邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
↓
狗奴国王は壱岐対馬ルートを制圧して
狗奴国王は漢委奴国王金印を使用して、
漢委奴国王金印はまだ有効であった。
↓
唯一徹底抗戦したタケミナカタが、漢委奴国王金印を持って逃走した。 >>169
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 事代主は、八重八重が繰り返されて、
八尋ワニの姿になるわけですから、
神屋楯比売命は天神族と豊国岡田宮のワニ族との間の姫で、
ワニ族ですね。
だから降伏すれば、身分保障されたわけです。
豊国イザナミの八雷神部族→8山津見のうち、
八上姫率いる5〜6部族は銅矛銅剣戦争で敗北してオオヤマツミに。
ワニ族を主とする2〜3部族が豊国支配者オオワダツミに。
事代主は上手く立ち回れば豊国王。
あるいは、豊国が女王国を続けていたなら、豊国女王預かりの身。
になったわけです。 委奴国王や事代主は、降伏時に漢委奴国王金印のありかを聞かれたわけです。
「知らない」と答えたら間違いなく士ぬまで拷問ですね。
しかし少なくとも事代主は生き残っている。
ということは、「逃げたタケミナカタが持っています」と下呂ったわけです。
委奴国王はタケミナカタに王位を継がせようと思っていたわけですね。 >>167
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 降伏します。
金印はタケミナカタが持って行きました。
だから、殺されずにすんだわけです。
タケミナカタは、越後〜諏訪〜関東へと逃げていますね。
貝輪が足跡のように残っていますから、我々には丸わかりです。
あと、一部は北海道にも逃げています。
当時の現地の人たちは驚いたことでしょう。
銅戈は、オオヤマツミの瀬戸内領土の資源ではなく、
新たな木材炭供給地を求めて、大阪湾を攻略します。
それと並行して、漢委奴国王金印を血眼になって探索したわけです。
越後から諏訪へ。
諏訪に九州型銅戈(出陣式用)がありますから、
諏訪で新たに出陣式をして、関東へも攻め込んだ可能性が高いです。 >>167
九州には、自慢できる温泉が腐るほどあるのに、
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?
なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?
あとは、推して知るべし。 @阿波 山口県の土井ヶ浜遺跡。
関門海峡を越えた越の地ですね。
300体ほどの遺骨が出土した砂丘墓地。
女性シャーマンは八岐大蛇一族の女性地方指導者でしょう。
最初期の日本海沿岸覇者の末裔らしく、翡翠があります。
それ以外のぜいたく品、例えば鉄器や青銅器が無いのに、
各人それぞれオーダーメイドの貝輪を装着していることから、
貝輪だけ潤沢、つまり土井ヶ浜遺跡で貝輪を製作していたわけですね。
いくつかあったであろうタケミナカタ貝輪製作地の一つだったわけです。 一世紀半ば過ぎ。
土井ヶ浜遺跡の人々の元に、不吉な知らせが届きます。
西の奴国で大災害が発生し、委奴国王は出雲国へ避難。
そこで捕縛された。
委奴国王の一族は次々と投降している。
満足な情報も入らないままに、
出雲で敗北したタケミナカタ本軍が敗走してきます。
タケミナカタは、土井ヶ浜遺跡の人々に、
「一刻の猶予もない。
すぐに村人を全員集めて、我々と一緒に東へ落ちのびるんだ。」
と説得したことでしょう。
が、大半の人々は、他の委奴国王系一族と同様に、
住み慣れた土井ヶ浜遺跡に残って、降伏することを選んだ。 タケミナカタ水軍は慌ただしく東へ去り、
それを追うように怒り狂った倭国軍がやってきます。
一族の長であるシャーマンが応対します。
降伏するのでどうか命だけは助けてくれと。
貝輪を大量に提供しますから。
しかし倭国軍は長を捕らえ、縛りつけます。
矢をつがえて、
「金印のありかを吐け。」
と尋問してきたわけです。
本当に何もしらない長は、「知りません」と正直に叫ぶが、
一本ずつ矢が撃ちこまれます。
「何のことか本当にわからない。許してください。」と叫ぶ長に
次々と矢が撃ちこまれてゆき、品詞となって、
本当に何も知らなさそうとわかって、止めに鉄鏃の矢が撃ちこまれたわけですね。 長の誤算は、タケミナカタが金印を持って逃げたことです。
倭国としては、漢委奴国王金印を奪い返すことが国家としての至上命題。
実際に百数十年後に狗奴国勃興して金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の入手へと繋がるわけですから。
だから同じ委奴国王一族でもタケミナカタの集落だけは徹底捜索を受けた。
24体もの墓が掘り起こされ、これも徹底的に調べたわけでしょう。
なんとか逃げのびた村人が、後に戻ってきて、
頭部だけでも集めて再葬したわけです。 タケミナカタ本人は、東へ逃げたわけですが、
西にもタケミナカタの一族がいたわけです。
考えてみれば当たり前で、金印奴国を挟んで、
タケミナカタ本人は、東の出雲で敗れて東へ逃げた。
そちらには倭国水軍ならびに銅矛銅剣戦争の恨みに怒るタケミカヅチがいます。
となれば、金印は逆に西へと持ち去られたわけですね。
平戸や五島列島などにも貝輪集積遺跡があり、その辺りを拠点に抵抗を続けたわけです。
タケミナカタ本人が東へ逃げたので、銅戈追跡隊も東に本腰を入れた。
もちろん銅戈は西にも攻めており、伊万里から出土しています。
東の越後諏訪はだだっ広い陸上戦となるので、
本格的に攻め込まれると、掃討されやすい。
しかし西の長崎は、島だらけなので、あちこち逃げ回られると追いきれないし、
兵站も維持しにくい。
タケミナカタは佐世保あたりの山上に斥候を置いて、銅戈水軍が攻めてくると狼煙を焚き、
倭国軍が小中規模なら迎撃、
大規模侵攻なら九十九島や島原へと退避したのでしょう。
吉野ヶ里遺跡は当時は海辺の要塞。
筑紫〜熊本木材鉄工所の物流ラインを、
長崎タケミナカタの襲撃から防衛するためのものでしょう。 吉野ヶ里の妙な環濠は、タケミナカタを捕まえるためですね。
外から攻めるタケミナカタから見ると、登りやすい土壁。
登って攻め込むと、外から見えない内側に銅戈兵が待ち構えていて、
鉄戈で引っかけて、内側の堀へ引きずり落とし、
さすまたで押さえつけて捕縛したわけです。
生け捕りにして、金印の在りかや、拠点の位置情報を吐かせたのでしょう。
諏訪ではタケミナカタ本体が降伏しましたし、
いずれも金印が長崎に隠されている情報はバレたでしょうが、
その頃に、「倭国乱」が発生し、
上のスレ群へとつながっていったわけですね。
曹操墓のおかげでここまでがわかりましたね。 >>184
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑) 全国各地に、今もって忌部の地名を残しているのは「忌部(物部)一族」 だけ。 @阿波 >>190
阿波忌部(自称であって同族ではない)笑 阿波忌部は委託を受けた代行業者
一時期ネットで問題になってた大阪ガスサービスショップみたいなもん 阿波忌部は委託を受けた代行業者
一時期ネットで問題になってた大阪ガスサービスショップみたいなもん アカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃう泡チョンコの主張に一切の信憑性なんてないんだと何回しつけてやれば自覚できるんだよ(大笑) >>166
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原
も、伊都説の中では考古学データを基に推測可能です。
日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡。
壱岐対馬ルートの根幹にある遺跡ですから、イザナギ男系とします。
唐津〜糸島半島の湾の中で発展し、日が昇る方角にある高祖山が聖地高千穂ですね。
福岡市にいた八〇神達と争いながら、早良平野の吉武に最初の「王」を樹立したわけです。
一方の縄文系山鹿貝塚。
遠賀式土器を伴って一気に全国に稲作拡散した、イザナミ女系とします。
元は遠賀川流域ですが、各地に女王を擁立し、
八雷神(豊国=古代出雲など)、八岐大蛇(越国=日本海沿岸)、
そして博多湾などにも八〇神がいたわけです。
イザナギとイザナミ(八雷神女王)が血縁同盟を結んで、福岡県の沿岸地域を統一したのが、
考古学的には紀元前3、4世紀頃ということになります。 イザナミが亡くなり、イザナギは比婆山=山鹿貝塚周囲の砂丘を訪れ、
山鹿貝塚伝統の骨取り神事を覗き見てしまう。
まだ福岡県統一されてアマテラス即位する前ですから、
女王決定の神事を汚された八雷神は怒ってイザナギを追いかけてくる。
総兵力が1500と記録されています。
であれば、八雷神領域の総人口は10000人くらいだったでしょうか。
イザナギは板付遺跡に逃げ込み、出入り口を塞いでなんとかやり過ごしたわけです。 板付遺跡は環濠集落であり、小銅鐸も出土しています。
壱岐対馬〜唐津〜高祖山周囲(つまり伊都國)のイザナギと、
宗像市〜北九州市のイザナミが、
血縁同盟をして、福岡統一した。
だから、征服直後の板付遺跡=葦原那珂津国は彼らにとって征服したばかりの敵地であり、
環濠が必要だった。
福岡県を統一したイザナギ勢とイザナミ勢が擁立した王が、
アマテラス。
北征将軍のツクヨミと、東征将軍のスサノオ。
後の日本は北領土を放棄したので、ツクヨミ伝承は失われた。
アマテラスを大王としつつ、
吉武高木の宮殿で政策決定する王族豪族の殿上人が、高木神達。
緊急事態で八百神が集まる時は宮殿に入りきらないので、
そばの天安河(室見川)の河原で決を採った。 板付遺跡から船で自領伊都へ戻ったイザナギ。
潤地頭給遺跡から、イザナギから見れば後世になりますが、
弥生時代の準構造船が出土しており、
伊都の船着き場として利用されていたことの考古学的根拠が判明しています。
また、伊都説であれば、瑞梅寺川を上った三雲遺跡群が日向三代の聖地であり、
神武天皇もここから出立している。
弥生時代には、糸島半島は九州と陸続きの半島ではなく、分離した島だった。
魏志倭人伝に記録された斯馬國ですね。
よって、板付遺跡から戻ったイザナギは
伊都と斯馬國の間の河のような海峡を通り抜け、
潤地頭給遺跡の辺りに上陸して、禊をした。
阿波岐原とは、波多江小学校の辺りの河原のような浜ということになります。
物理的には、
その辺りの紀元前3,4世紀の地層を掘り返して、
海岸線と当時の瑞梅寺川の「交点」の辺りの河原のような浜に、
弥生時代の高級な装飾品、あるいは銅剣、が見つかれば、そこが阿波岐原。
国宝でも足りないくらいのレベルですね。
精神的には、
永い安らかな眠りにつく聖地はそのままにしておいたほうがよいかと思います。 決裁することが出来るのは日本でただ一人だけ。
いや、一人ではありませんね。
我々日本人が世界人類に誇る現代の
神様ですから。 >>205
ttp://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html#menu1
分離した島ではないというのが共通理解 >>208
半島が分離されていなくても、広い浜辺となっていたことは間違いない。
両側から海が接近する特異な場所であったから、弥生人の興味も深かっただろう。
阿波木原が何を意味するのかはまだ不明な点が多いが、九州では原は集落を意味することが多いので、阿波木という地名であったのかもしれない。
ただし橘は鼻のように突き出た岬を意味するという説もあるので、そうだとすると地名的にいかがなものか。
なお、黄泉比良坂のヒラは上り坂の古語で、サカは下り坂だそうだ。
だからイザナギがイザナミを訪ねて根の国に行ったのは、わずか峠一つ超えただけということになる。
どこの峠だったのやら。 ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html
あはきばる >>210
すると、イザナギとイザナミはそれぞれ伊都国と奴国の王家ということになる。
それはまるでひ孫の世代のニニギと木花佐久夜毘売の関係にそっくりだ。 倭国乱を経て伊都国が成立する
これは3世紀の初頭の出来事だ
ニニギと木花佐久夜毘売で騙られる記紀の先祖騙りは
この時期の出来事の借用だ
木花佐久夜毘売の名は記紀作者の新作だ
ニニギの名も伊都国の王の名の爾支からの新作だ なんでもかんでも創作にするな。
記と紀は別のソースで同じ話を書いているから、少なくとも記紀の編者らの創作ではない。
三雲南小路遺跡が木花佐久夜毘売の墓所だ。
それは祭殿である細石神社の祭神が木花佐久夜毘売であることからわかる。
高祖神社の祭神は息子のヒコホホデミだ。
しかし、実は三雲南小路遺跡は王と王妃の墓だったので、その王がニニギだ。
これは1世紀頃の墓とされているから、出雲国譲りや天孫降臨がその時代の出来事であったことがわかる。
魏志倭人伝に登場するネギはニニギの末裔であり、倭国大乱でニニギの曾孫の神武が筑紫を出たのだと考えられる。 >>211
この地図はすごいなあ。
小戸と大戸の間にちゃんと突き出た立ち鼻の岬があり、その付け根の汽水域が淡原(あはきばる)なのか。
くしふる峰もある。
三雲南小路遺跡を奴国王墓としているのか。
これは細石神社を倭奴国王印の保管場所と知ってのことか。 この地方に渡海してきた所謂ニニギグループの定着先は
まずは西区の今宿五郎江の環濠集落だったとみていますよ 現地に詳しい人だと思いますが
立ち鼻の岬という地名は残っていますか 立ち鼻というのが岬の意味なんだろうと。
だから実は固有名詞ではない。
小戸の橘の阿波木原は、小戸の岬にあるアハキ村という意味になる。 現代の地形だと岬がよくわからないのだけれど、>>211 の地図を見ると、小戸と大戸の間が大きな岬だったことがわかる。
これこそ橘の正体なんだろう。
その付け根にアハキ原が書かれているのは何が根拠なのか知らないが、実に納得がいく。 「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」(原文)
[竺紫]⊃[日向]⊃[橘]⊃[小門]⊃[阿波岐原]
[竺紫]⊃[日向]⊃[小門]⊃[橘]⊃[阿波岐原]の順だと
[橘]=[立ち鼻]の解が最適でしょうが
[竺紫]⊃[日向]⊃[橘]⊃[小門]⊃[阿波岐原]の順だから
[橘]の領域は[日向]の一部で[小門]を内部に含む領域
[橘]の領域は[小門]の領域より広い
だから
[橘]は多島の汽水湖のところの意味の
[多嶋那](たじまな)に[橘]の文字を当て嵌めたものとして理解しておいたのですが >>211
弥生遺跡の分布を基に志登支石墓群の辺りで陸が繋がっていた地図になっているが、
現実には標高4mの地形で糸島半島の根元は東から西まで辿れる。
水は同じ高さの部分に満ちるのだから糸島半島は分離していた。
もしくは福岡の干満差は2mほどあるので満潮の時だけ通過できる自然の小門があった。
<弥生時代の前期中期まで >>208だった。それと半島が繋がっていた根拠の遺跡が古墳なので、
そのマップは古墳時代。 地形が変わらず海面だけ上下してるわけじゃなくて、
地形も変化してるからね。
特に古墳時代には土木技術の革新があったらしく各地の平野部が大規模に開発された。
どちらかというと土地は上昇している。
ボーリング調査にしても細い海峡に川が注ぎ込むのなら、
汽水あるいは淡水である可能性もあり、
海岸線としては繋がっていなくても、現実風景としては繋がっていた場合もありうる。 >満潮の時だけ通過できる自然の小門
現代人ですら儀式の間だけ雨があがって感動しているのに
古代人にとってはまさに神の奇蹟に思えただろうな。
禊の神域。 伊都説であれば、ですが、
タケミナカタの動きから、前方後方墳の意味合いもわかりますね。
三角縁神獣鏡が景初にて卑弥呼の治世を讃えていることから、
邪馬台国が勝利した、最悪でも滅亡はせず存続したことがわかるのと同様に、
タケミナカタが各地に主祭神として残っていることから、
タケミナカタが勝者の側に立った、ということがわかります。 狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
↓
狗奴国王は壱岐対馬ルートを制圧して
狗奴国王は漢委奴国王金印を使用して、
漢委奴国王金印はまだ有効であった。
↓
唯一徹底抗戦したタケミナカタが、漢委奴国王金印を持って逃走した。
唯一徹底抗戦したタケミナカタが、漢委奴国王金印を持って逃走した。
↓
狗奴国王は壱岐対馬ルートを制圧して
狗奴国王は漢委奴国王金印を使用して、
漢委奴国王金印はまだ有効であった。
↓
狗奴国王が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を入手した。
↓
狗奴国王とタケミナカタ勢力は仲違いをして、
タケミナカタ勢力は途中で邪馬台国側に寝返った。 古代の越を、北部九州からみて関門海峡を越えた日本海沿岸だとして、
八岐大蛇という名から、八岐大蛇の主要拠点を九頭竜川流域に設定したいところですが、
考古学的には、紀元前にはまだ福井県に大きな集落遺跡は見つかっていません。
となると、八岐大蛇の主要拠点は、
日本海沿岸の弥生遺跡の分布からは山口県が第一候補となり、
伊都説で委奴国王と沼河ヒメを1世紀前半に設定したとして、
その主要拠点も、考古学的にはやはり山口県で多数見つかっている弥生遺跡のいずれかであったのではないか、
ということになります。
壱岐対馬ルートが統一されて強力な王が誕生するまでは、
強い広域統一政権というよりは、地方政権がいくつかあって、
日本海沿岸世界の中心に位置する八岐大蛇勢力が交易を仕切っていた、
というイメージですね。 イザナミ女系である八岐大蛇が、
金属器で武装したスサノオ+山津見(八雷神)に敗北して、
イザナギ男系を受け入れた。
1世紀初頭に、
イザナギ男系と八岐大蛇女王との血をひく沼河ヒメが越をまとめていたのに目をつけて、
委奴国王が男系の血を入れた。
壱岐対馬ルート〜伊都を仕切る強大な天神族と、
それと血縁同盟した山津見とが北部九州政治を牛耳っており、
新興の奴国を仕切る委奴国王と、敗者である八岐大蛇末裔は、
いずれも中央政治では隅に追いやられていて、
利害関係が一致していたわけですね。 委奴国王が失脚して、タケミナカタ勢力は金印を持って逃走するわけですが、
貝輪の出土分布や後のタケミナカタ祭祀分布から考えると、
@タケミナカタ本人は越後から長野へ、一族はさらにそこから関東へ。
A金印は長崎へ。
Bさらに一部は中国地方内陸へ逃げ込んだわけです。
@
委奴国王の下で国政に参加していて、文字も使えたでしょうから、
S字甕エリアはタケミナカタが仕切っていたのでしょう。
銅戈饒速日は大阪湾上陸して朝日遺跡まで進軍してきますから、
お互いに銅鐸を配備して睨み合い、いずれタケミナカタ側が長野でも愛知でも敗北して降伏します。
A
長崎を拠点に抵抗し、吉野ヶ里遺跡の銅戈軍と激しく戦っていたわけですね。
倭国乱(倭国内での勢力争い)にて銅戈饒速日軍は敗北降伏しますから、
その隙に乗じて狗奴国に参加して、吉野ヶ里遺跡を攻め落とし、
さらに壱岐対馬側に水軍を回して一時的に壱岐対馬ルートを確保し、
後漢の曹操に朝貢したわけです。 B
なんらかの理由で狗奴国王とタケミナカタ一族が喧嘩をした。
壱岐対馬ルートを奪われ、劣勢に立った邪馬台国側がそこに目をつけて、
タケミナカタ一族を味方に引き入れたわけです。
ということは、
もともとが本州日本海沿岸を仕切っていた八岐大蛇の末裔であり、
天神族の血も入っているわけですから、
日本海沿岸の支配権を認めて名誉回復してあげたのが、
四隅突出墳丘墓でしょう。
そこから発展したのが、前方後方墳。
佐賀〜筑後、長野〜関東、中国地方、などに初期のものが有りますから、
タケミナカタの敗走ルートと完全に一致しますね。 前方後方墳には、
鉄器や内行花文鏡まで副葬されたものがあるので、
邪馬台国側の軍として抜擢までされている。
卑弥呼が共立された理由というのは、
タケミナカタ一族を味方に引き入れるのも目的の一つだったのではないでしょうか。
ただし、
四隅突出墳丘墓は、日本海沿岸の要衝である丹後半島若狭湾にはありませんから、
あくまでも中心は天神族であり、
タケミナカタはその配下となっただけですね。
こう考えると、卑弥呼にはタケミナカタの血が入っており、本州日本海沿岸に縁がある、
つまり丹後半島の大田南1号墓の鉄剣将軍の娘であり、
大田南古墳群が実家なのでしょう。
もちろん大田南1号墓の鉄剣将軍は
曽根遺跡群の天神族から選ばれて派遣された水軍長官なわけですね。
墓制が一致します。 その後もタケミナカタ系の子孫は活躍し、
それぞれが地方官として赴任した先が
前方後方墳でわかるというわけです。
前方後方墳は対馬にもありますね。
南側ですから、対海國。
4世紀以降に赴任した可能性もありますが、
もし狗奴国側の時のタケミナカタがそのままいたのだと考えるなら、
最初の梯儁の時は、タケミナカタは邪馬台国に参加したばかりなので、
そこまで信用されず、
梯儁は北の対馬國に停泊した。
次の張政の時には、タケミナカタは邪馬台国の一員として活躍しており、
信用されて、
張政は南の対海國に停泊した。
また、タケミナカタが手土産として漢委奴国王金印を邪馬台国に渡し、
その印章によって、卑弥呼は魏の信任を受け、
親魏倭王金印を手に入れることができたのかもしれません。
漢委奴国王金印は邪馬台国中心である海神の拠点に厳重に秘匿された。 >>230
前方後方墳はまだまだ探索中ですから、
探すとしたら貝輪のあった五島列島などにあるかもしれませんね。
しかも国譲りの時にタケミナカタ一族が持って逃げたお宝が眠っているかも。 今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波 >>235
泡チョンコはキモいから自スレで妄想語ってホルっとけよマヌケ >その主要拠点も、考古学的にはやはり山口県で多数見つかっている弥生遺跡のいずれかであったのではないか、
周防の国とは、古代語では「すは」「すわ」の国だったらしいので、
国譲りの時に全国へ拡散したのですね。
粥占いもタケミナカタが長野県に持ち込んだのでしょう。
佐賀のもそうですね。
前方後方墳と粥占いとの分布比較。
山口県に粥占いが残っていないということは、
倭国周辺からは平家のように徹底的に駆逐されたのでしょうかね。
ただ交通網がある程度発達した鎌倉時代と違い、
弥生時代なので、ある意味不便な地域で生きのびることが出来た。 今日は文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。
ちなみに、深曽木の儀で踏む「青石」も、手に持つ「山橘の小枝」も、倭国(阿波)の特産物。 @阿波 文化の日、ですか。
北部九州倭国の神社には魏志倭人伝に記載された「楠(クスノキ)」が
神木としてありますね。
隆々と生い茂るその生命力は、見事なものです。
楠の生着は地質に左右されます。
さて。
地質学的には、
伊都国奴国の福岡市や、佐賀県など北部九州のほとんどは楠の生育に適した地質ですが、
古代出雲国や古代伯耆国の、北部九州説者のいういわゆる豊国だけ地質が異なります。
また、北部九州外では、
丹後半島、と、奈良盆地、が楠の生育に適した地質です。 >>239
勘違いかい? 「橘(たちばな)」だよ? 「楠」は文化の日と関係ないよ! @阿波 楠(クスノキ)
からは、樟脳が作れますね。
倭人は絹織物を作っていた。
考古学的にも出土しています。
絹の着物を保存するのに必要な防虫剤。
樟脳、を作るのに、楠(クスノキ)が必要であり、
神社=古代の官庁舎、で楠を育てて樟脳を作り、
お偉いさんに献上していたわけですね。
そして絹が何よりも必要なのが、銅鏡など青銅器の管理。
銅製品は錆びや緑青など劣化しやすく、
指紋をつけただけでも曇ってしまいます。
それが銅鏡の鏡面を磨くためであれば尚更のこと。
樟脳で管理された綺麗な絹の拭き布がなければ、
せっかくの銅鏡が、考古学出土した緑緑の塊になってしまうわけですね。
楠から作った樟脳で管理された、清潔な絹織物で磨き上げるからこそ、
銅鏡も銅矛も、黄金色のピカピカに光り輝いていたわけです。 ですから、
丹後半島に大規模鉄工房やら太田南古墳群ができたり、
奈良盆地になにやら大型建物や初期古墳ができたり、
というのは、楠を持っていって植えて、育ったかどうかも関係あるわけです。
広域に統一されて安定した物流経路が確立すれば、
樟脳は輸送すればいいわけですが、
敵対勢力や原住民が跋扈している段階では、
自前で樟脳を作れないと衣服が虫食いだらけのボロボロになってしまいますからね。 >>238
泡チョンコはキモいから自スレで妄想語ってホルっとけよマヌケ >>240
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ねって笑 思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョン >>239
クスノキ樹林の自生北限は福岡県ですね
本州のは持っていって植えたということでしょう
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。 >>247
ところで、 「橘(たちばな)」は? なに、とぼけてんの? わははははは @阿波 >>247
ところで、 「勾玉」は? なに、とぼけてんの? わははははは @阿波 >>247
ところで、 「朱」は? なに、とぼけてんの? わははははは @阿波 記紀など古代文献によれば、
丹後半島にクスノキを植えたのが、スサノオ。
奈良盆地にクスノキを植えたのが、ニギハヤヒですね。
豊国から遠賀式土器以来の先行入植者はいたでしょうが、
彼らは絹クスノキ文化を持っていませんでしたから。
松や柏しか生えてなかった八岐大蛇(九頭竜川〜若狭湾〜丹後半島)に、
クスノキを植えたり森林管理をして、木材から炭を作って扇谷遺跡を稼働して、
アマテラスに鉄剣を献上したわけです。 >>251
ところで、 「橘(たちばな)」は? なに、逃げてんの? わははははは @阿波 >>248
泡チョンコはキモいから自スレで妄想語ってホルっとけよマヌケ >>249
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ねって笑 >>250
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョン >>252
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>256
ところで、 「橘(たちばな)」は? なに、逃げてんの? わははははは @阿波 >>257
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>843
>逆になんで自生してなかったと思うの?
気候! 公孫氏の領域が温暖な地域なのかね? 帯方郡に「橘」が自生すると? 何考えてんの? @阿波 >逆になんで自生してなかったと思うの?
気候! 公孫氏の領域が温暖な地域なのかね? 帯方郡に「橘」が自生すると? 何考えてんの? @阿波 >>259
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ねって笑 >>260
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ねって笑 今日は文化勲章親授式。
その親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。 @阿波 >>263
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww 橘
日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。
本州の和歌山県、三重県、山口県、四国地方、九州地方の海岸に近い山地にまれに自生する。
静岡県沼津市戸田地区に、国内北限の自生地が存在する。
wiki より引用 九州を出発した海人族の活動範囲かな?
大和には自生しないですね。
まあ、魏志倭人伝に出てくるもので大和にないものは他にも多いので、やはりですね。
ベイズ推定によると邪馬台国は99%の確率で福岡だそうだし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています