天皇はねえ。
ま〜だ探偵小説の脳内でいるのか? うははははは・・・・・
まあオマエはアーカム・アサイラム入院がふさわしい。ww 箸墓古墳の被葬者はモモソ姫命。モモソ姫命は崇神天皇の父方の大叔母にあたり、
系図的にみたら、彼女は欠史八代の終盤の人物。
卑弥呼の正体がモモソ姫命ならば、卑弥呼共立の切欠になった倭国大乱は、
欠史八代と同時期の出来事ということになる。 卑弥呼は百襲媛とほぼ同時代の人物。
前者は九州に、後者は畿内の女性。
大乱は孝霊の代のころ。 >>351
いやいや、卑弥呼=百襲姫命は同一人物。
狗奴国の男王の卑弥弓呼は、百襲姫命の甥の武埴安彦命。 別人さ。
前方後円墳の箸墓で卑弥呼のわけがねえ。
おまけに南下するのに東方へ行ってる禁を平気で犯している。w >>311
>日本さん三島の一つは樹齢3,000年、幹周17mで日本最古の楠がある
それは乎知命御手植の楠を記紀伝承にあわせて2600年前としたから
それより古い木を3000年としただけできちんと測定した数字ではないぞw
実際には乎知命御手植の楠は幹周11mしかなくとても樹齢2600年などとはいえない
本州最古のクスノキは熱海の阿豆佐和気神社の大クスで幹周/23. 9mだが樹齢は2000年にすぎない
そんな小さな木が3000年級とは片腹痛い
http://www.tree-flower.jp/22/kinomiya_jinja/kinomiya_jinja_kusu.htm >>313
連姓こそ天皇の最も頼みとした譜代の臣だと>>304で教えてやっただろう
そうやって学習能力ゼロだから君はいつも敗者になるんだよキナイコシくん >>316
ちょっとどころじゃなく大げさなのは>>354のとおり
瀬戸内海をも支配していた安曇が当時は海沿いだった池上曽根遺跡にやってくるのはごく普通のこと
その後も同族が大和地方の支配者になっている安曇が特別な存在として扱われていたのは明白
お前が無知なだけ
719 :名無しさん@1周年 :2020/03/27(金) 02:31:02.90 ID:wEfaFCG90
弥生時代には瀬戸内海の制海権は北部九州の安曇たち海人族が握っていた
この状況で畿内が中国と独自に外交するのも九州に攻め入るのも不可能
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
ちなみにヤマト王権の中枢である大和地方の支配者、倭国造は安曇の同族
ここから考えても北部九州が東遷してヤマト王権になったことはあり得ても逆は無い
倭国造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0
> 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
>
> 氏族
> 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> 天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> 一般に綿積豊玉彦の孫とされ、神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる、海人族の一族。 >>319
天村雲命の別名はアメノイタテであり射楯神ことイソタケルだ
そのイソタケルが伊都国王家なのは前回散々教えてやっただろ痴呆
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg 村雲の父は天児屋根だ
だが村雲の父は天香久山命であり、その父は饒速日であるという系図もある
加えて五十猛と村雲が同一神なら、素戔嗚尊と天児屋根が同じであり、
この父が饒速日になってしまう。天児屋根の父は武御雷だから
饒速日と武御雷が同じに? >>358
アメノコヤネは村雲本人だよ
なぜそういう世代の混同が起きるかというとイソタケルというのが伊都国王が代々名乗る称号であってただ一人の人物ではないから
X代目イソタケルがいるわけ
イソタケルとはどういう意味かを考えてみるといい
クマソの王がクマソタケルで、出雲の王がイズモタケルだ
ならばイソタケルは当然イソ国の王を意味すると分かるだろう
伊都国の旧称がイソ国であるのは五十迹手のエピソードに書かれている 7 :日本@名無史さん :2020/12/02(水) 02:16:52.49
http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良(イソタケラ)が上陸した対馬の五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在もイソタケルを祀る神社が現存している
当時何代目なのかは不明だがスサノオの御子神イソタケルとはこのときの磯武良のこと
そして彼とともに新羅に行って帰ってきたというのはスサノオが高天原を追放されたあと新羅に行って埴土舟で帰ってきたというエピソードと完全一致しているので
雷大臣=スサノオということになる
当時の外洋航海は非常に危険で雷大臣ほどの高官が自ら行くのは異例のことゆえ記録に残ったのだろう >>358
なので天児屋根=五十猛=安曇磯武良なので
その父である武御雷=スサノオ=雷大臣=先代のイソタケル
これが八幡愚童訓で鹿島神宮の武御雷が安曇磯良と同一神とされている理由であり
天児屋根命とも同一視されている理由なわけ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス
> 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より) なぜ人代の人物である雷大臣や安曇磯武良と神話の神が同一人物なのか疑問に思う人もいるだろう
それは神話(神代)というものが人代の出来事の写し絵に過ぎないから
人代の出来事に表現にアレンジを加えて大昔の出来事としてループして書かれているというのが神代の正体
これこそ記紀神話を読み解く上で最も肝心なポイントであり
同時に俺が神話に触れるのが気が重い理由である
ここを徹底追及してしまうと日本の神話に対する幻想が根本からぶち砕かれてしまうのだ
それをどこまでやるべきか俺自身迷っている
425 :日本@名無史さん :2021/01/16(土) 03:22:48.20
魏志倭人伝スレより
せっかく作ったからこっちにも貼っておこう
https://i.imgur.com/hLZdESM.jpeg
読み解くための前提知識として、神代は人代の実在の人物を遠い過去に投影した影絵のようなものだということを知っておく必要がある
例えば、本来は神代の存在であるはずの五十猛(スサノオの子、天照大神の甥)が実際には人代の五十迹手と同一人物である
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg ではなぜスサノオ=武御雷=雷大臣の事績はここまでバラバラに別人のものとされてしまったのか
それは政敵・武内宿禰=ツクヨミとの関係に理由がある
武内宿禰は書紀によると300年も生きたことになっており、明らかに一人の人物ではなく
複数の人間の事績を習合したものである
これは武内宿禰を大和朝廷最大の功臣とするために複数の人間の功績を一人にまとめ上げたものと考えられる
そしてその武内宿禰の最大の政敵が弟の甘美内宿禰であり、彼は武内とは逆に功績を最小に見せかけるために
事績を複数の別人のものとしてバラバラに分割されてしまった
その結果が>>362のような大勢に分割された事績の記録となったわけである それが欠史とどう関係する?
個人的に欠史の政権は天津彦根の流れと見ているが(その祖は素戔嗚尊)
これが天照大神の甥というなら、やはり天照大神が本筋であり
神武あるいは崇神がこれを主張しえたのか? 三輪政権の淵源は葛城地区にあり、饒速日はその北・生駒回りだから大和入りのルートが違う
それでも両者がまったくの他人とも思えない
葛城は、武内宿禰の出自であるはもちろんのこと、「欠史の天皇が宮を置いた」場所であり、
神武の大和入りの際、おそらくここから(饒速日の息子である?)高倉下が?霊剣を持参し、
稲作の最大の遺跡が出、これを担ったのは鴨族で、大物主や事代主の子らと呼ばれている
そしておそらくは同族である三島鴨と通婚して上に揚げる子らを得ている
古くは高尾張と呼ばれる地区があり、海部氏や尾張氏はここから丹後や東海へ広がった
葛城とはそういう場所だ >>364
俺は正直三貴子の謎を解いたあたりでもうお腹いっぱいなので個人的にはあまりその先まで掘り下げたくないのだが
ただ>>362に書いたとおり神代が人代と同一エピソードのループに過ぎないということは記紀の年代論に大きな影響を与えるので欠史について知りたい人にとっては関係大ありだろう
スサノオが雷大臣でツクヨミが武内宿禰ということはアマテラスの人代モデルは神功皇后ってことだからな
そうなれば神武は実はアマテラス=神功よりも後の時代の人物ということになる
神功皇后紀の期間の長さや日中の記録の相違(中国側では卑弥呼と台与の二人の女王が記録されているが日本側には古代の女帝は神功一人しか記録がない)
を考えると、神功皇后も武内宿禰同様に二人分の事績をまとめたものだと考えられる
それが神話においては天照大神の岩戸隠れと岩戸開きのエピソードの元となったのだろう
つまり岩戸隠れが卑弥呼の死であり岩戸開きは台与の即位にあたる
このことは宮中に伝わる阿知女作法にヒントがある
アチメとは安曇磯良を指すと言われているが、その鎮魂の歌の中に
「とよひるめかみたまほす」というフレーズが出てくる
トヨヒルメ神とは天照大神のことと解釈されているが神話上は安曇磯良と天照大神に直接の関わりはない
安曇磯良に対して玉を欲したのは三韓征伐時の神功皇后であり干珠満珠の2つの玉を磯良から授かり征伐に成功したと伝わっている
このトヨヒルメ=神功皇后が台与であろう
ただ上記の通り神功が神代におけるアマテラスのモデル人物なのでトヨヒルメを天照大神というのも全くの的外れというわけではない >>352
いやいや、どちらも外れで別人だよ。
南下すんのに東方の畿内に女王がいたわけがない。
南を東に替えるとは文書偽造の論。
円墳なのに前方後円墳もあってねえ。これも文書偽造的イカ様論。
崇神当時九州に卑弥呼がいて畿内に百襲媛がいたのさ。
方位を強引に変え墓形も強引に返えて合ってるとはならない。
全部オマエの盲象のインチキ論。w >>366
阿知女作法とは鎮魂祭のそれだろうから、物部も上記の交錯した
人間関係の中に入ってしまうな。当然上祖である饒速日も
武御雷と饒速日、そして素戔嗚尊がブリンクするのか興味深い
高天原の神々だといえばそれまでだが
五十猛のことは私も気になっていた
最終的に和歌山に鎮まった五十猛の「いさおし(の神)」という称号が
指摘の通り何故か五十迹手として仲哀記に出てくるからね
神代の記述は人代の投射であるという読みは心得ておきたい >>362
>人代の出来事に表現にアレンジを加えて大昔の出来事としてループして書かれているというのが神代の正体
この仮説のもとで混乱が生まれるなら、仮説そのものに誤りがあるのだろう。 >>370
別に混乱は生まれていないよ
アレルギーを起こして拒絶反応を起こす人がいるだけ 混乱といえば混乱かもしれんが
上祖の名を継げるのは本家筋だけだという話もあってな
神々が様々な別名を持つのは氏族の広がりとほぼ同じ意味なのだ 日本書紀や古事記を素直に時系列に読めば、だいたい、分かるだろうよ?
記紀の信用できない部分って、年代の部分が殆どだから。
なぜなら、上古代の日本は、今とは暦の数え方が違っていたし、
また、西暦8世紀には、過去の暦や年代の具体的なことは忘れ去られていたけど、
特に日本書紀の場合、中国との外交で相手側に提出しないといけないのだが、
その場合、ちゃんとした編年体で書かれた歴史書を出さないと国際的に低くみられるので
無理して、年代を書かないといけなかったから。 神武天皇の10代の後が崇神天皇なんだけど、
ネットとかで見たら、よく、わざわざ、なんで、この二人を
一つの人物を表したものみたいな面倒くさい解釈にしないといけないんだよ。 年代のどこが信用できないというのか?
神武以後は年代どころか月日も殆ど書かれている。
無理してるなら欠史八代の欠の部分を無理にうんと書くだろうが。
そこが殆どないんだから、無理せず何らかの事由で省いたわけさ。 二人の人物をよっぽどの合いがない限り同一人だとしちゃだめだ。
まれにはあるがね。
小説だとたとえば「忍者石川五右衛門」で藤林長門守を百々地三太夫とか
でどんでん返しの同一人物になる。古代史は小説じゃあない。
神武が崇神だとか卑弥呼が百襲媛に決め込むのは奴らのいかれた盲象。 >>376
>二人の人物をよっぽどの合いがない限り同一人だとしちゃだめだ。
その通りだ。
古代史には似たような人物、似たような展開が繰り返し出てくることもあるが、そのような記述を意識的にするのは、日本の文化だ。
源氏物語あたりでも、昔の人物や事柄にちなむエピソードは出てくる。
藤壺と紫の上が似ていても、同一人物なわけはない。
山幸彦と海幸彦、大山祇と綿津見、大国主(陸の神)とアマテラス(海の王)、あげたらきりがない。 >大国主(陸の神)とアマテラス(海の王)
残念だがそれ違うんだよなぁ 初めは「(大和の)初代王は九州から東征してきた」とだけ伝わってたんだろうな
それとは別にイザナギなど九州にいた先祖まで含めた正しい系図も伝えられていた
後に歴代天皇を設定する際「初代」という伝承の為にイザナギの前に神武天皇が置かれ、イザナギは2代目の綏靖天皇とされた
更に「九州から東征してきた」という伝承の為に九州にいたヒコナギサ以前の先祖が歴代天皇から分離され、ヒコナギサの子が神武天皇という事になった
つまり神武天皇を境に神代と人代が別れているのは「初代である事」と「東征した事」を両立させる為だった イザナギは神代の神。
神武は神代の末期の境目のころの人物で、紀に年月日があるから神武から
は史実となる。神武が初代天皇なのは当然だ。綏靖は第2代。
神武の後がイザナギではない。当然綏靖はイザナギではない。
あんたのは時系列が出鱈目。 >>378
違いという根拠が(もしあるならw)よろ うわぁ、また伊都チョンが自分のスレのテンプレ張ってるwww
相変わらずのクズっぷりだよな。
対馬の雷大臣なんて、思いっきり藤原や中津臣の投影なのに。 大和の初代王は、大和から出発した。
出雲国譲り神話なんて、どうみても、大和と出雲の戦いだよ。
でも、その時の大和の初代の王は、神武天皇ではない。
記紀によれば、神武天皇の曽祖父の邇邇芸命の時代に、出雲国譲りがあり、
その時代に大和の初代の倭王が誕生したはずなのだ。
その初代王は、出雲国譲り後、九州の高千穂に飛ばされた邇邇芸命のわけがない。 初代天皇は皇宗の神武さ。自己免許ならいくらでもできるがな。 >>383
そういう根拠ゼロの妄想はいらないから
>>360に全く反論できない負け犬くん >>382
それ以前に類似のエピソードが無いじゃん 大和の建国は大きく分けて二つ、三つある。
最初は、出雲国譲り、
次に、神武東征、
最後に、崇神による四道将軍の派遣
多くの人が神武東征ばかりに目が行くが、
それよりも前の時代の出雲国譲りこそ、真の大和による天下統一である。
それは、神武の曽祖父の邇邇芸命の時代に起こった。
でも、神武の曽祖父の邇邇芸命は、出雲国譲りの後、九州高千穂に飛ばされた。
このことから、出雲国譲りを達成して天下統一した大和の王は、
神武の曽祖父の邇邇芸命ではなかったことが分かる。 神武は九州で当時すでに立太子をして畿内に来て初代天皇に即位した。
これで決まり。神武を皇祖皇宗の皇宗という。
4回転半を公式試合でできなければ、日陰の練習時4回転半をやってのけたと
言い張ってもこれは認められない。
従って神武が初代天皇なのである。
羽生選手よ、頑張れ。 >>390
九州を出た時には兄たちがいて、神武は末弟だから、それはおかしい。 >>389
出雲の大国主が降伏して、邇邇芸が倭王となるために筑紫の日向に降臨した。
つまり筑紫が西日本を統一した。 >>386
お前の出鱈目時系列を支持してる奴など見たこともないわ
他のスレッドに来てまで寄生する程にお友達か少ない様だが?
あと手作りの系図、まだ使ってたんだなww >>391
今は兄が天皇に即位してるが、当時は弟が即位したことがわりとあったのさ。
立太子したのは狭野の神武さ。兄は立太子してねえだろ。 伊都チョンで使えそうな情報は、須佐男と小屋根の時代考証くらい。
現在、2000年超の日本の旧家は、大体130代弱。
徐福の時代に陰中として先に出雲にやってきた千家であるが、本来の系図が隠され、約80代になっている。
これは神魂神社の先代、秋上氏が言及しているのだが、記紀編纂の際に、小屋根を藤原に差し出し、藤原氏は最終的にタテカシマ系のミカヅチを出雲から奪って祖神としたとされる。
そこで出てくるのが小屋根系統の40代。、
そうすると出雲には及ばないが、小屋根系を同じくらいの代数になる
同じような現象は、タテミナカタの系譜のはずの諏訪の神長官家が早苗さんで87代。武甲山神社の守屋家40代にも通じる
小屋根の更に先の代を秋上氏はツヤハムスビと言っているが、全く情報が公開されていない
秋上氏文書は内容が難解でまだ咀嚼中。
私もわからない
ただひとつ。千家と藤原は血縁。だから両方の祖神の氏子を名乗れる。 >>376
神武が崇神って、諡号から読み取ってる説なんですかね?w
系図だと、2代目3代目は名前が分かってて、叢雲だけ隠されてるのに、記紀で圧縮された通りの意図で踊るしかないのでしょうね。
学術上でそのように神武を当てる説もマイナーではありますがないことも無いですから
普通なら、最後の出雲王である遠津山崎帯まで、大国主17人全員の名前が登場する記紀の書き方に関して時代が圧縮されてることくらいわかりそうな物ですが 神武と崇神は別人だよ。
2回初国治らすといっても、正月も旧正月と2回あるし、でも別人だよ。 先代旧事本紀には、登美家、尾張家、海部家の系図が出ていますが、勢力が大きかった順に書かれています。
これは物部氏を顕彰すると思われている先代旧事本紀では異例のこと。
国押人の代で、宗像氏の租であるアタカタスが間違って入っているとはいえ、普通に叢雲の家が、本家である尾張家=神武であることは見当がつく
海部家の二つの系図の意図は、叢雲が神武だよという事を示唆している。 小屋根に関して
どの家系にも父系と母系がそれぞれある。
ちょっと伊都チョンにフェイクを投下したが、そもそも毒饅頭を食う前に知識が乏しかったのか食いつかなかったのでそろそろマジレスする。
越智(三島や河野家)は、尾張家の母系の先祖ではない。
話を小屋根に戻す。
杵築大社であるが、千家の悪行の一つに毛利氏に寄進させた銅の鳥居がある。
あれは朝鮮出兵の関係で、社領が没収され、秀吉の死後に千家が社寮の返還を申し出て断られたから妥協として毛利氏に要求したもの
刻まれている内容は、杵築大社の祭神の本質は、素戔嗚であるということ。
ある段階までは、千家の悲願は大社の祭神を素戔嗚に変えることであった。
実際に大社が別当寺のガクエン寺の所有に落ちぶれた際には素戔嗚が一時的に祭神に切り替わってる
その後、大国主に戻る。
ノベルズにもなってる神の時空という本があるけど、そこにも書かれているが大社裏に重要な社がある。
須賀神社(素戔嗚)あれは元々は違った名前で、簡単にいうと、出雲が北陸蘇我氏に養子に出した継体天皇を祀る神社で、蘇我に近い名前の神社だった。
明治以降に東西出雲王家の上官家、向井上官家と、神門上官家を追い出した千家は本来の本家の北島家を出し抜いて専任の大社宮司家となるが
本家屋敷である北島の館を解体させる際までは蘇我系の神社だった。
その後本性を表し、素戔嗚に変えてしまう。
あそこは禁足地である八雲山に触れることのできる唯一の場所で、裏側に出ている岩が祭祀的に重要になっている じゃあ、現在の出雲大社の中身ってどうなっているのかというと
大国主の位牌の様なもの、素戔嗚の位牌の様なもの、は実は取り払われてしまって、既にない。
(これは上官家とある程度通じている大社の内部の方の情報)
千家は、単独で自分の先祖の位牌のようなものを作り祀っている。
ゆえに、大社の本殿から出されて真後ろに素戔嗚が来ている。
私はそれが小屋根だと思っている。 さて、母系、父系の話。
国譲り事件以降、母系文化の影響で、出雲の王家の子供たちは、奥さんの実家に帰る事になった。
タテミナカタは、古志のヌナガワ姫の子であったので、北陸に。ミナカタの妹であるミホススミは、美保関で父親である事代主を慰霊する事になった。
国譲り事件の際に手引きをしたとされた穂日家(千家)は、最下層の「やっこ」に落とされるが助命される。
事代主のもう一人の奥さんが「摂津の豪族であった三島の姫」三島の姫父親は現在でも三島溝杭耳として山城の鴨神社に祀られている。
事代主と、三島溝杭姫子供がクシヒカタ、タタラいすゞ姫、いすゞなんとか姫
先代旧事本紀の出雲分家は登美家と言って、父系が出雲王家の向家(富家)、母型が三島家(越智家)
さて叢雲の家系であるが、徐福の子供である五十猛は、国譲り事件の際に徐福により見捨てられ置き去りにされる。
出雲では立場が悪くなったが、助命はされ、名前を大年彦に変えられた。
これは後に嫁となる大屋姫が大年教の巫女だったから。現在でも島根の五十猛神社の南には大年神社がある。 その後、大俊彦は、丹後に移住。これが籠神社の元になる地盤を作る。
さらに大俊彦は、物部饒速日の腹違いの妹、ホヤ姫を娶り、叢雲をもうける。
その際には、すでに天カゴヤマ(カゴヤマのカゴは籠神社の籠)と名を変えていたそうである。
大屋姫は後に遠ざけられ、紀伊に移住。国造家になっていく。
ここで整理する。
叢雲は大和の富家の分家からたたらいすゞ姫を貰う。この時点で
尾張家は母型母が三島家、母型父系が富家
父系父が五十猛(カゴヤマ)父系母が物部家
さて、八井耳系の藤原氏がどうやって小屋根とミカヅチを手に入れたか(血筋があるのか) 富家の分家はその後、出雲から神門家を引き入れ、集合して鴨家になり賀茂家になる。
これで賀茂神社に三島家を祀る神社の下地になる。
磯城地方に住んだので、磯城登美家と名乗る様になったのは建飯勝の代から数代を重ねて
そこから国押人近くで、登美家には建ミカヅチが輩出される。
ミカヅチは二代目大王の代で別れた八井耳系からすると親戚になる。
さて小屋根だ。磯城登美家には、何とホヒ家から、サマナ姫が輿入れしている。
つまり、八井耳系には、母型にミカヅチと、小屋根が親戚に入っているんだ。 元々、中臣には小屋根が入っていて、養子入しただけの鎌足に祭祀の中心を奪われたから、藤原氏にミカヅチが奪われた説に繋がっていくのである。
藤原は朝鮮系ではない。息子のフヒトも中臣の娘との血縁はない。
そもそもが氏素性は徹底管理され、古い本にもなっているくらいだからね。
だから、渡来の綾部家は家が貧乏だった。 >>393
お前も含めて誰もまともに反論できてないがな
学問板でお友達とか寝ぼけたこと言ってる時点で程度が低すぎる >>369
結局比較的冷静に受け止めることができたのは君一人のようだな
まあ別に頭から信じる必要は無いが視点として頭の隅にでも置いておくといい
せっかくだからもう一つだけ記紀を読み解くヒントをやろう
「記紀には真実を隠すときに180°真逆の意味のことを書くという癖がある」
これを覚えておくといい
例えばイケメンで知られる大国主をアシハラシコヲと書いてみたりするのが典型だな
上でアメノコヤネと天村雲命が同一人物であり>>362のとおり天村雲命と五十猛もまた同一神であることを書いたが
五十猛の別名である大屋毘古の大屋とは「大きな屋根」の意味であり天児屋根命の児屋とは「小さな屋根」の意味だ
こうやって真逆の意味の言葉を使って事実を隠すが分かる人には分かるように書いてあるのが記紀のやり口 実はこの記紀の嘘のつきかたの癖を知っておくと仁徳天皇が淡路島で詠んだとされる和歌が
本当はどこで詠まれた歌だったのかも分かり
そこに書かれた淤能碁呂島が能古島であることもおおよそ分かるのだが
まあ欠史と関係ないからいいか あと天村雲命に触れたついでに書くと天村雲命の別名に後小橋命があるが
雷大臣の息子の名前は大小橋命である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%8A%BC%E9%9B%B2%E6%A0%B9%E5%91%BD
>別名を天押雲命、天村雲命(あめのむらくものみこと)[1][2][3]、天二上命(あめのふたかみのみこと)[1]、後小橋命(のちおばせのみこと)[1]と伝える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%8F%E6%A9%8B%E5%91%BD
>父は中臣雷大臣、母は紀氏清夫とし、三人兄弟の長男とされる。
記紀神話の先入観を捨ててこうやって丹念に調べていけば>>362の図が正しいことが読み取れる 小屋根と安曇は基本的に無関係
ここでも安曇は蚊帳の外。記紀的にはなくとも全く影響のない一族 アチメに関する神事の成立は応神期以降。
服属儀礼からしても明らか
宇佐家もそのように直接言及してる
結局伊都チョンは何が言いたいのか全く不明だし、時代が破茶滅茶w
月神信仰を持ってた宇佐や、越知(小市とも高野とも)の事すら知らないんじゃそもそもが時代を組み立てることは出来ない
神功皇后の実家は月神信仰の家で、母系はヒボコの子孫
ヒボコそのものは中国系の韓で、そもそもがチョンが日本の歴史に与えている影響は極小値に過ぎない 古事記は元国造の千家の果安が、国司として赴任した忌部小人が絡んでいる物で、古事記と日本書紀の杵築大社の住所が違っているのは、その近辺で大社が建てられたから。
創建時期で劣る杵築大社が、例えば更に古い神魂神社を押さえて一宮の格になったのは、東西出雲王家が自分達で創建したのが杵築大社だったから。
千家は殆ど出資しておらず、かつては神門家の分家の別火家が持つ鍵を使ってもらえなければ大社に勝手に入れなかった
忌部は8年ほど滞在して古事記の前半部分を担当
その際に徐福を須佐男に変え、良い面の業績を出雲の大国主初代、管八耳と混同させた
故に奥さんが稲田姫になっている
千家の祖神の小屋根を差し出したにしては充分な報酬であるが、興味深い記述が残されることになる
出雲の舅として母系の繋がりで書かれた須佐男ではあるが、粗暴な側面も描かれて、田んぼを荒らすなどしているが、大国主に向かって、この「やっこが」という下がある
これは、国譲り事件で最下層である、やっこ、に落とされた千家の意趣返しであるそうだ。
小屋根は粗相をしていない須佐男の様な書かれ方をして、素性が隠されている
記紀編纂事にはある程度のツハヤムスビ系の権威はあったと考えるのが妥当だが、藤原氏はちゃっかり既に手に入れていたミカヅチを国譲りに登場させて、自分の功績であるかの様に記紀を書いている
日本書紀の太安万侶は八井耳系ので、カシマの鎌足の両親と同じ、多臣家の親戚
太宰府勤務経験もあり、綾部人麻呂の都での柿本家への養子入りの件も把握できる立場にあった >>409-411のような根拠のない妄想語りが多すぎてスレの意味が乏しい 伊都チョンの笑えるところは、「欠史」の意味を全く理解いてないところ。
磯良は神功皇后期、4世紀なのに、神武より前の五十猛を同一視しているところ。
それ欠史じゃなくて、歴代天皇が、余分なのが入り込んでて、居なかった事になる考え方。
太国さんも言ってるように、紀元前後、もしくは出雲や宇佐、出石の旧家が言及しているように前2世紀の話が記紀によって圧縮されて同一時代に起きたこととして書かれているわけだから
8代を居なかった、架空の挿入された大王として扱わなければ成立しない。
つまり、スレタイからすれば、伊都チョンは本来は出番がない、お呼びではないスレッドなわけだ。
バカ過ぎだよなwww自分のやってることすら理解できないんだから >>367
>崇神当時九州に卑弥呼がいて畿内に百襲媛がいたのさ。
伊都チョン安曇マンセー論だとその辺が全く理解できてませんよね。
そもそもが、「八井耳系の子孫である多臣、中臣、藤原」が自分の先祖の物語を書かせてて、途中の物部とかを繋げて万世一系を演出してるのに
物部ですら書いて貰ってるのに、安曇は邪馬台国時代以前には全然出てこないのに、強引に安曇参加させたくて嘘を撒き散らしw
イクメに暗殺されて天細女にされた歴史を伝承し、延喜式にも複数ある語り部の中でも本流に近い扱いをされる稗田流がベースで記紀が書かれているのにまだ自説を展開ww
我執の伊都チョンw 磯良舞で一番重要とされるのが、細男舞と言われる
磯良は本当に安曇なのか?と言うことなんだけどね。
豊国の宇佐+物部の姫であるトヨは後年になってから籠神社の工作で(元伊勢として売り出したかった)豊受神にされた
しかし、最終的に猿田彦を祀る椿大社にて暗殺された事により、わざわざ解る様に記紀に猿田彦の奥さんにされ、ウズメになったのだが
天鈿女は、細女とも書くわけだ。イトへん→伊都
磯良舞と、椿大社の神事は共通点がある可能性があるな。細男舞は、隠され、簡単に舞うことが出来ず、寿命がなくなるかどうかの50代を超えてから一度しか舞うことが許されなかった舞
伊都の中心は少なくとも2世紀までは豊国(越智、仁井田含む)物部の王国だったといわれている
ヒボコは倭国大乱期の諸端の戦乱に関わってて、邪馬台国時代より前に淡路島に逃げ込んだという伝承があり、近い遺跡として淡路島のごっさかいと遺跡がある。
その際に伊都にも逃げ込んだとされ、いとし、出石の語源になった。
安曇は古い時代に一時期、単純にイトの長官をやってた時期があるだけの一族。
魏書には、景初の伊都の長官が出てるけど、ビビ→耳、ニギと、八井耳と物部らしい名前に書かれている。
既に安曇は出てこない。 そもそもが安曇を混ぜ込んで欠史を語ること自体が意味不明。
伊都チョンがここに出入りする理由など全くない。 延喜式にはもう一つ、高天原が本来はどこだったかについて言及されている。
タキ津彦系、奈良での神門家(高鴨家)の地盤の西側に、桧(ヒモロギ)が語源になった高台がある。
現在では、かつてのタカオワリムラの範囲の中であるが、高天彦神社の西側あたり。
現在でも高天原の石塔が教育委員会で建てられている。土蜘蛛伝承のあるあたり。
それを窺わせる内容も万葉集にある。
それが神功皇后期までを圧縮して兆候の事実を隠すために、魏書の内容を把握していた危機の編纂者が、高天原を最終的に九州に変更した。
故に、わざわざ神功皇后紀に魏書を引用し、「山門」の地名を書かせた。
伊都チョンの主張は九州説ですらない鼻つまみの話で、九州論者にも相手にされてないw
自分のスレッドでも総スカンされてるのに、無関係の話題のスレッドにまで出張して戯言を垂れ流している。 欠史の代を考えるときに一般の社会は何を考えているかというと
記紀によって時期がずらされているのに、出土する遺跡に該当する歴史がないことで空白の世紀という事になってるだけの話ではなかろうか?
つまり、記紀の方をどうやって組み解いていくかで、逆説的に欠史が存在しないということになるわけだ。
糸井国造家、ヒボコの子孫の神床家(元出石神社の社家)
豊国王国、宇佐氏
出雲の東西王家の富家、神門家
少なくともそれらの旧家の伝承では欠史は存在していない。
語り部の歴史で書かれている記紀は、語り部の伝承がなければ解読は逆に困難と言えるのではないか。
ただし、欠落がないとする旧家の伝承は内容が共通しているが、前2世紀(100年代)を叢雲から始めると景初までが若干間伸びしてしまうことも事実。
これは叢雲からクニクルの代を主張する全てに言えること少なくとも1.5代から2代は消されていて本当に隠されている代の地方の大王がいる。
隠され方に注目しなければ何を持って欠史の7日は定らず、消したら良いのか、さらに付け足したらいいのかが定まらない。 >>414
諸葛亮が当時の大陸を鼎の三分で示した如く、日本のほうは当時おおむね二分
だったのだよ。
女王国は九州にあり、天皇国は畿内にあったのさ。畿内に女帝は推古から
だから、卑弥呼が畿内の女王でるわけがない。
日本は当時九州と畿内の二分の政局だったのさ。
この神国は萬世一系の天皇が統治するというのが天帝の勅だよ。
演出ではエンタメになり、演出ではない。 ×畿内の女王でるわけがない。
〇畿内の女王であるわけがない。 >>419
> 女王国は九州にあり、天皇国は畿内にあったのさ。畿内に女帝は推古から
実は出雲伝承でも、神功皇后は物部氏の二代目、セイムの妻で、播磨に宮があり大和には居なかったとあります。
息子のタケルは、大和には入れず、関東方面の残党刈りで貝塚のあるあたりで死んだとあります。
その後、関東の方は協力者に任せ、九州征伐をもう一人の息子と一緒に行ったそうです。
神功皇后の三韓征伐(実際には2韓しか平定してない。高句麗は従わなかった)は九州発で、そこから後に武内襲津彦と一緒に奈良に凱旋したとあります。
女帝の出現が奈良からというのは伝承とピッタリです。 神功は女帝じゃあないですよ。摂政です。
女帝は英女王のような身分のはず。
たとえば雅子さまは女帝じゃあないですね。
それに神功の代は卑弥呼より後代だから、紀の神功の代に卑弥呼の記述が
あるが神功は卑弥呼ではないです。 欠落時代の重要一族は、安曇ではなく、越智(二田物部、仁井田、河野)一族
倭国大乱期には、物部一族がイツセを大将として奈良に向け進軍している。
しかし、問題があった。それは瀬戸内海。既にその頃大和は分裂してて、大彦とフトニが勢力争いをしていた。
フトニは吉備国に地盤を作り、分断されて支配下に置かれたヒボコ族から進んだ鉄器の技術を九州。
強力な鉄の国家となっていた。
一度目の東征は吉備国を避けるため四国ルートだったとされ、一度体制を整えた場所は物部(モノべ)川となっている。
そこに高岡神社があり、祭神が特徴的。非常に重要な場所。
高知県高岡郡窪川町の高岡神社には、モノノベ王国のシンボルの銅矛が5本残されており、今でもそれらを高く担いで村々を回る祭りがある。
モノノベ王国のシンボルは大型銅矛であったが、移住に際してシンボルを銅鏡に変えた時期に当たるらしい。
モノノベ勢の中には、その鏡を持ってそのまま土佐に住み着いた人々がいたらしく、香美や香我美の地名が残っている。
伝承によれば大和時代の6世紀頃、伊予の豪族・河野氏の一派が一族の争いから当地に逃れ、この地の土豪と共に土地を開墾し安住の地と定めたのが創建の由来であるとしているが、おそらく元々の地盤に逃げ込んだと考えられる。
単独の拠点なら物部川にならない。
三島大社と似た祭神で、もろに越智の投影が感じられる神社
そして、かつてその神社は「仁井田神社」といった。
三島大社
「三島大祝家は伊予小市国造の越智氏の後裔であり、さきの河野氏とは先祖を同じくする同族である」とある。
そして、そこにはかつて樹齢3000年ともいわれる楠木が生えていた。 安曇が奈良方面に展開していくのは4世紀以降、神功皇后の征伐から大和凱旋の時代。
だからあの時代に船を出した一族は、現在でも先祖の偉業を顕彰するために「お船まつり」をやるところが多い。
お船まつりには道祖神系と、海人系の二つがあるが、現在の穂高神社のそれは海人系
それも住吉以降の、三柱神信仰と同時期以降の神社 160年代の四国ルートの物部東征と、景初の二回目の物部東征の区別がつかないんじゃそもそも付いていくこと自体が無理。
180年代は、土器で言えば纏向1の時代。
布留0はその後の景初以降に比定されている
中津臣の伝承の資格者を中津身というが、藤原氏でも継承することが出来た。
中津身に伝承されてきたのが弓前文書
弓前文書でも東征が複数回あったとこに言及がある。 >>409
>>361で安曇磯良とアメノコヤネやタケミカヅチが同一神とされていることを教えてやったばかりなのにもう忘れたのか
痴呆だなキナイコシくんは >>413
>磯良は神功皇后期、4世紀なのに、神武より前の五十猛を同一視しているところ。
>それ欠史じゃなくて、歴代天皇が、余分なのが入り込んでて、居なかった事になる考え方。
だから前回お前が惨敗して泣きながら逃げたときからずーっとそう言ってるわけだが
神功皇后が4世紀なんて根拠は無いし>>360のとおり安曇磯武良と五十猛が同一人物なのは疑いようがない
神功皇后の重臣である雷大臣が磯武良と同行してるってことは磯武良=五十猛と神功は同時代人でしかあり得ない
君は結局先入観を捨てることができずに記紀の嘘に騙されているだけ >>424
そうやって考古学を無視した嘘しか言えないから君の言葉は空疎なんだよキナイコシくん
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照) 1世紀の池上曽根遺跡から樹齢700年のクスノキを使用した大井戸が見つかったことで
ここにいたのが北部九州からきた海人族であることもはっきりしている
キナイコシくんの願望は考古学によって無残に踏みにじられてしまいましたとさ
めでたしめでたし
227 :名無しさん@1周年 :2019/06/01(土) 08:22:56.40 ID:l+G41n4N0
>>223
クスノキ林の自生北限は福岡県とされているね
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。
254 :日本@名無史さん :2022/02/03(木) 00:22:04.57
クスノキ樹林の自生北限が福岡ということは本州のクスノキは人が持ち込んだものということになる
そして九州には樹齢3000年のクスノキがあるのに対して本州には2000年より古いクスノキは無い
http://www.kyoboku.com/jurei/
1世紀の池上曽根遺跡の時点で樹齢700年ということは約2700年前に芽吹いた木ということになるから
そのようなクスノキは本州には無い
間違いなく九州から持ってきたものである しかし相変わらずキナイコシくんの書き込みは全てソースの無い妄想だけで構想されてるな
こんなところじゃなくなろう小説で書けばいいのに >>412
神話がからむとそんなもんだよ
まあキナイコシくんのはかなり極端だがね >>430
外持ってきたところが三島の越知の拠点という事
和泉の遺跡には泉の痕跡も証拠も全くないし、考古学的に裏付けも何もない
摂津との関係性が窺われる記事になってたけど。摂津も三嶋、越知の地盤 >>431
太国さんと同じで邪馬台国と月神を奉じてた卑弥呼は九州だよ
お前は言ってる事が意味不明 >>427
お前しかそんなことを言ってる奴が居ないんだよ 負け惜しみの伊都チョンは、三島大社の七木の事など知りもしない情弱のホラ吹き つーか、ホントは三島大社の楠木じゃなくて、大山祇神社の楠なんで、フェイクなんだが、ツッコミが入らないところを見るとホントに何も知らないんだな伊都チョンは
3000年の楠は現在では失われていて切り株。
しかしまだ現存するものがある。
大三島の祖神である大山積大神を祀った、おちの命の御手植えの楠は樹齢2700年で、御神木。境内には「大山祇神社のクスノキ」として38本の国の天然記念物の楠がある。
楠木をシンボルとするのは越知、三島大祝家
安曇と結論づけたのは伊都チョンの願望に過ぎない 穂高神社はケヤキと杉で、楠木はない
これでよくあんなホラが吹けたものだわww 帯方群を通じた朝貢が可能になった時代に三韓征伐があったかの様なことを吐かすのが伊都チョンw
それで大陸に朝貢が許されるはずがなかろうよw
一体何しに行くんだよ >>433
摂津には安曇江があるわけだが
そんな事も知らない無知がなにをほざいても説得力ゼロだな >>436-437
>>354でとっくに論破された話を繰り返すしかなくなった負け犬キナイコシw >>435
八幡愚童訓や八幡宮御縁起でそうなっていると引用してやってるわけだが
現実を認めないことでしか自分を保てないキナイコシくんw >>439
無知だな
神功皇后=台与のころには中国は西晋の時代だが西晋は291年3月の楊駿殺害から内乱時代に入り
ごく短命で終わり中国の支配力はすぐに衰えた
特に辺境にある朝鮮半島の支配権は比較的早期に失っただろう 惣ケ池遺跡だけど、あの地域は阿部氏と大年彦の地盤で、信田ノ森は安倍晴明の母親の伝承
近くの聖神社は、大年彦や関連の5柱が祀られる神社
つまり、尾張氏や海部氏(海家、天家)と、その子孫の阿部氏の地盤
安曇の影など全くない。
摂津は出雲と尾張氏(村雲の海部王朝)、そして三嶋(越知)の地盤
越知は九州から来たと考えられ、豊国の宇佐家に近い
のちに物部と習合して仁井田、新田から、二田物部を名乗る一族が出た(古代豪族集覧より)
楠木のシンボルからしても、祭神からしても安曇にこじつける要素は全く感じられない地域
そもそも吉備国ができる前は、瀬戸内海側播磨から広島方面は出雲系の領地
三島、越知なら播磨や摂津を繋げる事ができる。 >>446
ですよねー。
伊都チョンの意図は全く持ってして意味不明 >>440
だから何?あるから何?ww
四世紀以降だろどうせ そもそも安曇江なんて場所が特定されてないから、関連する地域との関係性なんて全く論じることのできない眉唾の地名 >>446
どうしましょ、神功皇后がトヨですってww
確かに実家の息長家は月神を祀る九州系が源流の家系だけど
流石にそれを持ってトヨってww 壹與は垂仁の代のあたりの女性であり、だいたい3世紀後半になる。 >>447
尾張や海部は安曇と同祖で同系統だと前回も教えてやったはずだが
相変わらずの痴呆ぶりだな
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png
天村雲命=アメノイタテは射楯兵主神社の祀る射楯(イタテ)神であり五十猛
つまり安曇磯武良その人だから安曇そのもの >>448
キモっw
根拠のない話をいくらしたって根拠なし
きっちり根拠に基づいている>>428は覆せない >>449
3世紀前に近江や淡路島まで来ていた安曇が大阪湾岸に来るのが4世紀とか
もう少し現実を見なさい >>451
>>428に全く反論出来ない時点で君の負け
祀っていた月神とは神代における月読尊であり人代においては武内宿禰
やはり>>362と一致しているな
自爆おつ >>450
住吉は本来スミノエとよみ安曇江が語源だぞw
大阪湾沿岸はまさに安曇の庭
https://folklore2017.com/timei900/954.htm
>景勝地の安曇江(あずみのえ)から「あ」をとって「すみのえ」とした。【大阪 地名の由来を歩く 若一光司 ベスト新書】 五十猛は2代目大国主だな
因みに1代目の大国主はイザナギ=綏靖天皇な
射楯の名跡は神八井耳の子孫に受け継がれたようだけど何故だろう >>452
神功の年代に根拠なし
何度同じ嘘を繰り返しても駄目
>>453
根拠のない空疎な書き込みなんて何度したって無駄だよ
きっちりと根拠を示した>>428に対して何の反論にもなっていない >>460
>五十猛は2代目大国主だな
残念だが違う
大国主についてはあまり追求しないことをオススメする 射楯(兵主)神は、日矛であり、大国主であり、住吉神かもしれん
そういう気はしていた
住吉大社を入るとすぐ、矛神と楯神が鎮座しており
その時は特に疑問には思わなかったが
また播磨には、中臣印達神社があり、祭神は五十猛神である
藤原氏氏神なる春日大社には奥の宮と呼ばれる紀伊神社があり、そこの祭神もまた五十猛神である ただ、日矛は播磨を戦場として、伊和大神(大己貴、葦原醜男)と戦っているから
なんとも言えんのだが、少なくとも住吉神は日矛だと思う 住吉神には比売大神がいて、まあ、神功皇后であろうということになっている
日矛に后神がいるとすれば、それはアカルヒメ以外にない
アカルヒメは天御影神の娘で、新羅の地で紅い宝玉から出生し、日矛の妻となった
後に夫の粗暴に耐えかねて倭国へ帰り、国東半島と難波の地で、比売許曽神社の祭神となっている
大阪では阿遅?高日子根神の妹である下照姫ということになっているが、
別の場所に別途赤留比売命神社もある 住吉大社は「若宮」八幡神社を摂社とする
これは神功皇后の子が応神天皇だからだろうか
また、神域の中心ではないが、大歳神もあわせて奉斎されている
摂社には他に志賀神社があり、もっとも格式の高い摂社は大海神社という
大海神社の祭神は豊玉彦である >>460
>射楯の名跡は神八井耳の子孫に受け継がれたようだけど何故だろう
自己レスだけど解決したわ
母方が大国主だからか
五十猛=大国主→事代主→五十鈴姫→神八井耳=武位起、と
こうして見ると五十鈴姫の五十も五十猛に関係してそうだ 名跡なら母系でも継げるが、宗族関係はやはり男系でまとめたいところだな
日矛だが、彼は播磨への上陸を伊和大神に断られ
ならば、と手にした矛で海をかき混ぜ、島を作ってそこに陣を張ってしまった
矛で大地を作る動作は、まるで伊弉冉尊のそれである
ちなみに伊和大神は出雲神であり、伊和の地名を出雲の地にさかのぼることができる
この伊和大神の子に火明がいるといわれるが、これは娘婿のことだろうとも言われる
記事の文脈がわが子へのそれとは思えないほどの畏怖を伴っているからね
ただ火明が饒速日であるという物部氏族の主張を踏まえたうえで、
東征?に伴って信濃や関東に逃れた「国津神」の子孫らが、こぞって「大己貴」と少彦名神という
国造りの祖神を祀る事情を考慮すれば、この出雲族こそが
神武?に恭順した氏族らと決別して近畿地方を去った、もう一つの天津神といえるのではと考えている また、播磨では素戔嗚尊は、北部九州においてそうであるように
おおむね新羅の神であるという受け止めをされている
関東へ去った後の国造家について補足しておきたい
彼らの祖神は、伊勢津彦という
調べればすぐ分かることだが、この伊勢津彦が、播磨では火明と言われたりするため
結局、関東で「大己貴」と少彦名神を祀る、かつて東方へ退去した、
後代に国造家となっていた氏族は、簡単に言えば物部氏族の一派なわけだ
これが出雲国造と祖を同じくするから、記紀の説明によれば天津神となる
そして結局、日矛が鎮まった但馬一宮出石神社に招来されている神宝は、
饒速日が高天原で授けられ、一部が籠神社に伝世している神宝とまことによく似ている 迂遠になってしまったが、何が言いたいかというと
神別天孫と呼ばれる氏族の上祖に、「大己貴命」が位置しうるという可能性だ
出雲国造は神話の経緯に従って、出雲の地で大国主を祭るが
何のことはなく、単に自らの上祖を祭っているに過ぎないということだ
そのさらなる祖が素戔嗚尊ということになる
これが事実なら欠史や国譲りの経緯にも大きく影響するだろう >>459
住吉は神功皇后系。
安曇が神功皇后のおこぼれでうまい汁吸っただけの話。
七支刀が石上にあって、住吉に伝わらなかったのは別物だから。
全くもってして話にならん妄言だなw根拠なし。
山城国と国という説もあり、通説上の地名に過ぎない。 >>469
スサノオが朝鮮系と言われるようになったのは神功皇后期以降ですよ。
大陸系と半島系の混同が起きました。
ヒボコは新羅ではなく、辰韓の頃、紀元後100年頃に来たとされます。
辰韓は、秦韓とも言われ、中国系の国でした。
ヒボコ族は須佐族と習合していき、銅鐸祭祀を丹後で、その後は習合の影響で銅鏡祭祀に変わっていったそうです。
関東国造家の本質は、本当は出雲族と、安倍(尾張家、本来の神武)で、邪馬台国事件以降、邪魔になった豊彦を討伐する為に
物部イクメ(垂仁)の要請で進出し、国造家になっていきました。
出雲兵の目的は、富の霊璽を奪った豊国軍を追い払う目的だったという事です。
その後、政権からの圧迫を怖れ、系図にホヒの子孫であるかのようにして家を守ったとされます。
後期の物部系に入れ替わる前の初期の関東国造家の系図には「タケヒナドリ」が入っていることが多いです。
武甲山神社の社家は、現在でも「守屋家」です
これは、奈良での出雲の分家に、ホヒ家の娘、サマナ姫が入っているからです。
女系の先祖を男系の先祖であるかのようにいじったそうです >>465
出石神社の神床家は、実はヒボコに嫁をやった豪族の家系なんです。
ヒボコの舅の家なんですよ >>469
イセツ彦は風の古い紙で、鉄を吹く際の風の事を表すとされ、風三郎とかそっち系ではありませんでしたっけ?
『伊勢風土記 逸文』に、伊勢の国名の由来として、「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
伊勢は、出雲系と、若干の忌部の親戚、八坂が入ってるイメージ 少なくともトヨは泰始二年(266)年までは大陸と朝貢の痕跡が認められるから、その時点で伊都チョンの神功皇后説(失笑)はレベルが低い妄言という事になるわな。
あいつ、何がしたくてあんなホラを吹いて回ってるんだか
魏志倭人伝は、梯儁、張政の二度の遣使の報告と、魏政府公文書等を、陳寿自身の見解に従って整理編纂したもので、ほとんど同時代のことを書いているため、トヨに関する情報の信頼性は極めて高い。
233年生まれの陳寿は壱与と同世代の人間。
三国志を著したのは、晋が呉を平らげた後と記されているから(華陽国志)、280年以降で、その死は297年。 >>463
射楯(兵主)神となると、播磨の射楯兵主神社ですよね
あれ、神様上書きされてて、朝鮮系の村の後に、尾張氏系が入り込んでそうなったようで、本来はイタテと兵主は別の神なんだそうです。
本来の古い兵頭神は、蚩尤を祀る神社で、イタテ系(カゴヤマや五十猛系)の子孫が建てたそうです。
奈良の兵主神社は、本来はイタテヒョウズ神社と言ったらしいのですが、実は五十猛は祀られていません。
ヒボコが入ったのは後年とされ、少なくとも景初以降、タジマノモリが奈良を攻めて、野見宿祢に追い出されたあとに習合したと思われます。 >>424
>安曇が奈良方面に展開していくのは4世紀以降・・・・・
4世紀以降に阿曇族が奈良大和盆地の何処の地に進出したのか?
阿曇族の進出を示す大和盆地の遺跡はどれだと言うのか? >>423
>欠落時代・・・・・
何が欠落していた時代を指しているの?
>物部一族がイツセを大将として奈良に向け進軍・・・・・
イツセとは始祖ニギハヤヒのどういう縁者なの?名は五瀬?伊勢津?
奈良を目指した理由は何だったの?
>分断されて支配下に置かれたヒボコ族から進んだ鉄器の技術を九州・・・
何者が何の為にヒボコ族を分断・支配したの?
>安住の地と定めたのが創建の由来・・・・
創建されたのは高岡神社なの?「仁井田神社」なの?
>単独の拠点なら物部川にならない・・・・・
何がどういう理由により物部川にならないの?
>三島大社と似た祭神で、もろに越智の投影が感じられる・・・・
祭神名は何といいどういう点が似ているの?越智の「投影」とは何?
>先祖を同じくする同族である」とある・・・・・
先祖を同じくする同族?何にそう記されてあるの?
>かって樹齢3000年ともいわれる楠木が生えて・・・・・
論旨不明。かって楠が生えていたから何だと言いたいの? >>478
〉>かって樹齢3000年ともいわれる楠木が生えて・・・・・
〉論旨不明。かって楠が生えていたから何だと言いたいの?
なるほど、楠の井戸があるだけで安曇にこじつけした伊都チョンのお話は論旨が分かるんですか
素晴らしい理解力ですねw >>468
〉火明が饒速日であるという物部氏族の主張を踏まえたうえで、
ここ重要。
先代旧事本紀にもある様に、同一人物の腹違いの家が、ホアカリ系統の尾張家と、饒速日系の物部氏
そこから始めないと時系列とか、欠史の大前提がブレます。
ホアカリ、饒速日は渡来人の同一人物の和名
二度にわたる物部氏の東征は、親戚同士の覇権争い その渡来人の同一人物は、出雲の8代、八千矛から嫁さんを貰い、その後丹後に移住した後、ヤマトに拠点を移し、出雲第8代の副王、事代主の家系と習合して尾張家(笛吹連)になった
海部家は尾張氏の分家で、天御蔭から分かれた。
安曇はそっち系の分家に過ぎない
大陸に戻って再度渡来して九州にきた同一人物は、和名を饒速日とし、宗方から嫁を貰った
つまり、物部と尾張の二つの系図を合わせる必要がある。
そこから神武(村雲)が始まる。
八井耳系で、九州にも地盤を持ってた多臣家からすれば別段、九州の物部を神武とした歴史を書いても良かったのだろうが、ヤマトの歴史から書くことになった
息子のイソタケルも複数の和名を持ってたから記紀の偽装をするのに都合がよかったのだろう
イソタケルは、大年彦を名乗った後、最終的にカゴヤマを名乗った。
奥さんは二人
腹違いの妹である物部のホヤヒメを娶り、村雲を設ける。
だから記紀の製作者は、本当に物部の系図を神武としても良かった。
理由は不明だが、高天原を九州だったことにした事も関係してるのかもしれない
カゴヤマとイソタケルは、先代旧事本紀と同じで、物部氏と、大屋姫系の紀伊家の二つの系図をあわせて考えて解釈を導くことが出来る
大屋姫は、大年教の巫女で、御年神社はこの関係の神社
渡来人が男系の祖であるとは記紀には絶対に書けない。大陸に軽んじられる可能性がある
故に、須佐男は、正体がバレても問題ない様に、大国主の舅、女系の祖として書かれている 結局はそうなりそうです。国をかけて争っていたとしても
両者が別族であるとは限らないわけです。
国譲りにもそういう面があろうかと思います
少し具体的な話ですが、相模の山内首藤と下野の那須国造族が
家紋や通名の一致から同族と看做されるわけですが、
山内は尾張の守部家にも猶子を入れています
それで首藤家とも言いますが、守部家は熱田神宮の祠官家にあたり
これが尾張古族だということは想像がつきます
藤が付くのは、平安末期以降関東の古族がこぞって藤姓を騙ったことから
来ているものと思われます。これは官位を得るために必要な措置だったのでしょう
通婚の選択から見て、藤姓を騙る前の段階では、互いの同族関係について
正確に把握できていたのかもしれません。現代では考えられないことです 伊都チョンが笑えるのは、邪馬台国事件以降のトヨの朝貢の歴史が明らかに年代がハッキリ大陸の歴史に書かれているのに、後の時代の神功皇后を絡めてくるところ。
更に傑作なのは、イソタケルww
8代以上前のイソタケルと神功皇后を同時に登場させて、イミフな伊都と安曇の話を混ぜてくるんだよね
だから誰にも相手にされない >>482
〉守部家は熱田神宮の祠官家にあたり
これが尾張古族だということは想像がつきます
尾張氏は熱田に神社を作りましたが、景初の二度目の物部氏との争いで、海部家と別れて地盤を移したそうです。
海部家はヒボコ族が居なくなった後の丹後に里帰り
籠神社は、実は神武も、戦った相手の物部も両方待たれる立場の神社
故に、物部縁のマナイのつく社が古宮としてあるはずです。
籠神社の母系の神様は隠されましたが、出雲の大神を祀っています
彼は出雲大神宮の宮司との飲み会の最中にカミングアウトした話で今でもネットで拾えます
村雲の剣は銅剣、草薙剣は鉄剣
飛騨の水無神社が草薙の剣の疎開先になったのは尾張家との関係。
飛騨王家伝承地には、尾張家と物部の伝承の両方がありますが、これは親戚の物部に敗れた村雲の系統だからです
故に、天孫降臨伝承が飛騨にはあります のちに物部氏も政権が短命に終わり、ヤマトから追い出されます
飛騨には物部守屋伝承があります
物部守屋伝承は、
秋田物部(守屋のお嬢さん)
諏訪の神長官第3代(守屋の次男)
奈良の村屋神社(守矢の長男)
他にも東海地方にも複数あります
岐阜には物部守矢の先祖である、出雲の神魂神社の社家である秋上氏の祖である、物部十千根を祀る神社まであります HPを見ていて改めて気づいたことですが、住吉大社には星宮があります
星神祭祀は関西ではあまり一般的ではなく、尾張には地名とともに現れ、
関東ではなんと言っても大甕の天津甕星です
この神は天津神でありながら悪神とされるめずらしい神で、
国譲りに「先立って」鹿島香取両神の討伐を受けています
国譲りの舞台は出雲、史実上は大和、より古くは博多かもしれないのに、
朝廷の両軍神が国譲りよりも先に関東で星神を討伐しているというから驚きです
これも実際には神武期あるいは崇神期をみるべきです
住吉大社に話を戻すと、こちらの星宮の祭神は国常立です
国常立は、ほぼ天香久山とみて間違いないでしょう
武御雷にも通じる中臣の祖神なのです
武御雷と天津甕星は同人ではないと思いますが、結局のところ
常総を基盤とする中臣や物部、あるいは忌部の神なのであり
実際に甕星を討伐したのは武葉槌という織物神ですが、
彼らもこの一族のなかに包摂されるでしょう
懐柔したか説得したか、あるいは騙し討った親戚縁者の一人です >>486
おお、カガセオのお話が出ましたね。
九州は月神(女神)
物部は妙見(カガセオ=男神)
ヤマトは三輪山の太陽(女神)
この関係が先代旧事本紀大成経の事件に繋がっていきました。
トリビア的な話で、伊勢の内宮は出雲系、下宮は違うと話題に出る事がありますが、千木がおかしいのです。
出雲系と言われる内宮が物部式の横削ぎになっているのに出雲系と言われているんです。
もしかしたら大成経事件はホントだったりするかもですね。
伊雑宮→出雲
内宮→カガセオ
外宮→豊国、宇佐の月神 カガセオの話で絡んでくるのが忌部氏です。
元々は島根の出雲の分家でしたが、一族を守るために大陸渡来を名乗ったりしてしぶとく生き残って来ています。
その名残が、系図に見られる天背男
天背男はカガセオとも言われています
諏訪のタテミナカタの奥さん、八坂トメには出自が2つ唱えられていて、一つは信濃に飛ばされた安曇の妹説
もう一つが忌部氏の親戚説
古代豪族集覧には、須佐男のお母さんである高木神の更に二代前あたりに天背男が出ています
物部氏は、父親である徐孟の、さらにそのお爺さんを背男としている様です
八坂姫は忌部氏の祖の兄弟から始まってる様で、伊勢の豪族の家であった様です >>486
〉実際に甕星を討伐したのは武葉槌という織物神ですが、
彼らもこの一族のなかに包摂されるでしょう
懐柔したか説得したか、あるいは騙し討った親戚縁者の一人です
確か、奥さんが下照姫でしたっけ?
そうだとして書きますが、下照姫は出雲の姫です
故に、近くに古い出雲系の神社がある事が多いはずです
タテミナカタが諏訪に入る前に、青木村だか上田氏の生島足島神社に一度落ち着いたとされ、そこから南下して諏訪に向かったとされます
その近く、西側には出雲の古い神様、クナト神、サビ姫、猿田彦(出雲の幸神信仰)を想像させるエリアがあり、こまゆみ岳では下照姫が祀られ、相神としてタテミナカタが鎮座します
出雲事代主系の王宮は神魂神社にあり、かつての王宮の形をそのままにしているそうです
その地域はかつて王庭(オウバ)と呼ばれていました
こまゆみ岳南の地域には現在でも大庭地籍が残っています で、ちょうど良いところで切ってしまいました
タケハヅチは、出雲伝承によると、物部氏だそうです >>488
カカゼオではありませんが、天背男という名であれば
太玉の別名だという説もありますね
こうなると太玉が天孫降臨以来の五伴緒だとはとても思えませんが
出雲から大和そして尾張に跨る広域な連合のなかで、
瓊瓊杵尊や神武に協力する勢力が一部いたとしても不思議ではないです
珍彦なども本来東征を手引きするのではなく、磯城を守る立場だったはずですから >>486
〉国譲りに「先立って」鹿島香取両神の討伐を受けています
国譲りの舞台は出雲、史実上は大和、より古くは博多かもしれないのに、
朝廷の両軍神が国譲りよりも先に関東で星神を討伐しているというから驚きです
これも実際には神武期あるいは崇神期をみるべきです
時系列的に特異点が段々と近づいて来ているのではとww
倭国大乱期の初端はヒボコ族の播磨侵攻に始まりますが、神床家の伝承だと、物部氏が見出しを送って来て、共同で奈良を攻撃しようと持ちかけたのだそうです。
そしたら和歌山で苦戦したのか、そもそも騙そうとしてたのか、ヒボコ族が進軍を開始した際に物部が動かず、単独開戦になってしまい、それが原因で尾張氏や神武の系統の政権にボコボコにされたとあります
それが150〜160年代
その後にフトニの播磨と出雲の進行が始まりました
妻木晩田遺跡は戦場になった場所ですが、その東側に今でも孝霊山があり、陣を張った場所は笹福神社になりました
現在でもフトニの進行ルートは伝承されているそうです
2回目の景初と、倭国大乱期の間が特異点で、圧縮されて一度のエピソードにされています
故に磐余彦が和歌山から入ったのにいつのまにか身バれして、ヤマト入りしたのが物部のウマシマジになると言う不思議な書き方にされました
万世一系からすると、ヤマトがヤマトを攻撃した様な事になっており、変ですが、記紀ではちゃっかり正体が書かれています 子供の頃から言われているのは欠史8代は架空で、崇神が本当の神武ではないか
そう言う説に触れて来ましたが、内情は
・村雲(本来の系図上の神武)
・磐余彦(最初の東征・若山ルート)
・物部イニエ(崇神にされた)
この三人が同時期にいたかの様に書かれています
多臣家は、時代を圧縮して朝貢の事実を消し去り、系図はほぼそのまま自分の男系の先祖を書いていますので、ここでも矛盾が発生します
故に倍暦を使って紀元前660にして、出雲初代の大国主である、管八耳王からを消し去りました
八耳王の奥方であった稲田姫は、須佐男の奥さんだったことにされているはずです >>491
〉カカゼオではありませんが、天背男という名であれば
太玉の別名だという説もありますね
太玉→忌部氏ですよね
これが、出雲の分家の忌部氏が大陸系の勢力が強まった時に、出自を誤魔化した痕跡なのだそうです
おそらくですが女系の誰かを男系にしてインチキを最小限にしているとは思いますが
出雲の分家が高木神(徐市のお母さん)の男系の子孫になんてなれる訳がありません > 万世一系からすると、ヤマトがヤマトを攻撃した様な事になっており、変ですが、記紀ではちゃっかり正体が書かれています
説明されていること、すべて把握できていませんが
おおむね、このような印象を抱いています
記紀は正直には書いていませんが、抹消してもいないという感じです
宇摩志麻遅命は神武との問答の後には、越の国あたりを回らされた後
石見に落ち着いていますね。これも一つの国譲りなのかなと
日本海沿岸を回っているのは、そこが一族の地盤で、畿内で起きた地殻変動を
自ら伝えにいったのかもしれないです
出雲はなんだかんだと物部の故地なわけですね >>491
〉珍彦なども本来東征を手引きするのではなく、磯城を守る立場だったはずですから
おおおww一体何者なのかww
最初の物部東征は、吉備国のせいで瀬戸内海が使えずやむなく四国ルートになったとされます
途中で鹿児島あたり?で土着の隼人族を雇い進軍
紀伊の港で名草軍にやられて上陸を断念和歌山のど田舎ルートになります
で、サバイバルの元日本兵、小野田さんは名草トベの頭部を祀る神社、オコベ神社の社家で、伝承を受け継いでいます
取材時はまだ昭和だったかと。皇室観とは違った話は非常に警戒された時代で、五瀬名前は出しても、絶対に五瀬が物部氏だとは最後まで言いませんでしたが、
戦った相手は珍彦だった
そう発言しています。磯城王朝(村雲や大彦の家系)側に珍彦がいたそうです >>495
〉説明されていること、すべて把握できていませんが
おおむね、このような印象を抱いています
記紀は正直には書いていませんが、抹消してもいないという感じです
はい、そして、景初の話、魏書の話ですね。
ここでもヤマトがヤマトを攻撃した話にっています。
九州の卑弥呼が朝貢した時。我々はヤマトだと名乗っているからです。
九州勢は、吉備国を通じたルートが使えず、フトニが出雲を攻撃したことにより、出雲ルートの朝貢もできないタイミングを狙って、自分達がヤマトだと名乗って朝貢したのです。
記紀の作者は魏書に目を通した上で、この構図を利用したと考えています。
流石に昔から朝貢して大陸のお墨付きのあるヤマトを攻撃するとは言えませんから
ただし嘘にはなっていませんでした。
磯城王家には、最初の東征の手打ち、八咫烏の道案内以降、物部氏の血が入りました。
武内宿禰の父親、フツオシマコトが九州側についたからです。
彼は分裂状態に入った磯城王家の、物部の姫系の息子でした
大義名分として九州勢がお家争いとして、ヤマトを名乗れる大義名分があったのです。 >>496
珍彦さんはちゃんと仕事してたんですねw
記紀では変装して香久山に登り、敵軍(磯城軍)呪詛用の埴土を持ち帰るなど
縦横の活躍ぶりですが >>495
〉出雲はなんだかんだと物部の故地なわけですね
最初の物部東征は、宗教のシンボルである姫巫女を欠いていたため、グダグダになって失敗に終わったとされます。
この時には出雲は攻撃されなかったと伝わります。
2回目の際は、日本海側から、宇佐の兎上王、物部朝倉、タジマノモリの部隊が激戦を繰り広げ、神門家(郷戸家)の拠点の一つ、石見の王宮は占領されました。
そこは物部氏が神社を作り、明治前後には金子氏と名を変えていました。
諏訪の守屋山の麓には、守屋神社がありましたが、2004年、突如として神社の額が変えられます。
物部守屋神社 その神社額を書いたのは、金子氏でした。
出雲の物部に話をする戻します。
魏書の邪馬台国は、戦闘前の卑弥呼から始まります。
豊国の宇佐氏と、物部氏が主体の軍です。
物部本体は、吉備国に真正面から戦闘を仕掛けました。戦闘は8年にも及ぶ、激戦となり、途中で卑弥呼(宇佐の豊玉姫=宇佐津姫)は安芸国で病死します。
粗末な作りの仮埋葬の、墓は魏書にも書かれましたが、仮埋葬は厳島神社との事です。
安芸国には、第一次物部東征でも参加した、物部十千根がいましたが、吉備国を倒したことにより、出雲へのルートが開けました。
そして、松江の東王宮を攻め落とし、そこに駐屯します。
神魂神社の社家は、物部十千根の直径の家です。
秋上氏と名を変えたのは、安芸国から出雲に攻め込んだ事からそう呼ばれる様にったとの事です。
石見と、松江に物部氏の支配する地域がありましたのでバッチリ物部に縁があります。
後年に島根の物部氏は出雲の王家と和解します。
故に、和解の印として神社の千木が変えられました。
神魂神社の千木は、上が物部式の横削ぎ
下が出雲の縦削ぎになっています。
物部神社の千木は、神魂神社と逆で、上が縦削ぎ、下が横削ぎです。 >>478
〉>物部一族がイツセを大将として奈良に向け進軍・・・・・
イツセとは始祖ニギハヤヒのどういう縁者なの?名は五瀬?伊勢津?
奈良を目指した理由は何だったの?
二度にわたる物部氏の東征は、ヤマトの親戚の政権が内輪揉めで分裂状態になった時に行われています。
目的は近しい親戚の利権争い。
利権の拮抗する勢力が分裂すれば、少なくとも残りの半分は漁夫の利にありつけますから。
一度目の分裂は、クニオシヒトの次の代。
フトニと、大彦が勢力を争っていました。
故に、饒速日の投影としてニニギが書かれました。
大彦の時代は倭国大乱期なので二世紀。饒速日とは時代が違います。
物部嫌いの大彦は、物部の姫を娶ることで手打ちにした卑弥呼と、磯城王家に同調せず、物部の銅鏡祭祀を受け入れなかったとされます。
この時代にモモソヒメがいたとされ、弟の太田太根彦との事が記紀に書かれたとされます。
彦五瀬は、二度目の渡来で和名をホアカリから饒速日に変え、市杵島姫を娶って出来た物部氏の系譜です。時期的には7から9台の孫位の物部氏と思われます。 >>463
大国主は違うよ
そこの解釈が間違ってるから多くの人の神話解釈に無理がでてしまう >>469
スサノオは新羅に行って帰ってきた神であり元は日本の人
その人代における正体は>>360のとおり雷大臣 >>470
大己貴命が大国主と別人という可能性はあるが
少なくとも大国主はそのような大それた人物ではない
人代における彼を見ると日本の歴史上はあまり重要な人物ではない >>471
>安曇が神功皇后のおこぼれでうまい汁吸っただけの話。
神功を勝たせたのが安曇なわけだが
むしろ安曇のお陰でうまい汁を吸ったのが神功=台与
>全くもってして話にならん妄言だなw根拠なし。
それはこちらのセリフだ
こちらは>>459でソースを示している
根拠がないのは君の妄想話だけだよキナイコシくん >>475
>少なくともトヨは泰始二年(266)年までは大陸と朝貢の痕跡が認められるから、その時点で伊都チョンの神功皇后説(失笑)はレベルが低い妄言という事になるわな。
ならないが?
神功皇后がその時期の人物というだけのことだ >>476
>奈良の兵主神社は、本来はイタテヒョウズ神社と言ったらしい
そういえば前回そのソースを聞いたら答えられずに逃亡したよなキナイコシくん
今度はちゃんとソース出せよ >>480
>二度にわたる物部氏の東征は、親戚同士の覇権争い
その二度にわたる物部氏の東征とやらもまったくソースが無いよね
キナイコシくんお得意のいつもの妄想話 >>481
村雲が神武とか妄想もいいところだな
お前の大好きな国宝の系図にだって天村雲がアメノイタテだと書いてあるだろう
アメノイタテ=射楯大神=五十猛
なのだからその父カゴヤマがスサノオになるのは当然
ホヤ姫についても前回教えてやったよな
相変わらずの痴呆ぶりで
880 :日本@名無史さん :2020/12/23(水) 00:06:55.18
>>759
>もう字も読めなくなっちゃったのかよww
それはこっちのセリフだよ負け犬くん
どちらの系図にも君の主張を裏付けるようなことは一切書かれていません
残念でした
>異母兄弟同士の婚姻、物部氏の穂屋姫の処からやり直し。ちゃんと皆に分かるように説明してね
穂屋姫が物部氏という根拠がまず無いw
まあ夫の天香山命=スサノオが物部の祖だからある意味物部系ではあるが
さてそのホヤ姫だが彌彦神社の摂社・妻戸神社に祀られている
http://www.yahiko-jinjya.or.jp/meguru/setumatusya/index.html
>妻戸神社(つまどじんじゃ) 妃神(ひめがみ)/妻戸大神(つまどのおおかみ)
>(御名 熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと))
>(御名 熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと))
>(御名 熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと))
>(御名 熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと))
実に分かりやすいことに、夫と同じウマシの美称がついているw
やはり天香山命=スサノオの正体が追放された甘美内宿禰という俺の推論は正しいようだ
またしても俺の主張を裏付けてくれてありがとうw >>483
>邪馬台国事件以降のトヨの朝貢の歴史が明らかに年代がハッキリ大陸の歴史に書かれているのに、後の時代の神功皇后を絡めてくるところ。
だから神功が後の時代であるという根拠がゼロなんだが
根拠がないと言われているのに「これが根拠だ!」と出せないから君は負け犬なんだよキナイコシくん
>8代以上前のイソタケルと神功皇后を同時に登場させて、イミフな伊都と安曇の話を混ぜてくるんだよね
それが嘘なのは>>362より明らか
ハイ論破 講釈師、見て来たようなウソをつき
全く根拠が無いのに断定的なことばかり言うキナイコシくんの書き込みにはこの言葉がよく似合う 神功はほぼ4世紀後半の女性で、若いころはもう少し前。
卑弥呼よりは後代。 例えば神功の時代に贈られたとされる七支刀の銘文には
「泰■四年(■は判読不能)」
と年号が彫られている
普通に解釈すれば西晋の「泰始四年」(268年)なわけだが120年ずれ説では東晋の「太和四年」(369年)だと言い張っている
だが泰■と彫られている以上文字の異なる太和とするのは無理のある解釈だ
国同士の贈り物の銘文なのに音が同じだから別の字を使ったというのも全くの無理筋である.
そもそも文字を彫る場所が狭すぎたり材質が硬く加工困難な場合に難字を簡単な字に置き換えることは考えられても
もともと平易な文字である「太」をわざわざより画数が多く複雑な「泰」に変えたというのは無理がありすぎる 根拠はあるぜ。
崇神のころがほぼ卑弥呼の年代なのさ。
それを紀の編者らは時代を間違えて卑弥呼を神功の代に編入したのだ。
なぜ間違えたか?
それは編者らの720年ころの時代と違い、崇神前後の時代は倍暦行使を
してたからそれを知らずに編者らは1年365日余の考えで神功に間違って
入れちゃったのさ。
崇神当時は主に2倍、3倍暦をやっていて1年が半年とかだったから、
神功の代は後代に実年代が行くのだ。 >>515
想像じゃないよ、一例だがこれを見い。【紀の欠史八代間の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0 29日 0
2日 2 16日 0 30日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
ことごとく月前半の2週間に収まっているぜ。当時八代の場合、
1ヵ月が現今の半月だったのさ。 神功皇后の年代は、広開土王碑も援用できる
応神や仁徳のことであってもそうそうズレはしない
七枝刀のことは分からんな
作ってすぐ送ったのかどうかも不明だし
百済の元号ではないなら、作って寄越したのではなく
保管していた宝物として渡したのだろうし >>506
>>奈良の兵主神社は、本来はイタテヒョウズ神社と言ったらしい
は?お前もう忘れちゃったの?出自は明らかにしたが、五十猛が居るのかどうかが問題になったんだろ
お前がここで一番レベルが低いんだから口のきき方には気を付けろデコ助w >>512
お前のトヨ説より数段マシな考え方。
そもそもお前の言ってる事は全て根拠なしw
自分で「ほぼ確実と言える」とか画像ファイル作って遊んでるだけ >>504
コトバンクとか色々あるが、決定されてるなんてソースは一切ない >>505
>ならないが?
神功皇后がその時期の人物というだけのことだ
頭がおかしいww
成中津彦あたりの物部政権の人物がトヨと同年代のはずがねぇーだろw
それこそ根拠なし
さすが伊都チョンw >>508
穂屋姫の母親って市杵嶋姫だろ。もうその辺で察しろアホがww そもそもが播磨の射楯兵主神社の兵主神は穴師坐兵主神社から分遷されたもの。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm
最初に穴師に建てられた時は、現在言われている景行天皇の時代よりもっと古い。
射楯の尾張氏が建てた神社。三輪山の西方に蚩尤を祀ったのが源流。
おまえは臭い口を動かす前に、手を動かせw 物部氏の祖って、饒速日とイチキシマヒメだろ。五十猛は物部氏の祖ではない。
イタテの一族は、尾張氏。海部氏。
海幸彦と山幸彦が兄弟になるのは始祖が同一人物だから。 >>491
珍彦ですが、五十猛(大年彦、カゴヤマ)と大屋姫との間の子に、タカクラジが居ます。
紀伊國国造家になるんですが、160年代の当主が珍彦。ヤマトを守る側なわけです。
つまり、イタテの一族、尾張家(村雲)と同格の家なんですよね。
武内宿祢は、出雲、尾張家、物部家の全ての血が入った人物で、血筋的には非常に重んじられていました。
武内太田根は、東征が終わった際には負けた東軍側についていたため、最終的に出雲に逃げ込んで王家に守られます。
蘇我臣家、石川臣家、平群臣家などは、出雲が武内宿祢を守ったことによりつながった家になります。
現在の皇室は臣系の系譜という事になります。 >>516
太国さん、伊都チョンにマジで返しても絶対に理解なんて出来ませんよ?w
そもそもが理解力がないですから 海部氏の本系図と、勘注系図
尾張氏と、物部氏の両方の血を引く海部氏の神社、籠神社の系図はそのまま読んではダメなところがある。母系と父系を曖昧にしている。
現在言われている皇室の天孫降臨は「ニニギノ命が」「筑紫の日向の高千穂峰」に降臨する。
海部家では「ニニギノ命の兄弟」である「ホアカリノ命(別名ニギハヤヒ)」が丹波に降臨する。(丹後は丹波と言われていた)
その後河内国にも降臨し、また丹波に戻ってくる。(第二次物部東征後)
ニギハヤヒと言えば物部氏の始祖であり、神武東征より先に河内国に降臨し大和地方を支配した豪族とされ、しかも「神武とニギハヤヒが同族であったということが日本書紀にも記されている。」
つまり海部氏の系図に書かれていることは、記紀では省略されている神武の曾祖父ニニギの兄弟であるニギハヤヒの降臨伝ということになる。
つまりいじってある系図という事。
尾張家:ホアカリ(最初に出雲に入り、神門家の八千鉾からタカテルヒメを娶り、その後に名乗った和名)→五十猛→村雲
物部家:ニギハヤヒ(国譲り事件後に逃げ出し、今度は九州に渡来。宗像のイチキシマヒメを娶り、その後に名乗った和名)→彦ホホデミ→(その後系図不明)→ナギサタケウガヤフキアエズ
穂屋姫は、ホホデミの妹で物部家
海部の系図は村雲(タケイタテ)をうまく隠している系図になる
そんでもって先代旧事本紀
天香語山命めのかごやまのみことは、「異腹の妹の穂屋姫ほやひめを妻として」一男をお生みになった。
饒速日尊の孫・天村雲命あめのむらくものみこと[またの名を天五多手あめのいたて]。
ここまでかけば出雲伝承が無くともホアカリと饒速日をうまく交代させている事が分かるんじゃなかろうか。
本紀も海部系図も、あるていど記紀に服属してヤバい処は隠している。 海部氏系図は、ホアカリの次をホホデミに入れ替えて、村雲を物部氏の後という、一見、誰が見てもおかしな系図にしてあるわけだ。
こうやって家を守ってきたのだろう。
新撰姓氏録にしか存在しない安曇氏の系図もそれにより修正が加わる事になる。タケイタテの命の立ち位置によって解釈がどうにでもなる立ち位置であることが分かる。
籠神社では、安曇は親戚と言ってるが、具体的中身は言及していない。
場合によっては物部氏の分家になってしまうかもしれないのが安曇氏 旧事本紀、海部氏系図、出雲伝承の要旨はこれ
ホアカリと饒速日が同一人物で、更に五十猛とカゴヤマが同一人物。
物部氏と、尾張氏が腹違いの家系で
尾張氏と紀伊家が腹違いの家系
武内宿祢が全ての血が入ったのは、物部の血が入った開化の息子であるフツオシマコトが紀伊家から奥さん貰ってるから。 東征前の磯城は福岡の阿志岐だな、太宰府のすぐ近くの
アマテラス=安寧天皇とすると
「安寧天皇は磯城県主の館で産まれた」
「アマテラスは筑紫の(略)の檍原で産まれた」
この2つは同じ場所を表している
檍原(あわきはら)は檍という木の生えている原ではなく淡き原、淡しき原で淡水の湿地だろう
淡しき原が阿志岐になり磯城になった
そして葦原とも呼ばれた
アマテラス=安寧天皇の母の父は今の太宰府辺りの王でイザナギ=綏靖天皇の協力者だったのだろう
イザナギ=綏靖天皇=大国主(1代目)とするとスサノオ(1代目)が磯城県主の祖なのかもしれない アマテラス≠安寧天皇
アマテラスは女性で安寧天皇は男性でして、等号は成立しません。
前者は年代が後者よりもっと上代です。 >>530
〉イザナギ=綏靖天皇=大国主(1代目)とするとスサノオ(1代目)が磯城県主の祖なのかもしれない
須佐男=ホアカリ=饒速日になるわけですから、そうとも言える構図にはなります。
しかし、五十猛=カゴヤマなので、イタテの一族が磯城県主に近いということになります
しかし、母系と父系の操作により曖昧が発生します。
県主の置かれた時期により、尾張家なのか、母系の出雲の分家の登美家になるのか解釈が変わるのです 籠神社が、物部氏のホホデミを系図に入れたのは、山幸彦が勝ったからかもしれませんね。
二代目綏靖天皇=沼川耳(渟名川耳)
三代目安寧天皇=玉手看
これは明らかになっているのに、ギリギリの線で村雲が隠されている構図は、単独の旧家だけで行われているものではないと言う事ではなかろうか
二代目の方は出雲の母系の尊重で、事代主の別の奥さん、タテミナカタの母親、ヌナガワ姫から取った名前で、多々良五十鈴姫から見ればヌナガワ姫は腹違いの母になる。
ちなみに3代目は磯城津彦とも言われるので、一応、磯城はヤマトで良さそうなイメージではないかと 本来は九州に地盤を作らなかった五十猛
古事記には山として書かれ、人物としては登場しないカゴヤマ
記紀では山幸彦として弟の家系として書かれ、勝者になった物部氏
丹後国庁に出した欠落だらけの本系図
一応隠したフリをして、口伝にせず文字で書き残した勘注系図
尾張氏の分家の海部氏が始祖からの系譜を残した事情
記紀は万世一系で、欠史8代を書いたが、記紀の方針に反しない、最悪バレても死罪は免れる系譜を残したと考えられる。
景初の物部政権樹立を隠し、万世一系に反しないやり方は、母型の先祖、物部氏の彦ホホデミ、五十猛から見たら異母兄弟を男系父にすげ替えれば、あれま、記紀の勝者が自分達にできる。
神武さえ隠せば良いと言うことになる。
そして神功皇后記で、磯良を出せば、五十猛を粗略に扱わずに済む。九州に入れ替えた事にすれば良い、と言う事になる。
籠神社は記紀の先をついて最大限の権威が高まる系図を秘密として保持して来た可能性がある。 >>535
訂正
籠神社は記紀の先をついて
籠神社は記紀の隙をついて 籠神社は、本来、御蔭から分かれた分家になるはずなのに、ホホデミを入れる事によって、自分が本家、海部王朝に見せかけているわけだ。
本来の神武の家系は尾張家。熱田を作り、本来の皇室の剣、銅剣である叢雲の剣を保持してきた家。
大彦は先にも書いたが、中曽大根彦で、長髄彦と大彦に分けられたが、180年代には物部氏に抗しきれず琵琶湖周辺から撤退した際に、阿部を名乗った。
大彦は、物部氏の血が入っていない、純粋な尾張家。本来の神武の家系。
クニクルの代までは生きていたと考えられ、クニクルの息子にされているが、本来はフトニと同じ頃、クニオシヒトの次代の王子だったそうな。
王室から別れると子供に「別」の字が入るようで
奈良から追い出されて正統から外れた景行の息子にも別の字がついてた気がする。 イタテの一族は、尾張氏と海部氏になる。
海部氏は、神功皇后期に、征伐で船を出したらしく、その頃に部民、海部を貰っている。
記紀成立前に、海になっている訳だ。
これが本来の海幸彦。山幸彦と海幸彦は本当に兄弟だった訳だ >>504
>むしろ安曇のお陰でうまい汁を吸ったのが神功=台与
神功皇后と壹與は100年ほど差があるよ。 >>517
>百済の元号ではないなら、作って寄越したのではなく
>保管していた宝物として渡したのだろうし
百済も倭も中国の属国だったから、中国の年号を使っただけ。
日本独自の年号は大化の改新を待たなくては行けないことになっている。 >>527
>つまり海部氏の系図に書かれていることは、記紀では省略されている神武の曾祖父ニニギの兄弟であるニギハヤヒの降臨伝ということになる。
>つまりいじってある系図という事。
どうしてそういう話になるのかサッパリわからん。
あなたの話し方は、よく知られた話と、あなただけが知っている話と、あなたが推定した話が同列に同じ調子で語られているため、わかりにくい。 >>540
倭は中国の属国ではない。
それは中国はそう見るだろうが、日本はそんなことは思ってない。
中国の五惑星の国旗より日本の太陽の旭日旗のほうが格上だ。
星の旗より太陽の旗のほうが上位なんだよ。
それは向こうのいい点は日本も使う。
太陽系では太陽が5惑星を従える。その逆はねえ。
想い知れ。 >>541
とりあえず、饒速日は一般的な物部氏の祖神になっていますよ。
コトバンクしてみて下さい
https://kotobank.jp/word/饒速日命-591173
対して、籠神社、海部氏は物部氏として見られているかどうか
部民が別なのに。それは違うでしょと言う事になる
さほど一般的な疑問を外れる範疇の話ではないですよ
出雲伝承ではカゴヤマの前がホアカリになっているだけです。
あと、イソタケルがカゴヤマと同一人物になっていると言う点のみです。
ホアカリと、饒速日が同一人物なのは先代旧事本紀にも出ている事項ですから ◆シン日本神代古代史◆
「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)
・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与
古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。
沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族
ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」
日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
※欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。
・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。 >>516
そういうのを調べているあたりは根拠ゼロのキナイコシくんより好感が持てるが
残念ながらもっと大前提を見落としている
長い間文字のなかった倭国では記紀が記されるまで数百年間口伝のみの時代があったわけだ
口伝口承といえば聞こえがいいがやってることは壮大な伝言ゲームである
何日に起きた出来事かなんて正確に伝わるわけがあるまい >>517
広開土王碑のどこにも神功なんて出てこないし倭の総大将が女だとも記されていない
そもそも三韓征伐では倭が勝ったわけだが広開土王碑には倭を撃退したと書いてある
全く関係ないものを援用するのは妄想と変わりがない >>518
結局今回もソースは出せませんと
相変わらず痛々しい負け犬ぶりだなキナイコシくんw >>519
違うと言いたいならちゃんと根拠を持って反論すればいいだけのこと
それが出来ない時点でお前は負け犬なんだよキナイコシくん >>520
引用できないならソースが無いとしか言いようがないな >>521
>成中津彦あたりの物部政権の人物
まずそれに何も根拠が無いわけだが
それがいつの時代かという根拠もね
>>362に書いたとおり本来は神代の存在であるはずの五十猛(スサノオの子、天照大神の甥)が実際には人代の五十迹手と同一人物である
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
この時点でもう君の妄想は崩壊しているんだよキナイコシくん >>522
察しろなんていうのは自分で何も説明できない負け犬の戯言だよキナイコシくんw オーストリアとオーストラリアは同一の国でない。別の国名。
平城天皇と平成天皇とは別人。
武烈天皇と崇峻天皇はいずれもワカサザキというが、これも別人。
等号は殆ど成立しない。 >>523
>そもそもが播磨の射楯兵主神社の兵主神は穴師坐兵主神社から分遷されたもの。
もともとイタテ神だけだった播磨に奈良の兵主神社から分遷したのなら
奈良の方にイタテ神が祀られてるわけないじゃん
つまり穴師坐兵主神社がもともとは射楯兵主神社だったというのは嘘だということだね
自分で自分の嘘を証明するとはさすがキナイコシくんは愚かだなぁw >>524
その饒速日=天火明の息子である天香語山命がスサノオで孫である天村雲命=アメノイタテがイタテ神こと五十猛だよ
だから物部の祖であってる
尾張や海部は>>455のとおり同じ系統の一族 >>525
五十猛はカゴヤマではなく天村雲命
珍彦は倭国造の祖とする系図があり>>360にある
カゴヤマ=雷大臣の息子である日本(ヤマト)大臣にあたる
つまり村雲の異母弟だ >>527
>饒速日尊の孫・天村雲命あめのむらくものみこと[またの名を天五多手あめのいたて]
そこをちゃんと認識しているのなら
天村雲命=イタテ神=五十猛
ゆえにその父カゴヤマがスサノオだって分かるだろうに >>539
その根拠がないと言っている
>>366,513のように逆の根拠ならある >>540
そう中国の元号だ
そして近い時代で泰■四年に対応する中国の元号は西晋の「泰始四年」(268年)だけ
つまり神功はこの頃の人ということになる >>554
残念だが>>552の図を見れば分かる通りそんな音だけの共通点ではない
称号や事績まで一致しており同一人物と見るほか無い 皇紀909〜911年が
実年代の 369年=太和4年 :神功崩御の6年前。 >>563
確かに例外はある。
年代が確実に同じかね?
一致してれば可能性は広がるがね。ただ難しいぞ。
一致してれば点検してやるぜ。
飛鳥昭雄さんは神武は崇神だとか崇神は応神dだとか本に書いていたが、
こんなんでは盲象。 >>558
イタテ神=五十猛であってるだろうが、村雲は別人だよ。
父親の名前を貰っただけの別名
因みに、五十猛も、徐市の父親、猛からみたら祖父に相当する人物から名前を貰ってる。
祖父の名は、徐猛
名前の音感が似てるからって稚拙に同一人物扱いって、それこそ根拠がない。 >>549
奈良のイタテ兵頭神社の話は、吉田大洋とかの本にもなってるよ。
大元出版の本以外にもきちんと書かれている。
ただし、いきなりイタテ兵頭神社と出てくるので、一般的なネットで拾える第三者的な裏付けが私には確認できなかっただけ。
出雲の歴史の伝承者の本だけじゃなく少数だけど本にはなってる。
蚩尤をまつる神社に、本来入らないはずのヒボコが居るはずだと、先代の宮司に直談判して確認しに行ってるエピソードが書かれている。
ヒボコは明治期に徹底的に隠され、白髭神社などはタテミナカタなどに上書きされている事が多い
播磨のイタテヒョウズは、風土記にもある様に朝鮮系の一族が大和のイタテ一族に追い出され、そこで両神が一緒になったという話が出てくる
重要なのは、イタテの一族が朝鮮ではなく、中国の蚩尤を祀ったいう事。 そんなことより、伊都チョン
楠木=すなわち安曇の根拠を出せよw
安曇族のシンボルツリーでも何でもないぞ?wお前、穂高神社とか行ったことあんのか?w
あそこは元々は出雲系で夫婦道祖神があった場所。
安曇の後は物部に乗っ取られた場所だぞ?w >>553
お前の作った五十猛の同一性の「確実と言える」の画像よりは数段ましだがなw 昔TVで「忍者石川五右衛門」というTV映画をやったが、この最後のほうは
伊賀の百地三太夫がどんでん返しで甲賀の藤林長門守であったというその正体を
発現する。
日本古代史はこのようなエンタメとか探偵小説推理小説の類ではない。
まず等号は成立しない。
だが、こういうことは稀だが少しはあることも確かだ。
元の成吉思汗は源義経だ。これは例外で等号成立する。 >>548
>三韓征伐では倭が勝ったわけだが・・・・・
W三韓征伐Wとか戦前の『紀』記事盲信皇国史観のカビの生えた用語を
持ち出すとは戦前の皇国教育を受けた不老長寿ご老人か?
神功皇后が征伐したというW三韓Wとは高句麗のほかは何という国々とお考えか?
『紀』は倭が勝ったと主張しほぼ同時代に造立された高句麗広開土王碑碑文では
倭は撃退されたとの主張だが倭が勝ったに賛同されるんだね?
且つその倭とはヤマト王権政体であるにも賛同されるんだね? >>542
>倭は中国の属国ではない。
>それは中国はそう見るだろうが、日本はそんなことは思ってない。
倭人は季節を違わずまめに朝貢してくると書いてあったのはどの書だったのか。
完全な属国です。 >>548
>そもそも三韓征伐では倭が勝ったわけだが広開土王碑には倭を撃退したと書いてある
神功皇后も、勝ったわりには、その後で朝鮮半島を支配した話がサッパリ出てこない。
互いに自分都合が良い部分だけ書いているのかもしれない。
少なくとも、卑弥呼の時代に倭が帯方郡に侵攻したなどという記録はない。 >>572
属国ではねえ。もってのほかだ。
大陸を立ててるだけで、あたかも白鵬が子供に負けて当時の中華に華を
もたせてるだけのことよ。
土付きの土下座は本気をだせば、子供らが白鵬に勝てるわけもねえ。ww
チャンコロを得界の土俵で土つかせるからちゃんこ料理っていうのだよ。
倭とは数字でいえば〇つまり0の意味であって、邪馬1国は世界最上の
1位の金メダル格の国家であり、倭はプラチナ格の国家だ。
シナ(4〜7)は3位にもならない4位〜7位の丹の水銀国家で
あって、神国日本とは比較にならにほど格下国家だ。習ががんばっても
神国日本を属国にはできない。
図体はでかいチャイルド(茶色土)土つき国家がシナなのだ。
それゆえ神国日本は全世界の別格の天帝直轄の格上国家であって黄金の国
のジパングであり、神州は萬邦無比の國體を誇るのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=lD42cb6XJ0U 彦五十狭芹彦命について考えてみた
別名は吉備津彦で桃太郎のモデルだが、本名の彦五十狭芹彦という名は五十猛と須勢理姫を合体させたものに思える
父親は孝霊天皇、母親は絙某姉だが絙某姉は和知津美命の娘で祖父は安寧天皇の子の磯城津彦だ
不思議なのは孝霊天皇の皇后は絙某姉ではなく磯城県主の娘で、絙某姉は安寧天皇の曾孫なのに磯城県主より下の身分と言うことになってしまう
男子がいないなら皇太子を産んだ妃が皇后で不思議は無いが絙某姉は彦五十狭芹彦を産んでいる
何故彦五十狭芹彦は皇太子になれなかったのか?
もしかしたら絙某姉が嫁いだのが一世代ズレていて実際は孝安天皇の皇后であり押媛と同一人物なのでは無いだろうか
この関係をアマテラス=安寧天皇〜山幸彦=神武天皇=孝安天皇に当てはめると
磯城津彦=大国主、和知津美命=天足彦国押人命=事代主、絙某姉=押媛=五十鈴姫となり彦五十狭芹彦という名も大国主由来として理解できる
そして彦五十狭芹彦はヒコナギサ=孝霊天皇の兄弟と言うことになるが、神八井耳=彦五十狭芹彦か、または孝霊天皇=ヒコナギサ=彦五十狭芹彦という可能性もある
もしかしたら桃太郎は孝霊天皇だったのかもしれない…? 伊都ちゃんの言う通りタテイタツが五十猛であると言う構図は、海部氏の二つの系図と、新撰姓氏録のみで擦り合わせた場合にしか成立しない
さらに、五十猛が分家の海部の家の人間という事になり、分家の海部が安曇を名乗ったと言う変な話になる。
海部の本系図では、カゴヤマと村雲が飛ばされ、大和宿禰になっている。合わせたのもが以下の通り
勘注系図 火明命(ニギハヤヒ)ー香語山ー村雲
出雲伝承では、カゴヤマが二人の姫を娶り、片方が珍彦、紀伊家になるとあるので、確かに二人の子供がいる。大和宿禰と珍彦。
しかし、先代旧事本紀が入ると矛盾が生じる。
タテイタツが村雲になるからだ。
じゃあ、振魂がカゴヤマかと言うと、海部氏系図では彦ホホデミがカゴヤマになってしまう。
さらに、伊都チョンの言う通りになると、紀元前後のイソタケルが、神功皇后期の安曇磯良と同じになり、もう出鱈目である
それを指摘されても一切理解できないようである。
それを踏まえての安曇氏系譜の理解をしなければならない
出雲伝承と、海部の伝承で、ホアカリと饒速日は同一人物で、先代旧事本紀とも矛盾しない
村雲と安曇が隠す対象という事になるのかもしれない >>574
日本の古代史に水銀からアプローチする研究って、意外に成果少ないんですよね
神社のお水取り神事は、水銀の精錬と言う話もあります >>572
まあ、黄色の属国旗を8本もらって邪馬台国事件勃発ですから、その時点で属国旗ですわな。流石に。
朝貢してただけならまだしも 西の皇帝より東の天皇のほうが上位だ。西の横綱より東の横綱の方が上位だ。
白鵬が土俵で中国のチュルドレン(中流土連)に故意に負けて華を持たせて
るわけで、本気を出したら軽く白鵬が勝つ。チャンコロ料理だ。
本気を出させられてこてんこてんに元国を造った日本人に中国が天下を
とられたのがその元の時代さ。
神国日本と大陸とは格がちがうんだからな。w
5惑星の中国国旗より太陽の旗:旭日旗のほうが上位なのだ。
それゆえ黄金の国ジパングたる全世界での金メダル国家神国日本は
天帝の直轄地であって天帝が全世界での第1位を教示する邪馬1国を
置いた格上国家であるゆえ、神国日本は萬邦無比の國體を誇るのだ。
そして全世界の統帥権は大元帥陛下にある。
https://www.youtube.com/watch?v=o-Y2KeYf0I4 当時の一年は今の半年に当たるから、初期の天皇在位期間は記述の半分の年数で数えないといけない
っていう書き込みが見当たらない気がするけど、この事実は案外流布してない?
これだと皇紀が短縮することになるけど、古代の一年の数え方について説明してる方によると「皇紀についてはずっと続いてる物だから今更調節する必要はなし」とのこと
余談だけど、天孫降臨にある「韓国」を「かんこく」と読む説は時空をねじ曲げすぎ
反日主義者の屁理屈を除外すれば、どう考えたって韓国岳を指す韓国(からくに)なのに
記紀が編纂される以前に韓国(かんこく)と呼ばれる国があった訳がないのに、戦後のGHQ史観により記紀以前に存在しなかった概念が記紀に記されてることにするんだから共産主義者はデタラメすぎ
戦後の”アカ”デミズムは公職追放後に共産主義者を投入しまくったGHQの工作によって共産主義のマルクス主義が幅を利かせてたから、日本の歴史を否定できるなら何でもよかったんだろうな
今の武漢ウイルス騒動も脅威論を正当化する言説は全てが屁理屈だけど、脅威論だけが政府に取り上げられて、無数の証拠が提示されてる非脅威論は国民の耳に届かないよう情報工作されてるし
なにげに自民党もGHQによって極秘に実行されてたプレスコードを未だに守ってるんだよね
文部科学省は未だに歴史改竄主義のGHQ史観、マルクス主義と近隣諸国条項で国史を改竄
それ以外についても、実は文部科学省は反日工作機関なんじゃないのかと思うことがしばしば
長すぎる余談は以上です 左党を舐め過ぎてるやつがいるからさ。象牙の塔に多いのさ。
たらふく舐めて歯の禊祓いの歯磨きの励行を怠ると648(ムシバ;ロシヤ)
になっちゃうのさ。
舐めるのはいま殆どの食品に左党が入っていて使わない訳にはいかないから、
歯を磨いて危険歯層の思想脳労にならないよう餌舐める質と象牙質等を
冒されないよう注意してなめればいい。
歯科医主義はいいとして強酸糖は歯本主義を崩壊させる危険歯層だから、
徹底して強酸糖を出さないよう増やさないよう心掛けるべきだ。
放置しとくと歯が痛くなる歯イタ土臭いの危機に至るから、注意だ。
中国は虫歯の虫国になっていて歯イタ土臭いになっているのさ。
古代当時は2倍暦等を行使してたのさ。 >>565
まず大前提として記紀の年代が疑わしいということを忘れちゃいかんよ
例えば葛城襲津彦が新羅から帰ってこないので的戸田宿禰に救援させているが
的戸田宿禰は葛城襲津彦の子孫ということになっている
先祖のピンチを救うために子孫が駆けつけるなんてバック・トゥ・ザ・フューチャーなことをやらかしてる記紀の年代を真に受けてどうする
葛城襲津彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E8%A5%B2%E6%B4%A5%E5%BD%A6
> 応神天皇16年8月条
> 天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に派遣した。
> 新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。
的戸田宿禰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%AE%BF%E7%A6%B0
> 『古事記』孝元天皇段では、的氏は葛城長江曾都毘古(かずらき の ながえ の そつびこ)の(かずらき の ながえ の そつびこ)の子孫となっている。
> 「曾都毘古」は『日本書紀』では「襲津彦」となっており、襲津彦の子孫としては、他に玉江氏・生江氏・阿芸那氏がある[2]。 >>566
残念だが神話を見ればはっきり分かる
五十猛は父親のスサノオが高天原(九州)を追放されて新羅に行ったときに同行して日本への帰還時も同行している
つまりスサノオと五十猛は親子で旅をしたわけだ
スサノオがその父イザナギと旅をした話など存在しない
新潟の弥彦神社では主祭神がカゴヤマでその第一子をアメノイタネとしている
このアメノイタネがアメノイタテこと五十猛なのは明らかだからその父カゴヤマはスサノオだ
日本海を親子旅したのはスサノオと五十猛の親子なのだからな
>徐市の父親、猛からみたら祖父に相当する人物から名前を貰ってる。
徐市なんてそれこそまったく関係ない
何も根拠の無い話 >>567
>奈良のイタテ兵頭神社の話は、吉田大洋とかの本にもなってるよ。
引用してみてくれ
悪いが今までの経緯からして信用できない
>播磨のイタテヒョウズは、風土記にもある様に朝鮮系の一族が大和のイタテ一族に追い出され、そこで両神が一緒になったという話が出てくる
朝鮮は関係ない
五十猛=安曇磯武良が朝鮮帰りだからそういう誤解が生まれたのだろう >>568
>楠木=すなわち安曇の根拠を出せよw
全国にクスノキを植えて回ったのは五十猛=安曇磯武良で
そうしろと命じたのはスサノオだぞ
そんなことも知らずに噛み付いてきたのか?
https://spiritualjapan.net/11561/
> 日本書紀 第八段 第五節
> ある書によると、
> 素戔嗚尊は「韓国の島には金銀がある。もし我が子が治める国に浮寶(船)が無ければ良くないだろう」と言い、
> 髯を抜き散らすと、杉の木になった。また、胸の毛を抜き散らすと、檜になった。尻の毛は、艨iまき)になった。眉の毛は、櫲樟(くす)になった。
> そして、用途を定めた。
> 杉と櫲樟の二つの樹木は浮寶(船)とせよ。
> 檜は宮殿を作る木材とせよ。
> 艪ヘ人民の奥津棄戸(おきつすたへ:棺桶)の材料とせよ。
> また、多くの食用の木の種は、皆で播いて育てなさい。
> 素戔嗚尊の子を五十猛神と言い、妹を大屋津姫命(おほやつひめのみこと)、次が柧津姫命(つまつひめのみこと)と言う。
> この三柱の神も、樹木の種を国中に蒔いた。
クスノキは舟の材料に使えと用途まで指定してある >>569
論理的に反論できませんってことね
いつもの負け犬の遠吠え乙 >>571
>『紀』は倭が勝ったと主張しほぼ同時代に造立された高句麗広開土王碑碑文では
同時代ではないと言っているわけだが日本語の通じない方かな?
反論したければまず>>513に論理的な反論をしてからにしろよ >>573
俺は神功は台与だと言っているのに卑弥呼が何故出てくるのやら
君はまず時系列というものを理解しなさい >>578
至極簡単なことだよ
>紀元前後のイソタケルが、神功皇后期の安曇磯良と同じになり、もう出鱈目である
五十猛が紀元前後というのが間違い
雷大臣とともに新羅に遣わされた安曇磯武良=五十猛が紀元前後の人物のわけがあるまい
最初から3世紀後半の人間だよ >>584
外国の資料の年代と日本の年代と対応させて信じちゃぁダメ。
そういう点で疑わしいというのは分かるが、混線した紐をほどくようにやると
不合理でなくなるのさ。
外国資料と日本の年代を突き合わせて失敗的だったのが、神功39年の倭人伝という外国資料からの神功紀記載であって、年代を合わせられなかっのだ。
だから外国資料をそのまま使うと失敗だよ。例外はあるがね。
合わない理由は、日本が2倍暦等を使ってたのに大陸半島は通常の暦だから
ずれちゃうのさ。だから外国資料は通常は使うなということ。
再度言うが例外はある。卑弥呼の真の年代は崇神の時代なのだよ。 >>592
いや>>584は外国の資料関係ないから
記紀の内部で自己矛盾してる
ついでに言うとこの時期の記紀は更に疑わしい点がある
紀角
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%A7%92
> 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。
> これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという[1]。
>
> また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。
> その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという[1]。
この2件は同じ出来事を2回別時代のこととして書いていると見られる
いくらチョンの先祖でも王族が立て続けに2回も無礼を働いてしょっ引かれるなんてことはあるまいよ
神代と人代という大きなループの他にもこういう小さなループがあちこちに潜んでいる ところで先述の的戸田宿禰には面白いエピソードがある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%84%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%AE%BF%E7%A6%B0
> 「高麗国(こまのくに、高句麗)、鉄(くろがね)の盾・鉄の的(まと)を貢(たてまつ)る[5](中略)高麗の客(まらうと)を朝(みかど)に饗(あ)へたまふ。
> 是の日に、群臣(まへつきみたち)及び百寮(つかさつかさ)を集(つど)へて、高麗の献(たてまつ)る所の鉄(くろがね)の盾・鉄の的を射しむ。
> 諸(もろもろ)の人、的を射通すことを得ず。唯(ただ)的臣(いくはのおみ)の祖(おや)盾人宿禰(たたひとのすくね)のみ、鉄の的を射て通しつ」
>
> 誰も貫通させることのできなかった鉄の的に、唯一射通した盾人の勝れた力を、高麗の客人たちは、「共に起ちて拝朝(みかどおがみ)す」という。
> 翌日、盾人宿禰は功績を讃えられて、的戸田宿禰という名前を賜った。
> このことについて、本居宣長は『古事記伝』の中で、盾の的を射たのだから、戸田を「盾人」に改めたのではないか、という説をあげている。
へー盾を射たんだ
射楯だねぇ
こんなことに気づかないとは本居宣長も意外と抜けてるな さて、俺は>>362で生国の伊都国を追放されたスサノオこと雷大臣が日本各地に残した足跡を図にしたが
越後で祀られたり近江で伊香氏の祖となったりしながら最終的には畿内入りしたと思っている
なぜそう思うかといえば、彼が大物主の正体だと睨んでいるからだ
http://amanokuni.blue.coocan.jp/azumi.htm
> 1809年(江戸中期)成立の対馬の地誌「津島紀事」には、「琴崎(きんさき)の海底には「龍宮の通路」と称する穴有り。
> 神功皇后の新羅出征の時、碇(錨)がこの穴に挟まって抜けず、舵取安曇磯武良、亀に乗りて海に入り、碇を得て出で来る。」とあり、
> 磯良神は亀に乗り、龍宮と行き来が出来る存在として描かれている。
> 古代、「龍宮の使い」も「海神の駿馬」も鰐鮫であったが、後世、道教的神仙思想が反映するに伴って「亀」に変化して行ったことがわかる。
> また、「琴崎大明神の社、祭神一座、少童命また磯良と云う。」とあり、少童(わたつみ)神と磯良を同神としている。
> この上対馬郡琴崎には胡禄(ころく・やなぐい)神社が鎮座しているが、同じ「津島紀事」に、
> 「古、覡婆の小島氏(胡禄神社社家)の女が磯に出て、金鱗の小蛇と金の塊石を社前の海辺で見つけ、竹漉籠(ショーケ)ですくって祠に祭り奉った。」とあり、
> 琴崎大明神は磯良神であるから、磯良神の正体は小蛇ということになる。
> 蛇体の神というと、大物主神や阿治志貴高日子根神(賀茂大神)が思い浮かぶし、松浦の佐用姫にも関係がある。出雲のセグロウミヘビのような蛇だったのだろうか? >>576
桃太郎のモデルが吉備津彦というのは間違いだと思うね
まず根本的な話として
1.吉備津彦の時代の日本に○○太郎というネーミングセンスは存在しない
2.吉備津彦には姉(モモソヒメ)がいることがはっきりしている 兄や姉がいる人物が桃から生まれた男の話のモデルになれるわけがない、姉はどこから生まれたという話になる
この2つの根拠から吉備津彦モデル説は嘘だと考える
では誰なのか
結論から言えば安曇百足だろう
百足はムカデではなくモモタリと読む
志賀海神社歩射祭
http://webtv.pref.fukuoka.lg.jp/sp/movies/detail/3238
> 歩射祭は昔、志賀島で人や家畜に大きな危害を加えていた 「土蜘蛛」を阿曇百足(あずみの ももたり)と 8人の射手士(いてし)が退治した古事に由来し、
> 年占いと兼ねて、無病息災・五穀豊穣・豊漁を祈念 して受けつがれています。
> 県指定無形民族文化財に 指定されています。
この志賀島での土蜘蛛退治が鬼退治伝説の元ネタだろう
モモタリが訛って桃太郎と伝わったと思われる では何で吉備津彦がモデルということになったのか
ここからは少し確度の低い推測になるが>>596の話と別の話が混同されたのでないか
>>595のとおり大物主の正体が流浪の果てに畿内にたどり着いたスサノオもしくはその子五十猛だとすると
その現地妻が吉備津彦の姉モモソヒメということになる
そしてモモソヒメは大物主の怒りに触れて箸で陰部を突き死んでしまったとされる
普通に考えれば殺されたのだろう
となれば大物主は吉備津彦にとって姉の仇である
彼は仇討ちを果たしたのではないだろうか
神功は新羅征伐の後に香坂(カゴサカ)王・忍熊(オシクマ)王の二人を征伐しているが
どうもこの二人が気にかかっている
天村雲命の別名は天押雲根命(オシクモネ)であり、もっとストレートに天忍熊根命(オシクマネ)とする神社もある
カゴヤマとオシクマネの親子とカゴサカ・オシクマの兄弟
血縁設定こそ違えどちょっと似すぎている気がしている
朝鮮征伐で功を挙げた二人を狡兎死して走狗煮らるとばかりに始末したのでは
で、オシクマが敗れて入水自殺するときに共をしたとされるのが五十狭茅宿禰
なんかこれも吉備津彦の別名に似てねえか
実際は共に入水したどころか裏切って姉の仇を討ったんじゃないかって気がしてならない
桃太郎が討ったとされる鬼の大将の名は温羅(ウラ)
カゴヤマこと雷大臣は卜部(ウラベ)の祖として伝わっている
これはあくまで名前の類似性だけの推測だから大して確信のある話じゃないし
また時代が違うと騒ぐ人が目に浮かぶようではあるが
ループが1回だけとは限らない以上疑い例としてはありだろう
まあこぼれ話程度に >>585
>新潟の弥彦神社では主祭神がカゴヤマでその第一子をアメノイタネとしている
またアホ丸出しのデマを
あの神社は大彦の神社。社家は高橋家。
稲荷山鉄剣でも出てくるタカヒシワケの一族だよ。
村雲の正当の一族なんだから、イタテ(村雲)が入るのは当然
183年の大彦琵琶湖撤退の際に、三島(越智)(二田物部)の手を借りて北陸に逃れた。
二田物部神社の社家は5つの家で守られてきたが、現在でも三島氏 >>587
>全国にクスノキを植えて回ったのは五十猛=安曇磯武良で
>そうしろと命じたのはスサノオだぞ
>そんなことも知らずに噛み付いてきたのか?
それで?お前の吠えてる妄言と安曇の関係は?(失笑)
どうも安曇は主流ではなく単なる分家の様だが?お前の妄言の通りだとすると、スサノオは海部の家系の様だが? >>586
>悪いが今までの経緯からして信用できない
べつに俺がそんなことをする義理はないね。自分で探せば?(失笑)
>朝鮮は関係ない
お前アホだろ。ヒボコ入ってる事多いだろ、兵頭は。wwこいつモノをしらないんだなw >>591
>最初から3世紀後半の人間だよ
おまえwwその間の海部家の系図まで圧縮か?www
一応、尾張の親戚なんだから、皇室の系譜と同じ代を重ねてるんだぞ?w
金印のクニオシヒトの先祖が3世紀にワープwwww 神功皇后の時代の武内宿祢は武内ソツ彦。
朝鮮への征伐は、新羅の王族が本流から部下の血筋に変わった段階で、皇后が相続権を主張した事による。
成務に相談したが断られ、彼女は成務を見限る。
次に皇后が相談したのが中津彦。中津臣(中臣氏)だったが、彼にも断られ、そのうち彼は若くして戦死
最後に相談したのが日向で水軍を掌握していた西都原のソツ彦だった。
かれは全ての血筋が入った人間だったから、安曇や和歌山の連中まで呼び寄せることが出来た。
それで、大群で押し寄せ、戦うことなく二国は平服。高句麗のみ従わなかったから実質二韓征伐に終わった。
ちなみに、宇佐の伝承だと、神功皇后は後にソツ彦に捕らわれたという他の旧家にはない独自の伝承を持っている。
ソツ彦はヤマトに凱旋し、葛城に最終的に落ち着いた。
そこから葛城氏と名乗ったことが記紀の制作者には都合がよかったらしく、結果、「村雲の王家=磯城王朝=葛城国」が隠されることになった。
武内大臣が長命になったのは、神功皇后期まで圧縮された同時代まで子孫が活躍したから。
最初の武内宿祢=武内太田根は、景初の魏書に書かれた人物。弟の額田宿祢はヌカダイと書かれている。 上毛野の竹葉瀬君が実子の身代わりで神功皇后に呼び寄せられ、応仁として即位する前
若くして夭逝した神功皇后の子供は、ソツ彦との間の子供だったと言われている。 ここからは純粋に出雲伝承になるのだが
成務は結局、ソツ彦の協力で自分も征伐に参加したそうである。
征伐後も、朝鮮半島に残り、高句麗を度々撃退したそうだ。それが感謝され、七支刀が贈られた。
故に、あの刀が住吉に贈られることはなく、石上に落ち着いた。
しかし、征伐で九州の物部を相当動員してしまい、九州では物部氏は衰亡に向かったとされる。
伝承では言及してないが、実は物部の里とも言われている吉野ヶ里は、3世紀以降に遺跡が衰亡に向かったことが言及されており、奇妙な伝承殿一致が見られる。
朝鮮半島南部に前方後円墳が見られるのは成務の物部の影響らしい。 >>590
>君はまず時系列というものを理解しなさい
お前は物事を筋を通して整理して嘘を言わないという事を覚えなさい
神社関係者の伝承を稚拙に嘘と言い放つ割には志賀島神社や弥彦神社などに言及のご都合主義の癖してな(失笑)
村雲がイタテという話は存在するが、イタテが五十猛本人だという話はそれこそ根拠がないし、神社関係者もそう簡単には踏み込んでこない分野。 宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
神功皇后の影響を受けているとしか思えない神事
スサノオの朝鮮との関わりの下りは、神功皇后期のこの出来事が関係していると思われ、出雲伝承でも奇妙な一致の下りがある。
因みに、出雲伝承の本では宇佐市は一切取材で登場しないので、大元出版によって宇佐市の話は影響を受けていない。
出雲伝承では150年頃に播磨へ海部勢力が攻めてきたとき(ヒボコ族の播磨侵攻:最初の物部東征の少し前)、敗れたヒボコ系の人々が「淡路島」や「福岡の糸島半島」(志賀島や古代伊都国の地)へ船で移住し、残った広峯神社には海部軍側(村雲=イタテ族)がスサノオと五十猛を祀り、その後ヒボコの後裔である息長垂姫(神功皇后)が牛頭天王を祀り、新羅国明神と尊称したそうである。
それが「後代に祇園へと移された」という。この複雑な経緯によって「秦国系渡来人」と「新羅系渡来人」との混同が始まったようです。スサノオと牛頭天王の融合もここにあったのかもしれない。
紀元後100年に来たヒボコは、当時は辰韓(秦韓)といい築秦国と同じく秦国系の韓だった。
まあ、しょうがないっちゃないんだけどね。
伊都、いとしに通じるとも思われる糸井国造家、ヒボコの家系の神床家は、出雲伝承以外の本以外にはどの場面でも取材に応じていないし、他の神社の様に神床文書とか、そんな自身の歴史を一切公開せず、口伝で歴史を紡いでいるし
出石神社も新羅の時代って表向きには言ってるからね。
因みに、先代の出雲の伝承者は、神床家の人間と戦地で行動を共にし、娘を神床家に出している。
親族同士で情報の共有も行われている。たんなる噂を乗せている訳ではない。
伊都チョンの妄言のレベルの低さを挽回するのには余程の確度の話、誰でも把握できる証拠を出してもらわないとねww
秦韓系の人々が志賀島へ移住し、その後神功皇后の三韓出兵があり、磯良と神功皇后と新羅が融合していったと考えるのがどう考えても自然。
普通の人間なら、安曇と、海部とセンダイクジホンギで疑問を持つだろうし、磯良と朝鮮の関りは後世に起きたという可能性を考えるもんだと思うけどね。
それが出来ない恥ずかしい人も居るんでしょうねぇw 阿知女作法は「宇佐家が自家の家伝として行っていた鎮魂祭」で「あちめわざ」と呼ばれる神楽歌であり、今も「宇佐八幡宮の分霊社」である石清水八幡宮に伝承されている。
この鎮魂の神楽には韓神の舞があって、その前後にあちめわざと呼ばれる呪詞が唱えられ、最初に「あちめ」といい、次いで「おお おお おお」と呼び答えるのが決まり。アチメとは阿度部アドメノ磯良を呼んでおり、「おお おお おお」とはそれに答える神の声なのだ。
因みに、昔は大陸を表すのに唐から、も使っていた。言葉にも混同に近い揺らぎがあるわけだ。
つまり、成立年代等(応仁以降)に関しては、宇佐市の見解が最優先という事になるわけだ。
かれは著書で「応神天皇と神功皇后に関係のある神楽であった」と言い切ってる
おやおや、スサノオどこに行ったしwww アチメ作法は宮中の祭祀に取り込まれたが、オリジナルの阿知女の神楽歌は現在でもきちんと宇佐市に残っている。
伊都チョンが散々バカにして否定する口伝であったものだが現在では文書化されている
そこに登場するのは興味深いモノになる。
「石の上 振の社の 大刀もがも 願ふ其の児に その奉る」
略
「三輪山に 在り立てるちかさを 今栄えでは いつか栄えむ」
略
「吾妹子わがいもこが 穴師の山の 山のやまも 人もみるがに 深山縵みやまかづらせよ」
略
磯良を呼ぶのに何故山なのだろうかww
更に、「穴師」と言えば、現在でも残る兵頭神社のある地名の事。(元々は製鉄用語らしい)
一番古い兵頭神社であるが興味深いことがある。
これは一般論であるが「この神社や他の兵主神社を調べても、祭神がよくわからないらしく、大和国魂神とはあっても五十猛神を祀っていると説明しているところは見当たらない。」
ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。
「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」
何が言いたいかって言うと、伊都チョンってバカだから、アチメ作法をアホみたいに持ち上げているのだが「肝心の中身を知らなかったらしく「穴師」」の事など考証に入れてないという事。
安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
だよなぁ、伊都チョンの言う通り、奈良の兵頭神社とイタテは無関係で、磯良とは関係ありませんよねぇとなる(失笑)
ホント、あの嘘つき、筋の通った話も出来ないし、そもそもが知識に乏しい。 因みに、出雲より古くから九州に土着していた宇佐氏だが
出雲と習合した後の、「宇佐津臣命」の段階ですら、コヤネの3代後という凄い家柄
藤原不比等の父親、鎌足の両親は「中臣鹿島連」の系統で、更に7代後の大盾命から
中臣連はその3代後の分家で、鎌足はそこに養子入りした。
藤原氏が中臣の中津身を継げるのはそういう理由。
格が相当上の家で、馬の骨の伊都チョンが軽々しくバカにできるような存在ではない。 古代豪族系図収攬5ページ
コヤネの位置関係が分かる系図がある。これはおそらくだが、出雲の分家である忌部氏が、一時大陸系の子孫だと名乗った際に付け加えた系図が混じってると思われるが
大麻彦(忌部連祖)
天白羽鳥命(麻績連祖→八坂彦→八坂トメ)
天羽雷雄命(倭文宿祢系)
この三兄妹の親の世代に、「天日鷲翔矢命と、徐市の母親である高木神(栲幡千千姫命)」がいて、そこに高木神に関する注釈がある
「コヤネの后」と。
その更に一世代前にカガセオと言われる道教のシンボル、妙見の「天背男」がいる。
カゴヤマ=五十猛の爺さんに背男が居ると言ったのはこういう事情なのだが、忌部氏は、自分の家は尾張氏や、海部のより前、高木神の親戚の母系から分かれた家だと主張したかったらしい。
どう考えても安曇氏と同じやり方だろうな。
徐市であるワダツミの孫が村雲であり、タテイタツ。振魂命が五十猛(カゴヤマ)という事であれば
安曇は忌部氏以下の、村雲の父親の兄弟家系に過ぎないという事になるからな。
安曇は系図をいじるのなら、もっと上の代から分かれたことにしておけばいいのにw
新撰姓氏録の記録は、安曇が家督をとれなかった証の系図か、もしくは海部と同じでちょっと母系から失敬した盛った系図を表しているに過ぎない。 つまり、コヤネは徐猛の事をさすらしい。
出雲の千家は、コヤネを中臣に差し出しているが、本来は皇室や出雲王家とさほど変わらない代数を数える、神床家以上の旧家
これは国譲り事件で、犯人を手引きしたから。
千家は、コヤネの子、スサノオと同じランクの旧家らしい。 >>596
>桃太郎のモデルが吉備津彦というのは間違いだと思うね
>まず根本的な話として
>1.吉備津彦の時代の日本に○○太郎というネーミングセンスは存在しない
記紀も数百年後に成立している訳だがw
民間伝承が生きている時に出来るなんて話、逆に聞いたこともない 兵主にヒボコが入ったのは応仁期以降。物部氏が圧迫されてヒボコの子孫であると言い始めた時期以降に入ったと考えられ
書記に純粋にイタテを祀ったと考えられるのが奈良の兵頭神社という事になる。(村雲か、その次辺りで三輪山西方を守る位置に尾張氏(これは私の推測だが、もしかしたら海部氏)が作ったらしい)
それは宇佐氏の書いた本や、神事の内容からも明らか。
現在でも宇佐八幡には石上から来た神事があり、物部氏のその後を知る立場にあった。
垂仁に裏切られ、宇佐市のトヨは殺されたが、現在では和解している様である。 >>588
へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww
まさか、自分が根拠、俺様が証拠って妄言だったわけ?www 実は、新撰姓氏録にある安曇氏の系譜ってのは、厳密に言うと安曇氏の系図ではない。
「穂高神社社家」の系図で、海神である、ワダツミ豊玉彦からの系譜。
志賀島神社の安曇家は、単独で系譜を公開していないので、そもそも伊都チョンの把握していると思い込んでる安曇の系譜は穂高神社の社家の系図。
タテイタツ(村雲)の代からすると、多久置命から並べれば、11代目、安曇浜子でやっと安曇連の初代になる。
臣を一度も貰ってない家系。
11代崇神期は、その4代前の大栲成吹命でるから何代かは欠損がある系譜としか判断できない。
仮にだが4代を代入で当てはめると、連の時代は神功皇后期になる。
連の方が格上とか吠えてたけど、宇佐津臣の例からも分かるように、少なくとも最低でも崇神期以降のカバネに過ぎない。下手すると神功皇后期となる。 「宇佐八幡宮の分霊社」で、「宇佐氏の神事であるアチメ作法」がある石清水八幡宮の縁起である「平安期成立の『八幡愚童訓』」には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。
磯良が最初に居たのか、元々のワダツミに戻したのかは不明で、『八幡愚童訓』は根拠が不明確で、神事の舞からすれば宇佐氏との繋がりの方で考えるほうが妥当と言える。
確か、筑紫舞(磯良舞)は広島の方に疎開し、春日の細男舞を見た疎開先の伝承者が磯良舞として復活させたんじゃなかったかと記憶している。
なので、現在でも志賀島神社では磯良「細男」の名でも呼ばれているはずだよ。
本来はワダツミを祀ってて、応仁期以降に磯良になり、現在では昔の祭神に戻したと考えるのが妥当 欠史の皇族に少童と書いてワダツミと読ませている例は
どう理解すべき? ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見) に関しまして。
確かに、海童とも書きますね。
二つの考え方があると思われます。
一つは出雲伝承
徐市と共に日本に渡来した諸氏達をまとめて秦氏と呼んだと言う考え方。
組合みたいなものでしょうか。本家らしきものは見当たりません。
海童神社というものが象徴的にわだつみを祀るイメージ。
それともう一つはヤマトで葛城氏を名乗った武内襲津彦です。
古代豪族集覧では、彼の後に秦氏が出ています。
記紀により襲津彦は葛城国を隠す重要な役割を演じていますが、秦氏の祖と言うのも政治的な背景が否定できません。 >>617
続き
しかし、武内(葛城)襲津彦だと、欠史8代から外れます。
天ホアカリ饒速日は、尾張氏と、物部氏の共通の先祖ですので、両家がわだつみを拝んでいてもおかしくはありません
特に、わだつみ信仰は九州の方が盛んというイメージがあります。 >>619
ありがとうございます
「少彦名」が大国主のもとへ海を照らしながら渡ってきたとの描写が思い起こされます
見た目にいくつもの伝承に分かれている氏族が
饒速日あるいは素戔嗚(海を治めよという伊弉諾の命)
あるいは豊玉彦を上祖とする一つの家なのかもしれませんね
大物主はまた、少彦名に代わるように海を照らしながら
大国主のもとに現れました
両神の、あるいは三神の一体同神を表すエピソードなのなら
かつての出雲あるいは奈良盆地の政権を解明する
鍵になるかもしれないですね 安曇氏は、本当に安曇氏なのか。
ちょっと変な話をする。
穂高神社社家の系図だけど、都でやらかして、謀反の疑いをかけられて長野に飛ばされるまでの系図は、基本的に本来の安曇と同じ系図でもおかしくはない。
記紀に影響して隠されねばならない事情があっても、それは、他の系図も同じく影響を受ける話になるなので、ほかの系図と比較対象が可能である事は十分に期待できる。
さて、穂高神社の阿曇比羅夫。
白村江の戦いで戦死した中興の祖である人物。
実は、阿曇比羅夫と、安曇磯良は、安曇の系譜には存在しないのである。
欠史8代から外れる阿曇比羅夫は別としても、神功皇后と一緒に他国まで平らにした歴史は本来であれば絶対書きたいはずであり、信濃に飛ばされる前なら本来の安曇の系図で共通部分を掲載してもおかしくはない。
しかし、同じ名前でほぼ同じ時期に存在した人物がいる。
阿部比羅夫。そう、阿部氏。
伊都の近くには安倍の古い地盤がある。 阿曇比羅夫と阿部比羅夫は、死亡時期が一年しか変わらないようである。
しゃあ、磯良は?と言う事になる。
安曇磯良は、別名が阿度部磯良
ちょっと強引な想像だが、近いと言えば近いのかもと言う仮説を作ってみる事にする。
さて、宮地嶽古墳の被葬者は、阿度部磯良という話が多いのではないか。
しかし、古墳という観点から見ると、宮地嶽古墳は異質であるという話がある。
まず、一般的に古墳に関して言われている事は
造営は6世紀末から7世紀前半という事になっており、若干夢のない話になっている。その時点で四世紀の磯良か、離れてしまうのである。
しかしそれは無視して強引に仮説を進める事にする。
宮地嶽古墳は津屋崎古墳群に指定されている。
結果から言うと宮地嶽古墳の地区だけは宗像一族とは思えないのだ。同じ海神一族と言われるのに、向いている方向が違うのだ。
津屋崎古墳群の4つのゾーンのうち宮地嶽神社の奥宮が古墳となるのだが、このゾーンだけ向いている方向が博多方面となっていて、一線を画していたはずの筑紫君一族のほうを向いているのだ。 磐井の乱の磐井は阿部氏
安曇系として知られる事の多い宮地嶽神社の見解は、実は阿部系。
現在の祭神は以下の通り
神功皇后
勝村大神
勝頼大神
この勝村、勝頼大神とは三韓征伐で活躍した武人らしい。
昭和19年の福岡県神社誌に由緒として「宮地嶽大明神安倍相丞、勝村大明神藤高麿、勝頼大明神藤助麿云々」とあります。神功皇后の三韓征伐前に宗像三女神に祈願し勝利したので三女神を奉斎し、「のちに神功皇后を御同座に祀る」とある。
比較的すぐに阿部に突き当たる。
同じような内容が筑前国続風土記拾遺(江戸時代の地誌)にも出ている。宗方女神は戦後に外されたらしい。
つまりは以下の通り
宮地嶽大明神⇒安倍相丞(相亟、亟相とも)
勝村大神⇒藤高麿
勝頼大神⇒藤助麿
もうこの時点で八井耳と阿部になっている。
ちなみに、出雲伝承でも磐井は阿部(大彦系)となっていて、奇妙な一致があるのである。 一般には磐井は、安曇氏ではないかと言う事になっているが、阿部氏のようなのである。
確かに日本書紀には、孝元天皇の第一子の大彦命は安倍臣など7族の先祖であるとし、そこに筑紫国造も含まれているのだ。
ジワジワ筑紫君との関係が深くなってくるのが分かるであろうか? 日本書紀にある毛野臣への同じ釜の飯のセリフの意図は、九州王朝勢力が存続しているのではなく、磐井はあくまで筑紫国造だと強調したかったともとれる。
であれば本当は磐井は大彦の子孫ではなく、もと九州王朝の大王に通じる存在だったのを隠そうとしたとも、とれ、まさに安曇や阿部隠しにピッタリの仕掛けが為されていると言うことではなかろうか?
つまり、阿部の人間を安曇として書かれているのではないかと言う大胆不敵なw妄想が成り立つのである。
九州ファンの方御免なさい。 ちょっと欠史8代から外れるが
日本書紀の仲哀天皇の御代で安倍氏に関わると思われるところがある。
天皇皇后が山口から香椎宮へ向けて行幸中、出迎えた岡県主(遠賀郡)先祖の熊鰐ワニが阿閉アヘノ島(相島)を献上したり、船が遠賀川河口で動かなくなった時に船長の伊賀彦を祝はふりとして祀らせると船が動いた(高倉神社の由来)といった話がある。
相島は古くは阿閉島といって、これは大彦の子孫の阿閉臣と同じ名です。また伊賀彦も大彦の子孫。
少なくとも糸島のすぐ近くには阿部氏がいた事はなんとなく想像できそうなのである。
安曇の隠された先人はもしかしたら阿部の可能性がある。 ネット上では藤高麿、助麿が安倍高丸、助丸のことであるとの情報が出ているのですが、その出典は見つかりませんので注意して下さいね。 磐井が生前に築造したといわれる岩戸山古墳
そこに接するようにして吉田大神宮が建っている。
以前は墳丘上部に祀られていた伊勢社を遷したそうだ。
大正11年には菅原道真(出雲系)が合祀され、さらに石造猿田彦塔や大山咋命(クナト大神共に出雲系)を祀る松尾宮ができる。
出雲の匂いがプンプンの神社なのである。
磐井に関わる二つの古墳と神社が阿部系という事になる。
同一性を問うのなら、磯良と、イソタケルの系譜、尾張氏から大彦の代で変化した安倍家の方が説明が楽なのである。
伊都チョンのように安曇が本家だと全く成立しない。
安曇が尾張氏や海部氏や、安倍の分家なら全く問題もなく、子孫に磯や、五十の字をつけることが出来るのである。 安曇は後に、連に加えて部民、安曇部になっている
さて、安曇磯良の別名、阿度部磯良の阿度部とはと言う事になる。
一緒にしたら本来は不味そうである。
しかし、安曇が尾張氏(神武の男系の実家)、海部の分家で、阿部(本来の神武の家系)に近いのであれば全く問題なくなるのである
妄想終わり。
最終的に蝦夷扱いされた安倍氏なら隠されてもおかしくはないし、そもそも金印の安曇なら朝貢の歴史を隠すために隠蔽されてもおかしくはない 少なくとも志賀島と近い相島は、安曇と安倍の拠点である事は間違いないのではなかろうか
そして磯良のお墓の神社が阿部系ということから少々強引な考察をしてみた。
ま、宮地嶽古墳は岩井の息子のお墓って方がよほどしっくりは来ますけどね >>620
大物主、三輪大君に関しましては面白い噂がありまして、
出雲伝承では最初の物部東征の際、太田太根彦が熊野から物部を引き込んで、大乱を一時平定
その際に尾張氏と並行して二代、大君をやっていた時期があると書かれています
太田氏は賀茂氏と同じで事代主の家系
大物主は事代主であるという説もありますのでそっちも面白い方向性のお話にはなるかと思います >>620
出雲の王様を大国主、副王をスクナヒコと言いました。
出雲風土記にはスクナヒコナではなく、本来の名前、スクナヒコ(少名彦)で書かれています。
国譲り事件の際の副王は向家(富家)の八重波津身で、記紀においては事代主にされました。
副王をスクナヒコ、→事代主=スクナヒコとなる訳です。 >>632
ゲ、間違えた
副王をスクナヒコ、→事代主=大物主。
大物主信仰は太田氏、三輪信仰に関連があります。 >>598
デマは君しか言わないから安心していいぞキナイコシくん
弥彦神社公式サイト
https://www.yahiko-jinjya.or.jp/history/gosaijin/index.html
> 御祭神
> 伊夜日子大神いやひこのおおかみ
> 御名 天香山命あめのかごやまのみこと >>599
>どうも安曇は主流ではなく単なる分家の様だが?
そんな全く根拠のない話をされても
>お前の妄言の通りだとすると、スサノオは海部の家系の様だが?
いや全然
相変わらず君の主張には何一つ根拠が無い >>600
つまりソースの無いデマでしたと
まあいつも通りの負け犬キナイコシくんだね >>601
>一応、尾張の親戚なんだから、皇室の系譜と同じ代を重ねてるんだぞ?
その皇室の系譜がループしてると言ってるわけだが
いつまで経っても理解力が向上しないなキナイコシくんは >>602
襲津彦は新羅討伐に失敗しているわけだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E8%A5%B2%E6%B4%A5%E5%BD%A6
> 神功皇后62年条[注釈 2]
> 新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、
> 襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか[7])。
> 『百済記』逸文
> 壬午年(382年[1])に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、
> 惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという[1]。
> また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。
> 沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという[1]。
実質的なNo.1である武内宿禰が自ら行ったというのはかなり無理がある
しかも自害w
せいぜい時の武内宿禰の息子といったところだろう
実はこの襲津彦のおかげで>>362はより確固たるものになったのだがまあそれはまだ伏せておこう >>605
>お前は物事を筋を通して整理して嘘を言わないという事を覚えなさい
それは君のことだよキナイコシくん
>村雲がイタテという話は存在するが、イタテが五十猛本人だという話はそれこそ根拠がないし、神社関係者もそう簡単には踏み込んでこない分野
射楯兵主神社は射楯大神は五十猛だとはっきり言い切っているわけだが
ほらもう君は嘘をついたw >>606
>宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
別に根拠のない話だな
君はいい加減に根拠のない話には何の意味も無いということを覚えなさい
>神功皇后の影響を受けているとしか思えない神事
>>366のとおり歌に出てくるトヨヒルメは神功なんだから当たり前だな
俺の主張したとおりじゃないか >>607
>かれは著書で「応神天皇と神功皇后に関係のある神楽であった」と言い切ってる
トヨヒルメが神功なんだから関係はあるわな
>おやおや、スサノオどこに行ったしwww
俺は神功の神代における投影がアマテラスで五十猛神として知られる磯武良の先代のイソタケルがスサノオだという話をずーっとしているわけだが
今更何をトチ狂ってるんだ? >>608
>ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」
またそうやって根拠の無い話を始める
>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
根拠を示せとは言ったが否定はしていない
というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw
284 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 20:12:58.05
>>282補足
家都美御子大神について
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E9%83%BD%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E-1073308
> 朝日日本歴史人物事典の解説
> 熊野三山として名高い和歌山県本宮町の熊野坐神社,新宮市の熊野速玉神社,同県那智村の熊野那智神社の祭神で,いわゆる熊野権現の中心的な神。
> 平安時代から修験道で崇拝され,熊野信仰の広がりとともに各地に祭られるようになった。
> もともとこの神は,三山のうちでは,本宮とも呼ばれる熊野坐神社の祭神であったとされ,出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命が移し祭られて,
> それが当地で家都御子神になったと伝えられている。ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。
> 櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。
出雲国一宮・熊野神社の祭神であ櫛御気野命が元で、その子が五十猛だというのだからスサノオである
クシミケヌのミケは御食であり食物の神と考えられている
後に安曇氏が膳部となったこととの関連を思わせるし、 穴師坐兵主神社の兵主神がなぜか名の通りの軍神ではなく食物の神とされていることにも通じるだろう
なお、穴師坐兵主神社の大兵主神はスサノオ説がある
妻である奇稲田姫が合祀されているところを見ると可能性は高いだろう
> http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10265
> ご祭神について
> 御食津神:食物を司る神、天照大神の食物を司る神、稲荷神や保食神などに同じ、また、他説としてはこの兵主神は八千矛神(やちほこ)もある
> 大兵主神:武勇の神、武神、軍神、相撲の祖神、一説には素戔嗚尊説あり
> 奇稲田姫命:稲田の女神 ※スサノオ神の妻/オオクニヌシの母 >>610
>徐市であるワダツミの孫が村雲であり、タテイタツ。振魂命が五十猛(カゴヤマ)という事であれば
徐市がワダツミというのがまず何も根拠のない話だし
五十猛は射楯大神なので村雲のほう
カゴヤマはその父スサノオとなる
君の妄想は前提がまず間違っている >>611
差し出したのではなくコヤネは磯武良だから雷大臣の子
最初から中臣氏系
当時まだ中臣氏は名乗っていなかっただろうがね >>612
的外れだね
桃太郎という物語のモデルとして吉備津彦はふさわしくないということだよ
数百年後の人間は吉備津彦をキビツヒコとしか認識しない
姉がいるんだから桃から生まれたなんてストーリーも付加できない
桃太郎と認識される可能性が高いのはモモタリ >>614
>へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww
捏造って何が?
>>362の内容は全てソースに基づく事実だが
事実に論理的に反論出来ないのだから君の負けだよキナイコシくん >>615
>連の方が格上とか吠えてたけど、宇佐津臣の例からも分かるように、少なくとも最低でも崇神期以降のカバネに過ぎない。下手すると神功皇后期となる。
連は神武東征以前からの皇室の臣下だった一族に与えられるカバネだと教えてやっただろう
安曇は東征前から筑後山門の邪馬台国の王(後の皇室)に仕えていた伊都国の王族だという話をしたわけだが
何の批判にもなっていないぞ >>620
>見た目にいくつもの伝承に分かれている氏族が饒速日あるいは素戔嗚(海を治めよという伊弉諾の命)
>あるいは豊玉彦を上祖とする一つの家なのかもしれませんね
海人族ですね
天=アメは本来は海=アマです
例えば天降るというのは海人族の都である伊都国から船で遠隔地へ下向するという意味です
ただ大国主だけは異質です
彼にはあまり触れたくありません
彼について解明するとどうしても日本神話のロマンを粉々にぶち壊してしまうからです
(だって正体があそこの王なんだもん・・・) >>632
>出雲の王様を大国主
残念ながら違うんだなこれが
とても残念だ >>634
> 御祭神
> 伊夜日子大神いやひこのおおかみ
> 御名 天香山命あめのかごやまのみこと
んで?お前はアホなのか?自分で作った神社に自分を祀るのか?ww
普通は祖神を祀るだろ。
高橋家に関しては全くの無視か?お?ww
高橋家は九州の菊池と同じで大彦系だよな?そんなことも知らないのか?w >>635
>相変わらず君の主張には何一つ根拠が無い
海部と安曇の系図から、お前が言ったように村雲=イタテなら、もう尾張とか海部の系図じゃん。
系図も読めなくなっちゃったの?伊都チョンw >>650
弥彦神社をカゴヤマが作ったなんて伝承はない
ハイ論破
本当にバカだなキナイコシくんは >>638
ソツ彦は武内太田根からそう離れてない子孫。
孫当たりだったかな。
二韓征伐が完了してから半島の利権は莫大になり、武内家から、小瀬臣、平群臣などが分かれていった。
大伴が失脚してからはほぼ武内宿祢の子孫が半島の利益を独占するようになっていった。
東国の安倍系の国家と北陸蘇我家手を結んで大きな勢力になったのには、弥彦の大彦の子孫も絡んでる。
受け皿となった二田物部の三島の拠点の近くは今でも出雲崎と呼ばれている。
応仁のあとから武烈までは平群臣。だから、遡って継体が北陸蘇我家から呼ばれることになった。
現在でも蘇我系が臣と分類されているのは、武内宿祢が出雲に逃げこんで匿われた際に、出雲と婚姻を結び、宿祢を名乗らない事と引き換えに臣姓を貰ったから。
臣姓は皇室から貰える最上位の名で、秀吉も豊臣を貰う前は藤原を名乗ってた。
連?プッ。豪族集覧の本の系図にはいつ連姓を貰ったかまで書かれている。
一般に通用する知識を付けてから出直してこいホラ吹き。 >>640
>>宇佐氏によれば、伊都チョンの大好物アチメ作法だが、思いっきり時代を限定して「応仁期以降成立」としている。
>別に根拠のない話だな
お前アホなのか?宇佐宮司家はもう書籍まで出して歴史を公開してるよ。
お前がモノを知らないだけ。そもそもアチメ作法の成立すら知らなかったんだろ?w
自分のホラに都合の悪いことは知らん顔か?ww >>642
>>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
>根拠を示せとは言ったが否定はしていない
>というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw
流石伊都チョンw効いてる効いてるww
肯定したのなら突っ込みを入れたというお前の話は何処に行った?w
工程ならなんの会話の続きもないよな?w
書記の兵頭にイタテが入ってる訳が無かろう。村雲がイタテなら、父親みたいな直ぐの先祖など祀らない。
後年になってから出ないとイタテは入らない。
出雲伝承も、神社の時系列にまで詳しく言及はしていない。当初は蚩尤のみ。
渡来系の勢力のけん制の目的もあって作られたのだそうだ・ >>646
>>へぇ?自分で作った捏造画像をソースとして参照してたって事は認めるんだ?ww
捏造って何が?
>>362の内容は全てソースに基づく事実だが
んで?自分で作った画像であるという事が争点なのだが?wwまた逃げちゃうの?ww
会話になってませんよ?伊都チョン?w >>620
あまり伊都チョンの話は真に受けないでね(失笑)
安曇は海住(あまずみ)
海家は天であってますが、高天原は後年になって武内ソツ彦の子孫が作ったらしい、高木神を祀る高天彦神社の上の高台です。
延喜式にも本来の高天原の場所が書かれていますよ〜。
因みに、野見宿祢は最後の出雲の副王、少名彦でした。
最後の大国主は、神門家(郷戸家)の遠津山崎帯です。
記紀には太安万侶の方針で全ての大国主の名前が出ています。全部で17
17代で出雲の国は邪馬台国の戦闘で滅びました。
古墳時代になったのは戦闘が終わって人が死に過ぎたから。
吉備の盾縫の墳丘墓が走りで、古墳が作られ始めました。 >>653
論破済みだって?ご冗談をww
タケイタテは海部の系図にも、安曇の系図にも出てくるんだから
お前の話は、センダイクジホンギと照らし合わせると親の代のカゴヤマ(五十猛)に矛盾が出るんだよ
さっさと系図見て来いよw
どうせ、尾張氏と海部氏の系図の違いなんて分かってねぇだろ?w >>644
>差し出したのではなくコヤネは磯武良だから雷大臣の子
>最初から中臣氏系
コヤネは千家の祖神であって、中臣から見たら母系の方の先祖。
それを自分の系図に入れているだけ。男系か女系かは少しは気にしろ夫婦別姓の国の人w
千家が無関係な、富家の能見宿祢を系図に入れてるのと同じで盛ってるだけの話。そんな事は何処でもやってる。 海部家系図だが、もう一人隠されている人物が居る。それが天御蔭。実際には彼が大和宿祢にあたる。
村雲の子供に家督を継がなかった方の子供が居て、それが天御蔭。
海部家は、大和宿祢系(天御蔭)の一族。神武の子供の代で分かれており、多臣氏と同格の分家。
海部氏本系図、勘注系図の「註文」を入れた系図は以下の通り(2パターンあり、場合によって使い分けを指示している。非常に野心的)
彦火明→彦火火出見→1建位起→2大和宿祢→3笠水彦→4笠津彦→5建田背→6建諸隅(先代旧事本紀でも6世の孫で彼が出てくる)→7大和得魂→8意富那比→9小縫→10小登与(尾張国造家)(宮主姫の父親。宮主姫はタケルの嫁)
彦火明→彦火火出見→1建位起→3珍彦→4大和宿祢
海部氏は「註文」によって、物部(山幸彦)を祖として歴史の勝者になれるよう準備をしていて他言無用としていた。
複数の系図を用意していたという事になる。
神武天皇の諱を彦火火出見尊としたのは誰であったのだろうか?籠神社が絡んでいるのであろうか?
一般的な海部家は以下の通り()内は出雲伝承
彦火明→天香語山(大年彦・五十猛)→1村雲→2大和宿祢(天御蔭)→3笠水彦→4笠津彦→5建田背→6建諸隅(先代旧事本紀でも6世の孫で彼が出てくる)→7大和得魂→8意富那比→9小縫→10小登与(尾張国造家)(宮主姫の父親。宮主姫はタケルの嫁)
実は尾張氏の系図がないと、本当の海部の立ち位置が分からない。 一般的な尾張氏の系図古代豪族集覧より
天火明→天香語山→1村雲→2天押人→3天戸目→4建斗米→5建宇那比(兄弟に建田背)→6建諸隅→7倭得玉彦→8彦与曽ここで突然5の子供にジャンプして10乎止与(小豊)
尾張家は、海部の分家であるように系図が操作され、村雲の実家(高尾張邑の笛吹連)であることが隠されている。
実際にはコレ
天火明→天香語山→1村雲→2天押人→3天戸目→4建斗米→5多乎利→6大稲日→乎止与・・・
伊都チョンは循環してるとか新しくコリエイトしてきているが、安曇は全く出てこない。
新撰姓氏録:安曇氏系図
ワダツミ→-1(ここで分家して穂高見→安曇:穂高神社社家)もう一つの家系が-1振魂→1武位起→2珍彦→・・・
思いっきり振魂の家系は尾張や海部なのだが、武位起を五十猛にして更に安曇磯良にしているアホが伊都チョンww
下手すると振魂なんて布留魂で、海部の「註文」に近いのが新撰姓氏録
普通の人間なら、振魂は、カゴヤマと解釈する。
んで、6世孫までが同じ旧事本紀の村雲=建位起を突然五十猛と吠えてるのが伊都チョン
因みに、海部は尾張の系図を取り込んでいる可能性が高い。 伊都チョンが建イタツを安曇に取り込む場合、自ずと海部や尾張の分家になるのだが、頑なに根拠もなく自説を唱えているわけだねw
そんな系図、どこにも無いのにww ちょうど孝霊天皇=ヒコナギサに関連して「アエ」という地名を調べてたから相島の話は勉強になったわ
福島の会津の地名由来で大彦とその息子が出てくるが、大彦の一族が元々アエという名を持っていたから付いた地名だろうな
自分が気になるのは岡山の阿智なんだけど、ここは渡来人由来の地名と説明されているが
元は安曇由来じゃないかと思う
安曇が訛って阿智という地名になっていた所に渡来人が住み着いて阿智を名乗った
当初はアチではなくアエツに近い発音だったのではないだろうか
それを吉備津彦=孝霊天皇が征伐して領地を冠してウガヤフキアエズの命となった、と。
ちなみに残りのウガは宇賀(出雲)、ヤフキは楽々福神社の辺りで、ヒコナギサのナギサは名草(紀伊かその前身の地か)だと思う
孝霊天皇の徐福伝説もこの名が原因と思われる ということで、ヤマトには大きく分けて3つの勢力が生まれる事になった。
1、男系・村雲の実家の尾張、海部連合
2、女系・事代主の家系、事代主タキツ彦連合(鴨家)
3、女系と男系の合わさった家系・欠史8代へ
その三つが互いに牽制し合うようになっていったのがヤマト
伊都チョンは、このスレに無関係な話ばかりをやってるだけのただの電波w ということで、ヤマトには大きく分けて3つの勢力が生まれる事になった。
1、男系・村雲の実家の尾張、海部連合
2、女系・事代主の家系、事代主タキツ彦連合(鴨家、賀茂家、太田家)
3、女系と男系の合わさった家系・欠史8代へ
その三つが互いに牽制し合うようになっていったのがヤマト
先代旧事本紀には、勢力の大きかった順番に書かれているそうだ。
伊都チョンは、このスレに無関係な話ばかりをやってるだけのただの電波に過ぎない さてみなさん、伊都チョンのこの文章を読んでみましょう
>ただし、唯一ハッキリ言及しているのが出雲伝承。「穴師の兵主神社とは射楯神を祀るとしている。」
またそうやって根拠の無い話を始める
>安曇マンセーでホラを拭く伊都チョンは、何を差し置いても「穴師=イタテ=磯良」に結び付けなければならない立場であるのにそれを否定www
根拠を示せとは言ったが否定はしていない
というか前回むしろ肯定したんだが忘れたのかw
www
根拠がないと言った話を、直後にはウリは前回肯定してますという文章になっている
循環という言葉を吐いてるけど、循環という言葉がもっとも当てはまるのが伊都チョンのこの妄言ではなかろうかww >>665
〉岡山の阿智
非常に興味深く読ませて頂きました。
信濃には恵那山の麓に阿智村があり、阿智祝一族と、阿智神社があります
特徴は、オモイカネが入るところ。
信濃南部から少なくともゆるキャンで有名な人馬型山まではオモイカネが来ています。
秩父の方にもオモイカネがいますので、阿智一族の話は非常に腑に落ちますね
岡山の阿智神社にもオモイカネがちゃんと合祀されていました。
安曇と阿智には、共に諏訪明神を監視するために置かれたのではないかという説があり、安曇と近いか、安曇がさらに追いやられ、その後に阿智が派遣されたのかのどちらかという事は容易に想像できそうですね
監視のお役目が本当にあったかどうかは不明ですが、越知一族に関係した戸隠神社は、天岩戸が吹き飛ばされて飛んでいった場所とされますから 海部氏系図の価値は、「註文」のところの珍彦。
カゴヤマ
イソタケル
出雲伝承だと同一人物はそれぞれ別の嫁さんを貰う。
火火出見の妹、ホヤヒメ
タキツ彦系、出雲の神門家の大家姫
この大屋姫系の子孫が紀伊家の珍彦なのである。
故に、次の代のタテイタツの子供の代に別れているように間違って書かれてはいるが「註文」は非常に重要なことが書かれている。武内宿禰は和歌山の紀伊家が実家(母系文化の関係で幼少期は夫人の実家で育てられた)
大家姫系の紀伊家には唯一物部の血が入っていなかったが、父親フツオシマコトの代で紀伊家から奥方を迎え、尾張、村雲、物部、紀伊家の全ての血が彼に集まる事になった
安曇?残念ながらw >>671
伊都チョンは阿波に粘着されてらから、こっちで息抜きで相手して欲しいんですかね?
同じレベルの嘘つきをみて、ストレスが溜まるなんてなんて身勝手なのでしょうw 欠史八代から見た女系・事代主の家系:磯城登美家
概要としては
出雲の第八代副王:少名彦の富家の八重波津身(事代主)→クシヒカタ→建飯勝(磯城登美家・お嫁にホヒ家の沙麻奈姫)→建甕槌(間違いなく例のミカヅチ)→太田家
事代主→1天日方奇日方(便宜上村雲と同年代なので1)→2建飯勝→3建甕槌→4豊御食主→5大御食主→6建津乃身(加茂家・ここで太田と分家)→7建魂依彦→8五十手美→9麻都躱→10看香名男(日吉神社社家)
太田家
6太田太根彦(三輪大君:八咫烏)→7大御食持(神部大君:津久帯兄)
6の時代が第一次物部東征、磐余彦(ウマシマジ)の時代。約100年後、葛城国10代で第二次物部東征。垂仁が大和入り。
尾張系譜に倣って、村雲の代を1として出雲のヤマトでの分家、登美家の代数を揃える。
1天日方奇日方の妹二人が記紀にある様に神武と綏靖に嫁ぐ。三輪山の卑弥呼職は、磯城登美家か、村雲の家系の姫しかなれない世襲制だった。
踏鞴五十鈴姫→村雲、五十鈴依姫(川俣姫)→綏靖、三代目の磯城津彦(安寧)には、奇日方の娘、渟名底仲姫が輿入れ
出雲系の血が圧倒的に濃くなったことで、葛城国は磯城王朝とも言われるようになった。
この頃から尾張家との折り合いが悪くなり、尾張家は大王の証の銅剣を王朝側に渡さなくなった。村雲の剣は銅剣、草薙の剣は鉄剣
村雲の剣は元は、登美家から大王就任の際に尾張家に贈ったもの。 最後に女系と男系の合わさった家系・欠史8代
1村雲→2綏靖(沼川耳)→3安寧(玉手看)→4懿徳→5孝昭→6孝安→7(孝霊天皇と大彦)→8孝元→9開化→10ヒコイマス→11(ヒコミチヌシとサホ彦、サホ姫)
10代大君は記紀では隠されたが、ヒコイマス(第二次物部東征開始時に死亡)。ヒコミチヌシは、魏書に狗奴国の人間として、武内宿祢によって噓の報告がなされた。ヒミコっぽい男王が彼。
武内宿祢は当初、物部+豊国の宇佐氏の連合側、西軍側についていた
村雲の王朝は、11の代で邪馬台国事件でアボン
7大彦はクニクルの時代の大兄ではなく、6クニオシヒトの時代の、7孝霊フトニの兄弟。この二人が争い、葛城国が分裂になった隙にヒボコの播磨侵攻が開始
大彦の本名:中曽大根彦 大彦と、長脛彦に分けて記紀に書かれた 4代将軍は全て敵側のやられちゃった人物たち
大彦は皇室の系譜から別の扱いを受け、息子は「別」の字が入った。物部の血が入ってない村雲の系譜が大彦。故にカゴヤマを持ち出し、弥彦神社の社家になった。
7大彦の後に、一時的に6太田家が二代に渡って三輪大君になる。そのため、倍歴でも若干1.5〜2代の間延びが発生する
大彦からは北陸方面に道の君家、高橋家、布施家 息子が主に安倍家を名乗っていった
中臣や藤原が奪ったと噂されるミカヅチだが、2八井耳の時代の母系が当時の磯城登美家の当主3建甕槌だっただけで、実は母系の先祖であり奪っている訳ではない。
ミカヅチはタテカシマとも言われている。
尚、6孝安クニオシヒトの代で特異点が発生。宗像家の祖であるアタカタスが先代旧事本紀によって誤挿入されている。 国押人の代では、磯城登美家にも揺らぎが起きていて、7大御食持が、6建津乃身の前に来て、三輪大君が隠されている。
おそらくだが、大彦の時代の紀伊家の珍彦も辿れないように細工してあると考えられる。
大彦の細工と同じで、この時代、ほぼすべての家で揺らぎが発生。信用できないものとなっている。
紀伊家は五十猛(カゴヤマ)と大屋姫の息子、高倉下から始まる。そのまま6〜7の代で珍彦にあたればラッキーである。検証してみる。
天道根を1として並べてみる
1天道根(タカクラジと仮定)→2麻?利→3比古麻→4鬼刀彌→5久志多麻→6大名草彦→7宇遅比古(宇豆比古)
なんとなくビンゴwww
この家から9開化の息子、10フツオシマコトに紀伊家から嫁さんが入り、武内宿祢に繋がる。
天道根は物部系の人間で上書きしてると考えられ、熊野で亡くなった五瀬系を思わせる
同一人物とは思えないので御挿入して何かを隠したい意図と想像する
尚、古代氏族系譜集攬では、太田氏を思わせる、天御食持から3代後に天道根が出てきている。
尚、7珍彦の兄妹に、7山下影日売がきている(8武内宿祢の母)
8の時代なら、ギリギリ9〜10の邪馬台国事件に合致しそうである
は?安曇?どの系譜にも出てない。
名草のトベ系統の方が余程メジャー
三島=越智は、事代主の奥さんで、その関係で国譲り事件で御主人が無くなって、実家の摂津に息子のクシヒカタを連れて帰ってきた
しかし、三島だけは超謎で、系図が分からない。
事代主の奥さん三島が活玉依姫(別名・玉櫛姫、三島溝杭姫、勢夜蛇多良姫)となり父親が三島溝耳となることが分かっているだけ
その前の代になると大山祇神になってしまう。
出雲族やカゴヤマが大和に入ってくる1世紀以上前から奈良湖の開拓を行い水稲を作っていたらしく、越智の地では、御所駅の近くに中西遺跡という有数の水稲遺跡がある
色々な豪族と習合しており、物部系、クニオシヒト系、石上系などがあり系図が分からない。二田、新田、小市、越智と、色々過ぎて分からない つまり、出雲伝承他系図を総合すると、欠史8代とされる時代はほぼ邪馬台国事件までと言え、10代ヒコイマスまでが曖昧で欠史になっている
息子のヒコミチヌシは殺されずに生き残り、妹?のヒバス姫を垂仁にやって手打ちになった
後にヒコタツヒコと昔の名前に戻し、稲葉国造家になった。
サホヒコもヤマトから逃げ出し、たしか日下部になったかと
最後の卑弥呼であるサホ姫の行方は不明 古墳から母系を辿れないだろうか
Wikipedia先生によると前方後円墳は各地の墳墓の形式を寄せ集めて作られたそうだが
これは母系の信仰を取り入れ続けた末に完成したという事ではないだろうか
例えば卑弥呼=アマテラスが各地に派遣した一大卒
九州から各地に派遣され、地元民との間に生まれた子供は両親の墓を作る際に
父の九州と母の地元の信仰を合わせた墓を作った
さらに子供達は地位の近い家同士で婚姻してその結果生まれた子供は3地域以上のルーツを持ち
両親の墓にもそれが反映された
一大卒のメンバーはオシホミミの兄弟や子供達とされる人物または神々で彼らが出雲、吉備、近畿、東海に散らばり
さらに婚姻を重ねた結果生まれた人物が両親の為に作ったのが箸墓古墳なのでは >>678
箸墓古に関してなのですが、実は円墳か、ホケノ山古墳のように、帆立貝型の弥生式墳丘墓だったという話があります。
現在の形になったのは江戸時代の徳川幕府によるもので、昔の調査可能だった頃の話だと、後円部と、前方部では土の固め方が違うという分析だったようです。
さらに、昔は高市古墳と呼ばれ、古い絵図では思いっきり円墳で書かれています。 >>678
箸墓古墳に関しては、出雲伝承の本でも、著者によって、モモソヒメ説と、イクメの娘ヤマト姫説の両方があり、一定していません いずれにせよ南下しろと倭人伝が指示してるのに東方へ行けとは
書かれてない。
現今の案内書に南下とあって東だったら旅行者から苦情が来て書は回収
せねばならなくなる。いそんな案内書は現今訊いたことがない。
紀無い説は偽造的盲象論。 いずれにせよ伊都は、国の出先機関で、太宰府のようにそこに日本の首都があるかのように見せかけるための場所。
奈良の国名と伊都は一緒だったと考えられる
それが「邪馬台国ではなく、邪馬いっ国説」
そこだけ、いっの字だけ蔑称じゃないんだよね。
朝貢した国のお墨付きとしてイッは考慮に値する。
イッ→イツ→イド
イッ国説を取る人は金印の国名と整合性を取るよね。
だが、景初の卑弥呼は九州。
九州勢が、自国の軍隊を邪馬イッ国と名乗って戦闘を開始しただけ
蔑称を免れた朝貢の国イッを攻めるなど言えるはずがない。
豊国と築秦国は連合を組み、奈良を攻め落とした。 金印のイッ国説ではなく、ナノクニ説だと、軍隊が集結したとされる西都原に繋がりにくかったような気がする
ともあれ、邪馬台国は、実態のない軍体であり、その軍隊が奈良の国名を名乗って朝貢して戦闘を開始しただけ。
大陸は最後まで連合軍が狗奴国と戦っていると思い込んでいた。
族が奈良のイッ国にいて、張政もついて行ったが、国名に訂正がないのだから、当時は邪馬台国ではなく邪馬イッ国だったとしか思えない 当時は九州王朝があったんだから朝廷とは必ずしも一致とはいえない。。
遠の朝廷か。
年号も多々出ているし、九州王朝はあったわけさ。 >>685
ただ、九州王朝はウガヤ朝説を取るのなら、これまたヤマトより昔からあった事になっていて、さらに考証が難しいですよね
物部氏は九州から大部分がいなくなった後、口伝が途絶えたのかもしれません。
記紀における最大のタブーが物部の男系の血筋とも言えるので、人が少なくなったのか、圧迫を受けたかのどちかで、ホホデミから邪馬台国時期までのたった数代の系図すら、まともに伝承が残っていません。 ウガヤ朝があったか不明だが、あったなら九州王朝とは別で九州王朝のほう
があとの時代。
、物部文献の解説書か。30年位前青森県の梵珠山に探検に行ったとき、青森の
市内の書店で売ってたが買うのを怠ったなあ。買っておけばよかったが? さて伊都チョンにトドメをさくっとw
糸井国造とフェイクを入れましたが、神床家は後裔に「糸井造いといのみゃっこ」をだします。
いと、いそし、いとて
つまりですね、五十迹手はヒボコ系なんですわ。
須佐族と習合して中央に食い込んでいきますが、その影響で五十の名を付けるに至ったのです。
ま、普通に筑前風土記見れば
筑前国風土記逸文
天皇(仲哀天皇)、いずれの人ぞや、と問い給うに、五十迹手、奏しけらく「高麗国の意呂山に天降り来たりし日鉾(ヒボコ)の苗裔、五十迹手これなり」。
天皇、ここに五十迹手を誉めて「恪(いそ)し手」とのりたまいき。五十迹手の本土なれば、恪勤国(いそしのくに)と言うべきを、今、怡土郡といえるは、訛(よこなま)れるなり。
と出てる訳だからね。大陸秦国系と、朝鮮半島系の混同そのままに系譜を論じている訳だw
だからであろう、辰韓のヒボコって事になると、朝鮮臭が消えてしまうから焦っちゃうんじゃないかね?w
ココで何を言おうが直系の神床家が今でも続いてるんだから出まかせを言うのは止めればいいのに(失笑)
本当のことろは、ヒボコに嫁をやった舅の家なのですが、後裔にタジマノモリや神功皇后そしてイトテを出したことを今でも誇りに思ってるそうです。 よっしゃ、ちょっと伊都チョンの物まねでもしてみるか、格調高くw
すわキナイコシくんがドヤ顔で磯城王朝とかのたまわってたが、」俺は既に謎を解いている。
磯城の瑞籬宮・・・とあるように「磯」は「イソ」であり「五十」であるから、そもそも「磯城(シキ)」とは大和地方の磯城郡から取られたのではなく、筑前国怡土郡の転訛前の地名「五十(郡)」の方が先にあり、王権の移動によって地名も遷移し、本来は「五十城郡」と書かれるべき地名である。
ワイの推測どおりや
どや?伊都チョンぽいだろww 二人の珍彦
出雲伝承の本なのですが、最初に出した「出雲とやまとのあけぼの」はある時期に絶版となり(現在異常な高値で取引されます)、内容に変化が出てきます。
二冊目の「出雲と蘇我王国」で、編集方法の方針が書かれており、「最初に分かりやい本を出して気長に出版していく」というくだりがありました。
本題に入ります。
大彦は、磯城王朝に出雲の血が入っている事を誇りに思いトミ彦と名乗っていたそうです。
故に、事代主のもう一人の奥さん、奴奈川姫の名をとって、息子にヌナガワワケと名付けたと。
トミノナガスネヒコはそこから来ているそうです。
当初の大彦はクニクルの皇子として書かれていましたが、フトニの時代考証は今と同じになっていました。
孝霊天皇ことフトニは150年代開始のヒボコ族の播磨侵攻に触発され領土拡張に乗り出します。そして親戚の国である出雲に侵攻しました(160年頃)
そして遅れて165年頃に東征を開始した物部氏が八咫烏によって引き入れられた際に、ヤマトに戻れなくなり吉備国を作ったと。
私はその経緯が非常にあいまいでヤマトの争いのないイメージが気になっていました。
当初は、八咫烏は加茂建津野身になっており、一般的な話したが、焼き直しの本が2019年に「出雲王国とヤマト政権」が3年の歳月をかけて出版されました。(実は私はちょっと中の人と知り合い)
そこに驚くべきことが書かれており、大彦の時代が遡り、6クニオシヒトの御子の時代になっていたのです。
つまり、景初の二回目の東征から、165年頃の第一次物部東征の時代にさかのぼったわけです。
そして、太田氏の三輪大君説に大きく切り込み、建津野身が山代国に後退し、奈良が手薄になった際に太田氏が熊野勢を呼び込んだと。
故に、先出した系図は、最新のものに変更してあります。183年には大彦は戦線を守っていた琵琶湖から撤退
そして、名草軍と共に、大彦は熊野勢と戦った事になっており、何と名草トベ(なかつなぐさ姫)が尾張家の4建斗米の奥さんになっていました。 訂正
つまり、景初の二回目の東征から、165年頃の第一次物部東征の時代にさかのぼったわけです。
↓
つまり、8代クニクルの時代から165年頃の吉備国建設の戦い、7フトニによる出雲戦争の時代にさかのぼったわけです。
大彦撤退と伝わる180年代は太田遺跡(纏向遺跡)の一番古い纏向1式の土器の時代(180-210年)に相当します。
考古学的に土器の編年が大きく変わる年代に相当しますので時代考証的には確度的に問題はなさそうです。
尾張氏4の時代と、太田氏6の時代になると、名草姫が相当のおばちゃんになってしまいますが強引に話を進めます。
ちょうど、紀伊家は6大名草彦の時代です。こっちは良さそうです。「珍彦」のお父さんですね
名草トベのバイブル的本として、なかひらまいの「名草戸畔古代紀国の女王伝説」があります。
そこには、名草の頭を守る神社、宇迦部おこべ神社の社家、小野田博男(ルパング島の小野田さんですよ)さんが登場します。
彼は、文章にもなっていない口伝の持ち主で、第一次物部東征の五瀬と戦った伝承を受け継いでいました。
余談ですが、五瀬側の伝承の宮島文書でも、全く同じ伝承になります。(敵方なので、名草を悪く書いている)
つまり、出雲、宮下、小野田、それと竈山神社の五瀬の子孫の家で、第一次物部東征の指揮官が五瀬だったと言及されているのです。
そして、4男が大和入りしたと。
日向三代では磐余彦が出ていますが、古事記では大和入りしたのはいつの間にかすり替わったウマシマジ。そう、ウマシマジが4男だったようです。
磐余彦は五瀬から、ウマシマジに切り替わりました。 小野田口伝では重要な点があります。
「事代主の子孫である」ナガスネヒコは、名草トベを傘下に引き入れ、ヤマト方面に進出していった
ナガスネヒコは名草トベと一緒に神武軍と戦った。(大彦とナガスネヒコ同一人物論の伝承は非常に少ない)
(注:小野田さんは発言には慎重で、五瀬が物部だったとは絶対に言いませんでした)(小野田口伝は尾張氏(村雲の実家)をナガスネヒコの血筋と混同している?)
そして、ナガスネヒコが降伏した事により、名草軍も一緒に負けてしまった事にされたと。
出雲伝承の修正と、名草伝説がリンクしました。
纏めに入ります。
そしてもう一人の珍彦の話がその本に出てきます。九州の珍彦です。
宇佐国造の口伝では、神武が豊後水道から佐伯湾に入り、宇佐国上陸を試みたが激しい抵抗にあい上陸できなかった
そこに漁師の「珍彦」が仲裁に入り、宇佐津彦を説得。神武軍に帰順する(ここまでは記紀とほぼ一緒)
そこから、宇佐独自の口伝に入る
宇佐家は、その際に宇佐津姫を神武に差し出した。記紀編纂の際に宇佐氏の要望か、忖度かでウサツ姫を「天種子命」に差し出して、中臣氏が嫁さんを貰ったように変更された。
宇佐の領域はトヨクニであり、豊後(ぶんご)豊前(ぶぜん?)の二つを合わせた領域だった。
出雲伝承では、この時の神武は物部イニエ(崇神)であり、宇佐津姫が九州の月の姫巫女、卑弥呼であったとしている。
記紀は二度の東征を一度に圧縮し、朝貢の歴史を消しています。
珍彦には道案内伝承があります。つまり、神武を説得した珍彦は、二回目の東征前の物部、宇佐・物部連合時代の珍彦。
私は武内宿祢(武内太田根)ではないかと思います。
武内宿祢は紀伊家の珍彦の甥。紀家の珍彦の妹に山下影姫、武内宿祢の母が居るのです。
武内宿祢が朝貢して名前が載ったので、珍彦にして隠されたのではないかと思います。
残る謎は、尾張氏の隠された?二代の系譜。名草姫の時代考証でしょうか。 >>655
関係ない話ばかり並べているが半島征伐に失敗して自害説まで流れた襲津彦が武内だという根拠が無いな
いつまで経っても根拠を示すという当たり前の事ができないキナイコシくんは成長が無い >>656
>お前アホなのか?宇佐宮司家はもう書籍まで出して歴史を公開してるよ。
その書籍に書かれていることが歴史的事実であるという根拠が無いわけだが
アホは君一人だよキナイコシくん >>657
>肯定したのなら突っ込みを入れたというお前の話は何処に行った?w
バカだなぁ自分が何を突っ込まれているのかも分からないのか
君が何かを発言する際にいつも根拠に基づいていないという事実を暴いてやったということだよ
俺が根拠を知っていようと君の発言が無根拠であったことに変わりはない
>書記の兵頭にイタテが入ってる訳が無かろう。村雲がイタテなら、父親みたいな直ぐの先祖など祀らない。
根拠ゼロだな
君が勝手に設定した俺ルールなんて誰も守らないよw
現に弥彦神社はカゴヤマの息子のアメノイタネが作ったということになってるんだが
https://www.yahiko-jinjya.or.jp/history/yuisyo/index.html
> 彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、
> 御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。 >>658
>んで?自分で作った画像であるという事が争点なのだが?
誰が作ろうが根拠に基づいていれば捏造ではないわけだが
もはや日本語すら喋れなくなった負け犬キナイコシ >>660
>>455に何ら反論できてない時点で論破だよ負け犬キナイコシくん
カゴヤマは五十猛=イタテではなくその父スサノオなのは弥彦神社の創建が天五田根命と伝わっていることでも明らか >>661
またそうやって根拠の無い話を始める
君は何度言えば意見には根拠が必要だという当たり前のことが理解できるのかねキナイコシくん >>664
全くの逆だ
安曇武磯良から尾張や海部ができたのだから尾張や海部が安曇の分家ということ
時系列というものをその足りない頭で少しは考えろよキナイコシくん >>700
おっと安価が間違っていた
>>699だな >>666
村雲ことアメノイタテがイタテ大神=安曇武磯良なのだから大いに関係しているわけだが
君の根拠の無い話とは違うよキナイコシくん >>670
カゴヤマは弥彦神社社伝にもあるようにイタテの父スサノオだから間違いだな
紀伊と関係があるのはスサノオや五十猛が紀伊で祀られていることや
追放後の甘美内宿禰が紀直に預けられたと書かれていることからも
>>362の図と完全に符号する >>671
論理的反論が出来なければただの負け犬の遠吠えだよ
もう少し頑張りなさい >>672
阿波はNGしてるから最初から見えてない
まだ粘着してるのか
まあ君は阿波と同レベルかそれ以下だがね >>674
712 :日本@名無史さん :2020/12/20(日) 17:09:59.70
>>662
>磯城登美家の建飯勝命の息子、建甕尻命=タケミカヅチ
建飯勝命はタケイイカツと読む
雷大臣の当時の名がタケイカツであろうという俺の推定にバッチリハマる
磯城登美家の家系にその名が出るなら、磯城登美家もスサノオの子孫だったというだけだな
一代くらいの混乱は古代の系図ではよくあること
460 :日本@名無史さん :2020/12/10(木) 02:36:21.96
>>450続き
そして磯武良=五十猛と共に朝鮮半島に行き帰ってきた雷大臣こと中臣烏賊津こそ素戔嗚命その人ということになる
イソタケルと共に朝鮮半島に行って帰ってきた古代のVIPがスサノオ以外に何人もいるとは思われないからな
上の対馬伝承でも雷大臣を霹靂神社に祀っているが、五十猛がスサノオと共に帰還上陸したとされる島根県大田市五十猛町にも
かつて霹靂神社があった(現在は五十猛神社に合祀されている)
https://genbu.net/data/iwami/itakeru_title.htm
> 当社に合祀されている霹靂神社は、式内社・國分寺霹靂神社の論社の一つ。
> 祭神は、別雷神と玉依姫命。
> 大同四年(809)正月の鎮座であるというが、明治末年に当社・五十猛神社へ合祀されてしまった。
祭神が別雷(ワケイカヅチ)となっているが、これは中臣烏賊津と伝わる人物が実際には当時まだ中臣姓を名乗っておらず
ワケイカツもしくはタケイカツと名乗っていたものと考えられる
ここから考えると、八幡愚童訓などで安曇磯良(磯武良)が鹿島神宮のタケミカヅチと同神とされるのは、
ここでいう磯武良はスサノオの御子神としての五十猛ではなく、その先代のイソタケル(=伊都国王)である
タケイカツ=雷大臣その人を指しているのだろう
実際、タケミカヅチの子とされる春日大神=アメノコヤネもまた磯良と同神とされているので、
親子二代がともにイソタケル(=伊都国王)であったことを反映していると言える
鹿島大神タケミカヅチと春日大神アメノコヤネは2神とも中臣氏が祖神として祀る神なので血筋的にも完全に一致する
スサノオとタケミカヅチは同一人物だったということになる >>688
>だからであろう、辰韓のヒボコって事になると、朝鮮臭が消えてしまうから焦っちゃうんじゃないかね?w
「辰韓のヒボコ」なんてフレーズは君しか使ってないと暴いてやったのがそんなにトラウマだったのかw
ヒボコが新羅王子という伝承が間違っているだけの話だよ
>>586で教えてやったように君が新羅帰りの磯武良を渡来系と誤解していたようにね
>ココで何を言おうが直系の神床家が今でも続いてるんだから出まかせを言うのは止めればいいのに(失笑)
俺の発言には全て根拠がある
出任せなのは根拠のない発言を繰り返すだけの君だよキナイコシくん >>689
どうせなら石上のほうがいいな
文体はまったく似てないね >>705
よく精神病院行きの者は正常人を紀違い扱いするのさ。w
等号は探偵小説と推理小説でよくあるのさ。
たとえば明智小五郎が二十面相だったとかドンデン電返しとか両者が等号
で結ばれるのが小説の世界だよ。古代史は小説ではねえの。
例外は稀に確かにあるが、通常古代史で等号は失敗の沈没。 たとえばスーパーマはクラーク・ケントだったとか、バットマンは
ブルース・ウエインだとかいう等号をやってるんじゃあもう小説エンタメの世界。
よっぽどの根拠がないと等号は失敗だぜ。
唯一等号が成立と想えるのが 成吉思汗=源義経 これだけは等号になろう。
あとはないな。 >>697
出ました、ついに認めましたww
自分で作った画像だったとはww >>708
完全検索の話か?
お前の妄言はお前の話しか完全ヒットしないから嘘確定だな
次のカードに取っておいたが自ら暴露か?w >>711
さすがにあの低レベルと虚言癖は笑えますよねw
背乗りのチョンそのままを地でいってますよ そもそも朝鮮は、渡来の際にこんなとこ嫌だと言って、やめた場所
立ち寄っただけで、そこにいた訳では無い
イソタケルが朝鮮人というのが伊都チョンの拠り所なのか?ww
そもそも伊都チョンと他の人にも言われてる理由はそこなんだろうがw >>695
その本すらなく推論だけで根拠もないのが伊都チョン説だろw
自分の作った画像が根拠で証拠なんだろ?w
神床家の証言は取材しての話だから、それがダメなら新聞だって全てが嘘になるだろw
頭がおかしいww 楠木をシンボルとする一族が、三嶋以外に存在する。
それが名草の一族。
宇佐に次いで古い家系で、元々は大分当たりに住んでいて、稲作で増加した人口の都合で当時人口の少なかった和歌山に移住。
八咫烏は、先住していた住民で、最終的に五瀬軍を引き入れたのは、先住民族としている。
そしてその一族を紀の一族としている
移住の際に、山に植える木として楠木を持ち込んだという。
名草戸畔の胴体を祀る神社にも楠木。
イタキソ神社は元々、木を植え始めた、という意味の言葉で、ここから木曽地方に植林の技術が伝わったと伝承されている
なんでか知らぬが、安曇と楠木はほぼ無関係
穂高神社もそうだが、楠木が全くない
楠木信仰に関しては、なかひらまいの名草の本に詳しく出ている 紀の一族とは、出雲系の住民と思われ、同時期に三輪大君、太田氏が物部氏を引き入れたと書かれた時期にあたり、紀伊国造家系譜の別論で、オオミケから紀伊家に繋がる系図がある話とリンクしてくる。
つまり、紀伊國にはイソタケル系、珍彦に繋がる一族
事代主系、尾張家の母系側の一族が住んでいた可能性がある。
名草伝承の独自な点は、長髄彦と、饒速日が紀伊國にもいて、両方の家系が今でも神社やってて宮司職をやっているという話
つまり、名草の言う長髄彦と、記紀の長髄彦は厳密には違う存在で、うまいこと利用され、大彦の時代、朝貢した時代を隠しているのではないか
名草の長髄彦は尾張氏の可能性がある
尾張氏なら五瀬物部勢と闘う立場になる >>711
〉よく精神病院行きの者は正常人を紀違い扱いするのさ。w
虚言癖の人間は、自分の嘘を嘘と認識しないと言いますものねw
息を吐くように嘘をつく民度の国があると言いますが、似ていますね〜 カゴヤマとイソタケルが、同一人物という話は、なかひらまいさんの書籍でも出てくる。
系図というのは自分の家を有利に変えれるという側面がある。
故に、嫁や婿に出した家が、再び相手から嫁や婿を入れると、突然苗字が変わる訳だ
物部も、クニオシヒト系も全てが三島や越知を名乗っていた訳ではなく、突然系図に出てくる
つまり、家督を取った人間が誰かを常に主張するものではない
わだつみから来ている、渡来の庶子系の安曇ならあの様な系図は書けるわけだ
そもそも仮にだが系図通りに解釈するのなら、イソタケルは既に尾張氏になり、村雲から海部の分家が出たという事になるが、安曇を名乗ってないのであれば、穂高神社社家の系図は、家督が取れなかった方、歴史を残せず、記紀にも書かれなかった方の系図としか解釈されない
九州安曇の系図がなければナーンの根拠もない系図でしかないのだ
他の複数の系図、母系、父系、集合の系図で補完出来ていなければ、可能性や説の域を出ない話 宗方の祖であるアタカタスを後年のクニオシヒトの時代に強引に入れた理由は、本来無関係なイソタケルを結びつけるために、母系の操作も必要になったからであろう
市杵島姫は、物部氏の彦ホホデミの母親だからね
饒速日もいじるのであれば、当然に母系も揃って移動しないと整合性が取れなくなるからな
東征の際の各父系母系の代には特徴的な出来事がある。
彼らの名前が出雲伝承他にある
八咫烏=太田太根彦
野見宿禰=冨太田彦
武内宿禰=武内太田根
大彦=中曽大根彦(大を太に変えると・・)
そして、記紀のウサツ姫をもらったとされる中臣家の名前が天種子命
何かの符牒の様である。
口伝には正確に伝えるための工夫がなされている様な気がしてならない
時代考証には使えないだろうか >>707
父系統の尾張氏の人物と、母系の事代主家系のミカヅチが同じ人物な訳がねぇだろ
頭がおかしいw
各種系図と先代旧事本紀の内容にすら反する
根拠なし、やり直し さらに、元は築秦国といった秦系の渡来の人間と、朝鮮人のイトテが同一人物のはずが無い
それも、伊都チョンの言い方だと新羅の時代って吠えてるからさらに時代考証では離れてしまう両者
二重に頭がおかしい伊都チョンww
イトテ本人がヒボコの子孫だと言ってるのに、それすらデマ扱いwww 今日家に帰ったら、先代旧事本紀でミカヅチと、アタカタスの代がどうなってるか確認してみるか
ミカヅチの後にアタカタスが来る様な工作がなされてたら、宗方を通じて物部に雷が入り、イメージの操作がしやすくなる事になるからな >>687
物部文献の解説書って、どんな本だったのですか?
興味あります >>731
30年位たつかなあ? 青森県大釈迦の梵珠山探検の際、まだ登頂前の昼間に
青森市の書店で売ってたからどこかで見つけられる可能性はある。
通常の本大だったかもぅ少し小さかったかなともう記憶は薄らいでる。
あれ以前のことだが古来の物部文献を秘蔵してた方がいて研究家が公開を
求めてたが、自分で研究してからだとかの話だったか公開しなかったのさ。
おそらく吾郷清彦先生も求めてたんではないかなあ?
だがそれ以後そんな書があったかならいまはどうにかすれば公開されてるかも?
分からん? 吾郷先生から神代文字の書をもらって読んだものだ。いまは
引っ越しで多数の段ボールのどこかに入りこんで出てこないがねえ。
たま出版ら神代文字研究書が出てるな。物部文献の情報あったら教示
願いたい。梵珠山は夏の某日、その日に限り頂上あたりで釈迦の光が
見られるといい、こちらもあの神秘の光を某年某夏見たからこれは
うそではない。出ない年もある。 >>732
未公開の物部文献といえば、秋田物部氏の事でしょうか?
あれ、一部だけ公開されてて、文書本体は非公開なんですよね。
それ以外の文献だとしたらビッグニュースです〜 とにかくあれは物部文書の研究書かそのへんだったと思う?
そう、秋田あたりだったよな? 青森市の書店で秋田から近いからああ物文献解説
かなにかの本だなと思っていた? 買っておけばおかったなあ。
そうなるとその一部公開部分の解説でもした本だったとなるか? 当時新幹線青森駅乗り入れの前だったろうなあ?
そのとき青森駅正面口を出てそのまま曲がらずに直進して200mも行ったかなあ/?
通り沿いの右に書店があって、中でこの本があって取り出してながめた位だよ。
あの書店、いまもあるのかなあ? >>678の続きで楯築遺跡について調べてみた
場所は片岡山と言われ昔は神社があり片岡タケルが祀られていたそうだ
そこで片岡という名に関係する人物を調べるとタギシ耳、孝霊天皇、顕宗天皇、武烈天皇、聖徳太子が該当した
遺跡が築かれたのは2世紀末なので時代的にはタギシ耳が当てはまる
綏靖天皇をイザナギ=1代目大国主とするとタギシ耳=八十神となり
大国主と八十神の争いが綏靖天皇とタギシ耳の争いに重なる
大国主=イザナギはアマテラス=卑弥呼の父親なのでタギシ耳は倭国大乱の頃の人物だ
被葬者がタギシ耳=八十神かイマイチ確信は持てないが、築かれた時代が倭国大乱の終わりと重なっているのは確かだ
大国主、八十神兄弟の父親である九州の王はこの時代から各地に一大卒的なものを派遣していたのだろうか?
ところで気になるのはタギシ耳が討たれた時の「片丘の大室に伏せっていた」という描写だ
古墳関連で調べていたからか古墳に埋葬されている様を連想してしまう
そうすると神八井耳が怯んだのも死者への恐怖だったのではないかと思えてくる
実際は討伐ではなく何かの儀式だったのではないだろうか
ついでに顕宗天皇による雄略天皇陵への破壊命令と聖徳太子の片岡山の伝説も興味深い
例えば家督継承に際して祖先の墓から遺物を取り出して身に付けるような儀式があったとする
そういった吉備の片岡で行われた儀式が奈良の片岡で語り継がれ聖徳太子の片岡山の伝説になったのかもしれない 大国主≠イザナギ
原則として等号はしちゃダメ。盲象へ直結。 >>735
ふぉお、さっそくグーグルマップしてみたら「古書 らせん堂」というものが東口からまっすぐ行って右側にありますね。
「ああ物部文献解説」という本ですか。
ぐぐってみてもヒットしませんね。
興味津々です〜 系図というものは単体では成立しない。
その家系、母系と父系の系図があって初めて確度が上がると考える。
穂高神社社家の系図だけでは安曇の系図は全く根拠がない。
4パターンある。
嫁に出したのか、婿に出したのか。
読めに貰ったのか、婿に貰ったのか。
伊都チョンはそんなことも分からずに推測でモノを言う(失笑)つーか、全て推測というw
んで、自作の画像で証拠ニダしてるわけだw
何が楽しくて他国の歴史に首を突っ込むのか不思議でならない 今日帰ってセンダイクジホンギ見たら、やっぱりミカヅチの後にアタカタスが来てたね。
磯城登美家から、ミカヅチを九州に飛ばすために系図をいじったのかもしれないね。
目的は、相似
高木神(栲幡千千姫)と忍穂耳(徐猛)下にホアカリと饒速日
ヤマトにおける母系と、九州における母系を同じ代で揃えたかったのだろう。
アタカタスの奥さんは・・探せばきっと出てくるんじゃないか? とりあえず阿田賀田須命だけは奥さんをわざと書かずに分かりやすくしてるんですな。
アタカタスは、本当は宗像三女神、イチキシマヒメの父親。物部の母系の祖父。 >>711
論理的に反論できなくなった時点で君の負けです
現実を受け入れなさい >>712
では>>362に論理的に反論してみたまえ
出来ないからそうやって負け犬の遠吠えしているのだろう >>713
最初から一度たりとも否定していないわけだが
で、結局>>362の内容には何ら反論できませんってことでいいねキナイコシくん >>714
根拠は>>455
カゴヤマは五十猛=イタテではなくその父スサノオなのは弥彦神社の創建が天五田根命と伝わっていることでも明らか
根拠がないのは君の妄想だけだよキナイコシくん >>715
これも根拠は>>455にある
カゴヤマは五十猛=イタテではなくその父スサノオなのは弥彦神社の創建が天五田根命と伝わっていることでも明らか
根拠がないのは君の妄想だけだよキナイコシくん >>716
根拠はもう示してある
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
これに論理的に反論出来ない時点で君の負け
根拠がないのは君の妄想だけだよキナイコシくん >>718
俺の推定と文献事実が一致しているのだから十分に根拠足り得るよ
根拠がないのは君の妄想だけだよキナイコシくん >>719
そうそう君は嘘つきの朝鮮人だったねキナイコシくん
君の惨敗の記録はちゃんとログ取っておいてあげているよw
707 :日本@名無史さん :2020/12/20(日) 16:53:15.18
>>659
>朝鮮人ってさ、面白いくらいに人を朝鮮人認定するよね?ww
自己紹介お疲れさんw
>検索結果の直リンク貼り付けたのに都合よく見えないなんて、異常としか思えんわw
まだ言い張るのかこの嘘吐きは
ほれw
https://i.imgur.com/n5kIF7n.jpg
辰韓のヒボコを完全一致検索したらこのスレしかヒットしないぞ嘘吐き
やっぱり君の造語だったな
そうやって息を吐くようにウソをつく君を朝鮮人と呼ぶことに何の抵抗も感じないねw >>721
イソタケルは伊都国=旧称イソ国の王という意味だと教えてやっただろうキナイコシくん
相変わらずの痴呆ぶりだな
イソタケルを朝鮮人にしたがってるのは君だよチョンのキナイコシくん >>722
君のように息を吐くように嘘をつく人間が「取材しました」なんて誰も信じるわけがないだろうキナイコシくん
いい加減きみはこの世の誰からも信用されていないことに気づきなさい >>723
紀の一族なら珍彦の子孫だから安曇の分家じゃないか
何を意味不明なことを言っているんだキナイコシくんは >>724
ミケはスサノオだが
安曇そのものだな
284 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 20:12:58.05
>>282補足
家都美御子大神について
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E9%83%BD%E5%BE%A1%E5%AD%90%E7%A5%9E-1073308
> 朝日日本歴史人物事典の解説
> 熊野三山として名高い和歌山県本宮町の熊野坐神社,新宮市の熊野速玉神社,同県那智村の熊野那智神社の祭神で,いわゆる熊野権現の中心的な神。
> 平安時代から修験道で崇拝され,熊野信仰の広がりとともに各地に祭られるようになった。
> もともとこの神は,三山のうちでは,本宮とも呼ばれる熊野坐神社の祭神であったとされ,出雲の熊野神社の祭神である熊野大神櫛御気野命が移し祭られて,
> それが当地で家都御子神になったと伝えられている。ケツミコは「木津御子」で,樹木の神の意。
> 櫛御気野命の子に五十猛命という神がいて,この神が紀伊国に木種を撒いたという伝承から命名されたらしい。
出雲国一宮・熊野神社の祭神であ櫛御気野命が元で、その子が五十猛だというのだからスサノオである
クシミケヌのミケは御食であり食物の神と考えられている
後に安曇氏が膳部となったこととの関連を思わせるし、 穴師坐兵主神社の兵主神がなぜか名の通りの軍神ではなく食物の神とされていることにも通じるだろう
なお、穴師坐兵主神社の大兵主神はスサノオ説がある
妻である奇稲田姫が合祀されているところを見ると可能性は高いだろう
> http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10265
> ご祭神について
> 御食津神:食物を司る神、天照大神の食物を司る神、稲荷神や保食神などに同じ、また、他説としてはこの兵主神は八千矛神(やちほこ)もある
> 大兵主神:武勇の神、武神、軍神、相撲の祖神、一説には素戔嗚尊説あり
> 奇稲田姫命:稲田の女神 ※スサノオ神の妻/オオクニヌシの母 キナイコシくんが一言も反論出来なかった>>362の根拠の一端
286 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 20:34:59.20
さてなぜ家都美御子大神の話を始めたかというと、二人の大屋毘古の話をするためである
大屋毘古という神が二柱いることは広く知られている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%8B%E6%AF%98%E5%8F%A4%E7%A5%9E
> 大屋毘古神(おおやびこのかみ)は、日本神話に登場する神である。同名の二柱の神がいる。
>
> ・家宅六神の一。大禍津日神と同神とされる。
> ・五十猛神の別名。
結論から言えばこの二人は親子であると思われる
イソタケル同様、大屋毘古もまた複数代に渡って継がれた名だったのだろう
大屋毘古の原義は大きな屋根であり、彼らが住んだ伊都国王の屋敷が大きな屋根を持っていたのだろう
家宅六神はイザナギ・イザナミから生まれた神であり、スサノオと同じである
それが災いの神である大禍津日と同一視されるのは、スサノオの行状があまりに酷く追放された事実と一致する
五十猛が樹木神なのは広く知られているが、スサノオの別名である家都美御子大神もまた樹木神であり、その字の通り家屋の神でもある
家宅六神の一柱に相応しいと言えるだろう
そして区別のためか、息子の方の大屋毘古は屋根を小さくされ、天兒屋根命とも呼ばれるようになったわけだ
アメノコヤネのコヤは小さな屋根の意である
大きな屋根を意味する大屋毘古と対比関係になっている
タケミカヅチ=スサノオ、アメノコヤネ=イソタケルという俺の説はここでもきっちり繋がっている
天児屋命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%85%90%E5%B1%8B%E5%91%BD
> 考証
> 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」[8] キナイコシくんが一言も反論出来なかった>>362の根拠の一端
287 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 20:50:09.66
おっと>>282で書き忘れた
http://www.hongutaisha.jp/about/
> 主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神です。
> 昔は熊野坐神社くまのにいますじんじゃ「熊野にいらっしゃる神」と呼ばれていました。
> また、造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていました。
家都美御子大神=スサノオが造船術を伝えたとある
やはり海人族の系譜に間違いないだろう
伊都の安曇の出自という俺の推定はここでも伝承と完全に一致する
290 :日本@名無史さん :2020/12/26(土) 21:20:42.44
>>282についてもう一点
> 第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟いちいの巨木に、三体の月が降臨しました。
> 天火明命の孫に当たる熊野連くまののむらじは、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。
アメノホアカリは一般的に饒速日だとされている
神武天皇より前の人物(神)である
その孫にあたる熊野連が第十代崇神天皇の時代の人物というのは明らかに時系列がおかしい
これは俺が何度も指摘したように、神話の時代(神代)とは人代の実在の人物を過去に投影した虚像、影絵であるという説を裏付けるものだと言える
人代の五十迹手と神代のイソタケルが同一人物であることからも明らか >>725
君の母国のことだね朝鮮人のキナイコシくん >>749
おいおい、お前はアホなのか?
”辰韓のヒボコ”ってわざわざ完全検索にして、他の情報を出なくしたあの工作の画像、まだとっていたのか?
じゃあ、完全検索でお前の吠える五十猛論を検索してみろよww
即座にお前の主張している事は嘘という事になる
お前の言うやり方で「”安曇磯良と五十猛と五十迹手は同一人物”」で検索すると
”安曇磯良と五十猛と五十迹手(は同一人物”との一致はありません。
と出るからなwwwwww
お前のやってる事はただのブーメランだって話をまだ理解できないらしい
自分で自分を嘘つきと言っておきながら八つ当たりか?www >>726
>カゴヤマとイソタケルが、同一人物という話は、なかひらまいさんの書籍でも出てくる。
引用してごらんよ
そうやって何一つ引用することもできないから君は嘘つきと呼ばれているんだよキナイコシくん >>728
>父系統の尾張氏の人物と、母系の事代主家系のミカヅチ
その君の認識が間違っているというだけだな
君の認識には全く根拠がないし >>729
>さらに、元は築秦国といった秦系の渡来の人間と、朝鮮人のイトテが同一人物のはずが無い
これもその君の認識が間違っているというだけだな
君の認識には全く根拠がないし
>それも、伊都チョンの言い方だと新羅の時代って吠えてるからさらに時代考証では離れてしまう両者
秦系とかいう君の妄想がおかしいだけだから何も問題はないよキナイコシくん
>イトテ本人がヒボコの子孫だと言ってるのに、それすらデマ扱いwww
本人が言ったと数百年後の人間が書いたからってそれが事実であると思いこむのは早計というものだよキナイコシくん
結局君は自分の妄想しか根拠が無いんだね >>740
どんなに負け犬の遠吠えをしたところで君が>>362の事実に全く反論できていなことに変わりはないぞキナイコシくん さあみんなでやってみよう、伊都チョンの自作自演コーナーwww
辰韓(秦国)時代にヒボコが来たというソースをしつこく聞くもんだから、伊都チョンに教えてやったんだよね。
そしたら「かたくなに」地震での検索を拒むわけ
やけに時間をかけて油汗流しながら耐えてるなと思ったら、ヤフーを使わずにグーグルを使って完全検索というものを実施したんだよ
そしたら見事に「出雲伝承だけを排除した検索結果になった」ので、嘘つき呼ばわりを始めたわけだ
「辰韓の日矛」と、「”辰韓の日矛”」で皆さん検索してみてください
更に、伊都チョンのホームグラウンドの言葉を完全検索してみてください
たとえば
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」って検索すると、「伊都チョン」しか出てきませんwww
つまり、伊都チョンは自分で自分を嘘つきと言ってるわけですwwwwww >>741
いつも通りまったく根拠が無いなキナイコシくんの妄想は >>742
いつも通りまったく根拠が無いなキナイコシくんの妄想は >>763
まーたそうやって嘘をつく
アメノヒボコは「辰韓のヒボコと呼ばれている!」
と君が見え透いた嘘をつくから完全一致検索をしてみたらただの一つもヒットしなくて
キナイコシくんの大嘘がバレた話じゃないかw
あれで君は息を吐くように嘘をつく朝鮮人だとバレたんじゃないかキナイコシくんw さあみんなで検索しましょう伊都チョンワード
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」
「”安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです”」
見事に伊都チョンスレしか出てきません
この状態を「嘘というらしいので」自分で自分を嘘つきだと紹介している訳です。
ホント、チョンですねww ヒボコは普通に「辰国の弁韓系加羅王家の天日矛」として紹介されてるぜ?
お前が知恵遅れなだけだwww
あの王家が断絶した際が、神功皇后の時代。
部下の家系に政権が移行したときに新羅になった。
神宮古豪の時代考証はこれで一発で片が付く 「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」
「”安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです”」
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」
「”安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです”」
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」
「”安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです”」
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」
「”安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです”」
wwwwwww キナイコシくんの惨敗の記憶はここから始まったw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1607826113/
279日本@名無史さん2020/12/16(水) 22:36:06.88>>441
>204
ヒボコの渡来は一世紀。
故に辰韓のヒボコと呼ばれた。
末子相続のために朝鮮半島から追い出され日本に流れてきた。
垂仁記3年の渡来説は実は間違い。
おそらくタジマノモリからの始まりに偽装したかったのだろうと思われる。
実際には景初の時期だから。垂仁期は。
441日本@名無史さん2020/12/18(金) 02:04:37.30>>447
>279
>故に辰韓のヒボコと呼ばれた。
根拠は?
447日本@名無史さん2020/12/18(金) 02:13:48.08>>484
>441
検索してみてください〜
484日本@名無史さん2020/12/18(金) 03:01:42.53>>486>>491
>447
ヒットしないな
デマ乙
そしてその結果が>>750である
誰も辰韓のヒボコなんて言ってなかったじゃないか
惨敗の記憶は思い出せたかなキナイコシくんw 自分で作った嘘発見器で、自分の嘘がモロバレする伊都チョンwww
流石に傑作だわwww >>767
残念だがその君の嘘は>>770で暴いてあげたよ負け犬キナイコシくん >>770
それで?ww
「”考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白”」
は他にもヒットしたか?wwww >>768
故に辰韓のヒボコと呼ばれたキリッ → 呼ばれてませんでした >>773
俺がいつ検索結果のみが根拠になるなんて言ったんだ?
君が「辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろ」と言うから検索したら全くヒットしなかっただけの大恥と一緒にするなよキナイコシくん しかしキナイコシくんはどんどん壊れていくな
キナイコシくんは効いてるとレス数が無駄に増えるからわかりやすいw >>775
ふふ、効いてる効いてる
一生懸命クリンチに持ち込んで自分のうそ発見器から逃れようとしてるww
「わざわざ」「カードにしてるって言ってやってるのに」「自分で地雷踏むか?」wwww グーグル先生
「”3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあった”」検索
伊都チョンしかヒットせずww嘘確定www 新羅(弁辰、辰韓)は、長城築造のため、秦の始皇帝により遼東半島に強制移住させられた楚人、越人が、秦の滅亡後、逃亡して建てた国。
魏志韓伝には「辰韓を秦韓とするものがいる」と書かれている。
そういや、伊都チョンって韓伝に言及してたけど、伊都的にごまかしてたんだなww どうせ伊都チョンは朝鮮本国の主張通り辰韓の期間を、韓国の歴史教科書『三国史記www』の神話に基づいて、「新羅の建国年は、紀元前57年」としてるんだろうさ うそやろこんな時間にレスバしてるなんて
さては自演だな
大国以外は全部自演なんだ
欠史八代より理解不能だわ そもそもが正式な「新羅」を国号としたのは503年というwwwww
そんなことも知らない伊都チョンww そもそもが正式な「新羅」を国号としたのは503年というwwwww
そんなことも知らない伊都チョンww そもそもが朝鮮本国でも以下の見解
韓國古代史學會は、新羅は通常、西暦4世紀半ば以降に建国し、それ以前は辰韓の斯蘆国であると主張している。
金昌錫は、「西暦4世紀半ば頃まで新羅はまだ建国されておらず、辰韓の斯蘆国である」
「三国時代初期の歴史は三韓体制で、新羅は辰韓のなかの斯蘆国に過ぎない」
「三国時代初期は原三国時代であり、新羅は西暦4世紀半ば頃まで辰韓体制のなかにあった」
「新羅は辰韓の斯蘆国から誕生し、西暦4世紀半ばに古代国家になったというのが一般的見解」
「西暦4世紀半ば以前は新羅の歴史ではなく辰韓の歴史」
ここまで言われてるのに、4世紀の神功皇后の時代ですら新羅国が丁度できたあたりww
その前に数代前のタジマノモリの先祖であるヒボコが新羅な訳なかろうwwww 神功皇后の時代は、辰韓の王家が断絶し、部下の王が経ったとき、相続権を主張して戦いになった。
更に、時代的に狭まるのが、高句麗
新羅建国の際は、三韓の時代ではなく、二韓の時代だった。
実は三韓の征伐には成功していない。高句麗は朝鮮半島の有難い石碑の通り、度々二韓に攻め込んだので
日本に助けてもらって感謝して、七支刀を贈った時代の少し前 伊都的うそ発見器
「”3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあった”」
検索結果ww見事に伊都チョンスレッドしかヒットしませんwww
さあさあみんなでクリック♪
「https://www.google.co.jp/search?q=%E2%80%9D3%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%AE%89%E6%9B%87%E3%81%AF%E6%97%A2%E3%81%AB%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%81%BE%E3%81%A7%E9%80%B2%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E7%95%BF%E5%86%85%E3%82%92%E5%8C%85%E5%9B%B2%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E2%80%9D&client=safari&channel=iphone_bm&sxsrf=APq-WBu-SP4fUxabxUMLyLDl2F-VeBAy7Q%3A1645466365420&source=hp&ei=_dITYpS2F4iM-AbKqKXwCg&iflsig=AHkkrS4AAAAAYhPhDSTwfWo6wgB_DGFhGh830n5QYCTN&ved=0ahUKEwjUqMvxr5H2AhUIBt4KHUpUCa4Q4dUDCAk&uact=5&oq=%E2%80%9D3%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E3%81%AF%E5%AE%89%E6%9B%87%E3%81%AF%E6%97%A2%E3%81%AB%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%81%BE%E3%81%A7%E9%80%B2%E5%87%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E7%95%BF%E5%86%85%E3%82%92%E5%8C%85%E5%9B%B2%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E2%80%9D&gs_lcp=Cgdnd3Mtd2l6EANQAFiqFGCtF2gAcAB4AIABXogB_QGSAQEzmAEAoAEBoAEC&sclient=gws-wiz」 タジマノモリは魏書に載ってる。
そこから神功皇后までは数代だから、それを辿るだけでも神功皇后がトヨではないことは明白
更に、武内宿祢も出てるから、ソツ彦あたりで神功皇后。平群臣ツクの父親がソツ彦なので、それで追っても神功皇后がトヨではない事は明白 更には「”九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か”」も伊都チョンしかヒットしないというwww どうやら此れも伊都チョン的デマゴークの様だww
さあみんなでググりましょうw伊都チョンしか出てきませんので、伊都チョン本人が嘘だというんですから、真っ赤な嘘ですよね〜ww
「”弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している”」
ねえねえ、今発狂中?自分がやった嘘捏造を作り出すやりかたをブーメランされて気分はどお?www ちょっとどっかから引っ張ってきた
このタイミングが神功皇后の時代
江上波夫は、“夫餘系といわれる高句麗が313年に楽浪郡を占領し、続いて帯方郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配する体制を固めた。他方、同じ夫餘系の別枝が朝鮮半島を南下して、そこにあった馬韓・弁韓・辰韓の大半を支配し、馬韓の一部落国家に都して辰王国を創った。続いて、華北の晋が316年に滅んで、その王朝が江南に遷って東晋を興すころになると、馬韓の諸部落50余国が統一されて、辰王朝の一王家を戴いた百済が346年に創建された。
「同じころの4世紀初頭、辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこに任那加羅(王家の土地の加羅の意)といわれる新辰王国を創った。」
「同じころの4世紀初頭、辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこに任那加羅(王家の土地の加羅の意)といわれる新辰王国を創った。」
「同じころの4世紀初頭、辰王朝の本家と考えられる王家が弁韓(弁辰)に遷って、そこに任那加羅(王家の土地の加羅の意)といわれる新辰王国を創った。」
ここの王家が後退した際に、神功皇后の時代です。
ヒボコはここの王族の長男で、末子相続の為に追い出され、日本に助けてどらえもんしに来たのです 更に同じところから引っ張ってきた
朝鮮半島における三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓、そして倭)は紀元前後から3世紀まで
三国時代(高句麗・百済・新羅、そして加耶)は4世紀から7世紀までとなる。
三韓時代の倭、三国時代の加耶は往々にして無視されているようである。
出雲伝承が残す、ヒボコの渡来時期は紀元後100年近辺とされるが
きちんとそのころから、神功皇后の直前まで、辰韓は存在してた
逆に、何故新羅なのかって疑問が出てこない方が不思議な程である >>755
「”家宅六神はイザナギ・イザナミから生まれた神であり、スサノオと同じである”」
も伊都チョンスレしかヒットしないから、お前の言う通り、「デマ」だね
こんな立派な根拠を有り難う♪もう頭のてっぺんからつま先まで、嘘の塊だな、伊都チョンww あ、伊都チョン本家スレでも、伊都チョンの嘘の発見方法、あとで書きに行こうっと
w 辰韓 成立過程
中国の国境の拡大は、近隣地域の政治的動員を引き起こした。その核心の一つは、農業資源の創出であり、そのカギは小作人の創出である。辰韓王権は、自らを農業王権と為すために、地方の集落を征服してその民衆を農民にした[3]。もう一つは、外国人移民を略奪し、中国の「屯田」方式により、これらの人々に特定の地域での専門的な農業生産を強制させた。『魏略』に登場する戸来の例からは、1世紀初頭の朝鮮半島中部から南部への漢人の集団移民を観察することができる[3]。
辰韓は、古代の東夷族の三韓の一つであるが、『三国志』には、「古之亡人避秦役來適韓國」とあり、部族の起源を「秦の苦役を避けて朝鮮にたどり着いた逃亡者」としている。「避秦役」とは、秦の始皇帝が中国を統一した後、その支配を受け入れず、朝鮮半島の北方から朝鮮に渡来したかあるいは山東半島から海を渡って朝鮮半島に渡来したことを意味する
https://www.weblio.jp/content/%E7%A7%A6%E9%9F%93
ヒボコは朝鮮人ではなく、筑紫の渡来者と同じ、大陸系が源流
朝鮮人ではない。単なる朝鮮半島に居た人 >>736
どうでしょう?太国先生ww
普通に検索画面まで教えてやったのに、一切ヒットしないって言うから、どんな検索かけたかというと
意味のない「完全一致検索」してたんですよね
それで5ちゃんねるスレッドしかヒットしないからお前は嘘つきだって吠えてたんで、今日は同じことして仕返ししてやりましたよww
伊都チョン本人が「このスレッドしかヒットしないからお前は嘘つきだ」って言うんで
そりゃー本人を尊重して、伊都チョンは嘘つきって言わざるを得ないんですよね〜www
ヒボコネタ、いつ言い出すか、ホント待ってたんですよ私はwww
かならず耐え切れなくなって完全一致検索の件を持ち出すと思ってたんです。
あいつ、ホント間抜けですよwww >>756
「”人代の五十迹手と神代のイソタケルが同一人物であることからも明らか”」
これも伊都チョンスレッドしかヒットしないから、これも嘘確定だな?伊都チョンwww 「”タケミカヅチ=スサノオ、アメノコヤネ=イソタケルという俺の説はここでもきっちり繋がっている”」
も伊都チョンスレッドしかヒットしませんので、これも嘘ですね〜♪ >>743 >>744
オマエが等号マンか?ww
そうなら、そろそろ松沢病院に行く支度をせい。pp
これではオマエの論はスーパーマン=クラーク・ケントのエンタメ。w >>799
伊都チョンがどんな反論をしてくる多楽しみww
自分で作った地雷を踏むやつ、久々に見ましたよw スサノオは朝鮮人ではないし、ましてや辰韓の日矛も朝鮮人ではない。ww
検証終わりw
伊都チョンの自爆によってそれはさらに強固になったのでしたw 記紀の編纂目的は、日本の歴史を大陸に示し、日本の独自性を主張。対等な国としての立場を確立する事であった。
大陸の子孫が幅を利かせているなど、大陸から軽く見られる要因にしかならないし、朝貢までして、黄色の属国旗を貰ったことを書くなどあり得ない事であった。
しかし、須佐男は、数千人もの海童を二度にわたって連れてきているし、既に大陸の史書には徐市の子孫を名乗るものが住んでる場所があるとぼやかして書かれている
故に須佐男を朝鮮から来た様にも取れる様に書いた。
ま、よく読めば、降り立っただけで、こんなとこは嫌だと日本に来ているのだが。
裏付けの様に一箇所、朝鮮にも徐福伝説がある場所がある。
大陸に帰る際に立ち寄ったらしい。
そして、魏書に書かれてしまったイサチから邪馬台国時代を誤魔化す事にした。
その際に使ったのが、秦国の系譜が断絶した国である新羅。
イニエを任那にいた事にして諡号を作った。
イサチ入彦イニエの名はそうして作られた。
大陸の史書には既に朝鮮に、倭の領域がある事は書かれていたからね。
イニエは二つ名を持っており、イサチが魏書に書かれてしまったから問題視された。
誰が見ても明らかに神功皇后の時代まで、辰韓であったのに、新羅の時代にヒボコがきた事にされたのは、大陸の血筋が途絶えたから。
さらに朝鮮に権益があったことは我が国の歴史に箔がつくわけで、一石二鳥だったので、三韓征伐が書かれた。
しかし、既に小国ではあるが、高句麗が既にあったので、ニ韓征伐であり、全ての国を倭国が平らげたわけではなかったので、その後も戦闘が続いた。
その際の傭兵が広開土王の事柄として書かれた。
あの石碑は、征伐の少し後の話が書かれている 間違えた
イサチ入彦イニエ
↓
ミマキイリヒコイニエ
イクメの方が魏書になった方だった
イサチ入彦イクメが垂仁。彼が摂津の額田から生駒を超えて奈良入りした 深夜1時から朝まで1人で50近く書き込むとか異常さで近畿説スレの荒らし超えたわ
大国も変なのに懐かれてるな…あ、同類だからか 征伐の時の安曇磯良は、襲津彦の率いる水軍の部下にすぎない。
大将が襲津彦だったからね コチラは深夜の書きこみは滅多にしないよ。
彼らはワールド・メイトの信者でないのか? ま、安曇の出自は、スサノオやホアカリ、饒速日でなく、ワダツミとしてる段階で知れるというもの。
イトの地名も最初の物部東征の前にヒボコ族が単体で播磨侵攻して尾張氏などに負けて散り散りとなり、糸島に逃げ込んだことでついたという可能性が否定できない地名。
それはイトテや、出石のつき方からも明らか。
安曇が付けた名前ではない
付けたのなら、伊都ではなく地名が安曇になってる。 >>806
先生〜ww
私夜型なので普通に働いてますよw >>804
昨日は伊都チョン、遅くまで起きてたんじゃないですかね?w
煽り耐性無さそうだからあの小僧w 入彦と太田根
入彦系は九州勢、太田根は奈良や紀伊氏系?
それをまとめたのではないかと想像する。
日向襲津彦=長江襲津彦=葛城襲津彦
奥さんの名が、日向髪長大田根媛
女性にも太田根がつくんだ。
東征から物部政権が終わる景行期まではこの法則に当てはまるんじゃなかろうか?
物部軍(瀬戸内海ルート)
ミマキ入彦、イサチ入彦、矢坂入彦、十千根入彦、(瀬戸内海ルート→出雲ルート)、物部朝倉(出雲ルート)
豊国軍(瀬戸内海ルート)
豊来入彦、豊来入姫、兎上王(出雲ルート)
ヒボコ系
タジマノモリ(法則外)
ヤマト側
大彦=中曽大根彦、武内宿禰=武内太田根、野見宿禰=富太田彦、太田タネコ=太田太根彦、そして日向髪長大田根媛
なんらかの形で整理するために名前をつけている気がする
他にも入彦や、太田や、太根、種がいる様な気がする。 >>737の続きでタギシ耳について
タギシ耳と似た名前の人物に多芸志比古がおり別名は武石彦奇友背命
武石の訛りがタギシだとすると、石は磯や五十に通じるのでタギシ耳が元は武磯耳、武五十耳
なんて可能性も出てくる
吉備で五十と言えば彦五十狭芹彦が思い起こされる
タギシ耳と吉備、最初は何の関係も無さそうだったが意外と何か繋がりがあるのかもしれない >>777
虚しい妄想乙
君の書き込みが俺に効いたことなんてかつて一度たりともないよキナイコシくん
なぜなら君は常に的外れかつ発言に根拠が無いからだ >>778
残念だが遺跡がそのように配置されている以上君の妄想は通らない
歴史は多数決ではないんだよキナイコシくん
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
愚かの極みだな >>779
またそうやって何の関係も無い話を始める
君は追い詰められるとそうやって関係ない話や意味不明な話ばかりで無駄にレス数が増えるから本当に分かりやすい
そうだね惨めな敗北の歴史を早くスレ流ししたいんだよねw >>781
キナイコシくんは平日の昼間でも書き込んでいるからニートなのがはっきりしている
彼に時間の制限は無いよ
俺は忙しすぎて時間が取れないだけだが >>784
また関係の無い話を始める
君はアメノヒボコは「辰韓のヒボコと呼ばれている」と主張したのだ
しかし検索してもそう呼んでいたのは君一人だった
嘘吐きの君は大恥をかいた
以上が君の惨敗の全てだよキナイコシくん >>785
相変わらず根拠が無いな
いい加減発言には根拠が必要だという最低限のことくらい学んだらどうだねキナイコシくん
>>786
>>813 >>787
>タジマノモリは魏書に載ってる。
載っていません
そうやってすぐバレる嘘をつくから君が負け犬だと誰の目にも明らかになってしまうんだよキナイコシくん >>788-789
残念だが考古学遺物がそのように出土している以上君の妄想は通らない
歴史は多数決ではないんだよキナイコシくん
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
愚かの極みだな >>791
引用するなら引用元を示さなければ何の意味も無いということに気づこうねキナイコシくん
ちなみのそのフレーズの一部を検索したら小説がヒットしたんだが
まさか小説がソースだとか言うつもりじゃないだろうねキナイコシくんw
https://kakuyomu.jp/works/1177354054887333022
> 小説情報
> 倭王の系譜
> 武内司(たけのうちつかさ) @takenouchitsukasa
> 執筆状況完結済エピソード60話種類オリジナル小説
> ジャンル歴史・時代・伝奇
オリジナル小説wwww >>792
いや全然
君と違って俺の発言にはちゃんと根拠があるからな
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%AE%85%E5%85%AD%E7%A5%9E
> 家宅六神は、建物の材料や構造を示したものである。六柱とも、『古事記』において国産みを終えた後、神産みの最初に大事忍男神が産まれた後に
> イザナギとイザナミの子として産まれている。
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>795-797
君と違って俺の発言にはちゃんと根拠がある
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>799
何だ結局きみもキナイコシくんと同レベルに堕ちてしまう気か?
論理的に反論が出来ない時点で君の負けだよ >>800
自爆したのは君だけだから安心していいぞキナイコシくん
このスレを見た人は君が恥の上塗りを続ける姿を見て君をあざ笑っているよ >>801
スサノオは伊都国王家のイソタケル(先代)だから朝鮮人ではない
それは俺が最初から言い続けていることなんだが
キナイコシくんの脳内は一体どうなっているのだろうか
狂人の考えることはわからんな >>802-803
相変わらず根拠が無いな
いい加減発言には根拠が必要だという最低限のことくらい学んだらどうだねキナイコシくん >>805
襲津彦に磯良がついてったなんて伝承はどこにもないし
襲津彦はそもそも新羅征伐に失敗している
やり直し >>804
キナイコシくんはニートだからね
平日の昼間だろうが深夜だろうが自由自在よ >>807
またそうやって根拠の無い話を始める
君は何度言えば意見には根拠が必要だという当たり前のことが理解できるのかねキナイコシくん >>808
ウソつけ君は平日の昼間もしょっちゅう書き込んでいるじゃないか
ニートなのが丸出しなんだよキナイコシくん >>813
伊都チョンのスレッドしか出てこない事で嘘つきというのは説明が終わってる。
これは伊都チョン本人が言った事。それは覆らない
自分自身に文句言ってらwww >>831
残念だが遺跡がそのように配置されている以上君の妄想は通らない
歴史は多数決ではないんだよキナイコシくん
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
愚かの極みだな >>814
残念ながら私の書きこんだ内容は検索できるから、嘘つきの伊都チョンとは一緒にしないでもらいたい >>833
いや君の書き込みが俺の説に対して何の反論にもなっていないという話をしているわけだが >>819
そもそもヒボコの話は「直リンク張ってやってもお前が検索結果が出ない」って吠えただけの話。
そして何をやってるか聞いたら「お前が勝手に完全検索してただけ」
そして「出てるサイトを案内したら」「そいつらはキチガイだ」ってお前が行っただけの話。
現物見てキチガイだって吠えたのはお前。そんなもの「見てなけりゃ言えない事だよな?」
過去スレ見ればお前の妄言はどのみち出てる。
どや顔で完全検索の結果なんて出すんじゃなかったなww キナイコシくんは必死にスレを流せば恥の記録を消せると思っているようだが
>>770ですぐ引用できたことからも分かるように俺は過去のログをローカルに保存している
つまりキナイコシくん惨敗の全記録はこちらの手元に残っているのでいくら嘘をついて逃げても無駄
キナイコシくんは俺にこのスレで負けたのみならず未来永劫負け続けるんだよ >>835
>>770に当時の君の発言を貼ってやったからそんな嘘をついても駄目
キナイコシ「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー! → キナイコシくんしか言ってませんでした」
消えない大恥w >>820
>ちなみのそのフレーズの一部を検索したら小説がヒットしたんだが
で?www
だからなに?
小説がヒットしたの?www馬鹿なの?ww
自分に都合の良い結果を探せてよかったねwwwwww >>821
>君と違って俺の発言にはちゃんと根拠があるからな
wwww
お前、WIKIはインチキ、そんなモノ参照してるのか前に自分で言ったよな?wwww
バカなの?どや顔で一生懸命過去スレ検索してここに張ったんだろ?
その時のお前の妄言も全部出てるぞ?www
完全検索でヒットしないことは事実。これが全て。おまえが行ったことだ。
お前の言ったやり方で、お前の言った通り結果がお前のスレッドしか出ないだけだ。
その事実は覆らない >>822
で?そのまま新羅のヒボコになったら渡来時期5世紀後半〜6世紀はじめになり
お前の大好きな神功皇后=トヨの時代のあとになるって話なのだが
まだ言われている意味が湧かないの?ww
そこから子孫のタジマノモリ、更に子孫の神功皇后なんて言ってたら6〜7世紀になるぞ?おいおいww >>832
ヤフー検索(失笑)
ほれ、嘘つき
前回と同じことしてやるわ
他の人も見れるからなw
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%BE%B0%E9%9F%93%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3&x=wrt&aq=-1&ai=5fa01a91-227f-487f-b9a1-6fe2ed982269&ts=11049&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa とりあえず「辰韓のヒボコ」で検索した結果の一部
https://kojiyama.net/history/portfolio/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA/%E7%AC%AC%EF%BC%94%E7%AB%A0%E3%80%803-%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%8B/
そして
「記紀が記された頃は、新羅が成立していたのであるが、『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条(244年)において天日槍(ヒボコ)が渡来した頃に、半島北部は高句麗であり、朝鮮半島南部には国と呼べる地域に国家は成立していない。『日本書紀』が完成された養老4年(720年)には新羅・百済という国家といえるが、三世紀中頃は、新羅の前身の辰韓、加羅と任那にあたる弁韓は、ともに12カ国に分かれていたとされ、半島南部の海岸部は、縄文時代から北部九州から対馬・朝鮮半島最南部は、倭人が移り住んでいた倭国(任那)で・・」
普通に、新羅だとおかしな話になるわけだ。
「完全検索」(失笑)
普通に検索すれば出てくる結果。伊都チョンは「今回も見えない〜」とか嘘つくニダか?ww >>836
キナイコシくんは必死にスレを流せば恥の記録を消せると思っているようだが
>>770ですぐ引用できたことからも分かるように俺は過去のログをローカルに保存している
wwwwそんなことは誰が見ても分かる話だが
お前がこっちで教えた直リンクや、実際の検索結果をかたくなに見ようともせず、自説を強要した事も過去スレに出ているからな
別段問題ない
そもそも、辰韓のヒボコの検索結果をどや顔でここで晒したのはまずかったなw
お前の言う通り、お前の主張も「完全検索だとお前のスレッドしか出ない=嘘つき」って事は誰でも第三者が「確認可能」だからなww ヒボコが新羅の人物にされた理由(考察)
こっちを見てもらうほうが楽
まずは「ヤフーで」「日矛は辰韓の時代」を検索。
そうすると
Uga 紀と渡来人 - 神奈備がヒットする
↓
http://kamnavi.jp/uga/ugatoraijin.htm
新羅の出身にすると、ヒボコの正体を日本人に偽装できると記紀は考えた節がある
どうせ伊都チョンは前回と同じで直リンク張っても「見えないニダ」って強弁するから、「伊都チョン以外の人たちで見て下いね?」ww ヒボコが新羅の人物にされた理由(考察)
こっちを見てもらうほうが楽
まずは「ヤフーで」「日矛は辰韓の時代」を検索。
そうすると
Uga 紀と渡来人 - 神奈備がヒットする
↓
http://kamnavi.jp/uga/ugatoraijin.htm
新羅の出身にすると、ヒボコの正体を日本人に偽装できると記紀は考えた節がある
どうせ伊都チョンは前回と同じで直リンク張っても「見えないニダ」って強弁するから、「伊都チョン以外の人たちで見て下いね?」ww >>830
そうやっていつも横から入ってくるよな?w
さすがクズw
ここはお前のスレッドではない
ま、旧財閥系の企業の営業ですが、それが何か?
お前の様なニートとは流石に違うw 「出雲伝承」の説明 ヒボコ=辰韓
伊都チョン以外の人なら内容が見えると思います
https://ameblo.jp/pelecyphoras/entry-12613285937.html
別に伊都チョンの感想はここでは不要なので、書き込まないように
「前回も見えない」って言ってたよな?じゃあ、今回も見えないよな?ww ヒボコは諸説あるが「日本人だった説まである」人物
それは先ほど出したHPであるが。タイトルが
「第6章 3.ヒボコは日本人だった。天皇の皇胤 | 但馬国ねっとで ...」となってる
その説のHPですら(失笑)辰韓と言及
三韓や三国時代の韓の国の時系列を見れば、普通に神功皇后の時代の4世紀が辰韓であった事は確か
その前のヒボコの渡来時期なんて当然に辰韓
新羅なわけが無いことは誰の目にも明らかw
それに関しては何の意見もないのか?伊都チョン?www
検索結果というクリンチしか、いう事はないニダか?w 『紀』では神功皇后の新羅征伐後、「内官家」をおいたところを「三韓」にしたと書かれている。
一般的に出回ってる情報としては「三韓」を「三国(高句麗・百済・新羅)」と同一視し、混同てきたといえる。
「三韓」が『紀』以前の日本資料では、まったく見えず、『紀』からはじめて使われた表現であること
しかも、元来の意味の馬韓・辰韓・弁韓ではなく、後の時代を指す用語として用いられたということ
『紀』における「三韓」は、特異な表現であることは留意すべき点である。
分かりやすくまとめた論文
博士論文(要約) 論文題目 『日本書紀』の「歴史」と朝鮮
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/7508/files/B17958_summary.pdf
新羅のヒボコだんでちゅか?そんなもの存在しませんw という事で、ヒボコの居た時期が、新羅ではおかしい事
「出雲伝承以外」に、「辰韓の日矛」の情報は普通にその辺にも転がってることが分かると思います。
伊都チョンの異常性は明らかw 伊都チョンが直リンクを張っても、見えない、検索しても出ないって言ってた異常なやり取りは
今でも過去スレで検索可能なので見てみるとイイwwww
伊都チョンの嘘つき認定の理由は
「完全検索でここのスレッドしか出ないからお前は嘘つき」という実にくだらないモノ
しかし、自分の言ってることくらい自分で守るかと思ったら、自分の異常性、恥まで晒して持論を展開(失笑)
さすが伊都チョンww
土下座して謝れば考えんでも無かったが、自分で埋設した地雷を自分で踏みつけておいてww
その恥をクリンチで他人に擦り付けようとする異常な姿を晒すから、容赦なく始末することにした←いまココ 伊都チョンが「完全検索は関係ないニダ」って土下座で許しを乞うのなら構わないが
そうすると「辰韓のヒボコ」は検索結果で出るという事を認めねばならない
それは嫌ニダって事なのだろう。つまり「原因と理由を一人で作って循環している」訳だ
そんなもの付き合いきれんよwwwwww >>813
また伊都チョンは嘘ばかり
包囲される奈良盆地の図
て、ここのHPだろ?
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16255664.html
また捏造?律令時代の話まですべてを一括でまとめた図じゃん
バカなの?www
そうやって嘘ついてきたの?www
なか群=中臣や多氏だろ
揖保=ヒボコだろ
海辺=神功皇后以降の海部で、安曇とは無関係だろww
超クズだな、伊都チョンw
画像にKAWAKATUって出たままだぞ?www >>838
つまり本当にオリジナル小説がソースでしたとw
ウプププ
きみはほんとうにばかだな >>839
>お前、WIKIはインチキ、そんなモノ参照してるのか前に自分で言ったよな?
いつ?
またいつもの嘘かい?
>完全検索でヒットしないことは事実。これが全て。おまえが行ったことだ。
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>840
>で?そのまま新羅のヒボコになったら渡来時期5世紀後半〜6世紀はじめになり
相変わらず根拠が無いな
いい加減発言には根拠が必要だという最低限のことくらい学んだらどうだねキナイコシくん >>841
君が書いたブログとか全然関係ないものばかりヒットしているがw
バカ「ヒボコの渡来は一世紀。故に辰韓のヒボコと呼ばれたキリッ → 呼ばれてませんでしたw
それどころかヒボコは日本人だったと言ってるサイトまでヒットしてるじゃんw >>842
「三世紀中頃は」と書かれているのが読めないのかねキナイコシくん
台与ことトヨヒルメすなわち神功が活躍したのは3世紀後半から4世紀にかけてだぜ >>843
君が貼った直リンクには五十猛=安曇磯良だって書いてあって大恥かいたのも忘れたのかねw
795 :日本@名無史さん :2020/12/12(土) 00:32:24.24
しかしキナイコシ君もつくづくおかしな男だな
磯良とイソタケルの同一性なんかは彼が自分で紹介した>>108のサイトにも書いてあることなんだがw
しかも別のページでは雷神とのつながりまで書いている
https://somosora.hateblo.jp/entry/2017/09/10/183000
> ところが、もう少し調べてみてわかったのですが、谷川健一著「日本の地名」によると、筒男は剣の神である経津主(フツヌシ)神や雷神と関係があることが
> 日本書紀から読み取れるということで、氏が地名辞書で調べたところ、筑前糸島郡雷山の項では
> 「山頂に雷神社あり、山下を筒原と曰ふ。雷神或いは筒神と唱ふ。蓋(けだし)住吉の筒男神に同じかるべし」とあります。
> さらにそこに雷神が造ったという筒城があるとも書かれています。雷神は筒神であり、住吉の筒男神に由来するというのです。
>
> また壱岐の石田町筒城には海神社があり、今は白沙八幡宮となっていますがその前は筒城宮といったそうです。
> 文脈から雷神は海神と同意義とされていて、まとめると、
>
> 剣神≑雷神=筒神=海神
>
> ということになります。
ここまで分かっているのなら、対馬の霹靂神社に祀られる雷大臣とのつながりまで考察すれば
雷大臣がスサノオで磯武良が五十猛命だと簡単に分かるはずなんだがなぁ
一体何が気に入らないのやらw
>>617にあるように、そもそも海神豊玉彦の子孫であり、自身も顔面に牡蠣が生じるほど海中にいる磯良には天から落ちてくる雷など無縁だろうに、
どうして雷神タケミカヅチとしての性格が与えられたのか常々不思議に思っていたが、>>7の対馬伝承を知った時その疑問は氷解した
五十猛命の先代のイソタケル(ややこしいなw)であるスサノオが雷大臣その人だったから、という極めてシンプルで明快な答えが得られたからである
その上、糸島の雷山に雷神社があるというのはもう決定的だろう
間違いなく、五十猛命の先代のイソタケルであるスサノオは雷大臣だ >>844
ただの想像のようだが
しかも考古学的根拠に乏しい >>846
>ここはお前のスレッドではない
自分のスレだと勘違いしているバカ「横から入ってくるなー」
君のスレッドでもない
だから俺は自由にレスを付ける権利がある
ブーメラン乙
>ま、旧財閥系の企業の営業ですが、それが何か?
そんな1秒でバレる嘘をついたって駄目だよキナイコシくん
君は日本語での日常会話さえ支障があるレベルのバカなんだから
君なんて雇う企業が無いことくらいみんな分かってるよw
もうバレてるんだから今まで通りニート丸出しの平日真っ昼間の連レスやってりゃよろしいw >>847
自分のサイトの宣伝かよw
それともUFO研究会のお仲間かい?
このスレでの君と同様根拠がない >>848
君のUFO研究会のお仲間サイトを紹介されてもねw
ちゃんと根拠のある話をしているサイトでなければ意味はないよキナイコシくん
>新羅なわけが無いことは誰の目にも明らかw
>>729の君の論理だと
「ヒボコ本人が新羅王子だと言っているのにそれすら、それすらデマ扱いwww」
となるわけだがw
ブーメラン乙
そもそも記紀の年代がループしている時点でヒボコがいつ来たかなんて確定不能
君は自分の勝手な前提で話をするからいつも負けるんだよキナイコシくん >>849
キムさんの論文ねw
さすがキナイコシくんは朝鮮人だけあって朝鮮人が大好きだな >>852
>伊都チョンが直リンクを張っても、見えない、検索しても出ないって言ってた異常なやり取りは
>今でも過去スレで検索可能なので見てみるとイイwwww
いや>>770で引用してやったとおり君が大恥をかいただけだよキナイコシくんw
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>853
君が大恥をかいているだけなのにどうして俺が謝ると思うんだw
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>854
>また捏造?律令時代の話まですべてを一括でまとめた図じゃん
そうやって君は一つ一つの情報をバラバラにしか把握できてないからいつも俺に負けるんだぜキナイコシくん
卑弥呼の3世紀以前に安曇は既に近江まで来てると教えてやっただろう
つまりその図の近畿エリアまでは台与=神功より前にもう包囲網ができてるんだよ
9 :日本@名無史さん :2022/01/27(木) 23:21:46.26
220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
弥生時代の海
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下だ
ここからももう奈良盆地の外は安曇に包囲されていることがはっきり分かる
>画像にKAWAKATUって出たままだぞ?www
借り物の画像なんだから当たり前だろう
隠す必要などないしな
上記の通り近江など近畿エリアまではもう安曇が制圧していることが分かっているのだから >>860で引用したキナイコシくんが引用したサイトの記事は磯良がタケミカヅチと同一神という八幡愚童訓などの内容にピタリとハマった
珍しくキナイコシくんが役に立った例である
彼にとっては自爆だったがw
487 :日本@名無史さん :2020/12/18(金) 03:03:55.26
>>455
タケミカヅチやアメノコヤネは元々安曇磯良と同神とされている
君の根拠のない妄想とは違ってちゃんと根拠のある話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
>
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より) >>855
小説って言い出したのお前な(失笑)
完全検索の話どこに行ったしwwさすがクズ嘘チョンw >>859
>「三世紀中頃は」と書かれているのが読めないのかねキナイコシくん
はい嘘チョン地雷踏んだwww
完全検索以外の検索結果、見えちゃったんだ?wwww
馬鹿すぎwwww >>857
>>で?そのまま新羅のヒボコになったら渡来時期5世紀後半〜6世紀はじめになり
>相変わらず根拠が無いな
お可哀そうに。文章まで意訳できなくなっちゃったの?ww
新羅になった後にヒボコが来たら、神功皇后は何代後の人物よ
そんなことも考えられない訳?wwww >>858
>君が書いたブログとか全然関係ないものばかりヒットしているがw
>バカ「ヒボコの渡来は一世紀。故に辰韓のヒボコと呼ばれたキリッ → 呼ばれてませんでしたw
紀元後1世紀なら既に辰韓が成立してるからな。なんにもおかしいことはない。
出雲伝承なんて今じゃ多くの人が目に触れてHP出してるからな。ww
少なくともお前の様な妄言は書いてないだろw
しっかし、「見えちゃったんだ?」www
おかしいな、見えないニダって強弁してたが、見えちゃったんだ?完全検索でもないのに?
前野はやっぱり嘘チョンだったわけニダか?w >>865
>キムさんの論文ねw
>さすがキナイコシくんは朝鮮人だけあって朝鮮人が大好きだな
その朝鮮人以下の時系列の感覚しか持ってないのが嘘チョンww
おやおや「辰韓の日矛」での検索結果なのに、今回は都合よく見えちゃったんだ?どうして?www
ねぇねぇ、前回の妄言は朝鮮式嘘だったわけ?見えないニダ、検索ヒットしないニダって言ってたニダよね?www >>866
>君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
>だから恥なんだということも分からないのか
いやいや、今回はそれでヒットした情報源を掲示してるので、お前が突っ込んだ段階でお前の前回の嘘が確定するのだが?ww
流石は伊都チョン
そもそもが「新羅の日矛」って言ってる程度の低能なだけはあるな。
普通に落ち着いて考えたらあり得ん話なのにwww >>866
>隠す必要などないしな
上記の通り近江など近畿エリアまではもう安曇が制圧していることが分かっているのだから
どう考えても、受け皿が中臣氏になって、安曇が浸透しているってだけの図だろ
制圧?www
包囲網?ww 海がないから当然、遅れるわな。
また水害地域でもある。
ほとんど鉄鏃など武器、出土などない
宗教をもとにした復興、開拓地だよ。
それが制圧だの、方包囲網とかになるのか?
さっぱり、わからん。 そもそもそんな昔から安曇が来たのなら、国造家がないはずがない
伊都チョンには時系列というものが何もないらしい
だから新羅の韓国年にも注意を払わない >>867
嘲笑ってww
で?完全検索で自分の妄言を検索してみたのか?ww
お前のいう通りでやったら出なかったよな?
その話はヒボコの話と一緒の時の話だよな?
じゃあなんで今になったら俺の辰韓のヒボコの話の引用先が急に見れる様になった訳?ww
お前本当に馬鹿だよなww >>869
おやおや、民間伝承は当てにならないのではなかったのか?ww
民間伝承よりは出雲大社上官家筆頭の富家伝承の方がよほど確度は上だよな?w
民間なんてお前みたいな嘘つきすら混じってる可能性がある訳だからそれこそ当てにならないのでは?ww
俺様の民間伝承は考古学のアホ、それが伊都チョンww >>877
>宗教をもとにした復興、開拓地だよ。
ただの田舎だろ。
元から何もないのに、何を「復興」するんだよ。 紀伊は元は吉備だった気がしてきたなあ
和歌山の由来も岡山らしいし
名草には片岡という地名もあるし
天道根命や道主命が吉備の王か、吉備担当の一大卒でその子孫が紀伊に移ったのか
ヒコナギサ=孝霊天皇の名前の由来は吉備のどこかにあった名草なのかもしれない
こうなると元伊勢の名方浜宮は勿論、奈久佐浜宮も吉備にありそうだ >>882
水害地
唐子鍵等だな。
古くは弥生時代前期後半
tps://www.asahi.com/articles/ASMCL3HG8MCLPOMB009.html >>885
否定の根拠も示さず「頭悪い。」は頭悪い。 等号はまず成立しない。
日本古代史は推理小説ではないし、エンタメではない。
クラーク・ケント=スーパーマン
だとか
ブルース・ウエイン=バットマン
なんかを真似して古代史でやってるんじゃぁ、物笑いのタネ。ww >>884
珍彦ってナギサタケ説もありませんでしたっけ?
時代的に景初の前の吉備国建国、倭国大乱期にフトニが居るので、記紀の演出としてその辺の認識の誘導があってもおかしくはない気が致しますね
ま、伊都チョンみたいにイソタケルから成務を消し飛ばして欠史を10代にするアホは論外ですが 記紀はエンタメを演じる小説と容疑者への誘導尋問での調書ではない。
10代もおかしいくこれも盲象。w 東京大学、慶応大学、同志社大学。
東の東慶、西の同志社www >>890
びっくりですよね
イソタケルと安曇磯良が同一人物なら、村雲から新羅建国の時代まで、四世紀中頃までの人物が一気に消し飛び、尾張氏、海部氏、磯城登美家、村雲から役10代が全て消し飛び、ヒボコとタジマノモリが幼年期で死んだらしない限り、絶対無理じゃないですかw
神功皇后ならナカツヒコという記紀の通りならさらに消えてしまう代が出てくる 全国に安曇地積があることは疑いようのない事ですが、それなら尚更伊都は、安曇由来の土地ではない事に議論が割かれないのはおかしいと思います。
先に入った一族が居たから伊都になったと考えるべきで、神功皇后と、君が代の関係から安曇のイメージが極大化してるだけというのが実情ではないでしょうか?
たまたま神社が近くにあっただけで、金印だって安曇と結びつけるものは一切ない
極論すれば縄文土器を安曇にする様なもの
そこに居たという事はわかっても、安曇のものであったかどうかなど誰にもわからない >>886
三島(越知)の領域と思われる場所ですね。
出雲や村雲が奈良に入ったとされる年代では、太国さんの説で紀元前後
出雲伝承で、紀元前二世紀
それより前の時代に、九州から水稲を持って来れる可能性のある一族は、宇佐、越知一族くらいしか可能性のある一族は今のところ候補はない
あそこには安曇地籍もない
楠木をシンボルとするのは宇佐と越知 名草一族は、紀伊に、稲作による人口増加が原因で、九州から移転する前はどこに居たのかは分かっていない。
移転の際には最初から人口の少なかった紀伊に来たと伝承され、奈良にいた可能性は少ない
しかし、楠木をシンボルとするのは、名草も同じ。
当時の九州の流行りだったのかもしれない
いずれにせよ、奈良の稲作は欠史8代が始まる前からの話になってしまうというのが実情 >>877
昔は、政治と宗教が一体となっており、それが卑弥呼だったと考えられます。
王様が政治で、宗教が姫巫女
少なくとも、前10世紀には佐賀で今のところ国内最古の水稲遺跡があり、稲作を携えて、祖神と共に全国に散らばる下地は、欠史8代を前に既に出来上がって居たと考えられます。
その中の越知ですが、人の住めない沼地を開拓するのが得意だったらしく、平地ではあるが湿潤で人も住めないところには結構、越知、三嶋などの地盤があり、白山信仰があります。
この人の住めない沼地というのがよく考えたらミソであって、先住民と諍いが発生せず、様子見で米食ってる姿を見て、他の一族にも取り入れたくなる様子だったと妄想します。
福井だかの越知山越知神社は今でも伝承を持っており、白山の源流とも言えます。
流域には九頭竜川があり、簡単に言うと戸隠信仰は、越知の可能性が高いです。
さらに九頭竜川には八坂入彦の墓があり、今でもその地籍は東風谷だったかと。
イザナギとイザナミの喧嘩を何事か呟いて収めた様子は正に宗教のイザコザを思わせますね。 宗教のいざこざはけっこうあろう。
富岡八幡宮だったか、美人宮司さんを殺害して自殺だっけか、した容疑者が
いたっけな。
コチラの知る某人も電話で某信仰女に神さまの話をしてたら、やにわに暴言
をやられてどなり知らされ、それは極道の妻よりひどい狼藉暴言だったと
あきれていた。s会だが創価ではない。 >>898
冨岡八幡宮の話は凄かったですよね
親戚、血筋同士の争い
古代の諍いそのものかもしれませんね お可哀そうに。美人宮司さんが神社関係者に殺害された。
神社内で主導権の抗争があって、原因はそんへんみたい。
神道界で最もあってはならないのがこれ。だがそれを乗り越えて主導権への
強力な願いが利害となって抗争に発展する。神道界でも悲しいが例外では
ないみたい。他の界よりは少ないだろうが、そういう抗争があるわけ。 >>900
出雲大社は、当社は千家は創建に際してほとんど出資しなかったこともあり、雇われ宮司でした。
上官家は最初は8の家系。左草上官家は最初はなかった上官家でした。途中で千家が影の上官家を作ってしまったのです
ホヒ家の千家はそこから現在の宮司の地位を獲得しますが、神魂神社の秋上氏の人を殺害したり、本来の本家である北島家を宮司職から追い出し、今の地位を築いています。
諏訪の神長官家もそうですが、常に気をつけるべきは身近な親戚、それこそが最も恐ろしい敵であるとしてきています。
それこそ狂人のフリをしたことすらあるそうです。
姉を殺害したのは弟さんでしたよね、あの事件。 聴いたことがあろうかと思いますが、中高あたりの英語の教師がいて教壇に
立って生徒さんに英語を教えるわけだが、たまたま英米あたりに一定期間居住
していて帰国しその学級の生徒さんになったから英会話も英語教科書の文は
ペラペラで教師もその生徒以上の英会話の腕には勝てないとかあって、
そうなると面子がないということか、出した通信簿では真ん中以下の成績に
してやられたことをそれがしも耳にしたことがあります。
こういうようなことが世の中日本中調べればだいぶあるんではありませんか。
コチラの行ってた高校では理化学、数学の問題で授業中教師がこれの学生が
持ってきた問題かそのへんなのか解けないところ、生徒さんの一人がみんな
の前でその問題を解いてしまったことがありましたと訊いています。
先生が解けないで生徒が解いちゃったんですよ。そういう皮肉なこと
があるんです。だから教師を志す方は必死に勉強しなけりゃあダメだと
思い知らされますね。
神道団体でも配下の信者はそこの教祖とか会長を神道界一の人物に
まつり上げたい者がおり、教祖、先生を絶対者に仕立て上げようと強力な
信念をもっててやってる者がいて、教祖、会長に歯が立たないほどの力量
を出す(とくに若い人)がいて教学等の持ってる内容が格段に飛びぬけて
上だと、そういう絶対者にさせてる配下の信者はえらく面白くないわけで
絶対性がくずれるから些細なことから怒り出すというかどなり出すの
狼藉性を放出してくるもので、これでスッタモンダのトラブルに
なっていくんです。常に自己の教祖が最上でなければならない信念が、
逆になるから、その思いはすごい怒号に向かっていきますよ。
>8の家系
これはどういう意味ですか? >>902
木築大社は、千家の雇われ宮司の体制からスタートしています。
資金の大半は富家
土地と資材は神門家
千家は殆ど出資していないそうです
そして、宮司以外の役職を8つ作り、上官家としました。
現在、出雲大社の上官家邸跡には一部の家の邸跡しか看板に出ていませんが、序列により一番近い家が冨家からなる8の屋敷がありました。
長谷家、平岡家は情報不足で不明ですが、八重垣神社関係の左草家は確実にホヒ系の上官家です。
創建当時の上官家と確実に言えるのは別火家のみ。
神門(ごうど)家の分家の別火家は大社の鍵を持たされた家柄で、千家は大社に勝手に入ることすら許されていませんでした
その上官家筆頭が富家。向家とも言いました。
その家が、口伝の歴史を守ってきた訳です。
先代旧事本紀に出ているミカヅチの系図は、向家系の分家の系図で、簡単に言うと事代主の家系そのものです。
神門家は、大国主家系です。
出雲では富家と、神門家が交代で大国主と事代主を分担して国を運営してきました。
伊都チョンが何を言おうが「記紀に出てくる本人たちの家系の歴史」な訳です。 >>902
それで、出雲系の事代主の家系のミカヅチと、ホアカリの父親の須佐男が同一人物と主張するのが、伊都教なんですわwww
アホすぎて笑えます。
ちなみに、対馬とかの神社に祀られてる雷大臣は、調べればすぐにわかりますが単に、藤原氏です
藤原氏と、さらに別の家系の安曇磯良が同一人物なんだそうですよ?伊都教ではwwww >>903
邪馬1国説の古田先生のことかな?
邪馬台国じゃないよ、邪馬1国さ。
オーストラリアはオーストリアではない。 >>883は道主命じゃなく道臣命だった
吉備の名草は長瀬だろうか?位置的には吉備の中心といった感じだが
他にそれっぽい地名が見つからないからとりあえず長瀬を名草と考えておく
あと大伴氏と久米氏について把握しておかないと吉備について理解が深まらない気がしてきた
神武東征で軍備を整えるため吉備にしばらく滞在してるがこの時も大伴氏と久米氏が動いたんだろうか
久米氏は海人族という説を見たが福岡の久留米とも関係あるんじゃないだろうか
道臣命も何故か神武天皇=山幸彦に厳媛なんて名を与えられているし謎が多い >>908
邪馬1国は、通常なら蔑称で書く人の名や国名ですが、正式に大陸のお墨付きで、黄色のロイヤルカラーの8本の属国旗を貰ったのが原因なのか、魏書で唯一良い言葉として書かれるのが邪馬1国の1の漢字
それも3回も書かれているので、どうやっても草書体の写し間違えではないですよね
そして金印の字→委奴(イド、イト、イツ)
金印の頃は朝貢しただけの頃だから卑しい字が使われてますが、基本は、1と同じ読みという説がありますよね。 つまり、近畿の大和も、出先機関の伊都も、同じ国名だったという考え方
ヤバたいとか、ヤバユエとか、そういうのは後世の時代の訂正ですから、1が正解だという考え方があります
中国は日本の地名や人名を短く音感で書きます。
ゆえにナシメはダショウマイ→タジマノモリ
故にヌカダイ→額田宿禰
タケシウエツ→武内宿禰
卑弥呼→姫巫女
昔は本当の名を知られると命を支配されるのと同じという考え方があった
特に女性は本名を隠す
故に卑弥呼が名前のはずがないのではないか
確か、普段使う名と、隠された名があり、女性の親からおしえてもらって、その名前を唱えると事実婚になる様な段取りだったかと >>912
書き出しからして根拠がないので、以下は読む価値なし。 まあ、若干ロマンは無くなってしまうが
金印「漢委奴国王」は後漢書とは無関係かもしれないという考え方がありますね
後漢書には「印綬」と記されていますのでもしかしたら銅印ではないかという説
金印なら「金印紫綬」銀印なら「銀印青綬」と明記するはずという考え方があります
そもそも、大陸から貰うハンコに、かんの、わの、なの、くになんて書きません
こちらは朝貢の際の人名と違ってピンイン、中国式で解釈するべきでしょうね。 >>911
魏とは友好関係だっただろうから、その卑は格下なんだが東京駅(魏のほう)
に対して大阪駅(女王国のほう)くらいの意味だな。うんといやしいなら
女王国側が怒るだろうから、そういう意味だな。
ところが天帝からすれば女王国のほうが上位の第1位の国家なのさ。
それだけこの国名は上位国家で半島の人参国家の世界第参位の人民とは
格が違う。この国は萬邦無比の國體を誇るのだ。 >>871
最初から見えているが何を言っているんだこのキチガイは
見た上で「辰韓のヒボコ」なんて言ってるのは君だけだという真実を突きつけてあげたんだよキナイコシくん >>873
>紀元後1世紀なら既に辰韓が成立してるからな。なんにもおかしいことはない。
にも関わらず「辰韓のヒボコ」なんて言ってるのは君一人でしたねキナイコシくんw
はい君の負け >>874
>ねぇねぇ、前回の妄言は朝鮮式嘘だったわけ?見えないニダ、検索ヒットしないニダって言ってたニダよね?www
おっ母国語になってきたねキナイコシくんw
俺は「辰韓のヒボコ」なんて検索結果はヒットしないと言ったんだがw
相変わらず日本語が駄目なんだなキナイコシくんは >>875
>いやいや、今回はそれでヒットした情報源を掲示してるので、お前が突っ込んだ段階でお前の前回の嘘が確定するのだが?ww
いや”辰韓のヒボコ”で検索したってそんなものはヒットしないんだが
君が嘘つきなだけ
>そもそもが「新羅の日矛」って言ってる程度の低能なだけはあるな。
いつ言ったんだ?
また捏造かい
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾参
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1603736641/
> 769 :日本@名無史さん :2020/11/17(火) 01:30:05.99
> >>765
> イソタケルの時代に漢字は無い
> イソタケルの音が先にあって後に文字が当てられたのだから、他の表現をいくら並べても無意味
>
> >>766
> それは天降るという言葉の解釈誤り
> スサノオは新羅に天降る前に高天原=九州にいて追放されたので新羅の曽尸茂梨に天降った
> つまり天降るとは当時の都である九州からどこか遠い地へ下向することを指している
> アマとは海、つまり天降るは海を渡って九州から遠隔地へ行くこと
前回ちゃんと天降るの意味を教えてやっただろうキナイコシくん
この意味を踏まえれば五十迹手が高麗の意呂山に天降った日桙の後裔と名乗った時点で
ヒボコは倭人だと分かるはずだが
そういえば君の検索結果にもヒボコは倭人とか書いてあったねw
自爆おつw >>876
>どう考えても、受け皿が中臣氏になって、安曇が浸透しているってだけの図だろ
卑弥呼の頃には近江や大阪湾岸まで安曇が来ているという図を見てそんな意味不明な解釈をするのは君だけだよキナイコシくん
まあ中臣は雷大臣の系譜だから安曇の分派ということにはなるがね >>877
山に囲まれた奈良盆地内には鉄鏃などがほとんど無いけど
安曇が来ていた大阪湾岸なんかからは北部九州には及ばないまでも出土がある
つまり盆地内だけ安曇と共に伝わった鉄器文明に取り残されていたということが分かる
3世紀末〜4世紀前半あたりの東征まで北部九州に抵抗し続けたのが盆地内の土着勢力たったということ >>878
国造がなければおかしいという君の俺ルールがおかしいだけだよ
でも大和地方を治めた倭国造は安曇の同族だがね
これもまた倭国造の祖である珍彦が安曇の系譜であり
>>360の対馬伝承にある雷大臣の息子日本(ヤマト)大臣がこれに当たるという>>362の根拠のひとつ
倭国造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0
> 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
>
> 氏族
> 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> 天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> 一般に綿積豊玉彦の孫とされ、神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる、海人族の一族。 >>880
俺は検索結果ではなく考古学や複数の古伝承の一致を根拠にしている
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな >>881
>おやおや、民間伝承は当てにならないのではなかったのか?ww
単独ではな
複数の伝承や考古学の成果との一致点を調べることで確度は増してゆく
当たり前のことなんだが君はそんなことも分からないのかねキナイコシくん
>民間伝承よりは出雲大社上官家筆頭の富家伝承の方がよほど確度は上だよな?w
他の伝承や考古学の成果と一致してないから確度は低い >>885
そうだね
>>362のようにちゃんと根拠に基づいていなければ駄目だよ
でも逆にちゃんと根拠に基づいているものを根拠なく否定するのも駄目だがね >>888
そういう根拠の無い放言をするようになったらもう負け確だよ
もう少し頑張りなさい >>893
君はまず記紀に書かれていることが正しいという間違った認識を捨てられずにいるから
いつまで経っても真実に近づけないんだよキナイコシくん
隋の裴世清が日本に来たとき倭王多利思比孤という男王に面会しているが
記紀はそれは推古女帝の時代であったと記している
つまり6世紀末〜7世紀の推古期に至ってもいまだに時代観が明白に誤っているのが記紀なわけで
そんなものを信用するという愚を犯して事実に近づけるわけがない >>894
伊都国が海人族の国であることは楽浪郡との交易が北部九州で最も盛んであったことから分かること
417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない >>905
>伊都チョンが何を言おうが「記紀に出てくる本人たちの家系の歴史」な訳です。
君は熊沢天皇とかに騙されちゃうクチだね
そんなものはいくらでも自称可能なんだよキナイコシくん
だからこそ他の伝承や考古学的成果と一致しているかを調べることが大事
それをしないから君は電波のままなんだよ >>907
>それで、出雲系の事代主の家系のミカヅチと、ホアカリの父親の須佐男が同一人物と主張するのが、伊都教なんですわwww
まずその家系分類が正しいかどうかが検証されていないのに決めつけちゃうあたりが
君が進歩できない理由なんだよキナイコシくん >>890
残念ながら君もキナイコシくんと同じカテゴリに堕ちてしまったようだね
まあ>>547で多少なりとも君を認めた手前少しだけアドバイスをしてあげよう
「論は大前提の上に立てろ」
これだよ君に足りなかったものは
せっかく労力を使って日付の統計を出したのに>>547に反論出来なかっただろう?
それは君が「数百年間口伝のみの壮大な伝言ゲームを経て正確な日付なんて伝わるわけがない」
という大前提を見落として論を組み立てたからそうなったわけだ
考古学遺物などが示す当時の時代状況、文化背景なんかの大前提を無視した論は脆い
だから前回キナイコシくんにも考古学をベースにして考えろとアドバイスをしてあげたのだが彼は聞く耳を持たなかった
その結果として毎回俺にいいようにボコられているわけだ >>932続き
で、>>362の図に関しての重要な大前提がこれだ
「魏志倭人伝の3世紀には邪馬台連合=東遷して後の大和朝廷となる勢力は当時まだ九州の北側1/3程度の小規模勢力に過ぎなかった」
勢力規模が小さいということは抱えることができる家臣の数も少ないということだから
本来この時代の記録には登場する人物や一族が少なくて当たり前なのだ
日本の大半を治めるようになった大和朝廷以後から見れば1/10くらいでもおかしくない
だが記紀のこの時代の記述にも非常に多くの人物あるいは神が出てくるし
しまいには九州を天上世界・高天原なんてものにしてしまったりもしている
これは記紀が天皇の支配権を正当化するために天照大神の「天壌無窮の神勅」によって
皇室は日本開闢当初から日本国全体の正当な支配者であるというストーリー展開をしたためにそうなった
各地にクマソやら何やらのまつろわぬ者どもが時折湧いては退治されたりするけれど
基本は全国が皇室の支配下で九州の北側1/3程度のちっぽけな勢力だったなんて認めないってわけだ
だから登場人物が妙に少ないと「あれ?えらく登場する朝臣が少ないけど当時は小さな勢力だったの?」とバレてしまうために
水増しが必要になってくる
これが古代において同一人物がやたら分割されて書かれた背景にある
こういう大前提の上に>>362は立っている
だから強い
君も虚心坦懐に>362の根拠を見ていけば図が正しいことが理解できるだろう >>916
>https://kakuyomu.jp/works/1177354054887333022
>つまり君はオリジナル小説の内容を「これがソースだ!」とドヤ顔で貼り付けた大馬鹿者ということだよキナイコシくんw
おまえさあ、引用文献とかはっきり出てるだろ?お前、一部だけ見てモノいってんのか?w
んで?新羅建国年はいつよ?その辺に転がってる情報ですら新羅のヒボコはあり得んよ。
神功皇后の時期を通り過ぎてるからなw
相変わらずのアホだなw >>917
>最初から見えているが何を言っているんだこのキチガイは
>見た上で「辰韓のヒボコ」なんて言ってるのは君だけだという真実を突きつけてあげたんだよキナイコシくん
検索しても出てこない、完全検索したらこのスレしか出なかったニダって騒いでるのはお前が引っ張ってきた過去ログに出てるから
今更嘘を並べても無駄だろww
自分で埋めた地雷を踏んだだけなのに、人のせいにするとはWWW
普段から根拠とか吠えてるけど、その程度の認識なんだろ?
そりゃぁ他の人から見たら根拠には受け取ってもらえんわなw >>918
>>紀元後1世紀なら既に辰韓が成立してるからな。なんにもおかしいことはない。
>にも関わらず「辰韓のヒボコ」なんて言ってるのは君一人でしたねキナイコシくんw
お前?とうとう壊れちゃった?w
辰韓時代に渡来したのなら辰韓のヒボコだろ
お前本当に馬鹿なんだなwww阿波よりレベルが低いわ >>920
>ヒボコは倭人だと分かるはずだが
>そういえば君の検索結果にもヒボコは倭人とか書いてあったねw
お前はアホなのか?ww
ヒボコは日本人に後で偽装する意図がくみ取れるって事でそれを引用したのにw
そもそもが、大陸の人間だと記紀で隠ぺいできないから朝鮮からきたって事にしてるだけの話。
続日本紀とかでもその後の工作は伺えると
朝鮮王族であることは神床家もきちんと言ってること。お前が何を言おうが結果は変わらない。 >>923
で?またまたWIKIは根拠にならないとか抜かしておきながらの引用か?ww
それで?
その前の文があるからお前の妄言は嘘とすぐにわかるわけだが?
>系図史料では椎根津彦が宇豆毘古(うずびこ)とも呼ばれ、『百家系図稿』所載の倭国造系図[1]や『諸系譜』所載の「大和宿祢及海直」系図[2]では、綿積豊玉彦命の子・布留多摩命の孫神とされる。
碓彦は紀伊国造家。布留だったら物部だろw
安曇は母系、父系の補完が無く、ボッチの系図しか存在してない、自称の域を出ない存在。
連になったのも遅いし、そもそも安曇部と海部は別の部民www
馬鹿すぎだろww >>925
>>おやおや、民間伝承は当てにならないのではなかったのか?ww
>単独ではな
安曇は単独の系図も存在せず、穂高神社社家の系図しか存在しない。
母系か父系のどちらかで繋がってるのかも不明な存在
系図の味方も知らない奴が知ったかぶりww >>927
ブーメラン♪ブーメラン♪
太国さんはお前より数段モノを知ってるし、独自の研鑽を積んでる人だよ。
お前とはレベルが違う。 >>928
>君はまず記紀に書かれていることが正しいという間違った認識を捨てられずにいるから
>いつまで経っても真実に近づけないんだよキナイコシくん
伊都説は他に資料がないから、悲しいほど記紀に依存してた考え方しか持てないよな
隼人族が海幸彦とか、レベル低すぎww
記紀の年号(日本書紀)は村雲から雄略は倍歴になってる。
推古の頃には既に正確になってる
宗書文帝紀の五王の時代にはオオサザキからワカタケルの6代が入る。一代は大陸から情報が抜けた。
大陸との交流が復活した時期で、中国式の十干と、インド式の十二動物による表記が可能になり、年代が正確になった。
太国さんとはこの倍歴の導入年数が少し違うだけ。
ワカタケルから逆算すると、村雲が前140年代になる
つーか、高校生レベルでも応神あたりで年代の誤差が少なくなる程度の感覚は持ってるものだと思うが、伊都チョンは違うんだなww >>930
>>伊都チョンが何を言おうが「記紀に出てくる本人たちの家系の歴史」な訳です。
>君は熊沢天皇とかに騙されちゃうクチだね
じゃあ、志賀島神社の女性宮司も同じだな。旧制安曇姓を名乗ってるんだろ?
インチキだなww >>931
>>それで、出雲系の事代主の家系のミカヅチと、ホアカリの父親の須佐男が同一人物と主張するのが、伊都教なんですわwww
>まずその家系分類が正しいかどうかが検証されていないのに決めつけちゃうあたりが
>君が進歩できない理由なんだよキナイコシくん
母系父の事代主、母系母のホヒ家、父系父のカゴヤマ、父系母の穂屋姫
これが明らかになってる村雲の家系(尾張家)なんかより、安曇の系図の方が余程説明が難しいのだが?w
お前は何も説明してないし、根拠もない 辰韓の王家から末子相続の為に追い出されたヒボコは、代11代大国主の代、神門家の速甕之建沢谷地乃身の時代に渡来した
出雲の八重垣の掟を守ることを拒否したヒボコは定住場所の提供を出雲に拒否され、出石神社の近くで海上生活を送ることになった。
尾張氏で言えば3代大君磯城津彦の頃
磯城登美家で言えば、建ミカズチの頃
海部で言えば笠津彦の頃
紀元後100年頃
そこからヒボコの代数を並べても倭国大乱期にはちょっと代数のずれがある
村雲を1世孫として系図を書いてみる
3天乃日矛→4多遅摩母呂須久→5多遅摩斐泥→6(多遅摩毛利、多遅摩比多可)→7葛城高額比売(母系)→8神功皇后
息長家暫定 7息長宿祢王→8神功皇后
息長家はヒコイマスの系統で、丹波道主→ヒバス姫の腹違いの系統
9開化(尾張+物部)→10ヒコイマス→11山代大筒木真若王→12メンドクサ→13息長宿祢王
ヒボコの系図は、少なくとも13-8で、5代くらい欠損していることが分かる。 >>941
記紀は故意にイカ様を書いてない。そうなら編者らは当時公文書偽造同行使の
罪で逮捕される。都合のわるい事実もちゃんと書いてるんだから、素直に
記述している。間違いの在りそうな個所は他説も載せてるところがあるから
おおむね正しいし、古史古伝ともおおむね同記述だろうから、ほぼ間違いは
少ない。 >>945
伊都チョンは、-2のスサノオから13辺りの事を無かったことにしてイソタケル同一人物説をぶち当ててるからホント、記紀以上のファンタジーですわね。
下手するとヒボコが渡来して奥さんにストーキングする暇すらないw
あれでいて九州説のつもりらしいですよ?あの男ww >>945
記紀の作為は、大陸をごまかす事であるので、それに反しなければ基本的に表現は自由だったと思います。
それと、各豪族が参加して自分達の利害を反映させてるのは、作為ではなく、要望の範囲に留まると考えられます。
蘇我馬子は、実在はしますが、本当は蘇我家は分家です。
名門蘇我氏の宗家である石川臣家の人物で、石川麻古が本当の名だったと。
自分の先祖が蘇我宗家を構った事を隠したくてそうなったという説があります。
物部氏の姫であるイカガシコメさんも同じでしょう
いくらなんでも自分の子供に悪魔子さんみたいな名前はつけません。
物部氏は基本的には帝記の編纂委員会からは明らかにバブられてますが、ヨキコト選ぶ司には入っていた可能性は否定できません。
みんなの妥協の産物が記紀と言えるでしょう。 世の中広くて、自分の娘にアクマとかいう名をつけた野郎がいて、一時論議
になったことはある。平成の始まったころだから30年ばかり経っている。
役場がみとめずちょっと名をかえて通したという。通常はこういういかれた野郎
はいないがな。w >>948
アクマ君の話、私も覚えています
確か、こりずに次の名をアク君にして結局揉めてた案件ですよね 伊都チョンがドヤ顔で出してきた安曇の「自称支配地の画像」ですが、あれも結構傑作というか、実は別の意味で重要なものである。
ナカ群に関わる中臣家は、宮中祭祀役の家柄であった。常陸国の鹿島神宮の元神官・卜部家の分家であった。
豊後国に移住したが、常陸国の中郡出身なので、中津臣の意味で、初めはナカツオミと自称した。
それで、豊後国に中津という町ができた。実は中臣氏は朝鮮系の血筋ではない。藤原がコヤネを千家から奪った事でそういう話になったと考えられる。
故に、100を超える代数のはずの千家は80代となっている。 それに対して、鹿島の鎌足は両親ともに八井耳系の国造家の血筋。太安万侶と藤原不比等は元々親戚であった。
富家のトミを名乗ることは基本、本家以外では禁止されていたが、地方では勝手に名乗る事があったらしく鎌足に関しては未だに「なかとみ」で「中臣」が変換される。
それほどに臣姓と、トミには利用価値があった。
藤原の春日大社であるが、奈良県の春日大社の創建に際して鹿島神宮から武甕槌大神が遷されたときのこと。武甕槌大神を運んだのが、まさに鹿たちであったと伝わっている。
つまり、なか群が出ているあの図だが、「鹿」の神事が、逆方向、関東から京の方に移動しているのだ。
じゃあ、志賀島ってどうかというと、「当初は伊都チョンはあんなところに鹿は居ない」と言ってたが、バッチリ「御射山祭」の様な神事があると伝えた途端にそれに憑依w
しかし、どう考えても、関東の方から流れてきた感じなんだよね〜。
鹿島は元々出雲系の神社。それが八井耳系、磯城登美家の血が入った彼らなら母系の神であるので移転が出来る。
つまり、中臣、藤原にミカヅチと鹿をもたらしたのが八井耳系という事
全国に広がる志賀の地名は、安曇には無関係という事なのである。たまたま志賀島神社しかのしまという事になってるだけで、その本質は神事を見れば真逆の方向に展開していくのである。
諏方に流れ着いた建南方は実は本体は直ぐに関東方面に移転したようである。
神長官の家系図には「スサノオが存在せず」タテミナカタからの系図になっており、一般的にはタテミナカタが祭祀を奪った様に解釈される。
しかし、安曇の系図を見れば分かる通り、「子種だけ落として」移転したと解釈しても全く問題はない。
神長官家の三代に守屋の次男が入ったという伝承があるが、長男の奈良の村屋神社の社家、守屋氏が系図を今でも保存していて、神長官家と系図が一致
更に、タテミナカタ時代から続いているはずの守矢家であるが、なんと千家と同じように80代しかない
千鹿頭神(近津、地方等とも)は諏方から押し出され、ツツコワケ神社になったとされるが、実際にはタテミナカタと一緒に関東方面に行ったのではなかろうか?
そして鹿の神事、御射山信仰を関東にもたらした可能性はある。 >>934
>おまえさあ、引用文献とかはっきり出てるだろ?お前、一部だけ見てモノいってんのか?w
文献からの引用であることを君が証明出来なければ無意味だよキナイコシくん
君が引用した文面はオリジナル小説しかヒットしないw
つまり君はオリジナル小説の内容を「これがソースだ!」とドヤ顔で貼り付けた大馬鹿者ということだよキナイコシくんw >>935
>検索しても出てこない、完全検索したらこのスレしか出なかったニダって騒いでるのはお前が引っ張ってきた過去ログに出てるから
相変わらず日本語が駄目だなキナイコシくんは
君の場合は「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれているんだ検索してみろー → キナイコシくんしか言ってませんでした」
だから恥なんだということも分からないのか
辰韓のヒボコと呼ばれたと君が言うから検索したら君一人した言ってなかったというだけのこと
自分が何を嘲笑されているのかも理解できないとは愚かの極みだな
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1607826113/
279日本@名無史さん2020/12/16(水) 22:36:06.88>>441
>204
ヒボコの渡来は一世紀。
故に辰韓のヒボコと呼ばれた。
末子相続のために朝鮮半島から追い出され日本に流れてきた。
垂仁記3年の渡来説は実は間違い。
おそらくタジマノモリからの始まりに偽装したかったのだろうと思われる。
実際には景初の時期だから。垂仁期は。
441日本@名無史さん2020/12/18(金) 02:04:37.30>>447
>279
>故に辰韓のヒボコと呼ばれた。
根拠は?
447日本@名無史さん2020/12/18(金) 02:13:48.08>>484
>441
検索してみてください〜
484日本@名無史さん2020/12/18(金) 03:01:42.53>>486>>491
>447
ヒットしないな
デマ乙 >>908
史学などやっちゃいけない人だな。
へんな宗教になっている。 >>936
>辰韓時代に渡来したのなら辰韓のヒボコだろ
それは君が一人で言っているだけ
ヒボコが辰韓出身であることを示す証拠はないし
渡来が紀元後1世紀という根拠も無い
そもそも辰韓は12の国に分かれた地域名であって国名ではない
辰韓の南には倭人地域の狗邪韓国があるのだから狗邪韓国のヒボコならまだ分かる >>937
>ヒボコは日本人に後で偽装する意図がくみ取れるって事でそれを引用したのにw
そんなことは書かれていない
自爆したのを取り繕っても駄目w
>そもそもが、大陸の人間だと記紀で隠ぺいできないから朝鮮からきたって事にしてるだけの話。
全く根拠の無い妄想だね
>朝鮮王族であることは神床家もきちんと言ってること。
そんなものは全く根拠にならない
>>955のとおり辰韓と倭の間に倭人地域の狗邪韓国があるのだから狗邪韓国のヒボコならまだ分かるが
直接面してもいない辰韓から来たなんて根拠は全く無い
というか普通に考えればヒボコと富加羅国(金官伽耶)の王子を名乗る都怒我阿羅斯等は同一人物
金官伽耶=狗邪韓国だろう
狗邪韓国は韓伝ではなく倭人伝に記されているので住んでいたのは倭人
これも普通に考えれば対岸の伊都から海人族が来てたのだろう
倭人が辰韓で鉄の採掘を行っていたとも書いてあるしな >>938
>>系図史料では椎根津彦が宇豆毘古(うずびこ)とも呼ばれ、『百家系図稿』所載の倭国造系図[1]や『諸系譜』所載の「大和宿祢及海直」系図[2]では、綿積豊玉彦命の子・布留多摩命の孫神とされる。
>碓彦は紀伊国造家。
『百家系図稿』所載の倭国造系図と書いてあるのも見えないのかw
本気で日本語がダメなんだなキナイコシくんは
紀伊は分家だ
>布留だったら物部だろw
俺は物部はスサノオ=雷大臣の子孫だとずっと言ってるんだが今更何を言ってるんだ?
物部の系図に伊香色雄の名があるが伊香氏の祖は雷大臣だからな >>939
はじめから系図なんていくらでもでっちあげられるものを盲信しちゃいない
複数の文献伝承の一致点と考古学的な出土品の間に一致が見られるものこそ信頼性が高い
それが示しているのは3世紀に安曇が近畿一帯まで進出しその文化を受け入れていなかったのは
山に囲まれた奈良盆地の中だけというのが事実 >>940
根拠のない発言は君の十八番だろう
ブーメランは君の頭に刺さっているよ >>941
>伊都説は他に資料がないから、悲しいほど記紀に依存してた考え方しか持てないよな
>隼人族が海幸彦とか、レベル低すぎww
いったいいつ誰がそんなことを言ったのやら
キナイコシくんは記憶が混濁してしまっているようだ
>記紀の年号(日本書紀)は村雲から雄略は倍歴になってる。
>推古の頃には既に正確になってる
正確になっていないから裴世清は男の倭王に面会してるんだよ
君はそろそろ願望と現実の区別をつけなさい >>942
>じゃあ、志賀島神社の女性宮司も同じだな。旧制安曇姓を名乗ってるんだろ?
別に本人の名乗りなんてまったく根拠にしていないが?
キナイコシくんは本当に頭が悪いなぁ >>943
日本語が理解できていないようだからもう一度言ってあげよう
まずその家系分類が正しいかどうかが検証されていないのに決めつけちゃうあたりが
君が進歩できない理由なんだよキナイコシくん >>944
相変わらず根拠が無いな
いい加減発言には根拠が必要だという最低限のことくらい学んだらどうだねキナイコシくん >>945
本当に都合の悪いことは書いてないよ
例えば天壌無窮の神勅で皇室に日本の統治権を授けたはずの天照大神が実は生身の人間に過ぎず魏に朝貢していたとかね >>947
>いくらなんでも自分の子供に悪魔子さんみたいな名前はつけません。
だからこそウマシマジが追放後の甘美内宿禰=スサノオだと分かるんだがな
ウマシは美称なので本名はマジということになるが
蠱物(まじもの)という言葉があるようにマジは悪い意味だ
普通に名付けられたとは思えない名だが追放刑を受けた罪人ならば納得がいく
和気清麻呂も別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて流罪にされたという実例がある
やはり>>362は正しいようだな >>950
>ナカ群に関わる中臣家は、宮中祭祀役の家柄であった。常陸国の鹿島神宮の元神官・卜部家の分家であった。
卜部の祖が雷大臣なんだが何を言ってるんだか
鹿島のタケミカヅチが安曇磯良と同一という八幡愚童訓などの内容ともリンクする
>>362の図が正しいことの補強材料でしかないぞw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%83%8F%E8%B3%8A%E6%B4%A5
>『尊卑分脈』では「初めて卜部姓を賜う」、「雷大臣命は、足中彦天皇の朝廷のとき、大兆の道を習い、亀卜の術に達し、卜部の姓を賜りその事で供奉せしむ」とある。 >>952
>>おまえさあ、引用文献とかはっきり出てるだろ?お前、一部だけ見てモノいってんのか?w
>文献からの引用であることを君が証明出来なければ無意味だよキナイコシくん
ぷっ(失笑)お前、ホントの無能のクズだなw
そのHPの一番下に、引用文献をまとめた項目が出てるだろ?
証明どころか、きちんと掲載してあるだろwwwww
何処前アホなのだ?お前が紹介したHPに、最初から引用文献のまとめの一章が掲載されてるよな?
証明なんて最初から完了しているのだが?www
相変わらずのアホだなw >>953
>>ヒットしないな
>デマ乙
それで?ヒットしないってお前言い切ってるけど、そこの部分もお前はコピぺして自分で掲載してるけど今回は都合よくヒットしたサイトが見れたんだよな?どういう事だ?おお?www
自分で自分の説明責任を示すとはwww >>961
>>じゃあ、志賀島神社の女性宮司も同じだな。旧制安曇姓を名乗ってるんだろ?
>別に本人の名乗りなんてまったく根拠にしていないが?
じゃあ、根拠も何もなしという事でw >>962
>まずその家系分類が正しいかどうかが検証されていないのに決めつけちゃうあたりが
>君が進歩できない理由なんだよキナイコシくん
決めつけてるのはお前。
支配体制とかマジで恥ずかしいwww
俺は、確定できてない、自称の域を出ない家系だときちんと書いている >>963
>相変わらず根拠が無いな
お前ほどではない
お勉強が足りないから、自分のスレッドでも馬鹿にされてるだろ?
こんなところに出張してくるなよww >>964
>例えば天壌無窮の神勅で皇室に日本の統治権を授けたはずの天照大神が実は生身の人間に過ぎず魏に朝貢していたとかね
これが魏書を正確に呼んだ結果なのか?ww
三輪山に鎮座してた出雲系の太陽の女神と、物部のアマテル神社の男神が習合して女神アマテラスになったのにww
神様が朝貢だってよwwww >>965
ウマシマジと(物部)と、武内宿祢の腹違いの弟が同一人物でスサノオだって?www
こりゃ傑作だわw
甘美内宿禰の宿祢は物部から貰った役職なのに、スサノオwwww
甘美内宿禰は摂津の額田に地盤があって、額田宿祢本人
最終的に出雲に居ついて、その地は宇治の地名になってる
スサノオwwww >>966
>>ナカ群に関わる中臣家は、宮中祭祀役の家柄であった。常陸国の鹿島神宮の元神官・卜部家の分家であった。
>卜部の祖が雷大臣なんだが何を言ってるんだか
中臣氏と、養子入りしただけの鎌足(八井耳)の区別がついてないwww
そもそも卜部の祖は一定してなくて、諸説ある
太占なんて、武蔵の御岳神社(大神信仰)にだってあるわw
ほんでもってまたWIKI引用か?w
俺様のWIKIは良いWIKIで、お前のWIKIはインチキだの伊都チョンww 正に捧腹絶倒ww
眠る前にこれはないわwww
WIKIも一応見てみたけどこんなのがある
系譜
父は臣狭山命、母は忌部首の祖・玉櫛命の娘である弥麻志姫命で、武内宿禰の娘である忍媛を娶って大小橋命、伊岐宿禰の祖・真根子命、志斐連、表連の祖・弟子命を生んでいる。また百済(『神社明細帳』では新羅)の女を娶って美乃直、栗原連の祖・日本大臣命を生んでいる
もうこの時点で景初近辺の人物であることが確定www
武内宿祢まで出雲の女系の舅の兄弟になっちゃってるwww
んなわけあるかwwww >>949
そうだったよな。w
あいつはその後に薬でパクられたんではなかったか? >>977
その後を調べたら亜駆くんの名は受理されてたみたいですね。 伊都チョンの話は、甘美内宿禰の地盤が宇治で、珍彦に近いって議論ならまだ理解できるんだが
何故そこにスサノオww あんな名前を親からもらうと、いじめがきついんじゃないかな。 >>980
児童相談所に入ったらしく、もしかしたら名前も変わっているのかもしれませんね。
お子さんはその後取材も受けているようですし、無事なんではないかと 「旧唐書」の「倭国日本国の条」に次の記事がある。
「日本国は倭国の別種なり。その国は日の辺にある故に、日本を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は古くは小国で、倭国と並立していた」
つまり当時、日本国と大和国は別であったことを示している。そして「日本国」は、安倍系が先に使ったものであった。
伊都チョンがドヤ顔で出したあのナカ群と海部の拠点、伊都までのあの画像は、鹿の神の勢力が正に九州に向かって伸びていった可能性を示している。
鹿島から春日へ、そして志賀島(しかのしま)へ
我々は安曇氏を極大理解しすぎているだけなのかもしれない。安曇を理解する前に、宇佐氏を理解しなければならない気がする
上毛野の竹葉瀬君は密かに連れ出され、応神として即位した。
そこは安倍と敵対する立場の一族は住めない場所 んで、伊都チョンの主張するこれが真実の場合
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
安曇氏は、八井耳系と、母系が九州の宇佐か安倍、確率は低いが、もしくは越智の家系の可能性が出てくる訳だ。
鹿島が春日の先である以上、伊都から渡った説は少なくとも成立しない
順当に考えるのなら、志賀島に鹿が入ったのは後年。それこそ支配体制が確立するにしたがって入り込んだ神事にすぎない。
下手すると、安曇磯良はwwww
ミカヅチを持ってこれるのは、八井耳、安倍系のみ
近くの関係しそう古墳は昔は安倍系が神主だったようだがww 安曇の隠され方を見た場合、父系=宇佐 母系=安倍の可能性も否定できないが。
月神信仰のメッカである九州の事を考えると、宇佐ではなかろうか。
磯良は神功皇后の征伐に遅参し、言い訳をしている。
安倍の血が入っているのなら、邪馬台国事件のあとであればわだかまりが残ってても不思議ではないし
そもそも、物部イクメ=垂仁は、椿大社でトヨを暗殺しているので、九州では豊国の宇佐も敵に回している。
そして、ヤマトでは土蜘蛛、九州では土雲の両方が存在している
邪馬台国事件(東征)(物部、宇佐連合軍)
景行天皇の九州征伐(物部)
両方とも物部氏によるものだから、対立軸は比較的分かりやすいので、記紀でも同じ奴にやられたとして雲に出来る。 >>984
文脈からすると、常陸国の鹿嶋の神も、大和国の春日の神も、志賀海安曇磯良のことです、と読めるな。
そもそも高天原から筑紫に降臨した天児屋根の末裔である藤原氏が常陸や大和に持ち込んだはず。 倭人は船で移動したので、内陸の大和より海に面した常陸の方が早くから発展した。
鹿島、香取は香取海の入り口の両岸に位置していて、海神族の東国支配の拠点だったのだろう。
鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、香取神宮の祭神はフツヌシであり、いずれも高天原による侵略のシンボルである。
フツヌシは筑紫に生まれた饒速日の末裔である物部氏の神宝でもある。
いずれにしても、鹿島は筑紫の海神族支配の拠点に他ならない。 >>973
>三輪山に鎮座してた出雲系の太陽の女神と、物部のアマテル神社の男神が習合して女神アマテラスになったのにww
三輪山の神は男だろ。
活玉依姫に子供を産ませている。
アマテルも男神なら(これは同意するのだけど)、その流れだと女神になる説明がつかないぞ。 後世にそのように解釈されるようになっただけ。
そもそもアマテラス系の天孫族は男系を重視するのだから、アマテラスも男でなければ不自然だ。
記紀ではアマテラスの性別は明記されてなく、平安時代頃まではアマテラスは男と解釈されていた。 残念ながらアマテラスは女性さ。
伊勢両宮の網様はいずれも女性だ。スサノオの姉の旨、記紀に明記されている。
秀真伝の男神説はこの著者の恣意的盲象。
アマテラスは超ミス・ユニバース級の美女であって、ひげ面の男神ではない。 アマテラスの元は三輪山の太陽の女神
男神は、その後に残った事代主→大物主 >>986
>文脈からすると、常陸国の鹿嶋の神も、大和国の春日の神も、志賀海安曇磯良のことです、と読めるな。
そもそも高天原から筑紫に降臨した天児屋根の末裔である藤原氏が常陸や大和に持ち込んだはず。
そうかもな、安曇氏なんて存在しなかったのかもな(失笑) 月読は、逆で男神に変更された
宇佐の月の女神は最終的に籠神社の工作で宇迦の神と合わさり、豊受の神として下宮に収まった
籠神社は、内宮と下宮の元宮になっているのはこういうカラクリ 月読命は忍者の祖。伊賀のほう。
忍びだから男女不明だがまず男だな。 >>977
結末しりませんでしたが、まさかのタイーホだったのですか >>996
月読は宇佐の月の女神ですよ
だから、卑弥呼は大和と、宇佐に別々に居た。 伊賀臣って、阿部系ではありませんでしたっけ?
椿大社の近くには神門家も居ましたので、阿部系が先にいて匿ったとしたらそういう話にはなるかもしれませんが 甲賀も伊賀も裏では繋がってて、共に阿部系だったと記憶してる。
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