先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ 池田小学事件 宅間
>>宅間の家系・家族とその環境
宅間の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[8]、宅間の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた 大量殺人犯のハプログループを調べたら武家由来ばかりになりそうだね >>127
江戸の下級武士は戦国の出自がヤバイからな ここで嫌がられる旧庄屋の家系だが家系にまつわるその手の話は旧庄屋家にも多い。
八墓村のごとく、あの家の先祖は旧城主だったので多くの人を殺しているので短命の家系だとか。
呪われた家系だとかetc
田舎の噂話だからどこまで本当かは不明だけどね。 >>130
庄屋ですらない一般百姓ですが…
発言しちゃいけないのか? 普通に書くのならOK
彼は自分の先祖こそ最高で、他者を否定し武士を馬鹿にするような最低の人格
だから叩かれているんだよ 嫉妬して批判してるだけだろうな。
ちなみにうちは庄屋だよ。
武士は底辺だよ、今で言う肉体労働者みたいなもん。
普通の百姓と同じレベルだと思っていい、血統もカス。
将軍家や大名家なら少しはマシだが、それでも公家と比べるとやはり駄目だね。 うちの曾祖父、最近知ったんだけど1880年代に10歳で養子に入って今の姓になったんだわ。
で、養父が岡山県出身なのに家族も連れず(妻はすでに故人)単身で和歌山県の田舎に転籍してきてるの。年齢は当時35歳くらい。
スゴく不自然で、何があったのかスゴく気になるんだけどこう言った事情に推測つく人いない?
個人的には借金や犯罪なんかで村八分と言うあまり考えたくない事情が思い付くんだが・・・
都市部なら出稼ぎや仕事求めての引っ越しが自然だが、岡山から和歌山、しかも田舎。不自然すぎる。
明治半ばころ、岡山と和歌山に何か繋がりってあった? 庄屋に嫉妬なんてしないよ
百姓の顔役ってだけだし、底辺じゃん 先祖が山伏だったのは知ってたけど、忍者でもあったっていう話を聞いて調べたら兵法とか剣術なんかをやっていた事が判った
藩校で使われていた教科書の兵法や軍学に関するところに先祖の名前が載っていたんだけど、
よく分からないのは、坊さんなのに名字と名前が書いてあった事
自分の今の名字と一緒
坊さんに名字はないっていう認識だったので。
父方祖母の先祖は名主だったらしいけど
名字が水野でそれなりに由緒があるみたいな話。
本当の事は分からないけど
いつか調べてみたい。
今は半信半疑。盛ってる可能性もあるし 少なくとも >>126 から 上の >>138 まで10以上の書き込み。書いてる奴は一人だよな
必死こいてるよなw 何を書いても庄屋が底辺なのは変わらないよ
高貴な血筋?
笑わせるな どこの馬の骨とも解らないのが庄屋だよ >>140
高貴だよ
少なくとも士族よりは上
武士はただの力だけしか取り柄のない乱暴者だろ
平気で人殺しするし
皇族>華族≧庄屋>>>>>士族>平民>エタヒニン >>140
もう一つ言うが
俺の家系に人殺しは1人もいない。 >>134
スレタイぴったりの話してるのに見事なスルーで同じような庄屋の話ばかり。大丈夫かこのスレ >>144
じゃあお前が話し広げろよ
それとも何かエピソードあるなら喋れや >>145
だから>>134は具体的な話してるがな >>146
じゃあ134に答えてやれよ
人にばかり頼むな >>134 元岡山県人から一言コメント
真面目な話、一口に「岡山県」といっても「和歌山県」と同様に結構広いです。古くは備前、備中、美作
の3国に分かれていて、それぞれに郡部があります。
例えば備前国ですと、邑久郡、赤坂郡、上道郡、御津郡、津高郡、児島郡、和気郡、それに磐梨郡が
存在しており、各郡部で多少の言葉や文化が違いますので、それぞれの歴史史料をあたってみなけ
れば分からない事の方が多いです。
…、と書いたら「身も蓋もない」話になりますね。個人的に一番考えやすいというか、ありきたりの話で
すけど、ミカンの収穫時期の一部が岡山県南部の米作農家では農閑期に入りますので、「出稼ぎ」で
縁があった可能性もゼロではありません。
ネットリテラシーというモノがありますので、詳細に書けとまではいいませんが、岡山県のどのエリアか
ら、和歌山県のどのエリアへ御先祖様が移住したかをもう少し詳しくしていただかないと、調べようが
ありません。それを元に国立国会図書館などで該当郡部の郡史をあたってみるのも一つの方法では
ないかと思います。どうぞ御検討下さい。 天領地域だと長男が庄屋で次男が武士として出仕ってこともあるからな。
大坂の陣も大体このパターンだろ。長男に死なれると困るわけだろ >>148
出稼ぎのまま養子まで取って永住ってのも何か特殊そうですね。
岡山の浅口郡から和歌山の有田市です。共通点は、両住所ともかなり海に近い。頃は1880年代末です。 >>150
>>148 です。とりあえず、有田市図書館に「有田郡誌」が所蔵されています。禁帯出本ですので、市立
図書館へ行って閲覧しなければなりませんが、明治中期頃の様子をうかがう資料になると思います。
図書館では該当するページをコピーさせてもらうこともできますから、時代背景を知るための手元資料
として入手しておくことをお勧めします。
次に、近所の古老の方とか御親戚筋に尋ねてみるなど、明治期における御家の職業変遷に関する
家伝(言い伝え)を再確認してみると参考になると思います。この点では「屋号」がヒントになることも
多いです。例えば、拙宅の屋号は「○○○店」ですので、今はやっていませんが、昔は商店を営んで
いたことが分かります。
また、有田といえばミカンの大産地として有名です。そこで、「紀州有田みかんの起源と発達史」という
論文をネットで検索・参照すれば、1880年代に有田周辺で何が起きていたかを知ることができます。
これも参考文献に値すると思います。
それから、和歌山からだと結構距離があるのでなかなか難しいでしょうが、岡山県浅口市立図書館に、
「浅口郡誌」が所蔵されています。こちらも禁帯出本ですので、岡山県への出張調査になりますけれど、
御先祖様のルーツを調べるために有用な資料になり得ると思います。
あと、有効と考えられる手として「戸籍調査」があります。自分が子孫であることを証明可能な公文書、
つまり有田市役所で交付してくれる戸籍謄本の写しと除籍簿の写しを岡山県浅口市役所へ持参し、
「家系図を作りたいので、御先祖様の除籍簿を閲覧させて欲しい」と頼めば、当時の戸籍情報を入手
することができます。これは、結構強力な資料になると思います。
以上のように、事実関係を一つ一つ積み重ねて確認し、次のステップへと情報収集の範囲を広げて
いけば、有田市と岡山県浅口郡の接点が出てくるかも知れません。時間と労力が必要ですが、根気
よく調査することが大切です。頑張って下さい。
中身の割に長文かつ駄文で申し訳ない。ここまで読んでくれてありがとう。 横レス
「浅口郡誌」でググると、国会図書館に所蔵があるのを見る余地もある
取り扱ってる古本屋で買うって手もあるけど、今ググって出てきたのは16200円、安くはない。
交通費往復分+宿代とどっちが安いか判断しかねる程度の値段とは思うが。 何を一人でやってんだ馬鹿が
庄屋馬鹿ってのは厨房か?
とくに
>>154 の「横レス」は余計だったw ひとりにみえてるのか
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか >>154
>>153 です。フォローありがとう。国立国会図書館デジタルコレクションで確認するのを完璧に忘れてたわ。(笑) 私は全くの第三者で横レス失礼します。
国立国会図書館デジタルコレクションを教えていただいてよかったです。
これからも書き込んでいろいろ教えて下さい。
ありがとう。ほんとうにありがとう。
>>155
妄想を治せ。心の汚い馬鹿者め >>158
御参考になるかどうか分かりませんが、国立国会図書館デジタルコレクション以外では、
下記のデータベースもありますので、日本史を勉強するには便利な世の中になってます。
必要に応じて参照してみて下さい。(URLは2019年5月1日現在のもの)
1.宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/
2.国立公文書館デジタルアーカイブ
https://www.digital.archives.go.jp/
3.谷本玲大のページ・倉庫(大日本地名辞書や大日本年表などを収蔵)
http://tanimoto.to/lumber/
4.古文自動翻訳研究センター(ソフト開発中・現行バージョンは3.1)
http://honnyaku.okunohosomichi.net/
5.木簡・くずし字解読システム(奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所)
https://mojizo.nabunken.go.jp/
6.日本図書館協会図書館リンク集
https://www.jla.or.jp/link/tabid/95/Default.aspx >>142
庄屋は下層階級
百姓のまとめ役に過ぎない
武士より遙かに下の身分
自覚しろ >>159
一連の書き込みとは関係の無い全くの第三者である私に対してこのようなご厚意を
頂戴しまして有り難うございます。
ますます貴兄のファンになってしまいそうです。
全く関係の無い、通りすがりの第三者ではありますが、これからも貴兄の書き込みから
学ばせていただきたいと思っております。
ありがとう。本当にありがとうございました。 >>161
>>159 です。たいへん御丁寧なレスをありがとうございます。昔から「袖すりあうも他生の縁」と
言われているとおり、この掲示板では、「先祖探し」という同じ方向を向いて勉強してるお仲間
ですから、彼我関係なくお互いに知識を交換し、助け合うのは当然のことだと考えております。
私も諸般の事情で「先祖探し」を継続進行しておりまして、そのプロセスに関係した物事を紹介
すれば、いつか誰かの役に立つかなと考え、気の向くままに駄文を書き散らしている次第です。
身に余る評価を頂戴し、恐縮に存じます。それでは、またどこかで御一緒させて下さい。 自作自演か?
庄屋をバカにしてる底辺がいるようだが…
庄屋が一番尊敬される立場だぞ 庄屋は底辺
田舎に行くと先祖は庄屋って奴が一杯いるけど誰も尊敬なんてしてないよ
「あの家、昔は庄屋だったんだって」
「ふーん、百姓か」
でお終い >>163 >>164
客観的証拠や言葉の定義、それに時代設定を含む議論の前提条件もなしに、庄屋と呼ばれる存在の
社会的地位を、現代の価値観で語っても、説得力を含め全然意味が無いのは明々白々なんだが…。
不毛で下らん言い合いをする前に、事実に基づく歴史学的論考をするなど、やるべき事が多々ある
はずだが、そこらあたりの学問的価値観を互いに認めたくないのかな。双方ともに、ただの「構って
ちゃん心理」の持ち主ならば心底呆れるし、幼稚園生なみの喧嘩もどきなら、放置するしかないね。 馬鹿w どっちも自演だよ
それ以外も、ここんとこずっと自演 >>165
お前が庄屋は尊敬されてるって書いたから、そんな事無いよと示しただけ
庄屋は尊敬なんてされてない
それが事実 庄屋が裕福であったことは全国的に間違いではないだろうね。
地方の庄屋は余り知らないけど。 地方でも神社の氏子代表は庄屋が多いのでは?
庄屋の屋敷は文化財指定されてるのが多いね。 金があったから当然と言えば当然。
金があったのでは、商人、網元なども入るな。 庄屋は名家と言われるが、武士はただの成り上がり者で偉くない かなり裕福な暮らしをしてた庄屋は多い。 うちの先祖の庄屋は藤原氏を名乗ってた。
庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな >>171
>庄屋出身の関白や太政大臣などもいるんじゃないかな
庄屋の脳内庭園はいつも花盛りで満開だね。さすがに笑ったわ。 庄屋は日本国の中で実質的には最高の地位にあると思う。
道で庄屋に会ったら天皇が土下座したとか聞いたことがある。l >>169
普通に今話題の駿河銀行の創業者は庄屋だがな。 失敬。スルガ銀行の現会長兼創業者、岡野家は名主と書かれてる 今やってるお宝鑑定のテレビ特番も、皆500年以上続く庄屋大地主だらけだよね。
一介の藩士なんて全く出てこない ダイアナ妃の実家のルーツは日本から渡って来た庄屋だったらしい そうやって庄屋を蔑む手段しかないのは虚しいからやめたほうがいい >>169
ちなみに新一万札の肖像画は、豪農渋沢だよね。
彼は庄屋ではない豪農だが、幕臣旗本にまで上り詰めてる。さらにその後は列記とした財閥。もう桁が違う別格な家柄だが。 江戸時代の先祖は庄屋でも武士でもないけど
どちらか選べと言われたら武士を選ぶな
昔テレビの街頭インタビューで、お宅の先祖はどんな人?って言うのを観てたら
「武士って聞いてるよ」と答えている人が結構いた記憶があるけど、
真偽はともかく、格好いいし他人に自慢できるからだろうね
貶す訳じゃないけど自分の先祖が庄屋だったとしても自慢もしないし
別に何とも思わないと思う それは仕方がないよね。時代劇がそう印象操作しているんだから。
現実は庄屋は長屋門ある豪邸に住んで、村方支配を行い、
城下の官舎住まいの下士は、内職して凌ぐか、株売って町人の先祖帰り。
こんなリアルな現実は描かれない。
それどころか、いまだに農民ガー農民ガーとひたすら辱しめることでしか表現されない。
そら幻想の世界である時代劇の中の武士がいいのは当たり前ですよ。 >>181 >>182
なに会話調で書いてんだボケ
評論家気取りでベタなこと書きやがって笑えるっw >>183
人品が文章に出てるんだよな
自分で気付いていないみたいだけど ここは2/5ちゃんだぞ。
人品が文章に出てるってダイジョブか?
かなり重症の感じだな。いつか寛解する日は来るんだろうか 庄屋には初夜権というのがあって、村娘たちが嫁に行く前に
処女をいただくことができたんだよな。 >>185
やっぱり品性下劣だね
先祖がそう言う身分だったとしても俺はその人をバカにしたり貶したりしないし
5ちゃんだから当たり前だと思っている鈍感さが重症だな よーわからんながれだが、
テレビはとにかく農民を見下した説明だよな。
百姓ではあったが、
百姓にもかかわらず
百姓のくせに
百姓ごとき
百姓にも優しくしろ
など
在郷武士は有力開発百姓が平安から武士化していったのに、
なんだこの百姓は人にあらずみたいな口の聞き方は。
いつから江戸の一介の武士ごときが旧村方支配層の有力百姓を名実ともに並べる位置になったよって話だわな
格下の分際が、いつも下級武士どもは態度が糞横柄でよ
庄屋層は武力がないとおもってんだよな えたヒニンなんてどーでもいいよ
江戸の武士だって、秀吉みたいなんだらけなんだから。 やっぱり知能低劣だね
評論家気取りで書いた>>181 >>182 を貶されて悔しくてならず
けど言い返せないものだから今度は品性なんてものを持ち出す。
品性とか人品とか、そこいらへんの気取った婆アみたいなことしか
言えない時点でお前は詰んでるんだよ
お前みたいな利口ぶった馬鹿をエッタといわれて当然だ。
お前は5ちゃんに向いてないよ やめとけって馬〜〜〜〜か 自分の認識では、ある程度の庄屋なら士分も持っている認識なんだが?士分を持っていない庄屋って、ある程度未満の庄屋という認識だが、違うのかな? 自分も渋沢家とは親交があるが、渋沢家は士分持ってるだろ。 渋谷家の話題が出たから、自分の渋谷家との親交の話しをしよう。
俺が渋谷んちに遊びに行ったとき、渋谷んちの人たちに挨拶したんだよね、そりゃ挨拶するのは当たり前だが。
俺の苗字を言ったら驚かれたよ。そりゃそうだよな、俺の先祖の苗字のルーツは深谷市だもん。
俺と渋谷が友達になったのも何かの縁なんだろうな。 ま、とにもかくにもみんなの先祖に優劣なし!優劣があるとすれば他人の先祖を敬える人と他人の先祖も敬えない人の心に優劣がある! 士分を持ってるのは小藩の庄屋か商業で成功した商人だろう。
由緒ある武家だった家でも苗字帯刀がせいぜい
良けりゃ浪人扱いかもっと良ければ郷士 知ってる身内の話だが。
長野の庄屋だった家が、明治になって、献金すれば士族にしてやると言われて断ったって話は聞いたことがある。
茨城の組頭だった家は、幕末に功績が加味されて一代帯刀になり、その後の親族の出世で士族になった。 壬申戸籍(明治五年)の場合、戸籍作成は戸長の職責だった。
戸長というのは、江戸時代の名主に代わる行政官。
基本的に収税官吏でもあり、租税が金納になったため、村人から税金を集める役目だった。
税金が集められなければ職責を果たせない。取り立ては厳しかった。
村人の方からすると鬼みたいな存在だが、戸長としては相手が老人だろうが病気していようが
払わせるしかなかった。
その他、明治になると小学校も作らなければならなかったが、国は金を出さず、
地元の自主的な建設に期待していた。小学校が出来ればそこの教師の給料は出すが、
建物は用意してくれない。
小学校建設も戸長が音頭をとってやらなければならない仕事だった。
ただし、小学校建設といっても、今我々が考えるような木造小学校は試行錯誤を経て
明治の終わりごろから建てられるようになったもので、明治初期は寺に間借りしたり、
民家の一部を改造したりしたものだった。
こうした背景から考えると、戸籍簿を士族としてやる代わりに献金を求めるというのは
大いにあり得ることである。税金が払われないとか、小学校を建てるための寄付が
集まらないとかだったのだろう。戸長もたいへんだったのである。 本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だったわけでしょ?
あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな? >>202
あの、そもそも戸長が名誉職とする規定になってるの。
戸長に選ばれること自体が名誉とされたわけで、士族なんて関係ない。 >>203
>本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。
おそらくだけど、結構地域差があったと思う。母方の田舎では、武士の子弟が通う「藩校」が、公的には
明治4(1871)年に閉校されてる。明治新政府による学校制度は、明治5(1872)年8月付けで公布
されたものだから、新教育制度への準備がここから始まり、やっと明治8(1875)年に小学校が開設さ
れた。名目で約4年間のブランクがあるね。
元々子弟教育に熱心な藩であったことと、廃城令によって解体された城の廃材を使えたので、経費が
安くて済んだことが新しい学校制度の早期実現に繋がった模様。あと、藩校の先生がこぞって学校の
教員に転じたので、小学校開設当初からかなりハイレベルな教育環境だったと伝えられてる。
藩校で儒学を修め、小学校の校長を務めた人が京都府の某地方に移住した際、人々の教育レベル
と民度の差に驚いたという記事を寄稿してるぐらいだから、基本的な学校教育システムは同じでも、
地域によっては授業の内容も違った可能性があるね。 >>203
本当にみんなが学校に通うようになったのは何時からなんだろう。しばらくは有名無実だった
わけでしょ?
明治五年に学校令が出て、日本国中小学校作りに狂奔することになる。明治六年ごろから
続々と作られ、明治八、九年ごろは津々浦々至る所にという状態になる。
小学校の建物が無ければ、従来の寺子屋をそのまま小学校ということにすればよく、
とにかく建物があって先生がいれば小学校なのだから、学校を作ること自体はさほど困難
ではなかった。ただし、机だの黒板だの教卓だの、中身を備えていくのは大変だった。
一般的に言って、建物まで小学校らしくなるのはもっと後の話である。
なお、小学校が出来るまで学校制度は有名無実だったということはない。子どもの教育は
小学校の有る無しを問わず、子どもがいるかぎり施さないわけにはいかないからだ。
長野県では開智学校が有名。
当初は廃寺を改造して小学校とした(明治六年)。
その後松本市民から寄付を集め西洋建築の壮麗な校舎を作ったのだ。
最初は廃寺を利用したということの時代背景は分かるだろう。
廃仏毀釈で坊主は逃げ出し、寺は廃寺になるところも多かったのだ。
関係ないが、長野県では旧幕時代に国学の徒が多く、廃仏毀釈運動はかなりきつかった。
馬込宿の名主だった島崎藤村の父親も国学の徒で、通過する水戸天狗党の隊列を
尊敬の念を持って見送ったという日記が残っている。 明治になってからの学校建設の動きは、旧幕時代の教育を理解しないと分からない。
江戸時代の教育は寺子屋が担ったというのは誰でも知っているが、寺子屋にも
二種あった。田舎の寺子屋と江戸や京・大坂などの都会の寺子屋である。
田舎では寺子屋は旦那衆の茗荷金(寄付)で営まれていた。寺の隅に小屋などを建て、
師匠は流れ者でも何でも適当な人間を置き、無料で教えていたのである。
(ただし、親が師匠に野菜や米を持っていったりはした。)。
松下村塾の建物などをイメージしたらいいかも知れない。
都会では今の塾と同じように商売として営まれていた。しかも束脩(そくしゅう)や月謝の
取り方が絶妙であった。親の収入により五段階ぐらいにランク分けしたのである。
親としては良い家の子として目に掛けてもらいたいから、無理しても上のランクで払う。
そういう仕組みで一銭でも高くとろうとしたのである。
だから都会では基本的に余裕のある家の子でないと寺子屋には行けなかった。
無学で目に一丁字もない貧民は増えるばかりだったのである。
都会の貧民には、子どもに教育を受けさせるなど夢にも思わない者がいくらもいたのである。
明治になって学校教育を始めたときに、教育レベルや親の熱意には地域によって
大きな差があったと思われる。 >」あと、うちの母方の田舎では大正以前の人名に見たこともない奇妙キテレツな変体仮名が大量に>登場するんだが、地域によって教える文字なんかも異なっていたのかな?
山本博文という人の本に出てくるよ。
旧幕時代、藩校で儒学を学べるのは上級武士の子弟だけだった。
(藩校にもいろいろあるが、突っ込みはしないこと。)
そこで学ぶ漢字は唐流(唐様)であった。
唐様というのは、楷書を基本とする中国風の書跡のこと。
江戸時代に唐様の文字を書くなどというのは本当に特殊なことだったのである。
http://www.ohtabooks.com/qjkettle/news/2014/01/20095326.html
下級武士が学んだのは「御家流」であった。御家流とは和洋の書跡のこと。
町人や百姓が学んだのも御家流。
藩の公文書や制札、商人の帳簿や多種多様の法令文書など、ありとあらゆる文書は
今でいう楷書できっちり書かれたものではなく、御家流の崩しまくった和風文字であった。
下級武士は藩校に通えなかったが、字を学ばないわけにはいかない。
どこで教育を受けたかというと、学識のある老人のところに通ったようである。
長年帳簿係や書き役などを勤めた隠居老人のところへ行って教わっていたのだろう。
老人の方では教えるのは今でいうボランティアで、謝礼などは取らないものであった。
御家流といっても崩し方には癖というか種類があり、藩ごとに違っていただろう。
逆に言うと、藩ごとに統一されていたのではないか。
昔の崩し文字は本当に複雑なので、統一しておかないと不便だからである。
こういう文字を学んだ下級武士が明治になって下級官吏となり、戸籍簿などを作る。
そうすると皆同じように旧藩時代の御家流を書き、だから奇妙キテレツな文字という
ことになるのだろう。大正の頃までそれが続いたというのは、旧藩の武士たちが使って
いた御家流の書体が、その地方の標準的書体となっていたということだろう。 × 御家流とは和洋の書跡のこと。
○ 御家流とは和様の書跡のこと。
和洋ではなく和様 昔の子どもたちはどんなふうに文字を習ったのか。
女子の場合だが、以下のような資料がある。
山川菊栄の「武家の娘」という本 水戸藩の武士の娘の回想録
水戸では女の子は満六歳になると手習いのお師匠さんに弟子入りした。
武家の娘は当然の教養だったし、町人の娘も、女中奉公などを
目指している場合は読み書きができなければならないからである。
水戸藩では、藩士の娘と同心や町人の娘とでは教室が違った。
(ここはよく分からないが、教わる師匠自体が別だったのだろう。
なお水戸の御城下なので百姓はいない)。
同心の娘は町人の娘と同じ教室というところは面白い。
水戸では同心は武家扱いではなかったということである。
朝、早く行くのが競争のようになっていて、朝ご飯が済むとすぐに家を出る。
夏は朝霧の中を、冬は霜柱を踏んで出かけていった。
お師匠さんは下級武士の妻だった。その人は能筆で知られていて、
頼まれて師匠をしていたのである。
子持ちの主婦なので、いつも教室にいるわけではなく、手本を書いてあてがい、
娘たちは紙が真っ黒になるまで練習し、ときどき清書して出す。
それがよければ次の手本をもらうという具合だった。
習った内容は、最初は「いろは」、次に女大学などの女訓書で、字の練習だけ
ではなく、文章を読む練習にもなったし、修身の勉強的な意味もあった。
「大名づくし」という大名の苗字を並べた手本もあって、娘たちは社会科的な
知識も得たのである。 男子の場合も同じような指導法であったと思われる。
学習時間は早朝に行って数時間といったところだろう。子どもはそんなに長く
集中できないからである。弁当をもっていくようなこともなかったろう。
午前十時頃には終わったのではないか。
女の子の場合、ひととおりの勉強で済ませたので、稽古に通うのはきわめて
短期間であったようである。
さらに、娘たちは十二、三歳の頃から、お縫子として裁縫の師匠のもとに通った。
こちらの方は武家も町人も関係がなかった。
お縫子は十人ほどで、そのうち三人ほどが町人や同心の娘だった。
師匠は身分の低い貧乏な老藩士の妻で、その家では主人や息子が傘張りの
内職をやっていた。師匠はちょいちょい出かけて居なくなる。
その間、武家の娘ばかりならおとなしく針を運んでいるが、町人の娘がいると
口三味線やら芝居のこわいろ、寄席の物真似を始める。
武家の娘も釣り込まれて一緒に笑うという具合だったという。 >>210 の山川菊栄「武家の娘」は「武家の女性」に訂正。この本って以前は「武士の娘」
という題名だったんだよな。題名が変わったので混乱した。
でわ上記の続き−−−
昔の子ども達は、(藩校で学ぶ上流武士の子弟を除き)はじめから崩された御家流の
漢字を勉強した。習字をやりながら字を覚えていくのだが、今の文字(唐様、楷書)とは
大いに異なるものであった。
覚え方も今とは全然違う。
驚いたことに、九九を覚えるように、歌のような調子を付けて覚えていったのである。
例えば
木はうめよ、
人はあなどる
水はうみ
日はくらす也
心くやしき
これで、梅、侮、海、晦、悔という文字をいっぺんに覚えてしまう。 笑い話がある。
松平定信が老中首座になったときに目付を勤めた森山孝盛という武士がいた。
この侍が出世前、大阪在番の番士だった頃、同僚が無学だったことを書き残している。
(番士だったのだから徒である。森山自身は旗本で徒頭だった。)
同僚で親友の江馬という武士が無学なので、暇なときに四書の素読を教えてやった。
教えてみて吃驚した。この江馬某は、素読は字を覚えるためのものだと思いこんでいた
というのである。子どものときに調子をつけた歌のようなもので漢字を覚えたので、
四書もその類と思ったらしいのである。
孔孟の哲理も、下級武士にとってはその程度のものであった。
ついでに。森山孝盛のウィキの項目は面白いぞ。 庶民に縁のない唐様の文字というのは一種特別のものであった。
上級武士の家には、漢籍の一部を扁額や衝立に書いて飾ってあったりしたが、
唐様の漢字にはそうするだけの価値があったということである。
朝鮮通信使が日本に来ると、物見高い日本人が群衆し、物をせがんだ。
珍奇な物品が目当てだったのだろうが、書をせがむ日本人も多かった。
さすがに日本に派遣されてくるだけあって使者一行の端々まで字が書けたらしい。
書く文字は当然唐様であった。本場の唐様文字ということで、日本人は大いに
有り難がったのである。
唐様の文字を見ると、ふつうは御家流の漢字しか知らない日本人は、「あの
漢字は本当はこういうふうな文字なのか。へー、、、」とマジマジと見入った
はずである。 一方、御家流の文字というのは、日本人が漢字を使いこなすために工夫した
一種の記号であった。漢字をもとに崩しに崩して作られた文字で、平仮名や
片仮名の仲間と考えた方がいいかも知れない。
漢字をマスターするには膨大な時間とエネルギーが必要である。
日本人はそれを省略しようとした。漢字を正面から受け入れることを避け、
縦棒と曲線だけで似ても似つかない文字を作りだした。
略字であり記号であるから、間違いが起こるのは当然覚悟の上である。
そもそもがいい加減で適当で、楽をしたいという気持ちだけで作られた
冗談みたいな文字なのである。
だから、御家流の文字で書かれた文書で、間違いを指摘するような者は
いなかった。
書く方にとってはこんな気楽な文字はない。
どんな漢字を使っても読めればよい。読めない部分は前後から適当に読んで
クダサイというようなもので、判じ物と同じで意味が分からない方が馬鹿と
いうことなのである。 幕末でも日本人の識字率は高く、当時日本に来た西洋人も驚き、世界一の
教育国だったのではないかとまで言われる。
しかし、識字率世界一とされたのには事情もある。
日本人のほとんど誰もが「いろは」程度は書けたのである。
いろはをカタカナで書ければそれだけで最低限の用は足りる。
50字にも充たない仮名を知っていればそれでよいとした場合には確かに
世界一だったかも知れないが、他の国とは比較しようがない。
例えば、欧米ではアルファベット21文字を覚えただけでは何にもならない。
これに対し、日本語は類を見ないほど発音が単純といわれる。
母音と子音の組み合わせが極端に少ないのだ。だから、いろは47文字と
濁音に点々、半濁音に丸を付けるということだけ覚えれば表記できる。
「コンドアソビニイキマス。マテイテクダサイ」で手紙になる。
昔はもっと適当で、濁音や半濁音など意にもかけない人も多かった。
単なる想像だが、当時は「いろは」をカタカタとひらがなで書け、漢字を三百も
覚えていれば、堂々と胸を張って字が書けるといえたのではないか。
昔の人の文書で特徴的なのは漢字の使い方が適当であることだ。
しかしこれもいい加減ということでなく、知っている漢字が少ないので、読みが同じ
自分の知っている漢字を宛てているだけなのではないかと思う。 当時中国では、もちろん簡略化前の複雑な漢字であった。中国では、漢字は
一万字覚えなければ役には立たないと言われていた。
同じような漢字がいくつもあり、こういう場合にはこの文字、と使い方も複雑である。
ちょっとぐらい字を習っても、書けば書くほど無知が目立ち、恥をかくだけである。
最低限で一万字というのは誇張でも何でもなかった。
複雑な文字を一万字覚えるには、最低限6歳から15歳ぐらいまで勉学に集中できる
環境が必要である。誰もがこんな環境で育てられるわけがない。だから中国の
識字率は低かったのである。日本と単純には比較できない。 やたら長い文章を書く人は、本当にそれが読まれるのだと思って書いているのだろうか。 ↑
なるほど、気の毒だな。君のような人もいるんだから
もう一つ低学歴者用のスレを立てるべきだと思う。
文久三年一月、江戸にいた坂本龍馬の手控え(メモ)が残っている。
「正月十八日、勝先生大広間にて、将軍職自退の義、大義論の由、
麟太郎先生より咄承地す・・・・・」
辞退 を自退 議論 を義論 承知 を承地 としている。
他のメモには 弐人不知(弐人扶持) などという宛字もある。
読みが同じなら字は何でもかまわないという感じである。
上の森山孝盛は、松平定信が字が読めたので周囲の役人が困ったという話を
書き残している。役人が文書を読み上げて報告しているときに、読みを間違えて
しまった。そのときに定信が「その文字はこう読むのだ」と文書を読みもしない
ままで教えたのだという。
「御老中様ハ字ヲオ読ミニナラレルノデドウニモナラヌ」と役人は愚痴った。
この話は定信が字が読めたというより、それまでの老中は字がまともに読め
なかったことを示唆している。老中といえば大名で、家柄で上り詰めてきた
人たちだった。子供のときの勉強も形だけだったのだろう。老中になっても
ほとんど字も読めぬまま目暗判を押しているだけだったようである。
松平定信のような学のある殿様は珍しかったのである。 それと、上記唐流と御家流で誤解を生むかも知れない。
上級武士は唐流を習ったが、ふつうは御家流で書いていた。
唐流も書けるので、揮毫を求められたり特別な場合は唐流だったが、それ以外は
将軍でも大名でも御家流で書いていた。
公家には公家の書法があった。天皇の綸旨などは当然唐流と思われがちであるが、
書記(蔵人)の私文書の形式であり、思い切り崩した文字で斜めに書いてある。
戦国大名の手紙のような長いものではなく、一枚の半紙に雑に書き付けてある。
紙はわざと漉き返しの鼠色のものを用いた。
古い手紙や文書を漉き返した紙で、墨が溶けて鼠色なのである。
天皇の言葉は女房が間接的に伝える形をとり、女房奉書という散らし書きでさらさらと
書く書法があったが、明治の初めごろに絶えた。こういう文書を渡すときは、女房が
立ち去りながらわざとポトリと落とすような仕草をして相手に拾わせたのである。 いるよね、聞いてもないことをベラベラ一方的に話す人。相手が白けてても見えていない、感じられない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています