先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ なお、同じ桐紋でも、尊氏の口利きでもらったものと秀吉の口利きのものとでは価値が
違った。細川家の桐紋は尊氏に貰ってもらったもので、他の大名の桐紋とは別格の
ものであった。
なお、こういう特別の紋ではなく、普通に使う紋を定紋(じょうもん)といった。
例えば細川家なら九曜の紋。
織田信長は資料が残っているだけでも七つの紋を使っていた。
https://r-ijin.com/nobunaga-kamon/
ここの五三の桐の解説はちょっとおかしいけど。
足利将軍家は丸に二引両紋で、この紋を持つ大名も多い。
足利氏は観応の擾乱で、兄も弟もこの紋を配りまくったためである。
武家ではスタンダードといっていい紋である。
信長はこの紋を当然足利義昭からもらったのである。
なお、非常に紋が多いといわれる伊達家の家紋
http://www2.harimaya.com/date/dt_kamon.html
>>732 はやたら墓の家紋にこだわってるけど、墓石に彫ってある家紋なんぞどうってこと
ないさ。墓石に家紋だなんてのは現代になってからの俗物趣味だろ。
庶民的でほほえましいじゃないか。
家紋の微妙な違いなんてのもどうってことない。職人が違えばちょっとは違ってくるさ。 >>740現代みたく長方形の墓石に紋を刻むことはないけど江戸期でも傘付角柱型墓の
傘部分に小さく紋は彫ってあるぞな。
||
〇
/ \線
| | ←この辺りに小さく家紋
−−−−−−−
/ 傘部分 \
| |
| |
| 角柱部分 | >>740
うちの場合、守護一族の一人から紋(その守護が使っている紋そのもの)を貰った。紋の名前も同じで名前も1字もらった。
それなのに口伝では似た別の紋の名前だと言い伝えられていて何故紋の名前が変わって行ったのかずっと不思議に思ってたのがやっと謎が解けてきたという話。
昔は法名を墓の前面に書いてたから前面に紋を入れるのはそぐわなかったんだろうね。
周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
ただその場合、水鉢等を作って墓を整備した家臣の家紋を入れてるケースもある。
とは言え家紋は紋付、留袖、家具の飾り金具、軒瓦などにずっと使われてきた。
うちは別の土地に移ったし戦争で全て無くしたから昔の持ち物は無いが本家筋には残っているとは思う。
>>741 墓を作った店にもう一度念のため見てもらったら、あの紋は○○紋でしょうと言った。その紋が確かにもらった紋の名前。
口伝の紋とは明らかに違う。 紋の名前が違うのはどおってことないレベルではないよ。 最近は張り紋なんていうのが有るんだな。 貸衣装にシールみたいな自分の家紋を張るサービス。
張り紋だけ売っている所も在るし貸衣装屋で張り紋もサービスで付けている所もある。
無い紋でも写真なりを送れば作ってくれるところもある。
近くで見ればすぐ判りそうだが仕方ないな。 めったに着ない物を新調するのも大変だし。 >>742
江戸時代の墓かどうか分からないじゃないか。
墓石なんて地震でぶっ倒れる。倒れなくても傘の部分は落ちて割れる。
いずれにせよ、傘の部分は何度も作り替えるものなんじゃないか。
安政の大地震もあったし関東大震災もあった。
明治や大正の時代に墓を直して、その時に職人が「こちら様の紋を彫り込んで
おきました」というようなことだよ。
だいたい墓石に紋を彫ろうというのは発想として間違っている。
墓石はストゥーパを真似たものだ。
ストゥーパとは塔。仏舎利はストゥーパの下に埋めたのだ。(だから法隆寺の五重塔
などの下には舎利が埋まっている)。
ストゥーパは宗教の世界のものであって、個人の家の印なんかつけるようなものではない。
例えば仏師に仏像を作らせたとして、俺のうちの仏像なんだから仏像に俺んちの家紋を
彫ろうなんて考えるか?
仏像というのは個人の所有物という概念を超えたものなのだ。
それと同じで、ストゥーパに家紋を付けようなんて誰も思わなかったのだ。
少なくとも江戸時代までは誰でもそういうことが分かっていたのだ。 明治になって紋をやたらと付けるようになったのは、西洋の紋章の影響もあるだろうな。
それと三井とか三菱などの社章。学生は校章のついた制帽を被った。
国鉄の職員はピカピカの帽章をつけた帽子を被っている。
菊の御紋章もやたらと使われるようになった。
官幣大社だと社殿に菊の幔幕を張ったりしたし、入り口の大きな石塔に菊の紋を付け、
別格官幣大社などと仰々しく刻んで立てておいたりしたのだ。
靖国神社の門扉にも大きな菊の紋章が付いている。
軍の備品にも御紋章をつけた。巡洋艦以上軍艦の艦首、あるいは歩兵銃の一丁一丁にまで。
そういうのを見て、庶民も自分も紋を付けようなどと考えるようになったのだろう。 平安貴族が牛車に紋をつけたのは遠くからでも誰の牛車か分かるようにするためだ。
貴族というのは位階がすべてなので、相手が高位の公卿ならこちらが道をよけねば
ならない。間違えると高位の方の雑色や舎人が殴りかかってくる。
そういう事態を避けるために車紋という紋を付けたのだ。これが家紋のはじまり。
武士は戦場で名乗りを挙げて戦っているうちはよかったが、そういうことは行われなくなり、
敵味方入り乱れて戦うと誰がどこにいるのかも分からなくなったため旗に家紋を付ける
ようになった。
要するに両方とも目印として利用されたのであり、最初のうちは一つか二つの紋しか
使っていなかったのが用途に応じていくつもの家紋が使われるようになった。
武士の家紋で言えば、戦場とそうでない場所、畏まった場面とそうでない場面、
内々の場面、いろいろな場面ごとに使われる紋が違ったのである。
江戸期の大名が大切にしたのは、足利氏や足利幕府の守護大名からもらった紋。
伊達氏の竹に雀などもそうだ。
そういう家紋は戦場とか大名行列とか、表だって晴れがましいことをする機会にしか
使われない。内々で使う紋は日常の道具や身内での贈答などの機会に使われたりした。
毛利家では内々で使っていたのは沢瀉紋(おもだかもん)。
藩祖毛利元就の墓に詣でる家臣は裃に沢瀉の紋をつけた。
墓に詣でることができるというのは身内扱いということなので、毛利家内々で使う紋を
付けたのである。 なお、嫁入りの時に嫁入り道具には実家の紋を付けるものであり、嫁は一生実家の紋を
使うものであった。嫁入り道具に紋を付けるのは、不縁になったときに全部持って帰る
ためでもある。さらに、実家の紋を付けるといっても、嫁入りは慶事なのであるから
なるべく目出度い紋をということで鶴丸の紋を付けることが多かった。
女らしくて、かつ鶴で目出度く、さらに角が無いからである。
>>743
>周りの水鉢や花立などには入っているのも見かける。
明治以降、墓関係の石屋とかそういうのが何でも家紋を付けるようになっただけだろ。 家紋を軒瓦などに使ったのは表札の意味があった。昔は表札などなかったからだ。
時代劇で表札がかかっていたりするのは皆嘘である。しかし、表札の役割を果たしたのは
むしろ結果というべきであろうか。主たる目的は焼け跡での目印にするためであった。
家紋が軒瓦などに使われるようになったのは、昔は火事が多かったので、火事で焼け落ちても
すぐに元の家屋の位置が分かるようにするためである。武家屋敷などはみな隣接しているので、
一面焼けたらどこにどの家があったのか分からなくなってしまう。
これは大店が軒を連ねる商人町でも同じであった。
目印なので、築地塀などにも家紋の入った瓦を置いた。塀は境界を示すものだからである。
火事との関係は、瓦の模様が家紋でない場合は巴紋(三つ巴)だったことでも分かる。
巴紋は水を表す意匠だから防火のための呪いであった。そもそも瓦を葺くこと自体が防火の
ためであった。他に鴟尾(しび)という飾りなども防火のためである。
鴟尾は魚の尾をかたどったものであり、東大寺大仏殿の黄金の鴟尾が有名である。
あと墓の紋が口伝の紋とは明らかに違うなんて言ったって仕方ないだろ。あんたのご先祖さん
だか何だか知らないが、よく知らなかったか、どうでもいいと思っていたんだろ。
そういう人が普通だよ。上杉だの佐竹だの島津だのなら家紋にこだわる理由もあるが、庶民の
家紋なんかどうだっていいじゃないか。 長々とくだらん事を書き続ける癖はやめろ。
神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
幕末の安政年間(1854〜59)には30%の墓に紋が入ってたらしい。 土方歳三が建てた近藤勇の墓にも法名の上に近藤家の家紋が入ってる。
実家の女紋の風習は関西だけの風習だろ。 それでも自分で紋を使ってた事を認めてるじゃ無いか。 事ほど左様に紋は大事だったんだよ。
紋の名前が分からなければ、紋付、留袖とか作れないからな。 江戸時代に庶民も紋を使うことが流行り始めたが、流石に武家の有名な家紋を使うのは気がひけるので、通紋と呼ばれる当たり障りのない紋を使うようになった。
花、菱、蔦 などの通紋は、どこの家でも共通に使って良い紋として取り扱われるようになった。 今の貸衣装屋の紋はほとんどこの通紋が多い。
女紋が流行る土地では、紋を持っていなかった家では困るからこの通紋を使ったので女紋とも呼ばれる。 牛の方が力があるからだろ。 それに平安時代は道が悪かったからのんびりと歩く牛が最適だった。
牛車も平安時代に使われていたくらいでその後は殆ど使われなくなった。
後に道が整備されてきても日本の場合雨が多いからすぐにぬかるみになって、馬車だと身動きできなくなる。
坂道、山道も多いし車が滑るから実用的でなかった。
農耕馬を運搬用馬車として使ってたくらいだな。 馬車と言えば、馬車鉄道があるな。
レールが作れるようになると、明治15年に東京馬車鉄道が運行開始している。
この時のレールの幅が、馬車軌間で、京王線がこれだった。 地下鉄都営新宿線も乗り入れする為にこの軌間に合わせた。
脱線ごめん 脱線ついでに、先に馬車鉄道が開通したのは今の都電、旧市電これが馬車鉄道で始まった。
京王線は市電に乗り入れる為に、馬車軌間を採用したらしい。 結局乗り入れはできなかったが。
脱線復旧 ようやく本家の連絡先を見つけた。
最初は名前だけわかっていたが、連絡方法がわからなかった。 間接的に連絡できるのは知ってたが。
ネットで名前から自宅の住所、電話番号がわかった。 次にfacebook をやってるのも発見した。
住所がわかると、本家の家もGoogle Map の航空写真ですぐに出てきた。 その近くに今までどこにあるのかわからなかったものがあるのも発見できた。
ストリートビューでも見つけたかったものを発見した。
ある意味怖い。 >>748
女は男系の家紋じゃなく女系の「おんな紋」を使うことになってる地域だってあるし 最近、神(じん)さんに会った。
ご先祖は神主かなんかだろうか?
神話に連なる古代豪族の末裔ではないかと勝手に推測。 >>745
可能性を上げたらきりがない。江戸時代の「可能性」もあるわけだし
ただ笠付きの笠は江戸初中期の墓によくみられるが以降は少なくなってるように
みえる墓群は確かにあるな。笠付きが流行らないのか直すのが面倒で最初期のだけ
直して残りは捨ててるのかもしれんな。旧家になると墓の維持でも相当な出費だろうな >>759
先祖が紀州から移住した人なんだよ。紀州弁は語尾に「ね」をよく付けるの。「あのねぇ、わたしがねぇ、」と。
「ね」を申す人だからネ申トなり、神になった。 >>750
>神紋、寺紋とか知らなさそうだな。 諏訪大社の梶の葉紋、浄土宗の月影杏葉紋など
なんで神紋寺紋とか出てくるのか分からないが、徳川の葵の紋は賀茂神社の神紋から
来ている。三河の加茂郡に賀茂神社があり、松平家はそこの氏子だったんだそうだ。
賀茂神社の紋は二葉葵。葵といっても背の高い立ち葵(ひなた葵)ではない。
日陰の水辺に生える小さな植物である。平安時代の紋はこういう地味なものが多い。
有職文様素材集3(公家家紋)
www.kariginu.jp/sozai/sozai3.htm
ま、こういうのを見ると墓石なんかに彫り付けられるもんじゃないということが
分かると思うけどね。
ところで
近藤勇の墓がある天寧寺という寺は、新選組の屯所として使われていたと
いうのは知らなかった。
土方は近藤が流山で逮捕された後、新選組を率いて会津に向かった。
近藤はその後板橋で斬られる。
その4日後に土方率いる新選組は会津に入ったということだ。
新政府軍が会津若松に攻めてくるのは二ヶ月後だから、戦争が始まるまで
確かに暇な時間があったのだ。
しかし近藤には立派な実家があるし、盟友とはいえ他人の土方が墓を
立てたりするかね?
供養塔ぐらいなら分かるけど。 実際に土方が墓を立てたとしても、今の墓石がそれと考えていいのかな。
この墓は皮膜が禿げてるよね
https://loconavi.jp/spots/196568
何だかセメントっぽいな。幕末の墓石とは思えない。
明治大正、、、もっと新しいような感じもする。
新選組と言えば今でこそ知らない人もないが、大きな歴史の流れの中で見れば
泡沫のような集団に過ぎない。会津でも敗残の人の群にすぎなかった。
近藤の存在もしかり。さらには罪人として斬られたばかりだ。
それなのにこんな大きな墓石を立てるかね。
土方歳三の墓はライオンズクラブ建立という。
毎年「近藤勇追善供養墓前祭」を会津若松ライオンズクラブが主催して行って
いるというし、何だか真面目につきあえる話ではないような気がする。
もちろんこの墓石が江戸時代のもので、江戸時代の墓石に家紋が彫ってある
証拠になると考えるのは勝手だ。 >>759
第二次大戦中、エキセントリックな言動で知られた神重徳(かみしげのり)という
海軍軍人もいるよ。
こちらはジンさんではなくカミさん。鹿児島の人。
ヒトラーの心酔者で、パナマ運河攻撃作戦を提唱したり、海軍全軍特攻とかを
主張した人。狂信的なことばかり言っていて「神さん神がかり」と揶揄されていた。
戦艦大和の沖縄特攻はこの男がいなければなかった。サイパン島玉砕のとき
には、俺を大和の艦長にしろ、サイパンに突入すると軍部中枢に迫って
やまなかった。最近は戦争ゲームに登場して人気ものらしい。
加美という名字の人も多い。加美という地名は日本各地にある。
小さな字を入れたら相当あるだろう。宮城県には加美郡という郡に加美町という
町がある。どちらかというと大阪や岡山兵庫などの西日本に多い。
関東・東北の加美という土地は関西の人間が移住して拓いた土地なのかも。
加美は、もとは「上」で、カミの方にある土地ということだろう。ただ上だと何と
読んでいいのか分からないのでよい字を宛てたんじゃないか。 神と書いてコウさんという人もいる。コウさんには国府と書く人もいる。高さんもいる。
高師直なんて武将もいる。高の場合、ただコウとは読まずコウノとノを付ける。
だから河野、河埜なんていう名字とも関係するんだろうな。
高という姓は岡山県あたりに多く、河野も岡山や四国に多い。
俺が考えるに、カミさんというのは地名由来だろう。上、中、下。カミ、ナカ、シモだよ。
カミの方に住んでいたんだろ。ナカさんという人もいるし、シモさんという人もいる。
下さんて霊能者でいるよな。
神と書いてジンさんというのは神社関係。神はシンでなくてジンと濁るのが普通だった。
神社もそうだが、神官は昔はジンカンないしジンガンと読んだ。
神祇はジンギ、神祇官はジンギカン。神人はジニン。
神部と書いてジンベ、ジンブという名字があるが、律令制の時代の神祇官(じんぎかん)の部民。
神祇官に属する奴(やっこ)で雑民である。
ジンベやジンブでは何か変なので、ジンだけにしたのがジンさんの由来じゃないかな。
神をゴウと読んで神戸ゴウドというのもある。ジンコとも読む。カンベとも読む。
古代から中世までいた、大きな神社の隷属民である戸口のことだ。 >>759
その神さんはこの中のどれかかもしれないな
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 よくもこれだけ無関係な事をダラダラと書けるもんだ、ここまで来ると完全に病気だな。 病院に行った方が良いぞ。
自己顕示欲が強く出る病気に、自己愛性パーソナリティ障害 と言うのがある。
自分は人より優れていると思うから、人が自分より偉いのも許せない。劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる。
完全に当てはまりそうだな。 村の庄屋だの神主に嫉妬するってすごいな
きっとリアル世界ではものすごく恵まれた方なんだろうね >>762-765 この長文を垂れ流す妬み爺さんは、毎朝5〜6時に書き込んでるんだよな。
明日の朝はコテハンつけて、連投はやめてほしいな。 3行でまとめる訓練をしようね。 ボケ防止に良いよ。 別に普通の先祖話に見えますけど?
これ以上どう書き込みしたら文句ないんでしょうか?
どう書いても、水呑百姓以外の書き込みは許してもらえなそうだけど。
他人の事が気になりすぎるのは心の病気の第一サインらしいですよ
少しネットを自分から離れてご自愛ください。 >>722 の諱について書いておこう。
武士の名前に諱というものがある。忌み名ともいう。
なんで「忌み」かというと、外で軽々しく使うのはタブーだったからである。
逆に言うと、他人がある人の諱を呼ぶということはきわめて無礼なことであった。
昔の人は名前と魂がくっついていると考えていたらしい。
だから安易に名前を他人に教えると、名前を呼ぶことによって魂を他人に操られると
考えた。女子が男に名前を問われて教えることは、体を許すと同然のことであった。
このように、人の名前というのは簡単に人に教えるものでもないし、人から呼ばれる
ようなことがあってはならない。だからこれは忌み名として使わずに置き、気軽に誰でも
呼ぶことのできる名前を用意した。
こうした仮につけた名前を仮名(けみょう)といった。
要するに、昔の人(奈良や平安の貴族にも諱はあった)には本名たる諱と通称である
仮名とがあった。
(仮名は奈良・平安時代の言葉であり、古すぎるので通称と呼ぶことにする。)。 石田三成は佐吉という通称であった。
加藤清正は虎之助。福島正則は市松。
通称は幼名であることが多いが、必ずしもイコールではない。
家での通称というものがあり、成人すると幼名から家で代々使われている通称に代わる。
しかし、外の世界では幼名で呼ばれ続けることが多かったのではないか。
商家などでは今も店の主となると代々の主人の名を名乗ることが多い。
武士や公家は、大人になると職名や身分で呼ばれることが多くなり、通称では呼ばれなくなる。
例えば石田三成は治部少輔。加藤清正は主計頭(かずえのかみ)、あるいは肥後侍従。
福島正則は左衛門大夫。大谷吉継は幼名桂松・通称紀之介で、身分は刑部少輔。
略して刑部(ぎょうぶ)と呼ばれていた。
明治になると太政官布告で「苗字実名ノミ相用候事」とされ、通称+諱ということは
公式に禁止された。
従来の武士たち(通称と諱の双方を名乗っていた人たち)はどうしたかというと、
戸籍に登録する際に、通称か諱のどちらかを選ぶしかなくなったのである。
例えば大隈重信、西郷隆盛は二人とも諱を選んだ。
通称を選んだ人もいる。板垣退助、江藤晋平、大村益次郎など。
福沢諭吉、山本権兵衛などもそうである。
今でも男子の名は諱系と通称系に分けることが出来る。
洋一郎とか孝輔とかは通称系、義重とか政宣とかは諱系である。 ↑も つづき とすべきであった。忘れた
−−−−−−
このようにして、明治以降は「名字+諱」か「名字+通称」という名前が出てきた
のであるが、それ以前は名字を名乗る以上は通称も諱も付けたのである。
つまり、明治以前に「名字+通称のみ」とか「名字+諱のみ」いう名前はなかった。
江戸時代に、山本太郎だの田中昭博という名前の人はいなかったのである。
名字を名乗る以上、必ず諱はあり、そして諱は特別の場合以外名乗らないもので
あるから通称は必ず使ったのである。
坂本龍馬は直陰とか直柔という諱があるが、これは特に許されたというようなもの
ではない。名字(姓)を許された以上、当然に諱は付けるのである。
だから
>>722 の
>私の家は庄屋でありながら、諱も許されているが、
というのは嘘もいいところである。
名字を許されたなら諱をつけて当然であり、「諱も許されている」などというのは
無知そのものの発言である。
なお、伊能忠敬は佐原の商人であり町名主。
伊能という名字を許され帯刀した肖像画もある。
通称は二つあり、佐原にいた頃は三郎右衛門、江戸に出て天文学などを勉強
しはじめてからは勘解由と名乗った。忠敬は諱。
だから測量をしている時代の名は伊能勘解由忠敬。 夏目漱石の父親は牛込馬場下横町の町名主であった。
名を夏目小兵衛直克という。
漱石は五男で、長男:大助、次男:栄之助 (直則)、三男:和三郎 (直矩)、
四男:久吉 である。四男は幼逝したので元服名である諱は無い。
長男の諱は不明。おそらく父親と同じなのではないか。
漱石の諱は無い。漱石は慶応三年(1867)生まれなので、元服や諱を
付けるというような時代ではなくなっていた。
島崎藤村の父親は馬込宿の名主で本陣も務めた。名は島崎正樹重寛。
ついでに樺太探検をした間宮林蔵の諱は倫宗(ともむね)。
間宮林蔵は農家の出で名字はなかった。筑波郡上平柳村の生家の近くで小貝川
堰き止め工事があったときに幕府の役人に才能を認められ、治水工事の測量などを
する役人として採用された。
普請役雇という一代限りの低い身分であった。
それでもとりあえず幕臣となったので間宮という姓と倫宗という諱を名乗ったのである。
諱を自分で付けるときにはさぞかし悩んだのだろう。
結局、林蔵りんぞう→倫宗りんそう としたと思われる。
722は以前、自分の家は明治になっても諱を使っていた、などと書いていたが、
明治になってからは、上記のように通称と諱を並べることは許されないので、制度上
不可能であった。戦後の戸籍法によれば、例えば「誠一郎直正」とつけても受け付けて
貰えるので付けることは可能である。
ただし、通称+諱ということでなく、全体として一つの名前としてである。念のため。 >>772-776 だから、そんな自分が知ってる事の講釈なんて必要ないんだよ。 誰か教えてくれと言ったか?
自意識過剰なんだよ。 自分がどこかで探してきた知識をここでお披露目してたら、それだけでスレが埋まるだろうが、ここは歴史の勉強場では無いし、老人のダベリ場でも無い。
何かエピソードが出てきて、それの解釈とかなら良いが、まるで関係ないことを長々と持ち出すな >>772-776 知りもしない糞知識を知ったかぶりで喋るな。
妬みジジイ。
諱は本名だから正式に使われてたよ。むしろ字名は表面には出ない。 お前のググってきた知識は断片的で実際とかけ離れてる。
また、いつの時代の話かと言うのも混同してる。
頼むからコテをつけてくれ。 これだけ人に迷惑をかけてるんだから、コテくらい付けろよ。 先祖って結局誰でもつながってるんだよ。
同じ民族ならばな。 アメリカに「ブルー・ハイウェイ」という旅行記がある。
オンボロ車で車中泊を重ねながらアメリカを半周ほどした紀行文。
たいへんな評判を呼び、この本のスタイルで文章を書く人が増えた。
おそらく村上春樹なんて人もこの本を熱読したはずである。
影響がプンプン臭ってくるほどだから。
著者は白人とネイティブインディアンとの混血。
妻との離婚騒動で気が滅入り、職場を放り投げて旅に出た。
ブルーハイウェイというのはアメリカの俗語でハイウェイでない一般道路のこと。
アメリカの道路地図では、ハイウェイは赤で一般道は青で表示されるところから来ている。
大学で報道写真を学んだという。ところどころに挿入されている白黒写真がとてもよい。
俺はリアルタイムでこの本に嵌った世代ではない。ジャズ雑誌のエッセイで知ったのだ。
ペイパーバックの古本を持って歩いていたことがある。
著者が、自分の先祖が畑を所有していたという谷にやってきたときの文章は特によい。
先祖の男は、はるばるヨーロッパからやってきて、日当たりの悪い谷底に畑を拓いた。
周囲は斜面で木ばかり生えている。ジャガイモぐらいしか穫れない土地だ。
ただやたらに空だけが青い。
細かい描写の中に、なんでこんなところにしか畑を持てなかったのだろうという、著者の
気持ちが伝わってくる。
先祖の墓のあるところは、今は水が溜まっている。
澄み切った池のような状態。水に手を入れようとしたら滑って転んだ。
そのまま池に入って泳ぎ、泳いでいるときに水を飲んでしまった。
先祖の墓が沈んでいる池の水だ。
俺はこの場面がとくに好きだった。
その後一時先祖探しにはまったのも、どこかにこの本の影響があったのかも知れない。 >>781 それ言っちゃおしまい。 その中で実際に血が繋がってる先祖を連続してどこまでたどれるかがこのスレだろ。
戸籍調べは誰にでもできるから、明治初期までは辿れるだろう。 運が悪いと戸籍の書き直しの時に途中で戸籍がなくなってる地方があるかもしれないけど。
うちの地方は、しっかり書き直されて残っていた。 過去帳を調べると言っても、最後に法事をして長い間ご無沙汰していると頼みにくいよね。
それでも快く引き受けてもらえるものなんだろうか。
それも商売の一環と思ってもらえるんなら頼みやすいけど。
昔から苗字を持ってる家だと、家単位でまとめられてて調べやすいが、苗字がない場合は膨大な中から見つけ出さないといけないから結構大変らしい。
最近はなかなか個人には見せてくれなくなってきてるらしい。 住職が調べてくれる。 その方が金になるからかな? 33回忌、50回忌の時に菩提寺の過去帳に記録するのか?
そこまで定期的に法事をしなかった家は寺の過去帳が無くなる?
うちの宗派ではバックアップ目的で、末寺の過去帳を本山で入力して本山でも保管してるらしい。
過去帳から先祖を調べる
https://uguisu.skr.jp/history/kakotyo.html 旧家になれば寺に馬鹿でかい位牌があるはず。それに歴代の戒名が彫ってある。 >>786 それは過去帳がわりだろうから直系だけでしょ。
宗派により違うだろうし。
浄土真宗じゃない? うちの仏壇に大量の位牌があったけど寺で供養(処分)してもらっっちゃったんだよな
真っ黒で読めないし >>788 そんな風に大量の位牌を整理するのが寺の過去帳になるんだよね。
また、位牌の代わりに自分の家の過去帳に先祖の記録も書くことにより位牌がわりとする。 名字の話が出てたから聞きたいんだけど、
寺島宗則は長野→松木(養子で改名)→寺島(維新後に改名)と改名してるけど、
寺島姓はどこから来たの? 過去帳は普通は菩提寺にある。
先祖代々武士だった俺の家も、過去帳は菩提寺にあるが、家族で死人が出ると菩提寺である末寺経由で京都の本山に遺骨の一部を持って行く。
本山で遺骨を納めて、本山でも記録してもらう。
もう400年くらいそうしてるそうだ、 神さんって名字だけだとなんか新興宗教の人って感じがする…
あくまで自分個人の勝手なイメージです >>790 一度イギリスの捕虜になったから改名したんじゃ無いのかな。 寺島は郷土の無人島の名前らしい。 勿論島津藩の許可を受けて。 コンビニで過去帳を印刷できるようになるのはいつ頃だろう? >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺はにしに >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺は西日本みたいなドイナカと違い、関東だが、
周りの豪農含めた百姓で諱もっている百姓は全くいない。
庄屋の中でも一部しか名乗っていない。
これは、俺の認識不足なのか? >>798認識不足だろう。
中部地方だが戦国期はOO守OOやOO 兵衛尉OOで江戸期には兵衛OO、衛門OOは良く見られる。(文書では)
ただ墓は苗字+通称だな。違う地方に行くと諱も彫られてたりするが家の地方では見たことはない。 >>799
普通に墓に書いてあるよ
お前も一部のてめえの狭い見識での話やないかい >>801論理が無いな・・・
一地方の狭い知識+異なる地方の狭い知識=
なんだと思う? 長文ジジイはもっともらしく嘘ばかり並べ立ててるから無視するに限るよ。アホらしい話ばかり。
講釈師見て来た様な嘘を言う。 >>797
なんて馬鹿なんだ。
俺は>>775 で
>名字を許されたなら諱をつけて当然であり
と書いている。名字を許されたなら公的な関係でも名字を名乗れる。
こういう場合は当然諱も付けるということだ。
百姓は勝手にそれぞれ名字を名乗っていたが、名字を許されたわけではない。
公的な関係では名乗れないのに諱なんぞ付けるわけがなかろうが。
あと
>平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、
って何だ?
「平百姓」って何? お前が考えた言葉か?
平社員とかそういう感じなのかなwwww
何をやってるんだお前は。こういうのは高校でも教わるだろ。
どうしてちゃんとした用語を使えないのかな。もう一度中学の教科あたりから勉強
しなおした方がいいんじゃないか。
>>798-799 では自演してるし。
799 で、その上の798 に反論してやがんのw 馬鹿だよなぁ
>>801
>普通に墓に書いてあるよ
江戸時代の墓(墓石)に生前の名前(俗名)は彫ってないよ
これは今でもそうじゃないのかな。墓碑には彫りつけるけど、墓石そのものに
彫ることはない。
もしそうなら先祖探しも楽なんだけどな。戒名だけだよ普通は。
例外は俺は知らない。
名主基地外は話にならんわ馬鹿すぎて
知能が足りない上にちゃんとした教育を受けていない。可哀想な奴だ。 >>806 お前の乏しい知識でものを語るなって。
墓石にも俗名は書かれてるよ。
前面は戒名/法名だけでも、側面に俗名が書かれている。 少なくとも俺の高祖父の墓(明治39年に建てられたもの)は、横に俗名が書いてあったから、高祖父の墓だと判った。 我が家は代々長男の名前に◯一のように一をつける慣習があるんだがどう思う? >>807-808
馬鹿が二回続けて書かなくてよい
何が明治39年だよw
嘘もええかげんにしろってのw >>812
今でもそういう決まりがあるのは流石におかしいだろうか?
長男家系だから高祖父まで見事に一が付いて異様な感じがする 田舎だと今でもあるから別におかしくない
うちも本家は通字をいまだに使ってるしな >>814 おかしく無いよ。 似た様なのに、太郎、次郎という様な付け方もある。
小泉孝太郎、進次郎
大昔からの家ごとの風習みたいなものだから、継続して伝えていけば良いと思うよ。 >>811
苗字は書かれていないね。屋号のみ
でもO兵衛って官名風の名前は苗字の無い庶民でも付けてたのね >>815
>>816
田舎だと良かったんだけど都内で少なくとも自分の周りにはそんな家無かったから悩んでた
おかしくないということで安心したw
お二方どうもありがとう >>807
そうそう、全面は勿論戒名だけだが、横に墓建てた人の名前だったり。 なんだろ、
家紋なんて農民は墓には付けないとか言われているかたいるが、
うちの地域の豪農や名主は、
墓に笠までついた家紋入りの墓だよ江戸時代。 >>821の続き連投で申し訳ないが、笠付き家紋入りの墓でも、院号はごくごく一部の名主しか付けられてない。 >>817 墓側面の俗名には俺の見たものには殆ど苗字は書かれていない。 その土地の人間なら解るからだろう。 >>811
昔の墓というのは修理するんだよ。道祖神なんかでも修理してあるのよく見るだろ。
この金糸屋なんとかさんの「建てた」墓は、全面の戒名が信女だから女性の墓で
母親か誰かなんじゃないかな。
この戒名の刻んである芯の部分は安山岩か何かで本物の石のようだが、
その周囲はセメントだろ。もうセメントが浮いて剥がれが生じている。
下の土台の石もひび割れていたのかモルタルで平らにしてある。
こういうふうに修理して、そのときに紋とか彫りつけるわけ。
そのときは石に刻むんじゃなくて固まる前のセメントだから基本的に粘土細工と変わらない。
紋を入れたり大きな字を入れるのも自由自在だ。
江戸時代の墓は当然ながら修理してあるのが多い。
素材はハッキリしないのだが、やや黄色がかった漆喰のようなものを全面に塗って
そこに新たに戒名や紋を入れているものも多い。
そういうのは剥がれや浮き、表面だけのひび割れなどが生じているのですぐ分かる。
>>813
お前はホントに馬鹿だな。
江戸時代の墓の話をしてるんだろ。昭和の墓なんか出してくるなっていうの。
今何が問題になってるのかとかちゃんと頭使って判断しろ。小学生かよ
>>819-820
そういうのは明治になってから。
>>822
そういうのは江戸時代の墓じゃないの。
墓石に俗名なんぞ彫らない。
>>822-823 は自演。 >>826 本当にこいつは虚栄心の塊だけなんだな。
信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。異常者は自分の見たいものしか見ない。
墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
幾ら貧乏な家でもセメントを使うなんて恥ずかしい真似をするか。 墓石は未来永劫続くことを願ってるんだぞ。
お前のうちはどれだけ貧しいんだよ。 お前ん家の墓はセメントかよ。
ひび割れの穴埋めにセメントを使うことはあるだろうけどそれ以上ではない。
セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。 彫りも深くしっかりしてる。
金が無いとなかなかこんな墓は作れないよ。 自分家の母方の墓です。戦争で一族全滅したのでもう相続人が母しかいないのですが、墓の維持の為わざわざ東京から田舎まで毎年帰ってます。
https://i.imgur.com/X9mz41R.jpg >>828 田舎が近ければ良いけど。 自分の場合往復の飛行機代が一人6万かかる。 何人かで帰ると結構な費用になる。
もうそろそろ、自分達の墓をどうするか悩み始める歳になった。
墓は田舎の父の墓に入れば簡単で良いし、墓の世話もその近くにいる親戚がやってくれるだろうから、その点では安心。
まだ、自分達夫婦のどちらかが生きてるうちは良いと思うが、両方がそこに入ったとすると、自分達の子供達が法事の都度訪れるのも大変そうだなと思う。 中々休めない職業でもあるし。
夫婦共そこに入れてもらって、後は息子達が住んでる所に近くて便利なところに墓を移してくれれば良いかなとも思い始めた。
先祖の土地から離れるのには寂しさがあるが。 >>827
明治以後は土台がセメントになってきてるよ >>830 土台は基礎の延長だから仕方ないし、どうでも良い。 昔の墓にはその基礎さえほとんどないし。 昔は、火葬も土葬も行われてた。
土葬の場合殆ど小高い丘に埋葬した。 遺体を動物達に荒らされない様に曼珠沙華(ヒガンバナ) の花を植えたらしい。
古い墓が殆ど山の裾野なのはその名残かもしれない。
勿論農地の妨げにならない様にとか、大水に流されない様にとか、戦火で荒らされない様にという意味合いもあったのかも。 >>832 古い墓の様子を見るとどこも瓜二つみたいに似ている。 古い旧家の言い伝えでは墓の所に洞窟みたいのがあって昔はそこにすんでいたのではないかと?まあ、一つの仮説にしか過ぎないらしいが >>834 いや、そういう言い伝えができてもおかしくない。
埼玉の吉見百穴なんて、古代の墓穴の後だからね。
異様な光景だよ。 戦時中は横穴墓を防空壕に使ってるところもあったらしい。 寺の過去帳を調べた経験があったら話して。
何代前位までわかったかとか、費用とか、みるだけだったか、住職が書いてくれたかなど。 >>829以下全部庄屋馬鹿の書きこみ
庄屋馬鹿 そらしに必死 >>838 可哀想にそんなに庄屋が羨ましいのか? 世の中は、水飲み百姓と庄屋だけで出来てるんじゃないぞ。 先祖だけは捏造しない限り自分では如何ともし難いから
江戸時代までは苗字持ってる人が1割だったんでしょ?
残り9割の人はそりゃ嫉妬するわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています