先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ アメリカに「ブルー・ハイウェイ」という旅行記がある。
オンボロ車で車中泊を重ねながらアメリカを半周ほどした紀行文。
たいへんな評判を呼び、この本のスタイルで文章を書く人が増えた。
おそらく村上春樹なんて人もこの本を熱読したはずである。
影響がプンプン臭ってくるほどだから。
著者は白人とネイティブインディアンとの混血。
妻との離婚騒動で気が滅入り、職場を放り投げて旅に出た。
ブルーハイウェイというのはアメリカの俗語でハイウェイでない一般道路のこと。
アメリカの道路地図では、ハイウェイは赤で一般道は青で表示されるところから来ている。
大学で報道写真を学んだという。ところどころに挿入されている白黒写真がとてもよい。
俺はリアルタイムでこの本に嵌った世代ではない。ジャズ雑誌のエッセイで知ったのだ。
ペイパーバックの古本を持って歩いていたことがある。
著者が、自分の先祖が畑を所有していたという谷にやってきたときの文章は特によい。
先祖の男は、はるばるヨーロッパからやってきて、日当たりの悪い谷底に畑を拓いた。
周囲は斜面で木ばかり生えている。ジャガイモぐらいしか穫れない土地だ。
ただやたらに空だけが青い。
細かい描写の中に、なんでこんなところにしか畑を持てなかったのだろうという、著者の
気持ちが伝わってくる。
先祖の墓のあるところは、今は水が溜まっている。
澄み切った池のような状態。水に手を入れようとしたら滑って転んだ。
そのまま池に入って泳ぎ、泳いでいるときに水を飲んでしまった。
先祖の墓が沈んでいる池の水だ。
俺はこの場面がとくに好きだった。
その後一時先祖探しにはまったのも、どこかにこの本の影響があったのかも知れない。 >>781 それ言っちゃおしまい。 その中で実際に血が繋がってる先祖を連続してどこまでたどれるかがこのスレだろ。
戸籍調べは誰にでもできるから、明治初期までは辿れるだろう。 運が悪いと戸籍の書き直しの時に途中で戸籍がなくなってる地方があるかもしれないけど。
うちの地方は、しっかり書き直されて残っていた。 過去帳を調べると言っても、最後に法事をして長い間ご無沙汰していると頼みにくいよね。
それでも快く引き受けてもらえるものなんだろうか。
それも商売の一環と思ってもらえるんなら頼みやすいけど。
昔から苗字を持ってる家だと、家単位でまとめられてて調べやすいが、苗字がない場合は膨大な中から見つけ出さないといけないから結構大変らしい。
最近はなかなか個人には見せてくれなくなってきてるらしい。 住職が調べてくれる。 その方が金になるからかな? 33回忌、50回忌の時に菩提寺の過去帳に記録するのか?
そこまで定期的に法事をしなかった家は寺の過去帳が無くなる?
うちの宗派ではバックアップ目的で、末寺の過去帳を本山で入力して本山でも保管してるらしい。
過去帳から先祖を調べる
https://uguisu.skr.jp/history/kakotyo.html 旧家になれば寺に馬鹿でかい位牌があるはず。それに歴代の戒名が彫ってある。 >>786 それは過去帳がわりだろうから直系だけでしょ。
宗派により違うだろうし。
浄土真宗じゃない? うちの仏壇に大量の位牌があったけど寺で供養(処分)してもらっっちゃったんだよな
真っ黒で読めないし >>788 そんな風に大量の位牌を整理するのが寺の過去帳になるんだよね。
また、位牌の代わりに自分の家の過去帳に先祖の記録も書くことにより位牌がわりとする。 名字の話が出てたから聞きたいんだけど、
寺島宗則は長野→松木(養子で改名)→寺島(維新後に改名)と改名してるけど、
寺島姓はどこから来たの? 過去帳は普通は菩提寺にある。
先祖代々武士だった俺の家も、過去帳は菩提寺にあるが、家族で死人が出ると菩提寺である末寺経由で京都の本山に遺骨の一部を持って行く。
本山で遺骨を納めて、本山でも記録してもらう。
もう400年くらいそうしてるそうだ、 神さんって名字だけだとなんか新興宗教の人って感じがする…
あくまで自分個人の勝手なイメージです >>790 一度イギリスの捕虜になったから改名したんじゃ無いのかな。 寺島は郷土の無人島の名前らしい。 勿論島津藩の許可を受けて。 コンビニで過去帳を印刷できるようになるのはいつ頃だろう? >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺はにしに >>775
そうなのか?
平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、諱は皆つけていたのか?
それは知らなかった。
俺は西日本みたいなドイナカと違い、関東だが、
周りの豪農含めた百姓で諱もっている百姓は全くいない。
庄屋の中でも一部しか名乗っていない。
これは、俺の認識不足なのか? >>798認識不足だろう。
中部地方だが戦国期はOO守OOやOO 兵衛尉OOで江戸期には兵衛OO、衛門OOは良く見られる。(文書では)
ただ墓は苗字+通称だな。違う地方に行くと諱も彫られてたりするが家の地方では見たことはない。 >>799
普通に墓に書いてあるよ
お前も一部のてめえの狭い見識での話やないかい >>801論理が無いな・・・
一地方の狭い知識+異なる地方の狭い知識=
なんだと思う? 長文ジジイはもっともらしく嘘ばかり並べ立ててるから無視するに限るよ。アホらしい話ばかり。
講釈師見て来た様な嘘を言う。 >>797
なんて馬鹿なんだ。
俺は>>775 で
>名字を許されたなら諱をつけて当然であり
と書いている。名字を許されたなら公的な関係でも名字を名乗れる。
こういう場合は当然諱も付けるということだ。
百姓は勝手にそれぞれ名字を名乗っていたが、名字を許されたわけではない。
公的な関係では名乗れないのに諱なんぞ付けるわけがなかろうが。
あと
>平百姓以上なら名字なんて当たり前のごとく許されるもなにももっているから、
って何だ?
「平百姓」って何? お前が考えた言葉か?
平社員とかそういう感じなのかなwwww
何をやってるんだお前は。こういうのは高校でも教わるだろ。
どうしてちゃんとした用語を使えないのかな。もう一度中学の教科あたりから勉強
しなおした方がいいんじゃないか。
>>798-799 では自演してるし。
799 で、その上の798 に反論してやがんのw 馬鹿だよなぁ
>>801
>普通に墓に書いてあるよ
江戸時代の墓(墓石)に生前の名前(俗名)は彫ってないよ
これは今でもそうじゃないのかな。墓碑には彫りつけるけど、墓石そのものに
彫ることはない。
もしそうなら先祖探しも楽なんだけどな。戒名だけだよ普通は。
例外は俺は知らない。
名主基地外は話にならんわ馬鹿すぎて
知能が足りない上にちゃんとした教育を受けていない。可哀想な奴だ。 >>806 お前の乏しい知識でものを語るなって。
墓石にも俗名は書かれてるよ。
前面は戒名/法名だけでも、側面に俗名が書かれている。 少なくとも俺の高祖父の墓(明治39年に建てられたもの)は、横に俗名が書いてあったから、高祖父の墓だと判った。 我が家は代々長男の名前に◯一のように一をつける慣習があるんだがどう思う? >>807-808
馬鹿が二回続けて書かなくてよい
何が明治39年だよw
嘘もええかげんにしろってのw >>812
今でもそういう決まりがあるのは流石におかしいだろうか?
長男家系だから高祖父まで見事に一が付いて異様な感じがする 田舎だと今でもあるから別におかしくない
うちも本家は通字をいまだに使ってるしな >>814 おかしく無いよ。 似た様なのに、太郎、次郎という様な付け方もある。
小泉孝太郎、進次郎
大昔からの家ごとの風習みたいなものだから、継続して伝えていけば良いと思うよ。 >>811
苗字は書かれていないね。屋号のみ
でもO兵衛って官名風の名前は苗字の無い庶民でも付けてたのね >>815
>>816
田舎だと良かったんだけど都内で少なくとも自分の周りにはそんな家無かったから悩んでた
おかしくないということで安心したw
お二方どうもありがとう >>807
そうそう、全面は勿論戒名だけだが、横に墓建てた人の名前だったり。 なんだろ、
家紋なんて農民は墓には付けないとか言われているかたいるが、
うちの地域の豪農や名主は、
墓に笠までついた家紋入りの墓だよ江戸時代。 >>821の続き連投で申し訳ないが、笠付き家紋入りの墓でも、院号はごくごく一部の名主しか付けられてない。 >>817 墓側面の俗名には俺の見たものには殆ど苗字は書かれていない。 その土地の人間なら解るからだろう。 >>811
昔の墓というのは修理するんだよ。道祖神なんかでも修理してあるのよく見るだろ。
この金糸屋なんとかさんの「建てた」墓は、全面の戒名が信女だから女性の墓で
母親か誰かなんじゃないかな。
この戒名の刻んである芯の部分は安山岩か何かで本物の石のようだが、
その周囲はセメントだろ。もうセメントが浮いて剥がれが生じている。
下の土台の石もひび割れていたのかモルタルで平らにしてある。
こういうふうに修理して、そのときに紋とか彫りつけるわけ。
そのときは石に刻むんじゃなくて固まる前のセメントだから基本的に粘土細工と変わらない。
紋を入れたり大きな字を入れるのも自由自在だ。
江戸時代の墓は当然ながら修理してあるのが多い。
素材はハッキリしないのだが、やや黄色がかった漆喰のようなものを全面に塗って
そこに新たに戒名や紋を入れているものも多い。
そういうのは剥がれや浮き、表面だけのひび割れなどが生じているのですぐ分かる。
>>813
お前はホントに馬鹿だな。
江戸時代の墓の話をしてるんだろ。昭和の墓なんか出してくるなっていうの。
今何が問題になってるのかとかちゃんと頭使って判断しろ。小学生かよ
>>819-820
そういうのは明治になってから。
>>822
そういうのは江戸時代の墓じゃないの。
墓石に俗名なんぞ彫らない。
>>822-823 は自演。 >>826 本当にこいつは虚栄心の塊だけなんだな。
信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。異常者は自分の見たいものしか見ない。
墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
幾ら貧乏な家でもセメントを使うなんて恥ずかしい真似をするか。 墓石は未来永劫続くことを願ってるんだぞ。
お前のうちはどれだけ貧しいんだよ。 お前ん家の墓はセメントかよ。
ひび割れの穴埋めにセメントを使うことはあるだろうけどそれ以上ではない。
セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。 彫りも深くしっかりしてる。
金が無いとなかなかこんな墓は作れないよ。 自分家の母方の墓です。戦争で一族全滅したのでもう相続人が母しかいないのですが、墓の維持の為わざわざ東京から田舎まで毎年帰ってます。
https://i.imgur.com/X9mz41R.jpg >>828 田舎が近ければ良いけど。 自分の場合往復の飛行機代が一人6万かかる。 何人かで帰ると結構な費用になる。
もうそろそろ、自分達の墓をどうするか悩み始める歳になった。
墓は田舎の父の墓に入れば簡単で良いし、墓の世話もその近くにいる親戚がやってくれるだろうから、その点では安心。
まだ、自分達夫婦のどちらかが生きてるうちは良いと思うが、両方がそこに入ったとすると、自分達の子供達が法事の都度訪れるのも大変そうだなと思う。 中々休めない職業でもあるし。
夫婦共そこに入れてもらって、後は息子達が住んでる所に近くて便利なところに墓を移してくれれば良いかなとも思い始めた。
先祖の土地から離れるのには寂しさがあるが。 >>827
明治以後は土台がセメントになってきてるよ >>830 土台は基礎の延長だから仕方ないし、どうでも良い。 昔の墓にはその基礎さえほとんどないし。 昔は、火葬も土葬も行われてた。
土葬の場合殆ど小高い丘に埋葬した。 遺体を動物達に荒らされない様に曼珠沙華(ヒガンバナ) の花を植えたらしい。
古い墓が殆ど山の裾野なのはその名残かもしれない。
勿論農地の妨げにならない様にとか、大水に流されない様にとか、戦火で荒らされない様にという意味合いもあったのかも。 >>832 古い墓の様子を見るとどこも瓜二つみたいに似ている。 古い旧家の言い伝えでは墓の所に洞窟みたいのがあって昔はそこにすんでいたのではないかと?まあ、一つの仮説にしか過ぎないらしいが >>834 いや、そういう言い伝えができてもおかしくない。
埼玉の吉見百穴なんて、古代の墓穴の後だからね。
異様な光景だよ。 戦時中は横穴墓を防空壕に使ってるところもあったらしい。 寺の過去帳を調べた経験があったら話して。
何代前位までわかったかとか、費用とか、みるだけだったか、住職が書いてくれたかなど。 >>829以下全部庄屋馬鹿の書きこみ
庄屋馬鹿 そらしに必死 >>838 可哀想にそんなに庄屋が羨ましいのか? 世の中は、水飲み百姓と庄屋だけで出来てるんじゃないぞ。 先祖だけは捏造しない限り自分では如何ともし難いから
江戸時代までは苗字持ってる人が1割だったんでしょ?
残り9割の人はそりゃ嫉妬するわ >>840 苗字は持っていなくても (持ってたが公式には使えなかった) 江戸時代は、何処かの寺の檀家として登録するのが義務付けられてたから、寺の過去帳が公式の戸籍簿に近かった。
だから、どんな農民でも過去帳には登録されてるんじゃないのかな?
だからかなりの確率で見つけられるかもしれない。(苗字/家の登録がないと探すのが困難らしいが)
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みんなこのページは見てると思うが参考になるね。
戸籍以前の調べ方
https://www.kakeizushokunin.com/kosekiizen/
過去帳
墓石
旧土地台帳
文献 (戦死者リストは公文書として残っている)
本籍地周辺での聞き取り調査
古い戸籍が無い理由
https://www.kakeizushokunin.com/kosekitorenaijijou/ >>840なにを根拠に1割なんて言ってるの?
戦国時代以前は非人や労働者階級の足軽や下級武士もみな名字もってんのに。
大体、平百姓なんて名主庄屋からの分家が多いんだがら、名字は皆もってんだが?
公式に名乗れないなんて、
単なる公式文書レベルや有形物への表示制限があるくらいなだけ。 平百姓
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%99%BE%E5%A7%93-1401688
今まで、この言葉は知らなかった。 いかに昔の言葉が廃れてきてるかだな。 この間郷土史を読んでて始めて長百姓という言葉を知ったくらい。 昔の風習、言葉は廃れてきてるな。
名主は、最初は長百姓から出てたが、不公平だとして長百姓と平百姓の交代制になったとか。 これからみると平百姓の地位はかなり高かったことがわかるな。
(妬みジジーは、平百姓と言う言葉まで否定していなかったか? 別人だったらごめん) 言葉自体の存否もだが読み方も変化してるのか?
昔の文書を訳したのを見ると現在は先方衆(さきがたしゅう)だけど昔は(せんぽうしゅう)だったりとか。ただ音訓読み的にはどうなんだろうかなと?ふと昔不思議に思ったことをつらつらと 原宿駅前からラフォーレの辺りは丘陵となっていて、かつて源氏山と称していた。
源氏山の由来は清和源氏の末裔飯尾政宅が住したためである。
∴清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─源頼光─源頼国─源頼綱─源仲政─源頼政─源頼兼─源頼茂─源頼方─源頼氏─浜名清政─浜名詮政─浜名満政─浜名持政─浜名政義─浜名政明─飯尾用政─飯尾乗連─飯尾連竜
飯尾連竜の次男、飯尾政宅。飯尾政宅、現在の原宿に住む。 浜松まつりの起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、
引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、
入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としている。 戦国武将の飯尾氏は渡来系の三善氏の子孫と言われているが、飯尾連竜の子孫は清和源氏の子孫と称している。
今川の家臣となった飯尾長連の養子に清和源氏の子孫(飯尾用政)が入ったのだろう。
飯尾氏は同じ今川家臣で同じ遠江国の戦国武将である浜名氏の分家的な位置だったのだろう。
清和源氏の浜名氏は源頼政の子孫であり政を通字としている。
飯尾連竜も連竜という諱の他に飯尾政純という諱を持っている。
これまでの三善氏という固定観念はデタラメであって、飯尾氏は清和源氏であった。 >>846 847 ご先祖様と何か関係あるの?
何かの話に関連して話すんならまだしも、突然脈絡もなく話すのなんて長文自己中と同じだな。
あ、そうか長文自己中=妬みジジイがコテハンつけてくれたのかな? ありがとう。 今川義元の城主格家臣の一覧
・尾張鳴海城=岡部元信
・駿河朝比奈城=朝比奈元長
・三河田原城=朝比奈元智
・駿河瀬名城=瀬名氏俊
・駿河蒲原城=蒲原氏徳
・駿河庵原城=庵原元政
・駿河川入城=由比正信
・遠江掛川城=朝比奈泰朝
・遠江二俣城=松井宗信
・遠江高天神城=小笠原氏清
・遠江井伊谷城=井伊直盛
・遠江引馬城=飯尾乗連※浜名政明の子の飯尾用政の子
・遠江佐久城=浜名正国※浜名政明の子の浜名頼親の子
・三河岡崎城=松平元康※後の徳川家康 源頼朝のブランド感覚は源氏を優遇する傾向だったらしい。
行事交名を見ても、平賀義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
一番 源頼朝
二番 源頼兼
三番 平賀義信
源頼政の子の源頼兼(鎌倉時代の人)とその子孫の源頼氏(南北朝時代の人)は、鎌倉時代から南北朝時代まで、苗字ではなく将軍家と同じ様に源氏で称されていた。
その理由は河内源氏嫡流の源頼朝と摂津源氏嫡流の源頼兼という立ち位置だったのかもしれない。 享陰 ※水野氏の菩提寺のとこのお坊さん!
源姓平賀氏出身。浜名政義の親族。尾張国緒川の乾坤院(水野貞守開基)の僧。浜名氏は政義の代より曹洞宗となる。 源頼兼と平賀義信。源頼朝を除けばどちらも源氏の首座。 以上、戦国武将の飯尾連竜の先祖は、摂津源氏嫡流である源三位頼政公の子孫ということ。 苗字帯刀は1割
これ常識
沖縄の系図持ちも1割
不労階級はそれ以上いたらヤバいって事だろう >>827
>信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。
信女と彫ってあって、それが一番左(向かって左)だから建立者の母親だろうと
言っただけ。その右に彫ってある信士との関係なんか知るかよ。
だいたい人のうちの墓の戒名なんかまともに読むか。
お前は一生懸命読んでるらしいが、そっちこそ異常者。
>墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
ネットで調べてみろ。セメントの墓は当たり前にあった。石がふつうに使われるようになった
のは、戦後海外から安い石が輸入されるようになってから。
アフリカや中国から石が入ってくるまでは石材は高価だった。
石材をカットする機械も普及しておらず、水力で丸鋸を回して切ったりしていたらしい。
土台やカロート部分は最近のは石で覆ってあるが、つい最近までセメント丸出しだった。
ちょっと古い墓なんか、土台の一部に工事用のコンクリ板が当たり前に使ってあったりするよ。
>セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
馬鹿だな。セメントが生乾きのうちだと細かい作業が簡単にできるんだよ。
彫るんじゃないから。上に書いたやんけ頭悪いなもう >ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。
>彫りも深くしっかりしてる。
シッタカすんなボケ。庵治石でググったの丸出しやんけw
庵治石を調べると「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で黒雲母の小さな粒が混じっていて
青っぽい石。この墓石前面には黒雲母のツブツブはないし、青石でもないわな。
庵治石なんてもんじゃない。
そもそも、お前に合わせて墓石前面は石で戒名も刻んだものとしているが、正直なところ
疑わしいと思っている。俺はここも塗ったもので、戒名もまだ固まっていない段階で
ヘラで書き入れただけなんじゃないかと思うけどな。 昔の日本ではだいたいは土葬で、墓には木の卒塔婆を立てるだけだった。
金持ちは石の墓も作ったけど、それは土葬した場所の横に並べる形式。
地面に置くような形で、土台石を置くにしてもそんなに高くない。
この写真の墓は古い二つの墓をまとめたもので(同時に葬るのはありえないから)、
下はコンクリで土台を作ってあるし、カロート式だろうから、墓全体としてはたぶん戦後に
作られたものだろう。
後ろにコンクリ柱を支えに立ててセメンで固めてある。
その土台部分の上に乗せてある戒名が彫ってある墓石部分は古いのだろうが、江戸時代の
ものじゃない感じがするなー。
建立の日付は江戸時代のものになってるそうだが。
>>811 によると、この墓石に刻まれた日付は
>金糸屋善兵衛の石碑(延享二年・1745年)
延享二年というと、八代将軍吉宗の治世の最後の年。吉宗は元気だったが、身○者の家重を
早く将軍の座につけて自分が後見した方がいいと考えたんだな。だから51歳で隠居した。
この墓石は吉宗がちょうど50歳のときのものということになるが、そんなに古いかなw
江戸時代の墓石なんか、俺の経験では読むのは天保・弘化ぐらいが限界じゃないの。
それより100年も前の墓石の文字がこんなに明瞭ということがあるかね? なお、家紋研究家の墓地調査のブログ
www.arkness.blog.fc2.com/ ↑ のアドレスこれを付けてくれ。分けないと書き込めないんだ。
blog
-entry
-35.html
これを一行にして なんで普通に書き込めないかな 下のは3つに分けて改行してようやく書き込めた。
では家紋研究家のブログについて進める。
この研究家の人は
京都の人だが、ここに載っている墓の写真が金糸屋善兵衛さんのに似ている。
京都で一時期、この形式の墓が流行ったんだろうな。同じ職人なんじゃないか。
この人は建立の日付が江戸時代だから江戸時代のものと思っているようだ。
しかしこの浮き方や剥がれ方を見るとそうとは思えないよな。
あと、この墓石の蓮台はセメントで型で作ったものじゃなかろうか。
おまけ
>>828
これは庄屋馬鹿の書きこみなw
この写真の石塔の上の傘は、どこかの灯籠の傘だったもの。
それをひっくり返してモルタルを流し込み、石塔の幅奥行きに合わせて
四角く固めた。インチキな石屋がやったか坊さんに言われてやったのかは分からない。
仕事がシロウトくさいよな。 江戸農民の階層的な呼称について
>>843
江戸時代の文書では百姓の階層がいろんな言葉で表されている。
上下を表す意味で頭百姓と脇百姓などという言葉が用いられており、
上百姓と下(げ)百姓などという分け方もある。
後者は美濃国不破郡中曽根村寛政六年(1794)の資料。
この村では下百姓が家に庇(ひさし)や濡れ縁を付けるのは禁止されていた。
座敷口を三尺以上にしてはいけないし、屋根を瓦で葺いてもいけない。
裃を着用してはならず、名前に衛門・兵衛・太郎・太夫などの名をつけてはいけない。
頭分の宅内に入るときに履物を履いたままではいけない、など。
最後のはおそらく玄関の敷居の手前で履き物を脱ぎ、土間で平伏しろということ
だろう。村の行事などでの座席順や場所の決まりは厳しい。
袴をはいた人とそうでない人を分けるのは当然で、その次に「百姓大高持ちより
次第に列座致候事」とするものがある。
所有する田の石高の順番に座れというのである。 こういう分かり易いものばかりでなく、座る場所まで細かく定めたものもある。
長百姓、中百姓、平百姓、小百姓、水呑みの区別をつけ、長百姓は旦那衆と呼ばれ、
オモテ(奥座敷)の畳敷きのところに座る。
中百姓は台所(一段下がった板の間)に薄縁(うすべり)を敷いて座り、奥座敷との
間にはアイドを立てる。
平百姓は台所の上がり框(かまち)に近いところに筵(むしろ)を敷いて座る。
小百姓は土間に筵敷きであった。
なお、水呑みは筵を使うことはできず、外に古俵や藁を敷いて座った。
しかし雨の日や冬はそうもいかない。
家の者が気を効かして「こんなところに座ってないで家の中に入れ」というようなことは
言っただろう。そう言われれば中に入ったのだろうか。
あくまでも軒の下などに藁を敷いて座っていたのだろうか。
長だの中だの平だの小だの、軍隊みたいな直接的な分け方をするのは関西の
京都周辺の農村に見られるようだ。
最初に示した上・下の百姓の座る場所の掟は丹波中郡三重村のものである。
しかし、上といい下といっても具体的に何を指しているのか分からないので
区別(差別)が確かにあったという以外、資料としては役に立たない。 江戸時代の農村における住民構成は、大きく分けて高持百姓とそうでない者との
区別がある。高持百姓とは、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっている
百姓のことである。領主に対して年貢を献納する義務のある土地を持っている者で
その土地の多寡は問わない。土地が少なければ他人の土地を耕すこともある。
その場合には小作人でもあるわけだが、そうだとしても検地帳に記された土地を
持っている以上は高持百姓であることに変わりはない。
いっぽう、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっていない者は水呑と
呼ばれた。高持百姓と水呑の区別は、領主に対して年貢を負担するか否かの
区別であり、百姓にとって本質的なものであった。
次に、本百姓とそうでない者との区別も重要である。
本百姓が何であるのかについては昔から種々議論があり、古くは屋敷を持つ者と
持たない者の区別であるとするものがあった。屋敷名請人こそ本百姓であると
するのである。さらにまた屋敷名請人でも夫役(ぶやく、労役)を負担しない者も
あるから(後家、盲人など)、夫役負担者が本百所であるという説も出た。
夫役は村が20軒なら20軒前割り当てられる。一軒前の夫役すなわち労役を
負担する者は役家や役屋敷などと呼ばれており、役家や役屋敷と呼ばれる家は
また本百姓と呼ばれていた実態が明らかになってきた。
だから、本役を負担する者を本百姓と呼べばいいと解するのが一般である。 江戸時代農村の階層は、まず年貢を負担する高持百姓とそうでない水呑、
夫役(一軒分の労役)を負担する本百姓とそうでない者とがあるということを
知っていればよい。本百姓でない者とはどのようなものかというと
1.分付(ぶんづけ) 分家をせずに惣領の田を耕している二男・三男。
2.家抱(かほう) 一戸を構えてはいるが、身分的には下男のままで独立しておらず、
収穫したものは主人の家に納め、自分は年貢を負担しない者。
3.庭子、名子など
一般的には主人の屋敷内にいて耕作を手伝ったり雑用に従事する者と言えるが、
小作人と変わらない場合もあれば奴婢に他ならない場合もあり、一元的に定義づける
のは不可能。
「平百姓」という言葉は>>317 や >>798 で庄屋馬鹿が使っているが、明らかに
「平社員」的感覚で使っている。それを馬鹿にされてググりまくったら、たまたま
百科事典に平百姓が出てきて今度は鬼の首とったみたいに威勢がよくなったww
平百姓なんて言葉は普通は使わないよ。限定的な地域で特定のシチュエーションで
使われていたにすぎない。
田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓は小前百姓と
いうのが普通である。
ごく普通の農民という意味で使いたいなら是非こちらを使うべきだ。
上に述べたが、上百姓・下百姓なんて区別もある。
文献的にはこうした表現もあるわけだが、これを一般に使ったら馬鹿だと思われて
しまう。平百姓もそれと同じだ。
>>843 は庄屋馬鹿の無知と知能の低さをあらわすものに過ぎないw >>859 高々100年や200年位で彫りが崩れる訳なんかない。
100年前ってまだ大正時代で全く新しい。
掃除が行き届かない墓の場合、苔で見づらくなっているだけの話。
そもそも江戸時代の墓は、一般的には彫りが最初から雑で彫りが浅いものが多い。
コテハン付けるの忘れてるぞ。 ちゃんとつけろよな。 源頼朝が河内源氏義家流の嫡流で、源頼兼が摂津源氏の嫡流で、平賀義信が河内源氏義光流の嫡流と頼朝に認識されていたのか。
大和源氏は、、、 当初の藤原秀郷流の嫡流は奥州藤原氏と思われていたかもしれない。
いや、しかし藤原頼遠が養子だから思われてなかった可能性もある。
秀郷流の嫡流は現在では結城氏かもしれないが、その前は結城氏の本家の小山氏だったろうし、その前は足利氏だったかもしれない。
足利氏の分家の佐野氏も捨てがたい。
秀郷流の嫡流は当初はどこだという認識だったのだろう? >>860 塗ってるかもと言うのをセメントだと思ってしまったのか? 愚かすぎる。
たとえ塗ったものがあったとしても、当時は漆喰だよ。
漆喰とセメントは全く別物。 漆喰と言っても堤防の護岸に使われる様な頑丈なものもある。 今でも漆喰の堤防が残ってるはず。
それでも石の上に漆喰を塗ると言うのは、かなり難しいと思う。 余程のことがない限り一族はそんな墓は建てない。記念碑みたいなものなら別だが普通にはないよ。
しかし、その写真にも家紋が入ってる事は認めるんだな?
俗名や屋号が側面に入っていることも認めるんだな?
これを明治時代以降だなんて言うなよな。
セメントは明治以降だと思うが、漆喰は大昔からあるんだぞ。
昔の墓の文字が読みにくいのは苔もあるが、安山岩の様な粒の荒い軟らかい石に彫ってるから、最初から文字の輪郭がはっきり出なくて古びた感触に出来上がる。
その上彫りが浅いから少し汚れると読みづらくなる。
花崗岩(御影石)の様な硬い石に彫る場合は、輪郭がはっきりと出る。
花崗岩なのかどうか知らないが、目の細かな石の彫りは、くっきりと残るね。
花崗岩が使われる様になったのは明治以降じゃ無いのかな。
昔の技術で硬い石に彫るのは困難だったから古い墓ではあまり見ない。 高貴な方の墓は別格。
現代の墓だと機械彫するからいくらでも彫が深く見栄えが良い文字が彫れるけど手彫りじゃ大変。
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。 秀郷流嫡流の話しだと信夫佐藤氏も考えられる。
奥州藤原氏に付いて頼朝と戦った佐藤基信と佐藤忠信の兄弟も秀郷流だが、この佐藤氏は源氏車を家紋としてる。
一説には佐藤義信は源義経の落胤と呼ばれている。
同じく小野寺氏も秀郷流だが、小野寺氏は鎌倉時代の書物に御堂関白道長の子孫と書かれてあるものもあり、
おそらく秀郷流としたのは武勇に秀でた武家の藤原氏をアピールするために、秀郷流を後で名乗ったのだろう。 >>872 荒らしてるの? 楽しい?
せめてコテハンつけるか、元の話題へのリンクを貼ってくれないかな。
多分コピペ荒らしだと思うけど。 俺の中では武家の名家というと鎌倉時代が基本だな。
戦国時代好きな人は戦国時代を基本にするけど、やっぱ武家は鎌倉時代から本格化してるからな。 源平時代と南北朝時代と戦国時代と先祖が何をしてたのか?
俺の先祖の場合は色々してた! >>875 血族先祖に限る話題から少し外れてるとは思うが、長文バカにならなければ良いのかもな。
戦争の度にあちこち飛び回り、そんなこんながあったからこそ日本全国文化が均一になったんじゃないだろうか。
うちの先祖が移ったのも鎌倉時代だし。
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話は変わるが、俺んちの先祖探しの中でビックラこいた事があった。
自分の苗字は珍しく全国でほぼ一箇所に固まっている。
読みは同じで漢字が違う苗字の墓が一族の中にあるのは昔から知ってた。 多分分家なんだろうなと思ってた。
戸籍を取り寄せたらびっくり、俺の高祖父だった。戸籍上は同じ漢字なのに墓に書かれた苗字の漢字は同音の別の漢字だった。
そんな事もあるんだな。 正式な戸籍記録では今と同じ漢字の苗字なんだけど、今の漢字でも画数は多い方だが、旧漢字だともっと画数が多かった。 それで隣村では略字の漢字を使うことが日常になってたみたい。
その隣村から嫁さんが来て、嫁さんが建てた墓にその略字が使われてたと言う話。
今、その略字を使った苗字は全国でも隣村にあるだけ。 墓も見るのが手っ取り早いんだろうけど、古い墓は風化して読めない
何とか読める一番古いのは文化何年と書いてる
更に古いのは自然石を墓石にしたような感じだわ
南北朝時代から続く家柄で、自宅が国の重要文化財になってる家に時々行くんだけど、文化財課や図書館の調査した資料があるので自分で調べなくて済むし確実だな
南北朝や戦国時代の事は現実離れした話だと思ってたが、そのお宅に行くと妙に身近に感じる 王来王家、皇、神の名字はすごい由緒正しい家系な感じがする。 >>876 略字じゃなく当て字かな、同じ読みの全く別の漢字だった。
それとは別に戸籍調べの中で物凄く珍しい漢字の苗字の嫁が入って来てた。
どう読むのか最初は全く解らなかったが、ようやくわかったのは、これは難しい漢字の略字だった。 非常に珍しい。 漢字変換でも出てこない。
うちの苗字も昔は出てこなかったが、何度もいろんなのに登録を繰り返してようやく最近は出てくるようになった。
あるサイトの全国人数の数字(実際は数倍は多いとは思うが)
俺の苗字 410人
同音当て字 140人
珍入嫁の苗字 30人
>>877 墓は光の当て方を工夫して撮ると字が読めるようになるよ。 従五位下遠江守は南北朝時代の俺の先祖の官位。
もう一人の俺の南北朝時代の先祖に従五位下右京亮がいるから、こんどはこっちコテハンにする。 >>878
王来王家
奥岡と語源をともにする。現三重県である伊勢発祥ともいわれる、弘文帝子孫。近年、三重県などにみられる。
皇
滋賀県、千葉県にみられる。滋賀県東近江市の浄土真宗の浄願寺が由来。皇花山の「皇」の文字が語源ともいわれる。
神
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています