邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。 2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。 ・・・・・・・・・・・狗邪韓国
帯方郡├─海─┼─海─┼─對馬國─┼─海─┼─一大國─┼─海─┼─末廬國─┼─伊都國─┼─奴國─┤不彌國
・・・・・国境・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・国境
・・・・・・・・7000里・・1000里・・・・・800里・・・・1000里・・・・・600里・・・・1000里・・・・・500里・・・・・・・100里・・・・・・・100里
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(方400里)・・・・・・・・・・(方300里)・・・伊都国と奴国の国境で合計12000里┼
魏使の旅は帯方郡の海岸から始まり狗邪韓国の南岸へ(7000里)
狗邪韓国の南岸から対馬国の北岸(1000里)
対馬国の北岸から対馬国の南岸(800里)
対馬国の南岸から一支国の北岸(1000里)
一支国の北岸から一支国の南岸(600里)
一支国の南岸から末盧国の北岸(1000里)・・・呼子、名護屋浦付近が末盧国への上陸地点
末盧国の北岸から末盧国と伊都国の国境(500里)・・・糸島市中央部
末盧国と伊都国の国境から伊都国と奴国の国境(100里)・・・ここまでで12000里になり日向峠付近、女王国の中心地
1里は80mくらいで計算が合う。
女王国とは伊都国と奴国のこと。 投馬國での滞在や投馬國内での移動日数は0日
狗邪韓國が投馬國の中心であり七千餘里に水行二十日掛かる
狗邪韓國には上陸せずにそのまま次へ水行
水行十日で朝鮮海峡を渡り陸行一月(日)で伊都國(邪馬壹國)へ。
投馬国から邪馬壹国は4400里。10日。
呼子付近に上陸・・・「濱山海居」
東松浦半島内を通過・・・「草木茂盛 行不見前人」
二丈付近を通過・・・「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
不彌國は那珂川町、春日市方面。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 >>9
完全論破されまくったってのに、性懲りもなく細石神社ネタおっぱじめるのかよ・・・ >>1 名前:九州王 2019/03/30(土) 15:44:00.01
>邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
おや、熊本も入っているな。
狗奴国はどこへ行ったのだ。九州王の第二の狙いは熊本狗奴国なんだろ。 博多を挟んで、
糸クズ島と安之田川で決戦でもおっぱじめようってのかや
ま、双方滅びるまでやってくれい、、、 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 南北朝時代だから比較的新しい話だが
筑後川域に大刀洗という地名があるんだな。 イザナギ→吉武高木アマテラス<男系>
イザナミ(八雷神共立女王)→→→豊国女王系譜→→→八上姫<女系・共立女王>
八雷神→8山津見
八上姫+6山津見→大国主に敗北して大山祇(平型銅剣・荒神谷遺跡)
大国主失脚→日向1代目の外戚に復帰(柏崎遺跡・オルドス式・親銅戈)
八上姫に対抗する2山津見→豊国支配して大綿津見=大海神
日向2・3代目の外戚(豊国・桜馬場遺跡・親広型銅矛)
城野遺跡の男児→大海神一族の期待した日向4代目候補だった
ヒ素など毒殺検査の必要あり
彼が亡くなったことで、外戚争いが激化して、倭国乱が勃発 つまり共立女王を戴いていたのは8山津見までで、
大山祇も大海神も男系は非山津見なわけですね。
例えばコノハナサクヤも母方が大山祇ですが
父方は天神族とあります。
唐津は菜畑遺跡から続く壱岐対馬イザナギ族の九州上陸本拠地だから
イザナギ天神族のエリート男系一族が大山祇の女性を娶ったわけです。
海神も、イザナギ男系を受け入れて、八上姫を追い出し、
豊国主導権を手に入れた、男系天神族+女系山津見の一族、ということでしょう。
男系の本貫は、豊国=古代出雲より西の、イザナギ領域でしょうね。 天照大神は「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である。
命じられた宗像三女神が祭られるのが沖ノ島を含む宗像大社なわけだが、そもそもは沖ノ島の祭祀は、天照も祭っていたのではないか。
さらに踏み込んで言えば、沖ノ島こそ天照の宮があった高天原なのではなかったのか。
それでこそ、古代最大級の聖地として沖ノ島の祭祀が大々的に続けられた意味がわかろうというものだ。
沖ノ島から筑紫に降臨する天孫を送迎する宗像士族と猿田彦の船の行き来をみあれ祭に見ることができるのだろう。
宗像大社は交通安全の神様として知られるが、それは天孫の降臨の道中の安全を守るようにという天照の神勅に基づいている。
そして天照は天孫に自らの形見として祭るようにと八咫の鏡を託したのだが、西海道風土記逸文によると、八咫の鏡は宗像大社に祭られていたのである。
天孫が口論した先は筑紫の日向、すなわち福岡県西部の高祖山(日向山)周辺であり、魏志倭人伝の伊都国として知られる高祖宮こそ、記紀において神代の王都として知られる高千穂宮なのだろう。 >道中(みちなか)に降臨して
その時に初めて生まれたのなら、
道中が起源となるが
もとから存在したのであれば、
別の場所が起源であって、
道中は起源とは別の場所であることになる。 道中は道中
交通安全の神様だし
降臨するまでの道中という意味だよ ってことは、道中というのは
本来いる場所とは離れた場所であって
本来いる場所(・・・)からわざわざ降臨して
道案内をしましたよ、 八雷神(山鹿貝塚)
〜縄文時代〜
〜弥生時代〜(吉武高木アマテラス誕生)
八山津見
〜大国主〜邇邇芸〜
八神姫→(大山祇)→木花之佐久夜→八咫鏡(猿田彦)
八坂(女系ワニ+男系スサノオ)(田熊石畑遺跡)→(大海神)八尺瓊勾玉
〜古墳時代〜
八幡神(宮地嶽) 〜縄文時代〜
八雷神<八岐大蛇
〜弥生時代〜吉武高木アマテラス
鉄器アマテラス+八雷神>八岐大蛇
〜大国主〜
>初期
八神姫+大国主 大国主の兄弟 スサノオ 天神族
>後期
大国主+スサノオ(+ワニ)+沼河姫(八岐大蛇)>八神姫
〜邇邇芸〜
ニニギ+ニギハヤヒ+大山祇>大国主末裔=夷守 |中立|スサノオワニ
〜山幸彦〜
スサノオワニ>その他 >>24
本来いたところは高天原でしょ。
そこから筑紫への道中を猿田彦が護衛したた。
何が言いたいの? 韓国KBS放送
大河ドラマ『百済の王クンチュワゴン』
4世紀のとある頃、百済王の元に朝貢使として、倭のヤマタイ国から王女「チング」姫が来るが、原始人に毛の生えた程度の身なりのため使臣扱いされず門前払いされる
しかし百済王の配慮で謁見が叶い、ヤマタイ国の使臣たちは感激して土下座で臣下にしてくれと懇願する。
百済の臣下たちは倭人は海賊ばかりで信用できないと反対するが、百済王は広い心でヤマタイ国を百済の臣下となることを許す。
4世紀の倭人たちがなぜか稲や鉄器を見て驚き、チング姫は百済で勉強したいと土下座して懇願。
ヤマタイ王が病没すると、百済の第二王子がチング姫と結婚し、新しいヤマタイ王となる。
百済王から、ヤマタイ国に「大和」の国号が与えられ、倭の統一を命じられる。大和王となった第二王子は、百済の臣下として九州から倭の統一に乗り出す。
このスレの中身そのままだな >>27
>本来いたところは高天原でしょ。
どこに書い? 何が言いたいかと言うと、
産まれる→命じられて降臨→その後別の命令で別の場所に降臨
先人がせっかく残してくれた歴史書なのだから
倭人伝もそうだし記紀も正確に読まな ヤマイチ国なんて言うとる奴は朝鮮人かしかおらんやろ
奴らは金印もらった倭国と今の日本国の連続性を認めたないんやで
朝鮮は銅印やったからなw >>28
さすが朝鮮ヒトモドキw 建国前から滅亡後まで一貫して倭国の支配下だった百済に壮大な物語を与えすぎwww
451年、宋の文帝が允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓 六国諸軍事 安東将軍」と認定し、朝鮮半島は倭国の朝貢国となる
475年9月、高句麗の長寿は漢城を強奪、百済の蓋鹵を殺害。 百済一度目の滅亡
477年3月、雄略天皇が蓋鹵の息子である文周に久麻那利の地を「与え」、「百済王に就かせ」再興させるも半年後に解仇に暗殺
479年11月、雄略天皇は「忠誠の誓い」として差し出されていた5人の人質の中から東城を選出、筑紫の兵5百人を付けて帰国させ「百済王に就かせ」た
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗を模倣し南斉の冊封に下るなど混乱を極める
501年、東城が暗殺され、武寧が即位
503年、武寧は職人や女(儒教思想では技術職や武人、女の身分が極めて低い)を朝貢の品として武烈天皇に献上し、倭は北葛城郡広陵町に百済人居留地を置き、曽我川の吉楽寺以南が百済川と呼ばれるようになった(百済大井宮はこの地名由来)
513年、40年近く経っても高句麗から漢城を取り戻せず、領土不足で国民が飢えていると武寧が直訴したので、継体天皇は任那四県を「分け与え(割譲)てやり」、武寧は北魏から下賜された五経博士である学官の漢高安茂を「貢上」した
552年、聖明が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、取りつき難いものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という「上表文」と共に金堂の仏像一体、幡、経典を「朝貢」した
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明は戦死し、威徳が即位
561年7月、欽明天皇が威徳に援軍を「授け」、任那と共に新羅を攻めるも敗退
642年、義慈は倭国に「忠誠の証」として王子の豊璋と善光を人質として「献上し」、朝貢を再開
660年、斉明天皇は豊璋に5千の兵と軍船170艘を「添わせ」帰国させるも、百済二度目の滅亡
以後、百済難民が渡倭した記録は存在せず、百済王族唯一の生き残りである善光は百済コニキシとして「孕み腹(喘ぐTENGA)」の提供に従事し続けた 要するにアメリカみたいなもんでしょ。しかも千数百年先を行ってたわけ。
それまでは倭国=九州国家、倭人=九州にいる倭国人+そこから東征していった支配層
に加えて、倭種とか毛人とか渡来人とかが雑居していた。
倭人の支配領域が本州四国へ拡大し、倭人とそれ以外の混血も進んだところに、
半島領土を失って北部九州倭人の優位性が弱体化したのを契機に
一度リセットして全員日本人として新規スタートしたんんでしょ。
国体は連続してるし平等とかの概念としてはぶっちぎりの世界最先端。 190年 董卓が洛陽を焼き払って廃墟となる
220年 魏第二代皇帝曹丕が洛陽へ首都を戻す
235年 青龍三年
238年 魏が公孫氏を滅ぼす
239年 景初三年
魏と呉が対立していて、雲南省の鉛が手に入らない。
占領した朝鮮半島の鉛が魏へ運ばれる
洛陽の新米尚方鏡師が作ったばかりの方格規矩鏡が卑弥呼へ送られる
それを溶かして超大型内行花文鏡(八咫鏡)国産
楽浪→洛陽→平原 < 完 結 >
尚方銘鏡が仿製ならば、
仿製鏡は中国産であることを騙る風習があったことになり、
当然△は。。。 >>33
思想とか先入観を持たずに純粋に古代史を科学的に研究してるだけだろ
畿内説の場合は結論が先にありの先入観に無理やり合わせようとしてるから滅茶苦茶な理論展開になるんだ。 なるほど、
結論が先にありの先入観に無理やり合わせようとするのが、右極か。
そうすると、結論が先にありの先入観に無理やり反対しようとする‥のが、左極というわけか。 卑弥呼は平原でいいとして、
じゃあ台与は?
卑弥呼時代は狗奴国と戦ってたけど
台与が死去する時には統一されてたんでしょ。
狗奴国滅亡したから陳寿も帰ったし。
領土増えるし戦争終わるしで国力アップして
平原よりもっとすごい墓だよね。祇園山?那珂八幡? そういうこった
イトクズは卑弥呼の墓ばかりいうが、近くにトヨの都と墓もなければならぬ。
短調半欠けイトクズww 台与は娘じゃなくって宗女だから別の墓域だろ。
都も長征が帰るまでは伊都だろうが、晩年は遷都したかもしれんし。 キナイコシは基本的に頭おかしいからな。
男王七八十年→共立女王卑弥呼→その宗女台与であるから、
三雲男王群→平原女王墓→別の場所の??
でよいのだ。
文献についても、南が東ばかりがクローズアップされるが、
記紀にはモモソ姫と明記されているのに、勝手に卑弥呼に置きかえている。
そんな置きかえが可能なのであれば、アマテラスでも神功皇后でもなんでも卑弥呼候補になってしまうだろ。
不比等たちの当時の常識では、
女王でないモモソ姫が箸墓古墳の被葬者であっても、なんら違和感がない、
という解釈が正しいわけだ。
世界最古の馬具をもっと誇るべきでは?
世界史的に見て凄いことだぞこれは。 イトクズは卑弥呼の墓ばかりいって、
トヨの都や墓のことになると面倒がって投げ出す。そこが、半欠けお月さんww だから祇園山か那珂八幡かと言っているのに
コミュ障か? 壹與より後と思われる神夏磯姫も八咫の鏡を持っていたから、壹與も八咫の鏡にまつわる話が残っていないかな?
卑弥呼で費やしたから副葬はされていないと思うけど、最低でも三種の神器は揃っていないと。 さいきんまで、卑弥呼の墓は祇園山か那珂八幡か、といってたのに、
こんどはトヨの墓という説もでてきたか
日替わりランチ。 年代的に平原遺跡の方が早いから、平原遺跡を卑弥呼にしないと平原遺跡が浮いてしまう。
そもそも祇園山を推していたのはザラコクだけだろう。 結局ネトウヨが根拠もなく朝鮮人認定したり天皇陛下マンセーする為には邪馬台国畿内論の方が都合がいいってだけの話にすぎない
差別主義者の結果ありきのスレならもう要らんわ 弥生時代に渡来系弥生人は北部九州地域にし住んでいなかった
北部九州地域に住んでた渡来系弥生人は現代日本人に近いDNAを持ってた
その他の地域弥生人は縄文系の人が多かった。
http://tosmo.xsrv.jp/tohshi/wp-content/uploads/2019/03/20190309081629f.jpg >>52
>>53
弥生人のDNAから考えても北部九州地域以外に邪馬台国の存在し得る場所はないな。 〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜
2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/OK8GUSr.jpg
https://i.imgur.com/I5ZY2Es.jpg
弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/yeYhSQ0.jpg
従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/EvBw7qP.jpg
https://i.imgur.com/U5qCx8F.jpg
https://i.imgur.com/mmUY7Md.png
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%
従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/vMjf4HI.jpg
チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える
結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在 無能ヒトモドキも松傾も普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない
自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない
チョンコとはそういう存在
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伊都クズは打ち負かされたの忘れちゃうタイプだから、そのうち何事もなかったのように現れるよ 得意の脳内論破ですね
論破したと言えば論破したことになると思い込んでいる気違いがw 伊都国説で完全論破されたのは細石神社ネタだけだろ
他の諸説にはまだ一考の価値はある 論破というか、どちらにしても証拠不十分だったということ。 >>66
上の方から読み返すと良い
可哀想になるくらい考古学的に完全否定されたよ >>67
今は九州説内で議論することは特になくて、
畿内説の本丸攻めに移ってる段階じゃないの。 18:00〜 核DNA解析 国立科学博物館 篠田謙一先生の解説
24:00〜 弥生時代後期 東北のほうに住んでいた人 遺伝子から見れば完全に縄文人
九州の離島にはまだ縄文人と同じ顔つきの人が住んでいる
動画 サイエンスZERO 日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zpgpj
26:00〜 現代日本人の核DNA解析
当初予想された現代日本人の位置
縄文人≒岩手弥生人(本州弥生人)ーーーーーー長崎弥生人ーーー《現代日本人》ーーー福岡弥生人ーーー韓国人
しかし予想に反して現代日本人の位置はここだった!
縄文人≒岩手弥生人(本州弥生人)ーーーーーー長崎弥生人ーーーーー《現代日本人》≒福岡弥生人ーーー韓国人
現代日本人≒福岡弥生人=倭人
この倭人が北部九州地域から3世紀以後日本列島全体に拡散していったんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています