先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ 何でお前は二回ずつ書き込むんだ。スレ資源を無駄にすんなチンカスが うちの父方の先祖親戚は近親婚ばっかりで家系図がとんでもなくややこしいわw 近親婚の代名詞といえばハプスブルク家。
しかし近親婚の影響で断絶したのはエスパーニャ・アブスブルゴ家で1700年にカルロス2世の崩御によって断絶。
スペイン継承戦争が勃発し、最終的にブルボン家のアンジュー公フィリップ(フェリペ5世)がスペイン王に即位、幾度かの革命と王政復古を経て今に至る。
一方、オーストリアの近親婚はスペインよりマシだったが、カール6世が男子に恵まれずマリア・テレジアが後継者となり、ハプスブルク家を相続するがオーストリア継承戦争が勃発。
最終的にマリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ・シュテファンの皇帝即位が認められ、彼女の子孫がハプスブルク家として現代まで続いている。 近衛尚嗣-基熙-家熙のラインなんてもろに近親婚だし 池田小学事件 宅間
>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。 >>112
有力な係累を作って勢力を伸ばそうと言ったって、お前が言うような、親戚に
なった大名と組んで勢威を張ろうというようなことではない。
戦国時代じゃないんだから。そんなことしたら返って存立が危うくなるわ。
馬鹿なこと言うんじゃない
創設以来幕府の大名統制は婚姻政策を中心としていた。
外様大名には譜代の大名家から養子や室を入れる。徳川一門からも、そして
将軍家からも入れる。そういう政策が採られている中で、御三家の一員が
16人も子を作り、いくつもの有力大名に押し込むことに成功したとあれば
これは功績だろうが。高得点を取ったということだよ。
それに嫁入りや養子になると気の利いた家臣が付いて行く。
これは行った先の大名家の家臣になるのであり、送り出した側からいうと
リストラにもなり、また勢力拡張でもあるのだ。
送り出された家臣は先方では今までより良い地位に就けるのは間違いない。
他社に自社社員を送り込んで系列下する現代の企業の手法に似ていると
言えなくもない。
>>115
ヨーロッパの王族は人間というより人形のような扱いだった。
結婚して初夜の床には立会人が付き、結合すると大声で告知された。
カーテンで覆われたベッドの周りや次の間では、貴族たちが拍手した。
居間も寝室も召使いや家臣で満ち、プライバシーは全く無かった。
食事の様子も公開されていた。
排泄も人の目に晒される場所であった。トイレというものはなかった。
出産も公開であった。
マリーアントワネットの公開出産の様子
https://blog.goo.ne.jp/asumirio63/e/0ab1d3c4f7832fbd136cda67b6a62d2e >>116
俺は>>104 で
「しかしヨーロッパの王族同士とか古代日本の天皇家とか、血の希少性や
純血性の価値が 優先された場合もある」と書いてやっただろ。
天皇家と藤原家は皇族の血を保有しあって伝えてきた。
血族結婚が多くなったのは当然だ。
しかし、貴顕の血と庶民の話を一緒にするな。
エタや非人、サンカなどには血族結婚が多かった。この話は後でするかも。 ブラジルにある日系人コミュニティ弓場(ゆば)農場
日本人・日系人だけで運営されている農園で、ほぼ共同生活。
クリスチャンばかりのように見える。
https://tabicoffret.com/article/34586/index.html
ここから弓場農場のサイトに飛ぶと良い。読む価値あり。
ピアノ、バイオリン等は当たり前にひく。女の子たちはバレエに打ち込む。
取材のカメラの前をバレエのレッスンをしている女の子たちが横切るという
場面も見た。
日本人と日系人以外受け入れない決まりという。
10年ほど前テレビで見たが、20台後半のここの娘が白人の男を連れてきた。
フィアンセだという。連れてきてしまえば何とかなると思ったらしい。
だが白人は駄目だ。日本人みたいにキビキビしていない。
いつも笑顔だがタラタラマイペース。彼女といつもベタベタ。
結局二人で姿を消した。
だが日本人だけでやっていくのは難しいという。
長老たちが、あと10年後に現状のままなら、血族結婚に踏み切らざるを得ないと
語っていた。深刻な表情だった。
中年の夫婦の旦那は、農大生だったときにブラジルの農業見学に来てここに立ち寄り、
そのときに今の婦人から「好きです」と言われ、ここの人になった。
周囲はブラジル人ばかり。そういう出会いしかなかった。
しかし、このあたりを見ると状況は好転しているのではないかと思う。
http://sekaishinbun.net/2017/10/19/201710-spt-yuba-brazil/
これは一種のお見合い大作戦である。ネットのお陰で未来が開けたか。 「天平2年1月13日、帥(かみ)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。」
天平2年1月13日、太宰府の帥老(そちろう。大伴旅人のこと)の邸宅に集まって、
「梅花の宴」を開いた。
「時に初春の令月、気淑く風和(な)ぐ。」
時は、初春のよき月夜(十三夜)で、空気は澄んで風は穏やかである。
「梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後の香を薫らす。」
梅は女性が鏡の前で白粉の蓋を開けたように花開き、梅の香りは、通り過ぎた
女性の匂い袋の残り香のように漂っている。 図書館にある書籍とか全部電子化して、先祖の名前で検索できるようにならないかな 池田小学事件 宅間
>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた 大量殺人犯のハプログループを調べたら武家由来ばかりになりそうだね >>127
江戸の下級武士は戦国の出自がヤバイからな ここで嫌がられる旧庄屋の家系だが家系にまつわるその手の話は旧庄屋家にも多い。
八墓村のごとく、あの家の先祖は旧城主だったので多くの人を殺しているので短命の家系だとか。
呪われた家系だとかetc
田舎の噂話だからどこまで本当かは不明だけどね。 >>130
庄屋ですらない一般百姓ですが…
発言しちゃいけないのか? 普通に書くのならOK
彼は自分の先祖こそ最高で、他者を否定し武士を馬鹿にするような最低の人格
だから叩かれているんだよ 嫉妬して批判してるだけだろうな。
ちなみにうちは庄屋だよ。
武士は底辺だよ、今で言う肉体労働者みたいなもん。
普通の百姓と同じレベルだと思っていい、血統もカス。
将軍家や大名家なら少しはマシだが、それでも公家と比べるとやはり駄目だね。 うちの曾祖父、最近知ったんだけど1880年代に10歳で養子に入って今の姓になったんだわ。
で、養父が岡山県出身なのに家族も連れず(妻はすでに故人)単身で和歌山県の田舎に転籍してきてるの。年齢は当時35歳くらい。
スゴく不自然で、何があったのかスゴく気になるんだけどこう言った事情に推測つく人いない?
個人的には借金や犯罪なんかで村八分と言うあまり考えたくない事情が思い付くんだが・・・
都市部なら出稼ぎや仕事求めての引っ越しが自然だが、岡山から和歌山、しかも田舎。不自然すぎる。
明治半ばころ、岡山と和歌山に何か繋がりってあった? 庄屋に嫉妬なんてしないよ
百姓の顔役ってだけだし、底辺じゃん 先祖が山伏だったのは知ってたけど、忍者でもあったっていう話を聞いて調べたら兵法とか剣術なんかをやっていた事が判った
藩校で使われていた教科書の兵法や軍学に関するところに先祖の名前が載っていたんだけど、
よく分からないのは、坊さんなのに名字と名前が書いてあった事
自分の今の名字と一緒
坊さんに名字はないっていう認識だったので。
父方祖母の先祖は名主だったらしいけど
名字が水野でそれなりに由緒があるみたいな話。
本当の事は分からないけど
いつか調べてみたい。
今は半信半疑。盛ってる可能性もあるし 少なくとも >>126 から 上の >>138 まで10以上の書き込み。書いてる奴は一人だよな
必死こいてるよなw 何を書いても庄屋が底辺なのは変わらないよ
高貴な血筋?
笑わせるな どこの馬の骨とも解らないのが庄屋だよ >>140
高貴だよ
少なくとも士族よりは上
武士はただの力だけしか取り柄のない乱暴者だろ
平気で人殺しするし
皇族>華族≧庄屋>>>>>士族>平民>エタヒニン >>140
もう一つ言うが
俺の家系に人殺しは1人もいない。 >>134
スレタイぴったりの話してるのに見事なスルーで同じような庄屋の話ばかり。大丈夫かこのスレ >>144
じゃあお前が話し広げろよ
それとも何かエピソードあるなら喋れや >>145
だから>>134は具体的な話してるがな >>146
じゃあ134に答えてやれよ
人にばかり頼むな >>134 元岡山県人から一言コメント
真面目な話、一口に「岡山県」といっても「和歌山県」と同様に結構広いです。古くは備前、備中、美作
の3国に分かれていて、それぞれに郡部があります。
例えば備前国ですと、邑久郡、赤坂郡、上道郡、御津郡、津高郡、児島郡、和気郡、それに磐梨郡が
存在しており、各郡部で多少の言葉や文化が違いますので、それぞれの歴史史料をあたってみなけ
れば分からない事の方が多いです。
…、と書いたら「身も蓋もない」話になりますね。個人的に一番考えやすいというか、ありきたりの話で
すけど、ミカンの収穫時期の一部が岡山県南部の米作農家では農閑期に入りますので、「出稼ぎ」で
縁があった可能性もゼロではありません。
ネットリテラシーというモノがありますので、詳細に書けとまではいいませんが、岡山県のどのエリアか
ら、和歌山県のどのエリアへ御先祖様が移住したかをもう少し詳しくしていただかないと、調べようが
ありません。それを元に国立国会図書館などで該当郡部の郡史をあたってみるのも一つの方法では
ないかと思います。どうぞ御検討下さい。 天領地域だと長男が庄屋で次男が武士として出仕ってこともあるからな。
大坂の陣も大体このパターンだろ。長男に死なれると困るわけだろ >>148
出稼ぎのまま養子まで取って永住ってのも何か特殊そうですね。
岡山の浅口郡から和歌山の有田市です。共通点は、両住所ともかなり海に近い。頃は1880年代末です。 >>150
>>148 です。とりあえず、有田市図書館に「有田郡誌」が所蔵されています。禁帯出本ですので、市立
図書館へ行って閲覧しなければなりませんが、明治中期頃の様子をうかがう資料になると思います。
図書館では該当するページをコピーさせてもらうこともできますから、時代背景を知るための手元資料
として入手しておくことをお勧めします。
次に、近所の古老の方とか御親戚筋に尋ねてみるなど、明治期における御家の職業変遷に関する
家伝(言い伝え)を再確認してみると参考になると思います。この点では「屋号」がヒントになることも
多いです。例えば、拙宅の屋号は「○○○店」ですので、今はやっていませんが、昔は商店を営んで
いたことが分かります。
また、有田といえばミカンの大産地として有名です。そこで、「紀州有田みかんの起源と発達史」という
論文をネットで検索・参照すれば、1880年代に有田周辺で何が起きていたかを知ることができます。
これも参考文献に値すると思います。
それから、和歌山からだと結構距離があるのでなかなか難しいでしょうが、岡山県浅口市立図書館に、
「浅口郡誌」が所蔵されています。こちらも禁帯出本ですので、岡山県への出張調査になりますけれど、
御先祖様のルーツを調べるために有用な資料になり得ると思います。
あと、有効と考えられる手として「戸籍調査」があります。自分が子孫であることを証明可能な公文書、
つまり有田市役所で交付してくれる戸籍謄本の写しと除籍簿の写しを岡山県浅口市役所へ持参し、
「家系図を作りたいので、御先祖様の除籍簿を閲覧させて欲しい」と頼めば、当時の戸籍情報を入手
することができます。これは、結構強力な資料になると思います。
以上のように、事実関係を一つ一つ積み重ねて確認し、次のステップへと情報収集の範囲を広げて
いけば、有田市と岡山県浅口郡の接点が出てくるかも知れません。時間と労力が必要ですが、根気
よく調査することが大切です。頑張って下さい。
中身の割に長文かつ駄文で申し訳ない。ここまで読んでくれてありがとう。 横レス
「浅口郡誌」でググると、国会図書館に所蔵があるのを見る余地もある
取り扱ってる古本屋で買うって手もあるけど、今ググって出てきたのは16200円、安くはない。
交通費往復分+宿代とどっちが安いか判断しかねる程度の値段とは思うが。 何を一人でやってんだ馬鹿が
庄屋馬鹿ってのは厨房か?
とくに
>>154 の「横レス」は余計だったw ひとりにみえてるのか
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか >>154
>>153 です。フォローありがとう。国立国会図書館デジタルコレクションで確認するのを完璧に忘れてたわ。(笑) 私は全くの第三者で横レス失礼します。
国立国会図書館デジタルコレクションを教えていただいてよかったです。
これからも書き込んでいろいろ教えて下さい。
ありがとう。ほんとうにありがとう。
>>155
妄想を治せ。心の汚い馬鹿者め >>158
御参考になるかどうか分かりませんが、国立国会図書館デジタルコレクション以外では、
下記のデータベースもありますので、日本史を勉強するには便利な世の中になってます。
必要に応じて参照してみて下さい。(URLは2019年5月1日現在のもの)
1.宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/
2.国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/
3.谷本玲大のページ・倉庫(大日本地名辞書や大日本年表などを収蔵)
http://tanimoto.to/lumber/
4.古文自動翻訳研究センター(ソフト開発中・現行バージョンは3.1)
http://honnyaku.okunohosomichi.net/
5.木簡・くずし字解読システム(奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所)
https://mojizo.nabunken.go.jp/
6.日本図書館協会図書館リンク集
https://www.jla.or.jp/link/tabid/95/Default.aspx >>142
庄屋は下層階級
百姓のまとめ役に過ぎない
武士より遙かに下の身分
自覚しろ >>159
一連の書き込みとは関係の無い全くの第三者である私に対してこのようなご厚意を
頂戴しまして有り難うございます。
ますます貴兄のファンになってしまいそうです。
全く関係の無い、通りすがりの第三者ではありますが、これからも貴兄の書き込みから
学ばせていただきたいと思っております。
ありがとう。本当にありがとうございました。 >>161
>>159 です。たいへん御丁寧なレスをありがとうございます。昔から「袖すりあうも他生の縁」と
言われているとおり、この掲示板では、「先祖探し」という同じ方向を向いて勉強してるお仲間
ですから、彼我関係なくお互いに知識を交換し、助け合うのは当然のことだと考えております。
私も諸般の事情で「先祖探し」を継続進行しておりまして、そのプロセスに関係した物事を紹介
すれば、いつか誰かの役に立つかなと考え、気の向くままに駄文を書き散らしている次第です。
身に余る評価を頂戴し、恐縮に存じます。それでは、またどこかで御一緒させて下さい。 自作自演か?
庄屋をバカにしてる底辺がいるようだが…
庄屋が一番尊敬される立場だぞ 庄屋は底辺
田舎に行くと先祖は庄屋って奴が一杯いるけど誰も尊敬なんてしてないよ
「あの家、昔は庄屋だったんだって」
「ふーん、百姓か」
でお終い >>163 >>164
客観的証拠や言葉の定義、それに時代設定を含む議論の前提条件もなしに、庄屋と呼ばれる存在の
社会的地位を、現代の価値観で語っても、説得力を含め全然意味が無いのは明々白々なんだが…。
不毛で下らん言い合いをする前に、事実に基づく歴史学的論考をするなど、やるべき事が多々ある
はずだが、そこらあたりの学問的価値観を互いに認めたくないのかな。双方ともに、ただの「構って
ちゃん心理」の持ち主ならば心底呆れるし、幼稚園生なみの喧嘩もどきなら、放置するしかないね。 馬鹿w どっちも自演だよ
それ以外も、ここんとこずっと自演 >>165
お前が庄屋は尊敬されてるって書いたから、そんな事無いよと示しただけ
庄屋は尊敬なんてされてない
それが事実 庄屋が裕福であったことは全国的に間違いではないだろうね。
地方の庄屋は余り知らないけど。 地方でも神社の氏子代表は庄屋が多いのでは?
庄屋の屋敷は文化財指定されてるのが多いね。 金があったから当然と言えば当然。
金があったのでは、商人、網元なども入るな。 庄屋は名家と言われるが、武士はただの成り上がり者で偉くない かなり裕福な暮らしをしてた庄屋は多い。 うちの先祖の庄屋は藤原氏を名乗ってた。
庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな >>171
>庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな
庄屋の脳内庭園はいつも花盛りで満開だね。さすがに笑ったわ。 庄屋は日本国の中で実質的には最高の地位にあると思う。
道で庄屋に会ったら天皇が土下座したとか聞いたことがある。l >>169
普通に今話題の駿河銀行の創業者は庄屋だがな。 失敬。スルガ銀行の現会長兼創業者、岡野家は名主と書かれてる 今やってるお宝鑑定のテレビ特番も、皆500年以上続く庄屋大地主だらけだよね。
一介の藩士なんて全く出てこない ダイアナ妃の実家のルーツは日本から渡って来た庄屋だったらしい そうやって庄屋を蔑む手段しかないのは虚しいからやめたほうがいい >>169
ちなみに新一万札の肖像画は、豪農渋沢だよね。
彼は庄屋ではない豪農だが、幕臣旗本にまで上り詰めてる。さらにその後は列記とした財閥。もう桁が違う別格な家柄だが。 江戸時代の先祖は庄屋でも武士でもないけど
どちらか選べと言われたら武士を選ぶな
昔テレビの街頭インタビューで、お宅の先祖はどんな人?って言うのを観てたら
「武士って聞いてるよ」と答えている人が結構いた記憶があるけど、
真偽はともかく、格好いいし他人に自慢できるからだろうね
貶す訳じゃないけど自分の先祖が庄屋だったとしても自慢もしないし
別に何とも思わないと思う それは仕方がないよね。時代劇がそう印象操作しているんだから。
現実は庄屋は長屋門ある豪邸に住んで、村方支配を行い、
城下の官舎住まいの下士は、内職して凌ぐか、株売って町人の先祖帰り。
こんなリアルな現実は描かれない。
それどころか、いまだに農民ガー農民ガーとひたすら辱しめることでしか表現されない。
そら幻想の世界である時代劇の中の武士がいいのは当たり前ですよ。 >>181 >>182
なに会話調で書いてんだボケ
評論家気取りでベタなこと書きやがって笑えるっw >>183
人品が文章に出てるんだよな
自分で気付いていないみたいだけど ここは2/5ちゃんだぞ。
人品が文章に出てるってダイジョブか?
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか 庄屋には初夜権というのがあって、村娘たちが嫁に行く前に
処女をいただくことができたんだよな。 >>185
やっぱり品性下劣だね
先祖がそう言う身分だったとしても俺はその人をバカにしたり貶したりしないし
5ちゃんだから当たり前だと思っている鈍感さが重症だな よーわからんながれだが、
テレビはとにかく農民を見下した説明だよな。
百姓ではあったが、
百姓にもかかわらず
百姓のくせに
百姓ごとき
百姓にも優しくしろ
など
在郷武士は有力開発百姓が平安から武士化していったのに、
なんだこの百姓は人にあらずみたいな口の聞き方は。
いつから江戸の一介の武士ごときが旧村方支配層の有力百姓を名実ともに並べる位置になったよって話だわな
格下の分際が、いつも下級武士どもは態度が糞横柄でよ
庄屋層は武力がないとおもってんだよな えたヒニンなんてどーでもいいよ
江戸の武士だって、秀吉みたいなんだらけなんだから。 やっぱり知能低劣だね
評論家気取りで書いた>>181 >>182 を貶されて悔しくてならず
けど言い返せないものだから今度は品性なんてものを持ち出す。
品性とか人品とか、そこいらへんの気取った婆アみたいなことしか
言えない時点でお前は詰んでるんだよ
お前みたいな利口ぶった馬鹿をエッタといわれて当然だ。
お前は5ちゃんに向いてないよ やめとけって馬〜〜〜〜か 自分の認識では、ある程度の庄屋なら士分も持っている認識なんだが?士分を持っていない庄屋って、ある程度未満の庄屋という認識だが、違うのかな? 自分も渋沢家とは親交があるが、渋沢家は士分持ってるだろ。 渋谷家の話題が出たから、自分の渋谷家との親交の話しをしよう。
俺が渋谷んちに遊びに行ったとき、渋谷んちの人たちに挨拶したんだよね、そりゃ挨拶するのは当たり前だが。
俺の苗字を言ったら驚かれたよ。そりゃそうだよな、俺の先祖の苗字のルーツは深谷市だもん。
俺と渋谷が友達になったのも何かの縁なんだろうな。 ま、とにもかくにもみんなの先祖に優劣なし!優劣があるとすれば他人の先祖を敬える人と他人の先祖も敬えない人の心に優劣がある! 士分を持ってるのは小藩の庄屋か商業で成功した商人だろう。
由緒ある武家だった家でも苗字帯刀がせいぜい
良けりゃ浪人扱いかもっと良ければ郷士 知ってる身内の話だが。
長野の庄屋だった家が、明治になって、献金すれば士族にしてやると言われて断ったって話は聞いたことがある。
茨城の組頭だった家は、幕末に功績が加味されて一代帯刀になり、その後の親族の出世で士族になった。 壬申戸籍(明治五年)の場合、戸籍作成は戸長の職責だった。
戸長というのは、江戸時代の名主に代わる行政官。
基本的に収税官吏でもあり、租税が金納になったため、村人から税金を集める役目だった。
税金が集められなければ職責を果たせない。取り立ては厳しかった。
村人の方からすると鬼みたいな存在だが、戸長としては相手が老人だろうが病気していようが
払わせるしかなかった。
その他、明治になると小学校も作らなければならなかったが、国は金を出さず、
地元の自主的な建設に期待していた。小学校が出来ればそこの教師の給料は出すが、
建物は用意してくれない。
小学校建設も戸長が音頭をとってやらなければならない仕事だった。
ただし、小学校建設といっても、今我々が考えるような木造小学校は試行錯誤を経て
明治の終わりごろから建てられるようになったもので、明治初期は寺に間借りしたり、
民家の一部を改造したりしたものだった。
こうした背景から考えると、戸籍簿を士族としてやる代わりに献金を求めるというのは
大いにあり得ることである。税金が払われないとか、小学校を建てるための寄付が
集まらないとかだったのだろう。戸長もたいへんだったのである。 本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だったわけでしょ?
あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな? >>202
あの、そもそも戸長が名誉職とする規定になってるの。
戸長に選ばれること自体が名誉とされたわけで、士族なんて関係ない。 >>203
>本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。
おそらくだけど、結構地域差があったと思う。母方の田舎では、武士の子弟が通う「藩校」が、公的には
明治4(1871)年に閉校されてる。明治新政府による学校制度は、明治5(1872)年8月付けで公布
されたものだから、新教育制度への準備がここから始まり、やっと明治8(1875)年に小学校が開設さ
れた。名目で約4年間のブランクがあるね。
元々子弟教育に熱心な藩であったことと、廃城令によって解体された城の廃材を使えたので、経費が
安くて済んだことが新しい学校制度の早期実現に繋がった模様。あと、藩校の先生がこぞって学校の
教員に転じたので、小学校開設当初からかなりハイレベルな教育環境だったと伝えられてる。
藩校で儒学を修め、小学校の校長を務めた人が京都府の某地方に移住した際、人々の教育レベル
と民度の差に驚いたという記事を寄稿してるぐらいだから、基本的な学校教育システムは同じでも、
地域によっては授業の内容も違った可能性があるね。 >>203
本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だった
わけでしょ?
明治五年に学校令が出て、日本国中小学校作りに狂奔することになる。明治六年ごろから
続々と作られ、明治八、九年ごろは津々浦々至る所にという状態になる。
小学校の建物が無ければ、従来の寺子屋をそのまま小学校ということにすればよく、
とにかく建物があって先生がいれば小学校なのだから、学校を作ること自体はさほど困難
ではなかった。ただし、机だの黒板だの教卓だの、中身を備えていくのは大変だった。
一般的に言って、建物まで小学校らしくなるのはもっと後の話である。
なお、小学校が出来るまで学校制度は有名無実だったということはない。子どもの教育は
小学校の有る無しを問わず、子どもがいるかぎり施さないわけにはいかないからだ。
長野県では開智学校が有名。
当初は廃寺を改造して小学校とした(明治六年)。
その後松本市民から寄付を集め西洋建築の壮麗な校舎を作ったのだ。
最初は廃寺を利用したということの時代背景は分かるだろう。
廃仏毀釈で坊主は逃げ出し、寺は廃寺になるところも多かったのだ。
関係ないが、長野県では旧幕時代に国学の徒が多く、廃仏毀釈運動はかなりきつかった。
馬込宿の名主だった島崎藤村の父親も国学の徒で、通過する水戸天狗党の隊列を
尊敬の念を持って見送ったという日記が残っている。 明治になってからの学校建設の動きは、旧幕時代の教育を理解しないと分からない。
江戸時代の教育は寺子屋が担ったというのは誰でも知っているが、寺子屋にも
二種あった。田舎の寺子屋と江戸や京・大坂などの都会の寺子屋である。
田舎では寺子屋は旦那衆の茗荷金(寄付)で営まれていた。寺の隅に小屋などを建て、
師匠は流れ者でも何でも適当な人間を置き、無料で教えていたのである。
(ただし、親が師匠に野菜や米を持っていったりはした。)。
松下村塾の建物などをイメージしたらいいかも知れない。
都会では今の塾と同じように商売として営まれていた。しかも束脩(そくしゅう)や月謝の
取り方が絶妙であった。親の収入により五段階ぐらいにランク分けしたのである。
親としては良い家の子として目に掛けてもらいたいから、無理しても上のランクで払う。
そういう仕組みで一銭でも高くとろうとしたのである。
だから都会では基本的に余裕のある家の子でないと寺子屋には行けなかった。
無学で目に一丁字もない貧民は増えるばかりだったのである。
都会の貧民には、子どもに教育を受けさせるなど夢にも思わない者がいくらもいたのである。
明治になって学校教育を始めたときに、教育レベルや親の熱意には地域によって
大きな差があったと思われる。 >」あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に>登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな?
山本博文という人の本に出てくるよ。
旧幕時代、藩校で儒学を学べるのは上級武士の子弟だけだった。
(藩校にもいろいろあるが、突っ込みはしないこと。)
そこで学ぶ漢字は唐流(唐様)であった。
唐様というのは、楷書を基本とする中国風の書跡のこと。
江戸時代に唐様の文字を書くなどというのは本当に特殊なことだったのである。
http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2014/01/20095326.html
下級武士が学んだのは「御家流」であった。御家流とは和洋の書跡のこと。
町人や百姓が学んだのも御家流。
藩の公文書や制札、商人の帳簿や多種多様の法令文書など、ありとあらゆる文書は
今でいう楷書できっちり書かれたものではなく、御家流の崩しまくった和風文字であった。
下級武士は藩校に通えなかったが、字を学ばないわけにはいかない。
どこで教育を受けたかというと、学識のある老人のところに通ったようである。
長年帳簿係や書き役などを勤めた隠居老人のところへ行って教わっていたのだろう。
老人の方では教えるのは今でいうボランティアで、謝礼などは取らないものであった。
御家流といっても崩し方には癖というか種類があり、藩ごとに違っていただろう。
逆に言うと、藩ごとに統一されていたのではないか。
昔の崩し文字は本当に複雑なので、統一しておかないと不便だからである。
こういう文字を学んだ下級武士が明治になって下級官吏となり、戸籍簿などを作る。
そうすると皆同じように旧藩時代の御家流を書き、だから奇妙キテレツな文字という
ことになるのだろう。大正の頃までそれが続いたというのは、旧藩の武士たちが使って
いた御家流の書体が、その地方の標準的書体となっていたということだろう。 × 御家流とは和洋の書跡のこと。
○ 御家流とは和様の書跡のこと。
和洋ではなく和様 昔の子どもたちはどんなふうに文字を習ったのか。
女子の場合だが、以下のような資料がある。
山川菊栄の「武家の娘」という本 水戸藩の武士の娘の回想録
水戸では女の子は満六歳になると手習いのお師匠さんに弟子入りした。
武家の娘は当然の教養だったし、町人の娘も、女中奉公などを
目指している場合は読み書きができなければならないからである。
水戸藩では、藩士の娘と同心や町人の娘とでは教室が違った。
(ここはよく分からないが、教わる師匠自体が別だったのだろう。
なお水戸の御城下なので百姓はいない)。
同心の娘は町人の娘と同じ教室というところは面白い。
水戸では同心は武家扱いではなかったということである。
朝、早く行くのが競争のようになっていて、朝ご飯が済むとすぐに家を出る。
夏は朝霧の中を、冬は霜柱を踏んで出かけていった。
お師匠さんは下級武士の妻だった。その人は能筆で知られていて、
頼まれて師匠をしていたのである。
子持ちの主婦なので、いつも教室にいるわけではなく、手本を書いてあてがい、
娘たちは紙が真っ黒になるまで練習し、ときどき清書して出す。
それがよければ次の手本をもらうという具合だった。
習った内容は、最初は「いろは」、次に女大学などの女訓書で、字の練習だけ
ではなく、文章を読む練習にもなったし、修身の勉強的な意味もあった。
「大名づくし」という大名の苗字を並べた手本もあって、娘たちは社会科的な
知識も得たのである。 男子の場合も同じような指導法であったと思われる。
学習時間は早朝に行って数時間といったところだろう。子どもはそんなに長く
集中できないからである。弁当をもっていくようなこともなかったろう。
午前十時頃には終わったのではないか。
女の子の場合、ひととおりの勉強で済ませたので、稽古に通うのはきわめて
短期間であったようである。
さらに、娘たちは十二、三歳の頃から、お縫子として裁縫の師匠のもとに通った。
こちらの方は武家も町人も関係がなかった。
お縫子は十人ほどで、そのうち三人ほどが町人や同心の娘だった。
師匠は身分の低い貧乏な老藩士の妻で、その家では主人や息子が傘張りの
内職をやっていた。師匠はちょいちょい出かけて居なくなる。
その間、武家の娘ばかりならおとなしく針を運んでいるが、町人の娘がいると
口三味線やら芝居のこわいろ、寄席の物真似を始める。
武家の娘も釣り込まれて一緒に笑うという具合だったという。 >>210 の山川菊栄「武家の娘」は「武家の女性」に訂正。この本って以前は「武士の娘」
という題名だったんだよな。題名が変わったので混乱した。
でわ上記の続き−−−
昔の子ども達は、(藩校で学ぶ上流武士の子弟を除き)はじめから崩された御家流の
漢字を勉強した。習字をやりながら字を覚えていくのだが、今の文字(唐様、楷書)とは
大いに異なるものであった。
覚え方も今とは全然違う。
驚いたことに、九九を覚えるように、歌のような調子を付けて覚えていったのである。
例えば
木はうめよ、
人はあなどる
水はうみ
日はくらす也
心くやしき
これで、梅、侮、海、晦、悔という文字をいっぺんに覚えてしまう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています