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邪馬台国畿内説 Part437
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:35:36.51
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1552313269/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:37:03.63
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:37:23.69
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:37:41.62
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:38:01.16
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:38:29.79
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:38:47.88
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:39:14.67
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:39:38.24
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:39:57.01
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:40:16.61
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:40:36.76
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:41:19.35
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:41:37.94
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:41:56.12
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:42:14.73
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:42:31.86
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:42:50.09
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:43:06.63
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:43:23.03
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:43:38.23
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:43:54.58
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:44:12.65
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:44:31.72
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
0025◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:44:52.13
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:45:25.99
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0027◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:45:43.38
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0028◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:46:00.83
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0029◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:46:21.40
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0030◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:46:36.74
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0031◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:46:53.44
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 03:47:10.78
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0033◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:47:28.46
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:47:44.77
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:48:03.36
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:48:20.95
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:48:38.31
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:48:54.81
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:49:12.80
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:49:30.21
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:49:48.50
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:50:06.38
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:50:24.33
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:50:41.45
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:50:58.74
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:51:13.11
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:51:29.92
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:51:46.38
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:52:03.57
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:52:19.45
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:52:38.06
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:52:53.88
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:53:09.20
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:53:23.88
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:53:40.00
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:53:55.91
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:54:11.95
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/03/16(土) 03:54:26.77
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2019/03/16(土) 03:54:42.94
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
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2019/03/16(土) 04:01:01.57
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/03/16(土) 04:01:27.62
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/03/16(土) 04:01:45.02
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
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2019/03/16(土) 04:02:02.10
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
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2019/03/16(土) 04:02:20.47
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
0065◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 04:02:38.67
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0066◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 04:02:58.28
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/16(土) 04:03:17.48
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 07:29:27.05
 
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。

また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。

ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。

つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。

というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。

アホの>>1
アホの>>1
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 08:33:05.75
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 08:50:46.68
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 09:02:11.39
時代によって「冢」の意味も変化する。
三国時代の「冢」は大きくなかった。
馬韓人の家は「冢」に似ると書いてある。
当時の馬韓の住居は日本の竪穴式住居とほぼ同じ形。
箸墓のような山みたいな墓を竪穴式住居と比較する事はない。

三国時代には戦乱のさなか大きな墓を作る事など出来なかった。
大きな墓を造営していたら国が滅びる。
だから、諸葛孔明の墓は径30m。劉備の墓は60m。

邪馬台国の時代の倭国も戦乱が頻発していて、戦死者が沢山出ていたため、男が少なかった為であろう。下戸も複数の妻を持っていたと言う。
邪馬台国自体も狗奴国と言う敵を抱えていた中、箸墓のような巨大な墓を造営する事など不可能だったであろう。
あんな墓を作るのに血道をあけていたら狗奴国に滅ぼされる。

大いに墓を作って弔ったと言うのは精々が孔明の「冢」程度。
当時の中国の感覚では直径30mでも十分大きな墓だったろう。
三国時代の高名な武将の墓は直径10m以下が多い。

考古学的には箸墓は4世紀末か5世紀の墓だから、箸墓を卑弥呼の墓にしたい畿内説は初めから破綻している。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 09:48:02.50
後漢書

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:38:13.97
>>70鎮魂歌
>卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?

卑弥呼が死んで男王が共立されたけど倭国が乱れたんで
天の岩戸から天照の御魂を神上がりさせて
ヤタノ鏡に納め
トヨは天照の御魂を奉斎する巫女として共立されて
倭国連合は安定した

これが天の岩戸の物語りのベースだ

アチメの【豊日霎】はトヨで
神上がりしたのは天照の御魂だ

天照の御魂を奉斎する巫女がトヨで
天照の御魂の神託をつげる巫女的女王として
トヨは倭国連合を治めた
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 12:51:14.89
>>77

天の岩戸に隠れるということはオオヒルメの死を意味する

手持ち皇女は
夫が死んで古墳に埋葬されたことを悲しみ
もう一度夫に会いたいと嘆き悲しんで
その気もちを歌にした

手持ち皇女は
天の岩戸は力に強い男の手で開かれたが
女の私ではそれは叶わないと
歌に歌った

手持ち皇女の時代に認識は
岩戸に隠れる事は死を意味し
岩戸から出てくるのは神上がりした御霊だ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:13:12.48
>>74
>つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
>畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。

なんで?

畿内大和は博多の倭奴国より北だが?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:15:19.12
今度は東を来たと言い換えるのか。
奈良県は福岡県のおおむね東方だよ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:24:52.60
>>77

オオヒルメの御魂が神上がりして天照になっても
天照の神託を告げる巫女がいなければ
倭国連合は治まらない
 

神上がりした天照の神託を告げる巫女が共立されていたから
倭国連合は暗い状態から抜け出し明るくなった

共立された巫女が
トヨで天照がトヨに神憑り
その神託で倭国連合が平定されたのだ
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:32:22.21
>>396
>倭国連合の統治権っていみで大和って書いたんだけど
大和は地域名でもあるし日本全体でもあるし
使い多々に注意をようするかもね<

女王卑弥呼の「倭国連合」の事であれば、ほぼ九州付近の事であるし、
「東征毛人五十五国」の連合全体の事であれば、
九州を中心として、半島南岸部から中部までの範囲内位であるから、
大和の事だ、とする類スレ主は、×人間。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:50:13.10
それで、頭の病院には行って来たのか?
?????????????????❔
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:52:11.57
>>400
>3世紀には、銅鏡も鉄も出土量がめっきり減ってるし、<

減っていない。明帝鏡が沢山出ているし、鏡片が沢山出ているし、△は筑紫が早いし、
鉄も東征将軍らが大量に使った。

>絹も密度の低い切れっ端しか出ていない >

大和の絹は、3世紀末以後だし。

>奴国はそこそこだが、それが畿内大和の同盟国なんだから、<

比定地の詐欺。

>北部九州にそれ以上の権力中心はないよ<

邪馬壹國女王之所都の中心は、筑前地域であり、弥生銀座付近。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:52:23.98
いちいち反論なんてしないほうが良いぞ、
なぜだと思う?

「さあ?」としか答えられないんだろう
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:13:12.90
>>401
>倭国大乱前の男王の御霊から国譲りされたのは卑弥呼で
卑弥呼→トヨ→崇神(神武)と統治権は引き継がれるが <

倭國大乱なんて存在しないし、
「トヨ」なんてもいないし。

>崇神(神武)と統治権は引き継がれるが<

「崇神(神武)と統治権は引き継がれ「」てはいない。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:15:06.06
ますます、日本神話にのめり込む五畿説
皇国史観の権化になりよるばい
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:17:40.63
>>402
>神武は1世紀末から2世紀初頭くらい <

これも類スレ主は×。
二中歴に拠れば、神武即位元年は、紀元前91年頃。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:19:01.06
論破された九州説が何かほざきおる
弱い犬ほど良く吠えるとはこの事よ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:23:47.76
>>405
>巻向以前の最大に遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡で
同時代の他の地域の遺跡規模を圧倒してた<

最大遺跡は、弥生銀座付近の筑前地域。

>そこで男王の御霊を平原で作られたヤタノに移し
その鏡を三輪山に据えて 三輪山のふもとに巻向を造営し
九州の巫女である卑弥呼が巻向にはいって
男王の御霊を奉斎し御霊の神託に従って祭りごとをした<

「南≠東」などに拠って、×。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:27:26.74
>>408
>九州説の信用に一番も百番もあるまいに <

大和説も出雲説も、「南≠東」などに拠って、信用性0。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:32:05.84
「深曽木の儀から考察」
深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。
そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。
これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると思われるのです。
この山橘は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、青い石は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、これも阿波を象徴するものです。
そして私が注目したのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものではないでしょうか。
実際は高天原がどこにあったのかはわかりませんが、あくまで徳島県に高天原があったとするならば…ということで、
その場合、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになります。
https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html

天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。  やはり倭国(阿波)。
弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。 だから、陸稲や粟などの雑穀が主食。  
本来なら「麻」こそ、お手播きされたいんだろうけれど、今のご時世じゃあねwww   @阿波   
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 14:33:03.93
>>411
>>「東南」は、末盧國の出発時点での出発方向なの。
大和説はインチキばかりじゃないか <

>そのトンデモ説こそがインチキの最たる者ではないか
 東南方向に出発するが、そっちに何里進んだかは言わないよ
 そのあと五百里進んだが、どっち方向にかは書かないよ
そんな説明をする人間がいたなら確実にインチキ野郎と呼んでいいね

末盧國からの行程説明で、見えてもいない次の伊都国の方向を書いた、と言ったら、
そりゃ確実に、インチキ大和説野郎と呼んでいいねえ。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:02:24.68
>>415
>だから九州説は倭人伝に方角デタラメ書いてあっていいと言うの?<

だから、倭人伝での行程移動記録での方向記載は、デタラメには書かれていない。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:08:54.58
>>421
>>「有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之
という見聞移動記録があるから、魏使らの移動経路であったのであり、<

>そんなの誰の見聞を記事にしたかも判らないのに
思い込みだけで断定する九州説は 何ともイイカゲンな説だ <

魏志倭人伝に記載される対象は、原則は、魏代の記録だ。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:14:56.88
>>427
>>小野妹子が、文帝に「日本国」と説明しても、文帝に承認して貰えなかった。
唐代始めの武徳中になって、初めて裴世清が大和を確認して、唐に承認して貰った。<

>おい九州説 あまりにもムチャクチャな作り話だろ そんなことを書いた史料はないぞ<

釈日本紀紹介の延喜講記の記載だし、新唐書日本伝にも一部書かれている。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:16:45.13
>>97
>末盧國からの行程説明で、見えてもいない次の伊都国の方向を書いた、と言ったら、

可也山もトンボ山も見えるんだよね
九州説が延命措置のつもりでウソつけば
逆に急死するんだよ九州説
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:21:00.22
>>435
>九州から卑弥呼が巻向に入り<

類安本説は、「南≠東」などに拠って、×。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:23:19.04
>>440
これみたいに、なんの反論理由も言わず
結論だけ言い張るのが大和説
つまりダメな説
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:24:41.46
>>103
>釈日本紀紹介の延喜講記の記載だし、新唐書日本伝にも一部書かれている。

ウソでしょ
ほんとだと言うなら証拠みせて
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:47:35.27
>>1
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは「桜井市纒向」以外にありえない。


天理市南部も纏向遺跡じゃなかったっけ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:51:33.12
前スレ>979
>念のためトンマに言っておくが、陳寿は小学生ではなかったのだよ。

小学生以下って言われてるのは、陳寿じゃなくてお前だぞww
頓馬なのも前スレ>979のお前w
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:56:12.44
前スレ>990
>「倭地を参して問した」と解して、何にも問題がない、

ザラコクに言ってもしょうがないんだが、「参して問した」なんてのは
日本語として意味不明だろ?ww

参問倭地は、実際に倭国を訪問することではなく、
陳寿が大陸にいてその場で、倭地についていろいろ参照して調べることだ

「参問倭地が、魏使が訪問した範囲を示している」と言い張る九州説を
よく見かけるが、大間違いだと見つけるたびに注意してやってくれ
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 16:56:55.87
>>102
>魏志倭人伝に記載される対象は、原則は、魏代の記録だ。

その原則、誰が決めたの?
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:03:03.56
>>80
>今度は東を来たと言い換えるのか。
>奈良県は福岡県のおおむね東方だよ。

纏向遺跡が須玖岡本や平原より北にあるのは事実なのに
九州説はウソまみれで何もかも誤魔化すらしい
腐臭が漂うのは当然か
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:11:57.01
>>451
>不可知項目に溢れた遠い過去の歴史に対して
証拠一つ出さずに自分が考案した原則だけで 「100%絶対」と言い張る<

「言い張らない」。
「確率が高い」という。

「南→東」などの嘘つき騙しをし、
「根拠の史料事実」をもう何度も言ってあるのに、知らん振りして、
「証拠を言っていない」とヘイトスピーチ誹謗をする・・・・詐欺師。
そんな大和説
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:12:06.85
>>102
>魏志倭人伝に記載される対象は、原則は、魏代の記録だ。

原則はそうだが、
なんせ魏の時代はそう長くはなかった。
これだけの調査をする時間も人員の余裕もなかったであろう。
で、公孫氏時代に帯方郡の役人が調査した記録を流用したとみるのが妥当。
前半の年号の入っていない記述部分のいくつかがそうだと思われる。(たぶん206〜220ころのもの)
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:15:46.71
>>115
>纏向遺跡が須玖岡本や平原より北にあるのは事実なのに

九州説は、倭国=日本の源流を、とにかく小さな矮小な国としたがる人たちで、
北部九州と、壱岐、対馬、狗邪韓国の間の領域だけが倭国だと思っている

その連中の頭の中では、北部九州から狗邪韓国までの
幅数十キロの領域以外のことは頭の中にないんだよww
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:18:31.53
>>453
「南→東」だとか 、
「魏志の行程は魏使らの記録ではない」とか、
「冢=前方後円墳」だとか、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や「日本は倭国の別種の旧小国」の無視とか、
なにひとつ証拠がないまま断定する宗教思想
それが大和説
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:21:04.83
>>119
根拠はちゃんと提示しているが?
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:25:13.13
信じ続けてきたテンプレを今さら放棄すること
は盲信者には難しいことなのかもしれんな
若気の至りというものは怖いものだ
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:27:22.30
>>122
別にテンプレになんの問題も無いし
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:30:24.80
>>456
「邪馬台国」とか「大和朝廷」とか「畿内」とか「倭国大乱」とか、
「会稽東冶之東」とか、「トヨ」とか、「三月」とか、「景初三年」とかの、
史料事実などに全くのよう存在しない文言を、存在するかのように、
なにひとつ理由も言わず断定し続ける宗教

それが大和説
0125学術
垢版 |
2019/03/16(土) 17:31:13.49
夜魔でしょ。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:31:17.97
畿内説は不寛容で、柔軟性がなく、非論理的で、憎悪にあふれ、
偽善的で、心が狭い、そんな人たちがつくったテンプレを信じる
人の気が知れない。不寛容な人がつくったテンプレは不寛容さで
歪んでいる。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:33:46.46
テンプレのどこそこが間違ってるとかじゃなくて
不寛容と抽象的なことしか言えないのが九州説の完敗を物語っている
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:34:11.82
>>124
うそをつくな
理由ならテンプレに書いてあるだろうに
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:42:04.21
>>126
自分がしてる事を相手がやってると主張する
毎度の九州説のおかしな癖
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:43:51.83
>>477
>それがどうした?
「邪馬台国どこそこ説」というとき
「どこそこ」に入るのは後世の地名や地域名だろ?<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
また、「畿内」は3世紀の存在した地名でもなく地域名でもなく、
7世紀以後の半分偽書の書紀に拠って、
(大和説ありきの)結論先にありきで造作された嘘つき騙し文言。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:47:47.83
畿内説はテンプレのカルト的イデオロギーを信奉し、お墨付きを与え、支援し、けしかけている。次にねらわれるのはあなただ
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:53:26.70
畿内説は、テンプレを盲信するあまり、嘘をつき、真実を省略し、
事実を歪めることは無限に許されると信じている。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:56:05.47
>>135
嘘って、なに?
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:59:30.72
>>137
>例、南を東といいかえる

「いいかえ」たって証拠は?
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:01:33.98
>>96
>天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。

前スレでも話題が出ていたが、天皇陛下が皇居でお手植えするようになったのは
昭和二年の昭和天皇の即位直後から(最初の昭和2年は赤坂御苑、昭和4年から皇居)

神道の協議は教義は穢れを忌避するし、神道の中心たる天皇が泥田に足を入れるというのは
神道の伝統からは考えられないものであり、古くに源を持つものではない

陸稲と粟を植えるようになったのは、今上陛下からで皇室の伝統でもなんでもない
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:07:10.50
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:07:22.88
蚕を飼ったり、機織りをしていたという話?
ちなみに『松傾』?このような名前

『伊達の桃太郎』?
家は、むかーし、この周辺に住んでいたんだけど
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:08:11.13
>>502
>邪馬台国の旧字体の邪馬臺國は<

3世紀においては、「臺」と「台」とは、意味や使用例が違う別文字であるし、
5世紀の後漢書の「邪馬臺國」は 、
3世紀の魏志の「邪馬壹國」とは対象が異なる別の國。

>後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧に存在しているから <

唐代以後の史書の「自己解釈に拠る魏志の書き換え」は、史料根拠にはならない代物。
大和説のインチキ性がバレている。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:08:26.97
陳寿本人が倭を会稽より南だと確信している以上
行程の数字や方位が間違ってるのは
確定事項だからね
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:09:32.28
>>135
>畿内説は、テンプレを盲信するあまり

いや? 妄信なぞしてないし、きちんと指摘すれば、次から修正されてるぞ
スレ立てしてくれている>>1も、指摘を受け入れる柔軟性がある

例えば、>>57FAQ73の「青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ」の例示が
間違っていたのを指摘したら直してくれたよ

それに、投馬国の比定地を、>>1は吉備の重要性を重視して吉備玉島や備後鞆を当てているが
ここにいる畿内説の間では、出雲とする方が人気がある

別にテンプレを絶対視もしていないし、直していけばいいんだよ
ただ、九州説は意味のある反論一つできていないのが問題なんだけどね

まあ、九州説は既に論説の体をとっていないから、
どうしようもないところではあるけれどw
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:10:32.05
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0147日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:10:48.44
寺院があって・・・そういう話をしていたり、
いまの福島県?

老婆が言うのは伊達郡川俣町?
この辺りの話ばかりしている
0149日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:16:12.89
小手姫伝説、

調べてみると三貴子(神)と同じような話みたいだし、
父と母親がいて・・・?
0150日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:17:13.90
>>143
>5世紀の後漢書の「邪馬臺國」は 、
>3世紀の魏志の「邪馬壹國」とは対象が異なる別の國。

後漢書は、大倭王の居所が「邪馬臺國」とし、それが倭国のこととして書いてあり
その倭国で卑弥呼が王になったことが記されている
桓・靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 
事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王

魏志倭人伝では、女王の都するところを「邪馬壹國」とし、それが倭国のこととして書いてあり、
その倭国で卑弥呼が王となったことが記されている
倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻

これで、違う国のことだと言わないといけないのは、「邪馬台国はなかった」という本で
有名になった教祖様を妄信する人だけだよww
0151日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:17:59.16
あと本当に『姥清水』?この話も同じでしょ
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:19:18.60
盲信者が痛いところをつかれて暴れまわっているようだな
テンプレに疑問をもち洗脳から解き放たれるきっかけになればいいのだが
0153日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:19:48.68
>>145
はいはい邪馬台国邪馬台国
邪馬台国寄生虫内説w

倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:22:13.42
三貴子(父と母の話)の話というのも、
実際は他の国の話?だと言っている人ばかりだしな・・・。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:23:31.60
畿内説のテンプレにそんなに文句があるなら
九州説も独自にテンプレを作成したらどうか
まさか出来ないとは言わないだろうな
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:27:18.08
九州説はゴミみたいなテンプレで貴重なスレを無駄にしない
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:28:42.08
>>63
>魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


大きさが違う。
後円部先造説など成り立たない。

あと奴婢埋葬痕跡は?
0159日本@名無史さん
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2019/03/16(土) 18:31:27.54
>>140
>前スレでも話題が出ていたが、天皇陛下が皇居でお手植えするようになったのは
>昭和二年の昭和天皇の即位直後から(最初の昭和2年は赤坂御苑、昭和4年から皇居)

その水稲より「陸稲と粟」に意味があると言っているのだが。  なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。


>陸稲と粟を植えるようになったのは、今上陛下からで皇室の伝統でもなんでもない

「皇室の伝統でもなんでもない」のに、なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。

天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。  やはり倭国(阿波)。
弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。 だから、陸稲や粟などの雑穀が主食。  
本来なら「麻」こそ、お手播きされたいんだろうけれど、今のご時世じゃあねwww   @阿波
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:31:47.19
倭国は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国あり親しく交流した。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をす。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。
いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:32:17.74
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:32:28.03
卑弥呼の墓は単独墓か。
ならば卑弥呼の両親も王族なので単独墓であったという事になる。
その両親もまた単独墓ということになろう。

箸墓であれ、平原であれ、祇園山であれ、卑弥呼の墓を単独墓だというなら、
3世紀中頃に卑弥呼が死んだあと、いったん男王を経て、13歳で即位したトヨを基点にして、
卑弥呼はトヨから3世代前、そして2世紀前半の其の国の男王まで卑弥呼から4世代と仮定すれば、
単純計算で256個の単独墓がなければいけない。

もちろん古代は親族結婚が多く、叔母と結婚した、姪と結婚した、姉妹に一人の男が婿になったなどと言う例もあろうから、
もう少し数は少なくなるであろうが、それでも最低100強の墳墓は必要になるであろう。

纏向古墳群であれ、平原・曽祢遺跡群であれ、全くそれらを説明できない。

つまり卑弥呼の墓は単独墓ではなく、ひとつのリネージ、クランの集団墓だと仮定すれば何も問題はない。

塚は墳ではない。
三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。

その径百余歩(150m)のリネージ、クランの集団墓の一角に卑弥呼の塚が作られたのであろう。

場所は日本神話、歴史の原点である高天原(奈良県御所市高天)だ。
日本最古の神社の境内に、魏志倭人伝の記述通り、奴婢(土蜘蛛)とともに今もある。

http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_11.png
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:38:08.97
>>111
>天理市南部も纏向遺跡じゃなかったっけ

テンプレは意図的に天理市を差別している。
まあ、奈良の県民性が滲み出た政治的な文章なんだよ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:39:41.65
>>157
そりゃ九州説のテンプレなんて作っても
ゴミみたいな出来にしかならんのはわかり切ってるけど
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:39:51.81
>>118
>その連中の頭の中では、北部九州から狗邪韓国までの
>幅数十キロの領域以外のことは頭の中にないんだよww

少なくとも後漢書はどうやってもそうとしか読めない。
魏志倭人伝になるともう少し広いようだが、畿内まで届かないことは明白。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:40:42.59
>>140

「阿波の神様 大宜都比売」

大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。

名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。

『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。

阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:41:06.39
>>163
何も理由を言っていないのは君。

箸墓近辺に奴婢埋葬痕跡などない。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:46:23.17
>>162
諸葛亮伝の
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」が
「塚」と「墳」が明確に区別されていた
という話だと思っちゃう感覚が
ようわからない

漢文をよく知らない人なのだろうか
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:48:49.92
>>157
>九州説はゴミみたいなテンプレで貴重なスレを無駄にしない

そうだよな! 
九州説は、書き込みがほとんどない無駄なスレ立てをして電脳空間のリソースを圧迫したりしないんだよなww
九州説スレって、ここしばらくずっと消えたままだよねww
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:49:01.61
>>140
>前スレでも話題が出ていたが、天皇陛下が皇居でお手植えするようになったのは
>昭和二年の昭和天皇の即位直後から(最初の昭和2年は赤坂御苑、昭和4年から皇居)

その水稲より「陸稲と粟」に意味があると言っているのだが。  なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。


>陸稲と粟を植えるようになったのは、今上陛下からで皇室の伝統でもなんでもない

「皇室の伝統でもなんでもない」のに、なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。

天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。  やはり倭国(阿波)。
弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。 だから、陸稲や粟などの雑穀が主食。  
本来なら「麻」こそ、お手播きされたいんだろうけれど、今のご時世じゃあねwww   @阿波
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:51:46.07
>>159
>その水稲より「陸稲と粟」に意味があると言っているのだが。

どんな意味が?ww
水稲の方が重要だろ? 新嘗祭に使うのは水稲の方なんだし?

>なぜ「麦」などじゃないのか。

麦より作りやすいからだよ
こういう簡単で単純なことも、泡は知らない情弱チェリーピッカーww
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:51:52.31
その天皇家というのは、どこの国の話?



日本の話ではないんでしょ
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:52:32.84
>>169

その通り。
こんなくどくど言わないといけない時点でおかしい。
真理は単純明快である。
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武 
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:52:57.73
天皇・・・?

倭人、倭国などの話をしているんだから、
日本の話ではないよ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:54:41.25
>>170
山に因りて墳を為しは日本の前期古墳そのものではないか。

つまり平地にある箸墓ではない。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:54:58.62
>>163
>>158とか、ないも理由を言わないで反論のつもりなのが

それ、九州説じゃなくて「左側スロープ君」だよww
「奴婢埋葬痕跡」とか言い出すのは、尾根斜面が塚に見えるやつだけw

「蜘蛛」の二文字が共通ということだけで、神武を卑弥呼と夫婦にしてしまう
妄想チェリーピッカーが左側スロープ君w
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:55:15.21
>>173
>水稲の方が重要だろ? 新嘗祭に使うのは水稲の方なんだし?

新嘗祭に使うのは水稲なのに、なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。   @阿波
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:55:27.40
時代を考えてみて、倭国の時代でしょ?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:56:51.63
>>166
>少なくとも後漢書はどうやってもそうとしか読めない。

そう読めるのは、倭奴国までのこと
邪馬台国は大倭王の居所として、魏志倭人伝と同じヤマトにある
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:00:42.03
>>167
>「阿波の神様 大宜都比売」
>大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
>名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。

「「ゲ」は「ケ」の食物の意味で」
これが、伊勢外宮のトユ「ケ」ノオオカミの「ケ」なんだよな
食物神であって、太陽神でも、太陽神の巫女でもない
なので、外宮の神がトヨヒルメ(豊日孁)とされる意味がない
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:00:55.68
>>540
>畿内の辺り一帯で三世紀ごろは使われていた土器が同一<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
河内と大和とでも交流が殆どなく、しかも庄内は、石塚の3世紀末。

>前方後円墳もほぼ同時期に建造が始まる<

石塚で3世紀末であるから、卑弥呼の冢には全くならない。

>そして九州の緻密な理論編成とは何か<

史料事実や史料実態からの確率の高い帰納的推論。

>まさか1里を75mにすると帯方より1万2千里が九州北部になるので
魏志倭人伝は通常より5分の1の長さの短里が使われたとでも言うつもりかな<

大和説者は、まさか、魏志倭人伝の里記載を全て、でっち上げ造作だ、とでも言うつもりかな?。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:03:48.16
>>178
左側スロープ君は頭おかしいから、相手したくないんだけど
自分の巣で勝手にやっててくれないかな

>山に因りて墳を為し

山に因りて墳「と」為し、だよ
山を、墳に見立てれば、新たに起墳しなくてよい、という遺言
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:10:27.24
>>185
ヒミコ墓を箸墓のような単独墓というなら、
トヨから2世紀前半の男王まで200を超える単独墓を説明せよ。

できないだろ?
ヒミコは単独墓ではないからだ。
150mの「一族の集団墓「」の一部分に埋葬されたのだ。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:14:02.72
>>179
>「蜘蛛」の二文字が共通ということだけで、神武を卑弥呼と夫婦にしてしまう


国宝中平銘鉄刀の和邇氏の系図にヒミコもトヨもいる。
和田萃さんは見つけられなかった。
わしは見つけた。

    事代主
     ┣━━━━━━━━━━━━┓
   天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
     ┣━━━━━━━━┓
    建飯勝    渟名底仲媛━━ 安寧
     ┃           ┃
    建甕尻          息石耳    ※ヒメ踏鞴(248年没)
     ┃            ┃
    豊御気主         トヨ津媛━━ 懿徳
     ┃              ┃
   大御気主            孝昭
     ┃             ┃
    阿田賀田須       天足彦国押人命
                  ┃
                和邇日子押人命
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:16:23.36
テンプレに固執する盲信者が畿内説滅亡後もスレに跋扈している現況を憂う
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:16:56.75
>>186
>トヨから2世紀前半の男王まで200を超える単独墓を説明せよ。

これが間違ってるんだから

>ヒミコは単独墓ではないからだ。

これも当然に間違い

王の祖先が、男女とも全て巨大墓に葬られる訳がないだろう
王墓は一世代十数年から数十年に一つ、累代的に築かれるものだ

纏向古墳群の6つの巨大墓が、まさに王墓の系譜とみなせる
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:17:51.00
どこの国の話なの?
神話自体、日本(そもそも)の話ではないんだけど

有名な話でしょ
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:21:54.88
>>189
ということは卑弥呼のお母さんはどこに埋葬されたのかな?
いたであろう、叔父さん叔母さんは?

>巨大墓に葬られる訳がないだろう

メクリ1号などの小規模古墳でも説明できるだろ。

なによりも2世紀前半の王墓がないではないか。
したがって纏向説は論外。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:27:47.35
>>159

>弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。

それは阿波だけ
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:30:59.73
>>543
>畿内説は
畿内では三世紀ごろ一帯に大規模な前方後円墳が出現し始める<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
纏向の最初期の石塚の前方後円墳は、3世紀末であり、
卑弥呼の亡くなった3世紀中頃ではない。

>景初三年と魏年号の入った三角縁神獣鏡が見つかる<

明帝の詔書の景初二年ではないから、明帝の下賜鏡ではなく、
「海東」鏡の存在から、呉系楽浪鏡師らの渡来に拠る製作鏡であった事になり、
大和の△は、4世紀以後の△。

>これらの誰にでも確認できる事実に基づいて
畿内は三世紀ごろに集権的な政治機構が存在して
それは西暦239年ごろに魏と交流を持っていたんだろう
それは魏志倭人伝にある邪馬台国だろうと結論づけている<

大和の△は、4世紀以後。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:32:55.76
このスレに取り付く九州説という悪霊
これをどうやったら払えるか
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:35:20.63
日本の話ではないのに、なぜ日本(だということに)の話にしたいの?

「さあ?わかりません」・・・?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:35:27.70
>>194
>それは阿波だけ

ハハハハ  そう思いたいよね。   @阿波
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:36:18.96
>>196
九州説という悪霊ったって畿内説スレなんだから、
反論として九州説者が張り付くのは当たり前。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:37:54.45
言ってる意味が、わかっただろう?


頭の病院に行け、精神科・・・、
刑務所(自殺)でも良い
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:38:58.83
>>548
>年代改ざんなんて畿内説はしないよ ホケノ山は三世紀中葉<

ホケノは、有棺有槨の前方後円墳であるから、
3世紀中葉の卑弥呼の冢ではなくもっと後であり、
庄内3?〜布留であるから、石塚よりもずっと後であり、3世紀末〜4世紀以後。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:39:02.35
>>199
何を言われても東≠南と畿内はないと邪馬台国はないしか言わないのを
反論とは呼ばない
もちろん嘘出鱈目並べるのも
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:43:55.77
>>553
同じ土器が畿内一帯で見つかってるんだから
なおさらそこら一帯は同じ文化の地域だった事を否定できないね

>>551
>とくに畿内で見つかる記年鏡には景初三年と入っているのもあるし
景初三年は卑弥呼が魏に遣いを送った年と
梁書、日本書紀、太平御覧には記録されている
これら誰にでも確かめられる事実は
原理的に捏造する事が不可能なものである<

魏志や通典は「明帝の景初二年」であり、」
梁書以後の後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」史書は、半分×書であり、
根拠にならない。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:49:18.55
>>201
有棺有槨の前方後円墳は
3世紀中葉じゃないというのは何の根拠もなし
ホケノ山は棺の炭素14c測定で3世紀中葉と判定
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:53:38.13
「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」

古代日本には王が死ぬたびに奴婢を埋葬する習慣はない。
したがってこの記述は「事件」「事変」だ。

4世紀前半の崇神天皇以前に、奴婢を大量に殺害した「事件」は神武軍によるもの以外にない。

@波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ) 不明
A和珥坂下の居勢祝(こせはふり)  天理の和爾
B臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり)  葛城一言主神社
C高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討った


魏志の記述はCであろう。
ならば卑弥呼の墓の場所もそこにある。

その場所は高天原である。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:01:53.86
>>560
>同じ文化を持つ近い地域なら 同じ国だった事を否定するものではない<

胎土の違いに拠っても河内と纏向が別国的であった事になり、
更に、筑紫と河内や播磨も、胎土の違いによって、別国的になっており、
だからその「同じ文化」を齎したものは、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」であったんだろう、という事になる。

>三角縁神獣鏡は素材の銅が当時の魏の鏡と同じもの <

魏と呉の境界地付近であった徐州銅が、
渡来の呉系楽浪鏡師らの使用の材料銅に多く含まれていたから。

>銅出徐州 師出洛陽、徐州の銅で洛陽の鏡師作と銘があり
陳是作鏡と作者名も入っている<

洛陽出身鏡師らであれば、「師出洛陽」なんて、中国では何の自慢にもならず、
「海東」鏡も共存発掘されていたから、
「師出洛陽」なって文言を入れた事が、その鏡師らが呉系楽浪鏡師の渡来であって、
列島で「出目を自慢するため」に「師出洛陽」と紀銘したんだろう、という事になる。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:03:49.76
>>561
「南→東」などの嘘つきでの国民への騙し、それが大和説者のやり口かな
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:05:29.95
>>563
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しなどのように、
倫理的に破綻しているから勝ち目はないよ
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:08:23.13
>>566
>台与(トヨヒルメ)が神上がりした天照の御霊を奉斎し
あらたな巫女女王として倭国を治めることを 再現してる<

「台与」なんて、史料事実の存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×だ。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:16:14.05
>>568
>>倭王武の上表文の、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
で釘を刺されても、まだ大和説者は、
大和が、畿内とか吉備や播磨やか出雲や近江や東海や九州までを支配した、
という分裂幻覚の妄想から抜け出せない、遅れた歴史感覚の老人たちだね。<

>卑弥呼とトヨは共立された巫女的女王だけど <

「トヨ」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
「巫女的女王」とも書かれていないから、×。

>その次の崇神(神武)は共立された後に
武力による倭国連合の統一を目指した初めての王<

崇神≠神武だから×だし、倭国連合は、九州で起きた事。

>雄略のころにやっと武力による統一ができた<

その九州倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたもの。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:20:55.15
zarakokuのは反論ではない。

お経、呪文である。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:36:08.45
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:37:38.67
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:40:27.88
>>574
>北九州と関西圏の地名が位置も含めて同じということは
土同時期に北九州から関西圏に大量に人々が移住したことしめしてる<

九州倭国の「東征毛人五十五國」で、九州倭国の軍人や住民が一杯渡来して来て、
アメリカやオーストラリアの「イギリスの地名」などのように、
九州の郷里の名前の集落を造ったんだろう、いう事だろうなあ。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:54:21.59
>>584
>鏡が伝製品だとしても
それが見つかる畿内は240年頃に魏と交流があった事を示す <

纏向の鏡は、3世紀末以後のホケノの(卑弥呼か壹與の下賜の)鏡片が最初であり、
完鏡では、4世紀以後。

>ホケノ山は中に納められていた木の棺の木片サンプル5つを
炭素14c測定法で測ったら120〜240年頃のものと出た<

木棺では、プラズマ化に拠る「古く出過ぎる」年数よりも、
更に、年輪数古い年代が出ていたた可能性が高くなる。

>ほかの副葬品からもホケノ山は三世紀中ごろの物とされる<

土器では、庄内〜布留であるから、ホケノの年代は布留の4世紀になり、
「3世紀中頃」説は、全く×。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:02:59.54
>>606
もはや大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しと、
ヘイトスピーチ悪口と、根拠レス言い張りだけ
終わったな・・・
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:08:12.97
>>611
>巫女である卑弥呼が共立され
男王の御霊が平原で作られたヤタノ鏡に移され三輪山に据えられた
卑弥呼は三輪山に据えられた男王の御霊を奉斎しし
男王の御霊の神託を告げる巫女的女王として 倭国連合を治めた <

「南≠東」など拠って、×。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:15:04.78
>>616
>倭種の人=倭人の居住範囲がおおざっぱに倭国で、その中で卑弥呼の共立に
参加した女王(国)に統属している範囲が倭王・倭国王という時の倭国の範囲
畿内は、むしろその中心 <

魏志倭人伝は、女王國(≒倭國)と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とが、
違うモノだ、としてはっきり書き分けているから、畿内は×。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:21:39.94
>>622
>>ここに根拠のない飛躍がある。<

>根拠ならテンプレに書いてあるだろ<

「テンプレに書いてある」と言うんなら、自分が転写転載してみな。
スレ主は、「南→東」などの嘘つき詐欺師である事が判っているから、
探さないよ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:28:42.06
>>624
>>だから、倭王武の「東征毛人五十五國」の中には、入っていない。<

>畿内にいる大王だ毛人を東征するんだ 出雲が対象でないのは自明だろ <

唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
倭国王武は、北部九州の王であり、
北部九州から「東征毛人五十五國」をした事になり、
だから、(梁書に拠って)出雲の存在を知っていて、
瀬戸内から東に東征して行った、という事になるんだよ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:28:46.57
倭人伝を正しく読めば九州説になる
地図の読めない畿内説はこれが分からない
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:34:16.66
>>632
九州説は断定しないで、
史料事実や史料実態からの確率の高い「帰納的推論」をする。
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙し話を断定する。
しかしその理由は言わない。作り話だからw w w 。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:38:54.46
>>140
>前スレでも話題が出ていたが、天皇陛下が皇居でお手植えするようになったのは
>昭和二年の昭和天皇の即位直後から(最初の昭和2年は赤坂御苑、昭和4年から皇居)

その水稲より「陸稲と粟」に意味があると言っているのだが。  なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。


>陸稲と粟を植えるようになったのは、今上陛下からで皇室の伝統でもなんでもない

「皇室の伝統でもなんでもない」のに、なぜ敢えて「陸稲と粟」なのか。 なぜ「麦」などじゃないのか。 推して知るべし。

天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。  やはり倭国(阿波)。
弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。 だから、陸稲や粟などの雑穀が主食。  
本来なら「麻」こそ、お手播きされたいんだろうけれど、今のご時世じゃあねwww   @阿波
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:40:38.74
九州説を抑え込み、虚偽のストーリーを紡ぎ、倭人伝を冷酷に押しつぶすために、
功名心とデマにまみれた独善的な盲信者の存在を許すテンプレを私は拒む。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:40:54.87
>>656
ひたすら「南→東」などのウソを書く大和説の異常さ
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:45:22.16
>>670
記紀風土記や出雲文書などに目を奪われるイントルーダー体質が
大和説をダメにしてるのかもね
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 21:53:19.51
>>216
西暦240年頃の魏の年号が入った魏鏡が畿内で見つかっているね
卑弥呼の時代畿内は魏と交流を持っていた印

誤差を含んでホケノ山は120〜240年頃の造営
庄内土器は天井が崩落した時に混入したもの
ホケノ山は3世紀中葉が現在の定説
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:20:54.15
>>232
それなら嫌がらせに終始するのではなく
これが邪馬台国九州説だというテンプレ作成して
スレを立てる方がよほど効果的ではないか
それができないというなら
腐っているのは九州説のほうという事
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:21:33.55
>>671
>5世紀頃までの屯倉は畿内とその周辺にみられ、
5世紀頃以降は九州や関東など遠隔地に多くみられるようになるそうだ。<

違うだろうなあ。
6世紀初め頃に、葛子が、継体側に「糟屋の屯倉」を差し出した、
と「ついうっかり書紀が記載した」という事は、
九州倭国側にそれまで屯倉を持っていてあった、という事だ。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:23:21.18
>>233
言い換えたのは陳寿だよ
文句なら陳寿にいいな
もっとももう死んでるけど
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:25:15.41
>>676
このように、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
正常な判断をする知能も常識も無い・・・・だ、という事だ。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:33:56.23
>>192
>なによりも2世紀前半の王墓がないではないか。
>したがって纏向説は論外。

纒向説とか怪しげな造語を作っているが、畿内説では纒向はは卑弥呼の共立に伴って
新しく作られた計画都市だから、卑弥呼の共立以前の墓はないよ

それ以前の大和の中心は唐古鍵だから、唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡や三河遺跡のどこかに
卑弥呼の親の墓はあるのだろう
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:36:17.30
>>199
>反論として九州説者が張り付くのは当たり前。

なら反論しなよ
「短里はあるんだ〜」ってのは、反論じゃないぞww
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:40:30.25
>>220
>魏志倭人伝は、女王國(≒倭國)と、
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とが、
>違うモノだ、としてはっきり書き分けているから、畿内は×。

渡海千餘里の前の土地も、「皆 」倭種だし倭種の国
書き分けられてないし、皆同じく倭種だと書いてある
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:41:00.34
>>692
>いや東→西と征服してから征服した九州を足場に海を越えたのだから畿内政権しか無いだろ
九州の西側に国なんてもう無いからな <

口先で誤魔化そうとしても、ダメだ。
倭国王武の国は、(何度も書いたように)唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
(大和ではなく)北部九州にあった、という事だ。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:45:48.71
>>227
>九州説を抑え込み、虚偽のストーリーを紡ぎ、倭人伝を冷酷に押しつぶすために、
>功名心とデマにまみれた独善的な盲信者の存在を許すテンプレを私は拒む。

九州説果テンプレに抑え込まれてるって自覚あるんだww
まあ、まともな反論もできてないからなw
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:48:31.51
>>238
>畿内説では纒向はは卑弥呼の共立に伴って
>新しく作られた計画都市だから、卑弥呼の共立以前の墓はないよ


俺も畿内説だがそんな都合の良い話がなる立つわけなかろう。
箸墓をヒミコ墓にしたいがための言い訳だ。

>それ以前の大和の中心は唐古鍵だから、唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡や三河遺跡のどこかに
卑弥呼の親の墓はあるのだろう


4世紀前半の崇神以前の王の宮は葛城だ。
大神神社以前の式内・名神大社は葛城にしかない。

何のいわれもない場所を掘ったら遺跡が出てきたぐらいで何で中心などとなるのか。
唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡に前方後円墳もないではないか。
つまり無茶苦茶。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:49:10.57
>>242
>敗北の明らかな九州はお通夜ムード

まともな対話のできる九州説は一人も残っていないからなぁ
泡、左側スロープといった九州説以外のトンデモ連中よりも下しかいない
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:49:54.62
>>694
>>倭王武の倭国の位置は、唐会要倭国伝の「正北抵新羅」に拠って、
ほぼ北部九州であった事が確定しているから、<

>つまらん冗談はやめるんだな
その唐会要に書かれてる平安貴族を遣唐使として送ったのは畿内に都のある日本=倭国だ<

つまらん嘘吐き騙しの詐欺は止めるんだな。
唐会要は、倭国伝とは全く離れた違う場所に「日本国伝」を書き分けており、
しかも、倭国伝と日本国伝の遣唐使も、違う遣使だとしてきちんと書き分けているのだ。
だから、唐会要の倭国伝の「征北抵新羅」は、(大和日本国ではなく)、
九州倭国の事を言っている、という事になるのだ。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:52:36.57
>>238
>纒向説とか怪しげな造語を作っているが、畿内説では纒向はは卑弥呼の共立に伴って
>新しく作られた計画都市だから、卑弥呼の共立以前の墓はないよ

卑弥呼の王都が纒向だというのなら、素直に纒向説だと言えよ。
詐欺っぽい言い方はやめろ。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:53:58.11
>>244
左側スロープ君はこのスレでは正体ばれてるんだから、
自慰の書き込みに来るのは止めればいいのに

>唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡に前方後円墳もないではないか。
>つまり無茶苦茶。

葛城のどこにも3世紀の前方後円墳はないよね?
つまり左側スロープ君はでたらめ
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:57:23.83
>>247
>卑弥呼の王都が纒向だというのなら、素直に纒向説だと言えよ。

畿内説では、邪馬台国七萬戸の範囲は「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だと繰り返し教えてるだろ?w
邪馬台国は纒向ではないんだよ

纒向は邪馬台国の中の王宮所在地だ
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:57:40.99
>>248
>葛城のどこにも3世紀の前方後円墳はないよね?


俺は前方後円墳が卑弥呼の墓なんて一言も言ってない。
だから3世紀の前方後円墳なんて葛城にないのは当たり前。

前方後円墳とは瀬戸内海洋民物部の墓制物部。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:59:10.68
× 墓制物部
〇 墓制
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:00:37.51
>>694
>>ちがう土器であっても同じ国であることはありうる
つまり、土器と国家との相関関係はまったくないということ <

>同じ土器が出るというのは、同一の土器生産センターから土器の供給を受けている
ということで、同一の分業圏に組み込まれているってことなんだよ <

ダメだ。
筑紫と大和の庄内とでも、100%全く同じ形の庄内ではなく、
筑紫では、筑紫の胎土での(大和とは別のタイプの)「筑前型庄内」が、
別の(大和よりも古い)時期に、7「筑紫中心に造られている。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:02:20.19
>>249

トヨから2世紀前半の男王まで8世代、200の墳丘墓が言えない以上無理だね。
メクリ1号のような埋没古墳もあるのだから、纏向が王族の住処ならメクリ200号くらいはないとねw
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:16:59.90
そういえば長原遺跡だか、大量の埋没古墳があったな。
まぁせめてあれぐらいの王族の墓群がないとね。
纏向にはそんなの出ていない。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:21:46.32
>>250
>俺は前方後円墳が卑弥呼の墓なんて一言も言ってない。
>だから3世紀の前方後円墳なんて葛城にないのは当たり前。

ならば「唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡に前方後円墳もない」というのが
「纒向が卑弥呼の都」を否定する理由にはならんなww

畿内説では、卑弥呼の時代に前方後円墳が定式化したといっているのだから、
卑弥呼の親世代の墓があるであろう唐古鍵遺跡の墓域の清水風遺跡に
前方後円墳がなくても何も問題ない

相変わらず、左側スロープ君は論理的な因果関係とは無縁な思考回路だなww
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:21:58.51
長原古墳群は200基以上の古墳、古墳の痕跡が検出されてるね。

まぁせめてそれくらいを纏向から見つけてからヒミコのいた王都だと主張しようかw
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:24:50.45
>>253
>トヨから2世紀前半の男王まで8世代、200の墳丘墓が言えない以上無理だね。

王の祖父母まで全部王墓級と考えるのは頭おかしいだろう
それに、後漢書に倭國大亂 更相攻伐 歴年無主とあるように、卑弥呼が共立される前代は
倭王は居ない時期が歴年なんだぞ

無理な言いがかりは無意味
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:25:13.95
>>255
>ならば「唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡に前方後円墳もない」というのが
「纒向が卑弥呼の都」を否定する理由にはならんなww


なんで?おまえはヒミコをはじめ王族が前方後円墳という説だろ。
つまりお前の説が否定されるわけだ。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:26:16.77
>>255
>卑弥呼の親世代の墓があるであろう唐古鍵遺跡の墓域の清水風遺跡に
前方後円墳がなくても何も問題ない


瀬田遺跡は?
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:29:35.87
>>257
>王の祖父母まで全部王墓級と考えるのは頭おかしいだろう


そんなことは言ってない、だからメクリ1号を出してるではないか。
せめて長原古墳群のように200基を超えてから纏向が王族の土地と主張しようねw
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:31:21.18
長原のは地下鉄つくるときに見つけたやつだけど
纒向は田舎過ぎて発掘の機会が少ないからなあ
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:34:44.09
畿内には100m200m超のも含めて古墳が7000基はあるんだけどね
長原は200か凄いなあ
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:35:52.54
まぁ纏向も長原も物部だろうけどねw
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:39:28.34
纒向はイメージとしては王宮跡で都市そのものではないよ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 00:45:57.00
>>254>>256
同じことを何度も書くなよw

長原遺跡みたいなのでいいなら、珠城山古墳群ていうのもあるぞ

まあ、纒向古墳群にもまだ埋没古墳、削平された古墳はあるようだけれど
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 00:53:55.20
>>250

3世紀前半の博多湾岸で畿内ともっとも親密な那珂に造られるのが前方後円墳
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 00:56:29.12
>>258
>なんで?おまえはヒミコをはじめ王族が前方後円墳という説だろ。
>つまりお前の説が否定されるわけだ。

王族が前方後円墳だなんて、誰が言った?ww
やはり左側スロープ君もトンデモ連中同様、自分の「脳内畿内説の主張」を勝手にでっち上げて
それを否定して満足するんだw

卑弥呼の共立後だぞ、纒向型前方後円墳が作られるようになるのは
だから纒向より前には、瀬田遺跡のような渡り堤が周溝の掘り残しとして残された前方後円形に
繋がる墳墓はあっても前方後円墳はない
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 02:23:26.28
>>264
>纒向はイメージとしては王宮跡で都市そのものではないよ

王宮跡の根拠は
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 03:24:51.46
秦漢の宮都陵墓配置
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 05:00:47.38
>>264
>纒向はイメージとしては王宮跡で都市そのものではないよ

王宮跡であれば、記紀記述の崇神天皇の磯城瑞籬宮・垂仁天皇の纏向珠城宮、景行天皇の纏向日代宮と考えられる
突然 卑弥呼は無いよな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 05:47:36.31
記紀記述
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 05:54:54.96
関川氏の主張は指摘と論と分けて考えるべきであろう

指摘
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、
また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していない



以上から魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無い


論への反論はあるだろうが指摘は事実である
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:02:05.79
石野氏や寺澤氏の主張は要約すると
以下であり、纒向=卑弥呼の王都と断定していない
「纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都である」
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:09:10.30
>>265

2世紀前半の男王までさかのぼる古墳はないよね。

論外なんだけど。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:13:49.96
>>695
>>そしてその五枚目は一辺のみ。残りはどこへ行ったのだ。<

>破鏡は、残りの破片を親族関係者などが分けるんだよ。
だから、別に捨てたわけではない。
れっきとした様式だったということ。<

ふーん。
「一辺のみ」とはどういう状態なのか?は、よく判らんが、
面白い状態だな。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:14:28.61
>>268
>王族が前方後円墳だなんて、誰が言った?ww

じゃ2世紀の王族はどんな墓制なの?

>卑弥呼の共立後だぞ、纒向型前方後円墳が作られるようになるのは

共立という言い方が纏向遺跡に話を合わせてるだけ。
主体はあくまで2世紀前半からの王族。
さぁ2世紀前半の墓制を答えてもらおうか。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:22:27.82
『魏志倭人伝』には、「(倭人は)兵(器)には、矛・楯・木弓を用いる。」と記されている。北九州からは、銅の
矛も、鉄の矛もいくつも出ているのに、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳からも、銅の矛も、鉄
の矛も、まったく出土しないのは、どうしたわけか。
『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつくっていたことを記す。絹製品
も、北九州からいくつも出土しているのに、「纏向遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないの
はなぜだろう。
倭人は、鉄利器を用いていた。ホケノ山古墳からは、たしかに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土している
が、福岡県からは、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢
薫氏でさえ指摘しておられるところである。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 06:33:13.30
>>698
>【庄内式土器】・・・<

米田のこの分析は非常に参考になるが、
問題は、
柳田の「三雲の庄内が古い」を匂わす論と、
佐々木が「筑紫に筑紫の胎土で造られた庄内の存在」を匂わす論を言っている事と、
最も問題になる、
「筑紫の庄内が3世紀前半発生になるが、大和の庄内が3世紀末の石塚から」になってしまう事を、
考察して論じていない、という事だ。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 07:46:34.14
>>277
>2世紀前半の男王までさかのぼる古墳はないよね。
>論外なんだけど。

何が論外なのか全く理由を言わない
九州説って異常
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 07:53:40.59
>>246
>唐会要は、倭国伝とは全く離れた違う場所に「日本国伝」を書き分けており、
>しかも、倭国伝と日本国伝の遣唐使も、違う遣使だとしてきちんと書き分けているのだ。

まあ、こういうのが典型的な九州説なんだよね
第三者に確認できる事実じゃなくて
自分ひとりの主観による決定事項だけを
常に根拠にする

それはイコール「根拠がない」って事なんだけどね
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 08:00:34.51
>>281
>最も問題になる、
>「筑紫の庄内が3世紀前半発生になるが、大和の庄内が3世紀末の石塚から」になってしまう事を、
>考察して論じていない、という事だ。

そりゃ考察するわけないだろうそんな話w
田舎の素人のおじいさんが思いつきで言ってるだけで
本にも論文にも載ってないから誰も知らない

一体どうやって考察できるというんだ
出来るわけがない
不可能だよ
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 08:24:25.16
>>276
>石野氏や寺澤氏の主張は要約すると
>以下であり、纒向=卑弥呼の王都と断定していない
>「纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都である」


卑弥呼は「ヤマト」 国の纒向遺跡に居処したとしか言いようがないであろう。(寺澤)


九州説は嘘をつく
いつまでも・・・
どこまでも・・
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:02:25.12
>>271
纒向宮はもう見つかっているじゃないか。
それを邪馬台国と言い張る阿呆がいるから混迷しているだけ。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:05:22.00
>>282
2世紀の男王の墓を示せよ。
倭奴国に対抗して金印をもらえるくらいの勢力の墓のな。
証拠もなく言い張っているのはそっちだろ?
それとも東遷を持ち出すのか?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:06:39.24
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:24:07.95
>>287
>2世紀の男王の墓を示せよ。

なんでそんなもんを示す必要があるんだ?
卑弥呼は女王だし魏に遣使したのは3世紀だぞ
頭が変なのか?


>証拠もなく言い張っているのはそっちだろ?

証拠もなく何と言ったと?
頭がおかしいのか?


>それとも東遷を持ち出すのか?

何でそんなもんを持ち出す必要があるんだ?
気が狂ったのか?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:25:35.25
>>288
卑弥呼は「ヤマト」 国の纒向遺跡に居処したとしか言いようがないであろう。(寺澤)
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 10:22:05.84
>>290
>卑弥呼は「ヤマト」 国の纒向遺跡に居処したとしか言いようがないであろう。(寺澤)

この人、やけくそになってるの?   @阿波
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 11:31:16.11
寺澤は断定していない
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 11:37:10.73
>>292
「としか言いようがない」と言ってる人のどこが
「断定していない」?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 11:37:52.37
逃亡者
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 11:42:38.65
九州説は知性からの逃亡者
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:03:40.84
邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝当時の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう

卑弥呼を共立した勢力の侵略に抗っていた狗奴国と道饗祭の関係が気になる

 道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:21:30.23
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:27:34.66
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?

畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている


池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。

これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:29:01.60
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある

スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い

ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。


スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい

仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ

日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな

神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、【櫛八玉神】が料理をする話

この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:29:49.05
>>298
根拠なく、邪馬台国と狗奴国を割り振っているだけ〜。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:30:28.87
賀は牙
旗印を掲げた拠点
国境の防衛拠点、関

敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)

倭国大乱前、賀で囲まれた国が作られていた可能性がある

古代において、巫女は兵団とセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている

◎興味深いのは、【賀】と【櫛】の関係性
伊勢津彦、又の名は【櫛】玉命
伊勢津彦は伊賀に【石の城】を作っていたという伝承もある

伊賀以外の賀も【櫛玉】と関係があるかもしれない
櫛八玉神と何か関係があるのだろうか?
水戸神、速秋津彦、速秋津姫
祓戸四神
これらの神々との関係も気になる
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:30:54.86
>>293
纒向学研究センターのHP読むこと
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:31:29.68
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い

万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?

信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:34:49.31
>>301
>根拠なく、邪馬台国と狗奴国を割り振っているだけ〜。

「根拠なく、邪馬台国と狗奴国を割り振る」 ことさえ、出来ないトンデモ負け犬の遠吠え〜。   @阿波 
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:39:52.64
>>300
スクナヒコナのルーツは、環日本海やロシアなどに見られるコロボークであり、アイヌのコロポックルだよ。
スクナヒコナが出雲に漂着するもの、出雲と沿海州が交易圏を作っていた証拠。
黒曜石も沿海州で出土する。
コロボーク、コロポックルは同じ。
スクナヒコナもコロポックルだね。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:45:48.07
三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。

斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか

この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い

なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう?
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 12:46:50.54
やっぱり万葉集のこの歌に古代史は凝縮されている

真十鏡 可照月乎 【白】妙乃 【雲】香隠流 【天津】霧【鴨】

まそ鏡、照るべき月を、白栲の、雲か隠せる、天つ霧かも

照るはずの月を、白い雲が隠しているのでしょうか。それとも天の霧が隠しているのでしょうか。

「まそ鏡」は、澄んだ立派な鏡というような意味です。この歌では、月を導く枕詞(まくらことば)として使われています。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:21:25.61
>>307
>なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?

飛鳥のころから皇祖神だろが
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:21:39.98
>>299
放置て。
唐古鍵の勾玉は、ちゃんと中央部の区画溝の底に沈められたもの。
区画溝の水にパワーを供給してバリアを張るのが目的の祭祀。
それを放置て、唐古鍵人が泣くぞ〜。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:29:47.14
寺澤薫
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 

まあ、断定しているかどうかは読み方次第だが、考古学的資料から考えればこうなるってことだ
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:39:30.19
>>310
飛鳥の頃の皇祖神はタカミムスビじゃない?
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:39:57.40
いい加減な風聞
いい加減な理解
いい加減な論理

九州説を形づくってるのはコレ
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:40:15.76
>>307
斎王のもとへ夜な夜な通うというのは、天照が男神であることを如実に物語っているな。
天照が女神に変わったのは、いつなんだよ。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:41:57.99
>>312
その根拠は、何だよ。
ちゃんと居えよな、寺澤も。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:44:18.04
>>316
論文は読めないタイプの人?
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:46:14.04
>>296
なにわ、北河内は、大和の西、ないしは北西だろ。
南の狗奴国が、いつ北西に移ったのだよ。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:46:55.62
>>289
>>それとも東遷を持ち出すのか?

>何でそんなもんを持ち出す必要があるんだ?
>気が狂ったのか?

2世紀前半まで倭の王都は金印をもらった博多湾沿岸だよ。
2世紀末に卑弥呼が畿内で共立されて纒向を王都にしたのなら、それまでのどこかで倭は遷都したことになる。
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:47:58.08
南を東に言い換え次は南を西か。
畿内説はボロボロだな。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:48:37.88
>>320
政権が連続してるって根拠は?
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:48:48.29
>>315
持統天皇説があるね
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:49:05.78
テンプレが独善的な盲信者をのばなしにし九州説をけしかけている
日本考古学の頽廃は行くところまで行った。在野の学者は泣いている
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:49:32.60
>>296
阿波を見習え。
阿波は、狗奴国は南にあると、ちゃんと韻を踏んどるぞ。
南河内と和泉は、纏向の西じゃ。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:51:05.22
>>321
どこの誰が?

九州説Gの喋る日本語はボロボロだな
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:59:38.83
>>324
地図も読めないクソ
ヤマト盆地より南河内和泉は南にあります
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 14:19:15.65
>>324
悪口はいえるが
反論はできない九州説

落ちるところまで墜ちている
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 14:33:12.62
>>320

博多湾沿岸の倭の一國が貢献しただけだよ
2世紀までに甕棺造墓集団は没落した
倭人伝記載の倭人の風習はない
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 14:40:48.36
>>331
それも、主に中国側の事情で
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:23:27.65
>>322
同じ倭だもの。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:24:23.31
>>327
普通は南ではなく西と表現するよ。
ザラコクと変わらないな。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:26:05.48
>>331
>2世紀までに甕棺造墓集団は没落した

甕棺天孫族が没落して、棺あり槨なしの平原遺跡の卑弥呼が筑紫倭国の王となったんだよ。
畿内には該当する女王墓がない。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:37:35.03
私はここ何年にもわたって、テンプレを信奉する人々が自身の偏見と頑迷さに
麻痺していくのを目撃してきた。もはや畿内説につける薬は皆無だ
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:55:37.67
九州説は畿内説の悪口を言ってないと死んでしまう病に冒されている心の病人
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:02:26.48
>>327
和泉は纏向、御所の南西になるが、一方、大阪府南河内府民センターは羽曳野、富田林、狭山、河内町、千早赤坂あたりが管轄じや。
南河内府民センターだぞ、纏向、御所の西じゃ。
目開いて地図みろ。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:20:23.54
>>335
平原1号は2世紀末
九州には卑弥呼の墓の候補になるような遺跡ないよ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:21:29.36
>>338
言ってなくても平均余命5年未満だろうがな
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:05:55.54
畿内説滅亡後にテンプレ盲信者が暗躍するもことごとく
試みは失敗し、逆にテンプレの矛盾は露呈した
スレの勢いも今に衰え、本格的な冬が訪れるだろう
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:16:16.70
近畿説や北部九州説は大間違い。
大間違い同士で1000年ウソつきガクガク議論しても結論は出な〜い。
邪馬台国は、筑紫島上陸後2000里の九州中部にあったが正解。これならウソつかなくてよい。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:16:31.66
>>340
>平原1号は2世紀末

この年代に根拠がない。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:18:12.31
>>343
それも、根拠不確か。
邪馬台国は、筑後山門周辺。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:45:16.57
>>345
九州中部にあった肥後邪馬台国の南の境界は球磨川、北の境界は筑後矢部川。
そして筑後山門は、肥後邪馬台国の北の玄関口だった。
だから山門(邪馬門)と呼ばれたのだ。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 18:03:05.62
卑弥呼は肥国女王だったが、筑紫を含めた倭国女王に共立された。
しかし伊都に移った卑弥呼に反対した肥後狗奴国王が正統を主張して対立し、筑後川を挟んで対立した。
邪馬台国側の城は大野城と基肄城、狗奴国側の城は菊池城であった。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 18:12:19.50
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りとあるから書いている距離方位には正確性がない
一方三世紀の考古物で見たら邪馬台国は畿内にあったで決まり

魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの道順がどうこう言う時代は
とっくに終わっている
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 18:26:01.77
>>349
もう、打つ手なし、
道順なんかクソ食らえ・・・か、どうやら破れかぶれのようだな、、、
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 18:42:00.72
>>349
>一方三世紀の考古物で見たら邪馬台国は畿内にあったで決まり

邪馬台国ではないものを邪馬台国だと言い張っているだけ。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 19:12:02.27
もう目も虚ろ、
考古物を見れば、
なんでもかんでも三世紀・邪馬台国ゆかりのブツに見えてしまう近畿病患者な。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 19:43:46.49
>>350
道順辿れば行き着く先は会稽東治(冶)の東
沖縄か台湾と書かれていて九州説死滅

>>351
梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧に
卑弥呼が魏に遣いを送った年とある景初三年の記銘の魏鏡が出土し
魏志倭人伝にある径百歩に相当する前方後円墳が畿内にあって
九州説破滅

>>352
三世紀の畿内が邪馬台国だった考古物証を嫌というほど突きつけられ
九州説は目も虚ろになって壊滅
まあそもそも頭が虚ろだったからなんだけれど
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 19:51:15.48
やけっぱち、八つ当たり
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 19:56:32.28
>>353
もはや奇形内説の断末魔!?
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:01:45.20
さて九州説が死滅した所で
畿内説の精度をもっと高めるか

二世紀後半から三世紀初頭にかけて畿内は様変わりし
古墳時代に入った
その頃の恐らく前方後円墳の先駆けとなる古墳
帆立形をした円墳こそ最古級の初代畿内大王古墳となるだろう
神話上の神武天皇の古墳は40m〜100mの古いタイプの円墳
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:08:06.05
恐らく初代畿内の大王神武天皇の古墳は
古い古墳に見られる特殊器台の備わった大き目のホタテ型円墳だな
なんとか塚とか今は地味な名前がつけられてる平地にある小山かも知れない
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:15:20.62
>>344
>この年代に根拠がない。

公式の調査報告書に書いてあるのに
目をつぶり耳を塞いで
ナイナイナイと悲鳴を上げる九州説の滑稽さ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:18:38.31
近畿説や北部九州説は大間違い。
大間違い同士で、1000年ウソつき比べしても結論は出な〜い。
邪馬台国は、筑紫島上陸後2000里陸行の九州中部にあった。これが正解、これならウソつかなくてよい。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:23:25.75
>>702
>読売新聞  吉野ヶ里遺跡から硯  文字発見の期待も
>吉野ヶ里遺跡の出土品の中から見つかった弥生時代中期の硯すずりと研石とみられる石板は、
唐津市の中原なかばる遺跡で見つかったものに続き県内2例目で、
13日に記者会見した県教委の担当者は「有明海を通じ、中国大陸などと交流があったことを裏付ける資料。
今後、文字そのものが発見される可能性も出てきた」と意義を語った。
>吉野ヶ里遺跡ではこれまで、木簡などを削るのに用いる中国製の刃物(書刀)が見つかっていたが、
文字を使っていたことを示す出土品はなかった。
今年2月には、唐津市中原遺跡などの出土品から、国内最古級となる弥生時代中期の硯とみられる石板が確認されている。
  >県教委文化財課で吉野ヶ里遺跡を担当する渡部芳久さんは、文字が書かれた土器片が国内で見つかっていることにも触れ、
「最近になって弥生時代に文字が使われていたと考えられるようになった」と説明。
「県内でも、文字や筆などの文房具が見つかることが期待される」と話した。
石板2点は14日〜4月上旬、吉野ヶ里歴史公園内の吉野ヶ里遺跡展示室で展示する予定<

ふーん。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:23:31.59
しかしホケノ山は謎だな
特殊器台を備えた横穴式以前の竪穴式
副葬品は三角縁神獣鏡以前の方格規矩四神鏡や内行花文鏡
しかも鏡が枯渇していたのか破片
畿内入りした九州勢の末期を伺わせる
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:30:28.39
魏志倭人伝をつぶさに読んで邪馬台国が
畿内しかも奈良盆地にあったと考えるなんて
マジ頭がどうかしてるよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:31:54.79
ホケノ山古墳は謎だな
副葬品から今言われてる三世紀中葉じゃなくて前葉かそれ以前なのは明らか
どう位置づけたものか
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:33:11.37
>>363
それで、ただの石ころらしきだから、纒向でもたくさん出ただろう。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:36:56.47
>>364
魏志倭人伝を読めば
邪馬台国は会稽東治(冶)の東
沖縄か台湾の辺りと書いているよ

これを読んで
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は不正確だ
だから考古物で見たら邪馬台国は畿内に相当する位置にあったんだと
考えられないようじゃあ
マジ頭がどうかしてるよ
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:39:29.67
>>364みたいな
まったく理由の言えない人々が
九州説を葬ったと言って過言ではない
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:53:56.21
>>360
どう嘘つかなくていいのかな
そもそも魏志倭人伝によると邪馬台国は会稽東治(冶)の東
沖縄か台湾の辺りと書かれているんだが
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:57:41.15
>>360
>邪馬台国は、筑紫島上陸後2000里陸行の九州中部にあった。

それだと
邪馬台国の存在を推定できるような遺跡がない
投馬国の比定地がない
水行十日を帯方郡起点にするのは、インチキ読み
古墳時代最初期の大古墳がない

という理由で、否定されるんだよ
行程パズルで適当な場所を言って済む時期はもう終わったんだ
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:58:18.04
>>369
たびたび言い聞かせてるだろう。
邪馬台国が沖縄辺りなら、纒向は八丈島だ。流人め。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:58:24.25
ホケノ山はあれだけ大規模で少なくとも卑弥呼以前
初代の畿内大王の墓かもなあ
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:01:20.90
>>371
なぜ邪馬台国が沖縄に相当するなら畿内が八丈島になるのかな
意味がわからないんだが
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:05:47.97
>>373
知らぬふりして、そんかなこつを、、、ww
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:09:39.51
>>374
フリでも何でもなくて
邪馬台国が沖縄に相当するなら畿内が八丈島になるのかが
意味不明なんだが
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:11:31.28
>>373
九州説の痴呆化が進んでるな
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:13:08.38
>>356
>帆立形をした円墳こそ最古級の初代畿内大王古墳となるだろう

そもそも神武は大和においては居候状態だった。
前方後円墳は、畿内の支配者であった天孫ニギハヤヒ=物部氏の墓制だよ。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:14:06.30
>>360
>邪馬台国は、筑紫島上陸後2000里陸行の九州中部にあった。これが正解、これならウソつかなくてよい。

対馬海峡が三千里だから、中部というか筑後ぐらいでもいい。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:14:52.62
>>366
石ころも釘一つも出ない纒向
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:16:56.96
>>371
>たびたび言い聞かせてるだろう。
>邪馬台国が沖縄辺りなら、纒向は八丈島だ。流人め。

こういう論理的思考ができない人しか九州説に残ってないんだよなw

「邪馬台国が沖縄辺りなら」って時点で、理解できていない

魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、
「邪馬台国は沖縄辺りになる」が、沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし
30カ国の盟主の王都と見なせる遺跡もない

つまり、「旅程が正しい」という『仮定』は『正しくない』ことが『確定』してるんだよ

それなのに「魏志倭人伝の旅程を正しく読めば九州」とか言う九州説がおかしくておかしくてw
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:19:54.45
>>378
>対馬海峡が三千里だから

渡海は距離に関わりなく、ひと声千餘里とされているだけだから、
距離の見積もりに使ってもしょうがない

萬二千里は淮南子から引っ張ってきた世界の果てまでの距離だから、
実際の地理と照らし合わせても意味がない
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:25:16.97
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:30:53.40
>>382
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。

そんな単位はないよ
九州説死去済み
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:35:04.09
>>382
>会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある

短里とやらが使われていたなら倭は魏志会稽の東にならないのに
なんで証拠になるの?
言ってること支離滅裂では?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:43:03.78
>>733
>田油津姫の実年代は卑弥呼の120年後。 邪馬台国の最後の女王<

卑弥呼の死は248〜249年頃の可能性が高いんですが、
その120年後は、七支刀が百済から倭王旨に贈られた369年であり、
同時に、高良大社の初代玉垂命(女性)の着任した年であり、
それを祝して七支刀が贈られた可能性があり、
七支刀人形が瀬高町の「こうやの宮」にあり、
七支刀を受けた主は、「桐の紋」の服をきており、
また、高良玉垂命は、神功と一緒に新羅征伐をした伝承があり、
また、松野氏姫氏系図でも、その頃に「垂子(安志垂)」がおり、
垂子の数代前?に「宇也鹿文(鬼毛理)」が火国菊池評山門里住とされている。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:51:15.13
>>382
淮南子に準じるなら
1万2千里は世界の果てまでを示す距離で
邪馬台国までを示す距離じゃなし
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:51:23.17
>>736
>3世紀の倭に漢字が普及していたら中国の歴史書に
邪馬臺國と当て字で書かれないだろう<

邪馬壹國と邪馬臺國は、対象の国が違う(邪馬壹國⊃邪馬臺國)関係であるから、
当て字ではなく、×。

>その後倭を和に変えて大和としたりもしているから
3世紀の倭はまだ漢字の意味がわかっていなかった<

卑弥呼らは明帝の詔書が読めたし、返事の上表文も書いているから、
倭国上層部は、漢字の読み書きが出来た。
しかし、大和は、田舎だから、読み書きは出来なかったかも知れない。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:55:13.74
>>380
>魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、
>「邪馬台国は沖縄辺りになる」が、沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし

「旅程が正しい」と『仮定』するのは良いが、
その結果としての「邪馬台国は沖縄辺りになる」という帰結が正しくないんだよ。
つまり、キミの仮定と帰結のあいだにねじれが生じているのだ。

俺が読めば倭人伝の旅程は正しいし、その結果として邪馬台国は、正しく九州中部にあったのだ。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:58:53.51
>>388
>その結果としての「邪馬台国は沖縄辺りになる」という帰結が正しくないんだよ。

なんで?

なんで、ひとことも理由を言わないの?
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:58:58.75
>>737
>>適当なことを書くなよ。
同じところから供給したのではなく、同じ様式だというだけ。<

>ここで言っているのは、畿内第V様式の国=ヤマト国・邪馬台国のことだぞ<

畿内も邪馬台国もなかったから、×。

>そしてこの畿内第V様式土器も、生産拠点は複数ある<

筑紫にもある。

>その複数の生産拠点で同じ様式の土器を作るというのが、「分業圏の意思」としての決定であり、
その「意思決定の主体」がその「分業圏=国」の王だ<

おそらく筑紫の方が古く、
大和の第X様式は、九州倭國の「東征毛人五十五國」に拠っての、九州からの伝播だ。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:05:12.38
>>389
>「邪馬台国は沖縄辺りになる」が、沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし

自分でも、正しくないと認識してるだろ。その認識通りで良いのだ。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:18:19.61
>>391
どうしても?

何があっても絶対に理由は言えないの?


あなたの
考えなのに、どうして?
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:53:02.27
>>747
>21枚しか見つかってないなら百枚の銅鏡ではないね<

卑弥呼は、明帝の希望通りに、地方の豪族や官に鏡を与えたり、
親愛なる部下には鏡片にして下賜したりして、分配し、
それでも残った鏡は、宗女の壹與が相続し、
壹與が亡くなったら、遺族は、
渡来していた呉系楽浪鏡師らに錆色塗装をしてもらって、
平原に破鏡して副葬した。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:58:43.86
>>382
>それは一里が100メートル以下の縮尺となる

縮尺というのは、現実の地理の「実測値」が存在して初めて意味を持つ概念
萬二千里は、伝説から来る観念的な世界の果てまでの数字であり、
倭國までの実際の距離とは関わりのない設定上の数値だ

そこに「縮尺」という概念が入り込む余地はない

現在の通説の比定地に当てて考えると、渡海部分で2倍、陸行部分で4倍、
一里あたりの距離が異なる

実測値もなく縮尺もないのは明らかだ
伊都国、奴国間では、一里が約200メートルになるから
「一里が100メートル以下」すら破綻している

どうがんばっても、短里なんてないんだよww
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:02:51.23
>>386
>1万2千里は世界の果てまでを示す距離で
>邪馬台国までを示す距離じゃなし

淮南子の数字を使うことで、倭國からの遣使を「世界の果てからの朝貢」に擬してるんだよ

そして、「邪馬台国という倭国内の特定地点まで」の数字ではなく、
「女王国=卑弥呼を共立した祭祀連合まで」のざっくりした表現だと何度も教えているだろ?
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:06:17.71
>>752
>>平原からは21枚もの「尚方作」鏡が出ているし、<

>それ、公式報告書で仿世鏡ってされてるんだよ<

何という人の公式報告書?。

>倭国で作った仿世鏡が、魏皇帝から下賜された銅鏡100枚の
いわゆる「卑弥呼の鏡」の訳はないよな? <

倭国で作った仿世鏡に、21枚もの「尚方作」を記載した、という事が魏などにバレたら、
そりゃ、魏や中国から「無礼者」とでも言われて、難升米や掖邪狗等は、
率善中郎將を取り上げらえて、首が危なくなりよなあ。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:08:59.77
>>388
>その結果としての「邪馬台国は沖縄辺りになる」という帰結が正しくないんだよ。
>つまり、キミの仮定と帰結のあいだにねじれが生じているのだ。

いや?
陳寿自身が会稽東冶之東の南国で、計其道里當在という表現を使っているから、
陳寿はそれに合うように旅程を書いているのが明白だ

そこから「論理的に導かれる結論」は「邪馬台国は沖縄辺り」となるし
ねじれは何もない

>俺が読めば倭人伝の旅程は正しいし、その結果として邪馬台国は、正しく九州中部にあったのだ。

その読み方を具体的に書かないよなww
投馬国五萬戸の比定地も示さないし、邪馬台国七萬戸の遺跡も具体的に示さない
>>388はただの脳内お花畑のチェリーピッカーだ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:12:12.56
>>391
>自分でも、正しくないと認識してるだろ。その認識通りで良いのだ。

つまり、魏志倭人伝の旅程は間違っているし、会稽東冶之東という
陳寿の認識も間違っているってことだ

「魏使倭人伝の旅程が正しい」というのを前提として、
無理読みで結論ありきの場所に持ってくるのは、初手から間違ってるってこと!
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:28:39.48
>>396
>倭国で作った仿世鏡に、21枚もの「尚方作」を記載した、という事が魏などにバレたら、
>そりゃ、魏や中国から「無礼者」とでも言われて、難升米や掖邪狗等は、
>率善中郎將を取り上げらえて、首が危なくなりよなあ。

それ、76歳素人老人の空想だよね
理由になると思う?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:39:10.58
>>372
連合政権の揚力勢力の持ち回り代表祭祀者の最後の墓がホケノ山。
九州遠征の凱旋祭祀者でもあった。
しかし、その人物が死んだ後、連合政権の新しい代表祭祀者として南九州薩摩阿多から崇神がやってきて、彼が死んで箸墓に葬られた。
この崇神から持ち回り制はなくなり、薩摩出身の崇神の祭祀集団の弟子たちが大祭祀者に就任した。
その墓が西殿塚などの古墳だ。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:46:09.87
キナイコシの反論は、自分の頭の中の勝手な論理で構成されているから、反論としての用をなしていない。
短く言えば、耳を貸す価値のない妄想。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:47:56.86
>>395
>「女王国=卑弥呼を共立した祭祀連合まで」のざっくりした表現だと何度も教えているだろ?

そんなあやふやな距離を数字で表すわけないだろ。
魏志倭人伝にはその内訳まできちんと記載されている。
そもそもどうやっても畿内には届かない。
諦めろ。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:08:14.81
>>402
>魏志倭人伝にはその内訳まできちんと記載されている。

そんな考えで行程パズルをやってるから、九州説はバカなんだよ

渡海部分は一回千里、陸行部分は近ければ100里、ちょっと遠ければ500里としているだけ
どこにも正確な距離はない

最後の水行十日、水行二十日陸行一月は、里に換算できていない
換算できるなら里で書かれている

換算できない日数表記の旅程も含めて萬二千里としているんだから、
具体的な内訳を足し上げて出てきた数値じゃないことくらいは
論理的な思考ができさえすればすぐに理解できるんだがなww
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:14:26.22
「魏志倭人伝なんて信じたくない!」
その一念だけで生きているんだな。
でも魏志倭人伝がないと、そもそも邪馬台国も卑弥呼もないんだよ。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:14:56.09
>>402
>そもそもどうやっても畿内には届かない。

水行二十日で出雲、さらに水行十日で丹波、そこから陸行一月で大和まで、
北部九州からきっちり行けますが?

これは水行が1日20キロ程度=時速5キロで午前午後2時間ずつ
陸行が雨の日や途中の集落の滞在日も入れて1日平均6キロ弱、の無理のない速度でつける

逆に九州説だとこの水行陸行記述をごまかさないとどうにもならないだろww
それで、水行の起点が帯方郡とか、投馬国が半島南岸とか無理読みを始めるww
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:23:22.81
>>401が耳を貸す価値のない妄想の典型だろう
具体的な内容が何もなく、ただ悪口を言っているだけだ
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:27:51.27
>>404
>でも魏志倭人伝がないと、そもそも邪馬台国も卑弥呼もないんだよ。

本がなくなったら実在の国や人物がいなくなるか?
それこそが妄想だ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 01:57:00.68
日本書紀が無かったら知識として消えてしまう人は沢山いるし
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 02:18:59.44
>>408
知識として消えるのと実体の存否は
ぜんぜん別次元
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 02:24:30.24
どうも畿内説はイカン
方位と距離を
行程とか旅程でひとくくりにして間違いだという
方位と距離は別々に評価すべきだと思うよ
短里への批判もわからないでも無いが、畿内説は距離は間違いで片付ける
九州説も距離は間違いで通せばいいと思う。
残るは方位
おのずと畿内ははずされる
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 02:43:01.79
方位だけで邪馬台国探しができず
九州説は消える
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 04:57:51.16

イミフ
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 05:15:14.20
少し
>1万2千里は世界の果てまでを示す距離<

自郡至女王國 萬二千餘里のことであろうが
しからば、女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南・・去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
ここは、宇宙であろうか?

>>読売新聞  吉野ヶ里遺跡から硯  文字発見の期待も

邪馬台国論争は横に置いて、文字発見に期待しようじゃ無いだろうか
畿内説が難癖つける必要はない。考古学の伸展につなはれば喜ばしいことではないか
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 05:29:05.64
>>412よ、知性がないのは悲しいのう
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:22:16.60
距離情報も放棄を余儀なくされ
延々と敗走を続ける九州説の悲惨
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:33:07.10
馬鹿だね 畿内説は距離情報を誤報で逃げてるだけジャン
単里が正解かどうかはしらんが、何も考えない畿内説より好感が持てるよ
さて、畿内説では倭人伝の方位は何処と何処が間違っていると言うのかな
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:36:02.41
いわんや 同じ三国志の魏志韓伝の方位も間違っているとでも畿内説は言うのかね・・・
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:44:18.86
>>416
>馬鹿だね 畿内説は距離情報を誤報で逃げてるだけジャン

「逃げてる」という理由は?
「何も考えない」と断定する根拠は?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:48:36.08
書かれてる事と実際が違ってればそら間違ってると言うさ
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 06:59:03.42
>>413
西方の大月氏まで1万6千里とされていたから
それに対抗して1万2千里に4千里足したととっくに結論が出てるぞこのトンマ

もし卑弥呼の時代に倭国に漢字が普及していたなら
魏志倭人伝に卑弥呼や邪馬台国と当て字で書かれるわけなかろう
逆に漢字が普及していた地域は邪馬台国じゃないまである
ゆえに硯が出たというのなら
九州は邪馬台国ではありえない事をさらに証明されてしまったという事になる
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:05:21.23
硯が出てしまったから九州は100%邪馬台国じゃなくなったな
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:12:12.03
>>417
>いわんや 同じ三国志の魏志韓伝の方位も間違っているとでも畿内説は言うのかね・・・

なんで相手の言ってることじゃなくて
自分ひとりで空想したソレを非難するの?

頭ヘンなの?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:12:44.94
>>419
あんたが述べればいいじゃん南→東の根拠を
瀬戸内海を1か月も航行し方位を間違えるかな
それも幾度も航行しているのだよ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:16:43.03
>>424
当時の政治的祭事的な事情で
邪馬台国は帯方より南1万2千里にある事になっていたんだよ
実際は東や西や北にあろうとも
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:16:46.20
>>423
三国志読んだのかなww
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:23:33.37
>>425
それ距離への疑義だから方位と関係ないよ
距離なら、東であろうと1万2千里は畿内をとおり越してしまうよ

比例計算したら、短里も捨てがたいよ
不弥国までが1万5百里だろ


さて「政治的祭事的な事情」を詳細に述べてくれないか
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:34:21.29
>>427
とおり越すって証拠は?
九州説またテキトーなこと言ってるの?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:37:26.22
>>424
>あんたが述べればいいじゃん

ほら、また九州説は逃げ回る
w

畿内説側の説明はテンプレにも投稿にも
たくさん書いてあるよ
九州説が逃げ廻ってて読まないだけ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:43:01.76
>>427
漢の時代から倭国そしてその都は南1万2千里の極南界にあるとされていた
朝貢に来る国は遠ければ遠いほどいいという一種の祭事
魏もマネしてそれをそっくりそのまま邪馬台国に当てはめた
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:48:12.06
>>413
>自郡至女王國 萬二千餘里のことであろうが
(中略)
>ここは、宇宙であろうか?

何度も淮南子時則訓を貼っているが、漢土の東端から真東に世界の端まで行くと萬二千里であって
世界全体は東西、南北ともに三萬六千里で漢土(中央之極、萬二千里四方)の9倍の広さがある

萬二千里は世界の果てまでを連想させる符牒であって、倭國までの旅程は真東に萬二千里ではないし
東方之極で南北三萬六千里移動できるから余裕だよ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:53:37.27
>>424
>あんたが述べればいいじゃん南→東の根拠を

何度も教えてるだろ?
陳寿が倭人を百越の流れの一派だと認識していて、倭國も百越の東方海上だと思ってたから
倭国内の長距離移動は南向きじゃないと整合性が取れないんだよ

>瀬戸内海を1か月も航行し方位を間違えるかな

瀬戸内じゃなくて日本海経路な
海岸沿いに進むだけだから、いちいち方位は記さなかっただろうし
最後の丹波から大和の陸行の方角・南に引きずられたってこともあるだろう
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:01:06.90
>>427
>比例計算したら、短里も捨てがたいよ

実距離が測量不能なのに「比例計算」なんて意味ないだろ

>さて「政治的祭事的な事情」を詳細に述べてくれないか

祭事的は誤植だろ

司馬懿(司馬氏)と曹真(曹家)がライバル関係にあって、曹真が西域を収め
大月氏の朝貢に成功している
司馬懿の公孫氏討伐とその後の東夷諸国の朝貢を、大月氏の朝貢と釣り合うように
持ち上げる必要があったんだよ

これが政治的理由
三国志は司馬懿を高祖とする西晋朝での撰述だってことを無視してはいけない

漢書西域伝では、大月氏が「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」と
萬千六百里という数字が出ているので、それを越える数字にする必要があった

現実の地理とは無関係な政治的な数字だよ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:25:16.37
>>424
>瀬戸内海を1か月も航行し方位を間違えるかな

「間違え」たって勝手に決めつけてるのは九州説側であって
畿内説は原因まで特定していない
「間違ってる」って具体的事実を示しただけ

間違いが生まれた原因はいくつか可能性を挙げている
昔も今も、政治は嘘をつく
最もありそうな原因はこれだ
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:42:14.45
>>767
>魏志倭人伝では卑弥呼への下賜品に 耳トウや玉飾りは出てこないね <

明帝は、親魏倭王としての公的な下賜品を卑弥呼に与えたのであり、
耳トウや玉飾りのような個人的な嗜好品を与えたのではない、という事。

>副葬の21枚の銅鏡もボウ製鏡<

女王であった女性の墓に副葬するには、当然(鏡師らに頼んで?)磨いて塗装して、
綺麗に仕立てて貰った鏡を副葬するもの。

>平原は卑弥呼の墓じゃないということ<

おそらく、壹與の墓だ、という事。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:43:30.24
>>380
>魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、
>「邪馬台国は沖縄辺りになる」が、
>「沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし」、30カ国の盟主の王都と見なせる遺跡もない
>つまり、「旅程が正しい」という『仮定』は『正しくない』ことが『確定』してるんだよ

上の、「魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、」の部分は、二重肯定文である。
(注:二重否定の逆用法に当たる)
よって、「倭人伝を正しくないとして読めば、邪馬台国は沖縄辺りになる」ということである。
だから当然のこととして、「沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし・・」の部分は正しいことなので、
元に戻って、倭人伝も正しく書かれていることになり、
邪馬台国は沖縄以外にあるとして読む九州説の態度・姿勢も正しい。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:45:57.49
>>771
>2世紀末に卑弥呼が共立され 男王の御魂が平原のヤタノ鏡にうつされ
三輪山に据えられた<

「南≠東」などに拠って、×。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:55:12.35
そもそもテンプレの文章は読みにくいし、長すぎて論旨がつかめない。
詐欺師の口上を聞いているようなもの。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:56:56.20
>>437
>魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、
>「邪馬台国は沖縄辺りになる」


「二重肯定文である。 (注:二重否定の逆用法に当たる)」 なにこれ?
>よって、「倭人伝を正しくないとして読めば、邪馬台国は沖縄辺りになる」ということである。

ってアンタ、論理の基礎の基礎・・・ぜんっぜんわかってないだろ
ホントに高校出てる?
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:57:15.79
>>434
>「間違え」たって勝手に決めつけてるのは九州説側であって
>畿内説は原因まで特定していない
>「間違ってる」って具体的事実を示しただけ

九州説も原因を特定していないよね?
理由も示さずに間違っていたはずという根拠のない主張を続ける畿内説の方がおかしいよ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:58:27.57
>>780
大和説学者らや大和説信者らは多分これに該当する
病気なの厳しく区別して接し、病院や刑務所に収容する様に
neologism:造語症 オリジナル単語を自然に創る症状。
主に精神病疾患者が「一般的ではない、辞書に載っていない造語」を創作し、
さも当たり前のように使う症状。統合失調症の典型的な症状であり、
アスペルガー症候群にも多くみられる
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:00:16.14
倭人伝原文は:当在会稽東冶東でにあらず。
会稽東治之東とは、夏后少康之子が封ぜられた於のことで、
計其道里、当在会稽の東の冶(夏后少康之子が封ぜられた於)のさらに東、という意味である。
(夏后少康之子が福州に封ぜられたわきゃ〜なかろ)。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:29:38.91
>>440
言うまでもなく、アンタのように名門灘高なんざ出ておらぬわ。
が、高等用法であっても、二重肯定文などの仕組みは知っておる。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:32:52.22
>>444
知っているなら「二重肯定」を定義してみて
出来ないでしょ?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:35:00.36
>>441
>理由も示さずに間違っていたはずという根拠のない主張を続ける畿内説の方がおかしいよ。

テンプレでも投稿でも
理由を示して根拠を明確にしているが?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:36:33.26
>>443
>会稽東治之東とは、夏后少康之子が封ぜられた於のことで、
>計其道里、当在会稽の東の冶(夏后少康之子が封ぜられた於)のさらに東、という意味である。

という根拠は?
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:41:04.85
>>801
>>「倭」があるだけだ。<

>相変わらずザラコクはバカだなあww 「其」が「倭」なんだっていう話なのにw
其大倭王居邪馬臺國     「倭の大倭王」は邪馬臺國に居る
樂浪郡徼 去其國萬二千里  楽浪郡の境界は「倭の国」を去ること萬二千里である
去其西北界拘邪韓國七千餘里 「倭の西北の境界」の拘邪韓国を去ること七千餘里である
素直に全部倭でいいだろ<

相変わらず、類スレ主は、インチキ詐欺だなあ。
「樂浪郡徼 去其國萬二千里」の「其の國」に該当するは、
その直前の「其大倭王居邪馬臺國」であり、
類スレ主は、「邪馬臺國」が「萬二千余里」にあれば、大和にし難いから、
倭国だと言い張って、世間の人々を騙そう、としているだけ。

>「倭の国」を倭国と書いているだけ<

類スレ主が、・・・・アホの大和説詐欺師であるだけ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:47:42.83
>>444
>が、高等用法であっても、二重肯定文などの仕組みは知っておる。

こいつ、キウス?
このバカさ加減は?ww
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:50:36.66
>>448
>「樂浪郡徼 去其國萬二千里」の「其の國」に該当するは、
>その直前の「其大倭王居邪馬臺國」であり、

そう読んでしまうと、その次の
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里 も邪馬臺國の西北界と読むことになって
邪馬臺國が拘邪韓国にあることになっちゃうんだよww

何も考えてないだろ?

それから、「邪馬臺國」はあるねぇww
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:55:23.36
>>439
>そもそもテンプレの文章は読みにくいし、長すぎて論旨がつかめない。

日本人じゃなくて、日本の教養・日本語の素養が足りないと読みにくいかもねww
>>1>>11まで読めば十分なんだから、そんなに長くもないだろ?
畿内説の根拠は、ここまでで十分だ

残りはFAQであって、単に九州説の論旨がいかにおかしいかを根拠を挙げて
示してあるだけ
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:03:57.15
>>449
な〜んだ
名門灘高出が二重肯定を知らぬのか。コリャ新発見だわい。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:07:02.49
>>434
>畿内説は原因まで特定していない
>「間違ってる」って具体的事実を示しただけ

>>446
>テンプレでも投稿でも
>理由を示して根拠を明確にしているが?

畿内説も人によりバラバラだなあ。
結局、「魏志倭人伝は謝り」と連呼しているだけ。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:08:27.21
テンプレは論旨が捻じ曲がっている。
嘘をついて騙すために、あえてわかりにくい表現を多用している。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:16:16.33
>>450
>邪馬臺國が拘邪韓国にあることになっちゃうんだよww

ならねえよwww
どこに目がついて、どこにのうみそぶら下げてるんだよ。
差し引きすれば、其の西北界狗邪韓国と其の邪馬台国との間は五千里になるではないか。うちの孫でも計算できたわ。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:19:02.84
>>452
だから、その「二重肯定」を定義してみな
出来ないから、誤魔化してるんだろ?
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:20:09.57
>>454
>テンプレは論旨が捻じ曲がっている。

だという証拠は?
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:35:11.25
>>456
おれの出身の専門学校では、馬鹿生徒相手に丁寧に教えてくれたぞ。
ま、灘高生は優秀だから、先生が手抜きしたんだろうな。
でもさ、アタマいいんだから、(注)の定義を読めばわかるだろうww
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:42:34.11
>>458
能書きはいいから、その
「二重肯定文である。 (注:二重否定の逆用法に当たる)」
というのを具体的に説明して

魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば「邪馬台国は沖縄辺りになる」
  が
「倭人伝を正しくないとして読めば、邪馬台国は沖縄辺りになる」

ということである、と論理的に証明してみせろ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:52:22.85
灘高出身なんだから、
解答を教えろなんてズル言わずに自分で考えろ。これは試験問題である。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 10:59:38.68
>>460が嘘をついていたと自白した

w
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:10:02.50
そもそも論理学に二重肯定なんて無くね?
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:42:55.98
>>455
>ならねえよwww

だから、論理が分からないバカって言われてるんだよ

「其」大倭王居邪馬臺國   
樂浪郡徼 去「其」國萬二千里 
去「其」西北界拘邪韓國七千餘里

3連続で「其」がある
ここでは、「倭」について書いているところだから、
この「其」は3つとも「倭の」と読めばよい

これに対し、「其」は直前のものを受けるから2文目の「其」は「邪馬臺國」だと
誤解釈したバカがいる(ザラコクだけど)から、
「其」が直前を受けるなら、3文目の「其」も「邪馬臺國」にしかならないという話だ

これが、「邪馬臺國」に「ならねーよ」というなら、それはただのダブスタだww
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:48:50.14
>>462
>そもそも論理学に二重肯定なんて無くね?

これが正解
そもそも「二重否定」からして、言語学の概念で論理学の用語ではない
まあ、論理学でも二重否定という言葉は使うけれどね

そして、「二重肯定」という言い方は「子育てのときの言葉掛け」くらいでしか使わない

『優しくし「ない」と友達ができ「ない」よ』ではなく
『優しくすると友達がいっぱいできるよ』という言い方をしましょう

というような言い回しのことを、二重肯定という言い方をする「人がいる」、という程度
そして、『優しくし「ない」と友達ができ「ない」よ』は、実は二重否定ではないww

まあ、バカが聞きかじりを書くとさらにバカを見るという話だなw
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:29:00.46
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここでは王都である邪馬台国のことか)から一万二千里である。
その西北界(倭国の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:35:35.46
>>465
安物ネタだから時代がメチャクチャだな
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:04:12.29
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:11:04.84
キウスはすぐ論破される
能力的にこんなイヤガラセしか出来ない
哀れなもんだな九州説
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:14:49.86
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:19:35.63
キウス氏が、能力的にはキウス氏よりレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員を見事に論破したので、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員は、九州説の学者に嫌がらせを実行しているのではないのかな。。。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:21:28.25
韓国政府が今もまだ宣伝している、完全に破綻した邪馬台国畿内説は、2重に否定された可能性が高まってきているな。。。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:23:57.48
韓国政府が今もまだ宣伝している、完全に破綻した邪馬台国畿内説は、論理学と言語学から、2重に否定されたのではないのかな。。。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:27:50.28
鎧袖一触で論破され屈辱にまみれて発狂するキウス
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:38:15.02
>>421
あのね
九州北部までで1万里は超えてるのよ
おバカ
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:41:58.70
>>429
あんた説明できないからといって、投げやりだな
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:44:51.12
>>432
畿内説の亜流だよ日本海航路はね
テンプレよく読めよ
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:47:40.02
>>463
「其」は倭を指し、「其国」は邪馬台国を指している。
「国」を付けて、「其=倭」と「其国=邪馬台国」をちゃんと区別しているな。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:55:52.79
キウス氏の爪のアカでも飲んだら、少しはまともに成るのでは無いかな
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:56:10.88
>>475
もう誰かがちゃんと書いてるものを何で同じ説明せにゃいかんのだ

馬鹿か
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:03:11.16
大牟田、みやま、筑後、八女、広川が邪馬台国の範囲だよ。
邪馬台国は、八女・広川の政治経済と、大牟田、みやま、筑後の水田地帯の農耕祭祀がリンクした体制だった。
卑弥呼は、そのみやまの山門で農耕祭祀を行い、倭國の祭祀王を務めた。
邪馬台国については、これ以外のモデルはありえない。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:12:30.38
>>478
おまえ、毒垢で人の頭パーにする気だな
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:15:54.88
>>480
九州説ってなんで理由をまったく言わないの?
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:16:12.50
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:17:50.93
キウス氏が、能力的にはキウス氏よりレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員を見事に論破したので、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員は、屈辱にまみれて発狂するしかなくなったのではないのかな、、、
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:18:25.63
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:19:24.71
>>804
>>出土した鏡が多種類に渡っているので、
楽浪から戦乱を逃れて渡来して来た鏡師らは、何組ものグループがいた事になるから。<

>一つの鏡師のグループが、一生、一種類の鏡しか作らないなんてことはないだろ?ww
それに、渡来した鏡師が大陸で作っていた自分の得意の鏡しか作らないなら、
大陸と違う作図原理の平原1号墓の鏡は作られるはずがない
これが「同じ技術系譜になる」っていう意味だよww<

ダメだ。
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
でも、列島の鏡は、
「陳是作」や「王氏作」や 「吾作」や「新作」や「尚方作」や、
「陳子乍」や「青盖作」など、
鏡作使はバラバラだ。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:26:30.00
>>815
>>末盧國出発時点や途中では、伊都国の位置も方向も見えず分からないんだから、<

>ザラコク理論では、倭人に案内されるからたどり着けるんだろう?w
なら、その時に倭人に聞けば直接は見えなくても「伊都国はあの山の向こう」って
分かるだろ? そして、九州説の連中の言うことには、その場で方角を間違うはずがないそうだから、
「あの山の向こうの伊都国の方角」が唐津から北東だってことが分からないとするのは
論理的に通らないww<

案内人にも、どの山の向こうか?なんて、
結局見えていなければ、始めから分かる筈がない。
そして、魏使らには、もっと分からないもの。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:30:20.77
>>816
>「夷人不知里數、但計以日」は、隋書の記録だよ。<

>隋代に里を知らないのにどうして3世紀に里を知ってたと考えるんだ?
バカじゃん?ww <

類スレ主は、・・・・アホじゃないのか?。
3世紀の倭人は、当然「里」は知らない、と言ってんだよ。
魏の役人たちがは、「里」を知っていた。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:31:15.60
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:34:18.10
九州説、終わってるよ
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:40:48.41
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:49:59.65
キウス・・・

二重肯定で赤恥かいて
よっぽど悔しかったんだな
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:57:30.02
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:02:41.65
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここでは王都のこと)から一万二千里である。
その西北界(倭国の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:05:42.67
能力的にキウス氏よりレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、キウス氏に見事に論破されたので、屈辱にまみれて発狂し、他の人物をキウス氏だと考えてしまう症状を発症している可能性が高いな。。。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:06:21.23
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:09:09.92
キウス完全なる発狂
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:10:05.18
能力的にキウス氏よりレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、キウス氏に見事に論破されたので、屈辱にまみれて発狂し、他の人物をキウス氏だと考えてしまう症状を発症している可能性が高いな。。。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:19:22.85
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:20:43.13
500
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:43:45.14
>>820
>楽浪からは呉の鏡は出て無いので悪しからず<

三角縁や、神獣鏡自体が、(魏系の鏡ではなく)、呉系の流行。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:48:36.22
>>465
>楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここでは王都である邪馬台国のことか)から一万二千里である。

ほらほら、「その国」の後ろのカッコ書きがどんどん苦しくなってるぞww
そもそも萬二千里が、現実の地理とは関係ないところから持ってきた観念的な値で
倭国内の特定の場所を示すものではないのだから、いい加減に諦めなってw
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:49:45.36
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:02:04.84
>>502
>倭国内の特定の場所を示すものではないのだから、いい加減に諦めなってw

中心がわかるためには、狗邪韓国とは反対側の辺縁がわからなくてはいけないが、そのような記載はない。
後漢書では、倭奴国が南の端としているくらいだ。
だから、中心と言えば、狗邪韓国七千里と倭奴国一万里の間をとって八千五百里とするべきだが、そうはなっていない。
だから、そのような説は成り立たない。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:17:45.27
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:25:49.55
>>865
>>紀氏に関しても、
高良大社の隆慶上人伝が「北方の半島に攻め込んだ」のは紀氏であった、
という記述を残しており、 倭王武の上表文の「渡平海北九十五國」の根拠になり、
「紀氏」とは、「倭國=東海姫氏國」の「姫氏」であった事も確実だ。<

>紀氏は畿内の大豪族だよ 珍説の根拠にはならない
>妄想はなんの根拠にもならない <

後代文書は、史料事実に否定されている限り、
根拠にならない。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:25:50.59
キウスの最終学歴は専門学校らしいな
明らかに高校卒業程度の学力がないのは何故だ?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:30:07.02
>>867
「会稽東治の東」も、否定曲解しかできないので、
大和説なんて✖。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:30:07.40
>>506
>高良大社の隆慶上人伝が「北方の半島に攻め込んだ」のは紀氏であった、
>という記述を残しており、 倭王武の上表文の「渡平海北九十五國」の根拠になり、
 :
>後代文書は、史料事実に否定されている限り、
>根拠にならない。

ザラコク支離滅裂
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:30:23.59
なぜ家の話ばかりしてるんだ?


かなり前の話になるんだけど、
宇宙から来たというロールプレイ(RP)をしていた、
信オンというゲーム内の話


偶然だと思う?
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:32:33.98
何度も説明したから、いちいち説明はしないけど


歌舞伎(傾奇?)・・・・、・・・、・・・、
・・・、・・・、・・・。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:35:38.47
>>487
>案内人にも、どの山の向こうか?なんて、
>結局見えていなければ、始めから分かる筈がない。

おいおい、太陽や星を見てたら方角は間違えないっていうのが九州説の主張だろ?
太陽や星より、身近ではっきり見える周囲の山の相対的な位置を見ながらの移動で
方角が分からないなんてことがあるはずがないだろうww

案内人は何度も行き来しているのだし、唐津から可也山は見えてるぞ
そして、伊都国が背振山脈の向こうだってことも、分からない方がおかしいww

ほれ、ザラコクのいう出発方向が南東になる唐津湾の西のほうから見た可也山だ
海岸線が南東方向になる辺りからは可也山が見えているし、
可也山基準で伊都国の方角も分かるww
https://i.imgur.com/NfjPIhP.jpg
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:36:07.53
『松傾』

こういう名前の家、住んでいるところ?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:36:28.32
>>508
>「会稽東治の東」も、否定曲解しかできないので、
>大和説なんて✖。

典型的なトートロジー
中身がカラッポ
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:38:25.46
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:40:29.82
そういう話なども、むかーしから知っていたの?
と思うかもしれないけど


家の老婆は知っていた、
馬に乗り・・・腰に謎の刀・・・w
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:55:46.31
キウスみじめやのお
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:05:42.35
数年前の、とあるスレ


誰かと間違えているんだろう、
みたいな事を言ってる人がいたり


もれ(書き込みをしている)の家でしょ?
兄弟・・・あと妹がいる
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:06:13.71
>>486
>鏡作使はバラバラだ。

そのいろんな鏡師の鏡は、いろんなところでばらばらに混ざって出てるんだろ?
一人の鏡師が、一つの地域で一種類の鏡を作り続けている状況は見られないww

ザラコクのいうことは、いつもいい加減でまともな根拠にならないww
内行花文鏡が特別な鏡というのは通らないし、平原1号墓の内行花文鏡は
ほぼ全量が仿製鏡
魏晋鏡が1枚もない、しょぼい墓が平原1号墓
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:09:52.17
>>474
>九州北部までで1万里は超えてるのよ

九州上陸までが、漢代の漢土方千里の概念に合わせて、一万里に設定されてるんだよ
後漢への朝貢時にそのように設定されたのだろう(これは推測以上のことはできない)

そして、淮南子のまとまる頃に漢土が「中央之極萬二千里」とされ、倭国までの距離も
萬二千里にバージョンアップされてる
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:13:54.81
むかーしの話だから、何とも言えないんだけど


渡来系、渡来人?
理由はわからないんだけど、肉も食べなかった、
寺院が〜という話とか


あの写真の家の話
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:16:44.12
「二重肯定ww」が論破されたら、急に荒らし始めたなw
非常に分かりやすいww
連続句読点とキウスは別人だと思っていたんだが、連動しているのか?

それはそれとして、>>380を再掲

魏志倭人伝に書いてある「旅程が正しい」と『仮定』すれば、
「邪馬台国は沖縄辺りになる」が、沖縄辺りに陸行一月できる陸地はないし
30カ国の盟主の王都と見なせる遺跡もない

つまり、「旅程が正しい」という『仮定』は『正しくない』ことが『確定』してるんだよ

二重肯定とかいうバカ理論以外では反論はないな?

結論
「旅程が正しい」という『仮定』は『正しくない』
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:24:13.61
>>504
>だから、中心と言えば、狗邪韓国七千里と倭奴国一万里の間をとって八千五百里とするべきだが、そうはなっていない。

つまり、倭奴国一万里が倭国の最南端っていうのが間違ってるんだよ
>>504のガバガバ理論なら
狗邪韓国七千里〜倭国の真ん中ら辺萬二千里〜もっとも遠い場所萬七千里
という勘定になるww

倭奴国一万里は、>>520でも書いたように
九州上陸までが、漢代の漢土方千里の概念に合わせて、一万里に設定されている
後漢への朝貢時にそのように設定された

そして、狗邪韓国までは、その一万里から渡海千里3回を単純に引き算しただけ

女王国萬二千里は、淮南子等の当時の世界の果てまでの距離を政治的に当てはめたもの
さらに、周旋五千里は、萬二千里から狗邪韓国までの七千里を引いただけ

かなりいい加減に数字を作ってるって分かるだろうに
論理的思考ができさえすればね

二重肯定とか言い出すような知恵足らずでは難しいかなww
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:25:13.77
>>523
>結論
>「旅程が正しい」という『仮定』は『正しくない』

そのとおりである。
であるからして、
正しくない仮定から導かれる結論の「邪馬台国は沖縄辺りになる」というのも当然ながら正しいわけはないんだよ。
つまり、沖縄論議は、最初から意味のない議論だってことさ。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:29:11.29
>>524
間違っていると言いたいだけだろ。
あとは屁理屈だ。
駄々っ子か。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:29:32.30
>>521
>東南500里にある佐賀川上のホンモノの伊都国は、
>この画面では、右端の脊振山系を越えた向こう側に当たる。

また出たよ、佐賀川上バカが
これ、写っている海は唐津湾だぞw

佐賀川上に向かうには、この写真の方角とは90度以上、方向が異なるし
ここから背振山脈を越えた向こう側は、定説どおりの糸島・三雲遺跡群の方角だ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:34:04.18
>>527
何をおっしゃいますですか。
三雲イトコクはこの辺と、↓で示してあるじゃござんせんか。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:35:29.07
>>525
背理法って学校で教わらなかった?
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:36:51.42
>>525
>正しくない仮定から導かれる結論の「邪馬台国は沖縄辺りになる」というのも当然ながら正しいわけはないんだよ。
>つまり、沖縄論議は、最初から意味のない議論だってことさ。

相変わらず頭が悪いなw
『「魏志倭人伝の旅程が正しいという仮定」が正しくない』というのが結論であって、
沖縄に邪馬台国があるというのを論じている訳ではない

『「魏志倭人伝の旅程が正しい」という仮定が正しい』というのを前提としている九州説が
端から成り立つ余地がないというのが、この論の中心だ

沖縄論議は、九州説の前提である『「魏志倭人伝の旅程が正しい」という仮定』が
明確に否定されるところに「意味がある」んだよ

つまり、『「魏志倭人伝の旅程が正しい」という正しくない仮定』から導かれる、
『九州説という結論』も当然ながら正しいわけはないww
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:43:43.60
>>530
>つまり、『「魏志倭人伝の旅程が正しい」という正しくない仮定』から導かれる、
『九州説という結論』も当然ながら正しいわけはないww


今頃になって、何やら注ぎ足してるな。
九州中央部説では、『「魏志倭人伝の旅程が正しい」という正しくない仮定』なぞは採用しておらぬ。
当に、「魏志倭人伝の旅程が正しい」というだけであり、「正しくない仮定」など余計なものは除外。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:46:16.06
キナイコシごまた屁理屈を捏ねているのか。
アホだな。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:49:26.46
>>874
>私的には、距離は間違いであろう 
九州に限らず日本国内に収まらないのが現実ではなかろうか
>強いて言えば距離は感覚的なものか誤情報かも
方位は古代の中国天文学で容易にわかったであろう。
それもひと月一以上も旅をして邪馬台国にたどり着いたのだから<

不彌國で萬二千余里がほぼ終了しているし、部下や張政らの確認もあったんだから、
「ひと月一以上も旅をして」というのが、キミの曲解の誤魔化しの秘密。
それに「邪馬台国」なんて存在もしない。

>短里は学者が考えた知恵だから評価はするが、中国でオーソライズされていない<

部下や張政や、淮南子や如淳注や魏略や後漢書や梁書までもが使ったり確認しているんだから、
中国でオーソライズされていた、と言える。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:52:14.07
>>531
>当に、「魏志倭人伝の旅程が正しい」というだけであり、「正しくない仮定」など余計なものは除外。

除外したくても
命題「魏志倭人伝の旅程が正しい」は偽
っていう証明だから、それ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:55:48.38
国譲りは
葦原の中つ国(倭国連合)の統治権の話だ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:57:13.77
>>533
>不彌國で萬二千余里がほぼ終了しているし、

すると「会稽東治之東」にならなくなって
九州説死亡
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:57:44.84
国譲りは
記紀では葦原の中つ国の統治権で
出雲国造神賀詞では大八島の統治権

どちらも倭国連合全体の統治権であった
出雲国の統治権じゃない
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:03:39.25
>>528
>何をおっしゃいますですか。
>三雲イトコクはこの辺と、↓で示してあるじゃござんせんか。

こういう位置関係だよ
https://i.imgur.com/wGG9Mt8.jpg

写真の位置と佐賀川上は背振山脈に対して同じ側にある
写真の位置から佐賀川上に向かう場合、背振山脈を越えることはない
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:05:38.94
>>531
>当に、「魏志倭人伝の旅程が正しい」というだけ

この「魏志倭人伝の旅程が正しい」という「仮定」が、間違っているんだよww
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:07:15.10
キウスのお馬鹿さが二重肯定された
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:07:33.43
大国主の御魂が国譲りしたあとで100年間の間
皇孫が九州の田舎でぶらぶらしてたけど
これは国譲りされた主体が皇孫じゃない事を示してる

倭国大乱前の男王の御魂から国譲りされたのは卑弥呼だ

卑弥呼の後はトヨで

皇孫(崇神=神武)に国が譲られたのはトヨの後だ

大国主の御魂から
2世紀末に倭国連合の統治権が卑弥呼にゆずられ
3世紀末に倭国連合の統治権が神武(崇神)によすられた
ってことだ
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:09:09.97
>>893
「南→東」などの嘘つき騙しの「オウム返され」人間の大和説者は
「オウム返され」並みの脳しかなくて、
オウム返さればかりしかできないんですね
いやー可哀想ですねー
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:09:55.00
そしてザラコクも脳死済み
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:14:03.04
>>539
>この「魏志倭人伝の旅程が正しい」という「仮定」が、間違っているんだよww

魏志倭人伝は「仮定」ではない。、史実そのものである。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:18:20.03
>>898
「南→東」などの嘘つき騙しの頭の悪い大和説者って、
史料事実や史料実態からの帰納的推論や、確率の扱いが、
とことんおかしいよね
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:19:59.55
>>538
だから、この画面では、
右端の脊振山系を越えた向こう側に当たる・・・、と書いただろう。
真ん中の高いのではない。画面のいちばん右端だ。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:24:22.49
オウム返されって何だよ
統合失調症は辞書にない造語を作ってさも当たり前のように話すとか何とかコピペがあったけど
それがそうなのかな
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:29:49.15
>>901
>>陳寿も邪馬台国の方位は正しいと理解している証拠<

>陳寿の認識「では」、倭国は南国だから魏志倭人伝の方位の記述は正しいんだよ
陳寿がわざわざ「自分で間違っていると思う方位」を書くはずがないだろ?ww
そして、その「陳寿の認識」=「倭国が会稽東冶の東の南国」というのが
間違っているから、魏志倭人伝の方位の記述はあてにならない、ということを
畿内説はずっとぶれずに主張しているだけだが?<

陳寿だけではなく、魏使らも倭人も、
方向を間違える筈がないよ。
だから、類スレ主は、・・・・詐欺師のアホ。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:33:49.33
>>920
「南→東」などのウソつき騙しの大和説者や類スレ主らは、マジで、
皇国史観にクルった・・・・詐欺師の犯罪者だと思う
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:36:58.65
>>474
九州上陸で1万里越えたから何か?
魏志倭人伝には邪馬台国はそこからさらに南に2千里の
会稽東治(冶)の東で沖縄や台湾辺りと書かれている
九州説は破滅
考古物は三世紀に畿内と魏の交流があった事を示す
おまえはバカ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:49:34.83
>>933
>上にも書いたが、径8〜9寸の三角縁神獣鏡は大鏡だ<

何だ?、宮中の鏡は「△だ」という事か?。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:53:50.38
距離や方角が(概ね)正しいとなれば、
近畿大和説は即死だからな、間違ってくれてないと明日からの死活問題。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:55:22.04
>>544
>魏志倭人伝は「仮定」ではない。、史実そのものである。

魏志倭人伝、というか三国志が書かれた、というのは史実そのものだ
しかし、三国志の魏志倭人伝の「内容(旅程部分)が正しいかどうか」は、史実ではない

どんな史料にも、「史料の限界」があり、『内容は(旅程部分を含めて)すべて正しい』と
するのは、史学という人文科学において正しい態度ではない

「魏志倭人伝の旅程は正しい」という命題は、論証を必要とするものであり、
真であるという論証がなければ「仮説」にすぎない
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 18:59:06.69
「仮説」にすぎない ということこそ、まさに「仮説」である。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:03:22.08
『カミタマ』

グーグルで検索して、画像。
ほとんど、もれ(仮)の書き込み、それと老婆の話と同じでしょ?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:10:46.06
>>955
>三角縁神獣鏡は洛陽でも1面発見があって
今のところ倭と洛陽に相当する地域でしか見つかっていない<

神獣鏡も三角縁も、(魏ではなく)呉で盛行した鏡。

>中国で0〜1枚しか発見がないから倭の500枚の説明がつかないというのは意味が不明 <

△が造られたとしたら、呉や楽浪の鏡師らの一部であった、という事でしかない。

>鏡に銘を入れるのは別に自慢のためじゃないし中国で見つかる鏡にも銘の入ったものがある
つまりどこそこ製という意味で記名されている<

銘は、必要があるから、入れるもの。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:10:49.26
>>546
>だから、この画面では、
>右端の脊振山系を越えた向こう側に当たる・・・、と書いただろう。

どっちから背振山脈を越えるつもりなんだい?
文脈から、当然>>512の写真の地点からスタートして背振山脈を越えるとしか読めないんだが?

本物の伊都国「糸島・三雲」は矢印の下、見えてる山の向こう側だ

>右端の脊振山系

右端に見えている三角形の高い山は、背振山脈の中でも西の方の浮嶽だよ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:13:33.90
>>554
>「仮説」にすぎない ということこそ、まさに「仮説」である。

「本に書いてあることが、真実だ」っていうのは、証明しない限りは「仮説」だろ?
本(古典・史書)に書いてあるから事実だ、というのはあまりにもバカすぎるぞww
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:15:01.33
>>956
ほらな
「南→東」などのウソ付き騙しの大和説者は
「すぐに見つけられる」はずのものも、直ぐには探さず、
相手に要求して、「すぐに出さない」とヘイトスピーチする。

なぜ? ・・・・詐欺師だからさ
大和説はインチキなんだよ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:17:51.17
>>962
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、
嘘以外のことを言うことは滅多にない
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:19:29.45
>>965
理由もなく「南→東」などの嘘つき騙しを断定する大和説
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:20:24.90
>>541
>大国主の御魂が国譲りしたあとで100年間の間
>皇孫が九州の田舎でぶらぶらしてたけど

国譲りの結果、筑紫を王都としたものだ。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:23:38.57
>>966
大和説者は、南→東だとか、畿内とか、邪馬台国とか
存在もしない嘘つき騙しの狂った事言って、
大和説から国民を去らせる逆広告塔と化した
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:26:49.44
>>967
>三角縁神獣鏡は3世紀だろうに
まあ、4世紀にもコピー鏡の製作は続いていたけどな<

大和の△は、4世紀だよ。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:31:00.42
倭人伝を否定するのに邪馬台国の称号は欲しい畿内説
腹の中は欲望にまみれておきながら面ではすまし顔で御託を並べる
学説と名乗るも学説とは呼べないのが畿内説
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:35:57.98
畿内説にあらざれば人にあらず、か
非国民と叫んで戦争に突入した戦前日本同様
畿内説はファシズムに傾倒していく気があるね
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:45:43.34
都合のいいところだけつまみ食いすればどんな学説でも立てられる
事実、断章取義を許した邪馬台国論争は百家争鳴の体をなした
だが、最後まで忠実に倭人伝を読み解こうとしたのが九州説である
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:47:10.98
>>565
>倭人伝を否定するのに邪馬台国の称号は欲しい畿内説

前に書いただろ?
魏志倭人伝で、重要な情報は
・国の名前 当時の大和言葉を伺う史料になるし、比定地の推定の基礎となる
・人の名前 当時の大和言葉を伺う史料になる
・列島の広い範囲の連合が成立していること
これくらいだぞ

>邪馬台国の称号

別に称号として欲しい訳じゃなくて、邪馬台国=ヤマト国だという正しい認識を
しているだけ
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:52:01.53
>>558
そこいらの寺論文や安図書ならたしかに仮説にすぎぬな。
たぶん、ご当人が寿陵にお入りに成ったら、それで終わりだろうからな。
しかし、三世紀に書かれ、千数百年後の今日まで伝え伝えられてきた倭人伝は、それ自体が貴重な歴史的事実である。
寺論文や安図書や君の投稿などとは破格のちがいだ。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:52:38.30
邪馬台国論争は倭人伝にはじまり倭人伝に帰る
すべての学説は九州説に帰る
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:54:35.75
>>973
>>八咫の鏡が三角縁神獣鏡と関係あるの? 畿内にはもっと大きい鏡もたくさんあるのだけれど?<

>八咫鏡の前に石凝姥神が試作した鏡という伝承が、畿内唐古鍵近くの鏡作神社と
和歌山の日前神宮・國懸神宮の御神体の鏡にある
また、石凝姥神を祀る氏族も唐古鍵周辺にいて、北部九州には居ない<

大和の△は、4世紀。
石凝姥神伝承は、紀元前5世紀頃の九州の伝承。
勿論平原は3世紀。

>八咫鏡は畿内で、弥生終末期から古墳時代初期に作られたと考えるのが蓋然性が高い<

大和で、4世紀以後に造作された伝承である蓋然性が高い。

>鏡作坐天照御魂神社には神宝として“鏡の残欠”が納められているが、これが
その紋様が“三神二獣鏡”(神像3躰−上部2躰・下部1躰、獣像2躰−左右各1躰)であり
三角縁神獣鏡の側を環状にとりまく外区部分を欠いたもの<

△にはなっていないようである事と、鏡作り神社そのものが4世紀。

>八咫鏡が三角縁神獣鏡であるとする理由はないが、同じ時代と想定して問題はない
案外魏からもらった宝飾鏡レベルの特注品の一枚(神獣鏡)でもおかしくはないと
個人的には考えているけれど<

△が八咫鏡である、という確率は殆どない。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:56:10.00
>>568
>だが、最後まで忠実に倭人伝を読み解こうとしたのが九州説である

これも前から何度も書いているんだが、「読み解いて」はいけないんだよ
史書は、暗号書でも暗号文でもないのだから、「解読」する必要はない
そのまま読めば、理解できるように書いてある
それを「読み解く」「解釈」するところに、捏造を紛れ込ませるのが九州説の手法
短里とか、島巡り仮説とか、水行の起点は帯方郡とか

その一方で、十分な情報の入らない遠絶な外国のことを書いた部分が
そのまま正しいと考えるのは、科学的な態度ではない
何が正しくて何が錯誤なのかを、さまざまな情報と照合し総合的に考えて
一つ一つ判断していく必要がある

九州説は、この「さまざまな情報と照合・総合」することなしに、
魏志倭人伝の記述のみを頼りに、無批判に正しいとした上で、
さらに誤解釈・捏造読みを加えて結論ありきの比定地に持ってくると
いうアクロバットをやる

そしてこの「誤解釈・捏造読み」を「正しく忠実に読み解いた」と嘯くところまでが
九州説のデフォww
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:56:39.71
>>975
「南→東」などのように、史料事実の否定曲解のウソ付き騙しを実行する
理由は言わない 証拠は出さない
ソレが大和説の生き方
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:00:15.84
>「さまざまな情報と照合・総合」

と称して作為をまぎれこませるのが畿内説
裏には畿内に導こうという野心と功名心がまみれている
もはや学説とは呼べない
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:03:34.31
>>976
>>東と南の区別がつかない畿内説<

>相変わらず、方角を「その場で間違えない」ことと「史書の記載でまちがえない」ことの
違いを区別できないんだよな、このバカは
畿内説の論拠を否定したいのなら、「陳寿が倭国の正確な地理をしっかり把握していた」ことを
示さないといけないのに、そういう論証は一切しないしできない <

魏使らの記録は、部下や張政らに確認されているし、
陳寿も、倭人も、後代の中国文献でも間違えていない。

>>小学生からやりなすしかない<

>気の利いた小学生なら、自分の経験と絵日記の内容が一致しないことくらいは
理解できるぞww<

小学生の低学年では、東と南とを間違える子もいるかも知れないが、
類スレ主らは小学生以下だな。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:05:47.53
>>567
何を言っても聞かないで捏造もしまくりとにかく九州だーの九州説が
人間には思えなくて当然だろ
ちなみに戦時中の主流が九州説な
朝貢の過去を隠し天皇の権威を高めるために
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:06:41.52
畿内説の言う考古学とは倭人伝を畿内説的に解釈する上で
都合のいいデータを出してくるものにすぎない。
つまり、倭人伝ありきの考古学。
倭人伝なしには考古学として立脚する核をもたない。
それほど考古学的証拠に欠けている。
ゆえに倭人伝に粘着し、倭人伝を抑え込もうとする。
しかし、在野の学者は畿内説の欺瞞に気づいている
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:08:45.92
>>977
>畿内説はいつも根拠は説明済みだが、<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの造作文言であり、
「南≠東」の区別の根拠も何度も何度も説明済みなんだが、
大和説者は、聞いていないのか?。
・・・・アホだから?。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:17:06.79
>>978
>>八咫鏡は神武東征をへて九州から渡った<

>記紀原理主義だとそう解釈するしかないんだが、日向三代から神武東征説話には
八咫鏡も三種の神器も一切出てこない
皇統が定まってのちに、その縁起の物語が整えられたと考える方が合理的 <

始めから、神武らは、九州倭国王の本家筋ではなく、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
本家筋が持っていた「八咫鏡」伝承も当初は持っておらず、
4世紀頃になって、九州倭国の「東征毛人五十五國」のお手伝いで力を付けて初めて、
本家の阿毎氏の伝承やお宝を取り込もうとしたもの。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:18:47.22
>>577
このレスに畿内説の傲慢をあふれている
多様な意見をあたかも単独の犯行であるかのようにみなし
スケープゴートにする。そのゆきつくはては全体主義だ
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:20:19.64
>>986
「南と東」などの区別がついてないのは、大和説のようだよ
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:22:57.86
倭人伝行程記事の 至と到
「従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国」

この「到る狗邪韓国」の前には、「○乍ら(途中左折して)△乍ら」が入っている。
(これに関連して、筑紫島上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ踏み出せば、難路ではあるが一本道で右折左折はない。
「到るイト国」という記述には、どう見ても適合しているようには思えない。

しかしここを、前出の「到る狗邪韓国」の例に倣って読むならば、
唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で左折して、さらに東し)、、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る・・、と読める。
つまり「到る○○国」の場合は、行程途中に「○乍ら、途中折れて、△乍ら」のように、
右折や左折など、大きく曲がる地点があることを示す用法だったのではないか。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:25:09.50
>>991
>東を南と捏造しと言うなら<

言わない。大和説者の「南→東」の嘘つき騙しが捏造だ、という。

>邪馬台国は東にあったと認めている事になるが<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
やはり東と南の区別もつかないのは大和説だったようだ
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:28:11.71
>>575
>と称して作為をまぎれこませるのが畿内説

その作為とは「具体的には何のこと」だ?

>>573では九州説の捏造・誤解釈を
「短里」とか、「島巡り仮説」とか、「水行の起点は帯方郡」とか
と具体的に指摘してあるぞww

この、具体的な論証をしているかどうか、というところが
九州説と畿内説の実力の差なんだよ
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:28:19.22
>>992
じゃ大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ説な
名は体を表すから
それとも皇国史観殺人戦争狂説の方がいいかな
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:30:03.30
>>578
>都合のいいデータを出してくるものにすぎない。

どれが、どのように「都合のいいデータ」なのか、
「具体的に示す」ことなしには意味がないと、何度言わせれば気が済むんだ?

九州説は、みんな無能!
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:30:37.40
>>581
ほらやっぱり何言っても聞かない
おまけに多様な意見を単独の犯行とみなしてると捏造までしている
そっちの行き着く先が北朝鮮全体主義
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:32:03.77
>>578
>しかし、在野の学者は畿内説の欺瞞に気づいている

在野の学者って、具体的には誰?

安本美典氏や古田武彦氏のようなのは、古代史に関しては学者でも研究者でもなくて、
ただの「趣味の研究家」だぞww
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:34:13.98
>>580
>4世紀頃になって、九州倭国の「東征毛人五十五國」のお手伝いで力を付けて初めて、
>本家の阿毎氏の伝承やお宝を取り込もうとしたもの。

で、現在三種の神器は、皇室にあるんだが、ザラコク理論ではいつ三種の神器は
畿内に移動したんだ?ww
神武が持って行ったはずはないよな?ザラコク理論では?ww
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:34:59.98
>>996
じゃ最新で
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、全て論破され済みで、
スレ荒らすだけと化した・・・・詐欺師の皇国史観大和説でどうだ?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:36:19.23
>>583
>東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る・・、と読める。

読めません
佐賀川上に伊都国はないと何度言えばww

ごまかしてるけど、唐津から佐賀川上に行くのに背振山脈は越えないのは理解できたのか?w
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 20:37:31.13
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ホスト:p1665221-ipad020107kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>998
そりゃ大和説が、「南→東」などの嘘つき騙しの証拠を出すのを異常に嫌うからさ
捏造と疑われて当然だろ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:07:07.17
>>1000
大和説者は何故、「南→東」などの証拠を出すのを
そんなに嫌がるのかな

ウソだからさ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:10:18.12
>>589
彼らも異分野では学者だろ。
考古学者よりバカはおらんというのが日本の常識。
大が小を兼ねるように、他の分野の学者は考古学者よりまともな事を言ってるよ。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:12:49.70
>>69
この5chで書く、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のレベル低さが、
晒し者
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:16:46.92
>>70
>鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は・・・<

邪馬台国なんて存在もしないし、
「南≠東」などに拠って、×。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:22:37.90
>>75
>卑弥呼が死んで男王が共立されたけど倭国が乱れたんで
天の岩戸から天照の御魂を神上がりさせて ヤタノ鏡に納め<

天照は、紀元前3世紀頃以前であるから、×。

>トヨは天照の御魂を奉斎する巫女として共立されて<

壹與は「トヨ」ではないから、×。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:23:17.40
>>592
>ごまかしてるけど、唐津から佐賀川上に行くのに背振山脈は越えないのは理解できたのか?w

唐津から佐賀川上に行くのには、まず松浦川に沿って南へ進む。
ここは東の脊振山系と西の松浦台地に挟まれた谷間のようになって、若干の田畑も広がっている。
川に沿って10qほどののぼり道が続き、小さな峠を越えるが、峠といっても標高は100mくらいに過ぎない。
そこを超えれば、数qでさが佐賀平野の端っこの多久市につく。
ここで、東へ折れて、佐賀川上へ向かう。
ご参考までに、明治の初めのころまで、佐賀川上には大小2000基の古墳群があったらしい。
だが今は、あらかたと取り崩されて蜜柑山などに成ってしまっているのだそうだ。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:24:40.52
>>595
>大が小を兼ねるように、他の分野の学者は考古学者よりまともな事を言ってるよ。

トンデモの一類型に、専門外のことに半可通で口を出すってのがあるんだよww

安本氏も古田氏も、エンタメ考古学の物書きとしては成功しているけれど、
古代史に関しては趣味家でしかない
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:26:27.88
>>79
>>つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。<

>なんで? 畿内大和は博多の倭奴国より北だが?<

「東〜東北東」であるから、「北」ではなく、×。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:29:42.63
>>81
>共立された巫女がトヨで天照がトヨに神憑り その神託で倭国連合が平定されたのだ<

天照らは、紀元前3世紀以前であるから、
紀元後3世紀の卑弥呼や壹與ではなく、だから、×。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:32:26.06
>>569
>別に称号として欲しい訳じゃなくて、邪馬台国=ヤマト国だという正しい認識を

自分の意見は問答無用で正しいと押し付けるキナイコシ
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:33:38.64
>>585
>この、具体的な論証をしているかどうか、というところが

自分が何か論証しているつもり?
屁理屈を捏ねているだけさ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:34:27.66
>>93
「南→東」などの嘘つき騙しが論破された大和説が、
何かほざきおる
弱い犬ほど良く吠えるとはこの事よ
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:35:25.05
>>590
>で、現在三種の神器は、皇室にあるんだが、ザラコク理論ではいつ三種の神器は
>畿内に移動したんだ?ww
>神武が持って行ったはずはないよな?

お?
そのことに気がついたのか?
4世紀になっても、三種の神器は筑紫の女王が持っていたことになっているんだよね。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:39:38.73
>>599
>ここは東の脊振山系

やっぱり、背振山脈の位置を誤解してると思うよ
もし可能なら図示してくれるかい?

私が背振山脈と呼んでいるのは、西の唐津湾側から
十坊山 - 浮嶽 - 羽金山 -雷山 -井原山 - 金山 -脊振山と続く、
佐賀県と福岡県の県境の尾根のこと

さっきから、佐賀川上バカの人が脊振山地といっていた山は、浮嶽のこと
浮嶽を地図で確認してみて
どうやっても唐津から佐賀川上に抜けるのに脊振山脈は越えない
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:41:53.96
>>603
>自分の意見は問答無用で正しいと押し付けるキナイコシ

問答無用じゃないだろ?ww
いちいち根拠を挙げて、問答できるようにしているのに、
九州説の側が、ただの結論連呼厨のコピペリピーターをやっているだけ

キナイコシとか書き続ける人は、まあレッテル貼りしかできない惨めなバカだと思ってるけどさ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:43:22.20
>>604
>自分が何か論証しているつもり?
>屁理屈を捏ねているだけさ。

どこが屁理屈なのか、「具体的に指摘して」って何度言えば分かるんだ?
具体論になった瞬間に論破されるから逃げてるんだろww
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:44:45.65
>>606
>4世紀になっても、三種の神器は筑紫の女王が持っていたことになっているんだよね。

なってないよ
九州にあるのは、普通名詞の八咫鏡(単に大きな鏡の美称)だよ
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:44:58.59
>>98
>畿内に出発したときも南だったのだろうなあ <

不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、
投馬國と邪馬壹國の「南」は、不彌國からの、
位置説明の「方向」記載になるから、
大和は、×。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:47:55.90
>>607
地元の人間は詳しいから、気になるだろうが、
5ちゃんは全国の人が見てるので、脊振山脈と背振山系は使い分け、
脊振山脈に続く山々一帯をも含めて脊振山系(背布留山脈とそれに連なる山々)といっている。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 21:48:56.58
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名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>100
「南→東」などの嘘つき騙しの、
自分の発する腐臭だ、
と気付いてない大和説
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 22:12:09.83
>>611
>不彌國で萬二千余里がほぼ終わっていて、

島巡りという新発明の特殊読みだろ
九州説による九州説のための発明
それだと日韓の海峡越えに
なんと「四千四百」里も使うわけだな

トンデモ短里が又どんどん短くなっていくな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 22:21:45.43
オウム返しをしてばかり
やはり人間とは言えないどちらかと言えばオウムのオウム人間ザラコク
九州説はこんなのばっか
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 22:43:13.10
それを言うなら「生体ボット」
脳が生きてない
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 22:48:37.80
>>104
>>末盧國からの行程説明で、見えてもいない次の伊都国の方向を書いた、と言ったら、<

>可也山もトンボ山も見えるんだよね 九州説が延命措置のつもりでウソつけば
逆に急死するんだよ九州説 <

可也山は、伊都国付近から北に数qも離れているんだから、
可也山を教わっても、伊都国が見えた事には全くならない、
という事が分からない大和説が、
逆に急死するんだよ。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 22:51:41.51
>>110
ほら、またそんなウソをつく
大和説はウソまみれだな
それが大和説の脳症状だろ
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:00:09.78
>>599

>佐賀川上には大小2000基の古墳群があったらしい。

ソースは?
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:00:44.11
>>617
>可也山は、伊都国付近から北に数qも離れているんだから、

呼子大友あたりから可也山の方位と距離を目測するだろ
伊都に着いてから可也山の方位と距離を目測するだろ

大友から伊都は真東よりちょっと北
これ出来る人は魏使一行には
ゼロなの?

ゼロなの?
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:02:31.29
>>113
>>「倭地を参して問した」と解して、何にも問題がない<

>参問倭地は、実際に倭国を訪問することではなく、
陳寿が大陸にいてその場で、倭地についていろいろ参照して調べることだ
「参問倭地が、魏使が訪問した範囲を示している」と言い張る九州説を
よく見かけるが、大間違いだと見つけるたびに注意してやってくれ <

「参問倭地・・・」の文は、陳寿の地の文であった可能性が高く、
魏使ら以前に、侏儒國付近まで行った中国人がいたのか?など、全く不明であり、
だから、陳寿は、魏使らの記録を見て判断するしか出来ない事。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:04:16.98
>>610

事実を認められない歪んだ性根の持ち主なんだな。
では、三種の神器はいつどうやって畿内に移動したんだい?
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:06:22.59
>>115
纏向遺跡が、須玖岡本や平原から、北になるのではなく、
東〜東北東になる事は事実なのに
大和説はウソまみれで何もかも誤魔化すらしい
腐臭が漂うのは当然か
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:08:12.82
>>612
>脊振山脈に続く山々一帯をも含めて脊振山系(背布留山脈とそれに連なる山々)といっている

どう取り繕ったところで、>>512で示した写真の山、浮嶽を脊振山地といい、
それを越えて佐賀川上に行くと言ってたのが大間違いなのは認めなさいな

そして、脊振山地と範囲を広げても、佐賀川上に抜けるには、
その広義の脊振山地の西の端を限る松浦川の遡っていくのだから
脊振山地は越えないww 回り込むだけ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:09:59.18
>>621
>魏使ら以前に、侏儒國付近まで行った中国人がいたのか?など、全く不明であり、
>だから、陳寿は、魏使らの記録を見て判断するしか出来ない事。

不明と言ったそばから
存在しないことにする

この歪曲・・・
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:11:17.28
>>70鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ


伊勢神宮には2つの正宮があり
内宮は天照大神(オオヒルメ)が祭られ
外宮は豊受大見(トヨヒルメ)が祭られてる

2神は同格の神として祭られてるので
生前は共に倭女王
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:14:53.78
>>117
>>魏志倭人伝に記載される対象は、原則は、魏代の記録だ。<

>原則はそうだが、 なんせ魏の時代はそう長くはなかった。
これだけの調査をする時間も人員の余裕もなかったであろう。
で、公孫氏時代に帯方郡の役人が調査した記録を流用したとみるのが妥当。
前半の年号の入っていない記述部分のいくつかがそうだと思われる。
(たぶん206〜220ころのもの)<

倭人伝には、100%絶対に公孫氏の記録だ、と思われるような記載は、
全く存在しないから、×だ。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:16:41.74
>>623
>纏向遺跡が、須玖岡本や平原から、北になるのではなく、
>東〜東北東になる事は事実なのに
>大和説はウソまみれで何もかも誤魔化すらしい


纏向遺跡が須玖岡本や平原【より】北になる
という南北差の話を


纏向遺跡が須玖岡本や平原【から】北になる
と原文を、改ざん歪曲してまで

「東〜東北東になる」と
方位の話にねじ曲げて

「大和説はウソまみれで何もかも誤魔化す」
と誹謗中傷する

この九州説の捏造体質・・・
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:17:57.70
>>598天照は、紀元前3世紀頃以前であるから

御魂を鏡に移してご神体としてまつる鏡祭祀は
2世紀末以降なんで
天照は2世紀末以降の人物だ

イザナミの時代の宗教観では
死んでも御魂が肉体から離れて神上がりせず
肉体が腐ってゾンビになってイザナミを夫を追いかけまわした

天照の時代の宗教観では
死んだ天照の御魂は天の岩戸から神上がりして
ヤタノ鏡に移された

2世紀末に大型銅鐸の生産が一斉に中止され
卑弥呼が鬼道で倭国連合を治めた
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:21:02.03
>>610

伊勢神宮の内宮の天照のご神体は
真経津鏡とよばれるヤタノ鏡だ

伊勢神宮の外宮の豊受のご神体も
伝承では真経津鏡とされてる
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:24:05.13
>>118
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師のや案と説は、
倭国=日本として、とにかく日本を巨大な国としたがる人たちで、
北部九州から東海までが倭国だと思っている
「正北抵白木」や「大和は倭国の別種の旧小国」や「東征毛人五十五國」を知らん振りして、
それしか、頭の中にないんだよ。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:33:57.18
>>622
>では、三種の神器はいつどうやって畿内に移動したんだい?

移動していないんだよ

玉(瓊)は、糸魚川(奴奈川姫の国)から仕入れて畿内で穴開け加工をしている
鏡は、唐古鍵周辺で作った
剣ははっきりしないが、ありそうなのは出雲から
まあ、剣も畿内で作った、でもよい

各地の古墳に副葬されている三種の神器セットはそれぞれの土地で現地調達されているのだし
畿内で調達できないと考えるべき理由はない

皇統とともに伝世するうちに皇統の権威を背景に神聖化し、後付けで神話を付与されたと
考えるのが妥当

九州から三種の神器を持ってきたと考えるべき根拠は記紀神話しかないが、
記紀の神話部分を史実と考えるのはほぼトンデモだし、神武以降の記紀記事に
神武が三種の神器を伴って東遷したとする記述はない
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:35:24.89
>>631
なんど反論うけて完封されても
脳内で何もかも無かったことにし
相手が見ないとか隠したとか捏造する

九州説のウルトラ捏造体質
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 23:53:58.49
>>630
>伊勢神宮の内宮の天照のご神体は
>真経津鏡とよばれるヤタノ鏡だ

内宮のご神鏡 日像八咫鏡
外宮のご神鏡 眞經津鏡

別の鏡で別の名前だ
いい加減なことを書き続けるのはいい加減にしなさい

>>630も古田史学系の人みたいだな
ザラコクといい、古田史学はカルト化が重篤だ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:00:00.20
>>628
>纏向遺跡が須玖岡本や平原【より】北になる
>という南北差の話を

そんなこと、方角感覚がテキトーな倭人が知る由も無い。
畿内説はその場限りで言いつくろいを重ねて見苦しい。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:01:27.12
>>632

なんでもテキトーに自分の妄想を事実かのように話すんだな。
何行も書いてあって一行も正しいことを書いていない。
批判することもバカらしい。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:16:28.99
>>635
また九州説は動かぬ事実を認めないで
証拠のない断定ばかりしているな
そんな捏造中傷体質だから
九州説が亡んだ
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:19:46.95
>>635
>そんなこと、方角感覚がテキトーな倭人が知る由も無い。

それじゃ倭人伝に畿内のことが南方位のように書いてあっても
問題ないですね?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:34:11.83
>>635
>畿内説はその場限りで言いつくろいを重ねて見苦しい。

畿内説がそんなことしたって証拠は?
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:55:50.72
>>635
>畿内説はその場限りで言いつくろいを重ねて見苦しい。

いつも言われている言葉を使ってみたかったんだね!
本当に無能だなww
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 00:59:15.12
>>636
>批判することもバカらしい。

>>636は能力が足りなくて、具体的な反論が何一つできないので、
なんとなく上から目線的な言葉を並べて逃亡、とww

本当に議論する能力すらないなら、わざわざ恥をかくために出てこなくていいのにw
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 02:46:00.70
あんたの話は、決定的につまらない。
歴史の真実を明らかにしているとも思えないし、妄想を押し付けているだけ。
歴史を闇の向こうに追いやるだけの害悪だ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 02:53:21.20
誰が誰に言ってるんだ?
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 03:37:08.97
恥をかくために出てくる
いつものあの人でしょ
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:14:22.31
>>123
>別にテンプレになんの問題も無いし<

テンプレは、
皇国史観という宗教思想に拠る「大和説先にありき」によっての、
「南→東」などのようなな史料事実のインチキ選択や、
都合の悪い史料事実の隠蔽などというような、
結論先にありきのインチキ論理や断定する詐欺論理を使っているから、
犯罪者的論理であり、
×なの。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:20:51.47
>>127
>テンプレのどこそこが間違ってるとかじゃなくて
不寛容と抽象的なことしか言えないのが九州説の完敗を物語っている<

テンプレの個々の論点への逐一反論は、もう2〜3回済んでいるが、
スレ主や類スレ主らからの、個々の論点に関する明確な論理的な完全な反論はまだないの。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:28:09.04
>>128
>うそをつくな
理由ならテンプレに書いてあるだろうに<

うそをつくな。
テンプレは長過ぎて、全部読んで書き出す事が出来ないから、
個々の論点に関するテンプレの主張部分を「転写」しろ、と何度も書いたが、
スレ主や類スレ主らは、都合の悪い論点に関するテンプレの転写せず、逃げていた。
と何度も書いておいたのに、
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:31:08.89
>>129
>全部史料にあるのに九州説論者は目が見えないのかな<

「南→東」などのように、テンプレは、
史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しをしている事が、
大和説論者は、目が見えないのかな?。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:33:00.58
>>130
自分がしてる「南→東」などのような嘘吐き騙しを、
相手がやってると主張する
毎度の大和説のおかしな癖
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:43:39.40
>>132
>九州はどうなんだよ <

倭人が、中国時代には、
天子の直接的支配下の畿内の、外側の支配下の九州にいた、
という歴史を示し、自称した文言。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:48:28.08
>>133
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
テンプレの、史料事実の否定曲解や、史料事実の恣意的選択などに、
大和説のデタラメさがよく出ている
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:54:56.25
>>140
>>天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。  感動。<

>前スレでも話題が出ていたが、天皇陛下が皇居でお手植えするようになったのは
昭和二年の昭和天皇の即位直後から(最初の昭和2年は赤坂御苑、昭和4年から皇居)
神道の協議は教義は穢れを忌避するし、神道の中心たる天皇が泥田に足を入れるというのは
神道の伝統からは考えられないものであり、古くに源を持つものではない
陸稲と粟を植えるようになったのは、今上陛下からで皇室の伝統でもなんでもない <

住吉大社でも、水田に田植えをする神事があった、という記憶があるねえ。
しかし、陸稲ではなかったようだが。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:58:00.04
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。

このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。

用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。

土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。

祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。

石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。

文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊   @阿波
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 05:59:31.37
交流を示す出土品

縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話

矢野遺跡の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。

西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。

2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊   @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:01:19.77
>>144
陳寿本人が、地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書き、
ほぼ九州島付近を指し示していた、という事なんだから、
倭を会稽東治のほぼ東にあると確信している以上
行程の数字や方位が間違っていなかった、という事は
確定事項だからね
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:18:48.72
>>145
>>畿内説は、テンプレを盲信するあまり <

>いや? 妄信なぞしてないし、きちんと指摘すれば、次から修正されてるぞ
スレ立てしてくれている>>1も、指摘を受け入れる柔軟性がある <

テンプレなんて、誰が何の権限で、何の許可を貰って、書いたんだい?。
5chが、私には「連投」規制をかけてくるから、
「スレ主のテンプレの連投」は、何故規制しないんだい?、
と投稿した事があるが、反応がない。
結局、5chが、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者仲間の、読売や産経などと同じく、
皇国史観戦争思想宗教に狂ったキョクウのマスコミ仲間のであった、
という事なんだろ?。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:26:24.37
>>657の追記
Yahoo掲示板も、textreamに変えた時に、
皇国史観戦争の思想宗教に狂ったキョクウの大和説者で、
反九州説反古田説であった事がバレてしまった。
しかし、結局は、Yahooは、
texareamや掲示板の撤退廃止に追い込まれてしまった。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:48:12.86
>>150
>>5世紀の後漢書の「邪馬臺國」は 、
3世紀の魏志の「邪馬壹國」とは対象が異なる別の國。<

>後漢書は、大倭王の居所が「邪馬臺國」とし、それが倭国のこととして書いてあり<

「倭国」とは書いていない。
「其」は「倭」と書かれたいる事になり、「邪馬臺國」だ、という記載だ。

>その倭国で卑弥呼が王になったことが記されている <

後漢書では、「倭國」は、帥升の時に初めて書かれた国名であり、
後漢書は、倭奴國からの国で帥升らが出て、
(それから魏志を自己解釈して)、
後漢代の歴史として倭國大亂があって、卑弥呼が後漢末に共立された、
という記載をしている。
そして、「大倭王」とか「邪馬臺國」という呼称との関係を示さないままだから、
それらは、范曄の5世紀時点での地の文であり、5世紀時点での呼称であった、
という事になる。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:53:11.98
>>156
>畿内説のテンプレにそんなに文句があるなら九州説も独自にテンプレを作成したらどうか
まさか出来ないとは言わないだろうな<

テンプレなんて、要らない。
文献考古の、知り得た史料事実や史料実態の提示で十分だ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 06:59:05.77
>>162
>その径百余歩(150m)のリネージ、クランの集団墓の一角に卑弥呼の塚が作られたのであろう。
場所は日本神話、歴史の原点である高天原(奈良県御所市高天)だ。
日本最古の神社の境内に、魏志倭人伝の記述通り、奴婢(土蜘蛛)とともに今もある。<

「南≠東」などに拠って、×。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:01:53.49
>>165
そりゃ大和説者がテンプレなんて作っても
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺をしている事がバレているから、
ゴミみたいな出来にしかならんのはわかり切ってるけど
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:08:53.94
>>648
>テンプレは長過ぎて、全部読んで書き出す事が出来ないから、

もう「逐一反論済み」というのは
ウソだったと自白
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:28:06.70
>>651
>>九州はどうなんだよ

>倭人が、中国時代には、
>天子の直接的支配下の畿内の、外側の支配下の九州にいた、
>という歴史を示し、自称した文言。


中国の九州とはは
冀州、兗州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州
これが九州
古代に倭人がそんな広く分布してたなんて
明らかにウソ

九州説は目先の急場しのぎに
つまらん言い訳するため
平気でこんなウソをつく
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:33:59.03
>>643
>あんたの話は、決定的につまらない。

そりゃあ、九州説にとっては致命的なダメ出しを、反論一つできないレベルで
きちんとした根拠を示された上で論理的に書かれたら、何一つ具体的な反論もできないし
「ムキー、つまらないよ−」ってなるんだろうなw

そんなつらい思いをしてまで、間違った九州説にしがみついてなくていいのにww
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:40:28.01
>>662
>そりゃ大和説者がテンプレなんて作っても
>「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺をしている事がバレているから、

結局あんたテンプレ全部反論したとか
口先ウソで大言壮語するだけで
なかみは
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺だとか
悪口雑言連呼してただけだろ
バレバレです
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:46:20.99
>>656
>陳寿本人が、地の文で「計其道里、當在會稽東治之東」と書き、
>ほぼ九州島付近を指し示していた、という事なんだから、

最北端でも北緯30°の会稽の東治之東に九州があるとか
モロ見えのウソついて他人を騙せるとか
まさか甘いこと考えてないよね?
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 07:55:05.38
>>657
>5chが、私には「連投」規制をかけてくるから、

たぶん期間累計投稿数でリミットオーバー
異常大量投稿者ということで
ブラックリストに載ってるんだよ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:10:26.38
>>665
論理的ではない上に中身がないからつまらない。
結局は具体的な話が何もない。

邪馬台国は?
畿内全体をぼんやりとそう呼んだ。

アホだろ。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:14:12.23
>>660
>文献考古の、知り得た史料事実や史料実態の提示で十分だ。

その「史料実態」ってのが九州説の独身チン解釈のことなんだろ
テンプレ作れないのはその場かぎりの言い訳が自己矛盾しちゃってるからだな
魏使は正確に測量しながら旅してるが測量能力ありませ〜ん、とかさ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:17:14.10
>>669
>邪馬台国は?
>畿内全体をぼんやりとそう呼んだ。

誰がそう言った?
また捏造だよね九州説

結局は具体的な話が何もない。
九州説に具体的な話が何も出来ない理由は?
もちろん「ウソついてるから」です
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:33:34.94
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:35:34.79
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:40:20.97
>>182
>邪馬台国は大倭王の居所として、魏志倭人伝と同じヤマトにある<

邪馬臺國≠邪馬台国だし、
萬二千里と七千余里とからは短里を使っており、
残りの五千里弱の比率からは、大和には行けないし、
魏志の「南≠東」に拠っても、
「ヤマト」は、×。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:43:43.37
>>671
では、九州説の具体的な話をしてあげましょう。
帯方郡の役人たちは、渡海3000里して上陸した末盧国・唐津からは、東南の方向へ陸行した。
実際には、
唐津中原から南して、途中の佐賀多久市で東に折れ、やや東した先の佐賀川上の伊都国に到った。
ここで「到った」と書かれているのは、旅の途中(の多久市)で大きく左に折れる地点があったことを示すためである。
この佐賀川上には、明治のころまで大小2000基もの古墳群があったといわれるが、
その後の食糧増産時代の背景もあり、あらかた均されて田畑やミカン山になったそうな。
このことは、地元・大和町誌に記録されていると聞いたが、今にして残念なことではあった。(次回は、目達原古墳の不彌国)
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:45:05.92
>>669は九州説が具体的な話が出来ない理由を
ウソをつくためだと自分で挙証しちゃって
大馬鹿ですねー

この頭の悪さは二重肯定クンかな?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:46:09.05
>>185
>山に因りて墳「と」為し、だよ
山を、墳に見立てれば、新たに起墳しなくてよい、という遺言<

そして、「冢は棺を容るるに足る」だから、
「墳と冢とを書き分けて」おり、
違うモノだ、というのが孔明の認識。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:46:56.71
>>675
ちっとも具体的でなくてワラタ
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:52:03.62
>>189
>纏向古墳群の6つの巨大墓が、まさに王墓の系譜とみなせる<

一番古いと思われる石塚が、撥型前方後円で那珂八幡よりも新しいから、
3世紀末になり、
卑弥呼の墓には、×。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:53:29.07
>>191
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
ゴミだとわかったのは大和説だけど
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:55:30.19
>>193
大和説はいつになったら
自分が「南≠東」などに拠って滅亡した事に気付いて、
成仏するのかな?
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 08:57:57.96
>>196
このスレに取り付く、「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説、
という悪霊
これをどうやったら払えるか
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:01:32.78
>>199
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの畿内説という悪霊ったって、
大和説スレなんだから、
反論として九州説者が張り付くのは当たり前。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:03:03.04
>>671
結果的にはそうなるだろ。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:03:51.26
畿内説では卑弥呼はどこにいたの?
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:04:07.23
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:07:35.08
>>684
>結果的にはそうなるだろ。

そうなるという理由は?
九州説はまた一切説明不能なの?

具体的なことが何も言えないんだね
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:09:07.33
頭がいいつもりでも、相手を納得させる力がないキナイコシ
だって中身が空なんだもの
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:09:20.63
>>685
テンプレでもいい
寺澤の論文でもいい
残り少ない人生なんだろ
少しくらい文字を読めば?
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:09:42.58
>>688
という証拠は?

w
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:15:39.59
>>688
相手を納得させる力ってさ、相手に高校卒業程度の学力があるか無いかで質的にけっこう違うんだよね
1にテンプレ児童向け版でも作ってもらうのが一番かもね
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:16:38.29
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:18:02.55
九州説がまた発狂した
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:21:43.92
能力的にレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、見事に論破されたので、屈辱にまみれて発狂し、悪口を言い放つしかなくなったのでは、ないのかな。。。

693日本@名無史さん2019/03/19(火) 09:18:02.55
九州説がまた発狂した
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:26:56.56
>>669
>邪馬台国は?
>畿内全体をぼんやりとそう呼んだ。

おいおい、何度もきっちり示してるだろ?

邪馬台国七萬戸は、「大和+河内〜環大阪湾」の範囲で
より具体的には「畿内第V様式土器が共通して出土する範囲」だ
考古遺物によりきっちり定義できる範囲だよ

ぼんやりなんてしてないだろ?ww

土器の共通企画化というよりも、共通の土器生産センター(複数)から
土器の供給を受ける一体化した交易圏であり、分業圏がそこに存在し、
その中心のヤマトの名を取って、この範囲が魏志倭人伝に邪馬台国と記されている
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:27:45.56
>>685畿内説では卑弥呼はどこにいたの?

男王の御魂が三輪山に据えられてるので
三輪山のふもとの巻向で
卑弥呼は男王の御魂を奉斎する巫女的女王として
倭国連合を治めていた
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:29:21.36
>>675
>ここで「到った」と書かれているのは、旅の途中(の多久市)で大きく左に折れる地点があったことを示すためである。

そんな用法はないよ
というより、「至」と「到」に意味上の違いはない
音韻的にトウと読ませたい時に、語調を整えるために「到」が使われるだけ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:29:27.52
>>681

船を南に向けていても
海流の影響で東に流されて
ついた先が出雲圏の投馬国
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:31:08.55
つまり、韓国政府が宣伝を実行してきた、
三輪山のふもとの巻向で
卑弥呼は男王の御魂を奉斎する巫女的女王として
倭国連合を治めていた
という説は、完全に破綻したのだね。。。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:32:55.75
>>695

卑弥呼が九州から巻向に入り時に

九州から大量の移民がいたんで
関西圏の地名が位置も含めて九州と同じになった

地名の同じ範囲が邪馬台国で
複数県にまたがる広い範囲だ

出雲圏(投馬)も複数県にわたる広い範囲なんで
投馬国と邪馬台国の間には国は存在してない
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:34:27.87
>>685
>畿内説では卑弥呼はどこにいたの?

畿内大和の纏向遺跡にいた、でいいよ
辻地区の建物跡は、早い時期に廃絶して、その後より東の、より高い扇状地の
上流の方に居館域が移動したと考えられている

この図の居館域と書いてある辺り
https://i.imgur.com/qvazzyo.jpg
「日本における都市の初現 -纏向遺跡の調査から. 桜井市教育委員会 橋本 輝彦」より引用
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:36:16.70
>>688
>頭がいいつもりでも、相手を納得させる力がないキナイコシ

いや、何を言われても納得しないと言い張る人間がいるだけで、
まともな人間は既に納得して、畿内説に反論してないだろ?ww

キナイコシ連呼厨やザラコクがバカなだけだよww
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:39:08.07
>>202
>何を言われても東≠南と畿内はないと邪馬台国はないしか言わないのを
反論とは呼ばない もちろん嘘出鱈目並べるのも<

「南≠東」も「畿内の否定」も「邪馬台国の否定」も、
皆、史料事実が反論根拠。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:39:18.44
>>698
舳先がどっち向いてても、南に見えた島影がどんどん大きくなって来たら船がどっち進んでるか間違わんだろ
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:40:47.00
>>685

卑弥呼の鬼道は死んで鬼籍に入った人の御魂を奉斎する宗教だ

卑弥呼が奉斎した御魂は倭国大乱前の男王のもので
卑弥呼は男王の御魂の神託を告げる巫女的女王として
倭国連合を統治した

男王の御魂は三輪山に治められ
卑弥呼は三輪山のふもとに造営された巻向で
祭事をした
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:41:17.24
>>703
その史料事実を出せないとこが
九州説の致命傷
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:45:26.33
>>700
>九州から大量の移民がいたんで
>関西圏の地名が位置も含めて九州と同じになった

またコピペ貼ってるww

考古学的に、九州から東の方向への文化の波及は見られないし、大量の
移民を想定できる根拠はない

九州から畿内への地名の移動は、安本美典流「邪馬台国の会」の持ちネタだ
ただ、その場合九州側の中心が甘木・朝倉の辺りになって、邪馬台国の比定地としては
九州説の無理読みでも行程が合わないww

それで、安本美典氏は甘木・朝倉辺りを邪馬台国ではなく、高天原にしてるけどね

平塚川添遺跡もあるし、弥生時代の九州では栄えた一つの国なのだろうけれど、
邪馬台国論争とは別の視点が必要な場所だよ
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:47:38.59
>>703
「南≠東」
「南」と書いてあるから「東」でない
と連呼してるだけ
史料批判の放棄は史料事実では正当化できない

「畿内の否定」
まったく史料事実が提出できてない
つまり単純な九州説特有のウソ

「邪馬台国の否定」
ただの古田トンデモ
史料批判の放棄そのもの
つまり歴史学からの脱落
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:53:16.42
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:54:39.31
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:54:43.05
漢字が違うと言ったら邪馬台国の否定になるのか
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 09:56:35.96
九州説はひたすら発狂するしかない事態

心中お察しします
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:00:09.57
>>711
ヤマト国と読まれるのが嫌で古田が考案したトンデモな言い訳だが、世間にはまったく通用しなかった
いまやトンデモの指標だからな
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:05:40.49
>>204
>反論として書いてる事のすべてが適当なデタラメ<

反論として書いてる事のすべてが、史料事実や史料実態が根拠。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:10:55.36
魏志倭人伝を読むときには
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
の部分を無視して読むと意味が通じる。
この部分は別資料から後で挿入された記事。 
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:18:05.94
>>697
「至」と「到」は殆ど同じだけど全く同じでもない
「至」⊃「到」の関係で「到」は「至」の特殊な場合だけ使われる
「到」を「至」とかいてもいいが、「至」を「到」と必ず書いて訳ではない
音韻的に語調を整えるためではなく意味に少し違いがある
「至」は何にでも使えるが「到」は人の動作に関してしか使えない。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:21:10.34
>>697
「至」と「到」は殆ど同じだけど全く同じでもない
「至」⊃「到」の関係で「到」は「至」の特殊な場合だけ使われる
「到」を「至」と書いても良いが、「至」を「到」と必ず書いて良い訳ではない
音韻的に語調を整える為ではなく意味に少し違いがある
「至」は何にでも使えるが「到」は人の動作に関してしか使えない字。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:22:45.66
>>205
>有棺有槨の前方後円墳は3世紀中葉じゃないというのは何の根拠もなし<

魏志倭人伝の有棺無槨の記載や、3世紀半ばの卑弥呼の墓が「冢」だ、という事が根拠だ。

>ホケノ山は棺の炭素14c測定で3世紀中葉と判定<

AMS法は、プラズマ化をして、ベータ崩壊を促進してしまって、
50〜100年位古い年代がが出てしまうから、
3世紀末以後、というのが、史料実態。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:25:00.49
>>206
>魏志の記述はCであろう。 ならば卑弥呼の墓の場所もそこにある。
その場所は高天原である。<

「南≠東」であるし、殉葬奴婢百余人の痕跡もないから、×。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:26:43.23
>>711
>漢字が違うと言ったら邪馬台国の否定になるのか

ザラコクの主張
「邪馬台国なんてない! 魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬壹國!
 後漢書の邪馬臺國は、邪馬壹國とは別の国!
 台と臺は別の文字だから邪馬台国と書いてあったら、内容と関係なく邪馬台国なんてない!」

トンデモ以外の何物でもないなww
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:28:22.35
>>715
>「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 
> 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
>の部分を無視して読むと意味が通じる。

つまり、邪馬台国は無視する、ということかな?ww
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:29:48.99
能力的にレベルの劣った、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、見事に論破されたので、屈辱にまみれて発狂するしかなくなった可能性が、高まってきたな。。。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:37:54.04
>>718
>魏志倭人伝の有棺無槨の記載や、3世紀半ばの卑弥呼の墓が「冢」だ、という事が根拠だ。

つまり素人ジジイの思いつき我流珍説だけが根拠ってことだろ
ダメだこりゃ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:40:16.57
>>718
>AMS法は、プラズマ化をして、ベータ崩壊を促進してしまって、
>50〜100年位古い年代がが出てしまうから、
>3世紀末以後、というのが、史料実態。

史料実態?

それ、史料となんの関係もない
おまえ個人の素人考えだろ?
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:42:52.25
なんでも見境いなく接頭語に「史料」って付ければハクが付く
ってお粗末サギだろ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 10:48:51.28
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:02:21.74
九州説は嘘つきだと
誰もが二重肯定した
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:12:26.42
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:24:08.20
>>698
畿内説ってギャグなのか?
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:28:13.00
>>718
>AMS法は、プラズマ化をして、ベータ崩壊を促進してしまって、

まだ言ってるww
ベータ崩壊=素粒子の種類の変換は、弱い力(弱い相互作用)によって生じる現象
弱い力は、ウイークボソン、W,Z粒子の交換によって媒介される力であり、
媒介する粒子の質量により力の強さが決まる
W、Zは大きな質量を持っているため、力の本質的な強さを表す結合定数は
電磁気力と同程度だが、力が届く距離が非常に短く、力の見かけの強さが弱く見える
ここでいう力が届く距離は、媒介する粒子の寿命で制限される
ベータ崩壊を媒介するW粒子の寿命は3x10^-25 秒で、これが光速度で移動しても、
9x10^-17メートルしか進めず、炭素の原子核半径3x10^-15メートルの数パーセントに過ぎない

それに対し、炭素の原子半径≒原子核から電子までの距離は8x10^-9メートルで、
弱い力の到達距離の1億倍も遠くになる

プラズマ化によって電子の状態がどれだけ変わろうが、ベータ崩壊を
媒介する弱い力(wボソン)にはまったく、一切、何の影響も及ぼさない
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:32:29.45
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されたので、邪馬台国畿内説はベータ崩壊してしまったのではないのかな。。。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:41:11.39
このスレを読む人は
九州説がいかにウソのかたまりか知る
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:46:32.16
>>231
>西暦240年頃の魏の年号が入った魏鏡が畿内で見つかっているね
卑弥呼の時代畿内は魏と交流を持っていた印<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの造作文言だから×。
大和からは景初二年の明帝鏡は出土していないし、
魏年号鏡は、東征毛人五十五國の将軍らの墓の副葬であり、4世紀以後。

>誤差を含んでホケノ山は120〜240年頃の造営<

木棺でも樹皮からの年数分古くなるし、
AMSのプラズマ化に拠っても50〜100年位古く出るから、
120〜240年頃の造営、というのが全く当てにならない。

>庄内土器は天井が崩落した時に混入したもの ホケノ山は3世紀中葉が現在の定説<

庄内3〜布留の庄内3があった時点で、3世紀末。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:52:44.68
>>697
>そんな用法はないよ
>というより、「至」と「到」に意味上の違いはない

そうかい、この用法のちがいは初めて聞いたんだろ
古くからの用法だが、今までわが国では、指摘する人がなかっただけだよ
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 11:55:35.49
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:01:44.95
>>717
>「至」は何にでも使えるが「到」は人の動作に関してしか使えない字。

つまり至るは、道の方角を示すだけ、あるいは方角の通り一本道で進んでよい場合だ。
しかし到るの場合は、途中で右に行くか左に行くか、人間の判断(動作)を擁する箇所がある道のことだね。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:02:47.07
ザラコクの撒くニセ考古学情報は信じる人がいれば有害
しかしザラコクは日頃わかりやすいウソつきまくりなので
信じる人は相当のバカ

つまり九州説ホイホイというわけだ
役に立つ奴だ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:04:44.29
>>736
もちろん全て妄想だけどな
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:04:51.17
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:05:25.03
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:10:06.09
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、完全に論破され、この邪馬台国畿内説のスレッドのテンプレートが全て妄想だったとバレてしまったな。。。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:10:58.98
>>736
>>「至」は何にでも使えるが

という話を聞いて


>つまり至るは、道の方角を示すだけ、あるいは方角の通り一本道で進んでよい場合だ。

と限定しちゃう「つまり」の誤用は
かなり残念な脳の持ち主な証拠
おくやみ致す
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:14:31.20
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、完全に論破され、この邪馬台国畿内説のスレッドのテンプレートも全て妄想だったとバレ、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員は、かなり残念な脳の持ち主だという可能性が高まってきたな。。。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:18:09.53
二重肯定クンは昨日みじめに論破されてからずっと発狂してるのかな
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:19:41.05
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:20:44.53
九州説の発狂くん哀れな姿
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:20:50.20
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:26:08.44
二重肯定はテンプレに溢れてる
その道の達人なんだろうな、きっと。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:28:22.08
>>748
二重肯定って具体的には、どんな文のこと?
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:30:13.15
二重肯定と二重否定のことで、破綻した邪馬台国畿内説の宣伝係員が発狂してしまう討論があったのではないのかな。。。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:36:48.60
明らかに>>750が発狂してるわけだが
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:37:35.60
こんなスレに粘着しているキナイコシも相当おかしい。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:45:19.70
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 12:47:49.88
佐賀川上の伊都国を後にして、東行百里(実際には約11q〜)で、不彌国に至る。
この道は、一本道である。
・上峰町古墳公園(目達原古墳群、都紀女加王墓)
・佐賀県三養基郡上峰町坊所(吉野ヶ里公園駅より徒歩29分)

下記のような事情で、古墳群は取り払われてしまっているが、
伊都国からの方角距離と、かって大規模古墳群が存在したことからして、不彌国だったとみて、まず間違いないであろう。、
ワンポイント:
>昭和17年に陸軍飛行場建設のため目達原古墳群一帯は
破壊されることになり、調査が行われた。
>古墳群の前方後円墳の中でもっとも古い上のびゅう塚古墳が都紀女加王墓として陵墓参考地となった。
>その他の古墳のうち主なもの5基が都紀女加王墓の隣地に7分の1の大きさで墳丘が作られ、改葬された。
>これが現在の上峰町古墳公園である。
>上のびゅう塚古墳は、全長49m周濠付の帆立貝式の前方後円墳の一種。
http://kofunmeguriwalking.web.fc2.com/metabaru.html

ちょっと一言:
>上記のいきさつを知らないまま古墳公園に行った。
>円墳ならまだしもミニサイズの前方後円墳に非常に違和感を覚えた。
>調べてみて事情がやっとわかった。
>(上峰小学校のWebページに分かりやすく書いてある。)
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:07:17.94
>>754
だった49mの帆立貝式古墳で五世紀築造とか書いてあるけど、こいつ卑弥呼の何なのさ?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:08:36.91
>>734
>古くからの用法だが、今までわが国では、指摘する人がなかっただけだよ

「途中で折れ曲がったら「到」を使う」なんていう用法は、ないww
逆に「「至」と書いてあったらまっすぐ曲がらずに行く」なんていう用法もない

どうして、こんなウソばっかり書くんだろうね、九州説はw
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:13:35.25
>>755
>だった49mの帆立貝式古墳で五世紀築造とか書いてあるけど、こいつ卑弥呼の何なのさ?

都紀女加王は、応神天皇の曾孫(三世孫)で、筑志米多国造の始祖
記紀にはなく、旧事本紀第10巻國造本紀の以下の記述が都紀女加王の記録のすべて
筑志米多國造.志賀高穴穗朝,息長公同祖-稚沼毛二俣命孫-「都紀女加命」,定賜國造.
       和名抄云,肥前國三根郡米多鄉是也

まあ、卑弥呼とは時代的にも系譜的にも、何の関係もないわな
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:16:59.29
>>721
余り重要では無いってことだね
重要なのは伊都国と奴国。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:19:05.28
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:21:03.96
>>758
>重要なのは伊都国と奴国。

そう思いたいならそう思ってればいいけれど、そこは邪馬台国ではない
「伊都国と奴国スレ」でも立てて、そっちでやってww
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:24:46.40
>>755
特攻隊の出撃基地にするというので、あらかた壊してしまい、
端っこに在って運良く残ったのが、ぴゅう古墳だったというわけさ。
ここは不彌国に比定される。
三世紀には、この南にあった肥後・邪馬台国の卑弥呼のパシリかなんかしてたのだろう。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 13:55:17.86
>>756 名前:日本@名無史さん 2019/03/19(火) 13:08:36.91
>>古くからの用法だが、今までわが国では、指摘する人がなかっただけだよ

>どうして、こんなウソばっかり書くんだろうね、九州説はw

やあ、気に入ってくれたようでうれしいよ。
決してウソではないが、(仮にウソであっても)、なかなかよくできてるだろw
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 14:26:13.83
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 14:31:44.58
>>701
その“居館域”から柱穴が大量に出たのかね。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 14:38:46.26
>>764
九州説ウソつかない!
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 14:52:49.40
>>765
出たが何か?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:04:31.44
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:21:05.54
柱の穴は、桃の種の埋まっていた場所で発見されただけなので、橋本氏が卑弥呼の城があると誤認して予想した場所には柱穴が発見されていない可能性が高まったてきたな。。。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:22:24.38
>>770
九州説はウソばかりつく
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:22:34.15
>>770
橋本氏は、願望を、予想にしてしまったのではないのかな。。。。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:24:34.46
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:29:22.87
>>768
>出たが何か?

どこで?
具体的に書けって何度言われたら分かるんだ?ww

日本語が通じない人ですか〜?ww
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:32:39.82
>>774
出たのかと聞かれたから出たと答えたが
何か悪いのか?
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:34:46.50
3寸男が、キナイコシに同士討ちの討論を仕掛けたのではないのかな。。。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:37:42.57
777
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:43:22.24
佐賀河上には柱の礎石などが出ているな。
卑弥呼の直後の河上梟帥の屋敷跡だと思うけど。

ヤマトタケルに倒された河上梟帥の墓は佐賀河上にあり、景行天皇と同世代なので4世紀初頭。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:45:29.20
>>778
その情報の出所は?
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:46:38.40
ググレカス
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:48:54.05
なんだ
デマか
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 15:58:02.28
>>775
>出たのかと聞かれたから出たと答えたが

>>775じゃなくて、
九州で柱穴が出るといいねって言われた>>765のやつはどこに行ったんだ?
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:00:06.11
>>778
>佐賀河上には柱の礎石などが出ているな。

その辺は、山際の扇状地だから、石ころはいくらでもあるだろうなww

佐賀川上バカも、いい加減伊都国はそんなところにないって気がつけよww
佐賀川上に唐津から行くのに脊振山脈を越えるはずがないってのは理解できたのか?w
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:12:16.85
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:14:27.16
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
5ちゃんねるで、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の3寸男は、日本人に悪口を言い放つためだけにスレッドに出現している可能性があるな。。。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:14:33.18
>>234
「南→東」の嘘つき騙しの反省ができないというなら
腐っているのは大和説のほうという事
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:17:25.02
話の流れを理解できないバカな3寸男が、間違ってキナイコシに同士討ちの討論を仕掛けたことに気づいたので、頭が悪い取り繕いを実行したのではないのかな。。。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:20:24.39
>><238
>纒向説とか怪しげな造語を作っているが、畿内説では纒向はは卑弥呼の共立に伴って
新しく作られた計画都市だから、卑弥呼の共立以前の墓はないよ
それ以前の大和の中心は唐古鍵だから、唐古鍵の墓域と考えられる清水風遺跡や三河遺跡のどこかに
卑弥呼の親の墓はあるのだろう<

「南≠東」に拠って、×。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:22:50.26
>>239
>なら反論しなよ
「短里はあるんだ〜」ってのは、反論じゃないぞww<

「南≠東」でも「短里でも、大和説は、×。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:28:19.44
柱の穴は、桃の種の埋まっていた場所で発見されただけなので、橋本氏が卑弥呼の城があると誤認して予想した場所には柱穴が発見されていない可能性が高まったてきたな。。。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:28:58.85
橋本氏は、願望を、予想にしてしまったのではないのかな。。。。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:40:33.88
>>240
>>魏志倭人伝は、女王國(≒倭國)と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とが、
違うモノだ、としてはっきり書き分けているから、畿内は×。<

>渡海千餘里の前の土地も、「皆 」倭種だし倭種の国
書き分けられてないし、皆同じく倭種だと書いてある<

「皆倭種」は、当然その直前の「復有國」の述語。
つまり「復有國」の「國」が「皆倭種だ」と言っている。

前の女王國の述語は、「東渡海千餘里」。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:42:23.16
>>242
敗北の明らかな大和説は、
お通夜ムード
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:46:12.52
>>243
大和説者は、九州説に抑え込まれてるって自覚あるんだ
まあ、まともな「南≠東」に反論もできてないからな
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:46:53.05
九州説は具体的事実から最も遠い説だな
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:57:25.55
ザラコクが周回遅れレスをやめたので
ウソをついてることが判りやすくなったな
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:57:35.15
>>1
まだ続いているの?
詳しいことはわからないけど

『縄文人』

あのような系統だと言っているんだよ、
目、鼻の辺りの感じとか、
顔自体はそういう顔ではないんだけど、作りというの?

何なんだろう、
、・・・、・・・、・・・ハーフ、クオーターなのかな?

あの写真の話w
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:57:48.96
>>245
「南≠東」や「冢≠前方後円墳」などの問題で、
まともな対話のできる大和説者は、一人も残っていないからなぁ
松傾などとかのトンデモ連中よりも下しかいない
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 16:59:41.47
家の老婆というのは鼻、鼻筋?
ぜんぜん無いような顔w

旧姓:わたなべ
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:03:27.78
>>798
対話したら確実に九州説が負けるのは思い知ってるから
九州説はひたすらウソつき続けてるんでしょ
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:06:30.50
>>783

別人だよ。
伊都国は糸島市だ。
しかし、卑弥呼からそう遠くない時代において、佐賀河上が倭国の重要な地域であったことも確からしいと思う。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:10:56.47
>>249
>>卑弥呼の王都が纒向だというのなら、素直に纒向説だと言えよ<

>畿内説では、邪馬台国七萬戸の範囲は「大和+河内〜環大阪湾」の範囲だと繰り返し教えてるだろ?w
邪馬台国は纒向ではないんだよ
纒向は邪馬台国の中の王宮所在地だ<

畿内も邪馬台国の存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
纏向=卑弥呼の王宮論も、「南≠東」などに拠って、×。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:14:46.60
いつもザラコクは無内容
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:17:31.30
>>255
>畿内説では、卑弥呼の時代に前方後円墳が定式化したといっているのだから<

卑弥呼の墓は「冢」であり、前方後円「墳」ではないから、×。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:21:47.86
本当に同じような話だろう・・・、結婚する前の話、

『松傾』は何かの家だと言われたとか、
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:29:52.00
>>257
>それに、後漢書に倭國大亂 更相攻伐 歴年無主とあるように、
卑弥呼が共立される前代は倭王は居ない時期が歴年なんだぞ
無理な言いがかりは無意味<

「纏向の墓」の話をしているんだから、「南≠東」に拠って、類スレ主も、×。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:31:45.24
本当に、おかしな話ばかり

家の母親は鼻、鼻筋などもあるし・・・、
旧姓:近□w
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:34:13.03
説明しなくても、わかるはずw

母親の旧姓:□藤
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:48:57.99
九州説はもう説じゃないな
スローガンの連呼しかしてない
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:52:12.82
>>268
>卑弥呼の共立後だぞ、纒向型前方後円墳が作られるようになるのは<

3世紀中頃の卑弥呼の墓は「冢」だから、
「くびれ部が反り返るような帆立貝型」の前方声円墳の那珂八幡は、
始めから卑弥呼の墓よりもずっと後であり、
纒向型前方後円墳の始まりの石塚は、撥型であるから、
那珂八幡等よりも新しく、3世紀末になるから、
類スレ主は、×。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:53:04.26
>>760
伊都国と奴国が邪馬壹国の首都圏なんだよ。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:54:51.65
>>760
この首都圏を女王国と魏志倭人伝では読んでいるだよ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:56:00.07
>>273
このように大和説は、
「南→東」や「冢=前方後円墳」等の理由を、
まったく言わない
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 17:56:45.31
このスレではないんだけど、
本当の『松傾』の系統は先住民なのでは?と言ってる人がいたり
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:03:53.05
>>810
>3世紀中頃の卑弥呼の墓は「冢」だから、
>「くびれ部が反り返るような帆立貝型」の前方声円墳の那珂八幡は、
>始めから卑弥呼の墓よりもずっと後であり、

それ、なんの根拠もない


>纒向型前方後円墳の始まりの石塚は、撥型であるから、
>那珂八幡等よりも新しく、3世紀末になるから、

これも何の根拠もない

どちらも一人の素人が自分の個人的思いつきを理由もなく言い張ってるだけで
そんなの歴史でもなんでも、ない
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:05:38.98
>>813
九州説はまたウソをついているな
テンプレに書いてある
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:11:49.22
>>811
理由は?

なんで九州説は理由をまったく言わないんだ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:24:23.44
『ザ・モモタロウ』
という作品も、超時空(設定)だとわかる

創価(不明)か何かなんだろう?
みたいな事を言ってる人がいたり
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:26:34.38
>>283
>>唐会要は、倭国伝とは全く離れた違う場所に「日本国伝」を書き分けており、
しかも、倭国伝と日本国伝の遣唐使も、
(名前が異なる)違う遣使だとしてきちんと書き分けているのだ。<

>まあ、こういうのが典型的な九州説なんだよね
第三者に確認できる事実じゃなくて自分ひとりの主観による決定事項だけを
常に根拠にする それはイコール「根拠がない」って事なんだけどね <

まあ、こういう「口先誤魔化し話術」」、というのが、類スレ主の特徴だな。
類スレ主は、
「その唐会要に書かれてる平安貴族を遣唐使として送ったのは畿内に都のある日本=倭国だ」
と言ったから、
私が反論して上げたんですよね。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:28:25.96
家自体は創価ではないし・・・・、
老婆は創価、老婆の親戚がそうだったんだよと言っていたり
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:32:14.26
松傾?

松の木が立てられている写真など、
創価ではないし・・・、

キュウリのような葉、葱の華・・・あの写真もw
『松傾』の家の写真だし・・・というか書き込みをしている家の。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:33:54.72
>>285
>>石野氏や寺澤氏の主張は要約すると以下であり、纒向=卑弥呼の王都と断定していない
「纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都である」↔

>卑弥呼は「ヤマト」 国の纒向遺跡に居処したとしか言いようがないであろう。(寺澤)
九州説は嘘をつく いつまでも・・・ どこまでも・・<

そりゃ、寺澤は、どちらも言ったんだろう。
大和説は、まあ、
こういう「口先誤魔化し話術」で嘘ををつく、
いつまでも・・・どこまでも・・・
というのが、特徴だな。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:34:39.28
『葱の華』?〜『松傾』
こういう名前の家の写真
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:37:23.69
>>290
>卑弥呼は「ヤマト」 国の纒向遺跡に居処したとしか言いようがないであろう。(寺澤)<

「南≠東」などに拠って、寺澤は×ね。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:39:06.43
>>295
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者は、
知性からの逃亡者
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:42:22.85
>>296
>邪馬台国の南の狗奴国 魏志倭人伝当時の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう
元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
卑弥呼を共立した勢力の侵略に抗っていた狗奴国と道饗祭の関係が気になる
道饗祭・・・<

道饗祭男も、「南→東」や邪馬台国や畿内などの嘘つき騙しに拠って、
×男。
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:44:42.27
>>819
>「その唐会要に書かれてる平安貴族を遣唐使として送ったのは畿内に都のある日本=倭国だ」
>と言ったから、
>私が反論して上げたんですよね。

本当のことに対してウソで抵抗しても
反論したことにはならないよ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:47:25.08
>>299
>倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?・・・<

倭国大乱も畿内もなかったから、この男も×。
「銅鐸とヒスイの勾玉の集落」は、出雲系だから、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、征服され、服従させられてしまった。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:48:41.63
>>823
寺澤氏が纒向=卑弥呼の王都と断定していないと
ウソを書いたのは九州の人はだろう?
だからウソつきは九州説の方なのに
なんでまたウソと中傷を重ねて誤魔化そうとするんだ?

だから九州説は信用されない
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:51:47.46
『ザ・モモタロウ』
という作品にシュテンドルフ、酒呑童子?というキャラがいるでしょ


お前たちと(酒を)飲んだばかりに、このような事に・・・、
なってしまった

みたいな事を言っているし
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:52:57.01
いや〜畿内説っていつも人を憎悪しているよね
それに平日の昼から書き込みしてる
こんな人物が何を言ったって一般人は聞く耳をもつまいよ
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:54:45.52
>>309
ひたすら誤魔化す、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説
サギだから仕方ない
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:56:41.72
>>829
>九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って、征服され、服従させられてしまった。

畿内が?
まさかw

毛人というのは日本の北東にいる異民族だと中国史料は一貫して書いているのだが
それを征する勢力なら、当然ながら畿内に都のある日本=倭だ

九州説はなぜ勝手に史料事実を歪曲するんだね?
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 18:58:23.09
本当に同じ話でしょ?
家と老婆が結婚するときの話


何かの家の人、凄い家に住んでいる・・・、
みたいに言われたとかw

老婆から見て姑(姑の親だったかな)?
何々様なんて言われていたよと言っていたし、
老婆が言っていたんだから嘘ではないだろう
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:02:41.38
歴史の憎悪という異常心理の九州説
都合よく歴史を創設して好き勝手にやりたいから
半島儒教コリアン思考
例えるなら人類に対しての壊疽
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:03:30.06
本当に・・・説明不要

『姥清水』

この辺りに住んでいたと言っている、
山の上のほう
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:08:27.36
半島コリアン人間の歴史は恥辱まみれ
それと同じく九州説のみっともない様は見てるだけで恥ずかしい
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:09:36.29
九州説はもはや中高生が学校で習ってる歴史とは完全に相容れないことを主張するようになった
ムー的な雑誌しか登場の場はなくなった
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:11:08.51
>>835
静岡辺りからもう毛人だよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:11:22.62
>>839
なにこれ

嫌韓キウスがまたナリスマシやらかしたのか?
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:16:13.62
>>842
成りすましちゃうわ
観察の結果九州説は
歴史を作り変えようとする在コリ勢と判明したんだよ
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:23:12.28
それにしても何の話なんだろう、
肉の話もしていたり・・・、食べなかったとか


聖人などの話?
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:27:13.65
なぜ九州説は歴史を書き換えようと努力するのか
現在みたいな情報化社会では徒労に終わるだけだ

まあそれが鮮人九州説の生まれ持っての性分なんだろうけど
鮮人は世の中を李氏朝鮮にしたくてしょうがない
しかし世の中は非人間性の極み李氏朝鮮とは逆の方向に進歩していくもの
それに適応できないなら鮮人九州説に待ち受けるのは破滅およびに根絶のみ
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:27:18.95
>>844
九州説は皇国主義右翼じゃないの?
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:27:44.55
>>811
>伊都国と奴国が邪馬壹国の首都圏なんだよ。

それがインチキ読みなんだってば!
そんな読み方しちゃって、水行10日、陸行1月はどうするの?
投馬国はどこ?

伊都国と奴国を合わせても、二万千戸にしかならないよ!
残りの四万九千戸はどうするの!

この「伊都国奴国が邪馬台国」ってのを見るたびに九州説はいい加減すぎるといつも思う
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:29:20.30
>>819
>「その唐会要に書かれてる平安貴族を遣唐使として送ったのは畿内に都のある日本=倭国だ」
>と言ったから、
>私が反論して上げたんですよね。

その反論はどこにあるの?ww
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:31:57.05
>>844
>歴史を作り変えようとする在コリ勢と判明したんだよ

まあ、価値観的にはそうなんだけど、パヨク的反日カルト信者も混ざってるんだよな
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:32:11.65
>>847
九州説は歴史コリエイトの在日半島鮮人だよ
どちらかというと左
実はいわゆる政治的な右も左も正体はどっちも同じなんだけど
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:41:37.29
『山王院 天王宮 菅野』

確か、むかーし、
この辺りに住んでいたと言っているし、親戚(遠い)か何かなのかな?
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:43:59.67
どんどん醜悪になっていくな畿内説
憎い九州説をつぶしたくてしょうがないんだろうけど
憎悪の炎に焼かれて火だるまになってるよ
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:46:09.00
>>851
いろんな政治的に偏った泡沫派閥の吹き溜まりだろ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:46:46.07
>>853
どこが醜悪?
具体的に指摘してみて
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 19:48:43.56
それとも『山王院 山王宮』?

たしか、むかーし山の上のほうに住んでいたことがあって

『ボーボボ』?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:18:51.87
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:23:33.93
老婆の話から言っても、・・・合致しているし。

理由はわからないんだけど、
山の上のほうに住んでいて、すごい土地を持っていたとか。

盗まれたりしたのかな?近代になってからの話?
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:30:35.34
860
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:39:27.60
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:47:06.58
鮮人九州説というと荒らしがピタリと止むな
よほど都合が悪いのか
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:51:27.45
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:54:26.84
畿内説は堕ちるところまで堕ちたね
感情で議論するようになったら学者として終わり
九州説憎しで身を滅ぼしたな
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 20:55:57.16
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:02:08.14
畿内説は九州説を見ずにミラーイメージを見ているのか
感情的な人間が陥りやすい罠だね
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:03:47.23
魏志倭人伝の記述が九州北部を指すものではなく
仮想上の邪馬台国の位置である倭の極南界で会稽東治(冶)の東
沖縄や台湾の辺りと書かれてる以上
九州説はどうしても成り立たない

そして三世紀の考古物が示すのは邪馬台国は畿内
九州説がこれ以上ああだこうだ言うのは恥の上塗り
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:07:53.72
>>454
>テンプレは論旨が捻じ曲がっている。
嘘をついて騙すために、あえてわかりにくい表現を多用している<


許してやったらどうや
彼に学がないだけだよ しかしスレ運営は長けてるよ 数人しか来ないけど
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:09:18.89
小野掃部という人物とか、名前ではないのかな?

『掃部』
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:13:44.62
宮の内?どういう話なんだろうとなるでしょ、

なぎ・なみ夫妻〜子供(三貴子)の話
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:16:05.21
『なぎ・なみ夫妻』

宮中、宮内?〜三貴子?
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:25:52.05
九州説どんだけ醜悪やら
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:29:50.49
>>848
邪馬壹国は北部九州地域で投馬国は朝鮮半島南岸
「南至邪馬壹國 女王之所都」とは投馬国に対して邪馬壹国側に女王の都があると言ってるだけのこと
日数の行程は帯方郡からのもの、水行20日で朝鮮半島の西側と南側を巡り、水行10日で朝鮮海峡を縦断
>残りの四万九千戸はどうするの!
壱岐、対馬、松浦、不弥が3000、1000、4000、1000
傍国20か国×2000
計70000戸
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:37:23.83
邪馬台国論争は
地動説=九州説と天動説=畿内説の争い。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:39:25.75
>>877
>日数の行程は帯方郡からのもの、水行20日で朝鮮半島の西側と南側を巡り、水行10日で朝鮮海峡を縦断

そこから1カ月かけて何処いく九州?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:48:47.66
ここの住人は5月の10連休もスレにのさばってそうだな
さて元号はなんになるかな
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:52:31.36
猿蟹合戦
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 21:52:57.86
>>880
>さて元号はなんになるかな

「阿波」 結構いけるのでは?  ワハハハハ   @阿波  
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:24:35.48
>>312
>寺澤薫
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」<

寺澤も、邪馬台国という嘘吐き騙し文言マンであるし、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・?詐欺師ね。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:29:28.81
>>314
いい加減な宗教による史料事実の選択
いい加減な史料事実の否定や曲解理解
いい加減なよる嘘吐き騙しの詐欺論理

大和説を形づくってるのはコレ
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:35:20.18
>>329
悪口はいえるが
「南≠東」などの嘘吐き詐欺の指摘に、
反論はできない大和説

落ちるところまで墜ちている
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:36:19.51
論でも何でもない適当な雑言しか並べられないなら
九州説は諦めれ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:43:35.04
>>877
>邪馬壹国は北部九州地域で投馬国は朝鮮半島南岸

投馬国、半島南岸説は、一人説だろww
九州説の連中ですら認めないトンデモだ

半島に五萬戸も倭人がいるとはどこにも書いてない

>水行10日で朝鮮海峡を縦断

海峡を渡るのに10日もかけていたら、つまり渡海が1日で渡れなかったら、遭難しておしまいだ

>壱岐、対馬、松浦、不弥が3000、1000、4000、1000
>傍国20か国×2000
>計70000戸

このインチキもひどい
余傍国は戸数も分からないとしているのにそれを算入するのはおかしい

さらにこの考えでは、倭國の戸数として示された数字を全部邪馬台国に算入してしまっていて、
投馬国に入れる戸数は0だ

まったく整合性が取れていない
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:44:06.54
>>885
会稽は最北端でも北緯30度だから短里なんて無くて方位「南」も間違いだ
と反論されてる目の前の事実さえ歪曲する九州説だもの
古代のことを捏造しまくりなのは言うまでもない
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:44:43.70
>>331
九州倭国の別種の旧小国が、大和に拠点を貰っただけだよ
3世紀頃までに「東征毛人五十五国」に拠って、毛人やや出雲銅鐸祭祀國は没落した
倭人伝記載の風習は、大和にはない
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:49:38.10
>>332
>それも、主に中国側の事情で <

中国が大和の事を知ったのは、梁代の扶桑國から。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:51:29.75
>>333
>同じ倭だもの。<

九州倭国は、盟主。
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:53:49.63
このやうに
九州説はまったく理由を言わない
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:55:35.24
>>337
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の、
いい加減な知識による難クセなんぞ、痒くもない
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 22:57:13.37
>>338
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は
九州説の悪口を言ってないと、
死んでしまう病に冒されている、心の病人
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:02:07.56
>>340
平原1号は、壹與の墓の可能性が高いから、270年台頃。
大和には、卑弥呼の墓の候補になるような遺跡ないよ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:02:46.35
もうまともに論じれも出来なくなったオウム人間ザラコクが
オウム返ししてますねー哀れですねー
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:06:49.73
>>348
冬が訪れてるのは
「南→東」などの嘘吐き詐欺がバレた大和説のようだがな
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:10:07.52
>>349
一方三世紀の考古物で見ても、
邪馬壹國女王之所都は弥生銀座付近にあった、
で決まり
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:18:03.34
>>359
道順辿れば行き着く先は不彌國の南の弥生銀座と書かれていて、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説死滅
後代史書の「自己解釈に拠る書き換え」は、根拠にならず、大和説破滅。

三世紀の筑紫が邪馬壹國女王之所都だった考古物証を嫌というほど突きつけられ
大和説は目も虚ろになって壊滅
まあそもそも頭が虚ろだったからなんだけれど
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:19:38.13
阿波が一瞬出てきて消えたな
このスレ監視しているのか?
直前の書き込みはつぶやきさんと
猿蟹合戦の書き込み
何に反応したんやろな
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:43:23.47
>>890
>大和に拠点を貰っただけだよ

そんな間借りしただけの小さな拠点で、世界史上でも有数の巨大墳丘墓が作れると思ってるのかい?ww
思ってるんだろうな、整合性とかまったく考えない無能だし
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:45:42.34
>>892
>九州倭国は、盟主。
>大和は、九州倭国の別種分家の旧小国。

盟主の墓が分家の墓より小さいなんてことはないんだって!
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/19(火) 23:50:30.26
>>896
>平原1号は、壹與の墓の可能性が高いから、270年台頃。

そして祇園山古墳が卑弥呼の墓だって言うんだから、ザラコクには時系列が理解できないんだろうな
祇園山は平原1号墓から200年くらい後になるのにw
0908◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/03/20(水) 05:53:49.81
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1553026934/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:23:36.46
>>357
>さて九州説が死滅した所で畿内説の精度をもっと高めるか<

畿内なんて存在しないから、×。
元々いたのは、出雲系銅鐸催事部族や毛人であり、
そこにやって来たのが、倭奴國の阿毎氏の別種分家で、
その後の九州倭国の東征毛人五十五国で支配下になった旧小国群。

>二世紀後半から三世紀初頭にかけて畿内は様変わりし 古墳時代に入った<
その頃の恐らく前方後円墳の先駆けとなる古墳<

大和の「東征将軍らの最初の墓」が、3世紀末の石塚。

>帆立形をした円墳こそ最古級の初代畿内大王古墳となるだろう<

帆立型の始まりは、那珂八幡。

>神話上の神武天皇の古墳は40m〜100mの古いタイプの円墳<

神武は、出雲系や毛人に囲まれて、磐余付近であり、ひっそり亡くなった。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:29:30.84
>>357
>恐らく初代畿内の大王神武天皇の古墳は
古い古墳に見られる特殊器台の備わった大き目のホタテ型円墳だな
なんとか塚とか今は地味な名前がつけられてる平地にある小山かも知れない<

年代が全く違うし、出雲や吉備の特殊器台は、3世紀末だろうから、×。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:30:35.56
>>903
神武は間借りしただけで、前方後円墳は饒速日すなわち物部氏だよ。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:30:50.93
〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜


高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。

また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
韓民族最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。

加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。
やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。

なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に存在を証明するものがなく、
「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:30:53.98
もぐもぐと
意味不明な妄想を呟くだけに
なってしまった
九州説老人
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:31:24.10
>>358
これこそおおよそ全てにおいて敗北した
大和説の最後のあがき。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:31:34.90
>>913の補足資料

一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、
この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。

「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、 
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、 
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」

このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、
それに対して倭国からは「上表」文が出されています。

従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。

よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の
最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説である学説に値します。

筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。

志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、 
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:38:22.59
>>359
>>この年代に根拠がない。<

>公式の調査報告書に書いてあるのに 目をつぶり耳を塞いで
ナイナイナイと悲鳴を上げる九州説の滑稽さ<

「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホであった、
という事がバレている学会や文部省系の学者の、
嘘吐き騙しの公式の調査報告書を盲信隷従して、
アルアルアルと叫び続ける大和説信者の滑稽さ
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:52:35.80
>>916
>従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。


そんなの伊都あたり在住の中国人代筆屋が営業してただけやんか
考えナシに断言するから九州説がお陀仏したんだよ
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 07:53:23.60
>>362
>しかしホケノ山は謎だな 特殊器台を備えた横穴式以前の竪穴式
副葬品は三角縁神獣鏡以前の方格規矩四神鏡や内行花文鏡
しかも鏡が枯渇していたのか破片 畿内入りした九州勢の末期を伺わせる<

鏡片は、当然明帝の詔書の
「銅鏡百枚・・・悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也 」に拠って、
卑弥呼やその後継の壹與が、親愛なる部下や東征将軍らに示し与えたもの。
しかし、ホケノには、吉備の有棺有槨や阿波と同じタイプの画分帯もあったから、
出雲銅鐸系部族にも関係があった事になり、
東征将軍の部下になった出雲系部将の墓であったんだろう、という事になる。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:04:16.13
基礎知識のない人が変な妄想してるけど
鏡片をアクセにする文化と
鏡を打ち割る葬送儀礼は
ぜんぜん別系統だから
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:17:44.29
話を作ったりするなと言っているんだよ

『三貴子』のほうが上だという事くらい、誰でも知っているはず


それと本当に老婆も、なぜ詳しいんだろう
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:19:26.82
九州説ってのはね
タチの悪い出版ゴロが
ボケ老人のタンス貯金狙って
じさま達の実力の伴わない自己顕示欲を煽って
売れる見込みのないゴミ本自費出版させる
悪徳商法なんだよ
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:23:02.15
他のスレの話になるんだけど、

お前たちが批判している・・・()・・・が、
国の〜なんだぞwと言ってる人がいたり
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:24:13.00
>>916
>志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、

それ、倭人が書いた文字じゃないww
筑前中域でもない

>室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、 

ザラコクのお仲間乙
それ、清代の文鎮だよww

>井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

銘文鏡は全国で出てますがな
井原と平原で100年くらい時代がずれてる
平原1号墓からはやたら古い舶載鏡が二枚で残りは仿世鏡38枚だぞw
味噌もなんとかも一緒にしちゃうのが九州説の特徴
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:33:10.33
あと位のようなものもあるでしょ?
超越している人物(日本の歴史上、過去の話)がいると書いてない?

位、それ以上の人物
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:36:20.32
「加茂宮ノ前遺跡」
朱の生産国内最大・最古

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。

A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。

A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。
過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。今回の発見で、生産の起源は1500年ほとさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。

A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:40:38.99
『位』『超越』

ほとんど神話(宗教)関係の話になるでしょ
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:42:45.82
あの謎の震災なども、
何か知っている人がいるんじゃないの?


地位が聖?
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:47:33.34
「加茂宮ノ前遺跡」

徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。

発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡20棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。

弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。

住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。

住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。

一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。

加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。

若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。

加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲)  @阿波
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:49:51.17
地位聖という人物が出てくる作品、テレビドラマ?

「集え三英傑!」

どのシーンだったかな、
このようなもの(広告、ポスター?)が見えたり、コエの事でしょ?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 08:55:48.41
コエというのは


無双、信長の〜・・・、


説明不要w
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:01:01.68
wiki『神学』・・・〜〜〜〜〜〜〜w
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:05:08.79
『デスラー』『ボーボボ』『』『』『』『』『』・・・同じ人物
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:09:40.04
なぜか・・・同じようなシーン(画像)というか、
・・・・・・・・・・・・・ばかり出てきたり


『ワンピース 粉雪』『』『』『』
ガンダムに出てくる・・・というキャラとか
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:16:58.87
本当に『天王』というのも調べてみた?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:20:21.80
〜宮、〜院・・・とか、

本当に家と、同じ家(名前の家)だしな・・・・、
あの写真もw
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:23:19.03
『何者にもなれない お前たち』

・・・・・・・・・ほとんど同じ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:36:11.52
>>363
ただの「九州倭国の別種分家の旧小国」の大和や纏向を、
「宮室樓觀」だ、「城柵嚴設常有人持兵守衞女王國」だ、
(存在もしない邪馬台国」だ、と騒ぐ哀れな大和説
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 09:36:51.04
山王・・・?

山の上のほうに住んでいたという話
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:07:37.47
本当に、シンクロ現象としか言えない、
悪く言うとストーカーのような気もする
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:10:49.25
チャルロス、ウマヤド・・・
というのも、同じような?
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:13:11.73
『チャルロス』

どう考えても、日本の話でしょ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:35:57.49
>>365
>ホケノ山古墳は謎だな
副葬品から今言われてる三世紀中葉じゃなくて前葉かそれ以前なのは明らか
どう位置づけたものか<

「三世紀中葉じゃなくて前葉かそれ以前」と言っているようじゃ、×だな。
有棺有槨の前方後円墳で、卑弥呼の冢の後である事は確定であり、
帆立貝型である?らしいから、那珂八幡よりも後になり、
庄内〜布留であるから、庄内1の石塚よりも後の、3世紀末〜4世紀になってしまう。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:43:31.92
>>367
>魏志倭人伝を読めば 邪馬台国は会稽東治(冶)の東 沖縄か台湾の辺りと書いているよ
これを読んで 魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は不正確だ
だから考古物で見たら邪馬台国は畿内に相当する位置にあったんだと
考えられないようじゃあ マジ頭がどうかしてるよ <

魏志倭人伝には、(会稽東冶なんて書かれておらず)、
女王國はは会稽東治之東と書かれていて、ほぼ九州島にピッタリであり、
これを読んで
魏志倭人伝に書いてある女王國の位置は不正確だ、
だから考古物で見ても、女王國は大和に相当する位置にあったんだ、
としか考えられないようじゃあ
その「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男は、マジ頭がどうかしてるよ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:45:38.53
>>368
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の・・・・詐欺師のような、
まったく理由の言えない人々が
大和説を葬ったと言って過言ではない
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:55:04.54
>>370
>行程パズルで適当な場所を言って済む時期はもう終わったんだ<

同時代の実地の見聞計測の拠っていて、最も客観性と信頼性や確率の高い魏志倭人伝を、
「パズル」と口先で否定抹殺して、
多元的な考古発掘からのパズルで、適当な場所を言って済むような、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホ大和説者の時期はもう終わったんだよ。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 10:59:10.35
>>372
>ホケノ山はあれだけ大規模で少なくとも卑弥呼以前
初代の畿内大王の墓かもなあ<

ホケノは、有棺有槨の前方後円墳で、卑弥呼の冢の後である事は確定であり、
帆立貝型である?らしいから、那珂八幡よりも後になり、
庄内〜布留であるから、庄内1の石塚よりも後の、3世紀末〜4世紀になってしまう。鏡片は、当然明帝の詔書の
また、鏡片は、
「銅鏡百枚・・・悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也 」に拠って、
卑弥呼やその後継の壹與が、親愛なる部下や東征将軍らに示し与えたもの。
しかし、ホケノには、吉備の有棺有槨や阿波と同じタイプの画分帯もあったから、
出雲銅鐸系部族にも関係があった事になり、
東征将軍の部下になった出雲系部将の墓であったんだろう、という事になる。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:04:47.59
>>376
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・アホの大和説者の
痴呆化が進んでるな
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:08:38.14
>>918
伊都で勝手に上表文を書いていた!
内容の確認はしないの?
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:23:02.60
>>380
「南→東」などの嘘つき騙しのような、
こういう論理的思考ができない人しか大和説に残ってないんだよな
「邪馬台国が沖縄辺り」って時点で、理解できていない
魏志倭人伝は、信頼性も客観性の確率も非常に高い同時代記録に拠ってに書かれており、
「旅程が正しい」確率が非常に高く、
「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」から、
邪馬壹國女王之所都は、筑紫付近にしかならず、考古的遺跡もある
つまり、「旅程があるほぼ正しい」ということが『確定』してるんだよ
それなのに「魏志倭人伝の旅程を南→東にして読めばほぼ大和」とか言う大和説が、
おかしくておかしくて・・・。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:32:48.90
>>381
>渡海は距離に関わりなく、ひと声千餘里とされているだけだから、
距離の見積もりに使ってもしょうがない
萬二千里は淮南子から引っ張ってきた世界の果てまでの距離だから、
実際の地理と照らし合わせても意味がない<

いや、如淳注も陳寿も魏略も後漢書も梁書も同じような里数を記録しており、
魏志倭人伝の記録も、淮南子を全く踏襲していない記載をしているから、
魏使らが実地に計測した有効数字1桁概数程度の計測値であり、
十分に根拠になる。
「南→東」などの嘘つき騙しで大和説を主張する類スレ主は、
人種差別的戦争の皇国史観に狂った・・・・詐欺師。
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:34:44.86
>>950
そうやって決め付けだけで結論出して立証はまったくしないから
九州説は見向きもされなくなったんだね
自業自得だが
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:39:00.92
>>383
>そんな単位はないよ 九州説死去済み<

周髀算経の一寸千里の短里が、山海経や淮南子などの他にも、
如淳注や三国志や魏略や後漢書や梁書や江表伝や介山や天柱山などにも使われており、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、死去済み。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:43:18.90
>>620
呼子湾に着いたら呼子大友は方向違い
唐津方面へ向かう
魏使一行は呼子大友とか通らない
東松浦半島内を通過
「草木茂盛 行不見前人」の状態では可也山の方位と距離を目測なんて不可能。

>>879
1月は1日の誤記でしょうね
当時は陸行1月なんて出来る道路なんて整備されていない。

>>888
>半島に五萬戸も倭人がいるとはどこにも書いてない

朝鮮半島南岸に倭人が住んでいたことは確定的

>余傍国は戸数も分からないとしているのにそれを算入するのはおかしい

奴国以外の判明している国邑の平均が2000戸
邪馬壹国の戸数は可が付いてるから推測値
推測方法として妥当でしょ
投馬国は倭地外の倭人の居留地。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:48:00.60
>>954
>「草木茂盛 行不見前人」の状態では可也山の方位と距離を目測なんて不可能。

海の上から見えてるww
その言い訳は既に無効w
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:49:44.57
>>954
>当時は陸行1月なんて出来る道路なんて整備されていない。

整備はされていなくても、大和と日本海側〜出雲の交流があるんだから、
そのルートで移動してるんだよ

丹波から大和まで道なりで170キロくらい
陸行一月の距離として妥当だろう
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:50:51.21
>>954
>1月は1日の誤記でしょうね

ご都合主義乙ww
1日だったら、わざわざ陸行を書かないよ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:53:32.70
>>954
>朝鮮半島南岸に倭人が住んでいたことは確定的

一人もいないなんていってないだろ?
倭人がいるのは構わない

しかし、投馬国五万戸が半島南部にあるなら、そこはもう倭国だ
魏志倭人伝冒頭の倭人、在帶方東南「大海之中」と明確な齟齬を生じる

半島南部投馬国説は、九州説の人から見てもバカしか唱えないトンデモだww
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:55:37.03
>>954
>奴国以外の判明している国邑の平均が2000戸
>邪馬壹国の戸数は可が付いてるから推測値
>推測方法として妥当でしょ

まったく妥当ではない
平均をとる意味がないし、投馬国も同じ文型で書いてあり、同じく「可」がついているのに
同じ扱いができない時点で破綻している
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 11:57:25.13
>>954
>投馬国は倭地外の倭人の居留地。

お前の想定では、倭地(本国)のほぼ全戸数が七万戸
それに対して倭地外にそれに匹敵する五万戸があって、
それが居留地って「ためにするご都合主義」以外の何物でもないww
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:09:35.78
>>384
>>会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある<

>短里とやらが使われていたなら倭は魏志会稽の東にならないのに
なんで証拠になるの? 言ってること支離滅裂では?<

この男もウソを付いている大和説者。
「会稽の東」ではなく、魏志倭人伝での陳寿の記載は「会稽東治之東」であり、
「会稽東治」は、上海付近から江蘇省海岸付近になり、
その東は「ほぼ九州島」付近であり、
魏使らの記録で間違っておらず、短里であった事の証拠にもなる。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:16:51.87
>>954
>呼子湾に着いたら呼子大友は方向違い
>唐津方面へ向かう


あなたの呼子湾って具体的にはどこのことなの?
唐津の向かう途中に大友がないと?
不思議ですね
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:18:26.98
>>961
>「会稽東治」は、上海付近から江蘇省海岸付近になり、

はい、また嘘ついたので九州説が死にました
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:24:43.95
>>963
>>「会稽東治」は、上海付近から江蘇省海岸付近になり、
>はい、また嘘ついたので九州説が死にました

ザラコクがこのウソをつき続ける理由って何なんだろう?
3世紀に江蘇省が会稽に入らないのははっきりしているのに
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:26:59.43
投馬国を半島に比定しないと成立しないのなら、
もういい加減諦めろよ九州説なんて。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:29:24.10
>>964
>どこが嘘なんだよ?
>脳内説(畿内説)に執着しなきゃ飯が食えんのか?

おいおい、九州説だからって無批判に畿内説に噛み付きゃいいってものじゃないぞww
>>965にも書いたように、3世紀時点で、現在の江蘇省は会稽の範囲に入っていない

ザラコク理論の会稽の東の治所とかいうバカ説であっても、
会稽東治が江蘇省だというのはデタラメなんだよ

そして、これまでに何度も地図つきで指摘されている
それでも、間違いを言い続けるのは、ウソ以外の何物でもないだろ?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:37:41.88
>>962
呼子湾内に着いてそのまま南下したら東松浦半島内を通る
海は唐津に着くまでの間全く見えないよ
方向の確認は不可能だよ
君、現地にいったことないでしょ。
>>966
朝鮮半島には任那もあったし倭人が大勢住んでいたことは確実
3世紀の倭人の居留地を投馬国と呼んでいたんだ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:41:44.06
・放射読み
・帯方郡起点
・呼子上陸
・人口二重カウント
・投馬国半島比定

ここまで無理を重ねないと成立しない説なんて、説をなしていないよ。

もう無理なんだよ。いい加減諦めろ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:42:33.19
距離では邪馬台国の位置はわからないと思うよ
方向と遺物で推測するしか無いと
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:52:44.48
>>969
3世紀の日本に7萬戸の国邑なんて存在していない
従って7萬戸の邪馬壹国は国邑ではない、国邑の連合体
・放射読み・・・これは誤り
・帯方郡起点・・・里数も日数も帯方郡が起点、里数と日数を連続して読んでは里数も日数もわからい、連続して書いたら説明にならない。
・呼子上陸・・・方位、距離からして他の場所は考えられない。
・人口二重カウント・・・3世紀の日本に7萬戸の国邑なんて存在しないですから。
・投馬国半島比定・・・半島にも倭人が住んで居たのに記述が無いとしたら逆に可笑しい。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:56:27.29
距離では邪馬台国の位置はわからないと思うよ
方向と遺物で推測するしか無いと
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 12:58:03.40
前方後円墳と三角縁神獣鏡・記紀が畿内説の主な根拠?
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:00:11.13
>>968
>呼子湾内に着いてそのまま南下したら東松浦半島内を通る

はい、東南陸行できないなら呼子説死亡
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:00:49.14
>>924
>井原と平原で100年くらい時代がずれてる

それぞれ何年と考えている?
どちらも畿内説が得意とする前倒しか?

>平原1号墓からはやたら古い舶載鏡が二枚で残りは仿世鏡38枚だぞw

国産化できたのなら素晴らしいことだな。
材料の銅は魏からもらった鏡だろう。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:01:47.23
テンプレ 畿内に倭国と違う文化圏があったとも解せる
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:02:22.15
>>976
という理由は?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:02:25.19
>>972
なんで理由を言わないの?
これだから九州説はトンデモと言われる
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:06:13.08
>>971のそのメチャクチャぶりには九州説の人も眉をひそめると思うよ
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:09:47.41
>>974
唐津から東に向かうから東南陸行です。

>>979
正しい意見は一つだけ
他の説が誤っているのです。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:11:44.29
>>978
>>972は畿内説の人でしょw
畿内説はトンデモと言われるかwww
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:29:57.63
>>976
倭人伝に基く物証が少なすぎる
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 13:32:29.27
間違い
>>977
倭人伝に基く物証が少なすぎる
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:06:24.63
>>980
>唐津から東に向かうから東南陸行です。

それまでは?
そこから先は?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:07:12.36
>>982
>倭人伝に基く物証が少なすぎる

少なすぎるという根拠は?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:09:14.12
>>968
>呼子湾内に着いてそのまま南下したら東松浦半島内を通る
>海は唐津に着くまでの間全く見えないよ
>方向の確認は不可能だよ

お前、バカだろ?
海を渡ってくる間に、海の上から可也山が見えてるんだよ
東松浦半島に取り付く前から!

国土地理院地図の、3D地図をつけとくから確認してみなww
https://i.imgur.com/NDSCnBu.jpg

右下が東松浦半島
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:12:15.53
>>975
>材料の銅は魏からもらった鏡だろう。

もらった鏡をすぐに鋳潰すとか、トンデモもここに極まれりだな
二度と、顔出しにいけないぞww
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:14:12.78
>>384
>短里とやらが使われていたなら倭は魏志会稽の東にならないのに
なんで証拠になるの? 言ってること支離滅裂では?<

この「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説男?も、
「魏志会稽の東」とこっそり書き換えて、国民を騙そうとしている。

魏志原文は「会稽東治之東」であり、
東治の東であれば九州島付近にほぼピッタリになり、短里で何の問題もなく、
長里であれば、赤道付近にまで行ってしまう事もこっそり隠しいる。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:14:53.14
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:20:49.27
>>971
こいつとはおそらく話ができないな
ザラコクと同じタイプだ
間違いを指摘されても、同じうわごとを繰り返すだけ

>・帯方郡起点・・・里数も日数も帯方郡が起点、里数と日数を連続して読んでは里数も日数もわからい、連続して書いたら説明にならない。

陳寿の典拠資料が複数あることが想定できるだけで、連続読みで何も問題ない
>>49の◆FAQ 60参照

>・呼子上陸・・・方位、距離からして他の場所は考えられない。

これが頭おかしい
「方位距離が正しい」という間違った前提で考えるから、デタラメになってる

>・人口二重カウント・・・3世紀の日本に7萬戸の国邑なんて存在しないですから。

だから、一つの中心集落だけではなく、一つの勢力として一体の交流圏が一つの国とされているだけ
投馬国・出雲は中国地方日本海側、四隅突出墓の範囲
邪馬台国・大和は畿内第X様式土器の出る範囲

国を重ねて戸数をカウントする理由がない
重ねるなら、その旨注記がつく
史書は、判じ物でも暗号書でもないと何度言えば!

>・投馬国半島比定・・・半島にも倭人が住んで居たのに記述が無いとしたら逆に可笑しい。

だから、五万戸も倭人が住んでたら、そこは倭国だっての!
というか「半島にも倭人が住んで居たのに記述が無いとしたら」といってるが、
「半島に倭人が住んで居た」という記述は魏志倭人伝にはないよな!ww
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:22:35.98
北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:22:38.52
>>989
>東治の東であれば九州島付近にほぼピッタリになり、短里で何の問題もなく、

帳尻合わせにニセ東治つくったらサギだよ
だから九州のはダメなの


>長里であれば、赤道付近にまで行ってしまう事もこっそり隠しいる。

行かないもの
なんの問題もない
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:23:49.40
邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人の宣伝係員が、また、論破されてしまった。。。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:25:50.02
ここは、火星人降臨論の鉄板、纒向説のスレです。
【骨 子】
・火星には宇宙で一番古い前方後円墳があった
・4世紀中葉には、足をそろえたタコを形どった前方後円墳の時代が開始した。
・火星人が纏向に出現した段階で、火星を中心に太陽系規模の政治連合が形成され始めていた。
・火星の陸上には、既にこの政治連合のロケット基地があった。
ゆえに、火星人の降臨があったのは畿内である。

 火星人論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

◆0【 要 旨 】  
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った火星の教えの指導者が降臨しており、それは各惑星の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つタコであったと考えられる。
その死亡時期は4世紀中葉とみられる。畿内に火星文化が急速に浸透する時期である。

 これらを火星の陸上の古墳と対照すると、箸中山古墳の被葬者がタコ型の生物であり、纒向がタコ型火星人の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の太陽系規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、4世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 火星人の惑星間活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が火星社会と二星間のロケット移動を開始した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の火星人の降臨地である。

 4世紀前半末に火星人はどこに降臨したであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。。。。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:29:27.30
ここは、お墓よ
みじめに死んだ九州説の
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/20(水) 14:30:18.71
キウス発狂死
10011001
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