先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る5
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542339706/ >>830 土台は基礎の延長だから仕方ないし、どうでも良い。 昔の墓にはその基礎さえほとんどないし。 昔は、火葬も土葬も行われてた。
土葬の場合殆ど小高い丘に埋葬した。 遺体を動物達に荒らされない様に曼珠沙華(ヒガンバナ) の花を植えたらしい。
古い墓が殆ど山の裾野なのはその名残かもしれない。
勿論農地の妨げにならない様にとか、大水に流されない様にとか、戦火で荒らされない様にという意味合いもあったのかも。 >>832 古い墓の様子を見るとどこも瓜二つみたいに似ている。 古い旧家の言い伝えでは墓の所に洞窟みたいのがあって昔はそこにすんでいたのではないかと?まあ、一つの仮説にしか過ぎないらしいが >>834 いや、そういう言い伝えができてもおかしくない。
埼玉の吉見百穴なんて、古代の墓穴の後だからね。
異様な光景だよ。 戦時中は横穴墓を防空壕に使ってるところもあったらしい。 寺の過去帳を調べた経験があったら話して。
何代前位までわかったかとか、費用とか、みるだけだったか、住職が書いてくれたかなど。 >>829以下全部庄屋馬鹿の書きこみ
庄屋馬鹿 そらしに必死 >>838 可哀想にそんなに庄屋が羨ましいのか? 世の中は、水飲み百姓と庄屋だけで出来てるんじゃないぞ。 先祖だけは捏造しない限り自分では如何ともし難いから
江戸時代までは苗字持ってる人が1割だったんでしょ?
残り9割の人はそりゃ嫉妬するわ >>840 苗字は持っていなくても (持ってたが公式には使えなかった) 江戸時代は、何処かの寺の檀家として登録するのが義務付けられてたから、寺の過去帳が公式の戸籍簿に近かった。
だから、どんな農民でも過去帳には登録されてるんじゃないのかな?
だからかなりの確率で見つけられるかもしれない。(苗字/家の登録がないと探すのが困難らしいが)
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みんなこのページは見てると思うが参考になるね。
戸籍以前の調べ方
https://www.kakeizushokunin.com/kosekiizen/
過去帳
墓石
旧土地台帳
文献 (戦死者リストは公文書として残っている)
本籍地周辺での聞き取り調査
古い戸籍が無い理由
https://www.kakeizushokunin.com/kosekitorenaijijou/ >>840なにを根拠に1割なんて言ってるの?
戦国時代以前は非人や労働者階級の足軽や下級武士もみな名字もってんのに。
大体、平百姓なんて名主庄屋からの分家が多いんだがら、名字は皆もってんだが?
公式に名乗れないなんて、
単なる公式文書レベルや有形物への表示制限があるくらいなだけ。 平百姓
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%99%BE%E5%A7%93-1401688
今まで、この言葉は知らなかった。 いかに昔の言葉が廃れてきてるかだな。 この間郷土史を読んでて始めて長百姓という言葉を知ったくらい。 昔の風習、言葉は廃れてきてるな。
名主は、最初は長百姓から出てたが、不公平だとして長百姓と平百姓の交代制になったとか。 これからみると平百姓の地位はかなり高かったことがわかるな。
(妬みジジーは、平百姓と言う言葉まで否定していなかったか? 別人だったらごめん) 言葉自体の存否もだが読み方も変化してるのか?
昔の文書を訳したのを見ると現在は先方衆(さきがたしゅう)だけど昔は(せんぽうしゅう)だったりとか。ただ音訓読み的にはどうなんだろうかなと?ふと昔不思議に思ったことをつらつらと 原宿駅前からラフォーレの辺りは丘陵となっていて、かつて源氏山と称していた。
源氏山の由来は清和源氏の末裔飯尾政宅が住したためである。
∴清和天皇─貞純親王─源経基─源満仲─源頼光─源頼国─源頼綱─源仲政─源頼政─源頼兼─源頼茂─源頼方─源頼氏─浜名清政─浜名詮政─浜名満政─浜名持政─浜名政義─浜名政明─飯尾用政─飯尾乗連─飯尾連竜
飯尾連竜の次男、飯尾政宅。飯尾政宅、現在の原宿に住む。 浜松まつりの起源は、室町時代の永禄年間(1555年 - 1569年)に、
引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守(飯尾連竜)の長男・義広の誕生を祝って、
入野村の住人であった佐橋甚五郎が義広の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としている。 戦国武将の飯尾氏は渡来系の三善氏の子孫と言われているが、飯尾連竜の子孫は清和源氏の子孫と称している。
今川の家臣となった飯尾長連の養子に清和源氏の子孫(飯尾用政)が入ったのだろう。
飯尾氏は同じ今川家臣で同じ遠江国の戦国武将である浜名氏の分家的な位置だったのだろう。
清和源氏の浜名氏は源頼政の子孫であり政を通字としている。
飯尾連竜も連竜という諱の他に飯尾政純という諱を持っている。
これまでの三善氏という固定観念はデタラメであって、飯尾氏は清和源氏であった。 >>846 847 ご先祖様と何か関係あるの?
何かの話に関連して話すんならまだしも、突然脈絡もなく話すのなんて長文自己中と同じだな。
あ、そうか長文自己中=妬みジジイがコテハンつけてくれたのかな? ありがとう。 今川義元の城主格家臣の一覧
・尾張鳴海城=岡部元信
・駿河朝比奈城=朝比奈元長
・三河田原城=朝比奈元智
・駿河瀬名城=瀬名氏俊
・駿河蒲原城=蒲原氏徳
・駿河庵原城=庵原元政
・駿河川入城=由比正信
・遠江掛川城=朝比奈泰朝
・遠江二俣城=松井宗信
・遠江高天神城=小笠原氏清
・遠江井伊谷城=井伊直盛
・遠江引馬城=飯尾乗連※浜名政明の子の飯尾用政の子
・遠江佐久城=浜名正国※浜名政明の子の浜名頼親の子
・三河岡崎城=松平元康※後の徳川家康 源頼朝のブランド感覚は源氏を優遇する傾向だったらしい。
行事交名を見ても、平賀義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、他の源範頼も足利義兼も、もちろん北条時政も常に義信の下座だった。
一番 源頼朝
二番 源頼兼
三番 平賀義信
源頼政の子の源頼兼(鎌倉時代の人)とその子孫の源頼氏(南北朝時代の人)は、鎌倉時代から南北朝時代まで、苗字ではなく将軍家と同じ様に源氏で称されていた。
その理由は河内源氏嫡流の源頼朝と摂津源氏嫡流の源頼兼という立ち位置だったのかもしれない。 享陰 ※水野氏の菩提寺のとこのお坊さん!
源姓平賀氏出身。浜名政義の親族。尾張国緒川の乾坤院(水野貞守開基)の僧。浜名氏は政義の代より曹洞宗となる。 源頼兼と平賀義信。源頼朝を除けばどちらも源氏の首座。 以上、戦国武将の飯尾連竜の先祖は、摂津源氏嫡流である源三位頼政公の子孫ということ。 苗字帯刀は1割
これ常識
沖縄の系図持ちも1割
不労階級はそれ以上いたらヤバいって事だろう >>827
>信士、信女 と夫婦並んでるのが見えないのか。
信女と彫ってあって、それが一番左(向かって左)だから建立者の母親だろうと
言っただけ。その右に彫ってある信士との関係なんか知るかよ。
だいたい人のうちの墓の戒名なんかまともに読むか。
お前は一生懸命読んでるらしいが、そっちこそ異常者。
>墓にセメントを使うなんて聞いた事ないぞ。 そんなバカなことをする家があるわけがない。
ネットで調べてみろ。セメントの墓は当たり前にあった。石がふつうに使われるようになった
のは、戦後海外から安い石が輸入されるようになってから。
アフリカや中国から石が入ってくるまでは石材は高価だった。
石材をカットする機械も普及しておらず、水力で丸鋸を回して切ったりしていたらしい。
土台やカロート部分は最近のは石で覆ってあるが、つい最近までセメント丸出しだった。
ちょっと古い墓なんか、土台の一部に工事用のコンクリ板が当たり前に使ってあったりするよ。
>セメントにどうやって彫るんだよ。彫れる訳がないだろう無知もいい加減にしとけよ。 うつけ者めが。
馬鹿だな。セメントが生乾きのうちだと細かい作業が簡単にできるんだよ。
彫るんじゃないから。上に書いたやんけ頭悪いなもう >ただ、この石は当時としては珍しいかも。 庵治石かな? 世界最高の墓石とされている。
>彫りも深くしっかりしてる。
シッタカすんなボケ。庵治石でググったの丸出しやんけw
庵治石を調べると「黒雲母細粒花崗閃緑岩」で黒雲母の小さな粒が混じっていて
青っぽい石。この墓石前面には黒雲母のツブツブはないし、青石でもないわな。
庵治石なんてもんじゃない。
そもそも、お前に合わせて墓石前面は石で戒名も刻んだものとしているが、正直なところ
疑わしいと思っている。俺はここも塗ったもので、戒名もまだ固まっていない段階で
ヘラで書き入れただけなんじゃないかと思うけどな。 昔の日本ではだいたいは土葬で、墓には木の卒塔婆を立てるだけだった。
金持ちは石の墓も作ったけど、それは土葬した場所の横に並べる形式。
地面に置くような形で、土台石を置くにしてもそんなに高くない。
この写真の墓は古い二つの墓をまとめたもので(同時に葬るのはありえないから)、
下はコンクリで土台を作ってあるし、カロート式だろうから、墓全体としてはたぶん戦後に
作られたものだろう。
後ろにコンクリ柱を支えに立ててセメンで固めてある。
その土台部分の上に乗せてある戒名が彫ってある墓石部分は古いのだろうが、江戸時代の
ものじゃない感じがするなー。
建立の日付は江戸時代のものになってるそうだが。
>>811 によると、この墓石に刻まれた日付は
>金糸屋善兵衛の石碑(延享二年・1745年)
延享二年というと、八代将軍吉宗の治世の最後の年。吉宗は元気だったが、身○者の家重を
早く将軍の座につけて自分が後見した方がいいと考えたんだな。だから51歳で隠居した。
この墓石は吉宗がちょうど50歳のときのものということになるが、そんなに古いかなw
江戸時代の墓石なんか、俺の経験では読むのは天保・弘化ぐらいが限界じゃないの。
それより100年も前の墓石の文字がこんなに明瞭ということがあるかね? なお、家紋研究家の墓地調査のブログ
www.arkness.blog.fc2.com/ ↑ のアドレスこれを付けてくれ。分けないと書き込めないんだ。
blog
-entry
-35.html
これを一行にして なんで普通に書き込めないかな 下のは3つに分けて改行してようやく書き込めた。
では家紋研究家のブログについて進める。
この研究家の人は
京都の人だが、ここに載っている墓の写真が金糸屋善兵衛さんのに似ている。
京都で一時期、この形式の墓が流行ったんだろうな。同じ職人なんじゃないか。
この人は建立の日付が江戸時代だから江戸時代のものと思っているようだ。
しかしこの浮き方や剥がれ方を見るとそうとは思えないよな。
あと、この墓石の蓮台はセメントで型で作ったものじゃなかろうか。
おまけ
>>828
これは庄屋馬鹿の書きこみなw
この写真の石塔の上の傘は、どこかの灯籠の傘だったもの。
それをひっくり返してモルタルを流し込み、石塔の幅奥行きに合わせて
四角く固めた。インチキな石屋がやったか坊さんに言われてやったのかは分からない。
仕事がシロウトくさいよな。 江戸農民の階層的な呼称について
>>843
江戸時代の文書では百姓の階層がいろんな言葉で表されている。
上下を表す意味で頭百姓と脇百姓などという言葉が用いられており、
上百姓と下(げ)百姓などという分け方もある。
後者は美濃国不破郡中曽根村寛政六年(1794)の資料。
この村では下百姓が家に庇(ひさし)や濡れ縁を付けるのは禁止されていた。
座敷口を三尺以上にしてはいけないし、屋根を瓦で葺いてもいけない。
裃を着用してはならず、名前に衛門・兵衛・太郎・太夫などの名をつけてはいけない。
頭分の宅内に入るときに履物を履いたままではいけない、など。
最後のはおそらく玄関の敷居の手前で履き物を脱ぎ、土間で平伏しろということ
だろう。村の行事などでの座席順や場所の決まりは厳しい。
袴をはいた人とそうでない人を分けるのは当然で、その次に「百姓大高持ちより
次第に列座致候事」とするものがある。
所有する田の石高の順番に座れというのである。 こういう分かり易いものばかりでなく、座る場所まで細かく定めたものもある。
長百姓、中百姓、平百姓、小百姓、水呑みの区別をつけ、長百姓は旦那衆と呼ばれ、
オモテ(奥座敷)の畳敷きのところに座る。
中百姓は台所(一段下がった板の間)に薄縁(うすべり)を敷いて座り、奥座敷との
間にはアイドを立てる。
平百姓は台所の上がり框(かまち)に近いところに筵(むしろ)を敷いて座る。
小百姓は土間に筵敷きであった。
なお、水呑みは筵を使うことはできず、外に古俵や藁を敷いて座った。
しかし雨の日や冬はそうもいかない。
家の者が気を効かして「こんなところに座ってないで家の中に入れ」というようなことは
言っただろう。そう言われれば中に入ったのだろうか。
あくまでも軒の下などに藁を敷いて座っていたのだろうか。
長だの中だの平だの小だの、軍隊みたいな直接的な分け方をするのは関西の
京都周辺の農村に見られるようだ。
最初に示した上・下の百姓の座る場所の掟は丹波中郡三重村のものである。
しかし、上といい下といっても具体的に何を指しているのか分からないので
区別(差別)が確かにあったという以外、資料としては役に立たない。 江戸時代の農村における住民構成は、大きく分けて高持百姓とそうでない者との
区別がある。高持百姓とは、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっている
百姓のことである。領主に対して年貢を献納する義務のある土地を持っている者で
その土地の多寡は問わない。土地が少なければ他人の土地を耕すこともある。
その場合には小作人でもあるわけだが、そうだとしても検地帳に記された土地を
持っている以上は高持百姓であることに変わりはない。
いっぽう、検地帳に載せられた高をつけられた土地をもっていない者は水呑と
呼ばれた。高持百姓と水呑の区別は、領主に対して年貢を負担するか否かの
区別であり、百姓にとって本質的なものであった。
次に、本百姓とそうでない者との区別も重要である。
本百姓が何であるのかについては昔から種々議論があり、古くは屋敷を持つ者と
持たない者の区別であるとするものがあった。屋敷名請人こそ本百姓であると
するのである。さらにまた屋敷名請人でも夫役(ぶやく、労役)を負担しない者も
あるから(後家、盲人など)、夫役負担者が本百所であるという説も出た。
夫役は村が20軒なら20軒前割り当てられる。一軒前の夫役すなわち労役を
負担する者は役家や役屋敷などと呼ばれており、役家や役屋敷と呼ばれる家は
また本百姓と呼ばれていた実態が明らかになってきた。
だから、本役を負担する者を本百姓と呼べばいいと解するのが一般である。 江戸時代農村の階層は、まず年貢を負担する高持百姓とそうでない水呑、
夫役(一軒分の労役)を負担する本百姓とそうでない者とがあるということを
知っていればよい。本百姓でない者とはどのようなものかというと
1.分付(ぶんづけ) 分家をせずに惣領の田を耕している二男・三男。
2.家抱(かほう) 一戸を構えてはいるが、身分的には下男のままで独立しておらず、
収穫したものは主人の家に納め、自分は年貢を負担しない者。
3.庭子、名子など
一般的には主人の屋敷内にいて耕作を手伝ったり雑用に従事する者と言えるが、
小作人と変わらない場合もあれば奴婢に他ならない場合もあり、一元的に定義づける
のは不可能。
「平百姓」という言葉は>>317 や >>798 で庄屋馬鹿が使っているが、明らかに
「平社員」的感覚で使っている。それを馬鹿にされてググりまくったら、たまたま
百科事典に平百姓が出てきて今度は鬼の首とったみたいに威勢がよくなったww
平百姓なんて言葉は普通は使わないよ。限定的な地域で特定のシチュエーションで
使われていたにすぎない。
田畑や家屋敷は所有するが、特別な家格・権利を持たない本百姓は小前百姓と
いうのが普通である。
ごく普通の農民という意味で使いたいなら是非こちらを使うべきだ。
上に述べたが、上百姓・下百姓なんて区別もある。
文献的にはこうした表現もあるわけだが、これを一般に使ったら馬鹿だと思われて
しまう。平百姓もそれと同じだ。
>>843 は庄屋馬鹿の無知と知能の低さをあらわすものに過ぎないw >>859 高々100年や200年位で彫りが崩れる訳なんかない。
100年前ってまだ大正時代で全く新しい。
掃除が行き届かない墓の場合、苔で見づらくなっているだけの話。
そもそも江戸時代の墓は、一般的には彫りが最初から雑で彫りが浅いものが多い。
コテハン付けるの忘れてるぞ。 ちゃんとつけろよな。 源頼朝が河内源氏義家流の嫡流で、源頼兼が摂津源氏の嫡流で、平賀義信が河内源氏義光流の嫡流と頼朝に認識されていたのか。
大和源氏は、、、 当初の藤原秀郷流の嫡流は奥州藤原氏と思われていたかもしれない。
いや、しかし藤原頼遠が養子だから思われてなかった可能性もある。
秀郷流の嫡流は現在では結城氏かもしれないが、その前は結城氏の本家の小山氏だったろうし、その前は足利氏だったかもしれない。
足利氏の分家の佐野氏も捨てがたい。
秀郷流の嫡流は当初はどこだという認識だったのだろう? >>860 塗ってるかもと言うのをセメントだと思ってしまったのか? 愚かすぎる。
たとえ塗ったものがあったとしても、当時は漆喰だよ。
漆喰とセメントは全く別物。 漆喰と言っても堤防の護岸に使われる様な頑丈なものもある。 今でも漆喰の堤防が残ってるはず。
それでも石の上に漆喰を塗ると言うのは、かなり難しいと思う。 余程のことがない限り一族はそんな墓は建てない。記念碑みたいなものなら別だが普通にはないよ。
しかし、その写真にも家紋が入ってる事は認めるんだな?
俗名や屋号が側面に入っていることも認めるんだな?
これを明治時代以降だなんて言うなよな。
セメントは明治以降だと思うが、漆喰は大昔からあるんだぞ。
昔の墓の文字が読みにくいのは苔もあるが、安山岩の様な粒の荒い軟らかい石に彫ってるから、最初から文字の輪郭がはっきり出なくて古びた感触に出来上がる。
その上彫りが浅いから少し汚れると読みづらくなる。
花崗岩(御影石)の様な硬い石に彫る場合は、輪郭がはっきりと出る。
花崗岩なのかどうか知らないが、目の細かな石の彫りは、くっきりと残るね。
花崗岩が使われる様になったのは明治以降じゃ無いのかな。
昔の技術で硬い石に彫るのは困難だったから古い墓ではあまり見ない。 高貴な方の墓は別格。
現代の墓だと機械彫するからいくらでも彫が深く見栄えが良い文字が彫れるけど手彫りじゃ大変。
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。 秀郷流嫡流の話しだと信夫佐藤氏も考えられる。
奥州藤原氏に付いて頼朝と戦った佐藤基信と佐藤忠信の兄弟も秀郷流だが、この佐藤氏は源氏車を家紋としてる。
一説には佐藤義信は源義経の落胤と呼ばれている。
同じく小野寺氏も秀郷流だが、小野寺氏は鎌倉時代の書物に御堂関白道長の子孫と書かれてあるものもあり、
おそらく秀郷流としたのは武勇に秀でた武家の藤原氏をアピールするために、秀郷流を後で名乗ったのだろう。 >>872 荒らしてるの? 楽しい?
せめてコテハンつけるか、元の話題へのリンクを貼ってくれないかな。
多分コピペ荒らしだと思うけど。 俺の中では武家の名家というと鎌倉時代が基本だな。
戦国時代好きな人は戦国時代を基本にするけど、やっぱ武家は鎌倉時代から本格化してるからな。 源平時代と南北朝時代と戦国時代と先祖が何をしてたのか?
俺の先祖の場合は色々してた! >>875 血族先祖に限る話題から少し外れてるとは思うが、長文バカにならなければ良いのかもな。
戦争の度にあちこち飛び回り、そんなこんながあったからこそ日本全国文化が均一になったんじゃないだろうか。
うちの先祖が移ったのも鎌倉時代だし。
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話は変わるが、俺んちの先祖探しの中でビックラこいた事があった。
自分の苗字は珍しく全国でほぼ一箇所に固まっている。
読みは同じで漢字が違う苗字の墓が一族の中にあるのは昔から知ってた。 多分分家なんだろうなと思ってた。
戸籍を取り寄せたらびっくり、俺の高祖父だった。戸籍上は同じ漢字なのに墓に書かれた苗字の漢字は同音の別の漢字だった。
そんな事もあるんだな。 正式な戸籍記録では今と同じ漢字の苗字なんだけど、今の漢字でも画数は多い方だが、旧漢字だともっと画数が多かった。 それで隣村では略字の漢字を使うことが日常になってたみたい。
その隣村から嫁さんが来て、嫁さんが建てた墓にその略字が使われてたと言う話。
今、その略字を使った苗字は全国でも隣村にあるだけ。 墓も見るのが手っ取り早いんだろうけど、古い墓は風化して読めない
何とか読める一番古いのは文化何年と書いてる
更に古いのは自然石を墓石にしたような感じだわ
南北朝時代から続く家柄で、自宅が国の重要文化財になってる家に時々行くんだけど、文化財課や図書館の調査した資料があるので自分で調べなくて済むし確実だな
南北朝や戦国時代の事は現実離れした話だと思ってたが、そのお宅に行くと妙に身近に感じる 王来王家、皇、神の名字はすごい由緒正しい家系な感じがする。 >>876 略字じゃなく当て字かな、同じ読みの全く別の漢字だった。
それとは別に戸籍調べの中で物凄く珍しい漢字の苗字の嫁が入って来てた。
どう読むのか最初は全く解らなかったが、ようやくわかったのは、これは難しい漢字の略字だった。 非常に珍しい。 漢字変換でも出てこない。
うちの苗字も昔は出てこなかったが、何度もいろんなのに登録を繰り返してようやく最近は出てくるようになった。
あるサイトの全国人数の数字(実際は数倍は多いとは思うが)
俺の苗字 410人
同音当て字 140人
珍入嫁の苗字 30人
>>877 墓は光の当て方を工夫して撮ると字が読めるようになるよ。 従五位下遠江守は南北朝時代の俺の先祖の官位。
もう一人の俺の南北朝時代の先祖に従五位下右京亮がいるから、こんどはこっちコテハンにする。 >>878
王来王家
奥岡と語源をともにする。現三重県である伊勢発祥ともいわれる、弘文帝子孫。近年、三重県などにみられる。
皇
滋賀県、千葉県にみられる。滋賀県東近江市の浄土真宗の浄願寺が由来。皇花山の「皇」の文字が語源ともいわれる。
神
@出雲大社から出た諏訪神家の子孫。
A三輪氏と起源をともにする。三輪氏族の子孫が神氏を呼称。神の鎮座地などが由来。
B後世には中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)の神氏もみられる。 >>880 コロコロ変えられると困る、それで固定してくれ。
うちの先祖も南北朝時代は従五位下だった。
墓参りしてたら、日露戦争の時に死んだ曾祖父さんの弟の墓の書は上司の少佐が書いてたが、少佐は正六位(従五位の下)と書かれてたな。 明治時代まで位階が続いてたのに驚き。 >>870
漆喰は誰でもまず一番に考える。誰でもね
でも、馬鹿じゃない限り漆喰ではないってことが分かるんだよね
それは追々教えてやるよ
それとも漆喰であることを証明するか?
それはお前の自由だぞw
お前さ、ここの嵐だろ。ここの三分の二は書いてるな。
名主がどうのとかやってたが、今は秀衡龍の嫡流だの
よくやるわ
で、>
>>869 どの話に繋がってるの? スレ違いじゃないの? スレの趣旨から離れない様にしようよ。
↑ これ笑えるわ。お前が自演でやってるんじゃないか
>>882 も自演。ふざけんなよ糞野郎 病院に行けって勧めてるのに段々酷くなってきてるな。 >>881
神は結構由緒正しい感じだな
皇が意外とそうでもなかった >>886 そもそもそんな氏族は、かなりインチキくさい。
(でも直系先祖を辿れるのならここの話題だけど、本人が出てこないことには話にならない。 しかしこんな所で自分の苗字を晒すか?)
本姓(氏)は新撰姓氏録(815年)に書かれた1182の氏姓には当然出てこない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%A7%93%E6%B0%8F%E9%8C%B2
いずれにしろその辺の話題はすれ違いだろうな。 それらの話をするなら、
古代豪族の氏姓に関連した苗字の現代人
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/min/1326776604/ 何度もいうが、
その身分継承した直系の【家】の子孫だけではなせや 俺と父、父と祖父、祖父と曾祖父、曾祖父と高祖父ってけっこう歳離れてる。
俺若造だけど俺の高祖父くらいになると幕末になる。
俺の高祖父は某藩士。俺の祖父の母の父も同藩の藩士。
曾祖父と曾祖母は養子で、曾祖父と曾祖母の養父の父は別の藩の藩士だった。 直系も傍系も血の濃さに変わりはない
長男か弟かの違い 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、他の家で養子になってて、跡継ぎの息子作ってから、俺の家の養子になって家督継いでる。 江戸時代の直系は7割養子でしょ 庄屋クラスw以上なら
直系とかあんまり意味ないよ 問題は自分から何代辿れるかだね
旧家でも10代遡れる人はかなり少ないと思う 俺の祖父の父は、俺の家の養子になる前は、○○屋○○右衛門の養子になってる。
この○○屋は商人で、図書館に行くと、○○屋○○右衛門と代々名乗ってて、武家に金貸したりしてる。
金貸し屋だったみたいだ。
江戸年間、この○○屋○○右衛門の息子が武家の養子になったりしてる。
図書館で見た。
こんなに金持ちの跡取りになったのに、俺の曾祖父は俺の家の養子を選んだわけだ。
やっぱり金持ちの跡取りより士族の身分を選んだのか? >>890
なにいってんだこの馬鹿
血の濃さなんぞ、なんの意味もねえから、いってんだよゴミ
家なんだよ家 俺の父の父の父の父の父の父の父から代官手代やってて、俺の父の父の父の父の父から本家の代官手代の手代みたいなことしてる笑笑
古文書見ると、出納帳の作者が俺の父の父の父の父の父の名前になってる。
本家の代官手代の仕事を分家がしてるから、代官手代の手代で合ってるよね? >>892
この糞低学歴が
養子だらけだから、家の直系かどうかなんだよボケかすが
血筋だけなら、
お前らみたいな雑魚先祖とちがい、
余裕で国人領主も近い先祖になんねん
で、だからなんやねん?
他人やないかい
糞きもちわりー ○○屋○○右衛門は武家に養子送り込んでるけど、その武家の家系図に
穂積姓 鈴木氏
重恭 実は渡辺忠左衛門泰綱次男
みたいな感じで書かれてある家系図をめくっていくと
重紀 実は○○屋○○右衛門三男
とか書かれてあると、どうなんだろうね?
最初は、お!ニギハヤヒの子孫か?ってなって、次に
お!源綱の子孫か?ってなって、次に
え?○○屋の子孫?
ってなるんだろうか? 直系って相続とか殿様からもらってるポジションの承継にだけは意味があるけど
子孫にはあんまり関係ないな
長男ばかりの世の中ではないし
養子を取ったことのない旧家など一個も存在しないとおもうけど
君の家は何県なの? 俺の曾祖父は養子で家督継いでるけど、時は明治年間だったから家に拘らなくてもよくなったのか、養父の家系の代々の通字ではなくて
実父の家系の代々の通字を諱に使用してるよ
通例上、養子は実父の通字ではなく養父の通字を使用する
例えば鈴木重紀の三男の鈴木重安が渡辺紀綱の養子になったら渡辺安綱となるように
この場合、安綱は穂積ではなく源氏を称する
しかし
鈴木重勝の次男の鈴木重宗が斎藤利安の養子になって斎藤重宗だったら、この場合重宗は穂積姓なんだよな
たぶん
俺の曾祖父は源氏の通字を養子先で諱に使用してるから、養子先が平氏でも源氏なんやと思う
たぶん >>899
そら身分継承できない他人たる子孫にとっちゃ意味ないだろうな
身分継承すらできない他人の家の子孫だから、血にアイデンティティー見いだしてしがみついてんだろうから。 >901
正解。
先祖にアイデンティティーを見出すスレなのよここ
あなたみたいに他人の家系を貶すような人間は、リアル世界でも友達ゼロだろうから、長男に生まれたことだけを誇りに2ちゃんで輝いてください リアル世界で友達ゼロだから先祖自慢しかないんだろうな
ガチの名家の人で先祖自慢してる人は見た事ない 江戸幕府以前は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子に入っても鈴木次郷となって本姓も藤原次郷で家系図も鈴木次郷が初代だった
江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になる
江戸幕府前後で概念が変化してる >>903
ガチ華族の子孫が友人だが、いたるところで先祖の話ししとるで 江戸幕府以降は
田原長郷の次男の田原次郷が鈴木重長の養子になったら鈴木重次となって本姓も穂積重次になって鈴木重次は初代とならない >>903
吉良上野介も、
いや、現代も池坊も、めっちゃ内部で先祖自慢してんだが?
家柄いいやつは自慢しねえとか、
なら官位争奪戦なんか必要ねんだバーか
底辺は上流階級を美化視観でしかみれないよな
自分が底辺の醜い世界にいるから >>902
何度もいうが、
長男が絶対ではなく、
身分継承された【家】の直系であること。
馬鹿で低学歴で底辺出自の無能だと、
ここまで説明しても血統の話になるんだな
町人風情が 足利氏の義とか北条氏の時とか通字って、源氏とか平氏の本姓と同じ程度に、先祖調査の素材になるよね。
例えば、織田信重さんの場合、信重さんの家の家系図は平姓織田氏だと想定できる。
例えば、信重さんの父親が源氏からの養子だったとしても、その信重さんちの家系図は、平姓織田氏の家系図で、
信重さん自身も平信重と称してることを想定できる。 織田信重さんの諱の信重の信の字は、平信重の本姓の平の字と同程度に先祖調査の素材となりうる。 俺は士族の子孫だけど、先祖に藤原鎌足いると言うとおぼっちゃまなの?ってよく返ってくるがポカーンとしてしまう
士族の子孫の友達沢山いるよ、暴走族卒業して今は馬に乗ってたりしてる
固定観念じゃ先祖調査なんてできないよと忠告しておくね 意外と宗派も先祖調査の素材になるうる。
そういえば室町中期から宗派変化してない。
室町中期からそうどうしゅう()なぜか変換できない >908
何だお前直系の本家の長男じゃないのか
すっこんでろ傍系 >>912
先祖に鎌足なんてほざいてる家って、
戦国以前は非人レベルだろな ››903 905
1:いったん、華族の子だと誰かからバレると、歴史好きな人に色々聞かれる。
2:その人自身も歴史好きなら、つい楽しくなって歴史の話を色々する。
3:すると、先祖が色々な場面で登場してしまうので、自慢話のようになってしまう。
っていうオチだろうな多分。すっごいわかるわ、それ。 >>915
非人って旅芸人とか托鉢僧とか白拍子とかだぞ
わかってる? ぜんぜんちがうで
俺のおじいちゃんは東京駅を作ったとか、みずほ銀行を作ったとか言うで
今度は五千円札の人物になってるでとか言うんやろーな
聞いてもいないけど言ってくるで
ちな元ヤンやで
でもな、俺も士族の子孫やからそんなの自慢とも思わんし、単なる自己紹介やろ、単なる自己紹介を多めに見れんのか? >>903 逆だよ。 実社会では先祖自慢なんてしない。 こんな所でしか先祖のことなんか話せないよ。
しかし、家族にはしっかりと伝える責任はあるよな。 女性と近づきになるとさり気なく歴史話のふりして語っちゃうけど
ふーん以上の反応は得たことがない >>913 そうそう、寺の宗派と家の家紋は小さい時に教えられてたけど、家紋は覚えてたけど寺の宗派は自分がその立場にならないと思い出せなかった。
この二つだけは覚えておきなさいよとお袋に言われてた。
また、寺が50年以上経っても年回忌の催促をするというのも初めて知った。 自分の名前は珍しいから、自己紹介するときには名前の由来を話すが面白い由来だから楽しく聞いてくれるよ。
覚えてくれること抜群。
とは言っても酒の席みたいに砕けてる時にしか話さないけど。 自称子孫は一杯いるけど先祖が捏造したヨタ話を信じて
子孫と言ってるだけで歴史的根拠などない。系図も捏造。
思い込みで言ってたのが代を経て強固になっただけで
まさに基地外レベル。
浪漫と捏造を同一視してはいけない。 在日の方で箔をつける為に、滅亡した旧大名家の
子孫を自称したりする人がいますが、それと同じ心理でしょう。
何かを誇りにしないと心の支えがないから。
その嘘を何代もつき続けると系図も、先祖伝来の宝物も捏造され、
子孫たちは本気で末裔だと言い出すのです。 自称○○の子孫と語り、子に教える。
教えられた子は、薄々気付きながらも虚勢を張って○○の子孫だと言い張る。
その子が親になり、自分の子に○○の子孫の称号を伝授…。
死んだ祖父の嘘を孫は鵜呑みにして胸を張る。
が、いずれ歴史に詳しい知り合いに出会い 矛盾ばかりの話を笑われて恥をかいて終了。
↑基本はこんな感じです。 産まれがいいというだけで許せない
わかるよそんな気持ち このスレで改行が反映していない書きこみをしているのはみんな同一人物。
庄屋馬鹿だよ
改行が反映せず、ブラウザの幅を広げると行がズラズラといくらでも伸びる。
こういうふうになるには条件がいくつかあるんだな。
庄屋馬鹿に教えることになるから書かないけど。
改行が反映しない書き込みをしている数だけでもすごいし、内容的にそれと関連
させた自演が明白なものまで含めるとたいへんな数だな。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。