先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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>>308
これって最近の有力な説だろ??大学閥かなんかで喧々諤々なの? 江戸時代の農民たちの洪水対策
防水林
家の周囲に太いケヤキを何十本も植えておく。
もちろん水は防げないが、流れをやわらげ、家が流されてしまうのを
ふせぐことができたらしい。
水塚
屋敷内に土砂で高い塚を築き、そこに納屋や蔵を建てる。
常時そこに食料や燃料、水、衣類などを置いておいた。
いざというときはそこで寝泊まりした。
洪水になると井戸は泥や汚物まみれになって使えなくなるので、
水の保管は大切だった。水瓶の中に木炭を入れて保存したりした。
避難用船
小舟を一艘は持ち、ふだんは軒下に吊したり水塚に置いたりしていた。
水見の水防役
村には水防組というのがあって土手で水勢を監視した。
緊急事態には早鐘を鳴らした。
空き俵やむしろ、大量の棒杭、縄などを入れた水防小屋もあった。
消防団の先祖のようなもの。田畑への水門を締める水門役というのもあった。
水かさというのは急激に増えるので、水門役は半分水没したような水門でも
締めにいかねばならない。命がけであった。 くわぜんしばり
薪やくわぜ(桑の枝)などの燃料が濡れると、それらが乾くまで煮炊きができなく
なるので絶対に濡らさないようにしなければならない。
縄でしばって軒下にしっかりと固定し、醤油のもろみ樽は太い綱で梁から吊した。
箪笥は梁の上に置いた。
肥や肥料も流されたらたいへんなので、梁から肥桶を吊り下げたりしたらしい。
割り地
洪水の後は田も畑もみな泥流を被って誰の土地か分からなくなってしまう。
その時は専門家を呼んで測量しなおし境界を画定しなおした。
そのことを割り地といった。 江戸時代には洪水を防ぐ堤防がないか、有っても低い堤防しかなかった。
低い堤防というのは、溢れることを前提にして、洪水の量を減らすための堤防である。
あちこちで低い堤防から水を溢れさせて水勢を殺ぎ、下流の方で一気に大洪水になる
のを防ぐ工夫であった。
洪水になったときのために、川の流域は広く開けてあった。
そこは放っておけば自然の湿原や荒れ地となる。
それでは勿体ないので、そこで耕作する者を募った。募ったというより、希望者は多く、
入札で一番高く権利を競り落とした者が一年間利用できるのであった。
一つの村にこういう場所が何カ所もあった。
いつ流れてもおかしくないので、「流れ作場」と呼ばれた。
ここで田を作る者もいれば、畑にする者もいる。一面の茅場にする者もいた。
萱は必需品だったのでいい値で売れたのだという。
たまたま洪水にならなければ大した収入になったものだという。
たぶん農家の次男や三男などが親に金を出してもらって一か八かの勝負に出ることが
多かったと思われる。
当てれば田を買って独立できるかも知れないのである。
もちろん洪水になれば万事終わりであった。
だが簡単に諦めるわけにもいかない。
水が増してきても、少しでも収穫しようとして流される者が後を絶たなかったという。
流される者を助けようとして水見の者も流されたというような話も多い。 >>138
坊さんには名字が無いわけじゃなくて、坊主には名字がないという
タテマエになってただけだ。
坊主は俗世を捨てたわけだから名字も名前も捨てる。
名字を名乗ることはない。ということになってるんだが、親に名字があれば
子にだってあるさ。
お百姓は名字を名乗れなかったが、公的に名乗れないだけで、ほとんどの人は
名字を持っていた。それと同じかな。
ただ、明治になって国民皆姓となったときに、俗人と同じ名字じゃ勿体がつかないと
考えたのか、変な名字にした僧が多い。寺院姓とかいうらしい。
何代も坊主をやっているうちに名字が分からなくなってしまって寺院姓にした坊さんの
家などもあったかも知れない
ご先祖が坊主じゃなくて山伏なら名字があって当然だ。
山伏は僧ではなく俗人だから。
あと僧兵は名字があるのが普通。実体は武士だったので。
会津藩なら溝口派一刀流だな。
ウィキにもあるよ。もう知ってるか
お宅のご先祖は、教官としてきちんと姓を名乗らなければならなかったので
名字を名乗ったのだろう。僧としてではなく武術師範として出仕していたのだから。 上の寺院姓の例
釈由美子の「釈」 釈迦の意味
廃仏毀釈の釈だよ うちの高祖父母、1860年と1866年生まれで1878年に長男が生まれてる。
誕生日迎える前なので11歳で初産。昔とは言えさすがに信じられない。
ただ、1866年寅年生まれで名前がとら、43歳になるまで産み続けているから年齢を過小申告しているとは考えにくい。
だとすれば、他人が生んだ子を偽って届け出たのだろうか・・・?
ただ、それには何のメリットもないし考えれば考えるほどわからない。
小学校教員やってるが、6年生なんか発育も精神も子供そのもので、出産に耐えたり、嫁の仕事や子育てなんか出来るとは思えない。
背景で言うと高祖母は女ばかりの長女、高祖父は婿養子。
家が滅びる前にと焦って早い内から婿を入れたら、婿がロリコンで早いうちに妊娠しちゃったって流れだろうか。
いくら江戸時代〜明治初期でも10代前半の出産は特殊だよね? 11歳で産んだ子どもが男の子か女の子かによって異なる。
男の子だと、高祖母の母親が産んだ子の可能性がある。
それまで産んだ子どもが女の子ばかりだった→長女に婿をとった、であったのが
婿をとった後で男の子が生まれたので、その子を娘夫婦の長男として届け出て、
確実に惣領息子として後を継げるようにした。
そうでないと、娘夫婦に後で男の子が生まれた後で揉めるだろうからね。
女の子だと別の可能性を考えないといけないな。
丙寅の年でなくて丙寅の月に生まれたということも考えられる。
そうすると二歳年上で13歳で産んだことになるはず。
壬申戸籍作成より前に生まれているので、戸籍を作る際、「この子は寅だ」と言ったら
寅年ということで年齢計算された可能性もないわけじゃない。
前田利家の妻まつは11歳で初産で長女を産んでいるので、11歳で出産はないこともない。 >>372
初産は男子ですわ。高祖母の母親が40歳、父親は年齢は判らんが存命中なのでありえない話ではないかも。
高祖母の兄弟にも年齢かぶりがいないし。
2番目の子供(長女)もややこしくて、当初明治20年生まれとあるのに、明治17年、しかもまったく違う月日に変更がなされている。「生年月日変更ノ許可ヲ得テ」のみで詳しい事情はわからない。
役所に聞いてみたら、生年月日の変更は変更後の年月日が絶対に正しいと言う証拠が無い限り絶対にしないからまずあり得ないとのこと。
確かに、生年月日そのものが間違いでもっと年長だったのが一番可能性高そうだけど、そうすると長男と末弟の年の差が31歳も開いてるのが不可能に、なってくる。
何かもう内の家系ワケわからなすぎw 明治四年に成立した法律で、明治五年から戸籍が作られる。これが壬申戸籍。
壬申戸籍は明治19年まで作成・使用される。
明治19年(10月15日)に新しい法令規則に基づいて戸籍簿が作られるようになる。
この明治19年式戸籍が現在我々が読むことのできる一番古い戸籍。
明治19年式戸籍は、その前の壬申戸籍を書き写す形で作成していくわけで、しかも
その間にも人が死んだり生まれたり、結婚したり離婚したり、転入してきたり転出したり。
(たしか明治19年式戸籍は今日の住民票と一体で、引っ越すと戸籍が着いていくんじゃ
なかったと思う。)。
壬申戸籍からの移記と毎日の窓口での届け出を重複しながら作っていくんだから
間違いも起こりやすかっただろう。
長女の記載は当初明治20年ということなのだから、まさに明治19年式戸籍作成中。
書き写し係と窓口担当が分かれていればいいけど、もしかしたら小さな役場で書き写しを
やったり窓口で出生届けを受け付けたりと一人二役だったかも。
これを忙しくやってるうちにゴチャゴチャして、長女の欄を書き写しているときに、その日に
届けられた形で記載してしまったのかも知れない。
一年後ぐらいに父親が気づき、文句を言いに行く。壬申戸籍は閉鎖されているわけだが、
それは形式上で書き写しが終わっていないかも知れないし、移し間違いの心配もあるので
そのまま使われていたと思われる。
壬申戸籍は差し替え式(バインダー式)じゃなくて本とかノートとかと同じ冊子方式だった
のでこの点扱いは楽だわな。
長女を連れて行って、ほれこの子だ。一歳に見えるか、よく見てみろとか言われて、壬申
戸籍にあたってみると明治17年に出生届を受け付けて戸籍作成。
こうなるとさすがに逃げられないので生年月日を変更した、、、
というようなことじゃないのかな。
明治17年生まれというと母親は18歳ぐらい。このあたりで初産というのが自然かも。 あと、娘がまだ10歳ぐらいで婿をとったからには事情があるに決まっている。
だいたいこういう場合は父親が死んだとか働けなくなったという事情。
高祖母の父親は、何かの病気とか怪我で農業ができない体になってしまったのかも知れない。
そうなると一家の生活が成りたたなくなるので、急遽働き手として婿を取ったということでは。
婿というのは労働力としてしか扱われていなくて(あと、もちろん種馬的な面も)、11歳の娘の
婿ということにされても、実際に娘の夫として扱われたかは疑問だ。
いいか、娘はまだ子供だからな。妙なこと仕掛けるんじゃないぞ。こんな小さな体で
胎んだら死んでしまうからな。
一方娘に、 今夜からカーチャンと寝ようなー。
てなもんじゃなかったか。 >>377
読み返したらまた意味不明だわ。
一行目→明治20年8月5日(訂正前の誕生日と同じ) 生年月日変更の許可を得て(ここで終了)
二行目→明治37年1月17日 生年月日変更の許可を得て明治20年8月5日を明治17年10月27日と訂正す。
とあるんです・・・明治20年8月5日に何があったんだろう。
明治37年はちょうど二十歳の歳だから、おっしゃるようなことが起きた可能性は高いですよね。 どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ どうでも良いとか言い出したらこのスレの存在意義すらなくなるぞw 明治37年の記載があるなら明治19年式戸籍ではない。
あなたが入手したのは明治31年式戸籍(のコピー)。
(突っ込む奴がいると困るから正確に書くと、デジタルデータのプリントアウト。)。
記載の各人ごと(下の欄)に「父」「母」の小さな欄がついているやつな。
これだと、壬申戸籍 → 明治19年式 → 明治31年式 と、壬申戸籍から
二回転記されていることになる。
それとも19年式と31年式の両方入手したのかな、、、
明治20年8月5日という出生の日付は、「生年月日変更の許可を得て」なされたもの
なのだから、変更前の生年月日があるはず。
それは明治20年という変更の記載がなされた日付からして、明治19年以前の記載
だろう。とすると壬申戸籍に書かれた日付と考える他はない。
壬申戸籍には長女の生年月日を明治17年10月27日と記載してあったのだろう。
明治20年8月5日というと、まさに明治19年式戸籍の作成作業の真っ最中である。
新しい戸籍簿の作成は、旧い戸籍簿からの転記によってなされるのだから、役人が
壬申戸籍をせっせと転記していた。日本中の役所の戸籍係がその作業をやっていた。
その際、ウッカリミスで出生日をその日の日付にしてしまったと考えるのが一番自然だろう。
このミスは、届け出の日付の記載から一見して明白に転記の際のミスと読み取れる
ものだったのではないか。
(明治37年の扱いから考えて届け出の日付が明治17年のものだった、とか)。
担当者がこのミスに気づいたかどうかは分からないが、そのままになってしまった。 だが、通常はそのままで済まない。子供が満で六歳になると小学校への入学通知書が
送られてくる(当時の就学は年齢主義。四月以降七歳になる子供、といった現在のような
扱いではない。)。このときに親が通知が来ないと役所に問い合わせに行ったかも知れない。
しかし、そのときに役人は「そういう届け出になっておる。」とか言って突っぱねたのではないか。
明治23年当時だと、女子の小学校就学率は30%ほどなので、そのまま有耶無耶になって
しまったのかも知れない。
しかし、役人としては届出の日付が出生日より三年も前などという不合理な記載を放置
しておくわけにはいかないので、「生年月日変更の許可を得て変更」との文言を記入しておいた。
戸籍の記載を変更するには、現在は家庭裁判所の許可、昔は区裁判所の許可が必要
だったが、許可など得ていないと思われる。
そうだとすると作成権源のある公務員が内容虚偽の公文書を作成しているのだから、
形式的には虚偽公文書作成罪に該る。しかし、そのあたり、昔は適当だったのじゃないか。
その後、明治31年式戸籍に作成し直された。
31年式に作り直しをするには、もちろん転記をするのだが、その際役人が長女の出生日の
記載の矛盾を発見。しかし「生年月日変更の許可を得て変更」との文言があるので、転記元の
19年式戸籍の記載どおりに生年月日を「生年月日変更の許可を得て」「明治20年8月5日」とした。
「生年月日変更の許可を得て変更」というように「変更」を入れなかったのは、31年式戸籍の
段階で変更したのではないから。そうとしか考えようがない。
おそらく19年式戸籍では「変更」まで入っている。 明治37年に二度目の変更(最初に戻した)のは、長女の年齢から見て婚姻の届け出でが
あったのじゃないか。(当時は婚姻届ではなくて、婚家の戸主−普通夫になる人の父親−に
よる婚家の戸籍への入籍だが)。
婚家の戸籍がある役所からの連絡で、この役所では長女について転出の手続きをする。
そのときに19年式戸籍、さらに壬申戸籍まで調べて、「生年月日変更の許可を得て変更」と
記載して生年月日を明治17年10月27日としたのじゃないか。
これは戸籍の記載で分かるだろう。
嫁に行けば以後はそちらの戸籍の記載だけが使われるようになるので、「生年月日変更の
許可を得て変更」とか適当に書いておいても問題にならないと思い、気楽にやったんじゃなか
ろうか。
ただ、戸籍の作成作業は上記以外にもあるかも知れない。
明治5年の壬申戸籍の作成から明治37年の間に、戸籍筆頭者(戸主)も替わっているのじゃ
ないか。戸主が替わると、戸籍簿が新規に作成される。
高祖母が産んだことになっている男の子が生まれたのが明治10年で、そのときに高祖母の
お父さんは生きているという。この人が戸主なのでしょ?
この人は明治37年にも生きておられるのだろうか。 >>384
色々ありがとう。解ったような解らないような・・・w
婚姻は大正になってからで、明治37年は関係ないですね。三十路だからかなり晩年ですね。
高祖母の父は明治17年に死去とあります。よく読み返したら、高祖父母の長男誕生が明治11年、結婚したのは明治13年とあります。高祖父は明治17年から昭和2年まで戸主だったようです。 だから、どうでもいいじゃん
昔は色々いい加減だったってだけ ま、確かに>>387 の言うとおりなんだけどな。
一番の問題点は、壬申戸籍は、その後の戸籍のように役所(の戸籍係)が管掌してるんじゃ
なくて、戸長が一人で扱ってたことだな。戸籍はもちろん戸長の家に置く決まりだった。
明治5年から家々を回って、家族構成や寄留者(使用人とか一緒に住んでいる叔父とか
叔母とか)、さらに信仰している神社だの檀家になってる寺だのを聞いて記入する。
さらに、その家が士族か平民か、あるいは僧侶とか神官とかの職業まで記入。
そうやって作成した後は、六年ごとに全事項を調査し直し、変更のあったところは修正する
ことになっていた。
しかし、また全戸をまわって、例えば寄留者の構成が変わったのではないかとか、子どもが
生まれた、あるいは誰かが死んだとか、嫁に行ったとか嫁をとったとか、六年間の変化を
把握し直すのは大変である。
この六年ごとの調査を怠る戸長が多かった。
怠るといっても不真面目な理由ばかりではなく、戸長を引き受けたときは元気だったがその後
病気がちになったとか、長い間には老齢で職責に耐えられなくなる人もいただろう。
戸長が辞任して、新しく戸長になったのは人望もやる気もない人だったというようなことも
あったかも知れない。
戸籍の作成管理というようなことを、一人の人間に託していたのが間違いだったのである。
(まあ、副戸長なんてのもあることはあったけど。突っ込みはしないこと。)。 壬申戸籍を信頼できないものにしたもう一つの原因は、国民の法意識の未発達であった。
子どもが生まれたり、結婚したりしたら、その事実を戸籍に反映させなければならないという
意識がなかったのである。
戸籍事項につき届出をしなければならないという感覚が育っていなかった。
結婚したら祝言をあげて近所の人にもお披露目したらそれで十分であり、人が死んだら
坊主を呼んで葬式をあげればこれもまた十分なのであった。
戸長は届けをするようやかましく言っただろうし、自分で知りうるところは補完していった
だろうが、職掌する範囲の全てを把握することは無理であった。
壬申戸籍の時代は届出先は戸長宅だったということも国民の意識に影響していただろう。
戸長の家に行って、孫が生まれたの子どもが嫁を貰ったのと報告せよというのは
今の私たちからしても奇妙である。
戸籍の扱いが役場になってから、だんだんと届出という意識が育ってきたのである。
ただ、にもかかわらず壬申戸籍が一定限度の信頼性を有しているのは、戸長が徴税官吏で
あったためである。租税だけはいい加減に済ますわけにはいかない。
租税の基礎資料になる限度で、戸籍はまっとうに作成されていたのである。
租税の具体的な徴収方法は分からないが、おそらく戸長が各戸にその年の租税額を
通知し(おそらく各戸をまわって通知書のような紙を置いていく)、納税の日(数日間)に
納税者が戸長の家に納めに行く。それを県などの収税官が持っていったのだろう。
おそらく一軒一軒通知に回る過程で、各戸の環境変化などは把握されただろうと思われる。
もちろん完全ではない。欠落も多かっただろうが、最低限戸主の生死にだけは間違いなく
把握されたはずである。
さらに、戸長が小学校設営の責任者であったことも大きい。
その年に学齢に達する子どもは把握していただろうし、それに伴ってある程度は
家庭の状況も調査し、入学可能かどうか見定めるようなことはしていたと思われる。 ヤフオクで壬申戸籍が出品され購入されたという事件があったが、出品者は戸長の家の
子孫だった。明治19年に法律が改正され、戸籍は新しく村役場や町役場などの公務所で
作成・管理されることになった。そのときに壬申戸籍は戸長から役場に引き渡された。
ヤフオク出品のものは、蔵に保存してあったという。
おそらく戸長が日常管理していたもので、役場には清書したものを提出したのだろう。
日常使っていたものは書き直しや書き足しで汚くて出せないと思ったのではないか。
このように、戸長の手許にあった段階で作り直しがされているのである。
六年ごとの改編も真面目にやった戸長は大勢いただろうし、その度に全面的に作成し直した
戸長も少なからずいたと思われる。
さらに戸主が死ねば代替わりとなり、新戸主を筆頭として新たに戸籍を作り直す。
国民が生きているか死んでいるかも把握できないようなら近代国家として成立し得ない
から、これだけはきちんとやったはずである。
壬申戸籍14年間の間にも、作り直しは何度も行われているのである。作り直しをするほど
誤記は増える。人間が書き写すのであるから間違いをしないというのは無理である。
役所に移管されれば、またそこで壬申戸籍からの移記がはじまる。
どうやっても間違いは避けられないのである。
壬申戸籍が役所に移管されてからの写し間違いも少なくはなかったろう。
他人の文字、それも筆での御家流であるから、判読の段階ですでに困難がある。
さらに、誤記の指摘があっても、役人というのは修正に応じないのが普通である。
裁判所の許可がなければ出来ないという権限上の問題もあるが、そうしたタテマエを
振りかざすのは、責任問題になるのを避けたいという役人根性からであることが多い。
しかし、記載同士が論理的に両立し得ないというような場合は訂正せざるを得ない。
こうしたときは裁判所の許可などなしに適当に処理してしまったのだろう。
親がつけた名前と戸籍上の名前が異なり、泣く泣く戸籍上の名前を名乗っている人など
昔は珍しくもなかった。 さらに、戸長が戸籍に関する知識を利用して偽の記載をし、自分の家族や縁者の利益を
図ったという事案が少なからず見られる。見られるというより、戸籍作成権限を有する戸長
サイドの人間でないと出来ないことが行われている例が多いのである。
一番多いのが、徴兵逃れのために未成年の子を分籍して戸主にしてしまうことであるが、
時代が下がってからならともかく(たしか明治31年式戸籍からは戸主の徴兵免除は
無くなったと思う。未確認)、明治も、それも前半期の一般庶民にそのような戸籍操作は
難しい。強引にやろうとしても、戸長にたしなめられて終わりだろう。
夏目漱石の家は町名主であったので、維新後も戸長を拝命したと思われる。さらに幼少時に
親戚の塩原家を継ぎ、養父が浅草区の戸長であった。どこまでも戸長サイドの人間であった。
塩原家との縁組はその後解消されているが、後々まで関わりはあった。
たしか養子先での姉にあたる人物が「門」に登場した親類の中年女性のモデルだという。
実生活上も同じような交渉があったということである。
この養家が関係しているのか実家の人間がしたのか分からないが、漱石は25歳から47歳
まで北海道岩内郡岩内町に籍を置いた。徴兵逃れのためと言われる。
漱石は慶応三年生まれであるから、漱石が若い頃の北海道というのは内陸部は未開発で
道路もないところが多かった。奥地への開拓民は舟で川を遡っていく状態であった。
松前、小樽などの海岸線の町は栄えていたが、こうした土地の住人はいわゆる出稼ぎ人が
ほとんどで、住所不定の者が多かった。
海岸線・内陸ともに住民は戸籍による把握も不十分であり、かつ北海道は人口が僅少で、
ここから徴兵しては労働力が不足し開拓が進まないとの理由で徴兵の対象外だった。
こんな扱いは戸籍事務に長じた者でなければ到底知り得ないことである。
漱石の周囲の人間が知識を活用したとしか思えないのである。 西田幾多郎は二歳年齢を多くし、かつ長男でないのに長男とした。徴兵逃れのためという。
明治元年生まれで長男ならば徴兵の対象にならないとの徴兵令の規定を知った父親が
そうしたのだという。これも奇怪な話で、長男でないものを長男とするには、普通にやるなら
他家の戸籍を借りなければならない。養子縁組の形なら元々実親の方の戸籍に載って
いなければ不可能。それをどうして養家の方の戸籍で2年年長にできるのか分からない。
かつ養子に出しても実親の方の戸籍には元の年齢のまま残るのである。
まあ普通には出来ないと考えるべきだろう。
実際どうやってなされたのかというと、戸籍簿を書き直してしまったのだろう。
前のは破って棄て、出生日を2年遡らせた戸籍を作り、そこから分籍した。
そんな方法しか考えられない。
とすれば、やはり父親が戸長、あるいは戸長サイドの人間であったと思われる。
戸長サイドの人間であれば、年齢の誤魔化しなど簡単にできるのだということを、この事例は
教えてくれる。
平民から士族への書き換えも相当に行われたようである。
戸長は徴税官であったので、担当する町や村の家一軒一軒の収入を完全に把握していた。
戸長として活動する上で貧乏人は無視していい。町の有力者、すなわち高額納税者の協力は
必須だったので、懐柔手段として身分を平民から士族にしてやるということが行われたらしい。
(明確な証拠はないが、最初は平民だったが後から士族になったという言い伝えがある家は
けっこう存在する。)。
いったん平民としたものを士族にするには訂正という手段ではおかしい。
やはりこの場合も、戸籍全体を書き換えたのである。
平民と記された前のものは棄て、新しく戸籍を作成したのである。
壬申戸籍の時代、戸長は戸籍事務に関して、やりたい放題だったのではないか。 >>399
う〜む、話題としてスレ違いのような気がしますけどねぇ…、とりあえず、まぁいいかな。
岡山県にその名の通り、「珍名(ちんみょう)」という姓(苗字)を持ってる知人がいます。
残念ながら、その姓がいつどのように成立し、分布しているのかまでは聞いていません。
また、検索を掛けたら、「珍名(ちんな)」という姓を持つ人が、北海道を中心に10名ほど
おられるようです。こちらはアイヌ語の「チン(足)」+「ナ(川)」から来ているとのこと。
(あくまでも一説)
ネットにおける情報が確かなら、日本には少なくとも291,129種類に及ぶ姓があると
のこと。いずれにせよ、わが国における一つの文化的な特徴ですけれど、この掲示板
よりも適したところがありますので、下記のスレッドを追いかけることをおすすめします。
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1563144941/ 名字検索のサイトがあるけど
祖先のルーツの説明とかはどれぐらいの信憑性があるのだろうか
そもそも名字からルーツってわかるのか ワシの本家は秋田だけど西日本に多い苗字でどうしてかなと思ったけど
北前船でやって来たのかな やけに山奥に住んでるのは余所者扱いされたせいだろか 自分の名字は全国で2000人程だから割とルーツに信憑性がありそう。 >>401
>そもそも名字からルーツってわかるのか
ある程度までなら調べることができると考えます。大きな図書館へ行けば、「日本苗字大辞典」という本があります。
それを参照すれば、「本貫(ほんがん)」という自分の苗字(姓)がどの地域で発生したかの概要が載っています。
もちろん同姓だからといって本貫がみな同じというわけではありません。同書に従えば、同姓でも20〜40を超え
るルーツがあることは決して珍しい話ではなく、より詳しく知ろうとするためには、何か別の補強資料が必要です。
例えば、「日本家紋総監」や、「都道府県別姓氏家紋大事典」で、「家紋」を中心に調査してみるのもある程度有用
かと考えます。
また、渡来人を除くヤマト民族の正式な名乗り方は、氏(うじ)+姓(かばね)+(個人)名ですけれど、「氏」の部分は、
多くが「皇室」又は「源平藤橘」の各氏へと収束します。氏から分派したところの姓(苗字)をあたっていけば、大まか
ではありますが、ルーツを見つけることができる場合があります。これも歴史を追いかけることの醍醐味なのでしょう。 >>407
皇室制度みたいに、ここで扱う「血族先祖」は、「男系男子」に限るって訳じゃないですよね。
当方、この150年で2名の婿養子が入ってますが、女系とはいえ、とりあえず家名は続いて
いますので、家紋は変わっておりません。要は、どこを「落とし所」にするかだと考えます。 >>402
その気になれば「田中」姓でもある程度までは調べられますよ。国立国会図書館デジタルコレクションで、
「姓氏家系大辞典・第4巻」(太田亮 著・国民社・1944)を画像検索して、80コマ目〜88コマ目を見る
と、「田中」姓の起源や分布が書かれています。
記事冒頭に曰く、「田中 タナカ 和名抄、美作國苫西郡に田中郷、次に讃岐国三木郡に田中郷を収め、
田奈加と註す。また山田郡にも田中郷を載せたり。其の他、大和、常陸、近江、丹波、播磨、紀伊等に
田中庄、また山城、摂津、遠江、駿河、甲斐、伊豆、武蔵、上総、美濃、信濃、上野、磐城、岩代、陸前、
越前、越中、肥前、豊前等に此の地名存す。」と記載されています。
また、以下95項に及ぶ各々の田中一族の概要と、96項目の「雑載」にその他の一族に関する記述が
あります。長いので詳細は省きますが、先祖探しをする際の資料として、じゅうぶん役に立つ資料かと
思われます。
但し、国立国会図書館デジタルコレクションの本著コメント欄には、「全国の姓氏を歴史的仮名遣いの
50音順に収録し、起源、分布、本支の関係などを解説しています。記述は広範にわたりますが、典拠
文献の書誌事項が不明な場合があります」と書かれており、それなりの注意が必要でしょう。
ちなみに国立国会図書館デジタルコレクションのURLは、次の通りです。 http://dl.ndl.go.jp/ >>410
俺なかなかの珍名なんだけどその本って希少姓も載ってるの? >>412
横からだけど珍名ということは全国人数はどれぐらいか気になる 日本は同じ一族でも分家が苗字を変えていったから膨大な苗字となった
源氏の分家が足利で足利の分家が吉良で吉良の分家が今川で今川の分家が品川で、、、 >>412
多分駄目。「姓氏家系大辞典」の収録苗字数は50,000ですから、希少姓は含まれていないでしょう。
同じくメジャーな書籍ですと、「日本の苗字」が110,867、「日本姓氏大辞典」が133,700です。
あと、「日本苗字大辞典」が公称30万弱なので、これならば希少姓もだいたいカバーできる模様です。
但し、お値段が1セット¥346,500ですから、どこかの図書館に頼んで買ってもらうのが賢明ですね。
ちなみに、これらの書籍が都道府県立の図書館にあるかどうかは「全国都道府県立図書館横断検索」
で確認できます。また、市町村立及び私立図書館の場合は「図書館リンク集」で検索してみて下さい。 >>413
全国で200世帯ほどだったと思う。
愛媛の西端と宮崎だけに多数が偏り、全国にはまばら。
>>415
何か色々とすごいねw
読んでみたい!国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな。
家系図とかも載ってるの? >>416 >>415です。
>国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな
それならば話は早いでしょう。「百聞は一見にしかず」ですから、私の書き込みを含め、信憑性があやふやな
ネットの情報に頼るより、御自分の目で確かめるのが一番確実です。
あと、可能なら事前に国立国会図書館のドメインに、「姓氏・家系」(の調べ方)に関する参考文献一覧があり
ますので、それをプリントアウトして持って行けば、効率的な調査ができると思います。詳細は下記のURLを
参照して下さい。また、一般公開可能な範囲で結構ですから、調査結果の概要報告をよろしくお願いします。
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101070.php うちは200世帯以下だな
明治維新までは某藩の藩士だったから系図とかはある
某源氏の子孫という事になってる >>417
本なんて有用だと思えば勝手に使うからネットの利用法なんか具体的に書かなくたって
いいんだよ。
その本を使用したらこんなふうに先祖が判明したとか、自分の体験を書いて欲しい。
何冊かあるなら、自分はこれが一番役に立ったとか、そういうことを書いて欲しい。
しかし、姓氏に関する本を利用することによって自分の先祖が分かるとか、そんなことが
あるのかな?
あなたがそんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい。 >>421 >>417です
>そんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい
では一つの事例を書いてみましょう。詳細情報は開示できませんが、明治期の戸籍簿以前に
おける先祖のことがほぼ明確に記されていると確認できた主な資料は、以下に示すものです。
1.「諸向地面取調書」 国立公文書館
2.「姓氏家系大辞典」 国立国会図書館
3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
これらの資料及び副次資料により、先祖の本貫は伊勢国の某邑であることが分かりました。
伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。 >>422
そう思い込んだって事ね
それが事実かどうかは別だよ だいたい家系図は捏造されてるのが大半だしな
徳川家自体が捏造だし、大名や旗本もそうだよ >3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
ふーん、吾妻鏡も資料になさっったんですか、、、
>伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
>世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
それはよかったですね。敬服しました。あなたは純朴な方だ。 あと全国に200世帯とか100世帯とか、電話帳に名前が出てるのを調査したものなんでしょ?
昭和50年ぐらいまでは電話に加入すると電話帳に載せるのが当たり前だったんで、
まあそれなりに根拠にはなり得たんだろうけどね。 >>423
たいへん失礼ながら、現時点においてここまで分かったと記述された事を全否定するのは簡単ですが、歴史学
の存在自体に意味が無いとの御主張とも受け取れます。
まず、歴史学にも学問的限界が存在する事を踏まえたうえで、我々が先祖探しという歴史の旅を実践するには、
現存の資料にある記述で、最も信頼性が高いであろうという事象を記録したものに依存するしかありませんよね。
そこを各々の視点から多方面のベクトルで掘り下げていくのが、このスレッドの存在意義ではないかと考えます。 電話帳で苗字の世帯数を推測するってどうなんだろ?
斉藤とか佐藤とか山田とか渡辺なんて苗字ならいくらでもいるから、電話帳にも
平気で載せるだろう(電話帳に載せるのが当たり前の時代の話な。)。
苗字が何百も並んでいれば特定されることはまず無いから。
でも、珍名さんだと簡単に特定されてしまう。
珍名というほどでなくても珍しい苗字だとやっぱり特定される可能性はある。
電話帳で○○市に10軒という程度だったら、実際に電話すれば簡単に当人を
探し宛てることができる。
電話帳に誰でも名前を載せた時代でも、珍名さんや少数派の苗字の人は
載せないことが多かったのではなかろうか。
実際、俺の知り合いで昔から個人の電話を公表しない人がいる。
その人は材木屋で、材木を買ったときの売り主とも、売ったときの買い主とも
後からトラブルことが多いそうで、自宅や家族のところへは絶対に電話が
行かないようにしている。
事務所で話す分にはいくらでもするが、トラブルは家に持ち込みたくないという。
事業をやったり商売してる人で珍名さんだったら、絶対に自分の名前を電話帳に
載せないだろう。相手がカッカしてたら、家の方までかけてくるかも知れない。
ありきたりの苗字ならいいが、そうでないと相手がこっちの苗字を知っている以上
番号を調べられてしまう。
家も探り当てられ易いと思う。このへんで斉藤さんてうちありますか?では
分からないが、珍名だと危ない。
とゆーことで、珍名さんの全国で何名とかは怪しいのではないかという話。
たしかに珍しい苗字だが、珍しいからこそ警戒して昔から電話帳登録せず、
そのためやたら数が少なくなっているということはないか。 >>427
あなたの言うベクトルが思い込みにより、ねじ曲がってなけれぱね。
人は自分の信じたい事に引きずられる。
それを忘れないように。
何故、数々の偽書が存在するのか?
考えれば解るでしょ 自称○○の子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などないケースが多い。
系図も後世に作成されたもので年代が合わなかったりがザラ。
先祖が捏造したヨタ話を思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけ。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 >>429 >>427 です。
数学の世界から見ると、歴史とは時間軸を含むn次元空間で線形関数として扱われるべきもので云々…、
いずれにせよ人文科学の世界にベクトルという自然科学用語を使った私が悪かったです。
たいへん失礼しました。 >>428
個人情報に対する危機意識が薄かった時代があったのですよ 個人情報に対する危機意識が薄かった時代でも、珍名さんは個人名での
電話番号登録はしなかったのではないかという話だよ。
今、珍名さんの数とかどうやって調べてるんだろ? >>422
>江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
幕府ができるまでは徳川家の家臣ではなかったのかな?
幕府ができると同時に家臣になったの?
たしかに徳川累代の家臣でも、論理的には徳川幕府が出来ない限り幕臣では
ないわけだが、、、w
ま、それは置いておいて
幕臣の場合はどうしても避けて通れない資料がある。
寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜。
前者は家光の命令で幕府が編纂したもの。
後者はその修正版として寛政年間から文化9年までかかって編纂されたもの。
寛政重修諸家譜は内容的に寛永諸家系図伝を踏まえているので、実際的には
寛政重修諸家譜だけを参照すればよい。
家柄の根拠とするなら寛永諸家系図伝からも引くのが妥当。
両者とも大名と旗本について系図や資料を差し出させ、不明・不詳な箇所には
さらに資料を出させて編纂されたもので、当時入手できるかぎりの客観的資料に
あたっているといってよい。
ただし、幕臣については「お目見え以上」に限られる。
御家人は入っていない。
>>422 の家は伊勢平氏の家柄で、「鎌倉時代に本貫を離れ」とあるから領地を
持つ武士だったわけである。鎌倉以前からの筋目の家が、徳川に仕えて御家人と
いうことはありえないから、お旗本だったのでしょうね。
それだったら寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜に載っていますよ。
そうすればご先祖の具体的な知行や職名まで分かる。いついつの期間、大番頭で
二百五十石だったとか。養子、夫婦養子なども全部分かる。
あなたが何故これにあたらないのか不思議。 でも地方名家なら一家か2家ぐらい旗本になってるだろ? >>437 >>422 です。コメントありがとうございます。
もちろんのことですが、私の調査では御指摘の資料も含め、30を超える文献を考証しています。
ただし、物事には例外がつきものでして、残念ながら鎌倉時代から苗字を持つ家筋でも、先祖は
諸般の事情により、御目見得ができない御家人として江戸幕府に仕えていました。
また、別の資料から、先祖が江戸幕府成立の直前に徳川家康直轄の家臣団の一員として召し
抱えられたことが分かりましたので、「江戸幕府成立に伴い幕臣になった」との表現になりました。
このあたりの書き方が良くなかったですかね。
それから、江戸にある某神社の奉納帳に先祖が名を残しており、これとその他の資料を照合した
結果、役職が特定できました。あと、国立公文書館にある別の資料で、石高も判明しております。
旗本よりも身分が一段低い御家人でしたが、現在の日本橋付近に屋敷を拝領したうえ、江戸城に
常時内勤でしたので、それなりの石高でした。
申し訳ないのですが、これより先を詳細に開示することは少々難しいです。どうぞ御賢察下さい。 お目見え以上の家臣の場合、将軍はその家臣がどのような由緒を持つ家の人間で
あるのか知っておく必要があるので、先祖書きや親類書きのような書類を提出させ、
家臣名簿を作成した。寛政重修諸家譜などがそれである。
お目見え以下の御徒の場合は、そのような必要は全く無い。
御徒衆は軍隊でいえば兵卒かせいぜい下士官であって、家柄も由緒も問われない。
御徒自身も、家柄だの先祖がどうしたのなど考えたこともなかったろう。
何せ御徒という名のとおり騎乗は許されず、籠に乗るにも目隠しのついた籠には
乗れない。竹の骨組みだけの籠しか許されなかった。
旗本が登城するときは裃をつけるが、御徒で裃をつけるのは物頭クラスのみ。
普通は羽織袴のみだった。住むのは御徒長屋が一般で、組屋敷という社宅の
ような一戸建てに住む場合も門を構えることは許されなかった。
田沼時代の後半ぐらいから風向きが変わり、御徒たちにも由緒書きや親類書きの
提出が求められることになった。
おそらく御家人の家株を売る者が増え、いったどういう人間が家臣になっているのか、
確かめる必要が出てきたのだろう。
このときはみな大慌てであった。>>213に書いた森山孝盛の文書にその時の騒動が
記されている。森山の家はその当時徒頭をやっていたのだが、配下の御徒衆は
書式が分からないどころか字を書くことさえできない。
それを森山の両親が手伝ってやり、代筆までしてやったのだという。
組下の御徒たちの感謝は尋常でなかった。
森山孝盛自身も、後に自分の部下となった御家人たちの面倒を見ている。
部下たちの家にまで出向き、話を聞きながら書類を書いてやることまでした。
部下たちは後々まで感謝し、何年たっても森山の家に礼を言いにやってきたり
したという。 遠い先祖からのきちんとした系図を作り出すことは大名でも難しい。
徳川時代の大名など、戦国の下克上の中から生じてきた新興氏族が多いからだ。
徳川氏自身が新田源氏の流れとして詳細な系図を著しているが、当然眉唾ものである。
旗本の系図作りなども大変だったろう。
それでもみんな清和天皇や桓武天皇や藤原鎌足に行き着くように作ってあるのだ。
たとえば田沼意次の家は、八代吉宗に随って紀州から来て幕臣となった家だ。
父親は吉宗が一万石の大名だった頃に仕え、勘定方だったという。
先祖は鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)。
紀州人なのに何で先祖を藤原秀郷にしたんだろうと思っていたら、田沼意次の先祖に
鉄砲名人がいて、大阪の陣のときに紀州公に召し抱えられたのだが、この先祖が
下野の人間だったらしい。たぶん下野出身の浪人で、技術を買われて徳川頼宣の
陣にいて活躍し、戦後家臣に取り立てられたのだろう。
下野出身だから下野守の藤原藤秀郷を先祖ということにしたというわけである。
ところで、この藤原秀郷の子孫が佐野氏ということになっている。
田沼意次の嫡男の田沼意知は、旗本・佐野政言に遺恨を持たれ、江戸城内で斬られ、
八日後に死亡した。
佐野家の本家本元のような佐野政言に系図を借り、返さなかったからだと言われている。
遺恨を持たれた原因はそんな単純なことではなく、他にあるらしいのだが、とにかく
藤原秀郷を持ち出さなければ佐野政言みたいな人間と関わりを持たずに済んだのだ。
たまたま藤原秀郷の子孫を名乗ったために、とんでもないことになったわけである。 2連投の長文なんてどうせ誰も読まないのにご苦労なことだな >>442
おー、久しぶり
相変わらず馬鹿だなお前はw
家の由緒や系図というのはどういうふうに形作られていくのか。
坂本龍馬の家で見てみよう。
龍馬の坂本家は、藩に献金して郷士の身分を貰った。
先祖から身分を受け継いだわけじゃなく、新規に郷士になったわけだ。
そうなると代々の先祖というものを作り出す必要が出てくる。
それまでは商人だから、先祖なんぞどうでもよかったはず。
興味もないし知識もない。しかし武士の家には由緒というものが必要。
郷士が武士かは置いておいて、ともかく先祖のことは知りませんでは通用しない。
とりあえず龍馬の曾祖父の八平直海(郷士召出w)かその前ぐらいは分かるだろうが、
それより以前は系図屋に頼むしかなかったんだろうな。
その系図によれば、先祖は明智左馬助に遡るらしいが、何故左馬助なのか。
坂本という苗字→坂本城→明智の城→明智一族→明智左馬助という連想じゃなかろうか。
昔は明智左馬助の湖水渡りの話はよく知られていた。
江戸時代の人は豪傑の話を好み、弁慶の立ち往生とか源頼光と四天王の酒呑童子討伐、
岩見重太郎の狒々退治、荒木又右衛門の三十六人切りなどは武者絵にもなり、
知らない者はなかった。
湖水渡りもその一つで、明智左馬助と聞くと、当時の人には琵琶湖と唐崎の松と坂本城の
風景が頭に浮かんだ。
著名人を先祖にしてしまうと、それ以前の家系はその著名人の家の話になるので面倒がない。
明智の家は絶えてしまっているのも好都合。現在の縁戚関係とかも聞かれないで済む。
さらに、明智だと土岐源氏ということで清和天皇まで繋がる。
系図の材料としては文句なしの人物なのである。
念のいったことに、龍馬の家では明智の流れということで桔梗の家紋を使っている。
明智軍の旗印が水色桔梗だったからである。 自分の先祖だとした系統に後嗣がいるときわめて面倒。
上の田沼意次の家など、直系の子孫だと威張っている佐野氏があるものだから面倒な
ことになった。本家本筋に貴殿のご先祖がどこからの分かれなのか、私どもの系図で確認
して進ぜようなんてことを言われたら甚だ困る。
徳川家が新田の分かれとしたことは賢明である。
ただし、新田の流れにも、元々新田宗家を名乗る岩松氏などがあった。
しかし、この連中も徳川幕府が出来ると「末裔」とのみ自称し、誰も宗家を名乗らなかった。
岩松氏は系図を差し出すよう言われたが、拒否した。お見せするようなきちんとした系図は
無いというようなことを言ったのだろう。
岩松氏は徳川の旗本として明治まで存続した。
一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。 スレタイ無視して自分の蘊蓄を垂れ流すのが生きがいのハゲに同情しろよw >>445-446
お前、何を喜んでるんだ
そんなに俺が好きか?
上で永諸家系図伝と寛政重修諸家譜の重要性について述べた。
試みとして勝海舟の家で寛政重修諸家譜だけで何が分かるかを明らかにしてみよう。
海舟は明治後子爵になり華族に列したので、受爵にあたって家系調査をし、略系図を
明らかにしている。これと寛政重修諸家譜を突き合わせればよい。
勝海舟の本家は男谷家で、曾祖父は越後の小地谷の在(三島郡長鳥村)の貧農の
子であった。盲人であった。名を銀一といったらしいが、これは按摩の名前だろう。
少年の頃、江戸に出て按摩をしながら金を貯め、それを高利貸しして巨万の富を
得た。江戸時代は盲人の金貸しは厚く保護されていて、貸し倒れなどは無いもので
あった。めくらから金を借りて返さないなど社会が許さなかったのである。
海舟の曾祖父は十万両の身代となり、江戸市中に十カ所の地所を持つ身分に
なったという。当時土地を持つということは普通の人間には出来ないことであった。
さらに朝廷から検校の地位を許された。もちろん買官したのである。
検校は盲人の官職のうちで最高の地位であった。
越後の米山(よねやま)に因み、米山検校と名乗っていた。
曾祖父には長男である忠之丞と三男である平蔵の二人の息子がいた(次男は
早世したらしい)。検校は長男忠之丞に御家人男谷家の株を買ってやった。
これ以降、検校も男谷検校と名乗ることになる。
−−−ここまでは寛政重修諸家譜には出てこない。御家人時代のことだからである。 さて、忠之丞は御家人男谷家の当主となったが(男谷家の相続人となったということ
である)、ほどなくして死亡。精一郎という子がいたが、まだ幼弱だったので父の
忠之丞を相続することはできない。武士の家は軍役義務を負うので、相続人が幼児
では継げないのである。
そこでとりあえず三男の平蔵が継ぐことになった。
この三男が安政五年に西の丸の持筒の与力に召し抱えられ、旗本となった。
旗本のやる役目を与えられ、旗本となったのである。
−−−だから寛政重修諸家譜では男谷家は平蔵から始まっている。
検校−忠之丞 ・・・・・・ 精一郎
↓ ↑
平蔵−(長男)彦四郎
...(三男・妾腹)左衛門太郎(小吉)
男谷家を旗本にするためには大金を使ったはずである。
関係する上司らに賄賂をばらまいたのである。
一説に三万両使ったといわれる。
平蔵の長男彦四郎思孝(ひろたか)という人は父よりもさらに出世している。
勘定方となり、諸国の代官を歴任した(この頃の代官は勘定奉行配下だった。)。
この人にも実子がいたらしいが、精一郎が成長したので精一郎を自分の養子に
して男谷家を継がせた。
(自分は他の旗本の家を継いだのだろう。金があればいくらでも可能である)。
こうして男谷家の当主となった精一郎が幕末の剣客として有名な男谷下総守信友
である。 海舟の父親の小吉(小吉は幼名で、本名は左衞門太郎である。)は、男谷検校の
三男平蔵の妾の子である。
この妾の腹の中に小吉がいるときに、妾は平蔵の勘気に触れ、家を追い出された。
平蔵の本妻はよく出来た女で、小吉が生まれたあと小吉を引き取り、乳母をつけて
育てたという。だから小吉は母を知らない子であった。
小吉は七歳のときに旗本勝家に養子に入った。
父の平蔵が金で勝家の家株を買ったのである。
勝家は三河以来の幕臣であるが、もともとは御家人で、九代家重のときに旗本に
なった家であるという。小吉が養子となったときには、勝家の男達は死に絶えて、
家にはお婆さんと孫娘一人だけが残されていた。
勝という家を買っただけとはいえ、形としては養子となったわけだから、このお婆さん
と孫娘を放り出すわけにはいかない。
当初、男谷家と勝家は一軒の家に一緒に住んでいたという。
その後、男谷家が本所に新しい屋敷を拝領して引っ越すことになったとき、男谷家では
勝家のために本所の屋敷地内に一軒のあたらしい家を建ててやった。
さすがに金持ちである。 勝の家が独立し、小吉がこの屋敷で暮らすようになると、お婆さんの小吉いびりが
始まった。小吉は家が嫌で外で遊んでばかりいた。そのうち14歳になると家出して
放浪する。このときの話が「夢酔独言」に書かれていて非常に面白いが省略。
なお、勝家に残されていた孫娘は後に小吉の妻(海舟の母)になった。
最初から予定されていたことと思うが、小吉が18歳のときに結婚したのである。
婚姻により、最初は勝家の養子だった小吉が勝家の婿養子ということになる。
結婚はしたものの夫婦生活などあったのかどうか。
小吉という男は16の頃から吉原で遊び、代官をしていた兄(腹違いの兄の彦四郎)の
代官屋敷の手代にそそのかされ、代官所の公金二百両を持ち出して吉原で蕩尽して
しまった。このときは父親平蔵のとりなしで事なきを得たが、二百両ぐらい何でも
ない父親がいなかったらどうなったか分からない。
このくらいの道楽者なので、結婚しても妻など見向きもせず外を遊び歩いていた。
小吉は22歳のときから24歳まで、足かけ三年間座敷牢に入れられたが、妻を妊娠さ
せたのはその時期である。
さすがに座敷牢にいては妻に手を出す以外なかったのかも知れない。 >>451
こんな朝っぱらから長文垂れ流しってある意味すごいよな >>452
俺様が最も日本史に詳しい人間だと信じて疑わない躁病の爺だから誰にも止められんよ
躁病患者の特徴は「気分爽快、自我感情高揚し、自信過剰で尊大・無遠慮で節度を欠き、
誇大妄想を伴い、多弁・多動で落着きがない。時に怒りっぽく、攻撃的で錯乱状態を呈す」
だとさ・・・ >>454
外人労働者の多いところでは
空気読めない奴ばっかだよ おじさんが早起きして書き上げた力作最後まで読んだ人いる? >>451 から >>458 これ全部一人のおっさんの自演?
嫌みのタレ方がそこはかとなく古いんだが
お爺さんなのか・・・
一つだけ言っておく。まとめて書け。スレがどんどん消費されてもったいない。
俺みたいに内容のある書き込みをするならいいが、
ひねくれ爺の妄言7つも並べてどうするw
−−−−−
では価値ある書き込みに戻ろう。
勝の家は小普請であった。小普請というのは役職のない旗本に与えられる役職である。
小普請組に属し、月に二回組頭のところへ挨拶に行くのが仕事であった。
これを逢対(ほうたい)という。上下(かみしも)をつけての格式張った儀式である。
これだけは何が何でもしなければならない。それ以外は暇である。
月に二回の逢対以外にも、出来るだけ組頭の屋敷に挨拶に赴くのがよいとされた。
普通の日には組頭もいちいち応対できないので、玄関先に帳面が置いてある。
それに勝手に記帳して帰ってくることになっていた。
小吉も婆さんにやいのやいの促されて挨拶に行く。しかし、字が書けない。
自分の名前さえ書けないのである。仕方ないので人に頼んで書いてもらっていたという。
逢対(ほうたい)というのは、その文字からして、組頭が一人づつ相対して出席を確認
するということだろう。
幕府の決まりでは、当主が四ヶ月行方不明だと取り潰しということになっていた。
逢対に四ヶ月行かなければ家は断絶するのである。
小吉は逢対だの挨拶だのという生活が嫌になり、また家出して遠州の剣術の友達の
ところに二ヶ月ほどいた。江戸には帰らないつもりでいたのだが、親類に連れ戻され、
家を潰すまでの気儘は許さないということで座敷牢に入れられたのである。 小吉に麟太郎という息子が生まれたとき、小吉は長屋に住んでいた。
相変わらず小普請で無職と同様であるから、刀の鑑定などをして小遣いをかせいでいた。
何故旗本が市井の長屋なんぞに住んでいるかというと、この頃の旗本というのは自分の
屋敷は人に貸して自分は他所に住むというのが普通だったからである。
拝領屋敷に住んだままであっても、屋敷の一部を人に貸したり、賃貸用の家を建てて
そこに人を住まわせるということは当たり前に行われていた。
最初は離れを貸すという程度だったのだろうが、旗本屋敷の敷地というのは広いので、
そこに何軒もの貸家を建てて賃借人を入れ、いっぱしの大家となる旗本が多かった。
ある論文では拝領屋敷の七割に及ぶという。「不在拝領主化」というのだそうである。
旗本の敷地内の家を借りるのは大商人がほとんどである。
町全体が今日でいえば一等地にあり、高熨スく、安全で閑寂だったからである。
街中は火事が多かったが、大名や旗本の屋敷町はほとんど火事が出なかったことも
大きかったと思われる。
旗本ばかりでなく、八丁堀同心の屋敷内などの貸家も人気があった。
同心の屋敷であっても敷地は400坪ぐらいはある。
この土地を区分けして家を建て、そこに商人たちが住んだ。八丁堀同心の屋敷ということで、
盗人や押し借りも来ず、きわめて安全だったのだという。
今日でいえば、警察官舎内に住むようなものであった。
なお、長屋には旗本が住んだりもするのであるから、イメージを捉え直さないといけない。
貧乏長屋も多かったが、裕福な人の住む小綺麗な長屋も少なくなかったのである。
商家の奉公人も番頭ぐらいになると所帯を持てたが、その場合は長屋に住んで店に通って
いた。こういう人たちが落語などに出てくる貧乏長屋などに住むわけはない。
紀伊国屋文左衛門も引退したあとは長屋に住んでいたといわれる。
お金持ちの住む長屋もあったのである。
もちろん一戸建ての貸家もあった。こういう家はお妾さんのような隣で聞き耳を立てられ
ては困るような人とか、鳴り物を使う浄瑠璃や小唄の師匠などが借りた。 麟太郎は7歳で将軍家慶の五男・初之丞の遊び相手に命じられ、大奥に上がることに
なった。幼児からの遊び相手はやがて小姓となり、側用人などの出頭人になることが多い。
しかしこの五男は2年後に死んでしまった。
慶昌という名前になって一橋家を継いだ直後のことであった。
小吉は「せがれは青雲を踏み外した」と嘆いた。
麟太郎が遊び相手に選ばれたのは将軍家慶の目にとまったからであるという。
親戚の女性に「お茶の局」(阿茶の局)という大奥に上がっている女性がいて、その女性の
ところを訪ねた人がたまたま麟太郎を連れていった。
お茶の局が麟太郎の手をひいて御殿の庭を散歩していると家慶に出会い、家慶が大いに
麟太郎を気に入ったのだという。
この「お茶の局」という人がどういう人物か不詳だが、おそらく彦四郎の姉か妹ではないか。
海舟は後年、家定の正室篤姫に気に入られ、江戸市中を案内したりする仲となる。
西の丸に出入りして、篤姫と七輪で干物を焼いたりしたというが、大奥とのつながりは
最初から有ったということになる。
篤姫が海舟に気を許したのも、この親戚の女性が間にいたからだということも考えられる。
それ以前に、海舟は7歳のときから2年間、大奥にあがってそこで毎日生活していたので
あるから、大奥の女性と気が合うのは当然ともいえる。 >>461
措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ
スレチ連投キチガイ 殿
令和元年 8月 11日
東京都知事 小池 百合子
1.あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院診療が必要であると認めたので通知します。
2.あなたの入院は【 ?精神保険法第29条の規定による措置入院 ?精神保
健法第29条の2の規定による緊急措置入院 】です。
3.あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、
封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立会いのもとで、
あなたに開封してもらい、その異物は病院であずかることがあります。
4.あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又は保護者の依頼によりあなたの代理人になろう
とする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
5.あなたは、治療上の必要上から、行動制限を受けることがあります。
6.もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出てください。 それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない
場合には、あなた又は保護者は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、
都道府県知事に請求することができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋ねになるか又は下記にお問い合わせください。
7.病院の治療方針に従って療養に専念してください。 評判がいいようなので、上記>>444 から続ける。
>一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
>ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
>お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
>俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。
これに続けて
俺の友達で、先祖は北陸の某藩の同心だと自慢している奴がいた。
同心というのがどういう身分かよく分かっていなかったらしい。
士族であるということも自慢していた。
「俺の親爺は、近所の奴らなんかどんな身分か分からん、けがらわしい、とか言うんだぜ」
などと話していた。
「うちの先祖に喧嘩で同輩を斬り殺して先祖の墓の前で切腹して死んだ人がいるんだってよ」
と、これも得意げに話していた。
しかし、そいつの親も祖父さんも医者である。祖父さんは東京の私立医大である。
これは、家は相当な資産家だったということである。
さらに、祖父さんの弟は一生働かなかったらしいと言っていた。
ニートのヒキコモリのように思っているらしかったが、農地解放前、大地主の跡取り息子と
いうのは普通働かず、家産を管理しているだけだった。
戦前に息子を北陸から東京の医大に行かせ、家を継いだ息子は働かずにいたというのは
大地主だったということである。
本物の同心の家で、明治に禄を失ったような家なら、息子を東京の医大に行かせたり、
一生働かずに遊ばせておくというのはまず無理だろう。
それが出来た家だということは同心身分を金で買った豪農だったということで間違いないと思う。
祖父さんの代から東京住まいだから何も分からなくなり、喧嘩で同僚を斬り殺した話などを
自分の先祖の話だと思っているのである。 >@marumasa58
>徳川家広氏、かの会津藩藩主松平容保公の
>直系なんだけど、その人がよりにもよって
>福島に関するデマばら撒いてる
>立憲民主党から出馬というのが実に笑えない
>20:15 - 2019年4月30日
パヨクが令和新撰組と名乗ったり
会津松平の直系がパヨク政党から出馬したり
実にあからさまになってきたねwwwwwwww
会津側はパヨクです!
会津プロパガンダは反日プロパガンダです! 松平容保は籠城中にもエッチしてたんだよな?
家臣が命がけで戦ってる最中に中出ししていた
容保には幻滅した… >>466 〜>>471
イミフな書きこみ6つもしやがった。
図書館の姓氏辞典で先祖が分かるとか言ってる阿呆だろ
名字には確かにその発生の元になった本貫という土地がある。武士の所領だ。
本領ともいう。武士は領地を持ったらその土地の地名を名乗ったのだ。
例えば足利氏は、八幡太郎義家の四男が下野国足利郡足利荘を領地としたときに
称したもの。
細川は三河国額田郡細川ク、畠山は武蔵国男衾郡畠山荘。
今川は三河国吉良荘今川。
新田は上野国新田郡新田荘が本領。
山名は上野国多胡郡山名ク。新田義重の長男がここを名田として名乗ったもの。
島津は近衛家の荘園である薩摩国島津荘の下司に補任されたのが姓の由来。
武田は八幡太郎義家の弟の新羅三郎こと源義光の三男の家系。つまり佐竹義業の
弟義清の直系。本領が常陸国那珂郡武田クであったため武田と名乗った。
義清は甲斐国に流罪となり以後は甲斐で勢力をなす。
こうした姓を名乗る本家からいくつもの分家が立てられてそれぞれの領地名を姓にした。
だから姓というものはどんどん出来ていく。
それぞれの系統を明らかにしないとゴチャゴチャして分からないというので姓氏辞典が
できた。姓氏辞典とは言わないが、この類の本は江戸時代からあり、系図屋の種本だった。
日本には群書類従を代表とする本の内容を分類して百科事典のようにする伝統があり
(例えば、百合だったら百合がどの本のどこにどんなふうに書かれているのか、あらゆる
本にあたった結果が書いてある)、姓氏辞典もこの類の知識を採集した記述が混ぜ込んである。
どこそこの寺の鐘名に○○という鋳物師の名前があったとか○○神社の寄進者名に
○○という名前があったとか。 姓氏辞典は、どういう姓がどのように作られたのかという資料にはなっても、家系調査の資料
にはならないと思う。その姓を名乗っているからといってその一族の人間とは限らないし、
長い間に本筋の人間はすべて絶え、姓だけが残っているということも多いからだ。
現在は姓と血筋は完全に分離してしまっていると言っても過言でないだろう。
例えば細川氏は讃岐や河内や阿波など支流がいくつも出たが本宗家を含め全部絶えた。
和泉細川家の後裔を自称する細川藤孝が出なければ細川家は何の痕跡もなく消滅していた。
ただ細川藤孝が本当に一度断絶した和泉細川氏であるのかについては疑問の余地がある。
本人が後裔と言っているし、再興したという触れ込みだから誰も突っ込みを入れないだけの話。 アイヅーはシーマンヅーに互角に逆らわなければならなかった。。。 自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
てっきり男子直系だと思ってたんだが、戸籍を取り寄せると江戸末期に婿養子に入って来たのがわかった。
自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
自分の兄が、何十年ぶり位に息子家族、兄弟家族を呼んで墓参りと法事をすることになった。
先週の金曜日と土曜日に行ってきたが、楽しかった。
自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
自分たち一族の墓が山の裾野に集まってるんだが、今までどういう関係の墓かよくわからなかったけど、戸籍を調べて初めてわかってきたのは、自分の直系の墓がずっと残ってることに感動した。
今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
兄貴の孫達が、嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた。
昔の墓は、小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
苔を落として初めて名前がわかった。 次の目標はその前の世代の墓石を見つけること。
しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめられてるから墓石は無くなってる。
それ以前のうちの家系の大昔の墓は別の場所にあり、そこはそれなりに保存されてるがどんな人達が埋葬されているのかは、よくよく調べてみないとわからない。
離れているとまず無理だな。
中心にあるのは畳3畳位の巨大な石が鎮座している。 >>476 婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
寺の総代は、うちの家系が3名とそっちの家系が2名、その他1名で運営されてた。 >>399 で突然珍名を話題にしたのは狙いがあったわけだ
先祖が非常に珍しい姓なので姓氏辞典などによる特定をしやすいということ。
あと、>>476 なんかは
>自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
なんてふうに「見たこともない珍しい名字」だから簡単に特定可能ということだな。
たしかに山田さんだったらどこの山田か分からないものな。
しかし、いくら珍名でも名家とか名主をやるような家が一軒だけということはないわけだよ。
田舎で、その一軒だけが地元の名家なんてことはない。
そういう家は一族一党が栄えている、あるいは栄えていたのだ。
もちろん一族の中には落ちこぼれみたいな名前汚しみたいな家もあるだろうが、ともかく
その地域では有力な家系として認識されているはずだ。
だからいかに珍名でも、その限られた地域にはかなりの数がいるはず。
珍名珍名といっても、地元に行けば必ずしも珍名に非ず
名主をやるような家なら、その周辺に同じ名字の家がいくらもあるよ
婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字→だから簡単に名主さんの家の人間と
特定できた、というのは無理がありすぎだと思う。失敗だな、こりゃ 皆、先祖は○○だと思い込んでるからな
冷静に突っ込んでも感情的な反応しか返ってこないよ なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。 自分の高祖父(文久3年生まれ)は庶子が8人いた。
奇跡的に全員成人して他家に養子に出されたけど。 >>478 やけに絡むな。
うちに婿養子に来た家系がどんなものかよくわからなかったが、うちの家系の菩提寺の総代はうちとその名字の家系とで切り盛りしてるから地元ではそれなりにやってんじゃないの?
今年墓参りに行ってようやく少しわかったけど。 >>478 何を言ってるのやら。 どんなに珍しい苗字でも地元では当たり前なのは当たり前。
議員もいれば、校長もいる。 >>478 俺がその苗字を知らなかったのは、3歳くらいに地元を離れたからだよ。 今年戸籍を取り寄せて初めて知ったけど。 >>476
>自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
素晴らしい。こんなこと書いてる時点でとても常識的な人だと分かる。
>>477
>婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
それなりの家系で庄屋をやってる家は息子を婿になんかやらないだろう
もらう方だって庄屋のお坊ちゃんなんかもらったって何にもならん。
婿は労働力。農家ならとにかく牛馬の如く働く男であること。
商家なら商才と人使いのうまさ。 >>476
>今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
嘘嘘w 1906年なら明治39年。
そこの家の墓は代々管理されてるんだろ。明治39年の墓が苔むして誰のものか
分からなくなってるなんてあるわけないわ
その墓だけずっと放置されてたのかよ? 寺の総代までやってるような家だろ
そういう家の墓が放置されて誰のものか分からないなんてありえないわな。
おそろしく古い墓ならともかく、明治末期の墓だろ。
なんかちぐはぐな話だ。 >>487 >>488
今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。
名前が書かれてるんだから誰のものかわからないなんて事はない。 夫婦二つの墓が並んであった。
自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
戸籍調べをしていくうちに、親父の祖父の墓の後ろにある墓が親父の祖父の弟の墓である事がわかった。 だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた祖父の墓が見つかったというだけの話。
うちの直系の墓がずっと一列に並んでいた。
それとなんか誤解してるみたいだけど、お墓と言っても今風のお寺の墓地じゃないんだぞ。
山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだけ。 もともと本家は神社だし。
明治以前の墓は整理して、納骨堂を作り合祀している。
(同じ県出身の元大臣の揮毫で、祖廟と書かれている)
鎌倉時代の墓群は、別の場所に有り先祖祭りの時に供養している。 鎌倉以前は奈良に住んでたから、それ以前の墓は調べた事はない。
供養をしてもらう寺は離れた場所に有り、そこが管理している墓地ではない。 過去帳を見せてもらえることにはなってるがまだ見ていない。 途中までは本当なんだと思うよ。
ウチも○○源氏の子孫だという事になってる元武士だけどさ。
先祖が某大名家に仕えていて明治維新まで武士だったのは間違いない。
系図もあるし、菩提寺には過去帳もある。
でもね、○○源氏の子孫だとは思ってないよ オレは。
さすがにそれは嘘だろうと思ってる。
先祖が戦国時代の末期には武士だったのは間違いないし、それ以降は正しいと思ってるけど、それ以前は血筋が怪しいと考えてる。
先祖の系図を頼りに昔はどこそこに住んでいたとかは考えないわ。
徳川家ですら系図を詐称してる訳で、本当に過去まで先祖がたどれる人なんてごく少数だと思うから。 あと、仕えていた殿様から貰った感状とか刀とか本家にはあるよ
ウチは明治維新以降に別れた分家だけどさ 源氏を助けてきたのは事実で、その功績で源頼朝から地頭として地方に派遣された。
氏もはっきりしてるし、奈良にはその氏の神社もいまだに存在してる。 推古天皇の読んだ和歌にも出てくる。
頼朝からの命でその時一緒に国司として赴任したのが戦国武将として名高い〇〇氏だが、うちの祖先は地頭で有り、かつ〇〇氏の侍大将でもあった。
南北朝時代になり、南北で戦うことになり、〇〇氏達も兄弟別々の方に味方することになった。
うちはずっと南朝に味方してきたので、北朝方の〇〇氏から焼き討ちにあって大事な資料の大半を失なった。
しかし、面白いことに今使ってる家の紋は、〇〇氏の紋を少し変形した紋。 南朝に味方した方から諱と紋をもらったそうだ。
今の苗字はその前に後醍醐天皇から授かった苗字で、紋も別の紋を授かったが、今は使っていない。
自分の苗字は絶対に自分一族しか使っていない。 〇〇県/都俺の名で郵便物が届くくらいだから。 前スレでも同じスレあったな
頼朝から地頭職を賜ったとか千年昔の先祖とか一族が、とか
何のために同じ事ばかり書くのだろう
ここはそういうスレじゃないと思うけど 先祖の話を真に受けて、凝り固まってるんだろうね
史学的に正しいと証明された訳でもない限り、客観的に彼の言い分が正当かどうかは判断できないのが事実。
ま、それを指摘しても無駄なようだけれど。
姓についても思い込みが激しいね。
家臣に性をあげるとかで一族以外でも同じ性を名乗った例はいくらでもあるのにね。 知らなかった墓が見つかったという逸話だから、良いんじゃないの?
寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 >今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
1825年といったら文政8年で十一代将軍家斉の時代だぞ。
この時代に生まれた人からその夜叉孫が生まれるまで(>>489に70過ぎと書いてるから
昭和19年〜23年ぐらいの生まれか)、四代というのはちょっと苦しいわな。
絶対にないとは言わないけどな。
もう一代あれば自然だ。
そしたら
>だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた>祖父の墓が見つかったというだけの話。
というふうに今度は父親の高祖父の話にしてやがんの。
一代足してやんのw
>山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだ>け。 もともと本家は神社だし。
本家が神社やってる家なら神道じゃないのか?
なんで寺の檀家総代なんかやってるんだろ、、、と不思議に思ってたら
今度は >>497 で
>寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 だってさ。
もともと一緒くただから不自然じゃないだろと言いたいんだろうな。
いい加減なこと書いては後からツギハギする人だなw
檀家総代をやるような家は信仰心も祖先を敬う心も篤いはずなのに、明治も終わり頃の墓石を
コケだらけにして誰のだか分からなくしてるなんてあるのかな、、、と思ったわけだ。
しかも、江戸時代の墓は整理して霊廟を建てたんだろ。
それならその時に残す墓だってきちんとしたはずだ。分からないなんてあるかよ、と思ったら
>今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。 だって
あんたの話はどこかちぐはぐでおかしい。 おかしな奴だと思ったら、またあの基地外か
単なる落ちぶれた庄屋の子孫なのに真の武士は庄屋とかおかしな事を書きまくってたな 70過ぎてこんなことしてんのかw さみしい老後だな。
ボケが始まってんじゃないか? >>476
>兄貴の孫達が、嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた。
古い墓石の苔落としを経験したことないだろ
土に生えている苔は簡単に取れるが、石に生えた苔を取るのはたいへんだよ
簡単に剥がれるようなものじゃない。
石も昔のは研磨されてないのが多く、長い間にざらざらになっている。
表面が荒れているところとか割れてる部分の苔取りはさらにたいへん。
変な虫もいるし。
それに、一番たいへんなのが石に傷をつけないこと。
鉄のへらでガリガリやると傷つけてしまう。
子供なんかにさせられることではない。
何が嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた、だよボケ
ふざけんな
この>>476-477、そして>>489に書いてあること は全部嘘だ。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| エサに飢えてるクマはみじめだな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 ドウモ〜〜〜ッ!!ハジメマシテ〜〜〜ッ!!!!
私は14歳の女子中学生してるのぉ〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ
うーんとー、ご先祖さん大好きなの〜
だってご先祖さんがすっごくすっごく好きになってー、
探してたら(◎_◎)なんとっ!
ご先祖さんの素敵なスレッド♪を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ
てなわけで、ついつい書いちゃったのらー(o^v^o) エヘヘ
同じご先祖さん好きな人、友達に、なってくれるよねっ。(*^-^*)
え?くれないのぉ〜?(;¬_¬)そんなのいやいや〜〜、
なってくれなかったら、( `_)乂(_´ ) 勝負!
☆○(゜ο゜)o ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ〜ン!!
(>_<) いてっ!
(☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ
(+_+) 気絶中。。。
なあんて(#⌒▽⌒#)こんな私っ!σ(^_^)だけど、
お友達になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ >>506 あのさ、持って行ってたのは、除草鎌とか子鎌と言われてるものだから、子供でもサクサクと表面の苔は取れる。 1cm 位伸びてたから。 掃除レベルだな。
楽しくてうちの直系の家系とわからない墓の苔も取りたいと言ったがそれはやめさせた。
それ以上磨くのは、金のブラシでも難しいけど。 >>512
子供が除草鎌で取れるのはハイ苔しかないな。
けど、ハイ苔なら道具使わなくても手で取れるけどな。
普通、石に生えた苔は鎌なんかでは取れないよ
子供なんかには到底無理。
お前はさー、信長の野望に出てくる中野宗時が先祖と同族だとかわけのわからない
ことを書いてた奴だろ
何でも書けるよなお前は それ書いたのあなたです。
何が70過ぎだよ。17歳ぐらいだろw >>514 兄の孫の文章書いたのワシや。
ハイゴケかなんか知らんけど、手で取るバカがいるか。
サンプル採取なら手で取れるが全面的に撮るには下に土も溜まってるし手で取れるようなものではない。
ゼニゴケみたいなものが取れるなんて一言も書いていないぞ。 あんなものカナダワシでこすろうが取れんし、そんなことしたら墓が痛む。 専用の薬剤を使わないと難しい。 お前は馬鹿だな。反論の対象を間違えてる。苔の知識も無いのに苔限定で反論してるって
馬鹿通り越してるぞ。他に何も言えないから仕方ないか。
どうでもいいが、ハイゴケというのは定着しない苔なの。定着しないで這って移動するように
見えるからハイゴケ(這苔)というのだ。人の入らない草むらや廃屋の壁や屋根などに
ボロボロの高フ綿みたいに広がってることが多い。
湿った綿クズみたいなものだよ。
持ち上げるだけで剥がれてしまう(もともとくっ着いていない)。
「ハイゴケ 画像」でググってみろよ。
お前はマジでガキだろ。
そもそも古い墓石の苔落としなんか子供にやらせるかよ。
70過ぎの訳の分かった大人なら絶対にさせないことだ。
将来のある人間には葬式や墓場関係のようなことはやらせない。
他にも葬式の受付などケガレの関係は人生の確定した老人がやることであり、将来のある
若い人にはさせないものだ。
今は受付なんか葬儀屋がやってしまうから分からなくなってしまっているけどな。
墓の関係なら、墓参りや軽い掃除ならともかく、墓いじりなんか子供にさせるわけがない。
お前はものを知らな過ぎるよ。
それで先祖話なんかするからおかしなことになる。 だからさ いつもの基地外が書いてるんだから、真に受けるなよ ◯一般庶民の家庭に存在する家系図の信憑性
ご先祖は平家の落人 能登半島伝
「日本の家系図のほとんどはニセモノである」
というのが歴史家のごく普通の意見である。
http://neroloop.boo.jp/archives/3678
武士にとって家系図とは今で言うところの
履歴書のようなもので、さらに江戸時代では
出自や家柄も出世にあたっては重要なものでした。
そうなると、出世のために有利な色よい
家系図が欲しいところです。そこで
「ニセ家系図」という、名家や将軍家、公家との血筋があるように””盛った””家系図が流行したのだそうです。こうしたねつ造、改ざんを得意とした「家系図屋」という職業も存在していたということですから驚きです。
このような色よい家系図を手にして有頂天になっていたら、とんでもない家系図になってしまいます。
https://uguisu.skr.jp/history/nise.html
室町幕府が滅びた後も続いて現在にまで至っている足利氏は、僅か二系統だけ。
http://muromachi.blog.jp/archives/1068560606.html そう言えば太田亮という人が書いた姓氏家系大辞典に
「庶民の間に伝わる家系図で、名門名家に繋がるものは、8割から9割偽物である」
て書いてあった >>525
うちは分家だから平民だったが本家は大名華族だった。 柳沢吉保の子孫だけどあまり知られていないしマイナー大名だから肩身がせまい 西美濃の稲葉の末裔だけど、その話をして興味を持たれたことがない >>521 ハイゴケとは言っていないだろ。 ハイゴケは手で取れるが土までは取れんと言ってるだけじゃ無いか。
>>520 で取れないのはゼニゴケと言ってる。
俺も苔は少し趣味で育てたことがあるから、少しはわかる。
何も知らないのは >>521 お前だ。
先祖は身近なものなんだよ。 何が汚れたものだ、けしからんことを言うな。 >>530
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない >>529 稲葉って聞いたことあるよ。
織田信長の時代の稲葉貞通が有名かな? >>531
お前は苔のことなんか何も知らない。
お前の知ってるのはゼニゴケだけだw
それなのに
>俺も苔は少し趣味で育てたことがあるから、少しはわかる。
だもんな
シラ〜〜〜と嘘つく奴なんだよお前は
>先祖は身近なものなんだよ。 何が汚れたものだ、けしからんことを言うな。
なんと馬鹿な奴だ。
先祖が穢れているとかではなく、墓場という場所の問題だ。
墓場というもの、あるいは墓というものは死に関連するもの。
どうしたってハレの場所にはなり得ない。
墓場で孫に墓の苔だの土だのに触らせる馬鹿がいるかっての。
そんなにご先祖様が有り難いなら、お前は墓場で結婚式をあげろ
ご先祖様のお墓の苔だよ、とか言って自分ちの庭で増やせばいいじゃないか
墓の玉砂利を一つお守りに持って歩け
大受けするぜボケが あ〜〜あ、正体晒しちまった、馬鹿だなw
自演の会話だけにしとけばよかったのに
柳沢さんなの?
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない
源氏の名族じゃん。
なんて「人生終わってる感」がすごくていいわw >>540
勝小吉連投馬鹿w
釣られてくれるなんて素直だねぇw 柳沢吉保の子孫だけどあまり知られていないしマイナー大名だから肩身がせまい
柳沢さんなの?
実を言うと血統でいえば柳沢家の子孫なんだけど祖先が養子に入ってるから名字は柳沢じゃない
源氏の名族じゃん。
一人で会話してる姿が可愛いね。
で、お前、もう反論しないの?
エアー墓参りの話 墓参りの話なんか一回もしてないけど
何を勘違いしてるんだこの連投バカは?
もう少し見極める目を養ったほうがいいな
連投バカには全員同一人物に見えるらしい >>543
お前それは前の >>541 で書いておかなくちゃ駄目なんだよ
やっぱり馬鹿だね
そもそも自演でこんな間抜けな会話するのはお前しかいないわ
で、エアー墓参りはどうなったんだ?w >>544
人を見分けることも出来ない判断力のないお前に馬鹿だの間抜けだの言われる筋合いはないな
まあ見極める目を養えといっても日本語さえ理解できない馬鹿に期待しても無駄だろうな ふ〜〜ん。じゃ墓参りのインチキ話は終わりということか。
面白かったのにな、、、w >>546
上で墓参りの話なんか一回もしてないけどって書いてんの読めないのか?
勘違い馬鹿なお前にも分かるように教えてやろう
>>442
>>445
>>452
そして今日の>>539以降、ただの一度でも墓参りの話を書いてるか?
だから人の見分けることのできない馬鹿と言ってるんだよ
お前みたいに毎日スレに張り付けるほど暇じゃないからな しかも一番最初に書き込んだ>>442の次に
>>おー、久しぶり
相変わらず馬鹿だなお前はw
と訳の分からない勘違いを最初からしている >>547
お前がどこそこに何を書きましたと言うのは自由。そしてそれを俺が信じるのも
信じないのも自由。本当のところは分からないのだから。
お前がトリップつきのコテハン付けていたのでなければ、自分が書いたというレス番を
書いても無駄だ。
>>548
>しかも一番最初に書き込んだ>>442の次に
>>>おー、久しぶり
>相変わらず馬鹿だなお前はw
>と訳の分からない勘違いを最初からしている
ワハハ図星だったわけだ。
お前の幼稚さはインチキ墓参り書いた馬鹿と同レベル。だから同一人物なんだよ
お前は素直に「俺は70過ぎの墓参り爺なんだな」と思ってればいいの
馬鹿なんかみんな一緒だよ >>549
>>ワハハ図星だったわけだ。
何が図星だと思ってるのか意味不明だな
>>お前の幼稚さはインチキ墓参り書いた馬鹿と同レベル。だから同一人物なんだよ
お前は素直に「俺は70過ぎの墓参り爺なんだな」と思ってればいいの
馬鹿なんかみんな一緒だよ
幼稚なのはお前だろ?おまけに自己中
周りが見えず延々と自己満にまみれたスレチ長文を連投してスレ進行を妨害しているお前から幼稚といわれるいわれは残念ながらないな >>539
なんだよ。もっと書いて欲しいのか。
催促されてしまった、、、
ではちょっとだけ書いてやるか
>>477
>婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
これに対して俺は
>それなりの家系で庄屋をやってる家は息子を婿になんかやらないだろう
と書いたわけだが
実際、婿というものはどういうものだったのか
農家の次男・三男は、奉公に出るか養子(婿)に行くか、兄の家で一生耕作を
しているか、さもなければ職人になるかであった。
養子(婿)に行くことは、「糠三合あれば養子に行くな」と諺にあるぐらいで、あまり
よい境遇でないことは明らかであった。
なぜならば家族の中での地位とか権力というものは、結局は経済的な力いかんで
決まるものであるから、とにかく家も土地も持っている妻の実家の方が、労働力しか
持っていない養子(婿)より力が強いのは当然であった。
養子の代わりなんぞいくらでもいる。
妻の実家の人間は養子が出ていっても食っていけるが、養子の方は妻の実家が
なければ食うこともできず、住む家もないのである。せいぜい実家に帰って飼い殺し
になるのが関の山。歳をとってからではそれもできない。
嫁が無力なのと同様に婿も無力であった。 婿養子に行くときに、養父に入れた証文が残っている。
「養父母の指図には少しも背きません。万一下知に背きわがままの心を持ったら、どこに
追放されても恨みには思いません。夜出歩くこともしません。暮れ六ツ過ぎに出るようなことが
あるなら養父に断り、監視の人を連れていきます。養父が監視は無用と言われれば下知
しだいにします。」という内容である。元和2年(1616)の資料である。
これは婿でなく養子の例であるが、
養子になってのちに実子が生まれると、面倒な問題が起こる。
そこで事前に養父から養子側に家督証文というものを入れる。
「後に実子が生まれても必ず養子に後を継がせます。田畑・山林・屋敷とも渡します。
万一離縁の際は二つ割りにして半分は渡します。ただし、養子が自分から離縁を言い出した
場合はこの限りではありません。」といった内容である。
こんな証文が作られたということは、この種の紛争が珍しくなかったということである。
しかも、内容は一見養子に有利であるように見えるが、最後の一文がミソである。
養子から離縁を言い出した場合は何もやらなくていいということで、要するに養子の側か
ら出て行くようにし向ければ養家は一銭もやらないで済むのである。
農家の婿などというものは、例え死んで墓に葬られても、「これはあの家の婿だわな」と
足で指される。名も言われず、足で指されて「これ」呼ばわりだったという。
岩波新書「ものいわぬ農民」。 コピペご苦労さん
人がいなくなってもずっと一人でやってろ
もう止めないから こいつは前からずっとこんなくだらないうざったらしいことを垂れ流してるやつだろ?
何の目的が有るのやら。 妬みか? >>476
>自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
先祖ははっきりしなくていいから頭をはっきりさせろ
おとぎ話みたいな話してるんじゃないよハゲ >>476
あくまでも喧嘩売ってくるからもう少し書くか。
このお墓の話にはまだまだおかしなところがある。
山裾に一族の墓があるという。
そして
>しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめ
>られてるから墓石は無くなってる。
のだという。この墓場に並んでいる墓石は明治以降のものばかり。
明治以降に死んだ人たちの墓は
>小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
というから、まだこの家の「○○家の墓」というものは建てられていないらしい。
この点、>>489 には
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも
>掃除をしてた。
と書いてあるから、お父さんの埋葬も個人墓。お父さんが亡くなったのはそう古いことでもない
だろうが、その時点でも「○○家の墓」は建てられていない。
しかし、今時個人墓を連ねている家なんかあるだろうか。
どこの家だって一つの墓にまとめてしまっている。
この家では江戸時代までの墓は整理し、祖廟にまとめて祀ってあるという。
そのときに遺骨まで収納している。
>>489 に
>明治以前の墓は整理して、納骨堂を作り合祀している。
>」(同じ県出身の元大臣の揮毫で、祖廟と書かれている)
と書いてある。
大臣に揮毫してもらうほどだから立派な建物なのだろう。さらに墓は掘り上げて遺骨まで収納
しているのだから、相当に金がかかっている。
江戸時代までの墓は大金をかけて整理したのに、一方で明治以降の墓はそのまんま。
しかも、現在70台の兄弟の父親の墓まで従来どおりに個人墓なんだそうだ。 普通順番は逆だろ。まずは「○○家の墓」を建てる。いわゆる家族墓。
そこに家族といえる範囲の遺骨を納める。祖父祖母は当然、曾祖父母も入る。
高祖父だって、そうだと分かってりゃ入れるだろ。
さらにもっと古い墓に入ってた先祖は、「○○一族の墓」というのをもう一つ作ってそこに
入ってもらうか、大きな「○○一族の墓」の墓を作ってそこに今のファミリーも含めて全部
そこに入るというのもある。古い墓は掘り起こしたりせず、その墓の土だけを新設の墓に
入れるのが普通。
うちの家の墓がある墓地では、江戸時代から続いている家が何軒かある。
そういう家は分家がたくさんあるから、同じ名字の墓がいくつも並んでいる。
管理人に聞いたところでは、三十数家に分かれているという。
江戸時代から続いていれば自然にそのくらいにはなるだろう。
そのうち大きな墓は6つぐらい。本宗家の墓は大名の墓みたいに周りに20センチぐらいの
太さの石材を並べた玉垣を連ね、中央奧に○○家の墓という大きな新しい墓石、両側に
古い墓石が7、8基づつ並んでいる。
分家は規模が小さくなり、○○家の墓の他に古い墓石が3つぐらいとか。
そして最近の分家は普通の家族墓のみ。
>山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理
古い家は分家分家でどんどん増えていくんだから、それぞれが個人墓をズラズラ並べてたら
どういうことになるんだよ。それに墓というのはまとまって作るの。管理もたいへんだから。
水場だって桶だって帚ちり取りなどの掃除道具も必須だし。ゴミ捨て場も必要。
それを山裾のあちこちに作るわけにもいかない。
どこだってコンパクトにまとめていくんだよ。
>>476 の書く墓の様子は現実味がない。父親の墓まで個人墓なんてあるかよ。
いつの時代の話をしてんだボケ 分家が増えすぎると違う山の麓に又作ったりして増殖していくよ。
うちの先祖の墓なんて1000坪近くあるが(大部分は山)そのうち200坪程度が
地目が墓で無税だが明治以降増殖し残り部分は墓が建ってるのに地目が畑等で課税されてる。(田舎なので安いけどね) >>558 >>559 よくも長々と自分勝手な曲解ができるものだな。
読解力 0だな。
>>476 では高祖父の墓(明治末期)が見つかったことと墓が夫婦並んで建てられてたとしか書かれていないだろ。
また、両親の墓もないのに墓参りになんか行くかよ。
それ以降の墓は大きくなって夫婦、子供位までは同葬が多い。 >>561 補足
ついでに言っておくが、大きな墓になってからは皆〇〇家(累代)の墓 だけど、 同じ苗字だから墓誌を見なければ誰の墓かわからない。
何で〇〇家の墓がないと思ったのか意味不明。 自分の所の状況と他人の状況を同じと思うなよ。
ただ、自分は遠方で余り墓参りに行けないから詳しい事情はよくわからないが、大きな墓はうちの直系の墓が多かった。
もしかしたら地元の人達は最初から祖廟に入ってるのかもしれない。 或いは下の方にも墓石があるようだからそっちの方にもあるのかも。
先祖祭りの時には、全く別の場所の古い墓石群をお祭りしてる。 畳2畳位の巨石を中心にお祭りをする。 所で似た様なスレタイが二つあるけど、ここのスレタイなんなの?
正し?
但し?
俺は何となく正しい血族先祖に限ると言うのをはっきりわかった先祖と勘違いしてたけど、もしかして、ただの血族先祖以外の話をするなと言うスレだったのかな?
俺はどっちでも良いが、スレタイはおかしいんじゃ無いの? >>1 を見るとずっと同じスレタイを使ってるんだね。
こんな言葉が許されるのか? 念の為大辞林をくったけどやはり間違ってる。
歴史を語るのなら正しい日本語で話さないと通じないぞ。 次に立てるときはスレタイの誤字を訂正して下さい。
誤:先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る
正:先祖探しのエピソードを語る但し血族先祖に限る
ここは先祖探しのスレなんで先祖の自慢話とかやめて下さい。
基本、先祖が分かった人は用はないです。
先祖探しのエピソードならいいけど。 しかしさ、一族本家の大元がはっきりしてても、自分の直系が本家筋のどこから枝分かれしてるか調べるのは普通の先祖探しと同じだよ。
身近な戸籍調べなどから上に辿っていくしか無いんだから。
本家直系だったら全てはっきりしてるからそんな必要はないけど、そんな家系は少ないだろ。 >>566 >>15 でも指摘されてるね。正し>>但し >>561
お前は >>489 にこう書いてあるじゃないか。
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
>戸籍調べをしていくうちに、親父の祖父の墓の後ろにある墓が親父の祖父の弟の墓である事がわかった。 だっ>たら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた祖父の墓>が見つかったというだけの話。
>うちの直系の墓がずっと一列に並んでいた。
「自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓がある・・・」と明確に書いてある。
お前の父親の墓があるんだよな。「父親の墓」とある以上個人墓だろ。
個人墓がずっと一列に並んでいるんだよな。
>>476 には
>昔の墓は、小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
>苔を落として初めて名前がわかった。 次の目標はその前の世代の墓石を見つけること。
と書いてある。
苔むして簡単には誰の墓か分からない墓石がずっと一列に並んでいるわけだ。
夫婦も一緒でなく別々の墓石。完全な個人墓だな。
お前の父親の墓まで個人墓で先祖の墓に連なっているんだから、「○○家の墓」は作られていないと
考えて当然だろ。
「○○家」の墓が作られたなら、その時に古い個人墓は整理してしまうからだ。
古い墓郡をそのままにしながら、新しい「先祖代々の墓」を作るなんてことはしないよ。
新しい墓を建てながら古い墓も残す、新旧両方の墓があるなんてことはあり得ない。 それなのに、お前は >>561 で
>それ以降の墓は大きくなって夫婦、子供位までは同葬が多い。
などと書き、○○家の墓があるようなことを言い出した。
>>562 で
>何で〇〇家の墓がないと思ったのか意味不明。 自分の所の状況と他人の状況を同じと思うなよ。
と○○家のファミリー墓があるようなことを書いている。
お前の言ってることは全く理解不能。理解不能というより常識に反していて理解の外だ。
繰り返すが、新しい墓を作ったら古い墓石は全部整理してしまうのだ。
苔むしたまま存置しておくなんてあり得ない。
お前の家では明治以前、すなわち江戸期の先祖は全部祖廟に祀ったんだろ。
その時に古い墓は整理処分したんだよな。
お前も>>476 で
>しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめられて
>るから墓石は無くなってる。
と書いている。古い墓はちゃんと整理しているじゃないか。
その後の(明治以降の)墓も同じだよ。
新しく「○○家累代の墓」を作ったなら、その時に整理されている。
父親だの、その祖父だの、祖父の弟だの、祖父の祖父だの、そういった人たちの墓がそのままだ
なんてことがあるわけない。 >>560
>分家が増えすぎると違う山の麓に又作ったりして増殖していくよ。
これもおかしい。墓地なんてそうそう作れるもんじゃない。
分家というのは、墓をつくる時点ではその家の子供たちだ。次男や三男。
本家(兄の家)の墓がそこにあるなら、俺の家の墓もそこに作らせろというに決まっている。
それが何で別の山の麓に自分で墓地を作って墓を建てるんだ?
戦前はもちろん家督相続で単独相続なんだから、山林の所有権は本家のもの。
本家が分家に、あそこの山の麓をやるから墓地を作れとか言うのか?
なんでわざわざそんなことしなきゃいかんの?
本家の墓所があるなら、そこに分家の墓も建てさせるって。
双方ともそっちのがいいに決まっている。当たり前だろ
どこの墓地でも古い墓を整理して、土地小さく区画して新しい墓が建てられていったのだ。
そうでないと掃除や草むしりも大変だしな。
墓を隙間なく並べるのは雑草対策もある。
古い個人墓をそのままにしておいたら、あっという間に雑草に埋もれてしまうぞ。
(雑草のものすごさを知らないんだよなお前は。ガキなんだろうな。)。
墓地の用地取得困難もあるし、管理上の問題もあって、いまどき昔の個人墓がズラズラ並んでいる
墓地など無い。
寝言みたいなこと言ってんじゃないよ。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 中学生並の自己中ハゲが必死だな…
\________________
ΛΛ ll:::::::::::l|
( )―ll:::::::::::ll―――
/ つ二二lニl
| ̄ ̄|__)―ΛΛ――― / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
`ー┬‐'' ( ) < もう皆さん嘲笑しているのにね…
┴ | ヽ. \______________
し___)〜 こいつどこに住んでるんだろうな。 余りにも自己中で色んな地方、風習があることが理解できないみたいだな。山の裾野が広いと言うことも理解できないみたいだし。 >>571
俺は一連の書き込みとは違い単独レスだ
江戸初期の分家は分家時の相続分が多いらしく多数分家を出すが離れすぎた分家は
本家とは異なる場所に墓をつくる。理由は分からん。
古い墓は整理せず、そのままだよ。だから膨大な墓石が並ぶがまだ空地もたくさんある
お盆の頃に一族総出で雑草刈りが先祖祭りと呼ばれるもの
土地は本家所有だったり一族名義だったりめちゃめちゃだが特に相談無く墓が建てられてるようだが・・・ 俺の先祖の場合例えばこうだ
池田源左衞門正宗次男
∴ 池田庄兵衞正泰 - 池田源右衞門正仲 - 池田庄左衞門正綱 - 池田源兵衞正國 - 池田庄右衞門正光 - 池田源左衞門正滿
池田庄左衞門正綱三男
∴池田作左衞門正成 - 池田源太郎正家 - 池田作左衞門正行
池田源太郎正家四男
∴池田作兵衞
このように分家は必ず本家の通称と同じ名前(どちらかと言うと八兵衛の場合は八の方のこと)を継承しているな
父が左衛門の場合は子は右衛門になる理由は存命中の同名を避けるため
父が亡くなったり隠居した後に子も父と同じ左衛門になる
だから俺の先祖の場合は山田太郎兵衛の孫が山田太郎兵衛だった
俺の先祖の場合は本家から分家したらほぼほぼ「吉」を継承してる
戦国時代に分家した遠い親戚の戦国武将の通称は吉太夫
江戸時代に分家した遠い親戚の藩士の通称は吉右衞門
戦国時代に他家の養子となった戦国武将の通称も吉兵衞
てな感じだな、あくまでもこっちの一族の場合だ
俺の別の先祖の場合だと
∴佐野藤兵衞綱信 - 佐野藤兵衞綱義 - 佐野藤兵衞綱家 - 佐野藤兵衞綱親 - 佐野藤兵衞綱爲 - 佐野藤兵衞綱朝
佐野藤兵衞綱家次男
∴佐野久兵衞綱氏 - 佐野與一綱詮 - 佐野久兵衞綱滿
というように兵衞を重視してたりする
どちらにせよ、本家と分家は何かしか名前が似てる つまり何が言いたいのかと言うと
同じ時代に足利源左衞門と足利平右衞門がいたとする
この場合名前が似てないので両者に親子関係はないとわかる
次に同じ時代に足利源左衞門と足利源兵衞がいたとする
この場合両者には親子関係があるとすぐにわかるんだ
源左衞門という名前のうち上の源の部分、この部分を嫡子に継がせる家が多いからだ
分家ならその上の部分は源ではなく平右衞門とか、全く異なる名前になる ま、分家筋も本家のどこかの代の通称と似たような通称を使ったりするから、だいたいこの家はこの本家の分家なんだとわかる
例えば
鈴木三郎右衛門を初代とした家の子孫に鈴木宗左衛門がいたとする、その鈴木宗左衛門の家の子孫が鈴木宗右衛門だとする
鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎右衛門がいたりする
このように何かしら名前が似てるからよく分かる ×鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎右衛門がいたりする
○鈴木宗左衛門の庶子が分家して、鈴木宗右衛門と同時代に鈴木三郎左衛門がいたりする
さすがに本家の初代と同じ三郎右衛門ではない、間違えた、三郎左衛門ね それも一例に過ぎん
ここで長文を書く奴はろくでもない奴ばかり
相手にしないのが一番 女は黙って養子に逆らわなければならない。
男は農民のしたの意味がある馬みたいだな。。。 自分の家紋を追いかけていくと意外と面白いよ。
俺はてっきり両親から聞かされていた紋だと思っていたが、墓石を見ると微妙に違う。 掘りかたが下手とかそんなのは抜きにして確かに紋が違う。
よくよく調べると、当時仕えてた大名から紋をもらったらしい。 それが変化して今の紋になったんだと思ってたが、かなり違うからよくよく見ると、その大名の紋に近い。
地元の石工は、昔から続いてるし余りいい加減なことはしないだろうなとは思ってたが、墓石の掘りかたを良く良く見ると結構雑。
普段は余程のことがない限り見ないからわからない。、 ーーーーーーーーーーーーーーーはい。以上、場面転換失敗w
では元の話題にもどろうな
>>489
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
お前の実家は「○○家累代の墓」があるんだろ?
それなのに何でそれとは別に「自分(70過ぎ)達の親爺の墓」があるんだ?
○○家の墓を建てたら、まず第一に入れるのは自分たちの父親の遺骨だろ。
何で別になってるんだよ。そんなのあるかっての
>>561 ではまた変なこと書いてる。
>また、両親の墓もないのに墓参りになんか行くかよ。 だって
お前の家の○○家の墓ってのはいったいどこにあるんだ?
お前の話はヒッチャカメッチャカだわ
自分でも何を書いてるのか分からなくなってるんじゃないのか。嘘にしてももう少し整理してから書けよ
>>573
>色んな地方、風習があることが理解できないみたいだな
地域性や地方の風習の違いで逃げようとしてるが無駄無駄。
そんな問題じゃないってw
お前があまりにもものを知らなすぎるんだよ。お前は子供だろ?
>>574 みたいな自演までやりやがって。
お盆の頃に一族総出で雑草刈りなんかいまどきやらないわ
何故かというと除草剤撒くのが一般的になったから。
自分の家の墓の周囲に立ち枯れてる草をそれぞれ集める(抜くというほどの手間ではない)だけだよ >土地は本家所有だったり一族名義だったりめちゃめちゃだが特に相談無く墓が建てられてるようだが・・・
これもおかしい。
戦前は家督相続で跡取りが単独で相続したんだが、戦後は分割となった。
跡取り以外の相続人が権利放棄すれば単独相続になるんだが、墓場の場合放棄はしないんだな。
山林や田畑の権利は放棄したとしても墓場の所有権(持分権)は放棄しない。
やっぱり自分の墓は他人の土地に置かせて貰ってるというのじゃなくて、自分の土地に持っていたい
のだろうし、墓地管理上の発言権も残しておきたいからなんだろうな。
ということで、墓地の所有権はいくつにも分かれていく。戦後だって最低二回、普通三回ぐらいは
分割されていってるんじゃないか。ということで幾十もの所有権に分かれ、共有登記になっている。
ほとんどがそうだ。単独所有なんてまずないぞ。
ということで共有者たちがまた縁者たちに頼まれて墓を建てさせてやったりするから、墓は立て込んで
いく。いっぽう墓を終う家もあるんで、一杯一杯にはならないんだけどな。
たくさんの利用者から集める管理費で墓地というものは存続していく。
一軒の家で江戸時代から墓地を維持していくなんて到底無理。あり得ない。 >>567
馬鹿だな。戸籍を調査していって、戸籍では調べられなくなったら寺の過去帳などで
調べて、それ以上調べようがなくなったらそこで終わりだよ。
その先を系図で辿ろうなんていうのは馬鹿のすること。
さらに、系図に名前の出てきた武将か何かを姓氏辞典で調べて、うちの家系は
1.000年前までハッキリしてるなんて言う奴がいたら、それは池沼。 >>583 こいつの頭はカチカチなんだな。 この被害妄想は何処から来てるんだろ。
俺の親父も死んだ時は最初祖父の墓に入ってた。
累代の墓と言っても、その祖父の家族墓だからな。 祖父の弟は戦死したから別に個人墓を作ってる。
俺の従兄弟は祖父の墓に入ったし。 別にどうでも良いだろ。
お袋は生きてるうちに自分の墓を作った。 そしてお袋が死んだ時に俺の兄が隣の祖父の墓から親父の遺骨を新しい墓に移した。
勿論、俺の祖父の墓の隣。
法名塔には、今は両親の戒名しかない。 かなり大きな法名塔だから俺も入って良いよと言われてるが、結構迷う。 自分は入りたいんだけど。
一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな。 タダみたいな話だけど。
無縁仏にならない安心感はある。
十数人での墓参りは楽しかったぞ、特に小学生の孫達は楽しそうだった。 大学生の孫達は各々忙しくて墓参りにはこれがなかったが後で集まった。
ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
>>585 逆だよ。 うちの苗字は全国でただ一つの苗字だから家系ははっきりしてる。 初代が苗字をもらったのもはっきりしてる。 苗字をもらうまでは氏を名乗ってただけ。 それで時代が推定できなければそれだけのこと。
自分がわからないのはいつから分岐したのか調べたいだけの話。
長文失礼 >>583
・・・としか言えんが。普通に先祖祭りで雑草抜きするし
>>584
基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
ただ実際は墓は他の場所(地目が畑や雑種地)にも広がってるのでそれぞれ権利はあるのだろうが・・・どうなってるのやら? 今日、何年も前に知り合って定期的に会ってる人が自分と12親等くらいで繋がると知ってビックリw
もともとよその地方から出てきた一族なだけに、地元で知り合った人に共通の先祖を持つ人がいるのに驚愕したわw >>586
お前は >>489 に
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
と書いてしまった。これが失敗なんだよw
父親の単独墓があって、その隣に父親の祖父の墓がある。そうとしか読めない。
しかしその後、家族墓もあると書いた。
じゃ父親はどこの墓に入ってるんだと聞いたら、今度は家族墓の方に入っているという。
滅茶苦茶じゃないか。
それじゃその家族墓はどこにあるんだ?
同じ墓地にあるんだろ
そうすると又おかしなことになる。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
と書いてある。
自分の父親の墓に10年も墓参りしてないのか?
いくら遠いといったって自分の父親の墓だし、10年の間には何かしら田舎に用事ができるはずだ。
10年間全然行かず、墓参りもしてないなんて考えにくいけどな。
大学生の孫まで、来られなければ後で集まるような家なんだろ。
お前の書いてることは不自然なことばかりだ。 だいたい、父親の代以降を家族の墓として、父親の祖父は別の墓というのは何なんだ。
そんなの聞いたことないぞ。
そして、父親は家族墓に入れたと言い、そしたら墓が残っているのはおかしいから、急遽父親は
祖父の墓に入っていたことにした。おかしいだろ。
だってお前の説明では、それぞれ完全な個人墓で、夫婦でも単独の墓が横に並んでいるということ
だったじゃないか。
不自然な点を指摘されるとコロコロ変えてしまう。
しかし、父親の代までとそこから上を別の墓にするなんてことはあり得ないんで、これだけでも
お前の話は嘘っぱちと分かるんだよ。そんな奇妙な話を誰が信じる。 >一族の墓とは言え、墓の権利金、墓石込みは何十年か前20万円位だったかな
嘘つけw
>ゴミが出るなんて何を言ってるのやら、清水は持って行ってゴミは全て持ち帰るんだよ。
> 今の管理された墓地しか知らなければ仕方ないだろうけど。 独断はやめなさい。
馬鹿だねえ。墓場のゴミは家には持ち帰らないんだよ。
墓場にあるものを家に持ってきたりはしないの。
墓に供えたものを持ち帰るって、たとえばお墓の花が枯れていたらそれを家に持ち帰るのか?
お盆のときは、団子粉でつくった丸い団子を蓮の葉とマコモに包んで墓前に置いてくる。
そうでない地方も米を備えたりするわけだ。
そういうものも後で家に持って帰るのか?
卒塔婆も持ち帰るの? 古くなって黒ずんで読めなくなったような卒塔婆は処分するわけだが、
そういう卒塔婆も家に持って帰るのか。すごいなw
墓場にはいろいろ道具もあるだろ。水桶とかひしゃくとか。
ああいうものが壊れたら家に持って帰るのか?
お墓の○○家なんて書かれた水桶を持って帰ってきたら怒られないか。
お前の家はすごいなw >基本的に墓みたいな売買対象にならない土地は名義書き換えしないので明治初期の先祖のままだぞ。むろん>権利は戦前分は家督相続者、戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合)
登記がどうなってるかは実体的な権利とは関係ないのよ。
放置された山林なんかは明治のご先祖様の名義のまま、何十人もの相続人の共有となっている。
3.11の大震災の後に、山林を開発して街を高台に移そうというときにこれが障害となったのは
誰も記憶に新しいところ。
祭祀の承継の場合は確かに分割相続の原則は適用されない。民法897だ。
しかし、「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
あと神棚とか御神札とかな。
こういうのは、例えば相続人が三人だからって3つに分割するわけにはいかないだろ。
といって共有にすると管理がいい加減になる。
だから慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者が承継することになってるわけだ。
だが、土地は違うぞ。土地はただの不動産で祭祀承継物ではない。
墓地であってもこれは変わらない。
だからお前の書いた「慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。(地目が墓の場合) 」
というのは嘘。 なんでお前は嘘ばかり書くかな。
まずいい加減な空想を書いて後から辻褄合わせをしようとするのが原因じゃないか。
基本が空想でも、筋が通っていればそれなりにまともな内容にはなる。
しかしお前の書いたものは、例えば父親の墓のこととか、後から論理的に破綻するようなこと
ばかりなので、後から変な事実を付け加えたりして、辻褄合わせに苦労することになる。
それと知識もないのに知ったかぶりをして、それをまたハッタリで通してしまおうとすること。
こういう人は、家族や周囲が低学歴・低知能の人ばかりであることが多い。
周りが馬鹿ばかりだから適当なこと言っても通ってしまう。
しかし、さすがにネットでは普通の知能で普通にものを知った人が多いので家と同じわけには
いかない。
ということで、>>586 は嘘の上塗りはやめた方がいいと思う。
とくに墓地とか墓とかいった関係は子供には分からないことが多い。ネット検索の知識などでは
どうにもならない。馬鹿晒すだけだからやめとけ。 >>594馬脚を現したな。本の知識だけだと現実を見誤るいい例だ。
墓地も祭祀承継物だよ
ttps://www.forever-kato.co.jp/topics/index.php?t=000087 >>583 >>591 全くうざったらしいな。 書かれている事そのままなのに勝手に捻じ曲げて解釈しようとするからない脳みそがパンクするんだよ。
>自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓がある
と書いてるままだよ。 親父の墓は 〇〇家の墓 と書かれていて親父の祖父の墓は 〇〇家累代の墓 と書かれてるだけの話なのに。
>>586 でも説明してるのに信じ無いのはお前の勝手。
>>591-595 長々と下らん妄想を垂れ流して皆に迷惑だぞ。 読む気にもならん。 はっきりしている事はお前には読解力が皆無だという事。 >>596
あ〜あ、馬鹿だなあ。やっちまったよw
>墓地も祭祀承継物だよ
墓地が祭祀承継物なんじゃない。「墳墓」すなわち「お墓」が祭祀承継物なんだよ。
俺は書いてるときにお前がここを誤るんじゃないかと思ってたんだ。
そのとおりになってしまった。
しかも関連サイトのアドレスまで付けて得意げに。
その上、その関連サイトにはちゃんと説明がしてあるのに理解できてない。哀れになるわ。
読解力がないのはどっちだよ。
いいか、墓は祭祀承継物だ。条文に明示してあるし、俺も>>594 で
>「祭祀」とは墓とか仏壇とか位牌とか御仏具とか、仏壇の中のご本尊とか教典とか。
と書いて「墓」を入れている。
そして897条の「墳墓」には墓の構造物だけでなく、墓を存置するために必要な範囲での
敷地を含むとされる。これは拡張解釈でなくて、いわゆる勿論解釈といわれるものだ。
法文で明示されていなくても条文の趣旨から当然に文言に含まれるとする解釈の仕方だよ。
お墓は空中に置いておけないし、お前の物だから持って帰れと言われても困る。
だから当然そのままにしておけるわけだ。ということは、祭祀承継物たる墓の所有権には
墓として存置する上で必要な範囲の土地所有権も含まれるということになる。
お前が得意げに指示したサイトにも同じようなことが書かれている。
墓として利用する上で最小限必要な範囲ということだよ。
墓として存置ということは祖先の祭祀を行う目的を不可能ならしめない範囲で、と言い換え
てもいいだろう。 例えば、敷地所有権が墓の石組みぴったりにしか無いとしたならば、嫌がらせで墓の
脇ギリギリに物置を建てられたりするかも知れない。また墓石に沿って塀を建てたり
隣をゴミ置き場にされたりするかも知れない。
それでは祭祀を行う障害になるから、祭祀承継物としての用途を全う出来るようにする
ため、墓の敷地だけでなく最小限の範囲で墓の周囲にも及ぶと解すべきだとされる。
具体的にそれがどの程度かは一律でない。
墓の大きさや周囲の状況、墓地の広さとかいろいろな要素を勘案する必要があるだろう。
しかし、一般的にその墓の所有権の及ぶ土地の範囲が墓の何倍もあるということはない。
おおまかに墓から1メートルとか1.5メートル周辺とかいった範囲だよ。
お前の家の墓地は、1000坪あるんだろ?
祭祀承継物として墓の所有権が認められたからといって、その土地全体に所有権が
及ぶわけじゃないんだ。墓地全体の所有権とお墓の敷地の所有権は違うんだよ。
そこをお前は混同してるの。
897条を解説したサイトとか、もう一度読んでごらん。落ち着いて真面目に読みなさい。
そうすりゃ理解できるから。君は読解力あるんだろ。 >>597
はお話にならないよ。
お前はやばくなると勝手にゴールを動かすんだよな。
親爺の墓は ○○家の墓 と書かれていて、なんて今頃出してきたって駄目だよ。
さらに、祖父の墓が累代の墓だなんて言ったら、その後ろに誰々の弟だの祖父の祖父だの
個人墓が並んでいるのは何なんだということになる。そんな奇妙な墓があるわけないだろうが。
だいたい、お前の家の墓である○○家の墓があるなら、なんでお前は墓参りしないんだよ。
>>476 に
>自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。 とある。
自分の父親の墓(お母さんの墓でもあるわけだろ)に10年行かないって珍しいぞ。
こういうことを書くと、今度は「外国に行ってた」とか書くんじゃないかw
お前みたいに学問やったことのない人は、前提条件というものを軽く考える。
端的にその特徴があらわれているのがお前の文章だな。
人間やっぱり学問しなくちゃ駄目だな。 >>600 なんか勝手に人を巻き添えにしていくみたいだから、コテハンをつけるよ。 あまり貴方の相手をするつもりもないんだけど。
>>595 貴方の知識が偏ってるだけだよ。 自分の周りのしきたりしか信じられないなんて可哀想だな。
>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。 読解力があればわかるはずだが。
山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。 水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
俺の親父の祖父の墓の周りはこんな感じ
https://i.imgur.com/4HIR6ae.jpg
親父の墓はこの下にあり、納骨堂(祖廟)と同じ平面。
その一段下にも墓はあるみたいだが、その下は果樹園が広がっている。
下に行くに付け権利者がいるからそれなりの金はかかる。(タダみたいなものだが)
上を切り開いて作るよりは安いからね。
>>600 ご心配なく。 兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
人の数倍以上は稼いでるかな。
自分はその半分くらいしか稼げなかったかな。
毎年墓掃除にいけない場合は、3000円位を送って掃除をして貰う。 >>598-9
お前こそよく読め。1000坪あるが地目が墓になってるのは200坪ほどと書いてある。
>>601そそ、家の墓もこんな感じ。 >>601
全て一族の墓、良く良く見ると同じ苗字じゃない墓がちらほらと見えるが、多分分家か何かなんだろう、墓誌をしっかり読んでないからわからないけど。
その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらいで余り多くはない。
https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
残念ながら、自分の直系の先祖探しは江戸時代末期(1700年代後期)位までしか遡れていない。 次は過去帳探しかな。 名字がひとつしかないから子孫というのもおかしい
途中で家系は途絶えて、関係ない人がその名字を名乗る事も多数の事例があるからね
朝鮮人が断絶した旧大名家の姓を名乗る例もあった >>604 有名な武家の紋だと勝手に使い続ける事は許されない。
今の時代だと朝鮮人が勝手に紋を使う事もあるだろうけど、江戸時代までは許されないな。
わざわざ本家の紋と分家の紋を変えてるケースも多い、本家の紋を分家が使うことは許されない。
墓の紋も参考になる。 紋の名前と大まかな図案を知っていても細かな図案が違うケースもある。 江戸時代でもいるだろ。
勝手に使う奴。
すべてを把握して処分なんてできなかったからな。
系図も捏造して、○○の子孫の出来上がり。 系図の捏造は多い見たいねでもさすがに近い年代までごまかしたらすぐに見破られる。
100年位前までは隣近所みんな顔なじみだからね。 ???系図なんて基本門外不出のもんだろう。
苗字帯刀許可を願い時とかに役所に届けることもあったらしいけど >>601
>>>596 さんは俺とは無関係だから勝手にごちゃ混ぜにしないでくれるかな、迷惑だろ。
> 読解力があればわかるはずだが。
これは無理。
民法897条の「墳墓」の解釈の誤り(墓地の土地所有権との混同)は、 >>596 より先に
お前がやってるんだよ。>>587 な。
>戦後は祭祀の継承という法律(?)で
>慣例に従い長子相続されるので権利が分割されることはない。
この間違いは、俺が>>594 で指摘し、ちゃんと説明を加えてやってる。
だからその後にさらに変な理屈をこねる人間は出てこないはずなんだ。
ところが出てきた。お前の言う >>596 さん だ。
そして >墓地も祭祀承継物だよ などと堂々と抜かし、さらにサイトのアドレスを示した。
おかしなことに、このサイトでは正しい説明がされているんだ。 これはどういうことかというと、お前がハッタリをかましたんだよ。
みんなはよく分かってないから、強く出て専門のサイトまで示せば、印象をひっくり返せる
んじゃないかと期待したわけだ。
でもみんなそんな馬鹿じゃないから。結局お前は恥の上塗りをしただけなんだよ。
俺が>>598 で>>596さんことお前に懇切丁寧な説明をしてやって、これは反撃不能と
分かったら、今度は別人だという。
何をやってるんだか。
分身の術なんか使いはじめたら嵐も終わりだぞ。
さらにコテハンなんか使い始めたのもわざとらしい。
自演やってますと言ってるようなものじゃないかw
「墓地も897条の墳墓で祭祀承継物だから、承継人は墓地全部の土地所有権を取得する」
なんて馬鹿な解釈をする奴はいないんだよ。お前がそれをやった唯一の人物。
ほんとに希少性のある馬鹿なんだな。めったに居ない馬鹿。
だから、お前以外に同じような同じこと言う馬鹿なんかいるわけないんだ。
他人だなんて言っても駄目w なんだか写真をズラズラとウプしてるみたいだが、何を抜かれるか分からないので見ない。
けど想像はつくわな。寺の墓地を写してるんじゃないか?
寺の周囲には古い墓地をそのままにした一画が残っていることがある。
あと古い墓石を整理して、一カ所に集めて祀ってあるところもある。
古い墓石は処分するが、ある程度残すのは寺の由緒を示すことにもなるからだろう。
俺の家の近くに30年ほど前にできた寺があるが、最近散歩のついでに行ってみて驚いた。
古刹のようになっている。葬儀屋か墓地業者みたいなのが建てたようなインチキくさい寺で、
民家とたいして違わないような貧乏くさい建物だったのが、堂々たる寺になり、坊主の住居も
壮観といっていいような和風建築だった。
隣の畑を全部墓地にしていた。金が入ったんだろうな。
本堂と墓地の間に竹藪を作り出し、中に薄暗い小径があって、その横に道祖神とか石仏とか
が並んでおり、奧の方には古い石材が重ねてあった。
こんなふうに演出してしまうのかと吃驚した。参道は石畳で松が植えてある。両側は黒塀。
ソバ屋や料亭が和風の雰囲気を演出しているように、寺も古刹の雰囲気を作り出してしまうんだな。
あの寺を見たら、何も知らない人は古くからの名刹だと思うだろう。すごいもんだ。
ま、そこまでやる寺はめったに無いだろうが、寺の周辺を古いままに、あるいは演出でそうしてる
寺もあるんで、被写体には困らないだろうな。 >>601
>山の中に桶とか柄杓とかあるわけないだろ、水すら無いのにバカチン。
>水はペットボトルを何本か持っていくんだよ。
ペットボトル何本かなんて程度で足りるわけないだろ。
花生けの筒なんかちょっと行かなければドロドロになって藻が生えてるし、それ洗うのだけ
だってたいへん。ほんとに水の設備のない墓地に行く人は昔からポリタンク持っていくよな。
白い10リットルくらいのやつ。
それよか、お前の家の墓地だと言ってる場所は山の麓で、すぐ下にも墓地があるんだろ。
下の方にはきっと水道もあるよ。行ってごらんw
>兄の子達も自分の子達も有難いことに日本最高峰の学附を経由し幸せに過ごしてるよ。
「日本最高峰の学附」って何だ? 最高学府と何かを間違えてるのかな、、、
あんた日本人か?
1000年前の先祖までハッキリしてるとか、「自分の子供は人の数倍以上は稼いでる」とか
変な人だな。 >>610-1
君が墓を相続した経験が無いのは分かる。
本の解釈よりも現実が全てだよ。墓地も祭祀承継物です。
ただ都会だと墓地の所有権自体は寺かもね使用権のみが個人か、この辺りと
勘違いしてるのではない>>610氏は
・・・基本的に墓地が非課税なのも知ってる?? あー後都心の一坪数千万の墓地と田舎の値も付かないような墓地では扱いは異なるかもね。 >>610-613 完全にいかれてるな。 お前本当に病院に行った方が良いぞ。
>>587 は俺じゃないし。 他の方が普通に会話されてるのにお前は敵対視して話をしてる。
>>596 さんも俺じゃない。
お前には言葉で言ってもわからないだろうから、赤ちゃんでもわかるようにわざわざ危険を冒して写真を貼ったのに。 赤ちゃん以下だな。
>>612 墓地は寺の墓地ではないと最初から言ってるのに自分の先入観から抜けられないのは先天的なアホ。
>>613 墓のすぐ隣みたいな近くには、うちの本家の神社から明治になって仏様を移した寺があるよ。 有名な湧き水が綺麗な場所。
お参りするのにそんな水をもらうまででもないよ。
隣の寺も、うちがお世話になってる菩提寺も、昔使えてた国司の菩提寺も同じ禅門宗派。
面白い事に菩提寺の前(寺の外)にも巨大な石を中心に祀った墓群がある事をGoogle で知った。
まだそこは調べていないからよく解らないが。 遠く離れてるから中々調べられない。 楽しみが増えた。
>>613 あんたの非常識に耐えられなくなっただけだよ。
ちなみに俺は億近く溶かしたけどようやくチャラにした。
子供達も立派に独立したからそれで十分。 家族が健康に生きていける事が一番。 自分の名字由来検索してみたら、全国人数約2500人ほどの比較的珍しい?名字だった。
それでルーツが清原氏ということだった。
半信半疑だけど人数が一番多い県に住んでて、
名前の由来となった地名もお隣の県だからあながち間違いでもない気がして… >>603
>平地に有る大昔の墓のあたりの先祖祭りの中心はこんな感じ, 周りには小さな墓石が何十個か集まってるくらい>で余り多くはない。
>https://i.imgur.com/2bHAKSf.jpg
これは墓石ではないと思うよ。庚申塚じゃないの。
向かって左の二枚の平たい石は間違いなくそう。
それから中央の大きな岩の右側に並んでいる細い塔。これは庚申塔。
その右に並んでいるのも中に仏のようなものが彫られていて、墓石ではないと思う。
ここは庚申塚とか庚申塔を集めたのじゃないかな。
真ん中のは磐座(いわくら)だったんだろう、多分。だから結界を結んである。
岩磐の上に乗っているのは祠に入れてご神体とされていた石だろう。
明治維新のときにこのあたりにあったものを集めて積み上げてあったんじゃないかな。 失礼、忘れていた。
庚申塚とか庚申塔というのはこんなものだよ
他にも検索して画像を見てみるといい。
www.nerimakanko.jp/photo/detail.php?photo_id=P000000014 あちゃー、、、
おい603
上げとけよ。削除すんなよ >>620 何に対してあちゃーと言ってるのか知らないが。 意味がわかっていないみたいだな。
>>618 の言う様に大石は磐座(いわくら)で間違いない。
磐座を拝んで先祖供養をしていると言う話。
左側の長い石が庚申塔かどうかは解らないが、普通庚申塔の場合、庚申の文字か仏像、神像が刻まれているがこれには無い。
磐座の右手に並んでるのは墓標、 この形の墓標が周りにずらっと並んでいる。
信士、信女の文字が見えるだろう。
https://i.imgur.com/N6ZUAsi.jpg 磐座の上の丸い石は、石造五輪塔のはず。多分一番古い先祖時代のものだろう。 五輪塔は神社に祀られることもある。
上の長丸石が二つに別れてるのが五輪塔の特徴
https://i.imgur.com/fRFUI2k.jpg
左側の長い石は、合同供養搭だと思うよ。個人のものかもしれないが文字が読み取れないからわからない。
この写真はうちの宗派(禅宗)の永代供養搭の例
https://i.imgur.com/TauFXFD.jpg 磐座(いわくら) というのは、神様の降臨を願ってお祭りをする場所だが、ここの場合後世の仏教と混ざって五輪塔も一緒に祀ったみたいだな。 五輪塔は多分先祖の墓石。
ここは、先祖の墓石をまとめて祀ってるところ。
五輪塔はこの下の死者が極楽浄土に行けると信じられてたらしい。
平安時代以後戦国時代から流行った。 江戸時代まで武士の墓には五輪塔は多い。
戦死者を弔うには良かったのかも。 作るのが面倒だからあまり一般化しなかったのかな? >>621
もうやめとけ。
とにかく、この写真から分かるのは
お前のご先祖様は庚申様だということだ(大笑
写真の左の二枚の平たい石は何なんだ。
こんなの個人の墓石にはしないわ
何も彫られていないように見えるのは消滅したからだろ
重ねられたりしていれば削られてしまう。上向きに放置してあっても
雨風で摩耗する。古いものに文字がどうのとか言っても仕方がない。
石塔の右に並んでいる細長い石は明らかに庚申塚。
庚申塔は文字も像も彫られていないものも多い。
ググってあちこち庚申塔の写真を見てみろって。そしたら分かるよ
その右のは像が彫ってあるだろ。これは典型的な庚申塚。
お前はさらにその先に墓石も並んでいるようなことを言うが、何でこれが繋がってる
ところを写さないんだよ。その場にあるかどうか分からんじゃないか。
ほんとにここに置いてるとしたらこれは無縁様だよ。
無縁様のうちでもうんと古い墓石を置いてるんだろ。 ところでさー、
写真の、後ろに見える屋根はお寺だろ。寺の敷地だわこれはw
盤座を個人で祀るなんてあるわけないだろ馬鹿が
>>622
丸い石はよく見えないんだよな。
言われてみれば丸くて上下が平らに削れているようにも見える。
これだと確かに五輪塔の傘の下の丸石の部分。
他に五輪塔の台座の部分もあるように見える。
他の小さいのは御神体と見た方がいいと思う。
いずれにせよ、古い五輪塔の丸石がこれだけ多数あるというのは個人の墓の
ものでないことは明らか。大名だって五輪塔をズラズラ並べたりはしないって。
五輪塔が置かれるようになったのは平安末というけど絵巻などでしか見られない。
だいたい鎌倉時代から。南北朝ぐらいまで盛んに作られた。
弥勒信仰が元にあるんだな。
(>>623 にお前が書いてるのは出鱈目。後で教えてやるよ。)。
この丸い石もその頃のものだと思うよw
お前の家はその頃から個人の墓が綿々と続いてきたわけだ、すごいよなーww >>603 の
>その下の親父の墓のある段の方、奥は祖廟
>https://i.imgur.com/6pknRXp.jpg
左の家型のものが乗っている墓みたいのは経塚だよ。
昔は、亡き人の菩提を弔うために、写経したものをお寺に納めたんだ。
そのときにお寺が受け取りとしてよこしたのが今はやりの御朱印。
だからここはお寺の地所だな。
後ろにあるのは輪廻塔か何かかな?遠くて小さくてよくわからん。
一番後ろにある建物はお寺の位牌堂だろう。
広い場所だな。ここはお寺の駐車場の端っこかな。
とにかく、写真に写っているのは、個人のレベルでどうのこうのというようなものじゃないよ。
お寺さんのもの。
君は先祖とか自分の家族とかお墓とか、何でもどえらいものを空想してしまうようだな。
世界は俺のものだ!なんて言う人もいるしな。
そういう病気があるのかも知れない。誇大何とか病、、ムム、、、とにかくお大事に >>624-627 また、延々と。 勝手にやってなさい。 自分の尺度でしか人の話を聞けない馬鹿に初めて会ったよ。
勝手な妄想には呆れてしまう。
先祖祭りというのは年に一度一族が集まって先祖の霊を弔う祭りだよ。 個人の墓まいりとは別。
先祖祭りをする広場だけでも下手な駐車場より広い。 田舎にしては狭いけど広場に100人位は入れるかな。もちろん一族の墓地。
山の方(祖廟のある方)の墓には人は集まれない。
あまり写真を出すと特定されるから出さないがこれだけ出してわからなければ勝手にしなさい。
(こっちは狭いぞ、祖廟だと言ってるのに何がお寺だよ。)
https://i.imgur.com/JDlelhO.jpg
祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸時代の有名人の墓に巡り会える。
因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。 その後南北朝時代は戦闘に次ぐ戦闘、その頃の先祖の戦記を紐解くのもすごく楽しい。次から次に知らない話が見つかる。ただ、昔の戦場の地名が見つからないのにはイライラする。
また、最近は同族だけのFacebook のグループを作ってる。離れた地にいる同族も話せるからね。 まだ参加者は100人もいない。 疑問に感じた事を出して皆に調べてもらう事なんかもしてる。 >五輪の塔を見たこともないのか? うちの近くの寺(東京)には結構沢山有るぞ。五輪の塔を見つけて歩けば江戸>時代の有名人の墓に巡り会える。
馬鹿だなあw 何をトンチンカンなシッタカしてるんだw 五輪塔なんかどこにでもある。
明日香村の蘇我入鹿の首塚のところに立ってるだろ。本来あれは二基あったのだ。
一基のどこかが壊れて、ニコイチで今は一基だけ立っている。
室生寺にもいくつかある。
明日香村のものも、室生寺のものも鎌倉時代のものだ。
ものの本には平安末からなどと書いてあるが、その時代には現存するものはない。
年号が彫られているもので、年号では平安時代になってるのもあるけどね。
その文字がお話にならないんだな。
現存するものは鎌倉時代以降のものだ。
>祖廟というのは先祖の霊を祀る場所。 今風に言えば納骨堂。
納骨堂と勝手に思ってるだけ
これは位牌堂。位牌堂で祖廟としても全然おかしくない。
もしもこの寺が曹洞宗なら、祖廟とは昔の高僧の遺骨をお祀りする霊廟のことだが。
それほどの建物とは思えないんだよな。
>因みにこの墓のある地に来たのは鎌倉時代。 鎌倉衆と呼ばれていた。
こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
頭が痛くなるw
勝手に一人でやっててくれ 一人でやってる分には誰も何も言わないよ
>まだ参加者は100人もいない。
すぐに一人もいなくなるよw >>629 一言だけ許せない言葉がある。
> こういうのやめろや。鎌倉時代から家が続いてるわけないだろ
独りよがりな偏見はやめなさい。
確かに鎌倉から領地をもらって南北朝時代までの100何十年位は平穏だったが、南北朝時代に南朝について戦いに敗れた後は領地の殆どを没収されたが、戦いをやめた家は怖くはないんだよ。
(一族郎党全員のクビを切る訳でもないからな)
南北朝時代は主従兄弟目まぐるしく変わりながら戦った時代。
その後武家としては没落したが、◯◯家としては尊敬されながら同じ土地でほそぼそとずっと存続してきている。
(本家は農家ではない)
武家をやめたからこそ存続できてるのかもしれない。
今だに名家として存続している。
地域には今だに200所帯くらいは同じ姓が集まってる。 全国には1000所帯以下。
郷土史には必ずうちの由来が書かれている。 今日古書が一冊届いたので、調子に乗って別の種類の古書を2冊オーダーした。
微妙に記述が違うので見比べてみるのも面白い。 書いた後気づいた。多分彼は家の没落と、家系の断絶を混同してるんだろうな。
家が没落すれば歴史からは消えるから無くなったと思うのかもしれないが、家系が途絶える訳ではないという事を理解できていない。
例えば徳川家は今でも存続している。
栄枯の昔から、支配者は支配地に来ると地元の人々、地元の神々を祀り人信を集めることを心がける。 例え敗者であろうが味方につける方が賢いということを知ってる。
これは日本独特の風習なのかもしれない。
海外の多くは、支配者が変わると前の文化をことごとく破壊する。 破壊文化
日本はそうしない文化が根付いてたからずっと文化が残ってる。 懐柔文化 横から失礼します
個人的な興味でご先祖様の本姓とかは分かってるのでしょうか?
源平藤橘とかそれ以外とか >>632 わかってますよ。 氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、〇〇。有名な氏。今はその地名はありません。
古事記にも日本書紀にも登場します。
氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
姓(カバネ、昔々に天皇家から与えられた身分証明)は、うちの直系先祖が鎌倉時代は宿禰(すくね) 。
氏一族は上位全ての姓(かばね)をもらってます。皇族に連なる直人(まひと)をはじめとして。
源平藤橘と言うのは、元々は氏(ウジ)です。
(と言うか、南北朝時代には功績のあった人間には、源氏を名乗ることを許すとか、そんな形だったから名誉名みたいになってしまいましたが)
例えば足利尊氏を助けたから大友氏に源氏を名乗ることを許すとか。
乱発し過ぎて収集がつかなくなったのでしょう。 その頃から苗字を与える様になったのではないでしょうか。
氏/苗字、諱(いみな、名前)、家紋を与えるのが最も金がかからない恩賞でした。
うちの氏はそれに並ぶ古い氏です。栄枯盛衰武力の強い氏が有名になりますから今はあまり有名ではありませんが。
古事記でも副将軍として登場しますし、日本書紀でも副将軍として登場します。
鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重要視されてたんでしょうね。
南北朝時代の始めに、その前に苗字を頂きました。
苗字〇〇の宿禰 官職 XX △△
この苗字が今の自分の姓です。
最も酷いのは自分の氏の人間が副将軍になった時に日本書紀を編纂するメンバーになると、自分の氏の漢字を書き換えて、古事記の名前を全て自分の新しい漢字に書き換えてしまった事(読みは同じ)。
最初古事記と日本書紀を見始めた時には頭がクラクラしました。
氏素性/姓(うじすじょう)の解らない人間とは付き合うな。と昔は聞かされてきました。 今の人達はそんな言葉知ってますか?
氏、出身地/生まれがしっかりしている事。 素姓、しっかりした家系、先祖がわかる事。 なるほど
すごい歴史ある家系なんですね
詳しく教えていただいてどうもありがとう 関連ことわざ
氏素性は争われぬ
うじすじょうはあらそわれぬ
生まれや血統のよし悪しは、必ず人柄に現れるということで、血は争われないものだと言う事。
多くはよい場合に使うが、悪い場合にもいう。
類義語、氏素性は恥かしきもの/恥ずかしきは氏育ち
氏より育ち
(うじよりそだち)
生得的な要因である家柄・身分よりも、後天的な要因としての環境・教育といった育ち方のほうが、人格形成やその後の人生に大きな影響を及ぼしているということ。
---
氏素性の分からぬ成り上がり者の多い戦国大名達
氏素性がわからない家柄のものには官職は与えられなかった。 その為金で姻戚関係を作り氏姓(うじかばね)を捏造したのが、豊臣秀吉。
---
八色の姓
やくさのかばね
八色の姓は、天武天皇が684年に新たに制定した
「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つの姓の制度のこと。 この順に位が高い
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混す。
姓は当時の豪族にだけ与えられた称号
真人(まひと)は天皇の一族
朝臣(あそみ) 壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族
宿禰(すくね) 宿禰は従来の連(むらじ)の中の有力者
同じ氏(うじ)でも複数の姓が存在するのは、血縁関係を示す。 >>590 今日たまたま、祖先の地元の一番の庄屋の話の文書があったから見てたら、皆分家は別の苗字で分家させてたな。
その庄屋の本家は昔から苗字を持ってたが、分家は元々苗字を名乗ることが許されてなかったから明治になって適当に苗字をつけたんだろうけど。 >鎌倉時代当時のうちの祖先の呼び名は、
>〇〇の宿禰 官職 XX △△みたいな感じ。 まだ苗字はありませんでした。 何処の出身でどんな家系かが最も重>要視されてたんでしょうね。
宿禰とか官職 で呼ばれていたのは雑色とか神人と呼ばれていた連中だよ
中世でも水干烏帽子で下男のような仕事をしていた。
後生に穢○とか非○などと呼ばれる集団になっていく。
>>633
>氏(うじ、出身地) は、大和国の〇〇郷の出ですから、
大和には蔑民の住む部落がたくさんあった。穢○の故郷みたいなところ
>氏(うじ)というのは元々は住んでる土地の名前。 氏神様と言うでしょう? その土地の神様。
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
これは違うよ。氏というのは正しくは氏名(うじな)といい、天皇が「お前達一族は氏の名として
この名を名乗れ」として賜ったもの。
だから氏名(うじな)というものは変えることはできないし、勝手に新たに作ることもできない。
日本の氏名は源・平・藤・橘の四つだけ。(豊臣もあったが滅びた。)
>その土地に住んだ人はその氏(うじ)を名乗るのが当時の風習でした。
馬鹿。爆笑だわ >>639 ポカーン。日本史板でこれは恥ずかしい。
八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。 八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
賜姓
天皇が皇族,貴族,武士などの功績に対して姓を賜うこと。古代からあったと思われ,平安時代には盛んに行われた。
特に,姓を与えられて臣籍に下った皇族を賜姓皇族と呼び,後世,公家あるいは武士として発展した。
地方豪族の氏については例えば蘇我氏などの豪族を調べてごらん。 古墳時代から氏(一族の集団) は存在してるよ。
因みに古代から地方豪族は宿禰などの姓を名乗ってた。 これら古代の姓が混乱していたので、八色の姓 で明確に整理したんだよ。 >>839 氏名(うじな)だってw これは苗字と名前の現代の制度と同じ。
氏姓(うじかばね)の氏(うじ)は古代豪族一族の出身地だよ。
官職から付けられた氏もあるが。 物部氏など。
蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
藤原氏は姓と氏を同時にたまわっているが鎌足の生地大和国高市郡藤原郷に住んでいた。
源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
氏(うじ)は本姓(ほんせい)とも言うが、姓(かばね)とは無関係
最初の出身地を本籍と言う場合もある。
天皇が苗字を与えるようになったのは比較的新しい。多分平安朝以降と思われる。
氏姓(うじかばね)制度は明治初期まで続いていた。
奈良時代まで大和の国が政治の中心だろ。小学校で習わなかったのか? >>640 ポカ〜〜〜ン。日本史板でこれは恥ずかしい。
>八色の姓 があげられてるのに、何をトチ狂った持論を展開してるんだよ。
何を言っているのかわからん。氏名(うじな)と八色の姓が何の関係があるんだ?
君は自分でも何言ってるんだか分かってないだろw
>氏を与えるのは皇籍から降りる場合だけだよ。
ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが、中臣鎌足って皇族だったの???
>八色の姓制度以降は与えられるものは姓だけになってる。
ハァ? 八色の姓を定めたのは天武天皇だよね。天智天皇の弟。
桓武天皇が臣籍に降りる皇子に「平」という氏名(うじな)を与えたわけだが、桓武天皇って天武天皇より
前の天皇なの?
同じく清和天皇が「源」という氏名を授けたんだが、清和天皇って天武天皇より前にいた天皇なの?
君ってものすごいこと言う人だね 脳内にウンコ溜まってるんじゃないの?
あと、賜姓以下はどっかから持ってきたんだろうけど、上半分で君のもの凄さが分かったんで
コメントは遠慮しとくわ >>641
源平藤橘以外にも古代豪族系の氏はあるよ
けど、こうした氏は平安時代に権威を失った。
武士たちは、たとえば大伴とか菅原とか紀とか蘇我とか、そんな氏を欲しいとは
思わなかったのだ。
そもそも、武士にとって源氏とか平家に人気があったのは、その氏が天皇に繋がって
いたからだ。そして、天皇が授けた氏名(うじな)だから権威があったからだ。
衰えた古代豪族の子孫などと名乗っても何にもならなかったのだ。
源平はいうに及ばず、たとえば橘氏だって敏達天皇に発し、橘三千代・葛城王を祖とする
皇別氏族である。元明天皇に氏名を授けられたとされる。
藤原氏は天皇に繋がっているのかというと、一般に藤原不比等は天智天皇の皇胤と
信じられていた。しかも、実際に藤原氏は連続して外戚となり、天皇家と一体不可欠の
関係にあった。
だから君のように
>蘇我氏は大和国高市郡蘇我郷に住んでいた。
などとシッタカをしても何にもならない。
藤原氏は藤原の地名から来たのは事実だが、そこに住んでいたから藤原になったわけではない。
藤原と名乗れと天智天皇に氏名を賜ったことに意味がある。
だから、天皇が名乗るように命じた四つの氏名が武士に使われ、一般的になったのだ。
>源氏は、姓と同時に氏も授かっているし色んな流が有るので在地は一つではない。
苦し紛れに何ほざいてるんだw
源の氏名は地名から来てるのではないよ。
諸説あるが、「皇室と源を同じくする」という意味で名付けられたと解するのが一般。
なお、平氏の平は桓武天皇の築いた平安京の平の字を取ったと考える人が多い。
このくらい書けばいいかな。
まあ、君には自分の馬鹿さ加減を理解してもらいたい。
世の中、適当な知識でいい加減なこと言って通るわけではないんだよ
少しは恥ずかしいということも知らないと。 >ハァ? 天智天皇は中臣鎌足に藤原という姓を授けたわけだが
藤原という姓を授けたわけだが、の「姓」は間違い
ハァ?天智天皇は中臣鎌足に藤原という氏名を授けたわけだが に訂正する。
姓 → 氏名(うじな) >>644 まだこんなことを言ってる。
藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に 鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。
氏名(うじな)なんて言う制度はどこにもないよ。 歴史は正確な言葉を使わないとね。 藤原郷は鎌足の生地ではあったがそこには住んでいなかった。
朝臣(朝臣)の姓(かばね)を貰うと、中臣朝臣鎌足 と称することができる様になり、死ぬまでそのまま。
中臣氏は、神祇官の家柄だからずっと中臣の氏を引き継いで神を祀っている。
想像するに、次男が俺神祇官をやるのはかったるいし、次男だから分家させてくんない? 付いては今住んでる地名藤原を氏として名乗って良い?
鎌足、うん良いよ、天皇には一応許可を取っとくから公式な届け出は出し直せよ。
と、藤原を名乗ることを許されたと言うだけの話だろ。 >>617
嘘だよ 勝手に子孫でも無いのに名字を名乗ったり、系図を捏造したりで自称子孫のできあがり
知らない人もいるようだが、昔は「系図屋」という系図をお調べして作成しますって商売があった
もちろん商売だからクライアントの希望に沿うように捏造しまくり
そんな系図がほとんどなんだよね 現実は
系図の8割は偽者とも言うし 長文の奴は歴史有る家系と思い込んでるだけ
何の証明も出来ないでしょ
系図とかあっても鑑定に出したらニセ物だと言われるレベルでしょう >>649
嘘だよって断言してる時点で信用できない
逆に間違いないと断言する奴も信用しない 先祖探しというのは、一つずつ紐解いていく長い作業だよ。
先祖の地に住んでると比較的調査もできるが、遠く離れてるとなかなか出来ない。
ただ、昔に比べると戸籍を取るのはメールでも受け付けてくれる様になってるからありがたい。
それ以上は地元で地道に調査するしかない。
ただ、地元の時代背景とかは郷土史などを紐解いていくと結構ヒントも見つかる。 俺の先祖に藤原鎌足いる。
たしかに、系図には、大織冠鎌足と記されてる。 >>654 この謎解きみたいな歴史探訪が面白いからやってんじゃないの?
一つわかるとまた次に謎が増える作業。
暇つぶしには良いよ。 俺の藩は郷士制度だったんだよね、郷士ばかりの藩だから他の藩のことはよく分からん。独特な藩だった。
郷士という言葉もたしか後世に呼んでて、当初は侍っていう意味の給人と呼んでた。
江戸時代初期の給人は百数十名いる。これは徳川政権になってから領地換え?されそうになってて、
「俺は引っ越ししたくない!」と言った給人らはクビにされたから、めっちゃ少なくなった理由がある。
江戸時代中期になると、クビにされた給人が復活して五百名くらいになる。
江戸初期後期になると、その五百名の分家が急速に拡大していって二千名になる。
俺の地元の藩では、この江戸時代後期に分家した武家のことを郷士と呼んでるから、郷士というと「あー、新しい方の武家ね」ってのがすぐにわかるんだよね。
俺の地元の藩は鎌倉時代から続いてるから、郷士制度が成立しやすかったという理由がもある。地域に根ざしてたから?
江戸後期になるとムロクの上級武士も増える。
上級武士の次男三男の中で武勇に優れた人をムロクで取り立てて給人にした。
このように、郷土史を勉強していった方が先祖調査もしやすくなると思うよ。
いちがいに、自分の地元の藩と他の人の地元の藩は、身分制度って同じではないからね。郷士ひとつをとってもそう。
俺の藩は郷士の意味は新しくできた武家のことだけど、他の藩は意味が違うでしょ? それに郷士というと坂本龍馬を思い浮かべるけど、
俺の藩でいう郷士は新しい武家のお侍さんっていう意味だから、
甲冑着て馬上してる戦国武将並みのことを言うんだよね。
俺の藩でいう郷士の見た目は上級武士と変わらんよ。
馬上が許されてない様な、武士と百姓の中間みたいな見た目の身分は、俺の地元の藩では卒と呼んでた。
だから明治時代になると俺の地元の藩の郷士は士族となる。 俺の地元の藩の郷士のはなしだけど、
俺の地元の藩は戦国時代の流れ者の集まりだから、
柴田家臣とか武田家臣とか今川家臣とか前田家臣とか、そこらへんからの流れ者が多い。
柴田さんちとか戦国時代はそれなりに有名だったんだが、俺の地元の藩ではただの郷士だけどな。 ちなみに俺の地元の藩でいう郷士は新しい方の武家って言ったけど、
これは齟齬が生じそうだから詳しく言うと、
新しく分家した武家や、及び、藩主に仕えた時期が新しい武家って意味。
だから、家系図の初代がめっちゃ古くても、仕えた時期が江戸時代後期なら郷士ってこと。 結婚って身分がだいたい同じ者同士で結婚するって聞いたけど、どうなんだろ?
俺の先祖の場合は、そうでもなさそうなんだよなー 郷士は自分のわずかな知識で知ってるのは、殆ど家禄を貰えないで自給自足で生活してた武士みたいな認識があるな、後の方では郷士の中でも家禄をもらえる様になったものも現れるけど。
武士ではあるが、農家として生計を立ててるみたいな身分。
そりゃ仕えてた殿様がしょっちゅう領地召し上げとかされるから、全ての家来を養えるはずがないよな。
庄屋に郷士の身分を売ったりする者も現れたり。
給人って知らなかったから検索してみると、家禄をもらっていた家老から厩番まで給人と言ってたらしいな。
地方により呼び方の偏りはあるとは思うが。 >>661 対等な関係ならそれが成り立つけど、借金が多かったり、結納金が多かったり、身分や家名を継げるとかなるとアンバランスな結婚も多かったと思うよ。
昔も今もギブアンドテイク ごめん、やっぱ郷士のことよくわからんわ。
上級武士の次男三男の分家もムロクで上級武士になってるし、
どんなに古い武家でも家禄が微禄だから郷士のままの武士もあったし、
よくわからんが結論やった。ごめん。 >>664 その場合の上級武士というのは、家名が高いという意味合いだと思うな。 それはそれで尊敬の対象だが、給料をもらえなければ、やはり郷士。 >>663
俺の沢山いる先祖の中の一人は、鎌倉時代に出来た旧家の分家で、身分が下級武士の郷士なんだけど、
身分が上級武士の家中に、養子を送り出してる。
その家中身分の武家と郷士身分の武家の共通するところは、藩の資金を使って城下町の商家を営んでる。
この例を見ると、身分は関係なく、職業の間で結婚してたって意味が強そう。 >>665
たしかに家名の高さかもしれない!
古文書には「山田将監様の男 山田太郎」みたいに様付けだった!
そういえば殿様が思う家名の高さって理解できん。
俺からしてみれば下級武士にも柴田んちみたいに家名の高そうな武家あんのになって思う。
ちなみにその上級武士って小柳津助兵衛の子孫なんだけど、みんな小柳津氏なんてマイナー過ぎて知らんだろwって思う
俺の地元の藩の殿様からすれば、小柳津氏の方が柴田氏よりブランド高いらしい、、、 俺の地元の藩の上級武士(身分は家中)である小柳津助兵衛の子孫の家は、初代が小柳津助兵衛の庶子が初代だから、比較的新しい武家なんだよね。
小柳津助兵衛のより先の先祖は不明の武家だし、えっ?こんなんで上級武士なん?って思っちゃう
ちなみに小柳津氏は源氏を称してる
摂津源氏なのか河内源氏なのかは不明w
助兵衛より先が不明だから
小柳津さんちのことボロクソに言ってるが、俺の遠い親戚なんでこんなこと言える 俺の地元の藩主は鎌倉時代から続いてる全国でも数少ない藩で、
その旧臣というと殿様の家と同じくらい古い家の武家なんだけど、
幕末期の身分みると、下級武士に落ちてるんだよな。
そのかわりに一族はめっちゃいる。
分家しまくって本家の家禄が微禄になると、旧家でも下級武士になるんだな。
その旧家は下級武士と変わらない身分だけど、殿様の旧臣だからいちおう藩内ではそれなりに扱われたと思うが、
名簿では下級武士たちと同じ列に並んでる。 だってさ、いくら有名な家に仕えていたからと言っても、負け戦で逃げてきたのは、何の尊敬の価値もないだろ?
それよりも地元での戦に勝った家の方が偉いに決まってる。
俺さ、世界チャンピオンがいたジムに居たんだよ。
(でも試合で1勝もできなかったけどさ)
俺さ、村のチャンピオンになったんだよ。 負け無し。
どっちが尊敬される? 俺の地元の藩は戦国時代の敗戦組の流れ者の集まりが多いんだけど、
なぜか本多忠勝の家臣も多いんだよな。
俺の先祖の一人にも本多忠勝の家臣いる。
なんでなんやろ?
本多忠勝勢の中でなにがあったん? >>672 そんなのしょっちゅうだよ。
うちの先祖も最初の主君の重鎮だったけど。 主君の家が兄弟で争いを始めて、 負けた方に付いたからいい目を見ることはできなかった。
親兄弟でも戦をしてたのが戦国時代。 また変な長文が現れたな
長文にろくな奴はいない
これ定説
思い込みが激しい馬鹿がほとんど
先祖と思い込んでるだけで証明するもの無し
家系図はニセ >>646-647
悔し紛れに出鱈目を書き込んだ。でも恥ずかしいので、以下ズラズラとどうでもいいことを
書き込んで話題展開を図る。しかし、これは成功してないな
郷士がどうしたとか馬鹿みたい。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。 」なんて馬鹿なことを言い出したんだからな。
その話題に戻ろうじゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−−
『日本書紀』天智天皇8年(669年)10月15日条。
「庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原内大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏 」
かのえさるのひに(十五日)、すめらみこと ひつぎのみこ(大海人皇子)を
ふじわらのうちつまえつきみのいへにつかわして だいしきのかうぶりと
おほおみのくらゐとをさずく。よりてうぢをたまひてふじはらのうぢとす
と書かれているじゃないか。
天智天皇はこの5日前に自ら鎌足を見舞った。そして15日、弟の大海人皇子を
使わして大織冠と大臣の位を授けたのだ。そして藤原の氏を賜った。 これに続いて
此(これ)より以後、(のち)通(かよは)して藤原内大臣(ふじはらのうちつおほおみ)曰ふ
と書いてある。
「これより以後、ずっと藤原内大臣と言う」、と明言してあるんだよ。
大織冠は名誉職的な地位であり、大臣が実質的な地位だ。
大臣とされ、藤原を名乗るようになったから
此より以後、ずっと藤原内大臣と曰うようになりました、とあるだろ。
日本書紀にこう書かれているんだからどうしようもないじゃないか。
お前が「鎌足に藤原の氏(うじ)は与えていない。」と言うなら、その資料はどこにある。
出鱈目を言うのもいい加減にしろ。
日本書紀に天智天皇が鎌足に藤原の氏を賜ったと書いてあるから、日本人はそれを
信じてきた。お前みたいのにはちゃんとした本から引用するまでもない。
ネットで調べてみろ。みんなそう書いてある。
もちろん日本書紀の資料としての価値を否定する説もある。
しかし、それならそれで自分なりの根拠を挙げないとな。 >藤原氏は最初朝臣(あそみ)という姓(かばね)だけを貰い4年後に
>鎌足の次男不比等 (ふひと) の門だけが藤原の氏(うじ)を許されたんだよ。
これも何を言ってるんだか分からん。
4年後って何だ?
お前は頭が悪いのにゴチャゴチャ知識を詰め込むから整理がつかなくなってるんだよ。
もしかして藤原氏は不比等だけが名乗るようにせよとした文武天皇の詔(みことのり)と
混同しているのかな。
藤原氏は壬申の乱で近江朝廷軍(大友皇子側)に与することになってしまったので、
地位回復には苦労した。何とか地位を回復した後、うまく立ち回ったのが不比等で、
ライバルたちを蹴落として自分が氏の長者の地位を獲得した。
一番のライバルは中臣(藤原)意美麻呂だった。鎌足の甥であるから不比等のいとこである。
鎌足の娘を娶って婿養子となり、不比等が成人するまで藤原氏の氏の長者であった。
そのまま意美麻呂の権勢が続くかと思われていたが、不比等が成人すると文武天皇に近づき、
その詔で、一気に意美麻呂を排撃してしまった。意美麻呂は宮廷祭祀だけやってろ、だから
式部官である中臣を名乗れと命じて藤原を名乗れなくしてしまったのである。 ついでだが
不比等の成功は、軽皇子(かるのみこ。後の文武天皇)の乳母である犬養三千代の心を
つかんだことが大きい。犬飼三千代は最初は敏達天皇の皇胤の美努王に嫁いで橘諸兄を
生んだが、後家さんになっていて、不比等がちょっかいを出して後に妻にしたのである。
犬養三千代の力添えで娘の宮子を軽皇子に嫁がせる。二人の間に
生まれたのが首皇子(おびとのみこ)で後の聖武天皇。
不比等は外戚となったのである。ここから藤原氏の外戚政治が始まる。
聖武天皇の后が光明皇后だが、光明皇后は不比等と犬飼三千代の間に生まれた娘。
聖武天皇からすると叔母さんである。ただし同い年。
それまでは皇族でないと皇后にはなれなかったのだが、光明皇后はその慣例を破った
第一号である。聖武天皇は東大寺の大仏を建立。光明皇后は聖武天皇亡き後、その
遺品を東大寺に寄贈。これが正倉院に納められ現代まで伝わっている。
聖武天皇と光明皇后の間に出来た娘が女帝の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)となる。
若い頃の孝謙天皇は(上皇の聖武もだが)藤原仲麻呂(恵美押勝)に頼り切りだった。
藤原仲麻呂(恵美押勝)は皇太后となった光明(皇后)の甥である。
仲麻呂は権力を独り占めし、上皇も光明皇太后も死ぬと孝謙天皇と対立するようになる。
対立の背景には孝謙が弓削の道鏡に夢中になったこともある。
焦った仲麻呂はついに挙兵した(恵美押勝の乱)。
仲麻呂は近江守であったことから近江国を拠点に戦ったが、敗戦を重ねて斬られた。
まあ、このあたりを押さえておけば源平藤橘のうち、橘氏の由来は理解できる。 iPhoneでWikipediaみると一部の画像が映らなくなってる
線の枠しか映らないのは何でだろう 中臣連は、八色の姓の時に朝臣52氏に加えられて、朝臣を頂いている。天武13年11月
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-s.htm
藤原氏を名乗るのは鎌足の死の直前。 >>680
この時の52氏を見ると、豪族、特に武内宿禰系統がかなり多いのが目につく。蘇我氏を始め。
武内宿禰は日本の紙幣にも印刷されている日本最高の忠臣と言われている。 源氏や平氏の家人がお札になったことはない。
この時の朝臣を貰った氏族の中には、源氏や平氏、藤原氏は存在しないから、それらはかなり新しい。
中臣は有るが。 あまり古い話はやめようよ。 血族直系かどうかわからないからね。 ここのスレにはそぐわない。
ただ血縁調査は、身近な所からせめても解らない時には、上から攻めて行っても良いかも。 名家であれば自家よりも上の家からの養子が多いから直系は少なくなるのでは?
うちも家系的には庄屋の系統らしいが血脈的には武士だよ。庄屋の血は64分の1とか
・・・でも母方が商家Orzだから一番濃いのは商家かな? >>684 養子でも良いじゃん。 別に父系家族に限ると言うわけでも無し。
どっちにしろ自分に血の繋がりがある直系でしょ。 父型をを辿るもよし、母方を辿るもよし。
どんな形であれ血が繋がってれば良いんじゃないの? 両方を辿り始めると大変なことになってしまうけどね。 自分も父型の戸籍は辿れる限り取り寄せたが、母型の戸籍はまだ取り寄せていない。 子が途絶えて、養子のみの家系が続いてる場合は微妙だけど。
ま、家門を受け継いだと言うことで良いんじゃないのかな。 他人が旧家なのがどうしても許せない人がいるな
水呑で苗字も明治までなかった層も多いから >>672
本多忠勝じゃなくて本多政重の家臣じゃないの
加賀前田家なら浅井や宇喜多の旧臣も多い。 >>688
それはお前さんの思い上がりだ。
水呑みなんてそもそも先祖に興味ないし、
大半の日本人が先祖なんていちいち心酔してなんかいない。
特に女なんか。
旧家が許せないのでなく、
その旧家の直系ですらないやつが、
先祖遡ればその旧家だとか、
そんなレベルで話すから虫酸が走ってるって話だろ
その旧家の身分受け継げるのは直系のみだ。
そんな血筋上の分家ならあくまでその分家の家柄
遡ぼっての血筋上の先祖って設定でいいなら、
あんたらと違い、余裕で室町国人領主まで遡れんだが? 長男でも次男でも血の濃さは同じだから直系傍系には大した意味はない
古くまで辿れるのが重要だな
明治まで辿れない人は論外としても ニセ系図を信じて先祖は鎌倉時代はどこそこに居て、とか書いてる馬鹿をからかってるだけてしょ。
系図を専門家に見せたら、作成年代がおかしいとか、先祖の生存してた時代が合わなくておかしいと指摘されて終了とかな。 >>693 僻み根性丸出しだな。 信じないならほっとけよ。
家系図なんかより信じられる書類なんていくらでもあるだろ。 そのクラスになると県の重要文化財として保管されてるけどな。
御教書って知ってるか? >>694
お前が信憑性皆無の事実指摘されて
現実つきつけられて発狂してるようにしかみえんがな >>692
血筋なんかになんの意味もない
傍流でもありなら無限ループだ
それこそ日本人みな兄弟になる
結局お前みたいになんの家柄もない人間が、
血筋というなんの価値もないものにアイデンティティーを見いだそうとする防衛規制が働いてるだけだわな >>696 だったらこんなスレで僻み根性丸出しで荒らすなよ。 他のスレを見てた方が幸せになれるよ。
ここは、血族先祖のスレ。 血筋を辿るスレだろうが。 何を言ってるのやら。
ID も出さないスレで信用するもしないもないだろ。 いちいち目くじら立ててどうするんだ。
お前うざいからコテハンつけろよ。 横から失礼。
先祖自慢とかしてるのは、上で姓氏辞典で自分の先祖を見つけたと言ったり
インチキ墓参りの話をしてる阿呆だろ
姓氏辞典か何かで「先祖」を見つけて、その家の菩提寺を探し当て(少しでも名を残した人
なら墓所は比較的容易に分かる)、わざわざ行ってみるわけだ。
そして裏山などに古い墓があると、「俺のご先祖様の墓だ」と感慨にふける。
古い石塔などを寄せ集めたような場所に行くと、「先祖祭りの場所」と勝手に想像する。
位牌堂を見れば「俺の明治以前の先祖様の遺骨を納めたお堂」と決めつける。
誇大妄想狂の一つに血統妄想というのがあるんだってさ。
例としては、赤軍に殺されたはずのロシア皇帝の娘アナスタシアと自称する女たち。
ロシア革命の後、何人も現れた。
誇大妄想とは
自分の地位・財産・能力などの現状を過大に評価したり、想像したものを事実であるかの
ように思い込んだりすること。
「想像したものを事実であるかのように思い込んだりすること」というのは、ここのコテハン馬鹿に
大いに当てはまる。
磐座や庚申塚の前で一族が集まって先祖祭りをする。そんな風景を頭に浮かべると、もう
確かにそれをやったような気持ちになり、事実であったかのように人にも話す。
実生活でも写真を見せながら誰彼かまわず話をしてるんだろうな。
不気味、かつ哀れだ。 >>694
それも偽物或いはそれをもらった人物の子孫だと詐称。
そんなところだろう。
後者の可能性の方が高い。
系図の8割は偽物と言われてるからな。 ヨーロッパ貴族は二重姓とかで婚姻関係で相続した家名と元の家名を名乗れるからいいよな。 名家旧家は普通に存在するだろ
知らないと言うことは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 名家旧家は普通に存在する
そういう名家旧家の人は、生まれながらに尊敬され、周囲に大切に扱われる。
だから鷹揚かつ上品に育つ。
かつ、先祖の名前をけがしてはいけないという自制が働くから謙虚で控えめ。
当然だが、すごい家柄だということは周りがすべて知っているのだから
自分から家が旧家だとか先祖がどうのこうのなどと自慢話をしたりしない。
もちろん先祖の調査などしない。
必要がないからだ。
本当の名家なら、先祖や家系のことなど既に分かりきっている。
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
などとやってるのは単に頭の逝ってる厨房がボケ老人。
たいがいは貧民の出の名字なし雑民と言う事で
もう相手にしなくて良いよ。 >>702
姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
こんな人このスレにいる? >>700
マウントバッテン=ウィンザーとか?
でもこれは家名じゃないから違うか >>705
スレ見返したけどそんな書き込みなかったから訊いてるの
過去スレ? 姓氏辞典をネットで調べて、「おー、これだこれだ。先祖発見。これが俺の先祖」
なんて家系に嫉妬する奴いるかね
馬鹿な奴 >>702
君の妄想の中では家柄いい人はそんなイメージなんだね
君のその妄想は、経済的特権階層にはある意味近い。
ただ、家柄特権階層の民度とは結構 かけ離れている
君も家柄いい人たちのリアルすら知らないんだから、あまり知ったような口聞かない方がいいよ い、、、家柄特権階層(*≧ω≦)ノブッ、、、
子供だったんかい 阿呆らし >>771
人を茶化すことしかできない悔しい低学歴のひがみ根性の無知素養は、変えられないのだろうが、
君をみて改めて無知は罪なりと感じるね
いと哀れなり >713
生まれが卑しい奴が悔し紛れに学歴だってよ
これで高卒中卒B級私大卒の引きこもりのジジイだから笑ける
そんな所は名前が書ければ誰でも入れるでしょ?違うん。 他人の先祖に嫉妬するような人にだけはなりたくないのう
気色悪いわ 社会心理学でももう答えは出ている
身分的特権は、あらゆる角度の環境変化に相対的に脆弱性を帯びるため、普遍性の価値を持ち合わすに至る条件が個々に解離しているため、
非常にマウンティングに近い心理性が働きやすい。
経済的特権階層は、それとは逆に
環境や条件に適応した価値を持ち合わすに至る財閥が多いため、
変化への安定性が身分的性向より大きく、
身分的特権階層の真逆の精神性を証明されてる
偏差値70ごえの一流大卒の偏差値王たる私からすらば、
君みたいな低学歴のお爺さんの無知素養からくる僻みなど、とるに足らないのだよなんの家柄も持ち合わせない、いと哀れな御仁 かわいそう
子供のままのオツムなんだな
ママが茶の間で泣いてるだろうが >>715
私は室町期は旧地侍、
江戸期は代々庄屋
明治も戸長、そして村長、
の直系の23代続く家に生れた
君らよりまともな人間だよ、家柄も教養も。
哀れなり バレバレの嘘語り始めた笑笑
根拠ゼロで思い込んでるんだろうな
自分が23代続く名家の
偏差値70の高学歴と
口ではなんとでも言えます。
証拠がアップできないならば先祖スレの住民の資格無いから二度と書き込まないでくれな
ウザいしキチガイじみてて読むのも不快だから 証拠を君に提示する必要性が、
この2ちゃんねるにおいて、
どこにその成分と根拠があるのか?
誰もそんなことしていない。
市史にも書かれているし、
過去帳もそうだし、
墓の形は代々宝鏡印塔で藩主の童子の墓と同じ形や大きさ許されており、勿論院号許されている戒名もそうだし、
私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
それは手代として地域の公共事業や政策を一手に藩から担っていたためそれらが容易に残っている。
戸長拝命も市史は勿論、初代県令からの拝命書もあり、
私の実家が戸長役場だった。
写真も残されているよ
その直系に生まれた。
別に君が信じようと信じまいと関係ない。 明治は私の家自体が役場だった。
君らには想像もできないだろうが。笑 家柄や家系とは全然関係ないけど
自分の曾祖父の勲一等叙勲ってどれくらいすごいの? >>721
身分的差異による嫉妬は醜いですなあ
足軽下級武士のそのまた傍流の子孫さん笑 ソース貼れないなら書き込むなよ嫉妬厨
見苦しすぎる
日本人ですらないなコイツ >>726
嫉妬狂いのレッテル針こそ日本人には思えないというブーメラン
この人をみれば分かるだろう。
身分的価値はこのような嫉妬と妬みからくるマウンティングと現実逃避という心理的防衛規制バイアス丸出しになり、
醜い闘争劇となる。
これがひとつの現実なんだよ社会心理学の言うがままの。 掲示板で他人の家柄に嫉妬して書き込みとか
やってることが哀れすぎw
仕事探せよ 自転車置き場の整理なら
あなたの年齢、家柄学歴でも採用される可能性あるから >>728
君はいつまで妄想で人をレッテル張っているのだ?
糖質に血統妄想という精神症状があるが、
君も旧家を目の当たりにするたびに、嫉妬と僻みで発狂するのも苦しかろうから、
一度受診をお勧めするよ
苦しかろう? 自分の出た大学を表現するのに偏差値で表現する奴はいませーん笑
妄想の中でしか生きられないかわいそうな人なんだろうな 今度は大学まで妄想レッテルという、
もはや哀れな御仁に、私はあなたを労りたい
なぜなら、私は寛容だから笑
あなたのような出自も学歴もいと哀れなりける御仁には、私の知識で救えるなら救ってあげたいね
お爺さん、地域包括支援センターっていう高齢者専門の相談センターが地域にあるから、
身の上を相談されてはいかがか?笑
その際自分の先祖やら出身高も相談されては?笑 皆もそうだろうけど、子供の頃見聞きした話をおぼろげに覚えてるが、歳を取ってくると正しい話を子供に伝える責任を感じて調べ始める。
昔見た本を探そうとしてもそれだけでも大変。似たような本は集めたが。
若い頃聞いてた家紋のカフスボタンやネクタイピンを買ったりしてたら、自分の子供も同じ事をしてるらしい。
偶々墓参りの時の写真を眺めてると、何だか家紋が微妙に違うことに気がついた。 それからその経緯を調べていく内に大凡話がわかってきた。
元々同じ紋が本名と俗称みたいに二つの系統で呼ばれてたらしく、言い伝えとしては俗称の流れの紋として伝えられてきてた。
同じ紋を使う別の氏族の話の中でも同じ様な話がいくつか出てくる。 今でもある〇〇氏族は同じ紋の事を〇〇本名紋、〇〇俗称紋とどちらとも言われている。
しかし本当の紋は本名の方の紋。墓には本名の紋が彫られてたと言う話。 今まで何度も見てきてるのに、写真でじっくり見るまで全く気がつかなかった。 また庄屋基地外が暴れてるのか。
こいつはしつこいね。 >>732
思い込みからの捏造
そこから詐称が始まる 誰の話も信じられないのなら何でこのスレにいるんだよ。
因みに俺は一度も庄屋だなどと言う発言をしたことはないけどな。
羨ましい話は皆同じ人間が喋ってると思ってるんだろ。 庄屋じゃねーって、妻の方はそれに近い大きな武家&大地主だったらしいが、家紋なんか知らないって言われて驚いた。
墓石の紋なんてそのつもりで見た事ないから全く覚えていないとか。
どこの家でも物心つく頃には、家紋を教えられると思ってたが違うんだな。 >>737
そういえば・・・水吞百姓の恨みは武士に行かずに庄屋に向くのかもな。
そのために庄屋を表立っては体制側に引き込んで苗字帯刀与えたりして武士ぽく
して、百姓の不満は庄屋へと・・・大英帝国のやり口みたいだな。 >>732
墓石に紋を刻んだりするのは明治以降だ。何にでも例外はあるから
江戸時代には絶対に無いとはいわないけれど。
本来「紋」というものは、晴れがましい場所や畏まるべき場所で自分や自分の
持ち物を他と区別するための目印であって、墓石なんぞに付けるものではない。
紋は公的な関係で必要なもので、私的なものの極致である墓だの墓石だのには
用いなかったのである。
なお武士でも、家紋を旗印にするなんていうのは国持ち大名クラスだったし、貴族は
牛車に家紋を付けることもあったが、やはりそんなことをするのは摂家など高位の
公卿であった。身分の低い公家がやれば笑われただろう。
紋は大名家なら10個以上あるのが普通だった。いろいろな由来でその家の紋と
なるので、状況に応じて使い分けていたのだ。
例えば桐紋は皇室の副紋なので普通は使えない。しかし、皇室から下賜されれば
別である。豊臣秀吉は自分に従う大名たちに皇室から桐紋を貰ってやった。
だから武家には桐紋を持っている家が多い。
実は秀吉は足利尊氏を真似したのである。
尊氏は自分に与力する武士たちに桐紋を与えた。当時の武士たちの最も喜ぶこと
の一つであった。桐紋を下賜されてもこういう紋は戦場の旗印などにはしない。
めったに使うものではなく、例えば将軍に目見えする際の式服に付けたりしたのである。 なお、同じ桐紋でも、尊氏の口利きでもらったものと秀吉の口利きのものとでは価値が
違った。細川家の桐紋は尊氏に貰ってもらったもので、他の大名の桐紋とは別格の
ものであった。
なお、こういう特別の紋ではなく、普通に使う紋を定紋(じょうもん)といった。
例えば細川家なら九曜の紋。
織田信長は資料が残っているだけでも七つの紋を使っていた。
https://r-ijin.com/nobunaga-kamon/
ここの五三の桐の解説はちょっとおかしいけど。
足利将軍家は丸に二引両紋で、この紋を持つ大名も多い。
足利氏は観応の擾乱で、兄も弟もこの紋を配りまくったためである。
武家ではスタンダードといっていい紋である。
信長はこの紋を当然足利義昭からもらったのである。
なお、非常に紋が多いといわれる伊達家の家紋
http://www2.harimaya.com/date/dt_kamon.html
>>732 はやたら墓の家紋にこだわってるけど、墓石に彫ってある家紋なんぞどうってこと
ないさ。墓石に家紋だなんてのは現代になってからの俗物趣味だろ。
庶民的でほほえましいじゃないか。
家紋の微妙な違いなんてのもどうってことない。職人が違えばちょっとは違ってくるさ。 >>740現代みたく長方形の墓石に紋を刻むことはないけど江戸期でも傘付角柱型墓の
傘部分に小さく紋は彫ってあるぞな。
||
〇
/ \線
| | ←この辺りに小さく家紋
−−−−−−−
/ 傘部分 \
| |
| |
| 角柱部分 | >>740
うちの場合、守護一族の一人から紋(その守護が使っている紋そのもの)を貰った。紋の名前も同じで名前も1字もらった。
それなのに口伝では似た別の紋の名前だと言い伝えられていて何故紋の名前が変わって行ったのかずっと不思議に思ってたのがやっと謎が解けてきたという話。
昔は法名を墓の前面に書いてたから前面に紋を入れるのはそぐわなかったんだろうね。
周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
ただその場合、水鉢等を作って墓を整備した家臣の家紋を入れてるケースもある。
とは言え家紋は紋付、留袖、家具の飾り金具、軒瓦などにずっと使われてきた。
うちは別の土地に移ったし戦争で全て無くしたから昔の持ち物は無いが本家筋には残っているとは思う。
>>741 墓を作った店にもう一度念のため見てもらったら、あの紋は○○紋でしょうと言った。その紋が確かにもらった紋の名前。
口伝の紋とは明らかに違う。 紋の名前が違うのはどおってことないレベルではないよ。 最近は張り紋なんていうのが有るんだな。 貸衣装にシールみたいな自分の家紋を張るサービス。
張り紋だけ売っている所も在るし貸衣装屋で張り紋もサービスで付けている所もある。
無い紋でも写真なりを送れば作ってくれるところもある。
近くで見ればすぐ判りそうだが仕方ないな。 めったに着ない物を新調するのも大変だし。 >>742
江戸時代の墓かどうか分からないじゃないか。
墓石なんて地震でぶっ倒れる。倒れなくても傘の部分は落ちて割れる。
いずれにせよ、傘の部分は何度も作り替えるものなんじゃないか。
安政の大地震もあったし関東大震災もあった。
明治や大正の時代に墓を直して、その時に職人が「こちら様の紋を彫り込んで
おきました」というようなことだよ。
だいたい墓石に紋を彫ろうというのは発想として間違っている。
墓石はストゥーパを真似たものだ。
ストゥーパとは塔。仏舎利はストゥーパの下に埋めたのだ。(だから法隆寺の五重塔
などの下には舎利が埋まっている)。
ストゥーパは宗教の世界のものであって、個人の家の印なんかつけるようなものではない。
例えば仏師に仏像を作らせたとして、俺のうちの仏像なんだから仏像に俺んちの家紋を
彫ろうなんて考えるか?
仏像というのは個人の所有物という概念を超えたものなのだ。
それと同じで、ストゥーパに家紋を付けようなんて誰も思わなかったのだ。
少なくとも江戸時代までは誰でもそういうことが分かっていたのだ。 明治になって紋をやたらと付けるようになったのは、西洋の紋章の影響もあるだろうな。
それと三井とか三菱などの社章。学生は校章のついた制帽を被った。
国鉄の職員はピカピカの帽章をつけた帽子を被っている。
菊の御紋章もやたらと使われるようになった。
官幣大社だと社殿に菊の幔幕を張ったりしたし、入り口の大きな石塔に菊の紋を付け、
別格官幣大社などと仰々しく刻んで立てておいたりしたのだ。
靖国神社の門扉にも大きな菊の紋章が付いている。
軍の備品にも御紋章をつけた。巡洋艦以上軍艦の艦首、あるいは歩兵銃の一丁一丁にまで。
そういうのを見て、庶民も自分も紋を付けようなどと考えるようになったのだろう。 平安貴族が牛車に紋をつけたのは遠くからでも誰の牛車か分かるようにするためだ。
貴族というのは位階がすべてなので、相手が高位の公卿ならこちらが道をよけねば
ならない。間違えると高位の方の雑色や舎人が殴りかかってくる。
そういう事態を避けるために車紋という紋を付けたのだ。これが家紋のはじまり。
武士は戦場で名乗りを挙げて戦っているうちはよかったが、そういうことは行われなくなり、
敵味方入り乱れて戦うと誰がどこにいるのかも分からなくなったため旗に家紋を付ける
ようになった。
要するに両方とも目印として利用されたのであり、最初のうちは一つか二つの紋しか
使っていなかったのが用途に応じていくつもの家紋が使われるようになった。
武士の家紋で言えば、戦場とそうでない場所、畏まった場面とそうでない場面、
内々の場面、いろいろな場面ごとに使われる紋が違ったのである。
江戸期の大名が大切にしたのは、足利氏や足利幕府の守護大名からもらった紋。
伊達氏の竹に雀などもそうだ。
そういう家紋は戦場とか大名行列とか、表だって晴れがましいことをする機会にしか
使われない。内々で使う紋は日常の道具や身内での贈答などの機会に使われたりした。
毛利家では内々で使っていたのは沢瀉紋(おもだかもん)。
藩祖毛利元就の墓に詣でる家臣は裃に沢瀉の紋をつけた。
墓に詣でることができるというのは身内扱いということなので、毛利家内々で使う紋を
付けたのである。 なお、嫁入りの時に嫁入り道具には実家の紋を付けるものであり、嫁は一生実家の紋を
使うものであった。嫁入り道具に紋を付けるのは、不縁になったときに全部持って帰る
ためでもある。さらに、実家の紋を付けるといっても、嫁入りは慶事なのであるから
なるべく目出度い紋をということで鶴丸の紋を付けることが多かった。
女らしくて、かつ鶴で目出度く、さらに角が無いからである。
>>743
>周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
明治以降、墓関係の石屋とかそういうのが何でも家紋を付けるようになっただけだろ。 家紋を軒瓦などに使ったのは表札の意味があった。昔は表札などなかったからだ。
時代劇で表札がかかっていたりするのは皆嘘である。しかし、表札の役割を果たしたのは
むしろ結果というべきであろうか。主たる目的は焼け跡での目印にするためであった。
家紋が軒瓦などに使われるようになったのは、昔は火事が多かったので、火事で焼け落ちても
すぐに元の家屋の位置が分かるようにするためである。武家屋敷などはみな隣接しているので、
一面焼けたらどこにどの家があったのか分からなくなってしまう。
これは大店が軒を連ねる商人町でも同じであった。
目印なので、築地塀などにも家紋の入った瓦を置いた。塀は境界を示すものだからである。
火事との関係は、瓦の模様が家紋でない場合は巴紋(三つ巴)だったことでも分かる。
巴紋は水を表す意匠だから防火のための呪いであった。そもそも瓦を葺くこと自体が防火の
ためであった。他に鴟尾(しび)という飾りなども防火のためである。
鴟尾は魚の尾をかたどったものであり、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾が有名である。
あと墓の紋が口伝の紋とは明らかに違うなんて言ったって仕方ないだろ。あんたのご先祖さん
だか何だか知らないが、よく知らなかったか、どうでもいいと思っていたんだろ。
そういう人が普通だよ。上杉だの佐竹だの島津だのなら家紋にこだわる理由もあるが、庶民の
家紋なんかどうだっていいじゃないか。 長々とくだらん事を書き続ける癖はやめろ。
神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
幕末の安政年間(1854〜59)には30%の墓に紋が入ってたらしい。 土方歳三が建てた近藤勇の墓にも法名の上に近藤家の家紋が入ってる。
実家の女紋の風習は関西だけの風習だろ。 それでも自分で紋を使ってた事を認めてるじゃ無いか。 事ほど左様に紋は大事だったんだよ。
紋の名前が分からなければ、紋付、留袖とか作れないからな。 江戸時代に庶民も紋を使うことが流行り始めたが、流石に武家の有名な家紋を使うのは気がひけるので、通紋と呼ばれる当たり障りのない紋を使うようになった。
花、菱、蔦 などの通紋は、どこの家でも共通に使って良い紋として取り扱われるようになった。 今の貸衣装屋の紋はほとんどこの通紋が多い。
女紋が流行る土地では、紋を持っていなかった家では困るからこの通紋を使ったので女紋とも呼ばれる。 牛の方が力があるからだろ。 それに平安時代は道が悪かったからのんびりと歩く牛が最適だった。
牛車も平安時代に使われていたくらいでその後は殆ど使われなくなった。
後に道が整備されてきても日本の場合雨が多いからすぐにぬかるみになって、馬車だと身動きできなくなる。
坂道、山道も多いし車が滑るから実用的でなかった。
農耕馬を運搬用馬車として使ってたくらいだな。 馬車と言えば、馬車鉄道があるな。
レールが作れるようになると、明治15年に東京馬車鉄道が運行開始している。
この時のレールの幅が、馬車軌間で、京王線がこれだった。 地下鉄都営新宿線も乗り入れする為にこの軌間に合わせた。
脱線ごめん 脱線ついでに、先に馬車鉄道が開通したのは今の都電、旧市電これが馬車鉄道で始まった。
京王線は市電に乗り入れる為に、馬車軌間を採用したらしい。 結局乗り入れはできなかったが。
脱線復旧 ようやく本家の連絡先を見つけた。
最初は名前だけわかっていたが、連絡方法がわからなかった。 間接的に連絡できるのは知ってたが。
ネットで名前から自宅の住所、電話番号がわかった。 次にfacebook をやってるのも発見した。
住所がわかると、本家の家もGoogle Map の航空写真ですぐに出てきた。 その近くに今までどこにあるのかわからなかったものがあるのも発見できた。
ストリートビューでも見つけたかったものを発見した。
ある意味怖い。 >>748
女は男系の家紋じゃなく女系の「おんな紋」を使うことになってる地域だってあるし 最近、神(じん)さんに会った。
ご先祖は神主かなんかだろうか?
神話に連なる古代豪族の末裔ではないかと勝手に推測。 >>745
可能性を上げたらきりがない。江戸時代の「可能性」もあるわけだし
ただ笠付きの笠は江戸初中期の墓によくみられるが以降は少なくなってるように
みえる墓群は確かにあるな。笠付きが流行らないのか直すのが面倒で最初期のだけ
直して残りは捨ててるのかもしれんな。旧家になると墓の維持でも相当な出費だろうな >>759
先祖が紀州から移住した人なんだよ。紀州弁は語尾に「ね」をよく付けるの。「あのねぇ、わたしがねぇ、」と。
「ね」を申す人だからネ申トなり、神になった。 >>750
>神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
なんで神紋寺紋とか出てくるのか分からないが、徳川の葵の紋は賀茂神社の神紋から
来ている。三河の加茂郡に賀茂神社があり、松平家はそこの氏子だったんだそうだ。
賀茂神社の紋は二葉葵。葵といっても背の高い立ち葵(ひなた葵)ではない。
日陰の水辺に生える小さな植物である。平安時代の紋はこういう地味なものが多い。
有職文様素材集3(公家家紋)
www.kariginu.jp/sozai/sozai3.htm
ま、こういうのを見ると墓石なんかに彫り付けられるもんじゃないということが
分かると思うけどね。
ところで
近藤勇の墓がある天寧寺という寺は、新選組の屯所として使われていたと
いうのは知らなかった。
土方は近藤が流山で逮捕された後、新選組を率いて会津に向かった。
近藤はその後板橋で斬られる。
その4日後に土方率いる新選組は会津に入ったということだ。
新政府軍が会津若松に攻めてくるのは二ヶ月後だから、戦争が始まるまで
確かに暇な時間があったのだ。
しかし近藤には立派な実家があるし、盟友とはいえ他人の土方が墓を
立てたりするかね?
供養塔ぐらいなら分かるけど。 実際に土方が墓を立てたとしても、今の墓石がそれと考えていいのかな。
この墓は皮膜が禿げてるよね
https://loconavi.jp/spots/196568
何だかセメントっぽいな。幕末の墓石とは思えない。
明治大正、、、もっと新しいような感じもする。
新選組と言えば今でこそ知らない人もないが、大きな歴史の流れの中で見れば
泡沫のような集団に過ぎない。会津でも敗残の人の群にすぎなかった。
近藤の存在もしかり。さらには罪人として斬られたばかりだ。
それなのにこんな大きな墓石を立てるかね。
土方歳三の墓はライオンズクラブ建立という。
毎年「近藤勇追善供養墓前祭」を会津若松ライオンズクラブが主催して行って
いるというし、何だか真面目につきあえる話ではないような気がする。
もちろんこの墓石が江戸時代のもので、江戸時代の墓石に家紋が彫ってある
証拠になると考えるのは勝手だ。 >>759
第二次大戦中、エキセントリックな言動で知られた神重徳(かみしげのり)という
海軍軍人もいるよ。
こちらはジンさんではなくカミさん。鹿児島の人。
ヒトラーの心酔者で、パナマ運河攻撃作戦を提唱したり、海軍全軍特攻とかを
主張した人。狂信的なことばかり言っていて「神さん神がかり」と揶揄されていた。
戦艦大和の沖縄特攻はこの男がいなければなかった。サイパン島玉砕のとき
には、俺を大和の艦長にしろ、サイパンに突入すると軍部中枢に迫って
やまなかった。最近は戦争ゲームに登場して人気ものらしい。
加美という名字の人も多い。加美という地名は日本各地にある。
小さな字を入れたら相当あるだろう。宮城県には加美郡という郡に加美町という
町がある。どちらかというと大阪や岡山兵庫などの西日本に多い。
関東・東北の加美という土地は関西の人間が移住して拓いた土地なのかも。
加美は、もとは「上」で、カミの方にある土地ということだろう。ただ上だと何と
読んでいいのか分からないのでよい字を宛てたんじゃないか。 神と書いてコウさんという人もいる。コウさんには国府と書く人もいる。高さんもいる。
高師直なんて武将もいる。高の場合、ただコウとは読まずコウノとノを付ける。
だから河野、河埜なんていう名字とも関係するんだろうな。
高という姓は岡山県あたりに多く、河野も岡山や四国に多い。
俺が考えるに、カミさんというのは地名由来だろう。上、中、下。カミ、ナカ、シモだよ。
カミの方に住んでいたんだろ。ナカさんという人もいるし、シモさんという人もいる。
下さんて霊能者でいるよな。
神と書いてジンさんというのは神社関係。神はシンでなくてジンと濁るのが普通だった。
神社もそうだが、神官は昔はジンカンないしジンガンと読んだ。
神祇はジンギ、神祇官はジンギカン。神人はジニン。
神部と書いてジンベ、ジンブという名字があるが、律令制の時代の神祇官(じんぎかん)の部民。
神祇官に属する奴(やっこ)で雑民である。
ジンベやジンブでは何か変なので、ジンだけにしたのがジンさんの由来じゃないかな。
神をゴウと読んで神戸ゴウドというのもある。ジンコとも読む。カンベとも読む。
古代から中世までいた、大きな神社の隷属民である戸口のことだ。 >>759
その神さんはこの中のどれかかもしれないな
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 よくもこれだけ無関係な事をダラダラと書けるもんだ、ここまで来ると完全に病気だな。 病院に行った方が良いぞ。
自己顕示欲が強く出る病気に、自己愛性パーソナリティ障害 と言うのがある。
自分は人より優れていると思うから、人が自分より偉いのも許せない。劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる。
完全に当てはまりそうだな。 村の庄屋だの神主に嫉妬するってすごいな
きっとリアル世界ではものすごく恵まれた方なんだろうね >>762-765 この長文を垂れ流す妬み爺さんは、毎朝5〜6時に書き込んでるんだよな。
明日の朝はコテハンつけて、連投はやめてほしいな。 3行でまとめる訓練をしようね。 ボケ防止に良いよ。 別に普通の先祖話に見えますけど?
これ以上どう書き込みしたら文句ないんでしょうか?
どう書いても、水呑百姓以外の書き込みは許してもらえなそうだけど。
他人の事が気になりすぎるのは心の病気の第一サインらしいですよ
少しネットを自分から離れてご自愛ください。 >>722 の諱について書いておこう。
武士の名前に諱というものがある。忌み名ともいう。
なんで「忌み」かというと、外で軽々しく使うのはタブーだったからである。
逆に言うと、他人がある人の諱を呼ぶということはきわめて無礼なことであった。
昔の人は名前と魂がくっついていると考えていたらしい。
だから安易に名前を他人に教えると、名前を呼ぶことによって魂を他人に操られると
考えた。女子が男に名前を問われて教えることは、体を許すと同然のことであった。
このように、人の名前というのは簡単に人に教えるものでもないし、人から呼ばれる
ようなことがあってはならない。だからこれは忌み名として使わずに置き、気軽に誰でも
呼ぶことのできる名前を用意した。
こうした仮につけた名前を仮名(けみょう)といった。
要するに、昔の人(奈良や平安の貴族にも諱はあった)には本名たる諱と通称である
仮名とがあった。
(仮名は奈良・平安時代の言葉であり、古すぎるので通称と呼ぶことにする。)。 石田三成は佐吉という通称であった。
加藤清正は虎之助。福島正則は市松。
通称は幼名であることが多いが、必ずしもイコールではない。
家での通称というものがあり、成人すると幼名から家で代々使われている通称に代わる。
しかし、外の世界では幼名で呼ばれ続けることが多かったのではないか。
商家などでは今も店の主となると代々の主人の名を名乗ることが多い。
武士や公家は、大人になると職名や身分で呼ばれることが多くなり、通称では呼ばれなくなる。
例えば石田三成は治部少輔。加藤清正は主計頭(かずえのかみ)、あるいは肥後侍従。
福島正則は左衛門大夫。大谷吉継は幼名桂松・通称紀之介で、身分は刑部少輔。
略して刑部(ぎょうぶ)と呼ばれていた。
明治になると太政官布告で「苗字実名ノミ相用候事」とされ、通称+諱ということは
公式に禁止された。
従来の武士たち(通称と諱の双方を名乗っていた人たち)はどうしたかというと、
戸籍に登録する際に、通称か諱のどちらかを選ぶしかなくなったのである。
例えば大隈重信、西郷隆盛は二人とも諱を選んだ。
通称を選んだ人もいる。板垣退助、江藤晋平、大村益次郎など。
福沢諭吉、山本権兵衛などもそうである。
今でも男子の名は諱系と通称系に分けることが出来る。
洋一郎とか孝輔とかは通称系、義重とか政宣とかは諱系である。 ↑も つづき とすべきであった。忘れた
−−−−−−
このようにして、明治以降は「名字+諱」か「名字+通称」という名前が出てきた
のであるが、それ以前は名字を名乗る以上は通称も諱も付けたのである。
つまり、明治以前に「名字+通称のみ」とか「名字+諱のみ」いう名前はなかった。
江戸時代に、山本太郎だの田中昭博という名前の人はいなかったのである。
名字を名乗る以上、必ず諱はあり、そして諱は特別の場合以外名乗らないもので
あるから通称は必ず使ったのである。
坂本龍馬は直陰とか直柔という諱があるが、これは特に許されたというようなもの
ではない。名字(姓)を許された以上、当然に諱は付けるのである。
だから
>>722 の
>私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
というのは嘘もいいところである。
名字を許されたなら諱をつけて当然であり、「諱も許されている」などというのは
無知そのものの発言である。
なお、伊能忠敬は佐原の商人であり町名主。
伊能という名字を許され帯刀した肖像画もある。
通称は二つあり、佐原にいた頃は三郎右衛門、江戸に出て天文学などを勉強
しはじめてからは勘解由と名乗った。忠敬は諱。
だから測量をしている時代の名は伊能勘解由忠敬。 夏目漱石の父親は牛込馬場下横町の町名主であった。
名を夏目小兵衛直克という。
漱石は五男で、長男:大助、次男:栄之助 (直則)、三男:和三郎 (直矩)、
四男:久吉 である。四男は幼逝したので元服名である諱は無い。
長男の諱は不明。おそらく父親と同じなのではないか。
漱石の諱は無い。漱石は慶応三年(1867)生まれなので、元服や諱を
付けるというような時代ではなくなっていた。
島崎藤村の父親は馬込宿の名主で本陣も務めた。名は島崎正樹重寛。
ついでに樺太探検をした間宮林蔵の諱は倫宗(ともむね)。
間宮林蔵は農家の出で名字はなかった。筑波郡上平柳村の生家の近くで小貝川
堰き止め工事があったときに幕府の役人に才能を認められ、治水工事の測量などを
する役人として採用された。
普請役雇という一代限りの低い身分であった。
それでもとりあえず幕臣となったので間宮という姓と倫宗という諱を名乗ったのである。
諱を自分で付けるときにはさぞかし悩んだのだろう。
結局、林蔵りんぞう→倫宗りんそう としたと思われる。
722は以前、自分の家は明治になっても諱を使っていた、などと書いていたが、
明治になってからは、上記のように通称と諱を並べることは許されないので、制度上
不可能であった。戦後の戸籍法によれば、例えば「誠一郎直正」とつけても受け付けて
貰えるので付けることは可能である。
ただし、通称+諱ということでなく、全体として一つの名前としてである。念のため。 >>772-776 だから、そんな自分が知ってる事の講釈なんて必要ないんだよ。 誰か教えてくれと言ったか?
自意識過剰なんだよ。 自分がどこかで探してきた知識をここでお披露目してたら、それだけでスレが埋まるだろうが、ここは歴史の勉強場では無いし、老人のダベリ場でも無い。
何かエピソードが出てきて、それの解釈とかなら良いが、まるで関係ないことを長々と持ち出すな >>772-776 知りもしない糞知識を知ったかぶりで喋るな。
妬みジジイ。
諱は本名だから正式に使われてたよ。むしろ字名は表面には出ない。 お前のググってきた知識は断片的で実際とかけ離れてる。
また、いつの時代の話かと言うのも混同してる。
頼むからコテをつけてくれ。 これだけ人に迷惑をかけてるんだから、コテくらい付けろよ。 先祖って結局誰でもつながってるんだよ。
同じ民族ならばな。 アメリカに「ブルー・ハイウェイ」という旅行記がある。
オンボロ車で車中泊を重ねながらアメリカを半周ほどした紀行文。
たいへんな評判を呼び、この本のスタイルで文章を書く人が増えた。
おそらく村上春樹なんて人もこの本を熱読したはずである。
影響がプンプン臭ってくるほどだから。
著者は白人とネイティブインディアンとの混血。
妻との離婚騒動で気が滅入り、職場を放り投げて旅に出た。
ブルーハイウェイというのはアメリカの俗語でハイウェイでない一般道路のこと。
アメリカの道路地図では、ハイウェイは赤で一般道は青で表示されるところから来ている。
大学で報道写真を学んだという。ところどころに挿入されている白黒写真がとてもよい。
俺はリアルタイムでこの本に嵌った世代ではない。ジャズ雑誌のエッセイで知ったのだ。
ペイパーバックの古本を持って歩いていたことがある。
著者が、自分の先祖が畑を所有していたという谷にやってきたときの文章は特によい。
先祖の男は、はるばるヨーロッパからやってきて、日当たりの悪い谷底に畑を拓いた。
周囲は斜面で木ばかり生えている。ジャガイモぐらいしか穫れない土地だ。
ただやたらに空だけが青い。
細かい描写の中に、なんでこんなところにしか畑を持てなかったのだろうという、著者の
気持ちが伝わってくる。
先祖の墓のあるところは、今は水が溜まっている。
澄み切った池のような状態。水に手を入れようとしたら滑って転んだ。
そのまま池に入って泳ぎ、泳いでいるときに水を飲んでしまった。
先祖の墓が沈んでいる池の水だ。
俺はこの場面がとくに好きだった。
その後一時先祖探しにはまったのも、どこかにこの本の影響があったのかも知れない。 >>781 それ言っちゃおしまい。 その中で実際に血が繋がってる先祖を連続してどこまでたどれるかがこのスレだろ。
戸籍調べは誰にでもできるから、明治初期までは辿れるだろう。 運が悪いと戸籍の書き直しの時に途中で戸籍がなくなってる地方があるかもしれないけど。
うちの地方は、しっかり書き直されて残っていた。 過去帳を調べると言っても、最後に法事をして長い間ご無沙汰していると頼みにくいよね。
それでも快く引き受けてもらえるものなんだろうか。
それも商売の一環と思ってもらえるんなら頼みやすいけど。
昔から苗字を持ってる家だと、家単位でまとめられてて調べやすいが、苗字がない場合は膨大な中から見つけ出さないといけないから結構大変らしい。
最近はなかなか個人には見せてくれなくなってきてるらしい。 住職が調べてくれる。 その方が金になるからかな? 33回忌、50回忌の時に菩提寺の過去帳に記録するのか?
そこまで定期的に法事をしなかった家は寺の過去帳が無くなる?
うちの宗派ではバックアップ目的で、末寺の過去帳を本山で入力して本山でも保管してるらしい。
過去帳から先祖を調べる
https://uguisu.skr.jp/history/kakotyo.html 旧家になれば寺に馬鹿でかい位牌があるはず。それに歴代の戒名が彫ってある。 >>786 それは過去帳がわりだろうから直系だけでしょ。
宗派により違うだろうし。
浄土真宗じゃない? うちの仏壇に大量の位牌があったけど寺で供養(処分)してもらっっちゃったんだよな
真っ黒で読めないし >>788 そんな風に大量の位牌を整理するのが寺の過去帳になるんだよね。
また、位牌の代わりに自分の家の過去帳に先祖の記録も書くことにより位牌がわりとする。 名字の話が出てたから聞きたいんだけど、
寺島宗則は長野→松木(養子で改名)→寺島(維新後に改名)と改名してるけど、
寺島姓はどこから来たの? 過去帳は普通は菩提寺にある。
先祖代々武士だった俺の家も、過去帳は菩提寺にあるが、家族で死人が出ると菩提寺である末寺経由で京都の本山に遺骨の一部を持って行く。
本山で遺骨を納めて、本山でも記録してもらう。
もう400年くらいそうしてるそうだ、 神さんって名字だけだとなんか新興宗教の人って感じがする…
あくまで自分個人の勝手なイメージです >>790 一度イギリスの捕虜になったから改名したんじゃ無いのかな。 寺島は郷土の無人島の名前らしい。 勿論島津藩の許可を受けて。 コンビニで過去帳を印刷できるようになるのはいつ頃だろう? >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺はにしに >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺は西日本みたいなドイナカと違い、関東だが、
周りの豪農含めた百姓で諱もっている百姓は全くいない。
庄屋の中でも一部しか名乗っていない。
これは、俺の認識不足なのか? >>798認識不足だろう。
中部地方だが戦国期はOO守OOやOO 兵衛尉OOで江戸期には兵衛OO、衛門OOは良く見られる。(文書では)
ただ墓は苗字+通称だな。違う地方に行くと諱も彫られてたりするが家の地方では見たことはない。 >>799
普通に墓に書いてあるよ
お前も一部のてめえの狭い見識での話やないかい >>801論理が無いな・・・
一地方の狭い知識+異なる地方の狭い知識=
なんだと思う? 長文ジジイはもっともらしく嘘ばかり並べ立ててるから無視するに限るよ。アホらしい話ばかり。
講釈師見て来た様な嘘を言う。 >>797
なんて馬鹿なんだ。
俺は>>775 で
>名字を許されたなら諱をつけて当然であり
と書いている。名字を許されたなら公的な関係でも名字を名乗れる。
こういう場合は当然諱も付けるということだ。
百姓は勝手にそれぞれ名字を名乗っていたが、名字を許されたわけではない。
公的な関係では名乗れないのに諱なんぞ付けるわけがなかろうが。
あと
>平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、
って何だ?
「平百姓」って何? お前が考えた言葉か?
平社員とかそういう感じなのかなwwww
何をやってるんだお前は。こういうのは高校でも教わるだろ。
どうしてちゃんとした用語を使えないのかな。もう一度中学の教科あたりから勉強
しなおした方がいいんじゃないか。
>>798-799 では自演してるし。
799 で、その上の798 に反論してやがんのw 馬鹿だよなぁ
>>801
>普通に墓に書いてあるよ
江戸時代の墓(墓石)に生前の名前(俗名)は彫ってないよ
これは今でもそうじゃないのかな。墓碑には彫りつけるけど、墓石そのものに
彫ることはない。
もしそうなら先祖探しも楽なんだけどな。戒名だけだよ普通は。
例外は俺は知らない。
名主基地外は話にならんわ馬鹿すぎて
知能が足りない上にちゃんとした教育を受けていない。可哀想な奴だ。 >>806 お前の乏しい知識でものを語るなって。
墓石にも俗名は書かれてるよ。
前面は戒名/法名だけでも、側面に俗名が書かれている。 少なくとも俺の高祖父の墓(明治39年に建てられたもの)は、横に俗名が書いてあったから、高祖父の墓だと判った。 我が家は代々長男の名前に◯一のように一をつける慣習があるんだがどう思う? >>807-808
馬鹿が二回続けて書かなくてよい
何が明治39年だよw
嘘もええかげんにしろってのw >>812
今でもそういう決まりがあるのは流石におかしいだろうか?
長男家系だから高祖父まで見事に一が付いて異様な感じがする 田舎だと今でもあるから別におかしくない
うちも本家は通字をいまだに使ってるしな >>814 おかしく無いよ。 似た様なのに、太郎、次郎という様な付け方もある。
小泉孝太郎、進次郎
大昔からの家ごとの風習みたいなものだから、継続して伝えていけば良いと思うよ。 >>811
苗字は書かれていないね。屋号のみ
でもO兵衛って官名風の名前は苗字の無い庶民でも付けてたのね >>815
>>816
田舎だと良かったんだけど都内で少なくとも自分の周りにはそんな家無かったから悩んでた
おかしくないということで安心したw
お二方どうもありがとう >>807
そうそう、全面は勿論戒名だけだが、横に墓建てた人の名前だったり。 なんだろ、
家紋なんて農民は墓には付けないとか言われているかたいるが、
うちの地域の豪農や名主は、
墓に笠までついた家紋入りの墓だよ江戸時代。 >>821の続き連投で申し訳ないが、笠付き家紋入りの墓でも、院号はごくごく一部の名主しか付けられてない。 >>817 墓側面の俗名には俺の見たものには殆ど苗字は書かれていない。 その土地の人間なら解るからだろう。 >>811
昔の墓というのは修理するんだよ。道祖神なんかでも修理してあるのよく見るだろ。
この金糸屋なんとかさんの「建てた」墓は、全面の戒名が信女だから女性の墓で
母親か誰かなんじゃないかな。
この戒名の刻んである芯の部分は安山岩か何かで本物の石のようだが、
その周囲はセメントだろ。もうセメントが浮いて剥がれが生じている。
下の土台の石もひび割れていたのかモルタルで平らにしてある。
こういうふうに修理して、そのときに紋とか彫りつけるわけ。
そのときは石に刻むんじゃなくて固まる前のセメントだから基本的に粘土細工と変わらない。
紋を入れたり大きな字を入れるのも自由自在だ。
江戸時代の墓は当然ながら修理してあるのが多い。
素材はハッキリしないのだが、やや黄色がかった漆喰のようなものを全面に塗って
そこに新たに戒名や紋を入れているものも多い。
そういうのは剥がれや浮き、表面だけのひび割れなどが生じているのですぐ分かる。
>>813
お前はホントに馬鹿だな。
江戸時代の墓の話をしてるんだろ。昭和の墓なんか出してくるなっていうの。
今何が問題になってるのかとかちゃんと頭使って判断しろ。小学生かよ
>>819-820
そういうのは明治になってから。
>>822
そういうのは江戸時代の墓じゃないの。
墓石に俗名なんぞ彫らない。
>>822-823 は自演。 >>826 本当にこいつは虚栄心の塊だけなんだな。
信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。異常者は自分の見たいものしか見ない。
墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
幾ら貧乏な家でもセメントを使うなんて恥ずかしい真似をするか。 墓石は未来永劫続くことを願ってるんだぞ。
お前のうちはどれだけ貧しいんだよ。 お前ん家の墓はセメントかよ。
ひび割れの穴埋めにセメントを使うことはあるだろうけどそれ以上ではない。
セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。 彫りも深くしっかりしてる。
金が無いとなかなかこんな墓は作れないよ。 自分家の母方の墓です。戦争で一族全滅したのでもう相続人が母しかいないのですが、墓の維持の為わざわざ東京から田舎まで毎年帰ってます。
https://i.imgur.com/X9mz41R.jpg >>828 田舎が近ければ良いけど。 自分の場合往復の飛行機代が一人6万かかる。 何人かで帰ると結構な費用になる。
もうそろそろ、自分達の墓をどうするか悩み始める歳になった。
墓は田舎の父の墓に入れば簡単で良いし、墓の世話もその近くにいる親戚がやってくれるだろうから、その点では安心。
まだ、自分達夫婦のどちらかが生きてるうちは良いと思うが、両方がそこに入ったとすると、自分達の子供達が法事の都度訪れるのも大変そうだなと思う。 中々休めない職業でもあるし。
夫婦共そこに入れてもらって、後は息子達が住んでる所に近くて便利なところに墓を移してくれれば良いかなとも思い始めた。
先祖の土地から離れるのには寂しさがあるが。 >>827
明治以後は土台がセメントになってきてるよ >>830 土台は基礎の延長だから仕方ないし、どうでも良い。 昔の墓にはその基礎さえほとんどないし。 昔は、火葬も土葬も行われてた。
土葬の場合殆ど小高い丘に埋葬した。 遺体を動物達に荒らされない様に曼珠沙華(ヒガンバナ) の花を植えたらしい。
古い墓が殆ど山の裾野なのはその名残かもしれない。
勿論農地の妨げにならない様にとか、大水に流されない様にとか、戦火で荒らされない様にという意味合いもあったのかも。 >>832 古い墓の様子を見るとどこも瓜二つみたいに似ている。 古い旧家の言い伝えでは墓の所に洞窟みたいのがあって昔はそこにすんでいたのではないかと?まあ、一つの仮説にしか過ぎないらしいが >>834 いや、そういう言い伝えができてもおかしくない。
埼玉の吉見百穴なんて、古代の墓穴の後だからね。
異様な光景だよ。 戦時中は横穴墓を防空壕に使ってるところもあったらしい。 寺の過去帳を調べた経験があったら話して。
何代前位までわかったかとか、費用とか、みるだけだったか、住職が書いてくれたかなど。 >>829以下全部庄屋馬鹿の書きこみ
庄屋馬鹿 そらしに必死 >>838 可哀想にそんなに庄屋が羨ましいのか? 世の中は、水飲み百姓と庄屋だけで出来てるんじゃないぞ。 先祖だけは捏造しない限り自分では如何ともし難いから
江戸時代までは苗字持ってる人が1割だったんでしょ?
残り9割の人はそりゃ嫉妬するわ >>840 苗字は持っていなくても (持ってたが公式には使えなかった) 江戸時代は、何処かの寺の檀家として登録するのが義務付けられてたから、寺の過去帳が公式の戸籍簿に近かった。
だから、どんな農民でも過去帳には登録されてるんじゃないのかな?
だからかなりの確率で見つけられるかもしれない。(苗字/家の登録がないと探すのが困難らしいが)
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みんなこのページは見てると思うが参考になるね。
戸籍以前の調べ方
https://www.kakeizushokunin.com/kosekiizen/
過去帳
墓石
旧土地台帳
文献 (戦死者リストは公文書として残っている)
本籍地周辺での聞き取り調査
古い戸籍が無い理由
https://www.kakeizushokunin.com/kosekitorenaijijou/ >>840なにを根拠に1割なんて言ってるの?
戦国時代以前は非人や労働者階級の足軽や下級武士もみな名字もってんのに。
大体、平百姓なんて名主庄屋からの分家が多いんだがら、名字は皆もってんだが?
公式に名乗れないなんて、
単なる公式文書レベルや有形物への表示制限があるくらいなだけ。 平百姓
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%99%BE%E5%A7%93-1401688
今まで、この言葉は知らなかった。 いかに昔の言葉が廃れてきてるかだな。 この間郷土史を読んでて始めて長百姓という言葉を知ったくらい。 昔の風習、言葉は廃れてきてるな。
名主は、最初は長百姓から出てたが、不公平だとして長百姓と平百姓の交代制になったとか。 これからみると平百姓の地位はかなり高かったことがわかるな。
(妬みジジーは、平百姓と言う言葉まで否定していなかったか? 別人だったらごめん) 言葉自体の存否もだが読み方も変化してるのか?
昔の文書を訳したのを見ると現在は先方衆(さきがたしゅう)だけど昔は(せんぽうしゅう)だったりとか。ただ音訓読み的にはどうなんだろうかなと?ふと昔不思議に思ったことをつらつらと 原宿駅前からラフォーレの辺りは丘陵となっていて、かつて源氏山と称していた。
源氏山の由来は清和源氏の末裔飯尾政宅が住したためである。
∴清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─源頼光─源頼国─源頼綱─源仲政─源頼政─源頼兼─源頼茂─源頼方─源頼氏─浜名清政─浜名詮政─浜名満政─浜名持政─浜名政義─浜名政明─飯尾用政─飯尾乗連─飯尾連竜
飯尾連竜の次男、飯尾政宅。飯尾政宅、現在の原宿に住む。 浜松まつりの起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、
引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、
入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としている。 戦国武将の飯尾氏は渡来系の三善氏の子孫と言われているが、飯尾連竜の子孫は清和源氏の子孫と称している。
今川の家臣となった飯尾長連の養子に清和源氏の子孫(飯尾用政)が入ったのだろう。
飯尾氏は同じ今川家臣で同じ遠江国の戦国武将である浜名氏の分家的な位置だったのだろう。
清和源氏の浜名氏は源頼政の子孫であり政を通字としている。
飯尾連竜も連竜という諱の他に飯尾政純という諱を持っている。
これまでの三善氏という固定観念はデタラメであって、飯尾氏は清和源氏であった。 >>846 847 ご先祖様と何か関係あるの?
何かの話に関連して話すんならまだしも、突然脈絡もなく話すのなんて長文自己中と同じだな。
あ、そうか長文自己中=妬みジジイがコテハンつけてくれたのかな? ありがとう。 今川義元の城主格家臣の一覧
・尾張鳴海城=岡部元信
・駿河朝比奈城=朝比奈元長
・三河田原城=朝比奈元智
・駿河瀬名城=瀬名氏俊
・駿河蒲原城=蒲原氏徳
・駿河庵原城=庵原元政
・駿河川入城=由比正信
・遠江掛川城=朝比奈泰朝
・遠江二俣城=松井宗信
・遠江高天神城=小笠原氏清
・遠江井伊谷城=井伊直盛
・遠江引馬城=飯尾乗連※浜名政明の子の飯尾用政の子
・遠江佐久城=浜名正国※浜名政明の子の浜名頼親の子
・三河岡崎城=松平元康※後の徳川家康 源頼朝のブランド感覚は源氏を優遇する傾向だったらしい。
行事交名を見ても、平賀義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
一番 源頼朝
二番 源頼兼
三番 平賀義信
源頼政の子の源頼兼(鎌倉時代の人)とその子孫の源頼氏(南北朝時代の人)は、鎌倉時代から南北朝時代まで、苗字ではなく将軍家と同じ様に源氏で称されていた。
その理由は河内源氏嫡流の源頼朝と摂津源氏嫡流の源頼兼という立ち位置だったのかもしれない。 享陰 ※水野氏の菩提寺のとこのお坊さん!
源姓平賀氏出身。浜名政義の親族。尾張国緒川の乾坤院(水野貞守開基)の僧。浜名氏は政義の代より曹洞宗となる。 源頼兼と平賀義信。源頼朝を除けばどちらも源氏の首座。 以上、戦国武将の飯尾連竜の先祖は、摂津源氏嫡流である源三位頼政公の子孫ということ。 苗字帯刀は1割
これ常識
沖縄の系図持ちも1割
不労階級はそれ以上いたらヤバいって事だろう >>827
>信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。
信女と彫ってあって、それが一番左(向かって左)だから建立者の母親だろうと
言っただけ。その右に彫ってある信士との関係なんか知るかよ。
だいたい人のうちの墓の戒名なんかまともに読むか。
お前は一生懸命読んでるらしいが、そっちこそ異常者。
>墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
ネットで調べてみろ。セメントの墓は当たり前にあった。石がふつうに使われるようになった
のは、戦後海外から安い石が輸入されるようになってから。
アフリカや中国から石が入ってくるまでは石材は高価だった。
石材をカットする機械も普及しておらず、水力で丸鋸を回して切ったりしていたらしい。
土台やカロート部分は最近のは石で覆ってあるが、つい最近までセメント丸出しだった。
ちょっと古い墓なんか、土台の一部に工事用のコンクリ板が当たり前に使ってあったりするよ。
>セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
馬鹿だな。セメントが生乾きのうちだと細かい作業が簡単にできるんだよ。
彫るんじゃないから。上に書いたやんけ頭悪いなもう >ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。
>彫りも深くしっかりしてる。
シッタカすんなボケ。庵治石でググったの丸出しやんけw
庵治石を調べると「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で黒雲母の小さな粒が混じっていて
青っぽい石。この墓石前面には黒雲母のツブツブはないし、青石でもないわな。
庵治石なんてもんじゃない。
そもそも、お前に合わせて墓石前面は石で戒名も刻んだものとしているが、正直なところ
疑わしいと思っている。俺はここも塗ったもので、戒名もまだ固まっていない段階で
ヘラで書き入れただけなんじゃないかと思うけどな。 昔の日本ではだいたいは土葬で、墓には木の卒塔婆を立てるだけだった。
金持ちは石の墓も作ったけど、それは土葬した場所の横に並べる形式。
地面に置くような形で、土台石を置くにしてもそんなに高くない。
この写真の墓は古い二つの墓をまとめたもので(同時に葬るのはありえないから)、
下はコンクリで土台を作ってあるし、カロート式だろうから、墓全体としてはたぶん戦後に
作られたものだろう。
後ろにコンクリ柱を支えに立ててセメンで固めてある。
その土台部分の上に乗せてある戒名が彫ってある墓石部分は古いのだろうが、江戸時代の
ものじゃない感じがするなー。
建立の日付は江戸時代のものになってるそうだが。
>>811 によると、この墓石に刻まれた日付は
>金糸屋善兵衛の石碑(延享二年・1745年)
延享二年というと、八代将軍吉宗の治世の最後の年。吉宗は元気だったが、身○者の家重を
早く将軍の座につけて自分が後見した方がいいと考えたんだな。だから51歳で隠居した。
この墓石は吉宗がちょうど50歳のときのものということになるが、そんなに古いかなw
江戸時代の墓石なんか、俺の経験では読むのは天保・弘化ぐらいが限界じゃないの。
それより100年も前の墓石の文字がこんなに明瞭ということがあるかね? なお、家紋研究家の墓地調査のブログ
www.arkness.blog.fc2.com/ ↑ のアドレスこれを付けてくれ。分けないと書き込めないんだ。
blog
-entry
-35.html
これを一行にして なんで普通に書き込めないかな 下のは3つに分けて改行してようやく書き込めた。
では家紋研究家のブログについて進める。
この研究家の人は
京都の人だが、ここに載っている墓の写真が金糸屋善兵衛さんのに似ている。
京都で一時期、この形式の墓が流行ったんだろうな。同じ職人なんじゃないか。
この人は建立の日付が江戸時代だから江戸時代のものと思っているようだ。
しかしこの浮き方や剥がれ方を見るとそうとは思えないよな。
あと、この墓石の蓮台はセメントで型で作ったものじゃなかろうか。
おまけ
>>828
これは庄屋馬鹿の書きこみなw
この写真の石塔の上の傘は、どこかの灯籠の傘だったもの。
それをひっくり返してモルタルを流し込み、石塔の幅奥行きに合わせて
四角く固めた。インチキな石屋がやったか坊さんに言われてやったのかは分からない。
仕事がシロウトくさいよな。 江戸農民の階層的な呼称について
>>843
江戸時代の文書では百姓の階層がいろんな言葉で表されている。
上下を表す意味で頭百姓と脇百姓などという言葉が用いられており、
上百姓と下(げ)百姓などという分け方もある。
後者は美濃国不破郡中曽根村寛政六年(1794)の資料。
この村では下百姓が家に庇(ひさし)や濡れ縁を付けるのは禁止されていた。
座敷口を三尺以上にしてはいけないし、屋根を瓦で葺いてもいけない。
裃を着用してはならず、名前に衛門・兵衛・太郎・太夫などの名をつけてはいけない。
頭分の宅内に入るときに履物を履いたままではいけない、など。
最後のはおそらく玄関の敷居の手前で履き物を脱ぎ、土間で平伏しろということ
だろう。村の行事などでの座席順や場所の決まりは厳しい。
袴をはいた人とそうでない人を分けるのは当然で、その次に「百姓大高持ちより
次第に列座致候事」とするものがある。
所有する田の石高の順番に座れというのである。 こういう分かり易いものばかりでなく、座る場所まで細かく定めたものもある。
長百姓、中百姓、平百姓、小百姓、水呑みの区別をつけ、長百姓は旦那衆と呼ばれ、
オモテ(奥座敷)の畳敷きのところに座る。
中百姓は台所(一段下がった板の間)に薄縁(うすべり)を敷いて座り、奥座敷との
間にはアイドを立てる。
平百姓は台所の上がり框(かまち)に近いところに筵(むしろ)を敷いて座る。
小百姓は土間に筵敷きであった。
なお、水呑みは筵を使うことはできず、外に古俵や藁を敷いて座った。
しかし雨の日や冬はそうもいかない。
家の者が気を効かして「こんなところに座ってないで家の中に入れ」というようなことは
言っただろう。そう言われれば中に入ったのだろうか。
あくまでも軒の下などに藁を敷いて座っていたのだろうか。
長だの中だの平だの小だの、軍隊みたいな直接的な分け方をするのは関西の
京都周辺の農村に見られるようだ。
最初に示した上・下の百姓の座る場所の掟は丹波中郡三重村のものである。
しかし、上といい下といっても具体的に何を指しているのか分からないので
区別(差別)が確かにあったという以外、資料としては役に立たない。 江戸時代の農村における住民構成は、大きく分けて高持百姓とそうでない者との
区別がある。高持百姓とは、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっている
百姓のことである。領主に対して年貢を献納する義務のある土地を持っている者で
その土地の多寡は問わない。土地が少なければ他人の土地を耕すこともある。
その場合には小作人でもあるわけだが、そうだとしても検地帳に記された土地を
持っている以上は高持百姓であることに変わりはない。
いっぽう、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっていない者は水呑と
呼ばれた。高持百姓と水呑の区別は、領主に対して年貢を負担するか否かの
区別であり、百姓にとって本質的なものであった。
次に、本百姓とそうでない者との区別も重要である。
本百姓が何であるのかについては昔から種々議論があり、古くは屋敷を持つ者と
持たない者の区別であるとするものがあった。屋敷名請人こそ本百姓であると
するのである。さらにまた屋敷名請人でも夫役(ぶやく、労役)を負担しない者も
あるから(後家、盲人など)、夫役負担者が本百所であるという説も出た。
夫役は村が20軒なら20軒前割り当てられる。一軒前の夫役すなわち労役を
負担する者は役家や役屋敷などと呼ばれており、役家や役屋敷と呼ばれる家は
また本百姓と呼ばれていた実態が明らかになってきた。
だから、本役を負担する者を本百姓と呼べばいいと解するのが一般である。 江戸時代農村の階層は、まず年貢を負担する高持百姓とそうでない水呑、
夫役(一軒分の労役)を負担する本百姓とそうでない者とがあるということを
知っていればよい。本百姓でない者とはどのようなものかというと
1.分付(ぶんづけ) 分家をせずに惣領の田を耕している二男・三男。
2.家抱(かほう) 一戸を構えてはいるが、身分的には下男のままで独立しておらず、
収穫したものは主人の家に納め、自分は年貢を負担しない者。
3.庭子、名子など
一般的には主人の屋敷内にいて耕作を手伝ったり雑用に従事する者と言えるが、
小作人と変わらない場合もあれば奴婢に他ならない場合もあり、一元的に定義づける
のは不可能。
「平百姓」という言葉は>>317 や >>798 で庄屋馬鹿が使っているが、明らかに
「平社員」的感覚で使っている。それを馬鹿にされてググりまくったら、たまたま
百科事典に平百姓が出てきて今度は鬼の首とったみたいに威勢がよくなったww
平百姓なんて言葉は普通は使わないよ。限定的な地域で特定のシチュエーションで
使われていたにすぎない。
田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓は小前百姓と
いうのが普通である。
ごく普通の農民という意味で使いたいなら是非こちらを使うべきだ。
上に述べたが、上百姓・下百姓なんて区別もある。
文献的にはこうした表現もあるわけだが、これを一般に使ったら馬鹿だと思われて
しまう。平百姓もそれと同じだ。
>>843 は庄屋馬鹿の無知と知能の低さをあらわすものに過ぎないw >>859 高々100年や200年位で彫りが崩れる訳なんかない。
100年前ってまだ大正時代で全く新しい。
掃除が行き届かない墓の場合、苔で見づらくなっているだけの話。
そもそも江戸時代の墓は、一般的には彫りが最初から雑で彫りが浅いものが多い。
コテハン付けるの忘れてるぞ。 ちゃんとつけろよな。 源頼朝が河内源氏義家流の嫡流で、源頼兼が摂津源氏の嫡流で、平賀義信が河内源氏義光流の嫡流と頼朝に認識されていたのか。
大和源氏は、、、 当初の藤原秀郷流の嫡流は奥州藤原氏と思われていたかもしれない。
いや、しかし藤原頼遠が養子だから思われてなかった可能性もある。
秀郷流の嫡流は現在では結城氏かもしれないが、その前は結城氏の本家の小山氏だったろうし、その前は足利氏だったかもしれない。
足利氏の分家の佐野氏も捨てがたい。
秀郷流の嫡流は当初はどこだという認識だったのだろう? >>860 塗ってるかもと言うのをセメントだと思ってしまったのか? 愚かすぎる。
たとえ塗ったものがあったとしても、当時は漆喰だよ。
漆喰とセメントは全く別物。 漆喰と言っても堤防の護岸に使われる様な頑丈なものもある。 今でも漆喰の堤防が残ってるはず。
それでも石の上に漆喰を塗ると言うのは、かなり難しいと思う。 余程のことがない限り一族はそんな墓は建てない。記念碑みたいなものなら別だが普通にはないよ。
しかし、その写真にも家紋が入ってる事は認めるんだな?
俗名や屋号が側面に入っていることも認めるんだな?
これを明治時代以降だなんて言うなよな。
セメントは明治以降だと思うが、漆喰は大昔からあるんだぞ。
昔の墓の文字が読みにくいのは苔もあるが、安山岩の様な粒の荒い軟らかい石に彫ってるから、最初から文字の輪郭がはっきり出なくて古びた感触に出来上がる。
その上彫りが浅いから少し汚れると読みづらくなる。
花崗岩(御影石)の様な硬い石に彫る場合は、輪郭がはっきりと出る。
花崗岩なのかどうか知らないが、目の細かな石の彫りは、くっきりと残るね。
花崗岩が使われる様になったのは明治以降じゃ無いのかな。
昔の技術で硬い石に彫るのは困難だったから古い墓ではあまり見ない。 高貴な方の墓は別格。
現代の墓だと機械彫するからいくらでも彫が深く見栄えが良い文字が彫れるけど手彫りじゃ大変。
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。 秀郷流嫡流の話しだと信夫佐藤氏も考えられる。
奥州藤原氏に付いて頼朝と戦った佐藤基信と佐藤忠信の兄弟も秀郷流だが、この佐藤氏は源氏車を家紋としてる。
一説には佐藤義信は源義経の落胤と呼ばれている。
同じく小野寺氏も秀郷流だが、小野寺氏は鎌倉時代の書物に御堂関白道長の子孫と書かれてあるものもあり、
おそらく秀郷流としたのは武勇に秀でた武家の藤原氏をアピールするために、秀郷流を後で名乗ったのだろう。 >>872 荒らしてるの? 楽しい?
せめてコテハンつけるか、元の話題へのリンクを貼ってくれないかな。
多分コピペ荒らしだと思うけど。 俺の中では武家の名家というと鎌倉時代が基本だな。
戦国時代好きな人は戦国時代を基本にするけど、やっぱ武家は鎌倉時代から本格化してるからな。 源平時代と南北朝時代と戦国時代と先祖が何をしてたのか?
俺の先祖の場合は色々してた! >>875 血族先祖に限る話題から少し外れてるとは思うが、長文バカにならなければ良いのかもな。
戦争の度にあちこち飛び回り、そんなこんながあったからこそ日本全国文化が均一になったんじゃないだろうか。
うちの先祖が移ったのも鎌倉時代だし。
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話は変わるが、俺んちの先祖探しの中でビックラこいた事があった。
自分の苗字は珍しく全国でほぼ一箇所に固まっている。
読みは同じで漢字が違う苗字の墓が一族の中にあるのは昔から知ってた。 多分分家なんだろうなと思ってた。
戸籍を取り寄せたらびっくり、俺の高祖父だった。戸籍上は同じ漢字なのに墓に書かれた苗字の漢字は同音の別の漢字だった。
そんな事もあるんだな。 正式な戸籍記録では今と同じ漢字の苗字なんだけど、今の漢字でも画数は多い方だが、旧漢字だともっと画数が多かった。 それで隣村では略字の漢字を使うことが日常になってたみたい。
その隣村から嫁さんが来て、嫁さんが建てた墓にその略字が使われてたと言う話。
今、その略字を使った苗字は全国でも隣村にあるだけ。 墓も見るのが手っ取り早いんだろうけど、古い墓は風化して読めない
何とか読める一番古いのは文化何年と書いてる
更に古いのは自然石を墓石にしたような感じだわ
南北朝時代から続く家柄で、自宅が国の重要文化財になってる家に時々行くんだけど、文化財課や図書館の調査した資料があるので自分で調べなくて済むし確実だな
南北朝や戦国時代の事は現実離れした話だと思ってたが、そのお宅に行くと妙に身近に感じる 王来王家、皇、神の名字はすごい由緒正しい家系な感じがする。 >>876 略字じゃなく当て字かな、同じ読みの全く別の漢字だった。
それとは別に戸籍調べの中で物凄く珍しい漢字の苗字の嫁が入って来てた。
どう読むのか最初は全く解らなかったが、ようやくわかったのは、これは難しい漢字の略字だった。 非常に珍しい。 漢字変換でも出てこない。
うちの苗字も昔は出てこなかったが、何度もいろんなのに登録を繰り返してようやく最近は出てくるようになった。
あるサイトの全国人数の数字(実際は数倍は多いとは思うが)
俺の苗字 410人
同音当て字 140人
珍入嫁の苗字 30人
>>877 墓は光の当て方を工夫して撮ると字が読めるようになるよ。 従五位下遠江守は南北朝時代の俺の先祖の官位。
もう一人の俺の南北朝時代の先祖に従五位下右京亮がいるから、こんどはこっちコテハンにする。 >>878
王来王家
奥岡と語源をともにする。現三重県である伊勢発祥ともいわれる、弘文帝子孫。近年、三重県などにみられる。
皇
滋賀県、千葉県にみられる。滋賀県東近江市の浄土真宗の浄願寺が由来。皇花山の「皇」の文字が語源ともいわれる。
神
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 >>880 コロコロ変えられると困る、それで固定してくれ。
うちの先祖も南北朝時代は従五位下だった。
墓参りしてたら、日露戦争の時に死んだ曾祖父さんの弟の墓の書は上司の少佐が書いてたが、少佐は正六位(従五位の下)と書かれてたな。 明治時代まで位階が続いてたのに驚き。 >>870
漆喰は誰でもまず一番に考える。誰でもね
でも、馬鹿じゃない限り漆喰ではないってことが分かるんだよね
それは追々教えてやるよ
それとも漆喰であることを証明するか?
それはお前の自由だぞw
お前さ、ここの嵐だろ。ここの三分の二は書いてるな。
名主がどうのとかやってたが、今は秀衡龍の嫡流だの
よくやるわ
で、>
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。
↑ これ笑えるわ。お前が自演でやってるんじゃないか
>>882 も自演。ふざけんなよ糞野郎 病院に行けって勧めてるのに段々酷くなってきてるな。 >>881
神は結構由緒正しい感じだな
皇が意外とそうでもなかった >>886 そもそもそんな氏族は、かなりインチキくさい。
(でも直系先祖を辿れるのならここの話題だけど、本人が出てこないことには話にならない。 しかしこんな所で自分の苗字を晒すか?)
本姓(氏)は新撰姓氏録(815年)に書かれた1182の氏姓には当然出てこない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
いずれにしろその辺の話題はすれ違いだろうな。 それらの話をするなら、
古代豪族の氏姓に関連した苗字の現代人
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/min/1326776604/ 何度もいうが、
その身分継承した直系の【家】の子孫だけではなせや 俺と父、父と祖父、祖父と曾祖父、曾祖父と高祖父ってけっこう歳離れてる。
俺若造だけど俺の高祖父くらいになると幕末になる。
俺の高祖父は某藩士。俺の祖父の母の父も同藩の藩士。
曾祖父と曾祖母は養子で、曾祖父と曾祖母の養父の父は別の藩の藩士だった。 直系も傍系も血の濃さに変わりはない
長男か弟かの違い 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、他の家で養子になってて、跡継ぎの息子作ってから、俺の家の養子になって家督継いでる。 江戸時代の直系は7割養子でしょ 庄屋クラスw以上なら
直系とかあんまり意味ないよ 問題は自分から何代辿れるかだね
旧家でも10代遡れる人はかなり少ないと思う 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、○○屋○○右衛門の養子になってる。
この○○屋は商人で、図書館に行くと、○○屋○○右衛門と代々名乗ってて、武家に金貸したりしてる。
金貸し屋だったみたいだ。
江戸年間、この○○屋○○右衛門の息子が武家の養子になったりしてる。
図書館で見た。
こんなに金持ちの跡取りになったのに、俺の曾祖父は俺の家の養子を選んだわけだ。
やっぱり金持ちの跡取りより士族の身分を選んだのか? >>890
なにいってんだこの馬鹿
血の濃さなんぞ、なんの意味もねえから、いってんだよゴミ
家なんだよ家 俺の父の父の父の父の父の父の父から代官手代やってて、俺の父の父の父の父の父から本家の代官手代の手代みたいなことしてる笑笑
古文書見ると、出納帳の作者が俺の父の父の父の父の父の名前になってる。
本家の代官手代の仕事を分家がしてるから、代官手代の手代で合ってるよね? >>892
この糞低学歴が
養子だらけだから、家の直系かどうかなんだよボケかすが
血筋だけなら、
お前らみたいな雑魚先祖とちがい、
余裕で国人領主も近い先祖になんねん
で、だからなんやねん?
他人やないかい
糞きもちわりー ○○屋○○右衛門は武家に養子送り込んでるけど、その武家の家系図に
穂積姓 鈴木氏
重恭 実は渡辺忠左衛門泰綱次男
みたいな感じで書かれてある家系図をめくっていくと
重紀 実は○○屋○○右衛門三男
とか書かれてあると、どうなんだろうね?
最初は、お!ニギハヤヒの子孫か?ってなって、次に
お!源綱の子孫か?ってなって、次に
え?○○屋の子孫?
ってなるんだろうか? 直系って相続とか殿様からもらってるポジションの承継にだけは意味があるけど
子孫にはあんまり関係ないな
長男ばかりの世の中ではないし
養子を取ったことのない旧家など一個も存在しないとおもうけど
君の家は何県なの? 俺の曾祖父は養子で家督継いでるけど、時は明治年間だったから家に拘らなくてもよくなったのか、養父の家系の代々の通字ではなくて
実父の家系の代々の通字を諱に使用してるよ
通例上、養子は実父の通字ではなく養父の通字を使用する
例えば鈴木重紀の三男の鈴木重安が渡辺紀綱の養子になったら渡辺安綱となるように
この場合、安綱は穂積ではなく源氏を称する
しかし
鈴木重勝の次男の鈴木重宗が斎藤利安の養子になって斎藤重宗だったら、この場合重宗は穂積姓なんだよな
たぶん
俺の曾祖父は源氏の通字を養子先で諱に使用してるから、養子先が平氏でも源氏なんやと思う
たぶん >>899
そら身分継承できない他人たる子孫にとっちゃ意味ないだろうな
身分継承すらできない他人の家の子孫だから、血にアイデンティティー見いだしてしがみついてんだろうから。 >901
正解。
先祖にアイデンティティーを見出すスレなのよここ
あなたみたいに他人の家系を貶すような人間は、リアル世界でも友達ゼロだろうから、長男に生まれたことだけを誇りに2ちゃんで輝いてください リアル世界で友達ゼロだから先祖自慢しかないんだろうな
ガチの名家の人で先祖自慢してる人は見た事ない 江戸幕府以前は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子に入っても鈴木次郷となって本姓も藤原次郷で家系図も鈴木次郷が初代だった
江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になる
江戸幕府前後で概念が変化してる >>903
ガチ華族の子孫が友人だが、いたるところで先祖の話ししとるで 江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になって鈴木重次は初代とならない >>903
吉良上野介も、
いや、現代も池坊も、めっちゃ内部で先祖自慢してんだが?
家柄いいやつは自慢しねえとか、
なら官位争奪戦なんか必要ねんだバーか
底辺は上流階級を美化視観でしかみれないよな
自分が底辺の醜い世界にいるから >>902
何度もいうが、
長男が絶対ではなく、
身分継承された【家】の直系であること。
馬鹿で低学歴で底辺出自の無能だと、
ここまで説明しても血統の話になるんだな
町人風情が 足利氏の義とか北条氏の時とか通字って、源氏とか平氏の本姓と同じ程度に、先祖調査の素材になるよね。
例えば、織田信重さんの場合、信重さんの家の家系図は平姓織田氏だと想定できる。
例えば、信重さんの父親が源氏からの養子だったとしても、その信重さんちの家系図は、平姓織田氏の家系図で、
信重さん自身も平信重と称してることを想定できる。 織田信重さんの諱の信重の信の字は、平信重の本姓の平の字と同程度に先祖調査の素材となりうる。 俺は士族の子孫だけど、先祖に藤原鎌足いると言うとおぼっちゃまなの?ってよく返ってくるがポカーンとしてしまう
士族の子孫の友達沢山いるよ、暴走族卒業して今は馬に乗ってたりしてる
固定観念じゃ先祖調査なんてできないよと忠告しておくね 意外と宗派も先祖調査の素材になるうる。
そういえば室町中期から宗派変化してない。
室町中期からそうどうしゅう()なぜか変換できない >908
何だお前直系の本家の長男じゃないのか
すっこんでろ傍系 >>912
先祖に鎌足なんてほざいてる家って、
戦国以前は非人レベルだろな ››903 905
1:いったん、華族の子だと誰かからバレると、歴史好きな人に色々聞かれる。
2:その人自身も歴史好きなら、つい楽しくなって歴史の話を色々する。
3:すると、先祖が色々な場面で登場してしまうので、自慢話のようになってしまう。
っていうオチだろうな多分。すっごいわかるわ、それ。 >>915
非人って旅芸人とか托鉢僧とか白拍子とかだぞ
わかってる? ぜんぜんちがうで
俺のおじいちゃんは東京駅を作ったとか、みずほ銀行を作ったとか言うで
今度は五千円札の人物になってるでとか言うんやろーな
聞いてもいないけど言ってくるで
ちな元ヤンやで
でもな、俺も士族の子孫やからそんなの自慢とも思わんし、単なる自己紹介やろ、単なる自己紹介を多めに見れんのか? >>903 逆だよ。 実社会では先祖自慢なんてしない。 こんな所でしか先祖のことなんか話せないよ。
しかし、家族にはしっかりと伝える責任はあるよな。 女性と近づきになるとさり気なく歴史話のふりして語っちゃうけど
ふーん以上の反応は得たことがない >>913 そうそう、寺の宗派と家の家紋は小さい時に教えられてたけど、家紋は覚えてたけど寺の宗派は自分がその立場にならないと思い出せなかった。
この二つだけは覚えておきなさいよとお袋に言われてた。
また、寺が50年以上経っても年回忌の催促をするというのも初めて知った。 自分の名前は珍しいから、自己紹介するときには名前の由来を話すが面白い由来だから楽しく聞いてくれるよ。
覚えてくれること抜群。
とは言っても酒の席みたいに砕けてる時にしか話さないけど。 自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。 自称○○の子孫と語り、子に教える。
教えられた子は、薄々気付きながらも虚勢を張って○○の子孫だと言い張る。
その子が親になり、自分の子に○○の子孫の称号を伝授…。
死んだ祖父の嘘を孫は鵜呑みにして胸を張る。
が、いずれ歴史に詳しい知り合いに出会い 矛盾ばかりの話を笑われて恥をかいて終了。
↑基本はこんな感じです。 産まれがいいというだけで許せない
わかるよそんな気持ち このスレで改行が反映していない書きこみをしているのはみんな同一人物。
庄屋馬鹿だよ
改行が反映せず、ブラウザの幅を広げると行がズラズラといくらでも伸びる。
こういうふうになるには条件がいくつかあるんだな。
庄屋馬鹿に教えることになるから書かないけど。
改行が反映しない書き込みをしている数だけでもすごいし、内容的にそれと関連
させた自演が明白なものまで含めるとたいへんな数だな。 言わせておけばいいじゃん
そういうの読むのが楽しい人もおるんよ 馬鹿は改行が反映していないのにも気づかず
さらに、鼻で嗤われてるのにも気づかずバレバレの自演を繰り返す
>>927 とこれに続く >>928-929 とか あまりにも下手すぎて惨め
発達障害なんだろうな このスレ立てたのは庄屋馬鹿だよ。1.の文章は改行が反映していない。
次スレ立てたってまた同じだよ
子供のお遊びに付き合うだけのこと 嫉妬厨は、みんな自分の敵だと思い込んでるから全て一人の人間が書き込んでると思いこんでるんだな。 >>935
改行が反映しない書きこみなんかめったにない。
馬鹿だからそんな書きこみになってしまうわけなんだが、
よほどの馬鹿でないかぎりすぐに気付く。
ズラズラとみっともない改行なしの書きこみを続けることなどない。
ここの改行なしのお馬鹿書きこみは
超絶的な馬鹿であるお前しかいないんだよ
馬鹿の極致だ、お前は
馬〜〜〜〜〜〜〜〜かwww いいからお前は自転車置き場の仕事探せって
他人の家系に嫉妬してないで 何が他人の家系に嫉妬だよ
改行もできない馬鹿が(大笑 >>938 この嫉妬厨が使ってるブラウザが変なんだろ。
大昔のブラウザでも使ってるのか? ガラケーか?
改行しないように見えるなんてお前だけだよ。 そーゆーことにしておけばいいよ
改行してないように見えるのは一人だけ
面白くてたまらんわw JuneStyle で見ているが
>>935 は1行で40文字を越えているから
長く見えるよ JuneStyle だってw
学校行ってない馬鹿 イコール 庄屋馬鹿 何たる馬鹿
一行の設定が長かろうと短かろうと、改行が反映しているなら改行するわ
JuneStyle(藁 だって何だって変わらない
しかしこいつはどれほど低脳なのか、、、底が知れない。呆然とするわ 家系とか
なぜラーメンの話ばかりしているんだよ、
と言っている人がいたでしょ
ナルトという作品の話? >>942 はJuneStyleを画面いっぱいに拡げて見ているから
画面を縮めればそりゃあ自動改行される罠 >>936 こいつが言ってることがようやく解った。
嫉妬厨=妬み爺=長文連投バカ が使っているブラウザが漢字44文字で自動的に改行が入る様だ。
めったに見ないってそりゃお前が長文連投を続けてるからだよ。 逆にお前の書き込みを特定するのには便利だ。
多分ガラケーの専ブラなんだろうな。
2chの書き込みルールとしては、文の途中で改行を入れないと言うのが一般的であってお前がルール違反を犯してるんだよ。
これはHTMLの基本ルールでもある。
>>1 が自分の敵だと思うなんて完全にいかれている。 >>1 の1行目が57文字になってるから敵認定するなんて馬鹿げている。
歴代のスレを見てみろ、初代スレから全て同じ文をコピペしてるだけだから全て57文字だぞ。
自分がおかしいのに、自分は正しい、人が間違っている と思い込むのはやはり病気だよ。 自己中すぎる。
おれは JaneView 。専ブラは殆どJabe系列だから由緒正しい血筋だぞ。
表示欄一般に長く表示するよ。 表示の横幅をオーバーすれば自動的に折り返すがそれは改行じゃないぞ。
iPhone のBB2Cでも同じ。
多分お前のブラウザはガラケーだろう。 今時変なところに物理的な改行を入れるような専ブラは無い。
それに横幅設定が有ったとしても今時44文字で自動改行するなんてガラケーしかないだろ。 >>949
苦しそうだね
JuneStyleかぁww
JuneStyleは知らないけど、改行反映してないぞ
ある特定の書きこみだけだな
お前、こんなスペルも書けず NARUTOにいれあげ 信長の野望で得た知識(?)で
書きこみって、もう行くとこまで行ってるじゃん >>951 絶対に自分の非を認めないで人の上げ足を取るバカ
過ちては改むるに憚る(はばかる)こと勿れ(なかれ) そのパワーを自転車置場の整理に向けろよ
名家に生まれたくらいの金が入ってくるぞ 一行が何字であろうと改行が反映していれば改行するって
ブラウザのせいにしても無駄だわな
JuneStyleってブラウザは知らないけどww
で、お前はNARUTOの奈良一族なんだっけ
どうやって嫉妬すんの?w >>954 まだ見苦しくあがいてるな。 先ず改行と折り返し表示とを区別して言葉を使えよ。
改行が反映だなんて造語は解らん。 改行なんかするかアホ。
普通のブラウザは読み込み書き込みどちらの場合でも改行コードを挿入することはない。
横幅オーバで折り返し表示をしているだけ。
お前が使ってる専ブラの名前を言ってみろ。 ああ、誤字の指摘ありがとうございます
u→aですね
これは恥ずかしい
では 安倍晋三、実は男系だと安倍家ではなく椋木家
石原伸晃、実は男系だと石原家ではなく服部家 ジェーンスタイルでなくても改行が無い書きこみは分かる
(942でJuneStyleなら分かると自分で教えてるんだもんなこの人w )
それにしてもものすごい数書き込んでるな >>956
と、他人のふりをして去っていく庄屋さんの御子孫w チビは百姓の子孫です
武士の男は基本的に身長180cm >>958 争点がずれてるよ。わかるわからないと言う話ではない。
941・942なんてあまり書き込んでいないだろ。 誰と一緒と思ってるんだ?
言い出しっぺは、嫉妬厨が、(44文字以上の) 長い文章には改行が入っていないから書いてるのは全て庄屋何某だと言い出したこと。
挙げ句の果ては>>1 まで庄屋何某だと言い始めた。
長いのはすべて庄屋何某だとさ。
それに対して、941・942 はJaneStyle でも長くなるよと言う話をしただけだろ。
JaneView 、BB2C でも同じと言う話がその後に続いた。
固定長で改行(<br>)を自動挿入する専ブラなんて最近は聞いたことない。
(昔そんなブラウザがあり非難轟々になったような気もするが)
要は嫉妬厨のブラウザが勝手に改行コード<br> を書き込むのが正しいと嫉妬厨が思い込んでたと言う間抜けな話。
<br> を書き込んでいない投稿は全て庄屋何某の投稿だと決めつけている。 バカ丸出し。 >>930 が嫉妬厨の持論だった。
嫉妬厨以外は全て長くなって当たり前なのに、長いのは全て庄屋何某が書いてると、妄想を膨らませていた。
逆に嫉妬厨だけがおかしい事に気がつかないバカ。 >>961
お前さあ、ブラウザのせいにしてていいのか?
お前の行がズラズラ出てきてしまう文章はたしか前スレからだったぞ
結果として舞台で後ろ向きになって手品をみせてるマジシャンみたいなことになった。
目印付きで自演とかキツイわ
みんなが笑いながら見てるんだぜ
どっかで何か踏んでないか?
2/5ちゃんの怖さを知らないんじゃないかな
ま、お前がそれでよければいいんだけどさ >>963 いつまでも自分の無知を認める事ができないんだな。
どこまでも自分を正当化しようとするのは病気。
このスレじゃなくて全く関係無いスレでも覗いてこい。 世間の常識というのを勉強して出直せ。 JuneStyle だって。
馬鹿だよなw
世間の常識というのを勉強して出直せ。だって。馬鹿だよなw June StyleじゃなくてJane Styleの間違いじゃない? うちに閉じこもってないで全く関係無い社会を覗いてこい。世間の常識というのを勉強して出直せ。
とか親爺さんにいつも説教されてるんだろうな。
なんせNARUTOで頭一杯だからなw >>965 >>968 自分の非は絶対に認めない嫉妬ジジイ
逆に上げ足を取るところなんて、
子供がお前の母ちゃんデベソ
と捨て台詞を言ってるのと同じ。
良い歳こいて少しは恥と言うものを知りなさい。
NARUTO とか信長 なんて妄想してる所も病気そのものだな。
>>967 既に >>956 で訂正してるのに嫉妬厨はしつこい。
さらにこの嫉妬厨は、いつも全ての敵は一人だと決めつけるから、JaneStyle と JaneViewを使ってる人を同一人物と妄想逞しくしている。
こんなものを二つ使うバカはいないだろ。 百姓顔 : ビートたけし、渥美清、秋元康、渋沢栄一、伊藤博文、ヒカキン、星野源、浜崎順平、長谷川亮太
武士顔 : 東郷平八郎、夏目漱石、美輪明宏、三船敏郎、林遣都、山田孝之、吉沢亮 >>969
その言葉そのままお返しします
自分は>>967が初めての書き込みましたんで決めつけているのはあなたの方です
また前の訂正したレスを確認せずに書いてしまったことは謝罪します 武士:二重瞼、酒豪、毛深い、長頭、彫りが深い、エラ張り、痩せやすい
百姓:一重瞼、下戸、無毛、短頭、のっぺり顔、エラ無し、太りやすい >>971 勘違いしてるよ。 JaneStyle の訂正は既に済んでる。 という話はそれで終わりで、
それなのに嫉妬厨は>>965で上げ足取りをしててしつこいと書いたつもりだけど、勘違いされても仕方なかったかも。 ごめん。
訂正してくれたあなたを嫉妬厨だとみなす訳がないでしょ。 武士は縄文の血が濃い 百姓は朝鮮の血が濃い
有史以来、常に支配階層にあったのが縄文系先住民 >>971 と >>973 は自演w
一方で武士の顔がどうのこうのとはじめました。
いつものパターン >>976 ますます病気が進みつつあるな。 嫉妬厨の病気の特徴、自分以外は全て一人の敵の仕業だと思う被害妄想の重症。
早めに病院で治療した方が良いぞ。 認知症が合併症として現れ始めると大変なことになるぞ。 縄文人は半島から逃げてきた朝鮮系弥生人を武力制圧し奴隷化した >>978 お前も下らん話でアラすのをやめろ。 スレタイを見直してこい。 俺の曾祖母の実家の先祖は
戦国時代に一時的に某戦国大名を隠居させて、隠居させた大名の息子を傀儡して、
一時期だけ実権を掌握してた
今ではカリスマ的人気を誇る某戦国大名の父親がその傀儡されてた戦国大名の息子なんだが、その人に結局戦争で負けてしまい他家の家臣となる
俺の曾祖母の先祖は、戦国時代だから当時は家老という役職は無いが、軍師的な重臣だ
俺の曾祖母の先祖の、弟子の、そのまた弟子が、カリスマ的戦国武将の軍師だ
詳しくは書けぬ
俺の遠い親戚には、刀剣乱舞で萌えキャラになってる人物がいる
彼の先祖のことは世間はあまり知らないだろう
俺は知っている何故なら俺の先祖から分家した人物だからだ
彼の血筋の先祖は藤原姓斎藤氏だ
彼の先祖は途中で他家の養子になっている
その家は橘姓だ
だから彼の父親は橘という本姓を刀身に切っている 朝鮮人はムシケラだが農耕奴隷として価値があったので生かしておいただけ >>980
ああ、これNARUTOだわ
ナルトそのまんま持ってきてるのか >>980
ここは先祖探しのスレなんで先祖の自慢話とかやめて下さい。
基本、先祖が分かった人は用はないです。
先祖探しのエピソードならいいけど。 なんで掲示板で先祖が探せるんだよ
私が君の先祖ですとか言ってくる人おるのか >>985
スレタイ読める?
なんでこのスレに来た? 顔面で武士かどうか一瞬で判別できる
自信ある奴はうpせよ >>985 お互いに先祖探しのエピソードを出し合って先祖探しのヒントを得るのがこのスレだろ。
はっきりした血族家系と言うのなら、自分から1世代ずつ遡って全ての先祖の名前を言えるか? なるほど。そういうことならやっぱり新撰姓氏録に頼らざるを得ないんじゃねーの 私の名字の由来
現熊本県である肥後国阿蘇郡が起源(ルーツ)である、最古の皇別神武帝子孫の阿蘇国造家。諸国に多い。語源は麻の産地、浅瀬、アイヌ語で燃える岩山の意などの諸説ある。山形県などの東北、関東等に多い。 >>961
>固定長で改行(<br>)を自動挿入する専ブラなんて最近は聞いたことない。
こいつものすごい馬鹿
改行の自動挿入の話なんざ誰もしていないわけだがw
そんな話に持って行くしかないんだろうな。
原因が掴めないんだろ。可哀想に、、、、
お前が行の途中で改行コードを入れても、それが読み手のブラウザでは反映しないんだよ。
今だってそうじゃないか。
これは書き手側に原因があるんだ。
実はお前の方である条件が二つ重なるとそうなる。
教えてやらないけどな。
まあもう少し頑張ってごらんw
普通の知能の人間なら解決できるはずだ。 伊達正宗の父に伊達照宗という人がいて、伊達照宗の父に伊達春宗という人がいて、伊達照宗の父に伊達種宗という人がいて。
その伊達種宗と伊達春宗と伊達照宗の三代の重臣だった仲野日立守藤原宗時がいて、その仲野日立守の同族に、ワイの曾祖母の先祖である立野越後守藤原胤則という人がいた。立野胤則は千葉盛胤の家臣になって、胤則から四代の胤茂まで胤の字を貰ってた。
立野越後守の先祖は南北朝時代に立野左京亮藤原安朝といい、立野城を築くまでは、元は仲野左京亮と称して、伊達種宗の南北朝時代の先祖である、伊達雪朝の家臣だった。
先述した、仲野日立守藤原宗時と仲野左京亮藤原安朝は伊達家と同じく男系は藤原氏であるが、家系は
鈴野三郎穂積重家の遺児、亀丸の子孫である。
鈴野氏は源吉経の家臣で欧州藤原氏の平泉に向かう途中、遺児亀丸は欧州にとどまった。
亀丸はとどまった土地の地名を名乗り仲野を苗字とした。
その子孫が伊達家臣となり、伊達家臣時代から藤原氏を称するようになった。その子孫が、
仲野日立守藤原宗時と立野越後守藤原胤則とワイである。 >>997 で、ワイは何代目なんだ? 本家だと何代目ははっきりしてるだろうけど分家になると何代目かわからないケースがほとんど。
つまりそう言う状態は、直系先祖を辿れていないと言うことになる。 それを調べるのがこのスレの目的。 何代目かって別に気にならない
落語家じゃないんだから
天皇陛下だって何代目?っていきなり聞かれたら、え?って一瞬考えるんじゃないかな。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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