板付遺跡から船で自領伊都へ戻ったイザナギ。

潤地頭給遺跡から、イザナギから見れば後世になりますが、
弥生時代の準構造船が出土しており、
伊都の船着き場として利用されていたことの考古学的根拠が判明しています。

また、伊都説であれば、瑞梅寺川を上った三雲遺跡群が日向三代の聖地であり、
神武天皇もここから出立している。

弥生時代には、糸島半島は九州と陸続きの半島ではなく、分離した島だった。
魏志倭人伝に記録された斯馬國ですね。

よって、板付遺跡から戻ったイザナギは
伊都と斯馬國の間の河のような海峡を通り抜け、
潤地頭給遺跡の辺りに上陸して、禊をした。

阿波岐原とは、波多江小学校の辺りの河原のような浜ということになります。

物理的には、
その辺りの紀元前3,4世紀の地層を掘り返して、
海岸線と当時の瑞梅寺川の「交点」の辺りの河原のような浜に、
弥生時代の高級な装飾品、あるいは銅剣、が見つかれば、そこが阿波岐原。
国宝でも足りないくらいのレベルですね。

精神的には、
永い安らかな眠りにつく聖地はそのままにしておいたほうがよいかと思います。