先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ 男子の場合も同じような指導法であったと思われる。
学習時間は早朝に行って数時間といったところだろう。子どもはそんなに長く
集中できないからである。弁当をもっていくようなこともなかったろう。
午前十時頃には終わったのではないか。
女の子の場合、ひととおりの勉強で済ませたので、稽古に通うのはきわめて
短期間であったようである。
さらに、娘たちは十二、三歳の頃から、お縫子として裁縫の師匠のもとに通った。
こちらの方は武家も町人も関係がなかった。
お縫子は十人ほどで、そのうち三人ほどが町人や同心の娘だった。
師匠は身分の低い貧乏な老藩士の妻で、その家では主人や息子が傘張りの
内職をやっていた。師匠はちょいちょい出かけて居なくなる。
その間、武家の娘ばかりならおとなしく針を運んでいるが、町人の娘がいると
口三味線やら芝居のこわいろ、寄席の物真似を始める。
武家の娘も釣り込まれて一緒に笑うという具合だったという。 >>210 の山川菊栄「武家の娘」は「武家の女性」に訂正。この本って以前は「武士の娘」
という題名だったんだよな。題名が変わったので混乱した。
でわ上記の続き−−−
昔の子ども達は、(藩校で学ぶ上流武士の子弟を除き)はじめから崩された御家流の
漢字を勉強した。習字をやりながら字を覚えていくのだが、今の文字(唐様、楷書)とは
大いに異なるものであった。
覚え方も今とは全然違う。
驚いたことに、九九を覚えるように、歌のような調子を付けて覚えていったのである。
例えば
木はうめよ、
人はあなどる
水はうみ
日はくらす也
心くやしき
これで、梅、侮、海、晦、悔という文字をいっぺんに覚えてしまう。 笑い話がある。
松平定信が老中首座になったときに目付を勤めた森山孝盛という武士がいた。
この侍が出世前、大阪在番の番士だった頃、同僚が無学だったことを書き残している。
(番士だったのだから徒である。森山自身は旗本で徒頭だった。)
同僚で親友の江馬という武士が無学なので、暇なときに四書の素読を教えてやった。
教えてみて吃驚した。この江馬某は、素読は字を覚えるためのものだと思いこんでいた
というのである。子どものときに調子をつけた歌のようなもので漢字を覚えたので、
四書もその類と思ったらしいのである。
孔孟の哲理も、下級武士にとってはその程度のものであった。
ついでに。森山孝盛のウィキの項目は面白いぞ。 庶民に縁のない唐様の文字というのは一種特別のものであった。
上級武士の家には、漢籍の一部を扁額や衝立に書いて飾ってあったりしたが、
唐様の漢字にはそうするだけの価値があったということである。
朝鮮通信使が日本に来ると、物見高い日本人が群衆し、物をせがんだ。
珍奇な物品が目当てだったのだろうが、書をせがむ日本人も多かった。
さすがに日本に派遣されてくるだけあって使者一行の端々まで字が書けたらしい。
書く文字は当然唐様であった。本場の唐様文字ということで、日本人は大いに
有り難がったのである。
唐様の文字を見ると、ふつうは御家流の漢字しか知らない日本人は、「あの
漢字は本当はこういうふうな文字なのか。へー、、、」とマジマジと見入った
はずである。 一方、御家流の文字というのは、日本人が漢字を使いこなすために工夫した
一種の記号であった。漢字をもとに崩しに崩して作られた文字で、平仮名や
片仮名の仲間と考えた方がいいかも知れない。
漢字をマスターするには膨大な時間とエネルギーが必要である。
日本人はそれを省略しようとした。漢字を正面から受け入れることを避け、
縦棒と曲線だけで似ても似つかない文字を作りだした。
略字であり記号であるから、間違いが起こるのは当然覚悟の上である。
そもそもがいい加減で適当で、楽をしたいという気持ちだけで作られた
冗談みたいな文字なのである。
だから、御家流の文字で書かれた文書で、間違いを指摘するような者は
いなかった。
書く方にとってはこんな気楽な文字はない。
どんな漢字を使っても読めればよい。読めない部分は前後から適当に読んで
クダサイというようなもので、判じ物と同じで意味が分からない方が馬鹿と
いうことなのである。 幕末でも日本人の識字率は高く、当時日本に来た西洋人も驚き、世界一の
教育国だったのではないかとまで言われる。
しかし、識字率世界一とされたのには事情もある。
日本人のほとんど誰もが「いろは」程度は書けたのである。
いろはをカタカナで書ければそれだけで最低限の用は足りる。
50字にも充たない仮名を知っていればそれでよいとした場合には確かに
世界一だったかも知れないが、他の国とは比較しようがない。
例えば、欧米ではアルファベット21文字を覚えただけでは何にもならない。
これに対し、日本語は類を見ないほど発音が単純といわれる。
母音と子音の組み合わせが極端に少ないのだ。だから、いろは47文字と
濁音に点々、半濁音に丸を付けるということだけ覚えれば表記できる。
「コンドアソビニイキマス。マテイテクダサイ」で手紙になる。
昔はもっと適当で、濁音や半濁音など意にもかけない人も多かった。
単なる想像だが、当時は「いろは」をカタカタとひらがなで書け、漢字を三百も
覚えていれば、堂々と胸を張って字が書けるといえたのではないか。
昔の人の文書で特徴的なのは漢字の使い方が適当であることだ。
しかしこれもいい加減ということでなく、知っている漢字が少ないので、読みが同じ
自分の知っている漢字を宛てているだけなのではないかと思う。 当時中国では、もちろん簡略化前の複雑な漢字であった。中国では、漢字は
一万字覚えなければ役には立たないと言われていた。
同じような漢字がいくつもあり、こういう場合にはこの文字、と使い方も複雑である。
ちょっとぐらい字を習っても、書けば書くほど無知が目立ち、恥をかくだけである。
最低限で一万字というのは誇張でも何でもなかった。
複雑な文字を一万字覚えるには、最低限6歳から15歳ぐらいまで勉学に集中できる
環境が必要である。誰もがこんな環境で育てられるわけがない。だから中国の
識字率は低かったのである。日本と単純には比較できない。 やたら長い文章を書く人は、本当にそれが読まれるのだと思って書いているのだろうか。 ↑
なるほど、気の毒だな。君のような人もいるんだから
もう一つ低学歴者用のスレを立てるべきだと思う。
文久三年一月、江戸にいた坂本龍馬の手控え(メモ)が残っている。
「正月十八日、勝先生大広間にて、将軍職自退の義、大義論の由、
麟太郎先生より咄承地す・・・・・」
辞退 を自退 議論 を義論 承知 を承地 としている。
他のメモには 弐人不知(弐人扶持) などという宛字もある。
読みが同じなら字は何でもかまわないという感じである。
上の森山孝盛は、松平定信が字が読めたので周囲の役人が困ったという話を
書き残している。役人が文書を読み上げて報告しているときに、読みを間違えて
しまった。そのときに定信が「その文字はこう読むのだ」と文書を読みもしない
ままで教えたのだという。
「御老中様ハ字ヲオ読ミニナラレルノデドウニモナラヌ」と役人は愚痴った。
この話は定信が字が読めたというより、それまでの老中は字がまともに読め
なかったことを示唆している。老中といえば大名で、家柄で上り詰めてきた
人たちだった。子供のときの勉強も形だけだったのだろう。老中になっても
ほとんど字も読めぬまま目暗判を押しているだけだったようである。
松平定信のような学のある殿様は珍しかったのである。 それと、上記唐流と御家流で誤解を生むかも知れない。
上級武士は唐流を習ったが、ふつうは御家流で書いていた。
唐流も書けるので、揮毫を求められたり特別な場合は唐流だったが、それ以外は
将軍でも大名でも御家流で書いていた。
公家には公家の書法があった。天皇の綸旨などは当然唐流と思われがちであるが、
書記(蔵人)の私文書の形式であり、思い切り崩した文字で斜めに書いてある。
戦国大名の手紙のような長いものではなく、一枚の半紙に雑に書き付けてある。
紙はわざと漉き返しの鼠色のものを用いた。
古い手紙や文書を漉き返した紙で、墨が溶けて鼠色なのである。
天皇の言葉は女房が間接的に伝える形をとり、女房奉書という散らし書きでさらさらと
書く書法があったが、明治の初めごろに絶えた。こういう文書を渡すときは、女房が
立ち去りながらわざとポトリと落とすような仕草をして相手に拾わせたのである。 いるよね、聞いてもないことをベラベラ一方的に話す人。相手が白けてても見えていない、感じられない。 >>224
君はこっちの方に行ってなさい。
matsuri.5ch.net/test/read.cgi/bakanews/1557047588/
江戸時代の武士の教育を担った藩校について。
藩校はそんなに古くからあったわけではない。
松平定信による寛政の改革あたりから教育熱が高まり、武士の子弟に漢学を
教える学校の設立が盛んになった。
日本における藩校の最初の成功例が熊本細川家の時習館である。
宝暦4年(1754)の設立。時習館の教育が世に名高くなり、他の藩でも寛政の頃
をピークとして設立するところが多くなった。だいたい1790年前後である。
十九世紀になって設立したところも多い。
水戸の弘道館などは天保12年(1841)になってからである。
会津藩の日新館は享和3年(1803)の設立。
教育内容は最初のうちは漢文の素読をするだけだった。
そのうち徐々に漢文の解釈もするようになり、中国の歴史なども学ぶように
なった。優秀な生徒なら、十五歳ぐらいで戦前の高等師範に相当する学力まで
達したといわれる。
ただし、高水準に至ったのは漢学に限った話だった。他は何もない。
一応算術も課目にあったらしいが、それが教えられたかは不明である。
そもそも武士の間では、算術を軽蔑する風潮があったのだという。
東京帝国大学総長になった科学者・山川健次郎は日新館の生徒だったが、
戊辰戦争で中断される十四歳までは授業を受けていた。
しかし、九九を覚えたのはアメリカ留学直前の十七歳のときだったという。
算術が教えられなかったか、誰も勉強しなかったかのどちらかだろう。 日新館には水練のためのプールもあった。これは体育というより武道としての
鍛錬だった。入学は十歳で、千人ほどの子供が学んでいた。
最初は誰でも受け入れたが、入学希望者が多くなり、結局上士の子だけを
受け入れるようになった。
会津藩では伝統的に子供が六歳になると「什」(じゅう)という地域ごとの子供の
グループに入り、年長者から指導を受けた。薩摩のク中のようなものである。
文字もここで年長の子供から教わった。
規律は厳しく、違反すると円くなった座の中央に座らせ、追求を受けた。
一同の前で「無念でありました」と謝罪すれば済む場合もあれば、全員から打擲
されることもあり、最も重い罰が「派切れ」という村八分であった。
年長者の言うことに背いてはなりませぬ、というのが第一の誓いであった。
会津白虎隊の悲劇は、この什の組織のままに戦った結果である。
大人の武士が率いていたが、途中から行方をくらましてしまった。
その後は、年長者が率いた。
そして年長者が切腹と決めれば全員迷わず死ぬほかなかったのである。 長ッ!よっぽど普段話をきいてくれる人がいないんだな。 >>226
興味深く読みました
先祖の事を調べている最中、日新館で使われていた教科書に父方先祖の名前や人物紹介が書かれていたのを発見したので
漢文でおおよそしか解らなかったけど >>>222理科系の教授連らと変わらん気もするがな・・・字の間違い指摘したら切れそうなとこもwww >>227
ふ〜〜ん、これで長いか
短いのが好きだったら俳句スレとか行けば
金玉や ひねもす ブラリブラリかな とか
>>228
あなたの御先祖は教授とか助教だったのだろうか。それとも句読師とか。
教授や助教の数はわずかで、子供たちを実際に教えていたのは句読師、習書師などと
いう名前の現場の先生だったようだ。
ここは時習館についてかみ砕いて書いてあるブログ
ameblo.jp/psi-distalengine/entry-11999591157.html
このページから
『連』および受け持ちの句読師についての説明はこちら → 『自治組織・連について』
に飛ぶとよい。
18世紀末ごろに作られた藩校は、ほとんどが熊本時習館をモデルにしたものの
ようだ。入学は8歳からで、句読生→習書生→蒙養生(もうようせい) と上に行くごとに
生徒の数は減っている。義務教育じゃないんで、勉強に向いていない子はやめて
いったのだろうか。句読は漢文の白文読み下し方の勉強。昔は自分で返り点などを
打ちながら読み下していったのだ(教科書には直接打たないが)。 習書とは習字のことだが、白文をそのまま書いていったのだろう。先生が読み下した
漢文をそのまま漢文で書けなければいけなかったんだろうと思う。自分の書いたものに
句読点を打つ練習もしたかも知れない。
ともかく、習書の過程で子弟は唐流を仕込まれたということは分かる。
蒙養というのは江戸時代中期に書かれた子供向けの道徳書みたいなもの。
中井竹山という儒者が書いたもので、ベストセラーであった。
明治になっても出版されていた。よほど普及してたようでネットにも写真がたくさん出てくる。
大きな御家流の文字の本である。習字の手本でもあったようだ。
子供はこれで御家流の文字の読み書きを習ったんだろうな。
「一事を行ふにも、親の心に叶はざるかを能々考うべし。僅(わずか)の事も一分(いちぶ、
自分の心)に任す事、必ず之有るべからず候」。
「老人長者と同道の節、必ず其の跡に従ひ申すべく候。仮初(かりそめ)にも先に立つ
べからず候」。
俺が子供だったらこんな勉強をさせられたら続いたかどうか分からない。
落第制度があり、今の小学校とちがって容赦はなかった。
実際だんだんと生徒が集まらなくなり寂れた藩校が多かったようだ。
天保ぐらいから改革が図られ、軍事教練や撃剣に力が入れられるようになると息を
吹き返し、何倍もの規模で営まれるようになった。 >>230 >>231
まず、これは喧嘩を売りたい訳じゃなくて、もう少し工夫してくれたら嬉しいという意見だと理解して欲しい。
投稿が長文でも、内容が伴えば許容するのはやぶさかではないが、あなたの記事はとにかく読み難い。
当方も、他人に要求するほど優れた文章を書いている訳ではないけれど、どこから始まって、どこまでが
一つのフレーズなのかを明確にすれば、読み手により一層分かって貰えるのかを考えてみて欲しい。
1文の長さを工夫して簡潔に書いてるつもりなんだろうが、それが塊で書いてあるから、読み手側として
どこで話が区切れているのか、一瞬判断に困る人も少なくないだろう。これは知的レベルの話じゃない。
あなたの投稿は、やたらだらだらと文字を書き連ねて、段落分けが大雑把すぎるのが欠点のように見える。
何でも詰め込めば良いってものじゃなくて、読み手に親切な書き方を工夫してくれると、嬉しいんだがね。
ここでは「読み手」の知識や読解レベルじゃなく、「書き手」の技術なり技量が問われてるんだと思うよ。
いずれにせよ、少しでも多くの人に物事を述べ伝えるのが、電子掲示板の存在意義だと思うが如何。 >>232
よく綺麗にまとめてくれた!
本当に、中身はあるが冗長で読みにくいんだよね。国立大学は入試で記述力を求められるが、私立大学は知識しか求められない。
中途半端に有名な私立大学出身者なのかな。だからプライドはあるが表現力が無い。 ↑
この爺さん自演癖があるんだよな
先祖探しどころじゃないのに。もうすぐ自分が先祖だろw
−−−−
藩校の登下校は「連」という地域グループごとにまとまってしていた。
「連」という言葉は西日本でよく使われる。阿波踊りのグループも連という。
昔の武士たちは身分・職分ごとに住む場所が決まっていたから、地域ごと
に連を作れば親たちはほとんどが同僚同士であった。
同じ階層に属する少年たちが一つの連でまとまっていた。
時習館では、初登校の日は句読師などの先生たちが迎えに来て、連の子供
たちを引率して登校したというのが微笑ましい。
今の小学校の入学式のようなもので、子供達は新調の絣の単衣に袴を着け、
腰に小さな二刀を差し、緊張した面持ちで歩いてゆく。
道端の親や祖父母たちも礼装だったろう。母親はこの日のために留袖をあつらえ
丸髷を結い、化粧をしたはず。
少年たちの後ろを親たちが付いてゆく。藩校の門までは行ったのではないか。
一種のイベントのようになっていたと思われる。 版籍奉還後の「藩」について一応書いておこう。
そうしないと廃藩置県までの動きが掴めない。
明治2年に版籍奉還。これは日本中の大名(徳川家も静岡の大名になっていた。)が
領地と領民を天皇にお返し申し上げるということだ。
では奉還を受けた天皇が土地や人民を直接統治したかというとそうではなかった。
相変わらず大名に統治させていた。ただし、大名の呼び名が変わった。
「知藩事」という名称になった。(知藩事が正しいらしいが、一般的には藩知事と呼ばれて
いるので以下藩知事と書く。)。一方、武士たちは士族と呼ばれるようになった。
藩知事になるのは旧大名の息子たちが多かった。
江戸時代の大名が、新時代にそのまま藩知事になるのは気が引けたのだろう。
例えば島津久光は隠居し、息子の忠義が藩知事になった。
山内容堂も息子の豊範を藩知事にした。
旧大名家の若殿たちを藩知事にしたメリットは二つあった。
一つは藩知事が例外なく馬鹿殿で、明治政府の言いなりであったこと。
もう一つは、藩知事を藩のトップに置くことによって、士族達の反乱を防げたことである。
もし藩知事を政府の選んだ役人などにやらせたら、たちまちに地元士族に殺されただろう。
旧主家の殿様に刃向かう武士はいないので平穏に済んだのだ。 明治政府はこの体制で10年ぐらい統治するつもりだった。
政府といっても実体は薩長土肥の寄せ集めで、財政力も軍事力も弱体だった。
藩という旧大名家の権威に乗っかって治めていくしかないと考えていた。
しかし武士たちは疲弊して反乱の気力もないことが分かり、かつ薩長土が兵を差し
出して御親兵という自前の軍事力を持つことができたので、一気に旧体制の始末に
取りかかった。明治四年の廃藩置県である。
日本中の武士が憤激するかも知れない政策であり、ビクビクものであった。
だから東京にいた藩知事全員を皇居に呼び出し、そこで天皇がいきなり詔(みことのり)の
形で宣言したのである。士族たちへは知藩事から言い渡す形を取った。
抜き打ちだったので翌日の政府の閣議は紛糾した。しかし、西郷の「もし各藩にて異議等
起こり候わば、兵を以て撃ち潰すの他ありません。」との一喝で決着した。 ということで、明治四年までは藩はそのままで、殿様(名称は藩知事)もいたのである。
その一年後の明治五年に散髪脱刀令。これは断髪令という名称で知られているが、
断髪にせよという内容ではない。
「散髪にしてもかまわない」こと、そして「帯刀しなくてもかまいませんよ」という内容
なのである。つまり「髪をきちんと結髪にして刀を差せ」という江戸時代の武士の
身なりに関する規律を緩めるものなのである。
おまけに、礼服を着るときは帯刀しなさいということまで定めている。
(なお、その2年前に「武士でないのに武士の格好をしてはいけない」という政令を
出している。武家風の装束に二本差しで歩き回る百姓町人がいたのである。)。
断髪を命ずるものではなかったから、丁髷を切らないままの武士も多かった。
同年に欧米に出立した岩倉遣欧使節団の中にも丁髷帯刀のままの者が多かった。
岩倉自身も髷を結い帯刀していた。
アメリカに渡ってから人々の好奇の目にさらされ、恥ずかしくなって散髪にしたのである。
このように、明治五、六ぐらいまでは政治も習俗もほぼ江戸時代そのままであった。
明治天皇も散髪にしたのは明治六年である。
それまでは公家風の髷(総髪で内裏雛と同じ髷)に衣冠束帯であった。 なお、関係ないが、藩という言葉は明治になってから使われた言葉だということは
知っておいた方がいい。(例外的に幕末に勤皇派の浪士などが使ったりはした。)
版籍奉還によって旧大名家が藩となったのである。
明治になってからの行政単位だから、薩摩藩とか長州藩とか昔の国名を使った
古くさい名称はつけない。藩庁のある場所の地名がつけられた。
鹿児島藩、山口藩とかである(萩ではなく山口に藩庁を置いた)。
土佐藩などとは言わず高知藩である。
加賀藩などというものもない。金沢藩である。
大名の苗字に藩をつけて呼ぶようなこともあるが、とんでもない間違い。
伊達藩などあるわけもない。仙台藩である。
会津松平家は斗南に転封されたので斗南藩である。
会津藩などというものが存在したことは一度もなかった。
徳川将軍家は静岡藩である。
藩校、藩士、藩主、藩領、藩祖、などは皆明治になってから出来た言葉である。
小説などで、武士たちが自分を「○○藩士」などと言ったり、「貴藩は、、」
などと言ったりしているのはすべて間違いである。
武士が名乗るときは、薩摩藩なら「松平三郎家来○○」などと名乗った。
なお、藩庁というのは明治政府の行政機関である藩の庁舎のこと。
江戸時代に藩庁などというものはない。藩の役所は会所と呼ばれた。 版籍奉還により領土・領民を天皇にお返ししたわけだから、旧大名は徴税権も
失うわけである。それでは旧藩主や士族はどうやって暮らしたのか。
明治三年九月十日、右大臣三条実美が藩政改革を布告。
各藩の実高の十分の一を藩知事の家禄とすること。その残高の十分の一を海
陸軍費用に、さらにその残高を藩庁諸経費と藩士改め士族・卒族の俸給に
充てることとされた。これによって藩知事や士族たちは定収入を得て一息ついた。
ただし、平均すると高禄だった家臣ほど大きく減俸され、不平は大きかった。
版籍奉還の内容を見ると、明治新政府の財政的基盤はまことに脆弱であった。
徳川将軍家の領地(天領)から静岡藩七十万石を引いた残りにすぎない。
さらに、藩は通貨発行権を持ち、藩札を乱発したり、せっせと贋札贋貨造りに
励んでいる。それでも財政に行き詰まり、廃藩を願い出る藩もあった。
高崎藩では、若殿が英学校や藩営の生糸問屋を設立したりと開明的な改革を
目指したが、大赤字を抱え込むことになった。
藩などがあっては中央集権国家は樹立できない。
次の目標が廃藩置県に絞られたのは当然である。
そこからの流れは上述した通りである。
西郷は御親兵設立に際し、薩摩士族四大隊を率いて上京してきていた。
反乱あり次第、自分が連れてきた薩摩兵だけを率いて討伐に向かうつもりで
あった。西郷は反乱を期待していたふしがある。 廃藩置県により藩知事たちは当然免官となったが、収入はどうなったのか。
明治五年に身分族称を決定。皇族、華族、士族、平民とする。
旧大名たちは免官となる代わりに新たな特権階級たる華族にしてもらった。
華族制度の創設によって、大名に関する限り、反乱の危険性は消滅した
のである。
ともかくも、明治四年七月の廃藩置県によってようやく大名という旧時代の
遺物が姿を消した。県では中央から派遣された県令が政治を司ることになった。
これによって、日本全国に中央政府の威令が届くようになった。
廃藩置県の翌年、明治五年ぐらいから本格的に明治政府が本格的に始動
しはじめたのである。
教育に関していえば、学校令は明治五年の施行である。
その前までは、実質は大名家である藩があり、武士もいたのである。
したがって明治になって数年の間は、教育も寺子屋や私塾や藩校に
よって行われていた。 明治維新当時、 276藩のうち 215藩が藩校を開設していた。
幕末の争乱の中で制度改革に着手したところもあり、教育内容を変える藩校も
多かったあった。国学(皇学とも言った)を教えるとか、あるいは洋学を教える
ところも出てきた。
藩校は当初8歳ぐらいから15歳ぐらいの子弟を対象にした漢学塾のようなもので
あったが、幕末に近くなると剣術を中心とする教練所の性格を帯びるようになった。
長州藩の藩校明倫館の槍術・剣術道場である有備館は現在も残っている。
pleasure-bit.com/698.html
剣は文久2年から江戸の斉藤弥九郎の神道無念流を藩の公式流派とした。
斉藤道場の高弟たちが萩まで指導に来ていたのである。
他に水戸の弘道館が北辰一刀流であるのは有名である。
年齢も22歳ぐらいまでの者を対象にするようになり、漢学を終えた者に洋学や
西洋兵学などの教育を施した。
例えば山口藩(萩)は藩校明倫館に洋学を取り入れた。下関戦争(1863−64年)で
列強の強さを知ったためである。その後も藩としては尊皇攘夷を唱えながら、
海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備を近代化しようとしていた。
福井藩では安政四年(1857)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、
洋学と西洋兵学を教えていた。松平春嶽が開明的であったためである。 土佐藩などは、もともと教授館(こうじゅかん)という藩校があったが、時代に対応
した子弟教育をするため、文久2年(1862)、到道館という藩校を設立している。
教育内容は剣術の他、砲術や練兵や貝太鼓といった軍事関係のものが多かった。
actland.jp/contents/kobako/11.html
(リンクされないときはhttp://を頭に付ける)。
明治元年、新政府が今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、藩校の中に
西洋医学校を設立する藩が相次いだ。
藩校は廃藩置県でその存立の基礎を失い、ほとんどは消滅したが、医学校等で
県に引き継がれたものもあった。しかし明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来
府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。
これによって藩校由来の学校のほぼすべてが消滅した。
鹿児島では鹿児島医学校として存続させたが西南戦争で廃校となる。
佐賀の好生館病院など、病院という形で残ったものがいくつかあった。
熊本では時習館設立の翌年、再春館という医学校が設立された。
これは時代的に漢方医を養成するための学校で、幕末に各藩で作られた西洋
医学校とは性格を異にする。 >>234
>>232 です。私の意見具申と第3者からの反応を、「自演」呼ばわりで罵り、「黙って俺様の駄文を読め」という態度は、
さぞかし楽しいことでしょう。あなたのことを、もう少し世間一般に存在する、「常識人」だと思った私が悪いのですね。
それはともあれ、「学窮の徒」という存在は、「世に用いられない研究者」のことですが、そのような生き方まで否定は
しません。どうぞ今後ともそのプライドを保ったまま、「孤高の存在」として、「俺様式駄文書き」に専念して下さい。
いずれにせよここは、サイバー空間における「トイレの落書き」なのですから、何を書こうがあなたの自由です。ただ、
ここで人文科学系学術議論をするべき有用な御高説が出てきたとしても、誰にも相手してもらえず、雨ざらしのまま
で放置される可能性があることを鑑みると、あなたがやっているアプローチの仕方を残念に思う次第です。 >長文さん
時間がある時に読んでるが、興味深いので続けていいよ。
確かに連続投稿には驚いたけど、どうでもよい短文のやりとりよりはるかに良い。 擁護者は一人。
レスが付かないことからもアンチが多いのを自覚すべき。 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>245 >>246
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| また自演が始まったようだな…
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( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いてるのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 >>249
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| また自演認定妄想が始まったな…
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/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いているのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 >>246
擁護とかアンチとか、実に下らん
嵐初心者だなw >>251
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| またよくエサに釣られるクマだな…
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/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もうみんな気付いてるのにね。
┴ | ヽ. \_____________
し___)〜 上田晋也やウド鈴木のような平たい顔がTHE 百姓顔
本物の武家は彫りが深い せんせー、どちらかと言えば彫りが浅いように見える坂本龍馬はどちらに分類されますか? 鍋島氏の男系は少弐氏だけど、祖先の武藤資頼の出自が不詳
松平氏の徳阿弥とならんで謎の人物 >>256
せんせー再度質問いいですか。郷士と武士の境界はどこにあるのでしょう。
例えば、伊賀者無足人は一応武士扱いされてたように記憶していますが…。 >>230
228ですが先祖は坊さんです
勉強になります。ありがとうございました >>249 〜 >>252
A.A.で自演とはよくやるわ。ふざけすぎだろ。
長文がどうしたとか言う資格ないわな。
子供かよ
−−−−−−
「学制」は明治5年8月に発布された日本で最初の学校制度に関する基本法令である。
この「学制」は百九章よりなる大部な法令であり、「学校の事(小学・中学・大学)」、
「教員の事」「学費の事」などに分けて規定されている。
● 学校は大・中・小の概念で分けられている。
● 尋常小学は下等4年、上等4年に分けられている。
● 尋常小学という名称の由来は何か。尋常とは普通の、という意味。
「学制」には小学校の種類として、尋常小学校のほか女子小学校や村落小学校、さらに
貧人小学校なども規定されていた。
村落小学は僻(へき)遠の村落において教則を少し省略して教えるものとし、多くは
夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。
貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によって授業料もなく、
文房具等も支給しようというものであった。
これら特殊の小学校に対して「尋常」と名付けられたのである。 「学制」は、制度面ではフランスの公教育制度をほとんどそのまま導入したものである。
(教育の内容面ではアメリカの影響が強い。)。
18世紀後半の産業革命以降、イギリスやフランスは都市プロレタリアートの貧困化という
問題を抱えていた。街はスラム化し、子供達は教育も受けずに過酷な労働に従事し、犯罪に
走る者も多かった。こうした子供達にも初等教育を受けさせるべく、貧人小学校というものが
創案されたのである。
一方、農村では子供達は10歳程度になると大人と同じような重労働に従事していた。
文盲の多いフランスの農村では、子供を小学校にやろうとしない親も多かった。
村落小学校は、こうした農村の特殊事情に対応すべく考え出されたもので、授業時間数を
減らし農繁期は休みにする等、農村生活との妥協を図ったものであった。
これらは本国でも試験的に導入されただけで終わり、日本に移入されることはなかった。
しかし、こうした特殊な小学校がなければ、日本の小学校が尋常小学校と名付けられる
ことはなかった。「尋常」はフランス語のコモン(Commun)の訳だったわけである。
学制の実施によって全国に多数の小学校がつくられた。
明治8年の小学校数は約2万4千3百。
それから30年経った明治38年でも2万7千4百だから、制度開始3年にして
ほぼ必要数を充たしていたといえる。
ちなみに平成17年の小学校数は2万3千ほどである。 学校設立の費用はどうしたかというと、学制の原案作成の段階で文部省が予算に計上
するつもりでいたが、大蔵省が強い反対を示した。結局費用については審議も何も
なされず、未決定のままで発布された。
予算の裏付けもないまま、学校を作れという法令だけが出されたのである。
学校設立の費用は土地の有力者などから寄付を募って工面するしかなかった。
さらに学校の運営費まで地元負担だった。
しかし住民が教師を勝手に決めることはできなかった。
公教育制度が始まって30年近く、授業料は親が負担した。
(ただし親が授業料を支払えないことを戸長が証明して無償とすることは可能だった。)
授業料が無償となったのは明治33年の小学校令改訂公布からである。
現代の感覚からすると公教育は無償が当たり前だが、そうではなかったのである。
小学校の実態は学制が想定したものとはほど遠かった。
大半は寺子屋を母体にした小規模校だった。
学制は下等小学校4年、上等小学校4年で、学齢を6歳から13歳までと定めていたが、
下等だけの小学校がほとんどであった。
学齢の点では4、5歳から入ってくる子供も多く、さらに20歳ぐらいの者もいて、年齢が
雑多なままに机を並べていた。
東京の市街地では、立派な校舎に正規の教員を集めて高い授業料をとるものが多かった。
設立の寄付をした金持ちたちが、自分の子を貧乏人の子と一緒にするのを嫌がった
ためでもある。貧しい家の子供たちは寺子屋に通った。 明治10年の広重によるといわれる「東京小学校教授双録」。
明治10年以前に東京に設置されていた44の学校を紹介した双六である。
開智小学校のような建物は東京では珍しくなかった。
一番下の右側の「東京師範学校」が振り出しになっている。
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/sugoroku/1-03.html
非常に近代的で豪華な建物である。
貧乏人の子供が行けるような小学校ではなかったことが分かるはずである。
東京でも立派な建物ばかりではない。いわんや地方においておやである。
明治8年の時点で、明治以降に新築された小学校は18%、残りの82%は
間借りであった。寺の空き部屋を借りたり、馬小屋を改造したりしたものもあった。
寺子屋を借り、師匠がそのまま先生に、というパターンが一番多かっただろう。
旧城下町などでは小学校設立とともに多数の私塾が開設された。
小学校へ行けば士族も平民も一緒だが、士族と平民の同席をどちらの親も嫌がった
のである。基本的に、士族の子が私塾に、町民の子が寺子屋に通ったのだろう。
ただ、明治維新の頃から、寺子屋と並んで私塾に通う子供が多くなっていた。
商人の子であれば、十歳ぐらいまで習字塾で字を習い、その後そろばん塾に通うという
ような形である。寺子屋なのか私塾なのか明確でないものもあった。
城下町に塾が多かったのは失業した武士たちが塾を開いたという理由ももちろんあった
だろう。 松本の開智学校は、商人たちの寄付によって作られた。もともと松本には材木商が
多かったが、幕末明治にかけて大火が何度も起こり、その度に材木商は巨額の利益を
得ていた。また、大火の経験から、松本の商人たちは漆喰塗り蔵造りの家を建てる
ようになっていた。漆喰塗りの左官たちの技術は絶頂に達していた。
資金と技術とがあったため、疑似洋館造りの学校を作ることができたのである。
商人の資金によって作られたため、ここで学ぶ子弟は商人の子供が多かったと
思われる。おそらく授業料も高かったと思われ、貧窮する一方の士族の子は通うことは
困難だったのではないか。
疑似洋館の小学校に通うなど、ごくごく一部の子供たちだけだった。
相変わらず寺子屋に通う子供も多かったため、文部省も一定の条件を満たした寺子屋を
小学校として認めざるを得なかった。
当時の小学校の中には、江戸時代からの寺子屋そのままで運営されていたものも
相当数あったということである。小学校という名前で寺子屋式の授業をやっているという
のが実態であった。 学制が公布された翌年の明治6年、就学率はどの程度だったかというと、男子が約40%、
女子が約15%。合計すると30%に充たない。学校に来るのは三人に一人以下であった。
江戸時代、寺子屋に通った子供がどの程度いたかというと、男子の場合は期間の長短を
問わなければほぼすべての子供が通っただろうと言われている。
明治になって学制を敷いた結果、就学率はかえって下がってしまったわけである。
その原因は、小学校が授業料を徴集したことである。
江戸時代の寺子屋は(都市の金持ちの子供相手のものを除き)ほぼ無償であった。
しかし、教育は有償というのが当たり前になり、寺子屋を支えていた地元有力者も
小学校を支援するようになる。無償の寺子屋は消えていき、小学校の就学率は
上がっていった。
明治12年で男子の就学率は58%を越え、女子は23%近くになる。
明治23年には男子が65%、女子が30%、その後急速に上昇していき、明治33年の
小学校令改正で授業料が無償になると特に女子の就学率が伸びた。
明治末年ごろには男女とも就学率100%となる。 教員は、講習所や教員伝習所などで短期間の訓練を受けた寺子屋の師匠や士族の青年
たちであった。
明治五年に東京師範学校、翌年に大阪と仙台に、その翌年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
これらは後の府県立師範学校と区別して、官立師範学校と呼ばれるようになる。
その後、東京師範学校ただ一校を残し、それ以外の官立師範学校はすべて廃校になった。
その一方で府県立の師範学校がどんどん作られていった。
東京師範学校を頂点とするヒエラルキーを構築しようとしたためと思われる。
たとえば大阪では明治8年、それまでに有った講習所、教員伝習所をまとめて
大阪府師範学校が設立された。一方で明治11年に官立大阪師範学校は廃校となった。
これが戦後の新学制まで続く教員養成体制の原型である。 >>259
>>257 です。遅レス失礼 風呂→飯→酔 で離席しました、相済みません。
そうですか、私の記憶が間違ってたということで、伊賀市役所に別途問い合わせてみます。お世話様でした。 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>259 先生
>>267 です。よく眠ったので酔いが覚めました。(笑)
とりあえず、「伊賀市史第2巻通史編近世(三重県伊賀市編纂/以下史料1)」と「伊賀国における郷土集落
と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」の二つを入手しました。(ネット社会は便利ですね)
伊賀国の無足人に関する記述はというと、「藤堂藩には、無足人と称される郷士がおり、藩によって帯刀を
許可されていた。(史料1−89ページ)」また、「無足人とは知行地をもたない準士分のことをいう。このよう
な存在のことを多くの藩では郷士と呼称したが、藤堂藩では無足人と呼称した。(史料2−229ページ)」
次に、「無足人同士の養子縁組はよいが、無足人と百姓との養子縁組はいけないという定めになっていた。
(史料1−240ページ)」という記述から、少なくとも無足人は士農工商という身分制度の下で、下級といえ
ども武士扱いされていたことが分かります。
そして、「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)」で、以下のような社会システムが
規定されていたとあります。
加判奉行−郡奉行−郡代官−+−無足人頭−藪廻無足人−御目見無足人−山廻・平無足人
|
+−大庄屋−庄屋組合頭−庄屋−年寄−組頭−農民
よって、無足人(郷士)は、軽輩といえども武士階級の末端レベルを担っていたと考えるのが合理的だと考えます。
となると、>>256 の御主張「郷士は武士じゃないですから」と、>>253 の御主張「本物の武士は彫りが深い」の論拠
が少し怪しくなると思われます。これらの御主張を成立させるためには、武士にも2種類あり、「知行地を持つ武士
は本物」、「それ以外の侍は士(卒)分を持つ下級の人々」という分類を採用するのが妥当かと考えます。
とりあえず、こういう認識でよろしいでしょうか? >>270 ミスタイプがありました。すみません。
誤 : 「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)
正 : 「地方統治機構と郷士編成機構との関係図」(史料2−70ページ) 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、
昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の
名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>270
彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長 >>260 書き出し … 度量と感性がなさすぎ。これも酷評しないとね。
冬月 : 「(また自演妄想癖が)始まったな。」
・・・ (エヴァンゲリオンAA略) ・・・
碇 : 「ああ、すべてはこれからだ。(唯我独尊だとみんな気付いているからね)」 ↑
けっこう自演叩きに慣れてるじゃん(藁 藁 藁 藁 藁 藁 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ >>269
長男や長女でもなく、続柄も中途半端な間柄で襲名なんかあるの? 彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長
こういう場合は襲名があるんだな 先祖代々の土地について。
江戸時代は土地って最初はどうやって取得するの?
俺の先祖は江戸後期頃、別の藩から逃げてきて今の土地(俺が住んでる場所)に来たみたいなんだが、山とか田んぼとか大量に土地がある。 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ 東京師範学校は、他に大阪師範学校などの官立師範学校が出来るまで、単に「師範学校」と
いう名称だった。この「東京の」師範学校にアメリカ人教師を招聘、アメリカの師範学校を
モデルにした教員養成が開始された。
明治政府がモデルにした師範学校や初等教育の内容がアメリカであったのは、当時、初等
教育の最先進国がアメリカと目されていたからだ。
ヨーロッパでは伝統的に教会が子供の教育を担っていた。また、長い貴族制度の伝統から、
上流階級の子弟の教育は家庭教師によってなされる場合が多かった。
さらに、公教育が施されても、その中身はエリート主義であった。
誰にでも公教育を与えようとするアメリカの態度は、「村々に無学の戸なからしめん」とする
日本の方針に合致していた。
アメリカで初等教育の普及が熱心に行われたのは、移民の国であることから、子供にアメリカ人
としての意識を持たせ、きちんとした英語を教える必要があったためである。
オランダやドイツ、スカンジナビア、フランスからの移民など、第一世代は英語を話さない人々も
多かった。(イタリアからの移民は、1880年代からが多い。なお、ドイツ系アメリカ人・有名人
でググってみると驚く。ディカプリオとかジョニー・デップとか。)。
余談だが、アメリカにはペンシルバニア・ドイツ語という、ドイツ系移民の言葉を今でも使って
いる人々が多数いるという。フランス系のケベック語なども同様である。
日本の初等教育に最も影響を与えた「お雇い外国人」は、明治4年から14年という創生期に
活動したマリオン.M..スコットというアメリカ人である。
「日本に最初に教員養成法ならびに近代教授法方法を導入した人物として知られる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1990/1991/17/1991_17_43/_pdf 師範学校は、明治5年8月に入学試験を実施して54人の入学を許可した。
授業は同年9月からはじまった。授業の仕方は以下のようなものであった。
まずスコットの言うとおりの黒板を用意し、そこにスコットが伝えんとするところを書く。それを
通弁官が訳す。「彼の国の事をそっくり取ってやる」と待ちかまえている日本人たち(師範学校
生徒たち)が通弁の訳したところをせっせと筆記するという形であった。
ところで、教授方とは実技である。筆記してそれで終わりではない。
日本には後の小学校教則もまだ確定していなかったから、小学校でどのような授業をする
のか皆目分からなかった。課目も決まっていないのだから、内容をどんな風に教えるのか
分かるはずもない。だからアメリカの授業法をコピーするしかなかったのである。
そのためにまずアメリカの小学校の再現からはじまった。
小学校の教場は、日本のように正座でなく、机と腰掛で授業をするのでなければいけない
らしいというので、わざわざ昌平黌の畳を剥がして、穴だらけの板の間を用いたという。
(師範学校は最初は昌平坂学問所の建物を利用した。)。
生徒の中で学力優秀な者を机に座らせ、スコットがこれを小学児童とみなして小学校の
授業をやってみせた。その後、今度はその生徒役をやった生徒が先生となり、他の生徒を
児童として授業をして見せたのである。この一連の伝習を見学していた師範学校校長
諸葛信澄が明治6年、学級教授法を説明した「小学教師必携」を出版した。 明治6年2月、師範学校に練習小学校を付設した。附属小学校の前身である。
同年6月には学科を本科と予科に分け、本科は修業年限一年の師範科とした。
7年4月には在学期限を二年とした。
8年7月には予科を廃止し、予科生徒の代わりに試験生をおくこととなった。
入学希望者は年齢も経歴も様々、学力も千差万別であった。
いきなり予科生とするより、試験生として学習に耐えられるかを見た方がいいと判断した
らしい。本科生の選別はたいへんだったろうと思われる。
最初の師範学校生徒は一年で卒業すると、ただちに府県各所で行われる講習会の教師と
なり授業法を教授した。「スコットが授業→スコットの授業を真似た授業→スコットの授業を
真似た授業を受けた講習会の受講生が授業」という形で小学校の授業は行われて
いったのえある。ねずみ講のようなやり方であった。
(東京)師範学校に続いて、翌明治6年に大阪と仙台に、7年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
最初の師範学校生徒のうち優秀な者は、一年程度の学習で師範学校教授になったのである。
師範学校が東京だけでは足りなかったのは、教育できる生徒数だけの問題ではない。
当時は新橋−横浜間に鉄道が通った程度であった。交通機関が未発達で、全国の生徒を
集めるのが困難だったのである。明治5年当時は四日市から横浜まで汽船が運航されていた。
大阪の人間なら四日市まで歩いて横浜まで船で行き、そこから汽車で東京へというのが
一番早く着く方法だった。その後、京都−神戸間の鉄道が開通、さらに神戸−長崎間に
汽船が運航されるようになった。けれど東海道線の全面開通までには20年近くかかった
のである。とりあえず大阪と仙台に師範学校をつくり、立て続けに名古屋・広島・・・などに
開校していったのは必要不可欠なことであった。 終わってんなこのスレ。誰も読まない長文垂れ流し、たまに書き込む人がいても長文に埋もれてレスは無し。
どうなってんだよ >>285
あのですね、このスレッドには何種類かのヒトがいて、歴史の面白さを半減させようと日夜努力しているのです。
1.自称、高学歴で知識はあるが、長文で書き込むしか能が無く、他人の論評は一切受け付けないヒト。
2.何か意味がありそうなやりとりがあると、必ず「自演」と決めつけて、自分の優越感を満足させるヒト。
3.古代から近世に至る事象を、すべて現代の価値観でしか評価できず、反論の存在を認めないヒト。
4.社会階層の話が出ると、ヒエラルキーやファクトの存在を無視して、自説絶対主義に逃げ込むヒト。
5.世間一般常識人の書き込みに対し、知的レベルなり学歴を自分勝手に設定し、相手を見下すヒト。
6.ここに書き込まれる質問や意見を、自分に関係あろうがなかろうが、その価値を絶対認めないヒト。
7.歴史上の事実を一元的解釈することに固執して、ユーモアやウィットという手法で表現できないヒト。
…とまぁ、上記各項の属性を一つあるいは二つ以上持つ人々が、暇潰しでスレッドを無意味に伸ばし、
多くの記事を投稿することで、自分の蘊蓄こそが他者のそれより優れているという自己肯定感の確認
作業をしている訳ですから、御指摘のとおり「終わっている」という風に捉えられても仕方が無いです。
とはいえ、希望の光がまったく差さない訳でもなく、客観的エビデンスに基づいた事実確認や用語の
定義等による会話というものが、時々ですが出現します。故にここで希望を持つことはなかなか難しい
ですが、絶望的になって歴史に対する興味全部を投げ出すには、少々惜しい存在だとも考えます。
で、こういう書き込みをすると、やれ自演だの低能だの低学歴者扱いをする人が、ほぼ必ず現れます
から、それをどう受け流すかが一つのポイントになります。とどのつまり、記事の読み方を自分なりに
工夫する必要がありますので、投稿内容の理非善悪は別として、読み手を選ぶ結構厄介なスレッド
だと考えるべきでしょう。 明治維新後、戸籍を作るときに、身分制度として 皇族・華族・士族・平民 の四身分と
したのだが、その前に一時期、士族の他に卒族という身分を設けていた。
皇族・華族・士族・卒族・平民 の五身分としていたわけだ。
ここで、「卒」とは兵卒の卒。下級の兵士のこと。召使いの意味もある。
卒族として扱う人々としては、足軽や武家の奉公人たちを予定していた。
足軽とは、もともとは槍組や弓組、鉄砲組に属する雑兵と呼ばれる人たちであった。
時代が下がると、様々な末端の雑務に従事するようになった。
「書き足軽」という、行政事務を業務とする人たちもいた。
武家の奉公人とは、主君から見ると「家来の家来」であるから、「陪臣」とか股者(また
もの)と呼ばれていた人たちである。
陪臣でも仕える主人が高禄の武士だと、内部では「家老」と呼ばれていたりした。
ところで、卒族というような身分を認めると、明治の元勲の多くがこれに当て嵌まって
しまう。伊藤博文などは「中間」(ちゅうげん)だった。
中間というのは、主人の雑用係で男の女中さんのようなもの。主人が登城するときに
鋏箱に弁当を入れてお供する家来がいるが、あれが中間である。
(草履取りのような役目をする家来は小者と言った。)。
山県有朋は手明鑓(てあきやり)という、足軽より下の郷士のような身分だった。
最下級の兵士身分である。
伊東も山県も、元をただせば間違いなく卒族に分類される身分だった。 そういうこともあってか、卒族という身分はなくなり、武家関係はすべて士族という
身分に統一されることになった。
しかし、そうなると今度は本来は卒族に入るべき人の中で、士族に入る人と平民に
入る人をどう区別するかが問題になってくる。
これについては、実務上「代々世襲していた家かどうか」が基準とされていたようである。
世襲される「家」があれば士族、一代限りの勤めであれば平民とされたのである。
当主が死んだときに、跡継ぎによって相続がなされるものは「家」である。
家というものが、藩から認められているものであれば相続が許されるし、認められていな
ければ、跡継ぎがあっても相続はなされない。
重要な点は、藩の認める「家」として成立しているか否かであった。
前スレの816にこう書いた。
磯田道史 近世大名家臣団の社会構造 東京大学出版会 から抜粋した資料。
−−−−−−−−−
大名の家中は、士(侍)、徒(歩行)、足軽に三区分できる。
岡山藩の宝永四年(1707)の人口調査によると
士格の家が758で全体の19.2パーセント 家族を含めた人数 3026人
徒格の家が762で19.3パーセント 家族を含めた人数 2700人
足軽の「家」が2436で61.6パーセント 家族を含めた人数 3130人 足軽は2500ほどの「家」があるが、家族全体の人数は3000人強
士格の家族全体の数と変わらない。
一世帯あたりの家族数は1.2人程度で、これは単身者がほとんどということである。
足軽以下では一代限りの者がほとんどで、家として相続が認められるのは
一割以下であった。
足軽以下の身分の人たちは、単身で組屋敷に居住するのがほとんど。
近隣の農村に住み、通って来る者もいたようだ。
要するに足軽以下というのは近隣の農村の次男坊とか三男坊で、人別(戸籍)は
村に残し、近ければ歩いて通い、通うのが無理ならお長屋に住んで役を勤めていた
ようである。彼らが城下町において家を形成することはほとんどなかった。
−−−−−−−−−
2436戸(家)の9割以上は一代限り。残り1割に満たない、おそらく200戸程度の
家が相続を認められていた。この200戸程度の家の当主は、身分は低いが家臣団
の一部を形勢していたといえるのである。
そもそも足軽の俸給は五両二人扶持と相場が決まっていた。しかしこれでは一人で
暮らすことはできても家庭は持てない。
「家」と認められるには、まず家庭を持ち子供を育てられるだけの俸給を得ていな
ければならない。
この点、「家」を認められた足軽は、二十俵三人扶持とか、一般の足軽より多く
支給されていたのである。
俸給を多くしてもらうには、まず精勤に精勤を重ねて働きを認められなければならない。
生涯隙間無く働き、功労として俸給を上げて貰うのが先決である。
その一般より高い俸給を跡を継いだ息子も貰えるようになれば(継いだ当初は多少
減らされるのは慣例だが)、とりあえず家として認められたことになるのである。 生涯仕事一筋の足軽は独身者がほとんどである。だから養子を貰って継がせること
が多いのだが、その養子は誰もが納得する真面目で評判のよい男である必要が
ある。この場合、足軽は足軽で独自の社会を形成していたから、養子は足軽社会に
属する気心の知れた人間が最も良い。結局、同僚の次男とか甥とかが一番妥当と
いうことになる。さらに、養子を身分の高い家から貰えば、相続が認められる確率は
高くなるだろう。足軽でも存外家中の名家と繋がりがあることが多いが、それには
身分の高い家の縁者を養子にしたとか、そんな事情があるのかも知れない。
江戸時代の村では、村内の「家」を家株として把握することが行われた。
村の一員として存続しうる家を家株と言い、村の負担や諸事業は家株に担われたから、
家株の減少は村にとっても死活問題だった。
だから相互に助け合ったのだが、その努力にかかわらず潰れ百姓になる家も出た。
こうした場合、小規模農家が潰れるのを防ぐため分家を認めない村でも、
絶人株(後継者が絶えて空いた家の株)を 継ぐためであれば分家を認めた。
五人組を形成するのでも、まずはしっかりした家株の農家であることが前提であった。
要するに、家があって農業をしていれば「家」と認められるのではなかった。
これまで継続してきており、これからも継続していけるであろう家であってはじめて
家株と認められたのである。
家株であってはじめて村の中で存在も発言権も認められたのである。
実際上は、おおよそ持高三石未満では家の存続は不可能であった。
こうした小規模農家は三代も続かず村から姿を消すことになる。
だから、村の中でははじめから家株として数えられていなかった。 足軽の「家」も、農村の家株と非常によく似ている。
その足軽の家が「家」と認められていれば、その家の子が家を継いで続いてゆく。
そうでないなら、たまたまその足軽が足軽を稼業として渡世しているだけに過ぎない。
明治になって、戸籍作成の際、「代々世襲していた家かどうか」が基準とされたのは、
藩の認めた家の足軽なのか、そうでないのかを区別するためであった。
明治五年からの戸籍作成にあたり、戸長が苦労したのが、足軽身分の者の取り扱い
であった。相手は士分であると言うが、足軽とは、上記のようにほとんどの者が一代
限りの傭われ者に過ぎない。このため、「代数調べ」ということがなされたようである。
代数調べに関する書類が今でもあちこちに残っている。
単に何代に亘る奉公かということだけでなく、先祖の由緒書きなども添えられている
らしい。こうした書類は、おそらく藩庁で作ってもらったものなのだろう。
明治四年に廃藩置県がなされたといっても、即座に藩庁がなくなったわけではない。
秩禄処分が決定されたのが明治九年であるが、金録公債発行開始が明治十一年
である。藩の残務処理は継続されていたのである。 ところで、>>281の
>厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・
という見解は基本的に正しいが、武士の戸籍(?)である分限帳は、足軽について
は作成されない。分限帳に載っているのは上級武士だけである。たまに徒について
作成されたものもあるが(井伊家など)、足軽について作成されることはない。
足軽の記載は、なされても数だけである。「○○差配、足軽70名」など。
分限帳に載るのは原則として「お目見え以上」と解するのが妥当である。
お目見え以上だから、その武士の名前や先祖がどうしたとか(由緒)が問題となる
のであり、お目見え以下の徒にはその必要はない。
ましてや足軽の名前や先祖など殿様が知る必要は全く無いのである。
ただし相続の認められる足軽は、一般の足軽とは給与の額も形態も違っていた。
藩から直接家禄を頂戴していたので、藩にはそれなりの情報が届けられていたので
ある。だから代数調べも可能だったのである。
(陪臣の場合は、主家に書類を書いてもらったのだろう。)。
代数調べ関しては、次のようなことが問題となる。
足軽の家が藩から「家」と認められていない限り身分の相続はなされないというが、
一代限りといわれる雇いの足軽でも、事実上は子が跡を継ぐことが可能だった。
足軽や徒の息子は、元服前の13歳ぐらいで早くも見習いに出たようである。
今でいえば中学一年程度の子供である。
上級武士とちがって兵隊のようなものであるから、子供でも勤まらないことはない。
こういう子供がウロウロしている間に顔を覚えられ、皆に可愛がられる。
そうしているうちに父親が引退することになり、ではお前が跡をやるかということに
なる。そうやって代替わりをしていくのが普通であった。
そうだとすると、ただの足軽でも何代にも亘って奉公している者がいくらもいるのでは
ないか、これらの者が士族であると主張したらどうなるのか、という疑問がわく。 版籍奉還の後、知藩事は実収石高の十分の一、藩士の家禄は残り十分の九から
藩の経費を差し引いたものを分かつことになった。
石高の大きい家ほど家禄を大きく削られ、家臣を養っていく余裕は無くなった。
藩も、足軽を傭う余裕はなくなった。廃城令は明治六年だが、城ははやくも放置されて
いた。とうの昔に参勤交代もない。足軽など、そもそも必要がなくなっていた。
だから戸籍作成が始まった明治五年頃には、足軽や陪臣のほとんどが姿を消していた
はずである。残っていたのは家として認められていた足軽とか、主家と分かちがたく
繋がった陪臣だけだっただろう。
明治五年の段階では、まだ武士がいた。大名は廃藩置県で無くなったが、金録公債
が発行された明治十一年までは武士というものがこの世にいたのである。
だから戸籍作成の際は、その人たちを士族とすればそれでよかった。
さらに、陪臣や足軽でも、現に刀を差してそこにいる人を士族とすればいいのだから、
認定にそれほど困難はなかったはずである。ただ、世の激変で、本来士族とすべき
陪臣や足軽でも、引退したり職を変えていたような人たちもいただろう。そういう人たち
が士族とされることを望んだときに、上述の代数調べのような書類が必要だっという
ことなのではなかろうか。実際も士族認定はかなり寛容であったようである。 具体例を挙げる。(事案は幕府の同心であるが、足軽と同じと考えてよい。)。
樋口一葉の父は武士に憧れ、甲州から江戸へ出て武家奉公をし、妻を貰うと妻も
奉公して二人でコツコツと金を貯めた。その金で八丁堀同心の株を買ったが、
買ったとたんに幕府が倒れた。こうなると悲劇というより喜劇である。
しかし、それでも樋口家は士族となった。一葉は、華族や士族の娘しか入れない
萩の舎という私塾に入って和歌などを学んだ。
父親が同心株を買わなければ士族にはならず、一葉が小説を書くこともなかった
わけである。
ところで、注意すべきは一葉の父親は同心「株」を買っていたから士族になれたと
いうことである。ただ同心になっただけでは士族になれたかどうかは分からない。
「株」すなわち同心の家株を買ったから、代々相続されてきた同心の家の当主という
ことになり、それ故に士族と認定してもらえたのである。
足軽の相続が認められるか否かも、家株が出来ていたかどうかによるわけである。
最後に。足軽が武士であるかどうかなどということは、明治になって「足軽を士族と
認めうるか」という平面で問題になったにすぎない。
江戸時代に足軽が武士か、など論ずる人もいなかったろう。
足軽は足軽なのである。士分でなければ徒でもない。
士分のようなものが武士であるとすれば、足軽は武士ではない。
しかし、大小二本差しとか羽織が着れるとか、似たような部分もある。
共通点をあげていって、結局足軽も士分ではないかと言えば、その通りだと賛成
する人もいるだろう。だがそんなふうに結論づけても特段意味はない。
違うものを違うと言っても、同じようなものだと言っても、結局同じことを別の方向
から言っているに過ぎないのである。
同じ材料を使っても、結論はいずれへも導きうる。
最終的には武士というものをどう定義するかの問題にすぎない。
といっても武士の定義づけにさほどの意味はない。
歴史学は規範科学ではないのである。 上の、伊賀無足人がどうのこうの、或いは郷士がどうしたのという書き込みは、武士か
どうかという問題設定をしている時点ですでに妥当でない。さらに言うと、資料に市史を
使っているのは噴飯ものである。
市史などというものは、一般に言われているところを概説的にまとめたものにすぎない。
当たり障りのない文章を叙述したものにすぎないのである。
だいたい市史編集なんてものをさせられるのは、いわゆる窓際族のおじさんとか、
主流から外れた人たちであることは誰もが知るところである。
>>270 の人とか、何を有り難がってるのかよく分からない。
また、「伊賀国における郷土集落 と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」
というのをググってみたら、立命館の会報の論文で、修士課程の論文に手を入れたもの
だという。著者も現在研究職にあるわけでもなさそうである。ググっても何も引っかかって
こない。こんな卒両論文に毛の生えたようなものを資料にしてどうするのだろうか。
>>285 >>287 はきわめて無礼である。だから書いたのだが、ついでにもう一つ書いて
おこう。このシッタカ男は >>148 で郡史の利用を勧めているが、正気の沙汰とは思えない。
一介の庶民の出稼ぎ先だの就職先だのを調べるのに何で郡史なのか。
こんなものを調べたって役に立つわけがない。出身地の郡史を調べて、「漁業が盛ん」
ということだったら、漁業関係の出稼ぎ、ということになるのか? そもそも岡山での職業が明確に分かったって和歌山での職業特定の役には立たない。
岡山での職業と和歌山での職業が直接関係あるかは不確定なんだし。
農業やってたのが一念発起して和歌山で事業を興したという場合だってある。
どういう職業だったのか等は、移転先の和歌山で調べるのが妥当だし、まずは
移転先の住所を確定して、その住所のある場所がどんなところだったのかを調べるのが
普通だろう。その際に町史などを利用するなら理解できる。
出身地の郡史など迂遠すぎてお話にならないわ。
だいたい普通の人なら、自分のお祖父さんが何の仕事をしていたかぐらいは分かるよな。
親から聞いてる。
だったら、親は曾祖父の職業を知ってるだろ。その親から聞いてるはずだから。
その曾祖父が何故養子に行ったのかとか、養子先はどんな家だったのかなどは
やっぱり親(質問者の親)は聞いてるんじゃないのか?
普通のことじゃないからな。
それが全く分からないというなら、そういう家なんだと諦めるしかない。
そこの家の人間だって分からないものが、他人に分かるわけがない。
よその家のひい爺さんが明治時代に養子に行った先の家のことなんか、
誰が分かるっていうんだ。笑ってしまうよ。 黒田官兵衛の祖父は目薬屋だが極めて教養高い人物だったため元は高い身分の武士の家系だったと
いうのが最近の見解らしいが、それでも「それでも」、家系についての明確な伝承はないし
字が書けるだけの家なのに系図も正確に残っていない。
こういう家でも家系図のない程度の家ということなのかね? / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| よくもまあエサに釣られるクマだな…
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ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ろくでもないこと書いて、笑われると後からネタだよという馬鹿
最近多いよね うん、百姓と武家で顔が違うの珍説はマジ笑えた
また誰かやらかしてくれないかな 百姓と武家で顔が違うというのは真面目な説だ
私は感動した
珍説とは何だ馬鹿者
ふざけるのもいい加減にしろ >>304
へー、医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
くわしくおしえて、馬鹿だからわかんない なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
ひで なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
秀吉も元は地侍層かもしれない
蜂須賀は国人だと思われる
もうさ、こんなんだらけで、もうエフランガイジは歴史とか感心持つの辞めろや なら白山信仰の山伏なんか、薬学、力学、物理学、工学などあらゆる当時の知識の総合デパートだから、
山伏は皆超名門の武家だらけだな。
なら白山信仰こそ究極の戦国以前の武家の信仰だ。
江戸武士は白山信仰の奴も多いが、
もう白山信仰や山伏を非差別なんて二度と言うなよ
エフランは本当にガイジそのものだわ >>304
池沼だな
医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースだってよ
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