先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ 上田晋也やウド鈴木のような平たい顔がTHE 百姓顔
本物の武家は彫りが深い せんせー、どちらかと言えば彫りが浅いように見える坂本龍馬はどちらに分類されますか? 鍋島氏の男系は少弐氏だけど、祖先の武藤資頼の出自が不詳
松平氏の徳阿弥とならんで謎の人物 >>256
せんせー再度質問いいですか。郷士と武士の境界はどこにあるのでしょう。
例えば、伊賀者無足人は一応武士扱いされてたように記憶していますが…。 >>230
228ですが先祖は坊さんです
勉強になります。ありがとうございました >>249 〜 >>252
A.A.で自演とはよくやるわ。ふざけすぎだろ。
長文がどうしたとか言う資格ないわな。
子供かよ
−−−−−−
「学制」は明治5年8月に発布された日本で最初の学校制度に関する基本法令である。
この「学制」は百九章よりなる大部な法令であり、「学校の事(小学・中学・大学)」、
「教員の事」「学費の事」などに分けて規定されている。
● 学校は大・中・小の概念で分けられている。
● 尋常小学は下等4年、上等4年に分けられている。
● 尋常小学という名称の由来は何か。尋常とは普通の、という意味。
「学制」には小学校の種類として、尋常小学校のほか女子小学校や村落小学校、さらに
貧人小学校なども規定されていた。
村落小学は僻(へき)遠の村落において教則を少し省略して教えるものとし、多くは
夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。
貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄附金によって授業料もなく、
文房具等も支給しようというものであった。
これら特殊の小学校に対して「尋常」と名付けられたのである。 「学制」は、制度面ではフランスの公教育制度をほとんどそのまま導入したものである。
(教育の内容面ではアメリカの影響が強い。)。
18世紀後半の産業革命以降、イギリスやフランスは都市プロレタリアートの貧困化という
問題を抱えていた。街はスラム化し、子供達は教育も受けずに過酷な労働に従事し、犯罪に
走る者も多かった。こうした子供達にも初等教育を受けさせるべく、貧人小学校というものが
創案されたのである。
一方、農村では子供達は10歳程度になると大人と同じような重労働に従事していた。
文盲の多いフランスの農村では、子供を小学校にやろうとしない親も多かった。
村落小学校は、こうした農村の特殊事情に対応すべく考え出されたもので、授業時間数を
減らし農繁期は休みにする等、農村生活との妥協を図ったものであった。
これらは本国でも試験的に導入されただけで終わり、日本に移入されることはなかった。
しかし、こうした特殊な小学校がなければ、日本の小学校が尋常小学校と名付けられる
ことはなかった。「尋常」はフランス語のコモン(Commun)の訳だったわけである。
学制の実施によって全国に多数の小学校がつくられた。
明治8年の小学校数は約2万4千3百。
それから30年経った明治38年でも2万7千4百だから、制度開始3年にして
ほぼ必要数を充たしていたといえる。
ちなみに平成17年の小学校数は2万3千ほどである。 学校設立の費用はどうしたかというと、学制の原案作成の段階で文部省が予算に計上
するつもりでいたが、大蔵省が強い反対を示した。結局費用については審議も何も
なされず、未決定のままで発布された。
予算の裏付けもないまま、学校を作れという法令だけが出されたのである。
学校設立の費用は土地の有力者などから寄付を募って工面するしかなかった。
さらに学校の運営費まで地元負担だった。
しかし住民が教師を勝手に決めることはできなかった。
公教育制度が始まって30年近く、授業料は親が負担した。
(ただし親が授業料を支払えないことを戸長が証明して無償とすることは可能だった。)
授業料が無償となったのは明治33年の小学校令改訂公布からである。
現代の感覚からすると公教育は無償が当たり前だが、そうではなかったのである。
小学校の実態は学制が想定したものとはほど遠かった。
大半は寺子屋を母体にした小規模校だった。
学制は下等小学校4年、上等小学校4年で、学齢を6歳から13歳までと定めていたが、
下等だけの小学校がほとんどであった。
学齢の点では4、5歳から入ってくる子供も多く、さらに20歳ぐらいの者もいて、年齢が
雑多なままに机を並べていた。
東京の市街地では、立派な校舎に正規の教員を集めて高い授業料をとるものが多かった。
設立の寄付をした金持ちたちが、自分の子を貧乏人の子と一緒にするのを嫌がった
ためでもある。貧しい家の子供たちは寺子屋に通った。 明治10年の広重によるといわれる「東京小学校教授双録」。
明治10年以前に東京に設置されていた44の学校を紹介した双六である。
開智小学校のような建物は東京では珍しくなかった。
一番下の右側の「東京師範学校」が振り出しになっている。
http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/sugoroku/1-03.html
非常に近代的で豪華な建物である。
貧乏人の子供が行けるような小学校ではなかったことが分かるはずである。
東京でも立派な建物ばかりではない。いわんや地方においておやである。
明治8年の時点で、明治以降に新築された小学校は18%、残りの82%は
間借りであった。寺の空き部屋を借りたり、馬小屋を改造したりしたものもあった。
寺子屋を借り、師匠がそのまま先生に、というパターンが一番多かっただろう。
旧城下町などでは小学校設立とともに多数の私塾が開設された。
小学校へ行けば士族も平民も一緒だが、士族と平民の同席をどちらの親も嫌がった
のである。基本的に、士族の子が私塾に、町民の子が寺子屋に通ったのだろう。
ただ、明治維新の頃から、寺子屋と並んで私塾に通う子供が多くなっていた。
商人の子であれば、十歳ぐらいまで習字塾で字を習い、その後そろばん塾に通うという
ような形である。寺子屋なのか私塾なのか明確でないものもあった。
城下町に塾が多かったのは失業した武士たちが塾を開いたという理由ももちろんあった
だろう。 松本の開智学校は、商人たちの寄付によって作られた。もともと松本には材木商が
多かったが、幕末明治にかけて大火が何度も起こり、その度に材木商は巨額の利益を
得ていた。また、大火の経験から、松本の商人たちは漆喰塗り蔵造りの家を建てる
ようになっていた。漆喰塗りの左官たちの技術は絶頂に達していた。
資金と技術とがあったため、疑似洋館造りの学校を作ることができたのである。
商人の資金によって作られたため、ここで学ぶ子弟は商人の子供が多かったと
思われる。おそらく授業料も高かったと思われ、貧窮する一方の士族の子は通うことは
困難だったのではないか。
疑似洋館の小学校に通うなど、ごくごく一部の子供たちだけだった。
相変わらず寺子屋に通う子供も多かったため、文部省も一定の条件を満たした寺子屋を
小学校として認めざるを得なかった。
当時の小学校の中には、江戸時代からの寺子屋そのままで運営されていたものも
相当数あったということである。小学校という名前で寺子屋式の授業をやっているという
のが実態であった。 学制が公布された翌年の明治6年、就学率はどの程度だったかというと、男子が約40%、
女子が約15%。合計すると30%に充たない。学校に来るのは三人に一人以下であった。
江戸時代、寺子屋に通った子供がどの程度いたかというと、男子の場合は期間の長短を
問わなければほぼすべての子供が通っただろうと言われている。
明治になって学制を敷いた結果、就学率はかえって下がってしまったわけである。
その原因は、小学校が授業料を徴集したことである。
江戸時代の寺子屋は(都市の金持ちの子供相手のものを除き)ほぼ無償であった。
しかし、教育は有償というのが当たり前になり、寺子屋を支えていた地元有力者も
小学校を支援するようになる。無償の寺子屋は消えていき、小学校の就学率は
上がっていった。
明治12年で男子の就学率は58%を越え、女子は23%近くになる。
明治23年には男子が65%、女子が30%、その後急速に上昇していき、明治33年の
小学校令改正で授業料が無償になると特に女子の就学率が伸びた。
明治末年ごろには男女とも就学率100%となる。 教員は、講習所や教員伝習所などで短期間の訓練を受けた寺子屋の師匠や士族の青年
たちであった。
明治五年に東京師範学校、翌年に大阪と仙台に、その翌年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
これらは後の府県立師範学校と区別して、官立師範学校と呼ばれるようになる。
その後、東京師範学校ただ一校を残し、それ以外の官立師範学校はすべて廃校になった。
その一方で府県立の師範学校がどんどん作られていった。
東京師範学校を頂点とするヒエラルキーを構築しようとしたためと思われる。
たとえば大阪では明治8年、それまでに有った講習所、教員伝習所をまとめて
大阪府師範学校が設立された。一方で明治11年に官立大阪師範学校は廃校となった。
これが戦後の新学制まで続く教員養成体制の原型である。 >>259
>>257 です。遅レス失礼 風呂→飯→酔 で離席しました、相済みません。
そうですか、私の記憶が間違ってたということで、伊賀市役所に別途問い合わせてみます。お世話様でした。 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>259 先生
>>267 です。よく眠ったので酔いが覚めました。(笑)
とりあえず、「伊賀市史第2巻通史編近世(三重県伊賀市編纂/以下史料1)」と「伊賀国における郷土集落
と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」の二つを入手しました。(ネット社会は便利ですね)
伊賀国の無足人に関する記述はというと、「藤堂藩には、無足人と称される郷士がおり、藩によって帯刀を
許可されていた。(史料1−89ページ)」また、「無足人とは知行地をもたない準士分のことをいう。このよう
な存在のことを多くの藩では郷士と呼称したが、藤堂藩では無足人と呼称した。(史料2−229ページ)」
次に、「無足人同士の養子縁組はよいが、無足人と百姓との養子縁組はいけないという定めになっていた。
(史料1−240ページ)」という記述から、少なくとも無足人は士農工商という身分制度の下で、下級といえ
ども武士扱いされていたことが分かります。
そして、「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)」で、以下のような社会システムが
規定されていたとあります。
加判奉行−郡奉行−郡代官−+−無足人頭−藪廻無足人−御目見無足人−山廻・平無足人
|
+−大庄屋−庄屋組合頭−庄屋−年寄−組頭−農民
よって、無足人(郷士)は、軽輩といえども武士階級の末端レベルを担っていたと考えるのが合理的だと考えます。
となると、>>256 の御主張「郷士は武士じゃないですから」と、>>253 の御主張「本物の武士は彫りが深い」の論拠
が少し怪しくなると思われます。これらの御主張を成立させるためには、武士にも2種類あり、「知行地を持つ武士
は本物」、「それ以外の侍は士(卒)分を持つ下級の人々」という分類を採用するのが妥当かと考えます。
とりあえず、こういう認識でよろしいでしょうか? >>270 ミスタイプがありました。すみません。
誤 : 「地方統治機構と郷士編成寄稿との関係図」(史料2−70ページ)
正 : 「地方統治機構と郷士編成機構との関係図」(史料2−70ページ) 父方母方関わらず、近い親戚の名前をそのまま使い回しってパターンがよくあるんだけど、
昔は一般的だったの?
祖母の名前を孫につけるパターンが2件、叔母の名を姪につけるパターンが1件、兄貴の
名前を弟につけるパターンが1件。
いずれも二人が同時に生きていたことは無く、年上の人の死後に年下の人に名付けられている。 >>270
彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長 >>260 書き出し … 度量と感性がなさすぎ。これも酷評しないとね。
冬月 : 「(また自演妄想癖が)始まったな。」
・・・ (エヴァンゲリオンAA略) ・・・
碇 : 「ああ、すべてはこれからだ。(唯我独尊だとみんな気付いているからね)」 ↑
けっこう自演叩きに慣れてるじゃん(藁 藁 藁 藁 藁 藁 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ >>269
長男や長女でもなく、続柄も中途半端な間柄で襲名なんかあるの? 彫りが深いというか目鼻立ちがはっきりしてる
あと面長
こういう場合は襲名があるんだな 先祖代々の土地について。
江戸時代は土地って最初はどうやって取得するの?
俺の先祖は江戸後期頃、別の藩から逃げてきて今の土地(俺が住んでる場所)に来たみたいなんだが、山とか田んぼとか大量に土地がある。 郷士は藩によりけり。武士たる薩摩藩の郷士や戦国期の大名の旧臣がなんとなく郷士と自称(黙認)されてたりとか・・・
厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・ 東京師範学校は、他に大阪師範学校などの官立師範学校が出来るまで、単に「師範学校」と
いう名称だった。この「東京の」師範学校にアメリカ人教師を招聘、アメリカの師範学校を
モデルにした教員養成が開始された。
明治政府がモデルにした師範学校や初等教育の内容がアメリカであったのは、当時、初等
教育の最先進国がアメリカと目されていたからだ。
ヨーロッパでは伝統的に教会が子供の教育を担っていた。また、長い貴族制度の伝統から、
上流階級の子弟の教育は家庭教師によってなされる場合が多かった。
さらに、公教育が施されても、その中身はエリート主義であった。
誰にでも公教育を与えようとするアメリカの態度は、「村々に無学の戸なからしめん」とする
日本の方針に合致していた。
アメリカで初等教育の普及が熱心に行われたのは、移民の国であることから、子供にアメリカ人
としての意識を持たせ、きちんとした英語を教える必要があったためである。
オランダやドイツ、スカンジナビア、フランスからの移民など、第一世代は英語を話さない人々も
多かった。(イタリアからの移民は、1880年代からが多い。なお、ドイツ系アメリカ人・有名人
でググってみると驚く。ディカプリオとかジョニー・デップとか。)。
余談だが、アメリカにはペンシルバニア・ドイツ語という、ドイツ系移民の言葉を今でも使って
いる人々が多数いるという。フランス系のケベック語なども同様である。
日本の初等教育に最も影響を与えた「お雇い外国人」は、明治4年から14年という創生期に
活動したマリオン.M..スコットというアメリカ人である。
「日本に最初に教員養成法ならびに近代教授法方法を導入した人物として知られる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1990/1991/17/1991_17_43/_pdf 師範学校は、明治5年8月に入学試験を実施して54人の入学を許可した。
授業は同年9月からはじまった。授業の仕方は以下のようなものであった。
まずスコットの言うとおりの黒板を用意し、そこにスコットが伝えんとするところを書く。それを
通弁官が訳す。「彼の国の事をそっくり取ってやる」と待ちかまえている日本人たち(師範学校
生徒たち)が通弁の訳したところをせっせと筆記するという形であった。
ところで、教授方とは実技である。筆記してそれで終わりではない。
日本には後の小学校教則もまだ確定していなかったから、小学校でどのような授業をする
のか皆目分からなかった。課目も決まっていないのだから、内容をどんな風に教えるのか
分かるはずもない。だからアメリカの授業法をコピーするしかなかったのである。
そのためにまずアメリカの小学校の再現からはじまった。
小学校の教場は、日本のように正座でなく、机と腰掛で授業をするのでなければいけない
らしいというので、わざわざ昌平黌の畳を剥がして、穴だらけの板の間を用いたという。
(師範学校は最初は昌平坂学問所の建物を利用した。)。
生徒の中で学力優秀な者を机に座らせ、スコットがこれを小学児童とみなして小学校の
授業をやってみせた。その後、今度はその生徒役をやった生徒が先生となり、他の生徒を
児童として授業をして見せたのである。この一連の伝習を見学していた師範学校校長
諸葛信澄が明治6年、学級教授法を説明した「小学教師必携」を出版した。 明治6年2月、師範学校に練習小学校を付設した。附属小学校の前身である。
同年6月には学科を本科と予科に分け、本科は修業年限一年の師範科とした。
7年4月には在学期限を二年とした。
8年7月には予科を廃止し、予科生徒の代わりに試験生をおくこととなった。
入学希望者は年齢も経歴も様々、学力も千差万別であった。
いきなり予科生とするより、試験生として学習に耐えられるかを見た方がいいと判断した
らしい。本科生の選別はたいへんだったろうと思われる。
最初の師範学校生徒は一年で卒業すると、ただちに府県各所で行われる講習会の教師と
なり授業法を教授した。「スコットが授業→スコットの授業を真似た授業→スコットの授業を
真似た授業を受けた講習会の受講生が授業」という形で小学校の授業は行われて
いったのえある。ねずみ講のようなやり方であった。
(東京)師範学校に続いて、翌明治6年に大阪と仙台に、7年には名古屋、広島、長崎、新潟
に師範学校が設立される。
最初の師範学校生徒のうち優秀な者は、一年程度の学習で師範学校教授になったのである。
師範学校が東京だけでは足りなかったのは、教育できる生徒数だけの問題ではない。
当時は新橋−横浜間に鉄道が通った程度であった。交通機関が未発達で、全国の生徒を
集めるのが困難だったのである。明治5年当時は四日市から横浜まで汽船が運航されていた。
大阪の人間なら四日市まで歩いて横浜まで船で行き、そこから汽車で東京へというのが
一番早く着く方法だった。その後、京都−神戸間の鉄道が開通、さらに神戸−長崎間に
汽船が運航されるようになった。けれど東海道線の全面開通までには20年近くかかった
のである。とりあえず大阪と仙台に師範学校をつくり、立て続けに名古屋・広島・・・などに
開校していったのは必要不可欠なことであった。 終わってんなこのスレ。誰も読まない長文垂れ流し、たまに書き込む人がいても長文に埋もれてレスは無し。
どうなってんだよ >>285
あのですね、このスレッドには何種類かのヒトがいて、歴史の面白さを半減させようと日夜努力しているのです。
1.自称、高学歴で知識はあるが、長文で書き込むしか能が無く、他人の論評は一切受け付けないヒト。
2.何か意味がありそうなやりとりがあると、必ず「自演」と決めつけて、自分の優越感を満足させるヒト。
3.古代から近世に至る事象を、すべて現代の価値観でしか評価できず、反論の存在を認めないヒト。
4.社会階層の話が出ると、ヒエラルキーやファクトの存在を無視して、自説絶対主義に逃げ込むヒト。
5.世間一般常識人の書き込みに対し、知的レベルなり学歴を自分勝手に設定し、相手を見下すヒト。
6.ここに書き込まれる質問や意見を、自分に関係あろうがなかろうが、その価値を絶対認めないヒト。
7.歴史上の事実を一元的解釈することに固執して、ユーモアやウィットという手法で表現できないヒト。
…とまぁ、上記各項の属性を一つあるいは二つ以上持つ人々が、暇潰しでスレッドを無意味に伸ばし、
多くの記事を投稿することで、自分の蘊蓄こそが他者のそれより優れているという自己肯定感の確認
作業をしている訳ですから、御指摘のとおり「終わっている」という風に捉えられても仕方が無いです。
とはいえ、希望の光がまったく差さない訳でもなく、客観的エビデンスに基づいた事実確認や用語の
定義等による会話というものが、時々ですが出現します。故にここで希望を持つことはなかなか難しい
ですが、絶望的になって歴史に対する興味全部を投げ出すには、少々惜しい存在だとも考えます。
で、こういう書き込みをすると、やれ自演だの低能だの低学歴者扱いをする人が、ほぼ必ず現れます
から、それをどう受け流すかが一つのポイントになります。とどのつまり、記事の読み方を自分なりに
工夫する必要がありますので、投稿内容の理非善悪は別として、読み手を選ぶ結構厄介なスレッド
だと考えるべきでしょう。 明治維新後、戸籍を作るときに、身分制度として 皇族・華族・士族・平民 の四身分と
したのだが、その前に一時期、士族の他に卒族という身分を設けていた。
皇族・華族・士族・卒族・平民 の五身分としていたわけだ。
ここで、「卒」とは兵卒の卒。下級の兵士のこと。召使いの意味もある。
卒族として扱う人々としては、足軽や武家の奉公人たちを予定していた。
足軽とは、もともとは槍組や弓組、鉄砲組に属する雑兵と呼ばれる人たちであった。
時代が下がると、様々な末端の雑務に従事するようになった。
「書き足軽」という、行政事務を業務とする人たちもいた。
武家の奉公人とは、主君から見ると「家来の家来」であるから、「陪臣」とか股者(また
もの)と呼ばれていた人たちである。
陪臣でも仕える主人が高禄の武士だと、内部では「家老」と呼ばれていたりした。
ところで、卒族というような身分を認めると、明治の元勲の多くがこれに当て嵌まって
しまう。伊藤博文などは「中間」(ちゅうげん)だった。
中間というのは、主人の雑用係で男の女中さんのようなもの。主人が登城するときに
鋏箱に弁当を入れてお供する家来がいるが、あれが中間である。
(草履取りのような役目をする家来は小者と言った。)。
山県有朋は手明鑓(てあきやり)という、足軽より下の郷士のような身分だった。
最下級の兵士身分である。
伊東も山県も、元をただせば間違いなく卒族に分類される身分だった。 そういうこともあってか、卒族という身分はなくなり、武家関係はすべて士族という
身分に統一されることになった。
しかし、そうなると今度は本来は卒族に入るべき人の中で、士族に入る人と平民に
入る人をどう区別するかが問題になってくる。
これについては、実務上「代々世襲していた家かどうか」が基準とされていたようである。
世襲される「家」があれば士族、一代限りの勤めであれば平民とされたのである。
当主が死んだときに、跡継ぎによって相続がなされるものは「家」である。
家というものが、藩から認められているものであれば相続が許されるし、認められていな
ければ、跡継ぎがあっても相続はなされない。
重要な点は、藩の認める「家」として成立しているか否かであった。
前スレの816にこう書いた。
磯田道史 近世大名家臣団の社会構造 東京大学出版会 から抜粋した資料。
−−−−−−−−−
大名の家中は、士(侍)、徒(歩行)、足軽に三区分できる。
岡山藩の宝永四年(1707)の人口調査によると
士格の家が758で全体の19.2パーセント 家族を含めた人数 3026人
徒格の家が762で19.3パーセント 家族を含めた人数 2700人
足軽の「家」が2436で61.6パーセント 家族を含めた人数 3130人 足軽は2500ほどの「家」があるが、家族全体の人数は3000人強
士格の家族全体の数と変わらない。
一世帯あたりの家族数は1.2人程度で、これは単身者がほとんどということである。
足軽以下では一代限りの者がほとんどで、家として相続が認められるのは
一割以下であった。
足軽以下の身分の人たちは、単身で組屋敷に居住するのがほとんど。
近隣の農村に住み、通って来る者もいたようだ。
要するに足軽以下というのは近隣の農村の次男坊とか三男坊で、人別(戸籍)は
村に残し、近ければ歩いて通い、通うのが無理ならお長屋に住んで役を勤めていた
ようである。彼らが城下町において家を形成することはほとんどなかった。
−−−−−−−−−
2436戸(家)の9割以上は一代限り。残り1割に満たない、おそらく200戸程度の
家が相続を認められていた。この200戸程度の家の当主は、身分は低いが家臣団
の一部を形勢していたといえるのである。
そもそも足軽の俸給は五両二人扶持と相場が決まっていた。しかしこれでは一人で
暮らすことはできても家庭は持てない。
「家」と認められるには、まず家庭を持ち子供を育てられるだけの俸給を得ていな
ければならない。
この点、「家」を認められた足軽は、二十俵三人扶持とか、一般の足軽より多く
支給されていたのである。
俸給を多くしてもらうには、まず精勤に精勤を重ねて働きを認められなければならない。
生涯隙間無く働き、功労として俸給を上げて貰うのが先決である。
その一般より高い俸給を跡を継いだ息子も貰えるようになれば(継いだ当初は多少
減らされるのは慣例だが)、とりあえず家として認められたことになるのである。 生涯仕事一筋の足軽は独身者がほとんどである。だから養子を貰って継がせること
が多いのだが、その養子は誰もが納得する真面目で評判のよい男である必要が
ある。この場合、足軽は足軽で独自の社会を形成していたから、養子は足軽社会に
属する気心の知れた人間が最も良い。結局、同僚の次男とか甥とかが一番妥当と
いうことになる。さらに、養子を身分の高い家から貰えば、相続が認められる確率は
高くなるだろう。足軽でも存外家中の名家と繋がりがあることが多いが、それには
身分の高い家の縁者を養子にしたとか、そんな事情があるのかも知れない。
江戸時代の村では、村内の「家」を家株として把握することが行われた。
村の一員として存続しうる家を家株と言い、村の負担や諸事業は家株に担われたから、
家株の減少は村にとっても死活問題だった。
だから相互に助け合ったのだが、その努力にかかわらず潰れ百姓になる家も出た。
こうした場合、小規模農家が潰れるのを防ぐため分家を認めない村でも、
絶人株(後継者が絶えて空いた家の株)を 継ぐためであれば分家を認めた。
五人組を形成するのでも、まずはしっかりした家株の農家であることが前提であった。
要するに、家があって農業をしていれば「家」と認められるのではなかった。
これまで継続してきており、これからも継続していけるであろう家であってはじめて
家株と認められたのである。
家株であってはじめて村の中で存在も発言権も認められたのである。
実際上は、おおよそ持高三石未満では家の存続は不可能であった。
こうした小規模農家は三代も続かず村から姿を消すことになる。
だから、村の中でははじめから家株として数えられていなかった。 足軽の「家」も、農村の家株と非常によく似ている。
その足軽の家が「家」と認められていれば、その家の子が家を継いで続いてゆく。
そうでないなら、たまたまその足軽が足軽を稼業として渡世しているだけに過ぎない。
明治になって、戸籍作成の際、「代々世襲していた家かどうか」が基準とされたのは、
藩の認めた家の足軽なのか、そうでないのかを区別するためであった。
明治五年からの戸籍作成にあたり、戸長が苦労したのが、足軽身分の者の取り扱い
であった。相手は士分であると言うが、足軽とは、上記のようにほとんどの者が一代
限りの傭われ者に過ぎない。このため、「代数調べ」ということがなされたようである。
代数調べに関する書類が今でもあちこちに残っている。
単に何代に亘る奉公かということだけでなく、先祖の由緒書きなども添えられている
らしい。こうした書類は、おそらく藩庁で作ってもらったものなのだろう。
明治四年に廃藩置県がなされたといっても、即座に藩庁がなくなったわけではない。
秩禄処分が決定されたのが明治九年であるが、金録公債発行開始が明治十一年
である。藩の残務処理は継続されていたのである。 ところで、>>281の
>厳密には戸籍が村方にあれば農民、藩側にあれば武士と・・・
という見解は基本的に正しいが、武士の戸籍(?)である分限帳は、足軽について
は作成されない。分限帳に載っているのは上級武士だけである。たまに徒について
作成されたものもあるが(井伊家など)、足軽について作成されることはない。
足軽の記載は、なされても数だけである。「○○差配、足軽70名」など。
分限帳に載るのは原則として「お目見え以上」と解するのが妥当である。
お目見え以上だから、その武士の名前や先祖がどうしたとか(由緒)が問題となる
のであり、お目見え以下の徒にはその必要はない。
ましてや足軽の名前や先祖など殿様が知る必要は全く無いのである。
ただし相続の認められる足軽は、一般の足軽とは給与の額も形態も違っていた。
藩から直接家禄を頂戴していたので、藩にはそれなりの情報が届けられていたので
ある。だから代数調べも可能だったのである。
(陪臣の場合は、主家に書類を書いてもらったのだろう。)。
代数調べ関しては、次のようなことが問題となる。
足軽の家が藩から「家」と認められていない限り身分の相続はなされないというが、
一代限りといわれる雇いの足軽でも、事実上は子が跡を継ぐことが可能だった。
足軽や徒の息子は、元服前の13歳ぐらいで早くも見習いに出たようである。
今でいえば中学一年程度の子供である。
上級武士とちがって兵隊のようなものであるから、子供でも勤まらないことはない。
こういう子供がウロウロしている間に顔を覚えられ、皆に可愛がられる。
そうしているうちに父親が引退することになり、ではお前が跡をやるかということに
なる。そうやって代替わりをしていくのが普通であった。
そうだとすると、ただの足軽でも何代にも亘って奉公している者がいくらもいるのでは
ないか、これらの者が士族であると主張したらどうなるのか、という疑問がわく。 版籍奉還の後、知藩事は実収石高の十分の一、藩士の家禄は残り十分の九から
藩の経費を差し引いたものを分かつことになった。
石高の大きい家ほど家禄を大きく削られ、家臣を養っていく余裕は無くなった。
藩も、足軽を傭う余裕はなくなった。廃城令は明治六年だが、城ははやくも放置されて
いた。とうの昔に参勤交代もない。足軽など、そもそも必要がなくなっていた。
だから戸籍作成が始まった明治五年頃には、足軽や陪臣のほとんどが姿を消していた
はずである。残っていたのは家として認められていた足軽とか、主家と分かちがたく
繋がった陪臣だけだっただろう。
明治五年の段階では、まだ武士がいた。大名は廃藩置県で無くなったが、金録公債
が発行された明治十一年までは武士というものがこの世にいたのである。
だから戸籍作成の際は、その人たちを士族とすればそれでよかった。
さらに、陪臣や足軽でも、現に刀を差してそこにいる人を士族とすればいいのだから、
認定にそれほど困難はなかったはずである。ただ、世の激変で、本来士族とすべき
陪臣や足軽でも、引退したり職を変えていたような人たちもいただろう。そういう人たち
が士族とされることを望んだときに、上述の代数調べのような書類が必要だっという
ことなのではなかろうか。実際も士族認定はかなり寛容であったようである。 具体例を挙げる。(事案は幕府の同心であるが、足軽と同じと考えてよい。)。
樋口一葉の父は武士に憧れ、甲州から江戸へ出て武家奉公をし、妻を貰うと妻も
奉公して二人でコツコツと金を貯めた。その金で八丁堀同心の株を買ったが、
買ったとたんに幕府が倒れた。こうなると悲劇というより喜劇である。
しかし、それでも樋口家は士族となった。一葉は、華族や士族の娘しか入れない
萩の舎という私塾に入って和歌などを学んだ。
父親が同心株を買わなければ士族にはならず、一葉が小説を書くこともなかった
わけである。
ところで、注意すべきは一葉の父親は同心「株」を買っていたから士族になれたと
いうことである。ただ同心になっただけでは士族になれたかどうかは分からない。
「株」すなわち同心の家株を買ったから、代々相続されてきた同心の家の当主という
ことになり、それ故に士族と認定してもらえたのである。
足軽の相続が認められるか否かも、家株が出来ていたかどうかによるわけである。
最後に。足軽が武士であるかどうかなどということは、明治になって「足軽を士族と
認めうるか」という平面で問題になったにすぎない。
江戸時代に足軽が武士か、など論ずる人もいなかったろう。
足軽は足軽なのである。士分でなければ徒でもない。
士分のようなものが武士であるとすれば、足軽は武士ではない。
しかし、大小二本差しとか羽織が着れるとか、似たような部分もある。
共通点をあげていって、結局足軽も士分ではないかと言えば、その通りだと賛成
する人もいるだろう。だがそんなふうに結論づけても特段意味はない。
違うものを違うと言っても、同じようなものだと言っても、結局同じことを別の方向
から言っているに過ぎないのである。
同じ材料を使っても、結論はいずれへも導きうる。
最終的には武士というものをどう定義するかの問題にすぎない。
といっても武士の定義づけにさほどの意味はない。
歴史学は規範科学ではないのである。 上の、伊賀無足人がどうのこうの、或いは郷士がどうしたのという書き込みは、武士か
どうかという問題設定をしている時点ですでに妥当でない。さらに言うと、資料に市史を
使っているのは噴飯ものである。
市史などというものは、一般に言われているところを概説的にまとめたものにすぎない。
当たり障りのない文章を叙述したものにすぎないのである。
だいたい市史編集なんてものをさせられるのは、いわゆる窓際族のおじさんとか、
主流から外れた人たちであることは誰もが知るところである。
>>270 の人とか、何を有り難がってるのかよく分からない。
また、「伊賀国における郷土集落 と地域構造(五十嵐勉・歴史地理学会/以下史料2)」
というのをググってみたら、立命館の会報の論文で、修士課程の論文に手を入れたもの
だという。著者も現在研究職にあるわけでもなさそうである。ググっても何も引っかかって
こない。こんな卒両論文に毛の生えたようなものを資料にしてどうするのだろうか。
>>285 >>287 はきわめて無礼である。だから書いたのだが、ついでにもう一つ書いて
おこう。このシッタカ男は >>148 で郡史の利用を勧めているが、正気の沙汰とは思えない。
一介の庶民の出稼ぎ先だの就職先だのを調べるのに何で郡史なのか。
こんなものを調べたって役に立つわけがない。出身地の郡史を調べて、「漁業が盛ん」
ということだったら、漁業関係の出稼ぎ、ということになるのか? そもそも岡山での職業が明確に分かったって和歌山での職業特定の役には立たない。
岡山での職業と和歌山での職業が直接関係あるかは不確定なんだし。
農業やってたのが一念発起して和歌山で事業を興したという場合だってある。
どういう職業だったのか等は、移転先の和歌山で調べるのが妥当だし、まずは
移転先の住所を確定して、その住所のある場所がどんなところだったのかを調べるのが
普通だろう。その際に町史などを利用するなら理解できる。
出身地の郡史など迂遠すぎてお話にならないわ。
だいたい普通の人なら、自分のお祖父さんが何の仕事をしていたかぐらいは分かるよな。
親から聞いてる。
だったら、親は曾祖父の職業を知ってるだろ。その親から聞いてるはずだから。
その曾祖父が何故養子に行ったのかとか、養子先はどんな家だったのかなどは
やっぱり親(質問者の親)は聞いてるんじゃないのか?
普通のことじゃないからな。
それが全く分からないというなら、そういう家なんだと諦めるしかない。
そこの家の人間だって分からないものが、他人に分かるわけがない。
よその家のひい爺さんが明治時代に養子に行った先の家のことなんか、
誰が分かるっていうんだ。笑ってしまうよ。 黒田官兵衛の祖父は目薬屋だが極めて教養高い人物だったため元は高い身分の武士の家系だったと
いうのが最近の見解らしいが、それでも「それでも」、家系についての明確な伝承はないし
字が書けるだけの家なのに系図も正確に残っていない。
こういう家でも家系図のない程度の家ということなのかね? / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| よくもまあエサに釣られるクマだな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ろくでもないこと書いて、笑われると後からネタだよという馬鹿
最近多いよね うん、百姓と武家で顔が違うの珍説はマジ笑えた
また誰かやらかしてくれないかな 百姓と武家で顔が違うというのは真面目な説だ
私は感動した
珍説とは何だ馬鹿者
ふざけるのもいい加減にしろ >>304
へー、医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
くわしくおしえて、馬鹿だからわかんない なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
ひで なんだかなあ、、
黒田は教養が高いから名門の可能性
秀吉も元は地侍層かもしれない
蜂須賀は国人だと思われる
もうさ、こんなんだらけで、もうエフランガイジは歴史とか感心持つの辞めろや なら白山信仰の山伏なんか、薬学、力学、物理学、工学などあらゆる当時の知識の総合デパートだから、
山伏は皆超名門の武家だらけだな。
なら白山信仰こそ究極の戦国以前の武家の信仰だ。
江戸武士は白山信仰の奴も多いが、
もう白山信仰や山伏を非差別なんて二度と言うなよ
エフランは本当にガイジそのものだわ >>304
池沼だな
医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースだってよ
プッ 顔立ちも、
江戸以降の武士は庶民からでていて、
一介の藩士と庶民層にはほとんど変わらない類似点が多すぎて話にならない。
法医学が言ってる武士は上級武士(高家や旗本、大名)は庶民と違うと言っている。
庶民も堀が深いと言っており、
逆にノッペリは上級支配層に多いと言ってる
この堀の形成の最大のものは、実は遺伝性以上に食べ物とも。 >>280
今住んでる場所がどこか分からないので何とも言えないが
江戸時代、栃木や茨城なんかには北陸からたくさんの農民が移住してるよ >>311
食生活の関係で顎が小さくて現代人に似た顔だったんだろ、環境性の変化だよ >>316
そう、あと脂肪率
平百姓以下や下級武士の栄養率の問題
かなり栄養不足なため、元はノッペリでも、
目も窪み、筋張る
見た目の目鼻立ちなんてかなり栄養率が関係 してる モンゴル人は肉を大量に食べてるし乳製品も豊富に摂る。
酒だって馬乳酒とかだった。
それだって顔はノッペリしてる。栄養なんか関係あるかよボケ 源氏も平氏も天皇家の分家なんだからのっぺりしてて当然じゃない? >>308 >>309
エフランなら大学行ったということだろ。そのレベルですらない。
リアル厨房とか中卒ボケ爺さんレベル
>>267 なんて市役所に問い合わせるなんて言ってるんだぜ
ここまで猛烈に頭悪いと逆に爽快だわ
>>306 なんか
>医学的調査結果で統計学上有意差が認められる日本政府公認データの1次ソースがあるんだ
とか言ってる。学問的データに日本政府公認て何だよww もう壊滅的に馬鹿 >>319
臣籍降下したらもはや分家ですらないし、
朝廷降下した源氏や平の戸籍管理なんか一切してないから、家系図詐欺が横行できたんだが?
そもそも源氏なんてどこに源氏の総領経基と血統的近似性が保たれている証拠あんだよ?
公然に詐欺してオッケーの家系図すら、
二代目満仲でもはや生年月日から母親まで不の有様なのに、馬鹿じゃね? 訂正
朝廷は、降下した源氏の戸籍管理なんか一切してない さらに訂正
二代目満仲の時点で生年月日から母親まで詳細が、全く不明という有様 >>314
なんで? ってお前、
幕藩体制中期以降、都市商業の発展と農村荒廃を背景として広範な人口移動が
見られたのは常識レベルの知識だろうが
帰農令とか人返しの法とか学校で教わったろ
寛政の改革とか天保の改革とか 言葉だけでも知らないのか?
「人返し」ってのは都市に流入しちゃった農民を在所に帰すということだけじゃなくて
他領に逃げた農民を取り戻すため、勝手に移住した者を領主間の交渉で
召還することを含むんだよ。
逃散しちゃった農民を追跡して他領に居るのを見つけて、そこの領主に「俺んとこに
返してくれや」と掛け合ったりしたのだ。
そういう交渉もうまくいくばかりではないから、
農村が無人になる前に他領から新しく農民を移入させる。
そういうのに間引きが盛んかどうか(間引きをやらない地域では人が余っている)とか
いろんな理由がからんで、けっこう人口移動が盛んだったのだ
こんなことも知らないのか
義務教育で習うようなことも知らない馬鹿は来るなよ
特別支援学級じゃねえよw >>324
いや、なぜ北関東だったのか聞いたんだが?
発達の読解力を遺憾なく発揮されてもなあ
まあでも懇切丁寧にありがとう。 コミュニケーション能力にちょっと問題があるようだな
なんで? だけで 「なぜ北関東だったのか」と聞いたことになるのか
発達の文章力を遺憾なく発揮してくれてもなあ・・・
まあ後から考えた言い訳なんだろうけど。一生懸命にご苦労さん。 2chは玉石混淆だからな・・・それなりに妥当性があればチクチクやらなくても http://hist-geo.jp/img/archive/021_175.pdf
何故北関東かと言われても、最初はコネクションがあったからとか人脈がどうしたとか
しか言いようがない。多少浄土真宗が絡んでいるので、「仏縁」というべきか(笑
しかし、一旦北陸からの移民があった後は、秘密のルートとでもいうべきものが出来て、
長い間にかなりの数の農民が移入してきている。論文は寛政期から明治初期までに
限っているが、移住ということだけなら大正時代まで続くという。
村は現在の栃木や茨城のほぼ全範囲に分布しているといっても過言でない。
福島にも移住しているが、論文は栃木・茨城の延長線上の現象と捉え割愛している。
偶然ともいうべきキッカケで始まったものではあるが、理屈をつければそれなりの理屈が
付く。まず、真岡への移入は、天領であったことが最大の理由だろう。
他国の百姓を受け入れてしまうのだから、悶着が起こるのは当然予想される。
しかし、百姓が逃げ出して来るのは越後高田近在。あちらも天領、こちらも天領。
一番問題が少ないパターンだろう。
一方で、茨城の方面は、当初は笠間であった。笠間は譜代とはいえ大名領である。
そして百姓が逃散してくるのは加賀から。あちらの大名にとっては違法行為である。
大名同士となると話はそう簡単でない。
ただ加賀藩は外様で、最も幕府に気を使っている大名である。
表だって喧嘩はすまいという見込みがある。
とはいいながら、実際も加賀からの百姓の移住には往来手形を偽造するなど、かなり
慎重な配慮もしている。おっかなびっくりだったようで、真岡に比べると数も少ない。
あと、さすがに江戸の近郊で他藩の逃散百姓受け入れなんてことをやったらマズイだろう。
その点、真岡とか笠間などは、当時江戸からみたら北方の山裾で、どうでもいいような田舎
であった。
あと、常陸の宍戸藩なども同じようなことをしているが、こちらは水戸藩の連枝である。
怖いもの無しだったろうと思われる。 >>320
先生、こちらは壊滅的に馬鹿だからマジで分かんないことばっかりです
馬鹿につける薬がないならあきめますが、先生ならいろいろ高度な知識がおありでしょうから
できればおしえていただきたいので、少々ものをお伺いしてもかまいませんか
公に認められる医学的データで、厚労省が認定した臨床データ以外のものがあるんですよね
でも、学会誌にある論文は卒論に毛が生えたようなものだから信用したら駄目という人もいるし
百姓と武家で顔が違うことを証明できる学問的データが、どこから出てくるか全然分かりません
壊滅的な馬鹿でも分かるような解説をしていただけたら嬉しいです どうぞよろしくお願いします 上に示した論文(pdf)の末尾に参考文献はたくさん並んでるけど、
「北陸・関東移民」でググれば資料はいくらでも出てくるよ。
天明の大飢饉が一番大きな打撃だったのだけど、うち続く冷夏長雨で
洪水も頻繁に起こり、低湿地は荒れ地のようになってしまった。
江戸時代は寒冷化がすごい。
関東の人口減少もすごい。
逃散は御法度だし、そこをどうやって逃げだしたのか。
道中をどうやってやって来れたのか。
他国人が村に入って田や畑を手に入れる過程。
やはり移住がうまくいかず、そうかといって戻れば罰せられるだけ。
より山奥や荒蕪地に入っていく農民たち。
スリリングで息をもつがせない事実の連続である。
面白いといったら何だが、少し興味を持っても損はないと思う。
北陸の人間は関東人に比べて根性あるな、と。
それから浄土真宗というのは特別の宗派である。
戦国の石山合戦とか見るまでもなく、何だか不気味なまでに強靱。
あとネットワーク力が半端ではない。
北陸人が村に同化していくところは富山の薬売りを彷彿とさせるところがあるな。
上の論文にも書かれているが、北陸の人というのは全然故郷にこだわりを
持たないな。真宗という宗教の力なのか何なのか分からないが何とも不思議。
北陸というのは陰湿で意地悪で居心地も悪く、どこでもいいから他国へ行きたく
なるような場所だという人もいるなワハハw
三重大学の教授やってる人が若い頃に調べたことを軽く書いてるページ
面白いわ
http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/index.html なお、加賀藩の農民というから石川県かと思うと大間違い。
今の富山県礪波郡の農民が多いという。
富山は真ん中あたりが富山藩で西も東も加賀藩領だった。
茨城に来た農民たちは越中富山の人たちであった。 >>324教科書的学者脳では自由な移動はできず、した場合は無戸籍へ落ちるじゃないの? https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/open_imgs/info/0000000093_0000027078.pdf
相馬中村藩への南砺地方農民の移住について
相馬中村藩には現市町村名で 南砺市や砺波・小矢部市などから九千人弱、
最終的には一万人ほどの入植があったようである。
こんな狭い地域で一万人というのだから、茨城県全域だとどれほど入植したか
分からない。
相馬中村藩というのは、現在の南相馬市、相馬市。
津波と原発の被害を受けちゃった地域だな。 相馬中村藩は、加賀藩農民の移入だけでなく、南部最上地方で女買い入れをしている。
南部藩は天明の大飢饉による人口減少が最も激しかった藩の一つだが、女の方が
飢餓に強いらしく、男に比べて女の方が多く生き残った。
女余り現象が起きていたのである。
女をたくさん連れてきて、嫁のない家に配った。 老中として後に寛政の改革と称される諸政策を実施した松平定信は、田安家の三男で
八代吉宗の孫にあたる。奥州白河の松平家に養子に入り、藩の立て直しに成功した。
この手腕を評価され老中となったのである。
定信が養子となって(婿さんに入ったのだが)、白河にお国入りして一番驚いたのは、
白河には女がいないことであった。もともと当時は女が少なかった。
当時の人口推計によると、女性は男性の70%程度しかいなかったようだ。
間引きの対象となるのは女の赤ん坊が多かったためである。
白河では定信が驚いたぐらいだから、平均的な数値よりはるかに少なかったのだろう。
50%もいなかったのかも知れない。
家々には、歳をとった男たちが独身のままで暮らしているのが目立った。
そこで定信は、越後にある白河藩の飛び地から女を呼び寄せることを企画した。
当時の言葉で「女買い入れ」という。
越後から若い女が続々とやってきたので、片端から農家に嫁入りさせた。
嫁配りをしたのである。 定信は人口減少の原因である間引きをやめさせる方法として、巫女を使った。
領内には「市女」(いちめ。巫女。沖縄のユタや恐山のイタコのようなもの)というものが
いて、死者を憑依させて口寄せをしていた。
この市女にク使を添えて村々を廻り、間引きされた赤ん坊の口寄せをさせて女どもに
聞かせたのである。
死んだ子供の泣き声や恨み言を聞いて、女たちは衝撃を受けた。
越後から女たちを呼び寄せたのも、越後の女たちは間引きの習慣がないという
ことが理由の一つだった。越後女がよい影響を与えるだろうと期待したのである。
その他、僧侶に「受苦図」を持って廻村して地獄で責め苦にあう様を示したりした。
これらの方法で一応はその目的を達したということである。
ほぼ同時期に、米沢藩では有名な上杉鷹山が領民の間引きを禁じ、違反者に対する
処分方法を決め、育児資金を設けて極貧者には給付することとした。
その結果、鷹山の晩年には嬰児虐殺の風習が全くやんだということであり、それを
聞いた他の大名が「こればかりでも名君なり。大功かな。」と賞賛したということである。
どの大名も間引きによる人口減少には悩んでいたということが分かる逸話である。 間引き対策には、天領を預かる幕府の代官たちも心を砕いている。
上に出てきた下野真岡の代官竹垣三右衛門直温はさまざまな功績を残したが、
間引き対策が重要な事蹟となっている。
間引き対策と越後からの農民の移入は、一連の人口対策であったようである。
美作と備中の代官であった早川八郎左右衛門正紀は、任地である美作・久世と
備中・笠岡に赴いたときに、いたるところの川端や堰溝に古い茣蓙(ござ)の苞(つと)
があるのを見た(ツトとは納豆の藁苞など、花の蕾のような形に包んだもの)。
怪しんで調べてみると、いずれも圧殺した嬰児を包んだものであった。
男子には扇子、女子には杓子(しゃもじ)を付けてあり、その惨状に目を覆ったという。
扇子は今でも男の子の七五三に付きものであり、末広がりで目出度いということと、
昔は身分の高い人から何かを貰うときは扇子で受けたことから、お金をたくさん貰える
(稼げる)ようにという願いが込められている。
杓子はご飯をよそるものであるところから、生涯食べ物に困らないようにという願いが
こめられたものである。子供のお七夜(生まれて七日目の祝)などに新品の杓子で米を
盛って食べさせる真似をする儀式などがあった。 >>280 は「逃げる百姓 追う大名 江戸の農民獲得合戦」 宮崎 克則 (中公新書) |
という本を読むといいよ
現状に耐えかねて、あるいはより良い生活を求めて、村を捨てて逃げ去る百姓を
「走り百姓」というのだが、江戸時代はこの「走り」による人口移動が想像以上に
盛んだったようである。
もともと藩と藩や天領との境界などは勝手に決められたもので、それより先に
物資流通や通婚など文化的・経済的に一体化した地域圏というものがあった。
そういうものを無視して一つの地域が分断されることも無数にあったわけである。
百姓たちは黙って土地に縛りつけられてはいなかった。嫌だと思えば逃げる。
逃げるといっても無闇に逃げるのではなく、協力者もいれば受け入れ先も
あることが多かった。
年貢や夫役の負担者である百姓が逃げれば困るから、領主は必死になって
その防止策を考える。厳罰による脅しもあれば甘言もあった。
逃げた先の領主は働き手が飛び込んでくるのだから大歓迎である。
逃げられた方はそのままにしておけないから取り戻しをはかる。
相手方領主と喧嘩腰の取り戻し交渉をする場合もある。
それもたいへんだから、走り百姓の親戚に七日以内に連れ戻してこい、
それができなかったらお前ら全員同罪、などと命令したりする。
五人組にみんなで行って連れ戻してこい、連れ戻せなければ打ち首だ、などと脅し、
一方で連れて帰れば銀10枚、などと言ったりする。
どこまでも追いかけろという命令も多い。これは、一度は連れ戻しに出かけるが、
「あいつは逃げた先からまたどこか遠くへ逃げてしまいましたー」と報告して
終わりにしようとする追跡者が多かったためである。
逃げた百姓本人にも厳罰が定められているのに、帰ってこい、帰ってきたら
褒美をやろう、さらに一年間作り取り(年貢なし)にしてやるぞ、などと甘い条件を示す
(親戚とかに言わせるのだが)。
とにかく、江戸時代のイメージがくつがえるぞ。 >>308
これって最近の有力な説だろ??大学閥かなんかで喧々諤々なの? 江戸時代の農民たちの洪水対策
防水林
家の周囲に太いケヤキを何十本も植えておく。
もちろん水は防げないが、流れをやわらげ、家が流されてしまうのを
ふせぐことができたらしい。
水塚
屋敷内に土砂で高い塚を築き、そこに納屋や蔵を建てる。
常時そこに食料や燃料、水、衣類などを置いておいた。
いざというときはそこで寝泊まりした。
洪水になると井戸は泥や汚物まみれになって使えなくなるので、
水の保管は大切だった。水瓶の中に木炭を入れて保存したりした。
避難用船
小舟を一艘は持ち、ふだんは軒下に吊したり水塚に置いたりしていた。
水見の水防役
村には水防組というのがあって土手で水勢を監視した。
緊急事態には早鐘を鳴らした。
空き俵やむしろ、大量の棒杭、縄などを入れた水防小屋もあった。
消防団の先祖のようなもの。田畑への水門を締める水門役というのもあった。
水かさというのは急激に増えるので、水門役は半分水没したような水門でも
締めにいかねばならない。命がけであった。 くわぜんしばり
薪やくわぜ(桑の枝)などの燃料が濡れると、それらが乾くまで煮炊きができなく
なるので絶対に濡らさないようにしなければならない。
縄でしばって軒下にしっかりと固定し、醤油のもろみ樽は太い綱で梁から吊した。
箪笥は梁の上に置いた。
肥や肥料も流されたらたいへんなので、梁から肥桶を吊り下げたりしたらしい。
割り地
洪水の後は田も畑もみな泥流を被って誰の土地か分からなくなってしまう。
その時は専門家を呼んで測量しなおし境界を画定しなおした。
そのことを割り地といった。 江戸時代には洪水を防ぐ堤防がないか、有っても低い堤防しかなかった。
低い堤防というのは、溢れることを前提にして、洪水の量を減らすための堤防である。
あちこちで低い堤防から水を溢れさせて水勢を殺ぎ、下流の方で一気に大洪水になる
のを防ぐ工夫であった。
洪水になったときのために、川の流域は広く開けてあった。
そこは放っておけば自然の湿原や荒れ地となる。
それでは勿体ないので、そこで耕作する者を募った。募ったというより、希望者は多く、
入札で一番高く権利を競り落とした者が一年間利用できるのであった。
一つの村にこういう場所が何カ所もあった。
いつ流れてもおかしくないので、「流れ作場」と呼ばれた。
ここで田を作る者もいれば、畑にする者もいる。一面の茅場にする者もいた。
萱は必需品だったのでいい値で売れたのだという。
たまたま洪水にならなければ大した収入になったものだという。
たぶん農家の次男や三男などが親に金を出してもらって一か八かの勝負に出ることが
多かったと思われる。
当てれば田を買って独立できるかも知れないのである。
もちろん洪水になれば万事終わりであった。
だが簡単に諦めるわけにもいかない。
水が増してきても、少しでも収穫しようとして流される者が後を絶たなかったという。
流される者を助けようとして水見の者も流されたというような話も多い。 >>138
坊さんには名字が無いわけじゃなくて、坊主には名字がないという
タテマエになってただけだ。
坊主は俗世を捨てたわけだから名字も名前も捨てる。
名字を名乗ることはない。ということになってるんだが、親に名字があれば
子にだってあるさ。
お百姓は名字を名乗れなかったが、公的に名乗れないだけで、ほとんどの人は
名字を持っていた。それと同じかな。
ただ、明治になって国民皆姓となったときに、俗人と同じ名字じゃ勿体がつかないと
考えたのか、変な名字にした僧が多い。寺院姓とかいうらしい。
何代も坊主をやっているうちに名字が分からなくなってしまって寺院姓にした坊さんの
家などもあったかも知れない
ご先祖が坊主じゃなくて山伏なら名字があって当然だ。
山伏は僧ではなく俗人だから。
あと僧兵は名字があるのが普通。実体は武士だったので。
会津藩なら溝口派一刀流だな。
ウィキにもあるよ。もう知ってるか
お宅のご先祖は、教官としてきちんと姓を名乗らなければならなかったので
名字を名乗ったのだろう。僧としてではなく武術師範として出仕していたのだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています