先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ >>399
う〜む、話題としてスレ違いのような気がしますけどねぇ…、とりあえず、まぁいいかな。
岡山県にその名の通り、「珍名(ちんみょう)」という姓(苗字)を持ってる知人がいます。
残念ながら、その姓がいつどのように成立し、分布しているのかまでは聞いていません。
また、検索を掛けたら、「珍名(ちんな)」という姓を持つ人が、北海道を中心に10名ほど
おられるようです。こちらはアイヌ語の「チン(足)」+「ナ(川)」から来ているとのこと。
(あくまでも一説)
ネットにおける情報が確かなら、日本には少なくとも291,129種類に及ぶ姓があると
のこと。いずれにせよ、わが国における一つの文化的な特徴ですけれど、この掲示板
よりも適したところがありますので、下記のスレッドを追いかけることをおすすめします。
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1563144941/ 名字検索のサイトがあるけど
祖先のルーツの説明とかはどれぐらいの信憑性があるのだろうか
そもそも名字からルーツってわかるのか ワシの本家は秋田だけど西日本に多い苗字でどうしてかなと思ったけど
北前船でやって来たのかな やけに山奥に住んでるのは余所者扱いされたせいだろか 自分の名字は全国で2000人程だから割とルーツに信憑性がありそう。 >>401
>そもそも名字からルーツってわかるのか
ある程度までなら調べることができると考えます。大きな図書館へ行けば、「日本苗字大辞典」という本があります。
それを参照すれば、「本貫(ほんがん)」という自分の苗字(姓)がどの地域で発生したかの概要が載っています。
もちろん同姓だからといって本貫がみな同じというわけではありません。同書に従えば、同姓でも20〜40を超え
るルーツがあることは決して珍しい話ではなく、より詳しく知ろうとするためには、何か別の補強資料が必要です。
例えば、「日本家紋総監」や、「都道府県別姓氏家紋大事典」で、「家紋」を中心に調査してみるのもある程度有用
かと考えます。
また、渡来人を除くヤマト民族の正式な名乗り方は、氏(うじ)+姓(かばね)+(個人)名ですけれど、「氏」の部分は、
多くが「皇室」又は「源平藤橘」の各氏へと収束します。氏から分派したところの姓(苗字)をあたっていけば、大まか
ではありますが、ルーツを見つけることができる場合があります。これも歴史を追いかけることの醍醐味なのでしょう。 >>407
皇室制度みたいに、ここで扱う「血族先祖」は、「男系男子」に限るって訳じゃないですよね。
当方、この150年で2名の婿養子が入ってますが、女系とはいえ、とりあえず家名は続いて
いますので、家紋は変わっておりません。要は、どこを「落とし所」にするかだと考えます。 >>402
その気になれば「田中」姓でもある程度までは調べられますよ。国立国会図書館デジタルコレクションで、
「姓氏家系大辞典・第4巻」(太田亮 著・国民社・1944)を画像検索して、80コマ目〜88コマ目を見る
と、「田中」姓の起源や分布が書かれています。
記事冒頭に曰く、「田中 タナカ 和名抄、美作國苫西郡に田中郷、次に讃岐国三木郡に田中郷を収め、
田奈加と註す。また山田郡にも田中郷を載せたり。其の他、大和、常陸、近江、丹波、播磨、紀伊等に
田中庄、また山城、摂津、遠江、駿河、甲斐、伊豆、武蔵、上総、美濃、信濃、上野、磐城、岩代、陸前、
越前、越中、肥前、豊前等に此の地名存す。」と記載されています。
また、以下95項に及ぶ各々の田中一族の概要と、96項目の「雑載」にその他の一族に関する記述が
あります。長いので詳細は省きますが、先祖探しをする際の資料として、じゅうぶん役に立つ資料かと
思われます。
但し、国立国会図書館デジタルコレクションの本著コメント欄には、「全国の姓氏を歴史的仮名遣いの
50音順に収録し、起源、分布、本支の関係などを解説しています。記述は広範にわたりますが、典拠
文献の書誌事項が不明な場合があります」と書かれており、それなりの注意が必要でしょう。
ちなみに国立国会図書館デジタルコレクションのURLは、次の通りです。 http://dl.ndl.go.jp/ >>410
俺なかなかの珍名なんだけどその本って希少姓も載ってるの? >>412
横からだけど珍名ということは全国人数はどれぐらいか気になる 日本は同じ一族でも分家が苗字を変えていったから膨大な苗字となった
源氏の分家が足利で足利の分家が吉良で吉良の分家が今川で今川の分家が品川で、、、 >>412
多分駄目。「姓氏家系大辞典」の収録苗字数は50,000ですから、希少姓は含まれていないでしょう。
同じくメジャーな書籍ですと、「日本の苗字」が110,867、「日本姓氏大辞典」が133,700です。
あと、「日本苗字大辞典」が公称30万弱なので、これならば希少姓もだいたいカバーできる模様です。
但し、お値段が1セット¥346,500ですから、どこかの図書館に頼んで買ってもらうのが賢明ですね。
ちなみに、これらの書籍が都道府県立の図書館にあるかどうかは「全国都道府県立図書館横断検索」
で確認できます。また、市町村立及び私立図書館の場合は「図書館リンク集」で検索してみて下さい。 >>413
全国で200世帯ほどだったと思う。
愛媛の西端と宮崎だけに多数が偏り、全国にはまばら。
>>415
何か色々とすごいねw
読んでみたい!国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな。
家系図とかも載ってるの? >>416 >>415です。
>国立国会図書館の入館証持ってるから調べてみようかな
それならば話は早いでしょう。「百聞は一見にしかず」ですから、私の書き込みを含め、信憑性があやふやな
ネットの情報に頼るより、御自分の目で確かめるのが一番確実です。
あと、可能なら事前に国立国会図書館のドメインに、「姓氏・家系」(の調べ方)に関する参考文献一覧があり
ますので、それをプリントアウトして持って行けば、効率的な調査ができると思います。詳細は下記のURLを
参照して下さい。また、一般公開可能な範囲で結構ですから、調査結果の概要報告をよろしくお願いします。
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101070.php うちは200世帯以下だな
明治維新までは某藩の藩士だったから系図とかはある
某源氏の子孫という事になってる >>417
本なんて有用だと思えば勝手に使うからネットの利用法なんか具体的に書かなくたって
いいんだよ。
その本を使用したらこんなふうに先祖が判明したとか、自分の体験を書いて欲しい。
何冊かあるなら、自分はこれが一番役に立ったとか、そういうことを書いて欲しい。
しかし、姓氏に関する本を利用することによって自分の先祖が分かるとか、そんなことが
あるのかな?
あなたがそんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい。 >>421 >>417です
>そんな体験をしているなら、是非聞かせて欲しい
では一つの事例を書いてみましょう。詳細情報は開示できませんが、明治期の戸籍簿以前に
おける先祖のことがほぼ明確に記されていると確認できた主な資料は、以下に示すものです。
1.「諸向地面取調書」 国立公文書館
2.「姓氏家系大辞典」 国立国会図書館
3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
これらの資料及び副次資料により、先祖の本貫は伊勢国の某邑であることが分かりました。
伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。 >>422
そう思い込んだって事ね
それが事実かどうかは別だよ だいたい家系図は捏造されてるのが大半だしな
徳川家自体が捏造だし、大名や旗本もそうだよ >3.「吾妻鏡」 宮内庁書陵部
ふーん、吾妻鏡も資料になさっったんですか、、、
>伊勢平氏分派のひとつである先祖は、鎌倉時代に本貫を離れ、中部地方の某国において
>世代を重ね、江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
それはよかったですね。敬服しました。あなたは純朴な方だ。 あと全国に200世帯とか100世帯とか、電話帳に名前が出てるのを調査したものなんでしょ?
昭和50年ぐらいまでは電話に加入すると電話帳に載せるのが当たり前だったんで、
まあそれなりに根拠にはなり得たんだろうけどね。 >>423
たいへん失礼ながら、現時点においてここまで分かったと記述された事を全否定するのは簡単ですが、歴史学
の存在自体に意味が無いとの御主張とも受け取れます。
まず、歴史学にも学問的限界が存在する事を踏まえたうえで、我々が先祖探しという歴史の旅を実践するには、
現存の資料にある記述で、最も信頼性が高いであろうという事象を記録したものに依存するしかありませんよね。
そこを各々の視点から多方面のベクトルで掘り下げていくのが、このスレッドの存在意義ではないかと考えます。 電話帳で苗字の世帯数を推測するってどうなんだろ?
斉藤とか佐藤とか山田とか渡辺なんて苗字ならいくらでもいるから、電話帳にも
平気で載せるだろう(電話帳に載せるのが当たり前の時代の話な。)。
苗字が何百も並んでいれば特定されることはまず無いから。
でも、珍名さんだと簡単に特定されてしまう。
珍名というほどでなくても珍しい苗字だとやっぱり特定される可能性はある。
電話帳で○○市に10軒という程度だったら、実際に電話すれば簡単に当人を
探し宛てることができる。
電話帳に誰でも名前を載せた時代でも、珍名さんや少数派の苗字の人は
載せないことが多かったのではなかろうか。
実際、俺の知り合いで昔から個人の電話を公表しない人がいる。
その人は材木屋で、材木を買ったときの売り主とも、売ったときの買い主とも
後からトラブルことが多いそうで、自宅や家族のところへは絶対に電話が
行かないようにしている。
事務所で話す分にはいくらでもするが、トラブルは家に持ち込みたくないという。
事業をやったり商売してる人で珍名さんだったら、絶対に自分の名前を電話帳に
載せないだろう。相手がカッカしてたら、家の方までかけてくるかも知れない。
ありきたりの苗字ならいいが、そうでないと相手がこっちの苗字を知っている以上
番号を調べられてしまう。
家も探り当てられ易いと思う。このへんで斉藤さんてうちありますか?では
分からないが、珍名だと危ない。
とゆーことで、珍名さんの全国で何名とかは怪しいのではないかという話。
たしかに珍しい苗字だが、珍しいからこそ警戒して昔から電話帳登録せず、
そのためやたら数が少なくなっているということはないか。 >>427
あなたの言うベクトルが思い込みにより、ねじ曲がってなけれぱね。
人は自分の信じたい事に引きずられる。
それを忘れないように。
何故、数々の偽書が存在するのか?
考えれば解るでしょ 自称○○の子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などないケースが多い。
系図も後世に作成されたもので年代が合わなかったりがザラ。
先祖が捏造したヨタ話を思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけ。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 >>429 >>427 です。
数学の世界から見ると、歴史とは時間軸を含むn次元空間で線形関数として扱われるべきもので云々…、
いずれにせよ人文科学の世界にベクトルという自然科学用語を使った私が悪かったです。
たいへん失礼しました。 >>428
個人情報に対する危機意識が薄かった時代があったのですよ 個人情報に対する危機意識が薄かった時代でも、珍名さんは個人名での
電話番号登録はしなかったのではないかという話だよ。
今、珍名さんの数とかどうやって調べてるんだろ? >>422
>江戸幕府成立に伴い幕臣になったと考えるのが最も合理的な結論です。
幕府ができるまでは徳川家の家臣ではなかったのかな?
幕府ができると同時に家臣になったの?
たしかに徳川累代の家臣でも、論理的には徳川幕府が出来ない限り幕臣では
ないわけだが、、、w
ま、それは置いておいて
幕臣の場合はどうしても避けて通れない資料がある。
寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜。
前者は家光の命令で幕府が編纂したもの。
後者はその修正版として寛政年間から文化9年までかかって編纂されたもの。
寛政重修諸家譜は内容的に寛永諸家系図伝を踏まえているので、実際的には
寛政重修諸家譜だけを参照すればよい。
家柄の根拠とするなら寛永諸家系図伝からも引くのが妥当。
両者とも大名と旗本について系図や資料を差し出させ、不明・不詳な箇所には
さらに資料を出させて編纂されたもので、当時入手できるかぎりの客観的資料に
あたっているといってよい。
ただし、幕臣については「お目見え以上」に限られる。
御家人は入っていない。
>>422 の家は伊勢平氏の家柄で、「鎌倉時代に本貫を離れ」とあるから領地を
持つ武士だったわけである。鎌倉以前からの筋目の家が、徳川に仕えて御家人と
いうことはありえないから、お旗本だったのでしょうね。
それだったら寛永諸家系図伝と寛政重修諸家譜に載っていますよ。
そうすればご先祖の具体的な知行や職名まで分かる。いついつの期間、大番頭で
二百五十石だったとか。養子、夫婦養子なども全部分かる。
あなたが何故これにあたらないのか不思議。 でも地方名家なら一家か2家ぐらい旗本になってるだろ? >>437 >>422 です。コメントありがとうございます。
もちろんのことですが、私の調査では御指摘の資料も含め、30を超える文献を考証しています。
ただし、物事には例外がつきものでして、残念ながら鎌倉時代から苗字を持つ家筋でも、先祖は
諸般の事情により、御目見得ができない御家人として江戸幕府に仕えていました。
また、別の資料から、先祖が江戸幕府成立の直前に徳川家康直轄の家臣団の一員として召し
抱えられたことが分かりましたので、「江戸幕府成立に伴い幕臣になった」との表現になりました。
このあたりの書き方が良くなかったですかね。
それから、江戸にある某神社の奉納帳に先祖が名を残しており、これとその他の資料を照合した
結果、役職が特定できました。あと、国立公文書館にある別の資料で、石高も判明しております。
旗本よりも身分が一段低い御家人でしたが、現在の日本橋付近に屋敷を拝領したうえ、江戸城に
常時内勤でしたので、それなりの石高でした。
申し訳ないのですが、これより先を詳細に開示することは少々難しいです。どうぞ御賢察下さい。 お目見え以上の家臣の場合、将軍はその家臣がどのような由緒を持つ家の人間で
あるのか知っておく必要があるので、先祖書きや親類書きのような書類を提出させ、
家臣名簿を作成した。寛政重修諸家譜などがそれである。
お目見え以下の御徒の場合は、そのような必要は全く無い。
御徒衆は軍隊でいえば兵卒かせいぜい下士官であって、家柄も由緒も問われない。
御徒自身も、家柄だの先祖がどうしたのなど考えたこともなかったろう。
何せ御徒という名のとおり騎乗は許されず、籠に乗るにも目隠しのついた籠には
乗れない。竹の骨組みだけの籠しか許されなかった。
旗本が登城するときは裃をつけるが、御徒で裃をつけるのは物頭クラスのみ。
普通は羽織袴のみだった。住むのは御徒長屋が一般で、組屋敷という社宅の
ような一戸建てに住む場合も門を構えることは許されなかった。
田沼時代の後半ぐらいから風向きが変わり、御徒たちにも由緒書きや親類書きの
提出が求められることになった。
おそらく御家人の家株を売る者が増え、いったどういう人間が家臣になっているのか、
確かめる必要が出てきたのだろう。
このときはみな大慌てであった。>>213に書いた森山孝盛の文書にその時の騒動が
記されている。森山の家はその当時徒頭をやっていたのだが、配下の御徒衆は
書式が分からないどころか字を書くことさえできない。
それを森山の両親が手伝ってやり、代筆までしてやったのだという。
組下の御徒たちの感謝は尋常でなかった。
森山孝盛自身も、後に自分の部下となった御家人たちの面倒を見ている。
部下たちの家にまで出向き、話を聞きながら書類を書いてやることまでした。
部下たちは後々まで感謝し、何年たっても森山の家に礼を言いにやってきたり
したという。 遠い先祖からのきちんとした系図を作り出すことは大名でも難しい。
徳川時代の大名など、戦国の下克上の中から生じてきた新興氏族が多いからだ。
徳川氏自身が新田源氏の流れとして詳細な系図を著しているが、当然眉唾ものである。
旗本の系図作りなども大変だったろう。
それでもみんな清和天皇や桓武天皇や藤原鎌足に行き着くように作ってあるのだ。
たとえば田沼意次の家は、八代吉宗に随って紀州から来て幕臣となった家だ。
父親は吉宗が一万石の大名だった頃に仕え、勘定方だったという。
先祖は鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)。
紀州人なのに何で先祖を藤原秀郷にしたんだろうと思っていたら、田沼意次の先祖に
鉄砲名人がいて、大阪の陣のときに紀州公に召し抱えられたのだが、この先祖が
下野の人間だったらしい。たぶん下野出身の浪人で、技術を買われて徳川頼宣の
陣にいて活躍し、戦後家臣に取り立てられたのだろう。
下野出身だから下野守の藤原藤秀郷を先祖ということにしたというわけである。
ところで、この藤原秀郷の子孫が佐野氏ということになっている。
田沼意次の嫡男の田沼意知は、旗本・佐野政言に遺恨を持たれ、江戸城内で斬られ、
八日後に死亡した。
佐野家の本家本元のような佐野政言に系図を借り、返さなかったからだと言われている。
遺恨を持たれた原因はそんな単純なことではなく、他にあるらしいのだが、とにかく
藤原秀郷を持ち出さなければ佐野政言みたいな人間と関わりを持たずに済んだのだ。
たまたま藤原秀郷の子孫を名乗ったために、とんでもないことになったわけである。 2連投の長文なんてどうせ誰も読まないのにご苦労なことだな >>442
おー、久しぶり
相変わらず馬鹿だなお前はw
家の由緒や系図というのはどういうふうに形作られていくのか。
坂本龍馬の家で見てみよう。
龍馬の坂本家は、藩に献金して郷士の身分を貰った。
先祖から身分を受け継いだわけじゃなく、新規に郷士になったわけだ。
そうなると代々の先祖というものを作り出す必要が出てくる。
それまでは商人だから、先祖なんぞどうでもよかったはず。
興味もないし知識もない。しかし武士の家には由緒というものが必要。
郷士が武士かは置いておいて、ともかく先祖のことは知りませんでは通用しない。
とりあえず龍馬の曾祖父の八平直海(郷士召出w)かその前ぐらいは分かるだろうが、
それより以前は系図屋に頼むしかなかったんだろうな。
その系図によれば、先祖は明智左馬助に遡るらしいが、何故左馬助なのか。
坂本という苗字→坂本城→明智の城→明智一族→明智左馬助という連想じゃなかろうか。
昔は明智左馬助の湖水渡りの話はよく知られていた。
江戸時代の人は豪傑の話を好み、弁慶の立ち往生とか源頼光と四天王の酒呑童子討伐、
岩見重太郎の狒々退治、荒木又右衛門の三十六人切りなどは武者絵にもなり、
知らない者はなかった。
湖水渡りもその一つで、明智左馬助と聞くと、当時の人には琵琶湖と唐崎の松と坂本城の
風景が頭に浮かんだ。
著名人を先祖にしてしまうと、それ以前の家系はその著名人の家の話になるので面倒がない。
明智の家は絶えてしまっているのも好都合。現在の縁戚関係とかも聞かれないで済む。
さらに、明智だと土岐源氏ということで清和天皇まで繋がる。
系図の材料としては文句なしの人物なのである。
念のいったことに、龍馬の家では明智の流れということで桔梗の家紋を使っている。
明智軍の旗印が水色桔梗だったからである。 自分の先祖だとした系統に後嗣がいるときわめて面倒。
上の田沼意次の家など、直系の子孫だと威張っている佐野氏があるものだから面倒な
ことになった。本家本筋に貴殿のご先祖がどこからの分かれなのか、私どもの系図で確認
して進ぜようなんてことを言われたら甚だ困る。
徳川家が新田の分かれとしたことは賢明である。
ただし、新田の流れにも、元々新田宗家を名乗る岩松氏などがあった。
しかし、この連中も徳川幕府が出来ると「末裔」とのみ自称し、誰も宗家を名乗らなかった。
岩松氏は系図を差し出すよう言われたが、拒否した。お見せするようなきちんとした系図は
無いというようなことを言ったのだろう。
岩松氏は徳川の旗本として明治まで存続した。
一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。 スレタイ無視して自分の蘊蓄を垂れ流すのが生きがいのハゲに同情しろよw >>445-446
お前、何を喜んでるんだ
そんなに俺が好きか?
上で永諸家系図伝と寛政重修諸家譜の重要性について述べた。
試みとして勝海舟の家で寛政重修諸家譜だけで何が分かるかを明らかにしてみよう。
海舟は明治後子爵になり華族に列したので、受爵にあたって家系調査をし、略系図を
明らかにしている。これと寛政重修諸家譜を突き合わせればよい。
勝海舟の本家は男谷家で、曾祖父は越後の小地谷の在(三島郡長鳥村)の貧農の
子であった。盲人であった。名を銀一といったらしいが、これは按摩の名前だろう。
少年の頃、江戸に出て按摩をしながら金を貯め、それを高利貸しして巨万の富を
得た。江戸時代は盲人の金貸しは厚く保護されていて、貸し倒れなどは無いもので
あった。めくらから金を借りて返さないなど社会が許さなかったのである。
海舟の曾祖父は十万両の身代となり、江戸市中に十カ所の地所を持つ身分に
なったという。当時土地を持つということは普通の人間には出来ないことであった。
さらに朝廷から検校の地位を許された。もちろん買官したのである。
検校は盲人の官職のうちで最高の地位であった。
越後の米山(よねやま)に因み、米山検校と名乗っていた。
曾祖父には長男である忠之丞と三男である平蔵の二人の息子がいた(次男は
早世したらしい)。検校は長男忠之丞に御家人男谷家の株を買ってやった。
これ以降、検校も男谷検校と名乗ることになる。
−−−ここまでは寛政重修諸家譜には出てこない。御家人時代のことだからである。 さて、忠之丞は御家人男谷家の当主となったが(男谷家の相続人となったということ
である)、ほどなくして死亡。精一郎という子がいたが、まだ幼弱だったので父の
忠之丞を相続することはできない。武士の家は軍役義務を負うので、相続人が幼児
では継げないのである。
そこでとりあえず三男の平蔵が継ぐことになった。
この三男が安政五年に西の丸の持筒の与力に召し抱えられ、旗本となった。
旗本のやる役目を与えられ、旗本となったのである。
−−−だから寛政重修諸家譜では男谷家は平蔵から始まっている。
検校−忠之丞 ・・・・・・ 精一郎
↓ ↑
平蔵−(長男)彦四郎
...(三男・妾腹)左衛門太郎(小吉)
男谷家を旗本にするためには大金を使ったはずである。
関係する上司らに賄賂をばらまいたのである。
一説に三万両使ったといわれる。
平蔵の長男彦四郎思孝(ひろたか)という人は父よりもさらに出世している。
勘定方となり、諸国の代官を歴任した(この頃の代官は勘定奉行配下だった。)。
この人にも実子がいたらしいが、精一郎が成長したので精一郎を自分の養子に
して男谷家を継がせた。
(自分は他の旗本の家を継いだのだろう。金があればいくらでも可能である)。
こうして男谷家の当主となった精一郎が幕末の剣客として有名な男谷下総守信友
である。 海舟の父親の小吉(小吉は幼名で、本名は左衞門太郎である。)は、男谷検校の
三男平蔵の妾の子である。
この妾の腹の中に小吉がいるときに、妾は平蔵の勘気に触れ、家を追い出された。
平蔵の本妻はよく出来た女で、小吉が生まれたあと小吉を引き取り、乳母をつけて
育てたという。だから小吉は母を知らない子であった。
小吉は七歳のときに旗本勝家に養子に入った。
父の平蔵が金で勝家の家株を買ったのである。
勝家は三河以来の幕臣であるが、もともとは御家人で、九代家重のときに旗本に
なった家であるという。小吉が養子となったときには、勝家の男達は死に絶えて、
家にはお婆さんと孫娘一人だけが残されていた。
勝という家を買っただけとはいえ、形としては養子となったわけだから、このお婆さん
と孫娘を放り出すわけにはいかない。
当初、男谷家と勝家は一軒の家に一緒に住んでいたという。
その後、男谷家が本所に新しい屋敷を拝領して引っ越すことになったとき、男谷家では
勝家のために本所の屋敷地内に一軒のあたらしい家を建ててやった。
さすがに金持ちである。 勝の家が独立し、小吉がこの屋敷で暮らすようになると、お婆さんの小吉いびりが
始まった。小吉は家が嫌で外で遊んでばかりいた。そのうち14歳になると家出して
放浪する。このときの話が「夢酔独言」に書かれていて非常に面白いが省略。
なお、勝家に残されていた孫娘は後に小吉の妻(海舟の母)になった。
最初から予定されていたことと思うが、小吉が18歳のときに結婚したのである。
婚姻により、最初は勝家の養子だった小吉が勝家の婿養子ということになる。
結婚はしたものの夫婦生活などあったのかどうか。
小吉という男は16の頃から吉原で遊び、代官をしていた兄(腹違いの兄の彦四郎)の
代官屋敷の手代にそそのかされ、代官所の公金二百両を持ち出して吉原で蕩尽して
しまった。このときは父親平蔵のとりなしで事なきを得たが、二百両ぐらい何でも
ない父親がいなかったらどうなったか分からない。
このくらいの道楽者なので、結婚しても妻など見向きもせず外を遊び歩いていた。
小吉は22歳のときから24歳まで、足かけ三年間座敷牢に入れられたが、妻を妊娠さ
せたのはその時期である。
さすがに座敷牢にいては妻に手を出す以外なかったのかも知れない。 >>451
こんな朝っぱらから長文垂れ流しってある意味すごいよな >>452
俺様が最も日本史に詳しい人間だと信じて疑わない躁病の爺だから誰にも止められんよ
躁病患者の特徴は「気分爽快、自我感情高揚し、自信過剰で尊大・無遠慮で節度を欠き、
誇大妄想を伴い、多弁・多動で落着きがない。時に怒りっぽく、攻撃的で錯乱状態を呈す」
だとさ・・・ >>454
外人労働者の多いところでは
空気読めない奴ばっかだよ おじさんが早起きして書き上げた力作最後まで読んだ人いる? >>451 から >>458 これ全部一人のおっさんの自演?
嫌みのタレ方がそこはかとなく古いんだが
お爺さんなのか・・・
一つだけ言っておく。まとめて書け。スレがどんどん消費されてもったいない。
俺みたいに内容のある書き込みをするならいいが、
ひねくれ爺の妄言7つも並べてどうするw
−−−−−
では価値ある書き込みに戻ろう。
勝の家は小普請であった。小普請というのは役職のない旗本に与えられる役職である。
小普請組に属し、月に二回組頭のところへ挨拶に行くのが仕事であった。
これを逢対(ほうたい)という。上下(かみしも)をつけての格式張った儀式である。
これだけは何が何でもしなければならない。それ以外は暇である。
月に二回の逢対以外にも、出来るだけ組頭の屋敷に挨拶に赴くのがよいとされた。
普通の日には組頭もいちいち応対できないので、玄関先に帳面が置いてある。
それに勝手に記帳して帰ってくることになっていた。
小吉も婆さんにやいのやいの促されて挨拶に行く。しかし、字が書けない。
自分の名前さえ書けないのである。仕方ないので人に頼んで書いてもらっていたという。
逢対(ほうたい)というのは、その文字からして、組頭が一人づつ相対して出席を確認
するということだろう。
幕府の決まりでは、当主が四ヶ月行方不明だと取り潰しということになっていた。
逢対に四ヶ月行かなければ家は断絶するのである。
小吉は逢対だの挨拶だのという生活が嫌になり、また家出して遠州の剣術の友達の
ところに二ヶ月ほどいた。江戸には帰らないつもりでいたのだが、親類に連れ戻され、
家を潰すまでの気儘は許さないということで座敷牢に入れられたのである。 小吉に麟太郎という息子が生まれたとき、小吉は長屋に住んでいた。
相変わらず小普請で無職と同様であるから、刀の鑑定などをして小遣いをかせいでいた。
何故旗本が市井の長屋なんぞに住んでいるかというと、この頃の旗本というのは自分の
屋敷は人に貸して自分は他所に住むというのが普通だったからである。
拝領屋敷に住んだままであっても、屋敷の一部を人に貸したり、賃貸用の家を建てて
そこに人を住まわせるということは当たり前に行われていた。
最初は離れを貸すという程度だったのだろうが、旗本屋敷の敷地というのは広いので、
そこに何軒もの貸家を建てて賃借人を入れ、いっぱしの大家となる旗本が多かった。
ある論文では拝領屋敷の七割に及ぶという。「不在拝領主化」というのだそうである。
旗本の敷地内の家を借りるのは大商人がほとんどである。
町全体が今日でいえば一等地にあり、高熨スく、安全で閑寂だったからである。
街中は火事が多かったが、大名や旗本の屋敷町はほとんど火事が出なかったことも
大きかったと思われる。
旗本ばかりでなく、八丁堀同心の屋敷内などの貸家も人気があった。
同心の屋敷であっても敷地は400坪ぐらいはある。
この土地を区分けして家を建て、そこに商人たちが住んだ。八丁堀同心の屋敷ということで、
盗人や押し借りも来ず、きわめて安全だったのだという。
今日でいえば、警察官舎内に住むようなものであった。
なお、長屋には旗本が住んだりもするのであるから、イメージを捉え直さないといけない。
貧乏長屋も多かったが、裕福な人の住む小綺麗な長屋も少なくなかったのである。
商家の奉公人も番頭ぐらいになると所帯を持てたが、その場合は長屋に住んで店に通って
いた。こういう人たちが落語などに出てくる貧乏長屋などに住むわけはない。
紀伊国屋文左衛門も引退したあとは長屋に住んでいたといわれる。
お金持ちの住む長屋もあったのである。
もちろん一戸建ての貸家もあった。こういう家はお妾さんのような隣で聞き耳を立てられ
ては困るような人とか、鳴り物を使う浄瑠璃や小唄の師匠などが借りた。 麟太郎は7歳で将軍家慶の五男・初之丞の遊び相手に命じられ、大奥に上がることに
なった。幼児からの遊び相手はやがて小姓となり、側用人などの出頭人になることが多い。
しかしこの五男は2年後に死んでしまった。
慶昌という名前になって一橋家を継いだ直後のことであった。
小吉は「せがれは青雲を踏み外した」と嘆いた。
麟太郎が遊び相手に選ばれたのは将軍家慶の目にとまったからであるという。
親戚の女性に「お茶の局」(阿茶の局)という大奥に上がっている女性がいて、その女性の
ところを訪ねた人がたまたま麟太郎を連れていった。
お茶の局が麟太郎の手をひいて御殿の庭を散歩していると家慶に出会い、家慶が大いに
麟太郎を気に入ったのだという。
この「お茶の局」という人がどういう人物か不詳だが、おそらく彦四郎の姉か妹ではないか。
海舟は後年、家定の正室篤姫に気に入られ、江戸市中を案内したりする仲となる。
西の丸に出入りして、篤姫と七輪で干物を焼いたりしたというが、大奥とのつながりは
最初から有ったということになる。
篤姫が海舟に気を許したのも、この親戚の女性が間にいたからだということも考えられる。
それ以前に、海舟は7歳のときから2年間、大奥にあがってそこで毎日生活していたので
あるから、大奥の女性と気が合うのは当然ともいえる。 >>461
措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ
スレチ連投キチガイ 殿
令和元年 8月 11日
東京都知事 小池 百合子
1.あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院診療が必要であると認めたので通知します。
2.あなたの入院は【 ?精神保険法第29条の規定による措置入院 ?精神保
健法第29条の2の規定による緊急措置入院 】です。
3.あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、
封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立会いのもとで、
あなたに開封してもらい、その異物は病院であずかることがあります。
4.あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁護士との電話・面会や、あなた又は保護者の依頼によりあなたの代理人になろう
とする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接については、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
5.あなたは、治療上の必要上から、行動制限を受けることがあります。
6.もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職員に申し出てください。 それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない
場合には、あなた又は保護者は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、
都道府県知事に請求することができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋ねになるか又は下記にお問い合わせください。
7.病院の治療方針に従って療養に専念してください。 評判がいいようなので、上記>>444 から続ける。
>一方、御家人や同心の株を買う場合は、そこの家の人間になるわけだから(養子ということ)
>ご先祖ネタには困らない。買った家のご先祖の話をしていればいいわけだ。
>お気楽だけど、数代下がるとその先祖が自分の血統上の先祖だと思う奴が出てきて、
>俺の先祖はああだこうだと話をするようになる。これも困ったものだ。
これに続けて
俺の友達で、先祖は北陸の某藩の同心だと自慢している奴がいた。
同心というのがどういう身分かよく分かっていなかったらしい。
士族であるということも自慢していた。
「俺の親爺は、近所の奴らなんかどんな身分か分からん、けがらわしい、とか言うんだぜ」
などと話していた。
「うちの先祖に喧嘩で同輩を斬り殺して先祖の墓の前で切腹して死んだ人がいるんだってよ」
と、これも得意げに話していた。
しかし、そいつの親も祖父さんも医者である。祖父さんは東京の私立医大である。
これは、家は相当な資産家だったということである。
さらに、祖父さんの弟は一生働かなかったらしいと言っていた。
ニートのヒキコモリのように思っているらしかったが、農地解放前、大地主の跡取り息子と
いうのは普通働かず、家産を管理しているだけだった。
戦前に息子を北陸から東京の医大に行かせ、家を継いだ息子は働かずにいたというのは
大地主だったということである。
本物の同心の家で、明治に禄を失ったような家なら、息子を東京の医大に行かせたり、
一生働かずに遊ばせておくというのはまず無理だろう。
それが出来た家だということは同心身分を金で買った豪農だったということで間違いないと思う。
祖父さんの代から東京住まいだから何も分からなくなり、喧嘩で同僚を斬り殺した話などを
自分の先祖の話だと思っているのである。 >@marumasa58
>徳川家広氏、かの会津藩藩主松平容保公の
>直系なんだけど、その人がよりにもよって
>福島に関するデマばら撒いてる
>立憲民主党から出馬というのが実に笑えない
>20:15 - 2019年4月30日
パヨクが令和新撰組と名乗ったり
会津松平の直系がパヨク政党から出馬したり
実にあからさまになってきたねwwwwwwww
会津側はパヨクです!
会津プロパガンダは反日プロパガンダです! 松平容保は籠城中にもエッチしてたんだよな?
家臣が命がけで戦ってる最中に中出ししていた
容保には幻滅した… >>466 〜>>471
イミフな書きこみ6つもしやがった。
図書館の姓氏辞典で先祖が分かるとか言ってる阿呆だろ
名字には確かにその発生の元になった本貫という土地がある。武士の所領だ。
本領ともいう。武士は領地を持ったらその土地の地名を名乗ったのだ。
例えば足利氏は、八幡太郎義家の四男が下野国足利郡足利荘を領地としたときに
称したもの。
細川は三河国額田郡細川ク、畠山は武蔵国男衾郡畠山荘。
今川は三河国吉良荘今川。
新田は上野国新田郡新田荘が本領。
山名は上野国多胡郡山名ク。新田義重の長男がここを名田として名乗ったもの。
島津は近衛家の荘園である薩摩国島津荘の下司に補任されたのが姓の由来。
武田は八幡太郎義家の弟の新羅三郎こと源義光の三男の家系。つまり佐竹義業の
弟義清の直系。本領が常陸国那珂郡武田クであったため武田と名乗った。
義清は甲斐国に流罪となり以後は甲斐で勢力をなす。
こうした姓を名乗る本家からいくつもの分家が立てられてそれぞれの領地名を姓にした。
だから姓というものはどんどん出来ていく。
それぞれの系統を明らかにしないとゴチャゴチャして分からないというので姓氏辞典が
できた。姓氏辞典とは言わないが、この類の本は江戸時代からあり、系図屋の種本だった。
日本には群書類従を代表とする本の内容を分類して百科事典のようにする伝統があり
(例えば、百合だったら百合がどの本のどこにどんなふうに書かれているのか、あらゆる
本にあたった結果が書いてある)、姓氏辞典もこの類の知識を採集した記述が混ぜ込んである。
どこそこの寺の鐘名に○○という鋳物師の名前があったとか○○神社の寄進者名に
○○という名前があったとか。 姓氏辞典は、どういう姓がどのように作られたのかという資料にはなっても、家系調査の資料
にはならないと思う。その姓を名乗っているからといってその一族の人間とは限らないし、
長い間に本筋の人間はすべて絶え、姓だけが残っているということも多いからだ。
現在は姓と血筋は完全に分離してしまっていると言っても過言でないだろう。
例えば細川氏は讃岐や河内や阿波など支流がいくつも出たが本宗家を含め全部絶えた。
和泉細川家の後裔を自称する細川藤孝が出なければ細川家は何の痕跡もなく消滅していた。
ただ細川藤孝が本当に一度断絶した和泉細川氏であるのかについては疑問の余地がある。
本人が後裔と言っているし、再興したという触れ込みだから誰も突っ込みを入れないだけの話。 アイヅーはシーマンヅーに互角に逆らわなければならなかった。。。 自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
てっきり男子直系だと思ってたんだが、戸籍を取り寄せると江戸末期に婿養子に入って来たのがわかった。
自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
自分の兄が、何十年ぶり位に息子家族、兄弟家族を呼んで墓参りと法事をすることになった。
先週の金曜日と土曜日に行ってきたが、楽しかった。
自分は離れてるから10年ぶりの墓参りだった。
自分たち一族の墓が山の裾野に集まってるんだが、今までどういう関係の墓かよくわからなかったけど、戸籍を調べて初めてわかってきたのは、自分の直系の墓がずっと残ってることに感動した。
今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
兄貴の孫達が、嬉々として墓のこけ落としを楽しんでた。
昔の墓は、小さな墓で個人埋葬だったようで、夫婦隣り合わせで別々の墓石が立ってた。
苔を落として初めて名前がわかった。 次の目標はその前の世代の墓石を見つけること。
しかし、明治以前に死んだ人達の殆どの墓は、祖廟という建物の中に合同葬としてまとめられてるから墓石は無くなってる。
それ以前のうちの家系の大昔の墓は別の場所にあり、そこはそれなりに保存されてるがどんな人達が埋葬されているのかは、よくよく調べてみないとわからない。
離れているとまず無理だな。
中心にあるのは畳3畳位の巨大な石が鎮座している。 >>476 婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
寺の総代は、うちの家系が3名とそっちの家系が2名、その他1名で運営されてた。 >>399 で突然珍名を話題にしたのは狙いがあったわけだ
先祖が非常に珍しい姓なので姓氏辞典などによる特定をしやすいということ。
あと、>>476 なんかは
>自分の名字も他にはない珍しい名字だが、婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字だった。
なんてふうに「見たこともない珍しい名字」だから簡単に特定可能ということだな。
たしかに山田さんだったらどこの山田か分からないものな。
しかし、いくら珍名でも名家とか名主をやるような家が一軒だけということはないわけだよ。
田舎で、その一軒だけが地元の名家なんてことはない。
そういう家は一族一党が栄えている、あるいは栄えていたのだ。
もちろん一族の中には落ちこぼれみたいな名前汚しみたいな家もあるだろうが、ともかく
その地域では有力な家系として認識されているはずだ。
だからいかに珍名でも、その限られた地域にはかなりの数がいるはず。
珍名珍名といっても、地元に行けば必ずしも珍名に非ず
名主をやるような家なら、その周辺に同じ名字の家がいくらもあるよ
婿養子に入ってきた名字も見たことも無い珍しい名字→だから簡単に名主さんの家の人間と
特定できた、というのは無理がありすぎだと思う。失敗だな、こりゃ 皆、先祖は○○だと思い込んでるからな
冷静に突っ込んでも感情的な反応しか返ってこないよ なっがいなぁ。一人でやってて楽しいか?
他の人が寄り付かんから止めてくれや。 自分の高祖父(文久3年生まれ)は庶子が8人いた。
奇跡的に全員成人して他家に養子に出されたけど。 >>478 やけに絡むな。
うちに婿養子に来た家系がどんなものかよくわからなかったが、うちの家系の菩提寺の総代はうちとその名字の家系とで切り盛りしてるから地元ではそれなりにやってんじゃないの?
今年墓参りに行ってようやく少しわかったけど。 >>478 何を言ってるのやら。 どんなに珍しい苗字でも地元では当たり前なのは当たり前。
議員もいれば、校長もいる。 >>478 俺がその苗字を知らなかったのは、3歳くらいに地元を離れたからだよ。 今年戸籍を取り寄せて初めて知ったけど。 >>476
>自分の先祖は、約1000年前まではっきりしてる。
素晴らしい。こんなこと書いてる時点でとても常識的な人だと分かる。
>>477
>婿養子に入ってきた家系も庄屋をやってたりした家系でそれなりみたい。
それなりの家系で庄屋をやってる家は息子を婿になんかやらないだろう
もらう方だって庄屋のお坊ちゃんなんかもらったって何にもならん。
婿は労働力。農家ならとにかく牛馬の如く働く男であること。
商家なら商才と人使いのうまさ。 >>476
>今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
嘘嘘w 1906年なら明治39年。
そこの家の墓は代々管理されてるんだろ。明治39年の墓が苔むして誰のものか
分からなくなってるなんてあるわけないわ
その墓だけずっと放置されてたのかよ? 寺の総代までやってるような家だろ
そういう家の墓が放置されて誰のものか分からないなんてありえないわな。
おそろしく古い墓ならともかく、明治末期の墓だろ。
なんかちぐはぐな話だ。 >>487 >>488
今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。
名前が書かれてるんだから誰のものかわからないなんて事はない。 夫婦二つの墓が並んであった。
自分(70過ぎ)達の親父の墓の隣に親父の祖父の墓があることまでは昔から知ってて、そこも掃除をしてた。
戸籍調べをしていくうちに、親父の祖父の墓の後ろにある墓が親父の祖父の弟の墓である事がわかった。 だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた祖父の墓が見つかったというだけの話。
うちの直系の墓がずっと一列に並んでいた。
それとなんか誤解してるみたいだけど、お墓と言っても今風のお寺の墓地じゃないんだぞ。
山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだけ。 もともと本家は神社だし。
明治以前の墓は整理して、納骨堂を作り合祀している。
(同じ県出身の元大臣の揮毫で、祖廟と書かれている)
鎌倉時代の墓群は、別の場所に有り先祖祭りの時に供養している。 鎌倉以前は奈良に住んでたから、それ以前の墓は調べた事はない。
供養をしてもらう寺は離れた場所に有り、そこが管理している墓地ではない。 過去帳を見せてもらえることにはなってるがまだ見ていない。 途中までは本当なんだと思うよ。
ウチも○○源氏の子孫だという事になってる元武士だけどさ。
先祖が某大名家に仕えていて明治維新まで武士だったのは間違いない。
系図もあるし、菩提寺には過去帳もある。
でもね、○○源氏の子孫だとは思ってないよ オレは。
さすがにそれは嘘だろうと思ってる。
先祖が戦国時代の末期には武士だったのは間違いないし、それ以降は正しいと思ってるけど、それ以前は血筋が怪しいと考えてる。
先祖の系図を頼りに昔はどこそこに住んでいたとかは考えないわ。
徳川家ですら系図を詐称してる訳で、本当に過去まで先祖がたどれる人なんてごく少数だと思うから。 あと、仕えていた殿様から貰った感状とか刀とか本家にはあるよ
ウチは明治維新以降に別れた分家だけどさ 源氏を助けてきたのは事実で、その功績で源頼朝から地頭として地方に派遣された。
氏もはっきりしてるし、奈良にはその氏の神社もいまだに存在してる。 推古天皇の読んだ和歌にも出てくる。
頼朝からの命でその時一緒に国司として赴任したのが戦国武将として名高い〇〇氏だが、うちの祖先は地頭で有り、かつ〇〇氏の侍大将でもあった。
南北朝時代になり、南北で戦うことになり、〇〇氏達も兄弟別々の方に味方することになった。
うちはずっと南朝に味方してきたので、北朝方の〇〇氏から焼き討ちにあって大事な資料の大半を失なった。
しかし、面白いことに今使ってる家の紋は、〇〇氏の紋を少し変形した紋。 南朝に味方した方から諱と紋をもらったそうだ。
今の苗字はその前に後醍醐天皇から授かった苗字で、紋も別の紋を授かったが、今は使っていない。
自分の苗字は絶対に自分一族しか使っていない。 〇〇県/都俺の名で郵便物が届くくらいだから。 前スレでも同じスレあったな
頼朝から地頭職を賜ったとか千年昔の先祖とか一族が、とか
何のために同じ事ばかり書くのだろう
ここはそういうスレじゃないと思うけど 先祖の話を真に受けて、凝り固まってるんだろうね
史学的に正しいと証明された訳でもない限り、客観的に彼の言い分が正当かどうかは判断できないのが事実。
ま、それを指摘しても無駄なようだけれど。
姓についても思い込みが激しいね。
家臣に性をあげるとかで一族以外でも同じ性を名乗った例はいくらでもあるのにね。 知らなかった墓が見つかったという逸話だから、良いんじゃないの?
寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 >今回発見したのは。高祖父の墓が見つかったこと。
>1825〜1906 に生きてた。それ以降の墓は全て繋がった。
1825年といったら文政8年で十一代将軍家斉の時代だぞ。
この時代に生まれた人からその夜叉孫が生まれるまで(>>489に70過ぎと書いてるから
昭和19年〜23年ぐらいの生まれか)、四代というのはちょっと苦しいわな。
絶対にないとは言わないけどな。
もう一代あれば自然だ。
そしたら
>だったら戸籍調べで分かった名前の墓がもっとあるだろうと思って周りを調べたら、親父の祖父のそのまた>祖父の墓が見つかったというだけの話。
というふうに今度は父親の高祖父の話にしてやがんの。
一代足してやんのw
>山の裾野一帯にうちの家系の墓が並んでるだけの話。 寺が管理してるわけじゃなく一族で管理しているだ>け。 もともと本家は神社だし。
本家が神社やってる家なら神道じゃないのか?
なんで寺の檀家総代なんかやってるんだろ、、、と不思議に思ってたら
今度は >>497 で
>寺も神宮寺らしい。 神社の後の創建。 だってさ。
もともと一緒くただから不自然じゃないだろと言いたいんだろうな。
いい加減なこと書いては後からツギハギする人だなw
檀家総代をやるような家は信仰心も祖先を敬う心も篤いはずなのに、明治も終わり頃の墓石を
コケだらけにして誰のだか分からなくしてるなんてあるのかな、、、と思ったわけだ。
しかも、江戸時代の墓は整理して霊廟を建てたんだろ。
それならその時に残す墓だってきちんとしたはずだ。分からないなんてあるかよ、と思ったら
>今まで俺たち兄弟が知らなかったというだけの話。 だって
あんたの話はどこかちぐはぐでおかしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています